☆★☆【夢】思春期の何でも語るスレ8【恋】☆★☆
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(,,,・∀・)/》
【(つ #)o 巛 しぬこと以外はかすり傷☆
(( (ノ ヽ)
百七
三人は妙な羽目に陥おちいった。行いきがかり上じょう一種の関係で因果いんがづけられた彼らはしだいに話をよそへ持って行く事が困難になってきた。席を外はずす事は無論できなくなった。彼らはそこへ坐すわったなり、どうでもこうでも、この問題を解決しなければならなくなった。
しかも傍はたから見たその問題はけっして重要なものとは云えなかった。遠くから冷静に彼らの身分と境遇を眺める事のできる地位に立つ誰の眼にも、小さく映らなければならない程度のものに過ぎなかった。彼らは他ひとから注意を受けるまでもなくよくそれを心得ていた。けれども彼らは争わなければならなかった。彼らの背後せなかに背負しょっている因縁いんねんは、他人に解らない過去から複雑な手を延ばして、自由に彼らを操あやつった。
しまいに津田とお秀の間に下しものような問答が起った。 「始めから黙っていれば、それまでですけれども、いったん云い出しておきながら、持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪うござんすから、どうか取って下さいよ。兄さん」
「置いて行きたければ置いといでよ」
「だから取るようにして取って下さいな」
「いったいどうすればお前の気に入るんだか、僕には解らないがね、だからその条件をもっと淡泊たんぱくに云っちまったらいいじゃないか」
「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。ただ兄さんが心持よく受取って下されば、それでいいんです。つまり兄妹きょうだいらしくして下されば、それでいいというだけです。それからお父さんにすまなかったと本気に一口ひとくちおっしゃりさえすれば、何でもないんです」
「お父さんには、とっくの昔にもうすまなかったと云っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。しかも一口や二口じゃないやね」
「けれどもあたしの云うのは、そんな形式的のお詫わびじゃありません。心からの後悔です」 津田はたかがこれしきの事にと考えた。後悔などとは思いも寄らなかった。
「僕の詫様ようが空々そらぞらしいとでも云うのかね、なんぼ僕が金を欲しがるったって、これでも一人前いちにんまえの男だよ。そうぺこぺこ頭を下げられるものか、考えても御覧な」
「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」
「欲しくないとは云わないさ」
「それでお父さんに謝罪あやまったんでしょう」
「でなければ何も詫あやまる必要はないじゃないか」
「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんはそこに気がつかないんですか」 津田は口を閉じた。お秀はすぐ乗のしかかって行った。
「兄さんがそういう気でいらっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだって上げられないわ」
「じゃお止よしよ。何も無理に貰もらおうとは云わないんだから」
「ところが無理にでも貰おうとおっしゃるじゃありませんか」
「いつ」
「先刻さっきからそう云っていらっしゃるんです」
「言がかりを云うな、馬鹿」
「言がかりじゃありません。先刻から腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云えないんです」 津田は一種嶮けわしい眼をしてお秀を見た。その中には憎悪ぞうおが輝やいた。けれども良心に対して恥ずかしいという光はどこにも宿らなかった。そうして彼が口を利いた時には、お延でさえその意外なのに驚ろかされた。彼は彼に支配できる最も冷静な調子で、彼女の予期とはまるで反対の事を云った。
「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持って来た金が絶対に入用いりようだ。兄さんはまた改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。兄さんはお前の親切を感謝する。だからどうぞその金をこの枕元へ置いて行ってくれ」
お秀の手先が怒りで顫ふるえた。両方の頬ほおに血が差した。その血は心のどこからか一度に顔の方へ向けて動いて来るように見えた。色が白いのでそれが一層鮮あざやかであった。しかし彼女の言葉遣づかいだけはそれほど変らなかった。怒りの中うちに微笑さえ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝やいた眼をお延の上に注いだ。
「嫂ねえさんどうしましょう。せっかく兄さんがああおっしゃるものですから、置いて行って上げましょうか」
「そうね、そりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ」
「そう。でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね」
「ええ良人うちには絶対に必要かも知れませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」
「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで別べつッこなのね」 「それでいて、ちっとも別ッこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何までいっしょくたよ」
「だって――」
お延は皆まで云わせなかった。
「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵こしらえるだけなのよ」
彼女はこう云いながら、昨日きのう岡本の叔父おじに貰って来た小切手を帯の間から出した。 百八
彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるように取扱いながら、津田の手に渡した時、彼女には夫に対する一種の注文があった。前後の行ゆきがかりと自分の性格から割り出されたその注文というのはほかでもなかった。彼女は夫が自分としっくり呼吸を合わせて、それを受け取ってくれれば好いがと心の中うちで祈ったのである。会心の微笑を洩もらしながら首肯うなずいて、それを鷹揚おうように枕元へ放ほうり出すか、でなければ、ごく簡単な、しかし細君に対して最も満足したらしい礼をただ一口述べて、再びそれをお延の手に戻すか、いずれにしてもこの小切手の出所でどころについて、夫婦の間に夫婦らしい気脈が通じているという事実を、お秀に見せればそれで足りたのである。
不幸にして津田にはお延の所作しょさも小切手もあまりに突然過ぎた。その上こんな場合にやる彼の戯曲的技巧が、細君とは少し趣おもむきを異ことにしていた。彼は不思議そうに小切手を眺めた。それからゆっくり訊きいた。
「こりゃいったいどうしたんだい」 この冷やかな調子と、等しく冷やかな反問とが、登場の第一歩においてすでにお延の意気込を恨うらめしく摧くじいた。彼女の予期は外はずれた。
「どうしもしないわ。ただ要るから拵えただけよ」
こう云った彼女は、腹の中でひやひやした。彼女は津田が真面目まじめくさってその後を訊く事を非常に恐れた。それは夫婦の間に何らの気脈が通じていない証拠を、お秀の前に暴露ばくろするに過ぎなかった。
「訳なんか病気中に訊かなくってもいいのよ。どうせ後で解わかる事なんだから」 これだけ云った後でもまだ不安心でならなかったお延は、津田がまだ何とも答えない先に、すぐその次を付け加えてしまった。
「よし解らなくったって構わないじゃないの。たかがこのくらいのお金なんですもの、拵えようと思えば、どこからでも出て来るわ」
津田はようやく手に持った小切手を枕元へ投げ出した。彼は金を欲しがる男であった。しかし金を珍重する男ではなかった。使うために金の必要を他人より余計痛切に感ずる彼は、その金を軽蔑けいべつする点において、お延の言葉を心から肯定するような性質をもっていた。それで彼は黙っていた。しかしそれだからまたお延に一口の礼も云わなかった。
彼女は物足らなかった。たとい自分に何とも云わないまでも、お秀には溜飲りゅういんの下さがるような事を一口でいいから云ってくれればいいのにと、腹の中で思った。 先刻さっきから二人の様子を見ていたそのお秀はこの時急に「兄さん」と呼んだ。そうして懐ふところから綺麗な女持の紙入を出した。
「兄さん、あたし持って来たものをここへ置いて行きます」
彼女は紙入の中から白紙はくしで包んだものを抜いて小切手の傍そばへ置いた。
「こうしておけばそれでいいでしょう」 津田に話しかけたお秀は暗あんにお延の返事を待ち受けるらしかった。お延はすぐ応じた。
「秀子さんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配はしないでおいて下さい。こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合ったんですから」
「だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。こうしてせっかく包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ」
二人は譲り合った。同じような問答を繰り返し始めた。津田はまた辛防強しんぼうづよくいつまでもそれを聴きいていた。しまいに二人はとうとう兄に向わなければならなくなった。
「兄さん取っといて下さい」
「あなたいただいてもよくって」 津田はにやにやと笑った。
「お秀妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。いったいどっちが本当なんだい」
お秀は屹きっとなった。
「どっちも本当です」
この答は津田に突然であった。そうしてその強い調子が、どこまでも冷笑的に構えようとする彼の機鋒きほうを挫くじいた。お延にはなおさらであった。彼女は驚ろいてお秀を見た。その顔は先刻と同じように火熱ほてっていた。けれども涼しい彼女の眼に宿る光りは、ただの怒りばかりではなかった。口惜くやしいとか無念だとかいう敵意のほかに、まだ認めなければならない或物がそこに陽炎かげろった。しかしそれが何であるかは、彼女の口を通して聴きくよりほかに途みちがなかった。二人は惹ひきつけられた。今まで持続して来た心の態度に角度の転換が必要になった。彼らは遮さえぎる事なしに、その輝やきの説明を、彼女の言葉から聴こうとした。彼らの予期と同時に、その言葉はお秀の口を衝ついて出た。 百九
「実は先刻さっきから云おうか止よそうかと思って、考えていたんですけれども、そんな風に兄さんから冷笑ひやかされて見ると、私だって黙って帰るのが厭いやになります。だから云うだけの事はここで云ってしまいます。けれども一応お断りしておきますが、これから申し上げる事は今までのとは少し意味が違いますよ。それを今まで通りの態度で聴いていられると、私だって少し迷惑するかも知れません、というのは、ただ私が誤解されるのが厭だという意味でなくって、私の心持があなた方に通じなくなるという訳合わけあいからです」
お秀の説明はこういう言葉で始まった。それがすでに自分の態度を改めかかっている二人の予期に一倍の角度を与えた。彼らは黙ってその後あとを待った。しかしお秀はもう一遍念を押した。
「少しや真面目まじめに聴いて下さるでしょうね。私の方が真面目になったら」 こう云ったお秀はその強い眼を津田の上からお延に移した。
「もっとも今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。何しろ嫂ねえさんさえここにいて下されば、まあ大丈夫でしょう。いつもの兄妹喧嘩きょうだいげんかになったら、その時に止とめていただけばそれまでですから」
お延は微笑して見せた。しかしお秀は応じなかった。
「私はいつかっから兄さんに云おう云おうと思っていたんです。嫂さんのいらっしゃる前でですよ。だけど、その機会がなかったから、今日きょうまで云わずにいました。それを今改めてあなた方のお揃そろいになったところで申してしまうのです。それはほかでもありません。よござんすか、あなた方お二人は御自分達の事よりほかに何なんにも考えていらっしゃらない方かただという事だけなんです。自分達さえよければ、いくら他ひとが困ろうが迷惑しようが、まるでよそを向いて取り合わずにいられる方だというだけなんです」 この断案を津田はむしろ冷静に受ける事ができた。彼はそれを自分の特色と認める上に、一般人間の特色とも認めて疑わなかったのだから。しかしお延にはまたこれほど意外な批評はなかった。彼女はただ呆あきれるばかりであった。幸か不幸かお秀は彼女の口を開く前にすぐ先へ行った。
「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。あなた方の眼にはほかに何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」
ここまで来たお秀は急に後を継つぎ足たした。二人の中うちの一人が自分を遮さえぎりはしまいかと恐れでもするような様子を見せて。
「私はただ私の眼に映った通りの事実を云うだけです。それをどうして貰もらいたいというのではありません。もうその時機は過ぎました。有体ありていにいうと、その時機は今日過ぎたのです。実はたった今過ぎました。あなた方の気のつかないうちに、過ぎました。私は何事も因縁いんねんずくと諦あきらめるよりほかに仕方がありません。しかしその事実から割り出される結果だけは是非共あなた方に聴いていただきたいのです」 お秀はまた津田からお延の方に眼を移した。
二人はお秀のいわゆる結果なるものについて、判然はっきりした観念がなかった。
したがってそれを聴く好奇心があった。だから黙っていた。
「結果は簡単です」とお秀が云った。「結果は一口で云えるほど簡単です。
しかし多分あなた方には解らないでしょう。
あなた方はけっして他ひとの親切を受ける事のできない人だという意味に、
多分御自分じゃ気がついていらっしゃらないでしょうから。
こう云っても、あなた方にはまだ通じないかも知れないから、もう一遍繰り返します。
自分だけの事しか考えられないあなた方は、
人間として他の親切に応ずる資格を失なっていらっしゃるというのが私の意味なのです。
つまり他の好意に感謝する事のできない人間に切り下げられているという事なのです。
あなた方はそれでたくさんだと思っていらっしゃるかも知れません。
どこにも不足はないと考えておいでなのかも分りません。
しかし私から見ると、それはあなた方自身にとってとんでもない不幸になるのです。
人間らしく嬉うれしがる能力を天てんから奪われたと同様に見えるのです。
兄さん、あなたは私の出したこのお金は欲しいとおっしゃるのでしょう。
しかし私のこのお金を出す親切は不用だとおっしゃるのでしょう。
私から見ればそれがまるで逆です。
人間としてまるで逆なのです。
だから大変な不幸なのです。
そうして兄さんはその不幸に気がついていらっしゃらないのです。
嫂ねえさんはまた私の持って来たこのお金を兄さんが貰わなければいいと思っていらっしゃるんです。
さっきから貰わせまい貰わせまいとしていらっしゃるんです。
つまりこのお金を断ることによって、併あわせて私の親切をも排斥しようとなさるのです。
そうしてそれが嫂さんには大変なお得意になるのです。嫂さんも逆です。
嫂さんは妹の実意を素直すなおに受けるために感じられる好い心持が、
今のお得意よりも何層倍人間として愉快だか、まるで御存じない方かたなのです」
お延は黙っていられなくなった。
しかしお秀はお延よりなお黙っていられなかった。
彼女を遮さえぎろうとするお延の出鼻を抑おさえつけるような熱した語気で、
自分の云いたい事だけ云ってしまわなければ気がすまなかった。 百十
「嫂さん何かおっしゃる事があるなら、後でゆっくり伺いますから、御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。なにもう直じきです。そんなに長くかかりゃしません」
お秀の断り方は妙に落ちついていた。先刻さっき津田と衝突した時に比くらべると、彼女はまるで反対の傾向を帯びて、激昂げっこうから沈静の方へ推おし移って来た。それがこの場合いかにも案外な現象として二人の眼に映った。
「兄さん」とお秀が云った。「私はなぜもっと早くこの包んだ物を兄さんの前に出さなかったのでしょう。そうして今になってまた何できまりが悪くもなく、それをあなた方の前に出されたのでしょう。考えて下さい。嫂ねえさんも考えて下さい」 考えるまでもなく、二人にはそれがお秀の詭弁きべんとしか受取れなかった。ことにお延にはそう見えた。しかしお秀は真面目まじめであった。
「兄さん私はこれであなたを兄さんらしくしたかったのです。たかがそれほどの金でかと兄さんはせせら笑うでしょう。しかし私から云えば金額かねだかは問題じゃありません。少しでも兄さんを兄さんらしくできる機会があれば、私はいつでもそれを利用する気なのです。私は今日きょうここでできるだけの努力をしました。そうしてみごとに失敗しました。ことに嫂さんがおいでになってから以後、私の失敗は急に目立って来ました。私が妹として兄さんに対する執着を永久に放ほうり出ださなければならなくなったのはその時です。――嫂さん、後生ごしょうですから、もう少し我慢して聴いていて下さい」
お秀はまたこう云って何か云おうとするお延を制した。
「あなた方の態度はよく私に解わかりました。あなた方から一時間二時間の説明を伺うより、今ここで拝見しただけで、私が勝手に判断する方が、かえってよく解るように思われますから、私はもう何なんにも伺いません。しかし私には自分を説明する必要がまだあります。そこは是非聴いていただかなければなりません」 お延はずいぶん手前勝手な女だと思いながら黙っていた。しかし初手しょてから勝利者の余裕が附着している彼女には、黙っていても大した不足はなかった。
「兄さん」とお秀が云った。「これを見て下さい。ちゃんと紙に包んであります。お秀が宅うちから用意して持って来たという証拠にはなるでしょう。そこにお秀の意味はあるのです」
お秀はわざわざ枕元の紙包を取り上げて見せた。
「これが親切というものです。あなた方にはどうしてもその意味がお解りにならないから、仕方なしに私が自分で説明します。そうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくっても、私は宅から持って来た親切をここへ置いて行くよりほかに途みちはないのだという事もいっしょに説明します。兄さん、これは妹の親切ですか義務ですか。兄さんは先刻さっきそういう問を私におかけになりました。私はどっちも同おんなじだと云いました。兄さんが妹の親切を受けて下さらないのに、妹はまだその親切を尽くす気でいたら、その親切は義務とどこが違うんでしょう。私の親切を兄さんの方で義務に変化させてしまうだけじゃありませんか」
「お秀もう解ったよ」と津田がようやく云い出した。彼の頭に妹のいう意味は判然はっきり入った。けれども彼女の予期する感情は少しも起らなかった。彼は先刻から蒼蠅うるさいのを我慢して彼女の云い草を聴いていた。彼から見た妹は、親切でもなければ、誠実でもなかった。愛嬌あいきょうもなければ気高けだかくもなかった。ただ厄介やっかいなだけであった。
「もう解ったよ。それでいいよ。もうたくさんだよ」 すでに諦あきらめていたお秀は、別に恨うらめしそうな顔もしなかった。ただこう云った。
「これは良人うちが立て替えて上げるお金ではありませんよ、兄さん。良人が京都へ保証して成り立った約束を、兄さんがお破りになったために、良人ではお父さんの方へ義理ができて、仕方なしに立て替えた事になるとしたら、なんぼ兄さんだって、心持よく受け取る気にはなれないでしょう。私もそんな事で良人うちを煩わずらわせるのは厭いやです。だからお断りをしておきますが、これは良人とは関係のないお金です。私のです。だから兄さんも黙ってお取りになれるでしょう。私の親切はお受けにならないでも、お金だけはお取りになれるでしょう。今の私はなまじいお礼を云っていただくより、ただ黙って受取っておいて下さる方が、かえって心持が好くなっているのです。問題はもう兄さんのためじゃなくなっているんです。単に私のためです。兄さん、私のためにどうぞそれを受取って下さい」
お秀はこれだけ云って立ち上った。お延は津田の顔を見た。その顔には何なんという合図あいずの表情も見えなかった。彼女は仕方なしにお秀を送って階子段はしごだんを降りた。二人は玄関先で尋常の挨拶あいさつを交とり換かわせて別れた。 百十一
単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面シーンでその相手になろうとは思わなかった。相手になった後あとでも、それが偶然の廻まわり合あわせのように解釈されるだけであった。その必然性を認めるために、過去の因果いんがを迹付あとづけて見ようという気さえ起らなかった。この心理状態をもっと砕けた言葉で云い直すと、事件の責任は全く自分にないという事に過ぎなかった。すべてお秀が背負しょって立たなければならないという意味であった。したがってお延の心は存外平静であった。少くとも、良心に対して疚やましい点は容易に見出みいだされなかった。
この会見からお延の得た収獲は二つあった。一つは事後に起る不愉快さであった。その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に持もち来きたされそうに見える葛藤かっとうさえ織り込まれていた。彼女は充分それを切り抜けて行く覚悟をもっていた。ただしそれには、津田が飽あくまで自分の肩を持ってくれなければ駄目だという条件が附帯していた。そこへ行くと彼女には七分通しちぶどおりの安心と、三分方さんぶがたの不安があった。その三分方の不安を、今日きょうの自分が、どのくらいの程度に減らしているかは、彼女にとって重大な問題であった。少くとも今日の彼女は、夫の愛を買うために、もしくはそれを買い戻すために、できるだけの実じつを津田に見せたという意味で、幾分かの自信をその方面に得たつもりなのである。
これはお延自身に解っている側がわの消息中しょうそくちゅうで、最も必要と認めなければならない一端であるが、そのほかにまだ彼女のいっこう知らない間まに、自然自分の手に入るように仕組まれた収獲ができた。無論それは一時的のものに過ぎなかった。けれども当然自分の上に向けられるべき夫の猜疑さいぎの眼めから、彼女は運よく免まぬかれたのである。というのは、お秀という相手を引き受ける前の津田と、それに悩まされ出した後の彼とは、心持から云っても、意識の焦点になるべき対象から見ても、まるで違っていた。だからこの変化の強く起った際きわどい瞬間に姿を現わして、その変化の波を自然のままに拡ひろげる役を勤めたお延は、吾知われしらず儲もうけものをしたのと同じ事になったのである。 彼女はなぜ岡本が強しいて自分を芝居へ誘ったか、またなぜその岡本の宅うちへ昨日きのう行かなければならなくなったか、そんな内情に関するすべての自分を津田の前に説明する手数てかずを省はぶく事ができた。むしろ自分の方から云い出したいくらいな小林の言葉についてすら、彼女は一口も語る余裕をもたなかった。お秀の帰ったあとの二人は、お秀の事で全く頭を占領されていた。
二人はそれを二人の顔つきから知った。そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、階子段はしごだんを上あがって、また室へやの入口にそのすらりとした姿を現わした刹那せつなであった。お延は微笑した。すると津田も微笑した。そこにはほかに何なんにもなかった。ただ二人がいるだけであった。そうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ。少なくともお延は久しぶりに本来の津田をそこに認めたような気がした。彼女は肉の上に浮び上ったその微笑が何の象徴シムボルであるかをほとんど知らなかった。ただ一種の恰好かっこうをとって動いた肉その物の形が、彼女には嬉うれしい記念であった。彼女は大事にそれを心の奥にしまい込んだ。
その時二人の微笑はにわかに変った。二人は歯を露あらわすまでに口を開あけて、一度に声を出して笑い合った。 「驚ろいた」
お延はこう云いながらまた津田の枕元へ来て坐った。津田はむしろ落ちついて答えた。
「だから彼奴あいつに電話なんかかけるなって云うんだ」
二人は自然お秀を問題にしなければならなかった。
「秀子さんは、まさか基督教キリストきょうじゃないでしょうね」 「なぜ」
「なぜでも――」
「金を置いて行ったからかい」
「そればかりじゃないのよ」
「真面目まじめくさった説法をするからかい」
「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは」
「彼奴は理窟屋りくつやだよ。つまりああ捏こね返かえさなければ気がすまない女なんだ」
「だってあたし始めてよ」 「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうして生なまじい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」
「どうして」
「どうしてって、藤井の叔父の傍そばにいて、あの叔父の議論好きなところを、始終しじゅう見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」
津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。 百十二
久しぶりに夫と直じかに向き合ったような気のしたお延は嬉うれしかった。二人の間あいだにいつの間まにかかけられた薄い幕を、急に切って落した時の晴々はればれしい心持になった。
彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。――これが彼女の決心であった。その決心は多大の努力を彼女に促うながした。彼女の努力は幸い徒労に終らなかった。彼女はついに酬むくいられた。少なくとも今後の見込を立て得るくらいの程度において酬いられた。彼女から見れば不慮の出来事と云わなければならないこの破綻はたんは、取とりも直なおさず彼女にとって復活の曙光しょこうであった。彼女は遠い地平線の上に、薔薇色ばらいろの空を、薄明るく眺める事ができた。そうしてその暖かい希望の中に、この破綻から起るすべての不愉快を忘れた。小林の残酷に残して行った正体の解らない黒い一点、それはいまだに彼女の胸の上にあった。お秀の口から迸ほとばしるように出た不審の一句、それも疑惑の星となって、彼女の頭の中に鈍にぶい瞬まばたきを見せた。しかしそれらはもう遠い距離に退しりぞいた。少くともさほど苦くにならなかった。耳に入れた刹那せつなに起った昂奮こうふんの記憶さえ、再び呼び戻す必要を認めなかった。
「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」 夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。
「相手? どんな相手ですか」と訊きかれたら、お延は何と答えただろう。それは朧気おぼろげに薄墨うすずみで描かれた相手であった。そうして女であった。そうして津田の愛を自分から奪う人であった。お延はそれ以外に何なんにも知らなかった。しかしどこかにこの相手が潜んでいるとは思えた。お秀と自分ら夫婦の間に起った波瀾はらんが、ああまで際きわどくならずにすんだなら、お延は行いきがかり上じょう、是非共津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くから探さぐらなければならない順序だったのである。
お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。気がかりを後へ繰り越すのが辛つらくて耐たまらないとはけっして考えなかった。それよりもこの機会を緊張できるだけ緊張させて、親切な今の自分を、強く夫の頭の中に叩たたき込んでおく方が得策だと思案した。
こう決心するや否や彼女は嘘うそを吐ついた。それは些細ささいの嘘であった。けれども今の場合に、夫を物質的と精神的の両面に亘わたって、窮地から救い出したものは、自分が持って来た小切手だという事を、深く信じて疑わなかった彼女には、むしろ重大な意味をもっていた。 その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。そこに書いてある額は彼の要求するものよりかえって多かった。しかしそれを問題にする前、彼はお延に云った。
「お延ありがとう。お蔭かげで助かったよ」
お延の嘘はこの感謝の言葉の後に随ついて、すぐ彼女の口を滑すべって出てしまった。
「昨日きのう岡本へ行ったのは、それを叔父さんから貰もらうためなのよ」 津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然跳はねつけたものは、この小切手を持って来たお延自身であった。一週間と経たたないうちに、どこからそんな好意が急に湧わいて出たのだろうと思うと、津田は不思議でならなかった。それをお延はこう説明した。
「そりゃ厭いやなのよ。この上叔父さんにお金の事なんかで迷惑をかけるのは。けれども仕方がないわ、あなた。いざとなればそのくらいの勇気を出さなくっちゃ、妻としてのあたしの役目がすみませんもの」
「叔父さんに訳を話したのかい」
「ええ、そりゃずいぶん辛つらかったの」
お延は津田へ来る時の支度を大部分岡本に拵こしらえて貰もらっていた。
「その上お金なんかには、ちっとも困らない顔を今日きょうまでして来たんですもの。だからなおきまりが悪いわ」 自分の性格から割り出して、こういう場合のきまりの悪さ加減は、津田にもよく呑のみ込めた。
「よくできたね」
「云えばできるわ、あなた。無いんじゃないんですもの。ただ云い悪にくいだけよ」
「しかし世の中にはまたお父さんだのお秀だのっていう、むずかしやも揃そろっているからな」
津田はかえって自尊心を傷きずつけられたような顔つきをした。お延はそれを取とり繕つくろうように云った。
「なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。叔父さんにはあたしに指輪を買ってくれる約束があるのよ。お嫁に行くとき買ってやらない代りに、今に買ってやるって、此間こないだからそう云ってたのよ。だからそのつもりでくれたんでしょうおおかた。心配しないでもいいわ」
津田はお延の指を眺めた。そこには自分の買ってやった宝石がちゃんと光っていた。 【自民】甘利幹事長がNHK「日曜討論」で上から目線&根拠不明発言連発!
自民議員は「票が減る!」と悲鳴 ・・・
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1634555204/ 百十三
二人はいつになく融とけ合った。
今までお延の前で体面を保つために武装していた津田の心が吾知われしらず弛ゆるんだ。
自分の父が鄙吝ひりんらしく彼女の眼に映りはしまいかという掛念けねん、
あるいは自分の予期以下に彼女が父の財力を見縊みくびりはしまいかという恐れ、二つのものが原因になって、
なるべく京都の方面に曖昧あいまいな幕を張り通そうとした警戒が解けた。
そうして彼はそれに気づかずにいた。努力もなく意志も働かせずに、彼は自然の力でそこへ押し流されて来た。
用心深い彼をそっと持ち上げて、事件がお延のために彼をそこまで運んで来てくれたと同じ事であった。
お延にはそれが嬉うれしかった。改めようとする決心なしに、改たまった夫の態度には自然があった。
同時に津田から見たお延にも、またそれと同様の趣おもむきが出た。余事はしばらく問題外に措おくとして、結婚後彼らの間には、常に財力に関する妙な暗闘があった。
そうしてそれはこう云う因果いんがから来た。
普通の人のように富を誇りとしたがる津田は、その点において、自分をなるべく高くお延から評価させるために、
父の財産を実際より遥はるか余計な額に見積ったところを、彼女に向って吹聴ふいちょうした。 それだけならまだよかった。
彼の弱点はもう一歩先へ乗り越す事を忘れなかった。彼のお延に匂におわせた自分は、今より大変楽な身分にいる若旦那わかだんなであった。
必要な場合には、いくらでも父から補助を仰ぐ事ができた。
たとい仰がないでも、月々の支出に困る憂うれいはけっしてなかった。
お延と結婚した時の彼は、もうこれだけの言責げんせきを彼女に対して背負しょって立っていたのと同じ事であった。
利巧りこうな彼は、財力に重きを置く点において、彼に優まさるとも劣らないお延の性質をよく承知していた。
極端に云えば、黄金おうごんの光りから愛その物が生れるとまで信ずる事のできる彼には、どうかしてお延の手前を取繕とりつくろわなければならないという不安があった。 ことに彼はこの点においてお延から軽蔑けいべつされるのを深く恐れた。
堀に依頼して毎月まいげつ父から助すけて貰もらうようにしたのも、実は必要以外にこんな魂胆が潜んでいたからでもあった。
それでさえ彼はどこかに煙たいところをもっていた。少くとも彼女に対する内と外にはだいぶんの距離があった。
眼から鼻へ抜けるようなお延にはまたその距離が手に取るごとくに分った。必然の勢い彼女はそこに不満を抱いだかざるを得なかった。
しかし彼女は夫の虚偽を責めるよりもむしろ夫の淡泊たんぱくでないのを恨うらんだ。彼女はただ水臭いと思った。
なぜ男らしく自分の弱点を妻の前に曝さらけ出だしてくれないのかを苦くにした。
しまいには、それをあえてしないような隔へだたりのある夫なら、こっちにも覚悟があると一人腹の中できめた。
するとその態度がまた木精こだまのように津田の胸に反響した。二人はどこまで行っても、直じかに向き合う訳に行かなかった。
しかも遠慮があるので、なるべくそこには触れないように慎つつしんでいた。
ところがお秀との悶着もんちゃくが、偶然にもお延の胸にあるこの扉を一度にがらりと敲たたき破った。しかもお延自身毫ごうもそこに気がつかなかった。
彼女は自分を夫の前に
開放しようという努力も決心もなしに、天然自然自分を開放してしまった。
だから津田にもまるで別人べつにんのように快よく見えた。
二人はこういう風で、いつになく融とけ合った。
すると二人が融け合ったところに妙な現象がすぐ起った。
二人は今まで回避していた問題を平気で取り上げた。二人はいっしょになって、京都に対する善後策を講じ出した。 二人には同じ予感が働いた。この事件はこれだけで片づくまいという不安が双方の心を引き締めた。きっとお秀が何かするだろう。
すれば直接京都へ向ってやるに違いない。そうしてその結果は自然二人の不利益となるにきまっている。――ここまでは二人の一致する点であった。
それから先が肝心かんじんの善後策になった。しかしそこへ来ると意見が区々まちまちで、容易に纏まとまらなかった。
お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。しかし津田は首を掉ふった。彼は叔父も叔母もお秀の味方である事をよく承知していた。
次に津田の方から岡本はどうだろうと云い出した。けれども岡本は津田の父とそれほど深い交際がないと云う理由で、今度はお延が反対した。
彼女はいっそ簡単に自分が和解の目的で、お秀の所へ行って見ようかという案を立てた。
これには津田も大した違存いぞんはなかった。
たとい今度の事件のためでなくとも、絶交を希望しない以上、何らかの形式のもとに、両家の交際は復活されべき運命をもっていたからである。
しかしそれはそれとして、彼らはもう少し有効な方法を同時に講じて見たかった。彼らは考えた。 しまいに吉川の名が二人の口から同じように出た。彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見てくれている目下の事情、――数えれば数えるほど、彼には有利な条件が具そなわっていた。けれどもそこにはまた一種の困難があった。それほど親しく近づき悪にくい吉川に口を利きいて貰もらおうとすれば、是非共その前に彼の細君を口説くどき落さなければならなかった。ところがその細君はお延にとって大の苦手にがてであった。お延は津田の提議に同意する前に、少し首を傾けた。細君と仲善なかよしの津田はまた充分成効せいこうの見込がそこに見えているので、熱心にそれを主張した。しまいにお延はとうとう我がを折った。
事件後の二人は打ち解けてこんな相談をした後あとで心持よく別れた。 百十四
前夜よく寝られなかった疲労の加わった津田はその晩案外気易きやすく眠る事ができた。翌日あくるひもまた透すき通るような日差ひざしを眼に受けて、晴々はればれしい空気を篏硝子はめガラスの外に眺めた彼の耳には、隣りの洗濯屋で例の通りごしごし云わす音が、どことなしに秋の情趣を唆そそった。
「……へ行くなら着て行かしゃんせ。シッシッシ」 洗濯屋の男は、俗歌を唄うたいながら、区切くぎり区切へシッシッシという言葉を入れた。それがいかにも忙がしそうに手を働かせている彼らの姿を津田に想像させた。
彼らは突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。それから物干へ上のぼって、その白いものを隙間すきまなく秋の空へ広げた。ここへ来てから、日ごとに繰り返される彼らの所作しょさは単調であった。しかし勤勉であった。それがはたして何を意味しているか津田には解わからなかった。 彼は今の自分にもっと親切な事を頭の中で考えなければならなかった。彼は吉川夫人の姿を憶おもい浮べた。彼の未来、それを眼の前に描き出すのは、あまりに漠然ばくぜん過ぎた。それを纏まとめようとすると、いつでも吉川夫人が現われた。平生から自分の未来を代表してくれるこの焦点にはこの際特別な意味が附着していた。
一にはこの間訪問した時からの引ひっかかりがあった。その時二人の間に封じ込められたある問題を、ぽたりと彼の頭に点じたのは彼女であった。彼にはその後あとを聴きくまいとする努力があった。また聴こうとする意志も動いた。すでに封を切ったものが彼女であるとすれば、中味を披ひらく権利は自分にあるようにも思われた。 二には京都の事が気になった。軽重けいちょうを別にして考えると、この方がむしろ急に逼せまっていた。一日も早く彼女に会うのが得策のようにも見えた。まだ四五日はどうしても動く事のできない身体からだを持ち扱った彼は、昨日きのうお延の帰る前に、彼女を自分の代りに夫人の所へやろうとしたくらいであった。それはお延に断られたので、成立しなかったけれども、彼は今でもその方が適当な遣口やりくちだと信じていた。
お延がなぜこういう用向ようむきを帯びて夫人を訪たずねるのを嫌きらったのか、津田は不思議でならなかった。黙っていてもそんな方面へ出入でいりをしたがる女のくせに。と彼はその時考えた。夫人の前へ出られるためにわざと用事を拵こしらえて貰もらったのと同じ事だのにとまで、自分の動議を強調して見た。しかしどうしても引き受けたがらないお延を、たって強しいる気もまたその場合の彼には起らなかった。それは夫婦打ち解けた気分にも起因していたが、一方から見ると、またお延の辞退しようにも関係していた。彼女は自分が行くと必ず失敗するからと云った。しかしその理由を述べる代りに、津田ならきっと成効せいこうするに違ちがいないからと云った。成効するにしても、病院を出た後あとでなければ会う訳に行かないんだから、遅くなる虞おそれがあると津田が注意した時、お延はまた意外な返事を彼に与えた。彼女は夫人がきっと病院へ見舞に来るに違ないと断言した。その時機を利用しさえすれば、一番自然にまた一番簡単に事が運ぶのだと主張した。 津田は洗濯屋の干物ほしものを眺めながら、昨日きのうの問答をこんな風に、それからそれへと手元へ手繰たぐり寄せて点検した。
すると吉川夫人は見舞に来てくれそうでもあった。また来てくれそうにもなかった。
つまりお延がなぜ来る方をそう堅く主張したのか解らなくなった。彼は芝居の食堂で晩餐ばんさんの卓に着いたという大勢を眼先に想像して見た。
お延と吉川夫人の間にどんな会話が取り換わされたかを、小説的に組み合せても見た。けれどもその会話のどこからこの予言が出て来たかの点になると、
自分に解らないものとして投げてしまうよりほかに手はなかった。
彼はすでに幾分の直覚、不幸にして天が彼に与えてくれなかった幾分の直覚を、お延に許していた。
その点でいつでも彼女を少し畏おそれなければならなかった彼には、杜撰ずざんにそこへ触れる勇気がなかった。
と同時に、全然その直覚に信頼する事のできない彼は、何とかしてこっちから吉川夫人を病院へ呼び寄せる工夫はあるまいかと考えた。
彼はすぐ電話を思いついた。横着にも見えず、ことさらでもなし、自然に彼女がここまで出向いて来るような電話のかけ方はなかろうかと苦心した。
しかしその苦心は水の泡あわを製造する努力とほぼ似たものであった。いくら骨を折って拵こしらえても、すぐ後から消えて行くだけであった。
根本的に無理な空想を実現させようと巧たくらんでいるのだから仕方がないと気がついた時、彼は一人で苦笑してまた硝子越ガラスごしに表を眺めた。
表はいつか風立かぜだった。洗濯屋の前にある一本の柳の枝が白い干物といっしょになって軽く揺れていた。
それを掠かすめるようにかけ渡された三本の電線も、よそと調子を合せるようにふらふらと動いた。 百十五
下から上あがって来た医者には、その時の津田がいかにも退屈そうに見えた。
顔を合せるや否や彼は「いかがです」と訊きいた後で、「もう少しの我慢です」とすぐ慰めるように云った。それから彼は津田のためにガーゼを取り易えてくれた。
「まだ創口きずぐちの方はそっとしておかないと、危険ですから」 彼はこう注意して、じかに局部を抑おさえつけている個所を少し緩ゆるめて見たら、
血が煮染にじみ出したという話を用心のためにして聴きかせた。
取り易かえられたガーゼは一部分に過ぎなかった。要所を剥はがすと、血が迸ほとばしるかも知れないという身体からだでは、津田も無理をして宅うちへ帰る訳に行かなかった。
「やッぱり予定通りの日数にっすうは動かずにいるよりほかに仕方がないでしょうね」 医者は気の毒そうな顔をした。
「なに経過次第じゃ、それほど大事を取るにも及ばないんですがね」
それでも医者は、時間と経済に不足のない、どこから見ても余裕のある患者として、津田を取扱かっているらしかった。 「別に大した用事がお有ありになる訳でもないんでしょう」
「ええ一週間ぐらいはここで暮らしてもいいんです。しかし臨時にちょっと事件が起ったので……」
「はあ。――しかしもう直じきです。もう少しの辛防しんぼうです」
これよりほかに云いようのなかった医者は、外来患者の方がまだ込こみ合あわないためか、そこへ坐すわって二三の雑談をした。中で、彼がまだ助手としてある大きな病院に勤めている頃に起ったという一口話ひとくちばなしが、思わず津田を笑わせた。看護婦が薬を間違えたために患者が死んだのだという嫌疑けんぎをかけて、是非その看護婦を殴なぐらせろと、医局へ逼せまった人があったというその話は、津田から見るといかにも滑稽こっけいであった。こういう性質たちの人と正反対に生みつけられた彼は、そこに馬鹿らしさ以外の何物をも見出みいだす事ができなかった。平たく云い直すと、彼は向うの短所ばかりに気を奪とられた。そうしてその裏側へ暗あんに自分の長所を点綴てんてつして喜んだ。だから自分の短所にはけっして思い及ばなかったと同一の結果に帰着した。
医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所に括くくりつけられなければならない現在の自分を悲観したくなった。気のせいか彼にはその現在が大変貴重に見えた。もう少し治療を後廻しにすれば好かったという後悔さえ腹の中には起った。 彼はまた吉川夫人の事を考え始めた。どうかして彼女をここへ呼びつける工夫はあるまいかと思うよりも、
どうかして彼女がここへ来てくれればいいがと思う方に、心の調子がだんだん移って行った。自分を見破られるという意味で、
平生からお延の直覚を悪く評価していたにもかかわらず、例外なこの場合だけには、それがあたって欲しいような気もどこかでした。
彼はお延の置いて行った書物の中うちから、その一冊を抽ぬいた。岡本の所蔵にかかるだけあるなと首肯うなずかせるような趣おもむきがそこここに見えた。
不幸にして彼は諧謔ヒューモアを解する事を知らなかった。
中に書いてある活字の意味は、頭に通じても胸にはそれほど応こたえなかった。頭にさえ呑のみ込めないのも続々出て来た。
責任のない彼は、自分に手頃なのを見つけようとして、どしどし飛ばして行った。すると偶然下しものようなのが彼の眼に触れた。
「娘の父が青年に向って、あなたは私わたしの娘を愛しておいでなのですかと訊きいたら、青年は、愛するの愛さないのっていう段じゃありません、
お嬢さんのためなら死のうとまで思っているんです。
あの懐なつかしい眼で、優しい眼遣めづかいをただの一度でもしていただく事ができるなら、僕はもうそれだけで死ぬのです。
すぐあの二百尺もあろうという崖がけの上から、岩の上へ落ちて、めちゃくちゃな血だらけな塊かたまりになって御覧に入れます。と答えた。
娘の父は首を掉ふって、実を云うと、私も少し嘘うそを吐つく性分しょうぶんだが、私の家うちのような少人数こにんずな家族に、
嘘付うそつきが二人できるのは、少し考えものですからね。と答えた」 嘘吐うそつきという言葉がいつもより皮肉に津田を苦笑させた。彼は腹の中で、嘘吐な自分を肯うけがう男であった。同時に他人の嘘をも根本的に認定する男であった。それでいて少しも厭世的えんせいてきにならない男であった。むしろその反対に生活する事のできるために、嘘が必要になるのだぐらいに考える男であった。彼は、今までこういう漠然ばくぜんとした人世観の下もとに生きて来ながら、自分ではそれを知らなかった。彼はただ行おこなったのである。だから少し深く入り込むと、自分で自分の立場が分らなくなるだけであった。
「愛と虚偽」
自分の読んだ一口噺ひとくちばなしからこの二字を暗示された彼は、二つのものの関係をどう説明していいかに迷った。彼は自分に大事なある問題の所有者であった。内心の要求上是非共それを解決しなければならない彼は、実験の機会が彼に与えられない限り、頭の中でいたずらに考えなければならなかった。哲学者でない彼は、自身に今まで行って来た人世観をすら、組織正しい形式の下に、わが眼の前に並べて見る事ができなかったのである。 百十六
津田は纏まとまらない事をそれからそれへと考えた。そのうちいつか午過ひるすぎになってしまった。彼の頭は疲れていた。もう一つ事を長く思い続ける勇気がなくなった。
しかし秋とは云いながら、独ひとり寝ているには日があまりに長過ぎた。彼は退屈を感じ出した。
そうしてまたお延の方に想おもいを馳はせた。彼女の姿を今日も自分の眼の前に予期していた彼は横着おうちゃくであった。
今まで彼女の手前憚はばからなければならないような事ばかりを、さんざん考え抜いたあげく、それが厭いやになると、すぐお延はもう来そうなものだと思って平気でいた。
自然頭の中に湧わいて出るものに対して、責任はもてないという弁解さえその時の彼にはなかった。
彼の見たお延に不可解な点がある代りに、自分もお延の知らない事実を、胸の中うちに納めているのだぐらいの料簡りょうけんは、
遠くの方で働らいていたかも知れないが、それさえ、いざとならなければ判然はっきりした言葉になって、彼の頭に現われて来るはずがなかった。
お延はなかなか来なかった。
お延以上に待たれる吉川夫人は固もとより姿を見せなかった。津田は面白くなかった。
先刻さっきから近くで誰かがやっている、彼の最も嫌きらいな謡うたいの声が、不快に彼の耳を刺戟しげきした。
彼の記憶にある謡曲指南ようきょくしなんという細長い看板が急に思い出された。それは洗濯屋の筋向うに当る二階建の家うちであった。
二階が稽古けいこをする座敷にでもなっていると見えて、距離の割に声の方がむやみに大きく響いた。
他ひとが勝手にやっているものを止やめさせる権利をどこにも見出みいだし得ない彼は、彼の不平をどうする事もできなかった。
彼はただ早く退院したいと思うだけであった。
柳の木の後うしろにある赤い煉瓦造れんがづくりの倉に、山形やまがたの下に一を引いた屋号のような紋が付いていて、
その左右に何のためとも解わからない、大きな折釘おれくぎに似たものが壁の中から突き出している所を、津田が見るとも見ないとも片のつかない眼で、
ぼんやり眺めていた時、遠慮のない足音が急に聞こえて、誰かが階子段はしごだんを、どしどし上のぼって来た。
津田はおやと思った。この足音の調子から、その主がもう七分通り、彼の頭の中では推定されていた。 彼の予覚はすぐ事実になった。彼が室へやの入口に眼を転ずると、ほとんどおッつかッつに、
小林は貰い立ての外套がいとうを着たままつかつか入って来た。
「どうかね」
彼はすぐ胡坐あぐらをかいた。津田はむしろ苦しそうな笑いを挨拶あいさつの代りにした。何しに来たんだという心持が、顔を見ると共にもう起っていた。
「これだ」と彼は外套の袖そでを津田に突きつけるようにして見せた。
「ありがとう、お蔭かげでこの冬も生きて行かれるよ」 小林はお延の前で云ったと同じ言葉を津田の前で繰り返した。しかし津田はお延からそれを聴きかされていなかったので、別に皮肉とも思わなかった。
「奥さんが来たろう」
小林はまたこう訊きいた。
「来たさ。来るのは当り前じゃないか」
「何か云ってたろう」 津田は「うん」と答えようか、「いいや」と答えようかと思って、少し躊躇ちゅうちょした。彼は小林がどんな事をお延に話したか、それを知りたかった。それを彼の口からここで繰り返させさえすれば、自分の答は「うん」だろうが、「いいえ」だろうが、同じ事であった。しかしどっちが成功するかそこはとっさの際にきめる訳に行かなかった。ところがその態度が意外な意味になって小林に反響した。
「奥さんが怒って来たな。きっとそんな事だろうと、僕も思ってたよ」
容易に手がかりを得た津田は、すぐそれに縋すがりついた。
「君があんまり苛いじめるからさ」
「いや苛めやしないよ。ただ少し調戯からかい過ぎたんだ、可哀想かわいそうに。泣きゃしなかったかね」 津田は少し驚ろいた。
「泣かせるような事でも云ったのかい」
「なにどうせ僕の云う事だから出鱈目でたらめさ。つまり奥さんは、岡本さん見たいな上流の家庭で育ったので、天下に僕のような愚劣な人間が存在している事をまだ知らないんだ。それでちょっとした事まで苦くにするんだろうよ。あんな馬鹿に取り合うなと君が平生から教えておきさえすればそれでいいんだ」
「そう教えている事はいるよ」と津田も負けずにやり返した。小林はハハと笑った。
「まだ少し訓練が足りないんじゃないか」 津田は言葉を改めた。
「しかし君はいったいどんな事を云って、彼奴あいつに調戯ったのかい」
「そりゃもうお延さんから聴きいたろう」
「いいや聴かない」
二人は顔を見合せた。互いの胸を忖度そんたくしようとする試みが、同時にそこに現われた。 百十七
津田が小林に本音ほんねを吹かせようとするところには、ある特別の意味があった。彼はお延の性質をその著るしい断面においてよく承知していた。
お秀と正反対な彼女は、飽あくまで素直すなおに、飽くまで閑雅しとやかな態度を、絶えず彼の前に示す事を忘れないと共に、
どうしてもまた彼の自由にならない点を、同様な程度でちゃんともっていた。彼女の才は一つであった。けれどもその応用は両面に亘わたっていた。
これは夫に知らせてならないと思う事、または隠しておく方が便宜べんぎだときめた事、そういう場合になると、彼女は全く津田の手にあまる細君であった。
彼女が柔順であればあるほど、津田は彼女から何にも掘り出す事ができなかった。
彼女と小林の間に昨日きのうどんなやりとりが起ったか、それはお秀の騒ぎで委細を訊きく暇もないうちに、時間が経たってしまったのだから、
事実やむをえないとしても、もしそういう故障のない時に、津田から詳しいありのままを問われたら、お延はおいそれと彼の希望通り、綿密な返事を惜まずに、
彼の要求を満足させたろうかと考えると、そこには大きな疑問があった。お延の平生から推して、津田はむしろごまかされるに違ないと思った。
ことに彼がもしやと思っている点を、小林が遠慮なくしゃべったとすれば、お延はなおの事、それを聴きかないふりをして、黙って夫の前を通り抜ける女らしく見えた。
少くとも津田の観察した彼女にはそれだけの余裕が充分あった。
すでにお延の方を諦あきらめなければならないとすると、津田は自分に必要な知識の出所でどころを、小林に向って求めるよりほかに仕方がなかった。
小林は何だかそこを承知しているらしかった。
「なに何にも云やしないよ。嘘うそだと思うなら、もう一遍お延さんに訊きいて見たまえ。
もっとも僕は帰りがけに悪いと思ったから、詫あやまって来たがね。実を云うと、何で詫まったか、僕自身にも解らないくらいのものさ」
彼はこう云って嘯うそぶいた。それからいきなり手を延べて、津田の枕元にある読みかけの書物を取り上げて、一分ばかりそれを黙読した。 「こんなものを読むのかね」と彼はさも軽蔑けいべつした口調で津田に訊きいた。彼はぞんざいに頁ページを剥繰はぐりながら、終りの方から逆に始めへ来た。
そうしてそこに岡本という小さい見留印みとめいんを見出みいだした時、彼は「ふん」と云った。
「お延さんが持って来たんだな。道理で妙な本だと思った。――時に君、岡本さんは金持だろうね」
「そんな事は知らないよ」
「知らないはずはあるまい。だってお延さんの里さとじゃないか」
「僕は岡本の財産を調べた上で、結婚なんかしたんじゃないよ」
「そうか」 この単純な「そうか」が変に津田の頭に響いた。「岡本の財産を調べないで、君が結婚するものか」という意味にさえ取れた。
「岡本はお延の叔父おじだぜ、君知らないのか。里さとでも何でもありゃしないよ」
「そうか」
小林はまた同じ言葉を繰り返した。津田はなお不愉快になった。
「そんなに岡本の財産が知りたければ、調べてやろうか」
小林は「えへへ」と云った。「貧乏すると他ひとの財産まで苦になってしようがない」 津田は取り合わなかった。それでその問題を切り上げるかと思っていると、小林はすぐ元へ帰って来た。
「しかしいくらぐらいあるんだろう、本当のところ」
こう云う態度はまさしく彼の特色であった。
そうしていつでも二様に解釈する事ができた。
頭から向うを馬鹿だと認定してしまえばそれまでであると共に、一度こっちが馬鹿にされているのだと思い出すと、また際限もなく馬鹿にされている訳にもなった。
彼に対する津田は実のところ半信半疑の真中に立っていた。だからそこに幾分でも自分の弱点が潜在する場合には、馬鹿にされる方の解釈に傾むかざるを得なかった。
ただ相手をつけあがらせない用心をするよりほかに仕方がなかった彼は、ただ微笑した。
「少し借りてやろうか」
「借りるのは厭いやだ。貰もらうなら貰ってもいいがね。――いや貰うのも御免だ、どうせくれる気遣きづかいはないんだから。
仕方がなければ、まあ取るんだな」小林はははと笑った。「一つ朝鮮へ行く前に、面白い秘密でも提供して、岡本さんから少し取って行くかな」
津田はすぐ話をその朝鮮へ持って行った。 「時にいつ立つんだね」
「まだしっかり判らない」
「しかし立つ事は立つのかい」
「立つ事は立つ。君が催促しても、しなくっても、立つ日が来ればちゃんと立つ」
「僕は催促をするんじゃない。時間があったら君のために送別会を開いてやろうというのだ」
今日小林から充分な事が聴きけなかったら、その送別会でも利用してやろうと思いついた津田は、こう云って予備としての第二の機会を暗あんに作り上げた。 百十八
故意だか偶然だか、津田の持って行こうとする方面へはなかなか持って行かれない小林に対して、この注意はむしろ必要かも知れなかった。
彼はいつまでも津田の問に応ずるようなまた応じないような態度を取った。そうしてしつこく自分自身の話題にばかり纏綿つけまつわった。
それがまた津田の訊きこうとする事と、間接ではあるが深い関係があるので、津田は蒼蠅うるさくもあり、じれったくもあった。何となく遠廻しに痛振いたぶられるような気もした。
「君吉川と岡本とは親類かね」と小林が云い出した。
津田にはこの質問が無邪気とは思えなかった。
「親類じゃない、ただの友達だよ。いつかも君が訊いた時に、そう云って話したじゃないか」
「そうか、あんまり僕に関係の遠い人達の事だもんだから、つい忘れちまった。しかし彼らは友達にしても、ただの友達じゃあるまい」
「何を云ってるんだ」 津田はついその後あとへ馬鹿野郎と付け足したかった。
「いや、よほどの親友なんだろうという意味だ。そんなに怒らなくってもよかろう」
吉川と岡本とは、小林の想像する通りの間柄に違なかった。単なる事実はただそれだけであった。
しかしその裏に、津田とお延を貼はりつけて、裏表の意味を同時に眺める事は自由にできた。
「君は仕合せな男だな」と小林が云った。「お延さんさえ大事にしていれば間違はないんだから」
「だから大事にしているよ。君の注意がなくったって、そのくらいの事は心得ているんだ」
「そうか」 小林はまた「そうか」という言葉を使った。この真面目まじめくさった「そうか」が重なるたびに、津田は彼から脅おびやかされるような気がした。
「しかし君は僕などと違って聡明そうめいだからいい。他ひとはみんな君がお延さんに降参し切ってるように思ってるぜ」
「他ひととは誰の事だい」
「先生でも奥さんでもさ」
藤井の叔父や叔母から、そう思われている事は、津田にもほぼ見当けんとうがついていた。
「降参し切っているんだから、そう見えたって仕方がないさ」
「そうか。――しかし僕のような正直者には、とても君の真似はできない。君はやッぱりえらい男だ」 「君が正直で僕が偽物ぎぶつなのか。その偽物がまた偉くって正直者は馬鹿なのか。君はいつまたそんな哲学を発明したのかい」
「哲学はよほど前から発明しているんだがね。今度改めてそれを発表しようと云うんだ、朝鮮へ行くについて」
津田の頭に妙な暗示が閃ひらめかされた。
「君旅費はもうできたのか」
「旅費はどうでもできるつもりだがね」
「社の方で出してくれる事にきまったのかい」
「いいや。もう先生から借りる事にしてしまった」
「そうか。そりゃ好い具合だ」
「ちっとも好い具合じゃない。僕はこれでも先生の世話になるのが気の毒でたまらないんだ」 こういう彼は、平気で自分の妹のお金きんさんを藤井に片づけて貰もらう男であった。
「いくら僕が恥知らずでも、この上金の事で、先生に迷惑をかけてはすまないからね」
津田は何とも答えなかった。小林は無邪気に相談でもするような調子で云った。
「君どこかに強奪ゆする所はないかね」
「まあないね」と云い放った津田は、わざとそっぽを向いた。
「ないかね。どこかにありそうなもんだがな」
「ないよ。近頃は不景気だから」
「君はどうだい。世間はとにかく、君だけはいつも景気が好さそうじゃないか」
「馬鹿云うな」 岡本から貰った小切手も、お秀の置いて行った紙包も、みんなお延に渡してしまった後あとの彼の財布は空からと同じ事であった。
よしそれが手元にあったにしたところで、彼はこの場合小林のために金銭上の犠牲を払う気は起らなかった。
第一事がそこまで切迫して来ない限り、彼は相談に応ずる必要を毫ごうも認めなかった。
不思議に小林の方でも、それ以上津田を押さなかった。その代り突然妙なところへ話を切り出して彼を驚ろかした。
その朝藤井へ行った彼は、そこで例いつもするように昼飯の馳走ちそうになって、長い時間を原稿の整理で過ごしているうちに、玄関の格子こうしが開あいたので、
ひょいと自分で取次に出た。そうしてそこに偶然お秀の姿を見出みいだしたのである。
小林の話をそこまで聴いた時、津田は思わず腹の中で「畜生ッ先廻りをしたな」と叫んだ。しかしただそれだけではすまなかった。
小林の頭にはまだ津田を驚ろかせる材料が残っていた。 百十九
しかし彼の驚ろかし方には、また彼一流の順序があった。彼は一番始めにこんな事を云って津田に調戯からかった。
「兄妹喧嘩きょうだいげんかをしたんだって云うじゃないか。先生も奥さんも、お秀さんにしゃべりつけられて弱ってたぜ」
「君はまた傍そばでそれを聴きいていたのか」
小林は苦笑しながら頭を掻かいた。
「なに聴こうと思って聴いた訳でもないがね。まあ天然自然てんねんしぜん耳へ入ったようなものだ。何しろしゃべる人がお秀さんで、しゃべらせる人が先生だからな」 お秀にはどこか片意地で一本調子な趣おもむきがあった。
それに一種の刺戟しげきが加わると、平生の落ちつきが全く無くなって、不断と打って変った猛烈さをひょっくり出現させるところに、津田とはまるで違った特色があった。
叔父はまた叔父で、何でも構わず底の底まで突きとめなければ承知のできない男であった。単に言葉の上だけでもいいから、前後一貫して俗にいう辻褄つじつまが合う最後まで行きたいというのが、こういう場合相手に対する彼の態度であった。筆の先で思想上の問題を始終しじゅう取り扱かいつけている癖が、活字を離れた彼の日常生活にも憑のり移ってしまった結果は、そこによく現われた。彼は相手にいくらでも口を利かせた。その代りまたいくらでも質問をかけた。それが或程度まで行くと、質問という性質を離れて、詰問に変化する事さえしばしばあった。
津田は心の中で、この叔父と妹と対坐たいざした時の様子を想像した。ことによるとそこでまた一波瀾ひとはらん起したのではあるまいかという疑うたがいさえ出た。
しかし小林に対する手前もあるので、上部うわべはわざと高く出た。
「おおかためちゃくちゃに僕の悪口でも云ったんだろう」
小林は御挨拶ごあいさつにただ高笑いをした後で、こんな事を云った。
「だが君にも似合わないね、お秀さんと喧嘩をするなんて」 「僕だからしたのさ。彼奴あいつだって堀の前なら、もっと遠慮すらあね」
「なるほどそうかな。世間じゃよく夫婦喧嘩っていうが、夫婦喧嘩より兄妹喧嘩の方が普通なものかな。僕はまだ女房を持った経験がないから、
そっちのほうの消息はまるで解わからないが、これでも妹はあるから兄妹の味ならよく心得ているつもりだ。君何だぜ。僕のような兄でも、妹と喧嘩なんかした覚はまだないぜ」
「そりゃ妹次第さ」
「けれどもそこはまた兄次第だろう」
「いくら兄だって、少しは腹の立つ場合もあるよ」 小林はにやにや笑っていた。
「だが、いくら君だって、今お秀さんを怒らせるのが得策だとは思ってやしまい」
「そりゃ当り前だよ。好んで誰が喧嘩けんかなんかするもんか。あんな奴やつと」
小林はますます笑った。彼は笑うたびに一調子ひとちょうしずつ余裕を生じて来た。
「蓋けだしやむをえなかった訳だろう。しかしそれは僕の云う事だ。僕は誰と喧嘩したって構わない男だ。誰と喧嘩したって損をしっこない境遇に沈淪ちんりんしている人間だ。
喧嘩の結果がもしどこかにあるとすれば、それは僕の損にゃならない。
何となれば、僕はいまだかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね。
要するに喧嘩から起り得るすべての変化は、みんな僕の得とくになるだけなんだから、僕はむしろ喧嘩を希望してもいいくらいなものだ。
けれども君は違うよ。君の喧嘩はけっして得にゃならない。そうして君ほどまた損得利害をよく心得ている男は世間にたんとないんだ。
ただ心得てるばかりじゃない、君はそうした心得の下もとに、朝から晩まで寝たり起きたりしていられる男なんだ。
少くともそうしなければならないと始終しじゅう考えている男なんだ。好いかね。その君にして――」
津田は面倒臭そうに小林を遮さえぎった。
「よし解わかった。解ったよ。つまり他ひとと衝突するなと注意してくれるんだろう。
ことに君と衝突しちゃ僕の損になるだけだから、なるべく事を穏便おんびんにしろという忠告なんだろう、君の主意は」 小林は惚とぼけた顔をしてすまし返った。
「何僕と? 僕はちっとも君と喧嘩をする気はないよ」
「もう解ったというのに」
「解ったらそれでいいがね。誤解のないように注意しておくが、僕は先刻さっきからお秀さんの事を問題にしているんだぜ、君」
「それも解ってるよ」
「解ってるって、そりゃ京都の事だろう。あっちが不首尾になるという意味だろう」
「もちろんさ」
「ところが君それだけじゃないぜ。まだほかにも響いて来るんだぜ、気をつけないと」
小林はそこで句を切って、自分の言葉の影響を試験するために、津田の顔を眺めた。津田ははたして平気でいる事ができなかった。 百二十
小林はここだという時機を捕つらまえた。
「お秀さんはね君」と云い出した時の彼は、もう津田を擒とりこにしていた。
「お秀さんはね君、先生の所へ来る前に、もう一軒ほかへ廻って来たんだぜ。その一軒というのはどこの事だか、君に想像がつくか」
津田には想像がつかなかった。少なくともこの事件について彼女が足を運びそうな所は、藤井以外にあるはずがなかった。
「そんな所は東京にないよ」
「いやあるんだ」 津田は仕方なしに、頭の中でまたあれかこれかと物色して見た。しかしいくら考えても、見当らないものはやッぱり見当らなかった。
しまいに小林が笑いながら、その宅うちの名を云った時に、津田ははたして驚ろいたように大きな声を出した。
「吉川? 吉川さんへまたどうして行ったんだろう。何にも関係がないじゃないか」
津田は不思議がらざるを得なかった。
ただ吉川と堀を結びつけるだけの事なら、津田にも容易にできた。強い空想の援たすけに依る必要も何にもなかった。
津田夫婦の結婚するとき、表向おもてむき媒妁ばいしゃくの労を取ってくれた吉川夫婦と、彼の妹にあたるお秀と、その夫の堀とが社交的に関係をもっているのは、
誰の眼にも明らかであった。しかしその縁故で、この問題を提ひっさげたお秀が、とくに吉川の門に向う理由はどこにも発見できなかった。
「ただ訪問のために行っただけだろう。単に敬意を払ったんだろう」
「ところがそうでないらしいんだ。お秀さんの話を聴きいていると」 津田はにわかにその話が聴きたくなった。小林は彼を満足させる代りに注意した。
「しかし君という男は、非常に用意周到なようでどこか抜けてるね。あんまり抜けまい抜けまいとするから、自然手が廻りかねる訳かね。
今度の事だって、そうじゃないか、第一お秀さんを怒らせる法はないよ、君の立場として。それから怒らせた以上、吉川の方へ突ッ走らせるのは愚ぐだよ。
その上吉川の方へ向いて行くはずがないと思い込んで、初手しょてから高を括くくっているなんぞは、君の平生にも似合わないじゃないか」
結果の上から見た津田の隙間すきまを探さがし出す事は小林にも容易であった。
「いったい君のファーザーと吉川とは友達だろう。そうして君の事はファーザーから吉川に万事宜よろしく願ってあるんだろう。そこへお秀さんが馳かけ込むのは当り前じゃないか」
津田は病院へ来る前、社の重役室で吉川から聴かされた「年寄に心配をかけてはいけない。
君が東京で何をしているか、ちゃんとこっちで解ってるんだから、もし不都合な事があれば、京都へ知らせてやるだけだ。用心しろ」という意味の言葉を思い出した。
それは今から解釈して見ても冗談半分じょうだんはんぶんの訓戒に過ぎなかった。しかしもしそれをここで真面目まじめ一式な文句に転倒するものがあるとすれば、
その作者はお秀であった。
「ずいぶん突飛とっぴな奴やつだな」 突飛という性格が彼の家伝にないだけ彼の批評には意外という観念が含まれていた。
「いったい何を云やがったろう、吉川さんで。――彼奴あいつの云う事を真向まともに受けていると、いいのは自分だけで、ほかのものはみんな悪くなっちまうんだから困るよ」
津田の頭には直接の影響以上に、もっと遠くの方にある大事な結果がちらちらした。
吉川に対する自分の信用、吉川と岡本との関係、岡本とお延との縁合えんあい、それらのものがお秀の遣口やりくち一つでどう変化して行くか分らなかった。
「女はあさはかなもんだからな」
この言葉を聴きいた小林は急に笑い出した。今まで笑ったうちで一番大きなその笑い方が、津田をはっと思わせた。彼は始めて自分が何を云っているかに気がついた。
「そりゃどうでもいいが、お秀が吉川へ行ってどんな事をしゃべったのか、叔父に話していたところを君が聴きいたのなら、教えてくれたまえ」
「何かしきりに云ってたがね。実をいうと、僕は面倒だから碌ろくに聴いちゃいなかったよ」 こう云った小林は肝心かんじんなところへ来て、知らん顔をして圏外けんがいへ出てしまった。津田は失望した。その失望をしばらく味わった後あとで、小林はまた圏内けんないへ帰って来た。
「しかしもう少し待ってたまえ。否いやでも応おうでも聴かされるよ」
津田はまさかお秀がまた来る訳でもなかろうと思った。
「なにお秀さんじゃない。お秀さんは直じかに来やしない。その代りに吉川の細君が来るんだ。
嘘うそじゃないよ。この耳でたしかに聴いて来たんだもの。お秀さんは細君の来る時間まで明言したくらいだ。おおかたもう少ししたら来るだろう」
お延の予言はあたった。津田がどうかして呼びつけたいと思っている吉川夫人は、いつの間にか来る事になっていた。 百二十一
津田の頭に二つのものが相継あいついで閃ひらめいた。一つはこれからここへ来るその吉川夫人を旨うまく取扱わなければならないという事前じぜんの暗示あんじであった。
彼女の方から病院まで足を運んでくれる事は、予定の計画から見て、彼の最も希望するところには違ちがいなかったが、
来訪の意味がここに新らしく付け加えられた以上、それに対する彼の応答おうとうぶりも変えなければならなかった。
この場合における夫人の態度を想像に描いて見た彼は、多少の不安を感じた。お秀から偏見を注つぎ込こまれた後の夫人と、
まだ反感を煽あおられない前の夫人とは、彼の眼に映るところだけでも、だいぶ違っていた。
けれどもそこには平生の自信もまた伴なっていた。
彼には夫人の持ってくる偏見と反感を、一場いちじょうの会見で、充分引繰ひっくり返かえして見せるという覚悟があった。
少くともここでそれだけの事をしておかなければ、自分の未来が危なかった。彼は三分の不安と七分の信力をもって、彼女の来訪を待ち受けた。
残る一つの閃ひらめきが、お延に対する態度を、もう一遍臨時に変更する便宜べんぎを彼に教えた。先刻さっきまでの彼は退屈のあまり彼女の姿を刻々に待ち設もうけていた。
しかし今の彼には別途の緊張があった。 彼は全然異なった方面の刺戟しげきを予想した。
お延はもう不用であった。というよりも、来られてはかえって迷惑であった。その上彼はただ二人、夫人と差向いで話してみたい特殊な問題も控えていた。
彼はお延と夫人がここでいっしょに落ち合う事を、是非共防がなければならないと思い定めた。
附帯条件として、小林を早く追払おっぱらう手段も必要になって来た。しかるにその小林は今にも吉川夫人が見えるような事を云いながら、
自分の帰る気色けしきをどこにも現わさなかった。彼は他ひとの邪魔になる自分を苦くにする男ではなかった。時と場合によると、
それと知って、わざわざ邪魔までしかねない人間であった。しかもそこまで行って、実際気がつかずに迷惑がらせるのか、
または心得があって故意に困らせるのか、その判断を確しかと他ひとに与えずに平気で切り抜けてしまうじれったい人物であった。
津田は欠伸あくびをして見せた。彼の心持と全く釣り合わないこの所作しょさが彼を二つに割った。どこかそわそわしながら
、いかにも所在なさそうに小林と応対するところに、中断された気分の特色が斑まだらになって出た。それでも小林はすましていた。
枕元にある時計をまた取り上げた津田は、それを置くと同時に、やむをえず質問をかけた。 「君何か用があるのか」
「ない事もないんだがね。なにそりゃ今に限った訳でもないんだ」
津田には彼の意味がほぼ解った。しかしまだ降参する気にはなれなかった。と云って、すぐ撃退する勇気はなおさらなかった。
彼は仕方なしに黙っていた。すると小林がこんな事を云い出した。
「僕も吉川の細君に会って行こうかな」 冗談じょうだんじゃないと津田は腹の中で思った。
「何か用があるのかい」
「君はよく用々って云うが、何も用があるから人に会うとは限るまい」
「しかし知らない人だからさ」
「知らない人だからちょっと会って見たいんだ。どんな様子だろうと思ってね。いったい僕は金持の家庭へ入った事もないし、
またそんな人と交際つきあった例ためしもない男だから、ついこういう機会に、ちょっとでもいいから、会っておきたくなるのさ」
「見世物みせものじゃあるまいし」
「いや単なる好奇心だ。それに僕は閑ひまだからね」 津田は呆あきれた。彼は小林のようなみすぼらしい男を、友達の内にもっているという証拠を、夫人に見せるのが厭いやでならなかった。
あんな人と付合っているのかと軽蔑けいべつされた日には、自分の未来にまで関係すると考えた。
「君もよほど呑気のんきだね。吉川の奥さんが今日ここへ何しに来るんだか、君だって知ってるじゃないか」
「知ってる。――邪魔かね」
津田は最後の引導いんどうを渡すよりほかに途みちがなくなった。
「邪魔だよ。だから来ないうちに早く帰ってくれ」 小林は別に怒おこった様子もしなかった。
「そうか、じゃ帰ってもいい。帰ってもいいが、その代り用だけは云って行こう、せっかく来たものだから」
面倒になった津田は、とうとう自分の方からその用を云ってしまった。
「金だろう。僕に相当の御用なら承うけたまわってもいい。しかしここには一文も持っていない。と云って、また外套がいとうのように留守るすへ取りに行かれちゃ困る」
小林はにやにや笑いながら、じゃどうすればいいんだという問を顔色でかけた。まだ小林に聴きく事の残っている津田は、
出立前しゅったつぜんもう一遍彼に会っておく方が便宜べんぎであった。けれども彼とお延と落ち合う掛念けねんのある病院では都合つごうが悪かった。
津田は送別会という名の下もとに、彼らの出会うべき日と時と場所とを指定した後で、ようやくこの厄介者やっかいものを退去させた。 百二十二
津田はすぐ第二の予防策に取りかかった。彼は床の上に置かれた小型の化粧箱を取とり除のけて、
その下から例のレターペーパーを同じラヴェンダー色の封筒を引き抜くや否や、すぐ万年筆を走らせた。
今日は少し都合があるから、見舞に来るのを見合せてくれという意味を、簡単に書き下くだした手紙は一分かかるかかからないうちに出来上った。
気の急せいた彼には、それを読み直す暇さえ惜かった。彼はすぐ封をしてしまった。
そうして中味の不完全なために、お延がどんな疑いを起すかも知れないという事には、少しの顧慮も払わなかった。
平生の用心を彼から奪ったこの場合は、彼を怱卒そそかしくしたのみならず彼の心を一直線にしなければやまなかった。
彼は手紙を持ったまま、すぐ二階を下りて看護婦を呼んだ。
「ちょっと急な用事だから、すぐこれを持たせて車夫を宅うちまでやって下さい」
看護婦は「へえ」と云って封書を受け取ったなり、どこに急な用事ができたのだろうという顔をして、宛名あてなを眺めた。
津田は腹の中で往復に費やす車夫の時間さえ考えた。
「電車で行くようにして下さい」 彼は行き違いになる事を恐れた。手紙を受け取らない前にお延が病院へ来てはせっかくの努力も無駄になるだけであった。
二階へ帰って来た後あとでも、彼はそればかりが苦くになった。そう思うと、お延がもう宅うちを出て、電車へ乗って、こっちの方角へ向いて動いて来るような気さえした。
自然それといっしょに頭の中に纏付まつわるのは小林であった。
もし自分の目的が達せられない先に、細君が階子段はしごだんの上に、すらりとしたその姿を現わすとすれば、それは全く小林の罪に相違ないと彼は考えた。
貴重な時間を無駄に費やさせられたあげく、頼むようにして帰って貰った彼の後姿うしろすがたを見送った津田は、
それでももう少しで刻下こっかの用を弁ずるために、小林を利用するところであった。
「面倒でも帰りにちょっと宅へ寄って、今日来てはいけないとお延に注意してくれ」。
こういう言葉がつい口の先へ出かかったのを、彼は驚ろいて、引ッ込ましてしまったのである。
もしこれが小林でなかったなら、この際どんなに都合がよかったろうにとさえ実は思ったのである。 津田が神経を鋭どくして、今来るか今来るかという細かい予期に支配されながら、吉川夫人を刻々に待ち受けている間に、
彼の看護婦に渡したお延への手紙は、また彼のいまだ想おもいいたらない運命に到着すべく余儀なくされた。
手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫はまた看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。
それから教えられた通りの停留所で下りた。
そこを少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなくまた名宛なあての苗字みょうじを小綺麗こぎれいな二階建の一軒の門札もんさつに見出みいだした。
彼は玄関へかかった。そこで手に持った手紙を取次に出たお時に渡した。
ここまではすべての順序が津田の思い通りに行った。しかしその後あとには、書面を認したためる時、まるで彼の頭の中に入っていなかった事実が横よこたわっていた。
手紙はすぐお延の手に落ちなかった。 しかし津田の懸念けねんしたように、宅うちにいなかったお延は、彼の懸念したように病院へ出かけたのではなかった。彼女は別に行先を控えていた。
しかもそれは際きわどい機会を旨うまく利用しようとする敏捷びんしょうな彼女の手腕を充分に発揮した結果であった。
その日のお延は朝から通例のお延であった。彼女は不断のように起きて、不断のように動いた。津田のいる時と万事変りなく働らいた彼女は、
それでも夫の留守るすから必然的に起る、時間の余裕を持て余すほど楽らくな午前を過ごした。
午飯ひるめしを食べた後で、彼女は洗湯せんとうに行った。
病院へ顔を出す前ちょっと綺麗きれいになっておきたい考えのあった彼女は、そこでずいぶん念入ねんいりに時間を費やした後あと、
晴々せいせいした好い心持を湯上りの光沢つやつやしい皮膚はだに包みながら帰って来ると、お時から嘘うそではないかと思われるような報告を聴きいた。 「堀の奥さんがいらっしゃいました」
お延は下女の言葉を信ずる事ができないくらいに驚ろいた。昨日きのうの今日きょう、お秀の方からわざわざ自分を尋ねて来る。
そんな意外な訪問があり得べきはずはなかった。彼女は二遍も三遍も下女の口を確かめた。何で来たかをさえ訊きかなければ気がすまなかった。
なぜ待たせておかなかったかも問題になった。しかし下女は何にも知らなかった。
ただ藤井の帰りに通とおり路みちだからちょっと寄ったまでだという事だけが、お秀の下女に残して行った言葉で解った。
お延は既定のプログラムをとっさの間に変更した。病院は抜いて、お秀の方へ行先を転換しなければならないという覚悟をきめた。
それは津田と自分との間に取り換わされた約束に過ぎなかった。何らの不自然に陥おちいる痕迹こんせきなしにその約束を履行するのは今であった。
彼女はお秀の後あとを追おっかけるようにして宅を出た。 「パンツ泥棒」高木毅、
「賄賂1200万円」甘利明を同時に起用…新首相・岸田文雄 文春オンライン 百二十三
堀の家うちは大略おおよその見当から云って、病院と同じ方角にあるので、電車を二つばかり手前の停留所で下りて、下りた処から、すぐ右へ切れさえすれば、
つい四五町の道を歩くだけで、すぐ門前へ出られた。
藤井や岡本の住居すまいと違って、郊外に遠い彼の邸やしきには、ほとんど庭というものがなかった。
車廻し、馬車廻しは無論の事であった。往来に面して建てられたと云ってもいいその二階作りと門の間には、ただ三間足らずの余地があるだけであった。
しかもそれが石で敷き詰められているので、地面の色はどこにも見えなかった。 市区改正の結果、よほど以前に取り広げられた往来には、比較的よそで見られない幅があった。それでいて商売をしている店は、町内にほとんど一軒も見当らなかった。
弁護士、医者、旅館、そんなものばかりが並んでいるので、四辺あたりが繁華な割に、通りはいつも閑静であった。
その上路みちの左右には柳の立木が行儀よく植えつけられていた。したがって時候の好い時には、殺風景な市内の風も、
両側に揺うごく緑りの裡うちに一種の趣おもむきを見せた。
中で一番大きいのが、ちょうど堀ほりの塀際へいぎわから斜めに門の上へ長い枝を差し出しているので、よそ目めにはそれが家と調子を取るために、
わざとそこへ移されたように体裁ていさいが好かった。
その他の特色を云うと、玄関の前に大きな鉄の天水桶てんすいおけがあった。
まるで下町の質屋か何かを聯想れんそうさせるこの長物ちょうぶつと、そのすぐ横にある玄関の構かまえとがまたよく釣り合っていた。
比較的間口の広いその玄関の入口はことごとく細ほそい格子こうしで仕切られているだけで、唐戸からどだの扉ドアだのの装飾はどこにも見られなかった。 一口でいうと、ハイカラな仕舞しもうた屋やと評しさえすれば、それですぐ首肯うなずかれるこの家の職業は、少なくとも系統的に、
家の様子を見ただけで外部から判断する事ができるのに、不思議なのはその主人であった。
彼は自分がどんな宅うちへ入っているかいまだかつて知らなかった。
そんな事を苦くにする神経をもたない彼は、他ひとから自分の家業柄かぎょうがらを何とあげつらわれてもいっこう平気であった。
道楽者だが、満更まんざら無教育なただの金持とは違って、人柄からいえば、こんな役者向の家に住すまうのはむしろ不適当かも知れないくらいな彼は、
極きわめて我がの少ない人であった。悪く云えば自己の欠乏した男であった。
何でも世間の習俗通りにして行く上に、わが家庭に特有な習俗もまた改めようとしない気楽ものであった。
かくして彼は、彼の父、彼の母に云わせるとすなわち先代、の建てた土蔵造どぞうづくりのような、そうしてどこかに芸人趣味のある家に住んで満足しているのであった。
もし彼の美点がそこにもあるとすれば、わざとらしく得意がっていない彼の態度を賞ほめるよりほかに仕方がなかった。しかし彼はまた得意がるはずもなかった。
彼の眼に映る彼の住宅は、得意がるにしては、彼にとってあまりに陳腐ちんぷ過ぎた。 お延は堀の家うちを見るたびに、自分と家との間に存在する不調和を感じた。家へ入はいってからもその距離を思い出す事がしばしばあった。
お延の考えによると、一番そこに落ちついてぴたりと坐っていられるものは堀の母だけであった。ところがこの母は、家族中でお延の最も好かない女であった。
好かないというよりも、むしろ応対しにくい女であった。時代が違う、残酷に云えば隔世の感がある、もしそれが当らないとすれば、肌が合わない、出が違う、その他評する言葉はいくらでもあったが、結果はいつでも同じ事に帰着した。
次には堀その人が問題であった。お延から見たこの主人は、この家うちに釣り合うようでもあり、また釣り合わないようでもあった。
それをもう一歩進めていうと、彼はどんな家へ行っても、釣り合うようでもあり、釣り合わないようでもあるというのとほとんど同じ意味になるので、
始めから問題にしないのと、大した変りはなかった。この曖昧あいまいなところがまたお延の堀に対する好悪こうおの感情をそのままに現わしていた。
事実をいうと、彼女は堀を好いているようでもあり、また好いていないようでもあった。 最後に来きたるお秀に関しては、ただ要領を一口でいう事ができた。お延から見ると、彼女はこの家の構造に最も不向ふむきに育て上げられていた。
この断案にもう少しもったいをつけ加えて、心理的に翻訳すると、彼女とこの家庭の空気とはいつまで行っても一致しっこなかった。
堀の母とお秀、お延は頭の中にこの二人を並べて見るたびに一種の矛盾を強しいられた。しかし矛盾の結果が悲劇であるか喜劇であるかは容易に判断ができなかった。
家と人とをこう組み合せて考えるお延の眼に、不思議と思われる事がただ一つあった。
「一番家と釣り合の取れている堀の母が、最も彼女を手古摺てこずらせると同時に、その反対に出来上っているお秀がまた別の意味で、最も彼女に苦痛を与えそうな相手である」
玄関の格子こうしを開けた時、お延の頭に平生からあったこんな考えを一度に蘇よみがえらさせるべく号鈴ベルがはげしく鳴った。 百二十四
昨日きのう孫を伴つれて横浜の親類へ行ったという堀の母がまだ帰っていなかったのは、座敷へ案内されたお延にとって、意外な機会であった。
見方によって、好い都合つごうにもなり、また悪い跋ばつにもなるこの機会は、彼女から話しのしにくい年寄を追おい除のけてくれたと同時に、
ただ一人面めんと向き合って、当の敵かたきのお秀と応対しなければならない不利をも与えた。
お延に知れていないこの情実は、訪問の最初から彼女の勝手を狂わせた。
いつもなら何をおいても小さな髷まげに結いった母が一番先へ出て来て、義理ずぐめにちやほやしてくれるところを、今日に限って、
劈頭へきとうにお秀が顔を出したばかりか、待ち設もうけた老女はその後あとからも現われる様子をいっこう見せないので、
お延はいつもの予期から出てくる自然の調子をまず外はずさせられた。その時彼女はお秀を一目見た眼の中うちに、当惑の色を示した。
しかしそれはすまなかったという後悔の記念でも何でもなかった。単に昨日きのうの戦争に勝った得意の反動からくる一種のきまり悪さであった。
どんな敵かたきを打たれるかも知れないという微かすかな恐怖であった。この場をどう切り抜けたらいいか知らという思慮の悩乱でもあった。 お延はこの一瞥いちべつをお秀に与えた瞬間に、もう今日の自分を相手に握られたという気がした。
しかしそれは自分のもっている技巧のどうする事もできない高い源からこの一瞥いちべつが突如として閃ひらめいてしまった後であった。
自分の手の届かない暗中から不意に来たものを、喰い止める威力をもっていない彼女は、甘んじてその結果を待つよりほかに仕方がなかった。 一瞥ははたしてお秀の上によく働いた。しかしそれに反応してくる彼女の様子は、またいかにも予想外であった。
彼女の平生、その平生が破裂した昨日きのう、津田と自分と寄ってたかってその破裂を料理した始末、これらの段取を、
不断から一貫して傍はたの人の眼に着く彼女の性格に結びつけて考えると、どうしても無事に納まるはずはなかった。
大なり小なり次の波瀾はらんが呼び起されずに片がつこうとは、いかに自分の手際に重きをおくお延にも信ぜられなかった。
だから彼女は驚ろいた。座に着いたお秀が案に相違していつもより愛嬌あいきょうの好い挨拶あいさつをした時には、ほとんどわれを疑うくらいに驚ろいた。
その疑いをまた少しも後へ繰り越させないように、手抜てぬかりなく仕向けて来る相手の態度を眼の前に見た時、お延はむしろ気味が悪くなった。
何という変化だろうという驚ろきの後から、どういう意味だろうという不審が湧わいて起った。 けれども肝心かんじんなその意味を、お秀はまたいつまでもお延に説明しようとしなかった。
そればかりか、昨日病院で起った不幸な行ゆき違ちがいについても、ついに一言ひとことも口を利きく様子を見せなかった。
相手に心得があってわざと際きわどい問題を避けている以上、お延の方からそれを切り出すのは変なものであった。
第一好んで痛いところに触れる必要はどこにもなかった。と云って、どこかで区切くぎりを付けて、双方さっぱりしておかないと、
自分は何のために、今日ここまで足を運んだのか、主意が立たなくなった。しかし和解の形式を通過しないうちに、もう和解の実を挙げている以上、
それをとやかく表面へ持ち出すのも馬鹿げていた。 怜悧りこうなお延は弱らせられた。会話が滑なめらかにすべって行けば行くほど、一種の物足りなさが彼女の胸の中に頭を擡もたげて来た。
しまいに彼女は相手のどこかを突き破って、その内側を覗のぞいて見ようかと思い出した。
こんな点にかけると、すこぶる冒険的なところのある彼女は、万一やり損そくなった暁あかつきに、この場合から起り得る危険を知らないではなかった。
けれどもそこには自分の腕に対する相当の自信も伴っていた。
その上もし機会が許すならば、お秀の胸の格別なある一点に、打診を試ろみたいという希望が、お延の方にはあった。
そこを敲たたかせて貰もらって局部から自然に出る本音ほんねを充分に聴きく事は、津田と打ち合せを済ました訪問の主意でも何でもなかったけれども、
お延自身からいうと、うまく媾和こうわの役目をやり終おおせて帰るよりも遥はるかに重大な用向ようむきであった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています