【シ,ハシ,Td,Tb】食堂車・ビュフェ【35,36,37,168】5レ
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5レの食堂車といえば、「みずほ」「北斗星5号」になるか >>135
当時は狂乱物価でインフレがひどかったので、そこまで高くなってないような。
食堂車ならその程度の値段かもしれんが、急行ビュッフェはそれより庶民的価格だったので、
今なら600〜700円くらいでは?
今は20年程前から基本的にデフレ。最近物価上昇気味だが、当時より上昇率は低い。 >>136
1976年は国鉄初乗り30円、駅弁が幕ノ内で400円、JTB時刻表450円。 私鉄より安いと言われた国鉄運賃だけ4倍以上
消費者物価指数はこれの3ページ
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/keizai_prism/backnumber/h30pdf/201816902.pdf
2017年比較で1976年は60%くらいだね。
近年は万博の1970年の3倍位とはよく言われるがそんな感じ。 車両としての食堂車の話だが国鉄特急型サシの回送用運転台があるに萌えたなあ。
子供の頃は「どうして中間に連結されているのに色が塗られているの?」と不思議だった。
特に運転台がない方にまでご丁寧に帯が回っていて、
なんというか遺構物トマソンを見た時の様なワクワクを感じていた。 >>139を途中で送ってしまった。
同様の理由で国鉄急行型サロの回送用運転台妻面にも萌えていた。
特急サシと同じく運転台がないのに塗装がある方は特に。
ただサロの方は関東や東北配置の車両は塗装が省略されてたんだよな。
なんか急にとんかつONミートソーススパゲティこと
スパゲティ・ベロネーズが食べたくなってきたw 東北急行のサハシ451・455のメニューはなんだったんだろうね? >>141
急行「みやぎの」のビュッフェはそばコーナーになっていた。
しかし、客足は遠のいて営業中止になった ときわはそばだった
だけど、当時は価格が高いと思った あさかぜのオシ24は、はやぶさ・富士のオシ24を基本から付属(熊本・大分回転)へ繋ぎなおすことで捻出している
もし、ナシ20の1968年以後製造分10両を24系化工事をして編入しておけば、下関あさかぜや日本海にも食堂車は遅くまで残った 寝台特急「出雲1・4号」も20系時代は食堂車が浜田まで連結されていて、24系化後も
食堂車は浜田まで連結されていたような。
24系25型に置き換えられた時に、食堂車は出雲市回転となったようだが >>145
20系も24系(24形)も基本編成の方に食堂車が付いていたから
それが博多あさかぜの影響で、すべて付属編成のほうに食堂車を回されてしまったため、出雲市回転となってしまった
(基本編成は、はやぶさ・富士・博多あさかぜ・出雲共通。付属編成もはやぶさ・富士・博多あさかぜだけもう2両(オハネ・オハネフ)連結される以外は出雲と同じ)
↑1978年2月〜1985年3月 >>146訂正
○20系も24系(24形)も24系(25形。ただし博多あさかぜ20系時代)も基本編成の方に食堂車が付いていたから
↑〜1978年1月末
×20系も24系(24形)も基本編成の方に食堂車が付いていたから 食堂車ついていることが特急としての矜持だったのかもしれないが
営業時間的には、食堂+ビッフェのようなものでも十分だったかもね。 ソフトバンクのスマートマルシェを
車内に置いてくれたらなぁ >>137
急行ビュッフェ廃止直前の11月6日の値上げで、国鉄初乗りが倍の60円になったけど。
程なくJTB時刻表も500円、駅弁も当時でさえ、松阪の牛肉弁当など1000円する駅弁もあったけど。 >>152
ラーメンは無かったが、寝台特急「さくら」「みずほ」の食堂車のメニューには、
「長崎ちゃんぽん」「皿うどん」があり、青函連絡船の船内食堂のメニューには、
「海峡ラーメン」があった >>153
「みずほ」は門司営業所だったので、長崎ちゃんぽんはなかっただろう。 >>151
>>154
どちらも鋭い指摘でご明察。
過去をアバウトに語る輩には困ったものだ。 >>155
2ちゃん(5ちゃん)を見ながらまた日本一周している某ユーチューバー君とかな。
いい加減な知識(?)を勝手に吹いてて萎えるわ。それ見てその嘘を信じるガキが更に増えて、間違いをさも事実であるかのように語られ始めるんだわな。
本当に困ったもんだ。 新幹線や特急で供給していた、うなぎは絶対湯煎のレトルトで肝吸は粉末の熱湯溶かしで1800円は当時高かったな 東京は登亭
大阪は共栄水産
業務用レトルトで湯煎なりレンチンして使用するが
単価は結構したはずで長焼で600円ぐらい
弁当用の蒲焼で400円ぐらいしたはず
なおついてくる吸物は永谷園の松茸のお吸い物 朝飯にハチクマライス作ってみた。
どんぶり飯の上に丸大ロースハムを使ったハムエッグを乗せて、味噌汁と香の物。
醤油とソース両方試してみたけど、どっちもそれなりにうまかった。 >>159
ハムエッグを作ったフライパンで焦がし醤油よ。 北斗星の朝定食の玉子料理はうまかったな
ご飯のお代わりするヤツいたんだろうな お代わり可能だったのか?
車内で飯炊いてるんならともかくサトウのごはんなら数の管理があって難しいんじゃないのか 卵焼きは普通の工場製のじゃね?
鶏肉のゴボウ巻きの方が印象に残ってるけど 161だが
自分で書き込んだら、無性に食いたくなって作っちまった。
俺は、半熟が好き。 >>164
車内でご飯は炊いていると思う
上野で食堂クルーが電気炊飯器を持って列車の到着を待っていた 浜名湖近辺で停車中に釣ったウナギ捌いたりしなかったのか? >>79
子供の頃、原ノ町に住んでいたので東京のデパートにお買い物行くときは10時のみちのくだった
ひたちより停車駅少なくて格上な感じがして好きだった
みちのくの食堂車でフォークとナイフでいただくハンバーグステーキ美味しかったなあ
コーンポタージュ、バャリースオレンヂもお気に入りだった
からしバターの効いたサンドウィッチも美味しかったなあ >>169
原ノ町から東京に買い物に行くんか??
雰囲気からすると日帰りなんか?
こう言っちゃなんだが、仙台にもデパートくらいあるべ? 東京が元々の生活圏な人間からすると、東京と逆方向の地方都市の百貨店へ買い物に行くという発想自体乏しいからな。
地元のそれなりのレベルでも、百貨店へ行くったらそれなりの買い物に行くわけで、だったら東京へ行くっつうのは箔がつくんだよ。
特急乗って食堂車っつうだけで、その時代でも中流以上の生活レベルの家庭だと想像できる。 原ノ町から東京じゃお泊りでしょうね。
百貨店は日本橋の三越・高島屋かな? それとも銀座・・
日本橋三越ははるばる川口から国際興業バスでも直行できた昭和50年頃
それほど魅力ある街だったんだよね。 上野松坂屋が近いだろう。
あと今の上野丸井が「みちのく」運転時は京成百貨店だった。
クオリティーはどうだったか知らんが。 もう新幹線の車内でコーヒーすら買えなくなるのも時間の問題かな… 子供のころ、仙台からひばりの食堂車は出張帰りのリーマンが、
テーブルにビール瓶並べて車内は酒臭さとヤニの臭いで充満で、
親とカレーを食べた思い出があるよ >>169
「みちのく」は名前こそ急行の流用だが、
「はつかり」のスジ継いだ由緒ある特急。
「ひたち」は東北本線・上野〜仙台で言えば実際は「なすの」や「」 >>179
や「あづま」みたい列車だから格が違うよね。 いい匂い振り撒きながら見知らぬ遠方に駆けていく
常磐線ではもうみちのくしかなかったが
待避で待たされるだけでもなんだかすごい嬉しかった
夕方の○田馬場駅で特急と称するものに待たされるのは軽く殺意が湧く 昔、白鳥で青森まで昼食と夕食で二回食堂車を利用した
どの時間帯も混雑していると車内放送が流れていたことを思い出すな みちのく、確かに1往復でなにか特別感あったな。子供の頃、仙台からいつも使うのはひばり
なんだけど一度だけはつかりがあった。喜んで乗ったけど、車内はタバコの煙に床は弁当の
空き箱やら空き缶やらが散らかってゴミだらけ。行程半分なのに乗客は倦怠感丸出しで
荒んでた。その時は食堂車使った覚えないんだけど
白鳥やらみちのく、はつかりは外から見るものだな 昭和40-50年代は国鉄冬の時代、私鉄が美しくサービスも良かったからね。
小田急ロマンスカーも走る喫茶室のシートサービスは定員450名程度に
カウンター2箇所で10名乗務! >>183
昔ロシア号の乗車日記で毎日メニューが減っていくというのがあって最後の方はピロシキとパンくらいになったそうだ 大宮の鉄道テーマパークの食堂車特集どんな展示だった? 特急みちのく上野発のフライ定食はエビ・白味魚・ホタテのタルタルソース付きで、揚げたてを食べた >>186
不倫客と家族連れと社員旅行客相手に走る喫茶室の紅茶とサンドイッチ売りまくった時代だな 583系特急みちのく、ぐぐったら10年間しか走ってなかったのに
13両の長大編成、雪降ってない常磐線に異世界青森からの雪乗っけて
食堂車、グリーン車つき、当初は全席指定で相馬も通過、
子供心に当時のインパクトは強烈だった
ちょっと大げさに言うとヨーロッパに住む子供にとってのオリエント急行みたいな >>191
普通車はボックス席で半日か。食堂車が賑わうはずだ。 >>193
はつかりの暫定置き換え時
はつかりの臨時、のちに紛らわしいので常磐はつかりに名前変わった奴
ひたち51、52号
エキスポライナー
くらいかな? >>184
一つ一つは売店程度の大きさだったような。 >>195
一応カウンターもあったな。コーヒーみたいな立ちのみ想定したんだろうけど。
何人飲食担当乗ってたんだ? 小田急だと喫茶室業務カウンターということで席で提供だけど
東武は一応立ち飲み出来るんだよね。 ただ、ジュークボックス側の
席に座って飲んだ記憶しかない。まだ中学入るかどうかの70年代に。 >>192
今みたいな他人拒絶の時代じゃ考えられないけど、そのボックス席で長時間膝付き合わせて
同席する人と袖すり合うも他生の縁みたいな楽しみがあった濃い時代。
おやつ交換したり、その場限りのゆるい会話スキルとか対人関係も昔の人のほうがあった。
お母さんと一緒に青森から通しで乗ってきた札幌の同世代の小学生の女の子とたわいない話して
住所交換して引っ越すまで10年ぐらい年賀状やり取りしてた。 食堂車は禁煙車両じゃなかったから、子供や女性は辛かっただろうな >>199
おばちゃんがタバコ吸いながらダベるもんじゃないの? >>191
はつかり、ゆうづると共通運用だったのと、青函夜行便に接続するはつかりが混みあってた
のがあるからな。
しかし昭和51年国鉄大幅値上げ後、鉄道の渡道客が減ってから、特急みちのくは特に混む列車ではなくなった。 >>153-154
皿うどんならみずほにもあった可能性はある
富士で皿うどんがメニューにあった話がある 男性喫煙率80%の時代は、タバコの煙が嫌いという文化も無かったからね。
あって当たり前、 正直国道沿いなんか歩いたら排気ガスの匂いが
今の10倍ってレベルの時代だし。 九州ブルトレの朝食がバイキングや中華粥だったけど
あまり触れられていないよな 大宮の鉄道博物館のレストランで
九州ブルトレの食堂車メニューのきじやき定食
北斗星の食堂車メニューの和風のおかずが洋風トレーに載った朝食(ご飯味噌汁セット)
九州ブルトレの売店で発売されていたうなぎご飯・おでん・牛丼・シューマイ・やきそばを発売しよう
当時を再現するためにうなぎご飯・おでん・牛丼・シューマイ・やきそばはプラスチックの容器で提供 >>206
居酒屋とケチなビジホとコンビニ行けば済むじゃねーかw >>204
平成早々の一時的なものだったから、国鉄時代に利用した連中にとってはピンと来ないだろう。 食堂車営業休止の出雲は東京出発前から宴会車両になっていたけど、なんで食堂車ははずせなかったの? >>199
昭和の頃は大人の男が煙草を吸うのは当たり前の時代 >>209
しばらく売店車になっていてカレーとかを売っていた気がする。 583系ゆうづるの食堂車も浴衣着た大人が酒盛りしていたな >>212
2001年からフリースペースに
廃止されるまで連結されていた >>215
10年間違えてるだろう!
1991年からだろう。 >>213
おっさんたちが浴衣で宴会って変に色っぽいw あ、ダメだ。
行頭の半角スペースは効かないんだっけ。
2行目半分ずらして見てください。 昔、子供の頃に見たドキュメンタリーで、オリエント急行だったかシベリア鉄道だったかの食堂車は、厨房だけの車両と食堂だけの車両を連続して繋いでいたと記憶しているんだが。
やはり記憶違いだよな。
あとシベリア鉄道は食堂車からの出前やってたのを覚えている。 日本に来たオリエント急行なら荷物車に厨房設備の一部を置いていたし
ダイニングカーが長テーブルなので向かい合わせ席の食事スペースとして
プルマンカーも使っていたからその記憶で合ってると思う
あと中国に入ると中華料理を別につないだ中国の食堂車で調理して
サーブしていたからそこが映っていたのかも 外国はキッチンカーとレストランカーの編成もあるね。
模型の妄想だけど、半室キッチン半室バーという車輌を考えた。 >>222
日本初の寝台車がそれに近いのでは?
一等寝台と食堂の合造車だけど見取り図を見ると碌な料理は供せなかった感じ。 >>222
タルゴのバー車はまさにそんなつくりしてる
食堂営業する列車はバー車の隣にキッチンのないダイニングカーをつないで
バー車で調理した料理を出す >>220
手元の資料、鉄道ファン1989年2月号(交友社刊)によると、運用・整備上オリエント急行用
客車にも日本国内用表記を当てはめることになって、厨房車と食堂車には記号「シ」を、
バーサロンカーは「ハ」、乗客用寝台車は「ロネ」、スタッフ用寝台車は「ハネ」を充てた。
その他、列車種別は急行として最高速度は95km/hに。この理由は、客車に履かせる台車
を旧型客車の廃車発生品から流用して、客車の自重に合わせて軸バネを交換したものを
使用したから。 >>224
車体が短いからね。
セッテベロも食堂+厨房。 >>220
もともと欧州にはプルマンカーって、優等客用に食事+運賃ってのがあった。
フランスのTEE客車は、アムステルダム方面は日本的な食堂車はなく
キッチン付き客車と隣の客車、地中海方面のは食堂車の隣のオープンシート車で
事前に予約をすればコース料理を食べれたらしい。 >>228
時代によって違うのだろうけど、自分が乗れた70年代後半-82年だと
地中海方面ステンレス製のLe miatralのと鋼製車体に赤黄帯の
Toulouse行きVoiture grand confort "Le capitole du matin"
くらいしか乗ったことない。 どちらも食事は一等座席車と同じ席に
テーブル増設型で、キッチン付き半室車と隣の同系全室車だったよ。
https://www.citedutrain.com/mistral69
http://img.over-blog-kiwi.com/0/61/95/34/ob_75d99c_blog40-copier.jpg >>225
乗客用寝台車は今なら「イネ」を当てはめそうだね 70年代にTEEってどういうご家庭w
外交官か駐在員さん?親御さんが 70年代は日本人バックパッカーが大挙してヨーロッパとか行ってた時代、ユーレイルパス(1等)使ってね。俺もその一人 そういう意味じゃ日本(特に若い人)は貧しくなったのかな? >>232
70歳越えですか?
当時はバックパッカーと言うよりヒッピーでは? そこまでぜいたくなサービスを提供しないと考えれば、向こうも貧しくなったと言えるんじゃ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています