青函連絡船6便 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
昭和から平成になる直前の昭和62年に国鉄はJRになり、そして昭和63年に青函トンネルと瀬戸大橋が開通して
北海道と四国が地続きになって寝台列車が直通するようになったんだったな。そして青函・宇高の両連絡船も廃止になった。
その翌年に昭和が終わり平成に。本・島直通寝台列車の瀬戸、北斗星、トワイライトエクスプレスは平成の鉄道の象徴だったが、
青函直通寝台列車は平成と共に役目を終え、次の新時代まで残ったのはサンライズとなった瀬戸(出雲)だけ。
新時代に生き残る寝台列車が日本でこの1つだけになるとはな・・。 >>897
俺は北海道方面も含めて、寝台特急は思ったより長生きできたと思ってるけど。
九州ブルトレが21世紀を迎えられるとは思ってなかったし、北斗星やトワイライトも
90年代の間に新車にならなかったことで、2010年代まで持つとは思ってなかった。
サンライズは、瀬戸より出雲の方が廃止できないのだろうなと思って見てる。 上野駅からゆうづるorはくつるに乗り、青森駅で青函連絡船に乗船。
函館駅からおおぞらorおおとりor北斗に乗るのが当時の定番だった。
北海道から東京に向かうときはその逆。
当時がなつかしい。 >>904
自分は貧乏だったので八甲田or十和田から連絡船、函館からはニセコだったな。
就職で札幌から東京に移り住んでからは帰省に道南ワイドが使えるので道内は特急に乗ったが。 >>905
俺はもっと貧乏だったので、18きっぷ片手に上野を朝イチの黒磯行き普通列車で
出発して、鈍行乗り継いで夜に青森に到着して101便か1便に乗ってたな。
でも後で計算したら、道内で夜行だけ急行に乗ったり、友人と2冊目の18きっぷ
を共同購入したりして、ワイド周遊券での旅より金が掛かっていたことが判明…。 思い出はプライスレス、とかカッコいい事言ってみるテスト 北海道は周遊券だったな。夜行急行多かったし。青函連絡船乗りに行くときは18切符だったけど
黒磯発一ノ関行の旧客あったよな。上野555発使って全部旧客で青森まで行ったこともあった >>907
思い出はいつも綺麗だけど、それだけじゃお腹が空くよな >>904
はくつる ゆうづる 顔が良かったよね
月光も同じ顔してた おいおいなんだか貧乏なやつばっかだな。
おれは北海道に行くときも東京にもどるときも飛行機だった。
ダグラスDC-8かボーイング727のどっちかだったな。
もちろんスカイメイトだけどね。 >>902
基地が西出雲だしどうしても片方消すなら瀬戸だけどね >>914
YS11は鹿児島発与論行きに乗った。
台風が近づいてる時で凄い揺れたよ。 >>917
どういたしまして。お役に立てて何よりです。
青函連絡船、それに接続するJNRもことでわからないことがあれば何なりとご質問してください。
このスレの連中は雑魚ばかりなので、私は今後も正しい青函連絡船やJNRの実話をお話していくつもりです。
ご愛読よろしくお願いいたします。 何せ、ちょっと 渡道して 乗っただけの異邦人、なんで
YSは羽田ー三宅島で乗った、台湾からの買い戻し機だった 今更ながら青函連絡船について学ぶ為の書籍を探しているのですが、
JR北海道の"青函連絡船 栄光の航跡"は最適でしょうか
他におすすめ書籍がありましたら、ご教示いただければ幸いです >>921
青函連絡船ものがたりはどうでしょうか。
宮脇俊三の文、黒岩保美さんの絵で、
子供でも分かりやすく紹介されています。
復刊ドットコムにまだ在庫があると思います。 すみません調べたら在庫切れになっていました。
Amazonや福音館書店にも復刊の在庫は無いようです。 >922-923
ご丁寧にありがとうございます
調べたら図書館に蔵書がありましたので、今度拝見してみます >>921
坂本幸四郎著「青函連絡船」が良いかと思います。
今ならヤフオクで出品ありますよ。
あとはインターネット上に勉強になるサイトがいくつかありますよ。
個人運営のサイトなのでリンクは貼りませんが。
「青函連絡船 歴史」で検索してみると良いかと。 >>925
書籍に限らずネット上でも情報収集してみます
ご教示くださりありがとうございました 年史だと、
航路沿革史(S14・30年)
五十年史(S32・50年)
青函連絡船史(S45・60年)
航跡(S53・70年)
栄光の航跡(S63・80年)
と、だいたい10年ごとに出ています。
中には入手困難なものもありますが、一般に販売されてた栄光の航跡あたりが入手しやすく
無難なように思います。
ネット上のものは、かなり思い込みによる間違いが多く、内容もこれらの本、あるいは上前純
一郎「洞爺丸はなぜ沈んだか」あたりの受け売りが多く、本で読まれたほうが確かです。 また2時過ぎだ、北海は指定だから焦らず函館までもう一眠り
船乗りさんありがとう トンネル開通記念式典を複雑な眼差しで見つめる関係者の姿が忘れられない
開業すれば自分達の仕事がなくなるから手放しで喜べない事くらいは子供心にもわかったのだ 青函トンネル開業日が青函連絡船の最終日だった。
青函トンネル一番列車に乗って、青函連絡船の最終便に同じ日に乗れた。
なぜこうなったんだろうね? >>932
不測の事態に備える意味合いもあったろうね。
全国の鉄道は繋がっているという意識はまだ残っていた。
今ならトラブルあっても「不通ですから」のひと言(他人事)で終了。
まあ、開業直前まで使っていた青森の控車とかを函館に回収する必要もあったんだけど、どうせ臨時便出すなら当日なら乗せた方が少しは稼げるし。 >>932-933
なるほどそういうことだったのか。
納得しました。 最終日、「臨時便」と言ってたものもすべて最初から計画運航で、
特別に走ったわけでもなんでもなかったんだが・・・ 青函連絡船での自動車航送は1988.3.13の前日くらいで打ち切ったんだっけ? オークションに出てくる青函連絡船の日誌類って、なんで八甲田丸のものばかりなんだろう。
八甲田丸から流出してるのかな? 今まで大事に保管していた元乗組員が亡くなったとか… 今日の朝の連ドラ「なつぞら」見た奴、ここにいるか?
昭和29年代末か30年代初頭の時代に、十勝地方に午後にいる人が
「今からここを出て、明日の朝一番の連絡船に乗る」のは不可能だと
思うのだが…。 >>943
昭和33年10月改正時のダイヤだと、準急狩勝〜アカシアで帯広1551→函館613というのがありますね。
でもそれ以前だとどうですかね… 406レ
帯広発12時台になるけど
戦前から朝一の青函連絡船に間に合っていたよ
帯広発15時台で間に合う様になったのは
1955年(昭和30年)から
https://i.imgur.com/efeWe6Z.jpg
https://i.imgur.com/n4DHNgS.jpg 調べていただき、ありがとうございます。
調べ直したら、該当シーンは昭和30年の設定なので、>>945氏の言うように
ギリギリ可能ですね。
だけど、物語の展開を見ていると該当シーンはもっと遅い時間と思う。
登場人物の一人が東京から主人公を訪ねて十勝の農場にやってきて、用件
を済ませてその日のうちにお暇するという内容だから。
農場が十勝の何処なのかという問題もあるし(帯広近郊らしいが)。 北海道を関東一都六県くらいのスケールに考えてるんだろうね。
津軽海峡(大間〜戸井)を手漕ぎ舟で渡る小説もあったくらいだし。
坂本幸四郎さんの著書で荒唐無稽さを検証する章は面白かった。 >>950
函館から大間にある家々が見えるんだっけ。
坂本さんの著書を読む前に「ありえねー」って思ったよ。
現地見ないで書いちゃったんだろうな。
それが映画になるほどのヒット作になっちゃったと。
まぁ、推理小説なんて無理や無茶がないと成立しないから。 >>951
『大間の自宅から対岸の屋根が…』だったかな。
作者は後書きかインタビューかなんかで「地図を眺めて創作意欲を掻き立てた」という。
これについて坂本さんが「●●氏が見た地図スケールはいくつなのか気になる」という突っ込みかつイヤミも痛烈でしたな。
関東でたとえれば海ほたるから木更津市街の家並みを肉眼で眺める…それより距離があるわけで。 とりあえず松前藩の舟は渡ってたんだろうけど
厳しい海峡なのは違いない、マグロが鍛えられる位の海だ 「飢餓海峡」の設定も台風の中小舟で海峡越えたんだしなあ。 問題は、洞爺丸のセットを使って、荒波のシーンを作れるかどうか…。
日本の映画のことだから、どうせ、今市な映画に決まっている。
機関室に大量の海水が侵入して、蒸気タービンが焼き付きで停止するシーンとか…。
洞爺丸の資料に基づいた再現ができるかどうか…。
じゃ、アニメで再現してみるか…。
ギンコ
「左エンジンの蒸気圧を落とすな!エンジンを止めるな!」
その後、苦しそうな音を立てながら振動していた左エンジンが煙を上げて止まってしまった。
リンクは「右エンジンは大丈夫か」と聞いてきたが、そのうちに右エンジンも煙を上げて止まってしまったという。 循環水ポンプの電動機が冠水したため、左発電機が故障し、その結果、
左エンジンの潤滑や冷却がうまく行かなくなり、故障に陥ったわけだ。
自動車のエンジンで言うなら、ラジエーターが故障してオーバーヒートで焼き付きを起こすようなもの。 90年代頃に、NHKのテレビドラマで洞爺丸事故シーンが
あったって聞いたことがあるけど…。
当時テレビを全然見てなかったからよく分からない。 エンジンの無い小舟で北海道から青森へ渡る場合
潮流で流されるの想定して、松前から下北半島目指せば可能なんでは
実際にやってみないと、何とも言えないけど
上手く潮流に乗れば、殆ど漕がずに対岸に着ける
…様な気がする 干満のタイミングによって海流も変わるから、速ければ太平洋へ流れてしまうし遅ければゆるゆると下北へ漂着するのもありえる。 50年位前になるが、青函連絡船に乗って東京に行ったな。
就航のドラの音とシャケ弁当とお風呂が懐かしい。
東京で年末、帰省するのに列車指定席が取れず12月30日の
夜行急行八甲田自由席で混んでいてしばらく立っていた。
盛岡付近で座れた。連絡船は座席で寝ていた。 50年位前になるが、青函連絡船に乗って東京に行ったな。
就航のドラの音とシャケ弁当とお風呂が懐かしい。
東京で年末、帰省するのに列車指定席が取れず12月30日の
夜行急行八甲田自由席で混んでいてしばらく立っていた。
盛岡付近で座れた。連絡船は座席で寝ていた。 >>964
晩年は続航していたのは甲便、乙便だけで、丙便のあとに貨物船が続航していたのは昭和50年代後半まで。 最盛期最大30往復 昭和47年3月(定期28往復。貨物繁忙期に限り30往復)
昭和48年8月5日 旅客輸送超過のため、有川桟橋発着の津軽丸型使用の貨物便に旅客を乗船
(有川−函館間バス輸送。後にも先にもこの1日だけ。ちなみに最大2隻合計4往復あるけど使われた便は不明)
↓
25往復 昭和53年10月?
↓
21往復 昭和57年11月
↓
17往復 昭和59年2月 有川閉鎖
↓
0往復 昭和63年3月
↓
2往復 昭和63年6月3日
↓
0往復 昭和63年9月18日(終了) 青函連絡船の終航は昭和63年3月13日で、それ以降の暫定運航は「青函連絡船」には含まれんよ。 3月は定期運行の終了=メインの運輸機能の終了ではあった。
でもアンコール運航と呼ばれた暫定だろうと、れっきとしたクルーと地上要員の方々が最後の日まで事故も無く任務をまっとうされたのだよ。
「最後は3月の1回こっきり、それ以外は認めん」の価値観もけっこうだし、3月以後の記載がない年譜・通史の書籍も実際多い。
しかし自分は涙声と長い汽笛で青森に別れを告げた回航便の姿は、最後まで青函連絡船だったと考えている。
これからも。 まあ連絡船より海峡のが便利になったが海峡廃止に新幹線で不便になった
青函フェリーは車はじめ需要あるだろうか フェリーは絶対的に料金が安いから
地元の需要がある
新幹線は料金高いから、乗る人は限られる >>969
青函間ローカル客は、所要時間より価格で移動手段を選んでいるよ。
かなり以前からそういう層からは、青函トンネルは敬遠されている。
絶対数が少ないのは確かだが。 一方、本四備讃線は快速マリンライナー無双で高速バスはないとか まあ、
青函間の客 → フェリー
遠方から道内の客 → 飛行機
物好きか、新幹線に乗ることが目的の客 → 新幹線
この住み分けはかわらないだろう。 鉄道を使うことがかえって敷居の高い贅沢に感じるとはなんてことだ…。 昔、波が高く揺れた時に乗船したことがあり
船内風呂の湯が波打っていたことがある。
床で雑魚寝してたが船酔いしかけた。 >>975
それ、冬の日本海航路なら今でもごく普通に体験可能。 >>975
晩年の青函連絡船には旅客用の風呂はなかったんだが。 「床で雑魚寝」
突っ込むとしたら、こっちじゃなかろうか >>977
50年前の青函連絡船には、普通にあったと思う。たぶん
東日本フェリーだったかも。苫小牧ー仙台便も乗っていたからね。
>>978
当時は、A・Bベットのほか、座席シートと雑魚寝できる広間が
あってね毛布・まくらも常備されていた。
指定席は取らず広間か座席で寝ていたね。
深夜も津軽海峡観るのも良かった。 >>979
A・Bベット???
そんなものはなかったぞ!
あったのは、等級制の時代の1等寝台と
モノクラス後の「青函連絡船の寝台」だ。 青函連絡船はシャワーはあったど湯船は無かったと思う
床って言うか、通称「桟敷」で、正式名称はスレの上の方に出てた筈 蒸気船に浴室なんてあったとしても雑魚寝する三等客は近寄れもせんじゃろ。 >>979
50年前の青函連絡船に旅客用の浴室はありません。
浴室は船内に3カ所ありましたが、乗組員用で旅客は使えなかった。
旅客が使えたのは、3カ所あったシャワー室のみ。
寝台は1種類だけ、50年前だったら津軽丸型の客貨船だけにあった。
そのほかはグリーン指定席(椅子席のみ、旧1等)、グリーン自由席(椅子席、
座席(じゅうたん席)、旧2等)、普通船室(椅子席、座席)。
寝台以外は毛布なし。
まくらはグリーン座席にはあった。
50年前頃の青函連絡船は、当時のフェリーと比べるとちょっとお粗末な客室
設備だった。
記憶にあるのは、青函連絡船ではなく苫仙間のフェリーでしょうね。 たとえ幼少期だろうと汽車旅行で乗ったフネと、大衆車で4or7号をはるばる走って乗ったカーフェリーか定かでないなんてあるのか。 >>983
>50年前頃の青函連絡船は、当時のフェリーと比べるとちょっとお粗末な客室
>設備だった
そりゃあ長距離フェリーと比べたらそりゃそうよ >>986
長距離フェリーと比較するまでもなく、当時並走していた東日本フェリーと比べても
相当見劣りしてたんじゃない? 今、40歳ですが小学校3年の時に青函連絡船の復活運行で羊蹄丸に乗りました。
行きは北斗星6号。小樽から倶知安までc62 ニセコに乗って、函館から青函連絡船復活運行から583のはつかりで盛岡。
って旅程でした。今でも鮮明に覚えています。多分、僕らの世代が青函連絡船を知っている最期の世代なんだろうなぁ。 >>988
6号は上りなので、もし日暮れに上野を出た3本目なら5号かな?
数泊はしたのだろうけど話題の列車を盛り込んだ濃い旅程ですな。
夏休みのプラン立てたお父上(?)も最後の機会とリキ入れたんだろうねえ。
どうかその記憶や写真を大切にしていってください。 >>987
じゃないって言われてもな
具体的に比較してくれ このスレもアスパムが見えてきたな。
はい、翼角15度。 防波堤かわしてスターボード、1岸送迎場。
右舷後方からタグが追走。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。