ジークンドーとMMAを語るスレ
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ジークンドーとMMAを語るスレです
現代MMAにジークンドーがどう取り入れられているか?
ジークンドーの技術はMMAにどう応用できるのか?
なんでもどうぞ -=≡///:: ;;
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/ カルトの王者 \:::::\
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ヽ;;';ー--―;;;; ̄;;;;;; ̄Y )←>>1 `'ー--、\____/ <くそすれさいこー!! 普通のボクシングパンチ混ぜて
フォーム違いのパンチで不意をつくんだろ?
原理的に距離関係ないし ジークンドーの要であるフットワークが裸足では使えないので使える要素が限られる
一部のフックとアッパーはジークンドーの打ち方が使えるので全体重を乗せて打てる
ジャブストレートは予備動作がなく足より手が先に出るので当てやすくカウンターを取られにくい
あとは戦術や考え方の引き出しが増える
大体書き尽くしたからこのスレ終わりでいいかな >>5
ああいう感じのフットワークなら伝統空手が素足で実現しているが 未来の動きについてけない
つまり
ジークンドーの出番なし 石井氏のフットワークはジークンドーのフットワークとは別物
残念ながらテッド氏の芸術的フットワークを継承していない ジークンドーの要素ってMMAよりも
ゴルフと野球のほうが簡単に応用できると思うわ
地面からの抗力をボールに伝えるのは
すぐできると思う 石井は、家に帰って思うんだろうな。この道は正しいのか、
正しくないのか。
ジークンドー唯一の継承者であり、唯一の復興者である我(われ)は、
正しいのか。
なにか、ブルース・リー先生の伝承したかったことから、
なんか、ずれてきているぞ。ジークンドーの真の核を究明していくほど、
その核の核(コア・コンピタンス)からずれていく。
なぜなら、ブルース・リー先生は、ジークンドー・コアを探して行き、
辿り着いたと宣言しているのだが、あまりに若すぎた。
若者が悟ったというのと、同じレベルなのである。ブルース・リーの悟りは。
タマゴでいえば、湯の中で、ゆがききっていない、タマゴの中がトロトロの状態なのである。
タマゴの核が凝固されていないのである。
もし、ブルース・リーが、80歳まで生きて、「これが最後のドラゴン奥義ジークンドー」
として、まとめたら、それが、究極の教科書となる。
しかしながら、「ドラゴンへの道」ドラゴンへの入り口となったのは、詠春拳である。
ブルース・リーは、ジークンドーの入り口に向かうのではないだろうか。
詠春拳→ジークンドー→詠春拳
石井がいう、技をすべて削ぎ落として残ったのがジークンドーと哲理を明かすなら、
ジークンドーの技をすべて削ぎ落すと、詠春拳になる。香港で、詠春拳に古代復古するのは、
武の達人が、なんとなく、回帰復古すれば、詠春拳にたどりつくのではないだろうか。
究極の足技ゼロで、手だけの攻と防を組み合わせた武術ワンインチパンチの究極型が、詠春拳なのだろう。
詠春拳のみで、相手を倒す。それが、本物のファイナル・ジークンドーの完成型なのだろう。
キックボクサーのキックも詠春拳のみで倒す、スゴ技ピカリ。 詠春拳のワンインチパンチは
全く別物だから回帰することはないね
https://youtu.be/iLR9VINPCkM ジークンドー各派の練習生はキックボクシングや散打大会、ローカル総合格闘技大会でもクソ弱くて一方的にボコボコにリンチされて言い訳ばかりしてるイメージ 動画による展開だと、石井曰(いわ)く、ジークンドーは、「ストリート・ファイト」に先鋭化された武術のトータルし、そのトータルを
レモン汁みたいにしぼり出した技が、ジークンドーであると言っている。
「なるほど」と動画を見て、石井の哲学に共感したし、目からウロコが落ちた。
ブルースは、リングの戦い方なんて、頭の隅っこほどにも全くない。、ゼロなのである。ブルースは、タオとかいって、陰と陽と二元武道を語っているが、
二次元武道と言ってもいいが、ブルースの頭の隅っこほどにも、ジークンドーで、リングの上、試合会場で戦うシチュエーションはゼロなのである。
一次元、一元のみ、ストリートでの戦いしか、設定していない。石井の分析である。
ブルースの娘は、「水になれ」と言っているが、それは邪道というものである。石井は、ジークンドーは、ストリート・ファイトのみを
設定しているので、「水になれ」哲学ははずれているのである。ブルースは、二次元のタオを持てと道場で言っているが、
ジークンドーの中味は、ストリート一次元のみなのである。ストリートで負けたら、それはジークンドーではない。
つまり、金的攻撃の練磨化、金的攻撃の多角化。ストレート・リード・パンチは、究極的には、金的に使えということである。
石井の熱く語るジークンドー哲学を察すると、そう思う。あくまで、金的で仕留めろ。それ以外の技は、サイド・ディシュの極め技でしかないということなのだろう。
他の武道は、金的攻撃無しを想定して戦うから、型がまるっきり違うのである。これは、武道だけでなく、生きていく我々の社会でも、コアだと思う。
究極的には、相手のチンチンをにぎるかどうかなのである。その延長に、ブルースの映画みたいに、客のチンチンをにぎり、客の心をギュッとつかみきる奥義、極意の
片鱗をふれることができるのだろう。客の心をにぎったら勝ちというが、究極には、心でなく、金的破壊なんだろう。それが武術界破壊につながるブレークスルー型ジークンドーを
石井は、道筋を開拓しているのだろう。 ヒロ師匠が、力を抜けばいいのですよ。
地球の重力を利用すればいいのですよ。とにかく時計の精密機械の補修をするように、一個一個の歯車の汚れを取るように、
自分の身体の一個一個の無数の歯車についている油を取り除くのですよ。
そうなんだよな。皿の残り油を取るように、洗剤を使って、歯車についている、歴年にしみついた肉体の油みたいなのを取るのである。
時計の分解修理って動画でみたけど、ものすごく手間がかかっている。
あーいう感じで、肉体の筋肉の一つ一つを、一点に集中しなさいということだから、2、3年の修行では無理な世界だろうと思う。
肉体の老化を感じる心が、歳をとっても老化し続ける肉体を感じる特別な格闘家一筋の道を歩いたものしか体得できない。
肉体が衰えた分、精神が矢となり弓となるのだろう。
ヒロ師匠は、石井師匠に、まだまだ細胞の分解ができていないよって言っていた。 >>8
朝倉未来は冗談でも
「弟子にしてください」
なんて言わない奴だけどな >>16
それは朝倉未来が馬鹿で人を見る目がないってことだ。
そんな奴だから日本刀でボッタくられたりしている。 史上最高の武道映画のいくつかでチャック・ノリスとブルース・リーと一緒に訓練し、
一緒に行動したタンスー道のマスター、ロバート・ウォールは、82歳で亡くなりました...
TMZスポーツは学びました。
壁はノリスの下で9度のタンスー道の黒帯でした...彼は西に規律をもたらしたと信じられています。
男性は長年一緒に訓練しました...そしてビジネスパートナーでした。
武道の達人であることに加えて、ウォールはシルバースクリーンでも重要な役割を果たしました。
ロバートは1972年代の「ドラゴンへの道」と1973年代の「燃えよドラゴン」に登場しました。
どちらも、これまでで最も有名な武道家であるリーが主演しています。
ウォールとリーは、「燃えよドラゴン」で記憶に残る非常にリアルな(一方的な)戦いをしました。
実際、彼らが戦闘シーンを撮影してから数年後、ボブはリーが実際に肋骨を骨折したことを明らかにしました。
「ボブ、私はあなたを殴りたい、そして私はあなたを激しく殴りたい」と
ウォールは撮影前にリーが彼に言ったことを明らかにした。
理由...映画を撮影する前にウォールを8年間知っていたブルースは、戦いができるだけ
本物に見えることを望んでいたので、2人のマスターはフルスピードで行きました。
ウォールの家族は、ロバートの死去について次のような声明を送ってくれました。
「ボブは最高の夫であり父でした。家族は彼にとってすべてでした。
彼は素晴らしい人生を送りました。私たちの心には決して満たされることのない穴があります。
彼の精神と遺産は私たちの中で永遠に生き続けます。彼は私たちの岩でした。 「」
安らかに眠る。
https://www.tmz.com/2022/01/31/robert-wall-martial-arts-master-bruce-lee-chuck-norris/ 師匠ヒロが、あの年齢同士のクラスで大会があれば、すごいと思うよ。絶対に。
練習にまさる天才無し。
天才にまさる練習は無し。
ブルースは、練習も天才なみにして、天才を練習なみに、天才をさらに天才に磨いた天才がジークンドー武術なのだろう。
100年たっても、ブルースと同じだと言われる武術家が登場しないんだよな。ブルースは人間的にもさらに稀有(けう)な存在なんだろうな。
どうみても、ブルースの筋肉は、一週間で作り上げれるものではないと感じる。肩の筋肉に比べ、ウエストの細さにびっくりする。あのウエストで、あのパワーはすごい。
肩は、相撲とりで、腰回りは、水泳のモデルみたいである。 ジークンドーの石井なんて達人なはずねーだろw
ウェイブパンチの坂口拓と同じお笑い枠だよw
矢地みたいなバカがお笑いを信じてジークンドー練習して
まったく通用せずにボッコボコにやられて
ジークンドーの動き全部捨てて普通に総合のトレーナーに替えててスゲー笑ったわw 矢地のユーチューブに登場したときは、センセーショナルだったな。
ワンインチパンチを、突き抜けるタイプと、内側に残るタイプの
二種類があると石井が言ったときには、驚いた。
そのパンチにも二種類があることを覚えたのは矢地にとって良かったと思う。
さらに矢地が、足によるワンインチパンチもできるのですかと
質問したら、実践してみせた。
石井の足によるワンインチパンチにも驚いた。
あれだったら、石井なら、スイカ割りを頭頂部によるワンインチパンチもできるだろうと思う。 >>21
石井の言うワンインチパンチなんてある程度格闘技をかじってたら誰でもできるわw
石井が尊敬してるとかいう中国憲法のおっさんも言ってたけど
体当たりを拳でやってるってだけの話
二種類って、要は相手を飛ばすか飛ばさないかって話で、こっちも難しいこっちゃない >>22
かなり昔に物理学者かなんかが、
中国拳法のそれを色々計測して
力積などから、体当たりと同じって結論を出していたのは有名のはず 太極拳は、健康にいいと言われているが、
太極拳は、体に悪いからするなって、
テレビか、何かで言っていて、呼吸を整える格闘技が
こわくなったな。
息をコントロールすることが、普通じゃないと思う。
心臓でも、早くしたり、遅くしたりしてさ、そのまま心臓の
テンポが遅くなったままになったらこわいから。
ジークンドーは、呼吸法なんて特に重視していない感じだから、
いいと思う。ブルース・リー自体、呼吸に気を使っているように見えない。
好きなだけ吸って、好きなだけ吐けばいいみたいな自己裁量が
できるからいいと思う。
アイススケートがあれだけ回転できるのは、摩擦が少ないからだと思う。
アイススケーターが、そのまま相手にぶつかったら、そのまま力が相手に行くけど、
地面で、摩擦のあるシューズを履いていたら、それは、足を前進したとき、
摩擦のため、力を逃がしていると考えられる。踏み込んだとき、足がすべっていては、
力を注ぐことが難しい。ブルースは、足の摩擦ゼロで、相手に接近キックを
おみまいし、摩擦100で足でふんばっているのだろう。アイススケーター風呼吸法が必然となる。 覚醒下で随意運動の呼吸と常時不随意運動の心拍を同列に語るとかガイジか? >>23
物理は知らんけど、知り合いの中国憲法の人も寸勁についてそういうこと言ってたわ
一瞬腰を落とすことで体重を増やし(エレベーターが停止するときと同じ慣性の法則)
増えた体重で地面を蹴ることで力を増幅して(作用反作用の法則)
拳を使って相手に重心を移して力を送り込む
ジークンドーでいうパンチファーストって、こういう体当たりのための技術だよね 矢地のユーチューブで、石井が登場して、
ワンインチパンチを披露したのがインパクトが強すぎたな。
石井が、ブルースリーは晩年、木人をしなかったというと、
そうなのかって、納得してしまう。
木人をしなかった。それだけで、なぜそうなったのか、
原因を調べたくなるな。型が固くなるからか。
これから映画とか見て、木人拳を見たら、ブルースリーはしなかった
と思ってしまうな。
ブルースリーは、矢張り、指をつばでなめ、
上着を脱いで、肩の筋肉を見せつけるところがインパックトがあるな。
あれだけのインパクトを、瞬間に見せつけられるのは、
ブルースリーのみだな。全体で絵になる。
華麗でなければ、それはジークンドーではないよって言いそうだ。
ジークンドーはダンサーじゃないんだよ。
ジークンドーは、ストリート・ファイトなんだよって言うだろう。
木人拳の練習しないで、詠春拳+ジークンドーができるようにならなければ
ならないのだろう。木人拳とは、ジークンドーにとって、ちくわの空洞
みたいな存在なんだろう。味(だし)が内側からも外側からもしみこむ技なんだろう。 >>28
ブルースが木人練習したのは渡米してからだ
香港では小念頭しかやっとらん
香港の先輩と文通で木人習った
ブルースが通信教育の最初かもしれんな >>17
お前が気に入らない、認められない実力者を
お前が悪口を言って認めないだけだ
実力者が認めても、関係ない失敗談を持ってきて
お前がなかった事にしたいだけだ
結局、お前が基準でお前がわがままで認めないだけで
実際には、誰もそんなお前を相手にはしないだろ >>20
プロより見る目を持ってるという
お前の思い上がり凄いなw >>23 >>27
そういう大間違いを信じ込まれても困るけどな
その物理学者も力積の大きさは体当たりに近いとは言っても
力積の持続時間を見て
体当たりそのものとは言ってなかったのでは? ジークンドーに残ってる型は小念頭と木人椿
練習の大半は初歩のトラッピング
香港時代のブルースリーがどの程度だったか伺い知れる 矢地がジークンドー取り入れたけど前よりも弱くなってたよ 矢地の動きを見ていたら、ジークンドーのようで、ジークンドーでないみたいだ。
矢地は、シンプルにカラテ・チョップを練習したほうがいいと思うな。 >>27 >>32
ジークンドーのワンインチパンチが
体当たりかどうかは知らないけど
中国拳法の寸勁は体当たりではないよ ワンインチパンチの動画を見ていると、
プロの格闘家だから、1日で、ワンインチパンチをマスターしているけど、
一般人には、むずかしい技だと思う。
相手との距離をおかずにして、パンチだけで、相手を吹き飛ばすなんて無理だな。
まわりから見ても、ワンインチパンチなのか、ふつうの胸に対する正拳突きなのか、
誰でもわかる。一本足による瓦割りができるのは、石井オリジナル瓦割りだと思う。あの体勢でパンチが
くりだすことができるので、両足を使ってのワンインチパンチ効果も、想像できる。石井はだから、直系ジークンドーのラスト・マスターと呼ばれるのだろう。 ワンインチやストレートリードが出来るようになったとする
では、あとは差が出るのは筋力になってしまうのでは 宮本武蔵が、ブルースリーと対峙したらと架空すると、
宮本武蔵は絶対に、ブルースリーに勝利するだろうと確信する。
架空の中で。
宮本武蔵は、絶対に相手を破る技を見つけ、すでに練習していたり、
あるいは、試合中、相手を破る技を、戦いの最中に、編み出す。
とにかく想像を超えた存在が宮本武蔵である。
しかし、衰えを感じてからは、実戦はしていない。
つまり、筋力が落ちてからの技では、実戦では勝てないと宮本武蔵は、
五輪の書の如く、絶対に勝てないの書に、筋力が落ちては、
無敗を続けるのは無理だと悟って記すだろう。
石井の師匠は、今でも拳のひらを鉄板に打ちつけて鍛えているが、
宮本武蔵は、そういう練習を老後していなかったような気がする。
宮本武蔵は、剣を持たず、筆を持ったのである。ただ筆が、筆サイズの剣に
変わったら、その筆剣術の腕前は、達人だろう。 >>38
発勁なら何年もかけて修行しても
身につける事は難しいかもしれないけど
拳をつけて体当たりするタイプの攻撃であれば
誰でもすぐに出来るのでは?
よく色んなトコで宴会芸として紹介されてきた程度のモノだと思うけど?
その代わり、ただの体当たりでしかないから
相手を吹き飛ばすだけしかできないかもね? >>41
昔の検事って言う漫画じゃ主人公は体当たりパンチしてるからそれが発勁なんだろう 体当たりは、
相手が水平にすべりながら倒れ、
足をカニばさみ、左右の足で相手の両足をはさんだら、
倒れてしまう。体当たりは、相手が正面向きから、体を斜めにして、
当たる面を横にする。体当たりは、相手の接近した瞬間に避けられると、
勢いで、そのまま動きを変えることができず、
相手を通り過ぎた瞬間に背後、背中に剣を突き刺さられる。
背中に刺さった剣は、自分では抜けない。そういう感じのパンチをくりだす。
体当たりは、瞬間の変化に対応できない。爪先歩きをいつもしている石井なら、
体がデカいほど、体変化がむずかしくなる獲物といえる。
ゾウは百獣の王ライオンより強いが。爪先歩きは、地面との接する面積が、
小さいから、どんどん急速変化を点から点の重心の移転が
できる可能性がある。今は、わざと爪先立ち防御と攻撃を動画で見せていないかもしれない。
石井は動画で、一日中、道場で、爪先で立ってられると言っていた。
逆に、爪先で立っていると、不意の押しにすぐに倒れてしまう。将棋倒し、ドミノ倒しみたいに。 回転式ワンインチパンチは、骨法では、みんなグーパンチを使わないで、
指の五本を広げて、相手をたたく。
その理論は、人間の身体のほとんどが水ができているため、
そこにパンチの波動を効かすためには、手を広げた攻撃がいいらしい。
骨法は戦(いくさ)で使われる技術で、刀を落とした時に、
相手の鎧の上からパンチを効かすためには、ただ殴っただけでは、
鎧は鉄でできているから効き目がない。
殴って、力が鎧を貫通させるためには、手を広げるほうがいいらしい。
石井の場合は、手を広げての回転式なので、グー式回転ではないところが、
不思議である。鉄板をいつも叩いているのは、相手が鎧とか、
防弾チョッキを身につけていることを想定した戦い方なのか。
グーで殴った瞬間に次は、同じ箇所に掌底をする。拳と掌底を交差させる攻撃なのかもしれない。
貫通式と浸透式のW攻撃をしかけるのだろうか。矢地は、それを試合の中で、しようとしたから、
動きがいつもと違っていたのかもしれない。矢地は、実は、難しいことをしようとしていたのかもしれない。 歴代のすごいボクサーが登場するが、
同じボクサーのタイプはいてるが、まったく同じ型のボクサーは登場しない。
型に入って、型から出るといわれるが、
型に入っても、いずれは自分の型になっていくのだろう。
有名なボクサーとか、有名なキックボクサーは登場するが、
まったく同じ選手は出てこない。これは動画で、この選手をそっくりに
マネたとしても、完全なコピー、完コピーは無理なのである。
いくらジークンドーのコンセプトを追求したとしても、
完コピーはできない気がしてきた。ブルースリーを完コピーできるのは、
ブルースリーのみの気がしてきた。
矢地の完コピーをしようと思う人間が、ユーチューブに登場しないのは、
そういう意味なのだろう。ジークンドーの完コピーを追求する人間は登場するが、
矢地の完コピーをしようと思う者は、あの一番サイドにいてた行雄でもしようと
思わないし、平良でも矢地のコピーをしようとはほんの少しだけでも
思っていない。頭の中で想像するのは、ブルースリーの戦う姿である。
生徒が、戦う姿をイメージできるのが、ブルースリーなのである。
そこまでたどりついたのがブルースリーであり、ブルースリーが追求したジークンドー
なのであろう。体当たりは体当たりなのであろう。
MMAとは、河原の石をつかんで投げるようなものであろう。
プロの投手は、硬球を投げるのである。マウンドで石を投げない。
MMAとジークンドーとは、その違いがあるかもしれない。 ヒロ渡邉の指導を見た。直線をややアングル0.1から0.2度を変えて、
攻撃を避け、攻撃すると説明していた。
平良のパンチは遅いからね。危ないよと言っていた。
遅いパンチは、アングル・ジークンドにとって、危ないらしい。
遅いパンチはたどりつくのに、時間がかかるから、あまり早く体をかわすと、
そこに平良のパンチが軌道をかえて狙ってくるからか、
逆に自分で能動的に動き、かわしたところに、オウン・ジークンドー・パンチをもらうことになるのか。
このような練習によって、相手のナイフを、寸前でかわすことができるのだろう。
平良のパンチが、ナイフに見えた。あれはパンチでなくて、ナイフなんだ。
昔の海上の戦い、海賊船に乗って、相手の海賊船に乗り移る戦いは、実はすごかったんだなと思った。
海賊船にジークンドー・マスターが乗っていたら、すごかっただろう。 バカの妄想 おつかれ
あのアトピージジイは空手の試合で
前歯全部折られた雑魚だよ ブルース・リーは、何か違うんだよな。
何かが違う。どうして、ヌンチャクを武器にしたのか、
それも謎である。普通、ヌンチャクの使い手を見て、今度、映画で使ってみようと
思うその感が凄い。ヌンチャクって、歴史が古いのに、
ヌンチャクをあれだけ速く回転させて戦うのは、ブルース・リーが最初のような
気がする。それまでのヌンチャクは、二、三回の回転ぐらいだったと思う。
それをヌンチャクを左右の手で回転させながら、さらに自分自身も360度回転させながら、
全周囲の敵をブチブチ倒していく。その武道発想がすごすぎる。
さらにそのヌンチャクを床に置いても、さらに強い。
どう考えても、すごい武道家である。ジークンドー・プラス・ヌンチャク。
なにかさ、上着からヌンチャクが出てきただけで、唖然とするよ。
ブルース・リーが、ヌンチャクをふりまわしている時間が、
美術館で名画の前で立っている人間みたいになってしまう。
ブルース・リーは、相手と戦う前に、もうオレと戦うなというイメージを
相手の頭の中に刷り込ましているのか、浮かばせる術法を駆使できている感じがする。
戦ってから、相手は、相手の強さを理解するのに、
ブルース・リーの場合は、戦う相手は、戦う前に、戦った後の自分をみつめなおす機会が、戦う前にある。 矢地も石井を見限って
青木真也に習ってる。
総合童貞のトッチャン坊やに習っても
強くなれないと理解したんだろう 元々雑魚の石井は、20年修行しても
ブルースの
足元にも及ばない。
師の雑魚鍋は、嫌われ者
頭オカシイ糞ジジイだし 動画を見ていると、ほとんどの格闘家が、石井のことを
速いと言って驚いている。
この世界で、速い人はいくらでもいると思う。
何に対して「速い」と言っているか。
人間の急所に向っての「速さ」なのであろう。
「急所」の的に向っての速さが速いということなのだろう。
他の格闘家は、ただ速いだけであって、
「急所」に対しての速さではないのである。
野生動物チーターなどが、走りながら、後ろから顎の後ろ当たりをかみつくような
感じで、ズバリと行くのである。
それも足音のステップの音をさせないで、ズバット足が移動している。
腕だけが飛んでくるのでなくて、足のステップも同時に来ているのである。
そして、一瞬で背後に回っている。攻撃をしかけて、一瞬で背後に回るというところが、
ジークンドーのコア・ナビゲーションなのだろう。 石井の動画を見ていると、うーんと頷く。
宮本武蔵を教科書にして考えているから驚く。
武蔵は、大勢に囲まれたら、大勢の敵と戦うとは考えるな。
大勢に囲まれても、戦う相手は、目の前の人間だけで、
一人を倒すつもりで、一人一人倒していけばいいと言っている。
そしたら一度に、大勢を倒すことができる。究極一点主義なのである。
ところが、石井は、二人に囲まれたら、相手に家のカギをなげて、ひるんだところで、
もう一人の相手を倒す。必ず二人のうち、一人を油断させて、
力の大真空を作り、その間にもう一人を倒す。同時に二人を倒すなんて考えてはいけない。
うーむ。考える。武蔵の場合は、何人でも同時に戦う姿勢がある。 北斗神拳ってあれって、ケンシロウもラオウも、
トキも、足蹴りをするけど、ほとんど、足の移動はしていないと思う。
相手の技を受けるときも、自分の技を出すときも、
両足は、ほとんど動いていない。
足に力を入れて、腕に力を伝導させて、相手にぶちかましているわけではない。
本人は力を入れているみたいなことを言っているが、
両足には力を入れていない。ただ普通に立っていて、
ただ、拳を突き出しているだけ。
足の移動なんて、これっぽっちも北斗神拳は考えていない。
地面に足がついたまま。
そして、足が1センチ動かしただけで、おぬし、なかなかやるなって言っている。
北斗神拳では、正中線を狙え、正中線のラインで直進とか言っているが、
ケンシロウとかラオウとか正中線とか言わないと思うな。
二人は、戦う方法を頭で思考する以前に、闘志が、心の中で燃えたぎっていて、
それが、すでに技化している感じである。北斗神拳の奥義とは、心の中で燃える
闘志こそが、技であり、相手の技をみきる根本技なのだろう。
ライジンのリングに上がったとすれば、そこには、技など考えないで仁王立ちしている
ラオウが存在するのだろう。技を考えない思考で相手を倒す技が北斗奥義なのだろう。
何も知らないシロウトこそが、北斗継承者といえる。どうみても北斗神拳には、定められた型がない。
あるのは、闘争心が向かう角度の差。地平線の向こうから上がってくる北斗七星と大陸との角度のような、
闘争心の角度の違いが、北斗技の違いになってくるのだろう。
それをふまえて、ジークンドーを考える。 おいおい
あんまりだから言っておくが
漫画アニメを持ってきたら終わり
アニメなんて出来るだけ動かさないようにして、足だけ動いてるセルを描いてるだけ けっこう、実話を元にしている可能性がある。
ケンシロウが、次の北斗を継承する場面がない。
継承を受ける場面があるが、
継承する方の場面はない。
そこが描ききれないところなのであろう。
北斗みたいなホンモノの継承というのは、巻物がなくて、
口伝のみ。
だからヒロ渡邉とか石井が、継承と言っているとき、
口伝による継承だったら、本当の継承といえる。しかし、
口伝だから、継承を授けたフリとか、継承を受けたフリではだめで、
一般に流布されているような継承ではないだろう。
始祖シュケン。龍が降りてきて龍啓を与えるぐらいの技なのであろう。
石井が、平良に石井ジークンドーの継承者になれと
ユーチューブで言ったらびっくりするな。
行雄と平良の新たなる戦いが始まるのだ。
いかに、すばやい攻撃ができるか。タイ式ヘッドバッドをくらっていてはだめである。 ブルース・リーとジャッキー・チェンがもし、
戦えばどうなるか。
もしかすると、ジャッキー・チェンが、ブルース・リーを
倒してしまう可能性も感じられる。
ジャッキー・チェンは、打たれ強いところがある。
ブルース・リーが、うまくジャッキー・チェンの腕を取り、
関節技にもっていき、力まかせに曲げれば勝てるかも
しれないが、打撃とキックでの勝負となると、
カンフーのレパートリーでは、ジャッキー・チェンのほうが多いような気がする。
ジャッキー・チェンは追い込まれているようで、最後には、
勝ってしまうすごさがある。
ブルース・リーの場合は、打撃をチェンにかわされ続けると、
精神的に不安になる可能性がある。ジャッキー・チェンの場合は、
どこから打撃が飛んでくるのか、まったく予測をつけることができない。
チェンの打撃を見ている間に、虚を突かれるような気がする。
ジャッキー・チェンなら、石井のワンインチパンチを平然と受けて、笑っているかもしれない。
ジャッキー・チェンは、頭の骨が穴があいたままになっていて、
番組で、頭を触らせていた。 武器があったほうが格闘技はいいのか。
武器がなかったほうが格闘技はいいのか。
武器を持つ手に手刀を打つ。そして落とす。
武器を落として、格闘技になった場合、
日頃、武器に頼っている稽古ならば、武器なしで
戦った場合、弱くなる。武器をもっていない状態を
想定して、練習をすると、技術は向上する。
相手の武器を、手から落とさせれば、後は練習通りにすればいいだけなのである。
武器に頼る格闘技は、どうしても、武器なしの格闘技ほど、その技術は向上しない。
合気道の植芝は、棒術も、合気の手の技の延長みたいに、棒術をあやつることができた。
棒が、手の延長になっただけなのである。
その理論でいけば、手による格闘技の上手な人間は、武器を手にしても、
動きは同じで、上手であることになる。
武器を手に持つと、日頃の武術の動きができなくなると思うのは、個人がそう
思っているだけなんだろう。そう思う。武器は、手の延長だと思えばいいのである。
タイガー・ウッズが棒術が上手かといえば、おそろしいほど、上手なような気がする。
本人は、気がつかないだけである。バトンを回転させて上空に放り投げて、
それをクルクル前回転して、上手に手で受け取る体操の選手は、
多分、それを武器として扱うことも可能であろう。 クレベルの足げりは、いらないような気がするけど。
クレベルの足げりを見ていて、達人のような気がする。
カポエイラという足だけで、戦う発祥の国、ブラジルなのに、
なにか足げりが、クレベルは、上手でないような気がする。
だけど、相手がさけているのだから、痛いのだろう。
例えば、路上であのような足げりを見せられたら、絶対に、強いとは
思わない。しかし、関節技を隠していると思ったら、不気味だな。
ブルースリーの足蹴りライダーキックとクレベル式キックを
同時に見るとしたら、ものすごい違いがはっきりとわかると思う。
そこから相手に、自分の背中を金網ネットに押し付けられた状態から、なぜか相手に関節技を極めて、
相手を苦しめるクレベル。相手を金網に押し付けているのに、関節技を極められてもがく苦しさは、
苦しいだろうと見ていて思う。
痛いのと苦しいの違いが、クレベルの試合を見ていると感じる。
苦しいからまいったと心の変化、心の点移を、クレベルは、相手の呼吸から読み取っている余裕を
感じる。石井のジークンドーには、その技をかけた後に、まだその余裕を感じさせないことが、
動画から視聴者に感じさせている。なぜかスキがない攻撃なのに、大きなスキが見えてくるのだ。
それもクレベル式作戦なのか。ジークンドーによるカポイエラの対決の仕方を見てみたい。
カポイエラは、逆立ち回し蹴りでも、ジークンドーの技を受けないのか。受けない秘技があるのか。
わからない。 北斗神拳とは一子相伝と言われているが、
ラオウが天の星を指をさし、
北斗七星の八番目の星が見えるかとたずねるときがある。
北斗七星は実は、八番目の星ミザールが存在する。
これでいくと、北斗神拳法の真継承者は、八番目の星、七列からひとつだけポツンと
存在しているミザールのことを指しているのかもしれない。
そしてミザールと関係がない、北斗七星は、ラオウ、トキなどの存在を意味しているのかも
しれない。
もし、北斗七星にミザールみたいに二個の伴星があれば、継承者は二人となるのだろう。
北斗神拳を継ぐ者は、ただひとり、ミザールなのである。
https://smtgvs.weathernews.jp/s/topics/img/201804/201804100185_box_img2_A.jpg?1523414672
ミザールの拳こそが、一子相伝者の拳となるだろう。 石井ジークンドーのワンインチパンチを150キロあるラガーマンが
いたけど、まともに受けて笑っていた。
通常は、本気で打ったら、心臓が爆発してしまいますよって言っている。
この間も、異種の武道と戦っていた。
始まるまで、ニコニコしていて、試合中もお互い、
ニコニコしていた。
しかし、試合が開始され、回しけりをどんどん連発し、
次に手を打ったときに、石井がそれに合わせて手を打ったときに、
相手の顔が一瞬、変わった。なんとなく「重い」って感じたような顔だった。
想像している以上に、石井のパンチが重いのかもしれない。
通常うっているときも、浸透系をうっているのかもしれない。
それを石井は火加減みたいに調整して打っている。
相手もそうなのだろう。天心と朝倉が、ジムで戦っていたけど、
メンバーが天心速いと言っていた。見てたら、顔だけを左右に振り子のように動かしていて、
その動きが、無駄がなく、背中の中心から振幅させる力を上に伝達しているような凄さだった。
亀田とか、辰吉とちがって、顔の左右の振り子動きが、スムーズなのである。 そしてそこからの攻撃、やはり速い。打ちながら、いつでもその打った腕を自然と元にもどす
ことができるぜというパンチの繰り出し。だから朝倉が、踏み込めない。踏み込んでも、
すぐにバックする。バックしながら朝倉は次の攻撃をしかけようとしている目だった。
まさに黒ひょうの絵が好きな朝倉だけあって、黒ひょうみたいな動作反応だった。
石井は、その二人と練習で対戦している。朝倉と石井の攻防は、あの八角形のフェンスの中を、
縦横左右に動いて二人は、戦い合っていた。朝倉と天心は、天心は、顔を左右に揺らしながら、
前進していった。天心と石井は、天心が顔を揺らしながらの攻撃はなかった。
天心は石井をリスペクトしていたのかなと思う。そして天心は、朝倉、かかってこい精神状況だったのかも
しれない。天心がリスペクトするだけあった石井のファイナルステージ・ジークンドーだったのかも
しれない。あれ以後、天心が、弟に対して、また対戦相手と会話するとき、
オレ、ジークンドーできるんだぜという自信が、顔を出しているような気がする。
朝倉VS天心の戦いは、ジークンドー石井弟子同士の戦いだったのかもしれない。ある意味で。
お前は、ワンインチパンチでケガするぜみたいな。
両足で立っているのに、後ろにさがってしまう技を体験すると、心の中にも、何か変化(ジークンドーイベント)が起きるのだろう。 スティーヴン・セガールは一体、どうなるのかと思う。
ブルース・リーみたいに道場は開いていない。
スティーヴン・セガールも、創始者になれそうな気がする。
朝倉が、ヒクソンと戦えば、ヒクソンが勝つような気がする。
宮本武蔵の領域だと思う。
現役時代の選手が、現代の現役として戦っても、シュミレーシンョンしても
勝つだろうと想定がつくのである。
タイソンも現役時代のタイソンが、現在の現役と戦ったら勝つだろう。
その領域が大事なのだろう。
格闘技の神域と呼べる。格闘技の神域までつくり上げることができた者が、
道を作ってもいいだのだろう。
現役のヒクソンが、今現役のヒクソンが現れても勝てるだろうと
思わせる選手が、真のチャンピオンだろう。
現役のチャンピオンに負ける現在に登場するチャンピオンは、時代の流れの中のチャンピオンなのだろう。
宮本武蔵は、何千年後も、チャンピオンであり続けるのである。
今日も、明日も、武蔵は、チャンピオンであり続ける。
ブルース・リーの場合は、フィルムの編集した方が、毎晩徹夜で
暗い部屋で製作し続けた努力の結晶なのかもしれない。いかに、ブルース・リーが
銀幕の中で、ものすごく強くみせるかに全ての汗を投入したからだろう。
汗は、結果をうらぎらない。
ブルース・リーの気迫に負けないようにフィルム編集を気が遠くなるほど、
秒単位で止めては流し、流しては止め、つなげては、ハサミで切り、ノリではりつけ、
寝食を忘れて、作業にとりかかった努力の結果なのだろう。
他のアクション映画は、はやくフィルムを回しているのが、画面からも伝わってくるが、
ブルース・リーの場合、そのような細工がわからないほど、自然に作られている。
その作り方は、現在の編集者でも、編集できないほどの、オーパーツである。 ブルースー・リーはきちんと
ジークンドーを説明できたのだろうか。
それは謎である。ジークンドー・ミステリー・ツアーといえる。
「泳ぎ方」の本があったとして、それをいくら読んでも、
プールに入らなければ、泳ぎ方を理解することはできない。
「自転車の乗り方」の本があっても、
言語で記述すると、やたらにややこしくなり、かえって
わからなくなってしまう。
ブルース・リーがジークンドーの技を言語で説明できないのは、
自転車の乗り方の本を書くようなものなのだろう。
ペダルに足をのせて、力を入れてくださいなんて、
それを技術論的自転車の乗り方、哲学的自転車のこぎ方、
そういうのをジークンドーに求めていると大変なことになると思えてきた。
相手の耳を勢いよく哲学的に技術的につまんで、倒してください。
相手の耳の中は、キーンという音が鳴ります。
動画の中で、相手が倒れ、耳の中がキーンと言って痛いよと
説明されて、動画を見ているこちらは、痛みを推測しながら、是れ、ジークンドーなり。
と思うのである。是れ、自転車の乗り方なり。是れ、泳ぐなり。
みたいな感じなのだろう。ブルース・リーがジークンドーを解析するのむずかしかったのが、
この理論で理解できる。ブルース・リーは、ジークンドーを説明できなかったことこそが、
そこにジークンドーがあったという存在論と化するのだろう。 例えば、北斗神拳ミザール的なものが存在するならば、
世界のジークンドーっていろいろあるんだなって思ってしまった。
ヒロ渡邉や石井は、ストリート・ファイトに特化している型ジークンドーだから、
あのようなファイトスタイルになっているんだなって思った。
世界のジークンドーって、けっこう、キックを使うんだなって思ってしまった。
北斗神拳ミザール的なものが存在するならば、ほぼ、キックは使わない。
使うふりをするだけで、使わないな。
宮本武蔵みたいに、腰に刀があったとしても、それを使わないで、
船をこぐオールを海水にしめらせて、それで戦うように、
刀はあってもなくても、試合に影響はない。
北斗神拳ミザール的なものが存在するならば、ほぼ、キックは使わない。
なぜなら、北斗の拳は、相手の足蹴りより力が強く、向かってくる相手の足を拳でたたき
落とすことができるからである。
つまり、足技に頼るようでは、それは、北斗ではない。
それゆえに、ワンインチパンチの貫通型進化形は、気になる。 強さとは一体何か。その武道の奥義の洞穴を入って行って、
その中心に、岩に奥義が刻まれた剣が刺さっているのだろうか。
岩に刺さっている剣を抜いて、その文字には、何と書いているのだろうか。
格闘技とは、鍛えなくても強い人間が強いのだといえる。
草原のライオンが、あしげりの練習をしているだろうか。
していない。ライオンは、戦うための練習をしたり、師匠について、
技を伝授してもらうこともない。ただ、狩をするだけ。
子供のとき、母親ライオンの後をついて、狩の仕方を教わるだけ。
それも、かみつくだけ。
それしか教わっていないのに、負けなし。
強さを求めて、練習したり、対策を練ったりもしない。ただ、狩をするだけ。
ジークンドーとは、つまり、ブルース・リーのストリート・ファイトに特化した武技とは、
その先には、一文字「狩」なのであろう。
勝負に勝つとか、相手を倒すとかという概念さえも、
狩というカンナで削りとり、狩という一文字だけが、残るのだろう。それが狩=ジークンドーなのだろう。
リングに上がるのではなく、狩をするだけと思考したほうがいいのかもしれない。
強さを追いかけない。ただ、狩をするだけ。
そうすることで、観客のハートも狩するのだろう。 大山倍達によると、一度だけ勝負がつかなかった、
いや、負けたのであるという話がある。
あまり深くおぼえていないのだけど、
相手は、きれいな円を描くのである。
自分のパンチがかすりもせず、当たらないのである。
そして、まいったと思った。唯一、わたしが負けた試合なのである。
円を描いて点で刺す。
これが不思議なのである。あの大山のパンチが相手に当たらない。
それも相手は、敏速に動いてかわしているのではない。
ゆっくりと円を描きながら、どんどんかわしていく。
ヒロ渡邉の場合は、円弧を描きながら、ワンインチパンチを出すと教えていたが、
達人は、円弧を描きながら、相手のパンチをかわすことができる。
謎である。敏速な動きでなくて、パンチをかわすなんて、
どうしたら出来るのだろうか。
それについて、大山は解説していない。
まあ、相撲取りの取り組みで、お互いが、相手のまわしをつかみながら、
くるくる回ることがあるが、あーいう感じの偶然発生した異種格闘技戦となったのだろうか。
そういう戦い方もできるのが、達人なのであろう。
すもうの場合は、押し込まれても、カカトに目がついていると言われているくらい、
俵(たわら)にかかとをつけて、たわらに足がかかってから逆転する試合が多い。
格闘技でも同じであろう。かかとが俵にかかったときに、咄嗟的に逆転勝ちを
納めることができる武芸者がすごいといえる。カラテの試合でも、
あ、もうだめだという俵にかかとがかかった状態で、上空まわしけりが炸裂するみたいにである。
海外のリングは、ロープはあるが、かかとが俵にかかってからの試合運びというのがない。
かかとが俵にかかってからスイッチがかかる。 >>63
素人武術愛好家参加の散打大会で尽く惨敗しないだろ
3動画位みたが全て負けてたし、相手は他の武術やってる人とはいえ一般人だし
逆に対戦相手が胸を押さえてうずくまりアクシデント扱いの無効試合や救急車で運ばれたり、危険技を使用したと反則負け扱いや大会永久追放されたとかなら本物の技術だと思うがな 散打は、最強だと呼び声が高い。
そうだと思う。普通見たら、勝てない。
しかし、シンプルな打撃系に負けてしまうということは、
シンプルな打撃の練習をシンプルに続けている選手のほうが、
強いのかと思う。しかし、そのシンプルの打撃性も、
殴る系に、いとも簡単に、短い時は、数秒で打ちのめされるときがある。
すると殴る系が強いのかとなると、
そのときそのときチャンピオンになった格闘家の術を自分に合わせるので、
勝利した者が、明日の技となり、それを鏡として、イメージをつける。
ヒミコが、神通力に陰りが出たとたんに、人心がはなれていったように、
昨日のチャンピオンからは、人心がはなれていく。
それは絶対の武道の法則のような気がする。水が高い所から低い所に流れるのと
同じなのである。散打の選手が、サッカーチームを組んで強いのかというと、
そうではない。やはりサッカーの練習に特化したチームが強いのである。
中間クラスの戦いでは、散打編成チームが勝つかもしれないが、
極限クラスになると、特化チームが勝利する。
競技が違うと、練習も概念も違ってくる。格闘家は、自分のもつ概念も
最強の敵になる。 格闘技において、試合での勝ち負けは、
あまり気にしない。明日のジョーなんて、ボクシングなんて
したことがなくて、なにか、事を起して、
少年院に入れられてしまう。
まだ、そこではボクシングには出会っていない。
牛の世話の役をまかされ、
なんと、牛の背中に乗り、全部の牛をたたいて、
脱走する牛の群れの中にまぎれ、ジョーは逃げようとする。
その行動が計算できない。
すると、力石が、突進してくる牛の背中に乗っているジョーに
パンチを入れ込む。ジョーはぶっとんで地面に落ちる。
なのに、ジョーは立ち上がってくる。
この想像ができないシチュエーションの連続である。
ジョーは、その自分の心に闘争心と名付けていない。
ただあるがままなのである。
闘争心とも名付けていないその心で、ボクシングを習っていく。
強い人間は、本質的に強いのだと思った。
格闘技においての勝負の闘争心と、リアルな戦いの場の心とは、別物といえるだろう。
別の獣の心ともいえる。相手を敵とみなした場合、すでに負けているといえるのである。 このジョーの同じシーンを
実際に、撮影しようとすると、とんでもなく大変だと
想像する。
一頭の闘牛だけでも大変なのに、その群れの中で、
さらに牛にまたがり、雄叫びを上げながら、ジョーが、刑務所を脱走するところ、
その向かってくる闘牛の群れの前に突然、力石の姿が現れる。
牛に乗っているジョーに近づくだけでも大変なのに、
さらにパンチ一撃。
さらに力石が、ロープで、ジョーの手を背中でくくったら、
ジョーはなにもできない。
瞬間にロープ技を極めるのである。テキサス・ロデオでは、女でも普通に牛の足をロープでくくる。
動画では、ライオンが逃亡して、みんな逃げている中、平気で、
女は、ライオンの足にロープを投げて、紐でくくっていた。そのスピードを競う大会もあるらしい。 卍 ネオナチ・ゼレンスキーによる、ドネツク・ホロコーストを許すな !
≪ヤーレトイマ師教界世≫の警告
Q アメリカは9.11の攻撃にどう反応すべきだったのですか。
A あなた方の政府は大きな間違いを犯しました。
9.11テロ攻撃への対処において恐ろしい間違いを犯しました。
これらの西側権力と西側支配の象徴に対する攻撃は、
悪意から起こったのではありません。
世界の先進国のすべては、
好きなだけ侵略して分け前を取り、特定の国からすべてを奪い、
それから他の国に移るというようなことをしてきました。
彼らは世界を荒廃させました。
西側諸国が世界資源を搾取してきたのです。
それが世界貿易センターとペンタゴンへの攻撃を起こしたのです。
この国や他の国に対するテロ攻撃もそこから起こるのです。
【マヰト┗ーヤ】 米軍基地に遊びに行くポチは反社
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/army/1577174201/l50 グリーン・ホーネットに出ている頃のブルース・リーは、
攻撃を3回ぐらいで、相手を倒している。
3回くらいの攻撃で、相手は倒れてしまうほど、威力があったという
ことなのだろう。
作品が作られていくほど、ブルース・リーの攻防の時間が
長くなっていく。
カンフーとは、初期の頃は、3回くらいパンチをもうらうだけで、
倒れていた。グリーン・ホーネットの頃は、
ブルース・リーの頭の中は、速く倒せという言葉で一杯なのだろう。 動画で見たのだが、
武術は、拳銃と対抗できるのか。
ある武術家は、目の前に拳銃をつきつけられた一瞬に、
その拳銃の引き金に、自分の指を入れ、
逆に、その銃口を相手に向けさせた。
拳銃をカラテ・チョップで叩き落とすのでなくて、
その引き金に、自分の指を入れるのである。
達人なら、簡単な動きなのだろう。
ジークンドーの目に指を入れる作業を、そのまま、引き金に自分の
指を差し込むだけなのだから。 >>77
引き金より銃口に指を入れて塞げば銃が破裂するよ
試してみて 速いとは一体どういうことを言うのか。
言えるのは、メッシだろうな。国の至宝をいわれているメッシだろう。
あのゴール前で、何人抜いて、シュートをしているのか。
あれだけ囲まれているのに、ボールを足で回しながら、あっち向いて、
こっち向いて、キーパーの足元を抜く。
あれをジークンドーであの動きをしたら、
速いといえる。
ここでようやっと、速いという言葉が出てくるのである。
メッシほどの動きを点から点に幾何学的に移動しながら、
空気銃のようなワンインチパンチを、多勢に撃ち続ける。
一人に対して速くては、サッカーでは、割ることができず、
ワールドカップに出場することも危ぶまれるだろう。
石井は、相手を見ないで寄けれると、ジークンドー、今日の決めポーズをしているけど、
サッカーでは、相手選手も、こっちの選手も全方位の動きを確認せずに見ているのが、
司令塔なのである。
まあ、サッカーの場合、手の動きや、足が顔に飛んでくる確認はいらないけれど。
おおまかな全体の動作の確認は、見ないでもしっかりとできている。 >>70
普通の神経を持ってたら
そんな危険な技は実際に出来たとしても
人相手には使わないし
試合で使うという事もないだろ
君だったら使うの?
そんな人には試合に出て欲しくないな
試合というものは
お互いに安全に技を試し合う競技であって
相手を傷つけあう競争ではないんだよ?
その為のルールと審判なのだから >>80
もろな負け惜しみだろ
危険技使わなくても勝つか善戦するわ
しかも敵の打撃貰いまくりで危険技使う以前に基本的な防御テクニックを駆使した護身が出来てないだろーが 忍者の映画の中で、忍者が、普通に相手を殴るような格闘術を
使っていると、それは違うとなると思う。
映画の中では、忍者は、古武道を使ってこそ、忍者映画となる。
それを海外の格闘家は見て、練習をする。
古武道を見て、新しい発見をする。
そして、忍者映画の役をやっている人は、家で、外国の格闘技の試合を見て、
あのような新しい技を道場でマネをする。
そして映画の撮影では、古武術をする。その忍者映画を見た海外の選手が、
それからインスピレーションを受ける。
つまり個人個人がインスピレーションの受け方が、技となるといえる。
ジークンドーはブルース・リーがインスピレーションを受けた技を、教科書にしている。
ところが、ジークンドーを学んだ生徒が、自分が後日インスピレーションを受けた技を、
ジークンドーに追加するために、
技の混乱が発生しているような気がする。自分のインスピレーションをいかにも、
ブルース・リーがストリート・ファイトの中でインスピレーションを受けたように
説明するので、インスピレーションの本源がわからなくなってしまっている。
そして、弟子のインスピレーションは完全に道場で否定する。
大否定と大肯定のひずみの中で、ブルース・リーのジークンドーは、鼓動を打っているのだろう。
大否定と大肯定のひずみの中で、パワーが出るのだろう。 今回は、長引いているが、本当は、1日で終了、遅くても2、3日だろうと
計画上はそうなっていたらしい。200人の最精鋭部隊が、突入後、空港を囲めば、すみやかに戦争は
終る予定だったらしい。後は戦車で玄関に入り、窓からは白旗をふっている人間を見るてはずだったらしい。
空港を最精鋭特殊の200人を突入させたところ、
空港で待機していた最精鋭特殊の人間が、待ち構えていてすべて絶命させ、
計算が狂い、長引いてしまったらしい。
それもただの腕のある者ではなく、選りに選った猛者が、空港の門をくぐった途端に、
200人全員、誰一人、基地にもどって来るものはいなかった。
これは本当なのか。
ライジン200名が、会場に攻め込んだ途端に、全員、KO状態って想像できん。
ブレーキングダウンの猛者200名が、「行くぞ!ゴー・ゴー・ゴー」と言って、柵を乗り越えた途端に、
全員、地面に倒れてしまっている状況は、想像できない。
ジークンドーは、ここまでストリート・ファイトの実戦でも絶えれるのだろうか。
わからない。空港で待機していた部隊は、ワンインチパンチを身につけていたのか。 >>84
ディフェンステクニックは駆使して当たり前だろーが、目突きやのど潰し、金的なんか反則当たり前だからやるわけない ブルースー・リーが第一番目に、
「ジークンドーの実際」
@攻撃と防御における、無駄のない、タイトな構造
(攻撃:生き生きとした仕かけ/防御:ねばりのある手)を上げている。
ジークンドー、その一に上げている。ジークンドーとは、無駄のないタイトな構造を持つとブルース・リーは述べている。
<無駄のないタイトな構造>この一行だけで、ブルース・リーがマーシャル・アーツ界に君臨していることがわかる。
死亡遊戯に登場する五重塔みたいに、地震が来ても、微動だにしない、見事なタイトな構造を、自分の身体に持てということだろう。
木の心をつかまなければ、五重塔は作れない。木を見て、その木がどういう動きをするのか、横にふれる(反る)のか、縦にふれるのかを
見分けて組み立てをしなくては、ならない。いったん木が反り始めたら、木材はものすごい力を出す。木が本来もっている力は、あなどりがたい。
そんな木の力が互いにうまく協調し合うように木材を組んでいく。木の心つかまない人間は、部材をこちらの勝手で使う。
無駄のないタイトな構造とは、このような意味だろう。攻撃とは、生き生きとした仕かけ。攻撃とは、攻撃でないとブルース・リーは、読者に語っている。
攻撃の神髄は、生き生きとした仕かけでなければ、ジークンドーの攻撃でないと言っている。これはブルース・リーの映画のシリーズ全般に貫かれているジークンドーの思考だろう。
攻撃とは、仕かけである。それも生き生きとして仕かけなければならない。陰陽の陽の気で、仕かけろという意味だろう。防御は<ねばりのある手>。
これはどういうことかというと、相手のパンチを防御するとき、相手のパンチを自分の腕ではね飛ばすのではなくて、避けるのではなく、相手の腕の本体に、ねばりつくようなはね返しを
しろという意味だろう。合気道や、少林寺の攻防がそのような感じである。相手の腕にねばりつくように、相手の力の支点を変動させる。しかし、相手は気がつかない。
出したパンチを元にもどすが、その戻すパンチの力に、納豆のねばりがひっついていくような力の変化を接着剤のようにマイナスの力(陰力)をつけていくような感じなのだろう。 テレビでも、あっちこっちで石井が取り上げられるようになって、
タレントとして、どこかの芸能プロダクションに入ったほうがいいと思う。
それと並行して、ジークンドーのトレーニングも、
一日30分ほどしなければならないので、大変だなと思う。
格闘技は、一日休めば、普通の人と言われるくらい鍛錬が必要だから。
達人は、そう言っていた。
ブルース・リーは、そんな厳しいことは生徒には言っていない。
大山倍達は、「カラテは、一日休んだら普通の人だよ。三日休んだら...」
とても厳しいと思う。とにかく海の中で、あしけりや突きの練習を波に向かって打ち、
冬は、滝に向かってあしけりや突きの威力をたしかめる。
練習後は、香取大明神と鹿島大明神にあいさつをしなければならない。
カラテとマーシャル・アーツの違いは、ここにあるのかもしれない。
タイソンと対戦した伝説のボクサーは、戦うことを見て、神が喜んでくれると信じているといっていた。
戦いを神に捧げるストイックな闘心をもっていた。
だからこそ、試合を見にきた観客が、その神々しい戦いを、心の中で伝説化していったのだろう。
ローマの古代競技場での戦いは、ブルース・リーを、この神々しい戦いの境地であるマーシャル・アーツのプレイヤー
としての究極ステージに魅せた。 「ツァラトゥストラはこう言った」
この中で、
認識の森から、この狩猟者は暗い顔をして帰ってきた。
野獣どもとの闘争から、かれは帰ってきた。
しかしかれの厳粛さからは、いまだに一匹の野獣が目を光らせている。
克服されなかった野獣が。
ツァラトゥストラのするどい目が向かっている野獣こそが、
ブルース・リーのジークンドーの森の中に潜んでいるのだろう。
ジークンドーには、ブルース・リーが、克服できなかった野獣という技があるのだろう。
いや、その克服できなかった野獣を狩猟できたのが、ジークンドー大系なのだろうか。 源氏皇流 八咫烏兵法て
源氏皇流 八咫烏兵法ってwww
折角、弟子の石井東吾先生&平良さんがオカルト排除で頑張ってたのに源氏皇流八咫烏兵法(爆笑)かー
高弟の必死の苦労をド馬鹿キ●ガイ師匠が全て水の泡にする黄金パターンですわ
昭和脳から見ると極真会館の顛末を彷彿させるね!(韓国民潭幹部との癒着・利権騒動、大山倍達による不正横領)
ヒロ渡邊みたいなこういう害虫が一刻も早く格闘技武術武道界から駆逐されますように 認識の森というのか、ジークンドーの森の中を、
克服されなかった野獣の足あとを追いかける。
それが、八咫烏流ジークンドーだったのか。
ヒロ渡邊は、なにか、ジークンドーの映画の逆のパターンのヒーロー化している
ような気がしてきた。
ジークンドーで、要塞化された無人島で、
世界中のマーシャル・アーツを集めて、大会をおこなう、
反ジークンドーみたいだな。
映画を逆に見ている感じがしてきた。ジークンドーの陽にライトを浴びせるのが、
ジークンドー・ラスト・マスター、ヒロ渡邊だと思っていた。
大会の主催者ミスター・ハンみたいになってきたな。
ミスター・ハンの反ジークンドーの継承者みたいだな。
八咫烏は、イギリスのマン島の市章とつながりあるらしい。
足が三本で、同じように烏がシンボルなのである。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8a/Coat_of_arms_of_the_Isle_of_Man.svg/330px-Coat_of_arms_of_the_Isle_of_Man.svg.png
三本の脚は、三素量をあらわし、宇宙法理の理を封じ込めているのだろう。
三素量の理論によって、時空間の働きを尋ね探ることができるということを、
太古の人々は、直感的に把握していたのであろう。 菊野克紀さんにすごい投げ技を学んでしまった - YouTube
https://youtu.be/dVWn1rHLrXk?t=701
これ過去のヤッチくん(矢地 祐介)チャンネルの動画だけど
この時、カメラマンのカンベが「矢地 ”も” そっちの世界に」って賑やかしで言ってて、
アシのデニス行雄(心霊チャンネル運営)はほぼYoutube労災で腰痛めて入院中なのに
本人居ないとこできつめのイジリしてんなーとカンベに対し冷ややかな気持ちを持ったんだけど
実は「親友でもある矢地をめっちゃ心配しててその上での忠告」だったんだな
そっちの世界の住人は行雄さん(心霊チャンネル運営)だけじゃなく、
ヒロ渡邊@ジークンドー御一行様(現:ムー大陸の源氏皇流 八咫烏兵法)まで
そっちの世界にどっぷり首まで浸かってるカルト宗教の信徒だったとか…
これヘタしたら坂口拓&石井東吾の映画「1%er」の興行にまで直接大ダメージ行くぞ? 佐々木小次郎と武蔵の戦い。
佐々木も無敗で、武蔵も戦において無敗で、無敗同士の戦いだったのだろう。
目的物をみないで、相手を倒す方法は、両者が、達人の領域まで、
押し上げていたと推測できる。
相手を見て倒すのは、道場の玄関の前に立っているようなものだと
考えていただろう。
佐々木のツバメ返しは、あの高速でターンするツバメを倒すのだから、
まさに、本体を見ていては、剣がその変転速度に追いつかないだろう。
武蔵は、はしで、飛んでいる虫をはさんだというエピソードもある。
両者は、物体を見ないで、倒すことは、余裕であったと考えられる。
佐々木の剣さばきのスピードなら、つばめより遅い武蔵の動きは、完全に見きることが
可能であろう。100に1回も失敗しないツバメ返しを武蔵は、一回の太刀の
動きがミスしたら、終わりなのである。
つまり、武蔵は、動態を見ないで攻撃する攻撃をさらに、
動態を見ないであろう攻撃をよける防御をさらに防御化を身につけていたのだろう。
動態を見ない佐々木小次郎の攻撃をさそう防御を身に備えてていたのだろう。
相手の百連打を、ケンシロウが、百連打で連続でかわす速度のように。
ピアノを楽譜をみないで、鍵盤をたたくように、ケンシロウは、1連、2連、3連を
見きったのではなくて、100連を100連みきったレベルの武蔵のみきりなんだろう。
最大の攻撃が、最大の防御なり。最大の防御が、マックスの攻撃なり。
最小の攻撃が、最大の防御なり、最小の防御が、マックスの攻撃なり。
最小の攻撃が、最小の防御なり。最小の防御が、ミニマム・マックスの攻撃なり。
最小のジークンドーが、最小のジークンドーなり。是、ブルース・リーなり可... 鏡の壁に囲まれている部屋で、
ブルース・リーとミスター・ハンは戦う。
鏡に映っている相手の姿を見て、攻撃をする。
そして、鏡に映っている無限に重なる自分の姿にも気にしなければならない。
その状況の最中で、ジークンドーを使うのである。
いや、ブルース・リーは使うことができるのである。
ミスター・ハンは、その状況にブルース・リーを誘い込み、
追い詰めていく。
この攻防は、実際に、ブルース・リーは、ミラーの五重塔の中で、
自由自在にジークンドーをあやつることが可能だったのだろう。
これは、相手の動態を見ないでジークンドーを操作するより、
さらに、上の静態を見ないでおこなうジークンドー領域と呼ぶのだろうか。
ブルース・リーは、非動態・非静態式ジークンドーをマスターしていたのだろうか。 矢地が、ワンインチパンチをだしたら、
それを見ていた石井東吾が、「とおっているよ」ってほめていて驚いた。
最初の矢地のワンインチパンチを見ていたので、
石井がほめているワンインチパンチだから「とおっている」と
動画を見て、そう思ってしまう。
石井は「とおっていない」「とおっている」と二語で語るので、
多分、生徒は石井の「とおっている」という言葉が欲しくて、練習をしているのだと思う。
なにか矢地が通っていると言われて、ベルトをもらうよりうれしそうにしていた。
ミットでかまえている平良も「音が違うよ」って言っていた。
音速による音波が違うのだろう。
平良が指導者になったら、生徒全員に音波流ジークンドーを教え、ジークンドー音波流派の創始者になって、
新しい流派を作っていきそうだ。
石井とおっている流派と平良式音波ジークンドーの生徒同士の戦いが起こりそうだ。 日本で一番古い武術とか
言っちゃうのにはちょっと・・・ 八咫烏流とは、裏神道系の流派なのかもしれない。
神道を「表神道」とすれば、八咫烏流はいわば「裏神道」系ということになるのだろう。
表神道、つまり一般神社の責任者が宮司なのに対して、
裏神道の責任者は宮司ではない。神職でありながら、神職にあらず。
ひとつの神社に常駐しているわけでも、神社本庁に属しているわけでもない。
密命を帯びて、いわば天と地を飛び交(か)う烏(カラス)のように、
全国を自由に行き来する存在なのかもしれない。
裏神道の継承者と会談する場合、それは通常の会話ではない。
ほとんど問答である。端から見ると、それは禅問答に近い。が、かといって、
質問と回答が交互に繰り返されるというものではない。
ある意味、一方的な質問であり、相対する者は逐一、即座かつ的確に答えなければ
ならない。 少しでも油断すれば、一気に裏神道の継承者のペースに巻き込まれ、
答えがどこにあるのかわからなくされてしまう。問答とはいえ、
それは言葉と言葉の真剣勝負。知識の底を見切られたら最後、
徹底的に迷宮へ落とされ、真理がどこにあるのか、まったくわからない状態にされる。
その知識を試され、最後の最後で心の奥底を見切られ、惨敗。
これが武術の試合ならリベンジ、再試合もあろうものの、この世界はそうではない。
もう二度と真理に近づくことを許されず、そのため両目と両耳を潰(つぶ)され、
手足を切られた。さすがに、戦後はこうした行為はなくなったというものの、
裏神道への接触はすべて断ち切られる。
八咫烏流派が、裏神道系なら、ジークンドーと違って厳しいかもしれない。
ブルース・リーのジークンドーは、陰陽の世界観だから、裏表観はないマーシャル・アーツである。 ヒクソンの柔術は、特に不思議な型であると思う。
小刻みな前蹴り。大蹴りはない。
なにか、距離を取るような感じに、ケリを前に出す。
あのけりは、柔道にはない。カラテにもあまり見ない。
ジークンドーでは、前に出る足に対し、押さえる感じで足をだし、
相手の動きにブレーキをかける感じであると説明していた。
ヒクソンの場合は、タップダンスみたいなけりである。
相手をけって、確かめるような感じである。あくまで、相手を横に
倒して、腕で極めるというスタイルである。矢が胸から斜めに突き刺さっているような、
力を外に向けるのではなく、内に向ける力が強い、引きずり込む力がヒクソンの場合は
強いのだろう。だから、ケリも外側に向けての力を出そうとしない。
ヒクソンは、引きずり込む力のベクトルを利用している。
柔道も、相手の上着をつかんで、内に引きずり込もうとする腕の力がある。
ボクサーは、逆で、グローブをつけているので、内に引きずり込む力を発揮できない。
常に、前に出す力である。ジークンドーには、相手の服をつかんで、
内側に引きずり込む力の作用の技がないような気がする。
逆に、ヒクソンには、ワンインチパンチのような気を前に出すような技はない。
プラスの力のパンチとマイナスに向かう引きずり込む技は、プラスマイナスゼロとなるので、
練習はしないほうが、筋肉のためになるのだろう。ある意味で、ヒクソンのキックは、
マイナス型ワンインチキックなのだろう。 ワンインチパンチのとき、「力をぬけ」と言うが、
これは、左脳の意識を止めて、右脳の意識で、パンチをふりぬけという
意味ではないかと思う。
左脳の意識を止めることを学び、右脳の意識の使い方を学べば、
誰でも楽にワンインチパンチが可能となるのかもしれない。
徹底的に左脳の意識のはたらきを止(留)め、
右脳の意識レベルに入って、右脳の意識が使えるように、右脳の意識を引き出し、
右脳意識が発するパンチを出せばワンインチパンチとなるのだろう。
石井が「ぬけてる」と言うときは、左脳意識が完全にからっぽで、
右脳意識が完全な状態で打ったときのことだろう。
そういう感じがしてきた。ブルース・リーが「ヒューヒュー」と動物の鳴き声を
口先で鳴らすとき、それは、左脳が閉じて、右脳という本能が、おでこに出現してきているからだろう。
そして、手で導き寄せるときは、逆で、完全に右脳が閉じて、左脳完全爆発覚醒状態のパンチなんだろう。
これはワンインチパンチと呼ばす、ストレート・イレヴン・パンチ。10.1パンチ(じゅってんわん)と呼ぶのだろう。 力をぬくということは、
右脳全開型ジークンドーなのかもしれない。
左脳の意識にはヒーリング力はない。けれでも右脳意識に導くと、
人間は自分の体の細胞の一つひとつ、血液の一滴にまで
コントロール力を発揮するようになる。右脳理論よると。
左脳意識は気をコントロールしませんが、右脳意識は気を自由にコントロール
する力をもっている。
人間は右脳意識の深いレベルに入ると、いろいろな形で自由に使いことなすことができる。
波動で情報を得たり物体に影響力を与えたりする。
魚を釣る人は、幻の魚を釣り上げるイメージをつくる。
イメージにはイメージしたとおりになる原理が働く。
右脳でワンインチパンチを撃てるというイメージを描くことが、力をぬくことなのだろう。
力を入れようとすると、左脳がはたらいて、左脳によるワンインチパンチになるから、
力が、ボディを突き抜けないのだろうか。 ジャッキー・チェン型カンフーでは、腰を落としてのカンフー技があるが、
ブルース・リーの場合、腰を落としての攻撃系はないような感じがする。
腰を落とさないで、攻撃技を使っている感じがする。
なぜそうなるのか、同時に両足を移動させ、その移動させながら、前足をさらに前に出しながら、
肩を斜めにしながら、左で手刀、右で拳みたいに、
すべての動作が同時進行かつ、つながっていくのである。
足といい、手といい、直線、直線、最短距離、最短距離、最小除け、最小除けと、
動きが自分の身体から10センチ範囲で動いている感じなので、腰を落としての技がないのかもしれない。
ある意味で、体全体が腰状態で、ジークンドーの技を繰り出している感じである。
距離をつけて、力をつけるのではなく、小さな動きを定規で計るように、攻撃パターンを組み合している
感じなのである。ブルース・リーの攻撃の動きは、全て三角定規で、線を引くことが可能な気がしてきた。
そうすると、矢地のレッスンを見ていると、矢地のレッスンを、
三角定規を当てると、点と点が重ならない気がしてきた。
ブルース・リーは、見てるだけで、勉強になるが、矢地の場合、もう少し、
三角定規型ジークンドーを使ったほうがいいと思うな。相手の腰をつかんで、
こかして、上からこぶしを落とすレッスンより。 世界のデザイン、麦、金輪、緑輪。清和天皇〜貞純親王〜源経基〜源満季〜林田氏(wikiより。南朝廷、九州。都内在住)。明治天皇(金帝、聖帝、現人神)撮影〜内田九一没後100(TENO)年誕生日。林(Hayashi,Rin,Green(道具の林、緑))田(Ta,Da,Den,GoldDem(黄金のDEN))。祖父・父・天皇、母・将軍家の姫。宮将軍・皇族将軍。
古代に世界帝国を作った世界王者、世界に文明を授けた、報道タブーの、国民に紛れ、民間に在野している、日本の本当の国王、王の中の王、世界の王、公表されていない預けられた資産10兆円越えと言われている、天使・天子よりも偉大な存在、太陽神・日の神・天神・戦神アラーの血筋、
人であり執事・代行者である天皇陛下(His Majesty the Emperor)・陛下(Majesty、執事、代理人、代行者)ではないカミである天皇(emperor of Japan)、日本に居るホスト(主人)、
皇族(ImperialFamily)の天(TEN)、世界の中心、天の木で天気、天公で天候、世界の帝(MIKADO)、世界の玉(髪に勾玉、玉、球が出来る)、69(ロック、髪に69が出来る。太極)、8、∞、在野に居る球で野球、御上(おかみ)、聖体、朕、神体、主体、現人神、神号(髪質等から皇大神か天神か六孫王大権現)、島主、元祖、総本家、オリジナル、大和民族の世襲制の大王、五輪の輪、白黒オレンジ黄金緑ブラウン、建物のデザイン十X○△ロ、サンタクロースの帽子、ミッキーマウスの耳、髪型髪色を真似されている、天然ボーダー、ドレッド、ツイスト、ドリル、リング、らせん、ツートンカラー、パーフェクトヒューマン、世界に子を増やすように要望されてる、世界人類の頂点の血筋であり、
イスラム教、キリスト教、仏教、ヒンズゥー教、道教、儒教、神道、ロシア正教、等々それぞれで神格化され神聖な存在とされている、林田(内田)です。
https://blog.goo.ne.jp/sho_gun_3
https://www.instagram.com/shogun_yoshimitsu/
https://twitter.com/4YoGun/status/1475235722571710466
https://www.youtube.com/channel/UCxB4F5wNFIV6M1RtSS50cnA/about
簡潔に言えば、天皇家・世界の武を担当する林田です。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 天皇家の「武」(運動)を担当するのが俺・林田の一族だそうで、一応「智」(文化)の知識も少し持ち合わせ「文武両道」になってるそうだ。鉄拳3で世界王者になり各国の代表に負けなしで連勝し、システマインストラクターの打撃や崩しが通用しなかったのは当然
昔の写真で白マスクに見える口元を隠した画像ではない画像があったのでUPしておく。俺は武術の達人を自称した事は一度もないのだけど、俺の5段階のシステマストライクの3段階目までで逃げたSWからしたら達人級に思えたのかも知れない。SWが怯えた顔つきをしてて俺は余裕のある表情。2009年頃?の写真。
https://twitter.com/4YoGun/status/1500881509204754432
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 修斗と言えば、#佐山聡 って天皇である俺が幼少期にタイガーマスクが好きだったので、日本拳法出身でキックボクシングをしていた猪狩元秀とも繋がりがある俺の父親が、佐山聡の師匠である元極真会館最高師範黒崎健時に頼んで後楽園ホールの地下で合わせてもらった事があるがマスクを脱いでいて驚いた
https://twitter.com/4YoGun/status/1508611439552241666
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 俺が過去に「最強」「神そのもの」とも言われていたが、それ以上に誹謗中傷の数が多かった、旧2chの武道板は現在でも変な人が酷い事を書いているね。
https://twitter.com/4YoGun/status/1508456070590898178
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ヒロ渡邊は、右脳的ジークンドーを使っているのだろう。
上級右脳法では、何の中でも入り込むことができる。
相手の体の中に入って、破壊したり、相手の身体を治癒させたりすることができる。
ワンインチパンチを発射したときに、力を浸透させると
同時に、ミクロになった自分自身の化身を、相手の内部に入れて、内部からの破壊をしたり、
三ヶ月後、破壊する破壊時計をセットしたりしているのかもしれない。
上級右脳法を使えば、そのような上級ジークンドーを扱うことも可能化してくるのだろうか。
マーシャル・アーツのマスターが、山の洞穴で瞑想の特殊修行をおこなうのは、
左脳を眠らせ、右脳を活性化させ、右脳的武術の特訓をしているのかもしれない。 「あいつらが全部悪い」「あいつらが悪い」という連絡が昔からくるが。恐らく操ってポルノビデオをやらせたり女を抱かせたりしてる人達だと思われ、神格である天皇の俺をも操ろうとしている人達であるだろうが、CIA、FSB、GRU、中華人民共和国国家安全部などに再度依頼するが、逮捕、殺害対象である。
https://twitter.com/4YoGun/status/1508994545849348096
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) アダルトビデオに出演
性行為に及ぶことを「有害業務」
仕事を紹介する行為は「有害業務の紹介」として禁止
スカウトマン逮捕 性風俗
プライムエージェンシー社長・小山要容疑者(50)
豊島大雅容疑者(33)小山浩容疑者(44)
吉本英一朗容疑者(29)那須正也容疑者(39)
https://twitter.com/4YoGun/status/1490291693450858497
蒼井そら発掘 数万人をAV女優にして逮捕された大手プロ社長の「目利きと商魂」
「これまで数万人の女性を紹介した。最初は金銭目的だったが、女性を有名にしたいと考えるようになった」
調べに対し、AVプロ社長はこう供述しているという。
女性をAVメーカーに紹介したとして、東京都渋谷区の大手AVプロダクション「プライムエージェンシー」代表の小山要(50)と、実弟で取締役の浩(44)の両容疑者、他3人の社員が18日、警視庁生活安全特別捜査隊に職業安定法違反(有害業務の紹介)で逮捕された。
2020年9月〜21年6月にかけ、新宿区歌舞伎町の路上でスカウトした20代の女性2人を都内のAVメーカー5社に違法に紹介し、AVに出演させた疑い。
https://news.yahoo.co.jp/articles/02dae0c349aa0a9ea3750c50e4442e4aa132440c
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 天皇家の「武」(運動)を担当するのが俺・林田の一族だそうで、一応「智」(文化)の知識も少し持ち合わせ「文武両道」になってるそうだ。鉄拳3で世界王者になり各国の代表に負けなしで連勝し、システマインストラクターの打撃や崩しが通用しなかったのは当然だそうだ。
システマインストラクターは多く居るので一応書くと。2006年頃に習いに行った時に、スコット・インストラクターが俺を投げようとしたのだが俺が柔らかくバランスを保ち続けてしまい投げれず、2009年頃に北川インストラクターが2回足をかけて肩を崩しバランスを崩そうとしたが崩れかけたのを回復し失敗
それは2009年11月頃の話だが。2009年5月頃はアンドリュウ・セファイ(アンディ)インストラクターが、練習中の私の組に割って入り話の途中でいきなりボディに大きな音がした不意打ちストライクを入れてきたが1秒も立たずに回復して失敗。背中を向けた状態からの不意打ち裏拳が顔にクリーンヒットして、
それは首と頭が曲がるぐらいの大ダメージを俺に与えたのだが、その時は倒れることも無く、一瞬意識は飛んだ気がするが倒す事は出来なかったという事があるが、システマの源流のコサック武術OXやジプシー武術や太極拳69が天皇家の林田武術O+(源氏武術)の派生なので当然な結果だと言えよう。
私個人の感想としては、アンディインストラクターは「大丈夫?」と聞いて近づいてきたが俺のダメージの頻度もわかってなさそうで、大怪我するような事をするので日本でのインストラクターとしての資質を問われるのではないか?スコットはいい人そう。北川は気をつけてインストラクターをしていると思う
https://twitter.com/4YoGun/status/1508695664401993729
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 胡錦濤(こ・きんとう)政権時代の中国最高指導部(共産党政治局常務委員会)の元メンバーで、汚職の疑いで調べを受けているとされる周永康(しゅう・えいこう)氏(71)について、ロイター通信は3月30日、
本人に加えて親族や部下ら300人以上がこれまでに拘束され、差し押さえられた資産は総計で900億元(約1兆4900億円)以上に上ると報じた。
一部の部下らの逮捕・起訴については昨年来、中国国営メディアでも報じられており、捜査の手が“本丸”である周氏にまで延びるか注目されていた。
ロイターは「中国建国以来最大のスキャンダル」と伝えており、事件の余波で中国は大混乱に陥る可能性もある。
https://www.sankeibiz.jp/express/news/140331/exd1403310008000-n1.htm 中国指導部は、日本に居る神を怒らせた馬鹿な中国人が居る事を知っているぞ。 689 名無しさん@一本勝ち sage 2022/03/30(水) 00:12:10.31 ID:cleNYU8Z0
稲川と白川先生のナイフ(短刀)対決は、
最初に稲川が踏み込んだ瞬間に、
カウンターで白川のナイフで腕切られててワラタw
ナイフ素人の白川にあっさり切られた、ナイフの達人稲川(笑)
さすが、ザクザク坂口の師匠だけあるなww
690 名無しさん@一本勝ち sage 2022/03/30(水) 07:24:47.22 ID:HfWfZ1780
どこのスレにもこういう馬鹿ってやっぱいるんだな ナイフをあんなに手品師みたいに回転させ続けていたら、
スタミナがきれる。術において、スタミナは、武器の一部だと
考えられる。スタミナを放棄することは、武器を
放棄するのと同じであろう。手の動きをとめたらいいかといえば、
動きをとめたら、あの身体反射では、スキの固まり化となる。
ナイフの速さと、個人の速さが同機同速でない。
植芝の言葉である。
空の気は重い力を持っております。また本体は物の気で働きます。
身の軽さ、早業は真空の気を持ってせねばなりません。
空の気は引力を与える縄であります。自由はこの重い空の気を
解脱せねばなりません。これを解脱して真空の気に結べば技が出ます。
清らかなれば、真空の気がいちはやく五体の細胞より入って五臓六腑に
喰い入り、光と愛と想になって、技と力を生み、光る合気は己れの
力や技の生み出しではなく、宇宙の結びの生み出しであります。
技と光を結ぶことに力を入れなければなりません。その結びは中心がなければなりません。
中心があるから動きが行われるのであります。この中心は腹であります。
腹がガッチリしていれば、心は正勝(まさかつ)、吾勝(あがつ)に精進できます。
練磨精進するときは宇宙と気結びができ、いかほどでも無限に技が出るようなものです。
植芝は、無限に技が出ると語っています。
その植芝の無限に出てくる技の教科書に登場していなかった技が、ジークンドーのワンインチパンチなのかもしれない。
ナイフ術も、植芝宇宙と気結びができれば、いかほどでも無限に技が出るようなものであろう。 石井のワンインチパンチを見てから、いろいろ石井のジークンドーの
エッセンスを聞いていたら、
自分の趣向としては、なんとなく、初期のブルース・リーの
グリーン・ホーネットの頃のジークンドーをマネしたくなってくる。
ブルース・リーの後期型ジークンドーより、
ホーネットの頃のジークンドーのほうが、一番かなって現在のところそう思っている。
アクション・シーンは、全体のストーリーの中で数十秒くらいなんだけど、
石井やヒロ渡邊が動画で言っている基本そのものを、
ホーネットでしていることがわかってきた。
足で相手の顔をとらえている姿が、まさにテキスト通りの形なのである。
ホーネットでのカンフーの動きが、そのままジークンドー入門的教科書に
なっていると思う。自分は、初期型ジークンドーと同じカタチができたら、
満足っていう感じだな。全部、キックもパンチも全部寸止めなんだけど、
ピタッと止めているところ、そして、その位置が、つねに教科書的位置であることに驚く。
アクション的にみていたら、普通なんだけど、その位置を見ると、まさに教科書の鏡を
見ているみたいだ。陰陽のまんなかをついている感じだ。
さらに陰陽のマークのたて線がS字のようになっているが、この一本のSラインも極意を
示しているのだろう。S字線上のラインを五次元ラインとなる。
このS字線上五次元ラインが、ジークンドー最奥儀なのだろう。
陰と陽がせめぎあうS字一本ライン上は、究極龍の線を指すのだろう。 この人、俺の敵のグループの人らしい。
>29歳の男が逮捕されました。
無職の依田一樹容疑者は今月20日、墨田区の公園で男子中学生3人に因縁をつけ、顔に膝蹴りするなどした上、「正座しろ」などと脅し、現金7400円を奪った疑いが持たれています。
https://youtu.be/DFhzrRZdMi4
天皇である俺・林田を停滞させつつ、天皇の権利を悪用し、自分らで利益を得ている人々の一人だそうだ。パチモノ、偽者、まがい物。昔から居るそうだ。
https://twitter.com/4YoGun/status/1509140608325406726
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 普通は、腹に膝蹴りだと思う。それが、顔に膝蹴りだろ。半分、本気だと思う。
顔に膝蹴りの次は、どこの膝蹴りが入るか。その次は、どこに膝蹴り。
ストレート・キックでなく、足を曲げてのけりだから、
ある程度、こうなるよっていう意味のヒザ入れだけど、
顔にするということは、ある意味で、
東西の文明の衝突くらいの意味があると思う。
気分がわるいとかでなくて、お互いの観念の違いからくるものでなく、
東の文明と西の文明同士が衝突した次元だと思う。
相手グループを倒しにかかってきているのでなくて、
相手グループの文明を倒しにきているかんじである。
質問しない記者は記者の仕事をしていないといわれる。
なんでもいいから記者は質問しなければならない。
人間にとってはつまらない質問でも、多様性を認める社会では、
人間にとってはきわめて重要な質問に変わるかもしれない。
新聞記者には、読者と国民のために聞く権利がある。
相手は、質問に答える義務がある。
なぜわれわれのグループは、この公園で文明の衝突をしたのか、
あなたのグループは、質問に答える義務があると、
ケンカの前に「義務の共通認識」を築いたほうがいいと思う。
義務もなければ質問もない。そこに力の大真空ができて、文明の衝突が発生する。
大真空ができたエリアに闘争が起こるのが人間である。
逆に、相手を倒したかったら、お互いの間に大真空を大きく作ることである。 854 名無しさん@一本勝ち sage 2022/03/28(月) 00:57:04.98 ID:tcP2rLhF0
https://youtu.be/3DiaVdlJ3L8 特殊部隊の武術はすごいなと思う。
特殊化されている。動画に上げられている国家では、
「舌は頭の知らないことを、たくさんしゃべる」という諺がある。
技も同じだと考える。
技は頭の知らないことを、たくさん技を出す。
とも考えられる。
舌のように技がしゃべるような多様な技。
技は頭の知っていることだけを、技としてしっかりと出す。
ジャッキー・チェンのように、しゃべりすぎる技もある意味でいいと思う。
国は、サーカスとパンを与えるだけでよい。
そうすると、MMAはサーカスでなければならない。
サーカスならば、頭の知らないことをたくさんしゃべる技のほうがいいと思う。
頭の中で知っている技があるが、それを大事な場面で技がしゃべらない。
これも、こまることである。大事な試合でもしゃべれるように、
常日頃の練習で、技をしゃべらさなければならない。
特殊部隊の特訓をみたら、武蔵ならば、「舌は頭の知らないことを、たくさんしゃべる」と
つぶやくだろう。ワンインチパンチは「透っている」という感じでしゃべらない技のような気がする。 特殊部隊のかなり実戦に近いというか、ほぼ実戦の練習みたいな
動画を見ていて、「舌は頭の知らないことを、たくさんしゃべる」と書いたけど、
どうしてこのような喩(たと)えが出てきたのかなと思うと、
動画の国の言葉がわからないから、技の仕組みの説明というか、声の部分が
わからないから、「舌は頭の知らないことを、たくさんしゃべる」と思ったの
かもしれない。これが、言語が理解できれば、
「あ、そういうことなのか」「そう考えればいいのか」
「大勢で囲んだら、倒れたふりして、地面から股間に向かって棒でつけ」とか、
そういうセリフがあればいいのだが、言語が理解できないので、
動画全体の意味がわからなかったのかもしれない。
これはすべてにおいてそうだろうと思えてきた。
ライジンでも戦いは普通なんだけども、試合後、息をはきながら試合後の気持ちを
視聴者に伝えるから、こっちも同じ言語だからそうなのか、そう思うよとか共感的感動が
生まれる。ところが、いくら試合が凄くても、勝利後、リングの上で、
知らない外国語で叫んでも、感動が勝利した選手の気持ちの高揚まで、共通感動まで
いかないで、こう言っているのだろうと推測して共通感動しなければいけない感情のフィルターが
生れてしまうのだろう。ブルース・リーと同じ技をしても、
ブルース・リーがしている技と、ブルース・リーでない武道家がしている技に対して、
感情のフィルターがはいってしまっているので、どうしても素直に技だけを見ることができない。
技を魅せるためには、見る側の人間のフィルターをはずさなければならないのだろう。
しかし、自分で自分の哲学で、フィルターをはずしたら、その技がホンモノなのか、ホンモノでないのか、
そのフィルターをかけるべきフィルターもはずしてしまったら、逆の意味も発生してしまうだろう。
天才的武道家が、道場で生徒の動きをチェックすることは、大変であることが理解できてきた。 ブルース・リーの初期の頃の演舞を見ていると、
目隠しをして、詠春拳を披露している。
ところが、後半でのブルース・リーが登場する映画の中とか、
それ以外で、目隠しカンフーを披露していない。
目隠しカンフーができなくなったのかといえば、
目隠しカンフーができた上で、さらに目隠しはずしたカンフー、ジークンドーを
自分自身で進化させたのであろう。
普通に見れば、目隠ししないジークンドーから、目隠し詠春拳を披露すれば、
進化したと思うだろう。観客は、それを見てブルース・リーは進化したと思う。
しかしそうではないのである。目隠しをするカンフーから、目隠しをしないでするジークンドーが
進化させた型なのである。
これも同じで、宮本武蔵の戦いをいくら読んでも、ずっと一本の武術が流れていると
思うかもしれないが、ここが進化した、この箇所が進化したと
読者が理解したとしても、進化とは、宮本武蔵の心が判断していると考えられる。
一般的に見ると、目隠ししたジークンドーのほうが奥義に見えるが、
実は、目隠ししないジークンドーが、目隠ししたジークンドーの進化型なのである。
その進化型に、さらに目隠ししてカンフーをすると進進型ジークンドーとなる。
もし目隠し型ジークンドーを動画で見ていなければ、ジークンドーとは目隠ししない武道だと思ってしまう。
目隠しがあるときとないときがあるのなら、
ブルース・リーは、他にも多数の秘儀的トレーニングがあるだろうと推察するのが当然なのである。
陰の練習が存在するように、また陽の練習が存在する。陽の戦いがあれば、陰の防御がある。 よくわからないが、ボクシングのチャンピオンは、
勝ち続けるパターンがあるのだが、
格闘技には、そのパターンがない。
常にチャンピオンが風車のように変わっていく。
これは何を意味するのだろうか。
ボクシングは、通常、二本の腕しか戦う武器がない。
格闘技は、両手以外に、頭突き、あしけり、さらに横に倒して、関節、
チョークなど、カウントを奪う手技がボクシングよりはるかに多種多様である。
そのため、チャンピオンの座を守り続けることが難しいのかもしれない。
戦いに負ける要素が多いからかもしれない。ボクシングは、二本の腕しかないので、
その二本の技のみを鋭く磨けば、勝利を維持し続けることができるのだろうか。
技が豊富になれば豊富になるほど、決着の付き方が、比例して読めなくなるのだろう。
だから毎回ライジンの試合後、掲示板が荒れまくるのだろうか。
ボクシングは、試合が終わると、ファンは言い合いをしないで、結果だけを堪能するが、
ライジンの場合、試合のたびに勝つ選手が変わるので、
毎回ポールシフト、地軸逆転NからS極、S極からN極へと、
遊園地の回転ジェツトコースターみたいで、視聴後、格闘酔いをしてしまうのだろうか。 ヒロ渡邊がワンインチパンチを説明するときに、「重力」「重力」という。
天から「重力」、みたいなピラミッドパワーみたいな、重力が降りてくるみたいな
感じなことを言っている。
これはイチローの「振り子打法」的ワンインチパンチ的説明なのだろうと
思っている。人間の力でバットを振るのではなく、バッドのヘッドが
自然に当たるように、バットが振り子のように振れている途中に、
インパクトがあるという自然の教えが基本となる。
飛ばしたい、飛ばそうという欲望(左脳)があると、その願いとは逆に飛ばない。
振り子式スイングという、少ない力をもっとも有効に利用する「振り子の原理」を
用いて、イチローは振り子打法で打っている。
右腕が地面と平行になったとき、バットもその延長線上に伸びて、決してバットは上空を
指していません。もし上空を指しているなら、不必要な動作がどこかで入り込んでいるということです。
決して自分の手でボールを打とうとしてはいけません。 バットを使って、ヘッドの1平方センチくらいのスウィートスポットに、ボールの芯を当てねば
なりません。精度にすれば100分の1以下でしょう。方角にしても、これも100分の1以下でしょう。
角度にすれば1度以下で、フリーハンドで線を引く以上に困難な作業となる。
スイングとは、このようにたいへん精度の高い仕事が要求されます。
それを体にむずかしい制約をつけて行おうとすれば、よほどの精神集中ができないと
不可能です。振り子打法は、完全直線的である。インパクト前後でも50センチが直線軌道となる。
つまりヘッドが直線運動をし、合掌グリップによって手を返すことがないので、
バットのフェースはつねに飛球線に直角になっえいるのです。だから、方向の狂う要因がないのです。
バットは自分の力で振るものではなく、バットの振り子運動の周期に、腹筋の力を
利用して上体を動かせる。基礎段階では、このことを潜在意識に覚え込ませ、
体得して、はじめて超高級振り子スウイングが可能になる。シンクロナイズドスウィング型ワンインチパンチといえる。
バットが自然に振れる周期に合わせて、自分の体を大きく同調させる。バットは、決して自分の力によって
振るものではない。バットが振り子のように振れる周期に、自分の力を合わせてあげること。
重力といっているのは、周期の力のことを言っているのかもしれない。 矢地の試合を見ていると、組み付いている時間があるので、
ここでワンインチパンチをだしたらと思うけど、
那須川の場合、相手との攻防がはやくて、
ワンインチパンチを出そうかなと考えている時間がないなと思った。
2ラウンドにまともにアゴに相手のパンチが当たって、
腰あたりがグニャとなったから、どうしてヒロ渡邉の八咫烏にならないんだと
思った。八咫烏なら、よけれるはずだと思った。
日本一古いといわれている八咫烏派なんだから、
アゴに向かってくるパンチをよけれるはずなんだけど、那須川はよろけていたが、
すぐにもちなおした。逆に、相手が、後ろ足に力を入れず、前足のつまさきだけに力を入れ、同時にパンチが
アゴに当たった時、浸透系を使えば良かったかもしれない。ただ、まだ両肩のラインが相手の正中線に対し、
円弧を描いていた。アゴは、まともに正中だったみたいで、その痛みが、頭上の正中まで
届いていた感じである。3ラウンド。後ろ向きの大回転の大飛脚蹴りの連発だった。
3ラウンドに大技を連発して、審判の印象を良くしたのだろう。
きちんと、魅せる大技を披露している。オリンピックのアイススケートの大会でも、大技が
ラスト・ラウンドで大事である。松井章圭も最後の最後に、大技の大回転けりを
爆発させる。最後の土俵一枚にかかとがかかった時、逆転の大技をみせる。
松井章圭が、ダントツなのは、ここにある。大山倍達は言っていた。「華麗でなければカラテでないよ」。
首を絞めて、チョークや、関節をきめて、いためるのもいいが、最後の最後で、
ジャンプ、回転まわし後ろ蹴りをみせつけるキックは、華麗の一言である。
大山は常にいう。「スピード、ジャンプ力、一本一本の指の強さ」の八咫烏の三本足のように三拍子。 大山の説は、
小指で、自分の体重を支えれるようになったら、
一撃で相手を倒すことができるという。
手を握ったとき、小指にそれだけ力があれば、強い正拳を
打つことができる。そして小指で支えるぐらいの
体重が、一番、スピードが出るという感じで説明していた。
すると、それくらいになると、那須川のようなジャンプ後ろ回転まわしけりが
素早くできる可能性がある。
電車の吊り革に小指一本ぶらさがりながら、目的地まで行く感じで日々、練習しなさい
と、雑誌で言っていた。
そんなことを言っていたら、世界大会で、日本勢が負けだして、
その理論は撤回していた。
それよりも、回しけりをはなったあと、そのもどす足のかかとで、相手の顔を
すばやくける方法を伝授していた。往復あしけり連打である。野球でいえば、二本のバットを
同時に一振りする感じだろう。
松井章圭は、延長戦になると、この技を連発していた。
しかし、それくらいの技を持っていても、その技まで持って行くまでに、
拳だけで、相手を倒したほうが早いといえば早いのである。
ストリートには、観客がいたら、逆に困るので、目撃者がいないからこそ、
ストリートなのだから、観客にみせなければいけない美技は、必要はない。
貫技が必要なのだろう。作戦をかんがえすぎて、自分で作った穴に、落ちてしまう危険性もある。
戦いにおいて、戦略病もあると達人は言っていた。戦略病から抜け出す技も必要である。
一流になるほど、戦略病にかかってしまうらしい。だから、ヒロ渡邉のように、
戦う前に、八咫烏をイメージしていたら、いいだろう。 今回の渡嘉敷竹原畑山のYoutubeは楽しかった。 渡嘉敷竹原畑山と石井の対決は、おもしろかった。
かかとを90度に曲げて、クイッと上げて、力を拳に連動させるといっていた。
ここが難しい。パンチを繰り出しながら、両足を同時に前進させるのではなく、
パンチが当たった瞬間、かかとだけ上げる。
つまり、パンチが相手の胸をとらえていても、相手との両足との距離は変わっていない。
かかとを上げた分だけ、少し肩全体が、相手に対して距離が近づく。
そういう力の伝え方なのだろう。
これが、ワンインチパンチをしながら、両足も前進し、相手との距離を縮めながら、
力を伝えるのとは、力のベクトルが違うのかもしれない。伝わり方が違うのだろう。
ワンインチパンチは、相手との幅をつめながら、力を相手につたえるのではなく、
足はそのままで、後ろのかかとをやや上げて、力を伝える。
そういう感じなのである。ボクシングの場合、常にステップを繰り返しながらのフックなのだろう。
竹原が、「まあテコの原理だな」って言っていたけど、渡嘉敷と畠山は、
迷った顔をしていた。ジークンドーは、テコの原理ってどこでテコを使うのかなって思った。
https://www.atomlt.com/cstower/cms/wp-content/uploads/2019/09/02-695x515.jpg
竹原がジークンドーのコーチをしたら、「テコの原理」って説明しそうだ。 ヒロ渡邉が八咫烏流の
さやから刀を抜く動画をしていた。
さやから刀を抜くのってドラマで見ていたから、簡単だと思っていたが、
こんなに大変なのかって思った。
男は、刀を抜くのは、一生に一回だけって言われていたので、
そういうものだろうなって思っていたけど、さやからきちんと抜けないなと思った。
ある料理の名人の本では、一切、味付けはしないそうである。
包丁の切れ味が、料理の味であると言っていた。
その料理人の本には、調理の方法は、まったく書いていない。
ただ、材料によって、切り方を変えていた。
自分にとってジークンドーを語るとしたら、味付けはいらない。
達人の切り口が、料理の味付けとなる。そういう感じであろうか。
まったく味をつける必要はない。切り口が料理の味となる。
「味をつけるのをわすれているよ」といわれるくらいが達人のジークンドーだろう。
「徒然草」には、料理をする人を「包丁人」と呼び、料理することを「包丁」と呼んでいたらしい。 腰を切らない居合ってwww
そんな奴が口伝がどうのとかwww
ガチのコスプレ素人かよこのお爺ちゃんwww
久々に笑ったわ
これ日本の剣術関係者みんなポカーンと呆れてるか苦笑してるぜ ワンインチパンチを渡嘉敷が説明するのだけど、
ワンインチパンチをスタンド イット、そこにたって撃つを、
1メートルはなれて速度をつけてワンインイパンチを撃つとさらに強力ななり、
2メートルはなれて速度をつけてワンインチパンチを撃つと、
さらに強力になるということでしょう。
すると石井は、頷いていた。
走りながら、ワンインチパンチを撃つ場合、どの箇所で、足をふんばるのかわからない。
走り幅跳びのワンインチパンチみたいだなって思った。
ワンインチパンチ式棒高跳びも、渡嘉敷理論だったらあるなと思った。
石井が、足のつま先式ワンインチパンチもできるよと矢地に披露していたが、
見ている分ではわかりにくく、本人も、少し悩んでいた雰囲気だったが、
足のつま先から浸透させるのだろうと理はわかる。
ジークンドーの体系を直感的にに相対化しながら、そのうえで
「細かいことはまあいい」とそのジークンドーの体系に沿って拳をつきだす人間は、
どこかに香るような恰好よさが残るものである。
渡嘉敷が、2メートル・ワンインチパンチ必殺技を説明しているとき、
どこかに香るようなジークンドー性を感じた。
マラソン選手が、片手に水を飲みながら、先を急ぐみたいな感じで、走りながらのワンインチパンチも
可能なのだろう。 例えば、胸ぐらをつかまれ、あいている手で殴られたら痛い。
その時は、どうするか、相手に服をつかましたまま、
自分の手をその?んでいる腕に対して、回転させる。
上から下、下から上に腕があがってくるときに、ほどける。
その瞬間にワンインチパンチ等を撃てば、防御と迎撃ができるだろう。
そのまま腕十字でもいいけど。
胸ぐらを掴まれた時の対処法@【腕を巻きつける】
https://gobukaku.com/countermeasures-against-grabbing/ 達人?による腰切らずの居合とか初めて見たわw
腕と肩甲骨だけで抜く抜刀ってそれもう居合じゃなくない?w
もしかしてヒロ渡邊って素人チャンバラ映画を教材にして刀扱ってるの???w
https://true-news873.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_4a3/true-news873/m_upfl2540.jpg
やってるレベルが自称日本人の↑と全く変わらん
あとお弟子さんにふざけて刀身を当ててたけどああいう真似は絶対にしちゃダメだろ
本身の恐ろしさを何もわかってない
あんな恥ずべき真似をもし武術に携わる人が大ぴらに行えば界隈や一般社会から白眼視されるぞ
ヒロ渡邊が武術のド素人で助かったね 2006年頃にトウガとかいうアクションとCQCを混ぜたのを作って教えてたけど
たぶん刀の扱いはアクションや殺陣からなんだと思うよ。 ドラマで見ているからかもしれないけれで、
八咫烏派って影の軍団、服部半蔵とか、
柳生一族とか、ト伝、二の太刀は絶対になくて、
最初の一撃ですべてを決める一刀流とか、
そういうイメージが強いから、弁慶と牛若丸。
弁慶に対して、牛若丸は、橋のてすりに立って、回転しながら、
剣術を見せるのだろう。それも弁慶は倒した相手の武器を99本をもっていって、
100本目の1本を取るのに、いい相手が、橋を渡ろうとしていたところ、
失敗した。牛若丸は、何の用事で橋をわたるのかわからないけど、
準備もしていないところで戦って勝つのだから、牛若丸のすごさが理解できる。
ワンインチパンチは、牛若丸の技みたいなものだと思っている。
一寸法師の喩(たと)えも、秀吉も若い頃は、一寸法師ともいわれていたらしい。
一寸法師とは、町から町へと旅する念仏僧で、
町に行っては、人々の痛いところを鍼を刺して治療してあげていたらしい。
そして、影では、針を使って、暗殺もしていたらしい。
だから、一寸法師とは、暗殺者の意味もあったらしい。だから秀吉は影のネットワークを
信長の軍団において唯一、築くことができたらしい。 >>146
もうすでに起きてて辞めていった生徒はそれが原因だった可能性有 動画に出てたハゲた弟子も渡邊にとってはただのサンドバッグ役でしかないから
最悪斬ってしまってもいいと思ってるんだろうな あの師匠がジークンドー以外の事やってるときは見ない。 ヒロ渡邊ってド腐れジジイはなんでジークンドーで板の試割りやってんの?
ブルース・リーは古流中国武術・定番のインチキ試割りの類が大嫌いだからこそ
それらと一線を画す為に西洋型実戦武術であるジークンドーを編み出そうとしてたんだよね?
開祖の意に逆らうような真似してさ、しかも試割り用の切れ込み済み平板使ってさ
ヒロ渡邊は何がしたいの?詐欺師なの?ジークンドーコスプレイヤーなの?カルト宗教家なの? ブルース・リーは、inch Punch(インチ パンチ)で板を
割っている動画がある。
https://www.youtube.com/watch?v=aLDoHUKIFwU
ヒロ渡邊の動画を見ているかもしれないけれど、
関連した動画が、上がってくる。
ブルース・リーが、手で板を押して割る瞬間の髪の毛が、
逆立っている。
その板と拳に距離をとっているのでなくて、
板に拳をつけたまま、「エイ」っていう感じで、真っ二つに割っている。
加速する距離がない。
石井のワンインチパンチを矢地の動画で見るまでは、
板は割ればいいものだと思っていた。
見てからは、板に拳を密着して、割らなければそれは「ジークンドーでないよ」ってブルース・リーに言われそうだ。 急所攻撃が実用的なのは間違いない。急所攻撃を体得したMMA選手が最強だと思う。 菊野は、スキが見当たらないな。
ただ、間をとるからな。急所を防御するために、
試合でないから、距離をとるよ。
そして、相手が距離を縮めようと、足を移動して、足を上げて、地面に足をつけようとした
瞬間に、けりを入れるだろう。足をおろすとき、次のモーションに移れないから。
絶対に足をあげない、すり足で移動して、けりあげる。すり足なら、次のモーションに即座に対応できる。
https://www.youtube.com/watch?v=rcmVgjpFC-M 八咫烏流の
八咫烏(ヤタカラス)は、人名として八咫烏=頭(や)八(た)咫烏(からす)=頭八咫烏(やたからす)となる。
地名として、伊勢国矢頭香良洲→矢頭香良洲(やたからす)である。
伊勢=三重県には、現在でも、香良洲町がある。
http://www.ztv.ne.jp/benri/karasuzenntaigo.png
矢頭香良洲が八咫烏になったのか?
八咫烏が矢頭香良洲になったのかわからない。
矢頭香良洲だったら、香(か)おる=香港である意味で、連想的に合致している。 すり足は高等技術で、実際は弊害の方が大きいこともある
ってのを認識した上で練習する必要はあるよな
足払いとか投げ技対策としては良いけど、打撃オンリーだと弊害だけ取り入れてる人もいる
https://youtu.be/0sQUOA2feZM 八咫烏は、神代の文字で読まなければいけない感覚に思えてきた。
ある人物が、「太陽から来る素粒子は成層圏では左右にはじかれながら落ちてくる」
と言った瞬間、ああ、それは神代の文字の「カ」だと思ったと言っています。
すると、咫烏ー香良洲の「カ」は、その流れの「カ」なのかと思えてきた。
「ム」、生まれる。「ロ」、渦。
カムロギ・カムロミだとわかって、そのうずの方向に力を回しなさいという意味かなと
思えてきた。
ヤタカラスとは、
「ヤ」→極限や飽和の状態
「タ」→分離して分かれる
「カ」→カミをチカ<カ>ラの実体<ミ>とする
「ラ」→<ナガラ>のラ→けれども
「ス」→<ス>は、ススム、スッとなどからわかるように、「進行形」の思念
である。目に見え<ヌ>ぬカムアマの本来性にのっとって、飽和・安定の
方向へ極限<ヤ>まで進むという思念がワンインチパンチにこめられている。
「アマ始元量」の究極粒子「マリ」から五種類の「素量」ができる。
「イカツミ」→電気素量
「マクミ」→磁気素量
「カラミ」→力の素量
「トキ」→時の素量
「トコロ」→空間の素量
これらの五種類の素量は、究極「マリ」の複合素粒子である。
ヒロ渡邊の一本ゲタ式ワンインチパンチとは、この理法が隠されているのだろうか。 相手が急所を狙ってきたら、すり足でよけるだけでなくて、
同時に、手で、自分の腕で、その狙って接近する相手の腕を
はらってしまう。はらいながら、相手の胸に自分の片一方の肩を入れ込んで、
頭を隠しながら、拳を腹ににじり込む。さらに両足が左右に開いた瞬間、
さらに前進するか、片方の足の内側をけって、倒す。
それは、相手も読んでいるだろう。つまり、最初の急所攻撃は、
それが目的でなくて、誘いの武術の可能性もある。
誘いには乗れだけど、ストリートの誘いには乗るな。だと言えるかもしれない。
ジークンドーのその第一。
酒は飲むな。飲まれるな。
ストリートでは、誘いに飲むな。誘いに飲まれるな。 「勇気をもって中に入れ」
ヒロ渡邊が言っていた。
勇気をもって相手のパンチを頭で受けろ。
そこまで勇気をもって練習しろなんだろうな。
練習の練習でなく、勇気のための練習。一本ゲタの練習をしてから、
矢地の足のステップがやや変化しているように動画から見える。
しかし、ブルース・リーがみせる、あの華麗なるステップ。
モハメッド・アリは、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と言われたが、
あのステップは、ポップしているんではなく、
水面に波動をかけるような、忍者が水面を歩くような、
忍者が、堀の池の中を、竹の筒をくわえながら、静かに潜りながら近づくような、
呼吸の音までも消すような、ステップ。
城の天井を音を消しながら這うような移動。そして天井から垂直に降りたら、
すぐにまた、天井に、静かに速く戻る。
「忍のように勇気をもって中に入れ」「我の名は、霧隠才蔵」みたいな感じで。 ヒロ渡邊の矢地に対するアドバイスは、
ジークンドー・マスターは、このように見ているのかと
ものすごく勉強になる。勉強になるからといって、自分が、その通り
勉強になるだけで、それ以降は自分でも分からない。
自分は分かっているが、自分の中に住む架空のマスターが頷くかどうかである。
一回の試合を見ただけで、相手のクセは、大振りで、大振りのため、
振ったあと、自分の頭が、平均より、低い位置まで下がるので、
そこを上からどついたらどうかとアドバイスをしていた。
たまたまその時の戦いの戦機で、大降りになり、偶然、表面意識より力が
出過ぎて、潜在意識の止めようとする意識の範疇を超えて、
頭が必要以上に下がった可能性もある。いつも、いいところに腕を振ったあと、
頭が「はい、どうぞ」って後頭部を見せてくれるわけもないし、
チャンスだとわかれば、格闘をなめたことのある人間だったら、無意識に反応して、
どつけとセコンドから言われなくても、無意識が知っていて、どついていると思うし、
その意識を、相手の無意識もその心の動きをキャッチしていると思われる。
それぐらいの反応度がなければ、プロのマウンドに立っていないと思われる。
しかし、相手の拳を振った後の頭の位置を見ているなんて、すごいなと思う。
漁師で言えば、遠くの海面に魚が頭を出したり、クジラが背中から海水を噴き出しているところを
発見するような感じで、相手の頭の位置を見ているのが、ヒロ渡邊なのだろう。
自分の場合は、相手が拳を振ったあと、残っているもう一つの拳の位置や、足の動きが気になって、
相手の後頭部の緯度経度的GPSジークンドーを見ている余裕はなかった。 アクション映画監督の言葉なのだけど、
私の場合には、映像に相当するものが、人体という形で先に与えられている。
ブルース・リーの映画は、
映像に相当するものが、人体という形が材料として<先に与え>られているということになる。
実際のリングでの試合は、人体という形の材料よりも、格闘芸術の上での勝利が先に
与えられているのでなく、リングの上で奪い取らなくてはならない。
映画撮影は、映像に相当するものが、人体という形で先に与えられている。
そこから具体化の作業が主になるわけである。
だからそこでは、実際の試合と撮影のアクションでは、作業の方向が逆転していることになる。
アクション映画の中でなにかをありのままに伝えることなど不可能というのは、
当然の意見だが、世の常識は、ヴァーチャル・リアリティーもそうだが、
こちらは未来のものだという前提がある。ところが日常生活などは、
じつはVRそのものというしかない。
映画監督は、実際のリングの試合も、日常生活というヴァーチャル・リアリティーなのであると
ストレートに喝破しているのである。
ほとんどの現代人は試合を「現実」だと思っているわけで、それならすでにVRの世界に
住んでしまっているのである。そう達悟しているのである。
「夢の引用符」のなかで、映画のなかの夢は、映画そのものとまったく同じであると哲学を
述べている。映像の中でみる夢は、映像そのものと全く同じである。
この論理でいくと、映画の中のブルース・リーの動きは、
日常生活の現実のストリートと全く同じであるという論理に到達できる。 俺は、
ヒロ渡邉に本物のジークンドーを見せてもらった事がある。
そのストレートリードは想像を超えていた。
これは、本物のジークンドーなんだか!
本物のジークンドーは、
ストレートリードをやる時、その人物の背中を見ると分かる!そうだ。
本体がフィリピン武術でジークンドーの皮を被せたインチキジークンドーは、背中が板のように動かない!
本物は、
背中が螺旋状にうねるように動くんだよ。ウェーブするんだ!
そして、腹もウェーブしている。
これで、本物と偽物が分かる!そうだ。テッドウォンのジークンドーの動きとも違う。
1番、似ていると思ったのは映画【リボーン】のウェーブだよ。
この動きに1番似ていたね。 リボーンの攻撃とは、経絡攻撃理論なのだろう。
人体の循環エネルギーを破壊することにより、敵の行動を制圧する。
人体の循環エネルギーとは、経絡によって得られたものである。
それを水平に加撃することなのだろう。 経絡によって得られたもの、
その得られたものに中に、いろいろなものがあるのだと思っています。
武の達人がもつ、武者震いするようなオーラや、力の気のエネルギーです。
それらが人体を巡り続ける循環エネルギーの流れに石を軽く置いて、
流れをとめる。
それが、経絡にさだめるリボーンの技だと思った。
リボーンは、再復旧の意味だが、技は、ノー・リボーンの技といえる。
森の中で倒された相手は、リ(RE=LEE)ボーンしていないからである。 この罵倒されてもめげない雰囲気は
軍板のコテ 某研究者みたいな感じだな。 リボーン的にストリート上での戦いは、勝つという言葉を
持っていないのかもしれない。
主人公が、一人、部屋の中で、旧約聖書みたいな厚い本を開く。
スタート時点から、その厚い本が手元にあるのだけど、
主人公は、読書家だなと感心していた。その本は戦闘学の本ではなさそうで、
ハリー・ポッター風の本みたいであった。
ところが、最後の決戦の前夜、その本を開ける。明日、戦いの日だから、
心を落ち着かせるために、明日の一言を読むのかなと思ったら、
本の中から、サバイバルナイフが出てきた。
最後に頼りになるのは、文学ではなく、サバイバルナイフなのかって思った。
故に、リボーン的において、ストリート上での戦いには、
勝つという言葉がゼロなのである。ゼロ戦闘術において、相手に勝つという言葉もゼロなのである。
あるのは、サバイバルナイフと己の戦う心だけなのである。
戦う相手に対しても、ゼロなのである。戦う相手でさえも、ゼロの存在、
戦う相手は、未来においてもゼロ観念なのだろう。現在、未来、存在するのは、自分と手元にあるサバイバルナイフだけ。
八咫烏流みたいに、高天原の存在者は、自分とサバイバルナイフだけ。そういうサバイバルナイフで
研ぎ尽くされた存在コンバット・ライフなのだろう。
そして、勝つという言葉はない。ただ、明日のストリートの戦いは、制圧する。
その二文字だけなのだろう。主人公の頭の中は、敵に勝つのではなく、敵を制圧するという気持ちなのだろう。
敵を制圧することで、リボーンはリボーンして明日に向かって行くのだろう。
リボーンは、「明日に向かって撃て」の映画タイトルのように「明日に向かってリボーン(ネクスト・リボーン)」と主人公は言いたいのだろうか。 ヒロ渡邊の言う通りだった。
マスター・ジークンドーの言う通りの攻撃に
徹したほうがよかったのかもしれない。
立ってよし、だす腕のキレもよし、グランドになってからも、
パンチよし、スキが見当たらない。
唯一、あの強拳をヘッドで受けるしか、
攻撃の手をゆるめることができない。
怖がらすにヘッドで、相手の拳を受けろって言っていたけど、
それしか手段はないと思えてきた。
試合するまでは、頭を自分から出すなんてと思っていたけど、
ヒロ渡邊は、見ていた。
まあ、相手はそれも読んで、ヒザを顔面に当てるだろう。
それも矢地は読んで、あえて、ヘッドを出さなかったのだろう。
将棋の大山康晴は言う。
100回優勝は、ちょうど祖母が満100歳を迎えていたので
祖母へのプレゼントとして石にかじりついてでも達成したかった。
大山式チャレンジ100だな。 >>154
急所ありだとMMAは意味無し
くっついたら目潰しを食らったり、金たまを潰されたり
矢地がこの前やっていた
https://youtu.be/qomdEdcJS48 将棋の大山康晴は言う。
「将棋神への返事を用意せよ」
ジークンドーの場合、将棋神とは、ブルース・リーとなるだろう。
ブルース・リーへの返事を用意せよとなる。
大山が言う。
プロの棋士というのは、将棋を指すにも将棋盤も駒もいらない。
頭の中で考えるだけで十分に指すことができるのである。
たとえば私と弟子とで、次のような問答があったとしよう。
「あれからどうなった?」
「歩で取っていったのです」
「そうか、取って、取って、飛車がまわって、それからどうしたの?」
「交換して、打ち返したのです」
「そうなるわな。それで、どっちが形成がいいの?」
「それがですねえ、研究してみますと攻めているほうが苦しかったのです」
ブルース・リーも、シャドー将棋みたいにジークンドーの極意は、この
技を披露するのでなく、言葉で教え、言葉で理解できる状況なのだろう。
将棋の大山は言う。戦い抜いた将棋への「思い」が激しく燃えて、
むきになってぶつかっていくことができるだろう。
それが将棋神に対する私の返事である。
ブルース・リーへの返事を用意せよ。 ヒロ渡邊が、勇気をもって、ヘッドで拳を受けろという
アドバイスを聞いて、前回の試合を見たら、
その通りだと思った。他の技が出せる状況でなかった。
それを知ってから、ヒロ渡邊の術指導を見てみると、
何か、手を広げて、相手の頭をつかもうとしている動画があった。
ここでもヘッドにこだわりを見せている。
ヒロ渡邊のヘッドを突き出せという矢地に対するアドバイスがなければ、
見落とす場面なのだが、
手で相手の頭を、スイカのようにつかめと言うことなのかなって思えてきた。
ある意味で斬新だなと思えてきた。
相手も、自分の頭を指五本でつかまれると思わないから、一瞬、頭に神経が行き、
その間があいたところを、別の角度からの攻撃カウンターを狙うということなのかも
しれない。 金的関係ねーんだから自分で試合で試せよ
ブレイキングダウン出ろ バッティング恐れるな。
というかプレイスタイルがやさしすぎる。 矢地は、
ヒロ渡邊の一本ゲタ式トレーニングしたんだけどな。
相手は、その上を行くハードパンチだった。
矢地が、家で試合を見直したけど、
どのパンチが効いたのかわからないって言っていたけど、
その通りだと思う。見ていても、相手は、いいパンチを放っていた。
ヒロ渡邊が言っている通りの、脱力しながらの当る瞬間に、
ちょっとねじるようないいパンチだった。
相手のパンチと同時に、へそあたりに、
押し込むようにシンプルに前キックだったなとも思う。 平良が石井とトレーニングをしていた。
パンチを二回出して、相手の飛んでくるパンチの下を
頭でくぐるみたいなトレーニングをしていた。
石井がやった、パンチでロウソクの火を消すトレーニングをみてみたい。
平良がパンチを出したとき、ロウソクの炎の揺れで、
キレがわかるだろう。 ジークンドーとシステマの交流をしていた。
将棋の大山が言う。
人間とは、相手にかなわないと思いはじめると、時計のハリが元にもどらないと同じで、
どうにもならないものであると心境を語っている。
石井がジークンドーの技を説明していると、心が時計のハリのようになってしまう感じだ。
心の時計のハリが元にもどるような拳ではだめである。 矢地の試合後の家からの説明の中で
動画を再生したが、パンチが効いたのは覚えているが、
見ても、どのパンチが効いたのかわからない。
と言っている。
とても気になる。矢地ほどのベテランがどのパンチが効いたのか
わからないということは、その一発以外は、
効いていなかったことになる。
その幻しのパンチを矢地が習得すればいいのである。
何度も動画を見直して、世紀の一発のこぶしの出し方、腰の入れ方、
足のジークンドー的ステップの配置、リズム等、
自分自身に手に入れたらいいのである。
ジークンドー奥義、相手の最高の拳を取得する奥義その1なのである。
その一発だけ覚えればいいのである。それこそがジークンドーの道である。
燃えよドラゴンなのである。 このからんだヒモを解くことができれば、
未来の王となるだろうといわれていた。
少年アレキサンダーは、その永遠にほどくことができないヒモを
見て、剣の一刀で斬ってしまった。
少年アレキサンダーは、洗脳されない目をもっているといえるだろう。
そのような目を持ちながら、ジークンドーの道を歩まなければならないだろう。
ヌンチャクの鉄のくさりをはずせれるか。
ワンインチパンチのくさりを解くことができるのだろうか。 >>154
俺はこの疑問を知りたい
0355 名無しさん@一本勝ち 2022/05/07 01:15:11
朝倉未来の最新の喧嘩自慢を見てほしい
朝倉が何度も金的をもらっていた。そして金的ガードがない状態でのスパーを極端におそれていた
なんでもありのストリートファイトで生きてきた朝倉が!である
総合格闘技をやることによって金的のガードが甘くなるということはないだろうか?正中線を守らないのか?極めれば極めるほど金的以外のガードは鉄壁になる分、金的だけはもらいやすくなるのか?
喧嘩の時はどうしてたのだろうか? そんなこと言ったら石井東吾も朝倉未来とのスパーでタックルありでいいですか?って言われてなしでお願いしますwって石井は答えてたぞ
ストリートでタックル来たら終わりじゃん石井 未来も、動画で石井にワンインチパンチを教えてもらっていた。
50人と戦ったって動画で言っているけど、その50人だった人間が、誰も、
それは自分だったと出てこないところが、金的をよけられないより、
そのほうが気になる。当時の50人の一人が自分でしたって誰も出てこない。
当時の話を自分は、動画で聞きたいと思っている。
この金的を狙っていた相手は、実は石井との練習の動画だったのではないかなと思う。
ブルース・リーの手書きで描いたフォームを見ると、地面からひじの位置、ひざの位置、正中線、全部、
定規で線を引いているんだよな。ブルース・リーは、定規で、ひじ正中線、ひざ正中線と、
線を引いて、こういう移動をしなさいとノートに写してある。
そのこだわりには、驚く。そうすると、未来の戦い方を見ていると、
ひじ正中線、ひざ正中線など、まったく関係なしでランダムな動きをしている。
未来は、カラテをやっていたので、カラテの型を自分で壊して、自分の型を作って、
現在のランダム(手当たり次第)になっているのであろう。
型に入り、型を出る。その境地なのだろう。出た型から、また型に入る。 タックルしてきた人間に、
ワンインチパンチをしても、からだごと、
吹っ飛ばされると思う。ブルース・リーなら、
タックルをそのまま、全身で受けて、ぶっ倒れていると思う。
特に、やばいのが、アメリカンフットボールで問題になったけど、
コーチがなんでもいいから、相手を倒したら、試合に出場させてやると声をかけ、
すると生徒は、歩いている選手の背後からタックルをした。
絶対に、背後からのタックルは、ジークンドーでは、無理である。
二刀の武蔵でも、背後からのタックルは、姿勢が崩れると思う。
まあ、背後からの攻撃を見抜いて、そのまま相手の頭に腕を回して、チョークでしぼむしかないかも
しれない。そして、両足をジャンプさせながら、頭をアスファルトに落とす。
それぐらいしか考えられない。うまく自分の作った腕の輪に、相手の頭が入ればいいのだが。 ストリートで、ハイキックをみせるのか。
ここが醍醐味だよな。この最初のハイキックをならしでみせるだけで、
周りを囲む人間は、理解する。
ハイキックがローキックみたいだったら、ストリートが開始されない。
また、キックがうまければ、横のイスの腹をキックで、チョコンと打っただけで、
相手は、理解すると思う。
もしかして、わざとチョコンとけりあげたんじゃないのかって相手は思う。
天心だったら、わざと、チョコンと、レストランのテーブルをつま先でけって、
あイテテとやりそうである。それだけでストーリーが相手の頭の中を、流れていく。
人間とは、昆虫がこっちに飛んでくるのではないかという反射する神経を本来、
備わっているので、逆に小さな動きを見たほうが、相手は筋肉が硬直しやすくなる。 ブルースー・リーは「水になれ」
と言う。
ある詩人は語る。
「腹の奥底から生ける水の河が流れるようになる」
ジークンドーの戦いにおける運動は、「生ける水の河」である。 顔面ガラ空きのフルコンじゃリーの突きは目ないだろう ゴッド・ハンド大山は、真剣白刃取りした。
相手の指を真指白刃取りをすればいいであろう。
大山が言うには、真剣白刃取りの練習なんてしたことはなかった。
山奥で一人で練習をしていたら、林の中から突然、
真剣を持った男があらわれ、とにかくとっさに手を出したら、
真剣白刃取りができていたと言っていた。
練習していなくても、とっさにできたと言っていた。
ストリートでは、そのための練習でその技を出そうという技では、
強敵は倒せないといえる。とっさに出た技、自分でも思いもしなかった技が、
相手を倒す。つまり、練習場で練習している技は、
ストリートでは、技にならないと思って、練習することで、
ストリートで間一髪の技が繰り出せるのだろう。
実戦を想定して練習していると、その技は、ストリートでは、己の命を最短距離に走らせる
可能性があるだろう。最長距離の練習の技が、実戦では最短距離の勝利の技となる。 ゴッド・ハンド大山は伝説がすごい。
戦後、アメリカ兵がジープで走りまくっているときに、
アメリカ兵をこぶしでなぐっていて、
アメリカ軍の基地内でうわさでもちきりになっていたというのは、すごい。
大山が外を歩いている時は、外出禁止になったらしい。
ストリートを超えている感じがする。
今では、正拳が来たら、ローで対応する。
キックできたら、クロスさせてヒジで相手をとらえるって、
訓練しているから対応できるが、当時は、モロに攻撃を
受けたらしい。大山のすごいところは、関節技は、カラテじゃないよと
いいきっているところである。
つまり、拳を当てて倒すのがカラテだよ。
相手を倒して、さらに関節技に持ち込むのは、カラテではない。
関節技にもちこまなくても、蹴りあるいは、拳できめるのがカラテであると
言っている。華麗でなければカラテとは言わないと大山は言っている。
大山は風姿花伝みたいなカラテを求道していた。 「朝鮮人は、自分がついたウソを信じ込むねん。
差別とか、歴史がどうとかいう時は、
ぜんぶウソやで」 アメリカで最初にカラテを広めたのは、大山であった。
ビールビンを手で割ったのも、大山が最初のパフォーマンスであった。
そこからK-1のカラテが派生してくる。
コロンブスのタマゴみたいに、
このタマゴを立ててみろと言われても、だれも立てることができないところ、
コロンブスが、テーブルにタマゴを押しつけて、立てた。
それを見て、自分もできると言えるのは、誰でも言える。 「朝鮮には、誇れる歴史があれへん。
そやから歴史を守ろうとせんで、
かってに創ろうとするねん」 第二次世界の敗戦後、
日本の経済は、停滞し続けていた。
そこに、朝鮮戦争が勃発し、
朝鮮戦争特需が発生し、そこで、日本経済のカーブが上がり出した。
もし朝鮮特需がなかったら、日本は経済大国第三位にはなっていなかった。
朝鮮半島で戦争が起きたため、米軍が日本で食料、日用雑貨を買ってくれた。
アメリカ本土から、船で運んでくる時間がないから。
朝鮮半島が紛争勃発エリアに一番近い場所にあるから、
アメリカが、日本の経済の復旧の手助けをしてくれているわけで、
ハワイみたいに周囲に紛争地帯がなければ、アメリカも日本の経済なんてアテにすることはない。
朝鮮特需のおかげで、日本の経済は立ち直った。銃砲を聞いたら、株を買え。
銃砲が鎮まったら、株を売れ。 「朝鮮人は、劣等感のかたまりや。
おのれの自尊心が傷つく事を一番恐れとる。
だから自分にウソをつくんや」 動画で「行く行きて神軍」をみた。
ある男が、いろいろな男に会いに行く。
ある観光地のソバ屋に行く。
今、昼の時間でお客で忙しいという。
ある男は、畑を耕している。
そこにも、男が行く。
なぜ行くのかというと、あんた、あんたの兵隊の仲間を食べたやろという。
終戦ということで、島から退却することになるのだが、
岸まで歩くのに、体力がなくて、同じ仲間を食べて、
体力をつけたらしい。それを追求した動画であった。
相手の男は言う。「仕方がなかった」と。
つまり、仲間の兵隊を、食糧として、ジャングルの中を連れて歩行していたらしい。
それは、どこの部隊も同じことをしていたらしい。
男は言う。「自分が戦地をしたことを、はっきりとみんなの前で言え」と。
しかし、戦時中と戦後とは、状況が違うと言う。
男は、あんたに、こっちに来いと言って林の中に入り、
背後から撃たれ、その人間は、浮かばれていない。
今も、夢の中に出てくる。日本の兵隊は、仲間を食料として食べていたのである。
敵に撃たれて戦死したのではない。あんたの隊が、みんなで食べたのだと叫ぶ。 「朝鮮人は、他人のものは自分のものや思とる。
盗みがばれてもケロっとして、返せばええやろって
いいよる」 「朝鮮人は、
強いもんには笑いながらすり寄りよるけど、
弱いと思たら、襲いかかってきよるで」 「朝鮮人はな、
さんざん日本人をイジメたり悪口言ったりしてるくせに
自分の都合悪くなるとヘイトだのなんだの言い始めて
ゴールポストづらすねん」 ある動画では、
洞窟があって、その石の壁には、
紐でくくられたたくさんの武術の巻物で、壁が作られている。
それを男は、回転しながら、上空に舞い、剣先で、すべての巻物のひもをきる。
巻物が雨が降ってきたかのように落ちてくる。
そして最後に頭上から落ちてきた巻物を、剣で受け取る。
そして男は、武術の極意を知ったとつぶやく。
是れ、ジークンドーなりか。 この武道の極意がわかったとつぶやいた男が、
相手に向かって、剣を腰に当てて、向かっていくとき、
小雨が降っている。
その小雨が、石畳に落ちると、水滴の波動が起きるのだが、
その波動が作る拍子と同じリズムで、自分の足で、相手に向かっていくところが
すごいなって思った。
しかし、実際は、武術の達人は、一歩も動いていないのである。
相手は、それを頭の中でイメージされ、相手は、この勝負はしないほうがいいと思い、
戦いを避けるのである。
自分も、動画を見た後で、こうなることはわかっていたと頭の中にイメージを描いていた。
いや、頭の中にイメージを描かされていた。 突然、小雨が降り出した。
龍と水は関連がある。
龍のあるところ、雨が降る。
雨が降るところに、龍が来る。
ドラゴンには、雨があうのである。
雨と会話できれば、洞察力が湧きあがる。
雨の一粒一点においても武術は、影響し合っているのである。 ブルース・リーが創始したジークンドーとは、
「変化を求めて動いている」
という武技なのかもしれない。
変化を求めている武技ではなく、
変化を求めて、動いているといえる。
ブルース・リーの技は、技が技として成立しているのではなく、
変化を求めて、動いている技なのである。
技がタオ化しているので、一点だけを押さえていてはだめで、
一点一点を押さえながら、次から次に技が移行しているのだろう。
そのため紐のようにつながりがある。全体としてつながりができている。
その技の数は8×8=64 つまり易卦が64象で一巡するように、ジークンドーの技を64技で
習得すれば、64卦、変化を求めて動いているジークンドーとなるかもしれない。
1卦から64卦へ流れ、64卦から1卦へと始まる。
ジークンドーは64技を修得し、次から次に流れるように技流しをすればいいだろう。
その多くあるジークンドーの技の中から64技をきめるのが、己自身かもしれない。
その64技を一技一技、日々磨いていく。龍心。龍の心である。
ただ、64×8としてさらに八卦を掛けても、それもいいかもしれない。つまり8の倍数的に
技を増やしていけば、其(そ)れドラゴンなのである。其八。 大山カラテ、
大山は、零戦闘機のパイロットであったという
エピソードがある。
大山のツキの出し方は、ゼロ戦が、空中で戦う時のマシンガンみたいな感じだと思う。
どんどん撃て。
戦争中に生活していたので、本土決戦を想定して、
大山式カラテを一つずつ作り上げていったのだろう。
ブルース・リーの場合、本土決戦を想定はしないで、
ストリートにおけるファイティングを想定している。
電燈がともっていない、暗がりでのストリートを想定している。
そのために技が一つ一つ似ているようで、想定している形式が違うので、
技に違いがあるのだろう。
本土決戦での武技と、ストリートに特化した武技が違ってくるだろう。
本土決戦の場合、周りの仲間を鼓舞させる武技でなければならない。
本土決戦型ジークンドーを創出するならば、それは、リーサル・ジークンドーとなるだろう。 そんなエピソードはねーよ
江田島平八と間違ってんじゃねーか ブルース・リーが語るジークンドーの中で、
不思議なことに、”気”に関して語っていないのである。
武術において、気は重要な要素を占めているのだが、
ジークンドーでは占められていない感じがする。
ジークンドーとは、ブルース・リーの中で、気の考えは激動し翻弄されるものだったの
かもしれない。科学を知らない人たちの空想で、もっとも珍奇なものは気である。
「気」は迷信的な観念であるとブルース・リーは、表では言わなかったが、
ジークンドーを進化させながら、そう思っていったのかもしれない。
気を迷信的な観念として捕らえて、武技を磨くことがジークンドーかもしれない。
太極拳の気の対立にある武技、それがジークンドーであろう。
太極拳の空の気に対して、ジークンドーは水の気を大事にする武技なのだろうか。 ジークンドーの武技を考えた場合、
ブルース・リーと対決する人間の力量がイコールとした場合、
ブルース・リー>対決する相手という図式になる。
力量が同じなら、ジークンドーを体得しているブルース・リーが勝つ。
もし相手もジークンドーを体得し、力量も同じなら、それでもわずかにブルース・リーが勝つだろう。
そのような相手が二人いて、一人でブルース・リーが戦うなら、それでもわずかながら
勝利をするだろう。相手が四人に増えたら、二人を戦わせ、もう一人を自分が戦い、勝利して、
残った勝利者を倒して、ブルース・リーが勝つ。
相手が五人に増えたら、どうするか。二人を戦わせ、本人は三人と戦うことになる。
つまり死亡遊戯の映画は、一人で四人を倒すジークンドーだといえる。それもその四人がそれぞれ異なる武技を使い、
それに合わしてジークンドーも技を変化させ、対応してゆく。
対応できる技をジークンドーは持たねばならないのである。
ストリートの場合、このようなことが予想されるため、ジークンドーは、ストリート・ジークンドーと
呼ばれるのだろう。ジャンケンのように、まわりに同じ手を出させない心理戦もできるのが、
ブルース・リーだった。逆に、敵の人間の一人か二人、自分と同じジャンケンの手を合わさせたとも考えられる。
ブルース・リーのジークンドーの必殺技は、ジャンケン・カウンター・ジークンドーにある。
自分がチョキを出して、残りの二人がグーを出したら、完全に一人負けになるからである。 天心の動きを見ていると、少しジャンプぎみに
すれ違いざまに、ワンインチパンチをはなっている。
空中式ジークンドー・ワンインチパンチを放っている。
しながら、裏拳も放っている。
ジークンドー式ワンインチパンチ型裏拳である。 忍者が石井に言っていた。
「うちらの業界では浮き身といような...」
天心の動きを見ていると、少しジャンプぎみにとは、
ジャンプでなくて、浮き身でのワンインチパンチといえる。
ジャンプの場合、ジャンプしたときに力がそげる。
野球でいえば、内野手が横にジャンプしながらボールをグローブでつかむような感じで、
ワンインチパンチを放つのだろう。 前回は、天心は3ラウンドにはいってからあざやかな後ろ回転まわしキックを入れた。
今回は、1ラウンドで、瞬間クロスパンチだった。
宮本武蔵も、かならず、前回勝った技を使って、
次の勝負で、使わない。最初から頭の中で、前回勝った技を使わないということを
決めて闘っている。同じ技で、連続して試合に決着技として使用しない。
それは宮本武蔵の勝利へのこだわりである。
連続して、決め技をつかわない。宮本武蔵の本を読むと、試合において、連続して
同じ必殺技をくりだしていない。必殺技をもたない必殺技。このこだわりは厳しいが、自己の修行となる。 MMAの舞台で使うにはジークンドーの練度が低かったんだろうな
付け焼き刃で使ったってしょーもないなんてのはジークンドーに限った話じゃないだろうと思われる 使えるんだったらボクシングだろうがMMAだろうがチャンピオンクラスでも出てくるだろ 石井の技を見ていると、
なにかスキージャンプとか、飛込みプールみたいな感覚がする。
スキー台までは登ることができる。
飛込み台までは、上がることができる。
そこまではできる。ジークンドーの形は、石井のようにできる。
問題は、そこからなのである。
スキーで、滑走して、途中で台がなくなって、手を広げて飛んでいくときである。
どういう手のひろげかたをしたらいいのか、まったくのイメージなのである。
飛込み台から、足をはずして、どう自分の身体をクルクル回転させるのか。
ジークンドーの場合、相手に拳が当たったときの、後ろかかとの角度の入れ方。
ここに味がある。ここに妙味があるという感じなのか。
ジークンドーは、なにもない空中で手をバタバタさせている感じなのである。
その一瞬のどの角度かが、一番力が入っているのだろう。
全身の重力を一点化する瞬間を、身で覚える。
水になれ。鳥になれ。重力の中の重力一点になれ。ジークンドーになれ。 斯様にジークンドーを究めんとすると気色悪いポエミストになるのである 石井が模型の歯をなぐるシーンがあって、
グローブをはめて、なぐると一本も模型の歯は折れていなかった。
周囲は、あごをなぐっているから折れないよ。的をはずしていると言っていた。
石井が、グローブをはずして殴らせて欲しいと頼む。
そして素手でパンチを出したら、歯がぶっ飛んでいた。鼻の穴の骨まで折れていた。
石井は経験上、あごにパンチを当てたら、振動で、歯や鼻の骨を折ることができると
理解していたので、あえて、テコの原理で、アゴの突端をたたいたのだろう。
歯を狙って打つと歯に与えるダメージはそれほどでないが、アッパーなら上下の歯を全部折れると学んでいた。
あえて的をはずすストリート・ジークンドーなりか。無的有的ジークンドー。 王が、この世界で一番大事な文字はなんだと質問する。
一文字で答えろと言う。
「それは仁です」と返事する。
ストリートにおいて、「仁」が必要なのかどうなのか。
ストリートの場合、一文字を考えている余裕はない。
あえて考えるなら「境」だろう。心の境=ジークンドーの道。
ブルースリーだけが、ジークンドーの峠はここだと思って、そこに立ち、見渡したのだろう。
ブルースリー以外の人間が、この地点が、ジークンドーの峠だとは述べられない。
それを述べて実演しているのが、ジークンドー・マスター石井なのだろう。
自分が、拳とか、キックとかジークンドーと言っているときは、「それは仁である」と答えている感じで書いている。 天遊の詩人、李白みたいな拳法をしなければならない。
熊は咆え竜は吟じて
厳泉 殷たり
深林を慄わし 層巓を驚かす
雲は青青として 雨ふらんと欲し
水は澹澹として 煙を生ず
空中 天鶏を聞く 千巌 万転(=ジークンドー)して 路(ストリート) 定まる >>221
矢地選手や纐纈さんが素手でなぐれば頭蓋骨が吹っ飛んだか大きく陥没すると思うが。チビクンドーの石井はあれが限界だぜ。 矢地の動画に石井が登場して、
ワンインチパンチの意味を知った。
そして、ジークンドーは、ブルース・リーがカンフーの動きに、
フェンシングを取り入れたと説明していて、
あの動きは、フェンシングなのかと理解した。
矢地、纐纈の動きは、フェンシングの要素を取り入れたら、それは基盤的に成り立たないと思う。
何本の歯を折るかも大事だけど、
フェンシングの動き方をして、パンチを出し、歯が折れるかが、自分は動画を見ていて思っていた。
矢地、纐纈の動きで、フェンシングと戦うことができるのだろうかというところも気になる。
ブルース・リーのジークンドーは、フェンシングを相手にしても、
その攻撃を避けることも頭に入れている戦い方である。
石井が、忍者と対戦したけど、手に空想の武器をもって戦っていたでしょうというと、
相手が笑いながらそうですと言っていた。
ジークンドーは、相手がフェシングの剣を持っていたらという戦い方も想定しているのだと思う。 ラオウとケンシロウの戦いの中で、
二人は戦う。
ラオウとケンシロウが同時に拳を打ち合う。
そしてラオウも、もう一度、拳をケンシロウに打つ。
そしてラオウは、倒れる。
最初の一撃は、ラオウは、ケンシロウが、自分が死なないぐらいのパンチを入れることを
わかっていた。しかし、ラオウは、自分が最強と認めた男のパンチを受けて、
死にたかった。そのため、わざと二発目をケンシロウに打たせるために、
再度、拳をふるった。
このラオウの最強の拳を受けて死にたいという北斗神拳の壮絶さ。
拳に生き、拳に死に、拳に生きる。
ケンシロウは、その逆なのである。
拳に死に、拳に死ぬ。北斗神拳の伝承者は、厳しいのだと思った。 石井がキックで板割りをしようとしたが、うまくいかなかった。
ブルース・リーの動画では、キックで板を割っていた。
ブルース・リーの場合、板を持つ人間が、腕力があったので、
足が当たったとき、衝撃で割れた。
平良は、腕の力が弱いため、石井の足が当たったときに、板がはじかれてしまった。
もしくは、板にかかる重さがすごくて、平良が板を持ち続けることが
できなかったため、成功しなかった。
否、ブルース・リーの時、板を持っている人間の手から板がはずれていく瞬間の中にある瞬間で、
板をすでにキックで割っていた。板をもっている板がはずれていく時には、
すでに板は割れた状態であった。
板を持つ手の力の強さとは関係なく、ブルース・リーは、普通にキックで割っていた。
割れた板を手に持って立っているということは、衝撃は板だけに通じていて、
持っている手には振動が行かなかった。
テーブルクロスをひいても、水を入れたコップが倒れないようなキックなのかもしれない。 >>231
その理屈なら投げた板を割れることになる
それが出来るならパフォーマンスとしてやってるはずだ。
その映像が無いという事は板を持つ人間の力も必要という事になる。
ただ、存命だった頃のブルース・リーなら平良さんが持ってても割れた可能性は高いと思う。 パンチではできてたから、原理的にキックでもできるはず。
投げられた板でもタイミングが合えばできるだろうけど、片手で持ってる場合より難しそう。
キックはいつかリベンジしてくれるんじゃないかな。 板ってなんだよ
木材なんて星の数ほどあるだろうに
例えば、松やケヤキなんてそう割れるもんじゃないが
ファルカタ材なら女の子にも割れるわ
なんの板かも知らないのに割ったから凄いって
武道オタってこういう雑なこと言うから
バカなんだ 足場板らしいよ
2.5cmの厚さを2枚重ねて叩き割った たったの2.5cm?そんな足場板はないよ
乗ったら割れるわ 石井のワンインチをみていると、力士がワンインチを使ったらどうなるのかなと
思う。相撲は、木の柱に手を打つが、腰からねじるように腕を前に打ち出す感じなのか。
力士の場合、ワンインチを受けても、その力を体の芯で吸収してしまうだろうか。
力士のからだ自体が、練習用ミットみたいなものだからかもしれない。
そして、力士のからだ自体がワンインチになるのかもしれない。 ここの素人がなんと言おうと格闘家は実力は認めてるからなぁ どうして板を割らなければならないのだ。
薪(まき)を割るならわかるが、どうして板を割らなければならないのか。
次に板の次に、氷を割らなければならないのか。
どうして氷を割ろうと考えたのだろうか。
考えるのである。
ジークンドーと氷とどこに関連があるのだ。どうして氷を割らなければ、
ジークンドーではないのだろうか。
ストリートを設定しているから、もし、氷山でストリートが開始されたらを
想定しているのだろうか。氷の強度を確かめるための練習なのか。
するとケンシロウは、北斗のタオ(タオの海の中)そのものかもしれない。 >>242
YouTuberのコラボなんて褒め合う動画しかないだろ ある武術の書を読んでいたら、
このようなことが書いてあった。自分の一子相伝の書を
本にしたら、世間の評判が良かったらしい。
するとあっちこっちから手紙が来て、「先生、この間の練習を
教えていただきありがとうございました。生徒が喜んでいます」
とお礼の手紙が、郵便受けに来るようになったらしい。
おかしいな。自分は道場から移動することはないのに、あっちこっちから、
自分に武道を教えてもらったとお礼の手紙が来る。
つまり、自分の本に自分の写真をのせていないので、
あっちこっちで自分の名前を語って、武道を教えていることがわかった。
それから、次の武道書から、自分の写真を掲載するようになったらしい。 どうして板が割れるのか。
平良は、やりますよと言いながら、板の年輪に目をつけながら、一気に突いているのだろう。
もしくは板の中央に目をつけて、そこを突いているのだろうか。
一枚目の年輪と二枚目の年輪の模様が一致しないので、年輪を気にしないで、無の境地で、
打っているのだろうか。もしくは、すでに二枚の板は割れていると頭の中で描ききって、
そこで打っているのだろうか。石井は、床から、エネルギーを吸い込んで、それを拳に集めているのだろうか。
もしくは、周囲のカメラを持っている人間とか、横から様子を見ている人間とかの気までも、
石井の拳の指一本一本にエネルギーを集中させて集めているのか。
もしくは、小指一本まで、鉄アレイで鍛えているのだろうか。足のつま先一本一本までも鉄アレイで鍛えて
いるのだろうか。板に拳が当たる力は、板も拳に対して同じ抗力を発生させているので、
板を打ち抜く瞬間の全の力=全力は、石井の背骨一本一本まで走っているだろう。
ヨットが一本の柱で帆を支え、風の力を利用して進路を進航するように、背骨が魚の尾ヒレのように力を後ろに流しているのだろうか。
石井は打った後も、両足の位置に変動がない。 ある映画を見ていたら、
リーダーが、こいつを店の外につれだせと言うことになり、
男は6名くらいの男に囲まれて、道路に出てくる。
そこで一人で、囲んでいる六人の男達を、円を描きながら、全員急所攻撃のみで、
ぶっ倒してしまう。
石井の動画を見ていると、キックやフックを混ぜながら、急所攻撃をしているが、
映画の中では、キックやパンチをいっさい使わないで、腰をかがめて、
旋回しながら急所だけをつぶしながら、六名をあっというまに倒してしまった。
こういう使い方もあるのだと思った。
最初から腰から上の攻撃は、頭の考えから排除して、徹底的に急所のみに的をしぼっていた。
これなら、人数を心配しないで、すみやかに攻撃可能である。変に身体を上下に上げ下げしていると、
隙(すき)ができてしまう。動画では、ほぼ一発の急所攻撃を受けて、全員が痛くて、立ち上がれなった。
どつかれて意識が飛んだのなくて、急所が痛くて、腰に力が入らないみたいだった。 渡邊も石井もキモすぎ
女衒 坂口を利用して売名行為
渡邊なんて性格悪すぎて俳優として全く売れなかったから女衒坂口を頼ってキモすぎ 植芝盛平だったらさ、気でわかるんだと思うけど、
気の感応の修行は、まだまだということなんだと思う。
武蔵は、「遠いものを近く見、近いものを遠く見る」
と武術畢竟の言葉を残している。
これが達人の言葉である。
「遠いものを近く見、近いものを遠く見る」ということができなかったのだろう。
武の最奥儀「遠いものを近く見、近いものを遠く見る」という言葉が、自然と
口からもれたとき、達人の域に達したのだろう。 園子温に女貢いでたり、
女優の卵の首締めて喜んでた
キチガイ坂口利用して
映画デビューの石井って最低なバカだな 平等とは、厳しさを意味する。
実は、平等という言葉が、一番厳しい言葉なのである。
平等だからこそ、厳しいのである。
人間は、誰一人、次に何が起きるかわからない。
それはある意味で、平等なのである。
誰か一人でも、先読みができる人間がいればいいのだが、
神は平等に先読みができない人間を平等に作られた。
厳しいのである。次に何がおきるかわかる人間がいれば、それは人間ではない。
そんなことがおきることをなぜわからなかったのか。
これがわかれば、拳法なんか習わないでも、武の達人である。 坂口拓のインチキパンチ動画の続きで
漫画ろくでなしブルースの作者に
対して 前田タイソン 殺したい
と坂口拓が喚いてる キチガイ場面見て
気持ち悪くなった。こんなキチガイ利用して売名行為に勤しんでる石井もクズだな ハッタリキチガイ親父 坂口拓のインチキパンチ 全然効かないんだが???
3回レスラーみたいなオッサンの腹に御自慢のウエイブパンチで殴ったが
まったく効かずに、イラッときて相手の顔面殴ったキチガイ雑魚
坂口拓ww精神異常者
https://www.buzzvide.../6802924088814731781
坂口拓は、真正キチガイ
漫画のろくでなしBLUES「前田太尊 殺したい」って作者の前で絶叫してる精神異常者
雑魚w 坂口拓 ブチ切れてレスラーの顔面 自慢のウエイブパンチで
殴っても相手は倒れずにニッコニコ
https://sp.nicovideo.jp/watch/sm37132471 アクターと格闘家とは違う。海外の映画を見ていると、
ちょっとボクシングをかじったおっちゃんが、
監督が、君~ちょっとボクシングジムに通っているらしいね。
次の映画を頼むよ。ボクシングはリングにも上がったことがないのに、
映画に出演。役どころは、犯人から携帯電話が鳴る。
すぐに切れるのだけど、オトコはその一瞬の声だけで、
町中を探して、相手を見つけだす。その一瞬の声を記憶して、
相手を割り出す。映画を見ていてすごいなって思った。
相手を見つけて、お前だろ!ってなぐりかかる瞬間が、
な~んか、テレビで見るチャンピオンのボクシングより迫力があった。
つまり、ボクシングは、ヒョッコにもならないのに、一瞬の声を頼りに、
探し出す演技がすごかった。その映画から一躍トップスターの仲間入り。
ボクシングはできないのに、視聴者からのパンチをくりだすシーンの要望が
多いので、常にパンチを演技の中でみせる。
もう映画の中の人間と板についている。どのシリーズを見ても、見入ってしまう。
役者と実戦とは、まったく違うのだと思う。役者は、どれだけ漬け物みたいに役を漬けるかである。
武術家は漬けている場合ではない。相手を倒してから漬け方を考えればいい。
野郎は、漬けすぎ白菜役格闘家ということは、誰も知らない。
ブルース・リーの場合は逆で、本家が逆映画の中に入ってしまった感じである。 あるニュースを読んでいると、
テレビ局から飛んで来る電波をテレビでデジタル受信しているが、
家での電波の受信は、ややぼけているらしい。
すべての画像は、点(画素)の集合体である。あまりハイテックにすると、
風景の映像が、マンガみたいに線がはっきりして、逆におかしくなるらしい。
実物とはほど遠い人工的な絵柄となる。
ある程度、自然にならなければならない。テレビを作っている会社は、
うちのテレビはきれいに映しますと言っているが、受信する電波は、
家にたどりつく前に質や鮮度が落ちているらしい。放送局から送られてくる映像は、テレビに
届くまでに必ず劣化する。テレビ会社は、テレビがより強力に電波を受信する装置を開発しているのだとてっきりそう
思っていた。ないものは作れないらしい。つまり、悪い電波から、きれいな映像として
電波を作ることなんて無理らしい。ハイビジョンの映像を悪く映すことはできるが、その逆は技術的に無理である。
良い電波からは良い質の映像を映すことができるが、
悪くなった電波からは、それなりの画質しか取り出せないらしい。
画像を構成する一点の正確な位置がわからないからである。 そらそうだと思う。絶対に作れないらしい。じゃあなにをしているのか。
マジシャンが帽子の中からハトをいれておくように、テレビの中にハトを入れておけばいいと
いう考えをエンジニアは持ったらしい。
テレビ局が発信したその瞬間のデータを、
自分の家にたどりつくまでに劣化したデータを受信し、そしてテレビの中にある装置で、
この劣化したデータを分析させて、元のきれいな映像を推測させて、多分、このデータは、
元はこのきれいな色のデータだろうとテレビの中で、その劣化した色のデータが、このきれいな色の
データだったと認識して、自分の家のテレビの画面に映し出されているのである。
つまり世界中の映像は、すでにテレビの中に貯められていて、それを変換しているのだそうだ。
入ってくる映像と同じ映像を、前もってテレビの中に入れておいてあるのである。
建物でいえば、あらゆる部署があっちこっちにあるが、それをきれいに通路で合わせるみたいに、
テレビは整理しているらしい。それを六階建ての建物のように一階の上に二階のデータ室を乗せ、
さらに二階のデータ室に上がってきたデータを三階のデータ室に乗せ、順番にデータ室を六階まで
積み重ねた状態を、テレビの内部で作っているらしい。
これを石井ジークンドーで考えれば、創始者ブルース・リーのジークンドーを
石井データ六階データ部屋が縦に積まれている状態なのだろう。六階の石井ジークンドー・データ室内には、
ハトでなくて八咫烏エンジニアが居て、コントロールしているのだろう。 >>261
ごめん、ちょっと何言ってるかさっぱりわからない 手品師が帽子に石を入れたあと、その帽子を開けると石はなくなり、
代わって鳩が飛び出す。
箱には前もって鳩が隠されていたのである。
受信した劣化した電波の色があざやかな色になるように、
装置に学習させて、色のデータをよみとり、テレビの中でつくりかえている。
以前のテレビは、家に届くまでに劣化した電波を、そのまま色に変えていた。
現在のテレビは、届いた劣化している電波を、元のあざやかな色は
こうだったのではないかと推測して、それを顕出する機能がついている。
対象となった実物の映像の波形と関連性のある対象のあらゆる物体の色のパターンを読み出している。
テレビの中に、あらゆる色の組み合わせができるように、すでに映像のデータがあり、
それを取り出して画面に映しているだけなのである。
テレビ局から家まで届く電波を強力にとらえる力がテレビがもっているわけでなく、
電波が届いてから、テレビの中にある装置が、元の色はなにかと推測して、組み合わせて、
色付けをしているのである。トラの模様と、このドラマの家の家具の模様の境は似ているので、
混ぜてしまおうと絵描きみたいなことをテレビの中でしているのである。 あっちの物体の色、こっちの物体の色、あらゆる物体がもつ色彩を組み合わせて、
よりそれに近い色を作り上げている。欲しいのは、テレビ局の大きなアンテナから発信された、その瞬間の
データをそのまま受信できる強いテレビのアンテナなのである。
家に届くまでに劣化したデータを、元のすぐれた色に加工、編集する推理する装置の力を
テレビに求めているわけではない。ブルース・リーのジークンドーの教えを知ることにおいて、
テレビ局の大きなアンテナから発信した電波データを直接、感じたいという感覚といえる。
そのブルースー・リー自体が、自分が受信したジークンドーという概念の元のジークンドーの核に
1ミリでも近づきたいと思って練習していたのだろう。テレビ局の上に立っているアンテナより、
そのテレビマンが手で動かしているカメラのレンズに目を近づけたいという感覚につながっていく。
ジークンドーの場合、目にたんこぶができるかもしれないが。 北斗のケンシロウの場合、
頭の中が、帽子の中のハトのようになっているのだろう。
ケンシロウが目でとらえた石は、
ケンシロウの脳では、それを鳩として、外に出している。
その鳩は、すでにケンシロウの頭の中に隠してある。
ラオウの技を受けるとき、そのままラオウの技をうけているのではなく、
ハトという北斗の技を出している。
ただ帽子の中でじっとできるハトではいけない。
そしてさあ、目を覚まして、はばたきなさいと言うと、はばたかなければいけない。
この呼吸が難しいのだろう。うちの作ったテレビは画像がいいですよというのは、テレビ局の電波と呼吸があうということなのだろう。 石井のヌンチャクの動画をみて、
練習中、自分自身に当たることもあるんだろうなと思ってみていた。
多分、練習していく間に、絶対にヌンチャクが自分に当たらない軌道があることに
気付くんだろうな。わからないけど。
ブルース・リーの場合は、ヌンチャクが相手に当っても、
戻ってくる軌道に変化がない。
軌道が変わらないほど、当たった相手の軌道が変わるだけで、
ヌンチャクの軌道は微動たりともしないぐらいの隕石ぶち当たり状態なのだろう。
ヌンチャクが相手に当っても軌道を変えてもどってこないほどの回転力をふりまわす腕の力が
必要なのだろう。相手に当たるたびにヌンチャクの軌道が変わっていては、武器にならない。 石井ウンコ
他流試合じゃなくて 触りっこしてるだけ
ガチで殴り合えよ 雑魚。 ジークンドーを考えると、悩む。ブルース・リーはジークンドーをどこまで進化させたかったのか。
ブルース・リーは自分で勉強し、いろいろな技を研究し、
そして自分がこれだという技を残して、集めてジークンドーにした。
この間のテレビのニュースでは、
テレビを帽子の中の鳩であるといっていたエンジニアが問題にしたのは、
「デジタル化」はアナログの置き換えではない。
これをブルース・リーのジークンドーに例えると、
新しいジークンドーは、アナログのジークンドーの置き換えであってはいけないと
語るだろう。ブルース・リーのしていた頃のアナログ的ジークンドーを守りつつ、
新しいジークンドーの技も取り入れて行く。それがデジタル化ジークンドーであろう。
それはアナログ的ジークンドーの置き換えであってはならない。
するとアナログ的、保守的な流れをくまないジークンドーの技を見つけなければならない。
アンログの置き換えでない新しい技を見つけてきて、ブルース・リーに見せて、
うなずくか、どうかなのである。 アナログ的置き換えではだめだと言いながら、
ジークンドーの流れを走っている技でなければ、ブルース・リーは顔を縦にふらないだろう。
しかし、アナログの置き換えでないデジタル技を見つけてきて、目の前で披露して、
師匠、どうですかとたずねて、ブルース・リーがにこっととして、指で
自分の胸をさし、「感じろ」「それはいいだろ」と言えば、ジークンドーの技に含まれる。
すると、個人個人が持つ心の中のブルース・リーのイメージで、ジークンドーの技が含まれていくことになる。
ブルース・リーがうさぎのようなフックをみせて、すぐに背後に回って、
相手の耳の後ろに指をさすような技を教室で伝授するのだろうか。
ジークンドーは、ストリートの達人ということであれば、そうなのかもしれない。 ブルース・リーが、
天下一武道会が開催される島に向かうために、木の船に乗り込む。
ここが不思議である。香港で生活していたため、木の船が身近な存在だったのか。
あるいはブルース・リーは宮本武蔵の本を読んでていたため、
巌流島の戦いを再現したかったのか。
易では「混沌」を太極として捉える。つまり、ブルース・リーが島に向かう前の
心境は、「混沌」である。ここでジークンドーのマークが現われる。
戦った後は、勝利か敗北か、決着がついているので、それは「混沌=太極」ではない。
そして小舟は、木で作られているから易の中の木気を示すのだろうか。
小舟は、乾いた木で作られているから、乾の卦を示しているのである。
「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」の八卦の中の乾を示している。
そして、龍は、乾為天をつかむということなのか。
太極ができた次には、天地乾坤の二元の派生を説く。二者が、戦う。
子即混沌、陽気と陰気として相混ずるところ、万物の萌(きざ)すところ。 ブルース・リーのジークンドーのマークを見ていると、
ブルース・リーはツキを重視していたのではないかと思えてきた。
目に見えない何か、目に見えない動いているもの、それはツキといえるかもしれない。
ジークンドーとは、自分の身体をコントロールする訓練ともいえる。
最終的に、最終ジークンドーとは、自分をコントロールすることで、
技を操る術である。自分を操る力を身につける訓練である。
ブルース・リーの哲学は、自分を操れる人は、ツキさえ操ることができる。
そこに究極的に一人、武の峰に立って、ジークンドーを開発したのかもしれない。
石井が弟子と水鉄砲を使って練習しているのを見て、そう思った。
石井が氷の板を割るより、必死な構えで水鉄砲の水を除けていた。氷より流れる水に向かって闘志を燃やしていた。 和辻哲郎「風土」に従えば、
日本人はモンスーン風土的な心をもち、温帯性低気圧的で台風的な性格を
身につけるようになった。日本人の心は両極端の状態を
いったりきたりして、安定線上にとどまることを知らない。
日本人は、荒々しく制御しがたい力をだまって耐えしのび、
禁欲的(ストイック)に服従する美徳をもつ。毎年、台風が上陸することにより、
受け身へ導かれ、忍耐強くまつことを自然と学ぶ国民性がある、と自分の意見を述べている。
台風の道となっている地域の武道と、台風が通過しない地域での武とは、
やはりどこか違うのかもしれない。
なんとなく日本的な武道とは、受忍後の攻がある。台風が過ぎるのを家の中でじっと待つように。
黙って相手の攻撃を受け続けるみたいなところがある。相手が攻撃しかけられたら、同時に攻撃する
武が海外では多いが、日本的なのは、相手の攻撃中は、こちらは防御に集中する。
攻撃側になったら、相手は今度は防御の構えとなる。
海外では、なにも言われなくても攻撃即攻撃するのだけども、日本はなんとなく、攻撃即防御の防御で、
攻撃をしなさいと言われて気付き、攻撃を開始するところから学ばなければいけないところがある。 >>248
そりゃ映画の殺陣なんだからそれぐらいできるでしょうよ。武術だとは言ってるもののブルースリーの物真似って感じかな。でも長年のブルースのファンだった物の目から見て石井はよーく真似してると感心する。物まねのレベルはかなり高いと思う 石井が、相手の手の動かし方、
そして足を前に出し、後ろ足をやや斜めにするとかの説明したら、
教えてもらった人が、急にブルース・リーみたいな動きになっている。
石井がワンインチパンチを伝授しているとき、
ワンインチパンチに回転を入れると、さらにパワーアップするよってアドバイスしていたが、
回転させていると、それだけ相手に当たる間があくのではないかなと思った。
パワーがあるほうがいいのか、なるべく当たる時間を短くしたほうがいいのか、難しい。
自分としては、回転より、速く突くほうを選びそうである。
スクリュー式ワンインチパンチを一回当てるより、真っ直ぐなワンインチパンチを速射砲2回当てるほうが
いいと思う。ジークンドー・マスター石井は、一撃でワンインチパンチをきめたいという思想があるから、スクリュー式を推奨しているのかもしれない。 ワンインチは本人が言ってる通りデモ用で実践用ではない
だからスクリューで正解 コルク栓を抜くようにスクリューが大事なことが理解できました。 テレビで芸能人が言っていた。
基本的に、自分の生命を粗末にしないで生きていくことを第一義に置いている。
第一義なのか。第一義においているのか感心して聞いていた。
だから、最悪の状態を未然に防ぐことが最優先だ。
死んだら元も子もない。元気で充実した人生を送るためにも、ぜひ活用してほしいと
言っていた。
ジークンドーの場合、未然に防がなければ、
自分が逆に相手に死を与えられる可能性があるかもしれない。そうなると、
二回目のパンチで倒せばいいかなと思っていると、自分自身が死んだらそれも、元も子もない。
最初に一撃することが、結局、自分の命を粗末にしないことになるのかと思った。
ラオウは常に、それを想定して鍛えていたが、ケンシロウに破れたのか。
ケンシロウの拳は、未然為未然の拳であった。 未来は、きちんとワンインチパンチのように、
足を運んでいた。前足と同時に後ろ足をやや角度を
かえていた。あの状況から、メイウェザーの背後にスッ(SU)と回る。 北斗神拳、南斗聖拳があるなら、
西斗神拳、東斗神拳がなければならない。
すると西斗月拳が登場している。
西斗日拳も登場していた。 タクちゃんねるで
ヒロ渡邉が纏絲勁(てんしけい)をみせていたが、
あれは耐えられない気がする。
一気にハチの巣からハチが飛び出し来るような気のねじれのパンチだな。 石井と平良の試合に向けての戦いをみたら、
矢地の動画に突然、現れたときと違い、なにか、
合気道プラス1(=プラス ワン)みたいな感じに見えた。
相手に接近するのはジークンドーの動きで、
近づいたら、足と足で合気道的に技(プラス ワン)をかけるみたいな、足技のみ合気道
みたいだった。夜空の星がクロスするように、相手の足と自分の足をクロスしていた。
エジプトのピラミッドの夜空で、星がクロスして、守護者スフィンクスの翼が羽ばたくような石井の足技であった。 海と石井がジークンドーで戦っていたけど、
前回に比べて、海はジークンドーをマスターしていたような気がした。
最後にワンピース・ルフィーのような伸縮自在の腕によるパンチが出てきた。
海は会場で警棒をふりまわしている人間を取り押さえたからな。
やはり石井のジークンドーを学んでいるだけあってうまかった。
感心した。もう少し暴れていたら警棒を取り上げて、そして海は
青い空から重力に合わし腕をおろす感じで、相手の胸に対しワンインチパンチをするんだろうな。 たくちゃんねるにヒロ渡邉が登場しているが、
あの技を出されたら、どうしょうもない感じがする。
天穴を押さえるなんて、想像もしていなかった。
穴所に対しての攻防コンビネーションが絶妙である。
気血エネルギーをくるわせて、戦闘能力をなくさせる技であった。 なんでもいいからパフォーマンス以外で魅せてほしいな
どうせルールガーって言ってなんの試合にも出ないんだろうけど 矢地の試合を見た。あのような試合もいいと思った。
いろいろな技を修得しているが、小技をみせない戦い方。
ジークンドーの技を知っているが、使わない。
正攻法のレスリングをする。しかし戦いの場、実戦の場、試合の場で、
持っている武器をあらゆる場面で使わなければいつ使うのだろうか。
さやに入れたままだとすぐに刀は錆びてしまう。
覚えた技は、すぐに使ったほうがいいだろう。
しかしそんなにはやく錆びてしまう技なら、それはジークンドーとはいえないだろう。
矢地が学んだジークンドーは錆びない。 ブルース・リーが言う。
拳を突き出す時、拳をただちに防御の姿勢に戻す。
しかし、この際気をつけなければならないのは、腕を引くのではなく、
自然に腕の力がぬけて戻る感じで引き戻すのでなければならない。
ちょうど平良が、試合終了の笛を聞いて、自分のコーナーにもどるときのような、
あの腕の力を抜いている感覚を試合の中での拳の突き上げ、突き戻しに使うと
いいかもしれない。 ここのスレ下にいくほど純度の低い文になるのはそういうもん?
それはさておき文に変換時点で少なくとも事実とは純度が離れてしまうのは必然、また複雑なため嘘や真実は再現なくわからなくなる。
しかし残酷なことに火のないところに煙は立たない。ここは嘘を嘘と見抜くなんてレベルをとうに越したところまで絡まっていると少なくとも私は見る。
ここで苦しい人はいないか?苦しいなら一度全ての事象を平等に見るが吉。
ここの全てをならべてみよ。それはもう快感だぞ。
私はここにある無神経さは憎いw
仕方ないことは知っているがいかんせん人だからなw
1人勝手に気持ち良くなってやる。
どうだこれは強そうだろう。 意識の進化が先行する。
事件や出来事よりも、意識の進化のほうが先行して起こる。
この考えでいくと、新しいジークンドーの技が編み出されて、
そして新しいジークンドーの考えが現われるのだろうか。
そうではなくて、
ジークンドーに対する意識が進化して、
そして、次に新しいジークンドーの技が編み出されてくる。
新しいジークンドーの技を身につけたとき、そのとき、新しいジークンドーの技が
開発されたのではなく、すでにジークンドーとしての意識が進化されていたと
考える。
ブルース・リーがヌンチャクをもって、ヌンチャクを振り回す技を見つけたのではなく、
すでにブルース・リーの内部にあるジークンドー意識が進化されていたと考えるべきであると
思った。ブルース・リーがヌンチャクで卓球しようと思ったのは、
すでにジークンドーの意識が進化完了していたのである。
リーがヌンチャクでボールを打った後で、ジークンドーに対する新しい考えができたわけではない。
常にジークンドーとは、他の武技と違って、意識の進化が先行する武技の道なのである。 石井が、瓦割を片足を上げたままの状態から、
ワンインチで割っていた。
腰からしたがわの力をまったく使わないで、割っていることなる。
拳の衝撃だけで割っている。
板と拳が当たっている小さな面積だけで衝撃を与える。
野球のバッドで言えば、遠心力的一点拳なのだろう。
バットを持たないで、拳を振り抜く感じなのだろうか。
矢地は、日が明けるのは近いぞ。早いぞ。 試合を見ていると、
ランダム的なパンチが飛び交い、ケリのランダムをくらうと、
倒れてしまう。先を読んではじめたつもりでも、リングでゴングが鳴り、具体化していくにつれて、
見えなかった試合運びロスが出てくるものだ。あとで気づいても、そのときではもう遅すぎる。
相手に自分の動きを制されているのである。試合を観察していると。なぜなのだ。
ジークンドーの練習をしていたのに。
相手のランダムの性質を読むことがジークンドーなりか。
左を制すものが世界を制す。
ランダムの性質を制したものが、ジークンドーを制す。
なりか。ジークンドーとは、ランダムの性質を試合中に読むことなりか。 レストランに行く。
そしてメニューを選んで、料理が来る。
食べる。料理を口の中に入れて、脳があれ?味が違うぞと感じる。
イメージしていたのと味が違うと、脳があれ?っと瞬間に思う。
料理番組でも、芸能人がいろいろ会話をしながら、説明を聞いて、
料理を口の中に運んだとき、ものすごくとけるとか言う。
思っていた感じと、イメージが違うのである。
ところが、ホームセンターで道具を購入するために、手に取る。
脳は、いろいろと思索を開始する。脳は、味わうことはない。そこには味覚が存在しないからである。
宮本武蔵は、食事中にはしで飛んでいる虫をはさんだといわれている。
これは、虫の目を見て、瞬間的に動きをつかんだのではなくて、
味覚的に武蔵はランダム性ではさんだのだと思う。道具を手にする感覚ではないと思う。
ジークンドーの攻撃を受ける感覚は、こういう違った感覚なのだろう。
武蔵にとって、人間の動きは、虫が大きくなっただけという感覚で、自分の足を移動させた。
相手は、道具を選ぶ感覚で戦う脳を動かしたのだが、武蔵は、手の感覚でなくて、脳の味覚的、味的感覚
二本の刀を同時に振りおろした。だから相手は、自分が斬られたという感覚が生じていない。
ジークンドーの技を受けている感覚を動画で見ていると、いつもみんながアレという感じをだしている。 >>294
ちょっと何いってるのかわからないんですけど ヒクソンと船木が試合をしたけど、
ヒクソンが腕を緩めても、船木がリングの上で意識を失っていた。
なのに、ヒクソンは近づいてきて、船木の背中をけりとばした。
試合後、どうして結果が出ているのに船木をけったのですかと質問したら、
船木の意識を取り戻すために背中をけったと言うのである。
ヒクソンのけりは、意識を失わせるけりと意識をとりもどさせるけりの
二種類があるということである。
ワンインチパンチの進化系は、意識をとりもどさせるパンチができるようになったら、
意識を失わせるパンチができるということである。
相手を気を取り戻せるパンチを当てる瞬間に、脳のスイッチを相手が気を失うパンチに変えるという感じかもしれない。
すると相手は気を失ってしまう可能性があるので、あくまで相手が気を失わないパンチを打っていると脳に
信号を送る。
石井が相手にミットをもたせているのは、こういう感覚なのかもしれない。 石井が胸をたたいて、そのはじかれた拳をそのまま
おでこに向けて当てていくと教えていた。
この相手の胸からはじかれた勢いをおでこを叩く力にもっていくことが大事であると
説明している。
簡単そうで、難しい。たたいてその反動がうまく胸から頭に、拳の先にその力をためたまま
運んでたたくことが可能なのか。胸からおでこに腕が運んでいる間に、その拳の先に先ほどの胸の反発力が
残留したまま、力の転移をすることがジークンドーなりか。
ジークンドー・マスターのみが達する世界、悟達の世界といえる。相手の胸を叩いて、その反動の力までも拳にのせて、
さらにワンインチパンチをくりだす。ジークンドーマスターのみが辿りつける世界といえる。
この理論でいけば、相手のふとももをけった勢いで、その反動力も、足のつまさきにのせて、次のワンインチキックすべしと
いうことなのだろう。 「絶対にオープンフィンガーの方が危ないですからね」
平本が言っている。
未来とメイウェザー戦について。
グローブをつけたのと、つけていないのと違いがある。
未来はグローブを相手がつけていたので、ダメージは残っていないと平本は解釈している。
まだまだ戦えていた。
日頃、オープンフィンガーで戦っているものが、グローブでなぐられたからといって
ダメージがのこるわけがない。
ここがわからない。5階級制覇をしたメイウェザーのパンチはグローブをつけているから
効かない。平本は生徒のみんなに言うのだろう。「グローブをつけているから効かない」って。
こういう感じなのかもしれない。波動パンチを胸に受けることも。
まず、頭の脳の抱く技のイメージと実際に胸で受けて、受けた胸の気持ち。
胸が信号で脳に、痛いよって伝えてから、脳が痛かったのかと反応する。
つまり痛みの信号が、当たってから電車のようにゆっくりと次の駅に向かう感覚なのかもしれない。
それが拳のままだと、それを目で確認して平本の脳と胸は同時に痛いぞって即反応する。
これをジークンドーの反射ステップに活かすべきだろう。然り。 真の武術家と武術家の違い。
それは松竹梅という流れを戦いの中で持っているかということだろう。
松で始まり、竹で試合の流れをつかみ、梅で、相手を取り押さえる。
ボクシングの場合は、この松竹梅の拍子がないのである。
松松梅とか、梅松松みたいな試合の流れがボクシングの戦いみたいなのである。
宮本武蔵の場合は、松で始まり、そして竹を見て、そして梅で決着をつける感じである。 見ての通りコロ助は糖質ナリ。
お手柔らかにしてあげてナリ。 武道の極意は、守離破なのだが、
その上の拍子として
松竹梅を考える。 ブルース・リーは二元式ジークンドー、
タオの印を道場に飾っている。陰陽のマークである。ジークンドーは動であれ、静であれ、動の中の動があり、
動の中に静があり、静の中に動があり、静の中に中静がある。
アウトストリートの中に、インストリートもあり、インストリートの中にもアウトストリートがある。
野球でいえば、前を走っている走者を追い抜いたら、アウトであるルールである。
普通のスポーツでは、前の走者を抜くことが大事なのに、ベースボールではだめなのである。
ルールで縛られた競技である。ジークンドーはそのベースボールの逆で、いかに自分の頭の中にあるルールを解除していくかという
競技である。頭の中に存在する概念という前走者を抜かなければならない。
ストリートとは、そういう戦いなのである。一方で、ジークンドーはタオのように、
徹底してルールというものを固めていく。足のステップの幅、向き、タイミングの間の抜き方など、
徹底的に固めていく。そして解放していく。そして解放から集約する。集約の中にある解放。解放の中にある集約。
ラグビーは、集約型の中の集約型の技の錬磨ともいえる。
いかに相手に集約的体当たりができるかという集約中集約なのである。集約中解放だと相手を解放したら、走行しながらボールを味方にパスされてしまうからである。
ジークンドーには、味方にボールをパスする秘技は必要ない。ボールは、自分でもったままでいいのである。
誰にパスをする必要がない。それが奥義であり大事な哲学である。ヌンチャクは自分の手でつかんだままにしておけ。 超絶・最強メッソドというのはあるらしい。
書を書いて気功を行い、文字を飛ばす書道気功による攻撃。
強力な気を持つ物体の粉末を墨汁に入れてパワーアップさせる。
そして拳を突き出すと、目に見えない拳が相手に向かって飛ぶ。
炭火の前で踊り、円を描き、火のパワーを吸収する炭気功による攻撃、
ありもしない匂いを出現させる香りの香気功による攻撃、
こうした気功は、普通の武術気功から見ると非常に神秘的である。
とはいえ、武術気功法の奥行きを考えるとき、決して等閑視できないものでもある。
ワンインチパンチの一点集中力の進化系ともいえる。 石井が「旅が始まったばかりだ」と言っていて驚いた。
石井のワンインチパンチを動画で見て、その使い方を天心、海、矢地に教えていた。
手を上に伸ばして、下に軽く降ろす。ミットの響く音がよくなってきたよ。
それを見ていて、術の旅は完走したと思っていた。もう何も学ぶ必要はない。
これだけ学べば良いと思っていた。石井がジークンドーはブルース・リーが世界中の武術を調べ、
その中で、これは大事だという技をブルース・リー自ら選択し、
われわれに教授してくれたものである。
この自然の石をみて、彫刻家が石を削るように、世界中の武術という自然岩からジークンドーという流派を
ブルース・リーが彫り出したのであると言っていたから、これがブルース・リーの武芸旅の到着地点かと思っていた。
ところが、石井は、毎日が「旅が始まったばかりだ」と言って気合を
入れ直している。これから、旅が始まるのかって驚いた。もう旅行の目的地についたばかりで、
あとは観光するだけでいいと思っていた。矢地の動画に登場してからずっと、目的地についていたと思っていた。
現地についたなって思っていたら「旅がはじまったばかりだ」と言われて、びっくりした。ジークンドーは終わらせる究極の技だと思っていた。
ストリートで相手を終わらせても、ジークンドーの旅ははじまったばかりだということになるのか。 イメージとして、
北斗のケンシロウのイメージが強いと思われる。
町を救ってくれた方のお名前を聞かせてください。
「ケンシロウ...」
あなたの名前をこの道の名前とします。「ケンシロウ・ロード」。
自分の名前が道として残るくらいの武芸は大事だと思う。
奥義というのは、不思議なもので、奥義を教えてもらった途端、それは奥義でなくなってしまう現象が
起きる。
しかし、それが奥義でなくなった途端、それは奥義となる。
資料とかでこれが奥義だって書かれてあって、当時は、これがようやっと奥義を手に入れたと感動する。
しかし、数年後、その技を自分のものしてしまうと、同じ手本を見ても、
それは奥義には見えない。見えないということは奥義が通常技となってしまっているからである。
奥義が通常になるまで練習して、通常になった奥義となる。すると通常になる前の技をわすれてしまって、
それを師匠に教えてもらうと、それが奥義となる。それを練習すると、最初の奥義のコツをわすれてしまう。
今、一番練習している技がすなわち奥義である。日頃、練習していない技が、奥義として活躍するのだろうか。
日々の練習こそが奥義であり、今こそ奥義を使うときだと思う時に、体が反応できなかった場合は、反奥義となる。
クレベルの試合を見て、反奥義でダウンしたと思われる。 スポーツと武芸は違うような感じがする。
マイケル・ジョーダンのバスケットの奥義、
メッシのサッカーの奥義、
武芸の奥義とは違う感じがする。最奥義の場合、
北斗と名付けられているので、星の配置と関連性があると思われる。
マイケル・ジョーダンのバスケットの奥義、
メッシのサッカーの奥義には、星の配置と関連性はない。
ただコートの中で競う合うだけである。
ラオウとケンシロウは、時間はたくさんあるのに二人は戦わない。
しかし夜空の北斗を見て、一瞬輝くのである。戦うときが来たと。
ケンシロウは、秘孔をただながめているだけでなく、夜空の星の輝きの配置を見るように、
何かを見ているのだろう。夜空の星の配置を見て、なにを語っているのかわからない。
しかし、何を語っているのかわかるようになったとき、拳に北斗の妖精が宿るのかもしれない。
そして相手の人体に星の配分と変化を読むことができるようになるのかもしれない。
達人の域である。拳にすべての力を、集めると言っているが、まさに全宇宙の星を一ヵ所に集めるような
集中力を拳という一つの全宇宙に集中しているのかもしれない。
ケンシロウもラオウも本当に一身に体全体の力をぐいぐいと拳一つに集めているのかもしれない。
そして耐えるほうも一身に力を胸板に力を凝縮させているのかもしれない。 ジークンドーと映画の中のブルース・リーの動きがなんとなく
違う感じがする。ブルース・リーの映画の中の動きが陽のジークンドーとすれば、
道場での動きは、陰のジークンドーだったのかもしれない。
映画の中の動きも、道場での動きも、両方がジークンドーなのかもしれない。
両方が影響を与えているのかもしれない。
宇宙には二つの太陽を持っている惑星があるかもしれない。
ブルースリーのジークンドーは、二重の星からの引力を与えられた惑星におけるジークンドーの動きなのかもしれない。
三つの太陽を持っている惑星なら、それに対応したジークンドーなのだろう。
地球なら、太陽と月の影響を考えてのジークンドーなのかもしれない。それをふまえてのジークンドー・キックなのだろう。
月で戦うなら月でのジークンドーの姿がある。ケンシロウが夜空の北斗をながめているとき、もし北斗の星の地表で
ラオウと戦ったならばと、その戦い方法を思考していたのかもしれない。月には28の姿がある。
北斗の構えも、28曜の姿が円を描くように存在する。 グリーン・ホーネットと違って、
ドラゴンの映画に登場するブルース・リーは同じラインのようで、同じではない。
グリーン・ホーネットのときに比べて、
ドラゴンの映画は、カンフーを前面に打ち出している。
徹底的にカンフーを押し出している。映画を見ていると、あらゆる武術の中で、ブルース・リーが獲得した
武技、すなわちジークンドーが最高峰であるというラインなのである。
いかなるジークンドー、カンフー以外の武術が、そこに入ってくるような溝はまったくない。
完全に塞がれている感じである。完全に塞いでいるのである。
ところが、映画の撮影現場以外のところでは、新しい武技を探して、研究熱心なのである。
ここが難しいところなのである。映画の中のジークンドーは完璧で、これ以上進化しようがないほど進化の極みが
ジークンドーなのである。ところが、映画の撮影時間以外は、新しい武技を探し求め、
さらに進化させようとブルース・リーの意識が進化を求め続けている。
そしてその技を映画の中で使うと、また次の新しい技の研究に突入する。
そして次の映画に使う。映画の中で発表しない武技は、道場の中だけの身内にだけこっそりと教える。
道場で、ブルース・リーが、この技を取り入れたらと言ったときから、それがジークンドーの技のレパートリーとなる。
そしてもしブルース・リーが生きていたら、この本に書いてある技もブルース・リーは喜んで取り入れただろう
と推測して、これもブルース・リーが推挙したはずの技であり、今日からジークンドーの新しい技として仲間入りしましたという
ことなのだろう。つまり教える側の頭の中にいるブルース・リーが、すべての源になるのである。
そう考える。教える側も、教えられる側も、お互いの心の中にいるブルース・リーが共鳴してこそ、ジークンドー道場は成立するものなのだろう。
道場の先生は、相手の心の中に存在するブルース・リーも、同時並行で鍛えているということなのだろう。
本人も鍛え、そして本人の中に存在するブルース・リーも強くしていくことで、本人も、仙人の住む雲がかかる山頂で、キックができるようになるのだろう。 ヒロ師匠が拳を突き出す前に、
なにか作法みたいな動きをしてから、パンチを出していた。
神を降ろして、撃ちましたと言っていた。
神を降ろして、打つ。
ヒロ流は、拳に縦糸が十分に織り込まれている武なんだと思った。
この縦の糸の波動伝達度は速くて高い。
この縦糸は神界から垂れさがり、神界に吸い込まれている。
この縦糸を神道といってもよいだろうし、日本精神といってもよかろう。
縦糸を伝わって、他者と交通する。
拳の先に神霊の縦糸が、そこから現実界に通じている端子となっている。
この拳の先にある端子は神界に通じているため、相手の腹の中で右旋、左旋のうずめとなっているのだろう。
この端子は永久でなければならない。さればこそ、それは拳は石のようにつよくしなければならない。
石を神として祀り、石に神が宿るからである。
石拳、鉄拳、柔拳が縦糸の端子となり、それで相手を打つ。キックする。 がまがえるは、両眼の辺りから幻覚作用のある毒を分泌する。
これがガマの油の正体。
大阪夏の陣や冬の陣で負傷した兵隊の傷薬として使われたらしい。
ガマの油が幻覚を作るらしい。
忍術は、ガマの油なのかもしれない。 アサガオも幻覚をつくるらしい。
アサガオの種は食べてはいけないらしい。
なんとなく身の回りの草花は、人間にとって幻覚を発生させるみたいだ。
ブルース・リーが、たくさんの鏡に囲まれた中で戦ったのは、
自分の幻覚においても、ジークンドーで
破らなければならないということを意味していたのかもしれない。
実際にブルース・リーは幻覚の中で、多元なジークンドーの技の練習を
していたのかもしれない。幻覚の霧に囲まれた脳の中で、己の直感は迷わせず、
相手の動きをつかみ、己の技を的確に打つ。 前回の動画で、なんかジークンドーの生徒さんが、
なんか手を上げて、手相占い師になりましたとか言っていたような感じであった。
ふーん、ジークンドーの練習もして、家で手相の本を買って、読んで、いろいろな手を見て
修行されていたんだなとか思っていた。
もしかして、石井はその生徒さんに今回、
手相をみてもらっていたのか?なんか、将来的には、道場の数を今より減らしたほうがいいですよとか、
47歳以降からは、道場の数を減らそうと本格的思うと手のスジに表れています。
そして道場が減り、困る生徒さんが大勢出てくると手相に出ていますね。
石井は当たっているよと言っていた。
生徒さんに道場の数を減らしたほうがいいですよと言われている石井がおかしかった。
ジークンドーの中心線が大事だとか、こうやってこう曲がって、ここで足をひっかけて、後ろに押すみたいな
感じで手相のスジの流れと枝わかれをお弟子さんは読んでいた。
みんなのジークンドーの修行が進んでいると思った。 ケンシロウとラオウの戦いが、ザ・ファイナルとするならば、
その戦いの意味は、宿命をもった二人、天命をもった二人が、その宿命を完成させた戦い
だったからだろうと思えてきた。
生れた時からその宿命が運命に内設(ビルトイン)されていた。
ジークンドーとは、ブルース・リーが外に対して技を求めながら、
実は、最初からブルース・リーの内側に川のように流れていた。
ジークンドーはブルース・リーが生まれた時から、内設されていた武技
だった。ブルース・リーが女性の腹から生まれたのではなく、
ジークンドーが女性の腹から生まれ出てきた。ジークンドー自身が、
腹の中で身籠ったと考えられる。それがドラゴン・ボールである。
ブルース・リーは、けりやパンチを出しながら、そのけりの上、拳の上で
ドラゴン・ボールを転がしたり飛ばしたりドラゴン・ボール遊戯をした技であった。
ドラゴンの道である。
生徒さんに手相のスジを見てもらっていたが、宿命、天命を知る道なりか。ドラゴン... 「天繩文理論これから2500年続く皇の時代」
「いよいよはじまる、皇の時代 : 天縄文理論はどのように生まれたのか」
小山内洋子
「皇の時代」が来るらしい。
ヒロ渡邉の皇流の武技もこの流れなのかな。
縄文の波動文化を武術に取り込んでいるのかな。 そんなもんはない
ムーに書いてあるようなことをいちいち真に受けるな ヒロ渡邉が、
ジークンドー式相撲取りをしてみせた。
驚いた。
力士の足がつくる三角形を見て、その頂点に当たるベクトルに対し、一点を押して、
相手を倒していた。ヒロ渡邉が解説してくれなければ、絶対に理解ができない。
この技は、押しているだけだが、この技にワンインチの合わせ技にすると、
さらに絶妙な効果があらわれてくると思う。
力士の後ろに作られる三角形の頂点に、武のコンパクト群があったということだろう。
ある限られた空間ににスキマなくものが詰め込まれている状態をコンパクト群と呼ぶ。
はじめから背後にあるコンパクト群の一ヵ所に力を集まらないようにしなければならない。
ワンインチパンチを背後のコンパクト群に受けると大変なことになることがわかった。
自分が持つ全体の和がゼロになってしまい、簡単に後ろに倒れてしまうことは明らかである。
さらに0.1秒だと、技を受けることは容易ではない。ドラゴン。 最初から、自軸を崩したワンインチ方法を教えてくれたらと思うかもしれない。
ところが、伝説の武道家も、日々、鍛錬を繰り返しているから、
ふと、瞬間に、新しい技、さっきまでとまったくホワイトクロスでなくてブラッククロス的な、
さっきまで正しいと伝えていた技が180度逆の軸を基軸した技を発見する場合がある。
天才だからこそ、日々、昨日教えた技を、まったく違った方向で否定していた技を
否定し、さらに否定する形を取る場合がある。それは天才武術家の持つ悩みなのである。
これは、険しい道ほど、必ず出現する。
そのサイクルは、何十年に一回、彗星が地球の近くまで接近するくらい、
突然、前日までの技を否定する技のひらめきが脳に、何も語らずして武道家の脳の中に、芽を息吹く。
それが、基本を少し形を変えての定理だったらいいのだが、
まったく軸をぶれないように打てと言っていたのが、軸をぶれながらのほうが、全体重がのっていいよと、
説明定理が、北極と南極の磁軸が逆転するようなことを言う必要が出てくるということが理解できる。
常に陰と陽は回転しているんだよと説明していたが、まるで洗濯機の回転みたいに、左回転していたのが、次に
右回転して回転すると洗いが良いみたいな感じなのだろう。赤龍と青龍が回転しながら武の天空を昇龍、ライジング ドラゴンなりか。 動画を見ていると矢地が普通の感じの縄跳びをしていた。
ボクサーは縄跳びをいろいろな型で飛んでいるみたいである。
https://www.youtube.com/watch?v=Dsgc5P30dY8
多分、フロイド・メイウェザーなんて、もっといろいろ工夫して
縄跳びをしていると思われる。ジャンプはジークンドーに比例する。 剣仙が、一子相伝最奥義ともいえるかもしれない。
これはある気の武術家が、ふと目にした一文があり、それ以降
この剣仙について書かれたエピソードに遭遇したことないと言っている。
古今東西で剣仙人について書かれていたのはたったその一行だけなのである。
それほどすごい技なのだろうか。
ある男が、山道を歩いていると、一人の女が途方に暮れていた。
声をかけたところ、泊る宿がないみたいなので、自分の家に連れて帰った。
すると、ドアを叩く音がする。ドアを開けると、一人の僧が、誰か来なかったかと聞く。
おかしなことを聞くなと思いつつ、一人の女がいると告げる。
すると僧は、それは皇帝のところから逃げた妖怪であると言う。
お前はドアを閉めて、外で待っておれ。
家の中ですごい音がした。
一晩過ぎて、何事もなかったように僧が家から出てきて、帰っていった。
男が部屋に入ると、部屋中の壁や物に、なにか鋭い刃が当たったような傷がのこっていて、
赤い血で塗られていた。
僧は鉄でできたような剣を持たずに、部屋の中に入っていったので、気でできた無数の目に見えない刀を使うといわれる
気の飛刃術の達人であったのかと悟った。
これが究極の伝説の武であると気の武術家が語っており、武術家は、現在その剣仙の修行に日々送っているそうである。
ヒロ渡邉が、手が真っ赤に燃えている鉄球のように熱くなる、熱くなると念じて、念玉入りパンチを放っていた。
この動きを見て、気の飛刃術に似た感覚をおぼえた。鉄球をイメージするのでなく、鋭く飛ぶ刃をイメージして、拳の先から放つ
感じなのだろう。相手は、そのイメージの刃で、かまいたちに遭ったような状態になる。
それも伝説の剣仙の場合、それが乱れ飛び、刃が乱舞するのであろう。 http://img-cdn.jg.jugem.jp/69c/3898264/20201127_1979654.jpg
魔法陣の中央に座り、描かれている剣をイメージして、
相手に向かわせる。
するとなぜか相手は負傷する。
自由自在に操れるように練習をする。 なんだこの怪文は
今流行りのChatGPTってやつか? 武器の瞑想に習熟できたら、
神将の制御術である。
瞑想によって多数の神将を空間から出現し、
相手の瞑想による神将と戦わせる。
この場面は、ケンシロウとラオウが、お互いの多数の分身が
二人の上空で戦い合わせるシーンを彷彿させる。
召神将の術、神飛ばしの術ともよぶ。
ヒロ渡邉が不動明王のバリアを張りましたというのも、
一子相伝最奥義である気ノ術法ジークンドーなのだろう。 剣仙
これが、難しい。仙道の内功、外功による方法から入ったら、
マスターするのに大変な期間が必要となる。
剣仙がすすめたい方法は、
仙道のイメージ法に、パワーを発する物体を組み合わせるのである。
イメージ法というのは、色を使った瞑想をさす。現実の自然界のエネルギーに対応する色を使うのである。
パワーの物体とは、神秘図形(多分、魔法陣とか)、大地の特異点などのように、
強いパワーを発しているもののことだ。
このように剣仙は説明している。
飛刃を想像して飛ばすとき、パワーを発する物体を組み合わせたほうが良く飛ぶと言っている。
剣仙は、魔法陣のマットの上とか、大地の特異点がある場を探し、その場に立つことが大事だとすすめている。
ジークンドーで地球の引力を味方にせよというのは、パワーを発する物体とジークンドーを組み合わせているのだろう。
ジークンドーをのせるパワーを発する物体を、瞬間的に見つけだすこともジークンドーなのだろう。剣仙ドラゴン。 風姿花伝 神儀(じんぎ)に云(い)はく
天照大神
岩戸の前で神楽を奏し
細男を演じられた
天の細女尊が進み出られ
歌声を上げながら、庭火を焚き、足を踏んで足音を響かせ、何かが乗り移ったように、
踊り狂いなさると、その楽しげな声が、岩戸の中まで聞こえた
https://roudokus.com/Fushikaden/04.html
いろいろ伝わっているそれぞれの芸の一子相伝奥義を読み比べてみると、
古来の日本神道の神々が必ず登場することに気がついた。
つまり、古来の日本神道の神々と結びついての文章が始まって、
それは一子相伝奥義と認められていた過去の時代があったということなのだろう。
合気でも、岩戸の前で武を演じるみたいだけど、
一子相伝奥義とは、岩戸の前でその技を披露し、
阿波で渦を巻き、岩戸で岩戸開きができなければならないということかもしれない。
渦を巻くというのは、宇宙全体が渦を巻きながら回転していることを指して、まさに天照大神状態である。
真のジークンドーの完成である。 https://ae01.alicdn.com/kf/Sc5adecc079d14c60a8090eb6d9db2310B/Abs.jpg_Q90.jpg_.webp
剣仙が言うには、
ドッジボールみたいなものに太極図を描いて、
バウンドさせたり、自分の身体の周りを回転させて、
繰り返していくと、ものすごくはっきりとした気の感覚を
つかむことができる。
手を摩擦して気の感覚を出す。
ボールから出ている強烈な気の感覚を感じる。
強烈な気の感覚をわかること。
慣れてくると二つのボールを使って運動すること。
さらに慣れてくると、まったくボールがない状態で、ボールがまるで
手の中にあるかのようなイメージをし、その手つきを保ちながら
動作を行っていく。図は対応した極にもう一方の尾の末端を描く。
この尾からだんだん太くなるような線を描き、それぞれの大きな丸につなげる。
なお、対応する極の位置がずれていると効果がゆがんだ形で出てくるので
注意深く位置を決めてもらいたい。 ヒロ渡邉の指拳はすごいな。
赤サソリ、レッド・スコルピオン・ジークンドーなり。
古代バビロニア以来、天の河の西岸に雄大なS字型を描く。
その形からさそりと呼ばれてきた。
さそり座は、アンタレスと呼ばれ、ギリシア語で「火星の敵」の意。
火星に匹敵するくらい赤いからである。
北斗とさそり座が輝く。 脳は喜びや快感を求めて機能する。
技をだしたり、技を見たりすると脳が脳内で至福感にひたらせる。
文明とは、脳の喜びを追求する脳を作ることであったと発表されている。
この考えでいくと、ジークンドーとは脳を作ることになるか。
ケンシロウとラオウの一子相伝者との戦いは、それを見ている側は、
脳の快感が、その戦いを見て機能しだすのだろう。
パンチを入れられた人間が、効いている、効いているというのは、
人間の脳がパンチを受けて、喜びの波長があがったのだろう。
S波でいうと、相手がパンチを出す前が、S波のくだりの波の時である。
腹にパンチを受けたとき、S波のあがっている波の状態のときである。
ケンシロウが北斗最奥義と叫んだときが、ラオウとケンシロウのS波が北斗最奥義的S波が
上がっているときなのだろう。 このスレとは関係ありませんが人間とは本能的に文明を作る生き物なのかもしれませんね。 目とは人間の身体の中でもっとも非身体的な部分である。
もし物質が非物質になりうるとしたら、それは目について当てはまる。
目は物質的だが、同時に非物質的でもある。
目は内面のへの旅に使われる。目から一飛びすれば、源泉へと
到達できる。手からでは不可能だ。心臓からでは不可能だ。
身体のほかの部分からでは不可能だ。
ほかの部分からだと、その旅は長くなる。
その距離は大きい。目は、自分の中に入るのに一歩で十分だ。
体全体が非物質となるのがジークンドーの修行なりか。
ジークンドーは言う。物質から非物質になれ。 ある達人の話である。
何か有名な達人がいると聞いて、一度、勝負を願いたいということになった。
男は、毎日のように、達人の家の前に立っては、戦って欲しいと願い出た。
常に出てこない。三日目くらいも、同じように家の前で立っていると、ずぼんのひざあたりから
火が出て、丸くこげてしまった。男は、「われ敗れたり。遠くあなたの武芸に及ぶところではない」
と嘆いて、そうそうにその場から逃げた。
達人の武芸の試合は、そのように局外者では到底想像もつかぬ奇妙な形で決着がつくのである。
達人が神意玄妙な技を使う話である。この技はどのように説明できるのかわからない。 このストーリーは不可思議で、
近所の人が、どうやってそのようなことができたのかと
達人にたずねると、二階の部屋で寝ていたという。
二階からジャンプして、相手のひざに火を点火して、
すぐに自分の部屋にもどったのかもしれないと推測する。
そしてさらに達人のエピソードの中に、馬に乗って、山を走っていると、
敵の矢が飛んできて、馬が驚いて、谷に落ちた。
その瞬間に、ジャンプして、崖に生えている木の枝を手でつかんで、助かったらしい。
達人は、武術の練習をしていたので、落ちていく馬の背中から飛んで、木の枝を一瞬でつかむことができたと
告げたらしい。このエプピソードを重ねると、
一陣の風のような武芸の持ち主だった可能性がある。
そのエピソードに次の話もある。達人に技を教えた先生は、その達人の父親に恩があり、
そのため、達人が子供の頃に山につれていかれ、教えたそうである。そしてその技は
達人だけが伝承され、一子相伝の技らしい。 >>332と>>334の達人の話は興味深い
誰の話か気になるけれど
そういう話もっとない? 達人の神変不可思議なストーリーが、ナイル河みたいに、
あっちこっちの川が流れてきて、大河になるが如く、
神変不可思議なストーリーがナイル河のようにある。
達人は、片手で十頭ほどの巨大な馬をひきとめて、一寸も動かなかったらしいのである。
この状況はわからない。
難しい。木村拓哉が祭りで武将の恰好をして、岐阜駅の前を、馬に乗って行進する祭りがあった。
実は、「さあ!出陣だ!」と叫んだら、同時に火縄銃を打つのだが、突然の音で馬が暴れだし、観客があぶなくなるから鳴らさなかった
と言っていた。そんな騎馬ようの馬を十頭を片手でもって、足の軸の位置はまったく変わらない。
ブルース・リーのように達人は、一瞬で風のように足の位置が固定できるみたいなのである。 なんでや。
ブルース・リーでもそんなのムリやがな。
もっとマトモな達人話はあらへんの? 達人に一子相伝の武芸を教えた師は、
達人に対して何らの拘束をくわえず、また何ひとつ武芸らしいものを
教えようとしなかった。師が手をかけることといえば、たった一つ、
達人が夜寝る前に、静かに全身を摩擦してやるだけである。
これは目に見えぬ霊妙な効験を、達人の心身に与えるようであった。
一ヶ年過ぎ、ある朝、師が言う。
わしはお前の様子をじっと観察してきたが、およそ武芸というものは、
各人の持って生まれた天質があり、あとはその天質に合致するような技を磨くことにある。
そこで、最高の武芸者となるには、いろいろな条件をそなえていなければならぬ。
常人のまねられない、身のこなしの敏捷なわざをいう。
お前はその術を学ぶがよかろう。
ここを自分なりに解釈すると、最高の武芸者の条件とは、常人のまねられない身のこなしの武技と
いうことだと思った。玄関に立っている相手のひざにマッチの火みたいなものを
当てられたことに相手は気付けない。達人は常人がまねられない身のこなしで発火させ、
そしてまた二階の部屋に戻り、枕を当てて寝る。そう解釈している。
これは、忍者が空中で一回転しながら、ロウソクに着火させ、そのまま戸口から出ていく感じかな。
殿は入ってきたことも、出ていったことも気付かない。 イルカが出す超音波は、メロン器官という部位で1点に集めてから対象物に当て、
反射してきた音を下顎骨でキャッチして、対象物までの距離や方向を測定しています。
エサであるイカや小魚に音波ビームを当てると、その衝撃波によってエサとなる小魚は
気絶してしまいます。そこをイルカはパクリと食べるというわけです。
クジラもイルカと生物学上は同じ「鯨類」のため、
同様の方法で大きな頭部から超音波を出して、好物のダイオウイカを気絶させて食べています。
超音波は、物を通過する特徴があるので、超音波の特性を利用すれば、鎧通しの波動ができるのかもしれない。 それより
>>340の
師に、夜寝る前に、静かに全身を摩擦してもらっただけのp達人はそれからどうなった?
似たような話はボディビルでも聞いたことあるなぁ。
>>332 >>334で、君が書いた
家の前で待ってる人のズボンに火をつける達人も
>>341にヒントはあると思うけどね
鎧透しも出来ないことはないけど
それとは関係なく
家の門の前に居るの男の衣服に火をつける位は俺でも出来る
ウチの先生は離れた所に置いた皿を触れずに割ってたし
その程度の事なら出来る人は案外いる 師は達人に言う。
お前の工夫はまだまだだね。
それは聴風の工夫がたらぬからじゃ。
聴風というのは武芸の術語で、いわゆる声なきに聴き、
音なきに感ずる、という意味の言葉であると教える。
聴風をきたえなさいと言われているのではなくて、
工夫をしなさいというところが考えさせられる。 ま、何でも工夫次第だ
>>342
その方法、ギリシャ時代の戦争からあるが
あんまり有名じゃないのか? >>342 >>344
わかった !
発想の転換だな !! >家の門の前に居るの男の衣服に火をつける位は俺でも出来る
>
>ウチの先生は離れた所に置いた皿を触れずに割ってたし
>その程度の事なら出来る人は案外いる
やり方は幾つも考えられるけど
まあ、達人という触れ込みの人なら
「戦わずして勝つ」ための護身術とも言えるのかしら?
こういう話は嫌いじゃない ある理論では、
親子四代にわたって同じ誕生日である確率は計算上、
5000組に1組程度しかない。当事者にとっては、偶然で説明できない
神秘的な出来事であろう。しかし世界には10億以上の家族が存在しているのであるから、
統計学上は20くらいの家族において、四代連続で同じ誕生日があってもよい。
まれな偶然とは、主観的には絶対に起こりそうにないことであり、
客観的には絶対起こる事象なのである。
この理論で考えると、主観的には一子相伝者は存在しそうにないけれど、
客観的には一子相伝者は絶対に存在することになると考えらえる。
達人的技は存在する。 >まれな偶然とは、主観的には絶対に起こりそうにないことであり、
>客観的には絶対起こる事象なのである。
こういう考え方嫌いじゃないw
大事なことだから一度しか言わない、いいかよく聞けよ?
『本当に大切なことは何度も言え!』以上!
みたいな論法とかも
でもまあ
>主観的には一子相伝者は存在しそうにないけれど、
>客観的には一子相伝者は絶対に存在することになると考えらえる。
>達人的技は存在する。
これは飛躍というモノでは?
文化的に一子相伝などお茶やお花でも普通にあるだろうし
一子相伝が達人技などという保証もないんじゃないかしら?
奥窮まった意味もあるだろうけどね
単に象徴的な技かもしれないし 達人がやれば初心者がやるようなどんな基礎的な技であっても
達人技になるモノなのよ
礼節の流派の一子相伝の技が
単に正座して礼をするだけのものであっても驚かないよ
誰よりも奥深い見事な正座や礼を持って
一子相伝と認められるかもしれないしね ある達人がいた。
旅をしていたところ泊まった宿のある村が賊に襲われ
滅ぼされる所を、たまたま家族を失った少年を助けた。
少年は家族の復讐を誓い
達人に弟子入りし共に旅をした。
修行を重ね
様々な武芸者と戦い時には実戦を経験し
少年が成年へと育つ頃には並ぶものなき
武芸を世に称えられるまでになった。 だが、少年の頃の生い立ち故か
青年は自惚れを敵とし究極の技を求め
師に一死相伝の技を度々求め続けた。
その度に師の顔は曇り、
お前は既に並ぶ者なき武芸の手中に収めつつある
それでは満足できぬのか?と問いかけ続けた
やがて復讐の誓いを立てた少年は
己が勝てれば一子相伝の技を継承させてくれる様に懇願し
師に決闘を申し込み、そして青年は敗れた。
青年は息を引き取る前に
やはり一子相伝の究極の技には勝てぬか、、、と呟いた。
師は青年の命を奪う前に
ここまで悉く奥義を会得しながらも
まだ満ち足りぬ己が心に負けたか、、、と涙を流した。
復讐を誓った少年は既にそれ以上の道中を
師と旅を共にしながらも
闇に飲まれたまま夢の中をさ迷うかの如く生き
誓いを果たす事能わず
既に手にした大事に気づかず
在りもせぬ何かを求めるが故にこの世から消えた。
既にお前には与えていた。
師の涙が乾くと共に心も渇き果て
師は二度と弟子を取ることはなく
かつて伝えた技も教えもこの世から消えた。 師と達人はいろいろと会話をするのだが、
師が山の中を歩いていると、鷹と蛇が戦っていたのだそうである。
自分もくわしくわからないが。
鷹と蛇が攻防をしている。
そして、時間が経過して、鷹が遠くに飛んで行った。
師が、また同じ時間にその道を歩くと、また昨日の鷹と蛇が攻防している。
そして、また同じ時刻に行くと、また同じように戦っている。
師は言う。これは宿命なのであると。
師は、この攻防をじっとみつめ、そしてこれは、武の攻防と同じであると言う。
鋭い鷹の爪の攻撃と、それをよける蛇の身体能力。
この一本のロープが立ち上がり左右にゆれるような防御を自分の武に取り入れ、
そして鷹のような鋭い爪と接近、少しはなれ、鋭く接近して爪、そして相手の攻撃を
かわしながらはなれるような攻撃を取り入れようと考えたらしい。
毎日、同じ場所で鷹と蛇の攻防に師が出会うことなければ、一子相伝の技が開発されなかったのかもしれない。
またそれを見て技に加えるところがすごい気がする。達人も師の話を聞いて納得したような気がする。 >>353
始めてカンフー映画を見た小・中学生の感想文みたいだな
もっと大人のテイストで頼む 野獣の危害をさけるためには、師は樹にのぼって眠ることもおぼえた。
ふと師は岸壁の間に深くえぐられた一個の洞窟があるのを発見した。
彼はそこに荷物をはこんだ。道場の仲間の屍を洞窟の前にうずめて忠臣の霊魂が
自分を守護してくれることを祈った。
山道で食物をあさっている時、見るとおそろしく巨大な蛇がこちらへうねって近づいてくるのが
わかった。蛇の腹は水瓶のようにふくらんでおり、鱗がキラキラと光って、
眼は鏡のようであった。空から一陣の颯然たる風を感じた。
一羽の鷹が、蛇に向かって攻撃をする。
これも大きい。まるで古代の伝説に出てくるオーディン神の肩にとまる大鷲のようである。
翼をひろげて、戦意を示し、むきだした爪は鋼鉄の熊手のようにふるった。
すると蛇の体は柱のように突っ立った。風になびく柳のようにしなったかと思うと、
目にもとまらぬ速さで、鷹の頭部にかみつこうとした。
蛇の逆襲に、鷹は地に落下した。羽毛が雪のようにあたりに散った。
そこをすかさず、蛇はグルグルと巻きついた。鷹はこれで完全に死命を制されたかに見えた。
ところが、闘いはそれで終わったのではなかった。鷹は巻かれながら体をおこした。
さすがの蛇の緊縛力も抗しきれないのか、巻きつけた胴をとく。 鷹と蛇の争闘は勝負がつかず、日没におよんで鷹は空にとびさり、
蛇はいずこかに姿を消した。ところが次の日、その場所にゆくと、
また大蛇が現われ、鷹が飛びきらって格闘をはじめた。
なにかの神秘な力をそなえていて、人間よりも烈しい執念に燃えるのかも知れぬが、
それにしてもただの偶然の出来ごとだと思ったのが、再び繰り返されては神秘感というより
しかたがない。二度目も双方は五分と五分dとのひきわけじゃ。
三日目、よもやと思うて行ってみると、またまた同じ光景が出現した。そうなると是が非でも勝負の
決着を見きわめようとなって、毎日その場所に行って観戦した。
するとそのうちに、一つの微妙な事実に気がついた。闘いの様子を仔細に見ていると、かたちは
さまざまに変化するが、どちらにも一定の法則がある。ひと口にいえば、鷹の戦法は剛にして硬。
蛇はこれに対して、柔にして軟。鷹が強襲一点ばりでゆけば、蛇はこれを受けてひくが如く、
ひかざるが如く、巧みに応酬して間然するところがない。これは天が生物に与えた能力の極限じゃと
師の脳裏に、豁然として閃くものがあった。
鷹や蛇にこれほどの能力があるのなら、人間にないということはあるまい。
それから、鷹を見ならい、蛇をまねて、自らあらゆる危害を克服する術を修練した。
身のこなしかた、手足の使いかた、呼吸の吐きかた吸いかた、すべてに工夫をかさねた。
それが何百日の間つづいたか、いつか軽々と谷を飛びこえ、森の梢から梢をはせまわり、
牙をむいて襲いかかる獣をたやすく退け、また大木を掌ひとつできりたおすことができるようになった。
そして洞窟のあたりを騒がす獣は影を絶ち、山は太古の静けさに返った。師は山の支配者になった。 >どちらにも一定の法則がある。ひと口にいえば、鷹の戦法は剛にして硬。
蛇はこれに対して、柔にして軟。鷹が強襲一点ばりでゆけば、蛇はこれを受けてひくが如く、
ひかざるが如く、巧みに応酬して間然するところがない。
そうか?
そんなに単純でもないと思うが?
高が飛ぶ姿は銃の極限だし
蛇の牙は柔の中の剛で、牙にある毒は剛中の柔ではないのか?
>鷹や蛇にこれほどの能力があるのなら、人間にないということはあるまい。
それから、鷹を見ならい、蛇をまねて、自らあらゆる危害を克服する術を修練した
人間にないということはあるまいと言うのなら
人間の追及でなく何故、蛇や鷹の真似をした?
象形が近いサルの真似なら百歩譲って分からぬこともないが >いつか軽々と谷を飛びこえ、森の梢から梢をはせまわり、
牙をむいて襲いかかる獣をたやすく退け、また大木を掌ひとつできりたおすことができるようになった。
そして洞窟のあたりを騒がす獣は影を絶ち、山は太古の静けさに返った。師は山の支配者になった。
そして人間の極限の能力はそこにはないし
牙をむいて襲いかかる獣をたやすく退けたり
掌ひとつで大木をを切り倒しは出来ないし
そんな野生で野生を支配する能力が人間に隠されてもいない
偏ったご都合的理屈と
個人の願望と有り得ない飛躍で話を固められても
読まされる方は引くだけだわ
もうちょっと理論の整理から頼むわ 師がいろいろと語るのだが、
モンゴルについても話が出てくる。あの世界で一番拡大したモンゴルなのに、
そのモンゴルの兵における武技についてはあまり紹介されていない。
そしてモンゴルの兵に振り回された武将たち。
ここで言われているのが、モンゴル兵の武技が、武将たちよりもすぐれていたということであり、
そのために、武将たちの武術も、それによって進化したといわれている。
少林も太極拳も、モンゴル兵の兵術のない武術と戦うことで、その強さに圧倒され、
進化され、それが中央から南の香港にまで武術が流れていったと言っている。
世界最大の国を作ったモンゴルは、世界最強の武技をもっている兵隊であったと
師は説明している。ある意味で自然流モンゴル武術が最強であるらしい。 あのぅ書き込み長すぎてほとんどの人が見てないよ思うよ ある名人がいた。
時の政府に住処を追われ、安住の地を探しながら各所を転々と旅していた。
ある時は河に流れ着き、ある時は山に隠れ住んだ。
鬱蒼とした山の中を食せる獲物や水場を求め彷徨っていると
眼の燦燦と炎の如き輝く大蛇が鎌首を擡げるのを見た。
名人は蛇と睨み合いつつ縄張りから少しずつ身を引こうと
後ろ向きに蚊行歩を?した。
ある程度身を引いたところで別の気配がした。
空から鶴が青空に雪を纏わせるかの如く舞い降り立った。
二虎競食の例えの通り、達人は大蛇の威嚇を鶴に明け渡し
しばし鶴と蛇の争い合うを観た。
やがては鶴が羽ばたきと共に新緑の樹々の隙間から青空へと消え立った。
次の日も同じ時刻、同じ場所で鶴と蛇の争い合うを見るに
鶴の羽には柔中乃剛を蛇の牙には剛中の柔を知り山間に兵の動きを読むに至った。
また次の日も同じ時刻に各々が出会うに
鶴の飛ぶより風水の淡き香りを見、蛇の這うより山水の理を解いた。
かくなるは人も同じならんとし、
山を行くに山水を読み川を渡るに山水の流れに従い
空を仰ぎ見るに風水のあらぬを知り天之気に触れ五行乃朝元を知り空に至るを知った。
やがて山の端の紅く染まる頃、山水の流るるは原初の静謐に戻り
名人の姿を見るは蛇鶴甘二獣と雖も適わなくなった。
曰く、達した者成と。 モンゴルが最大の国家になるときに、
モンゴル兵が少林、太極拳の使い手とも戦ったと思われる。
しかし、モンゴル兵が、どこかの流派の武術を使ったということは自分は、
聞いたことがない。少林寺や太極拳は、モンゴル兵と戦って、
そのときにこういう技を使ったほうがいいと改良され、
そして中央、香港へと改良された少林寺、太極拳が流れ、伝承されていったらしい。
モンゴル武術が最強であるという源流が、武術界にあるらしい。
師はそう、達人に話している。少林寺、太極拳の型は、モンゴル兵と戦った後、改良されていった。 モンゴル兵のどくとくの技と戦いながら
少林寺、太極拳が改良され、それは中央に流れ、特に足技が得意技とされ、
それが北側の特徴となったらしい。
そして改良された少林寺、太極拳は、
武術家が船で香港に旅したので、船の中では、足技の練習ができないので
自然と手だけの技が修練され、そのため南の地域は、手技が発達し、
足技をあまり使わない武術が特徴となったらしい。
ブルース・リーが最初に学んだ武術が南の香港の武であった。 >>85 >>92
試合はスポーツだって事ヨ
危険な技は使わない、使えない
常識だね
常識はみんなで守りましょう >>364>>365
自分は知らない、聞いたことないから始まって
~らしいとか
思い込みだけで適当な事を書くの辞めて欲しい 拳法篇
「南拳北腿(なんけんほくたい)」といって
南派の拳法は手技が中心で足技が少なく、北派の拳法は足技が中心で
手技が少ないといわれている。
南派とは長江(揚子江)から南のことをいうが、拳法の場合は特に広東省・福建省を中心とした
珠江流域のものをさしていう。
北派とは長江より北から黄河流域で行われた拳法のことをいう。
北派拳術は河北省と山東省がとくに盛んであった。昔の交通機関を「南船北馬」という
言葉で表現しているが、拳法の場合も南派拳術は船で船頭が櫓をこぐ時の
立ち方が多く、北派拳術では馬に乗った時の姿勢が基本になっていて、立ち方の名称も
馬歩、騎馬歩といっている。伝説によれば河南の少林寺が清軍に焼かれて攻め込まれた時、
南方へ逃れた寺僧が紅船に隠れて揺れ動く船において修練したために蹴り技が少なくなり
拳法全体が変化した。それが南派拳術であるという。 >>369
そういう松田さんや笠尾さんの本を読めば書いてあるような
表面的な拳法の歴史とかどーでもいい
そんなよく知られた話を適当に剽窃されても困る
君は達人話の方が面白い
世間には知られてない昔の達人話はないかい? 軽功の武芸の練習がはじまった。
その方法は、深さ五寸、広さ四尺四方ぐらいの穴を
掘って、その中から上へととび上がれというのだ。
そんなことくらいは何でもないにきまっている。
ところが実際はそうはいかない。
というのは、まず四肢をかたく緊縛し、腰や足の折りかがみを
封じてしまい、足指を上にむけて、一動作で飛ばねばならぬからである。
すべて跳躍には、それにそなえて体の反動をつける準備動作が必要だが、
全然動けないようにして飛ぶのは不可能にちかく、困難事だ。
毎日、この練習のくり返しだ。
四尺の穴がずっとぬけだせるようになったのは、二年目のことだった。
穴の深さはそれから少しずつ増やしていく。そして、五年目には遂に五尺の深さから、
体が跳躍するにいたった。
「よろしい」師が言った。 >>371
この話の評価はこれから描かれるであろう展開次第だな
待ってるよ 穴からの跳躍をみてから、軽功の基礎はようやくできたぞ。
いよいよこの基礎を生かして、自在の武芸を身につける段階になったわい。
師は達人を伴って、三丈ほどもある松の樹の前にゆき、梢を指して、
「見よ。あすこの幹に、鳥が一羽とまっているであろう。
あれを手づかみにしてまいれ」いかに五尺の穴がとびあがれても、
十メートルの上空にいる鳥を捕らえることには、とうてい自信がない。
「ためらうな。武芸は工夫によるものじゃぞ、やれッ」
師の叱咤に、達人はままよとばかり、必死の気合いを身うちにこめて、
颯ッと地を蹴って舞いあがった。矢のような速さであった。一陣の風と共に、
地上に下り立ったとき、達人の手には、羽をひろげた鳥がしっかとつかまれていた。
「でかした!でかした!」師は噛んでふくめるように、
「これまでのふだんの練習は、体の力をぬくことにあった。お前の足はお前の体重を
のせているが、上半身の力がぬけてしまえば、そのように軽快なわざが自在にできるのじゃ。
軽功の武芸は、その法がとられたのである。 ここからだ
当にここからオチをどのように締めるかで全てが決まる
待ってるよ >>375
五尺の穴をやっととびあがれた弟子が十メートルの上空にまで飛べた理由とか
工夫だと言われたのに気合で何とかした処とか
実はこんな工夫をしてたとか
それがこれから明かされるのだろうか?
色々な謎を残したまま話は次の展開に向かうのだろう
続きを楽しみにしてるよ! 師の教授法は、ほとんど人の信ずべからざる奇妙な方法がとられてのである。
松の木の根もとに立つ。
そこで簡単な予備運動をした後、樹のまわりを左に向ってゆるゆると歩き、
徐々に速度を増す。つぎには、反対の右がわに向って廻る。
交互にそれをくり返してから、おしまいには全力疾走にうつる。
この場合、姿勢をくずしてはいけない。呼吸をみだしてもいけない。走りかたには
自ら一定の法則があるのである。
達人が立っているのを目がけて、木の実をむやみやたらと投げつける。
達人はそれをかわしたり、逃げたりしてはいけないので、飛来する木の実を、佚丁子で
ことごとく刺し止めなければならないのだ。
その困難至極なわざも、達人はやがてやってのけるようになった。
師は、それでも満足せず、「敵は前からだけ来るものではない」
といって、背後から木の実の攻撃をやらせた。
ふり返って見るひまはないから、心耳をすませて、あるか無きかの
かすかな音をたよりに、達人は佚丁子の応戦をする。
たいへんな苦心の末に、これもやりおおせるようになった。 >>375 >>378
ま、武術とは本来こうあるべきだよな
型よりも徹底的な武術的身体訓練 十干のひとつ「丁(ひのと)」。火の陰のエネルギーをあらわし、
穏やかで物静かな雰囲気を持ちながら、内には鋭さと急進性を秘めるといわれます。
そのような文字の意味をもっているみたいです。 列車強盗は、
列車が進行中に飛び乗って獲物を奪い、これを窓からどんどん外に放り出す。
盗賊は線路の両側に二分して待ちうけ、列車がさしかかると、まず大勢の盗賊が
馬の背から跳躍して車中に侵入する。
他の者たちは列車を挟んで馬を走らせ、捕獲品を受けとめるわけである。
この時も序幕の運びはいつもの通りうまくいった。窓が開いた。
そこから荷物が落下するはずである。
予期の通り黒い物体が飛んできた。それっと器用にこれを馬上で抱き止めた奴が、
どうしたのか、ワーッと叫んで荷物を投げ出してしまった。
次の奴も、次の奴も、またその次の奴も。
「どうした?」
親分が怪しんで馬をよせて問うと、
「生ま首だよ、親分。血の滴る生ま首だ」
「いま乗りこんだ兄弟の頭が飛んできたのよ」
「えーっ?」
これには親分、仰天した。
達人は汽車に乗っていた。
仲間の頭を、大根でも斬るように、スパスパと瞬く間に斬り落した腕前は
とても尋常の奴ではない。神変不可思議の武芸者だという評判は、町のカラ宣伝ではなくして
事実であったのだ。 >>340の先生から寝る前にずっと按摩だけされてた達人と同一人物ですか? 全部、同じ達人です。
達人は、普通では想像できないようなはなれわざをつかう。
達人は門をのりこえて庭に入るまで、全然雪上に足跡を因していない。
樹木から、樹木に渡って、地面を歩かなかったからである。
そして屋外から、正確な投石術を使う。
曲芸で今でもよくやる輪抜けの呼吸とおなじで、水平に宙を泳いでゆき、
前方にのばした手で卓上の地図をつかむや否や、再び宙に翻転して、
もとの位置に飛び返ったのだった。
こういうわざは正規の武芸にはないから、さすがに敵も完全にシテやられたのである。
蒙古の大平原を馳駆し、原始的な奇妙な体技に習熟した上に、
ほとんど鳥獣とひとしいまでの能力を発揮する、絶妙きわまる軽巧の術をたたきこんでいたのだ。 岳飛拳と唯一、いい勝負をしたみたいなストーリーである。
達人の師は、
一種独特な別格の師であった。
達人はおのれの武芸が何派に属するかすら、とんと分かっていなかったらしい。
師の武芸には、内家もあり外家もあり、蒙古の格闘術、チベットの戦闘技術などの
他に、自然界の山野猛獣の動きをとりいれた呼吸も多いのである。
岳飛拳の使い手とは、唯一、決着がつかなかったらしい。
岳飛拳の使い手が、達人の体勢に多少の利があったとして引き分けでご了見を
願おうと思い、差し出たまねをいたしたと言っている。 それはどんな戦いだったのだろう?
気になるな
詳しい解説を頼むよ 達人エピソードが実に面白くて興味深いです!
随分と詳しいようですが
あなたはその達人さまのお弟子さん筋の方ですか? >>388
>>389
パルクール要素が強い八卦掌とか遁甲術が近い様な・・・? 石壁の扉が開いて静かな摺り足で出てきた。
両腕を前に組んだまま、じっと視線を達人に注いだ。
これが音に名高い岳飛流の岳飛拳師か。
一礼して二三歩後ろに退った。相手は軽く礼を受けるようなゼスチュアをした。
が、お互いが向き合った瞬間から試合は既に開始されていた。
拳士は吐く息、吸う息で、空間に目に見えぬ闘気の火花を交錯させるのだ。
そして、その交錯はしだいに成る一点に凝結してゆくかの緊張の度合いが
高まる。達人はやがて両足をふんわりと左右に開いて、肩の力を抜いた。
一見、それは敵の攻撃を誘うためにわざと姿勢を崩したかの如くであったが、
事実は反対である。敵に毛筋ほどの隙を見出したなら、どこからでも
撃ちこんでゆける柔軟円転の構えだ。 しかし岳飛拳の使い手は、いぜんとして拱手のまま微動にしない。
双方そのままで釘づけになった。
十分、十五分、二十分。堂内を重苦しい静寂が領して、窓外に鳴く小鳥の声が、
いやに高く流れこんだ。見物人の一人が丈の細い杖をついて頭を垂れ、
背をかがめるようにしていたが、近くに寄ってよく観察する者がいたら、
見物人の大きな耳朶がピクピクと動いているのを見たであろう。
見物人の耳には音なき音が聞こえているにちがいない。
いや、空気の波動すら彼の鼓膜に瞭然と響くのかも知れなかった。
岳飛拳の使い手はふとそれに気づいたらしく、
怪しむような眼ざしをチラと見物人の方に送った。
それは明らかに一瞬の隙だった。いやしくも拳法の秘奥に
達した者が、敵を前にして視点を動かすなど、
あるまじき所作だ。もちろん達人がこの破綻を見逃すわけはない。
陽炎のごとく達人の体は宙に跳躍した。と、
同時に岳飛拳の使い手の体がパツとひろがって、身を沈めざま一回転し、
斜めに三間ばかり走った。
達人の足は空を蹴って床に落ちる。すかさず岳飛拳士、達人を
目がけて殺到し、達人も再び宙に舞い上って両者の
肩と足がふれ合ったかと思われた刹那に「ガーッ!」という
凄まじい叫び声が先ほどの見物人の口から炸裂して、
一本の竹が岳飛拳の使い手の鼻先をかすめて矢のように飛んだ。 岳飛拳の使い手は電気にうたれたように棒立ちになった。
すぐに頬の筋肉を微笑でゆるめた。
別の見物人が
「そこもとは竹を放った見物人であろうがな。
さてもさてもみごとな神技恐れ入った。達人は稀有の大器。
この試合が武芸に見物人の竹の助勢を加えれば、岳飛拳の使い手が負け
となろうか。アッハッハ」
「そうではござらぬ」
と竹を投げつけた見物人がさえぎって言う。
「達人が飛鷹落下の蹴りを外されたとき、岳飛拳士の耽虎出洞拳の一手は、
たしかに脇影(肋骨の上部)の急所をかすめた筈。
ただし二度目の跳び蹴りには達人の体勢がまさっていた」 わたしはつくづく浮世がいやになってきたところだから、
お前さんがそうおっしゃるなら、その手で、ひとつ威勢のよいパンチでも
くらって、あの世に旅立ちするのもいっそさばさばしてよい気持ちだろう。
さァ、どうぞそっちの方から遠慮なく。
そうかい、そんなに死にたいなら、おらが引導渡して進ぜるぜ。
と隆々たる腕を袖まくりして、ウオッとうめいて踊りかかった。
その猛烈な勢いに達人ひとたまりもなくぶっ倒れたかと思いきや、
軽く右手の指二本、ニョッキとたてて、体をひねりざま、打ちこんできた若者の肘のあたりをちょこんと突いた。
とたんに若者は、あたかも強力な電流にかかったかのごとく棒立ちになった。
「あっ!点穴だ!」
若者は叫んだ。その顔は恐怖にゆがみ、血の気がひいて真青だ。
昔から点穴と称する武芸の一技がある。人体に七十七ヵ所もある急所のつぼを正確に
とらえ、その一点に、指先で微妙な衝撃を与えると、頭、肩、肢などが痺れて、完全に機能を停止するのである。
点穴の使いかたによっては、その部分の細胞が徐徐に腐り、長きは三年目に生命を失うこともある。ともかく恐るべき秘法なのだ。 >>6 >>8
植芝先生がそう名乗ったから
そのまま受け継いだんじゃないですかね?
大東流しか知らない部外者の憶測ですが
本や動画で確認した処
大東流合気柔術とは確かに基盤は同じと言えど
全然違う事をしておられる様に
見受けられるものでして
難しい修行や技や危険な要素を省いて
誰にも身に付けやすくして
対立しない思想で作り直したと見れば
合気道は素晴らしく良く出来てると思いますけどね
それで、自分を殺しに来た敵と友達になることが奥義だと
それを目指すのが奥義だと言えてしまいそんな生き方を選ぼうとし、
本当にそんな風に現実を生きて行けるのならまさに理想通りでしょう 夜になると、室の粱に六七尺の長さの一条の綱を張り、
その上に一握りの綿花をかけ、じっとそれを睨んでから灯を消し、
闇の中で軽く綿花を弾いて、その揺れ動きから目を放さぬようにする。
次にはまた目をとじて、綿花を手で打ち、
綱と綿花とがふれ合う微かな音に耳をすますのである。
後に達人は、この視力と聴力が、武術の基礎に最も必要なことであるのを知った。
おおよそ大武術家たる者は、たとえ眠っている時に襲われても、決して不覚を
とらぬというのは、このような修練を不断に積んでいるからである。 ヒロ渡邉が言っていた。
ジークンドーの最終奥義は空中転移と名付ける。
ケンシロウもラオウも
お互いの無数の分身が、二人の上空で戦っていた。
出神の術というのもあるらしい。
もっとも神秘的な部分を形作るのが出神の術である。
出神とは、気(陽気)と意識の集中によりできた陽神という自分の
分身を、頭頂から出す術である。はじめのうちは、陽神は頭頂から出してもすぐ引っ込めるだけだが、
慣れてきたら自分の周囲を歩かせる。
この段階の陽神は、まだ三寸ぐらいの小さなものだという。
この時期の陽神は、赤ん坊のように小さく弱いので、出神時はとくに気をつけるように
しないといけない。やがて陽神が安定してきたら、一日に出神の回数を増やす。
出神は必ず天気のよい日のみ行ない、雷、雨、曇、風などの悪天候の日は
絶対に避けろとある。こうした自然現象によって、できたての陽神が破壊されるためである。
自分の周囲だけでなく家の外へ出し、その周りを歩かせたり遠出をさせたりせよ。 ジークンドーの最終奥義は空中転移、
これは振り子打法のイチローならば、この空中転移ジークンドーができるのかも
しれない。
空中で逆振り子拳を打つという感覚なのかもしれない、
振り子は合わすのがだ、その逆振り子で合わさない振り子拳なのである。
拳のトップで振り子に振れた拳を、空中で振り戻りのタイミングで右足体重にしてして右膝を
大きく左に曲げると、右肩がさがる。右肘を右脇腹につけると、拳が走り出し、
ここでも拳は振り子に振れてインパクトとなる。そのインパクトの形のまま、
五指と腕のシャフトが左へ平行移動するように、腰を高速で左へ送ってフォローとする。
ヒロ渡邉流、開眼ジークンドー式空中転移なのかもしれない。
このように拳をスイングすると、インパクトの形のまま拳フェーズが移動する。
拳フェーズは、インパクト前からインパクト後まで、常に飛行線に直角になっているので、
当たり場所が少しくらい狂っても、拳の先端は目標の方向に飛んでいくことになる。
空中転移ジークンドーをマスターすれば、初心者でも最終奥義ジークンドー・マスターなりか。 ジークンドーの最終奥義は空中転移、
ヒロ渡邉は、テッド・ウォンが、空中転移ジークンドーの練習をしていたと
述べていた。
アサリが吐く砂のように真実を吐き出してしまう。
アサリが吐く砂のように拳を吐き出してしまう。
結果が原因より前にある拳。最奥義ジークンドーはむずかしい。
すなわちマスターされたジークンドーは、ある瞬間、空間を飛び越えてしまうのではないだろうか。
J.A.ストラットンは、キルヒホフの場の方程式にふれて、場の方程式は2個の解を持つことができる、と述べる。
①(t+r/v)
②(t-r/v)
上記の①の式t+rは、通常知られている。
奇妙なのは後者である。
場の方程式を解いた結果として出てきた後者の解②(t-r/v)は、ちょっと”常識”では
考えられない解なのである。ストラットンも”常識”に反した解が出ていたことに困惑したようだ。
なぜなら、ストラットンが説明しているように、この第二の解は、場によって生成される以前から、
例えばリンゴの木が芽ぶく前から場(リンゴの実)が観察される、ということを意味するもので、
未来の次に現在がやってくると考えなければ理解できないからである。
ところが、ディラックは、量子論の中で、それは「先行可能性」を用いていると分析している。
空中転移ジークンドーとは、先行可能性t-rジークンドーなりか。わからない。 空中転移の最奥義、
大山カラテの三角飛びというものがある。
これは大山倍達がリングの上で不敗の技であった。
片一方のロープに向って飛び、ロープを足でキックしたその反動で、
もう一方のロープに飛んで、さらにロープをけって勢いをつけ、
相手のレスラーの目を攪乱させながら、カラテキックをいれるみたいな技である。
大山は試合中に三角飛びができたらしい。一蹴でレスラーはマットに沈んだらしい。
この技の継承者を聞いたことがないので、これも一部の人間に伝承された秘技の一つなのかもしれない。
空中転移三角飛びといえる。
別の方角に飛び、さらに別の方角に飛び、最後に腰をステップさせてワンインチ・キックをするのだろうか。わからない。 桑田投手が、ある集中力教室に通っていた。
その先生は、わりばしをハガキで切れるようになったら、
集中力をマスターしたことになると言われていた。
多分、桑田投手はそこからいいピッチングをするようになってきた。 カラテ大山倍達は、いろいろな最奥義を持っている。
アメリカでリングに立ったとき、目を突いてから、カラテキックをして、相手を倒したと言っていた。
その練習方法は、
手の真中の指で相手の鼻筋をしたから上へとなぞりながら、
そして左右の目を、中央の指の左右の指で突けば、失敗しないで突くことできると言っていた。
こうすれば、観客が騒ぐ中で、リングの上で緊張していても、初心者でも楽に相手を突くことができるらしい。
これも一子相伝の最奥義なのかもしれない。 ある日達人は街上を歩いていると、にわかに突風が起って、一商店の看板を吹き飛ばし、
それが達人の頭上に落ちてきた。
看板は七八十斤もあるほど厚くて重いから、まともに喰らったら脳をぶち砕かれて即死するか、
少なくとも重傷は免れない。この時通りかかった人々は、これを見て、
一斉に思わず、ああっ!と叫び声をあげた。
途端、達人は無意識に手をあげて、軽く一振りした。すると看板は五六尺先に転がって、
達人は無傷だに負っていない。
人々はまたしても、ああっ!と驚歎の叫びをあげたのだった。
この場合を考えると、ジークンドー・スペシャルみたいな感じがする。
頭上に落ちてくる看板をよけようと考えるのでなく、ワンインチ、手で一振りしているだけなのである。 ニコラ・テスラの子供の頃のエピソードがある。
母親が、テスラに言います。ネコと遊ぶとはやめて、火事になるかもしれないから。
父親が、それは、電気のしわざさ。あらしのとき、いなずまがひかるのとおなじ、自然の現象だよ。
テスラは言います。
じゃあ、自然って、大きなネコといっしょなの?
それからというもの、テスラはずっと、電気の不思議について考えるようになりました。
達人は、武術に対して、テスラのような電気で考えるのでなく、流れる気の感覚でとらえているのかもしれない。 ネコの毛と人間の指が摩擦を起こして静電気を発生することもある。 その一刹那!
「アッ!」腰のしたあたりに、錐で刺したような激痛が走って、とび上がった。
次の瞬間、腕が硬直した。全身がしびれた。腰は電気をうたれたようにジーンとする。
「おのれッ」叫ぼうとしたが声も出ない。
ただ視覚と聴覚だけが正常だ。
こんないまいましい話があるものだろうか。
では、今のはこの達人のしわざではなくて、他の誰かが物陰から矢か剣かを飛ばしたのではあるまいか?
目をみはって棒立ちになったまま、達人をにらみつけているが、頭もまわらず、
手足も動かないのでは、畑の案山子(かかし)も同然である。
達人はなにもなかったの如く、もう一度、ふとんの中に入り、寝てしまった。
朝になると、家の者が達人の部屋にやってくる。
案山子のように一人の男が立っている。
「達人さん、起きなせえな。あんた、相手を不動の金しばりにしておいて、
白河夜船で寝ちょるという法がありますかや」
ゆりおこされて目をひらいた達人、ウウンとのびをしながら、
「何ごとかいな。わしゃ何も知らんで。あれ、そこにいるのは誰ですか。
どうしたのじゃ、いったい」ことさらに驚いた様子で、
「これはどうやら立ったまま発作でもおこしたらしい。
早く家へつれもどして医者にかけにゃあかんぜ」
「どうでがしょう、達人さん、こ奴が前非を悔いて、許しをこうたら、こんどいっぺんコッキリだけ
堪忍して、動けるようにしてやってくださらねえか」 「そうかい」達人、おもむろに向き直って、
「なにもおれだって、生き人形にしてやろうというほど憎んでいるわけでもないよ」
「聞いたか。これから心を入れかえて、おとなしく致します、と町の衆に誓うか」
誓うといったって、男は返事もできないのだから、目だけで哀れっぽく、ハイ、ハイという表情をみせるので精一杯。
「では、皆さんのお顔をたてましょう」
達人、睡眠していたふとんの中から出てきて、立ち上がると、まず一本の指で、左の瞼の上を軽く突いた。
つづいて右の瞼を一突き。そらから左右の肩と上膊を叩き、両耳をひねり、さらに腿をうち、次にはヤッと気合いをかけると、
男の肉体は燕(つばめ)のように宙に泳いで一回転、ドサリと畳の上に倒れる。
「立て!」凛然たる達人の命令。男は不動の金しばりから放たれ、フラフラと辛うじて両足で肉体を支えているあんばいだ。
「以後、こんな不心得をおこすとは命はないと思えよ、天下は広大、身をほろぼすの元(もと)、わかったか」
「へえ」
町の衆は、広い世間に隠れていた達人にめぐり会い、われわれも、もう一度刻苦精励して、がんばろう。天地神明に誓を立てたのであった。 >>413->>414
達人ストーリーとしては面白いし
情感たっぷりな描写がまた良いと思います
最後に教訓として
罪人が心を入れ替えるのも
町の衆が落ち着くのも
好感度が高くて素晴らしい >>400->>403
>ヒロ渡邉が言っていた。
>ジークンドーの最終奥義は空中転移と名付ける。
>ジークンドーの最終奥義は空中転移
>ヒロ渡邉は、テッド・ウォンが、空中転移ジークンドーの練習をしていたと
述べていた。
これ、
詳しく知りたいので
動画があれば見てみたいのですが
どこに行けば見れるか検索キーワードとかあれば
ヒントでも下さい こちらの動画の17分あたりから誰にも見せていない
最終奥義を見せてくださいという話題がでてきて、
それは空中転移であると言っています。
https://www.youtube.com/watch?v=Ub3Tyw8cP9Y https://www.youtube.com/watch?v=FMRz9JAfbL8
点穴を鍛える方法として、手掌押法がいいかもしれないと考える。
顕動作用は1分間に最高720振動を現すものである。
手掌押法は、手のひらで押さえ、その手のひらに顕動を起こすのである。
朝、昼、夕方、夜、約1、2分ずつこれを行なえば、驚くべき向上、発達を認めることができる。
この高能法なるものは、天才的高能者をいっそうの最高能者に向上させることを
主眼としている。
手掌押法で力を伝えられた物質は、ただちに前進・躍動を開始するのである。
書籍、机、椅子を動かす程度なら、初心者にも困難ではないし、
ますます熟達するときは、自動車などに対して、わずかに指の先を触れるのみで、
動かしてしまうということも不可能ではない。
潜動作用は、自己に発現した力が無機体、または有機体に伝達されて、それが顕動を生じるのであるから、
その極意・秘訣とすべきは、「自身の顕動を潜動に変える」ことにある。
手掌押法の作用が伝わるときは、板が動くというよりも、むしろ板が作用に動かされるのだ。
押さえるといっても、わずかに接触しているだけで、板と手との間には、薄紙一枚くらいが
抜き差しできるかという程度で足りるのである。こうして、作用を伝播できる程度に手を触れたら、
板が自ら動き出すまでしばらく待つ。修得した者は、潜動を内発させることも自由自在となっているから、
ただ数秒ないし数分間、板を押さえているのみで、潜動作用が発動してくる。
板30枚というレベルが、治癒能力の初歩といえる。50枚まで到達すれば、まずもって普通の治癒能力を
獲得したものといくことができる。
75枚に潜動を完全に伝えられるようになれば、治癒能力もかなりのレベルに達したといえるだろう。
100枚をもって最高限度とする。これ以上でも潜動を伝えることは可能だが、治癒の能力を得るには、
この程度で十分である。これに次いでさらに複雑な潜動法がある。
回転潜動法、皮膚潜動法、肘から先を使って行う潜動法、爪端潜動法である。 >>417
わざわざリンクして頂いて
ありがとうございます この人、ラオウとか変にマンガとかファンタジーを持ち出さなければ実に面白いモノを書くんだけどな・・・ 点穴で最も重要なことは、全身の穴位をよく知って、目をつむっても
まちがいなく穴位を指摘できなければいけない。練習法として木人ノ法がある。
堅い木で等身大の木像を作り、これに一つの経絡とそれに経穴を自分で書きいれる。
この経絡をなぞり、経穴に指先で触れる。これを毎日三~五回、一回に三~五回くりかえして行なう。
よくおぼえたら改めて夜にこれを点打し、練習する。
もし暗いところでも百発百中するようになったら、木人にだんだんと経絡と経穴を増しながら書いて実施する。
簡より繁に至り全身の経穴を暗闇の中でも正確に指摘できるようになれば、点穴は成功したのである。
点穴は武の奥義と言われるが、人体を知ることでその境地に近づくことになる。 木人を作るのはなかなかむずかしいので、大きな紙に等身大の絵を前面(腹側)と
後面(背側)とを書く。
これに経穴と経絡を一つずつ自分で書いてこれを「木人」と同じく相手と考えて、
経穴を指先で指さす。
相手と一体になる。溶け合う意識をいう。そしてこの時点では、相手をどうにかしようという
意識はまったくなく、いわゆる「無」の状態に近い。だから不必要に力んだり、
闘志をむき出しにして気を張り詰める必要もない。相手の動きに合わせ、自然に振舞うように
すればよい。そして相手に触れた瞬間、点穴に変化し、その直後、意識の結果が生まれることになる。
通常は中段から下段を突いてもらい、それを下段払いで受ける形を取るが、構えの状態から腕に触れる
直前までは力を抜いてそのまま自然に払い落とすようにし、触れた瞬間にダメージを
与えるべき意識を変化させる。すると相手の腕の中心に鈍い痛みが走り、腕が重くなる感覚を
感じることになる。直前までの脱力状態が同化の意識に関係するが、気のバリヤーを張られない状態で、
相手の中に進入する方法が同化の意識である。
効果を上げるためには
自分と相手を同化させるイメージを持つ。
点穴は、最初はできるだけ相手に緊張を与えないように素早く、しかも柔らかく触れるようにする。
そしてその直後、一瞬のうちに捻転し、破壊する。もしこの時、相手と同化するというイメージを持たず、ただ力任せに
行おうとすれば、相手は顎を引くとか、技をかけにくい体位を取るなど対抗処置を講じる。
ところが柔らかく触れることでダメージを与えるポジションが容易にできるようになり、
目的を達しやすくなる。点穴は、柔らかく触れ→一瞬に捻転という二重の意識構造をもつ。 本当かどうかわからないが、
のばした爪を三角形にきって、とがらせた爪先は、
相手の体をほんの少し引っかくだけで、倒すことができる。
これらの方法は試合をしたり闘わなくとも、
握手をするだけで相手を倒すこともできると言っている。 矢地が、相手に横脇をけられ、その蹴った足を相手が引き戻そうとしているところで
矢地の手が伸びていきつかんで、そして相手を倒していた。
普通は蹴られたら、パンチを出すのに、相手の戻ろうする足をつかみに行き、
そしてつかんでいた。
ジークンドー型フェンシングのように見えた。
https://i.pinimg.com/originals/6d/4d/dc/6d4ddc6bc0b1c7bb5f058758ffe3bec9.jpg 達人のストーリーである。
武術はもとこれ、小道、武術に天凛の才分がないからといっても
一向に差し支えはない。
若し君がいっさいを放擲して、二十年の間、もっぱら私について武術だけを
修練したら、ある程度の秘奥に達することができるかもしれない。
だがそれにはまるまる二十年の時間が絶対に必要だ。 点穴とは、
「穴を研(みが)く」と言っている。
自分自身の経穴と経絡の穴を研くことも大事であると言っている。
人間は自然と一体である。その自然との接点が経穴ということになる。
九つの倍の十八は、人間の一分間の呼吸数である。
18の倍の18×2=36が体温であり、そのまた倍の36×2の72が心拍数。
72の倍の72×2=144が血圧となっている。 古代の人は、神人合一、を目指していたらしい。
神と人間が和合、神と人間が合体する武ということになるのかな。
北斗一子相伝者、神人合一型北斗のこぶしといえるのかもしれない。
ブルース・リーの偉大な名は天地の果てこの世の続く限り語り継がれる(=ジークンドー大名垂宇宙)。
宇宙(天地古今の無限の果て)に垂(なんな)んとするジークンドーの名声となり。 達人には、容易におこなえる絶倫の妙技がある。
音もなく、声もなく、姿もない。
風が吹けば風を利用し、雨が降れば巧みに雨にまぎれる手段を用いる。
相手に点穴をうつやりかたはごとごとく正確について、
ほんの僅かな隙に、ズバリと打つ。
男が、他の客の物とまちがって、達人の服を竿でとりはずし、持ってゆこうとした。
「ちがうよ、それは」
達人は何度も声をかけて注意したが、男は聞こえないらしく、背をむけて歩き出した。
と、何か熱い風が舞い上がったような感じがした。
そして、気がつくと、達人がじぶんの服を手に持って寝台に横たわり、にこにこ笑っていた。
ほんの一秒か二秒の間に達人は廊下に飛びだして、
服をとり返していたのである。しかも、おのれの抱いている服をとられた男はそのままの
姿勢で向うへ歩いてゆき、あたりにいた客たちも、一人として気づく者もなかったのは、
達人の動作が全然目にとまらなかったからであろう。
何というおかしなことだろう。 達人のエピソードです。
私は武芸とは、およそ人間の能力の最大をつくして神仙の秘密に
参入し、不可能を可能にする技だと考えています。
それが、我儘をほしいままにするための術なら、
張家の秘伝など、犬に喰われろです。そんな武芸を修行するのはまっぴらです。
言いも終わらず、如虎は立ち上がって大喝した。
小僧、よくもぬかしおったな。うぬのごときくちばしの黄色い青二才が、
もっての外。祖先を侮り、長者をないがしろにする不届き者め、
前言をとり消してあやまれ、さもないと、肋骨を蹴破ってくれるぞ。
達人は身をひるがえして庭にとび出た。
叔父ごよ。あなたのいうことはみんあまちがっている。
武芸とはわたしの言うようなものでなければならん。ハッハッハ...。
ちき生ッ!
如虎は追いかけて門に出たが、もう達人はいずこへ行ったか、影も形もなかった。
戸外にとび出した達人はまたたく間に風のごとく消えてしまったから、どうしょうもない。 剣の刃のようにそそりたった峰の上に、
北斗七星がさんさんと珠を列ねたようにかかっている。
北斗峰の名はこれに由来したものであろう。
そして北斗七星は北極大天と称し、いっさいの生物の運気を
つかさどる祟高神秘の天体とされ、武芸の道では特にたいせつにする。
堂の祭壇には十二神像が祀られ、ひんやりとした空気が漂っている。
ご老師。
武芸の奥義を学びたく、天下を周遊してご当山に参りました。
ところでこの鉄老師の武芸伝授は、他の先生とはすこぶる異なっている。
一般には武芸は力気の使い方、つまり全身の力をある一点に集中することに眼目を
おくのだが、ここではその反対にすべての力を抜くことに主眼をおいているようだ。 神沢瑞至によると、
目を覚ましたところ、手のひらに感覚がなく、まるで他人の手のよう、
それ以来、右手と左手が離れていてもお互いを感じるようになった。
それから十日程経ったある日の真夜中の二時頃、熟睡していた私の頭の
てっぺんを突然の電撃が襲った。
バリバリバリッ、ドカーンと、雷でも落ちたような大きな音がした。
あまりにも大きな音だったので、前の通りで交通事故でも起きたかと思ったが、
そうではなく、それは自分の内部で起きたことだった。頭の中で、何かとてつもない爆発が起きたのだ。
次の瞬間、胸に強烈なバイブレーションが走り、足へと抜けた。
正体不明のオレンジ色の光が無数に瞼の裏を行き来し始めたのだ。真夜中に電撃を受けて以来、
私の手のひらにいくつかの変化が起こりました。今にして思うと、
これは気が出る最初の兆候だったのです。
①肉が分厚くなった。
②血液が集まり紫色になる。
③白い斑点が出る。
この一年ぐらい後には、さらに指も太くなり、手のひらがふっくらとして常にピンク色というふうに変化していきました。 手から気が出初めている証拠として、
①机に向って書きものをしていると、足の裏に手の動きにつれてくすぐったいものを感じるようになった。
②書類をめくっていると、足の裏と腿にその動きのとおりに痛みが皮膚を走るようになった。
これらは、手から流れている気を、脚で受けていたために起こったものです。
人間の意識には、顕在意識から宇宙意識まで、いくつかの層があります。私の場合、そこへ電撃がくることによって、
それらの層を顕在意識から宇宙意識まで一度に貫通すsるような、通路ができてしまったようなのです。
そういうわけで、私の体には急激に宇宙意識のレベルから流れ込んできたエネルギーが充満していたのです。
こうして私の体は細胞レベルに至るまで改造され、大量の気が流れても受容できるように作り変えられていったのです。
神沢瑞至の場合は、特殊な例で、強い気が出るようになった。通常は、顕在意識と潜在意識のとの間には無意識という壁があり、
潜在意識が出てきにくくなっていますが、神沢の場合は強い電撃を受けることによって、顕在意識と潜在意識との間に
通路ができた。神沢のような特殊な例を除いて、普通の人の場合、気はほとんど外からの触発によって出てきます。
これは、自分より気の強い人が近くにいたりすることがあると、その気の影響を受けて、眠っていた気が、
活発に流れ始めるようになるのです。ちょうど、針磁石のように、強い磁石で針をこすると、針が磁気を帯びて、針磁石になるようなものです。 とりあえず
達人話とオカルト話を一緒くたに混ぜるのは辞めてもらっていいかな? このおかしな長文、全部、ヒロ先生が書いてると思うと笑える。 神沢瑞至の動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=NZ1nFQc0WcQ
手の気を、足で気を受けているという状態が、不思議である。
ここから、始まったと言われている。
ここから北斗神拳が始まるのではないかと思った。
自分の手の気を、自分の足で受ける道。 例えば、オリンピックの50メートル走。
あれを見ていると、スタートのみ腰がさがっていて、
後は、ほぼスタートからゴールまで地面と腰の高さが、
ものさしで測ったように一定の位置を維持したままゴールしている。
足は回転しているが、腰の高さは一定なのである。
腰の高さが波のように揺れている分だけ、0.0001秒遅れるという世界なのである。
この状態の選手の意識は、まさに空をかけている感覚という気もするし、
手から発する前に急げというオーラが、足にも伝わっている状態なのである。
手が一生懸命こいでいるのだから、足も自然とつられて、走るという感覚なのだろうか。
アスリートは腰の高さを一定にして、最大スピードにもっていく。
これを50センチ競争のコースで出すというけりとかこぶしなのかもしれない。 綮堂はある日、琵琶を戸棚にしまいこんで、
ところであなたは、戦闘武芸の演練がたいそう上手だという評判だ。
ひとつ後学のために見せてもらえまいか。
ああそうだ、琵琶に気をとられて、すっかり忘れていた。
指名された五人の勇士は、大いに光栄に思って、おのおの立ち並ぶ。
達人は、でれりと肩をおとして突っ立ち、
「さあ、どこからなりとかからっしゃれ」
「よっしゃ」一斉に打ちかかっていった。すると達人はサッと動いた。動いたとみる間もなく、
五人は、五六丈も遠くへ飛んだ。「あッ、ツ、ツ!」
「イテ、痛え」どれもこれも手をおさえている。
綮堂、自ら立ち向かわねばならぬ。
真向みじんと拳を打ちこんだ。達人、それをかわしもせず、逃げもせず、
わずかに身をかがめるようにして、右手の先でちょいと点穴を打った。
とたんに、綮堂は二丈ばかりの高さにふっとばされた。わあッ!
あまりの意外さに、周囲は驚嘆の喚声をあげた。達人はあわてずさわがず、二三歩前に進むと、
またちょいと手をあげて、宙から舞いおちてくる綮堂をふわりと抱きとめる。
どこも痛みはせなんだろうな。はい。
綮堂、目をパチクリさせている。これではどうも勝負にならない。 ある先生によると、
小周天にせよ、小薬にせよ、意識のもち方に注意する必要がある。
あせったり、こうなれなどと思いながら行ってはいけない。
こんな意識でやると、必ず幻の陽気が回ったり、
幻の小薬ができたりする。空車といい、生命の素である陽気が含まれていない技となる。
無心。これを守ってもらいたい。必ず陽気が回るようになる。
この考えでいくと、こぶしを受けて浸透すると言うのは、腹の中で、陽気が回っている感じなのかもしれない。
こぶしを受けて、幻の陽気が回っている感覚と、陽気が回ってくる感じが、受けた者のみがわかるのかもしれない。
これは北斗の点穴なり、とはケンシロウの陽気、幻の陽気でなくて、北斗神の陽気が回ってくる感覚なのかもしれない。
わからない。 とりあえず
漫画のネタや設定を持ち込むの禁止にしてもらえません?
真面目に読んでたのが台無しにされた気持ちになるから 突然、人間が発生したわけではなくて、
どのようにある動物が、どのように人間になったのかというその動物と人間までの
中間の化石が、地面から出てこないということで考古学では、ミッシング・リンクと呼んでいる。
失われた環。 生物の進化・系統において、その存在が予測されるのに未発見のためにできている間隙。
武技のミッシング・リンクを模索しているので、北斗神拳は登場することになってしまう。 実は、山の老和和尚から音信があって、拙者が召しよせられましたので、
これから急行せねばなりませぬ。
という。
藪から棒のはなしであるが、一流の武芸者には、往々にしてこのようなふしぎな行動が
あることを知っている。
それは、それは。
長途の旅とあらば何かとたいへんでありましょう。
ご必要の用意はご遠慮なくお申しつけください。
いや、いや。この日ごろ夜ごとの星座の動きを見て、かかることもあろうかと、ひそかに予期しておりましたので、
準備はととのっております。
達人は語った。 >>444
いや、北斗神拳って、漫画家が作った拳法だから 八極拳という最強の拳法を仕えた李書文という人は、
天津に逗留していた時分、彼を倒しにきたふたりの拳法家とやり合って、
わずか掌(手のひら)の一打ずつでふたりとも倒している。
このうちのひとりは頭頂を李書文の掌で打たれただけで両眼が飛び出し、
他のひとりは、頭上に来た彼の掌をかろうじて避けたものの、避けきれず肩に
当たってしまい、肩の骨が砕けたという。
李書文の立ち合いは、いつもこんなもので、そのため、人からは「李書文に二の打も不要(いらず)」と恐れらた
らしい。
李書文は、北斗ラオウみたいである。 李書文は実在の人物
北斗ラオウはフィクション
実際にあった話とフィクションを混ぜられると
実際の話に基づいて研究したり修業してる人達の努力を
意味ないものに腐敗させてしまうから辞めてくれっつってんだが? 北斗ラオウと呼ばれている人物がいる。
体重は100キロくらいかな。近所では「こいのぼり」と呼んでいる。
なぜなら、ランニングしたあと、近くの電柱を両手でつかみ、こいのぼりのように水平になるからである。
そして、鉄のヌンチャクをベルトにはさんで、町内をランニングしている。
風貌は、そのまま北斗ラオウ。だいたい目だけで、200メートル先から見ても、ランランとしている。
とにかく、学校で山登りかな、最初は、一番後ろで、歩き、どんどん歩きながら、前に順序をあげていき、
順番をあげながら、一人一人とあいさつをかわしていき、頂上に到達するころには、一番前に到着し、
その学年の全員とあいさつをかわしている。普通の山登りではない。
倍達が言う。指二本で、腕立てふせ、逆立ちして歩けるようになったら、一発なぐれば相手は倒れるよ。
その理論でいくと、こいのぼりができるということは、こぶしはすごいことになる。 北斗星は、人の生死を司っている神、司命神である。
北斗星はもう一名の司命神である南斗星とペアになっている。
北斗星が人の寿命を決め、魂を回収する死の神であるのに対し、
南斗星は生を授ける。
捜神記に北斗星と南斗星という話がある。
冥府にある役所を北斗門と呼ぶこともある。
死の運命を定める神、ハトホル。
紀元前1200年頃に書かれたパピルス「二人の兄弟の物語」がある。
女は、エジプトのファラオの寵愛を受けるようになった。そして女はファラオにバータを
殺させる。バータが死んだことを知った兄は、傘松の谷で三年かけてバータの心臓を
さがし出し、バータを生き返らせる。
生き返ったバータは神聖な牡牛となってファラオのもとに行く。ところがバータだと気付いた女にまた殺される。
牡牛の血は地面に流れて大きな木となるが、その木も女によって伐り倒される。
ところがその際に木片が飛んで女の口に入り、飲み込んだ女は妊娠してしまう。そして生まれた王子は、バータその人だった。
神、ハトホルが定めた運命をたどったのである。
バータの兄は、のちにエジプトの死者の神となるアヌビスである。 次のスレは、一子相伝北斗神拳とMMAを語るスレ2
というタイトルにしようかなと思っています。 ある先生は、哲学者ヘーゲルの言葉を引用した箇所がある。
「いっさいの現実なる者は悉く理に合せり」
というものだが、これに続けて、先生ご自身が、
「世の中に存在して居る事物には存在して居る丈の理由があるのだろうと思います」と言っている。
この言葉にある重要な視点は「者」「事」「物」の三点に煮詰まっているようである。
「事」というのは、現象となった「時」と「場」の一体化したものである。
時と場が一体化して、事となると言っている。
時と突き出したこぶしが、神拳となる状態。
突き出した拳の中に、時間が含まれてこそ、事(神拳)となる。事拳は、時拳なりか。
神拳とは、時拳なり。わからない。
ケンシロウは、なんらかの潜象の理があったからこそ、その場に行ったと思う。
呼び合わなければ、行く理由が成り立たない。無意識世界で、知らないうちに一列に
並べられ、集合化されているのが分かる。さらに吸引を強固にしているのが、時間を語る北斗七星なのである。
https://kids.gakken.co.jp/box/rika/06/pdf/B046307270.pdf
北斗七星は、一日で一回りする。 ジークンドーからみた北斗神拳ではなく、
MMAからみた北斗神拳ではなく、
北斗神拳からみたジークンドーとは、
北斗神拳からみたMMAとはという感じかなと思っています。
しかし一方で、ジークンドーからみた北斗とは、MMAからみた北斗とは、となり、
そして、ジークンドーとMMAが対決するならば...
みたいな感覚です。
先生は言う。武術家がなぜ、技に関わるか。
心は、物と人と場の条件によって心が発動される。この三つの条件を統括する時間(北斗時計)によって
人と対応し、時間によって物と対応し、時間によって場を占有することができる。
だから三種の意味をもつ時間によって、統括するということができる。
流派の中には、六本・六本・三本の計十五の条件をもって、
我が心を武技に届けるための象徴とみる流派もある。
表現は違うけれども、潜象の理からみれば、一脈相通じる点があるようだ。 時間(北斗時間)は厳密にいえば、場所が異なるごとに違う時間があるのです。
そして、高等な生命体(北斗一子相伝者)の中には、引力のほかに意志力が乗ぜられて、
時間の流れが遅くなったり、ときには早く流れたりする。
ほんとうの時間は時計で測る時間ではなくて、人間の生命の流れが真実の時間なのです。
常に正しい北斗の希望をもち、明朗で文化の創造に献身して、天命のある人生をおくる人は、
いつまでもエネルギーに満ちている。
悟りの純度に正比例して生命のエネルギーは強く流れるから、時間はおそく流れたり、早く流れたりする。
ブルース・リーにとって悟り=ジークンドーの発展
だったのだろうか。
人間の生命は引力により影響されても、その差は極めて微細で、日常生活では全く気づかないのです。
しかし、聖人は高い精神生活をもつことができますから、精神力による時間の影響は甚大です。
時計で測定できる時間は物理時間ですが、小宇宙(スモール スペース)ともいえる人間の生命の中を流れる時間によって、
遅くなったり早くなったり、止まったり、逆転することもあるからです。
北斗一子相伝奥義とは、時の逆転の一発こぶしなりか。 流派の中には、六本・六本・三本の計十五の条件をもって、
我が心を武技に届けるための象徴とみる流派もある。
それなんて言う流派のどんな理屈よ? 流派はよくわからないが、
夢に白ヒゲの老人。
光り輝く白ヒゲの老人で、神衣を着、杖を持ち、杖の先には「?」のように
曲がった杖で、仙人が持つような杖であった。
白ヒゲの老人というより、白ヒゲの神人といった方が正しいと思う。
聖書にある、神は六日をもってよしとした。
6日目で神は世界をつくったと白ヒゲの神人は夢の中で語った。
古い遠い昔の記憶が、深層心理の中に滞在していることを物語っている。
解けてきたのも、この夢を見てからである。
正六面体が二個重なるというのは、合せ重箱となる形態をいっている。
正六面体が二個、その上に、三種の意味をもつ時間によって、統括する3が重なる。
計15の条件となる。
陰気七嶽、陽気七嶽、共わせて14ヶ所の点穴の神に御願しなければ、
町は近い内に全焼するとのお告げがあったというストーリーも残されている。 達人は言う。
一身の危うきは免れても、
うわさは免れることができませぬ。
さらば。
こうもりの飛びさるに似て、達人の影はいずこともなく消えうせ、あとにはただ窓をたたく風雨の
すさまじい音ばかりであった。
達人は、相手の攻撃をよけることはできるが、
うわさをよけることはできないと言っている。
普通は、相手の攻撃をよけることはできないで、攻撃を受けるが、
自分のわるいウワサがたたないように立ち回りはできるとなるのだが、
ウワサをよけるよりも相手の技をよけるほうが簡単であると達人は言う。 石井がサイドキックの仕方をみせていた。
相手が拳を突き出して、腕が伸びきったところで、
足で相手のわきのしたを、足のつま先でねじり入れて押し込むサイドキックをしていた。
絶妙なカウンターだと思う。井上と対峙したならば、冷静になり、
井上尚弥のわきのしたにジークンドー式サイドキックを入れなさいということなのだろう。
マスター石井のアドバイスであった。 >井上尚弥のわきのしたにジークンドー式サイドキックを入れなさいということなのだろう。
>マスター石井のアドバイスであった。
脇のしたと漢字の箇所をひらがなにしてある。
わきのしたと。
もしこれが道場だったら、ワキのシタをカウンターで両者が無意識の世界の中でサイドキックをいれること!
とトレーナーは言っていると思う。
普通は「脇」なのか「ワキ」なのか「わき」なのか。それぞれがイメージとして先生の言葉を聞く。
イメージ的には柔らかいところのわきを足のつまさきをドリルのように捻じりこんで、その後、自分の両肩を
ふるわせながら「ウエーーーーーブ」と心の中で言う。
つまり脇を突くという脳のイメージが即座に敵武術家の脳に描かれ、突いても、ややよけられてしまう。
脇では固いところのワキ攻撃になってしまう。
ここは、転穴みたいにやさしく、わきというイメージで、自分の足のつま先は、ステーキをきるナイフのように
とがらせるイメージなりか。
文章AIの生成では、漢字、カタカナ、ひらがなの使いわけは難しいと思う。 ドリルのように、
という言葉も、石井が動画でよく言う。
ブルース・リーも多分、ワンインチパンチを教えるときに、ドリルのようにとは、
表現しないと思う。やはり、石井が、飛行機で相手の国にいきなり行かされて、
工場のラインを見にいったときに、ドリルでねじをしめなおして、そして帰国して、
相手の国から、ラインが稼働しましたと喜びの電話が会社に入ったのだろう。
新人から、ドリルで大活躍した石井だった。 石井慧が東吾を柔道技で投げるだろう。
しかしブルース・リーの映画を見ていると、
後ろから向かってきたカラテ家たちを、
背後を見ないで、腕を直角定規みたいにL字型にして、それを体当たりしてくるカラテ家に
ちょっと当てるだけで、どんどん吹き飛ばしていっていた。
この直角定規L字腕型ジークンドーを東吾ができるのならば、
一回で、石井慧はふっとばされて、そのまま立ち上がれないことになる。
映画の中では、円陣を囲むカラテ家をどんどん一撃の技のみで、倒していっていた。
それも後ろを見ないで、接近する気配を1メートル先で感じ取っていた。
ブルース・リーの頭の中は、一瞥しただけで、試合運びができあがっているのである。
東吾が、このようにブルース・リーのように試合運びを頭に描いて、
その複数の影に対して、キック、拳を突き出していたら、相手の点穴に当たっていた状態にならなければならない。
普通、武道家には、歴代の武道家達の魂が100人前後、背後に立っている。
その中で最高の武術家の魂を呼び出し、彼に祈りを捧げ、一会(いちえ)のこぶし、我、助けたたまえ。ひふみよここのたり。
とか言って、石井慧と戦えば、東吾のレッド・ドラゴン・ワン・インチがきまるかもしれない。
史上最強の武術家は、史上最強の武術家の魂を呼び出す祈りの技があるのだろう。
試合に勝つには、どちらが史上最強の武術家の魂を呼び寄せることができたかである。 【さえぐさ誠】塩田剛三の内弟子が明かす、合気の本質とヒント【合気道】
https://www.youtube.com/watch?v=Qo5IiWin0Uw
この動画は参考になった。
合気切りの秘奥。 ブルース・リーは言霊百神を使い、
北斗は、言霊七神をつかっていたのかもしれない。
https://note.com/parole/n/n45e3f21858bd
然らば、神髄を会得し、言霊百神の原理を了解し得るなる。
而して神髄を了得し、言霊七神の奥義を極めて、説き明かすべし。
言霊百神を了解せざる者を、奥義者と言ふべからず。
言霊七神なき者の敬礼を余は受けざると識るべし。
Jeet Kune Do
<J-ee・t> 天上 <K-un・e> 認識す(つかむ) <D・o>(神髄) 関卓郎は言う。
「碁の布石のように鍼を刺せ」
矢継ぎ早に繰り出される鍼を身体中に打たれて、
ジャズピアニストの山下洋輔は
「全身に風穴が開いたような感じ」と言った。
浸透系ワンインチ、
さらに風穴系ワンインチの碁の布石のように打ち尽くす。
わからない。 無知ゆえの思い込みから
お門違いな抗議文をダン・イノサントに送り付けて
破門され(一度はヨリ中村に取り持ってもらったにも拘らず)
その逆恨みを拗らせ過ぎて
テッド・ウォンにも破門されそうになったところを
今度は松岡ユタカに泣きついて何とか取り持ってもらい(にも拘らず自身のセミナーでコンセプトや松岡批判を繰り返し、日本刀を紙一重で交わしながらストレードリードを打ち込むことができれば8ランクになれるなどとトンデモ発言までしていた)
本来ならテッド・ウォンにも破門されていたはずだったヒロ渡邉
これが諸悪の根源
ジークンドーではなく自慰君道 洗脳カルトの真実 こいつらがブルース・リーのスタイルと思い込んでいるのは単なるテッド・ウォンのスタイルで
その主張内容は
極力楽して手っ取り早くジークンドーを名乗る為の
子供騙しの印象操作、洗脳工作、宣伝利用の文言に過ぎない
継承者と目される人間が何十年と固執して尚
ろくな検証結果を得られない仮説(単なる幻想)
を振りかざし無知蒙昧な妄言を展開するなど
ファンタジーの世界以外ではあり得ない
こいつらの動画や武道板での書き込みを見ても
演出無しでは成り立たない虚構の世界にどっぷりなのは明白で
そんな自称継承者の迷惑行為を野放しにしてきた弟子達にも責任があると思う 総合格闘技 VS ジークンドー!ブルース・リー直伝のワンインチパンチ、衝撃の被弾・・!
https://www.youtube.com/watch?v=7SuPOmUXS2Q&t=23s
矢地の動画に石井が登場する。 二百五十弔ずつというと、二つ合わせて五百弔か、
重さはいくらになる。
五百斤余りじゃわい。
達人は手をのばして二つの筐に指をかけ、軽々と頭上にさしあげた。
なるほど、たしかに五百斤以上はある。あんた、力持ちだな、
えらい、えらい。どうだ、これをお手玉にして遊ぼうか。
なんだって。
これなる竹筐の中は五百斤の重さ。これをお手玉の綾とりをしながら、
臥牛山のてっぺんまで駆け上がる。
パッ、パ、パッと達人は左右の手を動かして竹筐を宙に投げあげ、
投げあげ、巧みに綾とりをしつつ走り出す。あっけにとられて茫然と
見送っていると、たちまち達人は樹林の中に消えてしまった。
あっ、こりゃ物の怪か、それとも...
容易ならざる怪人に遭遇したという驚異の感の方が先にたった。
あいや、それなる大先生。恐れ入った絶妙のご神技は、
拳法極意の至芸と見受けました。
稀代の秘術でなくして、どうしてその放れわざができましょうぞ。 ちなみに芦原会館創始者の芦原英幸は↓の動画内で
素人が勘違いしがちな
インパクトの瞬間にフォーカスした技法のトリックについて指摘をしており
攻撃はインパクト時の形ではなく、そこに至るまでの力の溜めや伝達がポイントで
身体を開き過ぎるとサイドに力が逃げてしまうと説明している
http://youtu.be/8wdcVEps_eA
百戦錬磨を誇り飛耳長目に長けた実戦空手家と
実戦性や再現性に乏しい謎理論に囚われて
素人解釈、無知蒙昧の域を出ないド素人との差がここにもある 芦原は、ケリが武器なんだけど、
実は、聞いたことがある。
相手の足をけるよりも実は、手裏剣の方が得意だということを。
だから、特に足技をあそこまで錬磨しなくても、
手裏剣の腕前は、人の形をしたワラの急所を全てあっというまに手裏剣を飛ばして刺すことができるらしい。
だから大山は、芦原と勝負するなみたいなことを言っていた。
カラテで勝負したとしても、手裏剣でやられると言っていた。
そして大山カラテは、華麗でなければならないよ。
って言っていた。
大山倍達は、カラテをするだけでなくて、華麗でなければならない。
強い大山カラテ家はたくさんいるが、
華麗なカラテと呼べる大山カラテ家はいないよ。
一人上げるとしたら、松井だ。松井は徳俵を一つ残して、回転まわしけりをする。
華麗でなければ、それはカラテじゃないよ。
って言っていた。
華麗なカラテをして、相手が、余韻、余情を感じるようなカラテ。
相手が負けて悔しがるような試合をしてちゃだめだ。相手が、戦いに負けたが、
悔しがらないで、その試合に余情を感じるような戦いをしなければならない。
畳をさる後ろ姿を見ると、水もしたたるいい男みたいな、水もしたたるいいカラテをしなければならない。
ブルースが流れるようなパープルレインドラゴン。
芦原のエピソードを聞いてから、得意技は、得意技を出してからの得意技があると思った。 ある方は、
継続してはいけない。
重続しなさいと言っている。
重ねることを続けること。
ジークンドーを継承するとなると、それは継続ジークンドーとなる。
すると映画のままの型をしなければならない。
ジークンドーを重承するという形を考えれば、
それはジークンドーを重続したことになる。 https://www.amanotobira.com/
現在は(2023年6月現在)約50名の日本人が、天の扉開き
現象を成功させている。全員が物質化により、物体(神聖物)を
出現させることに成功している。 天の扉開きの物質化現象を初めて成功させたのは、
タイの高僧だったPK仙人だ。
彼が洞窟にいるときに古文書が落下してきて、そこに天の扉開きの
やり方が書いてあったのだという。
弟子たちと何年も天の扉開きについて試行錯誤をした。
そしてついに物質化現象が起こり、神聖物の回収に成功したのだ。
ところがアチャン司祭は見ただけで、プジャの本質を見抜いてしまった。
そしていきなり物質化を成功させ、先輩司祭たちをおどろかせたのだ。 男の名前は”スワミ・A”氏。
若いころ、何もない空間から物が現れる物質化現象に
興味を持ち長年研究を行い、それは
”スピリッツ”によるものだと悟った人物だ。
スピリッツはムチャの持ち主を助けます。
それによって、持ち主は周囲からあたかも超常能力を
獲得しているかのように思われたりするのです。
ムチャこそが、伝説の賢者の石だと彼はいいう。
スワミ氏によると人間は”肉体””魂””ジッ”の3つで構成されている。
魂は心臓の心室内に存在し、脳と連動している。魂は肉体が寿命を
迎えるまで、心室に留まるため、心臓移植をした場合、移植された相手の
脳に記憶や習慣を伝達を起こす。”ジッ”は意識体のようなもので、
脳内に存在する”非物理的存在”。日本ではあまり知られていないが、アジア諸国、
とくにタイの僧侶の間では、当然のこととして扱われている。
僧侶たちは瞑想によって、自身のジッをコントロールし、その最終段階では
ジッを肉体から解き放ち、瞬時にしてどこへでも行くことができるのだそうだ。
一般的にいわれる幽体離脱や千里眼現象は、この現象を指すらしい。 多くの人のジッは、肉体の死とともに消滅する。魂は肉体を離れ、再び転生への道を辿るが、
脳の50パーセント以上の力を引き出した人のジッは死後も消滅せず魂と融合、
スピリッツとなって、この世に留まるのだという。
これは仏教でいう”解脱”で、輪廻の輪からの脱却を意味するが、”悟り”とは
別の意味らしい。そのような存在をスワミ氏はスピリッツと呼んでいる。
スピリッツは、人気のない山や洞窟などに集まるそうだ。
スワミ氏によると、スピリッツを的確に示す言葉は、
日本語にないらしく、最も近い概念は”精霊”なのだそうだ。
スピリッツは、物質化現象、さらには実体化現象までも起こす。
異星人や妖怪、UMAはこれらの精霊が実体化した姿を
目的したものなのだそうだ。
儀式の方法はマントラはすべて夢の中で教えられたそうだ。
スワミ氏の唱える「スピリッツが、すべての超常現象の根源である」
という説に、非常に興味をかき立てられた。
スピリッツの謎は実に奥深く、まだ入り口に過ぎないようだ。 神々が自分の世界のドアを開ける。
”霊””力””体”の三位一体
ということである。三位(いぬい)何れも後先なく
八起(八方位、八卦)、発揮される最高度の力ということになる。
霊=スピリッツ、ジッ
八卦=乾兌離震巽坎艮坤 北斗神拳とは、天命に従い死す。
北斗とはそのように神にプログラムされている神の道具である。
神の道の具(うつわ)である。
地上に入り、神として生まれ、神として生き、神として死ぬ。
その一生を神生(じんせい=人生)と呼ぶ。
神の一字を知る者は、神の道具といわれる神の戦士(北斗の拳)なのである。 ジッの物質化現象には、驚かされる。
真空から物体が現われる。
重力の法則とやらは、われわれが体験したことを記述する言葉に過ぎず、
それ自体は決して自然界の固有の要素ではない。われわれは、まず最初に何かの結果、
重力や強い相互作用などを観察し、それから件の結果をあたかも実在する根源的な
何かであるかのように記述する。そして、それを物質的宇宙が
守っている原因的法則である、などと言い出すのだ。
これはまさに根本的な混同とぢか言いようがない。実際に存在するのは
エネルギーの振動性のダンスだけなのである。
粒子も波動も力も本当は、この唯一で同一の存在の異なる側面、
このダンスがわれわれの前に現象化する際の異なるやり方に過ぎない。
洞窟の中で暮らしているジッに
くだものをささげて、祈る。
神聖物を落としてください。
すると真空の粒子がダンスをして、神聖物になり、目の前に落ちてくる。
突き出したジッと一体化した拳の周辺の粒子をダンス化させる。
けりだしたジークンド・ステップ・サイド・キックのジッと一体化したつま先辺りの粒子をエネルギー・ダンスさせる。 冬とはいえよく晴れたおだやかな日であったが、
その静寂をやぶって、ふいにサーッと一陣の風が吹きおこった。
いや、それは風ではない。
風のような、空気の動く音、といった方が正確であろう。
その証拠には、草も木もそよそよともしないのである。
そしてその微妙な音とともに、目に映ったのは、
神怪飛行の術を使う達人であった。 石井和義が物質化現象に成功した。
空間の断片が他の空間を通り抜ける。
空間が空間を通り抜ける。
アインシュタイン自身は、惑星や恒星や果実のオレンジであれ電子や光子であれ
三次元の空間的広がりのある物体が他の空間を移動する、通り抜けることを
考えた場合に避けて通れない数学的問題があると言っている。
光の速度よりはやくなければ、洞窟の天井から神聖物が次から次とピカッと
光った後、頭の上に落ちてこないからである。
真空を手でつかんだり、通常のやり方で動かしたりするわけにはいかないのである。
われわれにできるのは真空を電気的に捕らえることだけなのだ。
われわれが身体を帯電させる時、われわれは真空を緊張させているのである。
つまり真空は元どおりになろうとするわけであり、真空には反跳する力がそなわっているのである。
洞窟の中の真空が元にもどろうとする力がはたらき、そしてジッによる天の扉開き
現象が起きるのだろうか。ワンインチの短い距離感の中でも、その短い距離感によって、
真空は元にもどろうとするのだろうか。 ジークンドーとは何か。
石井和義が物質化現象に成功した。
これには驚いた。正道会館を頭にえがいていたら、
頭文字のS字の神聖物が背中に落ちてきたという。
これは不思議である。これをもし、C・G・ユングが目撃したら、
この状況をどのように学者として分析するのだろうか。
アニマの1類型である。この元型の聖性(Numinositist)は居合わせた「人々」の一部に
パニックをひき起こす。つまり夢の主が自分自身の過剰反応を記憶しているのである。
アニマだという根拠は、アニマ特有の運命的な意味をそれをもっているからで、
エディプスに対するスフィンクスやカッサンドラ、聖杯の城からの使者や、予言する女性などに
その例を見ることができる。この夢の場合こうした意味合いは彼女が使命をもたらすという形で
強調されている。「伝道」を実行しているかどうか見守っているのである。
アニマは、周知のように普遍的無意識の「母たちの王国」の人格化であり、多くの事例が示すように、
意識的な生活態度を変えさせようとする傾向をもっている。そしてそれがうまくいかないと、
力づくで意識に押し入って、意識にはまるで異質な、初めは何やらさっぱり理解できない無意識内容を
つきつける。異様であれば異様であるほど、この上望みようのない内容を示している。
意識がこの内容を統合することはきわめて難しく、通常の理解力では不可能である。 こうした場合には、神話的な説明手段がとられるのがつねで、見たものがそもそも何であったかを
知るよりも先に、星の住人や天使、精霊、神々などが出現したことにされてしまう。
こうした観念のもつ聖性はひときわ大きいから、それが普遍的な無意識過程の主観的な認知ではないかどうかを
問うてみるゆとりもない。つまり、全ての人間が持つ普遍的無意識とブルース・リーが一体化して
アニマ化ジークンドーになりつつあると考えられる。
個人個人の枠の中の無意識ではなく、人類普遍的無意識とブルース・リーが結合してしまい、アニマ化ジークンドーに
変貌したということになる。矢地がワンインチを受けたとき、ジークンドーの技が、
夢の中でアニマという普遍的無意識が仙人の人格化となって、理解不可能を
そのまま理解不可能を受け入れられない心に刺激を与えようとしたということなのかもしれない。
自分の中の無意識が理解不可能を自分の内側の有意識に与えるとC・G・ユングは語っている。 前半は説得力があったとしても
後半はどうなのだろう? >この夢の場合こうした意味合いは彼女が使命をもたらすという形で
>強調されている。「伝道」を実行しているかどうか見守っているのである。
C・G・ユング理論で考えると、
頭の中で大山倍達がリングの上で戦っている姿が浮かんでいたら、
実は、大山倍達が「伝道」を実行しているか見守っているのであると
考えるべきなんだと思った。
ブルース・リーの場合だったら、同じように考えられる。
頭の中でブルース・リーみたいになりたいなと思っていたら、
実は、ジッのはたらきかけにより、伝道を実行しているか見守っている状態なのである。
”スワミ・A”を中心にみんなで洞窟に近づいていく。
そのときに、心の中で「驚かしにきたわけではありません」「悪いことをしにきたわけではありません」
と言いながら、洞窟の中のジッに言いながら、近づいて行かなければならないらしい。
そうしないと、ジッは神聖物を落としてくれないらしい。
ジークンドーによる物質化現象を起こすには、「驚かしにきたわけではありません」「悪いことをしにきたわけではありません」と
ジッに対して声掛けが大事なのかもしれない。
ケンシロウは、北斗最終奥義を炸裂するとき、かならず、あらゆる仲間の顔を思い出すのも同じような現象なのかもしれない。
ジッは自分は驚かされるのはいやなのだが、洞窟の天井から神聖物を落として、
人間を驚かすことにはあまり気にしていないみたいである。もしくはジッの世界では、物質化現象は日常的なできごとなのかもしれない。 達人の神怪飛行の術が、興味ある。
神怪飛行の術と点穴の合わせ技。
なぜ人間が生卵の上に立てるのか?
身を軽くする鶏口という業(わざ)である。
この鶏口により三メートルの高さを飛び越える武術家もいる。
この鶏口の業を使って武術家は生卵の上に立って見せる。
どうして人間が生卵の上に立てるのか?まず、気海の気を二つに分け、一方は上へ、
一方は下へ誘導する。下へ誘導した気は足の裏から発し、生卵を保護するために使う。
上へ誘導した気は、へその高さの命門といわれるツボから上へ上げ、
体を軽くするために使う。その結果、人間が生卵の上へ乗っかることができる。
達人は、鶏口の業と点穴の合わせ技ができるのかもしれない。 軽功で卵の上に立つのは
卵に似せた丈夫な物と摩り替えてるからなんだけど
日本でも有名な実戦台湾人武術家が雑誌でばらしてたよ? 双湧泉穴は左湧泉穴と右湧泉穴とがある。
https://www.facebook.com/240861443092549/photos/a.260420781136615/383192578859434/?type=3&eid=ARC-WpEGIJBmjgYBJJ7vfa8mBwtk4zcf62YgtWZBrCs0BnYXcLAe5fBvzDF3D-NsLD0zlgIxUC471vXQ&__xts__[0]=68.ARA1ad8kspz2m7vpCj_yU9WLHp8WICIK3XUHr7l4AvuNGpw-r92ibSk6AbmQ1xUMr2SXcmRBk9C2lBPaBuh3Op-FyoAgbk-vggSqkSQV9FB_3RSQfRstNHf4zKGuHkvJYM4QAoaQpVuJS9VEmGn_AzQI3EpqOgoGSlmIRQ3BLFtbeLAt7va8pUmgsaSWbXFvqDyu_mJ6BBzJhD5ZWaG-9bbAqAJM8ClFkdiM9RJd5FzzAuuVyC3CXURxBrDsMeKkkkeTQN2JDuJiko9d5W0TpzocSlMjddDFPPbq4CyMIX0L3gy9bgM
第一段階→体内の内気を下に押さえ付ける(捺気)
第二段階→内気を指定の場所、つまり双湧泉穴に定着させる。
第三段階→内気を左右の湧泉穴から発散させる。
第四段階→大外に発散された内気を陰、すなわち地下に回帰させる「陰」について、
「陰陽は結局天地に帰着する。すなわち上なる天が陽で、下なる地が陰である」。
第五段階→左右の湧泉穴から内気を陰である地の気に連結する。
第六段階→連結した内気と地気を左右の湧泉穴に確実に固定する。
第七段階→体内の内気を押さえ沈め、ただちに固定する。
第八段階→鍛錬の時に思いのままに内気を呼び出し、自在に使えるようにする。 西門外の静かな湖畔を散歩していた。
初秋の晴れた午後で、空は瑠璃色に澄みわたり、天壇の塔の上にうかぶちぎれ雲は、
白玉を溶かしたように柔らかであった。
風に乗ってくる微妙な楽の音を耳にして、吸いよせられるように、その方へ足をむけた。
見ると大きな楓樹の前に人だかりがして、その中で、三人の若い女が音楽を奏していた。
いちばん年長の女が胡笛を吹き、次の女が胡弓を鳴らし、最も若い少女が赤白の長い袖を
ひるがえして舞いながら、腰につるした小さな銅鑼と太鼓を鳴らしている。
三人は姉妹らしかった。珍しいので、達人は群衆にまじって、うっとりと見とれた。
音のリズムが急テンポになり、笛の女も、胡弓の女も一緒になって、たおやかに体をくねらせ足をあげ、
共に踊りはじめた時、ふいにわらわらと人垣をおしわけて現れた二人の壮漢があった。
お前たちは誰にことわってここで演芸をしているのか 音楽はやみ、女たちの顔には恐怖の色がうかんだ。
ここは盛り場でないから、勝手にやってもよいのだろうと思ったのです。
いけないのでしたら、どうかかんにんしてください。
冗談じゃねえ。芸人にはすべてしきたりというものがある。
勝手に場所を使われてたまるか。さァ、おれと一緒にこい。
手をつかんで引立てようとする。
ゆるして ゆるして
泣きだした妹の二人も別の壮漢に腕をかいこまれた。
待ちたまえ。
君たちは遊侠の徒なら、弱い者を保護してやらねばいかん。おだやかに見逃したまえ。
何だと、こいつ。
笛の女を突き放した男がニヤリと笑った。
えらそうな口をきくなら、てめえが相手だ。仲裁には仲裁の作法があるのをわきまえているだろうな。
そんな面倒なことは知らんな。私は君たちが黙って立ち去ってくれることを望んでいるだけだ。
野郎、なめるなッ。
と男は拳法の手で烈しい一撃をくれた。がそれは空を突いて、男はひっくり返り、顎をおさえ、顔をしかめて、ウアッ、ウアッと
わめくだけで声にならない。どういう早わざをかけたのか、男の顎がはずれているのだ。 聖法を知らずとは一切法に対して不如実知であること、
自然的立場に立つことにほかならぬ。
従って無明縁行とは自然的立場に立つかぎり行があるとの謂いである。
識乃至の一切法を究極において条件づける行は、自然的立場においてはあり。
しかし、それが根源的な法の本質を把握していないこともまた事実なのである。
根源的なる法。
ジークンドーの根源的なる法とは...。自然的立場に立ち、そして根源的なる法を持つ。
即ち、無明と明の両極構造に於ける明の極に合入する。
ラオウは北斗の無明と明の両極構造に於ける無明の極に合入し、拳を突いた。 ブルース・リーのジークンドーは、
なぜ、あの型になるのか。
ブルースー・リーの意識構造を使って、
ブルース・リーの意識の世界の中に映し出してくる内容を、
考えなければならない。ブルース・リーが、本人の考えとして
ジークンドーを分析しているのではない。
ブルース・リー本人の考えによる分析と、ブルース・リーの意識構造を
使ってのジークンドー分析は異なる。
ジャッキー・チェンは、戦う時、かならず両手で戦う。
片一方の手に銃をもって相手とカンフーで戦わない。
あるいは、銃を捨てて、相手も銃を捨てて、お互いの拳と拳で戦う。
ブルース・リーは、拳銃を片手に持ちながら、カンフーで戦う戦闘術というものを
シュミレーションしたところ、ジークンドーのスタイルになったのかもしれない。
他の格闘技術は、拳銃を持っている相手に対し素手で戦うことを想定しての武技であり、
ジークンドーは、片一方の手に銃を握りしめて、残っている一方の手で戦い合うスタイルを
想定しているため、ジークンドー型ステップになるのだろう。
相手と近距離でワンインチを出しながら、後退りする相手の心臓に対し、もう一方の手で引き金をひくスタイルなのだろう。
なのでボクサー型みたいに両手をグローブで固めていては、銃を手に持つ戦い方においては、難しいかもしれない。 天心が試合だな。
ステップはよかった。天心のボクシングをすればいいと思う。
エンターテイメントになるほど、自分にチャンスがあると
天心はいつも言っている。
相手のボクシングのサイクルの波をかぶらないように工夫し、
逆に自分のサイクルが好転したら、チャンスであり、この影響を受けやすいようなボクシング・システムを築く。
このようにジークンドー的主体性を保ちつつ、柔軟な姿勢であれば、
エンターテイメントになるほど、自分にチャンスをつかむことに申し分ない。 戸隠忍術の中に虎倒流骨指術があるみたいなのである。
十三歳で免許皆伝をとる。
十三歳で5、60人をことごとく投げ飛ばし、自分は傷一つも負わなかったそうである。
高松寿嗣のエピソードである。
驚いた。 高松寿嗣流によると、
杖(つえ)とも柱ともなれ。
鳥刺しの技を目指しに使う。
地道、草道、七方三法型。
二人十文字の構え。相手が杖を縦│に構えると、もう一人は杖を横─に構える。
乙名杖
音無くて剣、音あらば杖術と云う。
音無しの剣と乙名杖。
これも音無の杖から、くりいだす。
押しと体の捌で相手の左首に薙刀が忍び込む。
飛行術、自然力への道を開く。影おとし。前向き、後向き、横向き、四方向き。
飛鳥天門地門飛び。
達人は、飛鳥天門地門飛びの技と点穴の合わせ技を使ったのだろう。 ヒロ渡邉が肩にダムを作れと
言っていた。
ある先生が言われたことは、
両手を組み合わせて、その中にサイコロを入れなさい。
そして腕を振り、手を広げて、そのサイコロの目を
十回連続で当てれるようになったら、
感だけで、相手の動きがわかるようになると言っていた。
サイコロの目がはずれているときは、神の眼には届いていないと言われていた。 先生の本には、マッチ箱にマッチ棒を入れてもらい、当てる練習をしていたと書いてあった。
その先生に聞いたことがある。
先生は、予知能力をどうようにして身に付けたのですかと聞いた。
すると、先生は、手の中でサイコロをふると言うのである。
両手で作った手の中のサイコロを
連続で10回当てれるようになったら、予知能力が
ついたということである。
その感は、戦場でも、日頃のスーパーでの買い物でも、
その予知能力を使ってもいいだろうと言われた。
これを相手の動きに対して予知し、そこに、前もって拳を打てば、
相手自らそこに移動してくることになる。
マッチ箱の場合、自分でマッチ棒を入れなければならないので、練習ができないと
思っていたから、手のひらの練習は助かった。
石井がワンインチを打つときも、このサイコロ的目線で動きを見ている。
天心のステップもこのように見ている。
映画TENETみたいに逆時間操作ジークンドーなりかともともいえる。 格闘技から足を使わない競技に立つ。
拳を振るだけのボクシングで戦う天心は、
九所をねらっていた。
いきなり虎倒流骨指術型ボクシングをみせていた。
虎倒流骨指術のツボは、九所という。
九所といっても、九つの個所ということではない。
九は最高を意味するところから、最高に効く個所をさす言葉である。
急所というのは、ここにあたると救急を要する状態になるという意味であるらしい。
虎倒流骨指術には、九所、急所の点穴があるらしい。 北斗を読んでいると、
夜空に北斗が輝く時、みたいに星をよく観察しているエピソードが多く出てくるし、
肝心な箇所が近づいてくると、星の輝きの話が出てくる。
お前には、あの星が見えるかとか。
脳に武術的直感を出す練習として、星のまばたきを利用する方法があるらしい。
星のまばたきは、自然の光だ。
そのうえ、人間(格闘家)にとって心地よいリズムで、体に合ったサイクルの明滅を
くり返している。だから、晴天の夜に、天空のなかの強い明るさで輝いている星に
的を絞って、五分ほど、じっと見つめてみる。
こうしていると、見つめている星以外は目に入らないようになり、
そのとき一子相伝者の脳は武術的直感になっている。
北斗の星がまばたきをしているとは。 ブルース・リーの場合、
前かがみでパンチを打つのではなくて、
背中を前かがみの逆で、
背筋を弓なりにして、パンチを出している。アゴが相手に突き出ている状態で、
相手の体に拳が当たりながら、自分のアゴは上がっており、背中は弓なり状態で打っている。
あまりに拳に力を入れ過ぎて、拳にブルース・リー全体の身体が持っていかれている状態でのパンチともいえる。
自分の出したパンチの威力で、体ぜんたいが持っていかれている。
ブルース・リー・マックス・ジークンドー・パンチなのかもしれない。 ここが難しいのだが、
普通は、足のステップで地面に力を入れ、その力を腰→肩→拳で、相手の胸に巻力を伝える。
しかし、この背中弓なり拳は、
足に力を入れる前に、すでに拳が相手に向って発射されており、
そこで釣られて、腰と足が拳のスピードに引っ張られて背中が弓なり状態になり、
そしてあごが相手に対しつきだしながら、マックス・ジークンドー・パンチになるということになる。
まったくステップの力はゼロ力量で、相手を打つという考えもゼロ思量で、しかし拳200力量状態で、相手にジークンドーマックスを打つ状態といえる。
目は、北斗の星のまばたきのようにして、相手の目を見る。
そして、大地に両足で立ち、「ビーウォーター」とささやく。 まったくステップの力はゼロ力量で、相手を打つという考えもゼロ思量で、しかし拳200力量状態で、相手にジークンドーマックスを打つ状態といえる。
これを弾道飛行型ジークンドーとも考える。
弾道飛行する。ボールを使うほとんどすべてのスポーツで、ボールはどこかの時点で
弾道飛行する。野球、クリケット、フットボール、ゴルフ、ラクロス、サッカー、テニス、あるいは水球、
何をやっているにしても、ボールは、投げられ、打たれ、あるいは蹴られて、そのあとしばらく空中を飛んでから
地面に戻る。石を水平に投げる際に、その速度をどんどん上げていったらどうなるか。
石は、速度が十分上がれば、石は地面に落下することなく、地球をまるまる一周し、戻ってきてあなたが頭をかがめば、
石は通りすぎることになる。脚力ゼロ力量にして拳に200力量に限定するということは、拳の無限化速度型と考える。 開祖、創始者、これはよく使われる言葉である。
すると、アダムは、人祖みたいなのである。人祖アダムなのである。
この意味がよくわからないけれど、よくわかる。開祖の前に人祖がいなければ開祖が
登場することはできない。
人祖的ジークンドー技をみせなければならないのかもしれない。
ケンシロウの技は、ある意味で、人祖的ジークンドーの点穴をさりげなく、肩に力を入れない感じで九所を打つ感じなのだろう。
人祖とは、世界における命の始まりであり、かつ武芸の始原なのである。 https://stat.ameba.jp/user_images/20230627/18/1116am1124/e7/c7/j/o1030108015305189430.jpg
トート神の図。
もしトートが武技ができるとしたら、
トート型ジークンドーとは。
頭に乗せている球体。手に持つ球体。
回転結球ジークンドーにおける一面なのである。
これらの形象は、ジークンドー結球における変化相といえる。
エジプト神話に出てくるトート神、いわゆる司命神は〇とTが合体した道具を
持っているが、やはりジークンドー原理にのっとっているようである。
一子相伝トートー神型ジークンドーのカタが描かれているのだろうと思われる。 ベッカムがケガをすると、
酸素がたくさん入っているカプセルの中で休んでいる。
酸素をたくさん体内にいれることで、エネルギー化している。
ボクサーでも「シュ!シュ!」と声を出しながら、パンチを鋭く出している場面がある。
自分はよくわからないが、
声を出して気合を入れているのではなく、腹の中の空気を全部外に出して、しんせんな空気を
腹一杯に貯めて、さらに血液を通して、からだ全体に酸素を送って、
筋肉の爆発力をたかめている。水泳選手が素潜りするというか、貝を手でとる海女さんのように
一瞬の一呼吸で肺にたくさんの空気を入れて、水深く潜るみたいな感覚である。
肺の中の空気の入れ替えの速度もマッハでなければならない。吐くより吸う力のほうが大事なのである。
大型タイヤに空気を入れ過ぎて爆発するように、腹に空気を入れて、爆発的なパンチをくりだす。逆に相手が呼吸をするのを
わすれるくらいに攻撃連続化する。コンサートで息をするのをわすれるくらい観客が夢中になって倒れるように、
相手が夢中になるくらいに夢在自在ジークンドーステップで攻めなければならない。わからないが。 武芸者の言い伝え、迷信は聞いていたほうがいいような気がする。
畳の縁を踏むことは、親父の頭を踏むのと同じだという。
このように教える。意味がわからないが、あとで時間がたつと、意味がわかってくる。
畳の縁は、国境と同じような意味があるといったら驚くだろう。確かに表現はオーバーかもしれないが、
この言い伝えは、そうした考えからはじまっている。
日本人と畳のつき合いは、奈良時代からはじまった。このころの畳一畳は、人間一人の
最小限度の生活空間の意味があった。縁に武将達の紋を織り込んだものがあるくらいである。
つまり、畳の縁は自分の陣地と第三者の地界線、国境と同じように、たいせつにする必要があったのである。
畳の縁をなぜ踏んではいけないか。それは、家の床下には、忍者が潜入した。
畳の縁を踏むと、そこが標的になって、下から刀や槍を突き上げてくるのである。
畳の境目が刃が通りやすいからである。 気功師が手のひらを上に向けて動かしていくと、
驚いたことにこの女性の腕は、気功師がまったく触れてもいないのに
どんどん上がっていったのである。ついでに気功師が手をさげるやいなや、
彼女の腕もすぐにさがっていった。
気功師の手の動きのままに、女性の腕は上下をくり返すのだった。
やがてこの女性は、腕が上がったところで痛いといいはじめた。
どうしたのだろうと居合わせた人々が彼女にたずねると、前にその腕を痛めたことが
あるということを告げた。気功師は実験の最中にそれに気づいたので、
意識的にこの女性の治療のための気を送ったのだ、と実験後に語った。
この感覚は一体何だろうか。
達人は、点穴を打つ場所が、気功によって相手と手を合わす前にわかっているのではないだろうか。 生徒がすきまに鍵を落とした。
達人は自分が取ってやるといった。
そこで棒を渡そうとすると、そんなものはいらんと突っ返された。
ではどうするのかと見ていると、達人は手をすき間のところに突き出し、
鍵に向かっておいでおいでの動作をはじめたのである。
見ていると、鍵は磁石にでも吸い寄せられるかのように、少しずつ達人の手のほうに
向かって動き出したのである。
鍵は達人に近づくにつれて動きを速め、最後にはボーンと飛んですき間を抜け、
達人の手の中に収まった。
綿掌功。この鍛錬法は最高の奥義に属する。
レンガの壁のところに行き次の鍛錬をはじめる。
練習者はこの前に立って拳で壁を打つ。
今度はこの壁の上に綿(わた)でつくった紙を十数枚張りつけ、これを破らずに壁を打ち砕けるように鍛錬していく。
点穴を打つときは、打つという感じでなくて、おいでおいでと相手の経穴をまねく感覚なのかもしれない。 高藤さんがそれを書いてたのを昔読んだけど
それ綿掌功か?
原理が根底から違うような気がするが
ちなみに鍵の引き寄せは教えて練習すれば
誰でもやってできんことはないぞ?
ちなみに点穴を打つときは相手の経穴をまねく感覚はどうかは
経絡の走行の方向や与えたい効果によって変わる そんなもの超能力とか神秘とか関係ないので
変に思い込まない様に アポロ15号のジム・アーウィンは、語る。
月では、神に何かを問いかけると、すぐに答えが返ってくる。
声として語りかけてくるというわけではないが、神が自分に語りかけているというのがわかる。
月面に立ち、遠くにある丸い地球を眺めながら、どうすればいいのですかと神に問う。
するとすぐに答えが返ってくる。全プロセスが一瞬なのだ。
一子相伝ケンシロウも、北斗神拳に問いかけていたのだろう。
点穴の流れを。 ブルース・リーが塔の最上階で待っていた格闘家が
バスケットボールの選手だったのだが、
例えば、バスケットボール選手が、ゲーム終了の笛と同時に、
飛び上がって、バスケットにボールを押し込む時に、
その横に立っていてぶつかったら、絶対にぶっとんで怪我をしてしまう。
バスケットボール選手の場合、格闘技術を知らなくても、
ジャンプすること自体が、身体拳みたいな状態である。
さらに、バスケットボール選手は、ボールを持っている選手には触れてはならないルールがある。
これは格闘術の逆パターンなのである。
どんな動きをするかわからない選手の動きに合わせて触れないように行動する認識パターンが
頭の中で構造化している。
ジークンドーとは、相手の技をかわすという意識ではなく、相手に触れてはならないという
認識パターンで動き続けるという感覚なのかもしれない。
かわすのではなくて、相手の拳に触れないように動く。相手の拳を触れないように動きながら、
点穴をうつ。 もしリングに転がって、お互いがリングの上で、腕の取り合いになる。
普通は、関節を取りに行く。
そこで、ジークンドーの場合、横になりながら、もしくは、相手の上におおいかぶさり、
そして相手の胸にワンインチを打つ。
相手の背中は、リングについているため、ワンインチの波動は、リングの表面からの反射型ワンインチとなるだろう。
動画でも相手の背中を壁に押しながらのワンインチが一番効果があると言っていた。
しかし、横になってのワンインチだと、腰とステップの威力が加わらないので、
ワンインチみたいなワンインチでないパンチになるのではないかと思う。
ワンインチはどうしてもステップと腰が必要だと思われる。
つまり、この場合、リングに背中がついている相手に対して、
相手にのりになりながら、自分の片方のひざを立てながらのワンインチパンチを入れるとやや効果があがるかもしれない。
柔術型ワンインチ片ひざ立てである。 >相手の技をかわすという意識ではなく、相手に触れてはならないという
>認識パターンで動き続けるという感覚なのかもしれない。
>かわすのではなくて、相手の拳に触れないように動く。
ジークンドーはどうか知らんが
東洋の伝統武術は大抵がそうだよ 柔術型ワンインチ片ひざ立て。
柔術のように相手の上に乗ってパンチを繰り出すのではなく、
片一方のひざを天に向けて、立て、
そして地に(地球の核、コア)に向けてワンインチをする。ヒザをワンインチステップのように、
ひざを同時にステップ移動させる。
ヒロ渡邉は、地球のコアの中心に向けて磁力+重力+核力をのせたワンインチしなさいと言う。
達人は言う。
ほんとうの真空とは力そのものである。
立てたひざと拳が作る三角形(ジークンドートライアングル)の領海に真空という
ほんとうの真空を形成させながら、相手の胸か背中に拳を突き抜ける感覚で、
力が突き抜けかける瞬間に、腰と肩を脱力化させて、力が突き抜ける寸前で相手の身体で
力が停止して、相手の身体に浸透させる感じなのだろう。もしくは心臓の管をつかむような
感覚(JOJO)で、点握穴ジークンドーを放つ。 村正伝説。
村正、貞宗、正近の三人にそれぞれ刀を作らせてた。
相模川に出かけて切れ味を試すことにした。川を流れてくる葉を刃で受けとめて切れ味をみようというのである。
まず正近の刀は、流れてきた葉が刃にまきつき、気合をかけても切れず、そのうち葉は刃から離れて流れていった。
貞宗の刃にも葉がまきついたが、気合をかけると、葉は二つに切れて流れていった。
村正の刀は、流れてきた葉が刀に近づくと、吸いよせられるように接近して、
触れるか触れないかとみる間に二つに切れた。
達人の技といえる。 拡声器を振り回して相手の頭に当たり、失神したニュースをしていた。
拡声器が、頭に当たっただけで、人間は一瞬で倒れるものだろうか。
ホーンの部分が掌底打ちみたいになったのか、振動板の振動が、相手の脳波を震わせたのか、
拡声器打撃原理がわからない。 内容のない無駄な長文を連投しないでください。
本当に鬱陶しいです。 鎧通しも、拡声器打撃による波動の波なのかもしれない。
トンネルの中で大きな声を出すと、音が反射し、長いトンネルの端まで一瞬で到達するように、陰陽図の中心点に力がいくのだろう。
鎧の表面に当てる掌をドラムのシンバルを振わせるような感覚で打つ。 内容のない無駄な長文を連投しないでください。
本当に鬱陶しいです。 世にも不思議な北斗一子相伝の武技〜。
珍しい技を出すらしい。陰陽図の影をゆくもの。
漏電した電気のように、数々の不思議な体験に遭遇するのが北斗神拳〜。
考えても分からないということを分からせてくれたものが北斗奥義。
このような日常における現象の意味や、その起こりはなんだろう。
もしこんなわけの分からない北斗現象を認めたら、人間の全人格がおびやかされ、
何かなんだか分からない混沌のなかに迷いこまされてしまう北斗神技。
ジークンドーとは、世にも不思議な陰陽図。 ケンシロウはなぜ旅をするのか。
なぜ旅を続けるのか。
これは、松尾芭蕉にもいえる。
なぜ旅をするのか。なぜ旅を続けるのか。俳句自体が技。
松尾芭蕉は、忍びの者。九字も打つ。大地に北斗七星の大結界をつくる旅。
芭蕉が俳句を奉納しながら旅を続けたように北斗七星の位置にある神社にて北斗技神事を奉納し、結界を張ったのかもしれない。
芭蕉の旅のルートを結ぶと、ロザリオの数珠になる。
芭蕉隠れキリシタンの暗号―『奥の細道』は予言アナグラムになっていた! (トクマブックス) ヒロ渡邉のエピソードで、山の中で、滝壺の中をもぐって、滝の裏側に行ったと言っていた。
滝壺の中に潜水すると、底にどんどん吸い込まれていったと言っていた。
水泳選手が波のないプールで泳ぐことはできる。
さらに急流の中を泳ぎきり、岸にたどりつくこともできるだろう。
ヒロ渡邉の言っていることは、向こうの岸に流れに流されず直線でたどりつかなければ、
それはジークンドーではないよと言っているのだろうと解釈する。
急流を直線で渡り、10センチでもずれていたら、力まけしているよと言っているのである。
わかると思うが、川に押し流される勢いに対抗して、上流に向かって両手をごぎつづけなければならない。
それゆえに、ジークンドーのシャベル・フックの連打が流れるように打てるだろうと
ヒロ渡邊はアドバイスしているのだろう。 あるエピソードによると、
エスキモーの暮らしが最強であるらしい。
あたりどこまでも氷一面の世界。吐く息が凍る。
普通に見ると、氷しか見えない。
しかしエスキモーは、その一点を発見することができる。
サバイバルなのである。獲物を追いかけてクレパスに落ちないようにしなければならない。
人間の究極のサバイバル魂を発現させるためには、エスキモーと同じ生活をしなければならない。
一度、エスキモーの暮らしを体験すると、町の中で生活しながら、
これがサバイバルだと口にすることはできない。サバイバル精神はエスキモーに学べ。人間は時には、自然の中に帰り、
本能を目覚めさせなければならない。それでこそ、町の中で生きることができる。
村上龍のテレビで、エスキモーと一緒に年に一回暮らしている方が体験談を語っていた。
リングの上で足をすべらせてダウンしてもいいが、氷山の上でクレパスに落ちたら、出てこれない。
それは人間だけでなく、クマもアザラシもすべてが厳しい自然と戦っているのである。
相手のパンチを腹で受けても、クレパスに落ちると思って耐えなければならないとブルース・リーは教えているのだろう。
しかしながら達人のエピソードはもっとすごい。たくさんのエピソードがある。
達人の話を聞いていると、エスキモーの生活が楽しく思えてしまうのである。 青木宏之は
電光石火なお遅し
という信念があるらしい。
真空突き=電光石火なお遅し
突きが人間の行為である限り、拳が消えてしまうほどのスピードで一瞬に突いてしまうなどというのは
もともと無理な話である。ケンシロウの突きは、消えているが。
一瞬に突いてしまったと思っても、おそらく100分の1秒より速くは突けないだろう。
しかし、たとえそれは千分の一秒でおこなわれたとしても、そこに時間が存在しているならば、
その時間は宇宙的に無限大ともいえるのである。
しかし、心の中で一瞬であろうとすることによって、それは一瞬たり得るのである。
青木宏之は言う。限りなく速く突こうと努力していると、ついには突こうと思ったときには
もう突き終わっているくらい速くなる。自分で突いているのに、突いたのが速くていつ
突き出したか、わからないのである。当然、受け手にも同じようなことが起き得る。
そのときは突き手にとって受け手にとっても、時間も相対も消滅しているのである。
時間があるのに時間が消滅している。
この考えでいくと、ケンシロウの突きは、周囲の人間の時間は消滅していないのだが、
ケンシロウと戦う相手の二人の間の時間は消滅されていることになる。
青木宏之は電光石火なお遅しと心の中で思いながら、突きを出していくうちに、見えない拳という
幻一指の点穴が出せれるようになったのだろうか。 石井が言うように、
フェッシングの動きを、詠春拳に取り入れたというところが、
いろいろな格闘技術を動画で見ていて、ジークンドーが他の武術と違いがあると
いうことがわかってくる。違うのである。ボクシングの動きでもないのである。
ジークンドーの動きは、仮想の武器、手にフェンシングの槍をもって戦っているような動きなのである。
ボクシング的攻防における足の配置ではなく、ステップは、フェンシング的で、咄嗟のバックステップ、あるいは、
一点集中の前前ステップの左右の足ステップの攻防、戦いの塔でも、ブルース・リーは、
竹の棒みたいなもので、床を数回叩いている。なぜ細い竹の棒をうまく扱うことができたのか?
フェンシングがジークンドーの源泉(オリジン)だからだろう。
ケンシロウがフェンシングを使えば、一体どうなるのだろうか。
北斗神拳一子相伝フェンシング型とは、一体どういう動きになるのか。やはり、相手の足もとの床をコンコンと
槍で数回叩いて、北斗集中するのだろうか。わからない。 北斗最終奥義、輪廻拳。
これが難しいと思われる。
ここがブルース・リーのジークンドー拳と
北斗の輪廻拳の理論の違いがある。
ジークンドーの技の中には輪廻拳はないし、ブルース・リーは否定するだろう。
だからジークンドーと北斗輪廻拳はまったく違った拳芸だろう。
点穴ではなく、北斗輪廻拳。
真空そのまま妙有なのである。
龍樹はその鋭い論理を縦横に駆使し「否定」に「否定」を重ねることによって、
「妙有」の境地に到達する。
輪廻拳はいったん否定しさられるが、それはやがてそのまま肯定されるのである。
一天ジークンドーなりか。
一指北斗輪廻拳なりか。 内容のない無駄な長文を連投しないでください。
本当に鬱陶しいです。 古い地層から、古代遺跡の一枚の皿が出てきた。
遺跡から発掘された一枚の皿には、
数匹の魚が原始陰陽図の中へ、入ろうとしている。
陰陽図は右旋(時計回り)に回り、その陰陽図の中へ、魚たちは一生懸命に入ろうとしている
ようにみえる。つまり、拳は陰陽図の中に入って、はじめて転生するのではないだろうか。
われわれの住む時空場には数多くの陰陽図のように渦潮が右旋、左旋の回転をしていると考えらえる。
その陰陽図の中に拳(一指)が収まったときに、転生北斗神拳が可能になるのかもしれない。
宇宙の誕生から渦を巻いている。
武技の発達は、人間と磁場の関係の接近度にある。
北斗の拳は世界をさ迷う。そして右旋と左旋する陰陽図を目指してさ迷う。
運良く陰陽図の中に入った拳は、転生する。 ケンシロウは、なにか、武人の生き様とやや違う感じがいつもするのである。
ブルース・リーの場合も、何かが違うのである。
ジークンドーを進化、進化というけれど、進化したジークンドーに
見えるのだが、ある意味で、ブルース・リーの開発したジークンドー以前の
武術のようにも見えるのである。
闘いの塔で戦った以上の進化型ジークンドーが誕生するのか、いろいろなジークンドーの
動画を見て、そう思えてくるのである。闘いの塔で、1階の使い手を倒し、
階段の手すりをつかみ二階に上がる。
あのブルース・リーが二階に登るステップの響きが、なんか、
次の新しい敵と向き合う喜びが伝わってくる感じなのである。
想像もできない強敵、それを倒す我ジークンドーなり。
みたいな感動みたいなものが伝わってくる。二階で待っているまだ未知の敵から
逃げようとする心をブルース・リーからまったく感じられない。 ここが、スター・ウォーズと違うところである。フォースが渦巻いている。
感じる。逃げようみたいな場面はまったくない。
ブルース・リーは、常に未知の強敵との出会いを最高の喜びとしているのである。
この武人の心は一体どこからやってくるのだろうか。謎が深まるばかりである。
魂とは、地上界を経験するために受肉する。しかし、人類の進化に関与するために
人体にくだる存在は東洋で「権化」と呼ばれる。
転生と権化と呼ばれる存在とは異なっている。権化はもっぱら人類の進化のために肉体に
受肉するのです。ですから、権化は人体にくだるが、人間生活を体験するために転生された
ほかの人間とはまったく異なった存在であるといわれています。
ケンシロウ、ブルース・リーの場合、地上の生活を体験するために転生したのではなく、
武技の進化のために権化してきた武人なのかもしれない。一子相伝北斗は、権化の一指なのかもしれない。 戦って人を倒したり殺したりが本当に武技の進化なのか? 佐々木うるか ピロに弟子入りか?
MMAコーチして朝倉海にリベンジ出来るか?
というよりピロがブレイキングダウンに
出て ヤーマン辺りと対戦して欲しい。
勝てば プロの連中にも認められるだろう。
そしてミャンマーラウェイでチャンピオンに
なってみせろよ。そしたら誰もが認めるよ MMA童貞の石井は、コーチした
矢地を惨敗させたからな この間、お年寄りのおばあちゃんが、朝、郵便物を取ろうとして開けると、
夜中にポストの中にゴミを入れられるいやがらせを受けていると泣きそうな顔をして言っていた。
絶対に自分で自分のポストにそんなことはしない。
多分、近所のジジィがやっているか、近所に住む息子の嫁か、誰かがいやがせをポストにしていると
なげいている。
わたしが、ユーチューブで見た究極型源氏皇型ジークンドーで相手をこらしめるので、
安心してくださいと言ってあげれば、お年寄りのおばあちゃんも安心するだろう。
ヒロジークンドーで近所のお年寄りに安心させてあげることは大事なことである。 たかがジークンドーとオカルト呪術が
命懸けのプロの世界で通用するのかよ? 命を懸ける。
映画を見ていると、
「サーカスは一体、誰なんだ」
「モグラがいる」味方の中に敵がひそんでいる。
などのセリフが使われている。
このサーカス的ジークンドー技、モグラ的ジークンドー技を秘技ジークンドーなりかと思う。
追い込まれた、土俵際後一歩しか残っていないところでの
秘技、サーカス、秘技、もぐら
これ奥義ジークンドーなりか。サーカス・ジークンドーが、奥義なりか。 https://www.youtube..../watch?v=gH_glDvvl3E
ヒロ渡邉は本当に強いのか?
16オンス戯れスパで検証!
中級者レベル虎牙光揮のモンスターTVを見て
HWの幻想が一気に崩れた!
極真空手全日本王者の感想 大山は言う。武蔵ほどの剣豪であれば、たとえば柳生一門のように、時の
将軍家の指南役になることは容易であったろう。だが、彼は剣の道のみを
ただひたすら追求し、その生涯を閉じた。それは、剣に生き、剣に死んだ生涯であった。
”われ、事において、後悔せず”
これは、そうした武蔵が、厳しい自己鍛錬によって開眼した不動の信念であった。
この剣聖の生き方が、大山には単なる一武道家ではなく、
それをはるかに超越した”大哲人像”に映るのであった。
”われ、事において、後悔せず”とは、ヒロジークンドーを見れば、後悔せずだなと
思ってしまう。視聴者の中には、ヒロジークンドーの動画を見て、われ、後悔したとなるのかもしれないが。 渡辺さんが「スペック上げ」という語を口にしていたが、
ここで再三
「コンセプト派は競技格闘技の威力速度を超えることはないが
オリジナル派には各種養成法があり競技格闘技より威力速度等のスペックを上げることができる」
と書かれていたのを見て言うようになったんだろうな。 ある動画を見ていると、植芝は、言霊を学んでから
強くなったと言っていた。
青木宏之も、道場で、心の中に栄光を描き、生徒みんなにかけ声をかけながら練習していたら、
師範から、今日の練習は良かったと言われたといっていた。
言霊の理法も、言霊の戦いなのかもしれない。
ケンシロウは言う。「お前はすでに死んでいる」つまり、本当は死んでもいないし、
点穴はずれて当たってしまったが、「お前はすでに死んでいる」という強靭な言霊で、
相手が言霊の武具で身を固めているところに、ひずみを作ったのかもしれない。
安房国出身の山口志道は、平田篤胤よりも11歳年長の国学者である。
山口志道の「水穂伝」言霊説に、
万物一に止まることを原とす。故に天地初発に、一の凝(コリ)より火水の二ツに分れて、
火を父といひ、水を母といふ。其父の火霊と、母の火霊と与(クミ)テ、
亦一ツの凝(コリ)をなす。其凝の重く濁りたるは、形となり、軽く澄みたるものは 息となり、其母胎を出て、高く現はれたる音(コエ)と云。
万物を生じ人間の水火を与て、言(モノイフ)ことの御伝なり。
山口志道は、宇宙発生と神霊の発現と言霊の発生を関連づけている。
天地初発の時に、原宇宙空間に一つの「凝」、すなわち一種の原凝焦点が生まれ、
それが火と水に分かれたという。重要なのは、火が父、水が母と陰陽二極に割りふられていることだ。
この太初の「凝」からの二極分解が第一次の宇宙発生であるとすれば、次に第二次の宇宙展開とは、
「形」、「息」、「音」の発生である。
ところで、できあがった「詞」は「音」としてしか聴こえない。「形」として目に見えるように
なるためには「文字」が必要である。その文字が「形仮名」である。
ブルース・リーにとって、武を形として見えるようにしたのが、そのジークンドーなのだろう。
そして、ジークンドーの道は、「凝(コリ)」が中心にある。 何か大山は、なんか言っていた記憶がある。
棒術を自由自在に使っている動画を見た。
棒と棒が重なり合ったところで、相手の重心を崩すみたいな動画であった。
これはよほど練習をしなければ、難しい気がする。
大山は、世界格闘技旅行みたいなことをして、世界中にある武芸と
戦ったと言っている。
世界中の武術と戦って感じたことは、カラテは、相手につかまれたり、
組まれたりしたら負けるよみたいなことを言っていた。
カラテは、相手に自分をつかまさないで、空間を取って、
戦う、それが本質であると言っていた。どこか組まれたら、技術的に難しいということなのだろう。
だから、組まれる前に、空中戦で戦い、つまり、距離をつめられないで、
正拳、回し蹴りをして勝つということなのだろう。
相手に捕まえられる前に距離をあけて、キックする。棒術も、のどをつかれそうになったら、
倒れるしかない。しかし、その棒を持っている腕、手にカラテの手刀を落とせば、
相手の動きは停止する。この理論でいけば、飛んでくる拳に対して、自分の拳を
当てて、相手の拳を壊すことがカラテにはできるということかもしれない。 結論はともかく
捕まれて負けるならそれは空手じゃないわ 今話題のヒロさんより
日本人最強だった佐川幸義さんのほうが
遥かに強かったと思う。
もう老師は、死んでしまったけど
石井なんか、赤ちゃん扱いで
本物の合氣で静かに制圧されるだろう
木村さんVS渡邊さんでブレイキングダウン
で試合してみたらどっちが勝つかな? 石井 ハツカネズミみたいに
多少すばしこくて 鉄球で部位鍛練20年
素人は、鉄砂掌で鍛えた八卦掌の超人とか
知らない雑魚が誉めてるだけだよな? 組まれないようにして、キックか拳で勝つ。
勝鬨(かちどき)をあげるのが大山カラテなのだが、
そこで組み付いてのカラテ型組み付き技が必要となってくるのだろう。
ヒクソン・グレイシーの場合は、まったく大山カラテの逆で、
まったく飛び技なしの、組み付きのみで勝負する型なのである。
組み付いたら、脇腹に拳を接触させながら、グイグイ押し込んで、練り込んでいくタイプの拳なのである。
手打ちそば型拳がヒクソンなのである。
もっと練り込めみたいな感覚である。
試合を見ていると、関節を取ったと思ったら、実は自分の関節を極められていたという試合が多い。
関節を極められて、ワン、ツー、スリーのスリーのいく寸前、手前で、実は己の関節を相手の腕に極めていたと
いうきれいな流れが必要なのかもしれない。相手にきれいに極めさせたと思わせながら、
自分の関節にもっていく流れ。相手のワンインチが腹に届いたと思わせながらの流れの中で、
自分のワンインチにきりかえていく流れ。流れの流れジークンドーなりか。
よくわからないが。 2025アクション仮面ライダーよな?
マインドコントロールされた
コミナティ被害者 家畜人間よ? 週刊ピンぼけに追い回された
違法薬物中高年薬座も
Cアレルギー反応速度制限時間腐った爬虫類に
監視船されて気の毒だよ ヒロジークンドー的には、クウガだろうな。いま地球上から、二週間に一つのペースで言語が消滅している。
一つの言語が消滅するということは、一人の人間が消滅するのにも等しい。
それ以外のなにものでもない。なぜなら、言語は人間なしには存在しないからだ。
言語は、それを話す人間がいなくなれば消滅する。
もし、誰かがある言語の最後の話者になったとしたら、
その言語は、意思伝達の道具として見れば、すでに消滅している。
なぜなら、言語は話し相手がいるかぎりにおいてのみ、真に生きている
といえるからだ。発掘されたクウガの粘土板(タブレット)には、クウガ技極意が古代文字で
刻みつけられている。
高僧は穴倉に案内して、粘土板を見せた。湿気の強い地下で、それらはひどく痛み、
ひび割れたり欠けたりしていた。高僧はそれらをセメントでていねいに補修し、
薄紙でくるみ、木綿布で外装をして、保存していた。
言葉は正しかった。きっと聖なる粘土板の保存に気をつけよという、天なる声だったに違いない。
最初の人類の文字なるものを目のあたりにする。わしにもわからない。だが、わからせる方法がある。
その方法とは?知恵を合わせて、ライダークウガ文字を根気よく解いていくことだ。それ以外に方法はない。 似非魔界芸能人カレー部が
コントロール装置産業スパイ
酒盛り上がり怪談でコンバットCQC秘密基地怪談?テキーラパークでお買い物? 仮面ライダー空我の
スーツアクターが良かったな?カズヒロよ? 全て 優れた脚本家の妄想癖の
永遠の中2病でアセンションよな?
天上天下唯我独尊のカズヒロ様よ? アセンション直前の終末の狂氣よな?
頭狂リベンジャー図の舞木ーキックは、
スタントマンキックプラスCG処理よな?
吉澤は剣道2段の
仮面ライダーメテオは、コンセプト派ジークンドー使い勝手の設定よな?
ブルースリー魔に亜の皆の衆 物部一族郎党に成りすました
雑魚中高年の詐欺師がアセンション島で猿芝居 詐欺師を宇宙最強拳法の神武不殺で
インターセプター
stealth mode? ゲイ膿魔界村で綾野忘華3鬼が
アセンションスピリチュアル詐欺?ら 宇宙最強拳法家とは。
これは、神になるまでに、核戦争も起きずに、
一応平和に地球上で人類が暮らしていって神になった場合だ。
神は、人間の最終ゴールである。その先はない。
ジークンドーの最終ゴールは、神になることである。
我々の文明で神になるのである。次の文明はない。なぜなら、我々の文明に
神は干渉している。神にしてみれば、直接神につながらない、核戦争で滅んだ
次の文明に干渉しても意味がない。我々のこの文明に神が干渉しているということは、
言い換えれば、我々の文明で神になる証拠だと考える。
我々の文明で、ジークンドーを進化させなければならない。
あるいはケンシロウ北斗を考えなければならない。 酒盛りコンバットの宴会で
超能力者が本氣出す出す酒盛り上がりで、
スピリチュアル詐欺師がアセンション?
ZEROコンバットの宴会で
似非魔界アセンションスピリチュアル詐欺師が猿芝居で超能力で八百長猿芝居? リアル呪術対戦
リアル鬼滅の刃のガンダムフィギュアマニアが
中野でブルースリー将軍のフィギュアを
買い漁り吉本ヤクザに自画自賛! 何を狂言回しか?わかり加藤ミリタリー
進化結社コンバットCQC加統鷹?
わかり鷹? 口は災いの元じゃ!
呪術使いのダークサイドに堕ちたか?
魔界村の最狂仮面ライダーブラックドラコにアンよ? 正に人生猿芝居のなんちゃって
上昇リアル鬼滅の刃インストラクターよな。
リアル呪術使いのなんちゃって真言密教裏立川龍のカズヒロに成りすました精神異常者の
雑魚妄想怪人ショッカーインチキ戦闘工作員よ? 自称最狂仮面ライダードラコの舎弟の
坊やに負けた末岡さんが目黒で謎の
氣功ちゃんが協会側の空手屋工作員が
高級魔界ホテルから自作自演で
人生猿芝居ってか? MMA童貞の雑魚妄想インストラクターピンクサロン坊やが
歌舞伎町の不倫現場高級ラブホテル予約サイトで
ミラブルプラスシャワーヘッドの高級魔界ホテルで古神道のハイテク産業禊ぎかな サロン屋自慰君道のミートボール石井なんて達人なはずねーだろw
猫パンチの魔呪物坂口と同じお笑い枠だよw
やっちん みたいなバカがお笑いを信じてジークンドー練習して
まったく通用せずにボッコボコにやられて
自慰君道の動き全部捨てて普通に総合のトレーナーに替えててスゲー笑ったわw サイキック解最強の裏呪物様であり
地球外知的生命体最強拳法使いの
俺様参上
文句を言ってやがる下等な家畜生物の
愚かな生物兵器は、全員笑和の最強拳法で
軽くぶちのめして黙らせてやろうか?
999?,,,, サイキック解最強の裏呪物様であり
地球外知的生命体最強拳法使いの
俺様参上
文句を言ってやがる下等な家畜生物の
愚かな生物兵器は、全員笑和の最強拳法で
軽くぶちのめして黙らせてやろうか?
999?,,,, mRNA ナノ粒子グラヘェん入りの
毒入り注射を受けたバカ丸出しの
雑魚どもは、気の毒であるか?
因果応報 諸行無常 陰陽逆転
天上天下唯我独尊! リアル破壊神である笑和の
サイキックバリア!
発動
銀河最狂の凶戦士インターセプション
笑和に悪魔サタニスト迎撃の準備有り!
笑和にソナタら家畜生物のインチキ発勁は、
笑和の覚醒した12螺旋状DNAから
迸るサイキックバリアには、
ちっとも効かぬなあ???444 低層4次元から
13次元の物部太陽神武術で
雑魚ども まとめて一変詩んで見る?w 天下御免の秘伝必殺鉄砂掌
京都裏武術怪の天下唯我独尊だったが
因果応報 諸行無常 魔都 新宿でのドラコニアンとの
出会いと別れ
狂い武蔵女衒屋工作員の因果応報?諸行事
涅槃寂静? 強姦マフィ有の半グレが
仮想通貨詐欺事件 国税庁と系殺から
オカルトコメディ気狂い人生似非空手忍者
人生猿芝居に
逃亡中の飛んで最弾? 全裸監督
自慰君道に憧れた気狂い役者
神の中なる人生猿芝居? 魔都 頭狂に無数に仕掛けられた
監視カメラ 盗聴鬼? 挑戦893の横須賀の税金泥棒カルト挑戦893
売国奴議員が
太陽光発電詐欺の広告塔
嫁が異常な高齢出産? 正にリアル闇金牛嶋氏も
びっくり仰天の挑戦893国会議員団の
集団である自滅棄民盗のバカ丸出し人生猿芝居 錦糸町の相撲取り
半グレ893が鬼子母神で八百長三昧 人生猿芝居 ブルース・リーが一番最初に語るジークンドーとは、
突きや蹴りは、自己を殺すための武術である。
それらの突きや蹴りは、本能的な素直さ=人間が本来持つ純真と無心の中で、
与えられた任務を果たす。それらは、目には見えない魂の象徴である。
ジークンドーとは、魂の象徴であると言っている。
ジークンドーの技は、自らの魂そのものの中から開示される。 魔界村のおばさんが
コンセプト派ジークンドーに飽きたから
精神異常者的にオリジナル派ジークンドー使いに
ラブ注入?
麻蔵怪に捨てられて
医師医や鍋様にラブ注入? 自慰君道の金的攻撃マニア変態
ミートボール石井なんて達人なはずねーだろw
猫パンチの魔人坂口と同じお笑い枠だよw
矢地みたいなバカがお笑いを信じてジークンドー練習して
まったく通用せずにボッコボコにやられて
自慰君道の動き全部捨てて普通に総合のトレーナーに替えててスゲー笑ったわw 試合後、いろいろと元格闘家が試合について検討する動画ある。
矢地は、相手ともつれあったら、腰をゆするみたいなことを言っていた。
相手と網のところでもつれあったとき、
自分の腰をゆらしながら、マットに相手を倒し、そこから技に入るようなことを言っていた。
これはスモウの技にもないし、柔道にもない。
相手の背中を鉄柵に押さえつけ、そして、自分の腰を微妙に揺らし、そして
相手をマットに倒す。これはジークンドーにはない技のような気がする。
腰をゆらすことによる目的が、相手をマットに倒すのと、
腰をユルユルにしてワンインチを入れるのとは違う練習方法となり、
それをすると、せっかく作ったワンインチのカタが壊れるし、
その腰のゆすりがなければ、腰が硬くて、相手をマットに転がすことができず、
お互いが網のところで立ったまま、攻防が停止してしまうことになる。
攻防に変化がないと金網マッチの場合、体力がただ消耗していくだけである。
腰をゆするのか、腰をゆるゆるにするのか、ここが難しいところである。
腰をゆすりながらのワンインチは効果がどうなのかわからない。自分より大きな相手を
たおす場合、横に倒して、高さの不利をなくして攻防しなければならない。
金網でお互いの動きが止まり、相手をマットに倒すことができずに、パンチを受けて負けゲームになるのを
よく見る。アクションのシーンでは、カンフーの使い手は、非常階段をかけ降りながら複数の敵と戦うことがある。
このような場合は、ジークンドーが発揮されるだろう。 近年、アクション俳優としても高い評価をうける岡田は、俳優活動と並行し、自宅の地下室に道場をつくるなどして武術や格闘技に本気で取り組んでいる。今年9月には、ブラジリアン柔術の世界大会で世界ランク11位の成績を残し話題になった。
【貴重画像】今年8月、ブラジリアン柔術世界大会に出場した岡田准一。試合中の写真を一気に見る
そんな岡田を15年以上にわたって指導するIUMA日本振藩國術館主宰の中村頼永氏(59)が「 週刊文春 」の取材に初めて応じ、4時間にわたって、格闘家岡田の知られざる姿を明かした。 岡田J1 位う魔の雑魚 偽善者
他人の嫁寝とったクズ
大河の主役やらせてもらったのは、
邪蛇似ー喜多皮に珍宝を捧げた
ホモ接合体だから? 外部エネルギーの吸収法。
外部からのエネルギーを取り入れるためのテクニックとは。
仙道あたりだとごくあっさりと、大地の気とか樹木の気といった即物的なものを
吸収して自分の肉体に取り入れてパワーアップとなるのだが、
歴代継承者のイメージ法が存在する。
まず、自分の流派に関係のある始祖、歴代の師たちを思い浮かべ、
これを次々に合一させ、最後に直接、自分に技を授けてくれる伝法の師と自分が一体化するといったことを
実践する。イメージそのものはやさしいのだが、肝心要の術を伝授してくれる直接の師匠、
つまり伝法の師がいないとできない。
かといって、苦しまぎれにあまり程度の高くない師匠を捜し、
その人と一体化するのでは一子相伝の技の進歩はたいして望めない。
持っているパワーが足りないからである。
そこまで考えると、一子相伝をマスターすることはとてもむずかしいといえるのだ。
しかたがないので師匠がいない人間は、技の動作のやり方を動画を見ておくだけに留め、
いずれいい師匠に出会えたとき、はじめてこの歴代継承者のイメージ法を実行したらいいだろう。 影舞龍呪術とは、
税金泥棒 自滅棄民統一協会の
自作自演の朝鮮ヤクザ利権
甘利不動産明大臣の
密命を裏で遂行する為に、
密かに集められたハッタリ尼宮ASKA様、
ネット武術動画からのパクリを
基本とする創作旦那芸 似非合気太極拳? 総合格闘技 VS ジークンドー!ブルース・リー直伝のワンインチパンチ、衝撃の被弾・・!
https://www.youtube.com/watch?v=7SuPOmUXS2Q&t=23s
ここから矢地の動画に石井が登場する。 http://news.yahoo.co.jp/articles/594384824e61fbca0fa84ff9101017c38bd2c2be
「ポケットに手を突っ込んですみませんでした!」元V6岡田准一を15年以上指導する“師匠”が4時間初告白「格闘家・岡田の知られざるポテンシャル」
近年、アクション俳優としても高い評価をうける岡田は、俳優活動と並行し、自宅の地下室に道場をつくるなどして武術や格闘技に本気で取り組んでいる。今年9月には、ブラジリアン柔術の世界大会で世界ランク11位の成績を残し話題になった。
【貴重画像】今年8月、ブラジリアン柔術世界大会に出場した岡田准一。試合中の写真を一気に見る
そんな岡田を15年以上にわたって指導するIUMA日本振藩國術館主宰の中村頼永氏(59)が「 週刊文春 」の取材に初めて応じ、4時間にわたって、格闘家岡田の知られざる姿を明かした。 ポケットに手を突っ込んでいたので、岡田に注意した。この世界ですぐにスターになったので、礼儀を学んでいなかったのだ。
アメリカでは、礼儀というものは存在しないのである。
ポケットに手を入れていても、誰も怒らない。
ただ撃たれるだけなのである。
警官もすぐに撃つ。アメリカでは、話をしている途中で、ポケットに手を入れたら、
銃を取り出すのではないかと思って撃つ。だから、アメリカでは絶対に禁止の動きなのである。
ヒロ渡邉や石井は、アメリカで修業をしているので、
相手を威嚇すると拳銃が出てくる、つまり相手に拳銃を出させるような
動きをしないジークンドーの構えから来ているから、日本のルールの中で育った他の格闘技みたいに、
威嚇の威嚇するような構えがないし、教えがないので、あ、そーなのかなという感じで
ヒロ渡邉や石井の構えを見てしまっているのかもしれない。ケンカの最中でも絶対に、
拳銃をだすような動きは絶対にしてはだめである。ただ普通にジークンドーの動きをしていれば、
あ、これはストリート上でのケンカなのだと思い、相手も拳銃を出さないケンカをする。
ポケットとか、上着の中などに手を入れるとか、そういうしぐさをするとギャングにすぐに撃たれる。
ポケットに手を入れたらだめではなく、ただ海外では拳銃で撃たれるということだけなのである。
常に手になにももっていませんよと手のひらを相手に見えるよう出しておきながら、ジークンドーでの勝負に入る。
ヌンチャクを取り出したら、逆に相手は安心する。このケンカには、銃は出てこないなと安心する。 相手に拳銃を向けて、
その拳銃を素手で落とされる。床に落として、相手は、その銃を足で遠くにけってしまう。
相手が、構える。
この時が大変である。こちらも構えろと相手が、目で合図をする。
ここからジークンドーが開始されると考えてもいいと考える。
ゴングが鳴ってから試合が始まると思ってはいけない。
手に持っていた銃を簡単に相手の目に見えない速いスピードでキックではじきとばされて、
そこから戦いのゴングが鳴っていると想像したほうがいい。自分は追い込まれ、
相手のエンジンは温まっている状態である。
そこからジークンドー・パンチを相手に当たるかどうかなのだろう。
自分が相手の銃を落とさせたのでなくて、自分の持っている銃を落とされてからの戦いである。
こういう気持ちで矢地は、リングにのぼってほしい。 映画で良く見るシーンがある。
相手ともみ合いながら、相手に自分が手に持っている銃を奪われる。
そして相手は、おでこに対して銃口を向ける。
指で引き金を引く。
弾は飛ばない。はじめから、入れていなかったんだよ。
そこからカンフーの戦いが始まる。
こういう感じで、矢地はリングに上がってほしい。
そういう感じで、相手に網に押しつけてほしい。
リングに上がって、相手と向き合ったときに、試合が始まると思うのではなく、
最初から弾を入れていなかった銃口を向けられてからの気合という感覚である。
ワンインチをいれていなかった準備前の肩の力のように。 ジークンドーの世界感。
ブルース・リーは相手と対峙するとき、
相手の心を読むという感じではなく、流れる時間場を感じている。
変化にゆだねるための時間を作っている。
戦う前の時間に逢い、戦ういまという時間にゆだね、
戦った後の時間に逢う。
戦った後の時間作用にブルース・リーは、ジークンドーをゆだねる。
ブルース・リーは、ジークンドーにゆだねる戦士である。
宮本武蔵は、無限五輪にゆだねる戦士である。 点穴、
「釈に云わく、一極に帰せしむ」
一極を目的とする方向性を帰せしむという進行状態によって示し、
その状態がそのまま点穴である。
一極が秘孔に対応し、帰が秘孔に対応する。
つまり、帰せしむの中に一極と秘孔を包含している。
点穴を帰せしむとは、律動であり、時間感覚の本因とも見てとれるだろう。
そして、その時間の方向の帰着するところが一極となる。
一極と秘孔とは帰せしむによりて連続して一つの運動系を顕現していることになり、
一極を人間次元に訳せば実成ということになる。 武術における立場とは、場を立てるということである。
立った場ということである。
立った場というところにこそ、北斗化された、果としてのジークンドー回転が
展開されてくる。
展開されるということは、時間によって、統一場のシンボルである
ジークンドーの訓が、七星の光によってすべてを照らし、
万象を成す意味において、各所の場が成りたち、居場所としての、技が一体化し、
全一なるジークンドーとなり、ここにこそ、ブルース・リーの本質を具体化されたのである。 神の拳とは、
見えるものの中には見えないものがあり、
見えないものの中に見えるものがある。
拳は、神の領域に入る。
相手の拳が見えた時、実は、拳は見えていない。
相手の拳が目の前で見えない時、実は、拳の軌道は見えている。
相手が、己の拳が見えた時、己の拳の本体は見えていない。
相手が、己の放った拳が見えない時、相手は自分の拳の軌道が見えている。
見えない程の速い拳がさらに速くなるとき、その拳は相手に見えるのである。 手でしっかりと握ったおむすび、握ったお寿司は、お美味いということを
知っている。手でつくったものは、味は格別である。
人間の指で握りしめて作るからである。
手で握ったものは、三味も五味も違うのである。
手から出るパワーが大きな作用をするからである。
拳を握るとパワーが出るのである。 ジークンドーでは肉体とは何かと問うことは
この世界とは何かを究めることに等しい。
肉体とは、古代ギリシア人にとっては、
何より小さな世界であり、逆に世界とは大きな肉体に
ほかならない。私を造形したのは神である。そして北斗は神に
由来するからこそ完全である。 魂の中に一つの楽器を作り、
その演奏の仕方を習得することを目的とする。
誰もが生まれながらに自分の魂という精妙な楽器を弾きこなせるわけではない。
それゆえジークンドーはブルース・リーの魂の武技といえる。 もし逆境にみまわれたならば、
静かにおちついてそれをじっとみつめて、真相を知れ。
そして危惧に費やすことなく、その代りに自己の内に
宿る一層高次の有力なる力を発揮せしめよ。
北斗の神の心と自分の心の間に
願望の磁石ができるまで、瞑想を続ければ、
あとは自然になるのである。 龍の図象は、紀元前2000年紀末から1000年紀初の青銅器の紋様の中に
見いだすことができる。 ジークンドーの奥義は、
三位一体ではなく、三位三体。
三体が同等である。三体同位。
それが究極ジークンドーの奥義なりか。 ブルース・リーは
島に上がったとき、へびを捕まえて袋に入れた。
そこには恐怖という心はなかった。
そのへびを操縦室に放り投げると、
慌てて男たちは逃げた。
ヘビに接したように、ブルース・リーは戦いにおいても、
同じなのだろう。三体同位なり。 ジークンドー至上主義を説くとすると、
「子、九夷に居らんと欲す」
電気コードのソケット部分を、足の指の間に挟む。
そして、ここから出ている気を
意識でもって吸収していく。この気を背骨に沿って指先に上げる。
そのあとは指先からついた点穴に、これを放射させればよい。 外気発射。
指一本で、あるいは指二本をくっつけた状態で対象物へ向ける。
対象物と自分との間についたてを置いてトレーニングをする。
気のパワー以上に、意識の変革が要求される技である。 北斗一子相伝
自分が地上に為すべき使命を守らなければならないと潜在意識で
思い続けている限り、北斗神拳の道を歩んでいると考える。
自分はこの地上でなすべき仕事(使命)があるのだと繰り返し、
全心全霊で、心のなかで叫ぶことである。
そして拳に北斗神拳が宿ることを強く悟ることであろう。 北斗一子相伝は語る。
それ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具して、
百法界なり。
われの一心だけでなく、汝の一心も解かなければならない。
われと汝の対応によって起生する一心も、
われと拳との対応によって起生する一心も、
北斗という時代に託される。 天地初発乃時、
是の故に天神物を生ず。
聖人これに則る。
天地変化す。
聖人これに効(なら)う。
天象を垂れて、拳を見(あら)わす。聖人これに象る。 北斗を己のものとすることは、
拳を己のものとすることを意味する。 ストレートな暗示の読み取りに強い格闘家、
間接的暗示の読み取りに自信がある格闘家の
二種類がある。 直線というものは決してこの世にはない。
どんな精密な計器で引いてもそこにはかなりゆがみが存在する。
光でさえ宇宙空間では重力により曲がる。
われわれが直線として使っているものは
一種の仮定にすぎない。
直線とは本来われわれの精神の働きと共に存在する。
この世界の現実の存在は、必ず曲線を描き、
スピンして存在してゆく。
ま向うから直線的に相手を突き切ることをめざした
日本刀が、直刀からいつか優美で芸術的ともいうべき
曲線をもち、武術が、円転やラセンを説くのは同一の原理である。
存在は曲線を描く。 植物は、体内時間や、バイオリズムや、日照時間の変化に反応して花を咲かせる。
植物は、五次元的情報空間を神経機構の作用としてささやかながら描いている。
武術家の大脳も、
武術空間の中に、多次元の情報空間を描く能力が隠されている。
ブルース・リーは新しい意味を持たせた記号、ジークンドーによって、
今まで武術家が表現できなかった武術空間を、明確に武術論理として
表現したのであった。 ケンシロウが、傷を負った場合、
回復して元の状態にもどる。
この現象は、時間反転といえるだろう。
意識が何らかの作用を及ぼしている。
点穴の場合、
時間加速現象が発生しているのだろう。 ブルース・リーは、われこそは、と時代の先頭をきっている人間性をもっていた。
ブルース・リーは時代に対して格闘続けた男である。 ジークンドーとは心の力である。
その原動力は、不動の信念、あるいは思念を育てることが基本となる。
爆発的な動機ともいうべき目的をめざす心である。
ジークンドーは、情緒感情が根源である。
それが薄れたりなくなれば、ファイナル・ジークンドーの開発は望めない。 グレイシー柔術は、殴る技がある。
柔道では、相手を倒したら、
そこから関節を取りにいく。
グレイシーは、腹を殴るのである。
柔道では、殴るという技はない。つかむという技は
あるが、殴るということはない。
柳生の場合、相手を倒し、さらにグレイシーの場合、手で殴るのだが、
柳生は、手で殴らないで、剣を握ったまま、
倒れている相手に上からさらに攻撃をしかけるらしい。
宮本武蔵は、その柳生の者にも勝っているらしい。 時間の子たるブルース・リーは、
人類の核心までもぐりこんで還ってきた。
ジークンドーとは、
とどまることを知らぬ流れのごとく、
全世界を自己の拳のうちに包含することなりか。 点穴が入ったポテンシャルの領域には、
通常の意味での時間は、存在しない。
点穴は
力から時間を引いたものが、点穴のポテンシャルだからである。 宮本武蔵は、
剣を使わないで、両手で相手を
つかみ、岩石落としをしたらしい。
組み打ちも強かった。
岩石落としの場合、相手を自分の肩の位置までは
持ち上げ投げなければならない。
その同等の力で刀を振っているということになる。
宮本武蔵は、剣の五輪書の次に組み打ちだけのの五輪書も執筆できただろう。 武蔵は、サッカーでいえば、メッシみたいな感じなのだろう。
エンジンがかかると異次元的な動きなのだろう。
普通にゲームをしていたらメッシは、みんなと普通の動きを
しているのだが、ゴールの前になると、動きが変わる。
武蔵も、試合になると変わるんだろうなと思う。
メッシは地球の人口の半分くらいの観客が見つめる中で、
ゴールを決める。武蔵の場合は、数人が見守る対決の中で、
地球の人口の半分が見つめているような試合ができるということなのだろう。 仙道への入口。
気を体に一周させる。もっとも、ただ一周させるのではない。
気をいくつかの重要なポイントに止める練習もする。
ブルース・リーは、水のように流れる技というが、
流れたままではなく、自分の意志で、ポイント、ポイントで
流れている気を止めるという技も必要ともなるのだろう。
メッシが一流なのは、ゴール前での一瞬に、ける足先に気のポイントを
とめることができるのではなくて、キーパーと鉄の柵との空間配置に対して、
ものすごい勢いで流れていく気の中で、どのポイントで気をとめるか、
そこに向けてボールを流すという感覚なのだろう。
しかし、サッカー選手から武道家になった者は、あまり聞いたことがない。
武術特有の目に見えないゴールの柵が存在するのだろう。
そしてブルース・リーは、それをジークンドーの入口とした。 ブルース・リーはヌンチャクで卓球ができるみたいなのである。
普通にラケットで打ち返すのにも大変なのに、
普通に打ち返している。
なぜ、このような動きができるのだろうか。
ブルース・リーは、常に、パンチを当たればいいやと思って
打っているのではなくて、ここを打つと毎回思って打っていると
考えられる。ボクサーみたいに、顔のどこかに当たればいいやと
思って放っているのではなくて、最初から、ここを打つと点を
定めているのだろう。 大山は言う。
夢の中で突然、今までにない新しい蹴り技を
行っている自分の姿が閃いたのである。
こうして私は、一つ一つと新しい技をあみ出していったのだ。
夢の中の自分の姿が、現実の自分より強いのが大山倍達みたいなのである。 真の名刀は、
静かにさやの中に収まっている。
点穴もしかり。 力は直線を描くが、曲線と円の力は
直線の三倍もある。
武の道においては、点を起とし、
円を終とす。線はこれに付随するものなり。 北斗一子相伝を継承した者とは、
「すべてを学びとった者」である。
彼は、進化する自然の力づよい調和の知識を
学んだのである。一子相伝者の心には、
人類の助けになる行程以外のものを
選ぶなどという気持ちの起きるはずはない。
つまりこれが、一子相伝者の前に横たわっている道なのである
北斗の神の力が命じるままに、相伝者は己の拳に力をためる。 海が、パンチで苦戦していた。
石井に教わったように、なかなか浸透系パンチを打つのは
難しいみたいである。
膝が浸透系膝のように見えた。
ジークンドーでは、足で打つ浸透系の技があると
石井が言っていた。力が突き抜けてはいけない。
動物は地震を予知することができるのは、脳で波動を感じるからである。
脳で震源地を感じて、異常行動が発生する。
相手は、膝で打たれる練習はしているので、
打たれたというよりも、それ以上に脳がプレート・テクトニクス波動(断層の摩擦)を感じたのだろう。
脳が打たれたという波動を感じて、体が金縛りにあった。 多間(たま)場に時が作用し、
カミ合って、玉が神となり、
中央の玉場に参入しますと、
七の生命場と身体と、精神の電流が、
心相を各界場に具現して、
関節の反応を示すなり。
関節が神合うことが、北斗一子相伝者なり。 宮本武蔵は、絵を書く。
剣もやり、そして絵も描く。
武蔵は、キャンパスに物を描くように、
剣を武の空間に描いているのかもしれない。
ブルース・リーは、カメラを通してフイルムに描くように、
自分の武技を描き、そしてそれをメモに描いて、さらに自分が描いた
型を、それに合致するように自分の型を作り上げている。
ウイスキーを樽で熟成させるように、ジークンドーの型を熟成している。
技を地下室で寝かせている感じなのである。
ケンシロウの北斗の場合、その技は、最初から熟成された技であり、
そのまま北斗の技を出すだけで良いのが一子相伝者なのだろう。
ジークンドーの技は、これから熟成していきましょうみたいな感じで、
北斗の場合は、熟成された技を出しましょうという感じがする。
ケンシロウの場合、技を熟成しようという考えがまったくなく、
継承された技を出すだけという感覚である。一子相伝者の技は、
熟成されていない技なのである。技を技としてくりだすだけ。
力量の差は、お互いの気の量だけの戦いこそ、一子相伝者の戦いとなる。
神闘北斗一子相伝。 達人のエピソードはたくさんある。
ところが誰いうとなく、彼は驚くべき武芸の達人であるとのうわさが立った。ひっきょうするに
これまた一種の伝説的想像にすぎず、達人については、依然として霧のように
謎に包まれていた。
達人の場合、その戦っているところを誰も見たことがないのに、
達人を包む霧のようなうわさだけで、誰もが、達人を達人であると
認識しているところがすごい。 何かの試合ですごかったというのではなくて、うわさだけで達人ではないかと
言われている。うわさだけで、敵は金縛りにあっているのである。
そこまで達人は強いのである。ケンシロウの場合は、ケンシロウの武芸を見て、それを知っているから
北斗が町に来たって町のみんなが認識をするのだけど、達人の場合、誰もその技を見たことがないのに、
あの人は武芸の達人であるというわさが立っているのである。風が風鈴の鐘をチリンと揺らすように、
達人は風のように風鈴点穴を打つのだろう。 ある動画の試合を見ていて、
ふと、達人ならこうだろうなと思い書いているところがあります。
空手キックの連続技を見ていて、
達人ならこうだろうなとふと思って書いたりしています。
拳は、空手と呼び、蹴りは、空蹴と名付けるらしい。
空手のキックは、空蹴でなければならない。
達人のエピソードがいっぱいあるのだが、
達人の家に、十数名の武道家が乗り込んでいったらしい。
家の中に上がると、達人は寝ていなかった。
どこにいるのだと部屋を探していると、
突然、家全体が崩れて、十数名の武道家は、まとめて大怪我をしたらしい。
達人は、風のようにその場から立ちさり、小舟に乗って川を流れて行ったらしい。
これには、町中の人が驚いたらしい。
たったひとつのしかけで、家全体が崩れるように達人は準備をしていたことに
感心する。ここまで達人は考えているようである。 おもしろい。
こういうのでいいんだよ。
北斗の拳とかイランから 先生は、達人に言う。
二十年の間、もっぱら私について武術だけを修練したら、
ある程度の秘奥に達することができるかもしれない。
だがそれにはまるまる二十年の時間が絶対に必要だ。
先生は二十年の言葉を何度も達人にくり返した。
達人の先生は、ただ、毎朝、太陽が上らない時刻に達人を叩きおこして
ついて来いという。それでついてゆくと、
約二里ばかり先の大きな松林の裏に到り、
身体を垂直に立て、東方に向って深呼吸する。
達人は、はじめはそれが何のことだか判らなかったが、
後で吐納の術という武術の基本だということを知った。
口に十(宇宙の気がプラス)で、叶(かな)う。
口に十-(宇宙の気がプラス、マイナス)で吐く。 吐納の術のの練習を一日に4、50回やる。
これがおわるとまた二里あまりの道を
歩いて帰宅するのが9時頃で、それから朝飯になる。
この外には時々金魚の世話をしたり、
花園の草木の手入れをしたり、たまには
先生のお伴をして町を散歩する。
先生は興が湧けば詩文を談ずる。
達人は、きっと自分の想像しているような勇壮な武術を 教えてもらえると考えていたら、案に相違して、
先生はただ八つの動作を教えただけであった。
しかもこの八つの動作が、武術でもなく、体操でもない。
しかしあえてその疑問を発せずに、先生の命のままに、
共に短時間、その動作を練習して、おわってみると、
体じゅう汗ぐっしょりである。このようにして習練に励むこと
半年にして、基本を身につけてから、やっと武術の教授が
始まった。 一年半あまり修行しているうちに、
達人の健康は見違えるばかりに強壮になったばかりか、
武術の力も多いに進んできたが、もとより自身では少しも
それはわからない。
達人は劇場で芝居を見物していた。
立見の小屋で、客は満員。文字通り立錐の余地も
なかった。達人のすぐ後ろにいた一人の大男が尿意でも
催したのだろう、人を押し分けて出ようしたらしいが、
何しろぎっしり詰まっているので、
どうすることもできない。彼は達人に声をかけることもしないで、
いきなり両肩をつかんで押しのけにかかった。達人は、ただ
反射的にわずかに肩を揺り動かした。するとその男は
パッと空を飛び、客の群れの外へふっ飛んだ。 武術とは、龍の道である。
天が示す型と武術家との関係。
武術家と天の型には、密接な関係がある。
これを
天人感応と呼ぶ。
武術家の上空には竜が居座って、
武芸の世界を司っている。
気の鍛錬ができると、飛竜が空で舞う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています