昔の国鉄阪和線
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大阪〜和歌山間を結ぶ重要路線でありながら
その生い立ちゆえに陽の当たらなかった阪和線の思い出スレ 阪和線の113系の前面方向幕の旧幕の行き先には「区間快速 天王寺―御坊」、「羽衣線」も入っていたが、
113系は最後まで羽衣線に入線しなかった。 和歌山ローカルの話。
JR和歌山出て数百メートル北(天王寺)行くと道路がオーバークロスしてるが
以前は道路は地上で「北第1踏切」という踏切が設置されてた。
83年(昭和58)頃まで有人だった。子供の頃よくここで電車を見ていた。
コーナンなんかもちろんなく、捺染工場があってインクの強烈なにおいが漂っていた。 高架化前、下松~東岸和田間にあった戸梅踏切は警報機だけしか設置されてなかったがこの踏切で人身事故が
発生後、遮断機が取り付けられた。
この踏切の先の和歌山寄りにあった小土野踏切は遮断器も警報機もない4種踏切だったが、自動車通行不可で、
またこの踏切を渡る人もほとんどいなかった。
現在はこの2つの踏切は高架化により廃止されている。 キハユニ16か。
天王寺15時くらい発の「きのくに」の先頭につないでたな。で和歌山15時50分くらい着やったか。
和歌山でキハユニ16切り離して「きのくに」は16時くらいに先発、そこで和歌山に先着してた(と思う)和歌山市からの
キハ35の4両編成周参見行きにキハユニ16を先頭にくっ付けて、16時何分かに周参見へ。
だったかな? 紀勢線電化(78年)ちょい前のヒトコマですお。。 そのキハユニのハは客扱いしていたのかな?していたなら過去に戻って乗りたいな。 きのくに運行時(天王寺〜和歌山)はしてなかったように思う。
紀勢線内は客乗せてた。自分も乗ったから。
クロスの背もたれが低い初期タイプと高くなったのと2種類あったように思うんだが、
記憶違いかなあ。。和歌山線に中間車改造のキハユ15があって、こっちは背もたれが
高かったのは覚えてる。 まあでも阪和線内のキハユニ16の画像とか見ると人が乗ってる感じのがあるんだが、
あれ職員かな。。想像でしかないw 45年くらい前、午後2~3時頃の和歌山方面行きの先頭に新聞積んでた
今はさすがにないよね >>520
地方のローカル線ならまだ残っているようだ。
先日成田線、成田ー佐原間を乗車したところ、最後部の一部をシートで仕切って荷物室って書いてあったし。 新聞に限らず鉄道の荷物・貨物輸送はもっと復活していいと思う。 貨客混載ならすでに増加中。
阪和線もそのうち閑散時間帯でやるんじゃないかな?
夕刊がなくなりつつある新聞はもう増えないだろう。 紀南方面に自動車道が伸びてきてるから漁港から大阪方面は機動力のあるトラックが便利。
阪和道なんか保冷車飛ばしまくりw 紀勢本線・阪和線で海産物運ぶメリットとしては、定時性と、駅ビル、駅ナカ飲食店にダイレクトで届けられる(トラックの駐車場所や荷卸しスペース・時間不要)ってとこかね
天王寺や大阪の駅直結店舗にとってはありがたいかも >>516-517
昔のことだから(良い意味でユルい)
いったん断られたとしても
希望すれば乗れたでしょう。 津山線のノスタルジー編成を借りてきて、きのくに、しらはま復活運転しないかな。 杉本町駅6番線。かつては2番線とは繋がっておらずに貨物しか入らず、待避列車は本線から直接2番線に入っていた。なので、大和川渡った後もしばらく加速していた。
現在らこのようなルートで走行する普通は夜間しかないが、はるかが大阪環状線に行けずに抑止したり故障車を閉じ込めるためにら6番線を使用している時にたまに本線から2番線に入ることもある。 >>528
今では支社界超えのレンタルすら困難な時代になってるから無理だろうね。
車両面だけでそんな状態なのに
ハンドル訓練やら停目やらの調整も必要
国家規模の肝入りなら可能性もあるが、
沿線自治体やJR支社が企画したとしても現状まず困難 senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2017/09/03/1983122.jpg
昔は竜華操車場とのアクセスだけだったな。 >>531
かつては、日立ポンパ号やオリエント急行のような奇想天外な企画もあったんだけどな。
国鉄時代のほうが柔軟性があったのかな? >>533
オリエント急行はJRになってからじゃね? >>534
そう。昭和63年だからJRになった直後だね。
その頃はまだ、JR間の絆があったんだね。 しかし、まさか国鉄時代は日根野電車区が浦和電車区との絡みがあるとは思わなかった かつての京浜東北線が阪和線とそっくりな車両だったので、これは阪和線は京浜東北線からの転入車両を使ってると冗談で言おうとしたらまさか当たってたとは… クハ103-53
この車両は国鉄末期の広域転配で豊田電車区から日根野電車区に転入してきて、
4両編成の混色103系の天王寺寄りにオレンジ色のまま連結されていたが、
のちにスカイブルーに塗りかえられて、冷房化された。 日根野から千葉(千ツヌ)にもたくさん広域転配されていた。
オレンジのモハ72や113系ブルーライナーを我孫子駅で見た覚えがある。 阪和線は元京浜東北線、大阪環状線と京阪神緩行線は共に両端先頭車だけ元山手線 86年10月まで東岸和田は快速通過だった。和泉府中を出て熊取まで通過。
その頃まで「南海は岸和田は特急も停まるけど阪和は快速停まらんてエライ差ァつけてるな、
何でやろ・・」とずっと子供の頃から思ってた。貝塚(東貝塚)も同じ。待避線もあるしまあまあ大きいよね。
市の代表駅としては国鉄私鉄双方あっていいと思うんだが、やっぱ阪和線のほうはちょっと
一段階落ちるんか? 逆になぜ熊取(みたいなあんな田舎の駅w)が古くから快速停車駅なのかと言う不思議。。
ちなみに地元民じゃないので実際のあの辺の空気と言うか状況はあまり把握してまへん。 阪和線のラインカラーがオレンジなのに103系の色が青だったのは、京浜東北線からの転入で改造を必要最小限にするために外観では所属表記の書き換えのみに留めたからだったのか(などと) >>542
当時は「ラインカラー」は導入されていなかった
今のオレンジは和歌山みかんと太平洋の陽光に因んで、JR化後大分経ってから設定されたものではないか >>541
東貝塚は後にユニチカになる工場のためにできた駅ですね
熊取は確かに不思議ですね
和泉砂川は砂川遊園があったんで快速止めるのは分かるのですが 三国ヶ丘は快速停車になってかなり経つけど、南海の急行は今でも通過なのはどうしてだろうか? >>545
中百舌鳥もそうだけど、乗り換えられたくないみたい
阪和線快速は停車駅倍増で天王寺~和歌山間が遅くなった
三国ヶ丘・東岸和田・日根野・紀伊・六十谷
昼間は日根野での連結・切り離しと長滝~紀伊中ノ島の各駅停車 乗降客増加で快速が停車になったという話もある。
三国に限らずだが、結局阪和線快速の停車駅増加も集客見込めるからと言う感じで
昔のような天王寺と和歌山の速達使命がさほど重要でないのは末期新快速の停車駅追加で
とっくに実証されてる話とも思う。 熊取は京大原子炉ができたから快速停車になったとかじゃなかったっけ。 >>546
南海の場合は自社線は難波で止まってしまうからね。
なにわ筋線できても高野線からは直通しないだろうからこのままかも。あとは準急に格下げしてしまうか。 >>548
天鉄局の人が京大出身で、原子炉と話がついたとかなんとか 東岸和田が昭和61年11月改正で快速停車駅になったのは岸和田市の人口が増えてきたこと、
岸和田市の発展が目ざましいものもあり、国鉄・天鉄局・岸和田市が協議して、東岸和田が快速停車駅になった。 103系は結局、高運転台車の方が先に消滅してしまった
多分羽衣線があるために取り扱いの面で低運転台車を後に回したかもしれないが >>548
京都大原子炉は2026年に運転終了予定らしい。
だとすると、快速通過になるのかな? 国鉄時代に標準の運転台でユニット窓、ブタ鼻シールドビームの冷房付き103系って阪和線運用あったのかな?
京阪神緩行、環状線ではよく見かけた。関西線も入線してたかな? >>554
昭和59年頃、ブタ鼻シールドビームのクハ103が先頭の非冷房の103系が
京阪神緩行線から阪和線に転属してきて運用開始された >>555
あー、その辺の頃か。
高運転台の103系って80年(昭和55)10月だったか、いわゆるATC準備型の冷房付きが
新製投入されたのは記憶にある。それまで旧来の転属組の103系ばかりで、相変わらず阪和は
お古ばっか回されてるなあ、と思ってたw >>547
てか単に直通速達需要は「特急をご利用ください」でしょ 205-1000も223-0も南海対策で急遽計画されたものだったとか 昔の阪和線と言うと、オレンジのモハ72とスカ色の70系、急行型の気動車ばかり連想する。
でも今は223系と225系の天下。羽衣支線さえそうなので隔世の感がある。
ただ、頭端式の天王寺駅ホームに佇んでいると昔と変わらず、旧型国電が入線してくるような錯覚に陥る。 羽衣線に225が使われるようになるとはまさか思ってなかったので未だになんか慣れないw 途中で増解結させるよりは同じ車両で走らせ続けたほうがいろいろと楽。趣味的には5000番台も223系も共通運用してもらいたいぐらいだが、ワンマン運転対応はそこまでしなくても良いだろう。 昔は電機もED60&61やゴハチが末期まで活躍してて独自色があった。
キハ81ブルドッグも終活の地だった。色々お古回された阪和線だが反面、マニアには
興味の事欠かない路線だった。 3ドアのクロスシート車で統一されるなんて誰が予想しただろうか? 環状線まで超ロングシートになるんだもんなぁ
びっくりだわ そもそも103系も導入当初は快速増発で投入したから通勤形と近郊形の境目はそんなになかったと思う。きのくに線まで運行してたこともあったし。むしろ京阪神緩行線のほうが今も昔もビシッと分けられてる。
その究極形が現在の阪和線3ドアクロス統一。関空輸送対策で座席は少ないけど詰め込みにも閑散時の輸送にも無駄が少なくて上手く活かせた形。 113系が検査かなんかで代わりに103系が新快速に使われたこともあったな。
新快速マークを描いたビニール幕?みたいなの掲げて爆走してた。 >>569
夕方に、天王寺→紀伊田辺なんていうのもあった。
京葉線の東京→勝浦といい勝負だった。 一応、JR化後も、黒幕になるまでは103系に「新快速 天王寺」「新快速 和歌山」の幕が入ってたはず >>569
クロス車の旧来の既成概念だけでは実現は無かっただろうね。
どれが先かって順番とかは判らないけど、
「バリアフリーの浸透」「片側1列への気づき&実施」というのを経て
クロスなのにクロスのまま詰め込むこともできる、というのが
実現したみたいな印象。 信楽高原鉄道事故や福知山線脱線事故が無かったら、JR西は阪和線向けの207系を
大量増備して103系をすべて置き換えていたかも。
その時の207系は京阪神緩行線用とは帯の色が異なり、スカイブルーの帯になっていたかも >>575
信楽/尼崎というより震災が無かったらでは?
阪神大震災が無かったら間違いなく1997年以降に207が南アーバンにも投入されてただろうし、0番代3連(現実では無理矢理1000番代のモハを挿入)の処遇も違っていたかもね
223-0ももしかしたら207を阪和に導入する事を前提にしていたかもしれないし 223-0は207-1000とシステムが共通で、というより南海対策で急遽207-1000のシステムを流用して223-0が設計された
(設計順位としては1000番代の方が先、そのため登場が1000番代の方が後ながら0番代がビードレス車体、1000番代はビード車体になっている) 103系は私鉄では東武8000系より小田急2600形の方が近かったと思う
東武8000系は高速型で103系とは異なるが、小田急2600形は103系同様に低速型だったから
(しかしその小田急は2600形同等の車体で高速型の5000形/5200形に移行するが) 阪和線は3ドアクロスシート車に全て変わってしまったが、南海には片開きドアの6000系が今でも元気に走っているのを見ると嬉しくなる。
ワシとそうかわらない年齢、ワシも頑張らねばと改めて思うのだ。 尼崎事故が無かったら321系が南アーバンにも導入されていたかもしれないと思う
201/205-0転用でも置き換えきれなかったからね 運用がめんどくさくなるからやらなかっただろう。
泉州地域〜和歌山間で人口増加している予測があるならそうだったかもしれんが、減少しかない未来では結局現在とあまり変わらなかっただろう。 旧国がまだ健在の頃、4扉3扉混結してたがホームでの乗車位置とかちゃんと区別させてたのかな。
よく線路わきに「○○乗車位置」みたいな看板?がずらっと並んでるが、当時(77年3月以前)は
まだ設置してなかったか。新快速は乗車位置をホーム上にペイントしてたのは何となく記憶にある。 >>582
その頃は整列乗車って概念自体がなかったなあ ターミナル駅だと大体、乗車位置が示されそこに整列っていう認識はあったと思う。
南海だけど新性能化が完了した後だが、4扉2扉しっかり編成区別されてたから
四国号や急行とか優等種別なんかは並んでたな。 そのとおりなんだけど、583さん含めて
そういう乗る側の認識の問題じゃなくてさ、
事業者側つまり国鉄側が混沌というか「ない混ぜ」だったんだよ。
それが言いたかった
気動車だって混成だったでしょ。
乗車位置の観念は、無いとは言えないが、希薄だった
そういう運行面の都合でさ。 和歌山駅の新快速の乗車位置ペイントってまだ残ってるのかな? 僕は阪和線の103系を初めて意識したのは2010年頃なんだけど、その阪和線の103系が京浜東北線からの転属車だったのを知ったのはつい3年前の事 >>590
べつに全部が全部、京浜東北から来たわけじゃないんだけど 国鉄時代の103系でもドアの車内側が鉄で緑に塗装されていたのとステンレスだったのと二種類存在してた。 >>591
クハ103-15〜16、クハ103-17〜18といったド初期車の連番で組まれた編成は山手線出身で転属当初は正面に黄色の警戒色が入って関西線色になってたな 昭和43(1968)年の阪和新性能化第1陣の103系6連×4編成は新製投入なので
ステンレス扉だったな。旧東和歌山も和歌山に改名、ステーションビルになって
阪和線和歌山口も一気に現代的になった。 58 名無しでGO! sage 2023/05/22(月) 22:10:41.38 ID:jEzAOX+g0
阪和の天王寺に突っ込んだ事故のニュース映像をYouTubeで見たが、インタビューで現場が直すよう苦言しても一切直さなかったって言ってるな
現場の声を軽視する体質は当時から全く変わってなくて笑うわ 修理代をケチって大事故になって結局多額の賠償金を払わさせる羽目に 阪和線103系はいくら大半が1964〜1967年製とは言っても阪和線に来たのはだいぶ後なんだよね
ここが同時期の関西私鉄車両とは違うところ 113系は詳しくは知らないけど1964年に京阪神快速に投入されたんだっけ? >>594 68年の東京周辺であれば、中央快速の乗入れではあるが青梅線でも新性能電車走ってたし、中央・総武緩行や常磐線でも新性能車投入がかなり進んでたのでは。
大阪環状線でも72系が相当数走ってた頃か。 68年に新性能車初めて導入ということは、東京の私鉄では8000系入り始めた東武東上線と同様と考えればよいのか。 今の阪和線は223・225系に統一され隔世の感があるが、たまたま天王寺の行き止まりホームにいたところ、列車が全くいなくなった。
ホームのドームは昔から変わらす、今にもオレンジのモハ72が入線して来るように思った。 今の阪和線は223・225系に統一され隔世の感があるが、たまたま天王寺の行き止まりホームにいたところ、列車が全くいなくなった。
ホームのドームは昔から変わらす、今にもオレンジのモハ72が入線して来るように思った。 >>603
その223系も一部が嵯峨野(山陰)線に転属 ライバル南海の新性能通勤車は63年(昭和38)にすでに7001系をデビウさせていた。木目のアルミデコラにファンデリア、
住友ミンデン台車(空気ばね)にふかふかのモケットロングシートで乗り心地、アコモ共々上々だった。 >>606
その南海7000系は台車が東武8000系に類似してたな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています