昔の国鉄阪和線
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大阪〜和歌山間を結ぶ重要路線でありながら
その生い立ちゆえに陽の当たらなかった阪和線の思い出スレ 羽衣支線
乗ったのは、クモハ60001、旧型国電がなくなる一か月ほど前
オレンジの旧型に乗車できたのはこれだけでした
多くが天理に留置、乗りたかったですね
でも最末期でも、乗れただけよかった… 阪和線は青かったから、京浜東北線のお下がりって言っても違和感なさそうだと思ったがまさか本当に元京浜東北線車があったとは… 昭和47年から52年あたりまで 新快速、鳳停車45分、
快速、堺市・鳳・和泉府中・熊取・和泉砂川停車で53分 この頃が最速か。
キハ80系くろしおが無停車で45分、きのくには48分だからやっぱ電車は速いな。
ちなみにその頃南海は 特急が新今宮・堺・岸和田で54分、
急行が新今宮・堺・羽衣・泉大津・岸和田・貝塚・泉佐野・尾崎・みさき公園で64分だったと思う。
こっちもこのあたりが最速か。 >>390
当時の南海はまだ架線電圧600Vだったと思う… >>391
当時の南海は客車を牽引し、国鉄に直通していたね。 冷房化は新快速用に投入した113系3編成からスタートしたけど
その後の進展ってどんな感じだったかな。103系の冷房化なんて随分後のような記憶。 もしかしなくてもATC化が無ければ直接103の冷房車が新製配置されていた可能性は? 昔の京浜東北線の写真を見て「阪和線なのに、なぜ関東の行き先?」と思ったことがある
それも京阪神緩行線は偽物(元山手線車であるため)だったのに対し阪和線は本物(元京浜東北線車)だし 一時期103系のロングラン運行が有ったね。
天王寺発紀伊田辺行き快速なんてのもあった。
時を同じくして、京葉線でも東京発勝浦行き通勤快速があった。
103系自身もこんな長距離の運用につくとは思わなかっただろうな。 >>397
スレチかもしれないが103時代は勝浦まで行ってなかったみたいなんだが >>398
末期にはあったよ。ググれば記事や画像出ると思う。 >>390
当時は最高速度95km/hでしたか
それで45分は驚異的
最速時はくろしおで天王寺〜和歌山38分でしたね
南海は天下茶屋・泉佐野・尾崎・みさき公園・和歌山大学前の5駅追加停車で58分だから
こちらは最高速度向上(105→110km/h)効果があるようです 一時期、千ツヌに天オトからオレンジのモハ72や、その数年後113系の阪和色車がかなりの量転入してきた。
千ツヌの運用があった当時、成田線我孫子口でもその姿を見ることが出来た。 >>394
関西本線の湊町口を電化(1973年)するために、まとまったかずの113系の6両編成(クーラがないレッドライナー)が鳳電車区に入ってきたんだ。
それが阪和線用と共通に運用される状態が、紀勢本線の和歌山〜新宮が電化されるまで、つづいたんじゃなかったかな。
紀勢本線の電化開業のとき(1978年)に、まとまったかずのブルーライナーが入ってきたはずだよ。あたらしくつくった2000番台や、クーラがない6両編成・4両編成もあったね。
桜井線と和歌山線(王寺〜五条)を電化するとき(1980年)にレッドライナーが増やされて、あたらしくつくった2000番台や、クーラがない4両編成が入ってきてる。
この状態で、関西本線の車両基地として奈良電車区に分割されるまで、推移したはずだよ。 >>397 本線筋にマスカットの姫路〜三原とかもあったはず。岡山から姫路しか乗った事ないが、あれのフル区間は天王寺〜紀伊田辺に匹敵しそう。 >>387
初めて乗ったとき、オレンジのモハ72が新鮮だった。 >>404
自分も同じ感覚でした
ただ、70系+モハ72の編成では、70系に乗ってしまった
45年前でしょうか ホーム長が絶望的に短いという理由もあったんだろうが、紀勢本線直通は天王寺和歌山間
61.3kmをノンストップというのも不思議な感じだった。
コロナで客が減ってるとはいえ、今の快速の5+3などの最大8両編成もちょっと短いと思う。
おそらくだが、大昔から長い貨物が走ってた南海のほうが、線内優等10連にするときの
手間は低そう。実現はしないだろうけど。 天王寺和歌山間で最速38分の時代もあったのか
これがスタンダードになってたなら和歌山はもう少し発展してたかな >>406
まあ南海は泉北高速直通の準急で10両運転をやった実績があるからな。
南海本線での10両運転は泉佐野以南の凋落ぶりをみればもう実現しないんじゃないかなと思う。 >>407
それは和歌山市だけにもたらされる効果であって
和歌山県全体の発展にはならない
串本や新宮には… モヨとかモタとかの阪和電車の戦前のオリジナル形態は
なんで尾灯が左右対称についてないんだろう
デッサンが下手なひとが描いたみたい >>410
運転席側は標識灯
助士席側が尾灯
らしい。でもフツーなら位置くらいは合わせるよね。 和歌山まで標準38分なら勤務先が天王寺界隈なら十分通勤圏に入る >>412
ありがとうございます
阪和の顔つきで戦後も発展して近代的になった姿を空想してしまった むかしの『快速』
天王寺-鳳-和泉府中-熊取-和泉砂川-紀伊中ノ島-和歌山
むかしの『直行』
天王寺-堺市-鳳-和泉府中-(各駅)-和歌山 たまに乗ると隔世の感があるね。
モハ72にはよくお世話になったもんだけど。 南海の岸和田は特急停車駅やのに
阪和線は優等通過っておもしろいな
よっぽど人が浜側にしかおらんかったんか? 人里離れた山側を走ることで途中停車を極力少なくして阪和間を直結しようとしたのだから
むしろ今のように山側にも宅地が広がって途中停車のニーズが高まる方が不都合だね 東和歌山時代は阪和電鉄の名残で櫛型のホーム使ってたが、
昭和43年(’68年)に和歌山に改称されて駅ビルになっても、しばらく櫛型ホームが
阪和専用に残ってたな。あのホームから103系快速に乗った記憶がある。あやふやだけどw 1977年(昭和52年)
3月15日:熊取駅・和泉砂川駅が新快速の停車駅になる[37]。
3月27日:羽衣線の運用車両を旧型車両から103系に置き換え[84]。
4月14日:この日限りで旧形電車の運行を終了。最後まで残ったのは70系4両とモハ72の2両であった
1977年だからもう45年前になるか
45年前までそれこそ電車の墓場と言われていた阪和線が支線を含めこうなるとは誰が想像したろうか
1977年2022年同じカレンダーだけに >>416
確かに。ここまで変貌するとは思わなかった。 高速運転の多い宇野線のクモハ84と羽衣クモハ123をトレードしたら長持ちしたかも。 >>421
その、77年3月下旬に、新快速に熊取まで乗りました。
快速とあまり停車駅が変わらなくなったような…。
支線は、ギリギリで旧型電車に間に合いました。
73623-60001-79382の様でした。
本線は、76-72-72-70-70-76と、76-70-72-70-70-76の二本が、
ネガをスキャンしたらわかりました。
でも、複数の同行者は、キハ81-3と5が本命でしたね。
ネガの劣化が厳しいです。 関空に行ったとき、JRと南海が同じ線路を走っていることに改めて感激した。
成田空港はJRと京成が乗り入れているが単線並列。三線化したらどうかと妄想したものだ。 90年代まで山中渓と尾崎を結ぶ南海バス路線があってそこを走る府道が阪和線と隣接してて
南海の赤い円形のバス停が点在してるのが見えたな。大阪地区の最南端路線だったか? 岩出から和泉砂川を経て樽井に行くバスに乗ったが砂川ではほとんど乗り換えがなく樽井まで乗り通していた
樽井なんか普通しか停まらない小駅なのに… 2006年だったら南海は日中も区間急行が毎時2本走ってたんじゃない?後は当時イオンモールが珍しい時期だから泉南イオンの最寄りってのもあるんじゃないかね 岩出在住の人らは阪和線利用と言うと、紀伊までバスそこから阪和なのかな?
今は快速も停まるが、昔は通過してたし和歌山線で和歌山まで行ってそこから阪和だったか。 天鉄局スレ、落ちたのか。
天王寺駅の1-2番線が、往年みたく
人であふれる日は、また来るかな。
自分が知る限りでは
2017年夏のパンダくろしお出発式が
現時点で最後。
それより前に、頭端ホーム発の
臨時くろしおは消滅してたからね。 パンダくろしお、現役続行中なんだな。
いま調べて驚いた
この手のものって一時的で
目立たぬように消えてたってパターン
多いからね。 もともと期間限定でも好評のため延長ってのも結構多いよ オレンジの旧型車両が百鬼夜行していた頃が懐かしい。
今では隔世の感がある。 旧国時代に和歌山〜紀伊折り返し運転が日に1〜2往復かあった。
あれはなんだたんだろ。時間帯的に和歌山構内にいると邪魔だったのかな。 というか、山中渓へは県境越えになり
利用が少ない区間。
和歌山側通勤圏の末端駅で折り返していた
ということでは。 和歌山~紀伊の運転なんかあったのな
なかなかきめ細やかなサービスだ
>>439氏御指摘のように県境が乗客流動の限界になるので
そこまでは最低限の輸送力を保証しましょうという考え
昔の国鉄も捨てたもんじゃなかった 行政からの要請があったんよ
通勤通学難民を作るなっ!て 他に交通手段はなかったのかな
路線バスなんか普通にありそうだよ 103のクモハ編成は両端クハ編成と比べて不評だったとかなんとか >>447
多分ウテシ
そもそも国鉄やJRのウテシは先頭Tcのほうが馴染み深いだろうし
国鉄は電車ならば先頭は付随者であるべきというポリシーを80系辺りから持ってるらしい >>436
一時期、123系が入ってたな
今、宇部小野田線で走ってるやつ >>5
堺市駅は堺東や堺駅に比べるとショボすぎるので、堺感ゼロ >>452
あれでも相当色々できたんやで
国鉄時代はマジで周りになんもなかった >>452
JTBの時刻表だと堺東が市の代表駅なんだよな 下松駅は開業する前、駅名として「岸和田中央」「常盤」なども考えられていたようだが、
岸和田市下松町にあることなどから、「下松」という駅名が採用された。 昔、堺市通る時に「中川ムセン」の看板が見えたな。
あと和泉橋本辺りだったか毎日牛乳のでっかいハリボテの牛乳瓶、今もあるのかな?
上京して随分経つので知らない。。 >>457
毎日牛乳のハリボテの牛乳瓶は今でも久米田~和泉府中間にあるよ。
津久野駅前にあったパチンコ「阪和線」はもうないし、津久野駅付近ないから見えていた
「霞ヶ丘マンション」と書かれた古びた建物のマンションも今はない >>458
ありがとう、まだあるのねw
あれを見つつさらにアンダークロスの水間鉄道の500型(南海1201型)と遭遇と言うのが当時の車窓の
自分的に醍醐味だったような。。
それと阪和線の天王寺よりはもうほぼ高架なんだっけね。以前のシャープ本社や付近のため池とかもう見れないのか。 >>452
名前だけ「堺市」駅なだけで
駅規模や周辺はいつまでも旧駅名「金岡」のまま。
徒歩圏内に火葬場があるし >>457-458
奈良線に乗ってると瓢簞山駅付近に見える角柱の広告塔、
白地に赤文字、昔風のゴシック文字で「毎日○○」
古いので赤色が焼けて劣化している。
電車に乗って見てると、下半分が建物でチラチラしてよく確認できない。
車窓に見流して数年、いちどハッキリ見たいと思った。
で、ビジュアル的に毎日新聞ではないので、
「毎日牛乳」だと思い込んでたんだが、まさかのパチンコ店「毎日会館」。
つい先だって閉店したそうです。
https://goo.gl/maps/eBG6hiEqYQLqiafD8 まあ、何はともあれ堺市は政令指定都市だから頑張ってもらわんとな。 >>4
地下鉄の「新金岡」を見て、じゃあ、新ではない元の金岡ってどこなん?って思う人々も多いことだろう >>429
泉南イオンか、ネット界では日本一有名なイオンモールだな >>82
ラピートは阪急経由天下茶屋接続で間接的に京都や北摂ともつながっているという考え方もある >>466
堺市北区金岡町は南海高野線白鷺駅付近にあり、阪和線堺市駅とはかなり離れている 今ならJR堺・JR岸和田・JR貝塚・JR泉佐野だったかも。
ていうか国鉄○○ってつけたがらなかったな。 >>470
国鉄時代は大体が、私鉄駅名に方角か「新」をつけてたね。関東でも「新子安」とか「新秋津」とかね。、 新子安は京急の方が先に開業したのに駅ができるからと名前を変えさせられたいう過去がある
小田急相模原も同じ 営団地下鉄では営団赤塚、営団成増があったけど、東京メトロになって地下鉄赤塚、地下鉄成増になった。最初から地下鉄で良かったのにな。 昔と言うか、今も残る和泉砂川や長滝、東佐野あたりの阪和電鉄の名残をとどめる駅舎。
南海も浜寺公園、諏訪ノ森の旧駅舎や蛸地蔵のような戦前からの建築が魅力的で、かつての
ライバル(今もだけどw)同士しのぎを削ったであろう時代に思いを馳せるのも乙なのだ 2/12に梅田の切替工事で
特急ホームに往年の賑いが終日再現されてたのか。
事前に知らなかったのもあるが、前夜に吐き気がして寝込んでた
往年を知る者としては見に行けず残念 久しぶりに乗った。
車両が全て223系235系で統一し、東羽衣支線も例外でなかった。
でも、頭端式の天王寺のホームにいると、今でもオレンジのモハ72やスカ色の70系が入線して来そうに錯覚した。 スカイブルーの103系快速やブルーライナーの113系新快速が導入され時も大きなエポックだった。 103系の末期の頃は天王寺発紀伊田辺行きなんてゆうとんでもない列車があった。
関東でも東京発勝浦行きがあった。
どちらもスカイブルーだった。
今ではスカイブルーの103は兵庫と和田岬を行ったり来たりするだけだが、
それもまもなく見納めだ。 山陽線なんかでもあったが、
2本か3本の区間運行を1本にまとめた列車と捉えれば
特にとんでもなくは無いかと。
ただ単に、ローカル区間に103系が合わないという刷り込みが
そう思わせやすいってだけで。 >>4
設置された当時(阪和堺停留場)は金岡村だった当時にあって、堺金岡停留場になったのは堺市に合併された後。さらに金岡駅となり、昭和40年の「あすか」停車で堺市駅に。当時快速は朝ラッシュ時を除いて通過だった。 地下鉄に「新金岡」があったり、南海バスの金岡車庫(営業所)とか
金岡と言う名前自体今も馴染みと言うか、生きて?いる感じではないのか。 そうなるわな。堺市って駅名は
単に対外想定的な名づけに過ぎないでしょ。
堺市ったって、改称当時ですでに広大なわけで、
少なくとも現地民に即応した駅名ではない >>478
広島地区で、呉線の広発柳井行きとかトクヤマ雪乃の103系があった記憶 下関行きもあったような?
間違ってたらスマソ 朱色の旧国が走っていた頃、モハ72に運転台を付けたクモハ73600番台には向かって
右上に方向幕が設置されていたが基本は使用せず常に白地表記のままだった。
時々「杉本町」と読める文字の上4分の1くらいだけ見えていたりした。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています