【シ,ハシ,Td,Tb】食堂車・ビュフェ【35,36,37,168】5レ
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5レの食堂車といえば、「みずほ」「北斗星5号」になるか >>35
鍋の油がひっくり返らなくても、食堂車の厨房は団地の台所より狭く、
揺れでコックが包丁やナイフで指を切るなんてのは、普通だったらしい >>28
そうでなければ、名古屋駅ホームのきしめん屋の天ぷらが、注文受けてから揚げているってのが話題になったりしないわな >>30
電気コンロがあったから大抵の調理はできたよ
電気コンロつってもお前が思ってるような「電熱コンロ」じゃなく
直径30センチ近くある蚊取り線香の親玉みたいなやつだぞ >>36
それでいておちんぎんが地上と大差なく
離職率が高かったという理解でよろしいか? >>39
鉄道が好きな食堂車従業員は、それが生きがいだったらしい。
特急「白鳥」の食堂車従業員のように大阪〜青森間を途中で交代も無しに通しで、
全区間乗務するのがきつくて、離職するという人もいたようだが >>38 夏場、電気コンロ使いながら冷房付けた場合、電動発電機の容量内に収まったのあろうか? 157系準急「日光」には食堂車は無かったが、売店には電気コンロと電子レンジ、流しが設けられ、
温かい弁当や飲み物、軽食が調理されて販売されていたが、やはり対抗する東武DRCの
ビュッフェや豪華な車内設備には敵わなかった。 >>44
キハ183系の特急「おおぞら」や「北斗」などでは、食堂車が無い代わりに、
車販準備室でかにめし弁当などが調整されて車内販売され、レンジでチンしてたりもされてたな >>40
北斗星でも地上職の出世の話をけって乗務続けた人がいたらしいね 山陰本線の特急「あさしお」は昭和50年に食堂車が外されたが、
理由は新幹線の食堂車従業員を確保するため「あさしお」の食堂車要員が
新幹線食堂車従業員として引き抜かれたため、従業員が不足したことや舞鶴線、
宮津線経由の「あさしお」は天橋立以西では夏場を除き車内はガラ空きで、利用者も少なく営業成績が振るわなかったことや、メニューも軽食主体だったことなどが挙げられている >>44
駅弁は常温で食べることが前提でしょ?コンビニ弁当はチンするのが前提だけど。 >>47
「はまかぜ」も全車指定席の1往復が同時に外されたが、同じ理由か?
その改正で不思議なのは、九州内「有明」3往復だけ細々と営業してた事。
481系がそれ以外「にちりん」も含めてほとんど営業休止にしたなら、全部営業を止めて
食堂車だけ他に転用すれば良かったのに。
そうすれば3年後に「白山」「はくたか」から食堂車を外す必要がなかった。 はまかぜはキシ81だったからよくわからないよね。
だけど、九州内の特急食堂車は赤字だったはず。
車両のやりくりや転属に伴う費用面や経費の問題だったんだろうね。 583系の特急「雷鳥」の食堂車は末期は、食器は使い捨てのアルミ皿や紙皿、
ナイフやフォークも使い捨てのプラスチック製、定食物は四角い箱につめられた弁当のようなものだった。 79年に乗ったこだまビュッフェのカレーライスは陶器の皿に金属スプーンだった。
使い捨てのアルミホイル皿と聞いていたから少し嬉しかったな。 寝台特急「みずほ」の食堂車は昭和59年から軽食主体の簡易営業となり、
ビュッフェの扱いとなり、「みずほ」廃止前の3年前からは営業休止となった。 >>51
だけど、北陸からの出張帰りのリーマンはは、テーブルにビールの大瓶が目立っていたよ
あのころの特急雷鳥の食堂車は酒とタバコ臭いがすごかったよね 新幹線0系ひかりの食堂車のサンドイッチはコックの手作りで、車内販売用のサンドイッチも
食堂車の調理室で作られていた。 白山で85年、最後に食べたカツカレーはステンレスの縁に模様の入った皿
でっかいスプーンにカレーはソースポット入りでなんか良かった。 >>55
マヨネーズではなくちゃんと辛子バターを使用してて美味しかったなあ。
何故か半割の塩漬けオリーブがトッピングしてあった。 実家へ帰省する際、大阪から特急まつかぜに乗って博多まで乗車した。
昼食スパゲッティナポリタンと夕食ハンバーグ定食とビール(大瓶)をキシ80で食事し、
優雅な時間を過ごしたことを覚えている。
食堂車は食事時間帯でも空いていたので、スタッフに話しかけたら、
今日は特別空いているんですよ、
とのこと。
売上に貢献したな。 食堂車で食べるカレーライスはうまかったな
どの列車も当たり外れはなかったね 業務用缶でよほどコストけちんなきゃそう外れにはならんわな 帝国ホテル列車食堂と都ホテル列車食堂は、ハンバークソースやステーキソースでも、ホテルの厨房で料理長が作るソースの味と列車食堂部のソースの味はやはり違っていたようで、食堂車の料理よりもホテルの料理の方が美味いという人もいたようだ。 そりゃブランドはホテルでも実際に缶詰を製造してるのは食品メーカーのOEMだもの 都ホテルは近鉄名阪特急で、12200系スナックカーのスナックコーナーの営業も
行っていたが、晩年のメニューは不味いカレーライスくらいしかなく、
やがてスナックコーナーの営業は廃止されて、スナックコーナーは車販基地となった。 >>53
その期間の時刻表では、「みずほ」はナイフとフォークの食堂車マークではなく、
ティーカップのビュフェマークになっていた。 >>64
それでも当時の市販レトルトより格段に美味かったね。
ここ20年くらいはいわゆる高級レトルトが出て
家庭でひと袋300-500円で特定店の味も食べられるからなぁ 特急白山の食堂車でカレーライスを食べたが、\780だったと記憶している
横軽走行中で出張のリーマンが多かった 特急白山の食堂車運用にはサシ181からの改造車サシ489-101などが入ることもあったが、
車高は485系に合わせてあり、内装も従来の485系の食堂車とは少し差異があったが、
さほど違和感は感じられなかった。 >>68
もうちょい贅沢してカツカレー1000円を食べた1984年、18歳の夏 仙台へ帰省するときはひばりかやまびこに乗り、行きは大宮過ぎから、帰りは岩沼過ぎから食堂車で食事した思い出があります。
あの頃は食堂車で食事するお客さんが多かったと思います。
今は食堂車で待ちや食事の時間で、仙台に到着しますね。 うちは山形に親戚がいるから、やまばとだったなあ。
別につばさでもいい筈なんだけど、絶対やまばと。
ビーフシチューとかカレーだったかなあ、海老フライも食べたかも。 山形で降りるんなら、つばさよりやまばとの方がキップ取りやすいんでしょ そうだね、つばさは秋田までの客が居るからね。
同じように仙台まででやまびこ乗るのは迷惑だな、ひばりに乗ってくれと >>75
はつかりに乗られると、もっと迷惑だったろうな。
なので指定券発売については、上野〜仙台などの利用客をひばりより制限してた話があったと聞く。 東北新幹線開業前、昼行特急の特急「はつかり」や「ひばり」、「やまびこ」の
食堂車のメニューは、ホタテグラタン、三陸の魚のフライセットなど岩手、青森の
郷土料理のメニューも多く、豊富だった。 常磐線廻りのみちのくは一度も指定席は取れなかったよ
結局、一度も乗れず仕舞い。。。 大宮の鉄道博物館の食堂で、ブルトレの食堂車のメニューのビーフシチュー定食を食べてみたが、
肉も大きく、人参やジャガイモなどの具も大きめで量も多く、シチューのルーには生クリームも入っているなど、
食堂車の味としては上等な味だった。 そうそう。
シチュー≒スープ
って思い込んでいたのが
シチュー≒ステーキ(焼いてはいないけど、肉の塊って意味で)
と意識を改めさせられたなあ。 ブルトレの車掌の食事のハチクマライスは、ライスと刻みキャベツと目玉焼を一つの皿に盛った料理だった。
「日本海」など食堂車のないブルトレの車掌たちは、愛妻弁当を持参したり、乗務前に駅ホームの
立ち食いそば屋で腹ごしらえしてから乗務してたな。 大宮の再現メニューは現代人のコスパ感覚で改良されてて
当時はもっとチープだったものだよ。 カレーなどバブル以降に
手に入るスパイスの種類も増え味が底上げされて
80年代以前の味を今出したんじゃ不味いと言われる。
ハチクマも相応の価格取るから具が多くてあれでは賄いじゃな無いな シテューも缶詰だけどな
ただ人参やジャガイモや下に敷くヌードルなんかは
別にゆでたものを使用することはあった 山陽鉄道に登場した日本初の食堂車は一等車の客しか利用できなかったが、
これではあまりにも差別化酷すぎたためか、のちに2等車、3等車の客も食堂車が空いている時間に
限り利用できるようになった。
ただし、2等車、3等車の客でも食堂車へ食事に行くときはきちんと正装をして、1等車を通るのを避け、
停車中にホームに出て、ホームを通って食堂車に入らなければならないなど、(食堂車から戻る際も同様)
現代とは格式が違い、食堂車は庶民が気軽に利用できるものではなかった。 ビーフシチューは北斗星やカシオペアで出してたやつがベースになってたかと 大阪駅に到着した「トワイライトエクスプレス」の食堂車従業員たちが乗務を終えて、
新大阪駅近くのにっしょく西日本の営業所に戻るときは、大阪駅から上り電車に乗って新大阪まで戻っていたが、
従業員たちはみんな疲れ切った顔をしていて、なかには調理服姿のまま上からジャンパーを羽織ったり、
コック帽を被ったままの食堂車従業員もいて、同行のボーイや給仕係も制服姿のまま、大阪駅に到着した上り電車に乗り込んでいた。 そりゃ48時間以上車内に缶詰だし
その間風呂にも入れないし夜遅く朝早くロクに睡眠もとれないしで
疲れ切るだろ 東京発西明石行0系「ひかり」の食堂車が寿司専門で営業されたことがあった。
コックが調理室で寿司を握り、丸い寿司桶に入ったにぎり寿司が提供されていた。
本物の寿司職人が握った寿司か、または寿司を握った経験の無いコックも寿司握る
練習して本格的な寿司を握っていたのだろう >>88 労働基準法クリアしてたのか?
仮眠時間含め24時間拘束されるシフト制勤務はあるが、車内に48時間拘束となると。 >>88 48時間、風呂もシャワーも浴びないでいるコックの作った飯なんて、食いたくない。 以前、駅ナカのレストランでバイトしていたのだが、店舗マネージャーは食堂車あがりの元コックさん。
包丁は刃の先端をまな板につけ、手元側で切れば、ケガしないよと言っていた。
運悪く切ったら、ピューラックス(漂白剤)に突っ込めば血は止まるって。
揚げ物は少量・高温の油で一気に揚げると寧ろ火傷しないし、美味い。
実際、カキフライをゴチになったが絶品でした。 トワイライトエクスプレスの食堂車では、列車が大阪駅ホームに入線して、
食堂車に物資が積み込まれると、コックはすぐに鍋に油を注いで電熱コンロに
鍋をかけたりしてフランス料理の仕込みに入っていた 今日のNG ID zh5e2+SC
*毎日紋切りで会話はなし。本のコピペ的投稿しかしないので注意 トワイライトクルーの末期、札幌では札サウに取り込んだオハネで仮眠でしたっけ。
だとしたら帰阪時はhthtでしょうね。 新幹線0系食堂車の営業を担当していた「ビュフェ東京」は社名だけだと、
ビュッフェの営業しかしていないように思われがちだったが、新幹線食堂車では、
ハンバーグセットには目玉焼きを添えたり、エビフライセットのエビフライは有頭の
大きな車海老2尾が使われるなど、日本食堂や都ホテル、帝国ホテルの料理よりも
高級に見える料理を提供するなどして、他社との味を競争していた。 友人宅にサシ581(実物だよ)がある。
喫茶店にする予定だったのだが、ミニシアターで使ってた。
バレるのでナンバーは言わないよ。 >>96
北斗星・カシオペアのクルーは休憩用に札幌にNREが借りたマンションがあったらしいけど
列車の本数と滞在時間の長さが違いから出来たことかな >>87
× ビュフェ東京
〇 ビュフェとうきょう
どっから仕入れた知識かしらんが
だったら余計に社名ぐらい間違えるなよな >>98
飲食店に転用した食堂車がナシ20以外全滅してしまったことを考えると、ある意味ラッキーだったかもね 国鉄末期、大阪梅田のコンテナヤード跡地で開催された「キャッツシアター」の
食堂にサシ581が活用されていた。
その他、昭和60年に大阪南港で開催された鉄道博でも2両のサシ581が食堂として活用され、この2両はその後、大阪府貝塚市の二色浜近くで食堂として使用されていた。現存しているかどうかは不明。 >>95
紋切り型って高性能馬鹿発見器でよく見られる手口なんやで… 蒲田のユザワヤ前にラーメン屋等に転用されたサシ581がいたが、いつの間にかいなくなり…
利用したことがあるのは仙台駅前のだけ。
昭和62年秋だったか。 あ、触れちゃいけない人なんだな
毎日複数投稿してるやつ どっかの本の引き写すじゃなくて、自分の体験談を自分の言葉で書いてるから別人だと思うけど 西鹿児島駅前にあったのは481だったか?
たしかヴェスビオとかいう店名で営業していたと思うが。
多分、火山繋りで命名したんだろうがね。イタリアンだったから。 日本食堂でも合理化による人員整理などで、食堂車従業員が削減され、
北海道のキハ80系特急の食堂車は調理室にコック2人、ウエイトレスが2人という体制となり、
ウエイトレスは車内販売員も兼ねたり、コック2人はハンバーグを調理しながら片手でざるそば用のそばをゆでるなどして、
一人で2つの料理を調理するなどして、注文をこなしていた。 >>100
あとカシオペアはともかく、北斗星は北持ちの車両があって編成中の入れ替えとかあるから
いやでも追い出されるというのがある
あとマンション借りた、っていってもよくて各列車ごと、下手すりゃまとめて一室とかだろうし
滞在時間つってもせいぜい5〜6時間だから床に雑魚寝仮眠のタコ部屋もいいところ
風呂だって家庭用のしかないだろうし男女一緒だと気も遣うだろう
それでも車内に軟禁状態よりははるかにマシかもしれないが >>114
列車によってはあったような気がするが・・ 新幹線100系の食堂車のメニューでは、うな重があった 古い刑事ドラマのセリフの中の「かつ丼でも」という言い方からして
あの頃は豊かな時代だったんだなあと思う
今はもう「かつ丼」に「でも」なんて付けられるような時代じゃないでしょ
利益供与云々の問題は別にしても >>69
2両だけあったサシ489-100番台か。
方向転換されてなくて食堂と厨房の位置が正規のサシ489とは逆だったって記述を見た記憶があるんだが
実際はどうだったんだろう? 鉄道ジャーナルの1976年10月号(?)には急行信州のビュッフェのメニューにカツ丼があると書かれていた。
400円でボリュームがあったらしい。 信州は確か蕎麦屋だったよな。
由緒正しくカツ丼も出してたって事か。 カツ繋がりで、新幹線開通前のはつかりでは車内製造のカツサンドを車内販売してたよ。付け合わせにポテチが付いていたね。 一度揚げたものの冷めてしまった天麩羅やトンカツなどは電子レンジで温め直してから
粉状のバターや塩をまぶして揚げたてみたいに細工した。
(温めとバタ塩まぶしの順は逆だったかも)
という食堂車コックさんの話が昔の鉄道ファン食堂車特集(表紙が神鉄新車の号)に載っていて
「ほう、いつかやってみよう」と思ってから
やらずに30年。 いや今からでもやれや
殺伐と牛丼チェーンなどでぼっち飯ばっかしねえで 寝台特急「出雲」の食堂車は営業休止後、売店の扱いとなってから、メニューはたこ焼き、
カレーライス、飲み物、焼きそば、牛丼などの軽食主体となり、従業員も一人だけだった >>127
冷めて油が落ちた揚げ物はスーパー惣菜を家庭で食べる時でも
先にちょっとバタ塩はとか天ぷらなら
ごま油垂らしてオーブントースターで軽く炙るとカリッとする >>123
当時の400円って、今だと900円以上するのでは? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています