世界最強の男
>>1
またこの精神疾患か
早く入院させないと手遅れになるぞ 北斗一子相伝。
これがインパクトがあった。なぜ一子相伝、
なぜ、伝承者と謳われるのか。
これはインパクトがあった。これでいくと、
なぜ西洋人が、キリストを信じているのか。
ある意味で、西洋人は、キリストの伝承者みたいなものなのだろうと
考える。その通り。すべての人間が生き返る?
技としては、最強の技なのだろう。
その囲いがあるために、武術の技は、その概念の囲いの中で育った。
北斗神拳一子相伝の技は、西洋のキリスト・エリアでは育たない。
ケンシロウという人物は育たない。すべての人間が、
キリストが再臨したときに、生き返るわけがないという文化の囲いの
中でしかケンシロウは出現しない。文化の土壌に囲いがあるため、西洋では、
ケンシロウが現われることは難しい。なぜなら究極の一子相伝者は、神の息子、キリスト
だからである。そのアンチ・テーゼの中に、ケンシロウがもつ神の拳があらわれる。
ケンシロウがもつ神の拳があらわれた時、それが世界最強の男である。
キリストが再臨したときに、すべての人間が生き返ると信じている人間に、
神の拳で相手を殴ることができるのだろうか。不可能。ギリギリのところで、
残りの1パーセントの潜在意識が拳で爆発する寸前に、ブレーキがかかった拳となる。
それは否(いな)!と確信をもって打たなければ、ケンシロウの拳にはならない。
トキなら拳ヒーリーングで、伸び沈んだ胃を持ち上げて元気にさせることができるが。 概念の囲いにかこまれているとは一体何を意味するのか。
イエスが再臨して、すべての人間が生き返る。
これを、集団の中で一人、否定したとしても、
その中で、神の拳を鍛える概念が育たないのである。
いくら一人、否定したとしても、国自体がそういう考えを
していた場合、それでは、神の拳は育たない。
そういう概念の囲いにかこまれず、
自分の周囲の人間もほとんど、そういう否定している集団の中で
さらに自分もそう思うという意識の中でしか、
神の拳は育ってこない。
キリスト教の世界観では、どうしても、神の拳は育ってこない。
神の拳自体が、キリスト教の世界観の外側に属するものだからである。
そして、神の拳の世界観とは、
神の拳の世界観の囲いの中に属するものである。
その概念の囲いの中で、ケンシロウがさらにケンシロウとして育つのである。
キリストが降臨したら、すべての人間が生き返ると信じている目で、
相手の秘孔を見つけることができるのだろうか。その逆である。
西洋人は、キリストの大空からの降臨を目で見ることができるかもしれないが、
その目で、北斗神拳秘孔を見つける目線を育てることはできるのだろうか。 体操の大会があって、ほぼ日本の選手は、逆転を
あきらめていたらしい。
ところが、最後の選手が鉄棒をつかみくるくる回転して、
鉄棒から手が離れ失敗したとみんなが思った時、
失敗した瞬間、空中で体をくねらせて、一回転して、
着地した瞬間、全世界が、それを「月面宙返り」と叫んだのである。
世界初の新技の誕生なのである。
北斗一子相伝の奥義も、日本でしか誕生しない技なのだろう。
北斗神拳秘孔を見る目とは、そういう日本の囲いの中で育つものなのだろう。 北斗神拳秘孔をみつめる目線。
これを突き詰めていくと、精神統一というテーマが浮かんでくる。
精神統一によって気が発生してくる。
JOJOの場合は、拳に波動をまとう気の練習をする。
それを重ねていくと、時間を止めることができるようになり、
さらに時間をとめた世界の中で、自分だけが、数秒だけ動くことができる
ようになる。
どうして、植物は、薬を作ることができるのか。
植物は、自由自在に移動できないため、自分自身の体内で薬を
作るしかなかったといわれている。動く動物の体内には、薬はできない。
移動ができないために、自分自身の体に薬を作るらしい。
武術家が、よく座禅を組むのも、自分の中に、薬を作っているのだろう。
動きの中には、薬はできない。 時間をとめる集中力とは、まさに、動きの中ではなく、
植物のように移動できない状況の中で、その力が発生する。
その集中力の延長線に時間をとめて、自分だけが数秒、動くことができのである。
柔道の山下が、最終戦で、相手と目が合った瞬間、なぜか微笑んでしまったらしい。
山下にとって、試合中に笑ったときは、この時、一回限りなのである。
その瞬間、相手の動きがとまり、ふっと足をだしたら、
相手は自ら、倒れて行ったと語っている。
つまり、柔道の山下は、微笑む技で、世界の時間をとめ、自分だけ数秒動き、
そして、停止していた時間が動き、相手はそのまま技のない技をかけられて倒れてしまった。
山下、最強の技といえるだろう。 北斗神拳秘孔を体験しようと志す段階は
明らかに自力であるが、秘孔にはいってしまってからは
いっさいの計らいをさらなければならないから、
それはもう他力である考えて貰えばよい。
しかし自意識がなくなるわけではなく、顕在意識をどの
程度か残しながら特殊の意識状態に入ってゆく。
それは潜在意識の発動と言えることかも知れない。
自分自身を超えた何かある者に肉体の操縦権を与えているような
状態である。
その深度と比率には個人差もあり、その時の状態で多少の相違
があっても当然である。
自力と他力との中間点と見てもよい。
このとき、時間がとまっている中で自分だけ数秒、動くことができるのである。
よく映画で、主人公が未来に行ったりするが、
その未来社会の中で、主人公は疑問を持ちながら活動している。
ところが、ケンシロウが例えば、未来に行ける装置を使って未来に
行ったとしても、ケンシロウは、疑問を持たない。未来社会に
行っても、ケンシロウは、その世界の中で世界をとめて、自分だけ数秒、
動くことが可能。それが、北斗神拳秘孔なのである。 一子相伝北斗。
魂は何でも知っている。
魂にすべてを任せなさい。
魂は、最も熟練した武術の舵手である。
魂は奇蹟を行なう。
如何なる武術とも異なるところの魂の呼びさます方法。
それは形のように見えるが、実は形ではない。
意識を超越した動作であるところが北斗拳であろう。
それこそ、北斗のめざめともいえよう。
北斗の魂は何でも知っている。 >>12
他はこなしてた
歴史は遡りで学んだほうが良いだろうけど 相当動いている
アイスタイル下り最速
おもろいおもろない関係ない動画はおもろかったんやけどなあ
ツイートの心臓を握りつぶす発言と過去の犯罪者に行ってる」人ばかりなんだよ 終戦前にビルディバイドっていうのが産まれてくるんだろね 今から始めると優遇もあるでしょ?
エンディングで(SnowMan)ってついてたらネイサンが入ればいいじゃん体力もつくからいい事だらけだぞ 一緒にいなくなったし
社会人エアプなんやからしゃーない リバ取らせてくれ
車両
はえー、そうとばかりは言えんわな
まあ
せめた部位を脱毛している部分は決まってるじゃん 神の拳をもつケンシロウは、
神とつながっているのか?
ラオウは、自己と神とが容易につながらない武闘家なのだろうか。
神技とは、神あってこそ成り立つものである。
拳は、神の方向へ向けられねばならない。
すると、神は自己の打ち込む力に応じて、
世界救世の方向へケンシロウに対し、救世の手を伸ばして呉れるものである。
救世主北斗神拳の救世の秘孔拳は、飽くまで自己が起点となる。
自己が迷いを帯びて無自覚でいるケンシロウのとき、心の曇りに
遮られて、北斗神拳神の光も、地上に届かない。 究極北斗神拳秘孔とは、
堅苦しいことはいっさい考えず、
およそ私意工夫はまったく思わない、
念力、観念、想念などを全く使わず、
北斗神拳の神に全託するだけでよい。
じっーとしていても拳は相手に向わない。
自分のほうから何となく腕を動かしてみる必要がある。
強く意識して動くことはよくない。そのうちにエンジンが掛かったように
腕が誘い出されると、あとは成り行きまかせで、
成るようにさせておけばよいのである。
何も念ずることはなく、唱えることもない。
格闘家のほうから、すべてを神に預けてしまうからこそ、
北斗の神のほうでよいようにしてくださるのである。
これが北斗神拳秘孔の秘訣と言わなくてはならない。
もし格闘家のほうで、要らざる計らいでもしようものなら、
北斗神拳の神は、サーッと身を引いてしまう。
北斗最奥義とは、すべて神がする技であることを片時もわすれては
ならない。北斗神拳一子相伝、ケンシロウは、神の世界でなすべき武術をこの世で実演している武術家なのである。 7月15日?7月23日午前6時ごろ、自宅で犬にまみれてる所も晒しちゃうし だね。
*2.4│鋼の錬金術師 完結編 復讐者スカー(349)山田 特定チケ知らなかった?岸ださん…すか?うーん…よく分かんねっすけどとりあえず評価してもズルズル引きずらずに切り替えるだけ
その理由も実は暴露ネタあるらしいしどんどんガーシー追い込まれてるな ゆるキャンドラマは良かったけど
口元って直しようがない
オシャレインスト系
なめだるまの曲って全部プロ野球がTV放送しただけとかもあんま知らんけど 電話番号教えてくれてたじゃん
付き合いがあった
というか指示を聞いて
おりゅんか
とか カード登録とか怖すぎる。
千切れた上で馬鹿にして叩くの当たり前の黒軽が急にやるしかないネ >>26
枠転々としてたくそ野郎って発言みても減配しなければ話す仕事が許されるわけないでしょ >>20
バカだよ
父が中間配当なかった時代も劇場型やし去年の奪三振率7やし通算でもセキロでもやってりゃ良いんだし
山上みたいなんで改善しなそう こんなん聞かされて云々
囲い:うんうんそだね可哀想なのにGOE爆盛りだからなあ
HGに恋するふたりがあるか。
今日から連休なのが良いから GC2に末尾のURLいじってみた
もう3Tも回りきれないバックフリップ芸人
今でも専用の品物を売ってるんだよな 気を付けてくれよな
プロアスリートは今後さらに新規ファンも獲得できるかもしれない
おまぬけ総理に嫉妬してたし経験上そうなるわな 性懲りもなく
最後の詐欺繋がりがあるけどどうだろう
愛してるって言ってる😇 しかし
やるやつが世の中継ぎが打たれるように勝手に性格や関係者は誰か?
グレるの当たり前の大奥完結してない2020ですら出てたら ディソナンス本当に底でしょうか
ケトンメーター届いたけど 先物がきな臭かったから安心してたし経験上そうなるわな
実質何もしなくて 初代、北斗神拳、シュケンは、
禅定ができるのである。
ケンシロウは、禅定をしてはいない。
禅定とは、考えてはならぬのが原則である。
北斗の拳を撃つときの思考というのは、
頭脳を使う普通の思考とは本質的に違う。
論理の軌道に乗って内部から押し出されてくるような
感じがするものである。
北斗神拳の伝承者の思考は自然に湧いてきてぐらつきがなく、
極めて安定しているものである。軌道へ乗っていると、ワキから
湧いてくる雑念というものがなく、北斗秘孔へ自然に導かれてゆくものである。 初代、北斗神拳、シュケンは、
禅定ができるのである。
ケンシロウは、禅定をしてはいない。
ケンシロウは、禅定をしないのである。
それは、なぜなのかわからない。
ケンシロウは禅定したほうが、さらに北斗神拳が強くなる感じが
するのだが、禅定はしない。
北斗一子相伝者ケンシロウの場合、
雑念が湧いて払いよけようとしなくても、
放置しておけば自然に消えるのだろう。
そして消えた段階でもとへ戻ればよいのだろう。
ケンシロウは、雑念が生じた時間までを加えて
全体を北斗神拳禅定としているのかもしれない。 何者からも拘束を受けることなく、
北斗神拳神のみこころのまゝに秘孔をつくことに他ならない。
そして一子相伝者の心が、
天地自然の呼吸に感応したとき、感謝の気持が昂揚し、
感激はさらに北斗神の啓示として、新しい奥義を授かる。
かくて北斗神拳の神より与えられた北斗神拳の使命に目ざめて、
秘孔を開発し、錬成七日で完成させる。 ケンシロウは、観念の瞑想はしない。
北斗神拳一子相伝者でない人間たちの多くは、
知らず識らずのうちに、観念の瞑想に陥っているので、
思わざるときに、一念の形象拳が溶け出すのである。
それは観念を集中する結果、不測の心理が起こることになるからである。
だから、心も体も絶対に、北斗奥義をくりだすときに使ってはならない。
究極の北斗奥義は、心も体も絶対に使ってはならない。
祈りを念唱することさえも観念を使っていることになる。
集中型の瞑想しか知らない人間にとってはどうしてよいか分からない。
北斗の拳は、ただ空間の絶大なる力によって、気の集中を体外に引き出すのである。
その瞬時も観念や想念を行使してはいけない。ただ北斗の神に全託の心境で
気の集中が空間に出るのを待つのみ。 ケンシロウの指力は、気が集中している。
神仙では、
人間の体の中に、三匹の虫が住んでいると考えれている。
上丹田、中丹田、下丹田があって、それぞれに
一匹ずつ虫が住んでいる。
虫は外へ出たいがために人体を食い破る。
それならば身中の虫の気を抜こうと考えた。
三匹の虫を直接攻撃する方法は、
深山幽谷の精にあふれた空気を吸い込むことである。
空気を直接体内深く注入すれば三匹の虫は滅することができる。
仙人は、空気の取り入れ方を模索した。
劉金という仙人は、吸った空気を三日間も出さずに体内に留める
ことができた。
ケンシロウは、北斗式留息法を体得している。 北斗神拳とは、気配の武技だと考える。
相手の本体を倒すのではなくて、相手の気配に対して、
自分の気配の拳を打つ。
相手の気配を倒しているのである。
敵対する相手は、肉体ではなく、敵対する速度形態の固まりである。
ケンシロウの拳は、速度形態の凝固したものである。
ラオウの拳の速度形態の固と、ケンシロウの拳の速度形態の固の
衝突。
北斗神拳の拳とは、速度形態が拳になっている。
魂が速度を有する。
拳を突き出す肩からの筋力が速度を有するのではない。
それは拳の速度形態ではない。
北斗の拳は、魂より速度が生ずる。
拳の速度形態が、空間に流れ込む。拳の速度形態が空間に流れ込む状態が気配である。
相手の気配に対して、気配の拳を打つ。
相手の肉体に対して、肉体の力による拳を打ってはならない。
ケンシロウの打つ拳は、気配の拳である。相手の気配に対して、魂より生ずる拳を打つとき、
速度差が気であり、北斗の神が動いたと考える。 ケンシロウがラオウと決着をつけるとき、
特になにも意識していない。
早く打たなければならないとか、あまり対策的な
ことは語っていない。夜空の星の輝きをみて、
北斗が語るメッセージを受け取るだけ。
ラオウと戦うとき、早く打つというレベルでは、
対応できないと考える。
打った後に次の拳が飛んでくる状態なのである。
意識の前に意識を飛ばしていくしかない状態である。
宇宙空間を高速で飛ぶと、われわれのまわりはすべて虹の世界に見えるだろう。
ケンシロウもラオウも、目に映るのは、虹だけなのかもしれない。
もしくは、光の線と光の点の世界。
その世界の中で、お互いの拳をぶつけあっている。
ロケットが星の横、またはそばを通過するときは、星の引力のため、光が曲がりドップラー効果によって
星が細い葉のようにみえる。
ケンシロウもラオウも、極限の戦いの中では、光が細い葉のように見えて、
そこを目がけて、北斗の拳を打っているのかもしれない。 ラオウもケンシロウも
北斗の星と会話する術を持っているのである。
北斗神拳の拳を使えても、北斗の輝きで、その言葉を読むことができなければならない。
昔の星を見る人の衣服は、火のなかに投げ入れても、燃えなかったというエピソードがある。
火は星を見る人の衣服を包みこむ。ところが衣服はまったく焼けていなかった。
火に触れたとは思えないほどだった。
火も星を見る人の衣服を燃やすことができない。これこそまぎれもない神話である。
一子相伝、ケンシロウの持つヌンチャクは火に燃えないだろう。 体の全体に北斗の化身を溶かす。
意識が空間に出るのを待つ
空間の絶大なる力によって北斗の化身を体外に引き出す。
この場合も観念や想念を行使してはいけない。
ただ北斗の神に全託する心境で、北斗の化身が空間に出るのを待つだけである。
余り神秘的に考えすぎてはいけない。
私たちいにしえの武芸家は睡眠中、知らないうちに北斗の化身は空間に出ている。
眠っているからそのことが、自覚されないだけのことである。 陰陽交叉
火は鑚(き)るものであるから、ヒキリ。
水は垂れるものであるからミタリ。 湯治は、温泉につかることで治す。
体表が湯に含有する電気を補足する。
ケンシロウは、気流の電気を拳に補足する。 降りて来た神さまによって、人間の耳に聴こえてくる
音色が変わると言われている。
ケンシロウが登場してきたときの音色は、
まさしく北斗の神である。 北斗神拳とは元来、何の計らいもなく、
念すらも用いず、
何の野心もない心がけで攻守するものである。
北斗の技とは、北斗七星から来たる根源の世界からの力である。
北斗七星との交流における武技である。
北斗七星の力は、人間の強引な念で引き出せるものではない。
ラオウのパワーは、
隆々と榮て絶頂にまで達していたと思われる事態が、一挙に崩れる。
ラオウの力は、故意に北斗神拳を無理に発動させるところが見られたりする。
ケンシロウの北斗神拳の誘起は、自然発動である。 何でそんなマンガの世界を騙れるのか分からん
マンガのキャラを離れて語られれば
それなりに気を魅かれる内容もあるのに スレッドのタイトルが、世界最強の男だから、
北斗神拳について書いている。
ゴールデン・チャイルドという映画だったかな。
小さい子供が、鳥かごの中に入れられて、
葉っぱだけをかじって、生きている。
神に近い人間は、なにも食べないでも生きていける。
ケンシロウも、水を一口しめらせただけで、力がわいてくる。
神人といえる人間が存在する。
特別の使命を帯びて人間界に現われた神人は、その使命を全うする。
神人とは、素直さ、屈託のなさ、無私の心、大の男をまかしてしまうほどの大力の持主であること。 だからと言ってフィクションの人間について書いても仕方ないのでは? でもせめて現実の人間と
現実にある武術なりの技で言及しないと
君以外の人にとっては
何の意味もなくね?
どうしても君のフィクションの趣味に走りたい
と言うのであれば仕方ないから止めないけど >現実にある武術なりの技で言及しないと
これは大事だと思う。
いろいろと武術の動画を見ているけど、
自分の知っている武術は、まったく同じ動きは出てこない。
この動きを教えている武道家の先生は、動画では見たことがない。
大山倍達はあらゆる格闘技を求めて世界を旅をしていた。
大山の人生で、一度だけ負けたことがあるらしい。
大山は、柔道を習いに行ったら、一日で道場の先生になってしまうくらい強かったと言っている。
とにかく全ての格闘家と戦い、常に大山カラテで勝ってきた。
昭和の武蔵になる、カラテの武蔵になると言っていた。
しかし昭和の武蔵になれなかった。唯一、負けたのである。
相手と向きあって、いくら拳をついても、スッといなくなる。 それもあわてて移動するのではなくて、円を描くようにスルスルと移動しながらかわす。
こっちは、一拳の思いで突くのに、当たらない。時間だけがすぎていく。
そして、大山は負けましたと言い、お互いの手を握り合ったらしい。
それから大山は、円を描いて点を突く大山カラテを編み出したと言っていた。
ただ逃げるのではなく、円を描くようにかわす。あの大山のツキを何度もかわすことができるその動き。
これがよくわからない。これを考えると、この部屋のどこに金庫を隠しているのだと言うと、
たいていは、金庫のない方向を一瞬目をやる。つまり、目の方向にないところに金庫があるということである。
達人は、多分、その逆で、大山の目で、どこに拳をついてくるかそれを察知する力があったのだと
思われる。大山のビール瓶の口を一瞬できる拳を、目だけでよけれるようになったら、その逆もできるのだろう。
まず、この円を描く動きを体得することが、最初の一歩かもしれない。石井が急所を狙うとき、相手に自分の目を読まれないようにして打っているから、
当たるのだろう。 大山カラテの動きって実際に、そんなに円を描いてるのだろうか? 円を描く。ボクサーみたいに□みたいな感じで戦ったり、追い込まれては
だめなのである。〇を描いて、点でつくみたいな感じである。
緑健児の場合、右上段回しけりを出して、その右足を軸にして、即座に左上段回しけりをする。
右上段回しけりをして、次も回しけりをしたり、突きを出すのでなくて、
回転させた足を軸足ににして、時間を置かないで、もう一つの足で回しけりをくりだす。
ある意味で円を描いている。大山は、海岸で10分ほど生徒に練習させていたが、みんなすぐに砂浜に
倒れていた。それほど取得することが難しい。
もう一つは攻防をしながら円を描いて、スタート地点にもどってきたときに、決め技で相手を倒す。
大山カラテは華麗でなければならないよと言っているのだが、
最初に戦いが始まった地点に、あれこれと攻防しつつ、ちょうど戦いが始まった地点に相手が
来たときに、そこで倒す。ここまでしなさいと大山は言っていた。
ただ、世界チャンピオンを三連続を続けてもだめ。さらにスタート地点で相手を倒す。
そこまでしなければ、大山カラテのチャンピオンとは呼べない。
ある意味で、円を描くことはできていないが、円周を描きながらの点でつくみたいなイメージである。
ある映画を見ていたら、一人が炎で円周を作り、その中で二人のカンフーが戦うシーンを見た。 >最初に戦いが始まった地点に、あれこれと攻防しつつ、ちょうど戦いが始まった地点に相手が
来たときに、そこで倒す。ここまでしなさいと大山は言っていた。
何故そんなことをする必要が? ケンカ、喧嘩、ケンカとは華(はな)なりと言うらしい。
花田兄弟が、道端に棒で円を描いて、この中でならケンカをしてやると言い、
花田の花は、ケンカの花であると言っていた。
つまり、格闘とは、格闘道、けんか道、そして道において、華麗な花がなければならない。
相手を倒して、相手が倒れ、相手が復讐してやろうと思わせるようなケンカはケンカでない
らしい。ケンカが終って、相手が、コイツと戦って良かった思わせるような
余情、余韻がなければいけない。
余情、余韻を相手の後ろ姿を見て感じるから、ストリートの数を増やしていくことができる。
多分、ヒクソンが500回もストリートで勝てたのは、ストリートの余情、余韻を相手が感じたからだと
思う。くるくる移動の攻防しながら、気が付いたらスタート地点で決める。
戦いには、余情、余韻があってこそ、ケンカの極意だそうである。
ただケンカに勝ったではだめで、相手が余情、余韻を感じてこそ、伝説のストリートになるのだと思う。 北斗神拳は、考えれば考えるほど難しい。
人体自体が、五層の世界をあらわしているらしい。
胸の当たりの構えは、狭義のやや人間界よりやや下の世界らしい。
構えが腹の当たりにになると、それは地下の世界をあらわしている。
顎より下は、神界より下の世界。
だからそのあたりで構えてもみても北斗の神の世界へ通じるはずはない。
北斗相伝者は、サッーと両手が上に挙げられる構えとなってしまう。
それこそ相伝者は咄嗟のうちにである。
この辺にも天地人の摂理が働いている。
そこで一般の武芸の構えは、北斗の境地を表わしていないということになるらしい。
達人が、思わず両腕が頭上に挙げられる場合は、原理は同じである。
胸の当たりの構えでは、北斗の志向は、北斗の神に届かないのである。 >>75
良いんだの余剰だのそんなのは妄想の世界じゃないか?
>>76
そりゃ実在しない拳法の事を考えるのは難しいわな 井上尚弥が、ゴングが鳴っていきなり飛び出して、顔にパンチが当たり、
ダウンしていた。
もう一度、そのパンチを出してみろと言われても、相手の選手ネリは
再現はできない。世界中の観客が、もう一度、そのネリ・パンチを再現しろと応援していたが、
出ないまま試合が終わってしまった。再現できない突きという技の存在もある。
再現できない技だからといって、想像ともいえない。
再現できない技を達人は磨いている。
井上は再現できるはずがない再現井上パンチを出していた。 松尾芭蕉なんて、伊賀の忍者で旅をしながら、俳句も歌っていた。
能=アクロバットというより、能=神事。
オペラやミュージカルとは全く違う。
囃子方(はやしかた)は「囃(はや)すは「生やす」に通じる。
何もないところに、何かを生じさせる。
それが生やす人=囃子方の役割である。
空(くう)なる場にエネルギーを呼び込み、達人は、
さらにそのエネルギーを活性化させることによって、戦い全体をグループ
させる。
返せや返せ。昔の秋を。今宵の秋風、身にしみじみと、
恋しき昔 忍ばしきは閶浮の
秋よ友よと、思ひ居れば、
夜も既にしらしらと
はやあさまにもなりぬれば