昔の国鉄阪和線
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大阪〜和歌山間を結ぶ重要路線でありながら
その生い立ちゆえに陽の当たらなかった阪和線の思い出スレ 103系は本来駅間の短い山手線用として開発された車両だったため、阪和線では使いにくかったと思われる >>602 東武東上線の8000系導入、63年だった。東京の大手私鉄幹線でかルダン車入るのが最も遅かった東上線に5年遅れて、阪和線にかルダン車投入ということか >>605
湖西線や草津線でも運用してる
>>607
でも当初は快速用として導入された 113系投入後、データイムはブルーライナー色(冷房付き)が新快速、間合い運用の春日色(非冷房)が快速というのが
ひとつのパターンだったような。んで新快速最終が天王寺(和歌山)に着くと、H・Mを折り返して赤と青だけの模様で
快速運用になった記憶。 連投だ。その春日色113系も関西線快速のH・Mは付けたままでこれも折り返して赤一色にして阪和線快速で運用していた。 阪和線の新快速に乗ったが、写真は撮っていなかった
まだ旧型電車が残っていたころで、そちらばかり優先、もったいない 103系の快速運用、周辺私鉄に例えるとすれば阪急3100系を神戸線の運用に就かせる様なもの
(3100系は宝塚線用の低速型) >>614
阪和沿線住みの天王寺区以南住み民は阪急を生活圏で使わんし
観光とかでたまに京都に出るときくらいしか乗らないから
例えがいまいちよく判らない。
他にわかりやすいタトエない? 103系は快速どころか、検査で113系が不足の時は新快速にも使ってたな。
区間快速乗ってて長滝で通過待ちしてたら吊り掛けのような爆音(多少色付け)で走行してたよ。 >>617
ええ103が新快速!?(モーター壊れそう)
想像しただけでも恐ろしい 103系は最高速100キロでそれ以上は出さないからな、心配無用。 >>616
南海6000は性能的には近郊型の方が近いから話が違う 七尾線で活躍して最近廃車になった415系の800番台33両は113系の改造車だが、その中には元天オトで長年新快速カラーで活躍
した車両がクハ4両、モハ7両合計11両ある。
阪和線の新快速カラー6連3本の18両だったからそのうち11両が415-800番台に改造されたわけだが、クハの4両(クハ111時代の
車番は52、339、352、360)のどれかは新快速色に復元して京都鉄博に展示してほしいなぁ。
でももう潰されて残ってないんだっけ・・・? 関西では103の使い方を本来とは間違っている路線が多かった感じ
東でも常磐快速線があったが >>622 東で武蔵野線、それに京葉線や埼京線の快速も同様。構想だけで終わった「105系(仮称)」を導入すれば良かったわけだが。赤字国鉄にコスト高の通勤車両を量産する余裕が無かった。 103は113/115の通勤型版ではないんだなぁ… 103の数をもっと少なくして、その代わりに113系のロングシート版を投入しておけば良かったのかも・・ 初めて103系が登場した当時の阪和線は、くすんだオレンジのモハ72や、古ぼけた70形
煙染みの付いた気動車の中にあって、「掃き溜めに鶴」の様相を呈していた。 >>625
まぁ現実には山手/京浜東北線のATC化による余剰車の活用もあった(と思われる)から… DC時代のくろしおは阪和間無停車で45分、きのくにで48分とかだったと思うが結構な俊足だったな。
紀勢線電化後もきのくにはDCで残ったけど、113系普通とたいして変わらない所要時間で
ただただうるさい存在でしかなかったw いえいえ、元々国鉄が昭和33年に運行開始、翌年から南海も自前のDC新製してきのくにとして乗り入れ開始。
最盛期14往復前後の大所帯急行だったな。片道夜行もあった。鈍行B寝台の後に天王寺出て新宮翌朝5時10分着くらいだったか >>629
南海から紀勢本線に直通する列車があったなんて隔世の感があるね 阪和間は今はクルマで往来しやすくなったけど、平成元年頃までは高速は阪南ICから海南まで。
昔ながらの下道(国道26)での移動だったな。海南から湯浅までは84年(昭和59)には出来たがそこからはやっぱ国道。
紀南観光というと釣りとかで荷物がある人は大体クルマ、温泉や名所めぐりは鉄道、みたいな感じだったかな? 阪和自動車道が松原まで繋がったのが平成初期なのよな >>629
南海きのくにを知ってる者が
どうしてそんな認識になるのか判らんわ。
片側だけ知ってるってのがありえん >>634
西名阪も近畿道につながっていなかった頃、トラック乗りをしていた。
名古屋から名神を使って大阪に行くより、実質高速の名阪国道を利用する方が
ずっと安かったのでよく利用していた。 西名阪はよいけれど東名阪を東京・名古屋・大阪の列挙として使うのをやめてくれ。 西名阪はよいけれど東名阪を東京・名古屋・大阪の列挙として使うのをやめてくれ。 急行きのくにのように、発着地が異なる編成を途中で分割併合するが、一つの列車名で統一するケース(他に伊豆急下田行き+修善寺行きの特急踊り子など)と、別々の列車名にするケース(例:DC急行ときわ+奥久慈、DC急行アルプス+かわぐち(富士急乗入れ)など多数)の違い、基準って何かあるのだろうか?
南海乗り入れの方を別の列車名としてもおかしくないと思うのだが。他に適当な名称が無かったからか? 60年代までは紀勢本線全線で運行区間で色々愛称があった。
紀州、しらはま、南紀、はやたま。。 >>642 マルス導入以前の話だろ、電話連絡だから多様な列車名つけとかないと間違いや混乱が生じる。
号数つけるにしても1号、2号位ならいいが、10号、15号と多いと混乱する。 >>641
埼玉県加須市立○○小学校
7月20日は終業式です。おかげさまで大きな事故や怪我・不登校もなく、1学期を締めくくれ
そうです。 84年頃、関東でも常磐高速が土浦辺りまでしか行ってなくて、常磐線に水郡線乗り入れのDC急行が走っていた。阪和線、紀勢本線も和歌山の少し先までしか高速道路通じてなく、DC急行が走っていたのが似ている。常磐線、非冷房キハ55は走ってなかったが 84年頃、関東でも常磐高速が土浦辺りまでしか行ってなくて、常磐線に水郡線乗り入れのDC急行が走っていた。阪和線、紀勢本線も和歌山の少し先までしか高速道路通じてなく、DC急行が走っていたのが似ている。常磐線、非冷房キハ55は走ってなかったが 84年頃、関東でも常磐高速が土浦辺りまでしか行ってなくて、常磐線に水郡線乗り入れのDC急行が走っていた。阪和線、紀勢本線も和歌山の少し先までしか高速道路通じてなく、DC急行が走っていたのが似ている。常磐線、非冷房キハ55は走ってなかったが >>644
不登校のお子さんがいないのはすごいですね。 結果論だが、主電動機について通勤型もMT54を採用していたら、1985年辺りまでずっと製造され続けていてその後はそのままMT61を採用した車両に移行していたかもしれない
MT55とMT60は共に特殊の様な気がしてきた >>623
幻の105は実現しなかったが、むしろ南海7000/7100はその幻の105に近いと想像
その証拠が特急車(10000)と連結 >>641
埼玉県加須市は県境マニアで有名だね。
柳生駅近郊には埼玉、栃木、群馬の3県境が1つの場所にある。 県境マニアの関西地区の話
・イオンの高の原店は店内に京都と奈良の県境がある
・京都府と三重県が接しているのを知らない人が多い >>652
和歌山県北山村は和歌山県飛び地で三重県内にあり、
同じく新宮市熊野川町嶋津も三重県内にあって和歌山県飛び地になっている >>652
イオンのことは知っている人多い。
店内に線が引いてある。
県により条例など違うから必要だと思う。 阪和線の県境というと、雄ノ山隧道を想像しがちだがもう少し北寄り(山中渓方面)の小さな鉄橋が県境。
真横を並走する旧熊野街道の橋の両端に大阪と和歌山を示した標識があり車窓からも見て取れる。
橋の名前も境橋とかで、日本最後の仇討ちがあって云々と言う、まあググれ加須 おいら海に近い泉州に住んでたから
和泉市や貝塚市のとなりが和歌山県なんて全く想像もつかなかったな。 京都府南丹市がなかなかすごい。
大阪・兵庫・滋賀・福井と県境を接している。
大阪と福井に接しているなんて地図を見ないと位置関係が把握できないね。 >>642
紀州、きのくに、紀伊…
旧国域が広く、複数の進入ルートがあるがゆえだが、
意味としては同じような愛称が並んでたな。南紀も仲間に入るか? >>657
4県と接している市町村は、南丹市以外では埼玉県秩父市(長野・群馬・東京・山梨)と岐阜県高山市(長野・富山・石川・福井)
があるのみ。
地図見ないと位置関係がわからないね。ちなみに3県に接している市町村はかなりある。 岡山と香川は橋がかかって初めて県境を接するようになったと思いきや、瀬戸内海の島、石(井)島に岡山と香川の県境があるとのこと。
有人島では日本唯一だとか。 >>659
高山市はとにかくでかい。
香川県・大阪府よりでかく東京都とほぼ同じ 父鬼 神於 蕎原 葛畑 大阪南部の山間部珍名難読萌え 京都市もなかなかなもんだ。
滋賀県と大阪府に接している上、福井県とは直線距離で、5キロ位しか離れていない。 くろしお号は天王寺駅の1番線ホームから出発しないとくろしお号らしくないよ
15番線から発着するくろしお号には旅情が感じられない >>663
左京区や右京区は大阪市より広いんだよな
てか大阪市が府庁所在地なのに余りにも狭過ぎるだけなんだけどね >>664
1番と2番かな。昔、ホーム頭端部に特急、急行券の検札なのか臨時の発売ブースかなんか柵立ててた記憶がある。
それと天王寺うどんは必ず寄ったなw >>664>>666
梅田地下駅の切替の日に無理して見に行けばよかった
(某神社に初めて行ったら神気に「中った」のか帰路に頭痛吐き気して寝込んでた)
行ったヲタの多くは単に物珍しさだけの撮りテツだったろうが
俺ら往時を知ってる者は1・2番ホームの活気を見たいんよね >>665
左京区の北部に行くと深山幽谷の趣で、都から遠く離れたことを実感する 阪和線の103系が元京浜東北線車という事を知った時の僕「ついに京浜東北線が関西に進出」 僕は阪和線の103を意識したのは2010年頃の事だが、その103が国鉄時代に関東から転入してきたものである事を知ったのは3年ほど前 俺が認識した阪和線103系は
折返しが同区間なら固定で使える阪和幕
お顔にお髭がまだあった
ようするに国鉄時代だけど >>668
友人がドライブ中に熊を見たと言っていた。 山中渓って2面2線ホームだが、昔は2面4線だった。外側2線は通常の待避線じゃなく、ポイントがクロッシング部分がない
安全側線みたいなポイントで保線車両の留置用だったような記憶 久米田駅の保守用車両留置線はかつては待避線で、阪和電鉄時代や南海山手線時代には列車の緩急接続や
列車の通過待ちが行われていたが、国鉄時代に緩急接続や待避が東岸和田や和泉府中などに集約されたため、
待避線の線路は分断された。この待避線は、ホームと線路との間隔が広すぎるようにも見える それは個人的にはそうは見えない
電照部分だし
通風口はグリルがあるから髭に見えるわけで 東には眉毛を片方だけ剃った様な103系が存在していた(西日本には存在しないが) ゆとりダイヤ化により普通は鳳止まり、鳳〜日根野は区間快速となり、紀州路快速は熊取〜和歌山間各駅停車となってしまった 主要駅地域だけが栄えてた昔は速達サービスが有効だったが、今は徐々に各駅地域の利用も多くなって
こまめに停車して客拾ったほうが収益上がるんだろうな 各駅地域の利用が増えたんではなくて、大阪から離れた地域の主要駅の利用が減ってきたってこと。その結果、快速運転する区間が減った。
まあそれでも熊取以北の日中の快速は昭和後半までと比べたらまだ多い。 >>681
熊取以南が問題だわ
一部特急が止まる和泉砂川も長滝・山中渓も昼間は同じ扱いなんだよなぁ となると、和歌山方面の列車を平日日中2〜3時間は半分に減らすことに。砂川も以前ほど多くはないからね。 少なくとも新快速が運転開始された時期(阪和間は鳳のみ停車)の日中の東岸和田以南の快速停車駅(熊取、和泉砂川)は快速1(東岸和田は通過)、区間快速2だったような。そんなに変わらん。 70年代の新快速運行時代やその後もだが、日中で区間快速の砂川止まりとかなかったっけ? 和歌山行毎時2本以外で。
東岸和田まで各停(もちろん全駅)も設定されてたが、以南の各駅が区間快速毎時2本じゃ少ないし。当時の時刻表があればすぐわかるけど。 詳細なのは残っているのkなあ。
冊子にも簡易にしか掲載していない >>680-681
70年代以降を考えれば、どちらの変容も当たっているし
またそういう郊外方面の各停駅に家買った人はマイカー主流でしょ、
速達利用者が減っていく要因の一つになったのではと >>686
よく窓口とかでもらえるカード型と言うか1枚モノの一日の発車時刻が掲載されたやつ。ああいうので当時のがあればいいんだけどな。
逆にJTBとかのデカい時刻表だと大都市国電路線のは始発終電以外は簡略した記載だしな。 >>687
マイカーについては今の国道26号や阪和自動車道や阪神高速湾岸線などが延伸するにつれて便利になってきたってのもあるかな。それと、泉北高速和泉中央延伸。 仮に特急の京都乗り入れ開始がもっと遅かったら207系先行車が阪和線配置になっていた可能性はある?
(初のVVVF車でどの様な事が起きるのかが未知のため当時運行系統が独立していた片町線配置になったという説がある) JR西日本化後の4ドア車最初の新造となった205-1000は阪和線用だったからなぁ…
でも以降、南大阪周辺に4ドア車が新造投入される事は無かった
(207/321とも京阪神アーバン向けだけで終了) 結局JR西日本化後の南大阪アーバンでは最初で最後の4ドア新造車となった205-1000が登場したのが1988年
紀勢線特急の梅田貨物線経由での乗り入れ開始は1989年だそうだが >>688
1971年のがネットにあった
ttps://www.pinterest.jp/pin/431430839309026950/ 区間快速は下りラッシュ時間帯は鳳までで、それ以外ほとんどは和泉府中まで快速運転なんだな。
速達時代の新快速(と快速)運行になる前のこの感じ、逆に現在の運用に近いな。
紀州時快速は熊取から各駅だし。 阪和線の103系には、高運転台車も3本だけながら存在していたらしい
まるで京浜東北線だが、運転台直後にも戸袋窓があるのが相違点だった模様 2011年以降の阪和線(大阪環状線、大和路線も同様)がゆとりダイヤになったのは、全ては2005年の福知山線脱線事故が始まり
ここでスピード重視はやめ、新々快速(新快速140キロ運転)の構想も中止となった >>695
80年(昭和55)10月に6連3本が新製投入されたっけか。阪和線はお古ばっかのイメージだが、これと
もうちょい前の昭和53年10月の改正時(紀勢線電化時)にシートピッチ、幅改善の113系2000番がデビュー間もなく1編成?投入された。 阪和線は中古車ばかりだったそうだが、これも関西が私鉄王国と言われていた要因だろうか 少なくとも阪和線のライバルの南海は車両を製造した所が横浜の東急車両だったせいで関東私鉄みたいだと言われていたが、車内に関しては蛍光灯カバーが無い以外はちゃんと関西仕様だった(腰掛端の処理、ドア内側が化粧板仕上げなど) (そもそも103が駅間が短い路線用として開発された車両であり、阪和線には合わなかった説) 103系も天王寺−鳳の各停に運用するなら駅間が短いという点でも合ってるが、
阪和線では各停だけでなく快速系統での使用も考慮する必要があったからな。 関西総括の大鉄と阪和線管理の天鉄局の折り合いが悪くて中古ばかり回され、ってのはよく聞く話。
まあおかげで趣味的な面で独自の車両の顔ぶれが見れた。電機もED61とゴハチの重連、DCキハユニ16、キハ81ブルドッグ
雑多な60系72系旧国、70系スカ色・・。昭和50年代初期はバラエティ豊富な阪和線だった。 >>702
EF58とED60、EF15の置き換え用として、高崎区からEF60が竜華機関区に転属してきたが、
EF15は貨物用して3両だけ残り、ゴハチとED60は全機廃車、昭和61年11月改正で、
EF60もEF15も廃車されたな。 前にも書いたかもしれんが103系導入時は快速用だった。 >>704
ヨン・サン・トオで阪和線に投入された103系は、元阪和電気鉄道モヨ100型などの社型電車の置き換え用に投入された。
快速に2本使用されて、残り2本は天王寺〜鳳間の各駅停車に使用された。 >>702
72系も阪和線に入ったのはロクサン由来の車両が多かった 阪和線には205系0番台(京阪神緩行線用)が転入してきた一方で、201系は転入せず ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています