☆★☆【夢】思春期の何でも語るスレ8【恋】☆★☆

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0001Ms.名無しさん2021/10/12(火) 22:11:42.670
           
       ,,;⊂⊃;,、 。” カッパッパー♪
       (,,,・∀・)/》
      【(つ #)o 巛 しぬこと以外はかすり傷☆
     (( (ノ ヽ)
              

0952Ms.名無しさん2021/10/23(土) 19:46:31.370
40代独身男性、銀行預金の低金利に絶望 「44万円貯金して利子が1円」 ★3 [ボラえもん★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1634979834/

0953Ms.名無しさん2021/10/23(土) 20:14:51.740
【岸田悲報】自民・岸田派候補者、衆院選でまさかの半分落選の可能性!15人が野党候補と大接戦、閣僚経験者も劣勢の苦戦 [ネトウヨ★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1634981047/

0954Ms.名無しさん2021/10/23(土) 20:23:48.630
百六十一

 小林は受け取ったものを、赤裸あかはだかのまま無雑作むぞうさに背広せびろの隠袋ポケットの中へ投げ込んだ。彼の所作しょさが平淡であったごとく、彼の礼の云いい方かたも横着であった。
「サンクス。僕は借りる気だが、君はくれるつもりだろうね。いかんとなれば、僕に返す手段のない事を、また返す意志のない事を、君は最初から軽蔑の眼をもって、認めているんだから」
 津田は答えた。
「無論やったんだ。しかし貰もらってみたら、いかな君でも自分の矛盾に気がつかずにはいられまい」
「いやいっこう気がつかない。矛盾とはいったい何だ。君から金を貰うのが矛盾なのか」
「そうでもないがね」と云った津田は上から下を見下みおろすような態度をとった。「まあ考えて見たまえ。その金はつい今まで僕の紙入の中にあったんだぜ。そうして転瞬てんしゅんの間に君の隠袋の裏に移転してしまったんだぜ。そんな小説的の言葉を使うのが厭なら、もっと判然はっきり云おうか。その金の所有権を急に僕から君に移したものは誰だ。答えて見ろ」
「君さ。君が僕にくれたのさ」
「いや僕じゃないよ」

0955Ms.名無しさん2021/10/23(土) 20:24:45.810
「何を云うんだな禅坊主の寝言ねごと見たいな事を。じゃ誰だい」
「誰でもない、余裕さ。君の先刻さっきから攻撃している余裕がくれたんだ。だから黙ってそれを受け取った君は、口でむちゃくちゃに余裕をぶちのめしながら、その実余裕の前にもう頭を下げているんだ。矛盾じゃないか」
 小林は眼をぱちぱちさせた後あとでこう云った。
「なるほどな、そう云えばそんなものか知ら。しかし何だかおかしいよ。実際僕はちっともその余裕なるものの前に、頭を下げてる気がしないんだもの」
「じゃ返してくれ」
 津田は小林の鼻の先へ手を出した。小林は女のように柔らかそうなその掌てのひらを見た。
「いや返さない。余裕は僕に返せと云わないんだ」
 津田は笑いながら手を引き込めた。
「それみろ」
「何がそれみろだ。余裕は僕に返せと云わないという意味が君にはよく解らないと見えるね。気の毒なる貴公子きこうしよだ」

0956Ms.名無しさん2021/10/23(土) 20:31:22.210
 小林はこう云いながら、横を向いて戸口の方を見つつ、また一句を付け加えた。
「もう来そうなものだな」
 彼の様子をよく見守った津田は、少し驚ろかされた。
「誰が来るんだ」
「誰でもない、僕よりもまだ余裕の乏しい人が来るんだ」
 小林は裸のまま紙幣をしまい込んだ自分の隠袋ポケットを、わざとらしく軽く叩たたいた。
「君から僕にこれを伝えた余裕は、再びこれを君に返せとは云わないよ。僕よりもっと余裕の足りない方へ順送じゅんおくりに送れと命令するんだよ。余裕は水のようなものさ。高い方から低い方へは流れるが、下から上へは逆行ぎゃっこうしないよ」

0957Ms.名無しさん2021/10/23(土) 20:38:39.740
 津田はほぼ小林の言葉を、意解いかいする事ができた。しかし事解じかいする事はできなかった。したがって半醒半酔はんせいはんすいのような落ちつきのない状態に陥おちいった。そこへ小林の次の挨拶あいさつがどさどさと侵入して来た。
「僕は余裕の前に頭を下げるよ、僕の矛盾を承認するよ、君の詭弁きべんを首肯しゅこうするよ。何でも構わないよ。礼を云うよ、感謝するよ」
 彼は突然ぽたぽたと涙を落し始めた。この急劇な変化が、少し驚ろいている津田を一層不安にした。せんだっての晩手古摺てこずらされた酒場バーの光景を思い出さざるを得なくなった彼は、眉まゆをひそめると共に、相手を利用するのは今だという事に気がついた。
「僕が何で感謝なんぞ予期するものかね、君に対して。君こそ昔を忘れているんだよ。僕の方が昔のままでしている事を、君はみんな逆さかに解釈するから、交際がますます面倒になるんじゃないか。例たとえばだね、君がこの間僕の留守へ外套がいとうを取りに行って、そのついでに何か妻さいに云ったという事も――」
 津田はこれだけ云って暗あんに相手の様子を窺うかがった。しかし小林が下を向いているので、彼はまるでその心持の転化作用を忖度そんたくする事ができなかった。
「何も好んで友達の夫婦仲を割さくような悪戯いたずらをしなくってもいい訳じゃないか」
「僕は君に関して何も云った覚おぼえはないよ」

0958Ms.名無しさん2021/10/23(土) 20:40:34.370
「しかし先刻さっき……」
「先刻は笑談じょうだんさ。君が冷嘲ひやかすから僕も冷嘲したんだ」
「どっちが冷嘲し出したんだか知らないが、そりゃどうでもいいよ。ただ本当のところを僕に云ってくれたって好さそうなものだがね」
「だから云ってるよ。何にも君に関して云った覚はないと何遍も繰り返して云ってるよ。細君を訊きき糺ただして見れば解る事じゃないか」
「お延は……」
「何と云ったい」
「何とも云わないから困るんだ。云わないで腹の中うちで思っていられちゃ、弁解もできず説明もできず、困るのは僕だけだからね」
「僕は何にも云わないよ。ただ君がこれから夫らしくするかしないかが問題なんだ」
「僕は――」
 津田がこう云いかけた時、近寄る足音と共に新らしく入って来た人が、彼らの食卓の傍そばに立った。

0959Ms.名無しさん2021/10/24(日) 04:30:24.860
百六十二

 それが先刻大通りの角で、小林と立談たちばなしをしていた長髪の青年であるという事に気のついた時、津田はさらに驚ろかされた。けれどもその驚ろきのうちには、暗あんにこの男を待ち受けていた期待も交まじっていた。明らさまな津田の感じを云えば、こんな人がここへ来るはずはないという断案と、もしここへ誰か来るとすれば、この人よりほかにあるまいという予想の矛盾であった。
 実を云うと、自働車の燭光あかりで照らされた時、彼の眸ひとみの裏うちに映ったこの人の影像イメジは津田にとって奇異なものであった。自分から小林、小林からこの青年、と順々に眼を移して行くうちには、階級なり、思想なり、職業なり、服装なり、種々な点においてずいぶんな距離があった。勢い津田は彼を遠くに眺めなければならなかった。しかし遠くに眺めれば眺めるほど、強く彼を記憶しなければならなかった。
「小林はああいう人と交際つきあってるのかな」
 こう思った津田は、その時そういう人と交際っていない自分の立場を見廻して、まあ仕合せだと考えた後あとなので、新来者に対する彼の態度も自おのずから明白であった。彼は突然胡散臭うさんくさい人間に挨拶あいさつをされたような顔をした。
 上へ反そっ繰り返った細い鍔つばの、ぐにゃぐにゃした帽子を脱とって手に持ったまま、小林の隣りへ腰をおろした青年の眼には異様の光りがあった。彼は津田に対して現に不安を感じているらしかった。それは一種の反感と、恐怖と、人馴ひとなれない野育ちの自尊心とが錯雑さくざつして起す神経的な光りに見えた。津田はますます厭いやな気持になった。小林は青年に向って云った。

0960Ms.名無しさん2021/10/24(日) 04:30:48.820
「おいマントでも取れ」
 青年は黙って再び立ち上った。そうして釣鐘のような長い合羽かっぱをすぽりと脱いで、それを椅子いすの背に投げかけた。
「これは僕の友達だよ」
 小林は始めて青年を津田に紹介ひきあわせた。原という姓と芸術家という名称がようやく津田の耳に入った。
「どうした。旨うまく行ったかね」
 これが小林の次にかけた質問であった。しかしこの質問は充分な返事を得る暇がなかった。小林は後からすぐこう云ってしまった。
「駄目だめだろう。駄目にきまってるさ、あんな奴やつ。あんな奴に君の芸術が分ってたまるものか。いいからまあゆっくりして何か食いたまえ」

0961Ms.名無しさん2021/10/24(日) 04:32:39.670
 小林はたちまちナイフを倒さかさまにして、やけに食卓テーブルを叩たたいた。
「おいこの人の食うものを持って来い」
 やがて原の前にあった洋盃コップの中に麦酒ビールがなみなみと注つがれた。
 この様子を黙って眺めていた津田は、自分の持って来た用事のもう済んだ事にようやく気がついた。こんなお付合つきあいを長くさせられては大変だと思った彼は、機を見て好い加減に席を切り上げようとした。すると小林が突然彼の方を向いた。
「原君は好い絵を描くよ、君。一枚買ってやりたまえ。今困ってるんだから、気の毒だ」
「そうか」
「どうだ、この次の日曜ぐらいに、君の家うちへ持って行って見せる事にしたら」
 津田は驚ろいた。

0962Ms.名無しさん2021/10/24(日) 04:34:12.320
「僕に絵なんか解らないよ」
「いや、そんなはずはない、ねえ原。何しろ持って行って見せてみたまえ」
「ええ御迷惑でなければ」
 津田の迷惑は無論であった。
「僕は絵だの彫刻だのの趣味のまるでない人間なんですから、どうぞ」
 青年は傷きずつけられたような顔をした。小林はすぐ応援に出た。
「嘘うそを云うな。君ぐらい鑑賞力の豊富な男は実際世間に少ないんだ」
 津田は苦笑せざるを得なかった。
「また下らない事を云って、――馬鹿にするな」
「事実を云うんだ、馬鹿にするものか。君のように女を鑑賞する能力の発達したものが、芸術を粗末にする訳がないんだ。ねえ原、女が好きな以上、芸術も好きにきまってるね。いくら隠したって駄目だよ」
 津田はだんだん辛防しんぼうし切れなくなって来た。

0963Ms.名無しさん2021/10/24(日) 04:35:57.420
「だいぶ話が長くなりそうだから、僕は一足ひとあし先へ失敬しよう、――おい姉さん会計だ」
 給仕が立ちそうにするところを、小林は大きな声を出して止とめながら、また津田の方へ向き直った。
「ちょうど今一枚素敵すてきに好いのが描かいてあるんだ。それを買おうという望手のぞみての所へ価値ねだんの相談に行った帰りがけに、原君はここへ寄ったんだから、旨うまい機会じゃないか。是非買いたまえ。芸術家の足元へ付け込んで、むやみに価切ねぎり倒すなんて失敬な奴へは売らないが好いというのが僕の意見なんだ。その代りきっと買手を周旋してやるから、帰りにここへ寄るがいいと、先刻さっきあすこの角で約束しておいたんだ、実を云うと。だから一つ買ってやるさ、訳ゃないやね」
「他ひとに絵も何にも見せないうちから、勝手にそんな約束をしたってしようがないじゃないか」
「絵は見せるよ。――君今日持って帰らなかったのか」
「もう少し待ってくれっていうから置いて来た」
「馬鹿だな、君は。しまいにロハで捲まき上げられてしまうだけだぜ」
 津田はこの問答を聴いてほっと一息吐ついた。

0964Ms.名無しさん2021/10/24(日) 06:02:54.310
百六十三

 二人は津田を差し置いて、しきりに絵画の話をした。時々耳にする三角派さんかくはとか未来派みらいはとかいう奇怪な名称のほかに、彼は今までかつて聴きいた事のないような片仮名をいくつとなく聴かされた。その何処いずこにも興味を見出みいだし得なかった彼は、会談の圏外けんがいへ放逐ほうちくされるまでもなく、自分から埒らちを脱ぬけ出したと同じ事であった。これだけでも一通り以上の退屈である上に、津田を厭いやがらせる積極的なものがまだ一つあった。彼は自分の眼前に見るこの二人、ことに小林を、むやみに新らしい芸術をふり廻したがる半可通はんかつうとして、最初から取扱っていた。彼はこの偏見プレジュジスの上へ、乙おつに識者ぶる彼らの態度を追加して眺めた。この点において無知な津田を羨うらやましがらせるのが、ほとんど二人の目的ででもあるように見え出した時、彼は無理にいったん落ちつけた腰をまた浮かしにかかった。すると小林がまた抑留した。
「もう直じきだ、いっしょに行くよ、少し待ってろ」
「いやあんまり遅くなるから……」
「何もそんなに他ひとに恥を掻かせなくってもよかろう。それとも原君が食っちまうまで待ってると、紳士の体面に関わるとでも云うのか」
 原は刻んだサラドをハムの上へ載せて、それを肉叉フォークで突き差した手を止やめた。
「どうぞお構いなく」

0965Ms.名無しさん2021/10/24(日) 06:03:10.300
 津田が軽く会釈えしゃくを返して、いよいよ立ち上がろうとした時、小林はほとんど独りごとのように云った。
「いったいこの席を何と思ってるんだろう。送別会と号して他を呼んでおきながら、肝心かんじんのお客さんを残して、先へ帰っちまうなんて、侮辱を与える奴やつが世の中にいるんだから厭いやになるな」
「そんなつもりじゃないよ」
「つもりでなければ、もう少すこしいろよ」
「少し用があるんだ」
「こっちにも少し用があるんだ」
「絵なら御免だ」
「絵も無理に買えとは云わないよ。吝けちな事を云うな」
「じゃ早くその用を片づけてくれ」
「立ってちゃ駄目だ。紳士らしく坐すわらなくっちゃ」

0966Ms.名無しさん2021/10/24(日) 06:05:38.410
 仕方なしにまた腰をおろした津田は、袂たもとから煙草を出して火を点つけた。ふと見ると、灰皿は敷島の残骸ざんがいでもういっぱいになっていた。今夜の記念としてこれほど適当なものはないという気が、偶然津田の頭に浮かんだ。これから呑のもうとする一本も、三分経たつか経たないうちに、灰と煙と吸口だけに変形して、役にも立たない冷たさを皿の上にとどめるに過ぎないと思うと、彼は何となく厭な心持がした。
「何だい、その用事というのは。まさか無心じゃあるまいね、もう」
「だから吝な事を云うなと、先刻さっきから云ってるじゃないか」
 小林は右の手で背広せびろの右前を掴つかんで、左の手を隠袋ポケットの中へ入れた。彼は暗闇くらやみで物を探さぐるように、しばらく入れた手を、背広の裏側で動かしながら、その間始終しじゅう眼を津田の顔へぴったり付けていた。すると急に突飛な光景シーンが、津田の頭の中に描き出された。同時に変な妄想もうぞうが、今呑んでいる煙草の煙のように、淡く彼の心を掠かすめて過ぎた。
「此奴こいつは懐ふところから短銃ピストルを出すんじゃないだろうか。そうしてそれをおれの鼻の先へ突きつけるつもりじゃないかしら」
 芝居じみた一刹那いっせつなが彼の予感を微かすかに揺ゆすぶった時、彼の神経の末梢まっしょうは、眼に見えない風に弄なぶられる細い小枝のように顫動せんどうした。それと共に、妄みだりに自分で拵こしらえたこの一場いちじょうの架空劇をよそ目に見て、その荒誕こうたんを冷笑せせらわらう理智の力が、もう彼の中心に働らいていた。
「何を探しているんだ」
「いやいろいろなものがいっしょに入ってるからな、手の先でよく探しあてた上でないと、滅多めったに君の前へは出されないんだ」
「間違えて先刻さっき放ほうり込んだ札さつでも出すと、厄介だろう」
「なに札は大丈夫だ。ほかの紙片かみぎれと違って活きてるから。こうやって、手で障さわって見るとすぐ分るよ。隠袋ポケットの中で、ぴちぴち跳はねてる」
 小林は減らず口を利ききながら、わざと空むなしい手を出した。

0967Ms.名無しさん2021/10/24(日) 06:07:35.070
「おやないぞ。変だな」
 彼は左胸部にある表隠袋おもてかくしへ再び右の手を突き込んだ。しかしそこから彼の撮つまみ出したものは皺しわだらけになった薄汚ない手帛ハンケチだけであった。
「何だ手品てづまでも使う気なのか、その手帛で」
 小林は津田の言葉を耳にもかけなかった。真面目まじめな顔をして、立ち上りながら、両手で腰の左右を同時に叩たたいた後で、いきなり云った。
「うんここにあった」
 彼の洋袴ズボンの隠袋から引き摺ずり出したものは、一通の手紙であった。
「実は此奴こいつを君に読ませたいんだ。それももう当分君に会う機会がないから、今夜に限るんだ。僕と原君と話している間に、ちょっと読んでくれ。何訳わけゃないやね、少し長いけれども」
 封書を受取った津田の手は、ほとんど器械的に動いた。

0968Ms.名無しさん2021/10/24(日) 06:09:57.380
百六十四

 ペンで原稿紙へ書きなぐるように認したためられたその手紙は、長さから云っても、無論普通の倍以上あった。
のみならず宛名あてなは小林に違なかったけれども、差出人は津田の見た事も聴きいた事もない全く未知の人であった。
津田は封筒の裏表を読んだ後で、それがはたして自分に何の関係があるのだろうと思った。
けれども冷やかな無関心の傍かたわらに起った一種の好奇心は、すぐ彼の手を誘った。
封筒から引き抜いた十行二十字詰の罫紙けいしの上へ眼を落した彼は一気に読み下した。
「僕はここへ来た事をもう後悔しなければならなくなったのです。
あなたは定めて飽あきっぽいと思うでしょう、しかしこれはあなたと僕の性質の差違から出るのだから仕方がないのです。
またかと云わずに、まあ僕の訴えを聞いて下さい。女ばかりで夜よるが不用心ぶようじんだから銀行の整理のつくまで泊りに来て留守番るすばんをしてくれ、
小説が書きたければ自由に書くがいい、図書館へ行くなら弁当を持って行くがいい、午後は画えを習いに行くがいい。

0969Ms.名無しさん2021/10/24(日) 06:11:07.260
今に銀行を東京へ持って来ると外国語学校へ入れてやる、家うちの始末は心配するな、転居の金は出してやる。
――僕はこんなありがたい条件に誘惑されたのです。もっとも一から十まで当あてにした訳でもないんですが、その何割かは本当に違いないと思い込んだのです。
ところが来て見ると、本当は一つもないんです、頭から尻しりまで嘘の皮なんです。叔父は東京にいる方が多いばかりか、
僕は書生代りに朝から晩まで使い歩きをさせられるだけなのです。
叔父は僕の事を「宅うちの書生」といいます、しかも客の前でです、僕のいる前でです。
こんな訳で酒一合の使から縁側の拭き掃除までみんな僕の役になってしまうのです。
金はまだ一銭も貰ったことがありません。僕の穿はいていた一円の下駄が割れたら十二銭のやつを買って穿かせました。
叔父は明日あした金をやると云って、僕の家族を姉の所へ転居させたのですが、越してしまったら、金の事は噫おくびにも出さないので、僕は帰る宅さえなくなりました。
 叔父の仕事はまるで山です。金なんか少しもないのです。そうして彼ら夫婦は極きわめて冷やかな極めて吝嗇りんしょくな人達です。

0970Ms.名無しさん2021/10/24(日) 09:11:03.600
だから来た当座僕は空腹に堪えかねて、三日に一遍ぐらい姉の家うちへ帰って飯を食わして貰いました。
兵糧ひょうろうが尽きて焼芋やきいもや馬鈴薯じゃがいもで間に合せていたこともあります。もっともこれは僕だけです。
叔母は極めて感じの悪い女です。万事が打算的で、体裁ていさいばかりで、いやにこせこせ突ッ付き廻したがるんで、僕はちくちく刺されどうしに刺されているんです。
叔父は金のないくせに酒だけは飲みます。そうして田舎いなかへ行けば殿様だなどと云って威張るんです。しかし裏側へ入ってみると驚ろく事ばかりです。
訴訟事件さえたくさん起っているくらいです。出発のたびに汽車賃がなくって、質屋へ駈けつけたり、姉の家へ行って、
苦しいところを算段して来てやったりしていますが、叔父の方じゃ、僕の食費と差引にする気か何かで澄ましているのです。
 叔母は最初から僕が原稿を書いて食扶持くいぶちでも入れるものとでも思ってるんでしょう、僕がペンを持っていると、
そんなにして書いたものはいったいどうなるの、なんて当擦あてこすりを云います。新聞の職業案内欄に出ている「事務員募集」の広告を突きつけて謎なぞをかけたりします。

0971Ms.名無しさん2021/10/24(日) 09:11:54.440
 こういう事が繰り返されて見ると、僕は何しにここへ来たんだか、まるで訳が解らなくなるだけです。僕は変に考えさせられるのです。
全く形をなさないこの家の奇怪な生活と、変幻窮きわまりなきこの妙な家庭の内情が、朝から晩まで恐ろしい夢でも見ているような気分になって、僕の頭に祟たたってくるんです。
それを他ひとに話したって、とうてい通じっこないと思うと、世界のうちで自分だけが魔に取り巻かれているとしか考えられないので、
なお心細くなるのです、そうして時々は気が狂いそうになるのです。
というよりももう気が狂っているのではないかしらと疑がい出すと、たまらなく恐こわくなって来るのです。
土の牢の中で苦しんでいる僕には、日光がないばかりか、もう手も足もないような気がします。何となれば、手を挙げても足を動かしても、四方は真黒だからです。
いくら訴えても、厚い冷たい壁が僕の声を遮さえぎって世の中へ聴えさせないようにするからです。今の僕は天下にたった一人です。友達はないのです。
あっても無いと同じ事なのです。幽霊のような僕の心境に触れてくれる事のできる頭脳をもったものは、有るべきはずがないからです。
僕は苦しさの余りにこの手紙を書きました。救を求めるために書いたのではありません。僕はあなたの境遇を知っています。
物質上の補助、そんなものをあなたの方角から受け取る気は毛頭ないのです。
ただこの苦痛の幾分が、あなたの脈管みゃくかんの中に流れている人情の血潮に伝わって、そこに同情の波を少しでも立ててくれる事ができるなら、僕はそれで満足です。
僕はそれによって、僕がまだ人間の一員として社会に存在しているという確証を握る事ができるからです。
この悪魔の重囲の中から、広々した人間の中へ届く光線は一縷いちるもないのでしょうか。僕は今それさえ疑っているのです。
そうして僕はあなたから返事が来るか来ないかで、その疑いを決したいのです」
 手紙はここで終っていた。

0972Ms.名無しさん2021/10/24(日) 09:37:23.370
百六十五

 その時先刻さっき火を点つけて吸い始めた巻煙草まきたばこの灰が、いつの間にか一寸近くの長さになって、ぽたりと罫紙けいしの上に落ちた。津田は竪横たてよこに走る藍色あいいろの枠わくの上に崩くずれ散ったこの粉末に視覚を刺撃されて、ふと気がついて見ると、彼は煙草を持った手をそれまで動かさずにいた。というより彼の口と手がいつか煙草の存在を忘れていた。その上手紙を読み終ったのと煙草の灰を落したのとは同時でないのだから、二つの間にはさまるぼんやりしたただの時間を認めなければならなかった。
 その空虚な時間ははたして何のために起ったのだろう。元来をいうと、この手紙ほど津田に縁の遠いものはなかった。第一に彼はそれを書いた人を知らなかった。第二にそれを書いた人と小林との関係がどうなっているのか皆目かいもく解らなかった。中に述べ立ててある事柄に至ると、まるで別世界の出来事としか受け取れないくらい、彼の位置及び境遇とはかけ離れたものであった。
 しかし彼の感想はそこで尽きる訳に行かなかった。彼はどこかでおやと思った。今まで前の方ばかり眺めて、ここに世の中があるのだときめてかかった彼は、急に後うしろをふり返らせられた。そうして自分と反対な存在を注視すべく立ちどまった。するとああああこれも人間だという心持が、今日こんにちまでまだ会った事もない幽霊のようなものを見つめているうちに起った。極きわめて縁の遠いものはかえって縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた。
 彼はそこでとまった。そうして※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊ていかいした。けれどもそれより先へは一歩も進まなかった。彼は彼相応の意味で、この気味の悪い手紙を了解したというまでであった。
 彼が原稿紙から煙草の灰を払い落した時、原を相手に何か話し続けていた小林はすぐ彼の方を向いた。用談を切り上げるためらしい言葉がただ一句彼の耳に響いた。
「なに大丈夫だ。そのうちどうにかなるよ、心配しないでもいいや」

0973Ms.名無しさん2021/10/24(日) 09:41:12.890
 津田は黙って手紙を小林の方へ出した。小林はそれを受け取る前に訊いた。
「読んだか」
「うん」
「どうだ」
 津田は何とも答えなかった。しかし一応相手の主意を確かめて見る必要を感じた。
「いったい何のためにそれを僕に読ませたんだ」
 小林は反問した。
「いったい何のために読ませたと思う」
「僕の知らない人じゃないか、それを書いた人は」
「無論知らない人さ」
「知らなくってもいいとして、僕に何か関係があるのか」
「この男がか、この手紙がか」
「どっちでも構わないが」
「君はどう思う」

0974Ms.名無しさん2021/10/24(日) 09:43:52.210
 津田はまた躊躇ちゅうちょした。実を云うと、それは手紙の意味が彼に通じた証拠であった。もっと明暸めいりょうにいうと、自分は自分なりにその手紙を解釈する事ができたという自覚が彼の返事を鈍にぶらせたのと同様であった。彼はしばらくして云った。
「君のいう意味なら、僕には全く無関係だろう」
「僕のいう意味とは何だ?」
「解らないか」
「解らない。云って見ろ」
「いや、――まあ止よそう」
 津田は先刻さっきの絵と同じ意味で、小林がこの手紙を自分の前に突きつけるのではなかろうかと疑った。何なんでもかでも彼を物質上の犠牲者にし終おおせた上で、後あとからざまを見ろ、とうとう降参したじゃないかという態度に出られるのは、彼にとって忍ぶべからざる侮辱であった。いくら貧乏の幽霊で威嚇おどかしたってその手に乗るものかという彼の気慨が、自然小林の上に働らきかけた。
「それより君の方でその主意を男らしく僕に説明したらいいじゃないか」
「男らしく? ふん」と云っていったん言葉を句切った小林は、後から付け足した。
「じゃ説明してやろう。この人もこの手紙も、乃至ないしこの手紙の中味も、すべて君には無関係だ。ただし世間的に云えばだぜ、いいかね。世間的という意味をまた誤解するといけないから、ついでにそれも説明しておこう。君はこの手紙の内容に対して、俗社会にいわゆる義務というものを帯びていないのだ」
「当り前じゃないか」
「だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。しかし君の道徳観をもう少し大きくして眺めたらどうだい」

0975Ms.名無しさん2021/10/24(日) 09:50:27.750
「いくら大きくしたって、金をやらなければならないという義務なんか感じやしないよ」
「そうだろう、君の事だから。しかし同情心はいくらか起るだろう」
「そりゃ起るにきまってるじゃないか」
「それでたくさんなんだ、僕の方は。同情心が起るというのはつまり金がやりたいという意味なんだから。それでいて実際は金がやりたくないんだから、そこに良心の闘いから来る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ」
 こう云った小林は、手紙を隠袋ポケットへしまい込むと同時に、同じ場所から先刻の紙幣を三枚とも出して、それを食卓の上へ並べた。
「さあ取りたまえ。要るだけ取りたまえ」
 彼はこう云って原の方を見た。

0976Ms.名無しさん2021/10/24(日) 10:40:42.670
百六十六

 小林の所作しょさは津田にとって全くの意外であった。突然毒気を抜かれたところに十分以上の皮肉を味わわせられた彼の心は、相手に向って躍おどった。憎悪ぞうおの電流とでも云わなければ形容のできないものが、とっさの間に彼の身体からだを通過した。
 同時に聡明な彼の頭に一種の疑うたがいが閃ひらめいた。
「此奴こいつら二人は共謀ぐるになって先刻さっきからおれを馬鹿にしているんじゃないかしら」
 こう思うのと、大通りの角で立談たちばなしをしていた二人の姿と、ここへ来てからの小林の挙動と、途中から入って来た原の様子と、その後ご三人の間に起った談話の遣取やりとりとが、どれが原因ともどれが結果とも分らないような迅速の度合で、津田の頭の中を仕懸花火しかけはなびのようにくるくると廻転した。彼は白い食卓布テーブルクロースの上に、行儀よく順次に並べられた新らしい三枚の十円紙幣を見て、思わず腹の中で叫んだ。
「これがこの摺すれッ枯からしの拵こしらえ上げた狂言の落所おちだったのか。馬鹿奴ばかめ、そう貴様の思わく通りにさせてたまるものか」
 彼は傷きずつけられた自分のプライドに対しても、この不名誉な幕切まくぎれに一転化を与えた上で、二人と別れなければならないと考えた。けれどもどうしたらこう最後まで押しつめられて来た不利な局面を、今になって、旨うまくどさりと引繰ひっくり返す事ができるかの問題になると、あらかじめその辺の準備をしておかなかった彼は、全くの無能力者であった。
 外観上の落ちつきを比較的平気そうに保っていた彼の裏側には、役にも立たない機智の作用が、はげしく往来した。けれどもその混雑はただの混雑に終るだけで、何らの帰着点を彼に示してくれないので、むらむらとした後あとの彼の心は、いたずらにわくわくするだけであった。そのわくわくがいつの間まにか狼狽ろうばいの姿に進化しつつある事さえ、残念ながら彼には意識された。

0977Ms.名無しさん2021/10/24(日) 10:50:45.860
 この危機一髪という間際に、彼はまた思いがけない現象に逢着ほうちゃくした。それは小林の並べた十円紙幣が青年芸術家に及ぼした影響であった。紙幣の上に落された彼の眼から出る異様の光であった。そこには驚ろきと喜びがあった。一種の飢渇きかつがあった。掴つかみかかろうとする慾望の力があった。そうしてその驚ろきも喜びも、飢渇も慾望も、一々真しんその物の発現であった。作りもの、拵こしらえ事、馴なれ合あいの狂言とは、どうしても受け取れなかった。少くとも津田にはそうとしか思えなかった。
 その上津田のこの判断を確めるに足る事実が後あとから継ついで起った。原はそれほど欲しそうな紙幣さつへ手を出さなかった。と云って断然小林の親切を斥しりぞける勇気も示さなかった。出したそうな手を遠慮して出さずにいる苦痛の色が、ありありと彼の顔つきで読まれた。もしこの蒼白あおじろい青年が、ついに紙幣さつの方へ手を出さないとすると、小林の拵こしらえたせっかくの狂言も半分はぶち壊こわしになる訳であった。もしまた小林がいったん隠袋ポケットから出した紙幣を、当初の宣告通り、幾分でも原の手へ渡さずに、再びもとへ収めたなら、結果は一層の喜劇に変化する訳であった。どっちにしても自分の体面を繕つくろうのには便宜べんぎな方向へ発展して行きそうなので、そこに一縷いちるの望を抱いだいた津田は、もう少し黙って事の成行を見る事にきめた。
 やがて二人の間に問答が起った。
「なぜ取らないんだ、原君」
「でもあんまり御気の毒ですから」
「僕は僕でまた君の方を気の毒だと思ってるんだ」
「ええ、どうもありがとう」
「君の前に坐すわってるその男は男でまた僕の方を気の毒だと思ってるんだ」
「はあ」

0978Ms.名無しさん2021/10/24(日) 10:55:20.640
 原はさっぱり通じないらしい顔をして津田を見た。小林はすぐ説明した。
「その紙幣は三枚共、僕が今その男から貰もらったんだ。貰い立てのほやほやなんだ」
「じゃなおどうも……」
「なおどうもじゃない。だからだ。だから僕も安々と君にやれるんだ。僕が安々と君にやれるんだから、君も安々と取れるんだ」
「そういう論理ロジックになるかしら」
「当り前さ。もしこれが徹夜して書き上げた一枚三十五銭の原稿から生れて来た金なら、何ぼ僕だって、少しは執着が出るだろうじゃないか。額からぽたぽた垂れる膏汗あぶらあせに対しても済まないよ。しかしこれは何でもないんだ。余裕が空間に吹き散らしてくれる浄財じょうざいだ。拾ったものが功徳くどくを受ければ受けるほど余裕は喜こぶだけなんだ。ねえ津田君そうだろう」
 忌々いまいましい関所をもう通り越していた津田は、かえって好いところで相談をかけられたと同じ事であった。鷹揚おうような彼の一諾は、今夜ここに落ち合った不調和な三人の会合に、少くとも形式上体裁ていさいの好い結末をつけるのに充分であった。彼は醜陋しゅうろうに見える自分の退却を避けるために眼前の機会を捕えた。
「そうだね。それが一番いいだろう」
 小林は押問答の末、とうとう三枚のうち一枚を原の手に渡した。残る二枚を再びもとの隠袋ポケットへ収める時、彼は津田に云った。
「珍らしく余裕が下から上へ流れた。けれどもここから上へはもう逆戻りをしないそうだ。だからやっぱり君に対してサンクスだ」
 表へ出た三人は濠端ほりばたへ来て、電車を待ち合せる間大きな星月夜ほしづきよを仰いだ。

0979Ms.名無しさん2021/10/24(日) 12:49:22.270
百六十七

 間まもなく三人は離れ離れになった。
「じゃ失敬、僕は停車場ステーションへ送って行かないよ」
「そうか、来たってよさそうなものだがね。君の旧友が朝鮮へ行くんだぜ」
「朝鮮でも台湾でも御免だ」
「情合じょうあいのない事夥おびただしいものだ。そんなら立つ前にもう一遍こっちから暇乞いとまごいに行くよ、いいかい」
「もうたくさんだ、来てくれなくっても」
「いや行く。でないと何だか気がすまないから」
「勝手にしろ。しかし僕はいないよ、来ても。明日あしたから旅行するんだから」
「旅行? どこへ」
「少し静養の必要があるんでね」
「転地か、洒落しゃれてるな」

0980Ms.名無しさん2021/10/24(日) 12:51:10.940
「僕に云わせると、これも余裕の賜物たまものだ。僕は君と違って飽あくまでもこの余裕に感謝しなければならないんだ」
「飽くまでも僕の注意を無意味にして見せるという気なんだね」
「正直のところを云えば、まあそこいらだろうよ」
「よろしい、どっちが勝つかまあ見ていろ。小林に啓発けいはつされるよりも、事実その物に戒飭かいしょくされる方が、遥はるかに覿面てきめんで切実でいいだろう」
 これが別れる時二人の間に起った問答であった。しかしそれは宵よいから持ち越した悪感情、津田が小林に対して日暮以来貯蔵して来た悪感情、の発現に過ぎなかった。これで幾分か溜飲りゅういんが下りたような気のした津田には、相手の口から出た最後の言葉などを考える余地がなかった。彼は理非の如何いかんに関わらず、意地にも小林ごときものの思想なり議論なりを、切って棄すてなければならなかった。一人になった彼は、電車の中ですぐ温泉場の様子などを想像に描き始めた。
 明あくる朝あさは風が吹いた。その風が疎まばらな雨の糸を筋違すじかいに地面の上へ運んで来た。
「厄介やっかいだな」

0981Ms.名無しさん2021/10/24(日) 12:54:45.790
 時間通りに起きた津田は、縁鼻えんばなから空を見上げて眉を寄せた。空には雲があった。そうしてその雲は眼に見える風のように断えず動いていた。
「ことによると、お午ひるぐらいから晴れるかも知れないわね」
 お延は既定の計画を遂行する方に賛成するらしい言葉つきを見せた。
「だって一日後おくれると一日徒為むだになるだけですもの。早く行って早く帰って来ていただく方がいいわ」
「おれもそのつもりだ」
 冷たい雨によって乱されなかった夫婦間の取極とりきめは、出立間際になって、始めて少しの行違を生じた。箪笥たんすの抽斗ひきだしから自分の衣裳いしょうを取り出したお延は、それを夫の洋服と並べて渋紙の上へ置いた。津田は気がついた。
「お前は行かないでもいいよ」
「なぜ」
「なぜって訳もないが、この雨の降るのに御苦労千万じゃないか」
「ちっとも」

0982Ms.名無しさん2021/10/24(日) 12:59:47.410
 お延の言葉があまりに無邪気だったので、津田は思わず失笑した。
「来て貰うのが迷惑だから断るんじゃないよ。気の毒だからだよ。たかが一日とかからない所へ行くのに、わざわざ送って貰うなんて、少し滑稽こっけいだからね。小林が朝鮮へ立つんでさえ、おれは送って行かないって、昨夜ゆうべ断っちまったくらいだ」
「そう、でもあたし宅うちにいたって、何にもする事がないんですもの」
「遊んでおいでよ。構わないから」
 お延がとうとう苦笑して、争う事をやめたので、津田は一人俥くるまを駆って宅を出る事ができた。
 周囲の混雑と対照を形成かたちづくる雨の停車場ステーションの佗わびしい中に立って、津田が今買ったばかりの中等切符ちゅうとうきっぷを、ぼんやり眺めていると、一人の書生が突然彼の前へ来て、旧知己のような挨拶あいさつをした。
「あいにくなお天気で」
 それはこの間始めて見た吉川の書生であった。取次に出た時玄関で会ったよそよそしさに引き換えて、今日は鳥打を脱ぐ態度からしてが丁寧であった。津田は何の意味だかいっこう気がつかなかった。

0983Ms.名無しさん2021/10/24(日) 14:58:12.570
「どなたかどちらへかいらっしゃるんですか」
「いいえ、ちょっとお見送りに」
「だからどなたを」
 書生は弱らせられたような様子をした。
「実は奥さまが、今日は少し差支さしつかえがあるから、これを持って代りに行って来てくれとおっしゃいました」
 書生は手に持った果物くだものの籃かごを津田に示した。
「いやそりゃどうも、恐れ入りました」
 津田はすぐその籃を受け取ろうとした。しかし書生は渡さなかった。
「いえ私が列車の中まで持って参ります」
 汽車が出る時、黙って丁寧に会釈えしゃくをした書生に、「どうぞ宜よろしく」と挨拶を返した津田は、比較的込み合わない車室の一隅に、ゆっくりと腰をおろしながら、「やっぱりお延に来て貰わない方がよかったのだ」と思った。

0984Ms.名無しさん2021/10/24(日) 14:58:44.050
百六十八

 お延の気を利かして外套がいとうの隠袋かくしへ入れてくれた新聞を津田が取り出して、いつもより念入りに眼を通している頃に、窓外そうがいの空模様はだんだん悪くなって来た。先刻さっきまで疎まばらに眺められた雨の糸が急に数を揃そろえて、見渡す限の空間を一度に充みたして来る様子が、比較的展望に便利な汽車の窓から見ると、一層凄すさまじく感ぜられた。
 雨の上には濃い雲があった。雨の横にも限界の遮さえぎられない限りは雲があった。雲と雨との隙間すきまなく連続した広い空間が、津田の視覚をいっぱいに冒おかした時、彼は荒涼こうりょうなる車外の景色と、その反対に心持よく設備の行き届いた車内の愉快とを思い較くらべた。身体からだを安逸の境に置くという事を文明人の特権のように考えている彼は、この雨を衝ついて外部そとへ出なければならない午後の心持を想像しながら、独ひとり肩を竦すくめた。すると隣りに腰をかけて、ぽつりぽつりと窓硝子まどガラスを打つたびに、点滴の珠たまを表面に残して砕けて行く雨の糸を、ぼんやり眺めていた四十恰好しじゅうがっこうの男が少し上半身を前へ屈かがめて、向側むこうがわに胡坐あぐらを掻かいている伴侶つれに話しかけた。しかし雨の音と汽車の音が重なり合うので、彼の言葉は一度で相手に通じなかった。
「ひどく降って来たね。この様子じゃまた軽便の路みちが壊れやしないかね」

0985Ms.名無しさん2021/10/24(日) 15:02:35.280
 彼は仕方なしに津田の耳へも入るような大きな声を出してこう云った。
「なに大丈夫だよ。なんぼ名前が軽便だって、そう軽便に壊れられた日にゃ乗るものが災難だあね」
 これが相手の答であった。相手というのは羅紗らしゃの道行みちゆきを着た六十恰好ろくじゅうがっこうの爺じいさんであった。頭には唐物屋とうぶつやを探さがしても見当りそうもない変な鍔つばなしの帽子を被かぶっていた。煙草入たばこいれだの、唐桟とうざんの小片こぎれだの、古代更紗こだいさらさだの、そんなものを器用にきちんと並べ立てて見世を張る袋物屋ふくろものやへでも行って、わざわざ注文しなければ、とうてい頭へ載せる事のできそうもないその帽子の主人は、彼の言葉遣づかいで東京生れの証拠を充分に挙げていた。津田は服装に似合わない思いのほか濶達かったつなこの爺さんの元気に驚ろくと同時に、どっちかというと、ベランメーに接近した彼の口の利き方にも意外を呼んだ。

0986Ms.名無しさん2021/10/24(日) 15:07:23.950
 この挨拶あいさつのうちに偶然使用された軽便という語は、津田にとってたしかに一種の暗示であった。彼は午後の何時間かをその軽便に揺られる転地者であった。ことによると同じ方角へ遊びに行く連中かも知れないと思った津田の耳は、彼らの談話に対して急に鋭敏になった。転席の余地がないので、不便な姿勢と図抜ずぬけた大声を忍ばなければならなかった二人の云う事は一々津田に聴こえた。
「こんな天気になろうとは思わなかったね。これならもう一日延ばした方が楽だった」
 中折なかおれに駱駝らくだの外套がいとうを着た落ちつきのある男の方がこういうと、爺さんはすぐ答えた。
「何たかが雨だあね。濡ぬれると思やあ、何でもねえ」
「だが荷物が厄介やっかいだよ。あの軽便へ雨曝あまざらしのまま載せられる事を考えると、少し心細くなるから」
「じゃおいらの方が雨曝しになって、荷物だけを室へやの中へ入れて貰う事にしよう」

0987Ms.名無しさん2021/10/24(日) 15:10:10.910
 二人は大きな声を出して笑った。その後で爺さんがまた云った。
「もっともこの前のあの騒ぎがあるからね。途中で汽缶かまへ穴が開あいて動いごけなくなる汽車なんだから、全くのところ心細いにゃ違ない」
「あの時ゃどうして向うへ着いたっけ」
「なにあっちから来る奴やつを山の中ほどで待ち合せてさ。その方の汽缶で引っ張り上げて貰ったじゃないか」
「なるほどね、だが汽缶を取り上げられた方の車はどうしたっけね」
「違ちげえねえ、こっちで取り上げりゃ、向うは困らあ」
「だからさ、取り残された方の車はどうしたろうっていうのさ。まさか他ひとを救って、自分は立往生って訳もなかろう」
「今になって考えりゃ、それもそうだがね、あの時ゃ、てんで向うの車の事なんか考えちゃいられなかったからね。日は暮れかかるしさ、寒さは身に染みるしさ。顫ふるえちまわあね」
 津田の推測はだんだんたしかになって来た。二人はその軽便の通じている線路の左右にある三カ所の温泉場のうち、どこかへ行くに違ないという鑑定さえついた。それにしてもこれから自分の身を二時間なり三時間なり委まかせようとするその軽便が、彼らのいう通り乱暴至極のものならば、この雨中どんな災難に会わないとも限らなかった。けれどもそこには東京ものの持って生れた誇張というものがあった。そんなに不完全なものですかと訊いてみようとしてそこに気のついた津田は、腹の中で苦笑しながら、質問をかける手数てすうを省はぶいた。そうして今度は清子とその軽便とを聯結れんけつして「女一人でさえ楽々往来ができる所だのに」と思いながら、面白半分にする興味本位の談話には、それぎり耳を貸さなかった。

0988Ms.名無しさん2021/10/24(日) 15:20:35.290
百六十九

 汽車が目的の停車場ステーションに着く少し前から、三人によって気遣きづかわれた天候がしだいに穏かになり始めた時、津田は雨の収おさまり際ぎわの空を眺めて、そこに忙がしそうな雲の影を認めた。その雲は汽車の走る方角と反対の側がわに向って、ずんずん飛んで行った。そうして後あとから後からと、あたかも前に行くものを追おっかけるように、隙間すきまなく詰つめ寄せた。そのうち動く空の中に、やや明るい所ができてきた。ほかの部分より比較的薄く見える箇所がしだいに多くなった。就中なかんずく一角はもう少しすると風に吹き破られて、破れた穴から青い輝きを洩らしそうな気配けはいを示した。
 思ったより自分に好意をもってくれた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、そこからすぐ乗り換えた電車の中で、また先刻さっき会った二人伴ふたりづれの男を見出した。はたして彼の思わく通り、自分と同じ見当へ向いて、同じ交通機関を利用する連中だと知れた時、津田は気をつけて彼らの手荷物を注意した。けれども彼らの雨曝あまざらしになるのを苦くに病んだほどの大嵩おおがさなものはどこにも見当らなかった。のみならず、爺じいさんは自分が先刻云った事さえもう忘れているらしかった。
「ありがたい、大当りだ。だからやっぱり行こうと思った時に立っちまうに限るよ。これでぐずぐずして東京にいて御覧な。ああつまらねえ、こうと知ったら、思い切って今朝立っちまえばよかったと後悔するだけだからね」
「そうさ。だが東京も今頃はこのくらい好い天気になってるんだろうか」
「そいつあ行って見なけりゃ、ちょいと分らねえ。何なら電話で訊きいてみるんだ。だが大体たいてい間違まちがいはないよ。空は日本中どこへ行ったって続いてるんだから」
 津田は少しおかしくなった。すると爺さんがすぐ話しかけた。

0989Ms.名無しさん2021/10/24(日) 15:23:18.810
「あなたも湯治場とうじばへいらっしゃるんでしょう。どうもおおかたそうだろうと思いましたよ、先刻から」
「なぜですか」
「なぜって、そういう所へ遊びに行く人は、様子を見ると、すぐ分りますよ。ねえ」
 彼はこう云って隣りにいる自分の伴侶つれを顧みた。中折なかおれの人は仕方なしに「ああ」と答えた。
 この天眼通てんがんつうに苦笑を禁じ得なかった津田は、それぎり会話を切り上げようとしたところ、快豁かいかつな爺さんの方でなかなか彼を放さなかった。

0990Ms.名無しさん2021/10/24(日) 15:25:59.630
「だが旅行も近頃は便利になりましたね。どこへ行くにも身体からだ一つ動かせばたくさんなんですから、ありがたい訳さ。ことにこちとら見たいな気の早いものにはお誂向あつらえむきだあね。今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんや、この合切袋がっさいぶくろとこの大将のあの鞄かばんを差し引くと、残るのは命ばかりといいたいくらいのものだ。ねえ大将」
 大将の名をもって呼ばれた人はまた「ああ」と答えたぎりであった。これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼らのいわゆる「軽便」なるものは、よほど込み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度において不完全でなければならなかった。そこを確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。
 電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を凝こらした温泉場の広告絵を眺めながら、昼食ちゅうじきを認したためた。時間から云って、平常より一時間以上も後おくれていたその昼食は、膳ぜんを貪むさぼる人としての彼を思う存分に発揮させた。けれども発車は目前に逼せまっていた。彼は箸はしを投げると共にすぐまた軽便に乗り移らなければならなかった。
 基点に当る停車場ステーションは、彼の休んだ茶店のすぐ前にあった。彼は電車よりも狭いその車を眼の前に見つつ、下女から支度料の剰銭つりを受取ってすぐ表へ出た。切符に鋏はさみを入れて貰う所と、プラットフォームとの間には距離というものがほとんどなかった。五六歩動くとすぐ足をかける階段へ届いてしまった。彼は車室のなかで、また先刻さっきの二人連れと顔を合せた。

0991Ms.名無しさん2021/10/24(日) 15:27:41.390
「やあお早うがす。こっちへおかけなさい」
 爺じいさんは腰をずらして津田のために、彼の腕に抱えて来た膝ひざかけを敷く余地を拵こしらえてくれた。
「今日は空すいてて結構です」
 爺さんは避寒避暑二様の意味で、暮から正月へかけて、それから七八二月ふたつきに渉わたって、この線路に集ってくる湯治客とうじきゃくの、どんなに雑沓ざっとうするかをさも面白そうに例の調子で話して聴きかせた後あとで、自分の同伴者を顧みた。
「あんな時に女なんか伴つれてくるのは実際罪だよ。尻しりが大きいから第一乗り切れねえやね。そうしてすぐ酔うから困らあ。鮨すしのように押しつめられてる中で、吐いたり戻したりさ。見っともねえ事ったら」
 彼は自分の傍そばに腰をかけている婦人の存在をまるで忘れているらしい口の利き方をした。

0992Ms.名無しさん2021/10/24(日) 15:47:34.760
百七十

 軽便の中でも、津田の平和はややともすると年を取ったこの楽天家のために乱されそうになった。これから目的地へ着いた時の様子、その様子しだいで取るべき自分の態度、そんなものが想像に描き出された旅館だの山だの渓流だのの光景のうちに、取りとめもなくちらちら動いている際さいなどに、老人は急に彼を夢の裡うちから叩たたき起した。
「まだ仮橋かりばしのままでやってるんだから、呑気のんきなものさね。御覧なさい、土方があんなに働らいてるから」
 本式の橋が去年の出水でみずで押し流されたまままだ出来上らないのを、老人はさも会社の怠慢ででもあるように罵ののしった後で、海へ注ぐ河の出口に、新らしく作られた一構ひとかまえの家を指さして、また津田の注意を誘い出そうとした。
「あの家うちも去年波で浚さらわれちまったんでさあ。でもすぐあんなに建てやがったから、軽便より少しゃ感心だ」
「この夏の避暑客を取り逃さないためでしょう」

0993Ms.名無しさん2021/10/24(日) 15:52:46.950
「ここいらで一夏休むと、だいぶ応こたえるからね。やっぱり慾がなくっちゃ、何でも手っ取り早く仕事は片づかないものさね。この軽便だってそうでしょう、あなた、なまじいあの仮橋で用が足りてるもんだから、会社の方で、いつまでも横着おうちゃくをきめ込みやがって、掛かけかえねえんでさあ」
 津田は老人の人世観に一も二もなく調子を合すべく余儀なくされながら、談話の途切とぎれ目めには、眼を眠るように構えて、自分自身に勝手な事を考えた。
 彼の頭の中は纏まとまらない断片的な映像イメジのために絶えず往来された。その中には今朝見たお延の顔もあった。停車場ステーションまで来てくれた吉川の書生の姿も動いた。彼の車室内へ運んでくれた果物くだものの籃かごもあった。その葢ふたを開けて、二人の伴侶つれに夫人の贈物を配わかとうかという意志も働いた。その所作しょさから起る手数てかずだの煩わずらわしさだの、こっちの好意を受け取る時、相手のやりかねない仰山ぎょうさんな挨拶あいさつも鮮あざやかに描き出された。すると爺さんも中折なかおれも急に消えて、その代り肥った吉川夫人の影法師が頭の闥たつを排してつかつか這入はいって来た。連想はすぐこれから行こうとする湯治場とうじばの中心点になっている清子に飛び移った。彼の心は車と共に前後へ揺れ出した。
 汽車という名をつけるのはもったいないくらいな車は、すぐ海に続いている勾配こうばいの急な山の中途を、危なかしくがたがた云わして駆かけるかと思うと、いつの間にか山と山の間に割り込んで、幾度いくたびも上あがったり下さがったりした。その山の多くは隙間すきまなく植付けられた蜜柑みかんの色で、暖かい南国の秋を、美くしい空の下に累々るいるいと点綴てんてつしていた。
「あいつは旨うまそうだね」
「なに根っから旨くないんだ、ここから見ている方がよっぽど綺麗きれいだよ」
 比較的嶮けわしい曲りくねった坂を一つ上った時、車はたちまちとまった。停車場ステーションでもないそこに見えるものは、多少の霜しもに彩いろどられた雑木ぞうきだけであった。
「どうしたんだ」

0994Ms.名無しさん2021/10/24(日) 15:59:36.600
 爺さんがこう云って窓から首を出していると、車掌だの運転手だのが急に車から降りて、しきりに何か云い合った。
「脱線です」
 この言葉を聞いた時、爺さんはすぐ津田と自分の前にいる中折なかおれを見た。
「だから云わねえこっちゃねえ。きっと何かあるに違ねえと思ってたんだ」
 急に予言者らしい口吻こうふんを洩もらした彼は、いよいよ自分の駄弁を弄ろうする時機が来たと云わぬばかりにはしゃぎ出した。
「どうせ家うちを出る時に、水盃みずさかずきは済まして来たんだから、覚悟はとうからきめてるようなものの、いざとなって見ると、こんな所で弁慶べんけいの立往生たちおうじょうは御免蒙こうむりたいからね。といっていつまでこうやって待ってたって、なかなか元へ戻してくれそうもなしと。何しろ日の短かい上へ持って来て、気が短かいと来てるんだから、安閑としちゃいられねえ。――どうです皆さん一つ降りて車を押してやろうじゃありませんか」
 爺さんはこう云いながら元気よく真先に飛び降りた。残るものは苦笑しながら立ち上った。津田も独ひとり室内に坐すわっている訳に行かなくなったので、みんなといっしょに地面の上へ降り立った。そうして黄色に染められた芝草の上に、あっけらかんと立っている婦人を後うしろにして、うんうん車を押した。
「や、いけねえ、行き過ぎちゃった」

0995Ms.名無しさん2021/10/24(日) 16:03:38.260
 車はまた引き戻された。それからまた前へ押し出された。押し出したり引き戻したり二三度するうちに、脱線はようやく片づいた。
「また後おくれちまったよ、大将、お蔭かげで」
「誰のお蔭でさ」
「軽便のお蔭でさ。だがこんな事でもなくっちゃ眠くっていけねえや」
「せっかく遊びに来た甲斐かいがないだろう」
「全くだ」
 津田は後れた時間を案じながら、教えられた停車場ステーションで、この元気の好い老人と別れて、一人薄暮ゆうぐれの空気の中に出た。

0996Ms.名無しさん2021/10/24(日) 16:09:42.850
百七十一

 靄もやとも夜の色とも片づかないものの中にぼんやり描き出された町の様はまるで寂寞せきばくたる夢であった。
自分の四辺しへんにちらちらする弱い電灯の光と、その光の届かない先に横よこたわる大きな闇やみの姿を見較みくらべた時の津田にはたしかに夢という感じが起った。
「おれは今この夢見たようなものの続きを辿たどろうとしている。東京を立つ前から、もっと几帳面きちょうめんに云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、
いやもっと深く突き込んで云えば、お延と結婚する前から、
――それでもまだ云い足りない、実は突然清子に背中を向けられたその刹那せつなから、自分はもうすでにこの夢のようなものに祟たたられているのだ。
そうして今ちょうどその夢を追おっかけようとしている途中なのだ。顧かえりみると過去から持ち越したこの一条ひとすじの夢が、これから目的地へ着くと同時に、
からりと覚めるのかしら。それは吉川夫人の意見であった。
したがって夫人の意見に賛成し、またそれを実行する今の自分の意見でもあると云わなければなるまい。しかしそれははたして事実だろうか。
自分の夢ははたして綺麗に拭ぬぐい去られるだろうか。自分ははたしてそれだけの信念をもって、この夢のようにぼんやりした寒村かんそんの中に立っているのだろうか。
眼に入いる低い軒、近頃砂利じゃりを敷いたらしい狭い道路、貧しい電灯の影、傾かたむきかかった藁屋根わらやね、黄色い幌ほろを下おろした一頭立いっとうだての馬車、
――新とも旧とも片のつけられないこの一塊ひとかたまりの配合を、なおの事夢らしく粧よそおっている肌寒はださむと夜寒よさむと闇暗くらやみ、
――すべて朦朧もうろうたる事実から受けるこの感じは、自分がここまで運んで来た宿命の象徴じゃないだろうか。今までも夢、今も夢、これから先も夢、
その夢を抱だいてまた東京へ帰って行く。それが事件の結末にならないとも限らない。いや多分はそうなりそうだ。

0997Ms.名無しさん2021/10/24(日) 16:13:46.330
じゃ何のために雨の東京を立ってこんな所まで出かけて来たのだ。畢竟ひっきょう馬鹿だから? いよいよ馬鹿と事がきまりさえすれば、ここからでも引き返せるんだが」
 この感想は一度に来た。半分はんぷんとかからないうちに、これだけの順序と、段落と、論理と、空想を具そなえて、
抱き合うように彼の頭の中を通過した。しかしそれから後あとの彼はもう自分の主人公ではなかった。どこから来たとも知れない若い男が突然現われて、彼の荷物を受け取った。
一分いっぷんの猶予ゆうよなく彼をすぐ前にある茶店の中へ引き込んで、彼の行こうとする宿屋の名を訊きいたり、
馬車に乗るか俥くるまにするかを確かめたりした上に、彼の予期していないような愛嬌あいきょうさえ、
自由自在に忙がしい短時間の間に操縦そうじゅうして退のけた。
 

0998Ms.名無しさん2021/10/24(日) 16:19:03.950
彼はやがて否応いやおうなしにズックの幌ほろを下おろした馬車の上へ乗せられた。そうして御免といいながら自分の前に腰をかける先刻さっきの若い男を見出すべく驚ろかされた。
「君もいっしょに行くのかい」
「へえ、お邪魔でも、どうか」
 若い男は津田の目指めざしている宿屋の手代てだいであった。
「ここに旗が立っています」
 彼は首を曲げて御者台ぎょしゃだいの隅すみに挿さし込んである赤い小旗を見た。暗いので中に染め抜かれた文字は津田の眼に入らなかった。旗はただ馬車の速力で起す風のために、彼の座席の方へはげしく吹かれるだけであった。彼は首を縮めて外套がいとうの襟えりを立てた。

0999Ms.名無しさん2021/10/24(日) 16:20:56.870
「夜中やちゅうはもうだいぶお寒くなりました」
 御者台ぎょしゃだいを背中に背負しょってる手代は、位地いちの関係から少しも風を受けないので、この云いい草ぐさは何となく小賢こざかしく津田の耳に響いた。
 道は左右に田を控えているらしく思われた。そうして道と田の境目さかいめには小河の流れが時々聞こえるように感ぜられた。田は両方とも狭く細く山で仕切られているような気もした。
 津田は帽子と外套の襟で隠し切れない顔の一部分だけを風に曝さらして、寒さに抵抗でもするように黙想の態度を手代に示した。手代もその方が便利だと見えて、強しいて向うから口を利きこうともしなかった。
 すると突然津田の心が揺うごいた。
「お客はたくさんいるかい」
「へえありがとう、お蔭かげさまで」
「何人なんにんぐらい」

1000Ms.名無しさん2021/10/24(日) 16:21:12.460
 何人とも答えなかった手代は、かえって弁解がましい返事をした。
「ただいまはあいにく季節が季節だもんでげすから、あんまりおいでがございません。寒い時は暮からお正月へかけまして、それから夏場になりますと、まあ七八二月ふたつきですな、繁昌はんじょうするのは。そんな時にゃ臨時のお客さまを御断りする事が、毎日のようにございます」
「じゃ今がちょうど閑ひまな時なんだね、そうか」
「へえ、どうぞごゆっくり」
「ありがとう」
「やっぱり御病気のためにわざわざおいでなんで」
「うんまあそうだ」
 清子の事を訊きく目的で話し始めた津田は、ここへ来て急に痞つかえた。彼は気がさした。彼女の名前を口にするに堪えなかった。その上後あとで面倒でも起ると悪いとも思い返した。手代から顔を離して馬車の背に倚よりかかり直した彼は、再び沈黙の姿勢を回復した。

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