昔の国鉄阪和線
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
大阪〜和歌山間を結ぶ重要路線でありながら
その生い立ちゆえに陽の当たらなかった阪和線の思い出スレ 南海山手線のままだったら戦後貨物専用線化された挙げ句、
トラック輸送の普及で廃線になってたであろう
国有化されたからこそ大阪和歌山間で競争が生まれ
サービスアップに繋がってるのだ 年配の人は今でも堺市駅を金岡と呼ぶ
改称が1965年だからもう半世紀前だが、
「堺市」なるネーミングがどうも余所行きでこそばゆい感じがするとのこと 改称するときに国鉄のプライドもあって
南海との重複を承知であえて堺駅を名乗ろうとしたことも EF58+EF15重連牽引の紀勢本線直通貨物列車通過のため、
長滝駅などでED60牽引の阪和線内区間貨物列車が側線で待避する光景もよく見られた 長距離列車は線内ノンストップばかり
そりゃ堺や岸和田の人は南海乗るよね スカイブルーの103系と青帯の113系。
大半は首都圏のお下がり、一部を除き大半は非冷房車。
そんな中、新快速用の113系6連は虎の子の冷房車。 冷房車は大人気だったよ
ホームから車内に入るとキーンと来る冷気が心地好かった
冷房車が来るまで一本見送ったこともあった 2国ときはま線ができるまでは鳳駅まで浜寺からは今では考えられないくらいに鳳駅近かったよくがら空き新快速乗った 昭和55年に投入された先頭車が高運転台の新製103系6両編成3本
この103系だけはモーターの音が低めで風を切るような音がしていて、
他の103系に比べて快適にも思えた 大和川から流れてくる異臭に耐えながら電車を待った真夏の昼下がりの浅香駅 旧型国電が一掃されて他線区のお下がりとはいえ103系や113系がやってきたときにはファンの方々は落胆したというが
一般利用客は綺麗な電車に乗れるようになったと思われて歓待された
色が京阪神区間と同じはちょっとした優越感もあった >>14
ウ○コ川、ボットン川なんて言われてたなw
でも臭いの主原因は生活排水ではなく工場排水だった >>15
それでもクーラーが普及したのは京阪神に遅れること10年 鉄橋を通過してる時に窓越しに大和川を眺めたら
冷蔵庫が水辺に打ち上げられていたり布団が水面に浮いていたり、
大阪都心の川でもこんなにひどくないというくらいに汚かった
ヘドロ臭が車中に入って来ないように鉄橋に近付いて来ると
窓を閉めていたという話も聞いたことがある >>11
その新車は記憶にある。103系の最終型は座面がやや低く奥行きが少し広かったからな。
シルバーシートのモケットの色がグレーになったのも、その頃だったような。
何やかんやで昔の阪和線は今よりも活き活き走ってて、現95キロ制限の天王寺〜鳳でも
103系は限界速度である100キロ〜102キロくらいで走ってた。
あと、関西線色のウグイスの101系も快速として走ってたわ。 >>7
特急「あすか」が堺市に停車していたらしいね。あと、「くろしお」が鳳に停車してた。
>>17
阪和線の非冷房は間違いなく昭和60年頃まで残ってたわ。
でもあの頃の夏は今みたいにめちゃ暑くなかったし、湿度が低めだったと記憶している。
急行「きのくに」のキハ58は完全に冷房化されていたんだろうか、あまり記憶がないわ。 浅香駅から大和川を渡って来る列車を撮る時は河辺のゴムタイヤの山を上手く隠すのが御約束 >21
関西線用ウグイス色101系は奈良運転所や王寺駅構内に常駐していて、
日根野電車区には台車検査などで戻ってくるだけで、阪和線快速や普通電車の
運用に入ることはなかったはず
国鉄末期には奈良電車区からウグイス色の103系が日根野電車区に転属し、
また、淀川電車区や豊田電車区からもオレンジ色の103系が日根野区に転入して、
阪和線快速や普通電車運用に着き、103系の混色編成が見られたが、
徐々にスカイブルーに塗り替えられて混色103系は消滅していった >>22
急行「きのくに」は昭和50年頃には既に冷房化されていた。但し南海からの乗り入れのキハ55は昭和60年3月の廃止まで非冷房で晩年は不評をかっていた。 新快速が短命に終わったのは停車駅が少なすぎたせい
でもスピードで南海に対抗しようと思えば停車駅を少なくするのは当然で
せっかく速達ニーズに合わせたのに乗ってくれなかったら
どないせえっちゅうねんと国鉄の中の人がキレたくなる気持ちもわかる 高運103系が入ってきて運転室後ろのかぶりつきができなくなってがっかり
通常タイプでも昼間から遮光幕を下ろす運転手ばかりになった悲しい時代があった 14時台の普通電車や区間快速では103系の和歌山方先頭車の一番前のドア付近がシートで区画されて、そこでは天王寺駅から積み込まれた泉州地区、和歌山方面向けの新聞の仕分け作業が行われていた。 >>26
阪和間を通すから不人気だの空気輸送だの無駄だの言われたのであって、
天鳳間限定であればロスもなく長続きしてたはず。 南海とラ イバルなのに駅の広告で南海難波の高島屋デパートが至る所に・・・ >>26 >>30
新快速のあの運用は沿線住民無視しすぎだったな。結局、後に熊取と砂川にも停車して利便図るわけだし。
そういう意味では「快速」が一番適任だったと思う。あの時代だと5駅(ラッシュ時は中の島も)停車でも
阪和間53〜55分と俊足だったし、紀勢線電化による直通でさらに利用価値も上がった。 たしかに国鉄は乗務員も駅員も態度が良くなかった
末期症状 阪和線寄りに住んでいた人でも国鉄の態度が嫌でわざわざ南海利用してたらしい >>35
中学校の時の英語の先生も日根野だが、まさにそういう理由で泉佐野からバス。勿論日根野駅は当時は快速通過してて、30分に1本しか電車がない時代だったが関空快速どころか日根野行快速もないが 朝の長時間停車が嫌だったな杉本町とか
何分くらい停車してたか記憶がないが軽く7〜8分は停まってたはず
他の待避駅でも朝はそのくらいだったのかな 開かずの踏切が社会問題として最初に取り上げられたのは阪和線 長居のとこな
待ちきれずに遮断機かいぐぐって線路内に立ち入るアホのせいで何度電車が急停車したことか
電車に乗ってる側としては大迷惑
今は高架化でそんな光景も消えたがもっと早く作ってほしかったとは思う もう20年くらい前、南田辺駅で飛び込み自殺した人の切断された手首から先っちょが巻き上げられて車両の屋根上に3か月ほど放置されたまま営業していたこと覚えてる
たぶん通学でその車両に乗合わせたことは一度二度はあっただろう 死者の手を載せて走る電車
往年の角川映画みたいやな 国鉄の現場が荒廃していた昭和50年代後半頃、阪和線でも東岸和田駅停車中の
折り返し天王寺行普通電車の運転士が運転席でコミックマンガ本を読んでたり、
無帽、黒のサングラスかけたり、無帽のツルツル頭の運転士が103系や103系を
運転してたりしてた 阪和線も南海も民度の低さは在阪交通機関の中じゃ最低レベルって話だねw
けど、そんな悪評なんかつゆほども知らないガキだった昭和50年代の頃だけを切り取っても、
俺にしちゃ、「あ、キハユニ16や!」とか「70系と55系の混結や!」とか無邪気にはしゃいでた記憶だけだよ。。 キハ82系の間合いで生まれたけど短命だった特急「あすか」を生で見たり乗ったり撮ったりされた方はまだ御存命でしょうかね >>45
> 無帽のツルツル頭の運転士が
ハゲ散らかしたおっさん死んだらええな 113系の阪和線新快速は、南海1001系特急「四国」号に対抗してたけど、
国鉄113系はセミクロスシート、南海1001系は扉間転換クロスシートで
シートの座り心地は当然南海車の方が良く、また南海1001系は間合い使用で
急行にも使用されて好評だった 1001系急行は主に特急運行時間帯外での運用だったな。
ちなみに「四国号」は昭和48年の昇圧以降2時間ごとで、フェリー発着に合わせ日中6往復だったかな?
特急自体は1時間ごとで「四国」の合間には全席自由の1001系和歌山市どまりの「特急」が制定されてた。
阪和線スレなのでこの辺でw 間合い使用どころか準急にも使われてた準急と言っても今の区間急行ではあるが確か今日のような休日の午前中の樽井発6両普通が尾崎以南止まれなかった時代
阪和線スレなので完全にスレチであるが今の阪和線と南海とは全く正反対の感じ 朝夕に快速の間合い運用で運転されていた113系の区間快速
夕ラッシュ時や朝ラッシュが終わったあとのこの113系区間快速の
ボックスシートに着席すると、103系使用の区間快速よりも快適に思えた >>45
>運転席でコミックマンガ本を読んでたり
それも今となっては時代を感じさせるような光景だな。
もし今だったらコミックマンガ本ではなくてスマホ画面だろうな。 国鉄で蒸機がまだ元気だった頃は髭伸ばしもOKだったよね
今は茶髪も禁止かな? 55
茶髪かどうかわからないが女性車掌、女性運転士で薄茶色の髪の毛の者がいたりしているな
以前、若い男性車掌で茶髪みたいな髪の色した者を見かけたことあるけど 今時茶髪くらいなんちゃ珍しい事ないやろ。
民放の女子アナなんか大半そうやし。 平日昼の和歌山行き快速が4連でキャパ小さいのに
病院通いのジイちゃんバアちゃんや附天小学校のガキんちょどもで激混み
せめて鳳くらいまでは6連で走れよ、といつも思ってた >>39
> 今は高架化でそんな光景も消えたがもっと早く作ってほしかったとは思う
阪和線が高架になるって聞いたのは、たしか俺が小学生低学年の頃よ。
いま四十超えたオッサンですわ
土地買収にだいぶてこずったみたいやね。
無駄に時間を費やしてる間に何人の命が踏切事故で落とされていったのか……。 東岸和田南一番踏切横には踏切番小屋があって、遮断機は上昇式で、
列車通過時は踏切警手が遮断機を昇降させて旗振りしていたが、
事故が発生してから両側から遮断棒が降りてくる自動踏切化されて、
踏み切り番小屋も撤去されて無くなった >>61
鶴ヶ丘駅南側にあった踏切で高架に切り替える前日あたりでJKが無理に渡ろうとして轢死したと聞いたが。 >>61
阪神高速泉北線とセットだったはずが、阪神淡路大震災で無期限延期になって、JRそのとばっちりじゃなかったっけ?
まぁあれだ、亡くなった人気の毒だが、JKに関しては丁度同じ頃に鳥取東浜でJKが臨海学校で溺れ亡くなった頃だがJKのクレーマー?の両親たちのせいで鳥取東浜臨海学校自体なくなったからJKなら別に気の毒とは思わないけどもwアレな言い方だがクレーマー社会先駆け 「和歌山北第一踏切」も83年まで手動式だった。今は道路も高架化され踏切自体撤去。
すっかり景観は変わってしまってる。付近に捺染工場があってインクの匂い?がよく漂ってたが
そこも複合商業地になってるな。 和歌山ついでに。今は近鉄ターミナルになってるが、かつては貨物の留置線が敷かれていた。
また68年に東和歌山から和歌山ステーションになった当初は阪和線も2〜3番発着じゃなく、
旧来の阪和鉄道時代の名残の行き止まり式(今の地下道連絡口あたり)を使ってた。 東岸和田駅が貨物取り扱いしていた頃は、構内に貨物ヤードがあって、
貨車への荷物積み込み作業を駅前の狭い道から眺めることができた
積み込まれているのは、主に米などの穀類や、泉州タマネギ、岸和田みかんなどで、
ときおりヤードの側線にパンタを下げたED60が留置されていることもあった。 阪急淡路なんかまだ半分も工事できてない
完成するまでに人口が減って鉄道利用者もいなくなるかもってのにな 103系のボロさは尋常ではなかった
窓はスリガラスと見間違えるくらいに汚れてるし
取っ手の油のギトギトも拭けてない
天井の換気扇から雨漏りってのもあった
修理するお金もなかったのか、単に仕事をサボってるのか 夏場、阪和線の非冷房の103系は窓全開、運転士までが運転室の助士席側のドアを
開けたまま運転していたりしていた >>60
附属天王寺小学校ってガリ勉の印象しかない
たまたま隣に座ったのでドリルみたいなのをやってるのをチラ見したら
二次方程式みたいな問題を解いてた
方程式て中学で習うやつだがな >>70
換気扇?
南海6000系非冷房と間違えてないか? >>72 >>74
扇風機外郭にある、換気口のことと思われ。
>>71
それ、久留里線状態? >>70
車内のドアの上の東京の国電の地図の上に白ペンキベタ塗り。
窓枠をよく見ると塗り残した山手線の黄緑色。 103系の京浜東北線からの転属車の中には、非冷房のまま転入した車両や、
転属前に大井工場などで冷房車化されて阪和線に転属してきた車両もあった 年号でいうと2003年頃、2週に1回くらいのペースで故障か人身事故かで電車が止まるか遅れを出してた
飛び込み自殺も多かった
当時 はSNSがなく、事故発生は駅頭の貼り紙で知るくらいしか術がなかったが
それも不正確かつ情報が遅くて車中に缶詰にされたり改札口で通せんぼされたり・・
阪和線にはろくな思い出がない >>33
天王寺駅近くにあった南海電車の広告で
「関西空港へはラピートがはるかにお得」をよく覚えてる 附属天王寺小学校ってずいぶん遅くまでちょうちんブルマでしたよね。 >>79
開港1年目だけラピートに客数で負けてたが2年目から逆転。
所詮なんば発着しかできないラピートに比べたら、天王寺新大阪はおろか京都までカバーできるはるかに分があるのは当然 長居駅の思い出は開かずの踏切や安田病院よりもワールドカップ2002
あんな厳重な警備初めて見たが東京から観戦に来た友人は
こん なの東京では日常と冷静だったw >>78
2チャンの鉄道板に事故速報スレがあったよ
正直ガセも少なくなかったがまあまあアテにできるクオリティ >>82
しかし一時は
ラピートが2本/hを維持する一方
はるかは日中1本/hへ減便 九州から阪和線・紀勢線へ行くとしたらやはり宿泊は和歌山市が便利でしょうか?紀州鉄道とか貴志川線とかも周りたいんですが >>76
どころか路線図丸出しのまま走ってたのもなかった?
何度か遭遇したぞ。
あと、ドア上の「TOKYO33?」とかも見たことある。 長居の開かずの踏切は歩行者の侵入のほかにクルマの突入もたまにあった
遮断機をバギッと折って突入し、そのまま平然と走り去ってゆく強者もおったらしい
思うにあれは中央分離帯が邪魔をしてUターンができないのが原因 >>24
じゃあ・・・俺が阪和線内で乗ったウグイスの101系は貸出だったのかも知れない。因みに昭和50年か51年頃の話。
当時、小学校低学年だったが、既にこの頃から鉄ヲタだったので記憶はバッチリ。
他に奈良の春日色の113系が営業運転に就いている時があった。これは昭和60年頃。
昭和50年、51年頃の阪和線はまだ旧国が沢山走ってたし、スカ色の70系まで走ってた。
「くろしお」は、まだキハ81のブルドッグ。親戚の家の帰りに何度かみ2番線辺りから発車する
924列車も10系寝台車が連結されてた。「南紀」→「はやたま」。
この924列車は後に寝台車が外され、時期的にいつか分からないが12系化。
天王寺の発車番線は9番線発になり、この9番線には「23:00」などの当時の乗車位置が
2018年になった現在でもわずかに残ってる。 >90
昭和49年7月のダイヤ改正に備え、池袋電車区からウグイス色の103系6連10本が
鳳区に転属してきたが、スカイブルー塗装化が間に合わず、関西線101系と同様に
黄色の警戒帯が前面窓下に入れられて使用された。
スカイブルーへの塗り替えは昭和50年以降にかけて行われたものと思われる
先頭車の前面窓の大きさと高さ位置などで、その電車の先頭車がクハ101、
またはクモハ100とわかったなら、貴方の言うように阪和線でも101系が103系の
代走で運用されていたかも
俺はその頃まだ1つか2つくらいだったから、車両の知識も全くなかったし、
鉄道には興味さえなかった 70年代阪和線のウグイス色は74年(昭和49)7月?に首都圏から大量に転出された103系だったと思う。
スカイブルーへの変更が間に合わず、ウグイスのまま投入。春日色の113系は関西線電化時から共通運用で
阪和線の主に快速で運用されていたな。 >>89
防犯カメラもドラレコもまだ普及してなくて
何にも証拠が残らずやったもん勝ちみたいな 紀勢本線電化前、同線の各種試験に使用された鳳電車区配置の入換え用のクモハ60と
思われるオレンジ色の旧国を連結した103系が和歌山方面に向かって、下松(当時は未開業)
付近の踏切を通過していくのを見た記憶がある> >>5
南海山手線から国鉄山手線になる可能性もあった? 阪和電鉄のままなら特急くろしおも急行きのくにも和歌山線関西線経由で不便だったろうな。それも律儀に紀和でスイッチバックw 新快速のHMは何度か形を変えてたがその中で
折り畳み式になっていて「新快速」の文字を隠すことができるタイプをよく覚えてる
阪和線のやつは京阪神新快速よりも小ぶりで本家に遠慮してる感じが奥ゆかしかったな >>17
実際そうでもなく
冷房化率はS55年から数年間逆転すらした
>>21,90
オト101関西線用は
故障増大の旧形国電の代走として
阪和線用予備車が準備不可の局面
かつ和泉砂川以北の各停に限られた
よって快速で運用されていたのは
転入直後の阪和線用ウグイス色103 >>89
突入といえば平成元年の天王寺駅車止め突進事故
事故を起こした運転士がブレーキが利かなかったと証言したらしいが
それまで問題なく停車できていたのに急に終点でブレーキ故障なんかするかいなと
子供心に思った 日中の東岸和田折り返しの各駅停車には、ときおりクモハ103先頭の羽衣線用の3両編成の
103系2本を連結した6両編成が使用されることもあった そのあとも同種の事故が関東鉄道取手駅でも起きている
終点で止まらずに車止めに激突した >>101
関鉄取手駅突撃は手前で車両点検した際に圧のコック閉め忘れた近鉄東青山の衝突事故と同じ
違うのは手前の駅で車両点検の際、客が「早く走らせろ!」と罵声浴びせて急かしたのも一因 >>103 客の罵声があろうとなかろうと、フェイルセーフに必要な措置を失念しブレーキ利かなくさせた乗務員に最大の落ち度があるだろ。五十歩百歩。オートマ車でブレーキとアクセル間違えて踏んだのと似たようなもの。 103系も113系のピンチヒッターで新快速に借り出されたことがあったな。
新快速のヘッドマークのイラスト?を長方形の白い板に書いて前面に掲げてた。 >>104
現業や元「ATのブレーキとアクセル踏み間違いと同等に語るな」
と言われるな
客に囲まれ追い詰められて高架から飛び降りた某社車掌の事件知ってたらそんな事言えないけどな
因みにその某社、運転時に運転再開時のチェックリスト持って乗務してるから、車庫公開時に聞いてみな >>106 「ATのブレーキとアクセル踏み間違いと同等に語るな」って、そりゃ自家用車と違い多数の人命を預かっている職業だから、責任は加重されるわな。業務上過失に問われるのは同様だけど。
バス運転手が客の罵声でストレス感じ信号無視して事故起こした場合、仕方がないだろと言えるのかねえ?
ま、列車乗務員だけでなく、ブレーキ故障頻発する車両を走らせていた鉄道会社の責任も追及されなくてはならないが。要するに共同不法行為。 そういや新快速のHMは羽車のデザインだったから南海を意識したのかな >>107
信号無視して事故起こすのと一緒に語られてもねぇ 阪和線103系前面方向幕の旧幕の「区間快速 天王寺⇔和歌山」などの
種別の区間快速の文字が赤で書かれたものと黄緑色で書かれたものとがあったが、
なにか理由があったのだろうか キハ82系「くろしおのかぜ」
名古屋→新宮→和歌山→天王寺→(環状線)→大阪→福知山→鳥取→米子→浜田→下関→門司→博多
御乗車お疲れ様でした 天王寺構内の車止メ衝突事故は
JR発足前後で2回発生しているが
103などコイルバネ台車の形式では
応荷重装置が戸閉と連動しており
かつて他の形式を含め
車掌SWでの再開閉操作の速さによっては
応荷重装置が正しく機能せず
空車相当の指令となる仕様だったため
時折過走が発生していた
H1の事故の方でも
刑事裁判での事故調査にて
上記の件が強く疑われ
物証と再現実験で運転士の無罪が確定
以降は応荷重装置が改良され
積空検知に時素を持たせた オーバーランや反対側扉開け事案はけっこう有るね、車内放送テープのセット間違いも有る >>112
平成元年の事故車は101改造でブレーキが甘いと引き継ぎされと証言あったな >112
>115
事故直前、途中の駅で運転士交代の際、運転を引き継いだ運転士は、運転してきた
運転士から「ブレーキの利きが甘い」と言われたにもかかわらず、その重要なことを
うわの空で聞いており、それが事故につながった。
その運転士は電車運転士になる前は、電気機関車の機関士もしていたという。
事故後、同運転士は現場を離れ、内勤になったという >115
このクハ103は 101系から改造の2000番台車で、やはり純粋の103系と
混結するにはブレーキ系統に無理があったようだ。(現場では当初から要注意車との共通意識があったようだ)単に当日のブレーキの効きが甘い程度では済まされていなかったようだ。皆運転士は恐々心得て運転してかろうじて運転していたと思う。
そこへくると101系改造のサハ103750台は環状線で問題なく長持ちしていたんだなと思う。 昔の思い出話として一つ、旧国車ばかりのころは、帽子を前つぶしに被る運転士、サングラスをか
けて運転する人、ガムを噛みながら運転する人、発車間際まで新聞・雑誌に目を通していた人、
夏季の暑い日には反対がの乗務員ドアを開けっ放しにして走っていた人などさまざまであったが、
唯一感心したのは天王寺行きの上り各停、クモハ73600車をずっと立ったまま丁寧に運転して
いた初老の人がとても印象的であった。クモハ73600は高運転台なのでクハ111と同じ椅子が
設置してあったが、それにも座らずにずっと立っていた。
また今日のような暑い日には天王寺折り返しの再に9番乗り場先端にあったドラム缶に入った
水をジョウロで汲んで木の床板に何度も撒いて涼を取っていた。 >117
事故後、阪和線で20年間運転士をしていた元運転士の話によると、
「103系は走行中ブレーキの利きが変化するので、かなり神経を使った」と >119
今思えば昼間の乗客閑散時でも、駅に止まる寸前は本来設置された停止位置表示柱
よりも5〜10メートル手前で停止するような速度でホーム進入して、更にあと
「5m・3m」というような止まらせ方法でブレーキ操作して痛んだと思う。
旧型車の時はどちらかと言うと乗客が前のめりになるような止まらせ方が散見
されたなァ・・・・・ 阪和線電車の新性能化は昭和52年3月に完了する予定だったが、
一部電車の転入が遅れたため、羽衣支線も含めた103系、113系化は
4月15日からとなったが、前日に最後まで残った70系電車6連1本による、
旧型電車のさよなら運転が行われ、70系はその後福塩線に転出し、昭和56年まで
同線で運用された。 >>117
103については101系改造した2000番台だけでなく、元から103であってもブレーキが気まぐれで胃に穴が開きそうになったと首都圏の乗務員ですら回顧録で書いてる 122
京阪神緩行線の103系は電気ブレーキ併用で駅間時間短縮されたが、
電気ブレーキは使用時の衝動が大きく、苦情が多かったという >112
小生も旧型車お別れ運転の当日に乗車したものだが 70系よりも72系・60系を
使用して欲しかった。と言うのは 録音したからで 同じMT40モーター使用でも
歯車比が違うので発進・低速時の音が小さい。ただ1両だけ72系が入っていたのが
ラッキーでそれで録音していたら、録音鉄の者が何人もいて、驚いたのは床面の点検蓋を外し、ずらして台車と線路が丸見えだった。危険だと思ったが、鉄チャンばかりで一般の客はあまりいなかったので傍観・あきれて見ているだけにしておいた。
もし、一般客が車両から車両へ歩き渡っていたら、本当に危ないものだったナア・・
と今更に懐かしく思う。 さきほどの >112は 121の間違いでした。ゴメンナサイ。 連投ばかりでスマソが、52年4月からもう41年余が知らぬ間に過ぎてしまった。
あれからは天王寺の阪和線ホームの様相・線路配置は全くといってよい程変化が
ないが、(東側に跨線橋ができ、環状線へ降りていく連絡線路が撤去された程度)
それよりも、52年から41年前は昭和11年で、その間にはホーム・線路配置・
車両の転出・入りの変化が非常に大きかったものだった。海外旅行は行った事無く
また行きたいとは思わないが、タイムマシンが存在すれば少し経費が掛かっても
昭和の始めの「阪和 天王寺駅 阪和大食堂・マーケットへ行ってみたいと切に
思う。(BEのぶ さんのブログ 天王寺駅の怪 を見て余計に思う) 126
昭和50年代中頃、近鉄阿倍野店のおもちゃ売り場のウッドダイカスケールの
ミニ電車を陳列した縦長のケース
買うときは販売員に「この電車」とかいってから商品を出してもらった。
幼少の頃、このミニ電車のスカイブルーのクハ103、クハ111の阪和線色と
関西線色を親に買ってもらって阪和線を再現したりして遊んだ HOのEF58自由型で遊んだのは(だいたい)昭和30年代生まれ 128
HOのEF58を短尺したEB58もあったね >>115-117
事故直後は当該先頭車が
101からの転用だったこともあり
現業の個別の報道取材にて
当時の段階でヒネ103が
全体に経年していることも含め
西を糾弾する方へ
印象操作を先行させてしまったが
103の制動については>>112の件が
各運転現業で周知されているか否かで
乗務員の認識に差があったのも事実
それをJRの管理側すら
把握できていなかった関係者も多く
応荷重装置の改修が後手後手に
つまり103の経年や仕様の古さで
制動性能が不十分だった訳でなく
実際は仕様上の問題が放置され
現業に周知されず危険な取扱が主因
>>123
これも仕様の問題で
東海道山陽緩行線運用では
90km/h超から制動を作用させるため
発電ブレーキが過負荷で失効しやすく
失効時に断流器遮断器オフで衝動
これは後年対策され解消 阪和線では非冷房車でも冷房車でも103系の方向幕は終点に着いたら乗務員が
変換していたが、京阪神緩行線では国鉄の労使関係による対立問題とかで、
103系の非冷房車の前面方向幕は「普通」のままだったが、同線の103系の冷房車編成だけはなぜか前面、側面とも方向幕が使用されて「京都」「西明石」などの行き先が掲出されていたな 済みませんが この場を借りて皆さんにお願いがあります。ウイキで「美章園駅」を
みていると、昭和20年2月の空襲による爆弾被弾当時の美章園駅と22年4月に復活した美章園駅の写真がUPされていますが、開業時〜被弾前の駅の写真や様子をご
存知の方があればご教示願いたいのです・・・よろしくお願い致します。被弾後は
急遽の路線回復要請で2日間で土盛りにしたとあります。被弾以前は現在の寺田町駅南・北出口のようにガードの真下から出入りしていたのでしょうか?? >>131
電動と手回しの労力の違い
阪和・関西でも103系は(冷房・非冷混結を除き)同じ取り扱いだった 昭和57年2月28日、阪和線天王寺駅ホーム8連化対と構内配線変更工事完了前、
初発から午前10時まで天王寺〜鳳間の全電車運休し、南田辺〜鳳間に30分ヘッドで
キハ58系の臨時普通列車が運転された。
このときは停電のため、各踏切には職員が派遣されて、遮断棒は職員が手動で上げ下げした。 1970年代の天王寺駅って「西の上野駅」だったよね 臨時くろしおきのくにが多かったからね
今じゃお盆でさえ臨時なんかありえない 幼少の頃、昼間にEF58型牽引の12系客車による臨時急行「きのくに」を見た時、
その列車を「はやたま」号だとばかり思い込んでいた >>137
高校の帰りにオハ12系6連+EF58が停まっていた。ホームにも、朝は 環状線の内側にも、
オハの所属を見て驚いた。 所属が 盛モカ だった。わざわざ遠い所から借りていたんだな
と思った。(きのくに51号) 続いて「くろしお」の不思議な体験談。キハ82の頃はそんな現象は無かったが、
381系になってからずっと不思議だったことは 南田辺以南の地平駅では感じな
かったが、美章園駅ホームに居ると全速力で接近してくる「くろしお」が河堀口駅
の少し天王寺寄り付近に近づいてきた頃に、小刻みにビリビリビリとホーム・体全体が地震のように震え出し、通過後も南田辺へ曲がっていくカーブを過ぎるまで震えが
続いていた、(それは国鉄色から新くろしお色に変わるまで長い間続いていた)
たしか振り子機能は使っていなかった筈。恐ろしい電車だった。もっと重たい旧国
の快速や、キハ58連のきのくにが通過しても一切そんなことは起きなかった・・・
今でもたいへん不思議である。振り子機能を使っていたのか? ホーム下付近の
沿道にいても体が震えて381系が通過しているのがよく分かった。 >>131
関西地区ではクハ79の920番台でも前面方向幕は使用しなかったからな DC急行「きのくに」の増結作業を天王寺駅1番線で見たことがある
増結編成は和歌山機関区から回送されてきたようだった また「くろしお」の話を出すが、キハ時代に美章園ホームに居たら、天王寺発の「くろしお」が
来たので見ていたら、何両目かの車体横の給油口の蓋が完全に外れていて、走行中に
燃料の重油が外気に吸いだされながら ばらまき走っていたのを目撃した。かなりの量だった。
その後どうなったのだろうか? 関係者は処分されたのだろうか? 気動車時代の「くろしお」は阪和間無停車で45分。新快速は鳳停車で45分。
子供ながらにこの韋駄天ぶりになぜか、悪の支配者つうか権力主義者かな、デカい顔してる「くろしお」を駆逐する
正義の味方、庶民の味方(料金いらんしな・・)を見る思いがした。。。w >>142
それ多分放熱器の冷却水はりこみ口で溢れていたのは温水。
国鉄気動車は重油なんて燃やしちゃいないしね。 昭和59年頃から阪和線の貨物列車はコンテナ列車化され、主にEF15が牽引していたが、昭和60年からはEF60も高崎第二機関区から竜華機関区に転入し、EF58と
ED60が置き換えられたが、EF15だけは貨物列車用に3両だけ残り、EF60と重連で貨物列車牽引も行っていたが、EF60が活躍した期間は1年半だけで、竜華機関区、竜華操車場廃止により2形式とも保存用を除いて廃車された 学生時代の通学時の朝、 美章園駅で天王寺行きを待っていたら旧国の半流先頭車同士が中
間に挟まっていた。 急に変な衝動に駆られた。(平妻同士なら天王寺到着時 ポイント渡りの
際に車体に体が挟まれる危険があるが、半流同士なら広いので大丈夫、今日は連結面に外
がわに掴まって乗ってやろうか・・ ラッシュ時だし告げ口する者も居るまい・・・)しかしやめて
おいた。 また別の日は(旧国快速が赤信号でホームにかかって停車した、中間に挟まった運
転室のドアが開いていた。1駅だけだ、乗ってやろうか)・・・ これもやめておいた。 45年経った
現在、実行すれば良かったナ・・と後悔の日々だ。 >>147
しかし前文に続き、実行したことが1つだけあった。時は昭和53年 BEのぶさんがブログ「天王
寺駅怪」に記している阪和ホームの地下道の件は古くから友人に聞いていたので、駅北口の
デパートの荷物搬入口に立っていた(STBの腕章を付けた、多分元国鉄職員)に鉄道研究部の
学生証を見せて「昔の研究のために7・8番乗り場ホーム下の地下道が見たい」と申し出た。
当時は現在のように難しい事は言わずにすぐ承諾をくれて、案内して見せてもらったことは
若気の至りだったが、非常に良かったと思っている。多分現在では無理だろう。
昨年夏にBEのぶさんにその地下道の様子を情報提供したのもこの私だ、市営地下鉄が天王寺
延伸に伴い、阪和電鉄とタイアップして省線の跨線橋とは別にすぐ東隣に特別直通の跨線橋
を架けていた(現在の9番乗り場〜元南海用20番乗り場を越えて架けられた話)をしたのもこ
の私だ。 >>148
戦前に南田辺〜天王寺を通勤のため利用していた古老にきいていた話だが、阪和天王寺駅の上の食堂では「ウサギ肉定食」のメニューがあったという。BEのぶさんの
阪和線研究ブログで分かったことだが、電鉄利用者の増加目的のために季節に合わせて色々な企画 ウサギ狩り・もみじ狩り・みかん、松茸狩りが行われていたということなので、最初は妙なメニューだな。と思っていたが納得した。
(都市伝説・言い伝えに依ると、ウサギを食べれば口裂症の子どもが産まれるからタブー事項だと聞いていた) 113系の快速が三国ヶ丘通過時、ホームにいた客がびっくりするくらい大きな音でタイフォンを
鳴らすことがあった >>91 >>98
なるほど、じゃあ俺が昭和50年か51年頃に乗ったウグイスの快速は山手線からの・・・今思えば凄い。
因みに、この頃の阪和はまだ旧国が目立ったてたな・・・
その旧国は基本的にオレンジ色だったけど、ほんの一部、茶色が混じっていることがあった。
阪和線の旧国が全廃した数年後、昭和59年の春だったか、可部線で旧国と再会。
懐かしい思いになったが、こちらの旧国はウグイス色だったと記憶している。 >>152
あなたの年代だと、その少し早くからは 北イケ 北モセ 北マト から来た サハ78500だ。
昭和46年頃 何両かの転入があった。 モハ72のパンタ台があからさまに残っていたもの
があって遠くからでも判別できた。 それ以降は昭和50〜51年頃に 大アカ 大タツから
モハ72920が いくつか来た。 そのまま茶色で終末を迎えた。 153
国鉄末期の103系の広域転配では、浦和電車区からクモハ103、モハ103などが転入し、それと引換えに日根野電車区から103系の中間車ユニットが浦和区に転出した。その時、転属回送時の控え車として京浜東北線の高運転台ATC付クハ103が阪和線を走行した。
JR化後、京浜東北線で日根野区から浦和区に転属したサハ103−261が103系10両編成の中間車に組み込まれているのを見た。 >>154
一時期、全部6連が基本だった103系を 関東からクモハ、サハをもらって4連+4連にして運用
しだした頃から阪和線にも 「女」を車掌・運転士に入れだした。多分車掌の方が早期だったと思う。
今日のような暑い日にも節電に努めたのかどうかは分からないが、天王寺折り返し停車中冷房を
「切」にしてあるのをなかなか入れずに、車内放送をして、発車しだしてからも入れず、その後も
放送ばかりで河堀口付近でようやく冷房を「入」にした。 だから「女」はダメだ!と切に思った。
女は自己チューな奴等である。俺が高校の頃は女が電車を運転するのは未来永劫にあり得ない
ことだと思っていた。 阪和も女の運転士が登場しだした頃、103系だけはブレーキ扱いが難し
そうなのがよく感じ取れた。 続き、昔からの諺に「雌鳥が鳴いて世が滅ぶ」があるが、誠にそのとおりだ、大塚家具の娘にしろ
某旅行会社の女社長にしろ、韓国の大統領にしろ然りだ。大事故が無いことを祈る他はない。 昭和59年頃、京阪神緩行線から転属してきたヘッドライトが高運転台のクハ103と
同じ形した低運転台クハ103が先頭の6連を阪和線で見たが、先頭車が低運転台車の
マイナーチェンジ車ということや製造歴も製造から10年程度と比較的新しいこともあって、新車のように見えた >>156
基本的に異論なし
女の社会進出が少子化の一要因でもある
スレチだが一言だけ
(スレチ終わりもなんだから)
今かんがえてみると58+60+15の三重連貨物は凄い
これが(仮に)現代に行われていたら阪和線沿線で激パ 158
EF52+ED60重連の貨物列車も見られた 昭和54年か55年頃、御坊から天王寺行381系「くろしお」に乗ってたとき、紀勢本線内で、
スカイブルーのモハ103を連結した試験列車と思われる列車とすれ違ったが、
紀勢本線で、103系を使用した何らかの測定か試験が行われていたのだろうか >>148 149
今日も阪和線 天王寺の7番8番ホームから乗車する用件が有って行ってきた。 29日にホーム
下のガラス窓を見ていたら40年前に頼み込んでホーム下通路に入れてもらった事が更に懐かし
かった。 昨年のいまごろBEのぶさんに中身の様子を詳しくメールしたが、彼のブログにはそこま
で記載していなかった。→ 「ホーム下は東寄りは ガラス窓が私の顔ぐらいのところにあるが、
西へ行くにしたがって下り坂になっていて 西端は窓は3mぐらいのところにある。」ということ。 23時2分発天王寺発和歌山行最終区間快速が発車する2分前の
23時に新宮行夜行普通列車が天王寺駅9番線から発車していたが、
この列車は阪和線内は和歌山までノンストップで、太公望での釣り客以外にも、
この列車を利用して少しでも早く家路を急ぐ通勤客も見られた。 下り「はやたま」に和歌山(4:00発)から天王寺(5:00着)まで何回か乗ったな。
丁度今と同じ8月。途中から明るくなって窓を開けて朝の空気吸いながら客車で天王寺に向かうって
ちょっと今の時代、とても体験できる代物じゃないねw 「はやたま」には荷物車と寝台車2両が連結されていて、
天王寺に到着した「はやたま」の荷物車からは魚の入った箱が下ろされて、
リヤカーなどに積まれて得意先に運ばれていったりしてたな 今のように画一化された運用(車両も含め)じゃなく、色んな側面を切って取れた国鉄時代。
電化以前、天王寺午後(15時くらいだった)発に新聞を積んだキハユニ16を先頭にした「きのくに」があったな。
和歌山で普通列車周参見行きに付け替えられてた。 昭和55年五月の連休だったか、南海の「きのくに」の両運転台のキハが
1両、天王寺行「きのくに」に併結されて天王寺まで直通したことがあった 毎晩八時半ごろに電気機関車だけが天王寺方面に走っていて不気味だった
いそつりとかはやたまの機関車輸送だったのかな
河堀口に住んでいていつも見ていた 168
竜華機関区から「はやたま」牽引のEF58が阪和貨物線経由で杉本町へ出て、
そこから天王寺へ回送されていたようで、天王寺着後は9番線の先にあった連絡線で地上に降りて、留置線で「はやたま」の客車が竜華から回送されてくるまで待機していたようだ >>155
阪和線103系の4連化は昭和61年だったか。同時期に関西線が3両化されたりして一抹の寂しさを覚えた。
>>164
俺が中学生〜高校生の頃だったか、夏休みに早起きして、羨望の眼差しで、よくその列車を見る鉄してたよ。
客車はナハ10とかが多かったような。機関車はEF58だったけど、後に一つ目のEF60に変更されてた。
見る鉄してた場所は上野芝〜津久野の間の築堤で、当時そこは田んぼだったけど今はマンションになってる。 >>138
詳しくは分からないけど天リウに転属してきた12系?。
そういや「きのくに」格上げの485系の「くろしお」だけど盛アオのまま走ってたわ。
天リウの12系ってつくば博のサイエンストレイン?という奴に変身してた記憶がある。 170
その近くにはつい最近まで「霞ヶ丘マンション」というマンションがあったけど、
建物が古くさくて見劣りしてたな >>170
うん、ナハ10系は必ず?一両は組まれてたな。
85〜86年ころ、そのEF60や485系、165系といった阪和線にはこれまで全く縁のなかった
「幹線級」車両が次々投入され、なぜか「私鉄由来の外様の阪和線も立派になったもんだなあ」と
妙な感慨にふけていたw まあEF60なんて当時とっくに幹線貨物から引退してたと思うけど。 173
阪和線の線路規格は東海道線や山陽線に匹敵する線路規格だし、
昭和43年に103系が投入された時も、103系は阪和線には不適当だとかいう声が上がったりしてたな >>174
俺の知っていた阪和線(S45年頃)はレールが50kレールよりも背が低かったし、上面が磨り減ってペッタンコだった。その頃「きのくに」にのったがジョイント
音がやかましくて、相席者との会話もままならなかった。よくその上を「紀州」「第1・2しらはま」「はまゆう」が走っていったものだ。 我孫子町付近ではレールの
継ぎ目が左右半分ずつずらされていて、あたかも短尺軌条の上を走っているようだった。大分後年になっても継ぎ目位置はそのままで、旧国の電車に乗って録音したが、
面白い音がした。 首都圏の5線区のATC化を錦の御旗に使い古したセコハンを大量に押し付けられた
と言うのが昭和50年前後の阪和線の印象。
天鉄局と大鉄局の力関係の違いか、高槻や明石には先頭車は非冷房でも中間車は冷房
車が投入されていた。
その結果高槻や明石は中間に冷房車を連結していながら、冷房を制御する先頭車が非
冷房の為、中間車が宝の持ち腐れになり、品川は先頭車のみ冷房車(使用不能)のキセル冷房編成を長い間運行する事になった。 国鉄時代の日根野電車区は、車窓から見てると珍編成も見れた
構内の外れにクハ381が1両だけポツンと留置されていたり、
関西線101系と3連ずつに分割されたスカイブルーの103系が連結されて
留置されていたりして、時には茶色の事業用車クモヤ90の姿も見れたりした とにかく103系は通勤ラッシュ仕様だったのか、台車のコイルバネが硬いの
で、ジョイント部分やポイント部、特に低速走行ではオハ61系よりも乗り心
地が悪かった。立っても、座っても縦に4cm位揺れていた、と言うよりも衝
撃な縦揺れで、そこへくると旧型車は音がするだけで、揺れはなかってどっし
りとしていた。ただ旧型車は低速域では達磨さんのように左右にふんわりと揺
れる癖があった。 ヨンサントオで103系6連4本が投入されたあと、その後も22両の旧性能電車が転入したため、
阪和線の新性能化は遅遅として進まなかった 52年の4月に旧型車がいなくなり、40年が経っても、未だに天王寺の
7番8番の西端正面からクモハ60や73の電車が進入してくる際に、頭を
ゆらりゆらりとさせながら来るのが目に浮かぶ、103や113はそんなこ
とはなかった。 その頃の写真みてたら、なぜか103系の先頭車の前面の連結器の向きがまっすぐではなく、右か左に首を振っているよな >>179
あの43・10の新車103投入は快速専用のためで、昼間・ラッシュのの各停運用
には入らなかった。近代化をイメージアップして訴えたかったのだろう。
とにかく走行・通過音がうるさかったことしか思い出が無い。 よくあんなロングシートに座って和歌山まで辛抱できるものだ。と驚いた。 182
その103系は2編成は快速に使って、残り2本は天王寺〜鳳間の各停にも使用されたという >183
南海7000系や7100系への対抗策だったが、103の奥行きの浅いロングシートはやはり嫌われたようだったな 南海の7000の台車はそらもうすばらしいものだった。国鉄で言えば153
系のDT24等と同等の乗り心地だった。103系初期型の座席はモハ72や
クハ79後期型と比べると奥行きや高さで見劣りしていた。やすっぽかった。 南海7000は7100よりも軸離が若干長いので乗り心地がよかった。高野
線用の6000はディスクブレーキを装備してイキガッていたが、それはもう
地獄の乗り心地だった。103のDT33は101系より軸離が長いが悪かっ
たしうるさかった。またコンプレッサーがガラガラガラーッと甲高い音で尚更
に悪い。153系はコッココココココととても良かった。始めは本線の新快速
をお払い箱になった153系が阪和・紀勢へ来るという噂が流れて喜んだが・・・ 阪和線 それも各停の運転に限っての話だが、40数年も前から、加速時に
はどこも60`に達した時点でノッチオフにしている。長い間変わっていな
い。環状線は昔は60`でノッチオフにして転がしていたが、大分以前から
70`でオフにしている。(駅間短くても、但し新今宮〜寺田町はゆっくり
転がしているが、)僅か10`の差といえども車窓の流れはすごく速い。
阪和線は225系の各停になってもでも依然としてそのままだ。その性能を
殺してしまって惜しい気がしてたまらない。(南田辺〜鶴ヶ丘は仕方がない) >>183
あんなロングシートよりも冬場の快速爆走の隙間風の方がキツかった 昭和30年代でも南海が新車の11001系投入してその対抗処置で配置されたのが旧来の70系。
とにかく阪和はスピードだけは速かったが車内アコモは国鉄一般車レベル(それもほぼお古)でしかなかった。 日根野区への165系転入は紀伊田辺以南で運用されていた非冷房113系の置き換えと、
新宮行夜行普通列車の電車化、その113系を捻出して福知山線に充てるためだったが、
国鉄分割化の煽りで、福知山線は阪和線以上に中古電車の寄せ集めとなったが、
福知山線沿線民は「電化さえしてくれれば、車両は中古でもなんでもいいと」思っていたようだ >>191
ところがいざ電車を投入してみたら、結果 ロングシートだわ、セミクロスだわ、
編成が短くかつ座席数が減るわ、アルミ窓枠から寒気が忍び込むわ。冬季は開い
たドアから寒気が遠慮なしに入って寒いわ寒いわ。スチーム暖房の付いた旧客・
オハ12の方が良かったわ。となってしまったのではないか。 何でもかんでも
電車の方が優れているというイメージが先行しすぎた。キハ26等の方がゆっく
りできた。 和歌山線の和歌山口電化(84年10月)の105系も大概やったな。。w
食パンから解放されて113系4両でのんびり風景でも楽しめると思ったのに。 >>193
電車を入れて成功したのは、昭和48年秋の関西線 奈良電化だけだっ
たな。加速がよくスピードが出て到達時間が短縮された。殆どのロング
シート状態が改善された。しかし電化はこれで辞めときゃよかった。
余りに便利になった挙句に、奈良の畠田・志都美・下田 や 帯解・
櫟本・天理・長柄・柳本などの田舎の女が大阪へ通勤に繰り出すように
なり、余計に車内が混むような結果に・・ 現在の天王寺15・16番
のりば 特に夕方はえらい事に・・・ やはり和歌山線はC58+客レ
で 乗れば煤煙で洋服が汚れる方が、女はわざわざ出て来ない。 43.10で快速が103系になってから利用を阪和線から南海に変えたという客も多かったらしい。
同じロングシートでも南海7000・7100系は座席がフカフカしててしかもエアサス台車だったから、
硬い座席でコイルバネの103系とは雲泥の差だったからな。 阪和線が国有化されず、現在も阪和電気鉄道のままだったら通勤車両は、
3ドアロングシート車、特急車両は阪急、阪神のように座席の一部が転換クロスシートの車両が走っていたかも
運賃も並行する南海本線に合わせて新今宮・天王寺〜堺市・和泉府中・東岸和田・
熊取・和泉砂川・和歌山までの運賃が南海と同額、バス路線は南海バスは阪和電鉄の各駅前まで、そこから山手地区は阪和電鉄が路線バスを運行していたであろう。
砂川遊園地は戦後、営業再開されても経営不振で廃業していた。
のち経営統合で「南海・阪和ホールディングス」となっていたりして >>191
中古なのはともかく、夜の下りに113系2両編成は大不評だったかと>福知山線
スレチ失礼。 >>196
まあ阪和国有化は戦前から国の目論見もあったし、紀勢線(南紀観光輸送)との接続も考えると
私鉄のままってことはまず無いなw 鳳電車区の隣にあった東急車輌大阪工場が鉄道車両を製作していた頃は、
南海6000系や泉北高速100系、海外輸出向け気動車などが阪和線経由で
甲種回送されたり、阪和線で試運転が行われたりしてたな それか!ガキのころなんでギンギラギンの地下鉄みたいな車両が
機関車に引っ張られて走ってっるんだと思ってたが
一度っきりだったのでなんか違うものと勘違いしてたのかと。 昭和54年だったか、百舌鳥駅付近で発生した踏切事故では、
381系の回送電車が床下機器が全部損傷して走行不能になり、
後続のEF15牽引の貨物列車に推進されて、鳳電車区に収容された 床下機器が全部ヤラれるなんて、どんな事故だったんだろ 202
踏切警手の遮断機操作ミスで、トラックが踏切に進入したところ、
進行してきた381系の回送電車と衝突した。
この事故でトラック運転手二人は即死、通行人一人が負傷したらしい >>194
電化でよくなったと思えたのは53・10から暫くの紀勢線の和歌山口。
これは和歌山線とは違い食パンから阪和直通で113系6連冷房付き、新車の2000番台も投入された。
またDCの急行「きのくに」と113系の普通が田辺まで所要時間がさほど変わりないというw
DCきのくに、60年3月に引退するまでよく粘らせたなと思う。
あとゴハチの引く旧客も楽しめた。 はやたま号の寝台車は全般検査を受けているにも関わらず、車体側面の鋼板は傷み、
ボコボコで波打ったりしていたが、夜行普通列車の寝台車連結中止される日も近いとあってか、
当時の国鉄、高砂工場や鷹取工場などでは、老朽寝台車の車体補修までは行わなかったのだろう 203
通行人は負傷ではなくて、トラックの向こう側を歩いてたので、即死しました。
事故直後の生々しい様子をいまだにハッキリと憶えています。
亡くなったのが、同級生のお母さんだったので、余計に忘れません・・・ 昭和61年9月末に淀川電車区からオレンジ色103系非冷房車6連1本が日根野区に
転属してきて阪和線で運用開始したとき、オレンジ色の旧国が活躍していた頃を
彷彿させた。
この編成は翌年にスカイブルーに塗り替えられて、冷房改造された >>207 正にあの時は感動した。ブルーの103を全部オレンジに塗り替えるのか
とワクワク期待したがはずれた、ブルーの褪せた色ばかりの編成に見慣れていた
ので同じ103系だけれども乗ったらまるで新車のように思った。 208
俺はその逆だった
阪和線の電車は青い電車というイメージが定着していたのに、オレンジ色の
103系が阪和線走ってるの見た時は違和感を感じたりもした。
11月ダイヤ改正ではウグイス色やオレンジとスカイブルーの混色編成も多数出現して、それらの編成見た時はなんだかすっきりしなかった 日本以上に女性の社会進出が進んでいる国はいくらでもある、というか日本が一歩出遅れてるのに
少子化が進んでいるのは>>155-156 >>158みたいな時代錯誤の老害が国のシステムを破壊してしまって、いまだにのさばってるから日本は国際社会から野蛮な国と思われて国力も落ちてるんだよねぇw
きっと女系天皇反対!夫婦別姓反対と叫んでる日本会議の馬鹿どもはこんなんばっかだろうなw
早く死ねばいいのにw 日本人の成人男性は
180で上位7%、178で上位14%、175で上位30%、
172で上位50%、170で上位37%、169で上位70%、
165で上位89%、165で上位90%、163で上位95%、
159で上位99%。
よって、下位10%の165以下を
クソチビ
という。
まともな女性ならクソチビなんぞ付き合うどころか、周りに近づかせたくないと思うよね。
さらに気持ち悪いハゲなんて言ったら、あんたなんで生きてんの?ってレベル 阪和線って首都圏の電車区間で見かけるよう横長タイプなのか
ほかの路線と同じ縦長なのかどっちだったんだろ クモハ103-26
昭和52年4月に浦和電車区から鳳電車区に転属してきて以来、冷房化される事も無く、
非冷房でほぼ原型を保ったまま阪和線で民営化後も運用されていたが、運用離脱後、
モハ102-111+オレンジ色のサハ103-779+クハ103-536の4両編成で日根野電車区の
片隅に長期留置されていたが、平成5年3月31日付けでモハ102-111と共に廃車。
クハ103-536も車体は色褪せて、ボロボロになっていたがしばらく材料線に留置されたまま、
平成7年9月11日で廃車。
このクハ103-536は廃車前、日根野電車区検修庫の台検線から165系に連結されて、
引き出されていたが、廃車前でも台車だけは検査されていたようだ。 >>201
当時、小学生だった為か、その事故は記憶にないな。もちろん、その当時から鉄ヲタやったけど。
でも381系は新製1年程度でえらい災難やな・・・。踏切警手て・・・あの頃はまだ有人やってんな!
因みにその2年後くらいに津久野の団地で起きたガス爆発事故は何故か良く憶えてる。
小学生の頃に「働くおじさん」って番組があってな…その関係か、我々のクラスも社会学習の一環で
鳳駅の指令室?みたいなところまで見学に行ったわ・・・あれはポイントを切り替える施設やったんかな。
時期は昭和51年頃やったか。でも小学生低学年にあんなモノを見せても誰も理解せんわなw >>214
昭和60年頃からしばらくの間、日根野に居たサハ103-26のモケットが試験的に明るい緑色に
変更されていてめちゃ目立ってたわ。サハ103-26でググったら、当時のモケットの画像が転がってた。 京阪神緩行線に201系や205系、207系の投入で捻出された冷房、非冷房の103系が
明石電車区や高槻電車区から奈良電車区や淀川電車区、日根野電車区に転出し、
車齢の高い103系や老朽車、非冷房車は一部廃車、非冷房の103系が置き換えられ、
その置き換えで捻出された奈良電車区や淀川電車区の非冷房103系がウグイス色や
オレンジ色のまま阪和線に転出という転属形態は、民営化後も続いていたが、
国鉄時代から阪和線がいかに冷遇されていたかということがわかる。 >>186
>>187
南海7000系は住友ミンデン台車(東武8000系とほぼ同じ)、6000系はパイオニア台車。
ちなみに南海7000系の台車と103の動力台車の軸距は同じ(車輪径は違う)だけど、乗り心地は雲泥の差だった。
103はコイルバネなのが災いしたんだな。
103初期型の座席は当時の首都圏のラッシュに対応した設計なんだろう。
103が出た頃に作っていた関東の車両はそういう設計のものが散見された。
>>199
南海6000系は全車東京工場製、大阪工場で製造されたのは7100系と22000系の一部。 阪和線に新快速が走っていた頃、久米田駅前にあったダイエーのゲームコーナーには、113系新快速のクハ111を模した100円入れたら動く子供向け遊具があった。
新快速のヘッドマークも表現されていて、リアルだった。 >>217
国鉄時代は確かに阪和線用として
103や113の直接新造投入は限られたが
関西線用も113しかなく
JR発足直後は他線区を差し置いて
いきなり205-1000が手当され
その次の221や207はご縁がなかったが
221は東海道山陽線と関西線用に続き
阪和線用と福知山線用も当初の新造構想に
まさか10年後
共に既存車の広域運用で実現するとは
223-0の68両で
日根野以北中心ながら一般輸送は随分挽回
しかも関空快速形という阪和線特化仕様
前述の221広域運用と併せて
快速系統の車両更新は一挙に進み
113体質改善車転入後の活躍も限られ
一方まだ通勤形は103老朽車も多く
さらに223-2500-3次車以降から
225-5000-5100にかけて
数十両単位の増備が続き
かつての他区からの転用中古車ばかり
という印象を名実ともに払拭 >>216
吹田工場施工の103特別保全工事で
2両だけアコモ試験車が設定された
うちの1両 >>212
阪和線沿線には下位10%が多いと思うwましてハゲとなると下位1%あたりかなw 国鉄時代はC電は当初の計画では103ではなく幻の105(今の105とは別)の予定だつたらしいが、実現していたら同じ色の阪和線も幻の105だった? >>208
民営化初期にアーバンネットワーク内の4ドア車の色をラインカラーに合わせた色に変更する案があった。
例えば東海道山陽緩行が青(207系と同系統)、大阪環状線が赤、大和路線が緑、阪和線がオレンジなど。 https://mobile.twitter.com/oer2000
>>225
仮称105が具現化し
東海道山陽緩行線に続き
阪和線投入が決まったとて
その所要は快速運用中心だった
史実のオト103新造分6連4本のみ
快速用としては
むしろ113のような近郊形を欲しており
103検討段階で阪和線各停の適度が高いと
言われていたことから
オトやヒネの通勤形としては
仮称105でなくやはり
史実通り103で正解だったと
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) もし国鉄のままだったら、あるいは民営化後も全国組織のままだったら今頃は205関東車・211関東車の独擅場だっただろうな
関西線も201関東車と211関東車 >>229
何度も既出だが
201は投入適正運用の制約が大きく
首都圏大阪圏ともに線区と用途が限定され
山手線すら主回路熱容量が危ぶまれ
そのままでは国鉄本社も一応検討した
大阪環状線への新造投入もままならず
山手線用201検討では
203ベースの新区分番代が想定された
大阪環状線や大和路線への転用が
叶ったのは西が深夜試運転の結果を受けて
体質改善と共に低コストだ改修できたため
つまり国鉄が継続していたタラレバなら
201の都市圏を跨いだ転用は不可能
また205は大鉄局が国鉄末期に
103置き換え分の新造を企画しており
捻出103冷房車のヒネ中心の転用を想定
そして
続きはモリ投入だった可能性が高く
天鉄局はナラ用211を
大鉄のホシ用211と共に企画していたが
史実のヒネ205-1000は
新会社準備室での企画のため発想になく
一方で当時の首都圏は
ヤテ向け205増備の最盛期だったため
まだまだ101が大量に残存しており
103冷房車すら貴重という状況で
国鉄継続だった場合は首都圏と大阪圏で
むしろ格差が小さかった可能性が高く
103のATC高運Tcは大阪圏転用があるも
こちらは片福連絡線の開業もあり
結果的に新形車は必須で
201が全車首都圏へ回った公算すら
また205の都市圏横断転用も少なく
組成変更用にTcやTなど小規模 >>154
もし分割民営化じゃなかったら2000年代に103ATC車が関西に転用されてボロクハ置き換えてたかも 103系の先頭車、クハ103、クモハ103も車両番号が近くても、国鉄時代の車両転配で、ほうぼうの電車区の配置になったな
クハ103-820、821、822、824 JR東日本 京葉電車区
クハ103-823、825、827 JR西日本 日根野電車区
クハ103-826、828 JR東日本 習志野電車区
クハ103-829、830 JR西日本 日根野電車区
クモハ103-127 JR西日本 日根野電車区
クモハ103-128 JR東日本 宮城野電車区
クハ103-535、536 JR西日本 日根野電車区
クハ103-537 JR東日本 宮城野電車区 など
阪和に限ったことではないが、なぜ関西の103は低運が多かったのか?
まさか、大鉄と天鉄は高運を好まなかったとかか? >>233
ATC準備工事で、高運を首都圏に入れたから余剰車の低運が関西に来た。 山手京浜横浜に300両以上のATC対応先頭車が必要だったから、中古車が流れてきたのも仕方ないわな >>195
元々国鉄型は「質より量」だったから同時期の私鉄車両(特に関西私鉄)に比べると見劣りしてしまうのは確かだが。
>>196
「南海山手線」だったら車体寸法が長さ20m・幅2.8mで東芝の主制御と東洋のモーターそして駆動装置を採用した南海車だったかも。 113系は国鉄時代にも民営化後も網干電車区や静岡運転所などから日根野電車区に
湘南色のままで転属してくることがあったが、湘南色の113系は東海道線や山陽線、
湖西線などでも走っていて見慣れており、また湘南色はごくありふれていて、
湘南色113系が阪和線・紀勢線を走っているのを見てもさほど違和感は感じなかった。 クハ103-823〜などの先頭車が高運転台車の編成は運用で東岸和田発着や鳳発着の普通電車、
朝夕のラッシュ時の快速や区間快速、夜間の日根野行きなどの運用に入っていた。 クモハ103-2500も国鉄時代だったら登場せず関東車が絡んだ大規模組み替えが行われていた? 振り子電車特急で素早く南紀白浜へ旅行できるんだね。楽しみ。 昭和60年8月の夕刻、天王寺から和泉府中まで日根野行き「ホームライナーいずみ」に
乗車したが、その時の車両は381系ではなく、485系8両編成だった。
485系「くろしお17号」、または臨時「くろしお」が天王寺到着後、折り返し「ホームライナーいずみ」に
なっていたか、日根野から485系が天王寺まで送り込み回送されて、「ホームライナーいずみ」として
運用されていたのだろうか。
もう1本の日根野行き「ホームライナーいずみ」は381系で運転されていた。 85年(昭和60)というと、60・3改正で優等列車の「くろしお」一本化による「きのくに」の全廃、
充当用に485系の配置。ライバル南海も創業100周年。四国連絡用に「サザン」新製。国鉄の動向に合わせて
キハ5501「きのくに」廃止。。大阪南部の電車の顔ぶれに一つの変化があった年。 特急「くろしお」や223系、225系は阪和線内ではトイレ使用可能だが、
日根野電車区所属の113系の先頭車、クハ111のトイレのドアには、「使用禁止 除く 和歌山〜新宮間」と
書かれたステッカーが貼ってあったが、阪和線内では113系のトイレが使用禁止になっていたのは、
そのクハ111のトイレが垂れ流し式だったのか、タンクが設置されていても阪和線沿線民に配慮していたのだろうか。 その頃は垂れ流し便所
使用禁止区間が都市部の各線にあった >>1
ちょっと仕事遅くなれば大和路ホームに入ってくる23時過ぎの新宮行き乗って帰ってたがあれどこから来てたんやろか京都発か? 紀伊田辺〜新宮間で運用されていた非冷房113系4両編成の紀勢本線への送り込みは、
日根野発紀伊田辺行きから始まって、夜間の周参見発和歌山行きで和歌山到着後、
和歌山発日根野行き最終で日根野電車区に戻ってきていたようだ。 >>250
>>249
おお!ご丁寧にd
ああ言うのは日根野から新大阪までの入線は回送なんですか?それか新宮〜新大阪も 1日一本あったとか? >>251
新大阪22時40分発新宮行き(別命磯釣り)は日根野から吹田信号所まで回送
折り返して新大阪から客扱い開始
なお、天王寺行きは国鉄末期に廃止になってる 竜華機関区のEF58の運用は、3両が使用されて、そのうち2両は紀伊田辺と新宮に常駐し、
新宮夜行牽引機が竜華機関区を出区し、新宮夜行牽引で翌朝新宮到着後、客車は新宮に
常駐している別のEF58に牽引されて和歌山行きの普通列車として運用、新宮夜行を牽引してきた
EF58は翌朝まで新宮で常駐、和歌山に到着した客車は折り返し新宮行きとなり、牽引機のEF58は
紀伊田辺で常駐のEF58と交換されて、紀伊田辺で常駐となり、交換されたEF58が新宮到着後、
天王寺行き夜行を牽引して天王寺到着後、竜華機関区に戻るという運用だったようだ >255
夜間には紀伊田辺発串本行きで串本到着後、串本駅で夜間留置される113系もあった。
同じく新宮発串本行き最終で串本到着後、串本駅で夜間留置される113系もあり、
また485系特急「くろしお」の間合い運用による新宮〜串本間の普通列車も運転されていて、485系も串本駅で夜間滞泊する運用もあった。 >>220
尼崎事故が無かったら321が環状・大和路・阪和にも投入されていたかも
そしてJR型統一ももっと早かっただろう >>257
その場合、4ドア車を3ドア車で置き換えるということもなかった。
それどころか大和路快速にも4ドア転クロ(名鉄で実績あり)が投入されて、
221はきのくに線あたりに転用されてたかもしれない。 >257
321系が環状、大和路、阪和線に投入されていたら、側面の帯の色は阪和線用は
スカイブルー、環状線用はオレンジ、大和路線用はウグイスとなっていただろう JR化後のタラレバはスレ違いだが
321の原形となるD207の企画段階で
関空快速用を除き
ヒネとモリとナラの一般形を
D207にて集約する大胆な案はあったが
無線WAN構想を含め時期尚早と
尼崎事故直前にはホシ321量産に続き
将来のモリ投入が検討された程度で
この段階だと
北陸線金沢地区や山陽線広島地区を含め
管内の老朽国鉄形全廃に向け
やっと長期目標が打ち立てられ
中期計画に盛り込まれた状況で
まだD223が140km/h新快速特化形として
玉突き転配もそれが前提で
種々検討され具体は固まっておらず
103や113の体質改善車も活用の方針
一気に置き換えの目処が立ったのは
やはり尼崎事故により安全性向上が謳われ
321ベースで225が再企画されてから
史実から
仮に尼崎事故がなかったとして
モリにおける323の103置き換え本数分や
ヒネにおける225-5100-6連の投入分は
321がそれぞれ
現状より後回しながら投入されたのだろう
事故前は広域運用拡大方針だったため
路線別の車両塗装は
関空快速形を除き前提としてなく 私が小学1年生。
今から約35年前、堺市駅〜三国ヶ丘駅間で友達と保線用階段を下って線路に侵入。
側溝でザリガニ採りをしていたところ、走行中の運転手に見つかり急停車。
慌てて逃げました。
阪和線を止めてしまいました。
ごめんなさい。 上野芝駅が今の通過線を備えた形になったのは昭和57年頃だけど
それ以前、和歌山方面のホームは1面2線だったのでは?と思うような痕跡があった。
あと、昭和53年頃だけど上野芝駅の駅前にランボルギーニ・カウンタックを展示していた店舗があった。
ついでに今、上野芝駅の横を泉北1号線がアンダークロスしているけど、その道路を建設していた頃が
記憶にあるわ。あれは昭和51年頃か。 天王寺駅阪和ホームのウドン屋だけど、昔は練炭っぽい匂いがプンプンしていたと記憶している。
南田辺駅の手前に赤い文字で「ほねつぎ」と書かれた看板があって、子供の頃はこの看板を見て
「うわー!痛そう」と恐怖を覚えた。この看板は近年まであったけど、もう今はない。 ややスレチだが、昭和55年頃、津久野駅のロータリーに「レッドバルーン」という名前の
ファストフードのハンバーガー屋があった。内容はマクドと遜色がなかったと記憶している。
この店は早い段階で閉店した。他、おもちゃの「オクノ」が懐かしい。
※天牛堺書店の津久野店は今年のお盆頃に閉店した。老舗の「ヤマタケ」のコロッケは健在!
子供の頃はこの店でハムフライや玉子フライを良く買い食いしてた。 >264
津久野駅の近所の阪和線線路沿いの坂の所に「阪和線」というパチンコ屋もあったな 東羽衣にクモハ123が入る前は何が走っていましたか。 >267
非冷房のクモハ103+モハ102+クハ103の3両編成が運用されていた >>264
津久野駅がここまでしいたげられてるとイトーヨーカドーも総合医療センターもみんな車かチャリか救急車霊柩車だなw >>262
1980年昭和55年既に今のになってたなw
1980年昭和55年と言えば丁度高校入学高校が津久野駅近くと言うか厳密には、近くはないが南海バスで行ける高校だがこの駅を使うことが多かったが当時既に朝ラッシュのみ上野芝で通過待ちした。
1980年朝ラッシュのみだからなんとも思わなかったが今2018平成30年の様に年がら年中上野芝駅で長時間通過待ちと夢にもいや悪夢にも思わなかった(>_<) 上野芝駅が相対式ホームだった頃、上野芝駅で終焉間近の70系を見た記憶がある。
その頃には381系の試運転列車やキハ81先頭の「くろしお」も見かけたし、
鳳電車区にはオレンジ色の旧国や関西線用のウグイス色101系も留置されていた。 >>262 >>270
ウィキで文献があった。
1944年(昭和19年)5月1日 - 南海山手線が国有化され、鉄道省(国鉄)阪和線の駅となる[1]。
年月日不明 - 島式・相対式2面3線のホームを持つ地上駅となる。これによって下り東和歌山方面行きが待避可能となる。
1967年(昭和42年)頃 - 普通列車の6両編成化に伴い下りの待避線を廃止しホーム長を延長した。その結果、2面2線ホームの地上駅となる。なお上り線はホーム長を延長したのみ。
1980年(昭和55年)10月1日 - 新幹線型待避構造の2面2線と通過線2線をもつ橋上駅となる。
昭和42年頃までは下り線のみ待避可能な構造。
昭和55年10月1日以前は待避不可能、単なる相対式2面2線の駅だったのかな。 >>271
普段は汚れて走っていたキハ81のブルドッグだけど、引退直前は洗車したのか?
綺麗にピカピカになってた。当時、俺が通っていた小学校のクラスで「にわか鉄ヲタ」が大増殖。
ピカピカになったブルドッグが話題になってた。※当時、小学5年。
その「にわか鉄ヲタ」の多くはスーパーカーブームからの転向組で、もう中学に入れば鉄ヲタを引退してたな。 >273
キハ81は使いづらさやキハ82とは定員が異なるなどの理由から、「くろしお」でも
昭和51年頃から順次キハ82に置き換えられ、車体の傷みが目立つなどしてきて、
状態の悪かった1、2、4、6は先に廃車となり、比較的状態の良かった3と5だけが
天王寺方先頭車を努めていたな。 >>272
空中写真みたら、旧島式ホームの南端の、外側線(曲線側)の本線合流をふさぐようにホームが延長されてる。 阪和線の懐かし風景というと、、堺市のあたりに中川ムセンの看板。
和泉府中あたりの毎日牛乳の張りぼて、これは今でも目にするがガキの頃から印象深いな。
水間鉄道交差部では赤とクリーム時代の1201系と出くわすか注視してた。
和泉鳥取〜山中渓付近で並行する府道に点在してた南海バスの停留所。
大阪南海バスの最南端路線だったな。 >276
長居の所の阪和線線路沿いの地下鉄御堂筋線の保守基地。
かつては大阪市バス長居車庫だったな >>276
昭和59年か60年頃以降、杉本町の駅のすぐ近くの看板に黒いスプレーで「ちくび」と落書きされてた。
そして、その看板と落書きは平成に入ってからでも残ってた。看板の管理者は消すのがめんどくさかったのかなw
南海平野線と近鉄南大阪線(地上時代)との交差部を通る時は、いつも視界にそれらの線路を通る電車が視界に入ってた。
子供の頃から鉄ヲタだったので、いつも興味津々で眺めてた。
天王寺に着く時も決まって関西線や環状線の電車が視界に入ってな、いつもワクワクしてた。
ま、長距離列車の宝庫、大阪駅や向日町運転所の脇を通過する時の方がもっとワクワクしたけどな。 >>277
子供の頃、その施設に線路が敷かれていて保線用の車両が停まってたので阪和線関連のものだと思ってた。
それが地下鉄関連のものであると知ったのは高校に入ってから。
子供の頃は阪和線の線路とつながっていないのでおかしぃなぁと思ってた。
因みに、俺、そこの近くの男子校に通ってた。今は共学だけど。
あの頃は子供の数が多かったので(昭和41年生まれは除く)、土曜の昼の電車は6両の各停でも満員だった。
俺は鶴ケ丘や長居から乗ってたけど、すでに興国や此花、清風、四天王寺、明浄の生徒が乗ってたし、
鶴ケ丘や長居で我々、そして杉本町で浪速、浅香で愛泉、堺市では快速からの乗り換え組、
三国ヶ丘では住学や他の公立が乗ってきたりして車内ががやがやしてた。 >>280
そう。他の学校の奴は、みんなそのように言ってたなw。初めて聞いたときは、その名称に驚いた。
今は共学で校名も変わり、中学まで併設されたりして当時の雰囲気はないかな。
制服も学校指定で昔のような黒の一般的な学ランでもないし。
他の私学も今は共学のところが増えてるし、大きくイメチェンした。 一番イメチェンしたのは阪和線だがなw小学生の頃の阪和線は新快速快速除いて100%区間快速始め吊り掛け駆動ばかりマジ電車の墓場言われてたんだがまさか225系オール転換クロスシートばかり南◯山のにわか成金並みの激変だろうなw
せっかく車両はこれだけ充実してるのにうざろんぐに天国みたいな阪和線なのに8分とかアホみたいに上野芝長時間通過待ちのせいでイトーヨーカドー津久野店堺市総合医療センターのそのどちらとも客も患者家族も阪和線スルーしみんな車
こういうの宝の持ち腐れ勿体ない言うか阪和線言うか脳みそハゲてるわ線だなw >281
1980年代後半〜90年代の阪和線車内では、四天王寺高校と大阪女子商業高校(現:あべの翔学高校)の制服姿の女の子が一番ムラムラさせてくれたよな
下校時に美章園から乗車してきた大阪女子商業高校の制服姿の女の子たちは、
そのほとんどが三国ヶ丘駅で下車して南海高野線に乗りかえたりしてたな >>281
1988年昭和63年三国ヶ丘駅に区間快速止まるようになったまさにその年に団塊Jr.の知り合いの娘が富木駅から区間快速三国ヶ丘駅乗り換え堺東三国丘高校進学
lucky言うかめちゃluckyと言ってた団塊Jr.だけに受験競争はめちゃ熾烈であり第1志望の国公立大学医学部は不合格だが私立大学医学部に女だが現役合格だから三国ヶ丘駅に区間快速電車止まるようになったことが彼女の医学部合格→女医をpushしてくれたことは多分間違いない
医学部志望者には朝夕通学時間も惜しい 阪和線車内、もっと前(昭和50年代前半位?)だとタバコぷかぷかの高校生とかじゃなかったのw?
当時から利用してるがあまり見た記憶は無いけどね。。南海とかもそんな感じで知られてたw >286
高野線6000系や6100系などの中間車の運転室助士席部分もそうだな >>283
四天王寺は灰色の制服だったね。住学は水色、明浄はグレーのセーラー服だった。
>>284
津久野か・・・少子化と車社会化が著しいからね。今、津久野で降りてもロータリー以外は
商店よりも病院関連の薬局の方が多いくらい。あのミスタードーナツが今や薬局になってるし。
阪和線て公立高校の生徒が利用してたイメージが薄いな。伯太は和歌山方面になるし。
8学区は三国ヶ丘(地域ナンバー1)と泉陽(同2)以外は、泉北高速鉄道沿線の中途半端なところに点在してるからな。
美木多や上神谷、福泉、泉北、西高、堺東に行ってた同級生は阪和線沿線からチャリで通学してた。
俺が通ってた中学では東百舌鳥・上・鳳(地域ナンバー3)が近かったが、いずれも自身の学力不備で行けなかった。 >288
津久野といえば、駅のすぐ近所の線路沿いの高台にある神社か寺院かわからない
大きな家と、つい最近まで車窓から見えていた石津川すぐ近くの「霞ヶ丘マンション」と書かれた、鉄筋3〜4階建てくらいの古びたマンションも有名だったな。
このマンションは、今は建て替えられたか取り壊されたかして現存していないが。 >>288
それらの学校すべてブルマを採用していたんだよな。(多分) 290
1990年代の終わり頃まで四天王寺もみんなブルマ採用だったみたいだよ 阪和線美章園から長居あたりまでの区間は
最近(21世紀)にになってようやく高架化されたが
それまでは踏切も多くあり、交通渋滞の元凶になっていた。
今は移転しビル自体が取り壊されたシャープ本社の
すぐ側にあった南港通りの踏切は特にひどく
40年ぐらい前までは有人踏切で遮断機をタイミングよく
上げていたのだが国鉄の省力化により無人化され
朝などは開かずの踏切となっていた。
平野方面からバスでシャープに勤務する人や
地下鉄西田辺駅で乗り換える人が手前の山坂三丁目で降りて
歩道橋を渡っていたものだ。 >>295
あの踏切が一番エグかったよね。
あと地上に走っている最後の日に鶴ヶ丘駅南側の踏切できちょまんが遮断機くぐろうとして命落としたんですって?
あの踏切から少し西に行った所にあります札幌ラーメン『ほんば』よく食べに行ったな(遠い目)
まだ在るのかな?
大将は愛知県の出身の人でした。 >>295
>40年ぐらい前までは有人踏切
40年ぐらい前まで言えばまさにあそこで区間快速が吊り掛け爆走していたなあ。あそこがそういう場所と後から知ったがあそこでひかれたらひとたまりもないし不謹慎ながら区間快速吊り掛けモーター70系ならどんな音立てたんだろうと思う >>110
方向幕が今の黒地になる前の列車種別の色は
快速…赤
区間快速…黄緑
B快速…青
普通…種別表示なし 紀州路快速、和歌山口で4両編成の3扉クロス225系が六十谷や紀伊にちょこまかと停車していく様子は、
心なしかかつての70系区間快速を彷彿とさせる、、わけでもないか。。。w 非冷房の話し有ったけど、平成に入っても冷房3+非冷房3の6連が有ったような。
極端な弱冷房車の走りじゃないかな。 杉本町から上野芝の間に退避駅が無いのがダイヤ作成上のネックになってる
上野芝の長時間退避もそれが原因
堺市が退避駅になれば緩急接続もできてダイヤも組みやすくなるけど無理かな >>304
あった。
どっちが天王寺側に付くか、規則性があるのか観察したが結局分からず仕舞いだった 編成中に冷房車がある確率を100%にするよう組成を変えたらしい >>307
平成2年夏に奈良区から103系非冷房車6連が日根野区にウグイス色のまま転入し、
その後スカイブルーに塗り替えられたが、この編成は分割されて冷房車3両と連結されたりしていたが、
平成4年に淀川区から冷房車4両が日根野区に転入して、この編成の非冷房中間車の4連と置き換えられ、
非冷房中間車は廃車となった。
非冷房で残ったこの編成の先頭車、クハ103-164、クハ103-165もその後、冷房車に改造され、冷房車確率は
高くなった 100%南海の方は本線高野線は支線除き100%昭和の終わり冷房化されてたから今とは逆でやはり冷遇されていたんだな
昭和の終わりごろ言うよりもむしろ昭和50年代のテレビドラマを見るとやたら、103系山手線の中間車は非冷房で先頭車ATC車だけ冷房車の山手線が出てくるがJRになり平成になりライバルの南海が100%支線を除いて冷房化された後でも阪和線でザ昭和編成健在なのは興味深い クーラー取り付けも大事だが南海は車内の清掃は行き届いていたぞ
国鉄はまったくできてなかった 駅員、乗務員、全部ダメ。
南海もお世辞にもサービスが良いとは言わないがまだ客商売やってる自覚は末端の社員まで持てていた
国鉄が殿様商売と叩かれるのは理由のあることなんだよ 南海7000と阪和103が現役だった時に両者の乗り比べをしてみたが、かなり雲泥の差だった
もはや国鉄型は関西人には評判がすこぶる悪かったと
関西が「私鉄王国」と呼ばれていた理由が分かったような気がする
でも、南海7000は性能的には113相当だからなぁ…
103は低速型だし
でも、まさか乗り比べをした数年後に両者ともいなくなるとは… なに言ってんの?103系と113系を足して、南海7000系はそれ以上だよ。失礼だな。 阪和線の豪快な走りっぷりは関東のボクに言わせると横須賀線を追い抜く京浜急行の快特を彷彿とさせるが、ここの大阪のお友達はどう思うかね?特に昔の唸りを挙げて走る113系だったから印象的だった。あれが103系だったら、それって常磐線北千住ー松戸ー柏じゃん。低運だし。 阪和の103といえば一時期天王寺から紀伊田辺まで直通する快速があったね。
あれは快挙だった。 >>318
夜間には御坊・五条行の8両編成の103系の快速も設定されていたこともあった。
和歌山で切り離されていたな >>318
直通でいうと、阪和ユーザーは何とも思ってないが
紀勢線ユーザーは大阪から来た電車の大半が和歌山で止まってしまうことに精神的障壁を感じてる
田辺御坊有田海南と大阪を途中乗り替えなしで行き来できる電車はとても大切な存在
今は特急しかなくなってしまったのがさびしい >>318
直通でいうと、阪和ユーザーは何とも思ってないが
カレー事件林真須美最寄り駅の六十谷に快速が止まるようになりおかしくなった
もちろんあのカレー事件と快速の停車はまぁあれだ、一見関係ないようであるが
カレー事件で六十谷の林真須美宅野次馬
?が急増してから六十谷快速停車なので
あのカレー事件のせいで世間一般和歌山≒毒入りカレー事件イメージなったので和歌山駅以南どーでもいいのがさびしい 和歌山毒物カレー事件(わかやまどくぶつカレーじけん)とは、1998年7月25日夕方に和歌山県和歌山市園部で発生した毒物混入・大量殺傷事件である。
1999年(平成11年)5月10日:ダイヤ改正により次のように変更
紀州路快速が運転開始。
三国ケ丘駅・紀伊駅・六十谷駅が快速列車の停車駅になる。
関空特快「ウイング」が廃止。
本当か解らんが時系列的には合ってる 名前が同じだけで鉄道とは何のつながりもないが
むかし大阪と和歌山に阪和銀行という銀行があって、
ここが潰れたときに幹部役員が資産を隠したとかでお縄になるなどとんでもない会社だったが
このスレ見ていて、ふと、思い出した 屋号に阪和を名乗ったのは末期だけ
元々は興紀相互銀行だった
阪和線にはまったく関係ないw ウィキには荷物車連結当時の急行「きのくに」の写真があった >>327
その荷物車には、和歌山県紀南・紀中方面に配達される大阪本社発行の各新聞社の新聞や
小荷物などが積まれていたようだ 夜に天王寺から御坊や紀伊田辺行きの快速もあった(和歌山線五条行きと併結)
和歌山で切り離していた 特急も急行も和歌山以遠走るのは線内通過ばかり
ちゃんと停車する南海と逆で嫌がらせと思った >>330
今年3月14日の改正で「くろしお」が全て日根野停車となり
そういうのが全て姿を消すという >>330
特急も急行もどころか普通はやたまさえ旧型客車さえそうなのは度肝抜かれたな
JRになってただの快速電車になったが165系だからこれはこれで無理あったが 朝に紀伊田辺or御坊発の天王寺行き快速もあったな
和歌山で五条発と併結して >>255
http://blog.livedoor.jp/tc381_124/archives/1044714469.html
ここにある日根野発新宮行き(2701H+2332M)と
新宮発日根野行き{2355M(+2702H?)}は関係ありますかね?
全く別のスジ? デッキ付き電機機関車が走ってると聞いて見に行った
あれは何型だったんだろう
かっこよかった >>340
阪和線・紀勢本線の貨物列車廃止まで走っていた色がマルーンのデッキ付きの
その電気機関車は、EF15型
ヘッドライトがシールドビーム2灯になっているのも、竜華機関区所属の電気機関車の特徴だった >>341
そうそう!阪急色やったw
EF15 やったんや
ありがとーーー
ホンマにかっこ良かった! 国鉄時代やったら旅客列車はEF52+スヌ31、貨物列車はED60の重連で決まりやね ED60の運用は竜華〜杉本町〜阪和線〜和歌山操までで、紀勢本線に乗り入れて新宮までの
運用は無かったな 横から別人が申し訳ないけど何が駄目なのか全くわからない
きちんと書いてくれ EF52が生きていた時代に新宮電化時代の話を繋げようとする脳味噌、
スレタイすら理解出来ない脳味噌、人それぞれやねぇ 阪和線といえばEF58が旧客を牽引していた「南紀」や「はやたま」では? >>349
EF58牽引による12系客車の臨時急行「きのくに」もあった。
それだとか、EF15+EF58の重連による貨物列車や、竜華〜和歌山操間の
電気機関車の重連回送や単機回送も見られた EF58牽引による12系客車の臨時快速「いそつり」もあった 12系客車による臨時快速「いそつり」は昭和62年年末〜63年年始にかけて、新宮→天王寺間で日中に運転され、阪和線内は無停車だったが、和泉砂川で阪和線快速待避のためドアは開けずに停車、DD51が牽引していた。 本当はいそづりなんだが濁音が嫌われていそつりになった
少し言い難い 阪和線沿線民なら昭和の頃、小学校の修学旅行は「お伊勢さん」だったという方は多かったに違いない。
利用した交通機関は、基本、近鉄派(あおぞら)と国鉄派に分かれ、おじさんは国鉄派だった。
あれは昭和55年の5月頃か…早朝、津久野駅に集合し、わくわくしながら急行型のキハ58や65で組まれた臨時列車に乗り込んだ。
おじさんのクラスは新しいキハ65で感激、隣のクラスは座席がくたびれたキハ58だったので
運がよかったのかも知れない。
隣の上野芝駅では他校の生徒が乗車、杉本町から阪和貨物線・関西線亀山経由で一路、伊勢市駅へ。
途中、関西線のどの駅か憶えていないが、行き違いで停車、その駅のめちゃめちゃめちゃ古い木造の駅舎に感激した。
おじさんは当時から鉄ヲタだったが、何処の駅で運転停車したかは憶えていない。
多くの駅を通過し、関西線の電化区間はそこそこ飛ばしていたと記憶している。
因みに復路は鳥羽駅から乗車、同じ編成だった。 おじさんが初めて新宮夜行に乗ったのは1984年…昭和59年の春、この頃、もう既に寝台車が外され単なる924レだった。
列車は23時丁度に天王寺駅9番線から発車、客車は12系、機関車はEF58だった。
和歌山までノンストップが特色で、車窓に釘付けになって通過する駅を眺めた。
345Mみたいに混雑する事はなく、ボックス辺り2人、多くて3人程度だったか、
田辺か白浜を過ぎるとボックス辺り2人程度、ひじ掛けを枕にして寝たと記憶している。
因みに当時の乗車位置は今でも9番線に薄く残っている。 皆さん昔の阪和線のサービスが悪いと書いてますが 自分も子供の頃同感で
かといって 南海の駅まで出れる場所じゃなかったので
阪和社形が発展していたら どんな素敵な車が走っていたろう と空想にふけっていた >>360
修学旅行の地引き網体験での女子の服装は体操服+ブルマだべ? >>362
快速と各停は昭和61年頃までは6両で、昼間の天王寺から鳳の快速は区快を含めて毎時4本、普通は同6本。
これを見るとサービスが悪いと感じるのは今の快速停車駅の住民のみ。
それに、あの頃は「はるか」がなく線路容量が余裕のよっちゃんだったので今よりも活き活き走ってた。 >>365
昭和61年11月改正までは、天王寺〜和歌山間の普通電車は1日2本しか運転されていなくて、鳳以南各停となる区間快速が運転されていたな あああサービスがわるいとは朱色の埃っぽい旧国や態度の悪い職員を言いたかったので
所要時間や本数わ特に不満なかったです 70系もいまはいい思い出です
南武線も客多いのに72系だったので 売春されるとこうなっちゃうんでしょうね >>365
貨物列車が旅客列車の増発を阻んでいたことも
あるかもしれないけど >>365
それもあっただろうし、竜華機関区から東岸和田や長滝、和歌山操までの電気機関車の
重連回送や単機回送などの関係もあったのでは その頃は貨物列車は最末期でコンテナ列車が数本
和歌山操駅の廃止は昭和61年
よって旅客列車への影響は僅少 >>336
阪和線は通勤路線なのに各停も全て転換クロスの豪華仕様。
それに引き分け、紀勢本線や和歌山線の227系はオールロング。 >>372
間違えた。
引き分けではなく引き換えだ。 >>372
>>373
国鉄時代から阪和線は103系を使うような路線ではなく、103系は阪和線に
不適当だという声が上がっていた。
「関空・紀州路快速」の運用に入らない6両編成の225系5100番台は
ロングシートでもよかったのではないか >>374
> >>372
> >>373
> 国鉄時代から阪和線は103系を使うような路線ではなく、103系は阪和線に
> 不適当だという声が上がっていた。
> 「関空・紀州路快速」の運用に入らない6両編成の225系5100番台は
> ロングシートでもよかったのではないか
どーせ上野芝駅でそれこそアホみたいにボケ〜と長時間停車しているだけなので6両編成の225系5100番台でいいと思う
ただし鳳〜東羽衣間の通称羽衣線にまで4両編成と言え225系5100番台言うのはまぁあれだ、正直言ってやり過ぎと思う
2021年令和3年きのくに線の普通電車がall227系電車になったらもうその時点で227系共通運用にするのが賢明だと思う
いくらコロナ禍だとは言え関空・紀州路快速がボロい電車なのにあんなは流石に言い過ぎだがあんな線言うかあんな区間
?に4両編成と言え贅沢すぎるな(苦笑) 朝の阪和間通しの103系快速で毎日通学してました
一生懸命走ってました >>376
昭和末期頃の103系は冷房と非冷房が混在してたな。非冷房なら妻面の窓も開け放たれていた。
平成に入ると完全に冷房化れたが、「冷風車」と呼ばれる全然涼しくない奴が存在してた。
103系の快速はラッシュ時以外は天王寺を出ると猛加速しながらポイントを渡るので車内が
大揺れしていた。今、もうそんな事はないのでそれも懐かしい思い出。
今の阪和は昔と比較すると多くの面でマイルドになってるわな。 でもそんなボロかった頃のほうがまだ、優等通過駅特にはっきり言って津久野は上野芝でアホみたいにボケ〜といわゆる長時間待避必要なんかなかったからな。
昔いいのかまだマシなのか知らんけど。
YouTubeで羽衣線に転換クロスなんて、Wi-Fi電車贅沢過ぎボロクソ言われるがsevereな言い方だけども今となっては、225系5100番台などという羽衣線には、はっきり言って分相応はっきり言って、アホが見栄張って三国丘とか泉陽とか、受けるようなアホきわまりない行為は、やめておけばよかったのにしかないな後3年ずれてコロナで関西空港駄目時点で103系電車置き換えがもしもあったら、225系5100番台なんか絶対投入されず、2両編成で小回りがきくそんな意味でも227系を素直に投入してたろうに(>_<)
過ぎたるは及ばざるが如しであり歴史にifはないがやはりそう思わざるえない。
TPOで227系を組み合わせるいうのが、Bestだったのはどう見ても間違いない。
(2連羽衣線、4連6連で区間快速各駅停車 南海が関西人に不評な関東仕様の内装の車両(8000系)を導入してしまったことによる救済措置として225-5100を導入したものだと思っているが 阪和線と聞いて思い出すのは
天王寺駅に特攻した103系
縁遠いから >>381
2度行止りに特攻しそのどちらにも乗ってた婆さん居たけど、運がいいのか悪いんだか 一時の天王寺駅のイメージが電車が衝突する駅だったw クモハ84は過酷運転で10年もちませんでしたが
たとえば羽衣支線のクモハ123とトレードしたら長持ちしただろか。 羽衣支線
乗ったのは、クモハ60001、旧型国電がなくなる一か月ほど前
オレンジの旧型に乗車できたのはこれだけでした
多くが天理に留置、乗りたかったですね
でも最末期でも、乗れただけよかった… 阪和線は青かったから、京浜東北線のお下がりって言っても違和感なさそうだと思ったがまさか本当に元京浜東北線車があったとは… 昭和47年から52年あたりまで 新快速、鳳停車45分、
快速、堺市・鳳・和泉府中・熊取・和泉砂川停車で53分 この頃が最速か。
キハ80系くろしおが無停車で45分、きのくには48分だからやっぱ電車は速いな。
ちなみにその頃南海は 特急が新今宮・堺・岸和田で54分、
急行が新今宮・堺・羽衣・泉大津・岸和田・貝塚・泉佐野・尾崎・みさき公園で64分だったと思う。
こっちもこのあたりが最速か。 >>390
当時の南海はまだ架線電圧600Vだったと思う… >>391
当時の南海は客車を牽引し、国鉄に直通していたね。 冷房化は新快速用に投入した113系3編成からスタートしたけど
その後の進展ってどんな感じだったかな。103系の冷房化なんて随分後のような記憶。 もしかしなくてもATC化が無ければ直接103の冷房車が新製配置されていた可能性は? 昔の京浜東北線の写真を見て「阪和線なのに、なぜ関東の行き先?」と思ったことがある
それも京阪神緩行線は偽物(元山手線車であるため)だったのに対し阪和線は本物(元京浜東北線車)だし 一時期103系のロングラン運行が有ったね。
天王寺発紀伊田辺行き快速なんてのもあった。
時を同じくして、京葉線でも東京発勝浦行き通勤快速があった。
103系自身もこんな長距離の運用につくとは思わなかっただろうな。 >>397
スレチかもしれないが103時代は勝浦まで行ってなかったみたいなんだが >>398
末期にはあったよ。ググれば記事や画像出ると思う。 >>390
当時は最高速度95km/hでしたか
それで45分は驚異的
最速時はくろしおで天王寺〜和歌山38分でしたね
南海は天下茶屋・泉佐野・尾崎・みさき公園・和歌山大学前の5駅追加停車で58分だから
こちらは最高速度向上(105→110km/h)効果があるようです 一時期、千ツヌに天オトからオレンジのモハ72や、その数年後113系の阪和色車がかなりの量転入してきた。
千ツヌの運用があった当時、成田線我孫子口でもその姿を見ることが出来た。 >>394
関西本線の湊町口を電化(1973年)するために、まとまったかずの113系の6両編成(クーラがないレッドライナー)が鳳電車区に入ってきたんだ。
それが阪和線用と共通に運用される状態が、紀勢本線の和歌山〜新宮が電化されるまで、つづいたんじゃなかったかな。
紀勢本線の電化開業のとき(1978年)に、まとまったかずのブルーライナーが入ってきたはずだよ。あたらしくつくった2000番台や、クーラがない6両編成・4両編成もあったね。
桜井線と和歌山線(王寺〜五条)を電化するとき(1980年)にレッドライナーが増やされて、あたらしくつくった2000番台や、クーラがない4両編成が入ってきてる。
この状態で、関西本線の車両基地として奈良電車区に分割されるまで、推移したはずだよ。 >>397 本線筋にマスカットの姫路〜三原とかもあったはず。岡山から姫路しか乗った事ないが、あれのフル区間は天王寺〜紀伊田辺に匹敵しそう。 >>387
初めて乗ったとき、オレンジのモハ72が新鮮だった。 >>404
自分も同じ感覚でした
ただ、70系+モハ72の編成では、70系に乗ってしまった
45年前でしょうか ホーム長が絶望的に短いという理由もあったんだろうが、紀勢本線直通は天王寺和歌山間
61.3kmをノンストップというのも不思議な感じだった。
コロナで客が減ってるとはいえ、今の快速の5+3などの最大8両編成もちょっと短いと思う。
おそらくだが、大昔から長い貨物が走ってた南海のほうが、線内優等10連にするときの
手間は低そう。実現はしないだろうけど。 天王寺和歌山間で最速38分の時代もあったのか
これがスタンダードになってたなら和歌山はもう少し発展してたかな >>406
まあ南海は泉北高速直通の準急で10両運転をやった実績があるからな。
南海本線での10両運転は泉佐野以南の凋落ぶりをみればもう実現しないんじゃないかなと思う。 >>407
それは和歌山市だけにもたらされる効果であって
和歌山県全体の発展にはならない
串本や新宮には… モヨとかモタとかの阪和電車の戦前のオリジナル形態は
なんで尾灯が左右対称についてないんだろう
デッサンが下手なひとが描いたみたい >>410
運転席側は標識灯
助士席側が尾灯
らしい。でもフツーなら位置くらいは合わせるよね。 和歌山まで標準38分なら勤務先が天王寺界隈なら十分通勤圏に入る >>412
ありがとうございます
阪和の顔つきで戦後も発展して近代的になった姿を空想してしまった むかしの『快速』
天王寺-鳳-和泉府中-熊取-和泉砂川-紀伊中ノ島-和歌山
むかしの『直行』
天王寺-堺市-鳳-和泉府中-(各駅)-和歌山 たまに乗ると隔世の感があるね。
モハ72にはよくお世話になったもんだけど。 南海の岸和田は特急停車駅やのに
阪和線は優等通過っておもしろいな
よっぽど人が浜側にしかおらんかったんか? 人里離れた山側を走ることで途中停車を極力少なくして阪和間を直結しようとしたのだから
むしろ今のように山側にも宅地が広がって途中停車のニーズが高まる方が不都合だね 東和歌山時代は阪和電鉄の名残で櫛型のホーム使ってたが、
昭和43年(’68年)に和歌山に改称されて駅ビルになっても、しばらく櫛型ホームが
阪和専用に残ってたな。あのホームから103系快速に乗った記憶がある。あやふやだけどw 1977年(昭和52年)
3月15日:熊取駅・和泉砂川駅が新快速の停車駅になる[37]。
3月27日:羽衣線の運用車両を旧型車両から103系に置き換え[84]。
4月14日:この日限りで旧形電車の運行を終了。最後まで残ったのは70系4両とモハ72の2両であった
1977年だからもう45年前になるか
45年前までそれこそ電車の墓場と言われていた阪和線が支線を含めこうなるとは誰が想像したろうか
1977年2022年同じカレンダーだけに >>416
確かに。ここまで変貌するとは思わなかった。 高速運転の多い宇野線のクモハ84と羽衣クモハ123をトレードしたら長持ちしたかも。 >>421
その、77年3月下旬に、新快速に熊取まで乗りました。
快速とあまり停車駅が変わらなくなったような…。
支線は、ギリギリで旧型電車に間に合いました。
73623-60001-79382の様でした。
本線は、76-72-72-70-70-76と、76-70-72-70-70-76の二本が、
ネガをスキャンしたらわかりました。
でも、複数の同行者は、キハ81-3と5が本命でしたね。
ネガの劣化が厳しいです。 関空に行ったとき、JRと南海が同じ線路を走っていることに改めて感激した。
成田空港はJRと京成が乗り入れているが単線並列。三線化したらどうかと妄想したものだ。 90年代まで山中渓と尾崎を結ぶ南海バス路線があってそこを走る府道が阪和線と隣接してて
南海の赤い円形のバス停が点在してるのが見えたな。大阪地区の最南端路線だったか? 岩出から和泉砂川を経て樽井に行くバスに乗ったが砂川ではほとんど乗り換えがなく樽井まで乗り通していた
樽井なんか普通しか停まらない小駅なのに… 2006年だったら南海は日中も区間急行が毎時2本走ってたんじゃない?後は当時イオンモールが珍しい時期だから泉南イオンの最寄りってのもあるんじゃないかね 岩出在住の人らは阪和線利用と言うと、紀伊までバスそこから阪和なのかな?
今は快速も停まるが、昔は通過してたし和歌山線で和歌山まで行ってそこから阪和だったか。 天鉄局スレ、落ちたのか。
天王寺駅の1-2番線が、往年みたく
人であふれる日は、また来るかな。
自分が知る限りでは
2017年夏のパンダくろしお出発式が
現時点で最後。
それより前に、頭端ホーム発の
臨時くろしおは消滅してたからね。 パンダくろしお、現役続行中なんだな。
いま調べて驚いた
この手のものって一時的で
目立たぬように消えてたってパターン
多いからね。 もともと期間限定でも好評のため延長ってのも結構多いよ オレンジの旧型車両が百鬼夜行していた頃が懐かしい。
今では隔世の感がある。 旧国時代に和歌山〜紀伊折り返し運転が日に1〜2往復かあった。
あれはなんだたんだろ。時間帯的に和歌山構内にいると邪魔だったのかな。 というか、山中渓へは県境越えになり
利用が少ない区間。
和歌山側通勤圏の末端駅で折り返していた
ということでは。 和歌山~紀伊の運転なんかあったのな
なかなかきめ細やかなサービスだ
>>439氏御指摘のように県境が乗客流動の限界になるので
そこまでは最低限の輸送力を保証しましょうという考え
昔の国鉄も捨てたもんじゃなかった 行政からの要請があったんよ
通勤通学難民を作るなっ!て 他に交通手段はなかったのかな
路線バスなんか普通にありそうだよ 103のクモハ編成は両端クハ編成と比べて不評だったとかなんとか >>447
多分ウテシ
そもそも国鉄やJRのウテシは先頭Tcのほうが馴染み深いだろうし
国鉄は電車ならば先頭は付随者であるべきというポリシーを80系辺りから持ってるらしい >>436
一時期、123系が入ってたな
今、宇部小野田線で走ってるやつ >>5
堺市駅は堺東や堺駅に比べるとショボすぎるので、堺感ゼロ >>452
あれでも相当色々できたんやで
国鉄時代はマジで周りになんもなかった >>452
JTBの時刻表だと堺東が市の代表駅なんだよな 下松駅は開業する前、駅名として「岸和田中央」「常盤」なども考えられていたようだが、
岸和田市下松町にあることなどから、「下松」という駅名が採用された。 昔、堺市通る時に「中川ムセン」の看板が見えたな。
あと和泉橋本辺りだったか毎日牛乳のでっかいハリボテの牛乳瓶、今もあるのかな?
上京して随分経つので知らない。。 >>457
毎日牛乳のハリボテの牛乳瓶は今でも久米田~和泉府中間にあるよ。
津久野駅前にあったパチンコ「阪和線」はもうないし、津久野駅付近ないから見えていた
「霞ヶ丘マンション」と書かれた古びた建物のマンションも今はない >>458
ありがとう、まだあるのねw
あれを見つつさらにアンダークロスの水間鉄道の500型(南海1201型)と遭遇と言うのが当時の車窓の
自分的に醍醐味だったような。。
それと阪和線の天王寺よりはもうほぼ高架なんだっけね。以前のシャープ本社や付近のため池とかもう見れないのか。 >>452
名前だけ「堺市」駅なだけで
駅規模や周辺はいつまでも旧駅名「金岡」のまま。
徒歩圏内に火葬場があるし >>457-458
奈良線に乗ってると瓢簞山駅付近に見える角柱の広告塔、
白地に赤文字、昔風のゴシック文字で「毎日○○」
古いので赤色が焼けて劣化している。
電車に乗って見てると、下半分が建物でチラチラしてよく確認できない。
車窓に見流して数年、いちどハッキリ見たいと思った。
で、ビジュアル的に毎日新聞ではないので、
「毎日牛乳」だと思い込んでたんだが、まさかのパチンコ店「毎日会館」。
つい先だって閉店したそうです。
https://goo.gl/maps/eBG6hiEqYQLqiafD8 まあ、何はともあれ堺市は政令指定都市だから頑張ってもらわんとな。 >>4
地下鉄の「新金岡」を見て、じゃあ、新ではない元の金岡ってどこなん?って思う人々も多いことだろう >>429
泉南イオンか、ネット界では日本一有名なイオンモールだな >>82
ラピートは阪急経由天下茶屋接続で間接的に京都や北摂ともつながっているという考え方もある >>466
堺市北区金岡町は南海高野線白鷺駅付近にあり、阪和線堺市駅とはかなり離れている 今ならJR堺・JR岸和田・JR貝塚・JR泉佐野だったかも。
ていうか国鉄○○ってつけたがらなかったな。 >>470
国鉄時代は大体が、私鉄駅名に方角か「新」をつけてたね。関東でも「新子安」とか「新秋津」とかね。、 新子安は京急の方が先に開業したのに駅ができるからと名前を変えさせられたいう過去がある
小田急相模原も同じ 営団地下鉄では営団赤塚、営団成増があったけど、東京メトロになって地下鉄赤塚、地下鉄成増になった。最初から地下鉄で良かったのにな。 昔と言うか、今も残る和泉砂川や長滝、東佐野あたりの阪和電鉄の名残をとどめる駅舎。
南海も浜寺公園、諏訪ノ森の旧駅舎や蛸地蔵のような戦前からの建築が魅力的で、かつての
ライバル(今もだけどw)同士しのぎを削ったであろう時代に思いを馳せるのも乙なのだ 2/12に梅田の切替工事で
特急ホームに往年の賑いが終日再現されてたのか。
事前に知らなかったのもあるが、前夜に吐き気がして寝込んでた
往年を知る者としては見に行けず残念 久しぶりに乗った。
車両が全て223系235系で統一し、東羽衣支線も例外でなかった。
でも、頭端式の天王寺のホームにいると、今でもオレンジのモハ72やスカ色の70系が入線して来そうに錯覚した。 スカイブルーの103系快速やブルーライナーの113系新快速が導入され時も大きなエポックだった。 103系の末期の頃は天王寺発紀伊田辺行きなんてゆうとんでもない列車があった。
関東でも東京発勝浦行きがあった。
どちらもスカイブルーだった。
今ではスカイブルーの103は兵庫と和田岬を行ったり来たりするだけだが、
それもまもなく見納めだ。 山陽線なんかでもあったが、
2本か3本の区間運行を1本にまとめた列車と捉えれば
特にとんでもなくは無いかと。
ただ単に、ローカル区間に103系が合わないという刷り込みが
そう思わせやすいってだけで。 >>4
設置された当時(阪和堺停留場)は金岡村だった当時にあって、堺金岡停留場になったのは堺市に合併された後。さらに金岡駅となり、昭和40年の「あすか」停車で堺市駅に。当時快速は朝ラッシュ時を除いて通過だった。 地下鉄に「新金岡」があったり、南海バスの金岡車庫(営業所)とか
金岡と言う名前自体今も馴染みと言うか、生きて?いる感じではないのか。 そうなるわな。堺市って駅名は
単に対外想定的な名づけに過ぎないでしょ。
堺市ったって、改称当時ですでに広大なわけで、
少なくとも現地民に即応した駅名ではない >>478
広島地区で、呉線の広発柳井行きとかトクヤマ雪乃の103系があった記憶 下関行きもあったような?
間違ってたらスマソ 朱色の旧国が走っていた頃、モハ72に運転台を付けたクモハ73600番台には向かって
右上に方向幕が設置されていたが基本は使用せず常に白地表記のままだった。
時々「杉本町」と読める文字の上4分の1くらいだけ見えていたりした。 70系はシンプルだったが、40系(モハ60、クハ55等)や72系は特に前面スタイルの差異が
色々あって未だに良く把握していないw >>482
まあ堺市役所に近い国鉄の駅としては今の堺市駅が近いってことやったし。三国ヶ丘は南海に乗り換えれば早いけど、当時は普通のみの停車。 >>483
「行きの」の誤変換の文字は見たくないなあ
飽きた 堺市駅は金岡に改称しよう。
東寝屋川が寝屋川公園に改称したように、みんなで頑張れば可能かと。 堺、堺市、堺東。
この3駅の互いのランクってどんな感じなんだろう。人の流れ、周囲の賑わいとか。
地元民j無いのでその空気が実感できない。 堺市内だと高野線界隈が交通や人の流れが多いんでしょうね >>483
103系投入直後はあったけど、便所がないとの理由でわずかな期間のみでで下関直通はなくなった。 >>489
堺東は市役所もあり商店街もあり高島屋もあり、バスターミナルも最大。そこにマンションなどの住宅も増えた。
堺と堺市は住宅が多いイメージ。イトーヨーカドーが最初にやってきた頃は賑わったかもしれないけど、撤退した今はプラットプラットだけでは難しいな。
ちなみにiPhoneの保守でプラプラにあるカメラのキタムラにお世話になっています。 和泉府中の少し和歌山寄りに南海バスの車庫があって、特に緑塗装時代で
行先が方向幕タイプのころは電車の窓から見える「和泉府中駅前ー毛穴」(だったかな)の
文字を見ては笑ってた思い出。 毛穴って陸の孤島なんだよな
家買うつもりで鳳まで歩いてみたらあぜ道満たないの使っても15分かかった 過去の地図を見てみたら、長承寺から東に折れて泉北2号線の高架くぐった先の石津川渡る手前が終点か。なんであんな辺鄙なところに。 海沿いの集落をフォローするように敷設された南海と違って、内陸の農村地帯を
直線的に貫くように敷設された阪和線。未だ、特に鳳以南の車窓って田んぼに宅地が
点在するような郊外のまったりした景色が広がるイメージがある。
もう上京して随分経つのでまあかなり様変わりしてるんだろうけど。 >>497
和歌山への時短が目的で敷設したのかもしれない。 >>498
まさに時短が主目的でしょう。
できるだけ直線的に軌道を敷設し、
京阪系列ということもあり当初は標準軌での敷設を目論んでいたし >>497
阪和線は東貝塚〜和泉橋本間で水間鉄道をオーバークロスしたところで、車窓風景が一変するな 国鉄時代、新快速が設定され快速も113系でスピードアップ、そのなかでちょっと鈍足イメージだった
区間快速は堺市、鳳、それ以南各停で所要72〜3分ほどだった(昭和50頃の記憶)。
しかし、すっかり停車駅の多くなった今の日中の快速とそんなに変わらない感じで、
やはり当時においても直線コースを取っていたゆえの俊足ぶりと言える。 昔の三国ケ丘駅。電車が通過するかなり前から線路から音がよく聞こえた。 白幕時代の区間快速の方向幕が好きだった。
側面なしのやつは論外 >>502
いつしか快速停車駅になったけど、南海の方は未だに急行通過だね。 >>504
昭和末期から区間快速が停車してたけど朝しかなかったしな。
1999年から快速停車だからまだ24年か。 >>503
手巻きの方向幕で区間快速の文字が緑と赤と青とか、快速と新快速も赤と蒼があった 阪和線の113系の前面方向幕の旧幕の行き先には「区間快速 天王寺―御坊」、「羽衣線」も入っていたが、
113系は最後まで羽衣線に入線しなかった。 和歌山ローカルの話。
JR和歌山出て数百メートル北(天王寺)行くと道路がオーバークロスしてるが
以前は道路は地上で「北第1踏切」という踏切が設置されてた。
83年(昭和58)頃まで有人だった。子供の頃よくここで電車を見ていた。
コーナンなんかもちろんなく、捺染工場があってインクの強烈なにおいが漂っていた。 高架化前、下松~東岸和田間にあった戸梅踏切は警報機だけしか設置されてなかったがこの踏切で人身事故が
発生後、遮断機が取り付けられた。
この踏切の先の和歌山寄りにあった小土野踏切は遮断器も警報機もない4種踏切だったが、自動車通行不可で、
またこの踏切を渡る人もほとんどいなかった。
現在はこの2つの踏切は高架化により廃止されている。 キハユニ16か。
天王寺15時くらい発の「きのくに」の先頭につないでたな。で和歌山15時50分くらい着やったか。
和歌山でキハユニ16切り離して「きのくに」は16時くらいに先発、そこで和歌山に先着してた(と思う)和歌山市からの
キハ35の4両編成周参見行きにキハユニ16を先頭にくっ付けて、16時何分かに周参見へ。
だったかな? 紀勢線電化(78年)ちょい前のヒトコマですお。。 そのキハユニのハは客扱いしていたのかな?していたなら過去に戻って乗りたいな。 きのくに運行時(天王寺〜和歌山)はしてなかったように思う。
紀勢線内は客乗せてた。自分も乗ったから。
クロスの背もたれが低い初期タイプと高くなったのと2種類あったように思うんだが、
記憶違いかなあ。。和歌山線に中間車改造のキハユ15があって、こっちは背もたれが
高かったのは覚えてる。 まあでも阪和線内のキハユニ16の画像とか見ると人が乗ってる感じのがあるんだが、
あれ職員かな。。想像でしかないw 45年くらい前、午後2~3時頃の和歌山方面行きの先頭に新聞積んでた
今はさすがにないよね >>520
地方のローカル線ならまだ残っているようだ。
先日成田線、成田ー佐原間を乗車したところ、最後部の一部をシートで仕切って荷物室って書いてあったし。 新聞に限らず鉄道の荷物・貨物輸送はもっと復活していいと思う。 貨客混載ならすでに増加中。
阪和線もそのうち閑散時間帯でやるんじゃないかな?
夕刊がなくなりつつある新聞はもう増えないだろう。 紀南方面に自動車道が伸びてきてるから漁港から大阪方面は機動力のあるトラックが便利。
阪和道なんか保冷車飛ばしまくりw 紀勢本線・阪和線で海産物運ぶメリットとしては、定時性と、駅ビル、駅ナカ飲食店にダイレクトで届けられる(トラックの駐車場所や荷卸しスペース・時間不要)ってとこかね
天王寺や大阪の駅直結店舗にとってはありがたいかも >>516-517
昔のことだから(良い意味でユルい)
いったん断られたとしても
希望すれば乗れたでしょう。 津山線のノスタルジー編成を借りてきて、きのくに、しらはま復活運転しないかな。 杉本町駅6番線。かつては2番線とは繋がっておらずに貨物しか入らず、待避列車は本線から直接2番線に入っていた。なので、大和川渡った後もしばらく加速していた。
現在らこのようなルートで走行する普通は夜間しかないが、はるかが大阪環状線に行けずに抑止したり故障車を閉じ込めるためにら6番線を使用している時にたまに本線から2番線に入ることもある。 >>528
今では支社界超えのレンタルすら困難な時代になってるから無理だろうね。
車両面だけでそんな状態なのに
ハンドル訓練やら停目やらの調整も必要
国家規模の肝入りなら可能性もあるが、
沿線自治体やJR支社が企画したとしても現状まず困難 senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2017/09/03/1983122.jpg
昔は竜華操車場とのアクセスだけだったな。 >>531
かつては、日立ポンパ号やオリエント急行のような奇想天外な企画もあったんだけどな。
国鉄時代のほうが柔軟性があったのかな? >>533
オリエント急行はJRになってからじゃね? >>534
そう。昭和63年だからJRになった直後だね。
その頃はまだ、JR間の絆があったんだね。 しかし、まさか国鉄時代は日根野電車区が浦和電車区との絡みがあるとは思わなかった かつての京浜東北線が阪和線とそっくりな車両だったので、これは阪和線は京浜東北線からの転入車両を使ってると冗談で言おうとしたらまさか当たってたとは… クハ103-53
この車両は国鉄末期の広域転配で豊田電車区から日根野電車区に転入してきて、
4両編成の混色103系の天王寺寄りにオレンジ色のまま連結されていたが、
のちにスカイブルーに塗りかえられて、冷房化された。 日根野から千葉(千ツヌ)にもたくさん広域転配されていた。
オレンジのモハ72や113系ブルーライナーを我孫子駅で見た覚えがある。 阪和線は元京浜東北線、大阪環状線と京阪神緩行線は共に両端先頭車だけ元山手線 86年10月まで東岸和田は快速通過だった。和泉府中を出て熊取まで通過。
その頃まで「南海は岸和田は特急も停まるけど阪和は快速停まらんてエライ差ァつけてるな、
何でやろ・・」とずっと子供の頃から思ってた。貝塚(東貝塚)も同じ。待避線もあるしまあまあ大きいよね。
市の代表駅としては国鉄私鉄双方あっていいと思うんだが、やっぱ阪和線のほうはちょっと
一段階落ちるんか? 逆になぜ熊取(みたいなあんな田舎の駅w)が古くから快速停車駅なのかと言う不思議。。
ちなみに地元民じゃないので実際のあの辺の空気と言うか状況はあまり把握してまへん。 阪和線のラインカラーがオレンジなのに103系の色が青だったのは、京浜東北線からの転入で改造を必要最小限にするために外観では所属表記の書き換えのみに留めたからだったのか(などと) >>542
当時は「ラインカラー」は導入されていなかった
今のオレンジは和歌山みかんと太平洋の陽光に因んで、JR化後大分経ってから設定されたものではないか >>541
東貝塚は後にユニチカになる工場のためにできた駅ですね
熊取は確かに不思議ですね
和泉砂川は砂川遊園があったんで快速止めるのは分かるのですが 三国ヶ丘は快速停車になってかなり経つけど、南海の急行は今でも通過なのはどうしてだろうか? >>545
中百舌鳥もそうだけど、乗り換えられたくないみたい
阪和線快速は停車駅倍増で天王寺~和歌山間が遅くなった
三国ヶ丘・東岸和田・日根野・紀伊・六十谷
昼間は日根野での連結・切り離しと長滝~紀伊中ノ島の各駅停車 乗降客増加で快速が停車になったという話もある。
三国に限らずだが、結局阪和線快速の停車駅増加も集客見込めるからと言う感じで
昔のような天王寺と和歌山の速達使命がさほど重要でないのは末期新快速の停車駅追加で
とっくに実証されてる話とも思う。 熊取は京大原子炉ができたから快速停車になったとかじゃなかったっけ。 >>546
南海の場合は自社線は難波で止まってしまうからね。
なにわ筋線できても高野線からは直通しないだろうからこのままかも。あとは準急に格下げしてしまうか。 >>548
天鉄局の人が京大出身で、原子炉と話がついたとかなんとか 東岸和田が昭和61年11月改正で快速停車駅になったのは岸和田市の人口が増えてきたこと、
岸和田市の発展が目ざましいものもあり、国鉄・天鉄局・岸和田市が協議して、東岸和田が快速停車駅になった。 103系は結局、高運転台車の方が先に消滅してしまった
多分羽衣線があるために取り扱いの面で低運転台車を後に回したかもしれないが >>548
京都大原子炉は2026年に運転終了予定らしい。
だとすると、快速通過になるのかな? 国鉄時代に標準の運転台でユニット窓、ブタ鼻シールドビームの冷房付き103系って阪和線運用あったのかな?
京阪神緩行、環状線ではよく見かけた。関西線も入線してたかな? >>554
昭和59年頃、ブタ鼻シールドビームのクハ103が先頭の非冷房の103系が
京阪神緩行線から阪和線に転属してきて運用開始された >>555
あー、その辺の頃か。
高運転台の103系って80年(昭和55)10月だったか、いわゆるATC準備型の冷房付きが
新製投入されたのは記憶にある。それまで旧来の転属組の103系ばかりで、相変わらず阪和は
お古ばっか回されてるなあ、と思ってたw >>547
てか単に直通速達需要は「特急をご利用ください」でしょ 205-1000も223-0も南海対策で急遽計画されたものだったとか 昔の阪和線と言うと、オレンジのモハ72とスカ色の70系、急行型の気動車ばかり連想する。
でも今は223系と225系の天下。羽衣支線さえそうなので隔世の感がある。
ただ、頭端式の天王寺駅ホームに佇んでいると昔と変わらず、旧型国電が入線してくるような錯覚に陥る。 羽衣線に225が使われるようになるとはまさか思ってなかったので未だになんか慣れないw 途中で増解結させるよりは同じ車両で走らせ続けたほうがいろいろと楽。趣味的には5000番台も223系も共通運用してもらいたいぐらいだが、ワンマン運転対応はそこまでしなくても良いだろう。 昔は電機もED60&61やゴハチが末期まで活躍してて独自色があった。
キハ81ブルドッグも終活の地だった。色々お古回された阪和線だが反面、マニアには
興味の事欠かない路線だった。 3ドアのクロスシート車で統一されるなんて誰が予想しただろうか? 環状線まで超ロングシートになるんだもんなぁ
びっくりだわ そもそも103系も導入当初は快速増発で投入したから通勤形と近郊形の境目はそんなになかったと思う。きのくに線まで運行してたこともあったし。むしろ京阪神緩行線のほうが今も昔もビシッと分けられてる。
その究極形が現在の阪和線3ドアクロス統一。関空輸送対策で座席は少ないけど詰め込みにも閑散時の輸送にも無駄が少なくて上手く活かせた形。 113系が検査かなんかで代わりに103系が新快速に使われたこともあったな。
新快速マークを描いたビニール幕?みたいなの掲げて爆走してた。 >>569
夕方に、天王寺→紀伊田辺なんていうのもあった。
京葉線の東京→勝浦といい勝負だった。 一応、JR化後も、黒幕になるまでは103系に「新快速 天王寺」「新快速 和歌山」の幕が入ってたはず >>569
クロス車の旧来の既成概念だけでは実現は無かっただろうね。
どれが先かって順番とかは判らないけど、
「バリアフリーの浸透」「片側1列への気づき&実施」というのを経て
クロスなのにクロスのまま詰め込むこともできる、というのが
実現したみたいな印象。 信楽高原鉄道事故や福知山線脱線事故が無かったら、JR西は阪和線向けの207系を
大量増備して103系をすべて置き換えていたかも。
その時の207系は京阪神緩行線用とは帯の色が異なり、スカイブルーの帯になっていたかも >>575
信楽/尼崎というより震災が無かったらでは?
阪神大震災が無かったら間違いなく1997年以降に207が南アーバンにも投入されてただろうし、0番代3連(現実では無理矢理1000番代のモハを挿入)の処遇も違っていたかもね
223-0ももしかしたら207を阪和に導入する事を前提にしていたかもしれないし 223-0は207-1000とシステムが共通で、というより南海対策で急遽207-1000のシステムを流用して223-0が設計された
(設計順位としては1000番代の方が先、そのため登場が1000番代の方が後ながら0番代がビードレス車体、1000番代はビード車体になっている) 103系は私鉄では東武8000系より小田急2600形の方が近かったと思う
東武8000系は高速型で103系とは異なるが、小田急2600形は103系同様に低速型だったから
(しかしその小田急は2600形同等の車体で高速型の5000形/5200形に移行するが) 阪和線は3ドアクロスシート車に全て変わってしまったが、南海には片開きドアの6000系が今でも元気に走っているのを見ると嬉しくなる。
ワシとそうかわらない年齢、ワシも頑張らねばと改めて思うのだ。 尼崎事故が無かったら321系が南アーバンにも導入されていたかもしれないと思う
201/205-0転用でも置き換えきれなかったからね 運用がめんどくさくなるからやらなかっただろう。
泉州地域〜和歌山間で人口増加している予測があるならそうだったかもしれんが、減少しかない未来では結局現在とあまり変わらなかっただろう。 旧国がまだ健在の頃、4扉3扉混結してたがホームでの乗車位置とかちゃんと区別させてたのかな。
よく線路わきに「○○乗車位置」みたいな看板?がずらっと並んでるが、当時(77年3月以前)は
まだ設置してなかったか。新快速は乗車位置をホーム上にペイントしてたのは何となく記憶にある。 >>582
その頃は整列乗車って概念自体がなかったなあ ターミナル駅だと大体、乗車位置が示されそこに整列っていう認識はあったと思う。
南海だけど新性能化が完了した後だが、4扉2扉しっかり編成区別されてたから
四国号や急行とか優等種別なんかは並んでたな。 そのとおりなんだけど、583さん含めて
そういう乗る側の認識の問題じゃなくてさ、
事業者側つまり国鉄側が混沌というか「ない混ぜ」だったんだよ。
それが言いたかった
気動車だって混成だったでしょ。
乗車位置の観念は、無いとは言えないが、希薄だった
そういう運行面の都合でさ。 和歌山駅の新快速の乗車位置ペイントってまだ残ってるのかな? 僕は阪和線の103系を初めて意識したのは2010年頃なんだけど、その阪和線の103系が京浜東北線からの転属車だったのを知ったのはつい3年前の事 >>590
べつに全部が全部、京浜東北から来たわけじゃないんだけど 国鉄時代の103系でもドアの車内側が鉄で緑に塗装されていたのとステンレスだったのと二種類存在してた。 >>591
クハ103-15〜16、クハ103-17〜18といったド初期車の連番で組まれた編成は山手線出身で転属当初は正面に黄色の警戒色が入って関西線色になってたな 昭和43(1968)年の阪和新性能化第1陣の103系6連×4編成は新製投入なので
ステンレス扉だったな。旧東和歌山も和歌山に改名、ステーションビルになって
阪和線和歌山口も一気に現代的になった。 58 名無しでGO! sage 2023/05/22(月) 22:10:41.38 ID:jEzAOX+g0
阪和の天王寺に突っ込んだ事故のニュース映像をYouTubeで見たが、インタビューで現場が直すよう苦言しても一切直さなかったって言ってるな
現場の声を軽視する体質は当時から全く変わってなくて笑うわ 修理代をケチって大事故になって結局多額の賠償金を払わさせる羽目に 阪和線103系はいくら大半が1964〜1967年製とは言っても阪和線に来たのはだいぶ後なんだよね
ここが同時期の関西私鉄車両とは違うところ 113系は詳しくは知らないけど1964年に京阪神快速に投入されたんだっけ? >>594 68年の東京周辺であれば、中央快速の乗入れではあるが青梅線でも新性能電車走ってたし、中央・総武緩行や常磐線でも新性能車投入がかなり進んでたのでは。
大阪環状線でも72系が相当数走ってた頃か。 68年に新性能車初めて導入ということは、東京の私鉄では8000系入り始めた東武東上線と同様と考えればよいのか。 今の阪和線は223・225系に統一され隔世の感があるが、たまたま天王寺の行き止まりホームにいたところ、列車が全くいなくなった。
ホームのドームは昔から変わらす、今にもオレンジのモハ72が入線して来るように思った。 今の阪和線は223・225系に統一され隔世の感があるが、たまたま天王寺の行き止まりホームにいたところ、列車が全くいなくなった。
ホームのドームは昔から変わらす、今にもオレンジのモハ72が入線して来るように思った。 >>603
その223系も一部が嵯峨野(山陰)線に転属 ライバル南海の新性能通勤車は63年(昭和38)にすでに7001系をデビウさせていた。木目のアルミデコラにファンデリア、
住友ミンデン台車(空気ばね)にふかふかのモケットロングシートで乗り心地、アコモ共々上々だった。 >>606
その南海7000系は台車が東武8000系に類似してたな 103系は本来駅間の短い山手線用として開発された車両だったため、阪和線では使いにくかったと思われる >>602 東武東上線の8000系導入、63年だった。東京の大手私鉄幹線でかルダン車入るのが最も遅かった東上線に5年遅れて、阪和線にかルダン車投入ということか >>605
湖西線や草津線でも運用してる
>>607
でも当初は快速用として導入された 113系投入後、データイムはブルーライナー色(冷房付き)が新快速、間合い運用の春日色(非冷房)が快速というのが
ひとつのパターンだったような。んで新快速最終が天王寺(和歌山)に着くと、H・Mを折り返して赤と青だけの模様で
快速運用になった記憶。 連投だ。その春日色113系も関西線快速のH・Mは付けたままでこれも折り返して赤一色にして阪和線快速で運用していた。 阪和線の新快速に乗ったが、写真は撮っていなかった
まだ旧型電車が残っていたころで、そちらばかり優先、もったいない 103系の快速運用、周辺私鉄に例えるとすれば阪急3100系を神戸線の運用に就かせる様なもの
(3100系は宝塚線用の低速型) >>614
阪和沿線住みの天王寺区以南住み民は阪急を生活圏で使わんし
観光とかでたまに京都に出るときくらいしか乗らないから
例えがいまいちよく判らない。
他にわかりやすいタトエない? 103系は快速どころか、検査で113系が不足の時は新快速にも使ってたな。
区間快速乗ってて長滝で通過待ちしてたら吊り掛けのような爆音(多少色付け)で走行してたよ。 >>617
ええ103が新快速!?(モーター壊れそう)
想像しただけでも恐ろしい 103系は最高速100キロでそれ以上は出さないからな、心配無用。 >>616
南海6000は性能的には近郊型の方が近いから話が違う 七尾線で活躍して最近廃車になった415系の800番台33両は113系の改造車だが、その中には元天オトで長年新快速カラーで活躍
した車両がクハ4両、モハ7両合計11両ある。
阪和線の新快速カラー6連3本の18両だったからそのうち11両が415-800番台に改造されたわけだが、クハの4両(クハ111時代の
車番は52、339、352、360)のどれかは新快速色に復元して京都鉄博に展示してほしいなぁ。
でももう潰されて残ってないんだっけ・・・? 関西では103の使い方を本来とは間違っている路線が多かった感じ
東でも常磐快速線があったが >>622 東で武蔵野線、それに京葉線や埼京線の快速も同様。構想だけで終わった「105系(仮称)」を導入すれば良かったわけだが。赤字国鉄にコスト高の通勤車両を量産する余裕が無かった。 103は113/115の通勤型版ではないんだなぁ… 103の数をもっと少なくして、その代わりに113系のロングシート版を投入しておけば良かったのかも・・ 初めて103系が登場した当時の阪和線は、くすんだオレンジのモハ72や、古ぼけた70形
煙染みの付いた気動車の中にあって、「掃き溜めに鶴」の様相を呈していた。 >>625
まぁ現実には山手/京浜東北線のATC化による余剰車の活用もあった(と思われる)から… DC時代のくろしおは阪和間無停車で45分、きのくにで48分とかだったと思うが結構な俊足だったな。
紀勢線電化後もきのくにはDCで残ったけど、113系普通とたいして変わらない所要時間で
ただただうるさい存在でしかなかったw いえいえ、元々国鉄が昭和33年に運行開始、翌年から南海も自前のDC新製してきのくにとして乗り入れ開始。
最盛期14往復前後の大所帯急行だったな。片道夜行もあった。鈍行B寝台の後に天王寺出て新宮翌朝5時10分着くらいだったか >>629
南海から紀勢本線に直通する列車があったなんて隔世の感があるね 阪和間は今はクルマで往来しやすくなったけど、平成元年頃までは高速は阪南ICから海南まで。
昔ながらの下道(国道26)での移動だったな。海南から湯浅までは84年(昭和59)には出来たがそこからはやっぱ国道。
紀南観光というと釣りとかで荷物がある人は大体クルマ、温泉や名所めぐりは鉄道、みたいな感じだったかな? 阪和自動車道が松原まで繋がったのが平成初期なのよな >>629
南海きのくにを知ってる者が
どうしてそんな認識になるのか判らんわ。
片側だけ知ってるってのがありえん >>634
西名阪も近畿道につながっていなかった頃、トラック乗りをしていた。
名古屋から名神を使って大阪に行くより、実質高速の名阪国道を利用する方が
ずっと安かったのでよく利用していた。 西名阪はよいけれど東名阪を東京・名古屋・大阪の列挙として使うのをやめてくれ。 西名阪はよいけれど東名阪を東京・名古屋・大阪の列挙として使うのをやめてくれ。 急行きのくにのように、発着地が異なる編成を途中で分割併合するが、一つの列車名で統一するケース(他に伊豆急下田行き+修善寺行きの特急踊り子など)と、別々の列車名にするケース(例:DC急行ときわ+奥久慈、DC急行アルプス+かわぐち(富士急乗入れ)など多数)の違い、基準って何かあるのだろうか?
南海乗り入れの方を別の列車名としてもおかしくないと思うのだが。他に適当な名称が無かったからか? 60年代までは紀勢本線全線で運行区間で色々愛称があった。
紀州、しらはま、南紀、はやたま。。 >>642 マルス導入以前の話だろ、電話連絡だから多様な列車名つけとかないと間違いや混乱が生じる。
号数つけるにしても1号、2号位ならいいが、10号、15号と多いと混乱する。 >>641
埼玉県加須市立○○小学校
7月20日は終業式です。おかげさまで大きな事故や怪我・不登校もなく、1学期を締めくくれ
そうです。 84年頃、関東でも常磐高速が土浦辺りまでしか行ってなくて、常磐線に水郡線乗り入れのDC急行が走っていた。阪和線、紀勢本線も和歌山の少し先までしか高速道路通じてなく、DC急行が走っていたのが似ている。常磐線、非冷房キハ55は走ってなかったが 84年頃、関東でも常磐高速が土浦辺りまでしか行ってなくて、常磐線に水郡線乗り入れのDC急行が走っていた。阪和線、紀勢本線も和歌山の少し先までしか高速道路通じてなく、DC急行が走っていたのが似ている。常磐線、非冷房キハ55は走ってなかったが 84年頃、関東でも常磐高速が土浦辺りまでしか行ってなくて、常磐線に水郡線乗り入れのDC急行が走っていた。阪和線、紀勢本線も和歌山の少し先までしか高速道路通じてなく、DC急行が走っていたのが似ている。常磐線、非冷房キハ55は走ってなかったが >>644
不登校のお子さんがいないのはすごいですね。 結果論だが、主電動機について通勤型もMT54を採用していたら、1985年辺りまでずっと製造され続けていてその後はそのままMT61を採用した車両に移行していたかもしれない
MT55とMT60は共に特殊の様な気がしてきた >>623
幻の105は実現しなかったが、むしろ南海7000/7100はその幻の105に近いと想像
その証拠が特急車(10000)と連結 >>641
埼玉県加須市は県境マニアで有名だね。
柳生駅近郊には埼玉、栃木、群馬の3県境が1つの場所にある。 県境マニアの関西地区の話
・イオンの高の原店は店内に京都と奈良の県境がある
・京都府と三重県が接しているのを知らない人が多い >>652
和歌山県北山村は和歌山県飛び地で三重県内にあり、
同じく新宮市熊野川町嶋津も三重県内にあって和歌山県飛び地になっている >>652
イオンのことは知っている人多い。
店内に線が引いてある。
県により条例など違うから必要だと思う。 阪和線の県境というと、雄ノ山隧道を想像しがちだがもう少し北寄り(山中渓方面)の小さな鉄橋が県境。
真横を並走する旧熊野街道の橋の両端に大阪と和歌山を示した標識があり車窓からも見て取れる。
橋の名前も境橋とかで、日本最後の仇討ちがあって云々と言う、まあググれ加須 おいら海に近い泉州に住んでたから
和泉市や貝塚市のとなりが和歌山県なんて全く想像もつかなかったな。 京都府南丹市がなかなかすごい。
大阪・兵庫・滋賀・福井と県境を接している。
大阪と福井に接しているなんて地図を見ないと位置関係が把握できないね。 >>642
紀州、きのくに、紀伊…
旧国域が広く、複数の進入ルートがあるがゆえだが、
意味としては同じような愛称が並んでたな。南紀も仲間に入るか? >>657
4県と接している市町村は、南丹市以外では埼玉県秩父市(長野・群馬・東京・山梨)と岐阜県高山市(長野・富山・石川・福井)
があるのみ。
地図見ないと位置関係がわからないね。ちなみに3県に接している市町村はかなりある。 岡山と香川は橋がかかって初めて県境を接するようになったと思いきや、瀬戸内海の島、石(井)島に岡山と香川の県境があるとのこと。
有人島では日本唯一だとか。 >>659
高山市はとにかくでかい。
香川県・大阪府よりでかく東京都とほぼ同じ 父鬼 神於 蕎原 葛畑 大阪南部の山間部珍名難読萌え 京都市もなかなかなもんだ。
滋賀県と大阪府に接している上、福井県とは直線距離で、5キロ位しか離れていない。 くろしお号は天王寺駅の1番線ホームから出発しないとくろしお号らしくないよ
15番線から発着するくろしお号には旅情が感じられない >>663
左京区や右京区は大阪市より広いんだよな
てか大阪市が府庁所在地なのに余りにも狭過ぎるだけなんだけどね >>664
1番と2番かな。昔、ホーム頭端部に特急、急行券の検札なのか臨時の発売ブースかなんか柵立ててた記憶がある。
それと天王寺うどんは必ず寄ったなw >>664>>666
梅田地下駅の切替の日に無理して見に行けばよかった
(某神社に初めて行ったら神気に「中った」のか帰路に頭痛吐き気して寝込んでた)
行ったヲタの多くは単に物珍しさだけの撮りテツだったろうが
俺ら往時を知ってる者は1・2番ホームの活気を見たいんよね >>665
左京区の北部に行くと深山幽谷の趣で、都から遠く離れたことを実感する 阪和線の103系が元京浜東北線車という事を知った時の僕「ついに京浜東北線が関西に進出」 僕は阪和線の103を意識したのは2010年頃の事だが、その103が国鉄時代に関東から転入してきたものである事を知ったのは3年ほど前 俺が認識した阪和線103系は
折返しが同区間なら固定で使える阪和幕
お顔にお髭がまだあった
ようするに国鉄時代だけど >>668
友人がドライブ中に熊を見たと言っていた。 山中渓って2面2線ホームだが、昔は2面4線だった。外側2線は通常の待避線じゃなく、ポイントがクロッシング部分がない
安全側線みたいなポイントで保線車両の留置用だったような記憶 久米田駅の保守用車両留置線はかつては待避線で、阪和電鉄時代や南海山手線時代には列車の緩急接続や
列車の通過待ちが行われていたが、国鉄時代に緩急接続や待避が東岸和田や和泉府中などに集約されたため、
待避線の線路は分断された。この待避線は、ホームと線路との間隔が広すぎるようにも見える それは個人的にはそうは見えない
電照部分だし
通風口はグリルがあるから髭に見えるわけで 東には眉毛を片方だけ剃った様な103系が存在していた(西日本には存在しないが) ゆとりダイヤ化により普通は鳳止まり、鳳〜日根野は区間快速となり、紀州路快速は熊取〜和歌山間各駅停車となってしまった 主要駅地域だけが栄えてた昔は速達サービスが有効だったが、今は徐々に各駅地域の利用も多くなって
こまめに停車して客拾ったほうが収益上がるんだろうな 各駅地域の利用が増えたんではなくて、大阪から離れた地域の主要駅の利用が減ってきたってこと。その結果、快速運転する区間が減った。
まあそれでも熊取以北の日中の快速は昭和後半までと比べたらまだ多い。 >>681
熊取以南が問題だわ
一部特急が止まる和泉砂川も長滝・山中渓も昼間は同じ扱いなんだよなぁ となると、和歌山方面の列車を平日日中2〜3時間は半分に減らすことに。砂川も以前ほど多くはないからね。 少なくとも新快速が運転開始された時期(阪和間は鳳のみ停車)の日中の東岸和田以南の快速停車駅(熊取、和泉砂川)は快速1(東岸和田は通過)、区間快速2だったような。そんなに変わらん。 70年代の新快速運行時代やその後もだが、日中で区間快速の砂川止まりとかなかったっけ? 和歌山行毎時2本以外で。
東岸和田まで各停(もちろん全駅)も設定されてたが、以南の各駅が区間快速毎時2本じゃ少ないし。当時の時刻表があればすぐわかるけど。 詳細なのは残っているのkなあ。
冊子にも簡易にしか掲載していない >>680-681
70年代以降を考えれば、どちらの変容も当たっているし
またそういう郊外方面の各停駅に家買った人はマイカー主流でしょ、
速達利用者が減っていく要因の一つになったのではと >>686
よく窓口とかでもらえるカード型と言うか1枚モノの一日の発車時刻が掲載されたやつ。ああいうので当時のがあればいいんだけどな。
逆にJTBとかのデカい時刻表だと大都市国電路線のは始発終電以外は簡略した記載だしな。 >>687
マイカーについては今の国道26号や阪和自動車道や阪神高速湾岸線などが延伸するにつれて便利になってきたってのもあるかな。それと、泉北高速和泉中央延伸。 仮に特急の京都乗り入れ開始がもっと遅かったら207系先行車が阪和線配置になっていた可能性はある?
(初のVVVF車でどの様な事が起きるのかが未知のため当時運行系統が独立していた片町線配置になったという説がある) JR西日本化後の4ドア車最初の新造となった205-1000は阪和線用だったからなぁ…
でも以降、南大阪周辺に4ドア車が新造投入される事は無かった
(207/321とも京阪神アーバン向けだけで終了) 結局JR西日本化後の南大阪アーバンでは最初で最後の4ドア新造車となった205-1000が登場したのが1988年
紀勢線特急の梅田貨物線経由での乗り入れ開始は1989年だそうだが >>688
1971年のがネットにあった
ttps://www.pinterest.jp/pin/431430839309026950/ 区間快速は下りラッシュ時間帯は鳳までで、それ以外ほとんどは和泉府中まで快速運転なんだな。
速達時代の新快速(と快速)運行になる前のこの感じ、逆に現在の運用に近いな。
紀州時快速は熊取から各駅だし。 阪和線の103系には、高運転台車も3本だけながら存在していたらしい
まるで京浜東北線だが、運転台直後にも戸袋窓があるのが相違点だった模様 2011年以降の阪和線(大阪環状線、大和路線も同様)がゆとりダイヤになったのは、全ては2005年の福知山線脱線事故が始まり
ここでスピード重視はやめ、新々快速(新快速140キロ運転)の構想も中止となった >>695
80年(昭和55)10月に6連3本が新製投入されたっけか。阪和線はお古ばっかのイメージだが、これと
もうちょい前の昭和53年10月の改正時(紀勢線電化時)にシートピッチ、幅改善の113系2000番がデビュー間もなく1編成?投入された。 阪和線は中古車ばかりだったそうだが、これも関西が私鉄王国と言われていた要因だろうか 少なくとも阪和線のライバルの南海は車両を製造した所が横浜の東急車両だったせいで関東私鉄みたいだと言われていたが、車内に関しては蛍光灯カバーが無い以外はちゃんと関西仕様だった(腰掛端の処理、ドア内側が化粧板仕上げなど) (そもそも103が駅間が短い路線用として開発された車両であり、阪和線には合わなかった説) 103系も天王寺−鳳の各停に運用するなら駅間が短いという点でも合ってるが、
阪和線では各停だけでなく快速系統での使用も考慮する必要があったからな。 関西総括の大鉄と阪和線管理の天鉄局の折り合いが悪くて中古ばかり回され、ってのはよく聞く話。
まあおかげで趣味的な面で独自の車両の顔ぶれが見れた。電機もED61とゴハチの重連、DCキハユニ16、キハ81ブルドッグ
雑多な60系72系旧国、70系スカ色・・。昭和50年代初期はバラエティ豊富な阪和線だった。 >>702
EF58とED60、EF15の置き換え用として、高崎区からEF60が竜華機関区に転属してきたが、
EF15は貨物用して3両だけ残り、ゴハチとED60は全機廃車、昭和61年11月改正で、
EF60もEF15も廃車されたな。 前にも書いたかもしれんが103系導入時は快速用だった。 >>704
ヨン・サン・トオで阪和線に投入された103系は、元阪和電気鉄道モヨ100型などの社型電車の置き換え用に投入された。
快速に2本使用されて、残り2本は天王寺〜鳳間の各駅停車に使用された。 >>702
72系も阪和線に入ったのはロクサン由来の車両が多かった 阪和線には205系0番台(京阪神緩行線用)が転入してきた一方で、201系は転入せず 京阪神緩行線は当初は103ではなく幻の105(後の105とは異なる)が投入される予定だったとされているが、実現していた場合は阪和線もそれになっていたと思う >>707
京阪神緩行線用の201系は阪和線には転入しなかったが、日根野電車区での疎開留置のため、
阪和線への入線実績はある 201系は大阪環状線や大和路線に転用しても使う制約が多すぎたみたいだな
京阪神緩行線からの撤退(321系導入)が福知山線脱線事故以前に決定されたものだったからこれについては予定通り実行せざるを得なかったが、これがスピード重視をやめるのがもっと早ければ最後まで京阪神緩行線で使い倒してそのまま廃車だったかもしれない >>703
EF60、まあ結構なお古だったけど幹線用のF級新型電機が地元で見れたのはうれしかったw
他にも国鉄末期の阪和線は165系の転入、DC急行きのくに全廃、ホームライナーいずみ(はんわライナー)運行と
顔ぶれの入れ替わりが色々とあった。 >>711
阪和線、紀勢線でのEF60は客車牽引の運用あったんかな?
あの当時の客車列車は既に12系だったから貨物用のEF60でも問題なかったと思うが >>712
天王寺発新宮行の新宮夜行や和歌山〜新宮間の客車列車を牽引していたEF58がEF60に置き換えられた。
昭和61年11月改正で、紀勢本線の客車列車は165系電車に置き換えられた。 >>712
天王寺発新宮行の新宮夜行や和歌山〜新宮間の客車列車を牽引していたEF58がEF60に置き換えられた。
昭和61年11月改正で、紀勢本線の客車列車は165系電車に置き換えられた。 顔ぶれと言うと、きのくに全廃くろしお格上げ〜本数増加で485系も同じころ投入されたが
振り子じゃないので紀勢線内は遅かったw 一般客には京阪神緩行線と阪和線が同じものにしか見えなかったと想像 >>716
阪和線に網干区から湘南色の113系が転属してくると、阪和色の113系が117系に置き換えられる前の
京阪神緩行線の153系の新快速を彷彿とさせて、阪和線のスカイブルーの103系が国鉄時代の京阪神緩行線を
彷彿させてくれたな 関西の103系には一部、ドアの内側が化粧板張りになってるのがあった 昭和61年に阪和、紀勢線に投入された165系、ブルーライナー色に塗りかえれば
かつての153系東海道山陽線の新快速のイメージが復活するのではと思ったが
あの当時じゃそんな余計な支出は無理だったかなとw >>719
その当時は、阪和線にオレンジ色やウグイス色の103系が関西線や片町線などから転属してきて、
103系のスカイブルーとウグイスなどの混色編成も多数発生したが、これらの混色編成も国鉄末期の緊縮財政による
経費節減もあったのだろう 化粧板というか黄緑に塗装されたドアだった気がする。 >>721
昭和50年代の阪和線の103系は、ドアの内側が薄い黄緑色に塗られている車両が多かったような 阪和ホームのカレーショップが9月末で閉店したとの由
国鉄首切り策の飲食店で現役店は他に残ってる? ・(懐かし板)
・(スレタイ)
・阪和ホーム
・カレーショップ
これで天王寺駅だと解らん奴は
スレに書き込む資格ないと思うが。 >>726
分かる分からないじゃなくてどこかを明確に書いた方がいいだろ
受け取り側に負担強いるのは歳とった証拠だぞ >>727
このぐらいでは負担を強いてはいない。
あんたの調べる力、連想する力がないとしか言いようがない。
もしかしてニュースサイトの中身を読んで考えることもせずに見出しだけで反応するタイプ? >>728
あぁこの人にも書いてることが通じてない 明確に書けなど何という不粋な
そもそもこの手のスレは特定のキーワードだけで話を膨らませられる奴のための物でもあるしな >>720
2011年頃に103系体質改善車が森ノ宮から来た時も当初は森ノ宮時代の塗装(オレンジ色)のまま使用されていた模様 例え阪和ホームって知らなかったとしてもここは阪和線スレだし「阪和線」と「阪和ホーム」を組み合わせてググったら結果出てくるだろ?たとえ住宅工事屋が出てきてもそれ以外を探すだろ?>>729はそれもできんてことやぞw ID:oThU9yri
この爺さん、よっぽど気に障ったようだな 平成の30年前からミレニアム00年代、和歌山に帰省となると新幹線でビールで酔いそして天王寺うどん喰って帰郷してたわ。。
和歌山人はな、雑巾(ぞうきん)はドーキンやっしょ 阪和線103系は国鉄時代末期の1984〜1986年頃には8両貫通編成があったが、すぐに解消されたものの、JR西日本化後の1999年頃に少しだけ復活してたらしい >>740
6M2Tの8両編成が3本組成された。
中間車のモハ103とモハ102は、程なくして広島から転属してきたサハ103に置き換えられた。
1999年4月~10月下旬ごろまで、奈良区から日根野区に借り入れられたウグイス色の103系6連1本が阪和線で運用されていた JR西日本の103系には、クーラーの効きが悪い車両があったみたいだね(僕はその車両に乗った事は無いが) >>741
この頃に土休日ダイヤのみ天王寺発鶴橋・大阪経由鳳行きの環状線直通の区間快速がスカイブルー8連で設定があったかと。
1度乗ったがクハ103の17と18が両端の103系1次車の完全未更新で戸袋窓が残っている超ポンコツ編成だった。 そもそも定義ではクハ103-177までが初期車という事になっているそうだが あの色の区間快速って鳳以南どうやって走らすのかと思った当時若い鉄オタもいたんじゃないのか? 京都鉄道博物館に保存されているクハ103-1だが、当初は編成で保存も考えていた模様
今だったら編成ごと保存してそうだが
(2011年頃はまだ初期車から廃車の方針だったからクハ103-1を保存するだけに留めたと思う) ないわな
少しでも原形に近く残ってるのを遺すのが本来
大阪地下鉄100も、だから105が残された
ところが日本人って昔から
トップナンバー残したがるんよね
昭和期はまだ、冒頭に書いた本来の意図と
考え方が拮抗してたからよかった
ところが平成以降はそれも消えてしまった
子供や素人の考える1番思考しか
残っていない。日本人の認識も劣化したなと 大阪府消防学校には、阪和線で活躍していたクモハ103−110が保存されていて、
同車は戸袋窓も残されていて、原型に近い。
色褪せているが。 103は結局、高運の方が先に消滅してしまった
2006年、2008年、2011年のそれぞれ103系の整理の際は順当に古い順に廃車していたが、2017年からその法則が崩れ結果的に高運が先に消滅してしまった また、阪和線(と今後の大和路線)が普通列車まで転換クロスシート車になったのも、103系の本来ならまだ使えたはずの車両を潰し過ぎた結果だと自分的には思っている まあ保存のために車両が存在してるわけではない。その時々の運用の事情が最優先で、やがて時代が過ぎて
たまたま保存の機運が上がってその時の都合の良いものを保存してるだけの話。 確かに・・・
後になって解体されてしまう車両も多い。 隣の南海も、みさき公園に20000系を保存したが結局は保存から9年ほどで解体された 戸袋なしの103系はどうも違和感しかなくなんかどうでもよくなってきたような…
5000系の戸袋なしは全然そんなこと思わずこれはこれでいいじゃん、と思ってたのになんでだろ? 最後まで戸袋窓が残ってたらしい全車17〜18で揃っていた6連やクモハ103-109を含む4連をもう少し後まで残してくれればどれほど良かったと思うけど当時は戸袋窓とかは気にせずに、とにかく初期車(と冷風車)を潰している様な感じだったみたいだからね 鳳電車区の片隅に非冷房の関西線色のクハ111が1両だけポツンと留置されていた。 鳳駅の羽衣線のホームになぜかグーテンバーガーの自販機があって
わざわざ買いに行ってたなぁ そういや昭和の頃は天王寺の9番ホームは
数年に一回電車が止まらずに突っ込んで事故ってたなぁ 鳳駅6番線はほとんど使用されることはなかったが、時折、クモハ123の1両編成が入線していたような
クモハ123が103系3連に置き換えられてからは、羽衣線103系は6番線に発着することはなく、のち、
6番線のレールは撤去されて、6番線は閉鎖された 保存の話で思い出したが、東佐野や和泉砂川のようなかつての阪和電鉄時代の名残をとどめる駅舎、
高架化や80年代くらいまではまだ何か所かあったんだろうか。あまり記憶が定かでない。
南海の蛸地蔵とかも含めずっと後世まで残してほしい。 大阪市内で高架化されたとき何駅だか破壊されたな
南田辺、鶴ケ丘とか、あのへん数駅 >>761
1982年頃にもあったらしい
しかも当該はクハ103-115だったとか クハ103-546か-567が残っていたら京都鉄道博物館でのクハ103保存車はそれになっていたかもしれないが…
余談だが2011年のダイヤ改正で多数の初期車に混じってクハ103-205.-206.-237.-238が廃車になったが、それが要因でクハ103-115.-116.-127.-135が残存してたと思われる >>761
天王寺駅車止め衝突事故は、
>>762の指摘の通り、1982年(6/7番線)と1989年(4/5番線)の2回。
1989年のほうは101系改造で、ブレーキの効きが悪いことが、前から運転士間では指摘されていたとか。 103系は東では故障しまくった事が要因でさっさと全廃になったけど西では重大な故障をしたという話を聞かないんだが
やはり対応の違い? メンテをしっかりやれば結構持つのかも知れない。
まだ現役だもんな。 >>774
そう考えると今も残っている西日本の103系は化け物だな 西日本の103系はモハユニットは1974年以降製造のものが多く、全体で見るとそこまで古くはない
しかし、クハがクハなだけに余計物持ちが良く見えてしまう 東急旧7000系の水間鉄道譲渡は、実質103系の後を追ったんだな 昔は東急に京浜東北線との並走区間があった(今は廃止) 昔の東急には古い電車が多く隙間風で寒かったらしい。
そんな唄があった。 >>781
最近でも旧7000系を改造した7700系が池上線を走っていた(しかも養老鉄道に譲渡されて今も走ってるらしい) >>760
当初はマックバーガーだったんだが、マクドからクレームが入り名前が変更された 2011年に廃車になった103系初期車(うろ覚え)
クハ103-1.2.21.22.31.32.36.41.51.52.63.65.67.68.72.96.97.108.111.117.118.119.120.121.122.126.128.132.133.136.137.163.176.177.591.602.609.610.616
モハ103-246+モハ102-401 結論:2011年に103系初期クハや旧延命工事モハをバンバン廃車してなければ、今も阪和線の各停に103系が残っていた可能性
(2016年以降は後期車や体質改善車をまず優先して廃車が進められ、結局旧延命工事車が後まで残った) 東横線と並走区間があったのは根岸線じゃね?
それ以前は知らん。 >>785
いつしか見なくなったね
どんぶりに入った蕎麦やうどんの販売機もな
コンビニの普及によるのかな? >>792
運行系統としては同じように扱われるが名称は違う。
あんたは黄色のラインを中野で見ても総武線と呼ぶ人か? しかしこのスレの>>1も
「その生い立ちゆえに陽の当たらなかった」とか
無茶苦茶なこと書いてあるな。
阪和線の出自たる阪和電鉄は伝説的なわけだし。
国有化以降のことを言いたかったんだろうか?
それでも「日の当たらない」路線でないことは確かだろうに。 >>791
どんぶりに入ったうどんの販売機、現役なのが秋田タワーの休憩所にあった。
まだあるんだと感激した。 まあ京浜東北線も阪和線と同じ色の電車が走ってたからいいじゃないか。 阪和線がなぜ東海道山陽線と同じ色になったか……っと 旧国(一般型)が中央線のオレンジになったのは何でよ
環状線片町線まとめて、みたいな感じか。 >>799
阪和線の103系、本当に京浜東北線からの転入車だった >>800
阪和線の場合は京浜東北線からの転入車(転用前の塗装のまま所属表記だけ書き換えたと思われる)が理由では どうせなら113系新快速色と同じマリンブルーにすればよかったのに >>798
あのような物はもっと普及するかと思ったけど、廃れていったね。
あのうどんの販売機、出来上がると「はいっ」って感じでプラスティック製のどんぶりが出てくるのが良かった。 >>806
阪和線への103系投入は、南海7000系や7100系への対抗策だったが、
同じロングシート車でも奥行きの浅い103系のロングシートでは、南海車に勝てなかった。 南海7000は空気ばね 薄木目の化粧板の明るい車内、ファンデリアも快適で 後発の103系など足元にも及ばなかった。
ついでに言えば、その前にも南海11001系新性能車に対抗して投入したのが旧国70系という苦しい選択・・ >>807
こうやって見ると南海車はまだ関西らしい車体で、むしろ103系の方が関西感が無い 南海はよく関東っぽいと言われているが、阪和線103系の原型の姿を見てしまうとそんな印象は無くなる
多分東急車両で作られていたのが関東っぽいと言われる理由だと思う 乗務員訓練で阪和線の205系1000番台が紀勢本線に入線したことがあったが、
205系1000番台は、和歌山以南での運用に入ることはなかった。 >>810
南海は、近畿の私鉄には珍しい20m4ドアで国鉄と同じ軌間だからかね?
阪神と大阪地下鉄と80年代後半からの京阪以外は、座席袖部のスタンションポールが、南海含めて長らく付けなかったのが、
近畿地方らしいなと印象深く思っていたな >>813
間違い
南海のほうが国鉄通勤車より50cm長い 関西の私鉄は自動改札の導入がかなり早いのが特徴的だが、南海もその一つだったらしい
これも関西私鉄である証拠
その一方、国鉄時代は関西地区では片町線にしか自動改札が導入されていなかったらしいから、この点でも阪和線の方が関西感が無かったと想像 南海は1973年5月に和歌山市駅が高島屋テナントでリニューアルした当初から自動改札を導入していたな。
なのでというか切符も自動券売機で購入。阪和線は確か当時まだ自動券売機は近距離(50q内?)だけで
天王寺〜和歌山61キロだと窓口で硬券だったような。。 >>804
いや、113阪和色の帯はスカイブルーから派生したものだったよね? 阪和線は南海対策で205系1000番代や223系0番代が導入されたと言われているが、103系も南海対策だったのか >>810他
南海が関東っぽい部分は、ソフト面
つまり旅客案内とか対応とかそっち系の部分
昔から「つっけんどん」な印象なんだよね
近鉄だって同じく古くて大きい民鉄けど、
近鉄は意外にそうでもないのが面白い >>808
南海7000は機構的にはむしろ東武8000の方が近い 関東民鉄にあてはめるときは
やっぱり南海=東武だわ。総合判断すれば。
個人的には近鉄=東武ではない >>818
よんさんとおで阪和線に投入された103系24両は、社型と呼ばれていた元阪和電鉄モヨ100型の置き換えと、
南海7000系への対抗、旧型電車置き換え用に山手線や京浜東北線などから阪和線に転属してきた103系は
阪和線電車の新性能化のため >>822
つまり
南海7000=103
南海9000=205-1000
南海1000=223-0
なのか >>823
その通り
昭和59年から天王寺〜日根野間で運転開始された381系の「ホームライナーいずみ」に対抗し、
南海は朝夕ラッシュ時に特急「サザン」を全車指定席で運転した。 >>819
ああそうか。関西私鉄乗り歩いて、京阪阪急阪神はカルチャーショック
みたいなの感じたが南海はそれ程でもなかった、あいりん系のおっさん
見掛けた程度で でも南海は1973年から1985年まで本線には車両新造が無かったけど、阪和線はその間の1980年に103系18両が新製配置されていたそうだが >>826
阪和線用の103系の新車はよんさんとおで投入された103系24両と昭和55年に投入された
高運転台クハ103の6両編成3本のみ
それ以外は京浜東北線、山手線などからの転属車で阪和線電車は新性能化された 阪和線の場合、205系1000番代と223系0番代の新製投入があり、バランスのため2000年代初頭までの103系は経年車割合が多かったとか 103系の体質改善試作車は、末期はサハを抜いた6両が阪和線に来ていた 103系が結局、高運転台車と南アーバンの体質改善車が先に消滅してしまったのは、前者はJR東日本からの譲渡車、後者は体質改善試作車の存在がネックになったと僕は思っている 103系にはWAU102なる、分散クーラーに改造された車両もあったが、その分散クーラー車はクーラーの効きが良くなかったらしい
僕は分散クーラー車に乗った事が無いので詳しくは知らないけど 阪和線紀勢線の113系4両編成は、両端先頭車クハ111がシートピッチの広い2000番台、
中間車が0番台という編成もあった。 >>831
屋根上に室外機が2台乗っているからよく効くかと期待して乗ったら逆だった。 >>831
>>833
クハ111にも分散クーラーが設置された車両があった。 2台であれば「集約分散型」では?
4台でもそう呼ばれた南海6200系など。 >>785
いつしか見なくなったね。
コンビニの普及の影響かな? 南海では当初は6000系を高性能通勤車の標準とする想定であり、結果的に6000系が高野線用で南海線は7000系とする事になったのは6000系の営業運転が高野線に決定したタイミングだったとか >>824
あと
南海50000=281
もあるか >>821
東武8000には電制が無かったが、それも南海7000には付いていた
そう言った点でも南海7000は(車体はこの時期の各社20m4ドア通勤車の中では唯一の片開き扉ながら)足回りはこの時期の各社20m4ドア通勤車の中で一番よく出来ていたとも言える >>843
東武8000は電制がないのによく会津高原まで乗り入れたと感心したことがある >>845
少なくとも関空・紀州路快速の切り離しはやめて全て関空快速とし、代わりに区間快速を和歌山発着にした方が良いと思う >>844
そう、一つの欠点として東武8000は電制が無い
(初年度からいきなり量産というのも影響していそうだが…) 結果論でしかないが、101系にMT54を載せた(史実とは異なる)103系だったらもっと違ったのかもしれない
その場合は史実201系相当は登場せず、そのまま史実205系相当に移行していた可能性もある >>849
ステンレスの205系が出現するのは時期尚早だったのではないか。
203系はアルミだったし。 阪和線の103系や113系はSELD(HSCDと同等)だったから当然電制付き。
勾配用の抑速ブレーキこそ付いてなかったけど、雄ノ山峠は25‰だったから、
103系や113系でも充分対応できた。 >>851
勾配ならセノハチよりも急なんだよ。
抑速ブレーキが必要なのは坂の長さが影響するんだよ。 >>850
近郊型みたいな流れを想像してたんだが
(近郊型はMT54搭載車からそのまま211に移行してたみたいだし、ただ211は関西には導入されなかったが) MT54で歯数比が大きかったのは食パンだったっけ? 路車板の本スレがなかなか安定しないな。
とりあえず三国ケ丘でミシミシしながら接近してくる音を思い出しておくか。 >>853
もう少し民営化が遅れていたら211系導入もあった気がする。 >>855
賽の河原だわ
スレ立て荒らしに流されまくり ま、211系を発展させた221系が一時期走ったからよかったな。、 阪和線って今は元日未明の延長運転すら無いんですね
いつまであったんですか?
令和以降も、日根野くらいまでの延長ありませんでしたっけ? いま読んだページには「2018年元日まで実施してた」云々って
書かれてましたけど、合ってますか?
それって終夜ではなく延長運転のほうですよね? かつて新快速が走っていた頃、青帯冷房付き113系が阪和線で最上位であり、主に快速として間合い運用非冷房赤帯113系は
少し劣るポジションとして子供ながらに認識してはいたが、同時に関西線では堂々と主役のHM付き快速として活躍していたのを見るたび
場所を移せば(環境が違えば)トップを取れてる姿が妙にかっこよく見えた。 211系は関西には導入されずに終わったけど、代わりに(?)221系が211系のシステムを踏襲してくれたから良かった 関西ではどうやら103の高運転台は不評だったみたいだな
JR西日本化後の先頭車化改造車が低運転台になった辺りも見れば分かる >>861
当時は急行きのくにでさえ非冷房がまだ残ってた時代だしな >>864
せめて美章園以南で
以北は阪和電鉄開業時から高架なんだから 一時期、阪和線の103系の前面に大和路線みたいに白い帯が巻かれている事があったそうだが、すぐに元に戻った模様 恐らく白帯車は京浜東北線との識別のため?
で京浜東北線のが引退したため阪和線は元に戻ったとかは? 阪和線のあの白帯は紀勢線(きのくに線)直通できるかどうかでは? ATS─SW取り付けた車両であることが分かるように付けたけど、全車両取り付け終わったので消すことになったとか。 ATS─SW取り付けた車両であることが分かるように付けたけど、全車両取り付け終わったので消すことになったとか。 阪和線の103系で特筆すべき点は本当に元京浜東北線車だったという事
京阪神緩行線は色こそ京浜東北線だったものの車両そのものについて京浜東北線走行歴は無かった 京阪神緩行線と大阪環状線は先頭車は山手線からの転入、中間車は新製
大阪鉄道管理局側の要請で中間車は新製となったかもしれないが僕は国鉄時代は生まれていないので国鉄時代の事はよく知らない
その後、京阪神緩行線から関西線と片町線に転属
そしてJR西日本化後に片町線から岡山/広島に転属したものと推測 国鉄時代に常磐快速の増強のために天ヒネから北マトへ転属した車両もあった。 JR初期の電車編成表の配置表に103系が東/西に関わらず連番で配置されててうおおってなった 113系阪和色、仮にあれが阪和色じゃなかったら普通に湘南色だった? >>876
国鉄時代には千葉地区に天ヒネから千ツヌへ転属した車両もあった。
オレンジのモハ72や113系ブルーライナーは新鮮に映った。 >>876
>>878
運転開始当初の阪和線の「新快速」に使用されていた113系は東海道線の京阪神快速からの転属車で、
湘南色を阪和色に塗りかえた車両だった。
その後も、スカ色や湘南色113系が阪和線に転属してきて、阪和色との混色編成の113系の快速や
新快速が見られた。 阪和色というか東海道山陽の新快速(ブルーライナー)色じゃないの? まあ今となっては阪和色のほうが通りはいいけどw
なのでそういう新快速イメージであの色になったんじゃないのかな。
混色というと73年関西線電化で春日色が出てきた頃、塗装が遅れたのか「クハ(春日)+湘南2両+スカ2両+クハ(春日)」という
編成を阪和線で見たっけな。 青帯と春日塗りで新快速のヘッドマークが違っていたよね? 春日色113系のHM、初期の快速HMは大型で2枚重ね。スケッチブックみたいに真ん中を支点(蝶番)にめくり下ろせる仕様で
上からめくると赤一色のHMになった。 >>877
例えばクハ103-1〜9が基本的に西日本なのに-4だけ東にいたり、クハ103-145〜212が基本西日本の中で-178、-179、-188が東だったりとか 同様に昔は大阪環状線と武蔵野線、福知山線と総武緩行線が同じ車両を使っていたらしい >>886
高運転台のクハ103は、クハ103−822まではJR東日本、クハ103-823からはJR西日本に所属していた 前頭板のタイプちがい、
青帯と春日色の差だったの?
単純に前期と後期の差だと思ってたんだけど 一時期は森ノ宮から高運を転入させて225-5000と共に低運を淘汰していた事もあったが、結局低運が後まで残った >>888
そういう事です。ただ末期の新快速(熊取とか停まってた時期かな)のHMが小ぶりな円形のものになって
青帯&赤帯関係なくそれを掲げてた。 >>892
堺市・鳳・和泉府中・熊取・和泉砂川・紀伊中ノ島 関空開業前は単なる現業面の区切りってだけだったからな。日根野 熊取なんて何にもないし市でなく町だし何で停まるのか謎だった。 熊取自体は町だけど、ニュータウンもあるし駅勢圏に泉佐野市もあるし。 >>899
それだとJRから堺と付く名の駅名がなくなる。 昭和50年代、紀伊中ノ島は快速は日中通過、ラッシュ時に何本か停車してた。
元々は和歌山線との乗換駅だったので阪和電鉄時代から優等種別も停車してたが、和歌山線が中之島を通らず
短絡線で和歌山に発着するようになって(昭和47年)すっかり寂れたのに継続して中之島に停車してた印象がある。 阪和と新京阪の共通点。伝説に残るような電車を走らせるも業績がイマイチで
戦争合併で短い生涯。でもその車両は昭和40年代まで元の職場で第一線で活躍 >>900
南海の堺と堺東が中心地だから敢てJRに堺が付く駅がなくても
いいんでないかい。 >>906
阪和線の通る市町村で、自治体名のつく駅のないところは
阪南市、泉南市、と和泉市(ここは微妙だな)
かな 泉南市の市政施行70年(昭和45)、阪南市では91年(平成3)で比較的新しい自治体なので
戦前から敷設された鉄道の駅名とするには少々似つかわしくない印象はある。。 >>906
政令市なんで、泉南や阪南みたいな他の市とは違う。 >>910
何故かイズミチュウオウは全国に3つもある。
泉中央(仙台市営地下鉄南北線)
いずみ中央(相鉄いずみ野線) >>912
その横浜市泉区にある「いずみ中央」は地名としては「和泉中央北」「和泉中央南」がある。
さらに「和泉が丘」も存在する。 仙台市泉区は元々泉市だったこともあり駅が所在する地名も泉中央。さらに泉ケ丘もある。 今の日根野支所ができた1970年(当時は鳳電車区日根野派出所)その前の日根野駅は普通と区間快速(直行)だけが停車? >>905
紀州路快速は2011年3月から、熊取から先は各駅停車となった
その代わり普通は日中は鳳止まり
区間快速が日根野止まり 都心から離れるに連れて段階的に本数が減っていく教科書的なダイヤですね >>921
終点できれいに接続があればいいんだけどね >>920
そんなこと承知の上に決まってるだろ
快速運転をする快速は紀伊中ノ島通過
熊取から各停の紀州路快速こと各停は紀伊中ノ島停車
それだけ >>923
とはいえ種別は紀州路快速だし、区間快速もそう。
直通快速の大阪環状線区間みたいに種別を変えていないんだから快速の仲間にはかわりはない。 895他
熊取は原子炉のある某大の研究施設がある
なんかそっち関連と引き換えに快速停車させたとか何とか
話を聞いたことがあるが本当なん?
そも停車駅の推移を知らんので詳しくない >>925
それは都市伝説だと思う。
利用者が多いからだろう。 熊取から山側(東側)に行くと結構大きな住宅地があるんだよね
そこの利用客が多いのかなぁ 南海くまとりニュータウンは1973年事業開始だからまだ人口が急激に増える前。
熊取町公式の「歴史」にこんなことが記されている。
↓
昭和38年(1963年)に、京都大学原子炉実験所が設置され、熊取駅が快速停車駅となったことで丘陵地を中心に大規模な宅地開発が活発となり、人口も急増、農村型集落から大都市近郊住宅都市へと変貌してきました。 熊取は町なのに何で快速が止まるのか疑問に思う人が多い様だけど、
地図見ると泉佐野市との境界近くなんで、泉佐野市民の利用も多いと思う。 和泉府中駅の利用者も泉大津市民がまあまあいるというのも同じ。 >>932
泉大津市にはJRの駅ないけど、和泉府中駅のすぐそばに市境が有るし、
少しだけどJRが市内を通過している。 JRは駅名は「和泉〇〇」と付けるのが慣例?なのか。南海には泉佐野、泉大津、泉ヶ丘と和泉大宮と混在。 市制施行で市名が泉大津・泉佐野になったことから駅名も泉大津・泉佐野に変わったという経緯があるからね >>934
和泉府中、和泉橋本、和泉砂川、和泉鳥取…
みんな既存の駅名があるから、混同防止のために旧国名を被せたんでしょ
…とはいえ、府中と橋本は国有化前から和泉を付けていたのは興味深い。 基本は旧国名だから「和泉」。
「泉」は市制移行時につけたもの。
これは例えば泉大津市の場合、和泉町→和泉市と混同されるのを避けたため。
とはいえ、平成の大合併後に丹波市があるのに篠山市があえて丹波篠山市に変更とかややこしくしている事例もある。 >>938
和泉砂川は村の名前とった信達から近くにある砂川遊園にちなんだ砂川園って名前かえたのに今は砂川遊園ないんだよね
砂川って地名もないけど学校の名前にはなってる
不思議な感じだわ 南海に関しては自治体の名称で駅名ネーミング、阪和は旧国名でネーミングか。(基本的に)
まあそもそも地域の認識として「和泉」と「泉」が混在してるのがややこしい土地だなw >>943
>>940
ナンバープレートについては当初原則1文字だったから和歌山の「和」と混同しないように泉になった。 鉄道の話ではないものも書いたが和泉≒泉繋がりで関係はある。
砂川はやはり信達が馴染むかな >>936>>937
いずれも市制施行時に、すでにある市と同じ名前は名乗れないので
泉大津、泉佐野、河内長野になったんだよね
狭山町が狭山市ではなく大阪狭山市になったのも同じ事情 熊取町はなぜか泉南郡のまま飛び地状態になってる。本来なら?泉佐野市に含まれてそうな地域だが。 郡は今となっては住所表記でしか意味がなくなっていて、郡という組織は存在しない。だから気にもしていない。 郡に1つの村か町しか無いところあるので
郡庁や郡会あったら面倒なことになったかも。 平成の大合併で都道府県内同一町村名が激減してだいぶ整理されたから郡の表記はもういらないような
昔は現在の美章園駅以南は全部郡だったな 昭和50年代、快速が東岸和田通過で熊取停車というのが子供心にも違和感あったな。
まあ南海岸和田のほうが市街中心で特急停車も当然のような感じで、阪和のほうはまださほど賑わってる風情はなく
通過も仕方ないのかとは思ってたが、それでも熊取のほうが快速停車で格上的に感じさせるのがちょっと腑に落ちなかったような。 >>947
市制施行時に同名の市が既にある場合認可されないことになっている。
読みが同じなのは認可される。例えば佐倉市が既に存在するけどさくら市は認可された。
ちなみに府中市は広島と東京にあるが、これは同時に申請されたという偶然によるとか。 >>955
認可されないのではなく、今でいう「忖度」です。
あくまで総務省では「同一市名は望ましくない」という「方針」。伊達市は2006年に成立しているから泉佐野市や泉大津市なんかよりずっと最近。 >>957の伊達市は福島県のほう。
北海道伊達市は1972年。これでも泉大津市や泉佐野市よりも遅い。 明治期の南海鉄道の案内誌には単に「佐野」や「大津」とあるな
自治体名でなく駅名の話になるが
千葉の勝浦なんか移民先のほうが単なる「勝浦」で
本家本元が「紀伊勝浦」と割を食ってたりする
自治体の命名に関してもある程度しそういうのは仕方ないね
その土地内では昔からの地名であって真似してるわけでもなく
単に他地方とダブってる状態だけなわけだし その、千葉と和歌山と徳島の勝浦は仲が良い
ビッグひな祭りなんかは、徳島の勝浦が千葉の勝浦へ提案したとか。 伊達の場合は元々北海道の伊達が福島の伊達から移住した人たちなんで
伊達市にしていいかと問い合わせたら「そっちが本家なのでいいです」
となったとか >>963
そういう昭和民的な寛容さも
現代人からは失われてる気がする
もし仮に今同じことがあったとして
そんな鷹揚な同じ反応できるかな?
とも思う 東京と広島の府中は仲が悪い。
現在の宮古島市が、合併の際に宮古市を名乗ろうとしたら、
岩手の宮古市が苦情をいれたために、宮古「島」市となったいきさつも。 摂津市は元々三島町で市制施行のときに「三島市」にしたかったが
すでに静岡に三島市があったんで摂津市にした
今なら「大阪三島市」あたりにしたかもしれない 阪和線に「紀伊」と言う駅があるが旧国名だけドンと名付けた駅というのは珍しい? みんな譲りあって仲良くしようよ。
戦国時代はもう終わったんだから。
グローバル、グローバル! 和歌山市内に紀和も紀伊も現住所にそういう名前がない
三重県紀和町と言うのはあるがw >>979
個人的意見ですが、国立と同様に、当時の両隣の駅(紀伊中ノ島、和歌山市)の頭文字を合わせたもの、と自分は考えています。 >>979
近くに紀和遊園とかがあったんじゃないですか
知らんけど >>980
和歌山県と奈良県を結ぶ「紀和鉄道」が由来では?和歌山駅から改称時にはずいぶん月日が経ってはいたけどw
ちなみに夏の高校野球の代表は1977年まで和歌山県と奈良県のそれぞれ1位校が争う「紀和大会決勝」で決していた(一部記念大会は和歌山と奈良でそれぞれ1校ずつ代表) 南海とは昔からライバル関係にあったけど、関空に乗り入れが決まり、双方が同じ線路を走る日が来るとは・・・
それを知った時は思わず号泣してしまった。 昔は鉄道が輸送の主役で道路が貧弱だったというのもあった。
あと、阪和の都市間ではなく、沿線開発によってどっちの沿線を選ぶかというフェーズがあった。成熟してからはライバルというよりむしろ棲み分けと補完の関係。 阪和線(阪和電鉄)は建設当初から紀勢線南紀方面への客貨輸送も視野に入れてたからね。 >>985
これにより南海が狭軌である事が分かりやすくなった 阪和電鉄は構想時点では標準軌を採用することも考えられていたとも言われている
その場合紀勢線直通を諦めざるを得ないが
南海に勝つためには高規格にするしかなかった 駅を少なくすればよかった
大阪市内を出たあとは鳳、府中、砂川だけなら和歌山まで30分も夢ではない 今はほぼ並走してるなんば~尾崎は天王寺~和泉砂川よりだいぶはやいんだよね
阪和線、意味ないじゃん 京阪神間ならともかく阪和間にそれほどの需要があったのかね >>993
昔はまだあったんだろうけど、今はねぇ・・・ 平成元年頃、朝の快速の主役は103系だった
出始めの221系に乗れる東海道山陽ユーザーが羨ましくてのお 103系で1時間トイレ無しは頻尿の人にとっては厳しい このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 2016日 2時間 10分 8秒 5ちゃんねるの運営はUPLIFT会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《UPLIFT会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
4 USD/mon. から匿名でご購入いただけます。
▼ UPLIFT会員登録はこちら ▼
https://uplift.5ch.net/
▼ UPLIFTログインはこちら ▼
https://uplift.5ch.net/login レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。