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☆★☆【夢】思春期の何でも語るスレ8【恋】☆★☆
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0001Ms.名無しさん
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2021/10/12(火) 22:11:42.670
           
       ,,;⊂⊃;,、 。” カッパッパー♪
       (,,,・∀・)/》
      【(つ #)o 巛 しぬこと以外はかすり傷☆
     (( (ノ ヽ)
              
0731Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 06:30:40.540
 津田に隠さなければならないこの用向は、津田がお延にないしょにしなければならない事件と、その性質の上においてよく似通っていた。
そうして津田が自分のいない留守るすに、小林がお延に何を話したかを気にするごとく、お延もまた自分のいない留守に、
お秀が津田に何を話したかを確しかと突きとめたかったのである。
 どこに引ひっかかりを拵こしらえたものかと思案した末、彼女は仕方なしに、藤井の帰りに寄ってくれたというお秀の訪問をまた問題にした。
けれども座に着いた時すでに、「先刻さっきいらしって下すったそうですが、あいにくお湯に行っていて」という言葉を、会話の口切くちきりに使った彼女が、
今度は「何か御用でもおありだったの」という質問で、それを復活させにかかった時、お秀はただ簡単に「いいえ」と答えただけで、綺麗きれいにお延を跳はねつけてしまった。
0732Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 06:30:51.140
百二十五

 お延は次に藤井から入って行こうとした。今朝けさこの叔父おじの所を訪たずねたというお秀の自白が、話しをそっちへ持って行くに都合のいい便利を与えた。
けれどもお秀の門構もんがまえは依然としてこの方面にも厳重であった。彼女は必要の起るたびに、わざわざその門の外へ出て来て、愛想よくお延に応対した。
お秀がこの叔父の世話で人となった事実は、お延にもよく知れていた。彼女が精神的にその感化を受けた点もお延に解わかっていた。
それでお延は順序としてまずこの叔父の人格やら生活やらについて、お秀の気に入りそうな言辞ことばを弄ろうさなければならなかった。
ところがお秀から見ると、それがまた一々誇張と虚偽の響きを帯びているので、彼女は真面目まじめに取り合う緒口いとくちをどこにも見出みいだす事ができないのみならず、
長く同じ筋道を辿たどって行くうちには、自然気色きしょくを悪くした様子を外に現わさなければすまなくなった。
敏捷びんしょうなお延は、相手を見縊みくびり過すぎていた事に気がつくや否や、すぐ取って返した。
するとお秀の方で、今度は岡本の事を喋々ちょうちょうし始めた。お秀対藤井とちょうど同じ関係にあるその叔父は、お延にとって大事な人であると共に、
お秀からいうと、親しみも何にも感じられない、あかの他人であった。
したがって彼女の言葉には滑すべっこい皮膚があるだけで、肝心かんじんの中味に血も肉も盛られていなかった。
それでもお延はお秀の手料理になるこのお世辞せじの返礼をさも旨うまそうに鵜呑うのみにしなければならなかった。
0733Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 06:31:01.070
 しかし再度自分の番が廻って来た時、お延は二返目の愛嬌あいきょうを手古盛てこもりに盛り返して、悪くお秀に強いるほど愚かな女ではなかった。
時機を見て器用に切り上げた彼女は、次に吉川夫人から煽あおって行こうとした。
しかし前と同じ手段を用いて、ただ賞ほめそやすだけでは、同じ不成蹟ふせいせきに陥おちいるかも知れないという恐れがあった。
そこで彼女は善悪の標準を度外に置いて、ただ夫人の名前だけを二人の間に点出して見た。そうしてその影響次第で後あとの段取をきめようと覚悟した。
0734Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 06:31:10.680
 彼女はお秀が自分の風呂の留守るすへ藤井の帰りがけに廻って来た事を知っていた。
けれども藤井へ行く前に、彼女がもうすでに吉川夫人を訪問している事にはまるで想おもい到いたらなかった。
しかも昨日きのう病院で起った波瀾はらんの結果として、彼女がわざわざそこまで足を運んでいようとは、夢にも知らなかった。
この一点にかけると、津田と同じ程度に無邪気であった彼女は、津田が小林から驚ろかされたと同じ程度に、またお秀から驚ろかされなければならなかった。
しかし驚ろかせられ方は二人共まるで違っていた。小林のは明らさまな事実の報告であった。お秀のは意味のありそうな無言であった。
無言と共に来た薄赤い彼女の顔色であった。
0735Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 06:31:20.680
 最初夫人の名前がお延の唇くちびるから洩もれた時、彼女は二人の間に一滴の霊薬が天から落されたような気がした。
彼女はすぐその効果を眼の前に眺めた。しかし不幸にしてそれは彼女にとって何の役にも立たない効果に過ぎなかった。
少くともどう利用していいか解らない効果であった。その予想外な性質は彼女をはっと思わせるだけであった。
彼女は名前を口へ出すと共に、あるいはその場ですぐ失言を謝さなければならないかしらとまで考えた。
0736Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 06:31:30.570
 すると第二の予想外が継ついで起った。お秀がちょっと顔を背そむけた様子を見た時に、お延はどうしても最初に受けた印象を改正しなければならなくなった。
血色の変化はけっして怒りのためでないという事がその時始めて解わかった。
年来陳腐ちんぷなくらい見飽みあきている単純なきまりの悪さだと評するよりほかに仕方のないこの表情は、お延をさらに驚ろかさざるを得なかった。
彼女はこの表情の意味をはっきり確かめた。しかしその意味の因よって来きたるところは、お秀の説明を待たなければまた確かめられるはずがなかった。
0737Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 06:31:39.420
 お延がどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹を接ついだように、突然話題を変化した。行ゆきがかり上じょう全然今までと関係のないその話題は、
三度目にまたお延を驚ろかせるに充分なくらい突飛とっぴであった。
けれどもお延には自信があった。彼女はすぐそれを受けて立った。
0738Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 06:31:48.630
百二十六

 お秀の口を洩れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打ったのは「愛」という言葉であった。
この陳腐ちんぷなありきたりの一語が、いかにお延の前に伏兵のような新らし味をもって起ったかは、前後の連絡を欠いて単独に突発したというのが重おもな原因に相違なかったが、
一つにはまた、そんな言葉がまだ会話の材料として、二人の間に使われていなかったからである。
0739Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 06:32:01.780
 お延に比べるとお秀は理窟りくつっぽい女であった。
けれどもそういう結論に達するまでには、多少の説明が要った。お延は自分で自分の理窟を行為の上に運んで行く女であった。
だから平生彼女の議論をしないのは、できないからではなくって、する必要がないからであった。
その代り他ひとから注つぎ込こまれた知識になると、大した貯蓄も何にもなかった。女学生時代に読み馴なれた雑誌さえ近頃は滅多めったに手にしないくらいであった。
それでいて彼女はいまだかつて自分を貧弱と認めた事がなかった。
虚栄心の強い割に、その方面の欲望があまり刺戟しげきされずにすんでいるのは、暇が乏しいからでもなく、競争の話し相手がないからでもなく、
全く自分に大した不足を感じないからであった。
0740Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 06:32:11.390
 ところがお秀は教育からしてが第一違っていた。
読書は彼女を彼女らしくするほとんどすべてであった。少なくとも、すべてでなければならないように考えさせられて来た。
書物に縁の深い叔父の藤井に教育された結果は、善悪両様の意味で、彼女の上に妙な結果を生じた。彼女は自分より書物に重きをおくようになった。
しかしいくら自分を書物より軽く見るにしたところで、自分は自分なりに、書物と独立したまんまで、活きて働らいて行かなければならなかった。
だから勢い本と自分とは離れ離れになるだけであった。それをもっと適切な言葉で云い現わすと、彼女は折々柄がらにもない議論を主張するような弊に陥おちいった。
しかし自分が議論のために議論をしているのだからつまらないと気がつくまでには、彼女の反省力から見て、まだ大分だいぶんの道程みちのりがあった。
意地の方から行くと、あまりに我がが強過ぎた。
平たく云えば、その我がつまり自分の本体であるのに、その本体に副そぐわないような理窟りくつを、わざわざ自分の尊敬する書物の中うちから引張り出して来て、
そこに書いてある言葉の力で、それを守護するのと同じ事に帰着した。自然弾丸たまを込めて打ち出すべき大砲を、
九寸五分くすんごぶの代りに、振り廻して見るような滑稽こっけいも時々は出て来なければならなかった。
0741Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 06:32:22.300
 問題ははたして或雑誌から始まった。月の発行にかかるその雑誌に発表された諸家の恋愛観を読んだお秀の質問は、
実をいうとお延にとってそれほど興味のあるものでもなかった。しかしまだ眼を通していない事実を自白した時に、彼女の好奇心が突然起った。
彼女はこの抽象的ちゅうしょうてきな問題を、どこかで自分の思い通り活かしてやろうと決心した。
0742Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 06:33:02.060
 彼女はややともすると空論に流れやすい相手の弱点をかなりよく呑のみ込んでいた。
際きわどい実際問題にこれから飛び込んで行こうとする彼女に、それほど都合つごうの悪い態度はなかった。ただ議論のために議論をされるくらいなら、
最初から取り合わない方がよっぽどましだった。それで彼女にはどうしても相手を地面の上に縛しばりつけておく必要があった。
ところが不幸にしてこの場合の相手は、最初からもう地面の上にいなかった。お秀の口にする愛は、津田の愛でも、堀の愛でも、乃至ないしお延、お秀の愛でも何でもなかった。
ただ漫然まんぜんとして空裏くうりに飛揚ひようする愛であった。したがってお延の努力は、風船玉のようなお秀の話を、まず下へ引き摺ずりおろさなければならなかった。
0743Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 06:33:13.730
 子供がすでに二人もあって、万事自分より世帯染しょたいじみているお秀が、この意味において、遥はるかに自分より着実でない事を発見した時に、
お延は口ではいはい向うのいう通りを首肯うけがいながら、腹の中では、じれったがった。「そんな言葉の先でなく、裸でいらっしゃい、実力で相撲すもうを取りますから」
と云いたくなった彼女は、どうしたらこの議論家を裸にする事ができるだろうと思案した。
0744Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 06:33:24.210
 やがてお延の胸に分別ふんべつがついた。分別とはほかでもなかった。この問題を活いかすためには、お秀を犠牲にするか、または自分を犠牲にするか、
どっちかにしなければ、とうてい思う壺つぼに入って来る訳がないという事であった。相手を犠牲にするのに困難はなかった。
ただどこからか向うの弱点を突ッ付きさえすれば、それで事は足りた。その弱点が事実であろうとも仮説的であろうとも、それはお延の意とするところではなかった。
単に自然の反応を目的にして試みる刺戟しげきに対して、真偽の吟味ぎんみなどは、要いらざる斟酌しんしゃくであった。
しかしそこにはまたそれ相応の危険もあった。お秀は怒おこるに違ちがいなかった。ところがお秀を怒らせるという事は、お延の目的であって、そうして目的でなかった。
だからお延は迷わざるを得なかった。
 最後に彼女はある時機を掴つかんで起たった。そうしてその起った時には、もう自分を犠牲にする方に決心していた。
0747Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 14:21:45.070
百二十七

「そう云われると、何と云っていいか解わからなくなるわね、あたしなんか。
津田に愛されているんだか、愛されていないんだか、自分じゃまるで夢中でいるんですもの。秀子さんは仕合せね、そこへ行くと。
最初から御自分にちゃんとした保証がついていらっしゃるんだから」
 お秀の器量望きりょうのぞみで貰もらわれた事は、津田といっしょにならない前から、お延に知れていた。
それは一般の女、ことにお延のような女にとっては、羨うらやましい事実に違ちがいなかった。
始めて津田からその話を聴きかされた時、お延はお秀を見ない先に、まず彼女に対する軽い嫉妬しっとを感じた。
中味の薄っぺらな事実に過ぎなかったという意味があとで解った時には、淡い冷笑のうちに、復讐ふくしゅうをしたような快感さえ覚えた。
それより以後、愛という問題について、お秀に対するお延の態度は、いつも軽蔑けいべつであった。それを表向おもてむきさも嬉うれしい消息ででもあるように取扱かって、
彼我ひがに共通するごとくに見せかけたのは、無論一片のお世辞せじに過ぎなかった。
もっと悪く云えば、一種の嘲弄ちょうろうであった。
0748Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 14:21:56.730
 幸いお秀はそこに気がつかなかった。そうして気がつかない訳であった。と云うのは、言葉の上はとにかく、実際に愛を体得する上において、
お秀はとてもお延の敵でなかった。猛烈に愛した経験も、生一本きいっぽんに愛された記憶ももたない彼女は、
この能力の最大限がどのくらい強く大きなものであるかという事をまだ知らずにいる女であった。それでいて夫に満足している細君であった。
知らぬが仏ほとけという諺ことわざがまさにこの場合の彼女をよく説明していた。
結婚の当時、自分の未来に夫の手で押しつけられた愛の判を、普通の証文のようなつもりで、いつまでも胸の中うちへしまい込んでいた彼女は、
お延の言葉を、その胸の中で、真面目まじめに受けるほど無邪気だったのである。
 本当に愛の実体を認めた事のないお秀は、彼女のいたずらに使う胡乱うろんな言葉を通して、鋭どいお延からよく見透みすかされたのみではなかった。
彼女は津田とお延の関係を、自分達夫婦から割り出して平気でいた。それはお延の言葉を聴きいた彼女が実際驚ろいた顔をしたのでも解った。
津田がお延を愛しているかいないかが今頃どうして問題になるのだろう。
しかもそれが細君自身の口から出るとは何事だろう。ましてそれを夫の妹の前へ出すに至っては、どこにどんな意味があるのだろう。
――これがお秀の表情であった。
0749Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 14:22:07.060
 実際お秀から見たお延は、現在の津田の愛に満足する事を知らない横着者か、さもなければ、自分が充分津田を手の中へ丸め込んでおきながら、
わざとそこに気のつかないようなふりをする、空々そらぞらしい女に過ぎなかった。彼女は「あら」と云った。
「まだその上に愛されてみたいの」
 この挨拶あいさつは平生のお延の注文通りに来た。しかし今の場合におけるお延に満足を与えるはずはなかった。
彼女はまた何とか云って、自分の意志を明らかにしなければならなかった。ところがそれを判然はっきり表現すると、
「津田があたしのほかにまだ思っている人が別にあるとするなら、あたしだってとうてい今のままで満足できる訳がないじゃありませんか」
という露骨な言葉になるよりほかに途みちはなかった。思い切って、そう打って出れば、自分で自分の計画をぶち毀こわすのと一般だと感づいた彼女は、
「だって」と云いかけたまま、そこで逡巡ためらったなり動けなくなった。
0750Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 14:22:17.620
「まだ何か不足があるの」
 こう云ったお秀は眼を集めてお延の手を見た。そこには例の指環ゆびわが遠慮なく輝やいていた。しかしお秀の鋭どい一瞥いちべつは何の影響もお延に与える事ができなかった。
指輪に対する彼女の無邪気さは昨日きのうと毫ごうも変るところがなかった。お秀は少しもどかしくなった。
「だって延子さんは仕合せじゃありませんか。欲しいものは、何でも買って貰えるし、行きたい所へは、どこへでも連れていって貰えるし――」
0751Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 14:22:26.420
「ええ。そこだけはまあ仕合せよ」
 他ひとに向って自分の仕合せと幸福を主張しなければ、わが弱味を外へ現わすようになって、不都合だとばかり考えつけて来たお延は、
平生から持ち合せの挨拶あいさつをついこの場合にも使ってしまった。そうしてまた行きつまった。芝居に行った翌日あくるひ、岡本へ行って継子と話をした時用いた言葉を、
そのまま繰り返した後で、彼女は相手のお秀であるという事に気がついた。そのお秀は「そこだけが仕合せなら、それでたくさんじゃないか」という顔つきをした。
 お延は自分がかりそめにも津田を疑っているという形迹けいせきをお秀に示したくなかった。そうかと云って、何事も知らない風を粧よそおって、
見す見すお秀から馬鹿にされるのはなお厭いやだった。したがって応対に非常な呼吸が要いった。目的地へ漕こぎつけるまでにはなかなか骨が折れると思った。
しかし彼女はとても見込のない無理な努力をしているという事には、ついに気がつかなかった。彼女はまた態度を一変した。
0752Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 14:22:36.320
百二十八

 彼女は思い切って一足飛びに飛んだ。情実に絡からまれた窮屈な云い廻し方を打ちやって、面めんと向き合ったままお秀に相見しょうけんしようとした。
その代り言葉はどうしても抽象的にならなければならなかった。それでも論戦の刺撃で、事実の面影おもかげを突きとめる方が、まだましだと彼女は思った。
「いったい一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事ができるものでしょうか」
 この質問を基点として歩を進めにかかった時、お秀はそれに対してあらかじめ準備された答を一つももっていなかった。書物と雑誌から受けた彼女の知識は、
ただ一般恋愛に関するだけで、毫ごうもこの特殊な場合に利用するに足らなかった。腹に何の貯たくわえもない彼女は、考える風をした。そうして正直に答えた。
「そりゃちょっと解らないわ」
0753Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 14:22:46.410
 お延は気の毒になった。「この人は生きた研究の材料として、堀という夫をすでにもっているではないか。その夫の婦人に対する態度も、
朝夕あさゆう傍そばにいて、見ているではないか」。お延がこう思う途端に、第二句がお秀の口から落ちた。
「解わからないはずじゃありませんか。こっちが女なんですもの」
 お延はこれも愚答だと思った。もしお秀のありのままがこうだとすれば、彼女の心の働らきの鈍さ加減が想おもいやられた。
しかしお延はすぐこの愚答を活かしにかかった。
「じゃ女の方から見たらどうでしょう。自分の夫が、自分以外の女を愛しているという事が想像できるでしょうか」
0754Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 14:22:56.030
「延子さんにはそれができないの?」と云われた時、お延はおやと思った。
「あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にいるんでしょうか」
「そりゃ大丈夫よ」とお秀はすぐ受け合った。お延は直ただちに相手の言葉を繰り返した。
「大丈夫※(感嘆符疑問符、1-8-78)」
0755Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 14:23:05.060
 疑問とも間投詞とも片のつかないその語尾は、お延にも何という意味だか解らなかった。
「大丈夫よ」
 お秀も再び同じ言葉を繰り返した。その瞬間にお延は冷笑の影をちらりとお秀の唇くちびるのあたりに認めた。しかし彼女はすぐそれを切って捨てた。
「そりゃ秀子さんは大丈夫にきまってるわ。もともと堀さんへいらっしゃる時の条件が条件ですもの」
「じゃ延子さんはどうなの。やっぱり津田に見込まれたんじゃなかったの」
「嘘うそよ。そりゃあなたの事よ」
0756Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 14:23:15.730
 お秀は急に応じなくなった。お延も獲物のない同じ脈をそれ以上掘る徒労を省はぶいた。
「いったい津田は女に関してどんな考えをもっているんでしょう」
「それは妹より奥さんの方がよく知ってるはずだわ」
 お延は叩きつけられた後あとで、自分もお秀と同じような愚問をかけた事に気がついた。
「だけど兄妹きょうだいとしての津田は、あたしより秀子さんの方によく解ってるでしょう」
「ええ、だけど、いくら解ってたって、延子さんの参考にゃならないわ」
「参考に無論なるのよ。しかしその事ならあたしだって疾とうから知ってるわ」
0757Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 14:23:29.870
 お延の鎌かまは際きわどいところで投げかけられた。お秀ははたしてかかった。
「けれども大丈夫よ。延子さんなら大丈夫よ」
「大丈夫だけれども危険あぶないのよ。どうしても秀子さんから詳しい話しを聴きかしていただかないと」
「あら、あたし何にも知らないわ」
 こういったお秀は急に赧あかくなった。それが何の羞恥しゅうちのために起ったのかは、いくら緊張したお延の神経でも揣摩しまできなかった。
しかも彼女はこの訪問の最初に、同じ現象から受けた初度しょどの記憶をまだ忘れずにいた。吉川夫人の名前を点じた時に見たその薄赧うすあかい顔と、
今彼女の面前に再現したこの赤面の間にどんな関係があるのか、それはいくら物の異同を嗅かぎ分ける事に妙を得た彼女にも見当がつかなかった。
彼女はこの場合無理にも二つのものを繋つないでみたくってたまらなかった。けれどもそれを繋ぎ合せる綱は、どこをどう探さがしたって、金輪際こんりんざい出て来っこなかった。
お延にとって最も不幸な点は、現在の自分の力に余るこの二つのものの間に、きっと或る聯絡れんらくが存在しているに相違ないという推測すいそくであった。
そうしてその聯絡が、今の彼女にとって、すこぶる重大な意味をもっているに相違ないという一種の予覚であった。
自然彼女はそこをもっと突ッついて見るよりほかに仕方がなかった。
0758Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 14:23:39.930
百二十九

 とっさの衝動に支配されたお延は、自分の口を衝ついて出る嘘うそを抑おさえる事ができなかった。
「吉川の奥さんからも伺った事があるのよ」
 こう云った時、お延は始めて自分の大胆さに気がついた。彼女はそこへとまって、冒険の結果を眺めなければならなかった。
するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながら訊きき返した。
「あら何を」
「その事よ」
「その事って、どんな事なの」
 お延にはもう後あとがなかった。お秀には先があった。
0759Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 14:23:50.950
「嘘でしょう」
「嘘じゃないのよ。津田の事よ」
 お秀は急に応じなくなった。その代り冷笑の影を締りの好い口元にわざと寄せて見せた。それが先刻さっきより著るしく目立って外へ現われた時、
お延は路を誤まって一歩深田ふかだの中へ踏み込んだような気がした。彼女に特有な負け嫌いな精神が強く働らかなかったなら、彼女はお秀の前に頭を下げて、
もう救すくいを求めていたかも知れなかった。お秀は云った。
「変ね。津田の事なんか、吉川の奥さんがお話しになる訳がないのにね。どうしたんでしょう」
「でも本当よ、秀子さん」
0760Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 14:23:59.860
 お秀は始めて声を出して笑った。
「そりゃ本当でしょうよ。誰も嘘だと思うものなんかありゃしないわ。だけどどんな事なの、いったい」
「津田の事よ」
「だから兄の何よ」
「そりゃ云えないわ。あなたの方から云って下さらなくっちゃ」
「ずいぶん無理な御注文ね。云えったって、見当けんとうがつかないんですもの」
0761Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 14:24:08.840
 お秀はどこからでもいらっしゃいという落ちつきを見せた。お延の腋わきの下から膏汗あぶらあせが流れた。彼女は突然飛びかかった。
「秀子さん、あなたは基督教信者キリストきょうしんじゃじゃありませんか」
 お秀は驚ろいた様子を現わした。
「いいえ」
「でなければ、昨日きのうのような事をおっしゃる訳がないと思いますわ」
0762Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 14:24:18.620
 昨日と今日の二人は、まるで地位を易かえたような形勢に陥おちいった。お秀はどこまでも優者の余裕を示した。
「そう。じゃそれでもいいわ。延子さんはおおかた基督教がお嫌きらいなんでしょう」
「いいえ好きなのよ。だからお願いするのよ。だから昨日のような気高けだかい心持になって、この小さいお延を憐あわれんでいただきたいのよ。
もし昨日のあたしが悪かったら、こうしてあなたの前に手を突いて詫あやまるから」
0763Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 14:24:28.720
 お延は光る宝石入の指輪を穿はめた手を、お秀の前に突いて、口で云った通り、実際に頭を下げた。
「秀子さん、どうぞ隠さずに正直にして下さい。そうしてみんな打ち明けて下さい。お延はこの通り正直にしています。この通り後悔しています」
 持前の癖を見せて、眉まゆを寄せた時、お延の細い眼から涙が膝ひざの上へ落ちた。
0764Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 14:24:39.970
「津田はあたしの夫です。あなたは津田の妹です。あなたに津田が大事なように、津田はあたしにも大事です。ただ津田のためです。
津田のために、みんな打ち明けて話して下さい。津田はあたしを愛しています。津田が妹としてあなたを愛しているように、妻としてあたしを愛しているのです。
だから津田から愛されているあたしは津田のためにすべてを知らなければならないのです。
津田から愛されているあなたもまた、津田のために万よろずをあたしに打ち明けて下さるでしょう。それが妹としてのあなたの親切です。
あなたがあたしに対する親切を、この場合お感じにならないでも、あたしはいっこう恨うらみとは思いません。
けれども兄さんとしての津田には、まだ尽して下さる親切をもっていらっしゃるでしょう。あなたがそれを充分もっていらっしゃるのは、
あなたの顔つきでよく解わかります。あなたはそんな冷刻な人ではけっしてないのです。あなたはあなたが昨日御自分でおっしゃった通り親切な方に違いないのです」
 お延がこれだけ云って、お秀の顔を見た時、彼女はそこに特別な変化を認めた。お秀は赧あかくなる代りに少し蒼白あおじろくなった。
そうして度外どはずれに急せき込こんだ調子で、お延の言葉を一刻も早く否定しなければならないという意味に取れる言葉遣づかいをした。
「あたしはまだ何にも悪い事をした覚おぼえはないんです。兄さんに対しても嫂ねえさんに対しても、もっているのは好意だけです。
悪意はちっとも有りません。どうぞ誤解のないようにして下さい」
0765Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 14:24:52.650
百三十

 お秀の言訳はお延にとって意外であった。また突然であった。その言訳がどこから出て来たのか、また何のためであるかまるで解らなかった。
お延はただはっと思った。天恵のごとく彼女の前に露出されたこの時のお秀の背後に何が潜んでいるのだろう。お延はすぐその暗闇くらやみを衝つこうとした。
三度目の嘘うそが安々と彼女の口を滑すべって出た。
「そりゃ解ってるのよ。あなたのなすった事も、あなたのなすった精神も、あたしにはちゃんと解ってるのよ。だから隠しだてをしないで、みんな打ち明けてちょうだいな。
お厭いや?」
 こう云った時、お延は出来得る限りの愛嬌あいきょうをその細い眼に湛たたえて、お秀を見た。しかし異性に対する場合の効果を予想したこの所作しょさは全く外はずれた。
お秀は驚ろかされた人のように、卒爾そつじな質問をかけた。
「延子さん、あなた今日ここへおいでになる前、病院へ行っていらしったの」
「いいえ」
「じゃどこか外ほかから廻っていらしったの」
「いいえ。宅うちからすぐ上ったの」
0766Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/20(水) 14:25:04.080
 お秀はようやく安心したらしかった。その代り後は何にも云わなかった。お延はまだ縋すがりついた手を放さなかった。
「よう、秀子さんどうぞ話してちょうだいよ」
 その時お秀の涼しい眼のうちに残酷ざんこくな光が射した。
「延子さんはずいぶん勝手な方ね。御自分独ひとり精一杯せいいっぱい愛されなくっちゃ気がすまないと見えるのね」
「無論よ。秀子さんはそうでなくっても構わないの」
「良人うちを御覧なさい」
0767Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 14:25:14.300
 お秀はすぐこう云って退のけた。お延は話頭わとうからわざと堀を追おい除のけた。
「堀さんは問題外よ。堀さんはどうでもいいとして、正直の云いいっ競くらよ。なんぼ秀子さんだって、気の多い人が好きな訳はないでしょう」
「だって自分よりほかの女は、有れども無きがごとしってような素直すなおな夫が世の中にいるはずがないじゃありませんか」
 雑誌や書物からばかり知識の供給を仰いでいたお秀は、この時突然卑近な実際家となってお延の前に現われた。お延はその矛盾を注意する暇さえなかった。
「あるわよ、あなた。なけりゃならないはずじゃありませんか、いやしくも夫と名がつく以上」
「そう、どこにそんな好い人がいるの」
0768Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 14:25:24.870
 お秀はまた冷笑の眼をお延に向けた。お延はどうしても津田という名前を大きな声で叫ぶ勇気がなかった。仕方なしに口の先で答えた。
「それがあたしの理想なの。そこまで行かなくっちゃ承知ができないの」
 お秀が実際家になった通り、お延もいつの間にか理論家に変化した。今までの二人の位地いちは顛倒てんとうした。そうして二人ともまるでそこに気がつかずに、
勢の運ぶがままに前の方へ押し流された。あとの会話は理論とも実際とも片のつかない、出たとこ勝負になった。
「いくら理想だってそりゃ駄目だめよ。その理想が実現される時は、細君以外の女という女がまるで女の資格を失ってしまわなければならないんですもの」
「しかし完全の愛はそこへ行って始めて味わわれるでしょう。そこまで行き尽さなければ、本式の愛情は生涯しょうがい経たったって、感ずる訳に行かないじゃありませんか」
「そりゃどうだか知らないけれども、あなた以外の女を女と思わないで、あなただけを世の中に存在するたった一人の女だと思うなんて事は、理性に訴えてできるはずがないでしょう」
0769Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 14:25:35.400
 お秀はとうとうあなたという字に点火した。お延はいっこう構わなかった。
「理性はどうでも、感情の上で、あたしだけをたった一人の女と思っていてくれれば、それでいいんです」
「あなただけを女と思えとおっしゃるのね。そりゃ解わかるわ。けれどもほかの女を女と思っちゃいけないとなるとまるで自殺と同じ事よ。
もしほかの女を女と思わずにいられるくらいな夫なら、肝心かんじんのあなただって、やッぱり女とは思わないでしょう。自分の宅うちの庭に咲いた花だけが本当の花で、
世間にあるのは花じゃない枯草だというのと同じ事ですもの」
「枯草でいいと思いますわ」
「あなたにはいいでしょう。けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちで、
あなたが一番好かれている方が、嫂ねえさんにとってもかえって満足じゃありませんか。それが本当に愛されているという意味なんですもの」
「あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの。比較なんか始めから嫌きらいなんだから」
0770Ms.名無しさん
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2021/10/20(水) 14:25:44.770
 お秀の顔に軽蔑けいべつの色が現われた。その奥には何という理解力に乏しい女だろうという意味がありありと見透みすかされた。お延はむらむらとした。
「あたしはどうせ馬鹿だから理窟りくつなんか解らないのよ」
「ただ実例をお見せになるだけなの。その方が結構だわね」
 お秀は冷然として話を切り上げた。お延は胸の奥で地団太じだんだを踏んだ。せっかくの努力はこれ以上何物をも彼女に与える事ができなかった。
留守るすに彼女を待つ津田の手紙が来ているとも知らない彼女は、そのまま堀の家を出た。
0771Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 06:57:46.100
百三十一

 お延とお秀が対坐たいざして戦っている間に、病院では病院なりに、また独立した予定の事件が進行した。
 津田の待ち受けた吉川夫人がそこへ顔を出したのは、お延宛あてで書いた手紙を持たせてやった車夫がまだ帰って来ないうちで、時間からいうと、
ちょうど小林の出て行った十分ほど後あとであった。
 彼は看護婦の口から夫人の名前を聴きいた時、この異人種いじんしゅに近い二人が、狭い室へやで鉢合はちあわせをしずにすんだ好都合こうつごうを、
何より先にまず祝福した。その時の彼はこの都合をつけるために払うべく余儀なくされた物質上の犠牲をほとんど顧みる暇さえなかった。
 彼は夫人の姿を見るや否や、すぐ床の上に起き返ろうとした。夫人は立ちながら、それを止とめた。そうして彼女を案内した看護婦の両手に、
抱えるようにして持たせた植木鉢うえきばちをちょっとふり返って見て、「どこへ置きましょう」と相談するように訊きいた。
津田は看護婦の白い胸に映る紅葉もみじの色を美くしく眺めた。小さい鉢の中で、窮屈そうに三本の幹が調子を揃そろえて並んでいる下に、
恰好かっこうの好い手頃な石さえあしらったその盆栽ぼんさいが床とこの間まの上に置かれた後で、夫人は始めて席に着いた。
「どうです」
0772Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 06:57:57.080
 先刻さっきから彼女の様子を見ていた津田は、この時始めて彼に対する夫人の態度を確かめる事ができた。もしやと思って、
暗あんに心配していた彼の掛念けねんの半分は、この一語いちごで吹き晴らされたと同じ事であった。夫人はいつもほど陽気ではなかった。
その代りいつもほど上うわっ調子ちょうしでもなかった。要するに彼女は、津田がいまだかつて彼女において発見しなかった一種の気分で、彼の室に入って来たらしかった。
それは一方で彼女の落ちつきを極度に示していると共に、他方では彼女の鷹揚おうようさをやはり最高度に現わすものらしく見えた。
津田は少し驚ろかされた。しかし好い意味で驚ろかされただけに、気味も悪くしなければならなかった。たといこの態度が、彼に対する反感を代表していないにせよ、
その奥には何があるか解らなかった。今その奥に恐るべき何物がないにしても、これから先話をしているうちに、向うの心持はどう変化して来るか解らなかった。
津田は他ひとから機嫌きげんを取られつけている夫人の常として、手前勝手にいくらでも変って行く、もしくは変って行っても差支さしつかえないと自分で許している、
この夫人を、一種の意味で、女性の暴君と奉たてまつらなければならない地位にあった。
漢語でいうと彼女の一顰一笑いっぴんいっしょうが津田にはことごとく問題になった。この際の彼にはことにそうであった。
「今朝けさ秀子さんがいらしってね」
 お秀の訪問はまず第一の議事のごとくに彼女の口から投げ出された。津田は固もとより相手に応じなければならなかった。
そうしてその応じ方は夫人の来ない前からもう考えていた。彼はお秀の夫人を尋ねた事を知って、知らない風をするつもりであった。
誰から聴いたと問われた場合に、小林の名を出すのが厭いやだったからである。
「へえ、そうですか。平生あんまり御無沙汰ごぶさたをしているので、たまにはお詫わびに上らないと悪いとでも思ったのでしょう」
「いえそうじゃないの」
0773Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 06:58:06.970
 津田は夫人の言葉を聴きいた後で、すぐ次の嘘うそを出した。
「しかしあいつに用のある訳もないでしょう」
「ところがあったんです」
「へええ」
0774Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 06:58:29.290
 津田はこう云ったなりその後あとを待った。
「何の用だかあてて御覧なさい」
 津田は空そらっ惚とぼけて、考える真似まねをした。
「そうですね、お秀の用事というと、――さあ何でしょうかしら」
「分りませんか」
「ちょっとどうも。――元来私とお秀とは兄妹きょうだいでいながら、だいぶん質たちが違いますから」
0775Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 06:58:39.940
 津田はここで余計な兄妹関係をわざと仄ほのめかした。それは事の来くる前に、自分を遠くから弁護しておくためであった。
それから自分の言葉を、夫人がどう受けてくれるか、その反響をちょっと聴いてみるためであった。
「少し理窟りくつッぽいのね」
 この一語を聞くや否や、津田は得えたり賢かしこしと虚きょにつけ込んだ。
「あいつの理窟と来たら、兄の私でさえ悩まされるくらいですもの。誰だって、とてもおとなしく辛抱して聴きいていられたものじゃございません。
だから私はあいつと喧嘩けんかをすると、いつでも好い加減にして投げてしまいます。するとあいつは好い気になって、
勝ったつもりか何かで、自分の都合の好い事ばかりを方々へ行って触れ散らかすのです」
0776Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 06:59:04.990
 夫人は微笑した。津田はそれを確かに自分の方に同情をもった微笑と解釈する事ができた。すると夫人の言葉が、かえって彼の思わくとは逆の見当けんとうを向いて出た。
「まさかそうでもないでしょうけれどもね。――しかしなかなか筋の通った好い頭をもった方じゃありませんか。あたしあの方かたは好すきよ」
 津田は苦笑した。
「そりゃお宅なんぞへ上って、むやみに地金じがねを出すほどの馬鹿でもないでしょうがね」
「いえ正直よ、秀子さんの方が」
 誰よりお秀が正直なのか、夫人は説明しなかった。
0777Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 06:59:16.910
百三十二

 津田の好奇心は動いた。想像もほぼついた。けれどもそこへ折れ曲って行く事は彼の主意に背そむいた。彼はただ夫人対お秀の関係を掘り返せばよかった。
病気見舞を兼た夫人の用向ようむきも、無論それについての懇談にきまっていた。けれども彼女にはまた彼女に特有な趣おもむきがあった。
時間に制限のない彼女は、頼まれるまでもなく、機会さえあれば、他ひとの内輪に首を突ッ込んで、なにかと眼下めした、ことに自分の気に入った眼下の世話を焼きたがる代りに、
到いたるところでまた道楽本位の本性を露あらわして平気であった。或時の彼女はむやみに急せいて事を纏まとめようとあせった。そうかと思うと、
ある時の彼女は、また正反対であった。わざわざべんべんと引ッ張るところに、さも興味でもあるらしい様子を見せてすましていた。
鼠ねずみを弄もてあそぶ猫のようなこの時の彼女の態度が、たとい傍はたから見てどうあろうとも、
自分では、閑散な時間に曲折した波瀾はらんを与えるために必要な優者の特権だと解釈しているらしかった。
この手にかかった時の相手には、何よりも辛防しんぼうが大切であった。その代り辛防をし抜いた御礼はきっと来た。
また来る事をもって彼女は相手を奨励した。のみならずそれを自分の倫理上の誇りとした。彼女と津田の間に取り換わされたこの黙契もっけいのために、
津田の蒙こうむった重大な損失が、今までにたった一つあった。その点で彼女が腹の中でいかに彼に対する責任を感じているかは、
怜俐れいりな津田の見逃みのがすところでなかった。何事にも夫人の御意ぎょいを主眼に置いて行動する彼といえども、暗あんにこの強味だけは恃たのみにしていた。
しかしそれはいざという万一の場合に保留された彼の利器に過ぎなかった。平生の彼は甘んじて猫の前の鼠となって、先方の思う通りにじゃらされていなければならなかった。
この際の夫人もなかなか要点へ来る前に時間を費やした。
0778Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 06:59:37.710
「昨日きのう秀子さんが来たでしょう。ここへ」
「ええ。参りました」
「延子さんも来たでしょう」
「ええ」
「今日は?」
「今日はまだ参りません」
「今にいらっしゃるんでしょう」
 津田にはどうだか分らなかった。先刻さっき来るなという手紙を出した事も、夫人の前では云えなかった。返事を受け取らなかった勝手違も、実は気にかかっていた。
「どうですかしら」
「いらっしゃるか、いらっしゃらないか分らないの」
「ええ、よく分りません。多分来ないだろうとは思うんですが」
「大変冷淡じゃありませんか」
 夫人は嘲あざけるような笑い方をした。
「私がですか」
「いいえ、両方がよ」
0779Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 06:59:48.070
 苦笑した津田が口を閉じるのを待って、夫人の方で口を開いた。
「延子さんと秀子さんは昨日きのうここで落ち合ったでしょう」
「ええ」
「それから何かあったのね、変な事が」
「別に……」
「空そらッ惚とぼけちゃいけません。あったらあったと、判然はっきりおっしゃいな、男らしく」
0780Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 06:59:57.270
 夫人はようやく持前の言葉遣づかいと特色とを、発揮し出した。津田は挨拶あいさつに困った。黙って少し様子を見るよりほかに仕方がないと思った。
「秀子さんをさんざん苛いじめたって云うじゃありませんか。二人して」
「そんな事があるものですか。お秀の方が怒ってぷんぷん腹を立てて帰って行ったのです」
「そう。しかし喧嘩けんかはしたでしょう。喧嘩といったって殴なぐり合あいじゃないけれども」
「それだってお秀のいうような大袈裟おおげさなものじゃないんです」
「かも知れないけれども、多少にしろ有ったには有ったんですね」
「そりゃちょっとした行違いきちがいならございました」
「その時あなた方は二人がかりで秀子さんを苛いじめたでしょう」
0781Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 07:00:07.230
「苛めやしません。あいつが耶蘇教ヤソきょうのような気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんを吐はいただけです」
「とにかくあなたがたは二人、向うは一人だったに違ちがいないでしょう」
「そりゃそうかも知れません」
「それ御覧なさい。それが悪いじゃありませんか」
 夫人の断定には意味も理窟りくつもなかった。したがってどこが悪いんだか津田にはいっこう通じなかった。
けれどもこういう場合にこんな風になって出て来る夫人の特色は、けっして逆さからえないものとして、もう津田の頭に叩たたき込まれていた。
素直すなおに叱られているよりほかに彼の途みちはなかった。
「そういうつもりでもなかったんですけれども、自然の勢いきおいで、いつかそうなってしまったんでしょう」
「でしょうじゃいけません。ですと判然はっきりおっしゃい。いったいこういうと失礼なようですが、あなたがあんまり延子さんを大事になさり過ぎるからよ」
 津田は首を傾けた。
0782Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 07:00:17.140
百三十三

 怜俐れいりな性分に似合わず夫人対お延の関係は津田によく呑のみ込めていなかった。夫人に津田の手前があるように、お延にも津田におく気兼きがねがあったので、
それが真向まともに双方を了解できる聡明そうめいな彼の頭を曇らせる原因になった。女の挨拶あいさつに相当の割引をして見る彼も、そこにはつい気がつかなかったため、
彼は自分の前でする夫人のお延評を真まに受けると同時に、自分の耳に聴きこえるお延の夫人評もまた疑がわなかった。そうしてその評は双方共に美くしいものであった。
 二人の女性が二人だけで心の内に感じ合いながら、今までそれを外に現わすまいとのみ力つとめて来た微妙な軋轢あつれきが、必然の要求に逼せまられて、
しだいしだいに晴れ渡る靄もやのように、津田の前に展開されなければならなくなったのはこの時であった。
 津田は夫人に向って云った。
0783Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 07:00:26.080
「別段大事にするほどの女房でもありませんから、その辺の御心配は御無用です」
「いいえそうでないようですよ。世間じゃみんなそう思ってますよ」
 世間という仰山ぎょうさんな言葉が津田を驚ろかせた。夫人は仕方なしに説明した。
「世間って、みんなの事よ」
0784Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 07:00:34.960
 津田にはそのみんなさえ明暸めいりょうに意識する事ができなかった。しかし世間だのみんなだのという誇張した言葉を強める夫人の意味は、
けっして推察に困難なものではなかった。彼女はどうしてもその点を津田の頭に叩たたき込もうとするつもりらしかった。津田はわざと笑って見せた。
「みんなって、お秀の事なんでしょう」
「秀子さんは無論そのうちの一人よ」
「そのうちの一人でそうしてまた代表者なんでしょう」
「かも知れないわ」
0785Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 07:00:43.630
 津田は再び大きな声を出して笑った。しかし笑った後ですぐ気がついた。悪い結果になって夫人の上に反響して来たその笑いはもう取り返せなかった。
文句を云わずに伏罪ふくざいする事の便宜べんぎを悟った彼は、たちまち容かたちを改ためた。
「とにかくこれからよく気をつけます」
 しかし夫人はそれでもまだ満足しなかった。
「秀子さんばかりだと思うと間違いですよ。あなたの叔父さんや叔母さんも、同おんなじ考えなんだからそのつもりでいらっしゃい」
「はあそうですか」
0786Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 07:00:52.780
 藤井夫婦の消息が、お秀の口から夫人に伝えられたのも明らかであった。
「ほかにもまだあるんです」と夫人がまた付け加えた。津田はただ「はあ」と云って相手の顔を見た拍子ひょうしに、彼の予期した通りの言葉がすぐ彼女の口から洩もれた。
「実を云うと、私も皆さんと同なじ意見ですよ」
 権威ででもあるような調子で、最後にこう云った夫人の前に、彼はもちろん反抗の声を揚げる勇気を出す必要を認めなかった。
しかし腹の中では同時に妙な思おもわく違ちがいに想おもいいたった。彼は疑った。
「何でこの人が急にこんな態度になったのだろう。自分のお延を鄭重ていちょうに取扱い過ぎるのが悪いといって非難する上に、
お延自身をもその非難のうちに含めているのではなかろうか」
0787Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 07:01:02.670
 この疑いは津田にとって全く新らしいものであった。夫人の本意に到着する想像上の過程を描き出す事さえ彼には困難なくらい新らしいものであった。
彼はこの疑問に立ち向う前に、まだ自分の頭の中に残っている一つの質問を掛けた。
「岡本さんでも、そんな評判があるんでしょうか」
「岡本は別よ。岡本の事なんか私の関係するところじゃありません」
 夫人がすましてこう云い切った時、津田は思わずおやと思った。「じゃ岡本とあなたの方は別っこだったんですか」という次の問が、自然の順序として、
彼の咽喉のどまで出かかった。
 実を云うと、彼は「世間」の取沙汰通とりざたどおり、お延を大事にするのではなかった。誤解交ごかいまじりのこの評判が、どこからどうして起ったかを、
他ひとに説明しようとすれば、ずいぶん複雑な手数てすうがかかるにしても、彼の頭の中にはちゃんとした明晰めいせきな観念があって、
それを一々掌たなごころに指さす事のできるほどに、事実の縞柄しまがらは解っていた。
 第一の責任者はお延その人であった。自分がどのくらい津田から可愛がられ、また津田をどのくらい自由にしているかを、最も曲折の多い角度で、
あらゆる方面に反射させる手際をいたるところに発揮して憚はばからないものは彼女に違ちがいなかった。第二の責任者はお秀であった。すでに一種の誇張がある彼女の眼を、
一種の嫉妬しっとが手伝って染めた。その嫉妬がどこから出て来るのか津田は知らなかった。結婚後始めて小姑こじゅうとという意味を悟った彼は、
せっかく悟った意味を、解釈のできないために持て余した。第三の責任者は藤井の叔父夫婦であった。ここには誇張も嫉妬しっともない代りに、
浮華ふかに対する嫌悪けんおがあまり強く働らき過ぎた。だから結果はやはり誤解と同じ事に帰着した。
0788Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 07:01:12.970
百三十四

 津田にはこの誤解を誤解として通しておく特別な理由があった。そうしてその理由はすでに小林の看破かんぱした通りであった。
だから彼はこの誤解から生じやすい岡本の好意を、できるだけ自分の便宜べんぎになるように保留しようと試みた。お延を鄭寧ていねいに取扱うのは、
つまり岡本家の機嫌きげんを取るのと同じ事で、その岡本と吉川とは、兄弟同様に親しい間柄である以上、彼の未来は、お延を大事にすればするほど確かになって来る道理であった。
利害の論理ロジックに抜目のない機敏さを誇りとする彼は、吉川夫妻が表向おもてむきの媒妁人ばいしゃくにんとして、自分達二人の結婚に関係してくれた事実を、
単なる名誉として喜こぶほどの馬鹿ではなかった。彼はそこに名誉以外の重大な意味を認めたのである。
 しかしこれはむしろ一般的の内情に過ぎなかった。もう一皮剥むいて奥へ入ると、底にはまだ底があった。
津田と吉川夫人とは、事件がここへ来るまでに、他人の関知しない因果いんがでもう結びつけられていた。彼らにだけ特有な内外の曲折を経過して来た彼らは、
他人より少し複雑な眼をもって、半年前に成立したこの新らしい関係を眺めなければならなかった。
 有体ありていにいうと、お延と結婚する前の津田は一人の女を愛していた。そうしてその女を愛させるように仕向けたものは吉川夫人であった。世話好な夫人は、
この若い二人を喰っつけるような、また引き離すような閑手段かんしゅだんを縦ほしいままに弄ろうして、そのたびにまごまごしたり、
または逆のぼせ上あがったりする二人を眼の前に見て楽しんだ。けれども津田は固く夫人の親切を信じて疑がわなかった。
夫人も最後に来きたるべき二人の運命を断言して憚はばからなかった。のみならず時機の熟したところを見計って、二人を永久に握手させようと企てた。
ところがいざという間際になって、夫人の自信はみごとに鼻柱を挫くじかれた。津田の高慢も助かるはずはなかった。夫人の自信と共に一棒に撲殺ぼくさつされた。
肝心かんじんの鳥はふいと逃げたぎり、ついに夫人の手に戻って来なかった。
0789Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 07:01:21.990
 夫人は津田を責めた。津田は夫人を責めた。夫人は責任を感じた。しかし津田は感じなかった。彼は今日きょうまでその意味が解らずに、
まだ五里霧中に彷徨ほうこうしていた。そこへお延の結婚問題が起った。夫人は再び第二の恋愛事件に関係すべく立ち上った。
そうして夫と共に、表向おもてむきの媒妁人として、綺麗きれいな段落をそこへつけた。
 その時の夫人の様子を細こまかに観察した津田はなるほどと思った。
0790Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 07:01:37.630
「おれに対する賠償ばいしょうの心持だな」
 彼はこう考えた。彼は未来の方針を大体の上においてこの心持から割り出そうとした。お延と仲善なかよく暮す事は、夫人に対する義務の一端だと思い込んだ。
喧嘩けんかさえしなければ、自分の未来に間違はあるまいという鑑定さえ下した。
0791Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 07:01:46.260
 こういう心得に万ばん遺※(「竹かんむり/弄」、第3水準1-89-64)いさんのあるはずはないと初手しょてからきめてかかって吉川夫人に対している津田が、
たとい遠廻しにでもお延を非難する相手の匂においを嗅かぎ出した以上、おやと思うのは当然であった。彼は夫人に気に入るように自分の立場を改める前に、
まず確かめる必要があった。
「私がお延を大事にし過ぎるのが悪いとおっしゃるほかに、お延自身に何か欠点でもあるなら、御遠慮なく忠告していただきたいと思います」
「実はそれで上ったのよ、今日は」
0792Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 07:01:55.730
 この言葉を聴きいた時、津田の胸は夫人の口から何が出て来るかの好奇心に充みちた。夫人は語を継ついだ。
「これは私あたしでないと面めんと向って誰もあなたに云えない事だと思うから云いますがね。――お秀さんに智慧ちえをつけられて来たと思っては困りますよ。
また後でお秀さんに迷惑をかけるようだと、私がすまない事になるんだから、よござんすか。そりゃお秀さんもその事でわざわざ来たには違ちがいないのよ。
しかし主意は少し違うんです。お秀さんは重おもに京都の方を心配しているの。無論京都はあなたから云えばお父さんだから、けっして疎略にはできますまい。
ことに良人うちでもああしてお父さんにあなたの世話を頼まれていて見ると、黙って放ほうってもおく訳にも行かないでしょう。
けれどもね、つまりそっちは枝で、根は別にあるんだから、私は根から先へ療治した方が遥はるかに有効だと思うんです。
でないと今度こんだのような行違いきちがいがまたきっと出て来ますよ。ただ出て来るだけならよござんすけれども、そのたんびにお秀さんがやって来るようだと、
私も口を利きくのに骨が折れるだけですからね」
 夫人のいう禍わざわいの根というのはたしかにお延の事に違なかった。ではその根をどうして療治しようというのか。肉体上の病気でもない以上、
離別か別居を除いて療治という言葉はたやすく使えるものでもないのにと津田は考えた。
0794Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:10:01.200
百三十五

 津田はやむをえず訊きいた。
「要するにどうしたらいいんです」
 夫人はこの子供らしい質問の前に母らしい得意の色を見せた。けれどもすぐ要点へは来なかった。彼女はそこだと云わぬばかりにただ微笑した。
「いったいあなたは延子さんをどう思っていらっしゃるの」
0795Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:10:14.380
 同じ問が同じ言葉で昨日きのうかけられた時、お秀に何と答えたかを津田は思い出した。彼は夫人に対する特別な返事を用意しておかなかった。
その代り何とでも答えられる自由な地位にあった。腹蔵ふくぞうのないところをいうと、どうなりとあなたの好きなお返事を致しますというのが彼の胸中であった。
けれども夫人の頭にあるその好きな返事は、全く彼の想像のほかにあった。彼はへどもどするうちににやにやした。勢い夫人は一歩前へ進んで来る事になった。
「あなたは延子さんを可愛がっていらっしゃるでしょう」
 ここでも津田の備えは手薄であった。彼は冗談半分じょうだんはんぶんに夫人をあしらう事なら幾通いくとおりでもできた。しかし真面目まじめに改まった、
責任のある答を、夫人の気に入るような形で与えようとすると、その答はけっしてそうすらすら出て来なかった。彼にとって最も都合の好い事で、また最も都合の悪い事は、
どっちにでも自由に答えられる彼の心の状態であった。というのは、事実彼はお延を愛してもいたし、またそんなに愛してもいなかったからである。
 夫人はいよいよ真剣らしく構えた。そうして三度目の質問をのっぴきさせぬ調子で掛けた。
0796Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:10:23.030
「私あたしとあなただけの間の秘密にしておくから正直に云っとしまいなさい。私の聴ききたいのは何でもないんです。
ただあなたの思った通りのところを一口伺えばそれでいいんです」
 見当けんとうの立たない津田はいよいよ迷まごついた。夫人は云った。
「あなたもずいぶんじれったい方かたね。云える事は男らしく、さっさと云っちまったらいいでしょう。そんなむずかしい事を誰も訊きいていやしないんだから」
0797Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:10:32.100
 津田はとうとう口を開くべく余儀なくされた。
「お返事ができない訳でもありませんけれども、あんまり問題が漠然ばくぜんとしているものですから……」
「じゃ仕方がないから私の方で云いましょうか。よござんすか」
「どうぞそう願います」
「あなたは」と云いかけた夫人はこの時ちょっと言葉を切ってまた継ついだ。
「本当によござんすか。――あたしはこういう無遠慮な性分しょうぶんだから、よく自分の思ったままをずばずば云っちまった後あとで、
取り返しのつかない事をしたと後悔する場合がよくあるんですが」
0798Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:10:41.660
「なに構いません」
「でももしか、あなたに怒られるとそれっきりですからね。後でいくら詫あやまっても追おっつかないなんて馬鹿はしたくありませんもの」
「しかし私の方で何とも思わなければそれでいいでしょう」
「そこさえ確かなら無論いいのよ」
「大丈夫です。偽うそだろうが本当だろうが、奥さんのおっしゃる事ならけっして腹は立てませんから、遠慮なさらずに云って下さい」
 すべての責任を向うに背負しょわせてしまう方が遥はるかに楽だと考えた津田は、こう受け合った後で、催促するように夫人を見た。
何度となく駄目だめを押して保険をつけた夫人はその時ようやく口を開いた。
「もし間違ったら御免遊ばせよ。あなたはみんなが考えている通り、腹の中ではそれほど延子さんを大事にしていらっしゃらないでしょう。
秀子さんと違って、あたしは疾とうからそう睨にらんでいるんですが、どうです、あたしの観測はあたりませんかね」
0799Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:10:51.570
 津田は何ともなかった。
「無論です。だから先刻さっき申し上げたじゃありませんか。そんなにお延を大事にしちゃいませんて」
「しかしそれは御挨拶ごあいさつにおっしゃっただけね」
「いいえ私は本当のところを云ったつもりです」
 夫人は断々乎だんだんことして首肯うけがわなかった。
「ごまかしっこなしよ。じゃ後あとを云ってもよござんすか」
「ええどうぞ」
「あなたは延子さんをそれほど大事にしていらっしゃらないくせに、表ではいかにも大事にしているように、他ひとから思われよう思われようとかかっているじゃありませんか」
「お延がそんな事でも云ったんですか」
「いいえ」と夫人はきっぱり否定した。「あなたが云ってるだけよ。あなたの様子なり態度なりがそれだけの事をちゃんとあたしに解るようにして下さるだけよ」
0800Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:11:01.630
 夫人はそこでちょっと休んだ。それから後を付けた。
「どうですあたったでしょう。あたしはあなたがなぜそんな体裁ていさいを作っているんだか、その原因までちゃんと知ってるんですよ」
0801Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:11:12.540
百三十六

 津田は今日までこういう種類の言葉をまだ夫人の口から聴きいた事がなかった。自分達夫婦の仲を、夫人が裏側からどんな眼で観察しているだろうという問題について、
さほど神経を遣つかっていなかった彼は、ようやくそこに気がついた。そんならそうと早く注意してくれればいいのにと思いながら、
彼はとにかく夫人の鑑定なり料簡りょうけんなりをおとなしく結末まで聴くのが上分別じょうふんべつだと考えた。
「どうぞ御遠慮なく何でもみんな云って下さい。私の向後こうごの心得にもなる事ですから」
 途中まで来た夫人は、たとい津田から誘われないでも、もうそこで止とまる訳に行かないので、すぐ残りのものを津田の前に投げ出した。
「あなたは良人うちや岡本の手前があるので、それであんなに延子さんを大事になさるんでしょう。もっと露骨なのがお望みなら、まだ露骨にだって云えますよ。
あなたは表向おもてむき延子さんを大事にするような風をなさるのね、内側はそれほどでなくっても。そうでしょう」
0802Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:11:21.400
 津田は相手の観察が真逆まさかこれほど皮肉な点まで切り込んで来ていようとは思わなかった
「私の性質なり態度なりが奥さんにそう見えますか」
「見えますよ」
 津田は一刀ひとかたなで斬られたと同じ事であった。彼は斬られた後あとでその理由を訊きいた。
「どうして? どうしてそう見えるんですか」
「隠さないでもいいじゃありませんか」
「別に隠すつもりでもないんですが……」
0803Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:11:29.690
 夫人は自分の推定が十の十まであたったと信じてかかった。心の中うちでその六だけを首肯うけがった津田の挨拶あいさつは、
自然どこかに曖昧あいまいな節ふしを残さなければならなかった。それがこの場合誤解の種になるのは見やすい道理であった。
夫人はどこまでも同じ言葉を繰り返して、津田を自分の好きな方角へのみ追い込んだ。
「隠しちゃ駄目よ。あなたが隠すと後が云えなくなるだけだから」
 津田は是非その後を聴きたかった。その後を聴こうとすれば、夫人の認定を一から十まで承知するよりほかに仕方がなかった。
夫人は「それ御覧なさい」と津田をやりこめた後で歩を進めた。
「あなたにはてんから誤解があるのよ。あなたは私わたしを良人うちといっしょに見ているんでしょう。それから良人と岡本をまたいっしょに見ているんでしょう。
それが大間違よ。岡本と良人をいっしょに見るのはまだしも、私を良人や岡本といっしょにするのはおかしいじゃありませんか、この事件について。
学問をした方にも似合わないのねあなたも、そんなところへ行くと」
0804Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:11:38.510
 津田はようやく夫人の立場を知る事ができた。しかしその立場の位置及びそれが自分に対してどんな関係になっているのかまだ解らなかった。夫人は云った。
「解り切ってるじゃありませんか。私だけはあなたと特別の関係があるんですもの」
 特別の関係という言葉のうちに、どんな内容が盛られているか、津田にはよく解った。しかしそれは目下の問題ではなかった。なぜと云えば、
その特別な関係をよく呑のみ込んでいればこそ、今日こんにちまでの自分の行動にも、それ相当な一種の色と調子を与えて来たつもりだと彼は信じていたのだから。
この特別な関係が夫人をどう支配しているか、そこをもっと明らかに突きとめたところに、新らしい問題は始めて起るのだと気がついた彼は、
ただ自分の誤解を認めるだけではすまされなかった。
 夫人は一口に云い払った。
「私はあなたの同情者よ」
0805Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:11:48.700
 津田は答えた。
「それは今までついぞ疑うたぐって見た例ためしもありません。私わたくしは信じ切っています。そうしてその点で深くあなたに感謝しているものです。
しかしどういう意味で? どういう意味で同情者になって下さるつもりなんですか、この場合。私は迂濶うかつものだから奥さんの意味がよく呑のみ込めません。
だからもっと判然はっきり話して下さい」
「この場合に同情者として私わたしがあなたにして上げる事がただ一つあると思うんです。しかしあなたは多分――」
 夫人はこれだけ云って津田の顔を見た。津田はまた焦じらされるのかと思った。しかしそうでないと断言した夫人の問は急に変った。
「私の云う事を聴ききますか、聴きませんか」
0806Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:11:58.620
 津田にはまだ常識が残っていた。彼はここへ押しつめられた何人なんびとも考えなければならない事を考えた。しかし考えた通りを夫人の前で公然明言する勇気はなかった。
勢い彼の態度は煮え切らないものであった。聴くとも聴かないとも云いかねた彼は躊躇ちゅうちょした。
「まあ云って見て下さい」
「まあじゃいけません。あなたがもっと判切はっきりしなくっちゃ、私だって云う気にはなれません」
「だけれども――」
「だけれどもでも駄目だめよ。聴きますと男らしく云わなくっちゃ」
0807Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:12:16.220
百三十七

 どんな注文が夫人の口から出るか見当けんとうのつかない津田は、ひそかに恐れた。受け合った後で撤回しなければならないような窮地に陥おちいればそれぎりであった。
彼はその場合の夫人を想像してみた。地位から云っても、性質から見ても、また彼に対する特別な関係から判断しても、夫人はけっして彼を赦ゆるす人ではなかった。
永久夫人の前に赦ゆるされない彼は、あたかも蘇生の活手段を奪われた仮死の形骸けいがいと一般であった。
用心深い彼は生還の望のぞみの確しかとしない危地に入り込む勇気をもたなかった。
 その上普通の人と違って夫人はどんな難題を持ち出すか解らなかった。自由の利き過ぎる境遇、
そこに長く住み馴なれた彼女の眼には、ほとんど自分の無理というものが映らなかった。云えばたいていの事は通った。
たまに通らなければ、意地で通すだけであった。ことに困るのは、自分の動機を明暸めいりょうに解剖して見る必要に逼せまられない彼女の余裕であった。
余裕というよりもむしろ放慢な心の持方であった。他ひとの世話を焼く時にする自分の行動は、すべて親切と好意の発現で、そのほかに何の私わたくしもないものと、
てんからきめてかかる彼女に、不安の来くるはずはなかった。自分の批判はほとんど当初から働らかないし、他ひとの批判は耳へ入らず、
また耳へ入れようとするものもないとなると、ここへ落ちて来るのは自然の結果でもあった。
 夫人の前に押しつめられた時、津田の胸に、これだけの考えが蜿蜒うねくり廻ったので、埒らちはますます開あかなかった。彼の様子を見た夫人は、ついに笑い出した。
「何をそんなにむずかしく考えてるんです。おおかた私わたしがまた無理でも云い出すんだと思ってるんでしょう。
なんぼ私だってあなたにできっこないような不法は考えやしませんよ。あなたがやろうとさえ思えば、訳なくできる事なんです。そうして結果はあなたの得になるだけなんです」
「そんなに雑作ぞうさなくできるんですか」
「ええまあ笑談じょうだんみたいなものです。ごくごく大袈裟おおげさに云ったところで、面白半分の悪戯いたずらよ。だから思い切ってやるとおっしゃい」
0808Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 11:12:35.370
 津田にはすべてが謎なぞであった。けれどもたかが悪戯ならという気がようやく彼の腹に起った。彼はついに決心した。
「何だか知らないがまあやってみましょう。話してみて下さい」
 しかし夫人はすぐその悪戯の性質を説明しなかった。津田の保証を掴つかんだ後あとで、また話題を変えた。ところがそれは、
あらゆる意味で悪戯とは全くかけ離れたものであった。少くとも津田には重大な関係をもっていた。
 夫人は下しものような言葉で、まずそれを二人の間に紹介した。
「あなたはその後清子きよこさんにお会いになって」
「いいえ」
0809Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 11:12:45.130
 津田の少し吃驚びっくりしたのは、ただ問題の唐突とうとつなばかりではなかった。不意に自分をふり棄すてた女の名が、
逃がした責任を半分背負しょっている夫人の口から急に洩もれたからである。夫人は語を継ついだ。
「じゃ今どうしていらっしゃるか、御存知ないでしょう」
「まるで知りません」
「まるで知らなくっていいの」
「よくないったって仕方がないじゃありませんか。もうよそへ嫁に行ってしまったんだから」
「清子さんの結婚の御披露ごひろうの時にあなたはおいでになったんでしたかね」
「行きません。行こうたってちょっと行き悪にくいですからね」
「招待状は来たの」
「招待状は来ました」
0810Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 11:12:55.130
「あなたの結婚の御披露の時に、清子さんはいらっしゃらなかったようね」
「ええ来やしません」
「招待状は出したの」
「招待状だけは出しました」
「じゃそれっきりなのね、両方共」
「無論それっきりです。もしそれっきりでなかったら問題ですもの」
「そうね。しかし問題にも寄より切りでしょう」
0811Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 11:13:06.010
 津田には夫人の云う意味がよく解らなかった。夫人はそれを説明する前にまたほかの道へ移った。
「いったい延子さんは清子さんの事を知ってるの」
 津田は塞つかえた。小林を研究し尽した上でなければ確しかとした返事は与えられなかった。夫人は再び訊きき直した。
「あなたが自分で話した事はなくって」
「ありゃしません」
「じゃ延子さんはまるで知らずにいるのね、あの事を」
「ええ、少くとも私からは何にも聴きかされちゃいません」
「そう。じゃ全く無邪気なのね。それとも少しは癇かんづいているところがあるの」
「そうですね」
 津田は考えざるを得なかった。考えても断案は控えざるを得なかった。
0812Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 11:13:29.920
百三十八

 話しているうちに、津田はまた思いがけない相手の心理に突き当った。今まで清子の事をお延に知らせないでおく方が、自分の都合でもあり、
また夫人の意志でもあるとばかり解釈して疑わなかった彼は、この時始めて気がついた。夫人はどう考えてもお延にそれを気けどっていて貰もらいたいらしかったからである。
「たいていの見当はつきそうなものですがね」と夫人は云った。津田はお延の性質を知っているだけになお答え悪にくくなった。
「そこが分らないといけないんですか」
「ええ」
0813Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 11:13:39.410
 津田はなぜだか知らなかった。けれども答えた。
「もし必要なら話しても好ござんすが……」
 夫人は笑い出した。
「今さらあなたがそんな事をしちゃぶち壊こわしよ。あなたはしまいまで知らん顔をしていなくっちゃ」
0814Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 11:13:47.800
 夫人はこれだけ云って、言葉に区切くぎりを付けた後で、新たに出直した。
「私わたしの判断を云いましょうか。延子さんはああいう怜俐りこうな方かただから、もうきっと感づいているに違ちがいないと思うのよ。
何、みんな判るはずもないし、またみんな判っちゃこっちが困るんです。判ったようでまた判らないようなのが、ちょうど持って来いという一番結構な頃合ころあいなんですからね。
そこで私の鑑定から云うと、今の延子さんは、都合つごうよく私のお誂あつらえ通どおりのところにいらっしゃるに違ないのよ」
 津田は「そうですか」というよりほかに仕方がなかった。しかしそういう結論を夫人に与える材料はほとんどなかろうにと、腹の中では思った。しかるに夫人はあると云い出した。
「でなければ、ああ虚勢を張る訳がありませんもの」
0815Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 11:13:57.750
 お延の態度を虚勢と評したのは、夫人が始めてであった。この二字の前に怪訝けげんな思いをしなければならなかった津田は、一方から見て、
またその皮肉を第一に首肯うけがわなければならない人であった。それにもかかわらず彼は躊躇ちゅうちょなしに応諾を与える事ができなかった。夫人はまた事もなげに笑った。
「なに構わないのよ。万一全く気がつかずにいるようなら、その時はまたその時でこっちにいくらでも手があるんだから」
 津田は黙ってその後あとを待った。すると後は出ずに、急に清子の方へ話が逆転して来た。
「あなたは清子さんにまだ未練がおありでしょう」
「ありません」
「ちっとも?」
「ちっともありません」
「それが男の嘘うそというものです」
0816Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 11:14:08.510
 嘘を云うつもりでもなかった津田は、全然本当を云っているのでもないという事に気がついた。
「これでも未練があるように見えますか」
「そりゃ見えないわ、あなた」
「じゃどうしてそう鑑定なさるんです」
「だからよ。見えないからそう鑑定するのよ」
 夫人の論議ロジックは普通のそれとまるで反対であった。と云って、支離滅裂はどこにも含まれていなかった。彼女は得意にそれを引き延ばした。
「ほかの人には外側も内側も同おんなじとしか見えないでしょう。しかし私わたしには外側へ出られないから、仕方なしに未練が内へ引込ひっこんでいるとしか考えられませんもの」
「奥さんは初手しょてから私に未練があるものとして、きめてかかっていらっしゃるから、そうおっしゃるんでしょう」
「きめてかかるのにどこに無理がありますか」
0817Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 11:14:19.370
「そう勝手に認定されてしまっちゃたまりません」
「私がいつ勝手に認定しました。私のは認定じゃありませんよ。事実ですよ。あなたと私だけに知れている事実を云うのですよ。
事実ですもの、それをちゃんと知ってる私に隠せる訳がないじゃありませんか、いくらほかの人を騙だます事ができたって。それもあなただけの事実ならまだしも、
二人に共通な事実なんだから、両方で相談の上、どこかへ埋うめちまわないうちは、記憶のある限り、消えっこないでしょう」
「じゃ相談ずくでここで埋めちゃどうです」
「なぜ埋めるんです。埋める必要がどこかにあるんですか。それよりなぜそれを活いかして使わないんです」
「活かして使う? 私はこれでもまだ罪悪には近寄りたくありません」
「罪悪とは何です。そんな手荒てあらな事をしろと私がいつ云いました」
「しかし……」
「あなたはまだ私の云う事をしまいまで聴かないじゃありませんか」
 津田の眼は好奇心をもって輝やいた。
0820Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 16:30:55.170
百三十九

 夫人はもう未練のある証拠を眼の前に突きつけて津田を抑おさえたと同じ事であった。自白後に等しい彼の態度は二人の仕合しあいに一段落をつけたように夫人を強くした。
けれども彼女は津田が最初に考えたほどこの点において独断的な暴君ではなかった。
彼女は思ったより細緻さいちな注意を払って、津田の心理状態を観察しているらしかった。彼女はその実券じっけんを、いったん勝った後あとで彼に示した。
「ただ未練未練って、雲を掴つかむような騒ぎをやるんじゃありませんよ。私わたしには私でまたちゃんと握ってるところがあるんですからね。
これでもあなたの未練をこんなものだといって他ひとに説明する事ができるつもりでいるんですよ」
 津田には何が何だかさっぱり訳が解らなかった。
「ちょっと説明して見て下さいませんか」
「お望みなら説明してもよござんす。けれどもそうするとつまりあなたを説明する事になるんですよ」
「ええ構いません」
0821Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 16:31:06.070
 夫人は笑い出した。
「そう他の云う事が通じなくっちゃ困るのね。現在自分がちゃんとそこに控えていながら、その自分が解らないで、
他に説明して貰もらうなんてえのは馬鹿気ばかげているじゃありませんか」
 はたして夫人の云う通りなら馬鹿気ているに違なかった。津田は首を傾けた。
「しかし解りませんよ」
「いいえ解ってるのよ」
「じゃ気がつかないんでしょう」
「いいえ気もついているのよ」
「じゃどうしたんでしょう。――つまり私が隠している事にでも帰着するんですか」
「まあそうよ」
0822Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 16:31:17.010
 津田は投げ出した。ここまで追いつめられながら、まだ隠し立だてをしようとはさすがの自分にも道理と思えなかった。
「馬鹿でも仕方がありません。馬鹿の非難は甘んじて受けますから、どうぞ説明して下さい」
 夫人は微かすかに溜息ためいきを吐ついた。
「ああああ張合はりあいがないのね、それじゃ。せっかく私が丹精たんせいして拵こしらえて来て上げたのに、肝心かんじんのあなたがそれじゃ、
まるで無駄骨むだぼねを折ったと同然ね。いっそ何にも話さずに帰ろうか知ら」
0823Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 16:31:28.720
 津田は迷宮メーズに引き込まれるだけであった。引き込まれると知りながら、彼は夫人の後を追おっかけなければならなかった。そこには自分の好奇心が強く働いた。
夫人に対する義理と気兼きがねも、けっして軽い因子ではなかった。彼は何度も同じ言葉を繰り返して夫人の説明を促うながした。
「じゃ云いましょう」と最後に応じた時の夫人の様子はむしろ得意であった。「その代り訊ききますよ」と断った彼女は、はたして劈頭へきとうに津田の毒気どっきを抜いた。
「あなたはなぜ清子さんと結婚なさらなかったんです」
 問は不意に来た。津田はにわかに息塞いきづまった。黙っている彼を見た上で夫人は言葉を改めた。
「じゃ質問を易かえましょう。――清子さんはなぜあなたと結婚なさらなかったんです」
0824Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 16:31:42.780
 今度は津田が響の声に応ずるごとくに答えた。
「なぜだかちっとも解らないんです。ただ不思議なんです。いくら考えても何にも出て来ないんです」
「突然関せきさんへ行っちまったのね」
「ええ、突然。本当を云うと、突然なんてものは疾とっくの昔むかしに通り越していましたね。あっと云って後うしろを向いたら、もう結婚していたんです」
「誰があっと云ったの」
0825Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 16:31:52.640
 この質問ほど津田にとって無意味なものはなかった。誰があっと云おうと余計なお世話としか彼には見えなかった。然しかるに夫人はそこへとまって動かなかった。
「あなたがあっと云ったんですか。清子さんがあっと云ったんですか。あるいは両方であっと云ったんですか」
「さあ」
 津田はやむなく考えさせられた。夫人は彼より先へ出た。
「清子さんの方は平気だったんじゃありませんか」
「さあ」
「さあじゃ仕方がないわ、あなた。あなたにはどう見えたのよ、その時の清子さんが。平気には見えなかったの」
「どうも平気のようでした」
0826Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 16:32:04.310
 夫人は軽蔑けいべつの眼を彼の上に向けた。
「ずいぶん気楽ね、あなたも。清子さんの方が平気だったから、あなたがあっと云わせられたんじゃありませんか」
「あるいはそうかも知れません」
「そんならその時のあっの始末はどうつける気なの」
「別につけようがないんです」
「つけようがないけれども、実はつけたいんでしょう」
「ええ。だからいろいろ考えたんです」
「考えて解ったの」
「解らないんです。考えれば考えるほど解らなくなるだけなんです」
「それだから考えるのはもうやめちまったの」
「いいえやっぱりやめられないんです」
「じゃ今でもまだ考えてるのね」
「そうです」
「それ御覧なさい。それがあなたの未練じゃありませんか」
 夫人はとうとう津田を自分の思うところへ押し込めた。
0827Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 16:32:14.930
百四十

 準備はほぼ出来上った。要点はそろそろ津田の前に展開されなければならなかった。夫人は機を見てしだいにそこへ入って行った。
「そんならもっと男らしくしちゃどうです」という漠然ばくぜんたる言葉が、最初に夫人の口を出た。その時津田はまたかと思った。
先刻さっきから「男らしくしろ」とか「男らしくない」とかいう文句を聴きかされるたびに、彼は心の中で暗あんに夫人を冷笑した。
夫人の男らしいという意味ははたしてどこにあるのだろうと疑ぐった。批判的な眼を拭ぬぐって見るまでもなく、彼女は自分の都合ばかりを考えて、津田をやり込めるために、
勝手なところへやたらにこの言葉を使うとしか解釈できなかった。彼は苦笑しながら訊きいた。
「男らしくするとは?――どうすれば男らしくなれるんですか」
「あなたの未練を晴らすだけでさあね。分り切ってるじゃありませんか」
「どうして」
「全体どうしたら晴らされると思ってるんです、あなたは」
「そりゃ私には解りません」
0828Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 16:32:24.650
 夫人は急に勢きおい込んだ。
「あなたは馬鹿ね。そのくらいの事が解らないでどうするんです。会って訊くだけじゃありませんか」
 津田は返事ができなかった。会うのがそれほど必要にしたところで、どんな方法でどこでどうして会うのか。その方が先決問題でなければならなかった。
「だから私わたしが今日わざわざここへ来たんじゃありませんか」と夫人が云った時、津田は思わず彼女の顔を見た。
「実は疾とうから、あなたの料簡りょうけんをよく伺って見たいと思ってたところへね、今朝けさお秀さんがあの事で来たもんだから、
それでちょうど好い機会だと思って出て来たような訳なんですがね」
0829Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 16:32:34.570
 腹に支度の整わない津田の頭はただまごまごするだけであった。夫人はそれを見澄みすましてこういった。
「誤解しちゃいけませんよ。私は私、お秀さんはお秀さんなんだから。何もお秀さんに頼まれて来たからって、
きっとあの方かたの肩ばかり持つとは限らないぐらいは、あなたにだって解るでしょう。先刻さっきも云った通り、私はこれでもあなたの同情者ですよ」
「ええそりゃよく心得ています」
 ここで問答に一区切ひとくぎりを付けた夫人は、時を移さず要点に達する第二の段落に這入はいり込んで行った。
「清子さんが今どこにいらっしゃるか、あなた知ってらっしって」
「関の所にいるじゃありませんか」
「そりゃ不断の話よ。私わたしのいうのは今の事よ。今どこにいらっしゃるかっていうのよ。東京か東京でないか」
「存じません」
「あてて御覧なさい」
0830Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/21(木) 16:32:46.290
 津田はあてっこをしたってつまらないという風をして黙っていた。すると思いがけない場所の名前が突然夫人の口から点出された。
一日がかりで東京から行かれるかなり有名なその温泉場の記憶は、津田にとってもそれほど旧ふるいものではなかった。
急にその辺あたりの景色けしきを思い出した彼は、ただ「へええ」と云ったぎり、後をいう智恵が出なかった。
 夫人は津田のために親切な説明を加えてくれた。彼女の云うところによると、目的の人は静養のため、当分そこに逗留とうりゅうしているのであった。
夫人は何で静養がその人に必要であるかをさえ知っていた。流産後の身体からだを回復するのが主眼だと云って聴きかせた夫人は、津田を見て意味ありげに微笑した。
津田は腹の中でほぼその微笑を解釈し得たような気がした。けれどもそんな事は、夫人にとっても彼にとっても、目前の問題ではなかった。
一口の批評を加える気にもならなかった彼は、黙って夫人の聴き手になるつもりでおとなしくしていた。同時に夫人は第三の段落に飛び移った。
「あなたもいらっしゃいな」
 津田の心はこの言葉を聴く前からすでに揺うごいていた。しかし行こうという決心は、この言葉を聴いた後あとでもつかなかった。夫人は一煽ひとあおりに煽った。
0831Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 16:32:55.340
「いらっしゃいよ。行ったって誰の迷惑になる事でもないじゃありませんか。行って澄ましていればそれまででしょう」
「それはそうです」
「あなたはあなたで始めっから独立なんだから構った事はないのよ。遠慮だの気兼きがねだのって、なまじ余計なものを荷にし出すと、事が面倒になるだけですわ。
それにあなたの病気には、ここを出た後で、ああいう所へちょっと行って来る方がいいんです。私に云わせれば、病気の方だけでも行く必要は充分あると思うんです。
だから是非いらっしゃい。行って天然自然来たような顔をして澄ましているんです。そうして男らしく未練の片かたをつけて来るんです」
 夫人は旅費さえ出してやると云って津田を促うながした。
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