世界最強の男
ラオウもケンシロウも
北斗の星と会話する術を持っているのである。
北斗神拳の拳を使えても、北斗の輝きで、その言葉を読むことができなければならない。
昔の星を見る人の衣服は、火のなかに投げ入れても、燃えなかったというエピソードがある。
火は星を見る人の衣服を包みこむ。ところが衣服はまったく焼けていなかった。
火に触れたとは思えないほどだった。
火も星を見る人の衣服を燃やすことができない。これこそまぎれもない神話である。
一子相伝、ケンシロウの持つヌンチャクは火に燃えないだろう。 体の全体に北斗の化身を溶かす。
意識が空間に出るのを待つ
空間の絶大なる力によって北斗の化身を体外に引き出す。
この場合も観念や想念を行使してはいけない。
ただ北斗の神に全託する心境で、北斗の化身が空間に出るのを待つだけである。
余り神秘的に考えすぎてはいけない。
私たちいにしえの武芸家は睡眠中、知らないうちに北斗の化身は空間に出ている。
眠っているからそのことが、自覚されないだけのことである。 陰陽交叉
火は鑚(き)るものであるから、ヒキリ。
水は垂れるものであるからミタリ。 湯治は、温泉につかることで治す。
体表が湯に含有する電気を補足する。
ケンシロウは、気流の電気を拳に補足する。 降りて来た神さまによって、人間の耳に聴こえてくる
音色が変わると言われている。
ケンシロウが登場してきたときの音色は、
まさしく北斗の神である。 北斗神拳とは元来、何の計らいもなく、
念すらも用いず、
何の野心もない心がけで攻守するものである。
北斗の技とは、北斗七星から来たる根源の世界からの力である。
北斗七星との交流における武技である。
北斗七星の力は、人間の強引な念で引き出せるものではない。
ラオウのパワーは、
隆々と榮て絶頂にまで達していたと思われる事態が、一挙に崩れる。
ラオウの力は、故意に北斗神拳を無理に発動させるところが見られたりする。
ケンシロウの北斗神拳の誘起は、自然発動である。 何でそんなマンガの世界を騙れるのか分からん
マンガのキャラを離れて語られれば
それなりに気を魅かれる内容もあるのに スレッドのタイトルが、世界最強の男だから、
北斗神拳について書いている。
ゴールデン・チャイルドという映画だったかな。
小さい子供が、鳥かごの中に入れられて、
葉っぱだけをかじって、生きている。
神に近い人間は、なにも食べないでも生きていける。
ケンシロウも、水を一口しめらせただけで、力がわいてくる。
神人といえる人間が存在する。
特別の使命を帯びて人間界に現われた神人は、その使命を全うする。
神人とは、素直さ、屈託のなさ、無私の心、大の男をまかしてしまうほどの大力の持主であること。 だからと言ってフィクションの人間について書いても仕方ないのでは? でもせめて現実の人間と
現実にある武術なりの技で言及しないと
君以外の人にとっては
何の意味もなくね?
どうしても君のフィクションの趣味に走りたい
と言うのであれば仕方ないから止めないけど >現実にある武術なりの技で言及しないと
これは大事だと思う。
いろいろと武術の動画を見ているけど、
自分の知っている武術は、まったく同じ動きは出てこない。
この動きを教えている武道家の先生は、動画では見たことがない。
大山倍達はあらゆる格闘技を求めて世界を旅をしていた。
大山の人生で、一度だけ負けたことがあるらしい。
大山は、柔道を習いに行ったら、一日で道場の先生になってしまうくらい強かったと言っている。
とにかく全ての格闘家と戦い、常に大山カラテで勝ってきた。
昭和の武蔵になる、カラテの武蔵になると言っていた。
しかし昭和の武蔵になれなかった。唯一、負けたのである。
相手と向きあって、いくら拳をついても、スッといなくなる。 それもあわてて移動するのではなくて、円を描くようにスルスルと移動しながらかわす。
こっちは、一拳の思いで突くのに、当たらない。時間だけがすぎていく。
そして、大山は負けましたと言い、お互いの手を握り合ったらしい。
それから大山は、円を描いて点を突く大山カラテを編み出したと言っていた。
ただ逃げるのではなく、円を描くようにかわす。あの大山のツキを何度もかわすことができるその動き。
これがよくわからない。これを考えると、この部屋のどこに金庫を隠しているのだと言うと、
たいていは、金庫のない方向を一瞬目をやる。つまり、目の方向にないところに金庫があるということである。
達人は、多分、その逆で、大山の目で、どこに拳をついてくるかそれを察知する力があったのだと
思われる。大山のビール瓶の口を一瞬できる拳を、目だけでよけれるようになったら、その逆もできるのだろう。
まず、この円を描く動きを体得することが、最初の一歩かもしれない。石井が急所を狙うとき、相手に自分の目を読まれないようにして打っているから、
当たるのだろう。 大山カラテの動きって実際に、そんなに円を描いてるのだろうか? 円を描く。ボクサーみたいに□みたいな感じで戦ったり、追い込まれては
だめなのである。〇を描いて、点でつくみたいな感じである。
緑健児の場合、右上段回しけりを出して、その右足を軸にして、即座に左上段回しけりをする。
右上段回しけりをして、次も回しけりをしたり、突きを出すのでなくて、
回転させた足を軸足ににして、時間を置かないで、もう一つの足で回しけりをくりだす。
ある意味で円を描いている。大山は、海岸で10分ほど生徒に練習させていたが、みんなすぐに砂浜に
倒れていた。それほど取得することが難しい。
もう一つは攻防をしながら円を描いて、スタート地点にもどってきたときに、決め技で相手を倒す。
大山カラテは華麗でなければならないよと言っているのだが、
最初に戦いが始まった地点に、あれこれと攻防しつつ、ちょうど戦いが始まった地点に相手が
来たときに、そこで倒す。ここまでしなさいと大山は言っていた。
ただ、世界チャンピオンを三連続を続けてもだめ。さらにスタート地点で相手を倒す。
そこまでしなければ、大山カラテのチャンピオンとは呼べない。
ある意味で、円を描くことはできていないが、円周を描きながらの点でつくみたいなイメージである。
ある映画を見ていたら、一人が炎で円周を作り、その中で二人のカンフーが戦うシーンを見た。 >最初に戦いが始まった地点に、あれこれと攻防しつつ、ちょうど戦いが始まった地点に相手が
来たときに、そこで倒す。ここまでしなさいと大山は言っていた。
何故そんなことをする必要が? ケンカ、喧嘩、ケンカとは華(はな)なりと言うらしい。
花田兄弟が、道端に棒で円を描いて、この中でならケンカをしてやると言い、
花田の花は、ケンカの花であると言っていた。
つまり、格闘とは、格闘道、けんか道、そして道において、華麗な花がなければならない。
相手を倒して、相手が倒れ、相手が復讐してやろうと思わせるようなケンカはケンカでない
らしい。ケンカが終って、相手が、コイツと戦って良かった思わせるような
余情、余韻がなければいけない。
余情、余韻を相手の後ろ姿を見て感じるから、ストリートの数を増やしていくことができる。
多分、ヒクソンが500回もストリートで勝てたのは、ストリートの余情、余韻を相手が感じたからだと
思う。くるくる移動の攻防しながら、気が付いたらスタート地点で決める。
戦いには、余情、余韻があってこそ、ケンカの極意だそうである。
ただケンカに勝ったではだめで、相手が余情、余韻を感じてこそ、伝説のストリートになるのだと思う。 北斗神拳は、考えれば考えるほど難しい。
人体自体が、五層の世界をあらわしているらしい。
胸の当たりの構えは、狭義のやや人間界よりやや下の世界らしい。
構えが腹の当たりにになると、それは地下の世界をあらわしている。
顎より下は、神界より下の世界。
だからそのあたりで構えてもみても北斗の神の世界へ通じるはずはない。
北斗相伝者は、サッーと両手が上に挙げられる構えとなってしまう。
それこそ相伝者は咄嗟のうちにである。
この辺にも天地人の摂理が働いている。
そこで一般の武芸の構えは、北斗の境地を表わしていないということになるらしい。
達人が、思わず両腕が頭上に挙げられる場合は、原理は同じである。
胸の当たりの構えでは、北斗の志向は、北斗の神に届かないのである。 >>75
良いんだの余剰だのそんなのは妄想の世界じゃないか?
>>76
そりゃ実在しない拳法の事を考えるのは難しいわな 井上尚弥が、ゴングが鳴っていきなり飛び出して、顔にパンチが当たり、
ダウンしていた。
もう一度、そのパンチを出してみろと言われても、相手の選手ネリは
再現はできない。世界中の観客が、もう一度、そのネリ・パンチを再現しろと応援していたが、
出ないまま試合が終わってしまった。再現できない突きという技の存在もある。
再現できない技だからといって、想像ともいえない。
再現できない技を達人は磨いている。
井上は再現できるはずがない再現井上パンチを出していた。 松尾芭蕉なんて、伊賀の忍者で旅をしながら、俳句も歌っていた。
能=アクロバットというより、能=神事。
オペラやミュージカルとは全く違う。
囃子方(はやしかた)は「囃(はや)すは「生やす」に通じる。
何もないところに、何かを生じさせる。
それが生やす人=囃子方の役割である。
空(くう)なる場にエネルギーを呼び込み、達人は、
さらにそのエネルギーを活性化させることによって、戦い全体をグループ
させる。
返せや返せ。昔の秋を。今宵の秋風、身にしみじみと、
恋しき昔 忍ばしきは閶浮の
秋よ友よと、思ひ居れば、
夜も既にしらしらと
はやあさまにもなりぬれば