なつかしの小田急線 6
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
列車の分割運転をやるわりには、側面方向幕もなく、途中駅にはパタパタも少なく、
聴覚障害者には厳しい鉄道だったな… 103系批判で有名な川島冷蔵庫大先生が当時の小田急は安かろ悪かろうの典型例みたいな事言ってたな
彼は5000 2600 4000などの小田急顔を103系と同一視してたんだろう 5000の雨の日の空転の多さは、103などの比では無かった。
かつては戸袋部の椅子にはヒーターはなく、広幅の貫通路と相俟って寒い電車だった。 川島冷蔵庫はなんかの本で小田急を「いつ乗ってもどこまで乗っても混んでいる」と書いていたな 本厚木以西に乗ったことがないんだろうか
ヤマケイのレイルブックスで「車内で中学生が『小田急の小田ってなんだ?』
『小田原の原を略したんじゃないか』と話していた。
なるほど町田や成城あたりから新宿に通っていると、終点小田原はなかなか出てこないかしれない」
というくだりがあった。 >>7
「中型4両」の箱根湯本ゆき急行に乗ったこと無いな 同じ箱根そばなのに、美味しいとこと不味いとこがあるよね。 >>9
子どもの頃、よく中型8連に当たったことがあったなぁ・・・。
そのころの小田急、いや。
本厚木以降10連になるまでは、めちゃ混みで座れなかったなぁ。
えぇ新宿までですよ・・・。 >>10相模大野の階段下時代の箱根そば懐かしい、
店のすぐ脇、江ノ島線側に分岐器があり電車が通ると振動が凄かった。 幼少の頃初めてNSE乗ったとき、何両もの車両が1台の車両であるような感じがした。貫通扉がなく隣の車両まで見渡せるから。
連接車ならではの特徴だけどね。連接車ではないが営団地下鉄(当時)の6000系が貫通扉なしの広幅貫通路を採用したが、隙間風が多くて冬は寒いとの苦情があったという。
小田急の連接式の特急車両では、そんな問題はなかったのかな?ま、全員着席制だから足元のヒーターが効いていれば問題なかったのかも >>14
のちに貫通路の自動ドアが増設?されてたような記憶が。寒くないわけがないです。
Lはデッキつきになったし。 NSEは最後尾の車内から見ると、ポイント渡る時なんて、まるで蛇がくねるように見えたよな
中間車の最前列に座った事あるけど、足元が広いのは良いんだが、前が何も無くて
落ちつかなくて、揺れが酷かった印象が残っている
営団6000系の「きのこ型」貫通路も登場時は斬新だった
小田急も5000なんかも広幅貫通路を採用していたから、時代の流行だったんだろう
東急の7000も貫通路はドア無しだったし・・ 箱根そばって経営母体が2つあったよね
かけそばで\180の店舗と\250の店舗と 箱根そばといえば
登戸駅の新宿方面ホームから階段を降りたところにあったのを覚えている。
かけ80円,たぬき・きつね100円だったかな。
向ヶ丘遊園駅では小田原方面のホーム中央にあったな。 >>19
登戸の階段下に、「箱根そば」なんて昔有ったか?
登戸は改良前は、上りホームから改札への下り階段と通路が非常に細くて、いつも人が大渋滞していた
外壁は白いんだが、すんごく閉塞感が有ったよな あったのは階段の踊り場の角だよ。
大和は今は改札外になってしまったが駅改良前は上りホームにあったなぁ。相鉄の乗り換え階段も狭かった。 登戸の上りホームの階段下な。でもオイラは改札口出た右のネギ取りホーダイの立ち食いが好きだった。ジローが経営してた神田、荻窪の24時間営業の箱根そばが懐かしい。 登戸の階段下の「箱根そば」って思い出せないな〜
いつ頃の話?
ちなみに、俺が小田急登戸経由で1年間ほぼ毎日通ったのは34年前の話
>>22
>改札口出た右のネギ取りホーダイの立ち食いが・・
それは、かすかに覚えている
当時は、小田急の改札と南武線の改札は同じ平面で
小田急の改札を出ると、小さなロータリーになっていて左側に沿って行くと南武線登戸の改札だった 箱根そばは向ヶ丘遊園下りホームはよく利用した
百合ヶ丘の改札出たところの店はあまり利用しなかった >>24
百合ヶ丘店は値段が高い方の箱根そばだったね
かくいう自分も向ヶ丘遊園下りホームの店を多く利用した
>>25
下北沢店は改札内と改札外を真ん中で仕切って両方に対応してた記憶がある 箱根そばは祖師ヶ谷大蔵店によく世話になった。
調理場の中を、古レールのホーム柱が貫通している強烈な店内w >>23
改札口はいってまっすぐ歩いて突き当たり。
左右に上りホームへの階段が。 箱根そばか。
よく利用したのは、
向ヶ丘遊園、百合ヶ丘、大和。
大和は狭かった記憶が。 海老名のは「山家そば」
つゆには鯖節が多用されてた >>30
階段左側だけだったと思うが。2チャンの箱そば厨さんは元気かな。 >>26
駅員、乗務員はかけ頼んで天ぷらが付いた。 「乗務員がそばを食うとは何事だ」と苦情が入って今や駅員乗務員は出禁ですわw 今は無いと思うけど、2000年頃までは貫通幌の色って、
水色っぽいやつだったよね〜!?
なんで一般的な灰色になったんだろ?
小田急ぽくて良かったのにw >>35 小田急は各駅にマカナイの叔母さんが居て飯作りがなくて好いよな。
うちの会社は、金銭的にシブイ癖に食い物に煩い先輩が居て苦労したよ。
安く美味いモノ作るには献立を決めて買い物に行くより特売の旬の食材で考えたほうが善いのに・・・・。
よく喧嘩したわ。 >>35
そば発注して駅事務所に持ち帰る・・・というのはよく見かける。 なんでなんだろうね。
小田急の話じゃないがこの時代に
中野電車区近辺のある定食屋に母親とはいったら
ごっつい制服きた男たちが10人くらいでご飯たべていたんだけどね。
おれがコワソーな顔すると
「運転士さんたちよ」と親に言われたのは覚えている。 >>40 昔は国鉄を初め各鉄道の現業職場最寄、主要駅付近には公(一般客も対象にする)、専用の
食堂があったのだが・・・・。
人員削減、外食店のチェーン店化による激減、コンプラでそういうの(制服での入店)が、ご法度になりつつある。 札幌の自衛隊前駅の食堂は貴重な存在だな。
市交通局の職員向けながら、一般の人も同じメニューが食べられる。
職員向けの優先席も用意されていた。
スレ違いなのでsage 懐かしじゃないけど今夜のタモリ倶楽部は鉄道ネタで小田急だよ
なお首都圏以外は数週間遅れのエリアがあるから注意 >>42
LSEが出るまで手動だったし、係員が“切符の拝見”をしてた
最も末期の新宿着のNSEはセルフサービスだったが 80年代のドリフ大爆笑での記憶、
もしもこんな立ち食いそば屋コントで使用された効果音がミュージックホーンを鳴らしながら通過するロマンスカーの音でした。 今や線内を走る最古参の車両は営団6000だがカウントダウンは始まってるな。
安藤楢六体制の最後の遺産であるLSEも長くはないだろうし ロマンスカーは昭和40年ごろだと
関東地方では庶民から比較的簡単に手の届く
「特急列車」でありながら
供食体制は整っていましたからね。
始発から終着まで乗っても必ずウェイトレスが
各席に注文取りにきました。 小田急がよく出てきた懐かしい番組、
チャコちゃんケンちゃんシリーズ、
あばれはっちゃくシリーズ、
カトちゃんケンちゃん、
金曜の妻たち、
他多数 向ヶ丘遊園→何度も行った
御殿場ファミラン→行けずじまい
鵠沼プールガーデン→一度だけ
花鳥山脈→一度だけ
花鳥山脈は小田急沿線とは偉く離れた位置にあったな。
係員送迎用のバスが毎朝新松田から出ていた >>40-41
国鉄職員や郵便局員が出入りする食堂は安くて旨い場合が多い
地方へ旅行した時は制服姿の人がよく入る定食屋を見つけてた >>37
それは主管駅だけ。中間駅はペーペーが作る。
たまにシェフと呼ばれるプロがいたりしたな。
>>51
石打スキー場を忘れては困る。 >>53
小田急ではないがバイトしてた某駅(国鉄→JR期だが)は駅長からバイトまで持ち回りの食事当番制だった
しかも駅長の作る炒飯が一番評判よかったw >>49 宙を舞い別の世界に行くNSE、メトロン星人の幻覚タバコ自販機がある小田急の駅前、ウルトラシリーズも忘れないでほしい。 小田急の電車じゃないけど
小田急バスだと運転士がショッカーの怪人だったり
事件解決してバスで帰宅しようとしたら運転士も他の乗客も全員サングラスしてたり
小田急バスもなかなか怖い乗り物だった。
「赤い衝撃」であの2人が見つめあった橋って
玉川学園内の跨線橋のような気がするけど違うかな。 小田急の車両でローレル賞って9000だけなんだな。 5000の白地方向幕車があった頃
よく種別幕が壊れて丸い看板に「急」って
書かれた板を付けて走っていた。
1990年代初めの頃。 営団準急の上り一番列車に、
百合丘・読売ランド前・生田通過の看板が、
前面窓内側に置いて有ったね。 >>60
スキップ準急か。
あの看板、遊園過ぎると見えなくするのは普通だけど
たまに都内に入ってからも出しっぱなしで走ってるのを
見かけたことがある。 各停新百合ヶ丘行き新百合ヶ丘から急行新宿行き(上り化け急)とスキップ準急は行き先の違いだけで運転内容は同じでしたね
当時2本だけあった多摩線からの直通の各停新宿行きを入れるために設定されたスジだったとか >>51
鵠沼ファミリーガーデンって、今の2600が保存されている公園? >>64
それは辻堂海浜公園
小田急の施設じゃなくて元から神奈川県の施設 小田急通勤型で一番の美男子?だった9000形の中間にあるべき運転台が撤去され
ノッペラボーの額縁をみたとき、衝撃(もうこのクルマの余命は短いぞ!)というか不気味さの様なものを感じたのは俺だけだろうか? 1987年夏相模大野駅。
朝7時32分
経堂発小田原行き吊り掛け4000系6連、大野始発藤沢行き吊り掛け4000系5連同時発車、
藤沢行きが何時も数秒遅れて発車ぎみで吊り掛けのハーモニー >>51
80年代初め頃,御殿場ファミリーランドのスケートリンクのイメキャラが,三原順子(当時)だった。
>>61
御意。
5200へアイバンク移植の提供車だったし。 初代4000をPーV台車 吊り掛けのままVVVFにするとか、魔改造して欲しかった。
交流の周波波形音?と吊り掛けの鳴響音がハーモニーしたらどうなるのだろう?
もう江ノ電1000あたりの改造でしか実現のチャンスは望めない(マズ無理だが・・・) >>68
その御殿場潰して、次に遊園潰して、最後にケーブル潰した人、同一人物。退職して秦野に住んでるよ。 その昔新宿2号線3番ホームから17時50分発1800形4連の各停藤沢行で帰宅してたなぁ。 >>51
確かに、向ケ丘遊園・花鳥山脈・御殿場ファミリーランド・鵠沼プール
ガーデンと言った小田急時刻表の創刊号に華々しくPRされていた施設は
壊滅状態ですね。
創刊号には厚木女子ハイツも載っていたような記憶が。。。
そういえば昔「石打小田急スキー場」なんていうのもあったな。
一回だけ滑りに行った事がある。
「熊転びゲレンデ」なんて変な名前のゲレンデがあった。。。 大昔厚木駅の移動変電所が留置されてた場所の近くに銀色のホキ800みたいな貨車が2両くらい居たような気がする そんなに昔じゃないけど、相武台の留置線で解体やっていたの止めたのは、アスベガ理由? >>78
大野の解体やめたのだってコストの問題じゃないの?
少なくとも相武台前で解体していた時代は、アスベスト自体が使用不可ですら
なかったと思うよ。 大野で解体やめた理由は近隣住民から騒音の苦情が寄せられたため、
相武台での解体って貨車しか記憶にないけど、大昔は電車の解体もやってたの? 近隣住民って、どちらが先にそこに居たんだよって思うが、まぁ併結に
備えて徐行する小田原線上りの車内から無残な解体風景が目に飛び込んで
くるのは見るに忍びなかった。
だからよかったのかな。。。 >>80 やっていたよ12,3年くらい前まで・・・2600か4000つぶしてた。
・・・廃車になった 電関のキャブを昔の電車の台枠に載せたようなヤツが牽いて
転がしていた。 >>82
それ大野じゃないか?
12,3年前って相武台はすでに留置線だぞ・・・ >>82
それは大野で、台枠みたいなのはデト1入れ換え車でしょ。
完全にバラバラまでやっていたのは2400までで、
それ以後の車輌は半分切りにして北館林他へ搬出。
おそらくその輪切り・クーラー外し作業等を目撃したものと考えられる。
相武台前に工場があったのは経堂が大野に移転する前までなので、
そもそも貨車と機関車の工場だったし、もう40年以上前だよ。 誰か9000型のみ唯一運転台助手席にワイパーが無かったのか、その理由を知っている仁はいるかね・・? 新宿から小田急経由で大平台あたりへいくと
今も昔もあまりかわらないなーとホッとするよ。
昔の箱根のバスは先頭に必ず女性車掌が立っていたのが今と違うところか・・・。
あんな峠道で立ち仕事で大変だっただろうな。 >>85 小田急顔の在来車より窓が大きいとか(車掌の後方監視しやすい、大きなワイパー
[手動で大きなものは付けにくい、動かしにくい])じゃないの? >>85
私も理由は知らないが、あなたは理由を知ってるの?
Wiki他ググっても何も該当するような記載はHITしないけど、>>88が正解?? 当時9000は小田急の中じゃすげえ割高な車輌になっちゃったから、不要な機能カットしただけじゃね…? 誰かが「そういえば9000には助手席がなかったなぁ」と言っていた 9000は齧り付きの位置が3分の1しかなかったから好かんかった。
その点、2400や2200は座席まであって良かったよ。 歴史はめぐって
3000(2代目)も子供にはかじりつきにくい高さ・・・ 東急5000、5200などのドア窓の高い車両も子供の時は外が見れなくて嫌だったな。 >>100 >>103-105
「とし」をとったな、
戦前だったか? 初代2300形って初期の軽量構造の電車なのに特急専用車→週末急行用車→一般車
と扉増設改造を重ねたけど車体に相当ダメージがあったと思うのだが、2400などと然程変わらず
(他社譲渡を考えれば寧ろそれ以上)長生きしたよな。
何故なのだろう?格下げ改造を考慮していたとは云え2度に亘る大改造は想定していたのだろうか?
東武の1700なんかは、冷房改造も祟って短命だったが、冷房を背負わなかったことも延命の要因としては大きかったのだろうか?
同じ時代に生を受けてディーゼル故早くに小田急を去ったキハ5000,5100なんかは、関鉄で3ドアに増設した際 不細工にも外吊り戸で増設を受けたが、
・・・このほうが改造費が安いのか?2300は2度の改造はどちらも丁寧だったようだし・・・素の鋼板の状態はどんなモノだったのか非常に気になる
改造による(熱の影響の歪み、鋼板に錆の発生具合) SE以前の特急車は格下げ改造を前提として設計されていたと何かに書いてあった。
強度まで考えていたのかどうかはわからないけど。 >>110
とりあえずキハはステップが枕バリにかかり、
補強が面倒なため外吊り戸にしたのだろう。
>>111
SE以降は定員乗車を前提に、軽量化など強度を削ってあると考えられる。
例えば台枠、台車、空調の出力・大きさ、それに伴う屋根・車体強度など。 >>110
台枠車とモノコック車では、極論言うと台枠車は台枠を弄らない以外、
上に載る車体は何やっても良い。2扉車を極論、4扉車にしても良いし、その逆も可能。
軽量構造と言っても、普通圧延鋼から高張力鋼を採用した結果だし。 多数の回答レス有難うございます。
2300形の最終的な格下げ(片開き3扉化)理由は2400形の増結車として活用する為だと思ったけど
2400の連結相手になるのに、(3扉両開き扉2400形に対して)何故片開きで改造されたのだろう?
単に工程が煩雑になるから・
この件については、同様の処遇を受けた2320形についても云える疑問なのだが・・・。
またラッシュ時の増結使用に際し乗降に時間を要す片開きなので新宿方には増結しないで必ず小田原、藤沢方に繋ぐとか掟でもあったのですか? >>115
一つには当時片開き車が多くて、あまり両開きにこだわりがなかったからではないか。
それと2300にしても2320にしても、3ドア両開きにするとなると、
側面の窓配置を大幅にいじることになり、コストがかかりすぎるためか。
あと一つは、ST式戸締め機構の特許の関係かも。2400の戸締め機は
少なくとも登場からしばらくは左右のドア別々駆動だった。 >>115
片3扉に改造する時、小田急の車輌は大半が片3扉車だったからでは?
改造がもっと後年、昭和40年以降だったら両開きにされたかも。
増結は、江ノ島線から上がる編成か?相模大野でカラ車を連結するかで違っていて、
江ノ島線からだと新宿に向って後部が多く、車庫発カラ車の場合、前部が多かった。ダイヤの都合だったはず。
当時の江ノ島線はHBの3両、他形式の2両編成が多かった。
江の島線から来たのが、必ず新宿に向って後部に増結する訳では無く、
昔の写真とか見ると、前部に増結した写真も見られるので、江の島線から先に相模大野に到着、
小田原線から来たのが後部に増結するのは後年、6+4の10両編成でも見られた。 2300を3ドア化するとき、2つの両開きドアの中間に片開きドアを増設するってのは、車体強度の問題で難しかったのかな。
2つの片開きドアの中間に両開きドアを増設する改造なら、近鉄6421が行っているが。もっとも、あっちは20m車だし。 >>118 20mならソレはソレで中間部分タワミとか酷くなるような・・・。 >>118
2300形の車体は台枠の上にガラだから、上に載せるガラを改造しても、車体自体の強度には問題無い。
台枠付きは台枠で強度を保つって言ってしまっても良い位、台枠が重要な役目を果たしていて、
上はバラックと言ってしまってしまっても良い位。 ウルトラマンタロウのキングトータス一家登場の話の後半、最後の方でちらっと2220、2300か2320のどれかが出ていた。
先頭見て2400かと思ったが、片ドア3つだった。
キングトータス一家は宇宙に行ったが、これらの車両の一部ははるか何万光年も遠く、富士急や新潟交通に行ったというわけだ。 >>120
台枠の無い電車ってあるのか?
1000でも車体すそには台枠が通してあるように見えるが。
E231でも床下から見たことがあるが、側梁は細いながらもあったぞ。
2300は軽量構造ではあるので、フツーに5200までと基本同じ構造だぞ。
1900までとは違う。 >>122 他社だが張殻構造の東急5000とかのことじゃね?
SEだって・・・・台枠=電車の車体の底云う考えじゃなくて
電車の車体+電車の丈夫な床・・・古い電車
電車の車体(床面も含めて強度設計)・・・新しい電車
という解釈でしょ。
それに台枠のある電車でも無論軽量化は進んできたわけで・・・。
余談だが、17m旧型国電の車体の一部をザック除去し配給車に改造できたが
101系や72系は、台枠強度の関係でコノ手の改造は出来なかった。(101系改造の配給電車は車体は完全作り直しの筈)
72系についてはアコモ改造で台枠は使ったから101系より幾分強度があったのだと思う。
・・・配給電車の運ぶ車輪や電動機はヒトより重い加重が局地的に掛かる。 連投失礼 自分で書いていて意味がわかりにくいことに気ついた。
要は自動車で言うところの フルフレーム車のフレーム(車体と分離できる) と モノコック車(車体の底面は分離できない)のシャーシーを勘違いしてない? >>122
戦前と比べ、戦後では台枠や梁に高張力鋼が使えるので、僅かに軽量、
同じ強度が出てるので、圧延鋼と比べ少し細く出来たり出来る。
圧延鋼が大きさ1・重さ1なら、高張力鋼は大きさ0.8・重さ0.9で圧延鋼と同じ強度がある。 ママチャリならハイテンスチールでもいいだろう。
スポーツ車はアルミかカーボン。クロモリでもいいけど。 1977年4月から今日まで永山在住。
当時は2200系2連。朝6時56分と7時07分の各停新宿行きだけが2600系
6連だった。2200よりも特徴のある音で目覚まし代わりだった。 >>131
現存する2200って自走可能なんですか?
でも、もし走ったらかなり盛り上がりそうですね。 2200×2とピカピカの5200の組み合わせの急行を見た時はちょっと興奮した。
急行小田原行きだったが、5200が相模大野止まりだったので子供心に納得いかなかった。 >>133 馬鹿なの?
長期間ホカシタ車にそのまま通電なんて・・・パンタ上げた瞬間煙が出るよ。 2200運転するとして、どれくらいの修理が必要になるのだろうか?
車両基地の構内でほんの100m位ゆっくりと自走させるのだったら、そんなに修理代かからないかな? 2200×2と5200の急行は、
晩年に一回見た。
それは5200の方が小田原行きだったが。
9000の代走で、4連口は本来はHEで、
2200は四回に一、二回入る共通運用。
偶然が重なった貴重な運用だった。 喜多見の2201、台車は作動するが電装系はどうなんだろ。ごく低速、短距離でも自走させるとしたら、オーバーホール必要なんだろうか? >>138
例えば電線の劣化とか、スイッチ類の酸化とか
そこらへんで一度直しが必要でしょ。
海老名へ展示回送はしているから、
給油さえすればけん引回送は大丈夫なはずだが、
自走となるとハードル高いだろうね。 俺はネコ系は2両×3でしか見たことないなぁ。
アレに4両連結した10両編成なんて、よく分割案内できたものだと感心。
うちのばあちゃん、東林間に行こうとして、前6両で海老名連行、戻って
江ノ島行きだと安心したら、急行で南林間まで飛ばされてえらい目に遭った
と言ってた。ただ昔の人だから笑って終わったけど、今だと確実に苦情モノだな。 2200と2400が共通運用だったから、
2200の10連も年に数回見られた。 大都市圏の通勤電車の非貫通車両の併結って×2だと乗務員が不在で通り向け不可能の
車両が出来るけど、事故発生時の誘導案内とかの問題懸念とかなかったのかね? 急行小田原行きの2×3に何度も乗ったな。
大野で後ろ4両切り落としてからが本領発揮。
こいつ古いくせにいい足してるじゃんと感心したっけ。
実際オールMだから5000辺りより高性能だね。 >>143 ラッシュ時に車両間の通り抜けすら難しいという状況で、編成間通り抜けなんてできるのかねえ?
最も難儀するのがラッシュ時の事故だわなあ・・ >>143 ラッシュ時に車両間の通り抜けすら難しいという状況で、編成間通り抜けなんてできるのかねえ?
最も難儀するのがラッシュ時の事故だわなあ・・ >>136
以前にあったタモリ倶楽部の喜多見車両基地行く企画を再び
タイアップで2200を修理なんてのはないよなあ 座席が奥深で座り心地抜群だが、立ってる方は地獄だったな。通勤急行で、鞄の手離しても床に落ちなかったよ。 2200系の座り心地はロングシート車だとNO1だと思う。これに匹敵する
座り心地は南海21000系のロング車くらいか。 2200・2400の運転席後ろの座席で前を見るのが楽しみだった。 >>141
2200系列は一部の先頭車が列車無線無しで、
営業では先頭に立てない車があったから、分割放送も
何か対策がしてあったのではないかと推定。
2200や2400は側面表示がなかった(一時はサボ表示アリ)から、
今から考えると信じられないね。放送聞き逃したら終わりみたいな。 今は騒音の問題もあって昔ほど酷くないが、警笛鳴らしまくってたな >>151
相模大野で駅員が分割位置に立ってのを見たことがある ランドの逆1で、遮断機降りて5秒で急行が通過したのには、驚いた。 1800系がまだ現存するらしいのですが本当ですか? >>153
後4両の出発指示合図出すのが先頭だったね。
ネコちゃんたちがいた頃って、乗り換え階段より後ろには屋根がなかった気が。
そして、土曜急行は2400×2のイメージが強い。 土曜日が平日ダイヤだった頃の名物急行だね。
通常は早朝にのみ見れるか見れないかの
急行ではイレギュラーな編成ならびに車両が来たりして見物だった。
晩年は1000形4連×2が使われてた。
これも新宿口急行の完全10連化前は、早朝には見られたが、
日中は珍しかった。 高校時代、オダサガから本厚木まで通ってたが各停が相武台で緩急結合していた。
ソ停急行には随分世話になったもんだな。 急行昼間、経堂停車やってる位なんだから、相武台前にも停まらせれば良いのにな。大野や町田で時間調整してる位なんだからやれよオタ! >>160
ここ最近早朝使ってないからわからないんだけど、
大野初電の準急と、そのあと数本の急行が6両ってイメージが抜けないんだけど、
それぞれ今は何両になったんだろ。 >>165-166
10両になっても新百合から座れない 来月5日でN6引退10周年だね
10年前の2004年は2600形 4000形の引退 種別が黒幕からカラー幕になったり
ダイヤ改正 湘南急行の廃止 旧接近放送の全滅などかなりの変化の多い年だったね 小田急多摩線の高い橋梁の下をくぐりぬける小田原線。
まわりの景色は草ボウボウ。 駅前に麻生区役所が野中の一軒家のように建っていた新百合。ナツカシス 東側の広大な荒れ地の中、協和銀行だけが工事も終盤。駅出たとこにポツンとあった公衆電話BOXには、携帯電話なんてない時代お世話になった。 1900の2連だったね。
それでも空気輸送だった。 開通祝賀記念列車は9000系でその後しばらくは4000系3連だった。
映像も残っている。1900系2連から76年秋から2200系2連。
4連になったのは1979年から2400または2200系4連だった。 多摩線って、小田急やる気がなかったんじゃね?
新百合ヶ丘・新宿間の過密ダイヤに、千代田線からの多摩線直通を走らせても、所要時間で京王に対抗できない。
永山から新百合ヶ丘までの客を相手に営業し、そこそこやっていくという感じだった。
多摩ニュータウンからの通勤客獲得は、半ばあきらめていたんだろうな。
多摩センター・永山間での京王との落差を感じていた。 やる気が無いというかやってられないというか
本線系統の輸送力増強が目下の課題だったから 1977年3月28日から今日まで永山民だが当時は朝6時56分と7時7分
がN6の各駅停車新宿行きであった。それ以外は2200系2連。 >>161
相武台前停車は日産座間工場対策じゃなかったか?
工場閉鎖で停車終了。 記念切符は堂々と9000系
いっているとボロ1900系
木板に手書きの行先板
例え悪いが詐欺ビニ本みたいだったな。 >>178
毎年5200が増備されてる頃,小田急の住民になった。
輸送力は目に見えて良くなっても,スピードはさっぱり。
便所の小便器も,小田急はいつまで経っても仕隣との切りのない,隣のチンコが見えるような駅が多かった。 50年以上前、小田急の通勤車にトイレがついていたらしいですね。
ある意味、最新の4000辺りよりも進んでたということですね。 待ち合わせ時間とかも通過待ちだけで6〜8分 あたり前の私鉄だったね
お隣の臙脂帯車両が待ち合わせ 通過待ち含めて5分以内だったことをみると
なんという効率の悪さと思ったね 昭和50年代初頭の新百合ヶ丘のトイレは男女共用だった記憶がある。 やっと多摩線特集が。
ttp://www.odakyu.jp/tama-line40th/ 多摩線って開業後しばらくは、旧型車両の墓場だったよね 今日はN6引退10周年
10年前の2004年になくなったもの多かったよね
湘南急行 通勤型のひし形パンタ 4000形 東北沢の通過待ちなど 今回は40周年記念のイベントやらないのかね
案内ポスターとか見かけないけど 昔の小田急線のロマンスカーの音が2種類あったような気がする。
なんというか,ほぼ同じ旋律で長調版と短調版。 車種によって違うよ今も。
ttp://nozomi.at.webry.info/201109/article_1.html 小田原・箱根湯本間を1500Vに昇圧しないで、小田急の車両を電圧低下覚悟で乗り入れ運転させることが可能だったのか?
関西では、近鉄の上本町・布施間や阪急京都線の梅田・十三間で行っていたことがあるが。ただし、平坦地で短距離だった。
三線軌間でも、勾配がきつい部分があるしカーブ続きだから、電圧低下した状態では加速が効かず運転に重大な支障が生じるということかな。
電圧低下すると電気ブレーキも効かなくなるだろうが、1950年当時に特急車として用いられた1900系は、電気ブレーキついてないんだな。 >>194
そもそも1500V用の車輌を、無改造で600Vへ直通なんて出来ないだろ。
伊豆箱根鉄道が600Vだった時代、国鉄の80系にはCPやMGに直列抵抗を入れるなどの
乗り入れ対策改造工事をしたと記録されている。
1910系はもちろん、1700系ロマンスカーまでは電気ブレーキ無いよ。
93.3KWのモーターで、600Vに落として40パーミル登れたかという問題も。 600V対応に改造した事の真偽はまあいいとして、1500V用の機器に直列抵抗を挟むと600V対応になるというのはどういう理屈なんだろ? >>196
言われてみれば変な気もするね。
逆に600V用機器に1500Vを突っ込むとして、抵抗で電圧降下させるのなら、
まだしも考えられると思うけど。
どういう理屈だったんだろう?。雑誌(たしかRF)の記事だから、
どの号かまではわからん・・・ >>190-191
今までの多摩線開業○周年イベントは車両の引退式も兼ねてた >>198
10周年と2200のさよなら運転が重なっていましたね 小田急といえば白地に青帯のスマートな色彩の電車。
中でも冷房設備と側面種別表示が誇らしげな9000系。
そして,きれいなお姉さんが注文とりにくる動く喫茶室。
なんて時代は昔の話だが,
このまえ久々に乗って,かぶりつきやったよ。
今の急行は新百合ヶ丘にも停まるんだなーと思いつつも
運転席から聞こえてくる威勢のいい指差喚呼の声は
今も昔もかわらない。小田急の運転士はみんな大声だね。
JRあたりじゃ確認動作は見えるが声なんてまず聞こえてこない。 べっかんこー
ぱぁつしっこー
ぅあつりょっしー
ブー >>194 低電圧で過負荷(急勾配)じゃオーバーロードとかしないのか? ♪やんやんやん、やんやんやん、やんやんやん、やんやんやん、
やんやんやん、やんやんやん、やんやんやん、やんやんやんやん 新宿・下北沢・成城学園前・登戸・向ヶ丘遊園・新原町田 相模大野・海老名・本厚木・愛甲石田・伊勢原・鶴巻温泉・大根・大秦野・渋沢・新松田・小田原・
箱根板橋・風祭・入生田・箱根湯本
相模大野・南林間・大和・長後・藤沢・本鵠沼・鵠沼海岸・片瀬江ノ島 >>207
江ノ島線は、中央林間と南林間、長後と湘南台の立場が今や反対になってるな。 そういや新宿出て停車駅と分割のアナウンスしてたなぁ
新百合を出ての案内と町田を出ての案内と。 >>190-191
新百合ヶ丘〜唐木田の各駅に新百合ヶ丘管内オリジナルのポスターが貼ってあるよ >>209
新百合がないころは
向ヶ丘遊園から新原町田まで
延々と分割案内していたな。 大和では相鉄線のホームが見下ろせて楽しかったが,地下化で消えた。
下北沢でも井の頭線が見えなくなってしまった。
>>204
http://www.youtube.com/watch?v=Yxppjx3Yoas 小田急の車両って90年代の終わり頃まで車内に独特な匂いがあったけど、いつからかしなくなったな。 おととい仕事で超久々に南林間で降りたら、何か違和感。
2面4線から2面2線になってたんだね。
降りる駅間違えたかと思ったわ。 側線を潰して2面2線の10両化対応ホームになった。
大野方の渡り線も江ノ島型の砂利の積み場?無くなった。
OXも改装された。 1500V車の600V区間乗り入れの件だけど、急勾配の箱根登山線は、それなり対策をしていたのだろうけど、
確か阪急京都線車両の宝塚線 十三〜梅田乗り入れは未改造じゃなかったけ?
もっともトロトロ走行だったらしいが・・・。 >>219
箱根登山も1500V車の600V区間乗り入れは無かったよ。
登山の車輌を1500V対応に昇圧工事して小田急に合わせた。
小田急車の乗り入れ開始時から、箱根湯本−小田原間は1500V化。
ピクに記載アリ。
その後は750Vに昇圧したと記憶。 >>220
最初は1500/600の複電圧仕様に改造した。
京急と湘南電鉄が行なった方法と同じ。 登山電車の凄いのはJRと違って、
湯本で運転士がスイッチ切り替えをしないで自動なんだよね。 HB車とABF車どちらも主電動機が、初代4000形のタネになったけど、
モーターに(特性や出力)大差なく互換性があったと言うコト? >>223
戦前の私鉄向け標準電動機のMB-146CFかCFRだもの。
小田急は2100まで一貫して採用。ただしモハ1形のみはもっと低出力のもの。
なので、モハ1出自のデハ1100は地方私鉄譲渡となり、
主電動機は流用されなかった。 1801保存会ってあるんですね
ttp://www.deha1801.com/ 新百合ヶ丘駅がなかった時代
玉川学園前駅の駅構内にレストランがあった。
カツカレーが美味しかった。
学生の休み処みたいな感じだったのかなー? 玉川学園にかわいい少女モデルがいたらしいですね
鉄道自殺してしまったそうですが。 >>225
車体をアイボリーに塗ってるし 幕も復元してることは小田急時代
に再現しようとしてるみたいだね 貴重な小田急車をこうして残してくれるのは嬉しいね 新宿・下北沢・向ケ丘遊園・新原町田・相模大野・本厚木・伊勢原・鶴巻温泉・大秦野・渋沢・新松田・小田原 いよいよ多摩線延伸も現実味を帯びてきた
「唐木田行き」はなくならないけど、今の唐木田駅周辺が「懐かし」になる日も近いな >>230
勝手に自治体とバカが盛り上がってるだけで、小田急は全くやる気が無いんだが >>231 懐かしくないしー
下北沢地下化&複々線工事ひと段落で資金的に小田急としては、充電したい処なんじゃないかね? 玉川学園前駅に一時期設置された誠に珍妙な発券機兼改札口。
軟券でなぜか裏側は磁気面で茶色だった。
今やこれを知っている人は物凄く限られるだろうと思う。。。 >>234
自動改札の試験のために導入された。
頼むと、手発行の定期券を磁気券化してくれ、
定期用の自動改札が使えるようになるサービスもあった。
あの改札機兼券売機で発券された切符は、
回収されるべき駅がなかったが、
入場券や他線の場合はどうだったのだろう? 同じようなキップ、鶴見線の有人連絡窓口でも貰ったことがある
磁気定期の乗り越しだったかな >>234
相当昔ですが、なんと自動改札にお金を入れて発券、と記憶しています
30円区間なら30円を押すと発券されて改札扉が空いて切符が無効に出てきます
なんだ、これ?という感覚
ほかの駅では見たことがありません
試験導入と聞きました
しかし、ある程度したら撤去、のようで、結局広まりませんでした >>238
そうですよ。
営団(当時)6000系の準急の中で見た。 岡田有希子さんが経堂から小田急に乗ってたのを雑誌で見たことがある >>237
そういうの昭和60年頃
関西で見た記憶があるぞ。
比較的利用者が少ない駅で,券売機スペースを省略するのにいいってことなのだろうが,
いかんせん,朝夕はかえってそういうのがあると,定期客のジャマにはなるんだよな。 >>243
玉川学園前駅には、定期用の自動改札は別にあった。
ただし>>235のように磁気券化が必要で、
してもらってない人は普通に有人改札を通っていた。
もちろん有人改札ラッチも真ん中にあったですよ。 234ですが、さすが2chの懐かし版?、あの出札機に対して、こんなにも早く
しかも何名ものレスがつくとは驚きです、
先日何十年ぶりかで玉川学園前駅を利用したら、改札の先にトイレはあるは、
下り線ホームの階段が2つあるはでビックリしました。
昔は上り線ホームのみにきったなくて薄暗いトイレしかなったのに。。。 >>246
貫通路そのものはあったが、走行中は柵がされていたんじゃなかったっけ?
岐阜にあったときは非貫通だったらしい。貫通路取付後に小田急入線の記録が、
ピクトリアル・アーカイブスにあるよ。 >>136
江ノ電のタンコロみたいにイベントの時に少しだけ走らせてほしいね 保存車は故障では無く検査を受けて無い静態保存でしょ。
それに喜多見で見学は無理では。 通勤車両は2006年
NSEは2007年が最後だったね
そのあとは現役車両ばかりだった やっぱり保存車両を持って来るのって、ひや肝もんなんだろうなぁ
車軸が固着してたら事故のもとだし事故って貴重な車両を壊したら元も子もないし
07年にSE車を倉から出す時擦ったけど、どう思ったことか >>257
鉄道イベントは戦場なんだよ!
危険なのは当たり前!
女子供はすっこんでろ! >>258
…と、救い様のない鉄ヲタクズが現場で喚き散らしており。 昔、2600とかだったかな、戸袋のところが窓でなくて銀のステンレスの
様なプレートに一面通風穴の様なのを開けた板が付いていたのを憶えてる
人はいるかな・・・?
座った時にあれに頭を載せてる?と髪の毛が絡んで痛い思いをしたものだったww >>260
車体外側は鎧戸になってるのだよね。2400は確実に覚えてるんだけど…あとは2600と4000だっけ?あれ? 大型・中型とも冷房車以外全車。
少しでも風を入れようという小田急のサービス精神。 >>262
2400以降の、だよね?それより前の車両にもついてた? 続けてゴメン、ついでにsage忘れてゴメン。
5000の非冷房にもあったっけ? 5051F〜5058Fまでは非冷房で登場
1972年までに全車冷房化 >>265
ありがと。
その非冷房の5000にも、運転席直後の戸袋窓に鎧戸ついてた? ありがとうございました。終始クレクレ君ですみませんでした。 旧4000形は外側が鎧戸で、内側も鎧戸みたいなメッシュ穴の銀プレートだったよな。
子供の頃、銀プレートの穴を覗いたことがあるけど、戸袋内が見えただけw いっそ小田急で逃げましょかぁ〜〜
小田原急行電鉄株式会社 戸袋部の鎧戸は乗客への配慮とは、さすが小田急ですね。
ところで昔は2400なんかは窓が全開出来て夏なんかあっちこっちで全開
で走ってましたね。カーテンがバタバタしたりして結構煩わしさもあった。
今なら「子供が落ちる」とか「髪型が乱れる」だのまかり通らないような気も
しますが。。。
窓が自由に開くと言えば、昔はしょっちゅう窓からゲ●を吐いた痕跡があり
ましたね。
列車の進行方向がはっきり判る扇型に残っていて、きったねーなー、と思い
ながら見てた記憶がある。
窓ゲ●、最近はとんと見なくなった気がします。 >>260 ラインデリアだと金がかかるので、この方式にしたとか?
冷房準備車で登場した9000系まで、小田急は地下鉄乗り入れ車なかったし。 ごめん>>260
>>276は>>275あて。
あらためて
>>275
吊りか? 冬はあのグリルみたいなのを外してガラスを入れてたというのだが、そこまでは覚えてない。
冬には間にアルミかなにかの穴無しの板を入れてた。 >>275
ネタにマジレスっぽいが・・・
9000は冷房準備車ではなく普通に冷房車。
ラインデリアと関係ない。
運転室の後ろは、夏場になると大変暑いのが当時の電車の問題だった。
運転室仕切りから、両開きドアと戸袋分が「窓の開かない部分」になるためだが、
ここになんとか風を入れられないかと考えたのが小田急の戸袋窓ギャラリ化。
一番前のベンチレータも、外見は同じで吸い出し形にして通風をはかった。
したがって冷房車には無い装備。クハ2478もここはガラスになっていた。
>>278
最初はガラスと入れ換えていたらしいが、Hゴムの処理が面倒なので、
数年程度?で、冬季はアルミ板を内側にネジ止めできるように改良された。
2200系列など片開きドア車は、運転室の後ろがすぐに開閉できる窓だったので、
このような装備はなかった。京王5000などは、運転室の真後ろに戸袋があったが、
運転室仕切り戸にギャラリが切られていた。 NSEヘッドマーク五角形冷房増強前の登場時スタイルだって。
有井の改造車と並べた時に形や色が合わないと困るね。 NSEで思い出したが、小田急は保存車両たくさんあるだけに常時公開出来る施設があって欲しい 以前博物館の話題が有ったけど一部の人達から反対された。
そんな金がかかる施設じゃなくても保存車公開だけでも欲しいよね。 >>285
次の博物館のチャンスは100周年の2027年ころか? 箱根戦争の関係で西武と険悪だった時代でも
西武所沢工が2100形(三岐)や1600形(岳南)を直接購入したのは(できた?)のは、
あくまでもビジネスライクにという考え?
例えば東急3350(戦前払い下げを受けたも元木造院電を出初とするサハ)は、とうてい使いきれない両数なのに
一度上田が譲り受けた後、西武所沢工が買い 伊予鉄ゆき。 5月くらいにもファミ鉄をやるとかってどうかな?
西武は年3回くらいやってたような気がしたが 博物館みたいな金を掛けなくても、
保存車両の展示だけで十分だよ。 初めてNSEの展望席に乗ることができた時
当時はずーっとオルゴール鳴らしっぱなしで走っていたので
わりとうるさかいなと思った。
しかも、タイフォン鳴らすと、足下にビリビリっと響いたのを憶えてる。 町田駅の新宿寄りの電留線は昔から「正面顔」写真撮るのに絶好だったが、
最近通ったら相変わらず小田原側正面が踏切間近で撮りやすそうだった。
まぁ6連だったら昔も今も位置は同じなわけだが。。。 そういえば江ノ電の1980年代終わりごろから1998年ごろまで使われていた
うちわのような形をしたドアにご注意のステッカーと
小田急の1980年代後半ごろから2008年夏ごろまで使われていた
上半分が青いひらくドアにご注意のステッカーは
ケンタッキーフライドチキンで「チキンオダドアサンド」「チキンエノドアサンド」に、
ミスタードーナツで「オダドアドーナツ」「エノドアドーナツ」に、
ロッテリアで「オダドアバーガー」「エノドアバーガー」にされちまったよな >>258 お前部品販売や撮影とかで場所取りで血眼になって狂うヤツだろ。 小田急の車内ステッカーだと
包帯を巻いた指のが印象的
9000系でよく見た 昔は縦長の楕円だったのがいつの間にか真ん丸になってた トイレ付きでデビューしたのは2200?
ちゃんと処理施設あったのかな? >>297
2220がトイレ付き高性能車の最初(旧形ではモハニ101形他あり)。
当時は処理装置無し(その後トイレごと撤去・運転台取付)。
ただし2320形については、タンク式トイレ(日本初とされる)になったよ。
ブツの抜き取りは、おそらく経堂でバキュームカーで、じゃないかな? トイレ付き通勤車って今の4000系とかより進んでるじゃん >>299 登場当初の2220や2320は、週末急行用とかでしょ。
通勤車としての位置付けには無理がある。
そもそも現在と混雑具合 輸送人員 列車本数 に差がある。 >>261
そういや、2400の先頭の一両だけ冷房車というのがあったな。
あれも鎧戸だったっけ? 1800が現存しているらしいね
早く見てみたいです おまたせいたしました。2番ホームに、連絡急行ロマンスカー あさぎり号 御殿場行きがまいります〜…
YouTubeなどの動画サイト、どこかにうpしてないかな?
自動放送の連絡急行ロマンスカーの言い回しが聞きたい! >>300
週末急行って、ロマンスカーじゃなかったんだ? >>304 週末急行やサービス急行は特別料金不要で、準特急は特急よりは安い特別料金取ったのか?
この辺がよくわからない。格下げ改造前の2320は準特急に用いられているが、2220は当初から3ドア、ロングシートだから準特急には使用されなかったようだな。 90年なんて小学6年でつい最近と思っていたが…これ見ると70年代にすら見える…。 俺が子供の頃 1800系はいつも海老名の車庫の端に停まっていたな
2両がなにかの編成にくっついていたような >>309
予備車の1811-1861。
タネ車がモハ63じゃないタイプ(車体完全新製)。
台車が1861はTR25Cという、DT12改造なのは意外に知られてない。 >>310
ありがとうございます
いつも線路際の一番端に留置してましたね
動いていたことがあったんですかね 1800は台枠から上は新製ですよね。
でも小田急車の中ではあまりにも異形なその面持ちから
自分は車体は63のスキンの張替えかとずっと思っていたのですが… 1800のモハ42とモハ60復旧(1811-1861のみ)以外は、
台枠流用だよ。それと、主要な柱も流用していると思われる。
当時の輸送状況からすれば、柱を新製するのであれば、
3ドア車になるのが当然で、73系スタイルにする意味はないからね。
>>313
ありましたよ。私乗りました。
1806-1856の入場で、1805-1855-1811-1861なんていう編成で走っておりました。
予備なので、2輌単位で入場した車の補充に当てられ、
入場車や時間のかかる故障修理などが無いときは海老名留置でした。 箱完全新製なのに稼働率が悪いって
同じ63絡みの西武の401?2(改番でややこしい)の所沢製と同じ位不遇だな。(こちらは、後年新宿線系支線封じ込めで、同時期作製の501より遥かの早く他界) 今、BS-TBSで、ザ・ピーナッツの特集をやっているが、
「速いなピポーので〜んしゃ♪ 小田急小田急ピポピポ〜」を
唄ってくれぬものか。 >>317
4輌半固定編成化までは、4000と連結で活躍していたようだよ、1811-1861は。
半固定化の時、列車無線を奇数クハと偶数デハに付けなかったから、
1811-1861は両方とも無線を取り付け、予備に回った。
入場車がある度に使われたので、それほど不遇ということもなかったのでは。
もっとも秩父鉄道では806-856として普通に走っていたが。 >>319
それに対して1806-1856の方は部品取りで譲渡後即解体
普通なら異端の1811-1861の方が部品取りになりそうなものだけれど
1806-1856の方が状態が悪かった等の事情があったのだろうか ぐぐりで見つけた1811の走行シーン。
ttp://tsurikakedensha.blogspot.jp/2012/08/blog-post_21.html
>>320
なんでも最後の回送は6輌で、着いた先の秩父で、
1811-1861は新製台枠と知って、1806Fと1809Fのどっちかを部品取りにすることに
したんだと。それで1806-1856が解体部品取りになったそうな。
おそらくいくらか1809Fより状態が悪かったんだろうね。
もっとも、それまでに譲渡されたグループには、もっと悪いのがあったかも
だけれども、もう整備して実際に営業に入っていたから、
それと差し替えも出来なかったんだろう。 >>321
なるほど、やはりそういう事情があったのか
1806-1856は最後まで定期運用に残り、
小田急一般車では初?の、さよなら運転の栄誉も担ったのに
一族の中では真っ先に解体とは、思わぬところに落とし穴が待っていたものだな。 比較的 個性の有る所為か1800や2200は人気あるなー
過渡期の仇花1700や2100も思い出してやってくれ。 2100か懐かしいな。
中間の運転台は1灯ライトで凄く違和感あったし、運転台室内ははっきり
分かるほど埃が堆積していて子供心になんだか衝撃的だったよ。。。。 >>324
1700は初代特急専用車なのだから仇花はない
仇花というのであれば、暫定特急専用車2300の方が相応しいだろう ものの本によると1800系と4000系の併結脱線事故の原因が1800系の板バネ台車と新性能の空気バネ台車との揺れの違い、とか読んだうろ覚え。
そんなで1800系はラッシュ時使いにくかったとか。
そんな事より最近のロマンスカー、車販でアイスティーを注文すると200円で缶紅茶(250ml)が。日東紅茶の缶だから我慢汁って感じか。 西武なんかじゃ板ばねイコライザ台車と空気ばねダイレクトマウントの車両が連結して走ってたよな >>328
4000と連結した時代、1800は板バネ台車じゃないよ。
応荷重装置取付のために、枕バネをコイルバネ+オイルダンパに改造している。
よってその本は根拠の無いことを書いていることになる。
1800がラッシュに使いにくいとすれば、片開きドアなのに、
低加速で、急行などに使うしか無く、上りの8連急行に運用したり
せざるを得なかったためかと。7時台の下り経堂始発各停もあったが、
待避が多くてスジが寝ていたから、なんとかなったのだろう。 >1800系と4000系の併結脱線
なんか、うっすらリアルタイムの記憶がある。
併結が原因だとして、それ以降は併結はなくなったんだよな。
でも俺は、1800系が来ると「アタリ」の気分になっていた。 4000と併結ができなくなって、朝の4+4急行に使うしかなくなって、
その急行も10両化で消滅だっけ 小学校の時、ちょっと早めに学校に行くと
1800の8両の急行が走ってきたな 旧4000系(初代? ツリカケ時代)は制御器新造だけど、
略号(HBやABFとか、みたいに)社内では呼ばれなかったの? >>329
しかし西武では脱線の話は聞かない。
小田急の脱線も2回とも今の新百合ヶ丘辺りだし
線形も影響していたのだろうね。 >>338
特定の条件で輪重抜けを起こすパイオニア台車の特性でしょ。 小学生の時 2400系と2600系と5000系と4000系の区別が良くついていなかった
顔が似ているから
なんかたまにモーターが釣りかけ音のがあるなあと
よくわからないままに認識していた 自分はガキ(幼稚園)の頃、2600と旧4000(釣り掛け)は音の違いで認識できてたらしい(我ながら恐ろしいガキだ)
あとは幕の色や表示内容である程度は区別できてた
〜2400:白字幕、前面の種別幕の幅が狭い、側面表示なし
2600:黒字幕、側面は種別だけ表示で音がちょっと違う、顔は普通
4000:白字幕、側面は準備工事のみ、音が独特
5000:白字幕、側面は種別の電照表示、顔は普通
5200:黒字幕、側面に行先表示あり、顔は普通
こんな感じ
あと大人になってから、顔の彫りの深さが微妙に違うことに気づいた 小学校の頃はよく大野工場の中に見学行ったな
事務所行って、大学ノートに名前と住所と人数書けば
日にち言われてすぐ入れたのになあ 2600と4000は二重
5000と5200は一重 小田急顔はヒュ〜ンっていう加速音が響く奴とあまりしない奴の2種類があると思っていた。今考えると2600と5000のことらしい。
4000のことは言うまでもなく認識していたし、釣り掛けという言葉も何故か知っていた。
どこで聞いたか?幼稚園児。 2600・4000(釣りかけ)・5000・5200は、車両側面が当時最新車両だった8000に似ていたせいもあって5200が特別な存在に思えたなあ(側面幕が種別のみの前期型は9000に似ていたけど) FM系で行先表示機が飛び出てるのと出てないのがあったけど、あれどっちがどっちだっけ
これが自分の中で未だに謎のまま >>349
新造当初は2320含めて全て箱形で、先頭車化改造した車両がHEと同じ埋め込み式の方向幕になったんだよ
例えば2221×4(登場時)だと、元々クハだった2221と2224が飛び出してて、先頭車化された2222と2223が埋め込み式という具合
2300だけは例外で4両とも埋め込み式、これは2連化と同時に貫通顔にしたから >>350
ついでに窓寸法も2400と同じになってる。運転台取り付け車は。
元々「クハ」にはちょっとワラタ >>351
FM系に「クハ」は存在してなかったなw
要するに新製時から先頭車ということです 裾絞りのある普通電車が高級感溢れててね、国鉄101系ゲタ電から乗り換える度に車内が広く感じてリッチな気分。
その実は和泉多摩川で降りてクチボソ釣りする庶民な目的で乗車。 >>353
和泉多摩川駅前にあったねぇ、釣具屋さん。
オレは多摩川を対岸に渡って、南武線に一駅乗り、中野島でフナ釣りしたけど、
多摩川の魚は、けっこうすれっからしでなかなか釣れなかったねぇw
まあ、腕もいい加減だったんだけど・・・
あの頃は、結構鯉とか釣って、バケツなんぞに入れたまま電車に乗っている人
いたよね。床に少し水こぼれていたりして。新4000の車内には似合わない光景かな。 >>354
そういや、千歳船橋に住んでいた高田文夫がガキの頃、
父ちゃんに「海連れて行ってやるぞー」と言われて、連れていかれたのが
和泉多摩川だったらしい。 >>355
直通あるんだし、片瀬江ノ島まで連れて行ってやればいいのにw >>354 和泉多摩川というと、多摩川大水害を連想してしまう。
1800も現役だった頃か 家流れたもんな、自然災害の行政責任限界説に判例が振れた。
二子玉辺りのデカい坂、多摩川の浸食で100万年以内に出来た。関東は橋が高い、逆に大阪の鉄道橋は見るからに低い。 1971年頃 大雨の日曜日夕方 下北沢2番ホームで見た光景が忘れられない。
丹沢号の1800が2連で目の前を通過。これが私が目撃した唯一のかまぼこ丹沢号でした。
停車駅は大秦野、本厚木、遊園のみ。大雨でも運休せずに減車対応してたのですね。 そういえば昔、小田急下北沢駅の券売機で売られていた
京王の切符の表面にえがかれていた「PJR」の地紋も、
ケンタッキーフライドチキンで「チキンPJRサンド」に、ミスタードーナツで「PJRドーナツ」に、
ロッテリアで「PJRてりやきバーガー」「PJRえびバーガー」にされちまったよな
(ちなみにPJRの地紋は、小田急の他相鉄・東急・江ノ電・京成・北総・新京成・箱根登山・シーサイドラインでは昔から使っていたが、
京王・西武・東武・多摩モノレールでは2000年代前半ごろに切り替わった。
都営地下鉄・ゆりかもめ・りんかい線・横浜市営地下鉄・東京メトロ(旧営団地下鉄)では一度も採用されていない) 小田急OXや小田急の駅売店「OdakyuShop」で、
そこに置いてあるチオビタドリンクを見て、
小田急の上半分が青い「ひらくドアにご注意」のステッカーを思い出す人、
いるのだろうか? 訂正
362
×小田急の他相鉄・東急・江ノ電・京成・北総・新京成・箱根登山・シーサイドライン
○小田急の他相鉄・東急・江ノ電・京成・北総・新京成・箱根登山・シーサイドライン・京急 そんな昔ではないけどよみうりランド〜百合ヶ丘でがけ崩れがあったな >>366
俺が高校一年の二学期の終業式の日の事。
昭和61年の12月下旬の事だね。
あの時に現場直前で停止したHE車の準急は、
俺が百合ヶ丘の下りホームで電車を待ってた時に、
発車して行った上り電車。
俺は7時台最初の下り各停を待ってたが、
悪天候で6時台最後の各停も、遅延でまで来てなかった。
下りは、その電車から不通に。
その電車は、何処で足止め食らったか不明だが。 >>367
崩れ始めていたのであらかじめ止めたと言われていたなぁ、当時。
その上りの2400の後ろは8000で、各停向ヶ丘遊園行きとして運転し、向ヶ丘遊園から
上り急行新宿行きになった。
向ヶ丘遊園−新宿間は、2600と8000での折り返し運転。開通初列車はそのうちの
2600×1本を使い、途中から準急表示に。
上りの急行は新百合ヶ丘から多摩線に入れ、急行多摩センター行きで運転したと
当時の鉄道雑誌にあった。
秋だと思っていたが、冬のことだったか。 >>369
崩壊の数分前に通過した下り急行の運転士が異変に気付いて、
指令室に通報したと聞いた。
だから、その2400+8000の準急は、
連絡を受けて停まったのかも。
その時点ではまだ崩れてなかったかもだが。
相模大野方面から来た電車は、
各停も急行も新百合ヶ丘で向きを変えて、
当時多摩線の終点だった多摩センターへ向かった。
下りは、その逆パターン。
秋にあったのは、多摩線の2600が脱線した方の事では? 2400+8000といえば究極のでこぼこ編成だったな。
(FM車と8000の連結ってあったのかな?) >>371
8000デビューと入替にFMが消えたからのお。
その少し前あたりにあったブツ10や,2400+FM+5000などの編成が楽しかった。
特に後者は,様々な車体長,両開,片開ドア,3ドア,4ドアのゴチャゴチャ感が何ともいえず。 >>372
FM系の全廃は1984年で、8000の営業運転開始が1983年3月だから、
少しはかぶっている。なので連結運転の可能性はある。
ただ、この時期増備されていたのは、基本的に8000×6なので、
FMは4連の場合のみということになり、数としては少ないだろう。 経堂にABF車が一両だけ静態保存?それていた記憶がうっすらとあるんだが、
あれはなんのためだったんだろう? >>375
経堂には小田急の教習所があって、そこの教材としての教習車。
車内に両開きドアの実物などがあって、車体の各所に機器などの名称が書かれていた。
ついでだけど、あれはABF車ではなくて、HB車の生き残りだったよ。デハ1406号。
保存を検討したのだと思うけれど、海老名に運ばれたあと解体。 >>376>>377
そうなんか。サンクス。
黄色と青だったので、なんとなく1600か1900だと思っていた。
HB車といえば、ピンクの荷電のイメージしかなかったから。 >>377 1100なら荷電が5年前まで生き残っていたのに、ワザワザ熊本から買い戻して復元したり
寺から引取打診された1601を見殺しにしたり保存の基準が解からん? >折りしも小田急が開業当時の車両を探して復元を行なうため、
>原形に近い状態で運用されている車両を探していた時期であったことから、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>モハ301は小田急に譲渡されることになった。
(Wikipediaより)
こういう理由かも(荷電改造車の復元より原型を探した)。 >>379
デニ1101は、主電動機を4213-4313のいずれかに転用したので、
モーター無しになってしまうを嫌ったのかも。
熊本から買い戻しのモハ10は、大野工の中を低速で自走させたそうだし。
1601は車体だけで、足回りをどこから持ってくるかが問題だったんだろうね。 モハ1の後の正式な小田急の保存車が2200って番号飛びすぎでしょ タナネバで煩くてスマンが1601は、本当に惜しい気がする・・・
大抵マニアが好むクルマは現場は嫌うモノだが、1600は現場の評判も良かったらしいし・・・
京阪のびわこ(脚が還るまで待つ)、や阪神に戻った野上車のケースもあるのに・・・。 昭和36年(1961)年公開の東宝映画 喜劇駅前団地に 往年の西生田(現 よみうりランド前)駅 激変唖然!、新設間もない百合が丘(新百合ヶ丘が出来て地盤沈下する前の初々しい勇士)周辺
や2200、2400(無論ツートン色),1600(ツートン以前の茶色),初代3000(無論更新前でホーンも聴ける)が出てくるよ良かったら見てくれ! >>384
オールドファン(?)の回想録とかを読むと、1600系の登場は本当に衝撃だったらしいね。
SE車や新幹線登場の比ではなかったとか。
まさに小田急を変えた車輌だったんだな。
歴史的意義からも、保存してもいいよなあ。 岳南の1600倉庫はもう潰しちゃった?
台枠が近江モハ220になっているらしいが。 岳南のは数年前に解体されちゃったよ 1400も一緒に 1400は2012年の情報だと埼玉に床下機器ともども一両残ってるらしい 若草色の継電器箱、片開きでペンキ塗りのドア、そして床下から突き上げる吊り架けサウンド…。
母親に連れられて乗った、幼き日の江ノ島線…。 1700や2100は、アイボリーに青帯の塗装は正味一度塗り変えただけで廃車になったのかな? >>390
当時は2年に一度は要部検査・全般検査なので、
そのたびに塗り替えたから、もっと回数はあるでしょう。
1700、1900、2100のABF戦後グループは、
旧4000の中間車増備で潰されたので、1974年までは廃車は出てないはず。
とはいえ、新塗装2回という車輌はありそう? 真新しい新百合ヶ丘の駅の中にいる新塗装のABF車は、
なんか痛々しかったな。 いろんな意見あるだろうけど、小田急史上最高の名車はSEでしょ SEはSSE時代しかしらないからなあ。
新宿駅にNSEと並んで停まっていて、明らかに見劣りしていた記憶がある。
登場時の衝撃度では、やっぱ9000系かなあ。 もともと20年で潰すところを老体に鞭打って走らせていたわけだし
見る人が見れば「晩節を汚した」ってことになっちゃうかもな<SSE >>395 改造後は、小田急初の本格的特急専用車としての威厳は無かったけど、
あの顔は、あの顔で可愛かったと思う。
大井川行った第一編成があの顔で野垂れ死にしたのは切ない。 >>354
読んでて特に休日色んな物が車内にあったような
海側へ行くと長い釣り竿、サーフボード
山へ行くリック、どれも人数とか量は今は見ないね
原宿へ持ってたのかでかいラジカセとかも >>397
> >>354
> 読んでて特に休日色んな物が車内にあったような
> 海側へ行くと長い釣り竿、サーフボード
> 山へ行くリック、どれも人数とか量は今は見ないね
> 原宿へ持ってたのかでかいラジカセとかも
サーフボードは江ノ島線夏風物詩だね。
2400系4連急行とセットで覚えている。
非冷房だったのがそれが海に行きたい、
そんな気持ちをかきたてたんだろうね。
あとリュックサックは大山丹沢風物詩。
ラジカセで思い出したが昔種村直樹の、
レイルウェイライターレポートの中に、
車内でラジカセはおやめくださいとの、
他のお客様にご迷惑文章を思い出した。
今ならラジカセの部分がスマホだとか、
ながらスマホだとかになるんだろうが、
アナログからワンセグになった今では、
小田急線の相当西の区間でもワンセグ、
地デジが受信できるようにはなったが、
ラジカセならぬラテカセ時代懐かしい。 若者の貧乏化→車離れでまたまた復活しているようだな>電車サーファー サーフボード持ってる人は早朝の江ノ島行きで稀に見るよ 真っ昼間の急行に堂々持ち込めたのが、
2400形急行時代のエピソードだと思う。 2400系といえば一両だけ冷房車だが、
やっぱり夏は乗客は先頭車に集中していたのだろうか?
山手線が両端数両だけ冷房車だったときは、
あきらかに乗車率に差があったと記憶しているが。 >>399 休日の鎌倉・江の島周辺の道路混雑考えると、電車で移動した方が早い。
>>402 サーフボードを車内に持ち込む場合、荷物代取ってなかったっけ? >>404
駐車場も馬鹿高いしなあ。
夏の民間だと30分1000円なんてこともあるぞ。
同じ海水浴場でも、千葉なら一日1000円が相場なのに。 >>374
FM系はブツ6運用がなくなってからは,もっぱら4連が多摩線を行ったり来たりだった。
その時代に8000と併結されて走ってるのは一度も見たことがない。
もし,併結されてる写真があったら,貴重な記録だな。 >>407
おそらくあの多摩線運用に入っていたFMは、
HEとの共通運用では無かったと思うんだよね。
HEと共通運用なら、当時はまだ箱根急行が中形限定の時代だし、
併結もありえたと思うのだけれど、運用乱れが無い限り、
8000+FMの10連は、無かったのかもね。 1900系っていつ廃車になったの?
47年生まれだけど見た記憶がない >>409
自分も多摩線2両運用でしか乗った記憶しかないな
小田急永山までの暫定営業の時 >>385
ラストシーン直前は合ヶ丘駅を通過するSE車
そしてラストシーンは今もあまり変わらない駅前ロータリー 本線系統の駅員さんが夏休みなどに片瀬江ノ島へ応援に行くことを
通称「島流し」と言ってたらしい
今もあるのかな? >>404 入場時間は制限されていた。
有料手回り品扱い等はしていなかった(課金せず)。
アト、フィンは外すコト。
この辺の規定は、有料手回り品(犬猫等ペット持ち込み料金)が、廃止になっときに見直しされたのでは?
営団とか一部の会社では設定していなかった(乗り入れ先からの流入があるので実質黙認でメトロ介在で三線跨ぎの場合でも
通算で100Km?確かの範囲まで有効で距離通算のばあい営団等扱いの無い会社は通算に入れないで売った記憶がある) >>409
1976年。主電動機とCPあたりは4000の4200-4300に転用。
譲渡されたのは車体と台車だけだね。
ただ、一部の車輌は、代わりの主電動機手配の関係か、
台車も交換されたものがある(例:大井川鉄道モハ1906) >>412
決壊したときのやつですね。
当時立川市富士見町にいたが,
普段は川から数百メートル離れた堤防の10メートル下くらいまで水がきていたのを覚えている。
普段はジャマな堤防だと思っていたが,ありがたみがよくわかった。 1988年ごろのソルマックのCMに出てくる電車、京王5000系よりも
小田急か江ノ電のほうが良かったと思うけど 30年位前だったか、
禁煙パイポのCMに、
HEが出なかったっけ? ガキの頃、鉄道本に写真が出てくる1700系ロマンスカーと、
いつも目にする通勤型の1700系がどうしても一致しなかったな。
あんなおおがかりな改造するんなら、4000系みたいにドンガラだけ
替えればいいのにと思っていたが、実際のところはどうだったんだろ? >>422 4000の場合、元の車両からの流用は電装品だけで、車体から台枠、台車まで全て新造。
1700の通勤型改造は、台車、台枠を流用し車体だけ変えている。台枠が流用できるならば、車体の更新、変更はそれほど大きな工事ではない。
老朽化した車両の台枠流用が、現在のニーズに合わないということであれば、4000のようなやり方をとるしかないのでは。 >>423 追加、2300の車体改造の件だが、ここの114以下のレスが参考になる。 1700は、当初、デハの車体長を17m、サハを20mとして電動車と付随車の重量差縮小を図っているが、その当時の軌道が弱かったからかね。
ロクサンを割り当てられたものの、台枠が重いため保線担当者から軌道破壊の原因となると言われてたそうで。
同様にロクサンを多数割り当てられた東武が、これを伊勢崎線、東上線の主要線区で使いこなしていることと比較すると、戦後間もなくの小田急は軌道が貧弱だったということかな。 そこから 新幹線並み を目指して行ったんだから、大したものだな。
転機は…NSEの増備? 2400も中間電動車と制御車で車体長が異なるが、こちらは電動車の方が長く、制御車に比べ10トンも重い。
1700とは異なる発想であるわけだが、2400が出た昭和30年代には、軌道の強化、重軌条化が進んでいたのではないかな。
旧武蔵野鉄道の西武池袋線も、戦後まもなくの時期は軌道が貧弱で、軌道強化を進めたという。
小田急も、武蔵野鉄道も経営が苦しかったから軌道強化が進まなかったが、戦後、真っ先にやったのが軌道強化なんでは SEやLSEの借り上げ試運転でも分かる通り、国鉄から一目置かれていた様だが、南鉄局と静鉄局を結んでいた地理的背景も有るのかな? >>423
1700の特急車→通勤形改造にあたっては、
柱類はそのままで外板を切り欠いたり、貼り足したりしてそのまま流用していますよ。
台枠流用の車体新製ではないので注意かと。
>>425
1700の中間サハが20mなのは、モハ63の焼失車体台枠を利用したためだが、
おそらくは喫茶コーナーやトイレ、放送室の分の定員減を嫌ったためだろう。
小田急の軌道は最初から37kgレールを使用し、国鉄本線並みだったので、
決して弱いということはなかったはずだが、戦時中の酷使の影響は、
少なからずあったのだろう。各地で柱材などに利用されている、
小田急の初代レール(テネシー)たちも、かなり偏摩耗しているものが
見受けられる。
>>427
50kgレールの採用は、比較的早い方だが、戦後に目立った軌道改良をしたという、
はっきりとした証拠は見つからないね。ただ、皇紀年号の戦後レールが、
ある程度まとまって見つかるので、戦後早い時期から老化レールの更換には
熱心に取り組んだ様子が見て取れる。 >>429
37kgレールで国鉄本線並みって・・・
国鉄も当時はそんなに軽いレールが主流だったのか >>430
レールの研究専門の記事を、ピクなんかで読むとわかるけど、
昭和2年なんていう頃は、100ポンドレールはほとんど実績が無い時代。
50kgレールが本線の主流になるのは、PSレールが広く出回ってから。
新幹線だって、最初は50Tレールだからね。今は新幹線・在来線
それに小田急線も60レールでしょ。 開業時は75ポンドレールはサバーだけ、あとは50ポンド。
今もなぜか高架・地下のところしか60kg/mになってないような? >>432
そのレールに関するデータのソースは?
サバー区間だけにしかテネシーや国産の37kgを入れてないとしたら、
調査時の現存本数が多すぎる。テネシーはジョイント部が6つ穴なのが特徴だが、
戦後は車庫線でも見られた。それだけ本数があったということ。
跨線橋やホーム柵、通路柵などにも多数見られた。今も向ヶ丘遊園駅跨線橋では、
テネシーレールを仔細に観察できるスポットが存在する。
年号から見て開通時のものばかりだが、それらがサバーでのみ使われたとは
とうてい考えられない。
30kgレールは、戦前の経堂車庫(おそらくGHHの1922年もの)等、
主要でない線で見られたと考えられる。 >>434
ふーん。じゃ、その年史が間違っているわ。
年史なんて案外適当なことが書かれているからな。
小田急の30kgレールの初代レールは判然としていない。
GHH1922がその一部ではあろうが、経堂のバス車庫部と、
祖師ヶ谷大蔵駅跨線橋屋根部(もちろん今は無い)から位しか発見されないのが
そんな延々と敷かれたにしてはおかしい。
海老名の機械保線区に保存されている分岐器から、ウグレーが見つかったりする。
レールは地に着くものだから、周辺から全く発見されないのは
レールの産業考古学的見方からは考えられない。
ピクの小田急特集なんかからは、30kgの細いレールの話なんて
出てこない。「本線には国鉄並みの37kgレールを使用」と書かれている。 今でこそ小田急ってNゲージでたくさん製品化されてるけど、TOMIXのLSEが初めてでしたよね?
キットは除外します >>436
みどりや、またはしなのマイクロブランドの金属製9000が先? >>437
マイクロエースの全身、しなのマイクロから9000製品化してたんですか
初めて知りました
最近はほとんど模型やらないけど、TOMIXのLSEは今でも大切にしまってます 俺持ってたよ
子供の頃だからちゃんと大切に保管しなかったのが悔やまれる
東西線の5000系とか有楽町線7000系
都営新宿線 井の頭線とかも出てたな
小田急9000系はみどりやじゃなかったかな 私鉄車両をあまり出さないKATOが、この前NSE出したな >>439
都営と井の頭はエンドウじゃない?
HOだと、みどりやの9000はなかなか良くできていた。
ロマンスカーもNSEが中村精密から出ていて、今の目で見ても、
運転室回りなんかはかなり良くできている。しかしプレミアが。
9000はピノチオのほうが先行していた。 >>428 SE車の時は、官僚エリート意識の強い国鉄が私鉄に一目なんて置かないでしょ。
国鉄内部の高速列車論争(電車vs汽車)に利用されただけ
HSEのときは、過去SE車試運転の経緯(事例・・・あいつ等役人は、前例主義だから)から内部でもすんなり
他社のクルマを技術研究に使う事にOkが出た。 連節車であるLSEの国鉄車との比較試運転では、先頭台車の横圧は大差ないことがわかった。 超本命が大穴
暇つぶしに覗いて見たけど あり得ない女が・・
見返りをもらって損はしなかったww
□を22it.neに変換
0□t/d11/11mina.jpg 快速急行!
登戸に止まれ‼️ HEで特急えのしま号と同じ停車駅で走ったのは準特急? >>448
サービス急行じゃないかな?
ロングシートながら座席番号札が付いていたという。
今から思えばたまげたことだね。 座席の事は覚えてないが、
方向幕の所に丸いヘッドマークが付いてた。
ただ列車名か行先かも覚えてない。 調べたところ、サービス急行は1959年に廃止されているので、
HEの登場年だから、HEのサービス急行は無かったはず。
ということで、HEの準特急だったのだろうか>>448>>450は。
ピクの特集号も見てみたのだが、今のところわからんかった。
準特急は2300と2320の限定運用と思っていたが、
ロングシート車の代走があったのかもしれんね。 通勤スレにもあったけど 1400形がまだご健在らしいね 場所はどことは書いてなかったけど新潟交通色からしておそらく埼玉の某工場のやつと思われる >>453
間違えなくそれ 1800以外にも昭和初期の生き残りがいたなんて感激だわ 小田急線と井の頭線
小田急線と南武線
小田急線と国鉄総武線(新宿駅手前)に
連絡線路があった >>454
1800は昭和初期とは言えなく無いか?
>>455
厚木から相模線
海老名で相鉄線
小田原で東海道本線にも連絡線があったよ。
藤沢にもあったような地形だが、どうなのだろう。 今も昔もかわらない光景
B1F,1F EV前のの小田急百貨店のお姉さん。
今じゃカゴ内にお姉さんは乗らないけどね。 今はもう2220〜2400の貫通型の小田急顔はもうどこにもないのかな?
数年前に解体された山梨のが最後だった?
カットモデルでもどこかにあればなあ >>458
HEの顔があったのに解体されちゃったみたいだものね。
博物館構想が実現していれば、展示されていただろうかね。 小型車の小田急顔可愛らしくてすきだったのにな ネコが4両あるのに貫通顔が一両もないのは残念です 2400はカットしたのがあったんだよね
あと新潟にも2220があった
辻堂の2200もなくなったし、最近まであった山梨のが残念だったな 実は結構似ている件
ttp://blog-imgs-23.fc2.com/t/e/t/tetsudounado/20061031213333.jpg
ttp://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/022/114/75/N000/000/006/136344541111813204785.JPG 藤沢では国鉄と繋がった記録は無いですね。
江ノ電も。 跨線橋の窓の下に大きく書かれていた駅名が目立っていた。 >>463
直通しても鵠沼すぎて最初のカーブで曲がり切れず脱線ってオチでしょ
江ノ島電鉄直通なのに江ノ島すらいけないようじゃね 9000系だっけ、前面黒縁顔のやつ(いまの8000系じゃないよ)
なんで5000系とかより先に淘汰されちゃったんだろ?
小田急といえばこれで、オレの好きな電車だったのに あと、むかし撮った小田急の写真整理すると、系式別に分けるときは前面助士側窓上の形式見ればいいけど、
引きとかで判読できない場合、2600系、4000系、5000系の区別がつかん >>466
一段下降窓から雨水が侵入して、鋼体の腐食が想定以上に進行したって話を聞いたことがある パンタの位置は?
あと運転士側前面ガラスがツライチなら5000 >>466
同期の営団6000系はいまだに現役なのになあ。
てか、営団のほうが異常か。 6000系は40年選手だしあっという間にいなくなるかもしれん。
既に置き換え始まってるしね。 先頭からT車2連続が今イチ
下り局面で乗り心地が悪い
8連にしちゃった7000はゾンビ なんだ7000ってメトロのか
F線には縁がないなぁ >>466
千代直で酷使されすぎたこと 高加速と高速性能を同時に組み込んだ
特殊構造など 来年で引退から10年になるんだ 各停ユーザーとしてはよく使ってた車両だし
久しぶりに見たくなったな あのデザインはいつ見てもいいよ >>466 電気馬鹿喰い 製造コストも維持費も・・・とにかくカネの掛かるクルマだし乗務員の評判も宜しくなかった。 LSEが今でも残ってずっと後輩のHiSEが先になくなったのは、ハイデッカーにしたはいいけど、
階段でバリアフリーに対応できなかったから? バリアフリー法とかくだらない法律に殺されたよな HiSE ちょうど更新時期だったし
小田急としてはあと10年以上は使う予定だったんでしょ
全編成のたった4本だったんだから 車いすの人はHiSEを見過ごして次のに乗ればいいだけの話 くだらない法律って…
掲示板以外でそういうこと言わないでね
鉄道ファンの評判がさらに悪くなる HiSE、いまの長野のは階段をスローブにしたん?
それともバリアフリー法は都内の条例で、長野は適用外だったとか? ちょうど更新時期を迎えようとしてたしリニューアルしてもよかったんだろうけど、
「そこまでして残す必要はあるのかないのか」という選択にNOという判断を下したまででしょ >>481
展望席の入り口はフラット。
長電なら展望席をバリアフリーにすればトイレもないからOK。
小田急で引っ掛かった理由はそのトイレがステップ上にあったから。 お年寄りなんかには、たった2段の階段に難儀する人もいる。
特に降りるのが大変そうだと、むかし箱根湯本の掃除のおばちゃんから聞いた。 なんでHiSEがアウトで階段利用の2階建てグリーン車、E4系、ビスタカーはOKなん? 移動制約の人々の件だけど、対象になる人々にも
適切な利用を考えて頂きたい。
車椅子でラッシュ時の混雑した満員電車で急行とかありえないダロ。 ありえなくはないな
誰もが車椅子のお世話になるかもしれないんだから >>483
新宿から箱根まで乗っても90分から100分くらいじゃん 映画一本分にも満たないし そこまで考慮しなきゃダメなの? >>490 トイレあるから「走る喫茶室」営業しても問題生じないんでは?
女性はトイレ短いし、車内でアルコールだの飲んでたら90分も我慢できなかったりする。
西武のレッドアローや京成スカイライナーにもトイレあるんだぜ。 >>485
HiSEとRSEは平屋部分が無く、
それも階段が狭いので、
車椅子で持ち上げて通るのに大変だった。
たとえば東海道線など普通列車のグリーン車でも、
台車上が平屋になってる。 >>491
健常者はちょっとステップ上がってトイレもいけるから問題ないでしょ
ただ車いす利用者のために喫茶室の利用とトイレの配慮までしないといけないの?って話 トイレは事前に済ませるか 一本やり過ごせばいい話でしょ
それのせいで廃車にされたことが納得いかないわ どうみたってあのバリアフリー法は悪法だわ >>493 バリアフリー法は既存車両については努力義務、改造できないまま走らせることが同法違反とはならない。
HiSEとRSEの老朽化、VSEやMSEに移行させればよい、だから新型のATSに取り替える必要もないという営業戦略もあるんでしょ。
バリアフリーにそぐわない構造も廃車の一因ではあるけどね。
493の嗜好で鉄道会社は経営やっているわけじゃないんだよっ! >>493
急にトイレ行きたくなったらどうするんだよ。
バカかおめーは。 >>495
その場で出しちゃえよ!
楽になれるぞ! >>495
事前に車両運用案内してるんだから
そのなかで選べばいい話でしょ
そこまでして Hiseに車イスの人乗っけたいの?それとも健常者と同じ車両乗れないなんて差別だー!とか言っちゃう人? だめだこりゃ
自分も障碍者になるか死ぬまで理解せんだろうなw 今や急行の「前六両は急行箱根湯本行き、後ろ四両は片瀬江ノ島行き」ですら懐かしになってしまいましたね。 分割案内板Aを境に前〜 という案内も懐かしい。
大型中型が入り乱れてた時は、分割案内板Eぐらいまであったよね。
あと足元の点滅ランプとか。 >>500
足元の点滅ランプは前6両は緑色とか色を変えれば良かったのにな。
今更だけど。。 ホームの先端までランプが点滅してないと、
おお、次は中型車が来るぞとわくわくしたものだw 「下着見たかった」小田原市役所職員 盗撮で逮捕
(2015/08/03 21:16)
神奈川県の小田急小田原線の駅構内で24歳の女性のスカートの中を盗撮したとして、小田原市役所の職員の男が現行犯逮捕されました。
小田原市役所の職員・井上憲児容疑者(36)
は2日午後5時半すぎ、小田急小田原線本厚木駅のエスカレーターでカメラ付き携帯音楽プレーヤーを
会社員の女性のスカートの中に差し向け、盗撮した疑いが持たれています。
警察によりますと、鉄道警察隊の警察官が駅で不審な動きをしている井上容疑者を見つけて後を追ったところ、犯行に及んだということです。
井上容疑者は「女性の下着が見たかった」と容疑を認めています。
押収したカメラ付き携帯音楽プレーヤーには、別で盗撮したとみられる複数の女性の下着の画像も残されていて、警察は余罪についても調べる方針です。
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000056048.html
2007-07-21 18:11:27
神奈川県警大磯署は19日、駅のエスカレーターで女性のスカートの中を盗撮したとして、県迷惑行為防止条例違反の現行犯で、
同県小田原市農政課職員 井上憲児容疑者(28)を逮捕した。
調べでは、井上容疑者は19日午前7時50分ごろ、同県二宮町のJR東海道線二宮駅北口のエスカレーターで、
高校1年の女子生徒(15)の背後からカメラ付き携帯電話をスカートの下に差し入れ、盗撮した疑い。
警戒中の鉄道警察隊員が取り押さえる直前に井上容疑者は携帯電話を折って壊し、
当初は「やっていない」と否認していたが、その後の調べに「申し訳なかった」と容疑を認めたという。
ソース
nikkansports.com http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20070719-229551.html 3000形ロマンスカーSEはなんで「あさぎり」に転用する頃にブサイク顔に改造しちゃったん?
間合い運用で2編成重連とかのためなら登場時の顔に連結器でもつけときゃよかったんじゃないの? >>505
引き出し式簡易型自連ではなく、電気連結器付き密連に交換する必要から、
カプラーカバーを出っ張らせる必要があり、NSEに合わせて
電照式のヘッドマーク取り付けに伴ってヘッドライト位置も変更したのでは。
設計当時は、もちろん2編成併結を考慮してはいなかったと思うので、
なんとかまとめたというところなのではないだろか。 長年の謎なんだけど、SSEの連結器カバー(カプラーカバーではなくカプラーの両サイドを塞いでるような板)って、プラグドアみたいに横にスライドするようになってるの?
駅や車庫で重連にする作業見たことある人いる? >>507
胴受けカバーみたいなやつだよね。
あの連結器両サイドの部分は、通常重連するときには開けないようにしていたので、
構造はわからないねぇ。ただ、スライドして二重にはなってなかったような。
整備用の取り外し式みたいな感じではないかな。 http://sasasablog.seesaa.net/s/article/388504470.html
これを見た感じ、通常時だと胴受けみたいな板の端が手すりの下にあるけど、
連結時だとライトの下にまで来てるから、スライドさせて開けるようになってんのかなーって ttp://plaza.rakuten.co.jp/ramiki/diary/200701220000/
ごめん。ほんとだ。なんかスライドして開くみたいだね。
ttp://www.railway-slitcamera.com/photo05.htm
決定的かな。
ttp://js3vxw-02.cocolog-nifty.com/photos/p1__oda_q_3000_sse_/oer_se_3000_asigara.html
するとこれは胴受けカバーは閉じて、連結器カバーのみ取り外した状態
ということですな。 基本的に営業運転中の分割併合はなかったと思ったけど…経堂検車区で保管? むかし一時期、新宿での解放があったような。
カバー? 知らんw http://i.imgur.com/13vophu.jpg
http://i.imgur.com/E5hmM3Z.jpg
あとSSEの連結器まわりって、胴受けみたいな板(流れからこう言わせて頂きます)が、
連結器を丁寧にすっぽり覆う物と、ぼっかり隙間が空いてる物があったよね
あとはクーラーのスリットの違いとか、スカートの電連まわりが凸に切り取られてる物とそうでない物の違いとか、色々個体差があったね
既存の先頭車改造か、中間車からの改造かで差が生じたのかな >>514
本当だ。これは気付かなかったなぁ。
確かに先頭車化改造車とそうでない車輌の違いかもしれないね。
短い中間車の連接部の前に、運転台部分を継ぎ足したので、
仕様は同じのはずと思っていたけど、実は違うのかもね。
クーラーのスリットは、車体修理の前後で変わったよ。
乗務員室の手すりも違いがなかったっけ? 小田急百貨店開業時の記念ラッピング車の写真をむかし何かの雑誌で見たが
美しかったよな 2600系?
あの駆動音は忘れられない。
対抗は京急旧1000系三菱車くらいかな?
今では類似の音を聞けるのは阪急の3000系列? >>517
あのピンクに金帯のやつな
2600系の最後は旧塗装にしていたが
個人的には百貨店開業記念ラッピングの方に
してほしかったな。 >>520
フラワートレインみたいに、期間限定だったからなぁ。
でも、せっかく塗装車の8000があるのだから、
8000を1編成旧塗色、もう1編成スカーレットメジアム+金+白に塗っても、
いいような気がする。
>>521
いちいちうるさいんだよ。
小田急自身、「型」とか使って「けい」と読ませていた時期も
あったんだよ。スレタイも読めないガキはすっこんでろ。 明後日20日に厚木の消防学校の一般公開があるけど、
これは見れるかな?
ttp://c5557.kiteki.jp/html/odakyu-kuha2657.htm 今はHBといえば仙石線などのハイブリッド車だろうけど、
昔の小田急でHB車といったら手動加速の電車のことを指したという。
でもふつうはWH社または三菱電機の手動加速の制御器はHLと呼ばないか?
小田急だけ制御回路はMGで降圧した電流を使っていた?
他社のHLはまさか架線からの電気を抵抗器で降圧していたとか?
そういえば小田急ABF(自動加速、弱界磁つき)というのもあったが、
一方で名鉄のAL車の制御電源は何なんだろう? 連投失礼、やや自己解決。
Wikipedia の名古屋鉄道の車両形式 >特徴 >走行性能・技術 >「AL車」という用語について
という項目を見つけた。
名鉄では L は line ではなくて load のことらしい… 小田急のHBのBは、バッテリーボルテージ。
Lはラインボルテージの略。
モハ1形などはHLのままだったが、
たぶん戦後の更新で、制御電圧をバッテリーのDC100Vに直したのだと思う。 >>528
どうも。
各社の内部の符丁のようなものだったのかもしれませんね… HE車の一部は運転室が半室折り畳み可能な構造になっていた。
実際にその機能使われたことはないらしい。
のちに乗務員室の暖房強化?で仕切りは固定されてしまった。 いわゆる営団地下鉄式ってやつか。
あちこちで流行ったね。国鉄113系とか。 >>530
HEの全部と、2200系列の新設運転台部分。 ♪やんやんやん、やんやんやん、やんやんやん、やんやんやん、
やんやんやん、やんやんやん、やんやんやん、やんやんやんやん 小田急沿線初のららぽーとがオープンしたが
昔の小田急だったら記念HM車なり臨時ロマなり走らせてたかもな。
もっとも、ららぽーとのあのマークではHMだとあまり面白味ないが
小田急百貨店40周年みたく8000あたりを特別塗装すると目を引くかも。
ロイヤルブルー&インペリアルブルーの混在っぽくなるな。 ♪やんやんやんやんやんやん、やんやんやんやんやんやん、
やんやんやんやんやんやん、やんやんやん、
やんやんやんやんやんやん、やんやんやんやんやんやん、
やんやんやんやんやんやんやん >>535
回顧厨になっちまうがデパート開店時のラッピングは永遠に残しておいてほしい美しさ >>535
「ららぽーと」はビナウォークと競合するからかな…小田急の海老名の駅構内には広告が見当たらない。
相鉄の海老名駅には広告あるのに。 https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足ウソ製作費定義)
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0 メジャールールブック総務京都米予算me-ka-
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨークネックス従業員英産プルトニウム任天プロチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田ピク底ファンド
頭皮成分不透明ベンチスタートドナルドストラテジエイト(40代弥勒ソフト >>537
金色帯がゴージャスで、ロマンスカーより目立っていたな。 まだラッピングなんて技術は確立してなかったから
塗装してたのだろうか あの塗装好きだったよ。
N&廃車前に復活して欲しかった。 HEの方向幕を調べてまとめたいんだけど、サッパリ判らん。
A) 種別・行先それぞれ幕は何世代ある?
B) 各停用が5角形時代のフチは青?茶? そもそも色に意味ある?
C)江ノ島インターの○(海水浴快急以外)はHEにあった? HBとABFだけ?
D) ツートンカラー時代の車体色幕の幕順…
雑誌・写真集・web… 図書館・検索で追える範疇はしつこく追ったつもりだけど、
圧倒的に白黒写真の時代で、HEの最末期しか実見がない自分では力不足。
資料の指摘でも罵倒でもいいんで、判る人ヒント頼んます〜 >>546
ヤマケイのレールシリーズだったかの「小田急」に掲載されているHEは、
B)に関しては茶色です。ただし旧塗装です。 >>547
情報ありがとうございます。
三角のフチは方向幕搭載時の車体地色ベースで、HB・ABF→茶、カルダン→紺かなと先入観があった
のですが、茶色だったんですね。
HEの表示関連で自分なりに調べた時系列を書き出します。
→ 1953(S28)運転取扱心得変更 第4号様式サバー用行先表示から運行番号表示を分離
→ 1959(S34)2400形 新製 橙紺ツートン 行先幕は新製時から装備
→ 1968(S43)2400形 種別幕追加改造
→ 1969(S44)2400形 密連・電連化
→ 1969(S44)5000系登場を機に新塗装(アイボリーに青帯)変更開始
→ 以降の早い時期 急行のみ戦後も存続していた横サボの完全廃止 (幅広車はサボ枠が建築限界突破?)
→ 1973(S48) S46に登場した9000系が横書幕でサバー=五角の関係が崩れており五角形幕使用中止
→ 1982(S57)2400形湯本急行撤退
→ 1989(H1) 2400形最終廃車 よって「各停」幕の常用実績はなし
引続き宜しくお願いします。 新松田〜松田連絡線の小田急側分岐点の反対側に引き上げ線か小ヤードの跡みたいなのがあるね。保線車か貨車でも留置してたのかな? >>549
酒匂川で砂利取りをしていた時代の名残で、貨車の留置線跡です。
かつてはこの種の引き込み線や貨車ホームなどは、無数にあったんですけどね。
今は痕跡すら残ってないところが多いですよね。 >>550
ありがとうございました、やはり留置線の跡でしたか。 >>550
松田の現役のホームの隣にある古いホームの跡のようなものもその名残ですか? 懐かしでもないが藤沢の平面渡りは貴重、信号保安整備が大変でしょう
他は立体化が進んで 相武台前と言えば、砂利採取からバラスト散布に転用したホキ >>543
ウィキには2002年廃止と書いてあるが、
末期は定期列車での設定はなく終夜運転限定だったみたいだしね。 砂利取りは、玉電や京王多摩川でもやってたんだっけか 京王は砂利電で昔は地元イメージダサかった、元は軌道法で二社合併で区間繋げたらしい
小田急は新宿小田原一時間目指して終点がオダワラハコネ(登山線だが)ですよ、特急では日東紅茶森永の車販、関東私鉄の貴公子
でもデパートの存在感薄い小田急 1300は、車体更新したのに
1600は、戦後製でも車体更新してモノでもスグに収容力の面で見切り付けられ
4000形の供給源にされて理不尽。
7000や8000が長寿な処を視ると今の方が余程、時代の変化ペースが緩い気がする。 百貨店としては新宿 町田 元江ノ電の藤沢 それだけか…
ミロードはちょいと違うか… そう言えば、鶴巻から風流な木製の長椅子が消えてた…orz 9000形の時点から千代田線〜多摩線直通急行走らせる構想あったみたいね。
幕が「急行 多摩中央」となっている写真見たことあるし、
なぜ実現が遅かったんだろう?
9000形の時代は千代直もラッシュ時限定だったみたいだし。 江ノ島線を9000形4Rで往復していると、電気代は5000と如何ばかり違ったのだろう?
善行の坂で回生を常用できたか… >>566
電気代なんて大口契約だから車両ごとに差はほとんどないから
ちなみに山手線の車両1km動かす電気代が50円
結局のところ電気代は一日何本走らせて何回ストップ&ゴーを繰り返したかじゃない? 大口契約は個人の数分の1、いまいち納得ゆかない。じゃなくて100Kwの直流直巻モーター一個で最大電子レンジ100台位かな〜と考える。
電車って電気喰ってるな、そりゃ軽油は喰わない。半導体使って抵抗で熱にしてた電流カットできるなら嬉しい。
JR総武線209系500番台に今までの電車の半分以下の電力で走ってますと注釈が貼ってあった。
110Kw×24vs95Kw×16対103系でMAX49%、フルノッチでなければもっと低い。クーラー分が入ってるかは知らない。
ベッキーの様に謹慎中のでんこちゃんに怒られない様にしたいね。 常磐線を走る小田急9000と小田急線を走るJR203系が見たかった 小1だった37年前、中野に住んでいた叔母宅から母と共に
当時住んでいた北千住に帰る途中地下鉄千代田線の
西日暮里で「我孫子」の行先を表示した9000系に乗った記憶がある。
9000系は常磐線乗り入れ用の無線取付準備はしていたので方向幕も
常磐線の駅名を入れていたと思うのだがどうなんだろう? >>567
各停に省エネなV車入れて急行系に電気喰う抵抗車いれたほうが節電にはなるから、
1000形から3000形まではどちらかというと各停のほうに新車優先投入されていたイメージあるな。
省エネよりも加速の良い車両を各停に入れたいということもあったとされるが、
1990年代は1000形の急行運用なんか少なかった。
2000年代に入っても各停のほうに2000形や3000形等の比較的新しい車両が多く、
急行系にはボロ5000形等の多いイメージだったな。
新4000形により5000形置き換えが進んでからはそんなイメージは無くなったが。
5000形は元々自社線内の急行系運用前提で設計されたため起動加速度が2.4と低く各停運用など不適任だったということもあるが。
逆に9000形は元地下鉄乗り入れ車のため起動加速度が3.3と高く各停運用適任だったな。
4+4は実質8コテとなっており中間に挟まれた先頭車はライト等は撤去されていた、
末期は区準運用も入っていたね。 新形式は伝統的に4連が先で、6連は後から投入する傾向が有るよね。 3000の4連を作らなかったのは、先代への敬意を払ってか?
(にしても一部の番号は被ったが) >>576 昼間の各停でも座れない小田急は、妄想云う時代じゃないの お解り? >>572
おそらくダイヤ乱れによる代走で、綾瀬で車輌交換だったか、コマずれと思われるが、
当時自動化されていた方向幕機を持つ車輌が、
9000と一部の2600だけだったので、特に9000はいろいろ設定もない行先が入っていた。
柿生(既にほとんど設定無し)や、黒川(栗平説あり)、永山(小田急の文字無し)、
多摩中央(センターで無い)、成城学園前(成城のみ文字が大きい)などがあった。
なので我孫子が入れてあったのかもしれないね。 栗平は昔の航空写真見ると停車場化を考えていたように見えるね。 80年代の小田原駅は風情があったな。
通路の上方に温泉旅館のカラーパネル(やや色褪せていた)や提灯が飾られていたし
南口BTもまだ広々としていて登山デパートも活気があった。
今は便利にはなったかもしれんが駅構内は画一的になり、
登山電車は来なくなりBTは狭苦しくなり駅前は寂れて何か寂しい 事故で計画が狂うのは良くある
遺族から取りはぐれが無ければ7000を前倒しで置き換えたりして >>581
昔は志澤?とかいう百貨店があった。長崎屋は今のドンキホーテかな?
長崎屋は大昔は熱海にもあったが知ってる人は少ないだろう ♪サンサンサンバード長崎屋のサンバード。 本厚木は忠実屋→ヨーカ堂か長崎屋→東急ストアが買い物ルートだった
合同庁舎前の右折で3系統のバスがステップをゴリゴリ摺ってた あと、ダックシティ厚木!
折り込み広告だと、近隣店舗が福山or三原! 本厚木は有り得ないくらいに寂れた。
青学や丸井の撤退や海老名の開発が直接の契機だろうけど
まず神奈中BCを微妙な位置に建設したのが衰退の遠因だと見ている。
人口も駅利用客も増えているのに衰退というのは
八王子あたりとも共通するけど新しい都市問題のモデルではないかと思う。
そういや20年前に既にシャッター街だった厚木街道沿い相模川入口の商店街は
今や消滅しかけているよな >>586
さらに海老名ロマンスカー停車すなわち海老名ロマンスカー停車=その場合には本厚木ロマンスカー通過になったから、本厚木ロマンスカー通過口実できたしな
伊勢原に止まるロマンスカーは本厚木に止まるわけだから海老名止まるロマンスカーが本厚木を通過しなければならないそんな理屈はない訳だからロマンスカー海老名停車は本厚木通過の理由付けだな
小田急本厚木ホテルレストランが好きで学生時代はよく愛用したものだけれども今では小田急ステーションホテル本厚木ただのビジネスホテルになってしまった >>586
有隣堂はまだ当時のままのビルだよね
海老名はららぽーともそうだが、様変わりしてる
ニチイくらいしかなかったし田んぼの向こうに相模線がのんびり走っていたもの ニチイの隣に在った、スポーツクラブとホームセンター(黄+紫の建物)って、現在位置は何処だろ? >>589
おぉディスカウントのダイクマがあった。
秦野市が発祥
大工の熊五郎からダイクマに…
今はヤマダ電機の子会社なってしまった。
♪ダイナミック ダイクマ〜 秋葉原価格とか言う謎表現
本題
9559-9659は 一般貨物に 混ざって輸送されたんだな
写真が載ってる雑誌も有ったが本文で触れる事無くスルーしてた覚えが… 8000初期車は1年くらい荷物列車と籍が被っている >>593
百貨店の電器売場がやって行けなくなって、そのサトー無線に任せていたな。電鉄の人間すら知らない奴多かった。スレチスマソ。 百貨店はビックのハルク入居が無ければかなりヤバかったらしいな。
不況突入と相模大野店の大失敗が重なって死にかけていた >>576
ただ4連新造の必要がなかっただけで関係ないでしょ。
旧4000形置き換え時は今より1000形4+4が多かったし、
9000形は4連は2本繋いで実質8コテ状態となっていたため。 昔の小田急は戸袋窓が青く、ロマンスカーの展望席は、うっすらと緑色のガラスを使ってた。
黒い窓は未だに慣れない 鵠沼プールガーデンはいつ無くなったんだっけ?
向ヶ丘やファミランよりもかなり前だった気がするが >>598
そりゃ、大野を最寄りとする人以外はみんな町田指向だからね。
前はほぼすべて町田直通だった江ノ島線各停、大野止まり増やしたのは
大野の集客のためとも揶揄された。 昔から新松田返しはあんなに時間が掛かってたの?
あそこど所要が1本増えちゃうんだよな…小田原も着線次第で 壮大な無駄 が出るがorz >>604
そうなんだよね
何せ町田は“東京都”だからね
しばらく進むと再びカナガワになるけど
多摩川渡るまで我慢 こどものころ、生田に住んでいた。
自分の駅には停車しない9000系と3000系に憧れて、
バスマニアは鉄道マニアに進化した。ローレス賞という存在も知った。
あれから50年。
いまじゃどっちもないんだよな。 9000の檜舞台である、準急 綾瀬逝き、本厚木逝きは生田に停まるんだけど... 9000形は三菱モーター/WN駆動にしては、らしからぬ音を発していたな。冷却ファンぶん回し系の音が勝っていた。
先頭Mの件と言い、東急8500爆音汚物好きの知り合いが、小田急に関しては9000形だけ激賞していたよ。 3100形の事9000形と言ってるのかな?
9000形と言えば千代田線乗り入れる前もっぱら急行専用だったみたいだけども10両運転そのものがなかった時代だから4両編成のみが活躍してたんだろうか? >>614
9000は急行の10連運転開始(S52?)までは、
4連単独で各停に新宿方でも運用されていた。6連も各停に。
急行運用も当然あったけど、2400と連結などが多く、
日中の準急は6連だったので、それにも起用。
登場当時の種別表示は急行も準急も赤文字で、試運転なども種別表示に入っていたことは、
あまり知られていないかな。 9010が9409に化けた件
9410は幻に…
後に1061〜1066+1251〜1256及び1091〜1094が入った
(結局10本は必要だった) 1059〜1062、1251、1252は、10連新造後の93年にATCを撤去している。 地下鉄乗り入れ前は新宿から経堂まで待避出来る駅が無かったんだなぁ…
その先が成城学園前 ・向ヶ丘遊園・新百合ヶ丘か。
その次が柿生? 東北沢…そおだったね。いくら何でも大渋滞になるよね
地下ホーム閉鎖して3線でやりくりしていた時代が嘘の様だ。 >>616
地下鉄対応編成の1000は、1059〜1066と、1251〜1256。
後に1059〜1060は地上線専用に転用。
>>617
いずれも多摩急行新設に伴い、末尾2→1の順で、ATC再取り付け。
その後1000の地下鉄運用撤退で撤去。 >>621
2000年11月 1062+1252千代田線用機器再搭載
2000年12月 千代田線直通準急増発、日中時間帯も運転
2002年 3月 多摩急行新設
2004年 8月 1061+1251千代田線用機器再搭載
2004年12月 多摩急行増発、運転時間帯が夜間まで拡大 50年前は言いすぎだったな。
昭和38年うまれの小学校3年くらいって昭和47年くらいか。
40数年前ね。
新百合ヶ丘駅の工事は
「トンネルの内側にUFOの秘密基地」でも作るかのごとくにみえたな。
いまじゃ旧区間の影も形もないな。 >>615
当時、小田急の年間増備数は。30両程度だったようです。
9000は、先を見越して、早めに造っていたようです。
現行2016年3月改正ダイヤでは、千代直は9運用。
もし、9000の常磐線乗り入れが実現していれば、9011、9411が登場していたのかもしれません。 昭和38年組で1972年は小学3年生ですな。
俺はそのいっこ下。
73年に親父に連れられてランド前駅からよみうりランドに行ったが、その時のバスが地元相鉄と同じBA30の富士重R13バス窓だった。
こんなので生田界隈の坂道を昇り降りしてたんだなあと、今更、感慨。 >>623
何で簡単な漢字をわざわざ平仮名にすんのかね >>625
おたくさん「こんどの電車は○○をでました」にもケチつけるクチかね そういや8両時代の「湯本・江ノ島」行急行は
新原町田〜相模大野間で
「この電車の前4両は急行箱ね湯本行、後4両は急行片瀬江ノ島行・・・」
などと延々と案内して、最後に
「この放送の聞こえる車両は急行箱根湯本行です。南林間、大和、長後、藤沢方面
急行片瀬江ノ島行ご利用の方は後ろ4両へ・・・」と案内していたが、
ひょっとして「湯本編成用」「江ノ島編成用」と
2度も車内放送していたのだろうか? 新原町田の時代まで遡らなくても、6+4時代でも前と後ろの放送の切り替えスイッチがあってそれぞれ放送してたよ。 8両時代と言えば岸辺のアルバムの頃か
と思ったが岸辺のアルバムの放送の時に10両運転がスタートしたから両方だよな 新宿側運転台に限り分割放送スイッチが設置されていた。 9000形の千代田線直通運転について纏めてみました。
1972年度 9001〜9010竣功
1973年度 9401、9402竣功
1973年度 9403〜9408竣功
1977年度 9010に付随車を追加して9409へ改番
1978年3月 千代田線直通運転開始
1988年度 千代田線直通運転に1000導入、1990年までに9000と順次置き換え※
※1991年時点では、まだ9000が運用指定に残っていたそうです。数本は、予備として千代田線用機器を搭載したままだったのでしょうか? 「小田急ピポーの電車」の歌声の主が亡くなられていたそうで…
みんな注目しないのかねえ。 >>633 まわりクドイ言い方だね。
敬意が無いね。(呆)
「ザ・ピーナッツ」でしょ! もうお一人は、四年前に他界
女性なのに今の時代早すぎるよな。
昭和は、遠のく・・・謹んで合掌。 江ノ島線ではサーフボードの車内持ち込みに時間帯規制を設けてた気がする 急行 箱根湯本・片瀬江ノ島 と言うと、2400+9000のイメージが強い。 >>636
これが後に逆になろうとは思うまいorz 俺も箱根急行はHEって印象が強い
古くて狭くて非冷房で、箱根行くのに特急取れなかった人は散々だなと思った 俺の時代は
湯本:9000,5200,8000,4000(稀に2600)
片瀬:5000,9000,8000,4000
のイメージ 多摩センターに住んでいた俺のイメージ
多摩線・・・1900,2100 箱根急行が2400独占だった頃、イレギュラーでFM車2+2ってことはあったの? >>641
運用予備車としてFM×4があったので、時々箱根急行運用に入ったことは
あったようですな。写真がどこかのサイトにあったかと思うけど。 でもHEって4両で70mなんだから、ロマンスカーが140mなら、4+4の8両で運用出来なかったのかな?
あんまり利用してなかったから事情が分からない。
新宿01発/31発は伝統的に湯本江ノ島急行だからなかっただけなのか、はたまた別の理由があったからなのか。 >>644
おお、そうだったんですか。
湯本江ノ島急行は「えのしま」が満席の時に江ノ島方面は利用してたけど、
箱根へはNSEを使ってたから湯本まで乗る機会が殆ど無かった。
幼い頃から湯本は非冷房のHEで、江ノ島は9000や5000の冷房車が多く、
たまにHEだったので、特に夏場にHEが来ると、損した気分になった。 10両編成といっても2400+ブツロクでは輸送力が落ちた。 昼間毎時、HE4両×2・8両急行箱根湯本/片瀬江ノ島2本、NHE初期5両、後6両化快速準急小田原2本の時代ね。輸送力も足りてたしね。 >>638
昼間でも大混雑で積み残してるイメージしかない。
あの頃の混雑が未だに小田急=混雑のイメージ引きずってるよね。 話は変わっちゃうけど2400や2200の中型車を完全に置き換えた
8000形ってデビュー当時は今の3000みたく
ファンの間では嫌われてたとか そういう風潮はあったの? 新車に関しちゃ、国鉄がお通夜状態だったもんで、当時のガキ鉄(俺も含む)からは京急2000と共に歓迎された印象が有る…流石に2400→1000の時は複雑な気持ちになったが。 今や小田急顔の5000亡き後唯一の白地に青ラインだからなぁ8000は…
京王は6000が消滅
西武は2000が頑張っている
京急は800
東武は…顔が変わっている8000 俺は2400は、ハンパ感がたまらなく嫌いだった。
実際は、限られたホーム有効長を最大限活用する為の苦肉の策だったのだが
MとTで全長が違う(然も長いT車でも20mに19m分割案内板や乗車目標を煩雑にする)
先頭がTなのも納得いかなかった。
ハンパ者の癖に量産され先輩の2200,2220,2300,2320の各型式を舎弟にして生意気な感じた。
勿論これには、2400の後に製造された2600が不甲斐なかったこともあるのだが・・・
そういう俺は初代4000(改造前)が一番好きだった P-Vの癖に走りだすと吊り掛け音全快とか
アンバランス感が最高だった。
一番保存して欲しかったのは2217-2218だな
何でもファーストナンバーにこだわるのは良くない >>650
8000を新車ガイドで見た時、小田急顔のイメージを残しつつも、
流行のブラックフェイス化された近代的な車両って感じがして、
LSEと共に小田急の新時代を感じた車両に思えた。
実車を見た時も、まだピカピカだったせいか、これが小田急のスタンダードになると思ってた。
>>653
HEはジョイント音が独特で、20mに乗り馴れている身としては、走行音は面白かったけど、
いかんせん非冷房だから、夏場は乗りたくなかったな。 >>654
ネコ顔ではない貫通型の2200〜2320に保存車が1両もないのは寂しいですね
最近まで個人所有の2320が山梨にあったようですが >>654
ネコ顔ではない貫通型の2200〜2320に保存車が1両もないのは寂しいですね
最近まで個人所有の2320が山梨にあったようですが >>656
子供のとき貫通型の2320を写真で見たとき
そのかわいらしさに魅了されたわ
個人的にはネコよりも貫通型保存して欲しがった レプリカでもいいからもう一度つくってほしい
あと1400型の生き残り去年埼玉で見たけどまだ残ってるかな? 小田急のHBやABFは、大半が初代4000形製造の為心臓(主電動機)を抜かれたのに、
意外と中古売れ行きは良かったよな何故だ? 西武所沢(箱根では血みどろの争いをしていたのに、ビジネスライクにこの面では取引)に目を付けられたから? >>660 中小私鉄にとって手ごろなのが、小田急のもの以外に17m国電位しかなかったからなんでは?
20m車では大きすぎるし。 辻堂海浜公園は文字どおり海の近くだから場所が悪すぎるよね
新潟交通の元小田急車も佐渡島の両津港で朽ち果てた。 >>664
まだ埼玉に一両生き残りがいる
現存する唯一の1400型 向ヶ丘遊園線がモノレールではなくこどもの国線や京王動物園線のような普通にの支線だったら、
今頃どうなっていたろうか? もうグダグダ2200辺りの保存車ウンヌンのハナシは止めない?クドイよ。
>>666 他社の枝線同様(平行路線のある西武豊島線、京王多摩動物園線)同様 維持費
も取り立て別途特別に掛からないし、住宅地の生活路線だから維持されていると思う。
本線の高架化&踏切が問題か?
専用にワンマン車を用意するだろうか?
規格的にも有りえん暴論だが、東急と結託して多摩川を渡り砧線と繋いで
殿様商売の南武線に軽くジャブを食らわせて欲しいが・・・ モノレールの前の豆電車については
残っている資料が少ないらしい >>667
は?何仕切ってんの?何様?
>>668
使っていたレールが古物なのかどうかもわかっていない。 >>667
今は1000形4連のワンマン改造車になっているんじゃない? >>669 馬鹿のひとつ覚えってコトバ知っている? 煽り耐性のないID:aP4n7QlJ=ID:6hSF/OaKくんは半年ほどROMって2chに慣れようね 富士急からの保存車は、富士急色に塗るなっていう条件で、
譲渡されている。元小田急の5700系もそうだし、オリジナルの3100系も
同一条件のようだ。
辻堂のやつは、そんな条件はもちろん無いから、小田急色そのものだが、
思ったよりは錆びてない。クーラーにふたがされているくらいか。
初代は2218だったのだが、台車は伊予鉄道に譲渡されたので、余ったのを装着。 >>670
まだまだ優等、各停に引っ張りだこの車両を
遊園の支線なんかに使わないだろ
きっと4連化した5200が今でも闊歩してたかも
それか8000か >>675
2013年3月まで5000形で後継が1000形となっていた可能性はあるでしょ。
それ以前は2400形や旧4000形が運用されていたり。 昔の小田急の急行
和泉多摩川を過ぎて多摩川を渡り
南武線のボロ電を跨いで、
新原町田を過ぎて、
横浜線の単線とボロ原町田駅で対向電車を待っているボロ電を見下ろし
厚木では、いつ発車するのやらわかりゃしないボロ気動車を見下ろし、
とにかく気分よかったな。 中途半端だろ
御殿場線のボロ電の下をくぐり抜け
大雄山線の西武赤電色のボロ電同志の交換を見て
小田原に着いたら前方にロマンスカーに似た色のボロ電が待っている まあ小田急デパート新宿店外壁のマルに棒と点々のマークが怖かった訳だが >>680
百貨店のあれは廃止された訳ではないが
(今でも公式マークらしい)
この10年ほどで見る機会が極めて減った 箱根登山バスの芦ノ湖湖畔の終点がなんで「箱根町」か?
現代の市町村の原型は1889年の町村制施行に求めることができる。
このとき、現在の自治体としての「村」が発足するわけだが、
これは江戸時代の「村」そのものであったり、それらが複数合併された
あたらしい「村」であったりした。
このとき、旧宿場町は「●●宿」「●●駅」「●●町」という呼称になり、
時代の経過とともに「●●町」となっていく。
さて箱根であるが、いわゆる「箱根宿」は関所のあった箱根峠〜関所付近に江戸時代に
設置され、旧来の部分の「元箱根」とは区別されていた。
1889年の町村制施行の際、箱根宿は「箱根駅」として、他に「元箱根村」「湯本村」「温泉村」「宮城野村」「仙石原村」
「芦之湯村」として発足。1892年に「箱根駅」が「箱根町」に改称。1927年に
「湯本村」が「湯本町」に改称。そして箱根山戦争となる。
1912年に箱ね登山バスの前身の「富士自動車」(冨士屋ホテル)が国府津駅〜宮ノ下、宮ノ下〜箱根町
に路線バスを開始した。このときの「箱根町」停留所名がそのまま現代に継承されている。
行政区画は後に「箱根町」「元箱根村」「湯本町」他が合併して現代の「箱根町」となり
役場の位置は湯本になってしまっているので、知らない人だとなんで「箱根町」のほうに
役場がないのかと思う人もいそうだ。 ところで箱根山戦争とは小田急と西武の有名な戦争であるが、
実は小田急(側)でもその前に「戦争」があった。
1912年に冨士屋自動車の路線バスが開業して、1919年には登山電車が開通。
当時は両者は別会社だったもんで、お客の奪い合いがひどかった。ときには
従業員どうしの乱闘事件もあったとか。
戦争が好きなところなんですな。箱根は。 なお、「箱根宿」は当然ながら天領で韮山代官所の管轄。
元箱根以東小田原にいたるまでの各村各集落は小田原藩の領地であった。
また「箱根宿」の中にも実は「三島町」「小田原町」というのがあり、
これは箱根宿をつくるために三島や小田原の人足を出した区域ということで、
「三島町」は韮山代官所の管轄だったが「小田原町」など一部小田原藩の領地も点在していた >>686
同一人物じゃないのか?
懐かし板で言えば
113系スレのジャンボ兎何とかとか
貨物スレ等に粘着してる九州電機好きとか… ピカソとムーアとワカサギ(余所で取れた)しか知らん俺からしたらトリビアいいと思う 先頭車に乗って、対向して走ってくるのが5000系か2600系か見極めようとしたが、わからなかった。
形式番号見なくても、冷房や排障器の有無か何かで見分けられると思ってたが・・
40年前の夏。 690続き、どうやらパンタグラフの位置で区別できるらしいな。
40年前、そこまでは気がつかなかった。当時、ネットがあれば・・ すげー簡単なんだが。
正面窓のガラスが一段引っ込んでいる→2600
正面窓のガラスと外板がツライチ→5000・5200 >>691
パンタが新宿寄り→2600
パンタが小田原寄り→5000、4000。 〉〉692 Wikiで得た馬鹿の一つ覚えを自慢されたってなあ
近寄ってみりゃわかるだろうけど、対向車の前面の窓枠の形を瞬時に見極められるだけの眼力をもってすればねえ、まして予備知識もない状態で 知識だけの眼力自慢より次の急行がどれだけ普通や他線の乗り継ぎ客乗せて混んでるか見極める眼力のが大切 スカートの切り欠けが
連結器周りだけ→2600
連結器周り以外にもジャンパ栓?の穴も開いてる→5000
ではなかったか 遠目で見ても雰囲気で分かったな。
考えるな感じろw 急行→5000、5200
準急・各停→2600、4000 >>695 確かに、毎日の通勤通学に使っているような一般利用者にとっては、電車の形式よりも混雑状況の見極めの方が重要だ。 下降窓→5200
側面表示が種別のみ→2600
クーラーが無い/効かない→4000
他→5000 旧4000のクーラーは8000なんかと全く同じ。空調仕様がされてなく、屋根に載せただけで暑い暑い。 >>702
もともと4200-4300番台のパンタ位置は、CU-12Cクーラー搭載前提で
設計・施工されていたからなあ。
CU-195Aでも、平天井にしていれば違った評価になっただろうにね。 大和市職員の男を盗撮の疑いで逮捕
tvkニュース(テレビ神奈川) 9月8日(木)18時23分配信
大和市の職員の男が8日、川崎市多摩区の小田急線登戸駅で女性会社員のスカートの中を盗撮したとして県警に逮捕されました。
県迷惑行為防止条例違反の疑いで逮捕されたのは
大和市農政部みどり公園課の田代大輔容疑者です。
県警によりますと、田代容疑者は8日午前7時15分ごろ小田急線登戸駅の昇りエスカレーターで、
24歳の女性会社員のスカートの中をスマートフォンで盗撮した疑いがもたれています。
小走りで女性会社員に近づく田代容疑者を不審に思った鉄道警察隊が犯行を確認し、現行犯逮捕しました。
田代容疑者は「これまでもやったことがある」と容疑を認めているということで、県警が詳しく調べています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160908-00010000-tvkv-soci >>707
いいよ
青梅の買収国電か走っていた時はもう京王帝都の時代かな? 写真・資料展「小田急と秦野」
ttps://www.city.hadano.kanagawa.jp/s-gakushu/kyoiku/bunka/bunkazai/bijutsukan/odakyu/201610_odakyu_and_hadano_exhibition.html なんか昔っから多摩線〜千代田線直通急行の運転構想はあったらしいね、
なぜか実現は大幅に遅れたが…
1974年の多摩線開業時は昼間準急走ってなかったの?
それ利用すればいきなり多摩線直通急行運転出来た気がしなくもないが… 多摩線方面じゃ利用者が見込めなかったから準急本厚木⇔千代田線方面にしたんじゃない? 1900形が2両で往復していた当時の多摩線に
準急の需要なんてあるわけないな 多摩線直通がなかったのは、本線捌くので手一杯で多摩線まで手が回らなかったんじゃなくて? そりゃ幾ら宅地開発しても、肝心な買う人が集中購入して無い場所、
いわゆる本線から分岐する枝沿線の周辺だから一定数の定住が無いかぎり、
直通運転なんかしない。 多摩センターや永山から新宿までの所要時間で、京王に太刀打ちできなかったからだろ。
本線が複々線化されてスピードアップできたから、ようやく多摩急行走らせて採算取れそうだという感じになった。
多摩ニュータウン周辺の住民で、京王、それに都営新宿線のルートでは不便という客をどこまで取り込めるかだな 多摩線から本線への乗り入れは
平日朝に新宿行き各停が2本あるだけだった 小田急多摩線の想い出
前がペッタンコな3両編成の電車が走ってた幼き頃の記憶 3両?4000系か?
前がぺったんこ?
1800系か? 本社にいた。多摩線は本線線増代替地で、一般販売もした。栗平駅はそういう人達に、近い将来急行が止まる、と言った以上、優等列車が走る段階で停車しなければならなかったが、余りに新百合に近いので通過の話も出た。驚いた住宅事業部が、運輸に良く行って話してたよ。 新百合ヶ丘で多摩線方面4両と町田方面6両が分割併合・・ってのが難しかったんだろうな。
本線ダイヤの逼迫状況からすると。相模大野に加えて新百合ヶ丘も分割併合では、余計に人員が必要となるし。 >>722
多摩急行運行開始時点でも対新宿では不利で、
京王ではいけない原宿や表参道や大手町への客をターゲットとし千代田線直通で走らせたわけだし。
同じ発想で昔っから千代田線直通急行走らせていても良かったとは思うが…
でも昔は経堂が10連非対応で千代直がラッシュ時のみだったこともあり難しかったのかな? 千代田線が独立延長できなくなったから小田急相乗り複々線じゃないの
その線増用地取得で暴力団が千歳烏山の おっといけねぇ >>728
その時代はドアカット新規禁止されていなかったから、
経堂はドアカットで停車で問題なかったかと。
目蒲線の4連化より前だし。
その場合多摩急行は誕生せず、
今の唐木田急行停車駅(平日朝上りのみ経堂通過、2002年まで栗平通過)及びスキップ準急を2代目「快速準急」として運転していた仮定で。
快速準急にしたのは先代同様準急の速達化と、
当時終日急行通過であった経堂にも停車するため。
1978年:千代田線直通開始で2代目快速準急を綾瀬〜唐木田間に運転開始。
↓
1990年:スキップ準急相当の列車は廃止され快速準急は多摩線系統のみとなる。
↓
2002年:快速準急停車駅に栗平駅が加わる。
↓
2004年:ラッシュ時以外の急行の経堂停車開始に伴い2代目快速準急は急行へ統合され廃止。
尚夕ラッシュ時経堂は相模大野方面急行通過、唐木田方面急行停車と混在する時間帯が発生するため。
経堂通過の急行は「通勤急行」として区別し通常の「急行」は全て経堂停車となる。
同時に準急もそれまでの経堂通過の列車は「通勤準急」、経堂停車の列車は「準急」として区別するようになる。
こんな感じで良いんじゃない?
9000形→1000形バトンタッチの際終日千代直があったなら、
乗り入れ用の1000形は6+4はなく全て10コテになっていたかもね。 〉〉730
ここは長ったらしい妄想を書き込む場所じゃないから 防衛技官を現行犯逮捕=スカート内盗撮容疑−神奈川県警
(2016/11/15-22:30)
エスカレーターで専門学校生のスカートの中を盗撮したとして、神奈川県警は15日、県迷惑行為防止条例(盗撮)違反容疑で、
陸上自衛隊座間駐屯地所属の防衛技官 木山大地容疑者(27)=同県座間市相武台=を現行犯逮捕した。容疑を認めているという。
逮捕容疑は同日午後5時45分ごろ、同県海老名市の小田急線海老名駅構内のエスカレーターで、
専門学校の女子学生(19)のスカート内をスマートフォンで盗撮した疑い。
海老名署によると、警戒中の鉄道警察隊が木山容疑者の犯行を現認し、逮捕したという。
同容疑者は仕事から帰宅中だった。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016111500988&g=soc >>730
シナチョンの血入ってんだろ。嘘も100回言えば真実になる。あと99回書いてみ。 この掲示板で2002年といったら
懐かしに入るかな?
youtubeでこの時代の動画いろいろ投稿してる
チューバー見っけた せめてFM車が走ってる頃じゃないと懐かしいとは言えない 小田急は旧型の(台枠頑丈そうな)1700の中間車で車体短縮や
1900のT車を運転台を付けたり(車体延長)再度運転台撤去(しかも広幅貫通化)
とか、2300、2220、2320の格下げ改造と同様の糞メンドクサイ事を繰り返しているけど、
当時は車両計画(混乱していた)が場当たりだったの?
改造とかメーカー任せ?
とくに1900のT車なんか改造後運転台の跡とか残っていましたか?
小生その当時餓鬼の為 そういう予備知識が無かったので詮索できなかったので・・・ >>737
1700の車体短縮は、ロマンスカーから一般車への格下げに際して、17m×4輌にしたかったので、
ホーム有効長から短縮せざるを得なかった。また前のMc車のフランジ摩耗も理由の一つ。
1900も2+2連で4連、または4連車への増結に使いたいためと、McTMc編成解消のため、
TをTcにして、反対向きのTcを新製した。
2220はHEの増結用にするために2連化。2300と2320の格下げは、準特急がそもそも
ロマンスカーの補完のためだったので、ロマンスカーが充足されれば余剰となる。
全て急増する通勤輸送を完遂するために、少しでも単価の安いT車またはTc車の
増備で、車両数を増加させるという合理的な考え方によるもの。
場当たり的というのは、歴史を知らない者の言うこと。後からはなんとでも言えるからね。
ついでに1900のTに運転台のあとがあったかということだが、
全くそのような様子は残さないのが小田急流の改造。旧4000の高性能化時も、
TcやMcをMに改造したりしていたが、車内・外装ともに全くわからないほど。 >>736
レベル高すぎだろ
このスレ それだと2600とかNSEが走ってた90年代後半から2000年代が好きな人の行き場ないし FM車の末期はブツ6で急行運用に入ってたからよく乗りに行った。
古いけど当時の小田急線全車両の中で最もいい走りをした。
土曜日の午後には4000形5+5のツリカケ10連の急行も走ったっけ。
80年代前半の話し。 >>738
1700って初代ね、
2代目のワイドドアのほうかと一瞬思ってしまった。 >>740
あのFM車の独特のうなりを,深々としたシートで体感するのは楽しかった。
天井蛍光灯間の小さい白熱灯が常時点灯してるのはレトロ感あり。
4000の10連は,朝の通学時間帯で,暑いし,あのパイオニア台車のゴツゴツした乗り心地が嫌だったな。 今パルテノン多摩4階で多摩の交通史展やってるんだそうで ネコよりも小田急顔
中型車 2220 2300が好き
2両で走る姿がほんとかわいらしいんだよな
小田急の車両は総じてレベルが高すぎる
JRコピー車になって一気に没落したけど >>748
俺も同感
現存車がないのが残念
つい最近まで山梨にあったんだよなあ >>717
そもそも千代田線乗り入れ便が多くなったのがしばらく後だからな
当初は少ししか乗り入れていなかった >>751
そうそれ
見つけてきてくれてありがとう https://www.youtube.com/watch?v=H6PpS4iN90g
ドラマ「岸辺のアルバム」の動画だが、冒頭に和泉多摩川駅と2400形が映っている。
動画の中間より後あたりで多摩川鉄橋を渡るNSEのシーンもある。
今から40年前の風景。 今から考えると、2600〜旧4000〜9000〜5000系列ってとんでもないハイペースで置換えが進んだんだよね
2600の全廃が2004年6月、5000系列の廃車開始が2006年5月で、その間に旧4000と9000も全廃させてるわけだし
わずか2年間で旧4000と9000、合わせて182両を淘汰したのだから LSEは、当初運転台が2階じゃない御殿場線乗り入れ用の6連も計画されていたと聞いたが 幻の鉄道車両スレにその話題があったのでコピペ
456 名前:回想774列車[sage] 投稿日:2017/02/23(木) 21:08:03.45 ID:f3Y5D7nd
>>452
S-LSE(ショートLSE)については、>>5の間違い。
当初の計画では、LSEを6連程度に短縮したもの(もちろん展望付き)を作り、
SSEと置き換える計画だったのが、当時の硬直化した国鉄の労使関係の中、
「展望車を入れるのなら、乗り入れは廃止だ」と当局側から言われ、
計画が宙に浮いた。当時御殿場周辺にレジャー施設を持っていた小田急としては
乗り入れ廃止を受け入れるわけにも行かず、SSEを更新して使用。
結局国鉄そのものがなくなり、JRに移行するまで代車は製作できず、
S-LSEは幻に終わった。連接ロマンスカーで7000のみ通勤車と同様の車号設定なのは、
おそらくその計画の名残と思われる。
(注:同スレ>>5では運転席が1階かつ6連とあった) >>755
2600・旧4000・9000の全廃で検査要員を削減できたらしいからね
特に9000は扱い難かったらしいから全廃は大歓迎だったとか
5000系列の全廃は当初は予定には無かった(本来ならばもっと長く使う予定)が、地下化後の代々木上原〜梅ヶ丘の急勾配に対応できないため、あっけなく全廃となった
(5000系列には車歴が浅い車両もあったが、容赦無く廃車された)
5000系列が1両たりとも保存されなかったのは、この急を要す廃車だったため、保存する暇は無いと判断されたんだろう 路車板の東急スレより
>機器の更新と、副都心線対応の改造工事にかかる費用とその後の寿命考えたら、そのまま新車導入した方が安く付くと判断したんだろな。
>半蔵門線のときも、当初予定の8000系がスペック不足で、新たに開発した8500系に全車揃えて対応した経緯があるからね。
>メトロは05系廃車にして8000系更新してたけど。
というより東急9000は田園都市線へ転属すれば廃車減らせただけの話(東横線はホームドアの都合上改造に金が掛かる9000は残せない)
メトロ05は千代田線に転属とかできなかったのか?
>小田急もHiSEやRSE先に潰して、未だにLSEが走ってるけどね。京王も7000系初期車より新しい井の頭線3000系後期車を廃車にしてるし。
>世代云々より、単に規格に合うか合わないかって問題。ホームドア含めたバリアフリーや新規直通先の規格に合わない車両は、転用かそれが難しければ廃車にされるだけの話。
京王3000系は7000系より後に製造された車両は無かったはず(80年代製はあったが)
確かに7000系より後に製造された6000系の都営直通用と5ドアは廃車にしたが
小田急は次の通勤車廃車が8000ではなく1700になるという噂があるね(つまり8000より先に1700が廃車)
これなら2000も廃車なのだろうか(東急・小田急とも) >>760
>半蔵門線のときも、当初予定の8000系がスペック不足で、新たに開発した8500系に全車揃えて対応した経緯があるからね。
○阪の学校法人「○友学園」の
籠○泰○理事長を彷彿させる
曲解のうえ捏造300%な記述だな!
当時の田都8500中間車には8000が多数組み込まれ、
酷いのはクハ8000をサハ代用だったのだが???
http://dxtomi.com/tokyu-series-8500-history-05/ >>760
HISEとRSEはハイデッカーだったから話が違う
メトロ05系の廃車は、東西線の混雑が激しく、国交省からの通達によりワイドドア車への置き換えを余儀なくされたことが理由 平成に入ってからも戸袋窓付きの車両を導入していた3社(小田急・京王・西武)で、一番車輌代替のペースが遅かったのは小田急だけ
その3社の高度経済成長期に製造された車両の製造時期・廃車時期
京王5000系→1963〜1969年製造、1991〜1996年廃車
西武701系→1963〜1967年製造、1988〜1996年廃車
小田急2600形→1964〜1968年製造、2000〜2004年廃車(事故・余剰廃車は除く)
更に京王・西武はこの世代を全廃後すぐに後継世代の廃車も始まったのに、小田急は2600全廃前までは旧4000も全車現役
バブル時期の車両でも西武6000・京王8000がまとまった数導入されたのに小田急2000は少数しか製造されなかったし
これなら小田急も京王・西武みたいに90年代にさっさと置き換え推進していればよかったと思ったが… >>763
その時代はこの2社の置き換えが特殊なだけで、今のように使い捨ての時代では無かったからな
東も当時は今のように要らないと判断すれば新しくても潰すという概念が無かった時代
まだ103が大量にいたもんな(まさか201ごと全廃になるとは想像もしなかった)
東急も計画的に置き換えを進めていた
まぁ京王西武思考なら2600の8連化やらずに2000大量導入で、2666Fなんか誕生しなかっただろうな >>715
1000ワイドドアも数年後にはここのスレの仲間入りだろうね >>763-764
小田急の車両計画は運転車両部が決めるので、他社と同等には扱えない
5200導入の時点で両隣が界磁チョッパを本格導入しているのにも関わらず抵抗に逆戻りしたのは、現場サイドで5000の方が好評だったため
1000も現3000大量導入まで最大勢力だったのは1000が現場サイドから好評だったため
まぁ1000はバブル期の通勤需要増加が無ければ少数で終わっていたと思うけどね >>766
小田急にとって界磁チョッパは即9000という重装備車で懲りてるから
8000設計は如何に省力化出来るか相当考えたんだろうね。
57年まで5200作ってたのも機が熟すの待ってた感
ステンレス材ふんだんに使って車体寿命延ばしたり・・
だから未だに延命できてるんだろうけど。 >>763
小田急、複々線化で車両更新の金が不足してたからなんでは?
京王、西武のような車両更新急ぐ理由もなかったし >>768
予算面もあるだろうけど、20m広幅4扉で性能面でも連結できる車両になってたから
差し迫ってなかったというのが本音じゃないかな。 上の8000の話でも書いたけど
技術こなれてから導入するのが小田急っぽい。
3000作るに当たって90年代後期の技術より、VVVFもIGBTになって
車体工法も次代のになってから大量生産して良かったように思う。 >>768
その時代は使い捨ての時代では無かった
東だってまだ103が大量に残っていた(201ごと無くなるとは想像もしなかった)
やはり、東の国鉄型駆逐計画の影響で3000大量導入による従来車置き換えに方針転換したんだろうな
国鉄型駆逐計画が無ければ小田急だって2600・5000が東武8000みたいに45〜50年使っただろうし、5200なんか今頃全廃されてないどころか廃車は当分先だっただろう
旧4000・9000だって急ピッチで全廃させる必要も無かった >>770 東武が8000まだ使ってるのは、ローカル線があるからだろ。小田急にはローカル限定運用が少ない。 >>768
バブル期の通勤需要増加による車両増備を優先したからな…
>>766にも書いたが、この増備がなければ1000形は少数派になっていた可能性がある
2000形だって当初は2600形組み替え補填分しか作らない計画だったし >>4
2600・旧4000・5000は側面の窓割が101・103と同じだったもんな
運転台直後まで戸袋窓があるのも同じ >>763
西武701は経済性を重視していたから廃車早かったかも
(クハの台車が流用品、自動空気ブレーキ、電制無し等)
京王5000が廃車早かったのは、車体長が6000系以降よりも短かったため
(その為か初期車は冷房改造しなかった)
小田急2400も京王5000と同じ理由で早期廃車(こちらも2478以外は冷房化せず廃車) >>774
レス番774おめでとうw
西武701は70年代末-80年代にHSC化されて空気バネ台車に振り返られてるから
3扉減らして4扉増やしたい意向がメインだと思う
京王5000は吊り掛けの2両x12本だけが非冷房であとは冷房車だね。
18mで地方に売りやすかったのも大きいな
103系という例えは酷いが、2600-4000は座席奥行きまで詰めてて
2900mm幅で輸送力車としては合格だったから、
冷改4000が少々暑くても我慢してねで今世紀まで 2400以前はともかく、当時は大型車を代替する理由がなかったわな
平成になる頃は冷房がサービスの基準だったから、2600も4000もとりあえず合格点 >>773
ドア間隔はドア間3500mm・車端1900mmで同じだが、窓の寸法は違う
開閉窓は幅920mm・2連窓の間柱60mmは同じだが、天地寸法は小田急が900mm、国鉄通勤型が870mm
戸袋窓も小田急が285mm、国鉄通勤型が419mmで、縦寸も小田急の方が長くなっている
車内も扉間7人掛け・車端3人掛けは同じだが、座席寸法が違う
小田急…扉間3000mm・車端1560mm
国鉄通勤型…扉間3050mm(1300mm+1750mmに分割)・車端1300mm
(前者は5000以降から車端座席寸法が1640mmに変更、後者の扉間座席寸法は西武2000・6000・9000に継承)
貫通路幅も小田急が1080mm、国鉄通勤型が800mm(後者は80年代以降の関東標準)
もっとも、車体幅が国鉄通勤型の2800mmに対し、小田急は近郊型と同じ2900mmで、後者は張り上げ屋根なので、印象は大きく異なっていたが… RSEは2階建ての2両を抜いて5両にできなかったのか? 路車板より
>そんな事言ったら小田急の8000なんて全車VVVF更新してるから、あと20年は使うよ
>それとか東急の7000→7700なんて下回り総取り替えという珍しい車両だが50年車体は使ってる
>やっぱ、JR東が自前で車両作りだした(新津)のと「走るんです」導入が大きいんだよ
>あれが無きゃ、JRの203系だって更新して使っただろうし、メトロだってあそこまで新車投入したか疑問だよ
>東急だって東急車輛支援する必要も無かった
>>770でも書いたが、小田急も東の「走るんです」導入が無ければ、2600・5000が東武8000の初期車並みに長く使ってただろうし、5200の廃車はもっと先だったはず
旧4000・9000が急ピッチで廃車にする必要も無かった >>776
当時は今のように使い捨てという考えはなかった
東だってまだ103大量に居た時代だし
まさか201ごと全廃になり、205まで廃車されるとは想像もしなかった >>781
2600はさすがに限界だっただろ
末期はガタガタ揺れてひどかったぞ
あとヒーターが効かなくて寒かった
車齢の高い車両だったんだから多摩ローカルや
江ノ島線で静かに走らせて上げればいいものを
急行や新宿口の各停にバンバン使ってたな >>783
時代で、多摩は許容量オーバー。最後に、8連に組み替えて流したんだから2連か4連作って流しとけばな。あと粘着力不足、上りの江ノ島線各駅で、雨の日発車後車輪が空回りでスコーン、スコーン、は懐かしい思い出だ。 プレミア見れない
ブンデス見れない
CLEL見れない
代表も見れねえちきしょう
結果知らされて見れねえちきしょうクソったれ同和のクソ野郎地獄へ落ちろ
音楽聞けねえちきしょう
テレビ見れねえちきしょう
オシムは考えて走るサッカー
アンデションズはよく(十分に)考えて(タイミング計って)車のドア閉めて車(バイク)で通る嫌がらせ
同和のクズ共死ねクソ共がざまあみろ気違い共
ほれ気違い共もっともっとドア閉めろ通れ
それしか能のない能無し共がざまあみろ地獄に落ちろ。悔しいか、ざまあみろくたばれクソ同和
お前らの恐ろしさをもっと見せてみろ。そんなんじゃなんともねえぞ
袋とじ見たぞ。悔しいか、ざまあみろくたばれクソ同和
生きる権利もねえクズ共が藁地獄へ落ちろ
嫌がらせがエスカレートするのが楽しみでしょうがない。今それだけが楽しみだ。俺の生き甲斐藁。それだけ怒ってるってことだもんな藁
ラブホ行ったのがそんなに悔しいかざまあみろチンカス共が藁。思う存分楽しんでくるぞあばよ
椎名茉莉、知っちゃったよ。ラブホに来なければ知らなかったはずだけどな。サンキューお前ら藁
超美形。嬉しくてたまらん。お前らどうしてくれる?藁ほれ赤字分を取り返すために必死になれ
ピザ食ったぞ。羨ましいだろう?藁ざまあみろ
音楽聞いたぞざまあみろ
非人が美人
お前ら音楽聞かせてくれてサンキュー。それもお前らがドア閉めて通ってくれたおかげだ
テレビも見たぞざまあみろ
同和の悪口書けば書くほどドア閉めるってことは嫌がらせしてるのは同和だって証だ
とにかくドア閉めるクソ同和藁(とにかく明るい安村風)
深谷市東方の西死ね
サッカーの動画見たぞざまあみろ
気違いなのを常識化させるのが集ストの狙い。多いほうが正しいと考える日本人に漬け込んだわけだ。例え悪いことしてても多いんだから正しいと錯覚するように。上手く法律の盲点を突いた嫌がらせだな。法律で取り締まれないことをイイことにやりたい放題
ラルクがライブやるのが悔しいかざまあみろ
メル友出来たぞざまあみろ悔しがれクソ野郎共藁 >>781
8000は8251と55だけはVVVFになっていないので、これはこのままLSEと共に廃車になりそうだな。
VVVF車は後20年は無いと思う。
VVVF化した2666Fをあっさり廃車した位だから何が起こるか分からない。 >>783
鉄道に詳しくないうちの姉貴は「小田急はボロを急行に使って、新しいのを鈍行に使ってる」
とよく言っていた。 >>787
その話、80年代初めごろによく聞いていたw
観光客満載の湯本・江ノ島急行がHE+HEの8連で
各停に5200が入ってたり多々あったな。 >>789
2600が急行主体になってからも相方が4000や5000とか。
各停が2000や8000(あるいは3000)とかね。 >>789
そこまで行かなくても例えば1988年の1000デビューした時もそんな感じだな
1000がデビューした時よく使ってたが9000が急行や準急のメインだったのに1000各駅停車限定凄い違和感だったし
9000や5200急行準急メインだったのは9000が千代田線限定なのはさておいて1000わざと長距離運用させたくなくて1000を新宿〜向ヶ丘遊園間限定運用にしていた様に当時の自分の目には見えた 5200の急行はほんとよく乗ったけど
5555には一回もあたったことなかったな >>776
2400は大型車だったらもっと長く使われていたのかな? >>787
京王7000も当初は各停用だったし、加減速性能の高い新車を各停に使うのは合理的ではあるんだよな 南海9000南海8000南海8300も同様急行7000なのに普通9000相当違和感あった >>795
南海の場合、サザン連結の都合があって特急に7000とか7100って具合だったなぁ。
小田急の汎用車で各停先行投入は昭和35年時の2400とか、1000の4+4かな。
2600と2000は各停専用で投入だから事情が若干違うと思う。 >>778
2階建て車以外もハイデッカーだったから無理 >>796
南海の場合、
9000デビュー1985年昭和60年6月サザンデビュー1985昭和60年10月だったので若干時差があったのとサザンだけでなく7000急行もメインなってたから小田急1000デビューの時とかなり似た感じだ 2600の8連化は意味不明だったな
8連化から数年で結局2054〜2059Fに置き換える位なら、
最初から組み替えやらずに2600を2000へ置き換えていった方が良かった >>799
8連化の対象が2600だったのは、2600が近郊各停用に設計されたものだったかららしい。 ご老体は6M2Tで負荷掛けないようにとか思ってたりしてw 2600の8連化は、事故廃車による余剰車吸収の意味もあったんだろうが、
3M3Tで空転がひどかったことの対策の意味もあったかも。
6M2T化してからは、以前ほどには空転しなくなっていたし。 >>802
それもありそうだね。江ノ島線各停でよく乗ってた頃、雨の日の乗降+空転での遅延酷かった。 あのスコーンって音は車輪空転で鳴ってたのかー、勉強になります くぅぉーぉぉん プシュン! スコン! うぉぉぉん プシュン! スコン!
プシュンが空転で スコンは制御器が空転検知して自動で切れる音だよ。 >>799
散々既出だが、当時はまだ使い捨ての時代ではなかった
東だってまだ103が大量にいたし(201に至っては東中野事故で被災廃車以外の廃車はなかった)
東急も新造を中断していた >>809
それスゲー、VVVF時代の技術?って調べたら
1970年からあるって知って驚いた。
2600が如何に滑りやすかったか会社も判ってたってことか。 5000の廃車理由
>小田急5000形の廃車は、下北沢駅付近の高架複々線化の計画が周辺住民からの反対運動のため、地下複々線化に変更されたことにより発生した梅が丘駅付近での急勾配に対応できないという理由もある。
>小田急5000形等の廃車時期の繰上げは、下北沢付近の高架複々線化から地下複々線化への計画変更により、梅ヶ丘付近の急勾配での運転に対応できないという問題が出てきたことが理由
90年代にNHEを淘汰できなかった理由と思われるもの
>当時は高架複々線化工事(というより用地買収)に投資を優先していたものと思われる。 >>479
HISEはその通りハイデッカーでは無かったら日車で更新して継続的に使用だったと思う
その場合VSEはLSE置き換え用だったと思われ
RSEはハイデッカーでは無かったとしてもあさぎり乗車率の低迷から早期廃車だったかもしれない
同時にあさぎりは廃止になっていたと思う >>760
1700(1000ワイドドア)はホームドアに対応できないため更新対象外で廃車予定。
2000はホームドア対応できるから早期廃車は無いだろう。 >>764 >>770 >>782 >>808
路車板より
>JR東の「走るんです」路線への路線変更が関東各私鉄に与えた影響は大きいと思うよ
>JR東が新津で車両製造を本格的に開始して、東急からステンレス車製造技術を導入して大量生産に踏み切った
>そのコストの安さに関東私鉄は驚き一斉に新車代替路線に飛びついた・・それが、関東私鉄の新車代替のサイイルが短くなった原因
>それと、JR東が特急車両以外を外注しなくなって、車両メーカ−の仕事激減
>安値受注に走ったという経緯も有る
>一方、関西はJR西が通勤車両を延命して使う方針だったから、従来通り
>関西の私鉄はケチだから新車投入は従来からスパンは長かった
>京阪の旧3000なんて、あれでも京阪では異例に短い車齢と言われた
>それと車両整備の現業職が都会では集まりにくいという側面も有る
>それと、現場では修理できない電子部品も増えた、VVVFの素子なんて寿命が来たら代替部品が無いと修理出来ない
>ここらが、昔の抵抗制御と違う所
>でも、JR東がまだ使える211付属編成を簡単に解体して115とかが生き残ってるのは意味不明だけおな
小田急も東の路線変更の影響で3000大量投入に方針転換
でも全部置き換える体力がなくて8000と1000のみ更新して継続使用 >>815
リニューアルの対象外であることは、公式発表済み
http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8107_0585407_.pdf
■通勤車両1000形を順次リニューアルします
今年度は2編成8両のリニューアルを行ってまいります。今後順次160両の1000形(ワイドドア車両を除く)をリニューアルする予定です。 >>811
>東北沢〜世田谷代田間の地下化は住民運動によるものではなく小田急側の自主的な変更によるもの
>当初はこの区間も高架にするつもりだったが井の頭線を超えなきゃならず、その場合高架の影になる地区が多く出たことから地下に変更された
>だが下北沢だけ地下にするのでは前後の区間に急勾配が生じるため両隣の駅も地下になり連続した地下区間になった
>成城学園前の地下化も小田急側の自主変更であり住民運動によるものではない
>さらに地下の方が成城学園前〜喜多見間の急勾配が緩和されるメリットもある >>760
>>817
現1700はドア幅縮小・4連の6連化をせず、
2012/3/16で5000・10000・20000と共に廃車で良かった。
同時に登場した京王の6020も早期廃車だったし。 >>762
東西線はメトロ側としては九段下止まりの増発を検討していたけど最終的にはワイドドア化という流れになったみたいだし >>794>>795 東急東横はその反対1
新車を急行に使いたがる傾向が、初代5000系から9000系第一線活躍の頃まで延々と続いた。
で客のナカには、横にも 赤帯=急行電車と誤釈するヒトも・・・ >>821 東京「急行」というのに、停車駅が多く遅いので有名な急行だからな。
高加減速が必要。 90年代に作られた通勤車一覧
1990年度 1067〜1069F・1751・1752F・旧1551・旧1552F
1991年度 1091F・旧1553〜旧1556F
1992年度 1092〜1094F・1081F
1993年度 なし
1994年度 2051・2052F
1995年度 なし
1996年度 なし
1997年度 なし
1998年度 2053F
1999年度 なし
1994〜1999年度の通勤車新造があまりない
2600を8連化して数年で廃車するぐらいなら1000か2000をその分製造するべきだった
というか2600と旧4000は1000と2000で置き換えるべきだった
京王で小田急2600と同世代の5000は8000で置き換えてたし
何でその当時京王5000は置き換えなのに小田急2600を置き換えるつもりはなかったのか OER2600とKTR5000じゃ 後者の方が製造開始年が数年アトなだけだが、
比較的早く大型車を導入した小田急に対して京王は遅い 世代的には次世代の電車
KTR5000と同世代なのは、OER2400では? 前にも書かれてるけど、複々線化優先の予算配分で車両は次点。
それに>>825の通り 京王5000は中型車で詰め込み型2600の輸送力は捨てがたい。
2600のほうが3000よりラッシュ詰められるからね。 >>826
2600はラッシュで人は詰められるけど ダイヤは詰められないからな
たぶん今の各停のスジにのれないでしょ
ラッシュも詰められて尚且つ高加速の2000形が最強 >>811
地下化後の世田谷代田〜東北沢ってそんなに勾配がきついのか?
というか5000は廃車時点ですでに車齢が高く、廃車を惜しむほどの車齢ではなかったはず
2600・旧4000・9000も5000と同じような車齢で廃車になってるし 登山線内の40‰乗り入れてたんだし 下北沢って35‰だっけ? 問題ないと思うけどな >>831
>>832
箱根の坂は50Km/h台で登ってたでしょ
しかも直列弱メを使って
下北沢のトンネルは最高90km/hで走らないといけない
高速域の登坂性能と車齢が廃車の要因では >>818
本当に下北沢の地下化は住民運動なのか? >>811
5000系列は真っ先に5200ばかり潰してた時点で下北沢の地下化は早い段階で決まっていたんだろうな
というか5200は30年使ってなかったんでは?
1000は30年弱で更新入っちゃったし 喜多見の保存車が全て解体されるらしい
ソースはTwitter
既に3両保存されていたHiSEのうち2両が解体準備中 >>840
社長が算盤弾くしか脳がないバカだからだよ! 301系や東急8000系だっていずれも先頭車1両残していたのに、結局解体されたからな >>839
Twitterの情報見たがHISEの輸送日が違ったし、そもそも全解体なら1両だけ残すということはしないだろう。
なので全解体は信憑性が低い。
NSE・RSEも保存車両縮小で全解体ではないという説が出ているし。
まぁこれでLSEは保存されないと見ていい。 京王ですら小規模ながら博物館造って保存してるのに小田急は博物館とか造らないの?
しかも小田急にはロマンスカーと言う名車があるのに残念 費用負担してくれればやってくれるかもね
ただ京王は生首だけどそれでいい? >>844
あいつがどれだけバカなのか?社員に聞けばわかるよ! 長電に部品供給分として、輸送費だけ貰って送ってやれよ。来年の線増完成も自分達の手柄だと言っている無脳なトップの下と、イエスマンしか今いないからな、登山に行った府川さん位しかトップには反論出来ないだろ。石井じゃ無理だな。 >>849
しかし、野郎が社長になるとはね…ここ最近の幹部で一番ダメな奴だったのに!
K中以来のクソ社長か?
お互いバレないように気を付けような! >>845
もう向ヶ丘遊園の鉄道資料館知らない世代が出てきたか バーチャルで我慢。オタはその程度。ある爺がファミリー、遊園と渡り歩いて潰し続けた先にあった位だよ。 どうせ、野郎なんてケツの穴が小さいから「社員のネットに関するモラルがー」とか間もなく言い出すだろうな〜。
なっ?ケツ穴小さいスターくん! 小田急の社長 民鉄狂の怪長に終認しちゃったからな・・・コレ各社持ち回り人事?
業界全体に不幸邑楽が波及しなきゃイイが・・・・ 72年生まれ
相模大野に住んでてよく小田急見た
ABF車は屋根が黒い電車、1800形はかまぼこ電車、2200形は窓の電車って覚えてたな
幼児の癖にプレスの一枚扉がやたら好きでしたw 72年生まれでABFって4-5歳くらいまででしょ
よく覚えてるなぁ 77年生まれだけど、81年に引退した1800形の事覚えてるぞ。 1800さよなら運転の録音、そろそろホムペにアップしたいのだが、
wma形式が一番ファイルサイズ小さいかな。音のよさとか、
どれがいいのだろう(wavは無しねw)。 >>861
ここの年齢層考えたら?ってならないかw スレチだが、小田急の運転士ってバカだろ
火災の真っ只中に電車止めるって、どういう教育受けてるんだよ
これじゃあ、延焼して燃えて下さいって言ってるような物だ
今回は停電しなかったら、少し移動出来たようだが、これがラッシュ時で架線切断で停電だったら、車両丸焼け
死者100人とかなりかねなかっただろ
北陸トンネル事故とかの教訓も教えないバカ小田急 書き込むスレがわからないお前はもっと大馬鹿
ロマンスカーに飛び込んで、どうぞ (今日のIDが「OX」からだったのでついレスしちまったんだが…そういうのも駄目かな?) >>864
バカなのは警察と消防
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170910/k10011134411000.html?utm_int=detail_contents_news-related-auto_001
警察などによりますと、当時、現場に駆けつけた警察官が、消防からの要請を受けて近くの踏切に設置された非常停止ボタンを押したところ、電車に自動ブレーキがかかり、ちょうど火災の現場に差しかかったところで緊急停止してしまったということです。 昨日の事故、1800に更新される前のロクサンだったら・・?
屋根の一部が焦げた程度で車体側面のステンレス板にはほとんど影響無さそうだから、今の車両、特にステンレス車は火に強いと感じた。
ロクサンは問題外としても、1600から1900辺りの車両の屋根って内部に木が用いられていて、燃え移ったら延焼しやすいのだろうか?他社の車両だが、東武7800はそうなっているようで。 避難開始まで現場に30分止まっていたそうだが、もし、これが非冷房車で窓全開だったら、車内に煙や有毒ガスが入ってきて大変だったのでは? 火だけでなく煙も怖い。 >>867最新報道
小田急線火災 消防の要請で警察官が停止ボタン押す
9月11日 12時32分
10日東京・渋谷区の小田急小田原線の沿線にある建物から出火し、火が電車の屋根に燃え移った火事で、現場に駆けつけた警察官が消防隊員から「消火活動のために電車を止めてほしい」と要請され、非常停止ボタンを押したことがわかりました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170911/k10011134911000.html?utm_int=news_contents_news-main_002&nnw_opt=news-main_a >>773と内容があまり変わらないが
2600・旧4000・5000は国鉄臭が強かった
側面の窓割・ドア間隔が101・103と同じだった(乗務員室直後まで戸袋窓があるのも同じ)し、車内の配色まで同じ
要するに、101・103を小田急仕様にアレンジしたような印象 >>768
逆に西武・京王は特殊な事情で取替が早かったかもしれない
今でこそ3社とも20m4ドアだが、60年代当時は西武は20m3ドア、京王は18m3ドアで、20m4ドアなのは小田急だけだったから
90年代の時点では、20m4ドア車を高度経済成長期から導入していた会社は車両を長く使う傾向だったし
念のため言っておくが当のJR東は90年代は車両大事に使っていた
(山手埼京横浜は205に統一できたが南武は完全置き換えに至らず、京葉武蔵野は増備扱い)
209だって当初は各線輸送力増強に伴う増備だった
(南武以外は京浜集中配置で、捻出された京浜205を中央総武転用などで従来車の転配が行われた)
東が車両大切にしなくなったのは2000年のe231量産車登場以降
この辺りから103の廃車ペースが急加速し5年後に全廃
(中央総武と常磐快速が直接新車で、他は山手に新車導入で捻出された205を各線転用により置き換え)
この時に旧営団も5000を少しずつ05Nに置き換え、更に東急の5000系列新造による従来車置き換えに方針転換、小田急の3000導入による通勤車の急激な置き換えもこの時期からであり、
要するに各社103世代の置き換えを本格化させていた
で、103全廃の5年後に201が全廃
このあたりから各社80年代以降の車両の廃車が本格化している 1970年代製造車の壁面カラー
小田急 国鉄 京急
グリーンガム
京成 東急
ベージュで京成は、カスタードに移行
西武 東武
カスタード 終戦直後から80年代まで走り続けた1800
35年走ったとは長いなあと当時思ったけど
今の8000は34年走ってるんだよな >>755
>>758
>>781
通勤型の大量置き換えは、代々木上原〜梅ヶ丘を地下化により、旧型車が梅ヶ丘の勾配対応に問題があったため。
2600形8連化(N8化)や5000形5200番台更新が途中で止まったのもそのため。
ただ、この時点で2000形は2編成16両のみの小世帯であり、
ここで3000形に完全に移行してしまうと2000形が経済的両数に達しないまま製造打ち切りになってしまうため、2000形も駆け込む形で7編成(56両)増備し2600形の8連を置き換えた。
(2000形は1081Fと同じくN8化による補填分であり、N8化が進捗しなかったため2編成で止まっていた) >>876
>そんな事無いがな
>小田急は旧型8000をV化までして、ほぼ全車使ってるがな
>地下化の為に置き換えたんじゃなくて、地下化の為に車両置換えが遅れただけ >>877
8000系でも8251と55の2本だけはVVVFになっていない。 >>876
もし、2600形8連化(N8化)や5000形5200番台更新が
梅が丘の坂を登れないのならば、
5251F、5255F、2000全編成も梅が丘の坂を登れないのだが... 現役Mやってる中の人ですが、坂を上れないから。。。という理由は聞いたことがありません。
現に5000の6Rは登りましたから。
憶測が伝言ゲームのようになった話だと思います。 >>839
他の保存車両もゴミって・・
9000形・2600形は一両しかないし モハ1を潰すわけはないし
やるとしたら2200形の短縮かNSEのさらなる短縮か
小田急顔の完成形とも言える5000形・5200形も保存しなかったし・・
最近の小田急はほんと何考えてんだか
エアコンがまともに効かないゴミみたいな通勤車やダサいロマンスカーばかり量産して >>882
というか今まで保存車あったから喜多見が詰まってたんだろ。
2600・10000・20000に関しては最初から問答無用で解体していれば良かったんじゃない? >>882
Twitterのガセ情報なんか信じるなよゴミ >>873
スレ違いだが
武蔵野線205新製投入は、武蔵野線8両化のため。
当時の武蔵野線は103だったが、8両化がJR化後だったため103増結中間車を製造できず、組み替えで8両化して足りない分を205新製投入で補った。
これは小田急2000投入当時の理由と似ている。
各停の8両固定化の為に2600を8両化するが、既に平成に入った頃だったために中間車増備ができず組み替えで8両化し不足分を2000で補う予定だった。
(以降の経緯については、>>876を参照されたい)
京葉線205新製投入は、東京延伸目的。(恐らくTDL対策) >>876 >>886
>通勤型の大量置き換えは、代々木上原〜梅ヶ丘を地下化により、旧型車が梅ヶ丘の勾配対応に問題があったため
そんな事無い
地下化の為に置き換えが遅れた為
そんな事言ったら旧型8000がVVVF化したのか説明がつかない 下北沢の勾配登れなかったのは車輪直径の問題?
2600・5000は車輪直径が中間車が通常より一回り大きい910mm、先頭車は逆に一回り小さい762mmで、小田急の抵抗制御車の特徴となっていた
4000初代も全車両の車輪直径が910mm
通常は860mmで、小田急では9000と8000以降が該当、つまり現有通勤車はすべて860mm 昭和42年に登場した小田急百貨店開店記念カラー。
どう見ても風邪薬の箱だ。
「ルル」とか「パブロン」とか「ベンザ」とか書きたくなる。 >>842
結局、小田急は5000系列・旧4000・2400(とメトロ06)みたいに問答無用で解体した方が良かったんじゃないの?
JREだって207-900は問答無用で解体されたじゃん。
まあ301は鉄博候補車だったものの候補から外れたため解体されただけと思うが… 来春からのダイヤ改正で新設される種別
通勤急行・通勤準急とはまた懐かしいですね >>865
懐かしいけど、今さらださいと思いますw
5000と2400の通勤急行に、わざわざ乗って、
もみくちゃになった遠い日の思い出・・・ 歴史は繰り返す。方向幕のデザインがどうなるのか気になりますね。1000形のみですが、運用上作らざるを得ないでしょう。 >>882
5000は回生ブレーキもついてないし2600の廉価版ってイメージだなぁ >>896
かつて通勤急行が設定されてたのっていつ頃の話ですか
http://home.a00.itscom.net/yosan/1maicalendar/kyouno1mai11.20-3.html
このころの小田急って方向幕のバックに山とか丸の柄が入ってますがこれってなんか意味
持たせたものだったんでしようか? 急行だと赤とか、小田原線は山印とか >>989
5000は機構的に2400の大型版って感じ。
NHEの名はむしろ5000が名乗るべきだったかも。 5000は回生ないぶん扱いやすかったですよ。とくに松田〜小田原の閑散区間で。 >>901
運転士の方ですか?
なるほど技術的には未熟だったんですね。というか列車本数が少なくて他車に回生を吸収して
もらえないって話ですかね? >>902
そういうことです。いくら回生機能があっても吸収できなければ制動は不安定になり
衝動や過走の原因になります。現行車でも7000は晴天なら滑らずに電制効きますから
私は好きですが、D-ATS-Pのパターンが厳しく現場では不評な声も聞きます。 >>900
そのとおりだが、
とはいえ2600が出てきたときのデカさは
利用者にはかなりのインパクトであったらしい
私は物心ついたときから既に9000、5000が活躍してた世代なので、
逆に2400などが小さく感じられたほうですが。 LSE残り1編成か
いよいよこのスレの仲間入り秒読みだな >>898
各停用の2600形に対し5000形は急行用だったから回生ブレーキ付ける必要性薄かったのでは? 多摩線から新宿直通の急行がバンバン出るようになるとはなあ。
90年代だと新宿というか本線直通は朝の各停2本だけだったし >>873
束は103が故障しまくったことがトラウマになってむやみやたらに解体してる可能性も 98年頃に火を吹くなど故障が続いて、運輸局辺りからゴルァされたんだっけ?
次世代型の開発を待ちきれず、暫定的に209を手直しして導入 いずれはEXE(α)・VSE・MSEもここに保存するのかな >>915
歴代ロマンスカーは最低でも1輌は保存してきましたって言ってたはずだからここに保存するんじゃないかね
正直通勤特急車両のEXEは保存する価値があるのかなぁ、と思うけど >>917
どっちなんだよw
「思うんじゃねぇ」なのか、「思いますよ」なのか。 小田急ミュージアムは京王れーるランドより広いんだよね? >>919
なんかそうなると、EXEやMSEの展示場所を空けるために、
さらにNSEやSSEが1輌だけになったりしそう。 >>921
車両が増えた時に増床するか?
予定地って拡張が出来ないとかかね
あとは実際の来場者数にかかってそう ロマンスカーの車両が全廃される度にそれを展示していけばどんどん展示車両は増えるわけで
一度や二度拡張しても直ぐ狭くなってしまうよね
整理していくのは仕方がないと思うよ >>913 幕が破れたのか? 詰まらせて裏ブタを開けても種別用だから狭くて手が入りにくいのか?背の低い乗務員用に踏み台が置いてないから直せないのか? >>926
5000の種別幕は初期の電動幕だから、巻取っちゃったり、不動になることがありました。マル急掲出も多かったです。ちなみに側面は急行と準急の抜き文字を背部の照明で浮かすタイプで、9000の初期製造分まで使われました。 側面に幕で行き先表示って結構最近の話だよね
※最近=40年ぐらい前 80年代まで作ってた5000の6コテが初期のものはまだ種別だけだったね >>930
うん。第3編成まではデカデカ種別で
第4から行き先併記。2600はややこしく、
更新時期差で編成番号順じゃなかった。 側面のデカい種別幕は迫力あったな。
今の小さな字を詰め込むのと違って。 >>928
千代田線乗入れ前に種別のみの幕式に改造、1000と入れ替わりの頃に行先表示も付いた2幕式になり、都合2回改造された車両があります。
>>931
4連は最後のほうに製造されたのが、5200と同じ時期なので幕式になってます。 >>931
え、3編成だったっけ?
5555Fも種別だけだったような気がしたけど >>933
4連の63-65は前手すり、種別幕、ブレーキ排出音がまんま5200だよね。
>>934
手元資料のヤマケイの本とピク82年増刊より
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org529660.jpg
やっぱり54Fから行き先表記ありで59FからHゴム→金属押さえみたい 保育社カラーブックスだったかな、5555の側面がでかでか種別の写真があったような >>927
> 側面は急行と準急の抜き文字を背部の照明で浮かすタイプ
東急の8000系もこのタイプ(似たタイプ?)だったね
でもコチラは表示されてるのを見た記憶が無い 東急8000は東横線では不点灯のをうっすら文字なんて書いてあるか見たくらい。
80年に7連登場で急行運用に入ったときは電動幕化で赤地の【急・桜木町】になって
手動幕は6連の各停用だけしか無かったような記憶。
あとは7000の8連急行が多かったしね。
新玉線開業前の田園都市線の大井町行きで快速の電照も使ってたんだろうなと想像。 追記、小田急5000と同じで側面電照式は前面手動だからボタン制御だったわけで
前面電幕化と8090デビュー、急行に20m7連投入の時期が重なってしまったと。
幅狭の側面穴に種別を縦文字(東武10000みたいな)にして詰め込んだ電幕車が
旧電照灯具の跡地に幕ぶち込んだやつで、田都の8500中間にも入ってたよね。 小田急5200は、1〜3編成が、側面種別のみ表示。
4.5編成から行先も表示。6〜8編成は塗り床、ドア外側に指つめ防止ゴム取り付け。
9編成からは指つめ防止ゴムを細く変更、窓類からHゴム廃止。
各種の編成で、ホロの内側に「内ホロ」を取り付け試験。
5000の13〜15編成も含めて、ブレーキ排気音は
5000の原形と異なっていた。ブレーキ作用装置の変更のため。
京成3500系の増備車も同じ音がしていた。 9000の後なのに再び小田急顔に戻ってしまったのが不思議。5200。 >>944
しかも非回生抵抗制御に逆戻り、
自社線内の急行系運用メインだから回生車とする必要薄かったんだろうけど。 9000の新造費高すぎとHSC-DRのメンテ+高速域加速性
4Mの電気代等いろいろ難点多かったって。 当初から9000を必要数作ったら、増備は5000に戻る計画だったよ。
9000が高いとか、機器が複雑だとかは、のちの評価によるもの。
バランサ付き下降窓が好評だったので、増備の5000の6連口には
新たに採用したとのこと。
9000の事実上の製作終了が1974年、5000の増備再開が1976年になった理由として、
4000の脱線による緊急増備が必要になったためということもあるね。 5000の13-15にも下降窓採用すれば良かったのにな。 あまり問題にならなかったけど、小田急の9000形以降に採用された下降窓は、雨水侵入による腐食(玩鉄車)の問題はなかったの?故に8000形は安泰なの? 一応水抜きは付いてるけど、9000は腐食あって若干裾ベコを見てる。
小田急の外板は国鉄より厚いから(9000-5200は2.3mm、8000 3.2mm、国鉄1.6mm)救われた面はあって、
さらに8000では下部も完全アルミユニット化されてるんで未だ元気と。 90年代中旬ぐらいまでの駅の接近放送で
「○両編成で」って言わない頃のモノ動画サイトにある?
断片のはあるんだけど、ちゃんと最初から最後まで通しのが見つけられない >>944
当初は9000形を地上用に引き続き増備する予定だったのが、運転車両部から5000形の方が好評という意向で、5000形の6連版となったとか。
1000形も3000形導入前は最大勢力だったのも運転車両部が1000形が好評という意見から。
むしろ2000形は当初2編成しか新造予定が無かった模様だからそれこそ1000形増備で良かったのでは? 2000って発注先への関係じゃないかな。3編成づつ3社仲良く。 安藤楢六って近鉄の佐伯や名鉄の土川らに並ぶ実績の経営者だと思うけど
なぜか地味で知名度も高くないよな >>952
しれっとウソ書くな。>>947でも見ろ。 1800とLSEは数ヶ月だけ活躍時期が重なってるんだよね
並んでる写真撮った人いるかな? >>952
9000は車重が重いからなのか
ブレーキが甘いというか
5000に比べ神経使うようなことを
聞いたな。
当時は今と違いバイクでも車でも
過渡期でブレーキにしても
ジンワリだったりカッチと効いたり
車両でかなり違ったよな。
今はどんな車乗ってもカッチと効くけど。 8000と片開き車両(2200や2300)も
短期間だけど走っている時期が重なっている 組んだことはないだろうな。
初期の8000は6連ばかりだったし、末期のFM車は2+2+2で小田原急行が多かったし 2400と1000も活躍時期重なってそう
車両代替の過渡期って興味深い >>961 多摩線って旧型車の墓場だろ。新百合ヶ丘、ないし多摩線内ですれ違っているんでは? そう言えば多摩センター駅で2400が来たとき、「ボロが来た」なんて言ってた大学生位の連中がいた
2400の現役最晩年のころ >>961
1000形デビューの約1年後に2400形全廃だよ。
更にその1年後に9000形千代田線乗り入れ撤退だったな。 >>947
>>952
最初は千代田線乗り入れは準急に限定され、
当時は自社線内の急行系は発電制動でないと不利だったらしいな。
地下鉄線内では回生制動が必要となるため、
回生/電制併用の9000形なんか必要以上の増備はしたくなかったんだろうよ。
自社線内の急行系運用なら5200形が妥当だったんだろう。 >>966
当時は回生ブレーキを高速からかけると、架線電圧を押し上げてしまい、
重大な問題となることが予想された。それで当時は回生ブレーキを使った車輌は
多くなかった。2600は回生ブレーキ付きだが、あれは近郊各停用で、
高速を出さないからという条件だったのだろうと思われる。
9000は地下鉄乗り入れ用とは言え、小田原までの急行にも使うということから、
回生ブレーキにはリミッタを設け、高速時には発電制動に切り替わるようにした。 電力事情って意味では
イヘの廃車が1973年だったけ
小田急に限らず各社かなり貧弱だったよねえ 75キロで切り替わるんだよねぇ、もったいない。
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org547538.jpg
2600が90キロ位から回生掛けようとして電圧上がりすぎ「パコン!」と切れたのも懐かしい。
併結して急行に使うようになってからは減ったけどね。 >>969
回生失効が嫌われたんでしょうね。
低速域でも2600は時速40キロ、9000は25キロくらいで回生が切れてしまうので、停止寸前まで効く5000の発電ブレーキと比較すると神経使ったかもしれません。
9000も他形式と併結すると発電ブレーキだけになり、停止直前まで動作しましたけど、力行はともかく、制動はよく暴れると聞いたことがあります。
運転士さんが交代するとき、後は9000とか、後も5000だから、と引き継ぐ光景をよく見掛けました。 >>970
小田急の運転士さん(もうご定年)と仲良かったので色々話は聞いてましたが
5000ってとにかく扱いやすいという評判で、5200となり1982年まで作られたのも納得
界磁チョッパ制御の回生も安定してきた8000で技術熟すまで待ったということでしょう。
編成後ろに何が繋がってるかは運用表である程度知れるものの、共通運用があるんで
申し送りしてたのも解りますねぇ。
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org547542.jpg >>967
千代田線乗り入れ撤退後は各停運用が主だったけどな、
末期は区準運用もあった。 >>972
それは4+4の8連オールMの編成ね。
6連口のほうは、湘南急行なんかにバンバン入っていたよ。
まあしかし、9000も当時の技術で出来る限りのことをやってみた車輌では
あったのだろうと。後生になってからはなんとでも言えるだろうけど。 >>967
9000系相模大野行き急行なつかしいね
そう言えば相武台前駅なぜか止まる新宿16時41分発小田原行き急行にはなぜか9000系が必ず入っていたものなんだがあれはなんか理由があるんだろうか確か15時40分本厚木駅発の急行の折り返し 次スレが埋まるまでにここに仲間入りしそうな車両
>小田急の1000形ワイドドア車は、>>416でも書かれているように、
>90年代の朝ラッシュ時の混雑が激しく、
>高架複々線化工事も大幅に遅れていてピーク時の輸送力を増強できないため、
>1列車での輸送人員を増やす目的で91年に投入された。
>京王6000系20番台が5ドア車を投入したのに対して、
>小田急は整列乗車の観点から4ドアのままとして、
>ドアの幅を2メートルとして、
>車内の座席を減らして収納式として乗車人員を増やすことを試行した。
>結果は、収容力は向上したものの、
>ドア幅が拡大したことにより駆け込み乗車を助長させてしまい列車の遅延の発生を増やしてしまったこと、
>小田急では乗客の平均乗車距離が長く、座席の減少で着席の機会が減ったことから乗客の評判も悪くて期待したほどの効果が無く、
>収納式の座席は営業運転では一度も収納して使用されることは無かった。
>このため98年に東急車輛にてドアの幅を2メートルから 1.6メートルに狭めて、
>車内の座席の定員を増やす(収納式→通常の座席にも改造)改造工事を施工した。
>その後、2004年に3000形増備に伴う旧4000形・9000形等の置き換えに関連して、
>8両編成の2000形・3000形を優先して新宿口の各駅停車に使用して、
>8000形や1000形の4両+4両編成の運用を置き換えて、
>4両編成を急行運用などに転用するのと併せて、
>加速度が低い1000形のワイドドア車も新宿口の各駅停車の運用から外すことにしたため、
>東急車輛にて4両編成6本を6両編成4本に改造されて、急行や江ノ島線などの運用に転用された。
>(RP誌の2005年10月臨時増刊号「特集 鉄道車両年鑑2005年版」に記述あり) >>976
しかし新宿口各停に使えなくなっただけの理由で中間運転台撤去してまで組み替えなんかしなくて良かったのにな、
4年後は湯本口4連各停統一になったんだし。 もし、千代田線の三社直通が置き換え前に行われていたら、203だけでなく207-900も乗り入れ、後の209-1000も乗り入れてたかもなぁ >>978
103-1000の小田急線内「準急 本厚木」行き爆走でしょう。
非冷房だけどね。経堂のポイントガタガタさせながらの走行。見たかったなぁ。
9000のマスコンが国鉄形だったり、ブレーキ弁がME-72なのは、
それを想定してのことだし。 9000のマスコンが後年取り替えられた時には。「使命終わったな」感あったよね。 懐かしの小田急関連と言えば06系もお忘れなく。
保存すらされずに全車解体されてしまったが。 当初あさぎりに関してはRSE撤退で371系のみ継続(検査時は計画運休)とすることも検討されたが、
小田急がRSEを廃車すると小田急・御殿場線関係でグリーン車は371系のみになってしまい、
運賃計算などがややこしくなるためRSE共々引退で、MSEによる御殿場発着に変更したとか…
更に、1000形ワイドドア組み替え時はまだ5000系列は存続の予定だったから。
既に既出だが地下化後の下北沢周辺の急勾配に対応できないために5000系列が呆気なく全廃となったもの。 特急のエアコン装着遅過ぎ。
南海に四半世紀、名鉄よりも数年遅れのノロさ >>980
そして町田で、
ハマ線の混色とクロスとか…
時代があわない? 短命に終わったN8はメーカーで組み替えをしたものの、
車内は同時期にアコモ改善が行われていた5000形のような変更はされなかったので、
組み替え時点で既に通勤車の量産が再開されたら置き換える前提だったんじゃないかな。
当時は線増(特に用地回収)で通勤車量産が困難だったからね。 06系まさかこんなに早く引退となるとは思わなかったなあ 内装ボロボロの2600・旧4000・9000が30年以上使われたのに、リニューアルしてそれほど年数経過してなかった5000・5200があっさり廃車されたのはもったいなかったな 下北沢勾配云々ってホントなのか方便なのかはわからん。
一気にあれで廃車してるからなぁ 60年代後半にも戦前・終戦直後組を一気に廃車してるな このスレッドは1000を超えました。
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