なつかしの小田急線 8
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某特撮番組で小田急バスの運転手に成りすました
怪人が車内で毒ガスを撒いて乗客を皆殺しに
した、と言う場面があったけど昨日の事件は
一歩間違っていたら大惨事になっていたかも知れぬ。
因みに某特撮番組で小田急バスの車内で毒ガスを
撒いた怪人は自分のガスで中毒死していた。 自販機でメトロン茶売ってたの、祖師ヶ谷大蔵だっけ、それとも成城学園前?よく幻覚作用起こしてるのがいたよな ,. "´;;;;;;_;;;;;;;;;;ヾヽr-、
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丶 ヽ二二ン∪ /
ヽ、 , - ∪ ノ/ 小田原急行ブリッ!
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大東急ブリッ!| .| l ノ ノ
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,>、 ヽ / /ヽ 小田急ブリッ!
(( / \ \ / / ヽ )) >>5
向ヶ丘遊園駅前で売ってた宇宙ケシ入り煙草の方がヤバかったぞ 昨晩酔っ払って乗ったロマ後ろ展望席
普段つらくあたる妻や娘が追いかけてきて >>4
新宿駅前に停車中のバスを丸焼きにされるような事が本当にあった時代だし スカイライナーも焼かれたよね
車庫にあったやつだけど その後、開業まで久里浜に疎開したらしいけど、探しても画像がないんだよね。 >>12
初代AE形は都営線や京急線は自走できないから他車での牽引だったんだろうけど、それでも結構な回数の牽引回送になるから、
本当にやったのなら何かしらに記録が残っててもいいと思うんだけどねえ。 その頃は特に無線も限定する機器も無かったから、自走で行ったんだと思う。
関係ないけど、東西線5000系の回送も東京駅経由や東武線経由でもあったしね。 話自体は有名なのに写真が出てこないのは不思議。
おおっぴらに言わずに隠密に租界させたんだろうから、社内向けの記録くらいしかないんだろ思うう。 >>15
!?!?!?
でも、考えてみたら小田急を東急7000や相鉄6000が走ったことがあったのを思い出した(後者は本厚木〜海老名だけだったが)
逆に阪神大震災では京急1000を阪神に借りようとしたけど、保安装置などの問題で断念したとか 相鉄借り入れは江ノ島線の夏季輸送増強で3000も走ってるよ。
南武線の車も1600と一時交換で走ってるよね。 相鉄3000は小田急1800と共通設計(?)だったようだが
(僕はこの2つが現役だった当時は生まれていないので、この2形式のことはよく知らないんだが) 元々、どちらも主に63系割当の東急1800系で
大東急解体による、小田急分割と相鉄の委託解除に伴い
小田原線配属車は、小田急に編入され1800形
厚木線配属車は、相鉄に編入され3000系に改番(形式変更)
一部が相鉄側に渡ったため、小田急側は補充分として
63割当車を持て余してした名鉄から3700系を譲受
(同時期に東武にも譲受され6300系に編入)
その他、省線20m級事故車の払下による復旧車が
小田急、相鉄の双方に編入されている そういえばSEやLSEが国鉄に貸し出されていたことがあったらしい
保安装置が無ければ軌間/架線電圧/電化方式等が一致すればどこでも走れたんだな >>21
小田急ロマンスカーの中でも超絶有名エピソードなのに、らしい扱いされる時代になったのかー。 SEが高速度試験、LSEがボギー車と連接車との比較試験。
根府川の有名撮影地を行くLSE画像とか、ロマンスカー特集の定番画像だよ。 懐かし板にも平成生まれが来るかもしれない時代だからね。
LSEデビューして期待して乗ったら、確かに新しくて綺麗なんだが
座席の座り心地にガッカリしたなんていうのは古い意見なんだろうな。
ノンリクライニング2車種のほうが遥かに良かった。 >>21
それ以外にも、以下のような基準なども適合しないと原則走行不可
・車両限界
・パンタの折りたたみ寸法
・軸重
・建築規程(設計比重、車長辺りの重量)
等
そのため、苦肉の策として以下のような措置を実施
・線路規格が低いなどにより、一部車両は速度制限で対応
・車両側が基準不適合の場合、線路閉鎖で対応(非営業状態) >>26
> それ以外にも、以下のような基準なども適合しないと原則走行不可
そもそも基準外だったら日車や川重から甲種で持ってこれないじゃん
ちなみに高速試験だからどのみち線路閉鎖は必須 >>25
確かに簡易リクライニングはイマイチだったと思う。
NSEはリクライニングしなかったけど座り心地は良かった。
一畑へ行けばまだこの座席使ってるんだよね。
NSEの形見は琴電のクーラーもそうだった。 >>24
新しいところではMSEも、ベイリゾート号で本厚木〜有楽町線新木場発着の準定期列車があった。
営業では団臨で綾瀬発の設定もやったことがあったし、非営業なら有楽町線和光市まで入線済み。新木場CRへの出入りも頻繁にあったから、千代田線と有楽町線は全線走破しているよね。
RSEもデビューまもない頃に、団臨で身延線富士宮まで走った。 LSEは元々高速向けじゃないので国鉄での試験は125km/hしか出なかったんだよな
(比較に走った183は130出した) >>28
そうそう、一畑であの座席座りたくて運用調べて乗ったよ。
https://www.ichibata.co.jp/railway/topics/operation/
いまコロナで運用公開中止になってるけれど・・
しかし座席っていう点じゃ、RSE、EXEは良いが
その後のペナッペナはねぇ、あれ日車が悪いんかな?
京成AEもそっくりの座り心地で1時間乗るもんじゃない。 >>24
生まれる前でも小田急関係の書籍を見ていれば絶対に乗っているし、日本の鉄道史上でも有名な事柄だろ? >>28
LSEまでの展望席は前に進むにつれて傾斜があって2列目以降でも前列の頭越しに前が見えたのにVSE/GSEはさっぱり
名前こそ展望席でも2列目以降はセクションが違うばかりで中間座席と変わらない
なんでああなっちゃったんだろ GSEの展望2列目以降は足元が広いから楽。
網棚がないのは不便だけど。 MSEの臨時列車に乗ったことがある
綾瀬→御殿場
まさかの直通
小田急、東京メトロ、JR東海の連携の賜物だ 東武8000よりも小田急2600/5000初代の方が私鉄の103と呼ぶにふさわしいような気がする
側面や車内が103にそっくり(東武は異なる) いい加減103系ネタ決着【どっちも全く似てない】
103系=高速性加速度もダメダメの雑な量産低価格車
OER=回生装備の各停特殊仕様車2600
中高速域まで伸びるしMT同数でも十分走行可能な設計の5000
東武=乗り心地最優先の汎用車、座席は特筆モノ 扉間隔が通勤型と同じ3500mmで、車体幅が近郊型と同じ2900mm >>39
通勤型仕様(4扉両開き)で裾絞り車体といえば近鉄900系が先輩だが、あっちは最大幅(絞ってない側)が2800mmだったからな。
いかに2600形が革命的かがよくわかる。 1000通常ドアと京王8000/西武6000はいずれもステンレス車体と戸袋窓があるのが共通してるだけで車体幅や扉間隔は3つともそれぞれ異なるが しかし小田急顔20m4ドア車がほぼ全車現役だったのを知る身としては1000系列が編成ごと廃車になるなんて想像もできなかったことだけどな
(京王8000は事故廃車のみで西武6000はまだ廃車出てないのに) ってか東武8000が私鉄の103って言われたの生産両数が多いからじゃなかったっけ >>44
後は製造時期もあると思う(両方とも60年代前半に製造開始し80年代前半まで製造されていたのが共通点) 2600.4000.5000.5200
9000
8000
1000.1500.2000
3100
7000
10000.20000 >>45
往年の東武は「私鉄の国鉄」と擬えたくらいだから
半ば冷やかし半分で「私鉄=東武」という意味でね
こだま形モドキや、東海形モドキに、L特急モドキもあったし
103に至っては、ニセ103(72アコモ)モドキまでも >>43
昔京王の方が車両平均寿命短いイメージだったのにな、
6000系の初期車は9000形と同世代だが2600形の本格廃車開始前に廃車になったし。 >>48
多摩線関連の表記に
青帯=小田急
赤帯=京王
の電車イラストがあって、デザインは小田急9000ぽいので統一されていたのを思い出した。 >>47
イメージ的には国鉄車両は私鉄では東武/西武の車両に近いイメージだったけど、逆に関西にはあまり合わない感じ
ちなみに小田急は主電動機が三菱という点で近鉄/南海/西鉄に通じるものがあったが >>41
相鉄新6000は2930mmだが、登場は小田急2600より後 >>40
(仮に国鉄が幅広車体の通勤型を出していたらそれはやはり近郊型の車体幅に通勤型の扉間隔で、丁度小田急通勤車を雨樋むき出しにしたような感じの側面になっていたと妄想する) 幅広裾絞りで切り妻だと JR西日本の運転台増設車みたいな顔になるのかな
詳しく知らないが紀勢線走ってるような奴 >>38
当時生まれていないので詳しくは知らないが、
国鉄は101にMT54を載せた史実とは違う103で、小田急も史実2600ではなく最初から史実旧5000的なもの
(20m4ドア幅広車体に2400ベースの足回り)ではそれぞれ駄目だったのかとは思ったことがあるけど
ただ、それを言ったら小田急については2400も変則車体長(何で18m3ドアにしなかった)で、
更にシステムとしては9000/1000も大概だが
(それぞれ千代田線対応のため前者は旧5000ベース、後者は8000ベースにはそれぞれできなかったにしても)
ちなみに国鉄は近郊型は111にMT54を載せた113だったらしいし、
東武8000は小田急では旧5000に近いと思うが電制が無い模様 >>48
というよりその当時は京王が特殊なだけ
全体的に見れば東日本が103の全廃を決定した辺りから各社とも抵抗制御車淘汰を推進する傾向になったような気がする >>56
京王6000系1次車は非回生抵抗制御車全廃するため8000系増備により1999年廃車となったが、
回生ブレーキのある界磁チョッパ車も2年後の2001年に9000系デビューと共に廃車が始まっている。
2001年は東急も京王に次いで関東大手2番目の非回生抵抗制御車全廃を達成した。 幻のSLSE(通常運転席で6車体7台車)
あと、LSEのデザイン案に貫通扉付きのものがあった模様 LSEをそのままショート化して使うつもりなのかと思ってた。
展望席に運転台を設けるとして、旧運転台を展望席にしたら凄い人気になったろうな。 1500の中間車のドアの総開口部8m(2m×4)は同時期のサハ204の7.8m(1.3m×6)を抜いて通勤車最大級だったんでは?
2000の5ドア分に相当するまでという
営団05のワイドドアの中間車ですら7.2m(1.8m×4)だから 強度的にどうなんだろうと思っていたよ。
運転室後ろの戸袋部に、すぐにしわが寄ったし。 革命的クズ失敗車両だな、とっとと解体が相応しい
座席減らしすぎてドア開幅調整してまた座席増やしたり
開閉時間長すぎで時短にならないとか迷走の極み 新規格を導入するのは悪いことではないが、纏まった数を作ってしまったのが失策だったな
最初は少数に留めておいて、実際に運用をしてから判断すべきだった 京王やメトロの5ドアも早めに淘汰されたから
結局20m4扉開口1.4mに落ち着いたね メトロは別に
特別短命でもないし全部まとめて置き換える際に先に廃車されていっただけで2年くらいしか差がない >>66
オレもそう思う。鋼製車の改造かなにかで試作車を作ってテストしてみれば、
尻押しの時に押した脇からはみ出てしまう、それで乗降時間が延びるなんてのは
すぐに現場の声として上がってきたと思うんだよね。
もっとも、1800くらい台枠が頑丈でないと、改造に耐えないかも知れないけれど。 JRの6扉がまだ2両しかなかった時に一気に20両だもんな<ワイドドア 是非、全部の座席を折り畳んで営業して貰いたかった。 >>72
全部は折りたためないんよ。
新宿方から TcMMTcTcMMTMTcで、真ん中のMTcTcMMしかたためない構造。
しかも増備車の1553Fから1556Fには全車その機能無し。 初期車のみ畳めるのは知ってたけど、両端負荷は知らなかったな。
新宿方先頭が畳めないんじゃ意味ないよ。 1081Fも2600の土砂崩れ事故と関係ありそうだと思ってるが
(MMMユニットを有効活用するために8連1本を作り、その不足分を補うために新造という感じで) 小田急って攻めた設計の車両が多いような気がする
最近はそうでもないが 3000の2次車からやたら保守的になったわな
東急車輛→総車&JREの言いなり感だし
ロマンスカーだけは他所に口出しさせない気概はあるが >>76 でも相鉄5000の真似でボディマウント式はやらなかったな。自動開閉式の側窓も同様。真似すればよいというものではないが。 >>78
3000の1次は汎用設計を取り入れながらも2000からのワイドドアを引き継ぎ先頭と中間で幅を変えるなど独自性が感じられたのにな
結果正面も側面も無個性な2次車以降が全体での最大多数になってしまった 2000以前では8000が一番均等な仕様だと思ったが SLSEは実現しなかったが、LSE第2編成が日車から川重へ逆送する際に短縮編成の状態で輸送されていたことはあるらしい
(川重内で正規編成化) 過去スレより
恐らく103初期車と2600の数値
>ドア間隔はドア間3500mm・車端1900mmで同じだが、窓の寸法は違う
>開閉窓は幅920mm・2連窓の間柱60mmは同じだが、天地寸法は小田急が900mm、国鉄通勤型が870mm
>戸袋窓も小田急が285mm、国鉄通勤型が419mmで、縦寸も小田急の方が長くなっている
>車内も扉間7人掛け・車端3人掛けは同じだが、座席寸法が違う
>小田急…扉間3000mm・車端1560mm
>国鉄通勤型…扉間3050mm(1300mm+1750mmに分割)・車端1300mm
>(前者は5000以降から車端座席寸法が1640mmに変更、後者の扉間座席寸法は西武2000・6000・9000に継承)
>貫通路幅も小田急が1080mm、国鉄通勤型が800mm(後者は80年代以降の関東標準)
>もっとも、車体幅が国鉄通勤型の2800mmに対し、小田急は近郊型と同じ2900mmで、後者は張り上げ屋根なので、印象は大きく異なっていたが… 結局3100の制御器とパンタがあった車両は全解体となってしまったのか・・・ 小田急の車両が譲渡に消極的なのは、大井川に行ったSE車のトラウマがあると推測
結局、SE車は大井川では使いこなせず最後まで小田急に残っていた車両より先に運用を離脱していた模様 >>87 小田急の20m通勤車が地方私鉄では使いにくいからだろ。ワイドドア必要な地方私鉄何てあるか?特急用車両は長野電鉄や富士急に譲渡されてるし。 >>88
おまけに両端制御車で拡幅裾絞りではな
残念だが需要は皆無だ 地方私鉄の車両限界は小さいところが多いからね。幅広車体・20mで思いつくのが、長電と富山地鉄くらいしかない。 また妄想の譲渡の話しててワロタ
同じ話何回もしててボケ老人だろ 1500形の1700形編入改造は要らんかったろ、
新宿口各停に使えなくなったのが理由とされているが、
そんな理由であんな改造に走るとか理解不能。
2004〜2008はラッシュ時多摩線閉じ込め日中のみ区準に限定し新宿乗り入れ、
2008以降は湯本口各停で運用というわっけにいかなかったのか?
この場合各停と区準を共通運用にできなきなくなるデメリットが発生するが… 小田急は2200系列の時代から大規模先頭車改造やらドア増設等が好きだよな。輸送実態が激変してたからだろうけど。 >>93
昭和30-40年代は大規模溶接加工が気軽だった。
職人の人件費も安いね。造船業界もそうだった。
今みたいに重機で即纏めて廃棄物にして
量産品買う文化じゃない時代。
台車だって鋳型で鋳造したりね。 1989〜2000年の間通勤車の編成単位の廃車が無かったのは恐らくVVVF車が故障した時の対応もあったからと思う
当時はVVVFが開発されたばかりであったことから、初期故障対応を想定して1000系列は基本純増ということになったんではないかな
これなら万が一1000が初期故障で運行できなくなったときに1000登場前のダイヤに極力戻せるわけだし 全然見当違いですね
それまで本厚木までだった10両運転区間が秦野まで→小田原までと段階的に伸びて江ノ島線でも10両運転が始まって必要車両数が増えたのが大きな原因です >>92
あの時は旧4000の代替を兼ねていたのも影響してそうだけど >>97
3000形の製造形態変えれば対応できたろう。 >>92
そもそも区間準急はダイヤの問題(梅ヶ丘〜新宿において優等が徐行運転になってしまうのを防止するため)で発生したもので、
当初より複々線が完成したら廃止することが決まっていた
今の関東私鉄で言う大井町線緑各停みたいなもの(要は一部駅通過の各駅停車) >>98
3000のブレーキ読替装置の製造費低減もあったんじゃないの?
1500の組み替えがない(限定運用とする)場合は6連36本と8連12本になっていたと思うが、
それを6連32本と8連15本にすることで少しでも読替装置の製造費低減を図ったのではないかと
ちなみに3000が見た目の割に価格が従来車とあまり変わらなかったのは、この読替装置のコストが高かったためと思う 現3000を400両以上作る予定が変更で現4000が出たというが
結果的に現4000と8000の製造数が同じだったから、
とりあえず旧5000系列までは予定通り現3000で置き換えて8000を現4000に置き換えるという手段もあったんだがな
その場合8000(それでも解体は出ているが)より先に1000系列が相当数解体されるという奇妙な事態にはならなかったはず
タラレバだけど >>99
快急設定で登戸成城に停車する急行系が減ってしまうため、
新宿の客が多摩急行を利用できるようにする役割も兼ねていたが… 最終的に新5000形は100両製造されて8000形18両/1000形80両が廃車になる模様… >>104
ならねーし懐かし板に書くネタじゃねーだろ >>100
4編成しか変わらないんじゃそこまで大きくない気が…
その当時は2008年の急行系分割併合激減なんてまだ予測できてなかったのかな?
それなら3000形は増備途中で読み替え装置省略も可能だったろうけど。 京王/小田急ともやると決めたら早い
両方ともその気となれば100両近く新車導入できるが
(前者は2008〜2009年頃、後者は2004〜2005年頃がいい例) 元々旧5000系列までは現3000で置き換える予定が変更となり現4000が作られたという可能性もあるので
駅内での分割併合の廃止も同時期に計画変更されたものなのかもね >>108
その前に1090があったしその時代はもう千代田線乗り入れ車を6+4にする必要は全く無かったろ。
最初の4000形は1000形6+4を千代直から追い出す目的でその時点ではまだ新松田分割終日やっていたが… 千代田線ホームドア設置と常磐緩行線直通の話が持ち上がって現4000登場に至ったと思うんだが… 小田急の車両が譲渡に消極的なのは、ほかにも譲渡時の改造の請け負いが可能な小田急側の直系の協力会社がいないから、購入する側が改造してくれる業者を自力で探さないといけないというのもあるらしい
考えてみれば長電の元10000と富士急の元20000はいずれも車両メーカー(日本車両)での改造だったね 2400以降譲渡されなくなった、それより前の車両はあちこちで走っていた 2400は機器を4000に譲ったし、それ以前に構成が変態過ぎて貰い手なかったと思うよ。
大型車になってからは先頭クハで2両構成も難しいし、特急車も連接だしね。
大井川へ行ったのすら奇跡だよ。結局まもなく廃車になったけど。 京王/小田急も片開き車は譲渡が少なくなかったけど、両開き車は一切譲渡されないという法則
(但し井の頭線は除く) >>114
2300の特急格下げ車は両開き2ドアに改造された後、他車と同じ片開き3ドアに再改造されて2200系列に編入、最後は富士急へ行ったんだっけ? 2300もブツ6の真ん中に入り、余り先頭に立つことはなかったような気がする ガキの頃2300はその出自を知らなかったんで、2100より古い電車だと
思っていた。窓配置が1600や1900と同じだったから 2300かぁ、富士急に早めに売られていったが、扱いにくかったのかね
2300はむしろサンドイッチの両側の分厚いパンのイメージだよ
真ん中2両が100mm幅狭を挟んでてね >>116
そんなことはない。中間に2200を入れて6連で走っていることが多かった。
>>118
そうそう。入場車とかが無ければ2300-2200-2300で6連。
小田急・富士急とも廃車が早かったのは、2301-2302の電器側−空気側が逆向きなのも関係? >>118
>>119
廃車が早かったのは、改造に次ぐ改造で、負荷が掛かりすぎていたのもあるかも。 >>120
単純に数少ない直角カルダン車だし、残すならスキマ風が入ってこない2200のほうが良かっただけかと。 >>112
2400/2600/5000/5200は車輪径が特殊(かつ先頭車と中間車で車輪径が違うが、どちらも一般的な860mmではない)
4000は機器流用
9000は重装備
8000は界磁チョッパの部品が生産終了
1000/1500はVVVFが寿命(小田急時代の足回りのまま使用することができず、大工事が伴う) >>113
その大井川で使いこなせなかった前科があって車両譲渡にほぼ消極的になったんでは? 短縮化しようとはしたが、3両にすると片側ドア1ヶ所になってしまうから諦めて5両のまま入線したらしいし 観光目的の人が大井川まで来てさあSLとSSEのどっちに乗ろうか、というのを思えば自ずと推測できるのでは
今でこそ80系の台車を使った機関車が牽く列車や大手私鉄で走っていた電車が呼び物になる時代だが、SL以外の目玉を用意するにはあまりにも早すぎた
「おおいがわ」号のヘッドマークや車内の製造プレート、プラザロコで見なくなっていたと思ったらSL検修庫内の見学通路に移されていた そもそも1983年じゃ小田急で現役だからね。
あさぎりだけじゃなくえのしま、さがみでガッツリ使ってたわけだし
小田急完全引退後の90年代ならまだ事情が違ってたと思う。
93-97年頃は吊り掛け置き換えと冷房化要望で関西私鉄車両買いまくり
あの時代観光シーズンは4両運転も多く、近鉄16000の代わりに
入ってれば10年ちょい位は使えたかもな。
経営変わった近年はトーマス帰り客立たせても詰め込む主義になり、
とっくに解体だったとは思うが。 そもそも当初はSSEを全てLSE/SLSEで置き換える予定だったが、諸事情によりSLSEの計画が中止となって代わりにSSEの一部がRSE導入まで残ることになったんだっけ 80年代は流動的みたいだったようだね。
国鉄への連絡急行乗り入れをどうするべきかというのが
国鉄改革の真っ只中で進展せず、とりあえずSSEを更新延命したものの
JR東海が発足してから大規模な沼津乗り入れ計画にするまで
好景気に押されたから出来ただけで、結構やっつけだったとも言える。
東海は東への対抗心が小田急と利害一致したのででわざわざ1本
ワンハンドルの特急車作るなんて凄い話だと思う。 こんなの東海にとってははしたい金でしょ。
新幹線で泡銭稼ぎまくってるんだし。 大鐡の思惑としては、じきに引退するであろうSSEを動態保存する目的もあったんだろうな
それが国鉄のゴタゴタでSSE延命になるとは予想外だったと 当時の国鉄が「展望車を入れるなら乗り入れ中止だ!」と恫喝してきたんだよ。
それでSLSE車構想はぽしゃった。小田急としてはまだ当時沿線に花鳥山脈とかあったからね。
御殿場線直通を見放すわけにはいかなかった。
湯ヶ島までの免許線が完成していれば、また事情は違ったかもしれないが。 >>131
> はしたい金
物凄い脱力感
端金を何でそんな読み方するんだようw >>134
それは関係ない。御殿場線も小田急の運転士という例外乗り入れ
371・20000時代にやっと相互の乗員が松田交代で自社運転をするようになったから
国鉄運転士はSSEのハンドル訓練はしていない。 展望車を渋ったのはJR化後だな
先述のとおり運転士交代の観点から >>137
違うよ。国鉄時代にSSEを置き換える計画があったから、展望車問題が起こったんだよ。
だから仕方なく、SSEも更新しただろ。
RSEが展望無しになったのとは別の話。 当時の御殿場線は新車導入なんてあり得ない状況なのに
小田急の乗り入れが新車に置き換わるというのでは、国鉄側が面白いはずも無いしな
それを配慮するとSSE延命で凌ぐしかなかった 急行ごてんばの乗車率これ以上下げられたら困るって話もあったな。
あくまで気動車1-2両で許され始めた”国鉄様”乗り入れが新型特急電車じゃぁね。 まあ、南海みたいに「485系買え」とか言われないだけましだったというべきなんだろうか。 時代遅れSSEのままでも民営化前の60年に「ごてんば」廃止されてるからね。
もっともあの時代って御殿場方面は河口湖山中湖同様に高速バスの需要の方が
既に旺盛になってるんだよな。 今でこそ定時性で富士急が盛り返してるが
1910(富士急5200)からABFM譲渡の時代って高くて遅い大月回りは空いてた。 >>143
165だったらSSEの方がずっとマシでしょ、座席もサービスも。
ごてんば時代の165だったら只の量産型急行車両だよ。
SSEは喫茶サービスだってあったしね。 >>145
>>143氏は 165系には勝ち目無かった と書いたんだろうと思うよ。 ごめん今見たら「165系には」って書いたつもりが「には」になってなかったわ
373系で特急ごてんばも運転されてたけど、あれは用途が違ってたね 9000登場段階で9000を一定数作ったらまた5000系列増備に戻るのは既定だったみたいだが、そんなに9000が扱いにくくなるということは想定済みだったの?
当初は9000が扱いにくくて逆に5000は評判が良かったから5200が登場したのかと思ってたが 純粋にパーツ点数と価格、電力使用量どれ取っても9000はいいこと無し。
今みたいに加速度を地上で3.3なんて考えられない時代、まだABF残ってたくらいだしw >>151
あったと思うか?
それ以前に懐かしスレの内容じゃないから車両スレに書き込め >>149
その時代自社線内の急行系運用車両に回生ブレーキは必要なかったとか? >>149
5200登場時の記事を見ると、9000を増備することも検討されたらしい。過剰装備でコスパが悪いから落としたとあるけど、保守が大変というのが本音ではないかと。
以前は運転士交代の際、引継ぎで『コレ、後ろも5000だから』とか、よく耳にしましたよ。 >>156
もし準急今の小田急みたいに全部千代田線乗り入れならば話が全然違ってたんだろうな
9000系準急の間合い運用の、相模大野から急行新宿行きは学生時代お世話になりました
本厚木始発しかも本厚木から10両で必ず座れ有難かった 千代田線行く運用って91Eから99Eの奇数5本だけだっけか >>157
経堂民にとっての貴重な優等列車が全滅するとこでした 80年代前半、ABFM車が生きてた頃は土日は全く乗り入れなかったね そうそう、平日のみだった。 スキップって何年までだっけか・・
助手席側の運転台に通過のプラ板立ててたやつ。 >>149みたいに、なつかし板にいるのに紙媒体を何も読んでないやつとか、今後は増えるんだろうな。
いくつもの本に、5000増備「中断」で地下鉄乗り入れ車新製、その後増備再開と書かれているんだが。 これからはバックナンバーも「紙媒体」ではなくサブスクで電子版閲覧する時代よ ピクトリアルに電子版が!?
しかもアーカイブも!!?
それは初耳だw ピク電子版マジで欲しいのだが・・
2冊買って一冊さばいてスキャンとか面倒でね。
クラウドに入れて外出先でも見られるようにはしてるが
今まで4000pくらいやって時間掛かりすぎて果てた。 >>162
9000は東武2000/9000/20000みたいな位置付けだったのか
1000も千代田線絡みでVVVF車になったと思うが(営団03/05のような高周波分巻チョッパでも悪くはなかったけどね) >>166
小田急はサイタリスタチョッパ車自社で保有したくなかったんだろ。
1000形は地上用にも増備されていた点では位置付けが異なるのでは? サイリスタチョッパって数百両保有して車種統一し、検査機器も独自のを揃えられるような事業者
メトロとか各市営地下鉄等はやりやすいけど、少量入れた会社は苦労してたよ。
阪神が意外と持たせてたのが珍しい例。 露太がドヤ顔でやっている抵抗測定がぜんぜんダメだなのは、そもそも学生実験のレベルにも到達してないことなんだな。
通常厳密に抵抗値なんて測定して、数値的に意味のあるデータを得ようとするならば、
あんなに条件が変わるようなことばかりしてはダメなんだよ。
塗料皿でショートさせているが、厳密に測ろうとすれば、あれ自体の接触抵抗や表面の酸化度合いなども考慮するべきだし、
場所によってワニ口クリップで挟んだり、押しつけたり、レールを磨いたり磨かないでそのままだったり、
磨く力も、磨いた状態も一定していない。こんなに実験結果に影響を与えるファクターがそのままで
実験するなんていうのは、誤差が蓄積して実験の意味がなくなってしまう。測定回数も1回のみ。
学生のレポートでも通らないよ。
貸しレの人は「テスターは測定器では無い」とするのだが、実際上テスターを上回る測定器を持って
いる人はごく少ないと思うので、まあテスターで測定はやむを得ないとする。
その上で、新品のレールを買って来てすぐにあまり表面などを触らずに測定。この時テスターリードや
ワニ口を使うなら、それらもなるべく新品にする。これを予備実験としてデータを複数回取る。
これで新品のレールを用いて、レイアウトに埋め込んでない場合のコントロールが取れる。
そこで急いで(条件の変化を最小限にするため)測定したい場所に移動し、同じテスターと
テスターリード、ワニ口を用いて、表面を削るとか条件を変えることをせず、
最低1カ所に付き5回は測定し、平均値を得る。
これを繰り返して得たデータを集計する、という流れくらいは厳密にやらないと。
だいたい露太はレールを削って測定している段階で、それは列車走行時の条件と既に異なるわけだし、
安定しないからという理由ですぐに測定方法を変えているが、安定するまで放置すればいいのではないのか。
塗料皿なんかを使えば、それ自身の抵抗を考慮するところまでは行かないまでも、裏面が化学的な均一面とは
とても思えないのと、そもそも接触が完全かわからないので、実験としてはデータの信頼性は大きく低下する。
ましてや、精密な実験をする前提なら、温度の影響も抵抗の場合は無視できない。
なので、あの「実験風のお遊び」で何か言えるとすれば、「CRCもかけて、表面はやすりで磨き、ジョイナーを
埋め込んでボンドバラストしつつ8年も経過したお座敷用レールは、ジョイナーが劣化し、全体の抵抗が増大する傾向にある」
程度のこと。 星野社長ってアホなのか?
保存車の解体と1000形の解体、共に星野社長の仕業だから そうだねー君が社長だったらよかったのにねー
有能なのになんでなれなかったんだろうねー 役員会の内容など知る由もないが、ロマンスカーミュージアムすら
不必要な赤字部門って思ってる経営陣は居ると思うよ。 >>174
あれって生方OBの声で出来たものだよね
本来は特急車も含め、喜多見にあった保存車は完全に解体するつもりだったそうだぞ 保存車解体と1000形解体はいずれも新5000導入による留置線不足が理由だが、
後者に対し8000は一部を除き足回りを更新したばかりでまだ元が取れていないため、足回り更新車の廃車をできる限り避けた結果1000にも廃車が出てしまったものと思う
(京王に例えれば、7000より先に8000が廃車されるようなもの)
京王は古い順ということで7000が余剰廃車になったけど、京王7000は更新したばかりで元が取れていないうちに廃車が出たので、問題になったんでは >>176
会計的に言うと、償却が多く残っている方を残すのは当たり前だと思うが 会計上、更新機器が法定耐用年数以下で廃棄した場合
監査でダメ出しされるってことはあるわな。 >>178
なんかリロードされてなかったようで読めなかった。同意見で失礼 どうも星野社長は古いのが嫌いみたいなので…
通勤車の新規設計車無しというのも気に入らなかったんだろうな 結局、車庫を増やさないとダメなんだな
かつて従来車の廃車無しで1000が純増していった時は唐木田に車庫を設けることで対処したが 多分大井川にSSEが譲渡された時点では残りが1992年まで小田急に残るとは想定していなかったんだろうな 1000形、1051Fまで解体に向けた準備が始まったみたいだな
8000形に続き1000形も落成第一陣を容赦なく解体するとはね… 8000も1000も非常に良く出来たオールラウンダーな車両だったのにもったいない
現行の5000なんか各車両メーカーのいい点集めた風に言ってるけど
時代遅れのツギハギだらけのボディに前面がシーメンスデジロのパクリデザインの組み合わせにしか見えない
小田急8000と遠鉄1000/2000京王8000のデザインは日車の金字塔だと思う >>186
しかし、何でそんな解体を惜しむのかね? 小田急顔の設計主幹事は川車かね?
大型車は日車も関わってそうだけど >>189
川車だと思うよ。1600、1900、2100もそうだから
2220を最初の小田急顔とすると難しくなるが・・ 腰から下に尾灯など付けずクリーンなのっぺらぼうなら
現3000やエクセも拡大解釈で小田急顔な気がする >>192
あのダッサイのが日車顔だよw あおなみ線と3000一次が如何にも。
京成3000とかも垢抜けない。東急(総車)の3000二次以降や4000の方がスマート
そして新5000が川重主管。 >>191
山陽や神戸電鉄の車両に何となく雰囲気が似てる感じだし、前面扉部に方向幕を設置するスタイルも上記2社や京阪に似てるので川車かなと思ってたが
やはり川車だったのか >>193
むしろ209よりE233の方が3000に近い感じ 小田急顔の元祖って1400の頃から風合いがあったと思うけど、確率したのは2220か?
これが川重だから。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ソロカバナ鉄道100形電車 キハ5000の前面って2220を基本にしたものか?
前面の窓にHゴム使ってないから国鉄のキハ17より古臭く見えるんだな。 >>197
昭和30年登場だから2200デビューと大差ないよ。2300とかも
Hゴムじゃなくスチール枠だし、ドア窓などは昭和30年代後半の
2300や2320の2両3扉化頃まで各車スチール枠だった。
東急カエルとか営団丸ノ内線の300など、あの頃の初期新性能車はほぼそう。 2600=103‐0初期(低運非ユニット窓)
4000=103‐3000
5000=103‐0中期(低運ユニット窓)
9000=103‐1000
5200=103‐0後期(高運)
8000=西武新2000
1000=西武6000
という図式が出てきた ツベで玉電の動画を漁っていたら小田急の貴重映像発見
【昭和原風景】Landscape on Showa era in Japan 路面電車,ちんちん電車,たまでん,玉電,玉川電気鉄道,懐かしの昭和,原風景
018秒辺りから >>200
シリーズ幾つかあるが丸ノ内線サムネのやつね。
2400の河川敷転落のやつか そう、そして最後のカットが2320形(勿論三扉化前) 小田急はちょくちょく新しい形式を先に淘汰しがち
・9000形…足回りが重装備かつ複雑で5000形(初代)より先に引退
・HiSE/RSE…ハイデッカーのためバリアフリー対応が困難、LSEより先に引退
・1000形…リニューアルに時間とお金がかかりすぎたのか、ワイドドア車に加えて未更新車が8000形より先に引退 1800より後につくられた1900と2100も先に廃車になってる
まあ1800は大掛かりな更新をしたが 1900や1910、2100はABFで中型車、MB-146モーターを
5連化増備中の4000に提供する役目があったからね。
1800は20m4扉が幸いして延命したのはある。
互換性全く無いから封じ込め運用しか出来ないが。
最終年度は4両1運用しか残ってなかった。
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org9291.jpg ワイドドア車はワイドにしすぎたよな。
初めて見たとき衝撃やったわ >>179
でも同様に更新したばかりのメトロ8000はもったいぶらずに廃車してしまうみたいだけどね
(まぁメトロは京王や小田急とは考え方が違うけど) 向ヶ丘遊園モノレールだが90年代に設備更新する計画があったみたい
RSE似の色の幻のモノレール車両の予想図があったとのこと
でも、線増に投資を集中したから先送りになり、結局そのまま廃止になったんではないかと 定期点検の際、(老朽化による)台車に亀裂を発見
以後、運休のまま廃止に至る
90年代半ば頃には、乗務員の育成も停止していたらしいし
その時点で止めるつもりだったのでは? 向ヶ丘遊園の先行きからして、90年代にモノレールに新車というのはあり得んな
後付けの妄想、デマの類だろう だいたい、あの500は川飛各務原の試作車でしょ
モデルケースとして、地上設備一式とセットで
安く手に入れたのでは?(車両はタダ同然とか)
桁寸法上、向ヶ丘と同一規格が
各務原の試験線以外存在したことがないシステムを
わざわざ死守するかね? >>209-212
モノレールの致命的損傷発見と、その新車構想は時代が合わないので別物と思われる。
致命的損傷が発見された時も、川崎重工に修理の見積もりはしてもらったようだ(当時の株主資料による)。
しかし、台車交換だけでも約2−3億円、桁の耐震補強も入れると、6億円超がかかることが判明して断念。
仮に90年代に更新計画があったとすれば、ゴムタイヤ式でないと、沿線から騒音の苦情もあったことから、
実現は難しかったと思われるし、そもそも6億ではすまないだろうから、「構想案」に過ぎないものだったのでは。 遊園地帰りにホームから眺めたモノレールがすっかり茶色く錆びた軌道を凄い音を立てて曲がりながら近づいてきたのはよく覚えている 末期のモノレールに乗ったことがあるが、他に数人の地元の買い物客とおぼしきおば(あ)ちゃんが
乗ってるだけだった。
なんかうら寂しくて泣けた。 >>214
鉄レールの門扉がガラガラ転がるようなかんじ、うろ覚えだけど なるほど、
1回だけ乗ったことあるけどそこまで気にしてなかった
マスコンが2ノッチまでしか回らないのは覚えてる SE車も、組み換えで余剰の2両がわずか11年で廃車されたくらいだし 随分早いな
長電辺りがまた購入に名乗り出ると面白いが まじか30000系の方が先だと思ってたが…
また一番ロマンスカーらしい乗り物なのに 随分前から予想されていたが公式にリリースされるとやはり寂しい
ホームドア設置の流れが、もう数年早ければ対応する形で作れたのにな 埼玉県民の俺も小田急に乗った事は何度も有り
50000VSEにも乗った。最初に乗ったのは
デビューして半年位の2005年9月で箱根湯本からの
帰りの特急がVSEだった。それから3か月後の12月に
出たVSEのNゲージも買った。その頃はVSEが20年
持たずに引退するなど思っても居なかった。
短命に終わった車両スレにも書いたけど引退の理由は
現在小田急に唯一所属する連接車でしかも2編成だけしか無く
保守とかの問題も有ったんだろうな。 VSEが 懐かしスレ の話題になる日が来るとはな。
早えよ。 出て来るんじゃね?
特にガキ鉄
アクセスしやすい場所だし 鉄オタ親父の方が、やたら撮影する権利だのと理屈言って線路内立ち入りなどするんでは?乗務員、駅員や一般客の迷惑顧みず。 VSE、経年劣化を原因に上げているが、連接車の台車、駆動機構って普通の車両に比べメンテナンスに手間がかかるということかね?
国鉄の591系も振り子の駆動台車の効果が期待されたほどではないと判明し、連接構造の中間車を排除してしまってるし。 VSEに限ったことではなく他社車両にも言えることだけれど肘掛けとかの木材パーツの傷みは以前から気になっていた
いくら耐久性を上げたところで材質上避けられないのだろう
GSEはそのあたりに注意が払われていると感じた
しかし新車置き換えならまだしも減量ダイヤでさよならとはなぁ >>225
来年(2022)のロマンスカーカレンダー、VSEの写真が色々載ってたのにな。
ホームドア化の波にはあらがえなかったか…寂しいけど。 特殊な構造は現場で嫌われる恰好の例だね
9000形も2600や4000より先に廃車されちゃったし VSEは車体傾斜に問題があったとかで、ずいぶん前から車体傾斜装置作動させてなかったそうだ。 元々ロマンスカーでまとまった数が作られたのはNSEとEXEだけ >>232
2600と旧4000の引退は9000より前だったはず
旧5000こそ9000より後まで残った 9000の引退イベントは現地見に行ったから懐かしい 自分はNHE好きだったから多摩線にリバイバルカラーのしょっちゅう乗りに行ってた。 >>240
都内某駅最寄り在住だったもので新宿↔向ヶ丘遊園を行ったり来たりしてるNHEにはよくお世話になりました
個人的には閑散時に運用されるFM×3や4000の方がが好きでしたがNHE引退の頃町田の踏切でリバイバルカラーのやつを見たときはちょいとしんみりしたものでした >>241
FMx3や4000というとまだ4000が吊り掛けだよね。その時代は
デンスケ担いで音鉄もしたものだったなぁ。
NHEのうおぉぉぉんという起動時の音とともに録音には楽しい車両が
80年代までは各社にあったよね。隣の東急さんも6000とか独特だったし。 そうそう、5連各停が来てたし、江ノ島線は昼間2運用入ってたかな。
そして平日の5x2=10両8M2T急行。線路から1キロ弱離れたウチでもよく聞こえた。
土曜急行っていう土曜午後だけのにも4000やHEx2が入ってたね。 >>245
土曜急行って、大野から延々と回送で何本も新宿まで持っててたんだよね!? どっかのサイトで手に入れた旧4000の桜ヶ丘〜高座渋谷〜長後の走行音が手元にあるけど、
駅間の長い直線区間を90km/hくらいまで加速して実に素晴らしい走りしてるね。
こんな走りが見れるなら江の島線をもっとチェックしておくべきだった。 >>246
そうそう。あれはなんとも贅沢な昭和のかほり。
今なら上り方向の需要もある時代で営業するでしょうねぇ。
>>247
それ、自分の録音(汗) あの時代にデンスケのメタルテープ対応と
準プロ仕様のSennheiserのマイクで(許可得て腕章つき)で
録った人は少ないと思います。ネットに出回るわけでありますw
江ノ島線5連話書いたのがまさにその運用です。
この前スレに度々ダイヤの画像UPしてるのも自分です。
S48-H4くらいまでのほぼ毎年持ってるので。 未公開のやつもつなげてUPしました。
https://dotup.org/uploda/dotup.org2675910.mp3
桜ヶ丘〜長後のあとに藤沢〜片瀬江ノ島を
MM’の中間でモーターの回転数差を感じて録ろうとしたんですが
客の話し声が多くて公開しなかった分が入ってます。 失礼、東林間〜南林間も入ってましたね。テープ起こしそのまんまだ。
1984年11月です。 いやまさかのご本人w
以前ダウンロードさせて頂きました。
未公開版もありがとうございます。
失礼ながら、ロマンスカーの連接とか録音されていたら是非! >>249
おおー、これは貴重な音源
ありがたく頂きます >>249
釣り掛けなのに田園都市線乗り換えとか、今と変わらない放送で萌える。
定尺レールと唸る釣り掛け最高!
どうもありがとう! レスありがとうございます。
84年秋録音なので田園都市線が開業したばかり。
中央林間駅南口階段も田都のホームもピカピカの頃ですw
当時は「一応乗り換えさせてやってる」ダイヤと言われて
東急側も各停しか中央林間に入らず、二子玉から全停車の快速に
長津田で乗り換え必須という時代。91年だったかまで小田急の急行も
止まりませんでしたねぇ。江ノ島線は定尺が多かったです。
元々録り鉄なわけじゃなく、ついでだったんであまり無く
ロマンスカーはNSEがあったと思うので近々UPさせていただきます。 中央林間って名前だけであの辺りの中心は南林間だったんだよなあ 南林間に急行が止まり、鶴間までの駅間で短さ。
役所がある重要な場所だからな。 木造だった大和駅を釣りかけ車が発車するのも
わりかし後年まで見られたんだよね 先日書いたNSEの車内音UPしました。藤沢発の町田方面、長後のポイント渡って暫くまでです。
連接台車目の前の席を指定、すぐ向かい側に走る喫茶室の厨房のある場所を選んだので
コップに注ぎレモンティー混ぜる音やトレーに載せて運ぶ音とかも入っています。
https://dotup.org/uploda/dotup.org2679774.mp3 常磐区間で小田急4000系に乗ると違和感たっぷり。
新宿や神奈川県の広告だらけ。天気予報も同じ。
ちばらきの住民からすると遠い世界からやってきた電車だ。 へぇ、吊り掛けだったり2400のモーター転用した発電も無いような4000が
常磐線だと?病院行った方が良いよ。 >>261
あなたはどこの人?
いつから来た?
レス元、スレチかもしれないけれど >>260
スレタイを声に出して100回読んでみようか。 >>259
貴重な録音ありがとう
NSEはさすが高速向けとあって中高速域の加速が半端ないね NSEは更新後しか知らないけど、
低速域の吊り掛けモーターのような唸りと、速度がノッてきた時の甲高い音が好きだったなあ
加速は鈍足だけど高速域の伸びがいいのが超高速仕様って感じ 近いうちにVSEがこのスレに仲間入りしちゃうとはね >>260は確かにスレチ発言だが>>261や>>262はここを「ここだけ〇〇年前スレ」と勘違いしてないか? 4000系が常磐の駅間距離の長いところを吊りかけの轟音と共に走り抜けたことを
昨日のように思い出す。 皆さんありがとうございました。NSEは平坦線均衡速度170という高速に振った車らしく
中高速域のキュイーンが魅力あったと思います。過密ダイヤ時代の要請でLSEが
0-60キロの加速に切り替えたのが時代だったんだな・・と。
・・SEは持ってないです。音鉄が専門じゃなく、当時たまたま電鉄勤務の友人から
本社に通して許可頂いて録っただけで、メインは街や自然の外の環境音でした。
>>270-271
1800の音かもしれないねぇ。 >>270
おじいちゃんそれは72系よつまり三河島事故に巻き込まれたやつよ 三河島事故はクモハ60とクハニ67じゃなかったかしら? >>274
三河島事故の登場人物
・・・・・・・・・D51 364 →
・・・+クハ79396+クモハ60005 →
← クハニ67007+モハ72549+サハ17301+モハ72635・・・ 昔の小田急車両は運転台窓の左側に運転状態をランプで知らせるのがついていて、中間
になった運転台でもそのランプが明滅して状態がわかるので見ていて案外飽きなかった。
ランプは縦に確か4つあって
過負荷:(ランプ色忘れた)
制動:黄色
力行:青
フルステップ:白?
それぞれが常にどれか1つは結構明るく光っていたな。
2600系くらいまでの車両には設置されていたように思う。 フルステップは電球色
直列から並列に渡るときも一瞬点灯したね SE車に初めて乗った時、ロマンスカーはいいなって思った。だが便所は垂れ流しだった。 >>278
小田急のトイレは全てタンク式だよ。
SE以前からもそう。 そうそう、2300ですらタンクだったんだよね。すごい技術だと思う 2220にもトイレあったらしいが、タンク有ったのかな? >>281
当初2220は垂れ流しで、2320の2322・2326に汚物処理タンクを設置したのが
なんと日本初って話がある様子。それから程なく2220と2300にも搭載されたのが
ピクの特集に書いてあったよ。 SEは循環式でもない、ボットン便所と同じ構造だったような
貯蓄式というやつかな 肥桶かついだおじさんが回収して回っていたのかな?
あまりロマンスを感じる風景ではないね? 当時は経堂車庫にバキュームカーに来てもらっていたようだ。
そういや、バキュームカーって、もう20年くらい見てないような気がするな。 >>287
建築関係や屋外イベント関係の仕事すると仮設トイレの絡みでたまにお世話になる 垂れ流しなのはJRじゃろ。
流すボタン押したら走ってる地面が見えて衝撃じゃった 小田急から吊りかけ車がいなくなってからずいぶん月日が過ぎたなあ。 >>294
デト1の廃車が2002年9月13日らしいから
もうすぐ20年だね >>295 もうそんなに経つの? 3100と大差ないじゃん。 >>295
それは営業車ではないし294が言っているのは初代4000形のことなのでは? ちなみに小田急の線路を今でも釣り掛けが走ることはあるんだよね 機関車かw
まぁ乗客が乗れるやつという点じゃ4000までだったが >>301
だから乗客が乗れるって後付で言われてもなって話よ >>302
クイズじゃねぇんだからイキるなよ、血圧で血管切れても知らんぞ >>303
ふにゃふにゃですので大丈夫w
もうクラゲ以上にw N8と1081Fの登場理由が多摩線土砂崩れによるものと推測 50000系は車止めに衝突したことがあったのも廃車理由の一つだろうな
アルミ車体だから完全に修復できていない >>305
更新済2671FがTcMMM[TTc]と[]内を失ったのが大きかったな。未更新の2654FからTTcを借りて
一旦TcMMMTTcとしたが、今度は当然2654FがTcMMMと半端に。
結局性能改善?と、編成8連化に対応して、TcMMMMMMTcとする過程で、旧2666FからTTcをもらって
2代目2671Fに復帰。結果的にまあまあうまく行ったようだけど、最終的に残る全編成を8連化予定だったので、
さらに組み替えられる予定だったのだろうか。
かなり迷走したことは確かだね。1082Fは登場が公式予告されていながらお流れに。 >>307
1082・1083として予定されていたのが2051・2052に変更になったんじゃなくて? >>307
当該年度に1000形8輌と発表されていたので、1082Fの計画は確実。
1083Fの計画は聞いたこと無いなぁ。
でも、1082Fを2051Fに振替と考えれば、その変更も計画(契約)上はあったのかも。 1080の増備計画が中止になったのは、見直す部分が多いから2000に変更になったとも聞いたことがあるけど
あるいは1082を予告していた時は、2666を組成する構想は無かった可能性も?
(寄せ集めてVVVF搭載したから)
後、2000登場前に1081が一時的にLED方向幕に変更されていたことがあったが >>312
もっと言えば、複々線計画がうまくいかなかった 1000は10両固定も中途半端に4編成だけ導入して終わりだった 当時の線内利用は分割併合が一般的だし、全線10コテはラッシュ時しか使い道がなかったから、千代田線直通として用意するには妥当な本数。
当時は乗り入れ数も少なかったので。 昔の経堂住まいだから今の急行全停車はうらやましい。
準急ですらすべて止まらなかったしな >>315
系列ごとに性能バラバラだというのによく分割併合/異系列連結しまくってたよな
2600、4000、5000/5200、9000、8000、1000/1500
性能バラバラだから乗務員からの評判も良くなかったのかね?
(一応、一部を除いて運用ごとに特定系列の固定運用だったみたいだが) (例外として1081Fは1996年時点ではN8と共通運用) 2600は試運転だけで、長いこと他形式との併結はしてなかったけれど、
何を調整して連結開始したのだろう?
旧4000(吊り掛け)は、一度だけ8000と連結営業運転をした記録があるけれど、
いきなり本番だったわけで、クモニ83+115系みたいな感じだったのだろうか。
旧5000は、昔のピクを読むと、1800や4000と併結可能との記述があるが、
本気でやるつもりだったのだろうか。 >>319
調整は疑問だね。83年当時経堂検車区社員の方に聞いたら
「テストを繰り返してたら問題なくてOK」としか言ってなかった。
9000x4辺りが相性悪そうだね・・
2400+5200 or 8000x6も特性がメチャクチャ違うと言ってた。 4000って音聞いてると出足もよく2600や5000と大差ない性能だもんな >>319
2600はTの位置の関係で逆編成は禁止になっていた
Tは当初は新宿側に組み込まれる計画が変更され小田原側に組み込まれていたが、これが新宿側に組み込まれていたらもっと厄介になっていたかもしれない 当時の千代田線直通は9編成で間に合うことになったため幻となった9410Fと新造としての9409‐9509、9609‐9709
短期間で終わった9010F 8000と2400の連結って当時あったのでしょうか?見かけた事無かったので。 >>322
ところが、その逆編成2600が大雪の日に運転されたのではという写真を撮った。
もう少し横に移動出来ればよかったのだが、遊園駅でとっさに撮ったので肝心の前の車輌が写ってない。
朝の下り大秦野行きって、6連だったとは思えないので、前は9000だったのだろうか。
>>323
日本語で
>>324
8000の登場は1983年(営業開始)、2400の全廃は1988年なので、
当然にしてあった。写真もネットにある。 さすがにABFM車との併結はなかったろうな。
末期のFM車はブツ6組んでたし、8000は当初6コテから投入されたから。 8000登場する頃はもう急行での運用はなかったでしょうね。 昔は何でもありだったんだな<小田急の異系列混結
性能バラバラなら普通は組み合わせ限定すると思うが 1800やABFM形に乗ってて対面に見えた9000の
10連がもう恍惚というか.... >>327
8000デビュー間もない頃、ブツ6の急行小田原行き乗ったような
もう少し前だったかな・・・
末期のABFM車は6連で小田原急行か、4連で多摩線が多かったように思う 8000形6連登場と置き換えで急行運用終わりではと思うのですがその直前5000との新宿行きに乗った記憶があります。 57年・58年のダイヤの運用番号見るとFM6連の急行運用はまだある
8000は5200と共通運用に入ってるね
ダイヤでは正式な5000形6連とは書かず5200と記載されてるのが面白い 58年3月ダイヤ改正より後ぐらいだったと思うけど新宿発の各停のブツ6乗ったけど時期としては6連では最晩年ぐらいだったのかな 58年は春に改正はしてないんじゃない?
箱根登山6連乗り入れの大改正が57.7だからね
その改正で8000の6連も運用開始してるからブツ6は減り始める頃 この年の3月23日改正となっていますけど運用上の改正だったのですかね?
2600も逆10両禁止の併結開始、8000登場もこの3月からだと思ったのですが。 >>333
8月末でこの系列廃車がさらに進むので9月以降は2連3編成計6両のみ(、のはず、、、)なのでほぼ最晩年だと思います、
2連だけ2400に繋げてる奴はまだこの後も見たような 仮に2000が千代田線に乗り入れていたら1081Fも同様に千代田線に乗り入れていて、9559‐9659の如く中間車増備されたんだろうな
JR東日本のサハ205‐232や東急2703・2803も然り >>337
営団との乗り入れ協定がどうだったか。
置き換え時を除いて、乗り入れ車は単一形式と決まっていたんじゃないかなぁ? >>338
常磐緩行のほうは3系列(203・207-900・209-1000)のときもあったが… 2600が不利で5000に切り替えたのに9000でまた攻めてくるとか… 大型冷房車同形で10連組む9000高級感あったね...まあ地下鉄線内冷房OFFだけど(>_<) 都営だと京急や京成の冷房車で意図的に冷房切り忘れる(←矛盾)車掌さんがいたけど
営団でそういうのって聞いたことないね 日中に綾瀬-上原間封じ込めに取られてるもったいなさ
そして非冷房の6000が準急で走る >>341
2600形=自社線内各停運用
5000形=自社線内急行系運用
9000形=地下鉄乗り入れ運用
とデビュー時の運用前提が異なったからでは? 5000初代は足回りは2400ベースだったから、
むしろ20m4ドア新性能車の最初から史実5000初代相当で良かったような気もするが…
登場順は2400→2600→5000初代だったみたいだし >>346
2400系登場当時は各停をいかにきびきび(高加減速で)走らせるかが課題だったからな。
当時の技術(大出力カルダンモーターができない)だと、経済編成(MT比1:1)で高加減速にするには、
20m4扉仕様では粘着の問題があった。 5000の資料がないので片手落ちなんだが
HEって急行系というよりNHE準拠でもう少しだけ
高速域高めただけだったようなんだよね。
60キロ以上の加速がABFMに全く及ばない・・・
15年くらい前、運転曲線とか資料が大量に出てたのを
落としたのがあったので上げてみる。
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org24960.jpg ギヤ比6.13で高加速向けだから、箱根急行やってた時期は長かったけど結構きつかったと思うよ >>348
90km/h辺りでHEとNEHが逆転するんだね あと、HEは120kWなら本来360Aのところ、515Aとすげぇオーバードライブしてたんだな 2400は車体寸法が特殊だったみたいだね
何で18m車じゃなかったのか… >>351
バーニア抵抗で無段階に近くグイグイ引っ張ってたんだなぁ
5000は375Vじゃなく340V定格135kWだから実質150級というし
隠れたハイスペック小田急。
>>352
粘着性活かすためにM車に重量が欲しかった
一方クハは車輪経小さくするほど軽量化(これは踏襲)
19.3+15.97でABFMとほぼ同じ長さとドア位置という設計の妙。 >>349
2400の急行が苦しそうだった記憶が印象にない
2600末期の快速?急行はなんか死にそうに走っていた感じ
あくまで客で乗っての感想に過ぎないが >>354
音が印象強いと思うね。2600のヒューンと言う甲高い音が
高速回転してる時は相当悲壮な聞こえ方だった。
9000は高速回転時ブワーッとかジャーーっという小田急らしからぬ
低音域が唸ってうるさかったな。 >>355
9000形当時の国鉄の(103や113とか?)モーター音に似てると思ってた。 >>356
つべに音が結構出てるので聴き比べは出来るよ。
NHEがぶっ飛ばすと https://youtu.be/pv0iBeeRoWw?t=1280
9000がこんな https://youtu.be/5wIjYY98zAI?t=637
同じ三菱のモーターとWNだが、以前関西に住んでた時
9000は近鉄のこれによく似てると思った。
https://youtu.be/RsVFSa9XV80?t=418
9000のコメントだと西鉄似という話があるなぁ。 2600は103同様に低速型だったみたいだから高速運用に使うのは無理があったのではと想像 車型が多くて一色担に運用していたのに、一部車型だけ用向き限定で設計投入するのは無理があると思った。 例えば5200が各停みたいに高速型が低速運用はまだ余裕のある走りだが、逆に低速型の高速運用は無理があった これ9000です。 https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org26020.jpg
9000はもっと低速重視なんだけれど、それでも5200や
2400と繋げてたんだよねぇ。 80年代、検車区見学等でお世話になった
車両畑の社員さんが言うには、2600の併結は力行じゃなくブレーキが問題と
されていたそう。平常時でも40キロで回生が切れて空制だけになる癖が
他編成とガコガコしたら最初から立ち上がらない率が上がるとまで言ってた。 ギヤ比5.39にしちゃ全界磁定格32km/hってやけに低いな・・・ 9000は電機子チョッパの6M4Tだったらもっと違ったかもしれないが電機子チョッパ自体が高価だったから… いや凄いな、人生で初めて小田急の詳しい社内資料見たよ
もっと昔に知りたかったw 2600〜2000までの高性能通勤車だと8000形が一番安定した設計に見えるが 電制ないし、冷房も廃車を見込んで簡易改造の素質な構造だったもんな NHK BSの番組で第2山手線を扱ってたが、梅ケ丘駅はそれとの乗り換え駅として設計され、小田急としては珍しい島式ホームだった、って話は無かったな(有ったら済みません見落とした)。 >>363
最初は自社線内では急行系で運用する前提だからメリット無かったんでしょ。
千代田線乗り入れ撤退後は高加速性能の生かせる各停運用メインとなったが… 関東金の無駄遣い車両その1
京王7000系…大規模更新もライナー導入で廃車開始 関東金の無駄遣い車両その2
西武9000系…VVVF化するも15年程度で廃車開始
東急5000系6ドア…2両組み込みから3両組み込みにした挙句、全廃
メトロ03系初期車…一部機器更新も全廃(一部譲渡) 関東金の無駄遣い車両その3
京成初代AE…実働13年で廃車開始(ただし機器は3400形へ継承)
メトロ05系初期車…20年で廃車(ただしそのうち8編成が編成単位で輸出、4編成が3連化で北綾瀬支線へ)
横浜市営2000系…ホームドア導入の煽りで22年で形式消滅(ただし機器の一部は3000S系へ継承) 関東金の無駄遣い車両その4
小田急8000形…機器更新で構わない所を鋼製車なのに大規模更新した結果、ステンレス車両の1000形を先に廃車する羽目に
メトロ8000系…LCD案内&VVVF改造も全車解体予定
新京成8000形…VVVF化した編成も改造から10年程度で廃車解体 関東金の無駄遣い車両その5
東武10050型…錆汁MAX&高車齢&浪エネ抵抗制御の8000系やラインフローファン無しの10000型&10030型より状態良好なのに、SL資金の犠牲として先に廃車(T_T)
都営5300形…先頭クモハ&18m車体という地方私鉄ピンスドの状況で全車解体(台車は日比谷線03系から強奪すれば譲渡可能)
相鉄8000系初期車…内装バリアフリー化、全車解体予定
相鉄9701×10…機器更新、全車解体
営団1500NN…冷房化の犠牲車
都営10-300形8連…組み替えせず編成毎廃車(台車、機器の一部は流用?)、どこか買ってよ(T_T) >>373
初代5000・5200までは今の3000で置き換えで、今の4000で8000をリニューアルせずに置き換えるという手も考えられなくはなかったけどね
8000と今の4000の総生産数が同じだったし
タラレバだが 8000・1000の半数のリニューアルに時間が掛かったために1000のもう半数・2000・現3000前期を切り捨てて現3000後期のリニューアルに着手した可能性もあるから、
これが8000を切り捨てて1000を(工期が長いため)早期にリニューアル開始していたらまた違ったかもしれない キリスト教 本家 情報 ふぇあり
命はどうでもよいらしい 練馬区 >>374
小田急でも8251・8255Fは内装バリアフリー化したけど廃車された もっと言えば5200も車体修理から10年未満で廃車になった編成があった(はず) >>374
都営5300形は標準軌のまま琴電に譲渡出来たら良かったろう。 VVVFの問題もあると思う
小田急も50000系は10000・20000とは違い譲渡すらしない方向になっているのは確実 >>367
そんな簡易的なものじゃなかったと思う
実際2004年の大改正まで残ってたんだから >>366
ただ2600・9000と同じく評判は良くなかった模様 初代5000/5200は車体修理の段階ではもっと長く使うつもりだったが地下化後の下北沢の勾配に対応できないことが判明したため呆気なく全廃 >>386
その理由なら新宿に乗り入れない運用に限定しようと思えば可能だったと思うが… かつての目的別から汎用にシフトした小田急には無理でしょ 改築前の小田原駅東口から小田急のきっぷで入場して、JRで新宿まで行って中央西口 >>388
1700(1000ワイドドア)だって末期は運用制限されてたけど扱いにくかったからね 初代5000/5200までは現3000で置き換え(現3000だけで400両以上製造する計画)を変更して現4000が作られたという推測をしている方もいたが
現実であのような事態になるならやはり当初計画通り初代5000/5200までは現3000で置き換え、8000を現4000で置き換えの方がよかった気はする
ただ、現3000が登場した当初は初代5000/5200は続投予定だったようなので、何とも言えないがな >>392
初代5000形(200番台含む)を全部2代目3000形に置き換えだと1000形6+4を千代田線乗り入れ撤退させることができなくなっていたんだが… 千代田線ホームドア設置(1000は東武9101Fと同じ理由でホームドア対応が困難)と常磐緩行線直通計画が持ち上がって現4000登場に至ったと思われる >>394
ワイドドアではない1000形は普通にホームドア対応出来ているんだが… それは小田急線内のホームドアの開口幅を少し広くして対応 2600/4000初代は最後まで内装が緑系のままだったが、5000初代(5200含む)は内装更新も受けていたため当初はもっと長く使うつもりだったと思う
特に5200は3000現行が営業開始する直前まで修理してたから
9000が意味不明で4連は内装未更新だったが、6連だけ内装更新していた(9000は扱いにくい段階で最初から運命は決まっていたと思うが) 扱いにくさに関して9000は有名だが2600や初代4000も大概だったとか >>397
2600も4000も、最初の編成以外は内装更新されている。9000の4連もされている。
色が同じなだけで、新品のデコラに更新されていたよ。見てないな。 先代4000の4 0 5 1Fも他編成より暗めのデコラで年季入ってたな。
4251Fの中間車も乗降ドア脇下デコラとか経年劣化で汚れが目立ってた。 デコラでやたら緑じゃなく青みが強いのあったな
色が抜けてるんだか最初からなんだか・・ 陽に当たると段々色落ちするですよ。銘板とかステッカー剥がされるとよく分かる >>386
オダもそうだけど、チョッパ8000のほうが、主電動機出力が実際上小さいことを忘れてないか 初代5000で内装更新もメニューに追加されたのは、恐らく当時行われていたJR東日本の車両更新工事の影響が大きいと思われる >>206
元々1300mmだからキリのいい数字ということで思い切って2000mmにしたと思うが
ちなみに東西線は1人分を450mmという計算にしたから4人分ということで1800mmになったそう >>403
初代5000が135kWで8000が140kW 端子電圧の違いを言ってるのかな
5000は340V換算だけど、8000は最初から375V HiSEは全席展望席を目指してハイデッカーを採用していたと予想 >>206
最初から今の2000形程度の大きさで良かったね サハ3連続以上禁止の条件があったのは、恐らく1800と初代4000の事故の影響だろうね
しかし1800と初代4000のどこがいけなかったんだろうか… >>410
パイオニア台車とモーターの特性、1800の沈み込み3つ複合なんでない?
軸重抜け難ありのパイオニア台車だが、空気バネで車高沈まない
そこへ1800は枕バネをコイル化して原型より沈みやすく押し上げ
4000低トルク高回転三菱モーターと国鉄の真逆のMTで
速度帯ごとに押し引きが強い、という三重苦だったと聞いたよ
クハの台車交換はしたけれどそれだけじゃない説 つまり同じ旧性能車だからって無理矢理混結させようとしたのか
小田急は何でも混結させようとするから… 大型で8連組めるのが当時は限られてたからね、輸送量逼迫した状況だったのでしょうね 当時大型8連は5000形と40+18の3+3+2だけか あの連続脱線事故がなかったら、1900や2100がもう少し長生きしてたかも知れなかったな。
4000増備向けモーター供出のために廃車なんてならなくて。 それはないと思う。
乗客数急増で大型車化必須な状況だったし。 普通に大型(20m4ドア)車と中型車の混結もあったみたいだし 前4両箱根湯本行き、20m車が入線出来なかった時代よく見たような FM車ブツ6+5000なんて編成はいくらでもあった >>415
確実にもう少しは長生きしていたと思うABF。
そもそも急に4000の増備を、しかも非冷房でせざるを得なかったのは、
暫定5連(McM-McMTc)を解消して、休車のTc×7を復活させるためで、
ABF全部と荷電2輌も潰してモーターを供出した。 >>422
そりゃあ暫定ってくらいだから、1800×2の代わりに4000のMcMTcからTcを外して、
別編成にくっつけて5連を組成したのだから、脱線事故が起きなきゃ、そのまま
4000×3+4000×3+1800×2のままだったろうよ。
将来的に4000×3の編成をどうしていくべきかについては、小田急自身
迷っていた時期はあるようだが、それが脱線による1800との連結禁止によって、
決定づけられたということになるだろうな。 脱線事故が無かった場合でもやはりABFは5000形登場と入れ替えで退いた可能性が高いですかね 5000形登場って、44年の4連はわかるが5200こと6連が
前倒しになる可能性あったんかね?
実際は5200が出る直前の51年度にABF廃止だと思ったが 追記、4000が増備されなかった場合の大型車の施策って意味でね >>425
51年に5000形4編成増備で登場するからこのことでしょう、4連は52年初めまで登場するので。 >>417
逆10両知らない人も居るんだね。
最後の方は大晦日からの終夜運転だと思ったけど。
千代田線からの直通で前4両伊勢原ゆき、後ろ6両江ノ島ゆきとか。 新宿だとAが大型4+6 Bが4+中型6 Cが4000の5+5 Dが6+大型4 Eが6+中型4 だったのが
81年夏の地下完成、自動アナウンスと点滅ランプ化の時に逆向きになったんだっけか その完成前、乗車位置白の0だと大型だけの10両で冷房車っていう
当たりなのがすぐ判ったな。江ノ島線在住時代でEが多くまたHEか・・と あの時代の新宿の自動放送はいかにも合成音声ですよって感じで楽しかった
急行 小田原 行き
↑ここが不自然に空く >>431
凄い!よく覚えてるなぁ。。。
”足元の点滅ランプの表示位置が変わります。”
”分割案内板*を境に前*両が急行**行き、後ろ*両が・・・”
新宿駅の案内放送、こんな感じだったっけ・・・? >>435
うん、それ。 「足元ランプの 表示が変わります」 が他社にない面白い表示法だね
>>433
「急行 小田原 行きが 発車いたします 閉まるドアーに ご注意ください」
って感じの間の空き方だったなぁ
乗車位置黄色の8がNHE6両の準急だったような記憶 只今 小田急向ヶ丘遊園では、春のフラワーショウを開催中です >>395
小田急と千代田線のホームドアは全くの別物 >>393
現4000を製造して1000を地上転用し8000を置き換えという流れ
(現実に8000と現4000の製造数が同じだったため、タラレバだが) 1000ワイドドアもこのスレの仲間入り
あのOBがご存命だったら1両くらい残してただろうが
(いくら失敗作だったとは言え2000に活かされた要素もあったし) 1000ワイドドアの廃車理由に中間車化改造車のドア位置が不規則でホームドアに対応できず、更にその中間車化改造車にアスベストの問題もあったと推測するが
(同様に中間車化改造された京王8000にアスベストの問題があったみたいなので) (8264Fは台車が台枠に食い込んでしまったとかなんとか) サハ9559-9659は阪急を彷彿とさせる
(昔の阪急はよくリピートオーダーしてたらしいから) 初代4000の中間車増備も、あの事故が理由だったのか 旧4000の5両化ってのは、なかなか合理的だったんだね
8両最大時代は5+3、10両可能になったら5+5という具合で
大型車の増備に効率的だったと 2600はサハ2750欠車で登場したが、サハ2750を組み込むことは当初から想定されていた模様 2400の変則車体長だが、18m3ドアはダメだったのか? >>450
何度も語られてることだけど、MT比1/1じゃバーニア制御で粘着上げても
ABFMの加速と歩調合わせるためには先頭を軽くして電動車を重くする必要があったからね 追記、HEの起動加速をMT同数で再現するには1000形VVVFまで無理だったという
9000の地下モードは反則だしね 車輪径がMT異径かつM台車が通常より大きい、T台車が逆に通常より小さいというのも何か特殊な感じ
同じMT異径車輪の103よりも差が大きいという 初代4000の車体と2400の機器を組み合わせて初代5000もどきにしたけど完全に初代5000もどきにはならなかった感じ? >>453-454
車輪と台車を小さくしてクハはだいぶ軽量化出来たようだよ
HEのモーターは4000化の歳、巻線を取り替えて熱容量にも余裕をもたせたそうな
それでも元の制御器の都合+モーター寿命考えたダブル効果で電制なし
雨降るとブレーキ弱いし加速も4連は5000よりトロかったね・・6連は余裕あったが 乗務員からは初代5000・5200は好評だったそうだが、逆に2600・初代4000・9000は評判が悪かったのかな? >>456
加速安定、ブレーキ確実。
雨で空転や過走が酷いのが2600、4000。
9000はギクシャク多々とかブレーキ初速が75以下で回生になったら
ブレーキハンドル位置による減速度が
同じ車なのに変わるという難易度w NHEは40km/h辺りで回生切れて空制に切り替わるときの衝動が凄かったな・・・ >>458
8連化された編成では、切り替わりのタイムラグを縮めてあったが、結局
全編成8連化されなかったのでどうにもならず・・・ 2600の晩年は一部8両化されていたのは、もしかしなくても2600を優等に使いたくなかったのが理由?
元々各停用だったそうだから >>460
単に新宿口各停8連増やす目的だったんじゃないの? 当初は2600の8連だけで済ませるつもりだったようだし・・
2000の製造じゃなく 組み換えたら不足分を2000形で補うしかなくなるんじゃ? >>462
そういうことらしい。2600×6は22本あった(うち2輌事故廃車)わけで、
それを2600×8に改造して、14本にする計画だったそうで。
あれ、そうすると電装品が3本分足りないじゃんと思いきや、それはVVVF化でと。
>>463
22本の6連を、14本の8連で置き換えることになるわけで、その辺計算はどうだったのかなぁと思うよね。 >>462
2654Fの組み替えと1081Fの登場が同時なのでそれは無い
1000を続ける予定だったのか2000に移行する予定だったのかはともかく、最初から組み替え不足分は新造するつもりだったんじゃなくて? >>464
それも2000形と同じIGBTというね 2000形の製造数と時期の微妙さ
車両メーカー側から好条件の提案があったのかと思うね
N8の代替分まで最終的に作って9本まで行ったが
1000、3000が大量なところへ来ての間で興味深い 2000の増備は元々複々線化と併せて行う計画だったと推測
複々線化完成後に1080/2000は中間車を新造して10連化し直通運用に充当させるつもりだった可能性 >>468
もっと完成が早まっていたら2000形の10両も見れてたんかな
子どもの時は千代田線に来るLED表示が無い分割編成を2000に交代させろと思ってたが 1081Fと2000形は付番からして最終的には10連化されるつもりだったと思われる その意味では1081Fが最終増備分に近かったのに真っ先に処分されたのは運命のいたずらというか
車椅子スペースさえあればバリアフリー面も問題なかったのに HE車も、初代4000の高性能化へ機器供出のためとはいえラストナンバーが真っ先に除籍されていたそうだし 2600→抵抗制御では珍しい回生ブレーキ
4000→東武8000みたいに電制無し
5000・5200→抵抗制御では主流の発電ブレーキ
と揃っていたんだな 昔は経堂に車庫があって、逆に喜多見には無かったらしい 向ケ丘遊園には本当に遊園地があった。
今の子どもには信じられないことのようである。 経堂検車区はロマンスカーの配置だねぇ
新宿が3線しか無かった工事期間は回送バンバン走らせてたな >>474
事務所の引越は電車でやったと読んだことがあります。 経堂検車区の新宿寄りにデニ1001とデニ1301が並んでいるのを撮りにいきました
ポケットカメラの110フィルムでしたから出来はさておき、ネガは処分しちゃったかなぁ
就職してからは教習車の1406を横目で眺めながらの通勤でした
>>475
遊園地があって、正門までモノレールがあって、特急停車駅でした モノレールと遊園地のことを知らない層も増えて来たな 新宿から10kmちょっとのところに何で特急止めたんだろうね >>481
確かに向ケ丘遊園だけでなく、鵠沼プールガーデン、花鳥山脈、御殿場ファミリーランド
これみんな小田急電鉄経営で、みんな廃業したなんてことを知ってるのは最早一定年代
以上なんでしょうね。
私は全部行きましたがそれぞれ超一流ではないがそれなりに頑張って経営していた感じで
したが。。 娯楽の多様化で私鉄系遊園地はどんどん消えてったよな
向ヶ丘遊園は近隣によみうりランドもある中でよく続いたわ 向ヶ丘遊園駅前はモノレールの駅跡の土地の形が駐輪場としてそのまま残っていてびっくりした でも実際、向ヶ丘遊園行くのにわざわざ特急で、なんて人いたのかね そもそも駅名改称しないんだよな<向ヶ丘遊園
方向幕の交換等が必要になるからか? まあでもほら東急の多摩川駅も改称まで21年かかったから
向ヶ丘遊園閉園から今年でまだ20年だろ?
来年も再来年も改称しないだろうけど >>487
流石に遊園地行きにロマンスカー乗る阿呆はいなかったと思うけど新宿まで戻りたくない世田谷区民や狛江市民や川崎市多摩区民辺りを拾う設定だったのではないかと
複々線完成後の今は成城学園前で拾ってるし 常磐民の中には向ヶ丘遊園があると思っている人が少なからずいる。行き先を見ていつか行こうと考えている。
夢が叶い、休日に遊びに行って存在していないことに愕然とした親子連れもいる。
少し先によみうりランドもあるけど、彼らはもうだまされないぞと、怒り心頭で家路に就くのであった。 登戸住んでるけど遊園停車のロマンスカー使ったの2回だけだわ
帰省の帰りに新宿着いたらたまたま遊園止まるやつだったから乗ったのと
町田で飲んだ帰りにたまたま遊園止まるやつだったから乗ったやつw 稲田登戸、西生田に戻したほうがよくね?
京成は谷津にしたしね >>482
単体の赤字は少なくとも老朽リニューアル経費等考えたら、売ったほうが良かったんだろうねぇ
今別の意味で大人気の志摩スペイン村なんかは転売しようのない土地のヤケクソ利用だな 2220とか2400とか、中型貫通型の保存車を残して欲しかったな
結構正面のデザインが好き 乗り鉄ですが向ヶ丘遊園までさがみ号を何度か利用しました
走る喫茶室で注文を入れるとものすごく慌ただしく対応していただいて申し訳なかったなとw 公式に保存車って今2600がある辻堂の海浜公園に
2218がいたくらいかね。 山梨の個人所有のも非貫通2200だしな 「貫通型の」と指定しているんだからそこが一番のキモだろうに >>502>>504
山梨県は笛吹市に2211非貫通と
甲斐市に2327貫通がある
辻堂の2218もラストナンバーで貫通だったな 個人所有の小田急デハ2223→富士急モハ5716は2012年末ごろ撤去されたという まあ結局>>500が間違ったことを言ってたのは確かだ 日本ソフトウェアの2200も先行きちょっと心配ではあるな
たまに整備はしているようだけど 生方氏の著書でも貫通型前面の中型車を1両でも残しておければって書かれてたっけな >>510
最後まで現役だったのは新潟交通の2220?
買い戻せなかったのかな? >>494
行先表示のROM変更の手間がかかるからやらないと思う >>511
多分顔は違うけど主要機器が同一の2200がいるからって事で買い戻すとかの話は出なかったはず 2400(HE)の保存が無かったのは初代4000の高性能化による機器供出が理由だろう 先頭車の車体の前半部分だけはイベントで活用されてたけどあれだけでも処分されずに残ってればね
まぁ、2600が3両と2870の前頭部があるだけマシかも知れないが あぁ懐かしいな、小田急百貨店の鉄道展で中入ったよ
HEの運転台のマスコン触ったり手動方向幕回したりがOKだった >>494
今更稲田登戸には戻せないだろ、
今はあの辺で単に「稲田」と言ったら稲田堤のイメージが強くなってしまっているし。
「小田急西登戸」で良いのでは? 新宿小田急での鉄道展の展示車両は2200と2400があったと思うんだけど、2回やったんだっけ?
記憶が古くて曖昧。
この時買った2200の車号切り抜きまだ家にある。 >>518
そう、2回やってる。車号切り抜きっていくらだったかな・・
当時10代で高くて買うの躊躇したからなぁ。
LSEの運転台部品のシミュレーターがあったのは2回目だっけか。 >>514
その通りなんだけど、HE予備1編成は残っていたからなぁ。
>>515
2870の全頭なんて残っているの?
>>518
アスベストが・・・。必ず外に置こうね。
>>519
切り抜きの値段は、文字取れてるのが500円。文字そろっているのが2500円。
ところが、値札はシール式だったので、外板のほこりでハガレかけのものが多く、
文字揃いに500円が付いたり、値札だけ落ちてたり、文字取れが2500円だったりめちゃくちゃにw >>520
クハ2870の頭は社員の研修センターにシミュレータとは別に教材として保管されてるらしい
解体時なのに冷房キセが一台残されて方向幕もそのままだったからどこに行く?って言われてたね >>521
その教材は現3000のモックアップに置き換えられていた記憶 富士急ABFM試運転見たかったなぁ
大野工場停車中にしか見たことがない 当時は保安装置の類が無かったから譲渡予定車を元の会社での試運転が可能だったんだろうね LSEが東海道線を試運転したのも当時は保安装置の類が無かったためと思われる >>527
東急でも青ガエルの松本譲渡車が東急線内で試運転をしたことがあるらしい 保安装置がないってことはなく、LSEは国鉄の可搬式積んでるし
OM-ATS撤去前に富士急色で走らせてるから無問題
東急が資本協力してる上田などは東急ATS準拠じゃないっけ?
ただ、丸窓→カエル時代ではなく7200の時代 松本のカエル、長野のカエル、岳南何ていう時代の
地方私鉄はATS非設置だったと思うが >>532
長電はカエル導入時点でATS入れてるよ 例のつべのチャンネル猛更新で昭和電車チャンネル共々見るの追いつかん
急に何があったんだとw 高年齢層が終活でUPってんのかと思ってしまう
自分も知ってる世代だから洒落にならんが 1000形が登場した時の反応はどうだったんだろう
特徴的なVVVF音に驚いた人も多かったはず 最初から史実の初代5000相当で良かったんじゃね?(ただそれだと3M2Tにはできないが) サハ3連続以上禁止の件、一時期のJR東日本では平気でやってたけどな 国鉄の電車急行はサハシ+サロ+サロ+サハシだったもんな
サハじゃないけどw >>543
埼京線205系の救援で、TcMM'MM'MM'T'T'T'c+TcMM'・・・で右編成で押して、
左編成を回送中右編成のTcが脱線したのは、やっぱり平気じゃ無かったんだと思うんだ。
1800のDT13と重量が、比較的輪重抜けしやすいP-III706Tのクハ4050を押し上げたのは事実として、
国鉄の例では大半脱線が起きてないことからすれば、台車と線路の相性が悪かったとしか。
クハ4050の台車を、クハ1850の台車と相互交換していれば、脱線は起きなかったかな? >>545
もしかしなくてもそれが原因でE233以降は再び6M4Tとなったんだろうね? 211/209/255がサハ3連続、E217でも4連続だが、215に至っては6連続だったからね
二階建ての都合だと思うが
小田急も215のような車両を研究まではしていたらしいが、結局は実用に至らなかった(その代わりこの通勤構想を取り入れた結果がEXE?) 上野口用の211はG車入ってからT車が5両連なってたような 5連はMT比に困ってたのは間違いない
常磐103の付属編成は4M1Tと2M3Tの2種類があった位
小田急の2600があのような形になったのは、3M2Tの影響だと僕は思う >>549
2600は当初から6連で新製予定が、ホーム延伸の遅延から5連で作られた。
TcTM1M2M3Tcの予定が、新宿方が混雑するからという理由でTは小田原方に
入れられた。そのため最初からTを入れる方針だったので、あの編成構成以外の
選択肢はなかったと思える。McMMMTcとしておいて、Tを入れてMcMTMMTc
なども考えられるが、当時の変電所事情から、4M1Tで130kwモーターは許容されなかったのだろう。 >>550
仮に新宿側から2両目にサハ2750を入れてたら、正組成10両の運用は不可能で、新宿口各停が8連運転開始した時には、真っ先に8連に組み換えられていた可能性 >>551 下段
つまり2600が出た当時は史実の初代5000相当は不可能だったということだよね?
むしろ当時は初代5000相当が不可能だったから初代4000が作られた可能性も? 5000の135kWモーター(実質150)は
1969年じゃないと難しかった話もあるし
更に1964年時点でホームが5両分しかないとかギリギリな条件だらけだなぁ
12M2C制御装置なども三菱と打ち合わせて悩んだ結果かなw >>554
夕方書いたのは分かりにくくてスマン、12M2Cというのが6M1Cを2組の意味
他社にはないような特殊な仕様を発注したのも、当時の苦肉策だったんだろうなと
9000じゃ発電と回生切り替えやるような制御器頼んでるしね 改めて思うのは三菱電機にとって小田急はいいお客様だったのか、無茶振りさんだったのかw
単価高く発注してくれるならいい顧客だったのかなぁ・・
HEなんかもMT同数、バーニア制御で起動加速をFMオールM匹敵要求って凄いし >>550
あの10連にする時の編成は、もともと9000の組成が新宿方4連、小田原方6連にしたのが始まりかな。
それまでは、4+4もあったので、割と新宿方6連の例はあった。
あれって、2600の「新宿方が混雑するのでM車をそっちに多く配置するほうが粘着に有利」という条件
からすれば、新宿方から5000+5200と組成するより、いくらかではあるが5200+5000と組成した方が
合理的な気もするんだよね。北隣は新宿方から6+4だよね。 新宿方6両にした場合、平成初期にやっと実現した小田原線江ノ島線分離を
早めないと、せっかく10両化しても4両が前じゃ82年の登山大型化前時点のままで詰む >>557
京王8000系の登場時は新宿方から4+6だったが、分割特急が廃止されたタイミングで6+4になり、そのまま中間車化改造(10両固定化)された
中央快速線の分割編成も201系時代は新宿(東京)方から4+6だった 単に国鉄や京王が(京王は当初)終点方に4連を持ってくる結果になったのは、分割併合の都合だろう。
しかし小田急はどん詰まり寄りに改札があるから、新宿方が混雑していたわけで、
その乗客の重さを粘着重量として利用しようと考えて2600はMを極力新宿方に寄せた。
そうすると例えば5000+5200はTcMMTcTcMMMMTcだから、本当はTcMMMMTcTcMMTc
にしたほうが、粘着には有利だし、邪魔な運転室もやや小田原方に行くから運転上有利だろうということ。
結局ダイヤ的に江ノ島線との分割併合のためにやむを得なかったとは思うが。
9000の10連で、新宿方にM車を集めたのが、のちのちの編成に影響したのだろうか。 東武は6+4の場合、特性の異なる1M車が真ん中に来るように組む ほぼ全ての急行は相模大野で小田原方面と片瀬江ノ島方面を切り離し(上りは連結)してたので、乗るたびに作業を見に行った 4000形も、ラッシュ時以外も5+5で積極的に急行に使えばよかったのに
狭くて古くてコイルばねで乗り心地悪いHEよりはずっと良かったはず 土曜の午後使いまくってたやん、土曜急行の4000
82年までは箱根湯本行が入る以上、急行毎時4本中
2本はHEを入れざるを得なかったし難しい >>564
懐かしいな土曜急行w
4000の10連かHE8連という余り物だった 昔乗りましたね、土曜急行
それ以外にも、夕方の下りに4000系の急行があり
新宿で乗車位置が20m車(白ゼロや黄色ゼロ)だからと、
真夏に5000や9000の冷房車を期待でいると痛い目にう
分割位置が異なるため、これでわかるのだけど、うっかりはありました 初代4000形と言えばディスクブレーキが印象的だった でもサハ2750の車輪径はデハと同じ910mmだった >>566
真夏以外は4000は快適だった
当時の9000は起動と停止前は揺れが大きく、立てば吊革が必須だったし、雨天時2600は空転~再粘着を繰り返し、ガクガクショックが酷かった 約40年前の小田急電車
ttps://www.youtube.com/watch?v=b9CCXiNdBIs
ttps://www.youtube.com/watch?v=vTAae1Vfz98
ttps://www.youtube.com/watch?v=Z2p88wwJhUY ttps://www.youtube.com/watch?v=vpFjOn2TX7w
ttps://www.youtube.com/watch?v=gHh4-SnwRbU
ttps://www.youtube.com/watch?v=v0F1dc0XA6k
ttps://www.youtube.com/watch?v=tvT4Vodfmwk 車輪径からしてサハ2750が電装化前提であるとしたら他形式と連結開始時に電装化するという手はあったかもしれないが
というより新宿方から2両目に組み込まれていたら、間違いなく電装化されてたな >>560
強いて言えば京王6000の分割編成は新宿方から5+3だったか(10両じゃないけど) >>573
サハ2750番台が電装化されるとすれば、制御器に1M制御のものを造り、主電動機も端子電圧375Vか、
直並列制御するなら750Vのものを新設計する必要がある。
そんなこと本気でするつもりだったとは思えない。電装準備があったことは確かだが、
床にトラップドアも切ってなかったので、ありうるとすれば、TcMMMTTcを、TcM1M2M3M4Tcとすべく、
元の2700番台M2の小田原方台車を2750番台の小田原方台車と振替えてM3とし、結局新3000の初期形と同様
M2とM3を半電動車にするくらいか。その意味はないから、実際に工事されることはなかったのだろうし。 考えたらサハ2750って小田急顔20m4ドア車では唯一のサハだったんだな
(初代4000と初代5000/5200の中間車は全てデハ) >>575
井の頭線の3000系は750V端子の1M車を後から入れたね
(3720F以降は375V永久直列となる) >>576
それを言うなら、新2666Fのほうが役立ったのだろうが・・・
空気バネとボルスタアンカー以外に使えたものあったんかな。 今スカパーで40年前のテロ朝ドラマ、新ハングマン見てたが2600か4000か5000形か判別つかんが都内で運行してるなか、堂々と線路内で逃走劇やっとるな。
無断撮影か分からんが、昔の小田急は緩かったんだな。 >>580
昔は入り口の管理者に許可を得れば車両基地内を見学できたみたいなんだがね >>582
どれくらい昔だろう、80年代初頭だと予め広報課に問い合わせして
現場のその日の都合を聞いて貰い、OKなら予約取って行ったよ
経堂検車区だとロマンスカーの運転台まで上がらせてくれた
勿論パン上げして通電状態にしてくれてね まず土砂崩れで被災した2771/2871が搬出不能のため現地解体された
2621-2721-2821の有効活用もそうだけど、2600自体が急行運用に不向きや逆編成不可という問題もあってこれを機に8連化に決定したんではないかな
(実際には途中で中止になったが組み替えを決定した時点では6連は消滅予定だったらしいし) https://www.youtube.com/watch?v=F8pqSSlQSh0
祖師ヶ谷大蔵〜千歳船橋の環八を超えるところってかなり前から高架だったのですね。
町田駅はあまり変わらないけど、新百合ヶ丘駅周辺がわずか40年ちょっとの間に変わりすぎていて驚き 環八の高架のところはTMS増刊プレイモデル(1980年前後)で高架線の参考写真か何かで載っていた
線路脇のマンションも変わってない 作図1971年4月・・こんな頃から高架で線路図に貼り付け修正されてる
もちろん新百合も未開業で快速準急が格上げされる前
https://i.imgur.com/zejcbcl.jpeg ABFM車が現役だった頃の新百合ヶ丘は、乗り換えだけのだだっ広い駅って印象だったな 5200は前面は小田急顔だったけど側面は9000/8000とほぼ同じだったので、どこか橋渡し的な印象を受けた
そもそも登場が9000より後だったが >>545
あれは故障車を後ろから押そうとしてた案件だから実質サハ11連続なので関係ないんでは? >>589
5200というか5000の増備って10連化時期のためにあの時代になったので
もっと早く工事が進んでたら9000より先に登場してたかもね
その場合、一段下降窓にはならなかっただろうなぁ
9000は色々試行錯誤の実験込めて意欲的な設計したから・・
地味に窓下辺とドア寸が50mm高いのは好き、身長・座高ある者には快適だった >>591
登山線対策と思ったが(一時期は箱根湯本には5200/9000/8000しか来なかったこともあったみたいなので) >>548
思い出した
阪急が長らくT車4連続ばかりだったな
でもこちらも最近になってやめたそうだが 悲報!未更新1000系ラスト1本に…。ホント泣きそうです。もう8月中旬なのであと5回しかチャンスないんだなぁ〜。ちなみに9月3日(土)に団体ツアーが開催されますが、参加する方いますか?ちなみに自分は費用面でもイベントの中身的にも迷っています。ツアーに参加すると撮り鉄出来ないからな〜。やっぱ撮り鉄に徹しようかな。 2600と5200の年の差は103の初期車と高運ATC車と同じくらいかそれ以上 >>590
不動の前編成には、重い電動車が固まって6輌も入っている。それを別編成でT'T'T'cTcを挟んで押すんだから。 >>592
論点ずれまくり。
5200登場と登山線6連乗り入れ開始は全く関係なく
下降窓車を入線させようとしたのはずっと後年。 ただ、5200が出るまで大型6両は入れなかったんだよね?<登山線
当時のことをよく知らないので… 2600は現役晩年下窓改良して下半分開かなくなったら湯本乗り入てたな 湯本乗入れは登山鉄道区間のホーム長絡みで永らくHE4連だった
故に湯本急行は夏場は2478以外非冷房だったので敬遠されていた
HEは幅狭なので下窓が開いても問題は無かったが、20m車6連乗入れ開始の際は暫くの間下降窓車限定
しかし2段窓車下窓を固定したら2600も5000も入線した
登山鉄道区間の特急以外が4連だけとなった現在は寂しさを感じる 前4両箱根湯本後ろ6両片瀬江ノ島、江ノ島行きの方が大型冷房という事が逆10の時代にはあったな >>604
鉄ピクの546号(小田急特集。1991年)には、まだ平日1本、土休日3本あると書かれているので、
その頃まではまだあって、翌年あたりのダイヤ改正で逆10輌廃止? これよりもう少し後の時期大晦日の江ノ島行きの急行で確か逆10あったような、、、どっかに書いてあった記憶が? 91年って小田原線江ノ島線急行それぞれに分離の年じゃなかったっけ
そんな頃でも逆10連あったのか
当時江ノ島線民で「前6両急行江ノ島行」が新鮮だった頃 自分がガキの頃に乗った小田急の急行の停車駅
新宿/下北沢/向ヶ丘遊園/新原町田/相模大野/本厚木/伊勢原/鶴巻温泉/大秦野/渋沢/新松田/小田原
乗ったのは2400系(の記憶)
記憶が間違っていたら申し訳ございません 愛甲石田と大根(現東海大学前)に急行停車となるのは1972年12月から(海老名も) 海老名を急行が通過してたのは知らなかった
相鉄との乗り換え駅だったのに? 昭和40年代前半は海老名周りに何も無い、検車区も無かった 突如1000に廃車が出てワイドドア車に至っては全廃になった件だけど、新5000の設計着手が保存車解体開始と同じタイミングだったことからも、やはりあの方の仕業なんだろうな 72年までの急行は早かったんだよね。成城にも登戸にも止まらない
止まるやつが快速準急だったわけで 今は快速急行あるから良いじゃん
暗黒期は上原・新百合も増え●急が出来てどんどん遅くなった時代
ロマンスカーもはこねは沿線民が使えず”さがみ”は少ないし”あしがら”は町田だけ
”えのしま”も休日ばかりで平日夕方以降は4両の混む急行で帰るしかなかった
当時10-20代だったから良いけど今の年齢ではもう嫌だねw 駅間あるから本厚木開成は全駅停車でも実質急行なんだろうけど
気分的に滅入る感じあるね 急行10両化少し前の優等列車(新宿発)
02:急行箱根湯本(前)・片瀬江ノ島行き、たいてい2400+2400
12:急行小田原行(前)、後ろ4両相模大野から各停藤沢行、これには5000などが入る
22:準急本厚木行き、2600
上りも似たようなものでしたが、記憶が間違っていなければ
新宿側から、前4両は箱根湯本発、後ろ4両は片瀬江ノ島発、で8両になったような
これも間違っていたら申し訳ございません >>622
湯本行は湯本発が戻ってきてそのまま次の湯本行だが
江ノ島発は江ノ島ですぐ折り返すと小田原発の新宿方に付く
10両化されてからは小田原からの6両の前に付く感じ
江ノ島行は各停藤沢発の大野化けか大野始発の新宿方4両が折り返すダイヤ
時間は時代によって微妙に変わるけど
02・32が湯・江
13~16・46が小・大(藤・江)
24~25・54~55が準厚 >>623
ありがとうございます
どうも上りの急行の連結順序は、記憶間違いの様でした
申し訳ございません
多摩線開通前ですが
上りの急行ですと、ラッシュ時のピーク時=6分間に、急行/準急/各停が入る時間では
急行:4000+4000+1800の8両、が頻発、冷房車ゼロ
準急:5000か9000の、4両+4両、100%冷房
各停:2600ばかりで、2664と2668が冷房車だったような、
この後2672,2671など、少しずつ増えていました
夏は、準急の混雑が冬より厳しかった記憶です 2600/4000/5000/5200を合計すると製造期間は103/東武8000と同じくらいになるんだな
国鉄/東武は同一形式のまま20年以上製造されたのに対し、小田急は複数形式に跨っているという違いはあるけど LSEをハイデッカーにしたのがHiSEで、そのHiSEをボギー車にしたのがRSEで合ってるよね? 371/RSEは当時のJR東海の社長が鉄ヲタだったからこそ出来たものだと思っている >>617
でもMSEは便利とは言えない
RSEからMSEに置き換えはまるで転落に等しいもの >>629
371が来ると、一般人が「小田急線に新幹線が走ってる!」と言っていたのを思い出すなぁ。
一般の人から見ると、そう見えるんだろうなぁと、黙って聞いていた。 >>629
警笛が汽車タイプのだったから小田急線内では異色の異色
めちゃ萌えた! >>629
車内も白とグレーでシックにまとめていたのもよかった >>630
俺も子供の頃そう思ってた
グリーン車マーク付いてたし JR東海の社長が交代した際に「あさぎり」なんてどうでもいいと思ってしまったんだろうか?
371はその時点で後継車両を作る気は無かったそうだし 名鉄的に言うと
NSE→ロマンスカー
LSE→ロマンスDX
HiSE→ロマンスsuper
であると想像 もともと「あさぎり」の特急化と、相互乗り入れ化については、JR東の牙城新宿に足がかりを設けておきたい
というJR東海の思惑があった。実際新宿東口のルミネの対角線にあるビルの1階に、
JR東海の切符などが買えるサロン風の「出店」があった。新幹線のNゲージが見えるように置かれていたが、
乗り入れが片乗り入れに戻されるころ、ひっそりと店ごと無くなっていたな。 >>639
御殿場線乗り入れ車の代替車について、小田急側が「提案」したのは国鉄時代。
さすがに南海のように485系買えとか無理は言われなかったが、
にべもなく断られ、「展望車入れるなら乗り入れ中止だ」と言われた。 >>638
パサージュ、よく行ったよ。職員は別に東海の社員じゃなく模型のプロで
一人は後にメーカー行ったし、別の人はその後某店で見かけた 371系/06系と小田急以外の車両で1編成しかない車両が複数あったが
小田急はそのような車両が無かったよね? RSEは1本で良かったが、設計主幹日車と川重にも顔立てするため2本作った >>644
> RSEは1本で良かったが
371の代走とかもあったから2本必要だったろ >>643
2300形とかあった
通勤車化で4両1本だったのが2両2本になったけど >>643
古くはデハ1500+クハ1550なんてあったな。小田急井の頭線改め東急井の頭線からの転属車。
後にクハは車体延長、さらに車体を新品に取り替えて1914Fになり、さらに富士急に譲渡?
系列内だけど異端車で1編成のみなのは、デハ2217−2218。台車が空気バネで正面貫通型、WN駆動。 >>648
あれ本当は2220なんだけど、当時2220は全車4連で、
2連は2200形だけだったんで2217-18になったんでしょ >>643
昔の特急車2300形も、SE製造が決まっていての急造だったから1編成のみ。
ゆめ70が1編成カウントなら1081FもカウントでOKだよね? 一編成だけ仕様違いってのと
形式で一本しか製造されてないのは別だと思うよ FMの中で2300だけ幅が広いの知らなかった。言われてみればドアのステップが
張り出していない >>653
座席を快適にするため、2800mmあるんだよね
前の特急車だった1700形も幅広のはず 2200/2220/2300/2320って兄弟だったの?
もしや小田急が兄弟車を展開させていたのはFMからの伝統?
(後に2600/4000/5000/5200、1000/1500/2000) >>655
2200/2220/2300/2320これは兄弟と言える
初期が直角カルダンというくらいでモーターや制御系が同じだからね
登場時の見た目は3ドアロングの2枚前面窓(2200)と貫通路つき(2220)や
くの字の湘南もどき(2300) 2ドアセミクロス(2320)と全く違うがメカ的に兄弟
>2600/4000/5000/5200
これはまるで違うシステムで顔が似てると言うだけだから5000だけしか兄弟とは思ってないな
5200という形式は存在しない、あくまで5000形6連だからね 2300の謎の一つとして、なんでM'c-M-M-M'cで作ったか。
2連化時に新宿方のユニットを方転せざるを得ず、1編成だけ機器海山逆配置に。
後年富士急でも真っ先に廃車された遠因? 京急旧1000も当初はその形
向きが統一されたのは1100代から 解体中の1251Fに全廃となったはずのワイドドア車のドアが置かれていたらしい
予備部品としては残っていたのか(でもそれも捨てちゃうんだな) 1081Fは2600形の土砂崩れ事故と関係している
事故で片方の先頭車を失い、1本減った分を補ったため 分割案内板"A"とはなんだったのか
もしや逆10両は"B"だったのか? 旧4000だけは最後まで箱根湯本に乗り入れることは無かったらしい
台車が問題? 旧4000だけは最後まで箱根湯本に乗り入れることは無かったらしい
台車が問題? >>661
時代とともに変わってる。スレ内に詳しくあるから検索するがよし
>>662
旧って吊り掛け?それともカルダン化後?
とりあえずこれ
http://odapedia.org/archives/2008723.html 窓については改造可能だったと思われるがその改造コスト抑制のためという可能性は?
N8も最後まで窓そのままだった模様 コストというより補助電源装置からの障害の可能性があり、改造されなかった 2400は2557Fが真っ先に廃車になったようだがそれ以来の伝統だろう<後期車が真っ先に廃車される傾向が強い 初期車から更新始めて全車更新する前に廃車始まると
その時点で未更新から廃車になる有りがちな展開 2400は1両を除いて冷房改造されなかったそうだが、
これが全車冷房改造されていたらかなり涼しくなっていて逆に敬遠されていた可能性も
(その唯一改造された1両は涼しすぎたという話) >>671
実際に乗車しましたが、混雑した急行だけの体験なので、そこまでは感じませんでした。
むしろ、となりのモハのすぐそばの2478のドア近傍に立っていた時は、
いまいち冷え方が足りないかなと感じた記憶があります。
2478の車両端部には、通路ドアがなかったはず(間違っていたら申し訳ございません)
2600の冷房化では、一か所通路ドアが出来たと記憶ですが、これも正しいでしょうか・・・ 2400は車体長からして仮に冷房改造されていた場合、先頭車と中間車で冷房機の台数が違っていたと妄想する 2478は乗車位置で全然効きが違ったよね
まぁ小田急は他社より冷房強めなんだが
16mに5個って凄い、本来20m5個、16-7mなら4個だろうね
まぁ軸重集中目一杯設計の関係で台車交換でもしない限り
Mは冷房改造できなかったんだろうけど 2400って冷房車が真っ先に廃車になったよね
冷房に不具合があったのかな? 1量だけの試験車両だからメンテ都合とかだからじゃないのかな。 >>676
あの冷房装置、5000と共通性無いんだっけか。 そもそも2400自体が早期廃車になっている
機器は旧4000に転用されたが 2400や2220とかの中型の貫通型の保存車は残してほしかったね
1両もなくなってしまった 2200は残っていても中型貫通型は1両も無いんだっけ??
1900や岳南倉庫の1600も今は無い? >>680
2200は2枚窓しか残っていないと思います
あと岳南のも解体されたような
新潟のが残っていたら良かったですね >>681
そうですか、ありがとうございます。
博物館入りしていないで残る2400系以前の車両は
@1800系・・・個人保管 非公開 秩父?
A1400系・・・前新潟交通 長瀞町 工場休憩室 非公開
くらいですか。。。 >>682
あと、2200が山梨の企業内に何両かありましたね
大井川の1906?も解体されたのでしょうか? >>680
貫通型は山梨の個人宅にあったが解体されて既にない このスレの400番台末~500番台頭辺りでその辺の話は話題になってる 小田急線はドアが閉まってから発車するまでの間が長いことで有名(?)だが、昔はそうではなかった(普通に発車してた)んだな 昔は遅延しないように速攻発車や再開閉スイッチ煽りで急がせるのがデフォ 例の事故以前は、短編成の列車や小駅では側灯滅前に見込みで発車ブザー
押すのがザラにあって、営団などより素早かった >>694
真面目くさった乗務員の態度と、ブザーのタイミングとのギャップに笑った
放送も昔の方が聞き取りやすい、今余計な事言う割に肝心な接続とかを
もごもご言うのが居る ライル・ヒロシ・サクソンさんの動画を見て確認した<当時の小田急線出発 ちなみにその方の動画ではSSE車に乗ってる様子もあった 自改導入はこの直後だったと思うよ、91年じゃないかな
あさぎり沼津乗り入れと江ノ島線同士急行が出来た頃 SSE時代のあさぎり号は特急ではなく連絡急行という扱いだったのか 「連絡急行 ロマンスカー あさぎり号」って言い方してたね
当時は座席指定じゃなくて号車指定だったのもいい 2600と9000は機器がかなり特殊
一方で機器は保守的な2400
むしろ2400か悪くても2600の時から史実5000相当は可能だったかもしれないが その3ヶ月間は御殿場まで電化されてたけど車両はキハのままだから
「SSE時代のあさぎり号は特急ではなく連絡急行」で合ってるじゃん キハ5000だったみたいだけど初代5000と車番重複しなかったか? >>709
今販売中の 復刻版 ダイヤエース時刻表昭和43年9月号の御殿場線(84ページ)に
準急あさぎり1~4号 2711M~2718Mが書いてありますよ。
少なくとも電車運転に変わっていた。 キハ5000形は1968年廃車
電車5000形は1969年入線だから被っていない。
特急格上げまでは小田急乗務員が御殿場まで乗務していたのは懐かしい思い出。
国鉄路線を小田急が運転して行くのは誇らしいことだったよね。 >>711
1968年7月1日から電車化されているので9月号で電車なのは当たり前
御殿場電化は1968年4月27日ですので3ヶ月は言いすぎだけど2ヶ月と3日は架線下DCだった訳です SEからSSEへの改造が68年4月には間に合わなかったということか。
SE改造で不足する特急車を充足するためにNSE増備が必要だし、車両のやり繰りが面倒くさそうで。 SEの短縮分の車体は10年ちょいで廃棄、もったいない
後、不細工になったのが残念。幼少の頃、絵本に出てくる3000と踏切でやって来る
実物でどうして顔が違うんだ、と思っていた 原型のSEの写真見てかっけーと思ったもんだ
特にごついバンパー追加が痛いね 初代5000形は2000番代が2900代しか空いてなかったから"5000"を名乗ったって解釈でOK?
(車体は2600、機器は2400がそれぞれベースらしいので) >>715 まぁ元々SEは10年程度の寿命を見越してたからその辺は躊躇はしなかったと思う
顔面はたしかにもう少しなんとかならなかったのかと思うけど、
「この顔にヘッドマーク入れと電気連結器を付けて」と言われたらああするしかなかったのかな
他社に同じような事例あったっけ 国電の金属支持ドアに交換された103初期や301なんかを見ていると、
2600/5000/4000はドアを5200後期車のような金属支持のものに交換していたら印象がかなり変わっていたと想像する
でも現実には幅広車のドア交換実績が無いからなあ SEの改造後って人気ないんだなぁ
あの日本離れしたデザインは個人的に好きだった
おそらくターボライナーあたりの影響があったんじゃないかな?かなりよく似てるし だって初めてブルーリボン賞を取った車両なんだもん<初代3000 SE時代を知ってる人にとっては改悪だろうね
43年じゃまだ2歳で自分は知らないに等しい世代だからSSEで良いと思ってしまう >>724
密着連結器 国鉄からの要請
ヘッドマーク NSEと共通化
じゃね? 2000番代ばかり使っていたのが京阪と似ている
一方でT車系が50以上、M車系が49以下の付番とする例は阪急に類似 50000系は搬入時に帯と窓をマスキングした状態で輸送された事はあまり知られていない >>726
大東急時代に小田急・旧帝都系は1000番台から、旧東横・池上・目蒲系は3000番台から、
旧京浜・湘南系を5000番台からにした名残と、
キハ5000形以後、優等車を5000以降、一般車を1000〜4000にしようとしたようだ。
SEのモックアップには6001の車号が記入されていた。TTc車を+50とするのはどこからかな? >>727
当時は3263Fの変態スカートとともにパナウェーブとか白裝束とか呼ばれてたわw >>730
その3263Fの防音カバーは、VSEを導入するための試験だった可能性が高い 江の島線藤沢駅でスイッチバックして片瀬江ノ島〜新宿方面を直通運転していた事があるのも、えのしま号を除いて今は昔の話? まだ早朝と深夜に直通設定ある。
送り込みと帰りね。 早朝深夜に上り4本、下り3本相模大野発着列車があるんだね >>731
実際そう。全密閉モーターの結果が上々だったからVSEでは台車までは覆わなかったけど、床下カバーの採用につながった。 >>732
それが懐かし板のスレの話になるとはねぇ・・・
登山直通急行くらいならまだわかるが 湯本急行は風祭の取り扱いの問題で廃止になったんだっけ? 2400系の急行箱根湯本行で、2両目(と思いました)で、非常コックを使っての乗降見て、
驚きました。信じられなかったです。これが毎日多数回実施。 それが3000になっても同じことやってたからね。
風祭カットスイッチを付けて下り方2両だけでも開けるようにすれば良かったのにと思うけど。 >>732
初めて行ったとき、ずいぶん停まっているなと思ったらホームを運転士さんが悠々歩いていったのには驚いた >>740
藤沢停車時間4-5分のもあったからね
遅れてるとダッシュで行くというのも有りw 20000系はあさぎり縮小と重なり、50000系は江ノ島線運転体系変更と重なった 今は藤沢分断なんだ
沿線離れてしばらく経つんで、頭の中が急行箱根湯本・片瀬江ノ島行きの時代で止まってる >>743
もうかれこれ30年以上になるんでない?91年に急行が江ノ島・(江ノ島)(藤沢)になったはずだから 前6両各停江ノ島行き、後4両各停江ノ島行きとか知らない?
前6両大野止まり、後4両江ノ島行きとか。 もう昔話の世界ですよね
相模大野の分割
6+4、5+5、4+6それぞれありましたよね
中型車が入ると、位置のバリエーションが増えますが 大野では連結後、後続編成は確認ためにすぐに若干後退するんだが、不意の後退によろめくおじさん
が必ずいて見ていて面白かったす。。。 相模大野の駅の位置は、今よりも若干新宿側にあったんだよね(逆かもしれないが) 営業キロの設定位置を新宿方へ200メートル変更、旧地点は分岐点ということらしい。 1000形までは小田原経由で搬入、2000形から新松田経由で搬入 >>749
ロマンスカーはまだ残っているはずだが… EXEが廃車になるときはえのしま号の廃止されるときかな 江ノ島は完全にJR+江ノ電で行くところになっちゃったからな
藤沢分断は事実上の敗北宣言 EXEが登場してから江ノ島線の特急はEXE主体になっていたような気がする 新宿~藤沢
小田急ロマ 58分前後 運賃600円+特急料金750円
湘新 50分前後 990円
もう勝負にならんね 多摩線の特急が廃止になったのは小田急永山〜唐木田間が各駅停車だったけど、その区間を特急券無しで乗車する客が後を絶たなかったため? >>759
それは対象が違う、湘南新宿ラインのライバルは快速急行
着席できない湘南新宿ラインと藤沢始発、さぁどっちがいい?
というかスレチだから現役板に帰れ 多摩線をRSEが定期で走っていたなんて、思い返せば夢のようだな。 >>761
快急がデビューしたばかりの頃は湘新が当時は最新だったE231系で統一されていたのに対し、
快急はボロい初代5000形が主力だったな。
消費電力面から非回生抵抗制御車は停車駅少ない列車で運用したほうが効率的なのと、
初代5000形自体最初から自社線内の急行系運用前提で設計された車両であったため起動加速度が低かったということもあったが。 2600形と初代5000形は前面はオリジナルのものだったが側面と車内は国鉄103系に類似していた
つまりこの時に既に京浜東北線の真似をしていた事になる
(今の3000形が209系に似ている事はよく言われたが、今の5000形も前面はE233系に似ていると思う) じゃあ次はE235顔が流行るな
流行らないで欲しいけど 電車の顔
70年代 (´・ω・`)
80年代 ( ・_・ )
90年代 ( -_- )
2000〜2010年代 ( ̄_ ̄)
2020年代 (`ェ´)ピャー ロマンスカーで一番豪華だったのがRSEだと思っている >>766
2600の登場は1964年。103系試作車の登場は1963年。しかし量産車は当初山手線に投入。
京浜東北線への投入は1965年。
2600からしばらく続く「小田急タイプ」は、戸袋窓が細く、ドア上につり革があるなど、
言われるほどには103系に似ていない。 なんなら非冷房時代の運転室直後は例のルーバータイプだ 1996年の段階では、既に新宿の自動放送は現行の一世代前のものになっていたらしい
(1994年時点では1986年頃と同じ自動放送) 8000系の廃車が再開されたらしい
一時期は1000系ばかり廃車してたけど結局8000系も本格廃車か >>775
今はアナウンサー等の声をサンプリングしたものを流してるけど、
80年代の音声は本当に機械で合成された音声だったな
「急行小田原 行き」
↑ここが不自然に空く 成城放送とかいうのなんなんですかね。ぺちゃぺちゃしたおばちゃんの声(自動?)
で経堂、祖師谷,成城などの駅前商店街で流れていた
神奈川県内でも聞いたことがある、独特な踏切警報音(今もだけど)と
セットで覚えている >>778
「せいせんしゃおんそう、船橋放送です。交通事故で親の無い子どもの気持ちを考えましょう。
世田谷交通安全協会です。ちんじゃらじゃらじゃーん。パチンコは…」
っていうやつだよね。せいせんしゃというのは、声泉かなぁと思うけれど、全然わからんかった。
それに「放送」じゃなくて、「音送」なんだよね。 >>779
そうです懐かしい、死んだ妹が真似していた。スポンサーも居たみたいで
なんたら祖師谷店は、とか男のコーラスで東京宝石とかわが町平和ー、とか
聞こえて現在消滅した踏切で立ってると、足の早いFMが滑り込んできて開くかと思えば
反対から1800がのそのそ出発する、といったかんじでした >>781
入線だけなら、省クハ79012が戦争直後に入線・営業運転した記録がある。 中学校の臨海学校に家庭の事情で遅れて参加する時、
新宿駅まで歩いて始発午前5時の普通列車で、
小田原まで乗った事がある。
まだ車内冷房が無い時代で、
早朝の窓からの風が涼しかった。
記憶がおぼろげだけど、
運転席のすぐ後ろにも座席があって、
全面展望を食い入るように見つめた、
約2時間の小さな旅だった。 2400より前の車だと運転室直後にも席あった。
この頃は非冷房当たり前だったけど、9000のドア隙間風は酷かったな。冬場は地獄。 >>771
言われれば2600の戸袋窓は1000の戸袋窓の元になったような気がする
103の戸袋窓は実際に見た記憶は無いが、なんかバランスが悪そうな感じ 本当はワイドドア車ではなく二階建て車が必要だったんでは? 下りるのが新宿だけならともかく町田や大和みたいな途中駅でも乗降あるからなぁ 裾絞りボディーと狭い座席幅で対面がやたら遠く感じたな 座席の設計思想も101/103初期と同じで座面を高くして奥行きを詰めた仕様だったそうだが >>787
小田急に2ドアとか遅延の元凶にしかならん >>791-793
あのさ、ここ"なつかしの小田急線"だぜ 小田急3000大量投入による従来車大量淘汰は後にJR東がE233を大量に投入したことによる従来車の大量淘汰の先駆けとも言える ある意味今の3000形は「小田急のE233系」なんだよね
破竹の勢いで増備したことが共通点 小田急3000形導入→2600/旧4000/9000消滅、旧5000/5200廃車進行
E233系導入→201/203/207-900消滅、205/209/211廃車進行 2600/旧5000と1000/2000で似たような流れになっていた事が分かった
つまり前面は同じでも中身は全くの別物で、スカートまで違っていたと 1990年3月に京葉線新木場〜東京間、京王相模原線南大沢〜橋本間、小田急多摩線小田急多摩センター〜唐木田間がほぼ同時に開業した この時に既存の車庫はそのままで唐木田に車庫を設けたために車両数が増えても影響は少なかったと思われる 素人だから9000形は103系1000番代的な存在と見てるが、実際にはだいぶ違ったんだろうか >>803 9000が界磁チョッパ制御で空気ばね台車、103系1000がバーニア抵抗制御でコイルバネ台車だから、後者は小田急ならば2400に相当するんでは。 千代田線向け特別仕様というのが共通しているという事で、9000形は103系1000番代に相当するものだと思ったんだが >>805 地下鉄乗り入れ用なら特別仕様にするのが当たり前だよなあ。前面ドアの設置とか。103系自体が私鉄の初期新性能車レベルだから、その特別仕様たって私鉄のとは性能、要目的に結構な差。赤字国鉄が安上がりに造った車両。 9000系は地上に出ると冷房完備の涼しい車両だったが、
モハ103-1000は真夏でも床暖房完備で車内温度が40℃に達する暑い車両だった 営団(東京メトロ)6000、NSEのように連結器部分が仕切られていない部分が多く、小田急線内でも冬場は隙間風が多かったのではないのか? 6000系は比較的寒冷の本厚木以西には乗り入れなかったかったので、隙間風の苦情は殆どなかった 乗り入れなかったというより、当時はできなかっただな 本厚木以西は秦野(当時は大秦野)以外は10両編成分ホーム無かったからね >>811
秦野だけなんで10両分ホームがあったの? 全線10両化が1998年
ただ1000の10両固定は新製時に小田原まで試運転を行なっている 小田急は京王のような並行増備が無くて偉いと思ったけどね
(さすがに9000の後に5200は5000ベースに戻った事はあったけど) なんで9000というデザイン上斬新な電車が出たのに古くさい5200系の増備に戻されたのか不思議でならなかった >>813 東武東上線で森林公園からさらに西、小川町まで全列車10両運転してるのと似たようなものかな。
急行は10両編成で新松田・小田原間の各駅通過とし、この区間を往復する6両編成各停を走らせる方が需要に似合っているような・・。
新宿方面行くのに新松田で乗り換えなくてはならないという不便はあるが。 9000はえらい価格が高い上、部品点数が多く整備費も工数も掛かる
現場も本社サイドも最低限の本数にしたい意向だったから
5000のスペックで取りあえず増備はするが、好評な一段下降窓は採用
界磁チョッパの技術がこなれた頃に8000を大量増備という施策は
結果も良かったんじゃないかな? >>817
デザイン的に高コストだったわけじゃあるまい >>818
オイルショックなんかもあって保守的な頃だろうね、わざわざ図面引き直して
9000の車体に5000のメカを積もうとしなかったのは
まだ急行準急10連化前で、次の増備は4連5063-65Fでまるっきり5000のまま
フィードバックされたのは電動幕だけだった
やっと6連作る段階で下降窓は採用したが、せっかくのドア高さ1850mmや
座席サイズ、側窓高さ変更は見送られた・・身長あるんで9000のサイズが好きだったんだがなぁ・・ >>814
>>817
その時代自社線内の急行系運用には回生ブレーキは不都合だったみたいね、
9000形もその関係で回生/電制併用だったし。
自社線内急行系運用前提車の5000形増結車でもある5200形は非回生抵抗に戻ったのはそのためなのでは? 扉高さは京王も6000は1850mmだったが、7000では1830mmになっている 座席サイズって言うけど、座席長さは2600から8000まで一貫してドア間は3000mmなんでは?
ただ車端部は2600と旧4000の一期分だけ1560mmで、旧5000/5200/9000と旧4000の二期分(と8000)が1640mmという違いがあった模様 9000が製造された頃、5000は4両x12本のたった48両しかなかったわけで
メンテ効率も考えたらそれ増備するほうが自然だったかもしれん
6連の5200を120両も作ったのは、ちょうど10連化時期だったからって事だろうな
最終増備はABFMの引退とかぶるか?
>>822
9000は5000より背もたれ高50mm、奥行き20mm広くて座り心地は上だな
幅の改良は後年になるが 一方で、ステンレス車は
ドア高さは1000/1500/2000共に1830mm
ドア幅は
1000…全箇所1300mm
1500…乗務員室直後1500mm、基本2000mm
2000…乗務員室直後1300mm、基本1600mm
座席長さは
1000…ドア間3080mm、車端部1760mm
1500…ドア間2300mm、車端部920mm
2000…ドア間3080mm、車端部1320mm
(因みに1000の座席寸法は後の京王8000と同じ) 9000の大量増備みたいなことは、最初から考慮外。
9000の増備終了後は5000の増備に戻ることは最初から決定していた。
5000の再増備に戻るまでに間が少し開いているように見えるのは、
4000の緊急増備とABFの廃車があったため。 初代5000/5200は2000と似たようなパターンとも言える
最初に少数だけ作ってしばらくした後に増備するパターン
ただ、両数が違い過ぎるけど >>824
9000形に関してはその通り。
千代田線乗り入れ撤退→自社線内各停運用メインとしたのは正しかったと言える。 70年代前半に界磁チョッパ車が営業していた東急・京王・小田急の3社では、
70年代後半東急は8500系、京王は6000系・3000系と回生ブレーキありの界磁チョッパ車を増備し続けていたのに、
小田急だけは非回生抵抗の5000系列増備に戻ってしまったんだよな。 必要なタイプの車両の増備時期の問題で、技術的に遅れてる云々はさほど関係ないと思うよ
小田急顔シリーズと9000が2004-6年頃に一気にまとめて引退を考えても、開発をゆっくりして
技術が成熟した8000を作って正解だったと感じる。 頑丈な車体のお陰でまだ走ってるしねぇ >>830
丁度E231世代が軌道に乗った頃だからね 8000形はデビューが後2年遅ければオールステンレスだったかもしれない。
その頃から東急(総車)以外でも製造できるようになったため。
京成3600形は同年デビューといっても1982年製造は試作車だけだったみたいね。 >>832
そもそも光沢仕上げを駄目出ししていたのが小田急へのステンレス導入を見送っていた理由なんでは?
1000も開発時に光沢仕上げは駄目出しされたため結果的に艶消し仕上げになった それだけに今ギラギラの新5000が当たり前に走っているのを見ると時代の変化を感じる 1000系のキャラクター電車?で下半分クリームの奴が
8000に寄せて来ているかんじで好きだった 攻めた設計の小田急1000と保守的な設計の東武10030 小田急1000は満を持してって感じだわな、NHEで三菱GTO(車みたいだな)テストして
VVVFに一気に進んだという
東急9000はともかく、他社多数は界磁チョッパ作り続けた時代にね JR東日本は207系900番台で一度懲りてしばらくVVVF採用は見送っていた 小田急に攻めた設計の車両が多かったのは、直通先の営団6000系の影響もあると思う
営団6000系も当時としてはかなり攻めた設計だった >>840
だったら9000を営団6000なみの装備で出せよと思うのは俺だけ? >>841
キミだけ。
9000は基本的なところは103系1000番台に寄せて作ってある。
回生付き電機子チョッパ制御は、当時地上線での採用例はほとんど無い。国鉄201系の試作車ですら、
登場はおおよそ7年後だ。アルミ車体や電機子チョッパはコスト的にもそこまで攻められなかっただろう。 旧5000は2600の車体に2400の足回りって事は、幻の国電105が半分だけ実現したような感じだったんだな
(幻の国電105は103の車体に113の足回りの予定だった) 2220は最初トイレがあったらしいが、時代的にかなり先進的だったんじゃない?
処理施設があったのかな? >>844
>>843が言いたいのは、バーニア制御で高速型に振った設計思想の足回りって意味じゃないかな
5000の製作意図がHEの大型車版を作るという感じだったからね ところが、HEって急行むけと称されてるんだが起動加速重視だったというオチw
以前UPされていた性能曲線見て唖然としたよ、それまで急行用と信じてたから >>348辺りにあったけど消えちゃったね
HEとNHEの加速曲線は基本的にHE有利だけど90km/h辺りで逆転してNHEが速くなる >>845
元々特急車だった2300形のことかな?
窓割り以外は解らないくらい2220な通勤車になって富士急で命を終えた。
1700同様な感じの特急車から両開き2ドアの遠距離用一般車に改造されて、最後は完全な一般車に格下げ。 >>848
そうそう、348の画像だった。うちのPC何処かに保存してたかな
トイレのタンクがついたのは2320のなかの2322・2326が最初で
2220と2300はタレ流しだったそうな
当時は特急、準特急用は経堂の所属だったのかな >>850
いくら1960年代とはいえ、小田急沿線で垂れ流されたらきついな 特別準急と通常の準急はどのように区別していたのですか >>845
2220のトイレは垂れ流し。2320はタンク式。経堂に抜き取り設備があったらしい。
SE以降の特急車もタンク式、のち循環式かなぁ。EXEからは真空式だったよね。 似たもの同士(いずれも昭和30年代の車体にVVVF)
・相鉄3051×10
・小田急2666×8 1000形は10000形同様に開業60周年記念でのモデルチェンジ車という事であのような攻めた設計になったと思われる 相鉄の3000系は、旧3000系の台枠を7輌分流用しているので、
ロクサンの台枠にVVVFという組み合わせになり、かつ冷房化された珍奇な例
小田急で言えば1800を冷房化してVVVFにしたようなもの 相鉄3000は、ツリカケ時代に1度だけ乗ったことある
直並列の渡りで一瞬ノッチオフするから、制御装置は旧国と同じCS5だとすぐに分かった >>859
>>854は20m4ドア車に限定した話 そう言えば1700ワイドドアの全廃で車端2人掛けシート車は再び消滅したんだな
2400(HE)の先頭車と1700ワイドドアは車端部が2人掛けシートで戸袋窓のみという共通点があった
(車端部が戸袋窓のみという構成自体は2000と現3000初期が残るが) 小田急を走る列車で最も素晴らしい列車だったのがRSE/371のあさぎりだと思っている まさにバブル期の企画だったからねぇ・・・3列グリーン車とか 前にも言ったような気がするが当時はJR東海の社長が鉄ヲタだったから371/RSEはあのような形になったんだと思う
実際東海が小田急直通車を出したのは後にも先にもこの1回だけだったし 普通特急券だけで乗れたセミコンパートメント最高。
新宿からの帰りによく乗ったけど、他人と同席したこと一度も無かったな。 RSEは水色+ピンクというけばけばしいセンスの塗装がどうしても好きになれなかった
その点371は落ち着いた塗装でよかった RSEのカラーリングは文字で書くとそうだけど、きっちりロマンスカーとして落とし込んであって凄いと思った。
371は新幹線イメージのカラーリング採用で意気込みがよくよく伝わるものだったな。
JR東に頼ることなく新宿まで到達出来たのだから。 371はグレーとホワイトベースのシックな車内もよかった 2400が20m4ドアだったらもっと長く使われていたかもしれない
(ただその場合は初代4000が新性能化されずに廃車だった可能性有り) >>871
耐用年数を40年の想定で設計してない経済車体だから無理。
35年持つか持たないかで走るんですよりかデリケート。 昔鉄道模型趣味増刊の「おはよう電車たち」と言う記事で
103系をベースに裾絞りせず2400の顔をくっつけたのが出ていた
気軽に雰囲気だけという趣旨で、長電オーエスカーも103系窓配置のまま出ていた、すれ違いだったらすみません >>872
そんな話はどこにも無いわけだが。
一次車の外板板厚が1.6ミリと薄かったのは事実だが、それも更新の時補強されてる。
二次車からは通常の2.3ミリ鋼板を使用している。
狭幅20メートル4ドアとすると、冷房化をいつするかで運命は変わっただろう。 >>874
近鉄900系よりかは悪いよ。
阪神3011形、南海11001形、名鉄5500形、阪急1000形、2000形、京阪1810形等は良いが。 >>871
だったら1800形はもっと長く小田急に残っててもよかったんじゃないの?
90年代初めに1000形ワイドドアに置き換えぐらいまで。 名鉄5000形の車体の劣化進行についての悩みを阪急電鉄とアルナに相談して調査とアドバイスを受けた事があったな。 >>877
2000年まで非冷房車現役だったろ小田急は。 >>882
忘れてたw そういえば小田急モノレールがありましたね モノレールはまさかの衝撃のラスト
(但し向ヶ丘遊園も追って閉園となる) 中古っつーかデビュー数年前に作られたロッキードのサンプルカーだね
流石に豆電車は古すぎですかね、どこかに仕舞ってあるとかないとか? モノレールの車体部品は廃車後に海老名で売ったらしく価格表が昔2chにも上がっていた
ナンバーやOERのマークは取り付け座のボディー部品丸ごと出されていたそうで細長く持ち帰りが大変なため遅い時間でも売れ残っていたという話だった
豆電車はモノレール開通後園内の池の周りを走る周遊列車に転用され、ミニSLが来てからはずっと車庫の奥に押し込められていたそうで結果的に閉園まで残った
閉園後は製造元の東芝がやっていた電気の博物館に引き取られ、紆余曲折あって今は足尾(通洞駅最寄)の歴史館で復元のフォード機関車たちと一緒に保管されてる(客車も)
ボロボロではあるけど特徴的な屋根の鐘も残って一応復元予定だと聞いた
http://c5557.photoland-aris.com/asio-rekikan.htm
http://c5557.photoland-aris.com/asio-rekikan2011-5.htm
http://c5557.photoland-aris.com/1009299014.jpg
http://c5557.photoland-aris.com/1009299040.jpg
http://c5557.photoland-aris.com/1105043951.jpg モノレール部品販売は青色の車番やOERを付けたまま車体下部の長いまま売ってた。
座席や銘板類は無くてこの部品のみだったと思う。
後にも先にもモノレール部品が出たのは一回だけだったな。
豆電車は閉園後にまだ存在していたことを知ってビックリした。
川崎の東芝館で機関車だけ展示された時に見に行ったよ。
どこぞの団体が豆電のレストア費用を募ってクラファンの走りのようなことやってたがどうなった?
現状を見るとポシャったのが正解か。 >>888
10年以上前にナロー系のホームページでその辺の事情を見た記憶がある。
保存団体がペンション?の敷地を借りて保存鉄道を作ろうとしたらしい。(まきば線のような形)
小田急の豆電車の他にも、西武山口線客車や鉱山用電気機関車などのナロー車両が集められていた写真を見た記憶がある。
でもトラブルがあったらしく運営者が計画を放棄したが、代わりに足尾歴史館を借りて保存活動を行えるようになったという経緯のはず。 既出だが、向ヶ丘遊園モノレールは平成初期に代替計画があってイメージパースまで出来ていた
塗装はRSEと類似のものだった
それが複々線化に投資を集中したために時期が未定になり、そのままお流れになったと >>890 バブル崩壊後、向ヶ丘遊園の経営悪化して車両代替どころじゃなくなったんでは? 仮にモノレールではなくこどもの国線や京王動物園線のような普通の支線だったら廃線は免れたのでは? >>893
いや、閉園したら廃止では...
こどもの国と多摩動物公園は既存してるし バスで足りるからね、仮に運賃バスより高くしても存続出来る営業系数出ないでしょうね >>894
Fミュージアムが代わりになるでしょ。
ドラえもんのテーマパーク的なもんだし。 >>896
閉園してから9年も後だからね出来るの、難しいのでは 跡地をどうするかの協議へて立地決まるまで数年経過するからね、閉園直後は何も決まって無い状態だから >>894
中学の国語の時間サ変動詞について習うとき寝てたのか? Fミュージアムはあんな立地なのに駐車場もなくバスで行くしかない >>900
コインパーキング周囲にたくさんあるだろ 国鉄101/103のような戸袋窓付き20m4ドア新性能通勤車を私鉄で最初に導入したのは小田急だったんだな、そう言えば
(東武8000には戸袋窓が無い) というより昭和30年代当時の関東大手私鉄の20m4ドア新性能車は東武8000と小田急2600だけだった模様
(小田急が早々に導入したのは駒沢オリンピック会場対策かね?知らないけど、当時は新玉川線がまだ開通していなかったから) 相鉄は当時大手私鉄では無かったな、登場は小田急より3年早いけど そうなんよね、40年代半ばになって東急8000や京王6000ができて
18mから脱却したが小田急は早かったね、ロクサン(1800)形の恩恵ともいわれてるが
相鉄もロクサンがあったんだよね 数年前に西武701/京王旧5000/東急旧7000が20m4ドアで登場していた世界線を妄想してたが
ただ、小田急2600は新宿口各停用という特殊用途だったので、本格的な20m4ドア新性能車の導入は実質旧5000からみたいなもんだが
(旧5000が東急8000/京王6000とほぼ同期) >>908
その車体幅も、国鉄113/115などと同じ2900mmだったそうだ
ドア間隔は103と同じだったので、可能な限り国鉄車の設計を流用したのかね?知らないけど?
(ちなみに8000形も小田急顔4ドア車と同じ車体幅/ドア間隔である) >>903
昭和の時代は少ない予算少ない車両で通勤客をさばくのにがむしゃらな時代。そんな背景を知っておくといいかも >>909
初代5000形は自社線内急行系運用前提で2600形と真逆の立ち位置だったので、
2600形が特殊用度だったとは言えないでしょ。
間に初代4000形もあったし。 異系列混結を避ける方針だったら9000/8000/1000は電気指令ブレーキにでもなってたんだろうか
でも当時は相模大野以西に行く急行全てが相模大野で分割併合していたと想像するが 昭和末期から平成初期までの小田急はあの方の動画を見る限り普通の私鉄という感じでそんな悪い印象は無かったと想像した
少なくとも今に比べたら断然マシ >>914
住んでたのが江ノ島線なので4両が多く混んでる事が多かった以外は
好きな鉄道ではあったよ。若かったから平気だったというのもある・・
還暦近い今となってはあの通勤はもう無理だと思うな
91年に江ノ島線急行の6連が激増したのは嬉しかった 80年代の時点で江ノ島線は6両以上の輸送力は必要だったのにね 90年代初頭のRJ誌辺りだったと思うが、12連化の案が載ってたように思う。 実際に2053Fが多摩線で初代5000形と連結し12連で試運転した事がある EXEの6連にブレーキ読み替え装置試験搭載の方が良かったような… 2053Fの旧5000との連結試運転は3000導入に向けた試験だったが、2000側の編成短縮が困難だったからやむを得ず12両になったと思われる
(2053F側にブレーキ読み替え装置を試験搭載)
しかし営業でないならEXEにブレーキ読み替え装置を試験搭載でも問題無かったという事 9559-9659はリピートオーダーという点で阪急を連想させた
(ちなみに阪急は小田急9000的な編成単位での増備終了後に中間車だけ増備というケースが少なくない) >>924
あの年は、増備車の輌数が謎だった。マンスリー小田急だかに5000形10輌、9000形2輌を増備と書かれていて、
9000にMc-Mcが登場するのかとか思ったし、5000の10輌って、4+4+2?いやそんなわけは・・・と、
いろいろ想像をかき立てられた。
結局5065Fと5251F、サハ9559−9659となったのは周知の通り。 1000はワイドドア車を作ってしまったのが大量廃車の理由で、ワイドドア車を作らなければまた違う運命だったかもしれない でも、流れ的には似てるんだよな
初代5000より先に廃車になった9000
8000より先に廃車になった1000
いずれも千代田線直通可能車が先に廃車という共通点
また、9000全廃後に速攻で初代5000系列の廃車が始まっていたが、今回も1000の半数が廃車になった後に速攻で8000の廃車が始まった点も共通している >>925
9000なら編成数を揃えるための中間2両と予想できたけど当時5000に6連は存在していなかったから、当時の小田急ファンでは話題になっていたと想像 2600と初代5000の関係は、西武の701と101の関係に通じるものがある(と思っているのは自分だけ?)
前面は同じだけど新造時の塗装や機器は全くの別物 >>904-905
相鉄は昔は大手では無かったのもそうだけど、直角カルダンだったというのもあるからノミネート外 >>931
え?直角カルダンだといかんの?
カルダン軸がレール方向になるので、台車の揺れ枕と干渉することと、
傘歯車の保守にやや手間がかかるくらいで、特に狭軌では比較的大きめのモーターを積める
当時は唯一の方法だったわけだが。 元々が
>昭和30年代当時の関東大手私鉄の20m4ドア新性能車は東武8000と小田急2600だけだった模様
という話なので相鉄は当時は大手じゃなかったから該当しないってのは分かるが
カルダンの形式は関係ないわな 吊り掛け車じゃなければ新性能車というイメージがあった 西武線のボロみたいにカルダンでもツリカケと余り性能差ない車両もあったけどな 通勤車が20m4ドア統一直後は
特急車と2600…経堂
8000の4連、旧5000、旧4000全車…大野
8000の6連、5200、9000全車、1000全車…海老名
という推測をした
(僕は経堂に車庫があった時代は生まれていないので、経堂車庫があった時代の事はよく知らない) >>937
唐木田に車庫ができてスペースに余裕ができたというのもあったろう >>937
晩年というか、定期運用終了してから解体まで単に留置していただけだから。 そうだね。
通学中に毎日見ていたけど、引退したロマンスカーが留まっているなくらいの気持ちだったな。
あの頃は特に鉄オタでもなかったし、正直SSEはボロくてダントツのハズレだったから。 当初計画では外に出られない乗り換え専用駅にするつもりだったとか 新百合は開業後も長い間なにもなかったな
多摩線も利用者が少なくて旧車がさびしく止まってたわ >>912
初代5000形は快急運行開始当初最古形式でありながら主力だったな、
起動加速度の低さと消費電力の観点とかもあったのかな。 80年代後半、開業60周年でモハ1型が復活して新百合ヶ丘に展示されたとき
まだ駅前は余り建物なかったように思う >>543
亀レスだが
もしかして2600の晩年は一部8両化されていたのも当時は運用上の制約があったからなのかもね
その後逆10両が廃止されて運用上の制約が無くなったから2600の8両化も打ち切りと想像した >>545
亀レスだが
そう考えたらJRは(東だけではなくグループ全体で)安全を軽視し過ぎなんだな
だからそれで結果的に西があの大事故を起こしたんだな(東でも103が火を噴いている) そうだよな!
国鉄時代2度も起きたブルートレインの飲酒脱線事故JRになってから毎年起きたもんな!
危なくて乗れないよな! 国鉄が荒れまくっていた頃も小田急乗務員はとてもまじめにやってた
むしろ現在よりも 小田急乗務員真面目だったから、急行車内で客とキセルか否か動い剣幕で喧嘩してたもんな。 PASMO導入されてからも車掌が熱心に車内巡回やってたのは小田急くらい 昔は何でも繋げれば良いみたいな感じだったんだろうね(そのために1000形列まで電磁直通ブレーキに)
それで今度は繋げる必要が無くなったから、電気指令ブレーキ車に揃えるのにあたって1000形列まで解体の憂き目に遭うと 小田急は相模大野、京王は高幡不動でよく分割併合していた 分割併合もっと早く止めていれば8000/1000辺りは最初から電気指令式になっていたんじゃないかなと妄想 EXEが嫌いな人が多かったのはNSEを置き換えた事も影響にあると思う 2008年の湯本口4連各停体制化があと4年早ければ1500形の1700形編入も無かったろうな。 小田急、車内巡回熱心だったが、他の大手私鉄に比べてキセル多かったのか?
下北沢と大和で、他社線のホームとの間に改札が設けられてなかったことも関係しているのか? >>962
元々他社線じゃなかったしね。
自社線だった名残というか便宜上もあって改札なかった。
厚木も改札無かったよね。 元々で言えば他社線だよ
帝都電鉄は同じ系列会社だったけど他社であることに変わりはない
途中大東急時代に同じ会社になったけどさ 展望車がNSE7本、LSE4本、HiSE4本の計15本の時代が良かった
でも事故の事を考えると良くないんだろうか? あさぎりが特急格上げの頃はSSE全廃のうえRSEも371も前展望考慮だから本当によかった。ワイドビューあさぎりは伊達じゃないね。
どれに乗っても展望付きだったの最高。 そもそもSE車以降のロマンスカーで前面展望全く考慮してないような車両あった? 3100、7000、10000と展望付きで発展して、いざ古い御殿場直通を新型特急車で置き換えとなって、展望付き連接車は小田急独自過ぎだしJR東海と両者で用意するとなってもかなり難しい話。
それを20000、371で落とし込んだのは頑張ったと言う事。
ハイデッカー全盛でないと難しかっただろうし時代の後押しもあったな。
そうすると30000は極端に手抜きと思われても仕方ないところ。 本来はSSEの代替をLSEの短縮版、仮称SLSEでやりたかったようだが
国鉄が猛反発してSSEを更新延命したんだよなぁ
民営化と好景気に後押しされて沼津までの乗り入れになったのは幸運 まあEXEは”ロマンス”が無いからブルーリボン賞は取れなかったと言われるが
あれも時代の産物だと思う。複々線化はまだ完成しないし、快適通勤は求められるし
の最大公約数があの形で、さらに不景気時代の増収策の産物がMSEなんだろうな 初めてEXEの先頭車乗った時に思ったより前見えるんだと思った記憶
最初から展望期待してなかったのもあるだろうけど HiSEは「全席展望席」という位置付けでハイデッカーにしたような感じ >>969 国鉄が反発したのはSSEの後継も連接車となるからか?故障時の修理が面倒くさい連接車をもう御殿場線に走らせたくなかったのか >>973
当時は組合が二階運転台を拒否したという話 MSEこそロマンスではない
これをRSE置き換えに使うのが間違いだった
RSEからの置き換えの場合、EXEを御殿場線対応化した方がマシだったレベル 運転席へ上がるの梯子伝って大変だもんね
組合から断固拒否くるのもよく分かる >>976
それより運転台の狭さの方が問題視されてたんじゃないかと思う >>977
でも、座席に関しては圧倒的にEXE
MSEはかなり椅子が硬いらしい >>979
NSE、LSE、HiSE、EXEは乗車経験あるがこの中だとEXEが一番居住性良かった
ただ、リクライニングできないということに目をつむればHiSEも座り心地は好きだった >>976
従来通りに小田急乗務員が御殿場まで乗務すれば、国鉄乗務員の出番は全く無いじゃん。 >>980
今となっては未更新EXEだったら地雷でしかないよね。 薄暗いEXEの車内は疲れた体で新宿からホームウェイ乗ったときゆっくり休めてよかった >>976 前方視界が問題なんでは?山の中でカーブに無人踏切が多い御殿場線で、速度の遅いSLならともかくLSEは死角が多くて運転しづらいとか
181系等の国鉄ボンネット特急車両も同様だが、御殿場線にこのような車両が入ることはない。
踏切事故防止のためなら名鉄7000のように前方監視カメラを付ける方法もあるが。運転台の狭さもあるだろうけど。 >>985
こうなると余計MSEは要らないと思えてくる >>964
一度旧小田急電鉄に合併になってる>帝都電鉄。したがって短い期間だが小田急井の頭線は実在した。
重複番号車をどうするか検討もされた。
>>969
あの時期国鉄への私鉄の乗り入れは、紛争が激しくなっていたので廃止したかったのが国鉄のホンネ。
南海は485系買えと言われたのだし。小田急は展望車を嫌って(おそらく167系とかとの差が
かなり大きくなるため?)、展望車入れるなら乗り入れ廃止だ!と。
>>973
連接車は関係ないよ。検修を浜松工場でやるわけじゃなし。
>>977
役不足の意味を調べよう。 誰とは言わんが聞いた話だけで判断するような人間にはなりたくたいものだ
それが今現在検証可能なものならなおさら >> 991
まだわからんか?頭悪いって言われるだろ。
> 元々で言えば他社線だよ
他社線と言いきるのは乱暴。社長は同じ。計画線に終わった山手急行も含めて今で言えば系列会社と言える。
だから下北には長く中間改札も無かった。鬼怒川水力電気も全く他の会社と言える?
その後旧小田急に合併して、帝都電鉄の名前が一旦消滅し小田急井の頭線に。さらに
大東急時代になって東急井の頭線。分離独立で京王帝都井の頭線。
ちょっと調べればわかるだろうに。RMライブラリの「帝都電鉄」でも読め。 >>992
何そのアンカーされてないアンカーw
会社が違うんだから他社に違いはない
何で系列会社って書かなかったの? かつての下北沢って構内にゆとりないし、狭い通路に連絡改札設けるとラッシュ時に混乱引き起こしかねないこともあって設けなかったのでは?地下化された後も改良工事が残ってたし、小田急、京王各社の中央改札開設が後回しにされたということかな。 全く関係ない会社でも改札ないなんて普通にあるからねえ 乗換客多い割に駅が狭く施設が貧弱だったのが下北沢だな。
かつての東急の自由が丘も同様だったが、こちらは新玉川線ができたから乗換え客が減った。 >>996 立体化される前の武蔵境とか。ホーム上で乗り換えできるから便利だったけど。 >>998
西武で言えば所沢駅も旧西武鉄道と武蔵野鉄道がライバルだった時代から中間改札なんて無かった このスレッドは1000を超えました。
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