夜行列車総合スレ★22
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日本の夜行列車も2021年3月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、
臨時列車で何とか走っていた「ムーンライトながら」もコロナ禍の影響でこの夏には設定されず、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」
「WEST EXPRESS 銀河」など、豪華な客室を売りにする寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、
ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴ですが、これらもコロナ禍で今後が不透明になっています。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★21)
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1609245854/
鉄道総合板の夜行列車総合スレ(★14)はこちら
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/train/1517052329/ 客車寝台のベッドメイキングはセルフサービスだったのに対し、電車寝台は済みだったのはなんでだろ? いっちおっつ
自分がもしスレ立て出来てたら、ムーンライトながらの完全廃止を反映させた
テンプレ文言に変えていたんだけどなぁ >>5
今回立てたスレ主です。
是非とも次スレに反映したいのでテンプレお願いします。 >>7
前スレの終了寸前に、こんな感じで記してみたつもりだけど
(以下)
日本の夜行列車も2021年3月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、
臨時列車で何とか走っていた「ムーンライトながら」もコロナ禍などの影響で運転終了が公式発表され、
残るサンライズもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」
「WEST EXPRESS 銀河」など、豪華な客室を売りにする寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、
ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴ですが、これらもコロナ禍で今後が不透明になっています。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で(後略) >>1
>2の関連スレURLリンクが殆ど1000オーバーのスレばかり
新スレ建ててもらって悪いけど自枠の際は確認した方がいいと思う WEST EXPRESS 銀河っていうほど豪華か? >>2の現行仕様を仕立ててみた
クルーズ列車関連スレ、ほとんど残ってないのか
(以下)
昔からの現役夜行列車の関連スレ(路車板より、実質サンライズ関連だけ)
寝台特急サンライズ瀬戸・出雲☆彡PART104
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1614240780/
285系電車サンライズ・エクスプレス(寝台特急サンライズ瀬戸・出雲)Part2
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1600158897/
クルーズトレインの関連スレはこちら(生き残ってるものだけ)
JR西日本117系改「WEST EXPRESS銀河」Part4
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1610740981/
廃止された夜行列車のスレは懐かし板に色々と
東武の尾瀬夜行・スノーパルは東武系スレを参照? 改めて考えてみると、山陽新幹線博多開業以降に寝台特急安芸を運行する意義は、一体どこにあったんだろうな?
それもハナからガラガラ特急に、新車の二段ハネ25型まで投入するような広島局の奮発ぶり。
よく本社車両課が許容したもんだ。
当時の広島局長なんかが、何かしら本社と強いパイプがあった人物だったとしか思えんな。 特急になったのは山陽新幹線延長開業のおかげで20系が回ってきたからなだけだし
24系25形は大した輸送力は必要ないとみなされて押し付けられただけだぞ >>13
「銀河」みたいに、最終の新幹線より遅く出て始発より早く着くというところじゃないか。現実問題として、せっかくの呉線内の駅では使いたくても使えない時刻だったようだけど。大阪から徳山とかなら使えたんじゃない?
大阪南港から広島出島へのグリーンフェリーも昭和57年だか58年だかまで運行していたらしいし、中国自動車道が全通していない時代ならば夜行にもある程度の分があったんじゃなかろうか。 >>13
呉線沿線自治体から、優等列車の全廃に反対があったのでは?
新幹線博多開業前の夜行急行「音戸」では、呉や竹原などでそれなりの利用者が
あったかもしれない。
しかし普通車自由席もあった「音戸」と違い、「安芸」は全車寝台で座席車がないから、
値段と乗車時間を考慮すると、利用に二の足を踏んだだろう。 そうえば寝台特急安芸って始めてオール25形100番台車が
投入されたブルートレインだったような希ガス >>17
その1年前の「富士」「はやぶさ」「出雲」が先。
「安芸」は「瀬戸」と下関「あさかぜ」と同時。 >>16
急行音戸の当時は二往復で1本は寝台専用、もう1本が座席混結でダイヤも分かれてたのが寝台特急に一本化ではな
(しかも広島県内からでは5、6時間前後の乗車だし)
まあ寝台急行だったほうの安芸が電化したら結局本線経由の下関あさかぜになって呉線沿線が落胆したなんてのがあったんで今度は…というのも多少あったかもしれんが 初めて乗った寝台列車は「新星」(仙台→上野)だった。
旧型客車3段式で寝台幅52センチだったが当時中学1年だったので
そんなに狭いとは思わなかった。 >>18
「富士」「はやぶさ」「出雲」はオール100番台ではないよ
上記3列車は電源車とオロネとオシは100番台ではなかった
オシ24-100番台はあったけどオシ14改造でそもそも25形100番台ではない
「安芸」「瀬戸」下関「あさかぜ」は電源車も寝台車も
オール100番台だけど登場時期が微妙に違う
「安芸」1977年9月1日
「瀬戸」1977年9月26日
「下関あさかぜ」1977年9月25日 >>19
多客期には臨時の「音戸51号」も走ってたぐらいだし
京阪神と広島(と呉)には結構流動があった
呉は呉市だけじゃなく船に乗って江田島に渡る客もそれなりにいたし
特急化してなまじスピードアップしたのが致命的だな
少なくとも広島まで急行音戸1・2号(寝台列車のほう)のダイヤのままなら
多少は存命したかもしれない
いかんせん呉着が払暁4時台ではね >>21
78年10月改正で安芸が廃止になって、その余剰分の広ヒロ・セキ25-100って転用先はどこだっけ?
博多あさかぜ20系は夏に置き換えられたから違うよな。
なるほど、関西〜呉線エリアには当時一定の需要があったのか。
しかしこの区間に寝台特急を仕立てる必要性は、全くなかったようだな。
それも76年以降の運賃爆上げ以降に二段ハネ投入とは、廃止になるべくしてなった運命の特急安芸さんでした。 下関から向日町へカニ2両を含む22両、長崎からから向日町へカニ25が1両
大分彗星(3005レ彗星5/3002レ彗星2)1本増発 安芸は下関車だけで構成されており、広島車は使われていない >>23
1977年9月1日付で25形100番台化された寝台特急安芸(1001レ・1002レ)は電源車を含む全車が、
下関運転所持ちの運用(広102)で広島運転所担当の25形は瀬戸と下関あさかぜの付属編成運用のみ
安芸が1978年10月1日発の運用を最後に廃止・余剰となった25形20両とカニ24-100番台は即日全車、
向日町運転所へ転属後、1978年10月2日夜から新大阪〜大分間の彗星5号(3005レ)・彗星2号(3006レ)に
充当されているが下り最終安芸が下関へ到着後に当日の夜(10/2)には3006レの運用に就くため、
下関から大分までの臨回客にて送り込み回送されて、新大阪に到着した上り安芸はそのまま向日町
運転所に転属している。
下関運転所から向日町運転所へ転属した元安芸の客車番号はオハネフ25-144,146,149,154,155,156
157 オハネ25-173,178,179,180,181,182,183,184,185,201,202,204,206 カニ24-101,102。
因みに安芸はオハネフ25-200番台は組成してなかったが転属組に200番台が混じっているのは彗星
3号(3003レ)・4号(3004レ)の大分切り落としの付属編成7号車で使うためだと聞いてるが実際に
3003・3004レの7号車(逆向きオハネフ25)へ200番台が充当されたかは未確認である。
本転属で電源車の予備車として長崎運転所から転属したカニ25-1も集結したが客車運用なんて担当
運転所や運転区の采配で決まるため、安芸編成の彗星5号・彗星2号は特に区別されずに25形0番台や
カヤ24が混じって充当されるようになった。
>>24
大分彗星(5号・2号)は1本増発でなくて583系電車寝台1往復を25形客車に置き換えだよ。 トワイライトエクスプレスの最後の月は悪天候によるウヤが多かった。今年みたいに穏やかな3月なら良かったのに。 >>24-25
サンクス
>>26
とても詳細な情報で、78-10改正の西日本24系車両転配の流れがよく把握できました。
サンクスです。
もうこの頃に、関西〜九州寝台特急583系の置き換えが着手されてたんだね。
翌年は大した転配はなかったろうが、80年には25型最終ロットが大ムコに投入され、特急ゆうづる2往復置き換え用に初期ロットが盛アオに大移動したね。 >>28
本当はもっと短い文章で纏めたかったけど気が付くと長文になってしまいました。
583(581)系の 定期なは、彗星、明星は速度こそ速いけど2段ハネには敵わず、
寝台特急と共通運用だったBOXシートの座席特急も不人気でとうとう世代交代へ。 >>24訂正
300「6」レ彗星2
増発→置換
>>26感謝 >>30
1975.3〜1983.10は変更なし
転出入は1985.3までなし
ゆったりとした運用となり、しらさぎ分も減らして雷鳥分が3つ新設された >>21
>上記3列車は電源車とオロネとオシは100番台ではなかった
オロネはオハネ/オハネフの100番代と同時製造なのにオロネまで否定する理由が判らない
100という数字遊びをしたいだけならそもそも「100番代」云々に拘る理由が判らない
>>26
>因みに安芸はオハネフ25-200番台は組成してなかったが転属組に200番台が混じっている
1978年10月の下関から向日町への転属組にオハネフ25-200は混ざってない
オハネ25-200は100番代の続番なだけで200という数字に意味はない
向日町へのオハネフ25-200の配置は1980年9月の211〜221の11両の新製配置から >>33
オシ24についても24系ハネ・ロネは「ゆうづる」に転属したけど、食堂車は需給の関係で
そのまま東海道ブルトレに引継がれただけだからな。
つまり>>21は屁理屈・偏屈者w 定期夜行急行の絵文字テールマークって全部で何種類あった?
定期列車でもゲリラ的に数日間限定とか廃止最終日とかは除外だよw
利 尻;スハネフ14とオハフ14にテール絵文字マーク取り付け キハ400・480も同様
大 雪;スハネフ14とオハフ14にテール絵文字マーク取り付け
まりも;スハネフ14とオハフ14にテール絵文字マーク取り付け
はまなす;スハネフ14とオハフ14にテール絵文字マーク取り付け
天の川;ナハネフ22やカヤ21に絵文字テールマーク?定期時代は文字のみだっけ?
銀 河;ナハネフ22、カヤ21、スハネフ14、オハネフ25に絵文字テールマーク取り付け
能 登;クハ489に絵文字マーク取り付け スハネフ14時代は急行だけだっけ?
きたぐに;クハネ581に絵文字マーク取り付け スハネフ14時代は急行表示だったような?
ちくま;スハフ12に行燈式のテールマーク取り付け スハネフ14にテール絵文字マーク取り付け
だいせん;スハフ12に行燈式のテールマーク取り付け スハネフ14にテール絵文字マーク取り付け
日 南;オハネフ25にテール絵文字マーク取り付け
かいもん;オハネフ25にテール絵文字マーク取り付け
これでいいんだっけ?不足している列車や絵文字じゃない列車など指摘があればよろしく
テールマークに取り付けって表現は不適切かな? 掲載・提載や提示の方がいいかな? >>35
定期天の川は文字だけだった記憶がある
583きたぐにも、昭和60年改正直後は急行表示だけだったはず
あと、かいもん・日南は20系末期で絵入りテール表示をしてた(ナハネフ22のみ) >>26
>因みに安芸はオハネフ25-200番台は組成してなかったが転属組に200番台が混じっているのは彗星3号(3003レ)・4号(3004レ)の
>大分切り落としの付属編成7号車で使うためだと聞いてるが
いったいどこから聞いたの?
1978年10月改正時点では向日町にオハネフ25-200の配置は転属組を含めてなかったんだけど
>実際に3003・3004レの7号車(逆向きオハネフ25)へ200番台が充当されたかは未確認である。
1980年9月改正前ならされるわけないよ
そもそもオハネフ25-200の配置がないんだから
>安芸編成の彗星5号・彗星2号は特に区別されずに25形0番台やカヤ24が混じって充当されるようになった。
そりゃそうでしょ
1978年10月改正当時の向日町は、0番代が主流派で安芸用だったオハネ/オハネフ25-100番代は少数派だったし、オハネフ25-0
だけが方転可能だし、寝台のセットと解体がなくなり定員も取り扱いも0番代と何ら変わらないんだから、運用を0番代と100番代で
分ける必要性が一切見当たらない
1978年10月改正時点の向日町運転所の配置両数
オハネ25-0 56両
オハネ25-100 13両
オハネフ25-0 27両
オハネフ25-100 7両
カヤ24 8両
カニ24-100 2両
カニ25 1両 参考に当時の編成例置いときますね
0番代と100番代が完全に混用されていたのがよく判ります
1980年9月29日発 3005レ 彗星5号 (1980年10月ダイヤ改正で廃止になった彗星5号の最終列車)
EF65 1122 (関)
カニ25 1
オハネフ25 19 ↑
オハネ25 51
オハネ25 38
オハネ25 173
オハネ25 42
オハネフ25 144 ↓
オハネフ25 27 ↑
オハネ25 202
オハネ25 181
オハネフ25 23 ↓ × オハネフ25-0だけが方転可能だし、
○ オハネフ25-0のみが方転可能なこと以外は
× 1980年9月改正前なら
○ 1980年10月改正前なら >>35
583系のきたぐには原色じだいは急行のみで
583系の色が変わるかその前くらいに絵文字に
切り替ったような記憶があるんだけど詳細は不明
あと九州の夜行急行なんだけど1986年3月15日に
乗った下りかいもんはナハネフ22に絵入マークで
1986年3月19日の夜行急行日南はナハネフ22に
絵入マークだった
いずれもナハネフ22の窓上にある白線は消されてて
独特の風貌なのに二本線では締りがなかったけど・・・ 583きたぐにの絵入りマークは90年か91年あたりじゃなかったかな出てきたのは
あと14系時代にもマークも作られてはいたけど(583になってのと違って雪山を描いたやつ)結局こっちは未使用だったか 583きたぐに、少なくともJR化直後の1987年春には絵入りになってたよ。もちろん原色で。
新潟駅で写真も撮ってて、同じスリーブにデビューしたてのアルカディアも確か写っていたはず。 88年のゴールデンウィークに大阪駅で撮った「きたぐに」は国鉄色で絵入りでした。 >>44
14系 きたぐに に付いたヘッドマーク(看)は客車でなくてPFのみに付いたんだよ
それも583系に置き換えられる前日の大阪着きたぐにの最終日(1985/03/13)のみで
ヘッドマークが付いたのは米原〜大阪間のみ その他の区間では取り付けられなかった
当然新潟〜米原間はヘッドマーク取り付けなし、前日も取り付けられなかったので
つまり>>35の言わんとするゲリラ的にオマケで付いただけ
惜別を意味するヘッドマーク取り付けは急行津軽のPFに津軽の漢字とリンゴの
実をあしらったマークが電車される約2週間前から連日取り付けられて田端運転所と
JR東日本東京地域本社は人気のPF1019を運用に入れてPRを図っていた "きたぐに"ネタで盛り上っているようだけど俺は14系きたぐには1回も乗らない内に583系になってしまい、
やはり乗っておくべきだったと後悔しても手遅れだったのだがどうしても関東圏に住んでいると乗り難い
列車なのだが普通座席車が12系時代は下りも上りもフル乗車したのだけど乗れる内は乗っておかないと後々
後悔先にたたずになる
最後の12系きたぐに乗車となったのは1980年だったと記憶するが当時の大阪駅は夜行急行の自由席に乗る乗客は
ホームへ並ばせずに改札を出た北コンコースに即席で作った夜行列車自由席の待合所に列車別で並ばされて
簡単に言えば新宿発の夜行急行アルプスの自由席乗客や長野行き鈍行夜行441M乗客はアルプスの広場へ並ぶのと
同じで結構面倒くさかった
こんな看板があったんだけどこの看板は1980年に写したのかは不明、長野行きの急行ちくまは物凄い行列だったけど
きたぐにの自由席は友達をBOXを2人で占領して足を前の席に伸ばしても問題ないくらいの乗り具合だったけど
流石に朝の新潟鉄道管理局管内は通勤客が乗り込んだけど新潟までだった
大阪駅の看板 https://dotup.org/uploda/dotup.org2424496.jpg >>44
それと別に客車用でも青地に白い山を描いて平仮名できたぐにと記したやつが作られてた
(RF83年4月号に表示した14系客車の写真を編集部が撮影して掲載)
RFの元記事では583系の銀河共々紹介されて今後の使用を窺わせる内容だったけど結局実際に掲出したか怪しいまま終わる >>47
EF65 1104は東京機関区の機関車だけど京都までの出雲運用
から変臨運用で「きたぐに」の運用に回ってきたのかな? >>48
急行だいせんは直接ホームへ並べたのかな?
新大阪発の山陽/九州方面夜行急行とかも気になる >>51
定期列車の夜行だいせん、所謂大阪夜行はハザで自由席はなかったよ
季節列車のだいせんは1970年秋には桜橋口の南、中央郵便局の向側
駐車場で6時間程並んだな >>52
確かに「山陰」が無くなるまで自由席がなかったので、自由席で行く客は夜行鈍行でと
棲み分けされてたな。
下りが福知山で相互接続がされていて、真夜中なのにホーム駅弁も売っていた。
同様の措置は「からまつ」が廃止されて、夜行「狩勝」に自由席が設けられた。 似たようなのが、急行きのくに新宮行きと鈍行新宮回り名古屋行きか。 >>54
それは「きのくに」に自由席があって寝台車がなかったから、事情が違う。
しかも天王寺行きの夜行「きのくに」の設定がなかったし。 紀勢線夜行は急行きのくに15号(312D)に自由席が連結されて
更に臨時夜行快速いそつりも運転されてこちらにも自由席連結
いそつりは12系時代が有名だけどその昔は気動車でした
JR化後は電車の夜行快速いそつりも運転されたそうですが不明 紀勢線夜行924レは通年利用客がいたにも関わらず天王寺行きの921レは需要が少ないので
DC夜行急行"きのくに"は上りの天王寺発・新宮行きしか設定がなかったのはうなずける
そういえば夜行急行"紀州"も名古屋23:58発・紀伊勝浦5:47行きの下りしか設定がなかった >>53
福知山駅ホームへリヤカーに駅弁積んで深夜に売るのがナツイ 小学生の時に大雪の新庄駅で臨時夜行おが20系に乗ろうとしたらドアが自動で開かないから焦った。開けるのは手動って知らなかった。 キハ52も開かないから「?」と思った。新潟だったから半自動なのか。 初めて急行格下げになった20系に乗ったのは1983年4月28日の急行津軽
A寝台下段を奢って青森までフル乗車したけど運転停車の駅でドアを
開けたりして遊んだことがある
1983年6月くらいに20系はおがに転用して津軽は14系に変わってる 昭和58年7月に季節夜行急行「おが」の使用客車(14系ハザ)と
定期夜行急行「津軽」の20系(ロネ・ハネ・ハザ)の編成がそのまま
チェンジして昭和59年2月には座席車だった津軽の上野より4両を
14系寝台車と変更したが昭和60年3月には全車14系座席車に戻ってる 59・2〜60・3の間の津軽も時期により寝台車1両減車、オハ14に振り替えになるしな
(保育社の「国鉄の車両」で奥羽・羽越線の巻にある津軽の写真もハネ3両+ハ7両の編成) 昭和50年代の時刻表を見ながら妄想旅行をする机上旅行クラブってのが中学の時にありました。ワイド周遊券で八甲田でとか。 >>64
昭和50年の急行八甲田だと1号車が指定席で2号車がグリーン車のスロ62、3号車から9号車が全車自由席で
10号車〜11号車が仙台〜青森間連結の10号車は10系寝台(スハネ16)で11号車は自由席の旧型客車だった。
仙台⇔青森のみ運用してた10〜11号車は1978年10月2日改正で消えて1980年9月30日までは全車旧客の
座席車オンリーで走ったけど翌日の1980年10月1日改正で旧型客車から12系座席車に変わっても運転時刻は
大差なく、東北ワイド周遊券・B券の自由周遊区間内のみでも八甲田(郡山22:34→6:15青森0:03→7:27郡山)
を宿代わりに使えたので便利だったけど1985年3月14日のダイヤ改悪で14系座席車になり、時間的にも
東北ワイド周遊券・自由周遊区間内で利用しずらい時刻に変わって終了。 >>65
詳しくありがとうございます
少し記憶が戻りました
実際に85年頃青森から福島で八甲田?か津軽?に上りから下りに深夜乗り換えを強硬して失敗でした
寝過ごしたり上野からのは満員だし >>66
上り八甲田から福島駅で下り津軽に乗り換えるV字夜行列車折り返しだと思う
当時は福島駅V字キックターンとも呼ばれて旅と鉄道誌にも紹介されていた
自分は12系時代の八甲田や2往復走っていた12系津軽は何度も乗ったけど
夜行列車折り返しは寝れなくて寝不足になる事や寝過ごす事、更に戻り列車が
座れないリスクがあるので道内の利尻・大雪・まりもの夜行列車折り返ししか
経験がない >>65
八甲田の12系座席車化は、1979年4月からだけど。
同年の10月に旧客の十和田も12系に置き換わり、1980年10月改正前時点で
東北・常磐線筋に旧客急行は消えていた。 「ブルートレイン」「夜行列車」の廃止 国鉄分割民営化のせいなのか?
https://trafficnews.jp/post/105820 むしろ富士・はやぶさに関しては実情を考えると
廃止するにも関連する会社が多いせいで
調整に手間取って廃止が先送りにされてきた感がある >>69
「ブルートレイン」「夜行列車」の廃止は使用車両の老朽化と新たに新型車両を増備しても
儲からないからカシオペアとサンライズ以外は国鉄時代の車両を限界まで使って廃止にしたのが
理由だけど安い飛行機や安いビジネスホテルに安い高速バスが増えて整備新幹線計画によって
一般利用車からブルートレインや夜行列車のニーズが落ち込んで需要が減ったため。
1978年6月に森山欽司運輸大臣が国会で「国鉄の財政改善のため、非効率な夜行列車は廃止すべき」
と表明した事があるけどJRの経営を健全化する意味でもブルートレインや夜行列車は廃止されて
正解だったのだと思うが寂しい事だよね。 夜行列車の旅は楽しかった。だけど風呂が無いからね。楽しかったけどなにが楽しかったんだろ? 話は変わるけど、夜行連泊した事はある?
俺は2泊が最高だけど…
1995年頃、札幌から快速ミッドナイトで函館へ
函館周辺を散策して快速海峡で青森へ 青森から『はくつる』で帰京 ウィークエンドフリー切符があった頃に、下り能登と上りアルプスでのダブル夜行移動をした記憶はあるけど、
もはや道中の行程を全く思い出せないw 夜行連泊
そういえば、名古屋や関西方面へ、大垣夜行で行って帰ってきた事もある… >>73
1996年夏休み中に北海道乗りつぶし旅行中、夜行列車10連泊した事はある
八甲田、43レ、すずらん、利尻、大雪、からまつ、44レ(一部順位不動)
高校生でお金がなくて宿には泊まれず夜行泊か駅寝が主だった 訂正
× 1996年夏休み中に
○ 1976年夏休み中に >>70
JR化後にまず夜行や在来線優等列車の整理進んだのはそういう調整を要しなかった東日本でのことだったしね >>71
ブルートレインは廃止にしません!by自民党
草 急行ばんだい11号上野駅23:55発また乗りたい 今ならビール飲みながら早朝の会津若松まで起きてられる >>70
と言うよりも、国鉄時代の看板列車だったので、分割民営化によって
簡単に廃止しにくくした要因がありそう。
でも言い換えれば、一社だけの要望でグレードアップ改造がしにくかった。
そして両端会社が儲からない博多あさかぜの廃止で、衰退に次ぐ衰退に拍車がかかった。
JRQのはやぶさの熊本、富士の大分以南廃止も、地元と調整に手間取ったようだし、
九州ブルトレ全廃になると、九州内だけでなく、山陽本線沿線からも相当抵抗があったかもね。 >>73
九州ワイド周遊券を使って夜行列車8連泊が人生の座席夜行連泊最高レコード
急行雲仙→鈍行ながさき→急行かいもん→急行日南→鈍行ながさき→
急行日南→急行かいもん→急行西海
雲仙・西海は14系座席車、かいもん・日南は12系座席車、ながさきは旧客
全て自由席の座席車仮眠だけど9月中旬だったので自由席は空いてて2人で
1ボックス占領して靴脱いだ足を前の席に出しての仮眠だから比較的楽だった
し、1人で1ボックス占領して仮眠した事もあった
俺は大学1年生の時で予算がないため、宿泊は当然なし 煙草と酒代を捻出
するのと土地の名物料理に消えた 夜行列車8連泊や10連泊の猛者がいるなか、自分は山陰〜はやたま〜大垣夜行〜441Mの4泊が最高 >>83
その4泊は青春18きっぷ初期の頃かな?
その直前の北海道・九州ワイド周遊券で、自由周遊区間内の夜行列車が全盛時代は、
夜行列車連泊の猛者がそれなりにいた。 >>80
会津若松に着いたあとどうするんだい?
宮脇俊三の書くように、寝不足と二日酔いの二重苦を背負わねばならなくなるかもしれないぞw >>84
青春18のびのびきっぷが発売される前の1978年〜1979年くらいだったと思います
本当は ながさき〜山陰〜はやたま〜442M〜青函深夜便 11便〜からまつと繋いで
旅する予定だったけど余りにも期間が長くて予算的にも難しいため、>>83みたいに
プランを変えて短くしたのですがあと3〜4年早く青春18のびのびきっぷが発売に
なってくれれば良かったのにと今ごろ思っている >>86
一筆書ききっぷを使っても、国鉄が高くなってた時代なので、青春18でないと
値段は相当高かっただろうね。
でも青春18のびのびきっぷ登場時は、既に「からまつ」が無くなっていたが・・
本当はやりたかったのと近いルートの、平戸口→東根室で故種村直樹氏は実行したが。 >>80
急行ばんだい11号(4217M)で会津若松駅に到着したら会津若松駅5:17発の
喜多方経由熱塩行きの621レか新津行きの223レに乗り継ぐごう 新津行に乗って少し寝るのが良さそうですね
ばんだい、あづま、ざおう等の寝台が無い中距離夜行にもっと興味を持てば良かった 日中線が3往復だけだったから、熱塩に行くのもありだろう。 >>89
そのころ、日出谷のとりめし弁当って朝も売ってましたか? >>91
日出谷駅 朝陽館のとりめし弁当は下りだと1225レからの販売で時間にするとAM9時半くらいです
1225レは郡山を朝6時少し前に発車して会津若松で進行方向と機関車を変えて(ED77→DD51)11:12
に新津駅へ到着する昭和59年は旧型客車の普通列車でした 仙台発の新星は確か21時から入線して寝台使えるらしかった 発車は23時で駅弁とビールで旅情をつまみに出来たのかな? >>92
さすがに朝は売ってないか。
ありがとう。
一度だけ食べた記憶がある。 >>57
中央東線の夜行鈍行も下りは山にいく連中需要があったけど
上りはあんまりなくてそうそうに消えたな
しかし運用的に下りだけ営業しても上り回送が必要なわけで
どうせほぼ無人でも営業しておけばいいのにとも思う >>90
日中走らぬ日中線(朝1往復、夕方2往復)
>>94
20系の急行新星は1976年9月25日から1982年11月14日だと記憶してるけど
21時にホームで駅弁を売っていたかは不明だけど缶ビールは買えたと思うよ
同時期に郡山駅、福島駅、平駅(現いわき駅)でも夜行急行の到着に合わせて
ホームで駅弁が売られていたからね >>95
442Mで一番需要が多かったのは篠ノ井線区間(長野18:30→19:56松本)
くらいで途中停車時間も長く(松本60分、塩尻19分、辰野17分、上諏訪9分、
信濃境10分、小淵沢6分、甲府25分、大月16分、「停車駅5分未満除く」)
新宿着が4:23なのは無理やり停車駅で時間調整して利用客も少なかった 115系だから無理やり上下走らせる必要ないしな。長岡夜行も下りだけだったし
昼間の上りで調整すりゃいいだけ
>>93
中学生くらいの頃、一回乗ったけど、寝台セットされてるからやることない。座るところもない
ナハネフにずっといた覚えがある 上り寝台急行「新星」は発車時刻の1時間30分前から入線させて仙台駅に停車中から寝台で寝る事が可能だった 21時過ぎまで仙台の街中で飲んで、そして発車前に早々と寝るのが想定された使われ方だったんじゃないか。23 時まで飲んで時間潰すのは大変だし。 そうですよね〜三段寝台じゃ狭いから大変ですよね
そうですよね〜先に飲んでれば良いですよね 12年前位に青森函館パス?企画切符であけぼのB寝台も利用出来るというのでみどりの窓口に予約しにいくと満席です。とダメでした。帰る日当日13時頃に函館駅でみどりの窓口のお姉さんに調べてもらいました。
僕「今晩のあけぼのって空いてますかね?」
お姉さん「あ〜さっきも調べたけど空いてないと思いますよ(めんどくさそう)カチャカチャタ-ン」
僕「ですよね」
お姉さん「あっ!ひとつだけ空いてます!(ニッコリ笑顔)取りますね」
僕「ありがとうございます!(新幹線で今日中に帰ろうと思ってたのに空いてるとは…)」
あけぼの「ガタンゴトンガチャーンガチャーン」
僕「うるさくて眠れない&興奮
(久しぶりの寝台)」
これが最後の客車寝台の思い出となりました。 北東パスではまなす7号車指定を持って北上してた
せめて指定ならドリームカーに変更したくて八戸の窓口で空席検索を依頼
そしたらなんとカーペット上段が空いていると
気持ちよく札幌まで爆睡しました
今思うと寝るのはものすごくもったいない気がするけど
褪せた14系の思い出 時刻表に掲載された最後の客車夜行は臨時北斗星最終日の約2週間前に乗った。
2015年8月の下り臨時北斗星(8007列車)だけど上野から青森までカシオペアの
スジで走って青森から札幌までは定期北斗星所定スジで走行。上野16:20から
札幌着11:15まで約19時間の乗車でこれまで北斗星は単身か彼女(後の嫁)との
乗車が多かったけど同じ趣味の知り合いからびゅうプラザで3BOX(12名)を
押さえているからと誘われて自分ら夫婦も参加してみた。鉄道マニアではないけど
全員ブルートレインの旅が好きな人ばかりで旦那は鉄分濃い人もいたりして
初対面の人もいたけど楽しめた。年代も50代が多く、子供の手が離れた夫婦が
殆どで男性陣はお酒で乾杯、女性陣は各自持ち寄ったお菓子をつまんで完全に団体
旅行だったけど今思い出すと一番楽しかったブルートレインの旅だったかも知れない。
乗った車両は開放B寝台で開放B寝台の北斗星に乗るのはまだオールB寝台で運転
していた1988年夏の北斗星3号以来だった。。。 幅52センチの3段蚕棚ベッドの20系では居場所が確かにないよな
通路の椅子かナハネフ22の展望エリアしかないので出張で銀河に
乗ると席に鞄置いて缶ビールと煙草にライターもってナハネフ22へ
真っ先に行ったよ
ナハネフ22展望窓のところは缶ビール置くスペースに灰皿もあるので
毎回1号車の寝台ばかり押さえていたもん
残念ながら急行新星は乗った事がないのでコメント出来ないのが残念 出張で夜行寝台を使えてた時代が羨ましいです。
今は出張で新幹線&ビジネスホテル一択ですが寝台より快適なので良いのかな?
安いビジホで部屋が狭いと思ってもA寝台より広いからね。 ブルートレインでの出張懐かしいけど本音を言えば新幹線とホテルが楽
自分にとって最後のブルートレイン出張は1990年のあさかぜ3号で下松まで
の利用だったけど広島空港や宇部空港からも遠くて下関あさかぜが時間的
にもちょうどよかったなぁ 夜行貨物列車はもっとあってもいいと思うがなあ
夜行バスすら次々廃止されてる現状では夜行旅客列車の復活は夢のまた夢だとしても 保線面での様々な問題からも、終電繰り上げ&始発繰り下げへの動きが
さらに進みそうな感じだから、遠くないうちに在来線の運転時間帯は
大幹線であっても5-24時の間に絞られて行く気がする
もちろん貨物列車も例外ではなく >>109
貨物列車は早朝に着くから意味があるんだろ。 トラックでの自動運転が本格的に行われる頃には(本当にできるのかは別問題)、
一部路線を除いては夜行貨物列車もほとんどが消えることになるのかもね
レール交換などの大規模保線の頻度次第でもあるだろうけど 昔は夜行の荷物列車が汐留貨物駅から熊本とか、隅田川貨物駅から
札幌方面(青函連絡船・車両航送含む)へ長い時間走る荷物列車が
あったけど夜行は荷物も旅客もそして貨物も減ってる現状 昔、夜行列車の担当の職員どんな気持ちで働いていたのかな?
夜中に働くのは大変だったと思うんだけど。
それ以上にやりがいや誇りがあったのかな? はよ帰りたい〜〜
おちんぎん上げろ〜〜〜
今と大して変わるもんかい >>113 深夜給もらえるから割りきって働く。
保線作業員も同様だろうなあ 国鉄時代は働けば働いただけその分全額もらえたから
夜行列車運転やそれに関する駅務に保線などは
超過勤務(残業)手当てや変則深夜勤務手当てが
ついたし、汚れる仕事は、勤務時間中の入浴も
許されたので頑張って深夜まで働いて稼いだ人も
多かったにちがいない >>116 民営化されても深夜給など所定の給料は支払わなくてはならないんだよ。
組合の反対押しきって勤務時間内入浴の慣行廃止したのは、国鉄末期の70年代末頃だな。 82年に寝台特急紀伊が居眠り運転で、84年に富士が飲酒運転で事故起こしている。国鉄末期の職場モラル悪化を物語るもの。 てっきり汚れ仕事は後でシャワー使えるもんだとばかり思ってたわ そんな大昔に無くなってたのか >>119 入浴時間が勤務時間に含まれるかが問題であって、勤務時間終了後の入浴なら問題ないんだよ。70年代末頃から問題にされ始め、82、3年頃に勤務時間内入浴慣行廃止が行われた。 車両の下にもぐってグリスだらけで点検や検査する人や人身事故を起した
車両の台車とか足回りを清掃する人たちは時間内の風呂が許されていると
国労新橋支部東京機関区分会の人から聞いた事があるよ 雑貨はともかく農水産物なんかは市場に間に合う必要があるから
早朝到着がなくなることはないな
鉄道貨物をまったく利用しなくなったら別だが 東京市場駅の頃じゃあるまいに今時農水産物の輸送あるかね >>122 今、農水産物の鉄道貨物輸送ほとんど無くなったんでは?ただ、新型コロナによる利用者減少で新幹線による生鮮品輸送が拡大するかも。でも夜行ではない。 新幹線夜行寝台計画が実現していればね…
深夜の保線や騒音防止の為に待避駅を作ったと書いてあったのに
あの頃はブルートレインから新幹線夜行寝台に変わると信じてました ユーチューブで夜行列車の音源聞いて寝るのよ
ユーチューバーに感謝します 水産物はアレかもだけど農産物は今でもフツーにあるだろ
北見のタマネギ貨物を筆頭にさ 北見のタマネギは毎年8月下旬から翌年3月くらいまで石北線の臨貨設定して
札(タ)経由で高速貨物Aにて五稜郭経由で関東方面と関西方面に輸送している
玉ねぎ輸送や返空含めて夜行列車の運行時間帯で動かしてる貨物もあるほど 貨物輸送の農産物輸送PR目的に
貨物ターミナル駅公開イベントでやってる
野菜の即売会やつかみ取り大会が
鉄オタ相手にすら宣伝になってないとは 8051レ・8050レだったか
下関以東は特通客B4(55)をそのまま使うため、550t(コキ11両稀にコキ12両)に制限されていた SLが現役のころは仕業終わって風呂で煤煙を洗い流すのがデフォだった
当時は自前の休車や廃車SLのボイラーでお湯沸かしてたので
常時風呂にはお湯が沸いていて、シャワーも無制限に温水がでる環境だったので
庫内手や雑役を中心に仕事中に上司の目を盗んで勤務時間中に風呂にはいる輩が多かった
国鉄末期になればなるほど職務規律が乱れて上司も注意しなくなったので、ひどいときは事務室で昼過ぎから酒盛りとか大勢で昼休みすぎても野球やってるのがデフォになった スレが賑わうと雰囲気乱す奴が定期的に湧くな
空気読めないアスペ君かな >>132
下関以東は速度種別:特通客B4、定数:55 だね 昭和45年時刻表見ると、朝7時東京駅出て、
翌朝七時頃に長崎・佐世保に到着する臨時
急行がある。これは当時開催されてた
万国博に、東京から大阪まで客を連れてくのと
大阪から長崎・佐世保に万博帰りの客帰すのと
を一本の列車で済ませたという事なんかね?
ハネが連結されてたようだけど、朝から乗り込んでゴロゴロ寝台に寝っ転がって行けたんだろうか? >>138
昼行区間は寝台解体されて一区画に6人のはずだから空いてりゃ寝っころがれるだろうけど
当時の国鉄東海道線がそんなにガラガラとは思えんな >>139
当時は既に東海道新幹線はあり、万博輸送はそちらが主流だったので、
日中の東海道線で朝早くから寝台車の利用客は考えにくい。
東海道線でその当時は日中の東京〜名古屋・大垣で存在してた昼行急行「東海」は、
その2年後の新幹線岡山開業で、全列車が東京〜静岡の運転に変わった。
また新幹線博多開業まで、日中の東海道線を走ってた定期急行「桜島・高千穂」も、
線内の座席車の利用率は芳しくなかった。 138だけど、検索したら毎年の44年にもこの
急行 ながさき させぼ は走ってたみたいなんだよね。新幹線も開業してたこの時代に東京ー長崎・佐世保24時間の急行の需要は如何に?
佐世保編成にはハネはない鬼の様な編成。
長距離鈍行にある郵便荷物輸送中心の列車か?
はたまた大陸からの引揚者の幽霊を夜な夜な運ぶのか?秘密の軍需輸送?ハネはまさかのスハネ30? >>138
団体向けとか
荷物輸送のついでとか
まあ色々 >>141 当時の若者の安給料では新幹線は高すぎたんだよ。中小や零細企業従業員は尚更。
都会に出てきて高い家賃も負担しなくてはならないし。 >>143 その頃高校出て就職した人から聞いた話。入社当時、スーツ買う金がなくて学生服で勤務してたそうだ。親からの援助もない。むしろ仕送りしていた人も。 福山雅治もさだまさしも長崎から夜行急行の座席で上京したんじゃなかったっけ? >>145
さすがに福山の頃には東京口の夜行急行、銀河しかないだろ NHKの武田アナは、はやぶさで上京したと言っていたな。 >>145
さだまさしはS40年頃、中学生時代に単身上京したけど、急行雲仙で長崎から上京したり帰省してたって本人のトークで聞いたことがある。 >>146
すまん、間違えた。
あとになって、福山ってそんな年だっけ?、と思えてきた。昭和44年生まれのようだから、中学卒業で上京したとしても、長崎には夜行急行はないよな。東京も「銀河」だけか。そもそも長崎の昼行急行も「平戸」くらいか?
ありがとう。 海援隊や陣内孝則は、寝台特急で上京したようだ。
福山雅治の上京列車は「さくら」でないか? 中学の時につくば万博に家族で行ったときも
わがまま言って富士に乗せてもらった俺以外は
みんな飛行機で行ったくらいなのに
同じころに上京した福山雅治が鉄道上京ってのは
ちょっと考えにくいんじゃないかね 草刈正雄が福岡から上京した晩、一人の不安と寂しさから帰りたくなって"羽田空港に向かった"という話を聞いた。
まだ新幹線以前だから、夜行で上京&帰郷になるかと思ってたから、飛行機利用は意外だった。 福山雅治は1969年生まれ
地元長崎県立長崎工業高等学校後に
18歳で状況したにせよ1987年
夜行急行は急行銀河しかない >>154
昔はレコード会社や芸能プロダクションなどのが東京に集中してたからでは?
俳優なら俳優座なども都内に多かったし、東京で当てれば全国区だから仕方がないよ >>155 芸人でなく芸能人ならタカラヅカは?
よしもとは関西弁できないとダメだろうけど、こちらは全国区。 芸人と芸能人は違うのか。
芸能人…役者、タレント、歌手、スポーツ選手
芸人…落語家、漫才師、お笑い芸人、芸者、大道芸人
で桶? 今でもそうだけど、上京した時に同郷の親類や友人が東京にいるかどうかで大きく違うね 札幌函館を走っていた「ミッドナイト」は、毎日運転だったのか。
てっきり臨時列車だと記憶違いしていた。 何処かの駐車場で消火用炭酸ガスボンベが爆発して作業員が窒息死する事故が起きたな。
ふと、同じ消火設備を持つカニが脳裏によぎった。偶然に晩飯にカニを食べている最中だった。 >>159
初期は臨時列車だったよ
毎日運転してたけど >>158
それもあるけど、根本的に東京一極集中で、地方の経済パイが小さいのが。
芸能・タレント関係も東京にプロダクションや仕事・チャンスが多いから。
コロナ禍で情勢が崩れているけど。
>>156
西川きよしは、高知出身で大阪に出てきた。
大阪の芸人も、生粋の関西人とは限らない。 >>163
ありがとうございます。
記憶違いではなかったのか、少し安心した。 生粋な江戸っ子タレントって、
三宅裕司、ビートたけし、毒蝮三太夫、永六輔、手で数えられる程度か。
大物議員も地方出身が多い。 >>168
たけしって足立区じゃん
毒蝮三太夫も大阪生まれで品川区育ちだ 江戸っ子といえる下町界隈のとこは焼夷弾空襲でほぼ壊滅したからね
戦前の西側はまだまだ田畑が多く住民は少なかった >>170
東京大空襲よりも関東大震災で下町界隈は焼け野原になったんじゃなかったか? ムーンライトが急行、それも14系客車からのトライアル運行から始まったなんて初めて知った。 ムーンライト(のちのムーンライトえちご)の運転までの流れ
1960年代 上野〜秋田間 1821・1822列車(上越線・羽越本線経由)
1968年10月1日 上野〜長岡間 115系の夜行普通電車(1972年3月上りは廃止)
1985年 上野〜新潟間 団体専用快速列車・ムーンライト運転
1986年6月30日 上野〜新潟間 ムーンライトの前身で14系ハザ3両(全車指定席)
1987年9月3日 上野〜村上間 臨時快速ムーンライト(全車指定席)のちに毎日運転の臨時列車へ
1988年3月13日 ムーンライトはダイヤ改正で完全定期列車化
1996年3月16日 ムーンライトえちごへ名称変更 >>175
1821・1822レが後の天の川かしらん 天の川は1963年6月1日から運転
1821レ・1822レは1961年から運転
1961年の時刻表によれば
1821レ:上野22:03→秋田16:00
1822レ:秋田12:57→上野6:32 あと1985年3月に下り長岡夜行廃止が抜けてるが、国鉄末期からムーンライトの運転が
あったのか?
14系のムーンライトが走ったのも、民営化後と聞いたが・・ >>178
誰から聞いたか知らないが
そいつのことは信用しないほうが良いかもな >>175の 「1985年 上野〜新潟間 団体専用快速列車」は
弘済出版の鉄道ダイヤ情報の紙面に臨時列車運転の欄に書いてあるな 1985年というと、ちょうど関越自動車道が開通して
池袋−新潟間の高速バスが走り始めた時?
これに対抗するためだったのかな? 30数年前の中学生の夏に山形駅か新庄駅で急行津軽に乗れなくて駅ネをしようとした。酔っ払いのおじさんが話しかけてきて、こんなとこで寝るな俺の家に来いと言われた。妹さんが車できて大きな農家風の家に着いた。おじさんは中学の先生だった。次の朝に妹さんがご飯を作ってくれて近くの駅まで歩いて送ってくれた。感謝してます。 >>181
全くその通り。一旦撤退した東京−新潟の夜行に需要があると見直して設定された。
165系のグレードアップ化も高速バスの競合のため。
なので485系化後に利用者減の廃止理由は、本来ナンセンス。 東京−新潟の夜行、
上越新幹線の上野開業前は急行天の川、
大宮暫定開業以前は、急行佐渡7,8号や長岡行き夜行普通も走っていたよね スマン
長岡夜行は、上越新幹線上野開業まで走っていたね 急行天の川 廃止日 1985年3月13日
急行佐 渡 廃止日 1985年3月13日
長岡行き733M 廃止日 1985年3月13日
上越新幹線 大宮暫定開業 1982年11月15日
上越新幹線 上野開業 1985年3月14日 >>183 関越高速が外環道通して首都高に直結、藤岡JCT以南で三車線化が進む、高速道路が新潟県北部にまで延長、そして運賃が安い夜行バスが新潟県北部まで運行するようになりムーンライトえちごの利用客が減ったということ。
何らナンセンスではない。 >>187
だったら高速バスに対抗せずに、東京−新潟の夜行列車は安楽死でいいだろうが!
何のために165系をグレードアップして高速バスに闘いを挑んだか支離滅裂! 急行型が余ったし赤倉用リニューアルも兼ねたのでちょうどよかったんじゃろ その謎を解くため我々はAmazonの奥地へと向かった 新幹線延伸で旅客輸送が昼行新幹線に移るのは理解できるとして、何で夜行貨物列車まで次々昼行化するのかが理解できない。 はまなす残しておいてくれたら 北東きっぷで渡道できたのに 厚別ダッシュするのに >>195 乗務員など深夜勤務行わせると給料割増ししなくてはならない。沿線住民からは列車の騒音で眠れないとの苦情が来る。線路上に障害がある場合、夜間だと前照灯つけていても確認しづらいという安全面での不安。
ダイヤに空きがあったら昼間運転にする方が合理的。そもそも昼間運転の旅客列車増やしてダイヤが過密化したから、夜間の空いている時間帯に貨物列車をできるだけ移行させたわけで。 >>197
深夜帯に移動して翌朝到着で当日の配達や集荷に間に合わせる需要があるわけでダイヤが空いてるから夜間帯に貨物走らせてたわけじゃないでしょ >>198
そのあたりの各社の配送事情も、根本から見直されつつある感じだね
数年前と比べて、余分に1日〜数日取るようになっているようには思う
少なくとも、鉄道貨物は選択肢にならなくなっているけど あと前照灯はあくまでも列車の進行を通行人や作業員が視認するためのものであって、運転士側の視認向上にはほとんど無意味 誰だって真夜中歩きたくもないし働きたくもない。保線も貨物列車の運行もできれば昼間のうちにやりたいわけで そうなると貨物列車も昼の電車の足引っ張らないよう電車化か 工業製品(部品など)や雑貨など特に急がない荷物はそうだが
生鮮品や宅配便など深夜走る必要のある荷はまだまだあるけどな
わざわざ横須賀北九州のフェリー就航させるぐらいだし 客船内航は需要あるのに夜行列車は衰退。衰退理由は速度ばかりじゃない。 コキロネフとコキハネフ作って夜行混合個室寝台列車ってのはどう >>195
そんな動きあるのですか?
じゃあ、コンテナやめて、トラックにするわ。荷主 >>206
31フィートコンテナハウスをコキ10000に積んだほうがいいんでね? >>207
ねーよ
東海道山陽東北日本海縦貫と函館札幌間見れば分かるやろ >>203
SHKグループの東京九州フェリーは時間はかかるけど残業終えて一旦帰宅してから
自宅で夕飯済ましてからも時間的に余裕があるので使えると思う
オーシャン東九フェリーだと新門司まで二泊三日掛かっていたのが大幅時短
横須賀・北九州航路時刻表
横須賀発 23:45 新門司着 21:00(翌日)
新門司発 24:00 横須賀着 20:45(当日)
※日曜日を除く週6便運航。
時間帯はイマイチだけど21時間前後で結ぶのだから御の字だし、個室の
種類も多くてレストランの営業まであるので船旅気分を味わえそう
ザコ寝や寝台ばかりだと気分でないし、自販機の飯ばかりでも飽きてしまう >>210
そうなんだよなぁ。
夜行列車が殆どないから、車載せてフェリーで行こうかとも思うが、自販機で買ってレンジでチンの食事では二の足を踏んでしまう。
まぁ、基本的にトラックを相手にしていて、自家用車の旅行者なんて眼中にないのだろうけど。 >>211
緊急事態宣言の影響で、SA・PAも短縮営業(もしくは営業休止)が恒常化するとなると
陸上でのマイカー移動も、ただひたすら移動するだけってなりそうにも思う 歴史見れば分かるやろ
危機管理がものすごく苦手分野だと SAとか吉野家とかの夜間の営業を中止したせいで、トラックの運ちゃんとか、夜に働くひとがえらく迷惑を被っていると聞く。夜中に働く連中はコンビニ弁当食べれてばいいと平気で言い放つのもいるが本当にそれでいいのか。 >>213
五輪優先とかバカ通り越している。人命や医療よりカネと利権ファースト。なのに記者会見とかで「命ガー命ガー」言ってるのはちゃんちゃらおかしい。 医療要件を満たしてないのに東京を緊急事態宣言に
入れたのはバッハ会長来日に備えてみたいだしな
しかし日光に当たったほうが免疫面では有利なのに
家の中から出てくるなというのはかえって重症者を増やすだけじゃないかね >>217
日光浴、単独、密集しない、自然の中
ひとりキャンプの条件がいいな >>215
「エッセンシャルワーカーこそ堂々と差別すべき」と言うことにまでつながったら、色々と溜まらんぞ
それを本気でやってしまいそうなのが、この国の現実でもあるとは思うけど
そのあたりが、夜行列車の絶滅にも恐らく結び付くんだろうけどね
>>218
自宅の敷地内で一応要件は満たせるw(菜の花を見ながら花見と言うのもできる) キャンプと言えば北海道室蘭本線(礼文〜大岸)の線路が見える砂浜沿いにある
大岸シーサイドキャンプ場は水道にきれいなトイレもあって最高に気持ちよかった
まだ子供が小学4年生の頃に3連泊したけどちょうど夕飯を食べていると北斗星2号や
北斗星4号が通過して家族で列車に向けて手を振ると気のいい運転士さんが気持ち程度に
軽く汽笛を鳴らしてくれたものだった
ひとりキャンプは1回しか経験ないけど自分を見つめなおすために山中のキャンプ場で
寝泊りしたけど夜になると獣の鳴き声やガサガサ音がして羆の恐怖で寝れなかった 夜行急行大雪やオホーツクで常紋トンネルの怪奇現象体験した人居る? 常紋トンネル以外にもいっぱい作業員がイヒたところ山ほどあるやろ
なぜ常紋だけ? せっかくのG.Wなのでサンライズ出雲で実家へ帰省中
現在列車は所定時刻で岡山駅に向けて走行中
やっぱりシングルデラックスは快適だー >>225
いいな、コロナ前のGWだとプラチナチケット?だったけど、
よくとれたね。 >>217
バッハ会長の話聞いていると腹立つけど、おうちでゆっくりバッハの音楽聴くのは
至福の時だ。特に無伴奏チェロ曲が好きだ。 >>217
みたい、かよ。妄想思い込みの政府批判とか立民信者かな? 今日でゴールデンウィークも終わりだ
今年も長距離の旅行には行けないかも 乗ってるだけなら問題なさそうだがな。
行って帰ってくるだけ。
あとは秘境駅でボーっとするのとかも大丈夫そう。 マジレス、駅寝での職務質問が一回だけ経験がある
場所は、上諏訪駅
未だ中央東線に夜行が複数あったころ、深夜に5時間ほどの駅寝
自分だけではなく、同行の友人や同宿者?も含めて警察官に学生証を提示
「家出ではないですね」と言われました >>235
間違いなく、様々な意味でもう駅寝できる時代ではなくなったよな
25年近く前には、地方の無人精米機のプレハブの中で一夜を過ごしたこともあったけど、
愛車を持つようになったらクルマに毛布などを積んで対応するようになったんで
間違いなく駅寝することはほぼなくなったと思う(出先で仮眠するなら車内で、もしくは宿を取る) 本駅寝は、好きな人とそうではない人に分かれていた
自分は基本駅寝しない派
夜行列車がたくさんあったころ、1980から1986年ころです
深夜について一番列車を待つという、半駅寝はよくやりました
本駅寝は、上諏訪以外で、折居、五十猛、居組、徳沢、翁島、だけですね
居組は連泊
しかし、もはやこんなことはできない時代ですか
聞いた話では、北海道で有人駅で待合室深夜開放は、新得、旭川、函館(青函連絡船待合室のみ)
だけだったそうです(友人から聞いた話) >深夜について一番列車を待つ
むしろそれが本来の駅寝のあり方であって半も本もあったもんじゃないと思うがw >>238
北海道は、名寄や音威子府や帯広も深夜開放してたと思うが。 >>240
深夜2時台3時台に夜行列車の停車があったら乗り換え客のために開けときゃなきゃまずいよな >>243
少なくとも国鉄時代にはいたね。
あと道内は20時以降到着の列車から、最終列車が終わったローカル線の接続案内では、
「明朝の接続」を平然と案内してた。 道路状態の良くない昔は幹線の夜行列車を夜中降りて支線の始発を駅で待つようなのも
結構あったんだろうな(危急の用とかで) 支線の一番列車が、結構早朝にあって珍しくない
ただ、上りの通勤通学列車の送り回送的な意味合いだった可能性もあるかな 寝台特急紀伊に接続するため多気の参宮線は朝4時頃からあったはず >>240
帯広は2時〜4時(まりもの上下空白時間だけ)閉鎖だったよ
俺はライダーで駅前シュラフ組だったから関係ないが…
あと遠軽も閉め出しくらってた 1982年12月くらいから1984年くらいまでは函館・長万部・旭川・上川・遠軽・
士別・名寄・音威子府・新得・帯広・あたりで駅舎内駅寝が可能だった。
関東圏で最後に駅舎内で駅寝出来たのは信越線の横川駅で確か1995年だった
下り能登で横川駅に付いて駅舎内で休んで上りの夜行妙高か能登が発車したのちに
駅員が回ってきたけど何も言われずに185系に乗って高崎方面に戻った 1982年12月くらいから1984年くらいまでは函館・長万部・旭川・上川・遠軽・
士別・名寄・音威子府・新得・帯広・あたりで駅舎内駅寝が可能だった。
関東圏で最後に駅舎内で駅寝出来たのは信越線の横川駅で確か1995年だった
下り能登で横川駅に付いて駅舎内で休んで上りの夜行妙高か能登が発車したのちに
駅員が回ってきたけど何も言われずに185系に乗って高崎方面に戻った 土合みたく目的外使用の駅寝が増えると閉鎖やむなしだな >>251-252
1995年は妙高は既に廃止済み。
妙高廃止と引換えに能登が電車化されて、下りが繰り下がった。 急行能登の489系化は1993年3月18日だったと思う
臨時妙高は1995年だと12系や14系でも運転されていた 九州ブルトレ斜陽ダイヤ改正は94年だっけ?食堂車閉店、みずほ廃止、あさかぜ減便。
まぁ、廃止と言っても臨時化。 >>257
夜行急行出羽の廃止は1982年11月15日
寝台特急出羽の廃止は1993年12月1日
>>260
みずほの食堂車休止(のち売店化)は1991年5月31日
出雲1・4号の食堂車休止(のち売店化)1991年6月1日
さくら・はやぶさ・富士・あさかぜ1・4号の食堂車休止(のち売店化)は1993年3月18日
みずほ廃止とあさかぜ1・4号廃止は1994年12月3日 個人的な感想だけど国鉄からJRに変わって食堂車を担当していた日本食堂の
長崎・門司・米子の各営業所が離れて東京発着ブルートレインの食堂車は
終ったと思う。それでも新博多営業所が担当したあさかぜ1・4号の食堂車はまだ
メニューの数も多くて利用客も多かったけど上野営業所が担当した食堂車は
メニューもスタッフのヤル気も陳腐化して酷いものだったけどコックが1名では
無理もないけど何とも残念な結果である。
東海道ブルトレ食堂車に乗務してた上野営業所のスタッフが北斗星に乗務したら
答は言わずものがな。北斗星食堂車の初期を担当した仙台営業所のメンバーが
北斗星末期まで担当してくれたらもう少しマシな内容とサービスだったと思う。 食堂車どころか、車内販売のサービスまでも新幹線でさえほぼ全滅となるような現状だと、
日本では庶民が日常の延長で乗れるような定期夜行・寝台列車は、
サンライズの廃止で完全に消えた後にはもう二度と復活しないんだろうな
それでもどうにかなってしまうとすれば、また色々と寂しい限りだけど 食堂車は懐かしい
昼行は、80系おおとり、カニ飯食べた記憶
夜行は、出雲4号、2号ではなく4号にして、浜坂→東京まで乗った時に食堂車にお世話になりました
山陰線の旧型客車がなくなる直前、1986年夏でした なんかかなりの捻くれ者がここのスレに棲み着いてるね。 国鉄末期、九州ブルトレだけに夜行の食堂車が削減された経緯は、宮脇俊三氏の本で読んだ記憶がある。
利益率が悪いし、女子の残業問題などもあると。後者はよく知らないけど。
あさかぜの食堂車で改造したけど、大勢には影響なかったみたいだし。 >>267
男(コック)にしろ女(ウェイトレス)にしろ労働環境最悪だからな
かといって街中の他の同職種より賃金が上かというとそうでもないし
職場が個人商店しかないような昭和30年代ならまだしも昭和末期になると
他にいくらでも同種の職場あるしな
わざわざ列車食堂を職場に選ぶ理由はない >>267
90年代くらいまでは業種によるが女子の22時以降の労働が原則禁止だったりしたからな >>270-271
それが解禁されたので、各鉄道会社に女性乗務員・駅員が増加したw 東京発着ブルートレインの食堂車衰退は1978年から一部で始まっている
1978.1.20 出雲の食堂車を基本編成から付属編成に移してから下りだと出雲市手前までの
営業なので朝食時間が松江くらいで打ち切りになってしまい売上げが低下した
1978.1.22 はやぶさの食堂車を基本編成から付属編成に移してから下りのランチ営業が出来なくなった
1978.1.25 富士の食堂車を基本編成から付属編成に移してから下りのランチ営業が出来なくなった それは食堂車の新製費用を捻出できない国鉄の事情が絡んだ結果だな
予算がつけばオシ24を増備したかったんじゃないか >>273
仕方ないだろ
オシ14から改造してもオシ24が足りなかったし、ナシ20を改造して24系へ編入しなかったのだから
1978年2月
品川オシ24*10 はやぶさ2、富士2、あさかぜ2、出雲2、予備2
品川オシ14*9 さくら2、みずほ2、いなば2、予備3
できることなら、24系出雲と14系みずほを取り替えて、出雲・いなばで食堂車をオシ14をプールさせ、予備2両をオシ24化して再び基本編成に連結させるしかないんだから >>263
特徴がありすぎる文章を読んでどこかで読んだ感じがしたと
思ったけど、もしかして某夜行列車ブログの方かしら? その頃は、少々のことがあっても、八甲田や津軽、345/340Mなどは残ると信じていた
もはや少々のことではない時代なんでしょう 「上野発の夜行列車♪」…
「そもそも夜行列車って?」となってしまうのかw 30年で殆ど全滅ってのを予想してた人って居るのだろうか >>279
まさにそれ、もはや現実はそんな危機的な?状態
夜行列車壊滅状態です
>>281
自分としては、もちろん想定外
あり得ない状態
しかも、高速バスなどは結構まだ繁盛、うまくやれば需要自体は少なくないと思うけど
でも現実むつかしいのですかね >>281
285系交直流版が出なかったこと、相次いで新幹線の延伸が決まった2002年にはわかったけど、
国鉄分割民営化近辺でそれがわかったヤツはほとんどいないと思う
安定与党の自民党が選挙対策のためにあのポスターへ書いていたもの >>281
それこそ93年12月改正でゆうづる・八甲田・津軽辺りが一気に消えた(当時住んでたとこの最寄駅も一気に寂しくなった)辺りでこりゃ…とは思ったけど
90年代の夜行廃止さえ忘れかけてるか知らん人も増えたろうからな >>283
深夜労働に対する様々な問題まで考えたら、深夜は物流車以外は
基本的に自宅や宿泊先(付近)にいることができるのが、飲食物確保や睡眠・生理現象などの面でも
確かに色々といいんだろうけどね
ただ、夜行列車でうとうと揺られて、目が覚めたら見知らぬ景色と清々しい空気と言う感覚は
経験した人でないと明確には分からないものって気がするから、
そんな経験を鉄道では事実上出来なくなってしまうのは、大昔に経験した身としては
本当に寂しく思うんだよね(特に東京から北へ向かう時に、非常に強く印象に残った) 夜行列車のコスパはとにかく高いと思っていた
仕事でも、夕方1700まで働いても余裕で間に合うし、翌日は朝一から訪問先に行ける
難点は疲れることだけど、寝台車なら一応可と思う(自分としては最高)
だから、ビジネス用に寝台車を連結して、座席車があれば、需要はそう簡単にはなくならないと思っていた
ただ就職してからは、夜の新幹線に現地入り+ビジネスホテルで一泊
あるいは、翌日の朝一の新幹線で出発ばかり
一度だけ銀河の寝台車を使ったことがあり、でもその一度だけでした
会社の旅費等精算では、当時は寝台車で移動という選択もあって、特に問題なし
いまでは書面ではなく当然WEB申請になり、しかも寝台車の選択肢がなく、その他の欄に記載するしかない
東京→高松、などで申請しても人事の若い人には通用しないかも >>286
>ただ、夜行列車でうとうと揺られて、目が覚めたら見知らぬ景色と清々しい空気と言う感覚は
全く同意見です、同じ感覚ですね
東京(上野・新宿)から、夜行列車で一晩、着いたところは東京の激務の会社生活の現実とは別世界、夢の世界
それをつなぐのが夜行列車
冬のシュプール号でのスキー場着は、特に列車好きでは無い同行の友人でもそれを感じていましたね
逆に、帰りの上り八甲田などは、夢の時間が終わり現実に戻ることを感じてしまいました
もちろん新幹線でも同じはずなのですが、夜行列車はもう一つ感覚が違うといえばいいのでしょうか >夢の時間が終わり現実に戻る
2008年に上り北斗星に乗り黒磯に着いてE231系を見たときに旅が終わり日常に戻った感じを味わった。
これが客車の夜行に乗った最後だし。 >>288
旅行で使う(使っていた)場合、日常から非日常の(夢の)世界へとなる時には
特に強い印象を持っていたんだろうなと、自分も確かに納得した
そして日常へ戻る復路では何となく「かったりーなー」と、これも確かになってた
そして、新幹線や夜行バス・クルマ移動だと、確かにそこまでの強い感覚にはならないんだよね
何となく、自分の中で日常から脱し切れていなかったのかもしれない >>289
自分も北斗星は上りで一回だけ乗車経験があり、
大宮で京浜東北線を見た時ですね、戻ったと感じたのは
京浜東北線の沿線に住んだことはないですが、なにかホームエリアに戻った感覚、現実に戻った間隔です
>>290
年に一回EURにプライベートで行っていた経験があり、その飛行機が往復夜行で、夢と現実をつなぐものでした
前日に1700まで会社→すぐに家に戻って、準備していた家族と二人で荷物をもって成田か羽田へ、夜行便で朝にパリ
そのまま乗り継いでスイスへ、イタリアへ、昨日なんだったっけ?です
1700まで会社、そのあと荷物をまとめて八甲田に乗って、翌日青森着、青函連絡船に乗って…、昨日なんだっけの感覚が全く同じ
脱線しましたが、似たような感覚でした 四季島もそんな感じだけど近郊型のE231やE233を目にする頃でも
まだ最後のランチが終わってないんだよな 北斗星だけでも毎日三往復走ってた時代があったということが今からすると隔世の感がある 普段使いにはあまり向かなさそうなダイヤ(それでも九州勢よりは使えるけど)だしクルーズトレインほど娯楽方面に振り切った感じでもないのに 北斗星の普段使いだと仕事が終ってから北斗星に乗れたのが下りの5号と上りの4号と6号
19時台初の北斗星5号や6号は仕事を定時17時に切り上げれば一旦帰宅して着替えてからも
間に合ったし、北斗星1号と2号は職場から直行でも間に合わなかった。
北斗星に限らず東京駅からの山陽・九州方面下り第1群の寝台特急も定時退勤で直行でも
間に合わない列車があって一旦帰宅して着替えてからだとどうしてもあさかぜ1号
くらいからになる >>287
その寝台列車がコスパ悪いけど。
料金だけでB寝台料金6000円+特急料金3000円で合計9000円前後では
コスパが全く良くない。
今では消費税が加算されて9900円前後だから、飛行機の割引チケット+東横インクラス
の宿泊と、寝台列車利用と同等になる。 >>295
金額と時間を計算すれば確実飛行機には叶わないが開業日から廃止日まで約27年間も
乗車率が良かった北斗星を見れば東京〜札幌間の93%のシェアーが飛行機が人気だった
航空路線も鉄路では夜行列車ファン(北斗星ファン)に夜行列車の旅情に見せられた
北斗星の人気もかなりあった。
1996年・1997年の時刻表を見ると羽田空港〜青森空港の飛行機が片道21400円、JRだと
はくつるのB寝台6180円、特急券3090円、乗車券9990円で合計19260円で当時は幾分
JRの方が安かった。
自分も現役時代は出張で寝台特急や飛行機に新幹線も乗ったけど乗ってつまらなかった
飛行機や新幹線は忘れて想い出に残っているのは寝台特急と100系新幹線で利用した
食堂車の事くらいしか覚えていない。 北斗星も初期と末期が混んでただけで
ロイヤルにこだわらなければ個室も割とあいてたよ
混んでる印象をもってる人は混んでるときにしか
乗ろうとしなかっただけだと思う
そもそも混んでたらぐるり北海道フリー切符で
ソロ利用がOKになるわけがないだろう 消えてしまった夜行列車を慕っている冴えない50代サラリーマン。喪黒が準備してくれた特別夜行列車に乗って、現実と言う終点が無くそのままハッピーエンドへ。
ありそうなエピソード。 >>296
羽田−青森は、今でも羽田−新千歳より実質割高なので、その比較はあまり良くない。
>>297
ロイヤルも取りやすかった時代があったようだなw
>>299
料金値上げの際に、寝台料金と特急料金の両方上がったので、割高感が増した。 >>299
節子逆や
割高感が出る前に設備を改良せな >>300
3号のロイヤル9号車1番かあ1号でもいいから他のない? ある!じゃあそっちで
という会話を何度みどりの窓口でしたことか
>>299
改良した結果があの二段寝台だぞ
満席でないと赤になるらしかったけどな >>297
北斗星のロイヤルが10時打ちで一番取りづらかったのは
1988.3.13の開業から北斗星1・2・5・6号にロイヤルが1両(2部屋)
しか連結してなくて3・4号がオールB寝台のみの頃かな
増備車投入で北斗星3往復にロイヤル2両(4部屋)に増えてからは
10時打ちでも取りやすくなったけど北斗星が2往復に削減されるまでは
ほぼ10時打ちで特急A個室券の指定席が取れる様になったよ
10時打ちを3ヶ所でやってもらい全部ロイヤルが取れてしまい、
その中でベストな1枚(1/2号なら3号車「後の9号車」・5/6号なら2号車
「後の10号車」)を選び、更に寝台に座って進行方向に向いて進む部屋を
選んだりしたものだ そういえば開業当初の北斗星5・6号のロイヤル連結位置は4号車でした
昔の手帳を見ると1988年3月の北斗星2号は札幌駅3番線から発車していた事が
書かれている 1988年秋に高架ホームに変わると5番線に固定されたみたい >>304
末期はトワイライトやカシオペア含めて4番線に固定されていた気がする
いつから変わったんだろう >>301
15両編成で個室がAB一両ずつだけってのはやっぱ少なすぎるよなぁ…
>>300
>>302
乗客減や老朽化以前に元々運行のコスパが悪かったのか? 北斗星1.2.3.4号が2002年から2006年のゴールデンウィーク明けから6月一杯まで
ロイヤル4両連結していた時代もあったけどまさに予備車無しの綱渡り運用だった
その時はロイヤル個室寝台券が選び放題だったけど同一日の同一列車の同一寝台設備
から変更とかしてみどりのみどりの窓口氏は訳ワカメみたいな顔をしてた事があるな >>299
消費税値上げは致し方ないけど最後の寝台料金値上げが1986年7月なので
それ以降は実質的寝台料金値上げはしてないのだから値下げなんて無理だよ
そこまで安く行きたいのなら寝台には乗らずに座席夜行の自由席か当時から
走ってた夜行バスを使えばよかっただけ リネンがなかったゴロンとシートなら、利益は出やすかったのかな?
それとも単価が低くて、こちらも駄目だったのかな。 定員34人で途中で乗客の入れ替わりなし
そりゃ採算取れないわな >>263
北斗星は90年代半ばまでチョイチョイ乗って少し間があいて
00年代半ばにもチョイチョイ乗ったのですが
その間に人員は減らされて白飯は(恐らく)レンチンになって寂しかったな(´TωT`)
東北新幹線開業から青函隧道開業までって6年しかなかったんですよね
はつかりやひばりの乗務経験者が初期の北斗星に乗っていたなんて
今思うと感慨深いものです >>311
東北・上越新幹線の部分開業から、来年でもう40年になると言うのが
自分の中では未だに信じられない
今でも東北新幹線開業から数年後って感覚がなぜかあるんだよw どうせ夜行は無いんだからせめて元気なうちに新幹線札幌開業を味わいたい。 >>311
レンチンでもご飯あるだけましだったぞ
出来合いを積む和朝食と懐石以外にご飯ものが一切消えていた時期があった
パブタイムのセットメニューも付け合わせはパンだけ
おっとパブタイムのビーフストロガノフのサフランサイスもあったw 2000年代から廃止までの間、北斗星とトワイライトの食事は値段の差以上にクオリティに違いがあったが、はっきりいえば、北斗星側はあれで恥ずかしくなかったのだろうか? 瑞風は料理が沿線の名店の監修どまりなのに
四季島が料理担当のシェフや板さんが直接乗り込んでくるのは
その反動なのかねえ >>309
リネンがなかったゴロンとシートは単価が安くて逆に儲からない
一番儲かるのは時刻表から消した団体列車やツアーとして運行するのが一番
カシオペアクルーズやカシオペア紀行みたいな運行スタイルが一番いいと思われ
クルーズトレインも収益性は高いと聞くし、「WEST EXPRESS 銀河」もツアー
系式にして本当によかったと思う
>>311
北斗星のグランシャリオは1993年春までは炊きたてご飯だったけどそれ以降は
レトルトご飯に変わっていたよ
>>315
一番北斗星のディナーが恥ずかしいと思ったのは1995年の8000円、1999年の
7800円以降廃止まで!最後の10000円ディャiーだった1994粕N4月からの
メニューは開業当初の肉のフランス料理Aコースディナー(7,000円)より劣る内容!!
★1988年肉のフランス料理Aコースディナー★
前菜 海の幸マリネー海峡風
清羹汁 コンソメ プランタニエール
海老・舌平目巻き アレキサンドラ風
フィレビーフステーキ 茸添え
温野菜 シャトーポテト、ブロッコリー、キャロットグラッセ
サラダ アスパラ・トマト・生野菜
黒スグリのシャーベット・キウイフルーツ
珈琲 または 紅茶
パン または ライス
開業当時はディナーAコース(肉のフランス料理)・Bコース(魚のフランス料理)・
Cコース(スペシャルビーフシチューコース)何れもライスかパンが選べてDコースの
海峡御膳も当然ご飯なのでご飯はグランシャリオで炊いていたので和朝食も限定数は
なかったですけど逆にパブタイムは酒の肴メインでご飯物は全くなかった。 訂正と文字化け
系式→形式
最後の10000円ディャiーだった1994粕N4月からの
↓ ↓
最後の10000円ディナーだった1994年4月からの 海外(オリエント急行)みたいに車両の所有会社と運行する会社を別にするべきだよ
ただでさえ国鉄からJRになって調整が面倒になってブルトレは衰退したようなもん
贅沢な資金力のあるクルーズ会社が車両を保有して、各鉄道会社に金を払って運行させればいい 自社で客室乗務員だけ用意すれば機関車と運転士はJR貨物でもいいんだから 関係ないが、宗谷本線のキハ261系や山形新幹線の車両もJRでなく三セク会社か別の団体が所有してるんだっけ? >>320
山形や秋田は車両置き換えたときにJR所有になってなかったかな >>319
それは認識が逆だな
JRに分割されて調整が厄介になったから廃止が先送りされてたんだぞ >>320
一部のキハ261系は北海道高速鉄道開発株式会社が所有している >>319
それありていに言って車両自社保有の団臨と同じだな
特定日だけ集客して走らせるならともかく毎日じゃ客集まらんだろ
ましてや車両自社保有なら採算取れるとは思えない
それならJRが運行するクルトレで充分
夜行列車存続ありきの頭鉄オタだとわからないかもしれないが
そもそも大多数の乗客にとって列車なんて単なる移動手段でしかないし
大昔は夜行列車を移動手段として利用する客が多かったから成り立ってただけの話
移動手段として見るなら今のご時世わざわざ夜行列車を選択する理由はないんで
廃れて淘汰されるのも当然の話
トワは言うまでもなく北斗星だって個室寝台とフランス料理をウリにした半分クルトレのようなもんだが
それだって長年走ってると飽きられてくるしな
クルトレが定期的に経路変えてるのも飽きられないように、だ ブルトレ好きとしてはあまり言いたくないが、ブルトレが隆盛だった頃は実質的に選択手段が無かっただけのようにしか見えない。
それが思い出補正もあり、上げ底の評価になっている。
今からでも、ブルトレが復活してほしいけど。 >>319
余計な事、書くから理解されない。書き直し >>327
「にしか見えない」というより実際そうだったんじゃないのか。みんな、好きで夜行に乗っていたわけではないから、他の交通機関が便利になるとすぐにそっちに流れる。仕事で多くのひとが夜行列車を使っていたのはせいぜい1970年代までだろう。今より半世紀近く前の話。 >>326
ななつ星のルート変更は飽きられないようにというより
水害やら地震で不通になって変更を強いられたパターンの方が多いと思う
純粋に観光バリエーションのために変更したのって
1泊2日コースの日中の立ちより観光地を
長崎から伊万里に変更したときだけじゃないかな
四季島はこの前の冬のコースから一部変更になったけど
従来の冬の2泊3日コースがハードすぎたのと
季節のコースでやった鹿島線でやってほしいという要望を
フィードバックした結果だそうな どうせ夜行列車なんて復活しないし、このスレの住民も夜行列車に元気があった
1970年代の夜行列車を沢山乗って来た人も多いから今さら夜行列車でもなかろう
夜行列車に乗りたければクルーズトレインかWEST EXPRESS銀河があるから
それらに乗ればいい WEST EXPRESS銀河は温泉宿ツアーのプランだとグレードの
高い席(個室)を回してもらえると日本旅行勤務の知人から聞いた
人口が減って高齢化が進んでいる日本に過去の夜行列車スタイルはもう必要ないよ >>329
自分は1986年くらいまでは出張で寝台特急を利用したけど
急行銀河だけは1989年まで利用したよ
千代田区内の会社で22時まで残業しても乗れる銀河は便利だった 会議にしても打ち合わせにしても遠路はるばる、という参加者がいると
主催側も配慮して朝一じゃなく11時とか午後からとか当日移動可能な時間にすることも多いしな 特製仕出し弁当吸い物付きの昼飯食ってから会議とかもあったな >>333
そんな出張も、今ならリモート会議での対応がメインとなるんだろうな
出張の必要性もほぼなくなり、出張費も出さずに済むしで、企業側にはメリット絶大 >>334
うっかり好物がバレたらそのあとはそればっかりになったとかいって上役が嘆いてたな
かといって向こうも気を使ってるのは分かるから止めてくれとも言えなかったし >>335
出張旅費精算でいろいろ誤魔化してお小遣い稼げるチャンスがなくなった 銀河は残るかなと思った時期もあったけど、末期の乗車率は悲惨だったし、新幹線より遅く出て、始発より早く着くというアピールポイントすら、東京~大阪を2時間半で行けるのなら通用しなくなっちゃったしなあ。
もちろん高速バスなどの影響もあるけど。 ホテルと合わせた安いパックが増えたのも大きいだろう。新幹線往復にホテル1泊が往復の交通費とほぼ同じ値段であれば、普通はホテルでゆっくり休むよな。 前に夜ののぞみで寝過ごして新横浜で降りるはずが名古屋まで行ってしまったことがある
名古屋からは上りの新幹線は終わっていたので夜行バスにしたんだが
名古屋→首都圏でも3000円台なんだな
旅行ならまだしも単純に移動だけなら費用対効果で夜行列車には勝ち目はないって実感した瞬間だったわ
北斗星やトワイライトがどれだけ収益性良かったのかは知らないけど
クルーズ以外で夜行を維持するなら観光客狙いかサンライズみたいな対航空路線に限られるんだろうな
そういう意味では新幹線が札幌まで開業したら夜行新幹線の登場にも期待をしてしまう
需要はあるはずだしな >>339
銀河はゴロンとシートみたいにすれば生き残れたかもね。
プラス6300円も払わず、急行券と乗車券で乗られるとかテコ入れしたらな。
はまなすも自由席、指定席、寝台と棲み分けしていた。 >>342
そこまで安売りしたところで列車を仕立てるほどの収益にならないから
JRバスの夜行バスが運行されるわけで 生き残るも何も、運転できる人がいなくなっちゃったからね
じゃあ座席車ならいいかというとGoGoドリームみたいな末路になるわけで 仮に夜行列車単体でこの先生きのこることを目指すならば
蚕棚三段寝台でめいいっぱい詰め込んで、寝ることに特化した
列車を主要都市に走らせるぐらいしかなかったろうな
車両置換をサンライズ以降やらなかった時点でオワタ 後継がほぼ絶望的とはいえサンライズは定着できたんだし完全に八方塞がりだったとまでは言えないと思うんだがなぁ(かといって自分もいい手立てが思い浮かばないけど) 民営化直後の時期だって飛行機やバスはかなり伸びてきてたけどそれで20数年で全滅なんて誰も予想してなかっただろうし ネットダフが規制できなかった時点で超豪華寝台特急は終了
現にネットダフのやり玉に挙がったトワイライトなんて発車数時間前まで満席なのに、発車直前には空席だらけで年間利用率が半分未満という時が数年続いていたからね
サンライズとて廃止予告がなされればネットダフ被害に遭う
だからサンライズ(廃止予告前)を除けば、ネットダフに遭わない全席自由席(グリーン席のみ車内販売)の夜行座席急行か朝夕折り返しで夜行運用につくタイプの夜行座席快速しかもうダメポ
そのどちらともがもはや東京から西限定(札幌まで新幹線が通じても新青森から北がJR北海道では不可)で、
夜行座席急行 品川−大阪 週末・連休並びに超繁忙期のみ 東E257系2000番台最長14両・西289系最長12両
夜行座席快速 上野−東京−浜松 週末・連休と青春18きっぷ期間中 E233系10両 E233は流石にないだろ… いや、ある意味昔みたいな夜行鈍行に回帰したような形に? >>345
確かに全車オール3段蚕棚寝台なら乗車率が増えて収益も上がったからベストなのかも知れない。そもそも寝台特急が凋落化
したのには個室寝台ばかり増やしたのにも原因があると思うが個室寝台券が安すぎるのに問題があると思う。SA1は現在の
価格で4万円+特急券、SA2は9万円+特急券、A1は2万円+特急券、B個室は1人当り15000円+特急券で良かったのかも。
>>347
どうせ夜行列車なんてもう復活はしないだろうけど指定券購入する際の氏名・年齢・連絡先を指定券に暗号化入力して
払い戻しや乗車変更する際には公的証明書を呈示しないと払い戻しや乗車変更出来ないようにすればネットダフ屋防止には
なりそうだと思うけど一番手っ取り早くてJRも旅行会社も儲かるWEST EXPRESS銀河みたいなスタイルがいいのかも。 サンライズについて、成功しなかった(失敗とは言わない)と評価した人がいたけど、絶妙なセンスだと思いました。 ここまで整備新幹線計画が進んで地方にも飛行場が増えてLCCの就航や
安い高速バスに安いホテルが増えたらいまさら夜行列車のシェアーなんて
無いだろうし、夜行列車を希望しているのは一部の夜行列車哀愁浪漫派と
鉄道ファンくらいだからいまさら必要はないと思う 結局、移動時間はできるだけ短い方がいいもんだからね(移動中の拘束時間って面で)
新幹線とLCC・航空網が整備されたら、遅くて高いだけの夜行列車は完全に論外となるよ >>354
でもそいつも行きつくところはLOLO船だからね
一般客はドライバー向けのサービスのおこぼれにあずかってるだけ 関西〜九州の航路は他と比べれば単なるおこぼれ以上の需要は確保できてるように思う フェリーの旅もいいが今は一部の船(新日本海フェリー)を除けばまともな個室がなかったり、
食堂やレストランが無いカジュアルフェリーが増えているのでRORO船の予備群みたいなのが増えてる
新日本海フェリーみたいに個室にプライベートテラスがあるとか、展望風呂の他に露天風呂もあって
供食サービスも3系統あるような豪華客船みたいなフェリーもあるけど昔に比べてカーフェリーも
質が低下してきたように感じてならない
かくいう自分も車で北海道へ行く時は地続きでないので長距離カーフェリーの世話になっているけど フェリーのメインの客はトレーラーシャーシとトラックだから
個札の旅客なんてオマケもいいとこ
関西〜九州の旅客も個札じゃなくて団体やツアーの客が多いからだし
その個札客も車両持ち込み可だから利用するのが大半で徒歩客なんてほんの一握り
旅客の運賃が割安なのもシャーシやトラックなどの車両が乗ってくれてるからだし
レストランなどで船の中で金を落としてくれるというのもある 今はどうかわからないけど、欧州はク5000みたいな車運車と客車併結した長距離列車が走っていた。日本のカートレイン版。 >>359
今もそれはナイトジェットでやってるけど、駅の構造次第で
駅の一部を区切って車積み込むときは歩行客の通行規制をしたり
積み下ろしの際に入れ替えが必要ですぐに下せなかったりだから
権利意識が高すぎたりせっかちが多かったりする日本人の気質に合わないと思う 船や飛行機に乗ったら親分の言うことは絶対やぞ
我儘だと死ぬからな >>360
せっかちの多い朝鮮半島でも似たようなものか、と思ったけど、あちらに夜行列車ってそもそもあるのか? >>382
昼行列車にも使う座席客レ編成に寝台車をつないだような列車はあって
ソロみたいな個室もつないでいたけどKTXが出来てから廃止になった
それと38度線の鉄道路線が運行再開されるっていうんで
結構気合い入れたの作ったはずだけど結局再開中止になったので
南半分のクルーズトレインになったやつがあったな 車で乗るフェリーならいいけど徒歩乗船のフェリーって貧乏臭くていやだなあ
駅から不便なフェリーターミナルまでバスにまで乗って歩いて乗船が信じられない で、そうやって苦労して乗ってもLCCより高くついたりする。寝台列車と同じで「乗る」ことを目的にするのでなければ、徒歩フェリーにメリットはなさそう。 神戸〜高松とか八幡浜〜別府とかめっさ便利やん 何ていうのかな、船が港に着いて家族連れやグループが車で三々五々目的地へ向かって出発したあとに、荷物を抱えてひとり最寄りの駅までとぼとぼ歩くというイメージがわびしく感じられるんじゃないか。
あとはレンジでチンの食事をひとりわびしく食べる… >>368
移動費用や船内での食事などを考えるとLCCがコスト的に優れてる
>>369
不便なフェリーターミナルも多いよ
舞鶴、敦賀、名古屋、新潟、大洗、仙台、八戸、大間、
苫小牧西、苫小牧東、小樽、東京、新門司、徳島など
>>370
レンジでチンやカップ麺にお湯を入れる食事は侘しいものだよ
レストランや食堂があるフェリーなら高くても自分は船内食堂
とかでセットメニューや単品などを食べるけど彼女を一緒に乗る
ならグリルでコース料理もいいと思う
https://www.snf.jp/attraction/gourmet/meal_restaurant/
https://www.snf.jp/attraction/gourmet/meal/ >>371
鉄道、飛行機、バスなら用務客初めとして、ひとりの利用が多いから一人旅が目立つこともない。
でも、船の場合、ひとりで徒歩乗船するのは圧倒的少数だと思うから、余計に目立ちそう。
もちろん、他人の眼なんてどうでもいい、という太い神経の持ち主なら関係ないだろうが。 >>373
長距離ならレストラン無い船の方が珍しいしな(徐々に増えてきてはいるけど) 自販機も別に安くはないし食堂に行かない手はない
>>374
一旦船内に入ってしまえば誰が車か徒歩かなんて分かんないよ 新門司発着のフェリーは小倉門司駅から送迎バス出てるし利用者も多い
そして食堂と風呂付き 九州ブルトレスレ落ちた?
ED75のあさかぜヘッドマークの画像があった。このカマ、さくら、みずほ、あかつき専用かと思っていた。 単身赴任か出張かしらんが宮崎日曜発の航路はスーツ着たり持ったりしたリーマンが何人もいたりして
案外ビジネスでも使われてるのかも
あの航路有人トラックも多いし >>374
ドライバーズエリアが完全に独立してない船は
レストランや大浴場にはトラックの運ちゃんが一人でうろうろしてるぞ 船の中ではひとりでも目立たないだろうけど、降りたあとがどうなのかなと… トワイライトのフレンチディナーで
おひとり様利用できる図太さがあれば
どこ行っても問題ない >>382
1人でトワイライト食堂車行くようなもんだ そしてコロナで改めて見直された、おひとりさまでの食事 おひとり様ディナーといえば1988年ゴールデンウィークに初めて北斗星1号の
フランス料理ディナーAコースを食べた時は緊張したものだ。当時まだ大学1年生で
まだフレンチディナーのナイフ・フォークの使い方を知らなかったので今考えたら
恥ずかしい行為をしていたかも知れず、若気の至りってやつで周囲のお客が手に取る
ナイフ・フォークを見ながら真似したけど経験は何事も必要で10代後半や20代前半の
1人ディナーは人生勉強だと思えば恥ずかしくないけど20代後半以降の1人ディナー
はある意味恥ずかしいと思う。彼女なり嫁さんと利用するのが普通だろうね。 市中のフレンチの店だと全然ありだぞ
食べ歩きが趣味の人だと思われるからな 仕事帰りにスーツ姿でフレンチレストランで軽く飲みながら食べる
程度ならまだいいけどフレンチディナーのフルコースだと抵抗はあるかも
既婚者なので1人でメシ食べるのは昼くらいしかないわ
部下や同量と軽く飲みながら夕飯だとイタリアンが多いけど今はコロナ
自粛中なのでこの1年間以上一緒に飲んだり食べたりもないし昨年も
今年も在宅リモートワークで昼は嫁が作ってくれる食事ばかり >>386
今はほとんどの店で「箸くれ」といったら箸出してくれるぞ >>389
今はそうだが、30年40年前は「何、この田舎モン」みたいに思われることが多かったと思う。そのころは、洋食のライスはフォークの背に載せて食べるのがマナー、なんてことが本当に言われていた。 今は知らないけど自分(現在51歳)らの頃は大学時代にパーティーとかで
フレンチを食べる機会はあったし、25歳くらいになると学生時代の友達から
結婚式の招待状を頂き、披露宴で何回かはフランス料理のコースも経験済み
今と言えば2019年に娘が早々と結婚したんだけど都内23区の駅からアクセスが
よいホテルで挙式と披露宴を済まし、食事はフレンチのフルコースだったが
箸で食べてる人は誰もいなかった 今朝のドイツニュースでユーロナイターが運行とか言っていたけど、海外では夜行国際列車復活なのかな。 一人客普通にいたよね。
ただ一人客の場合、知らない他の一人客との
相席となり、少々気まずい雰囲気にはなった。 数年前、海外の学会行くのに敢えてアムトラックに乗った。食堂車で朝食のときに相席になった日本人が同じ学会に行く人だった。夕食のときは、いかにも南部の農場主みたいな夫婦と相席になって、日本人カ?、と聞かれてそうだと答えると、中国人はあちこちに痰を吐くから嫌いだ、と言われた。こっちの会話力だと適当に相槌をうつしかできなかった… >>392
ドイツ人はやること極端だからな
OeBBが営業権を引き取ってnightjetで盛り返してきたとはいえ
その前身のCNLにしたって一度はだめになったんだし
ペットボトルの洗浄リユースみたいなことにならなきゃいいけど 北斗星ディナーは2号の道内のみ乗車で1人ディナーは経験
(A・B・C各ディナーコース完食)あるけどTwilight Express
やCassiopeiaの1人ディナーは恥ずかしくて流石に経験なし
>>386
その気持ち分かるわ 自分の1人ディナーは大学生の時に
経験したけど今考えると恥ずかしくてまさに若気の至り >>394
そこで一期一会で知らない人とでも会話を弾ませればいいのに
もしおばちゃん同士の相席だったとしたらそうなることも多いだろう
やっぱりおっさん同士はダメだな >>398
今と昔では事情も状況も大きく違うだろうな
特に今はコロナで、見事に政府や自治体から孤食が推奨されるようでは、
もはや会話どころじゃない(事情は承知でも、色々と変な時代になったもんだ) イパーン人は二人以上で旅行してメシの時喋る
だから移動するな になってるんじゃろ 人間の基本的な行動にまで、極めて大きな影響を与えているウィルスってのがなぁ
おひとり様が基本とか、飲み会がもともと嫌いな類の人種なら
今の状況を「ざまぁwww」と勝ち誇ってそうだけど、
感染リスクがあまりに大き過ぎて、今までのようなイベントが今後全くできなくなり、
旅行や広域移動する意味や意義も、今までとは違ってほとんどなくなるとしたら、
流石に自分としては非常に寂しく思うぞ
その上で、少子高齢化もさらに急加速しそうな気がしてならない 少子化に関しては河合雅司氏が、コロナ前に20年後の状態と予想していたところへ一足飛びに到達したと書いていた。ミジンコじゃあるまいし、女がいないと子供が産まれないところへ、そもそも出産出来る女がいないのではなかなか厳しい。 >>403
思うことは色々とあるんだけど、夜行列車がほぼ絶滅状態になってしまっているのは別として
コロナ禍の影響で、今まで以上に出会いを持てない状況へと一気になってしまい(特に大学生が)、
その状況が今後数年(下手すると半永久的に?)続くことになるとしたら、
将来への影響が甚大なものになる気もする
夜行列車での移動をメインとして、大学生の頃にはあちこちに旅行・合宿した身でもあるだけに、
旅行や外出自体が根本から憚られ、サークル活動(→コンパ等のイベント)も実質的に禁止・自粛、
授業もオンラインがメインで、図書館での自習や研究も難しいという状況へと急変したら
「一体何のために大学に入ったんだ?」となりそうでならない 新型コロナウィスルは収束するまであと数年かかるって毎日新聞に書かれていたけどコロナ不景気で
大赤字になってる大企業も多く、旅行産業も斜陽化して日本経済も破綻の道に進んでいるが、もう旅行する
なんてイメージが消え失せてしまうのかも知れない。
コロナで旅行も控えているけど昭和30年生まれなので来月早々の予防接種1回目を予約したので2回目の予防
接種を受けて夫婦で「ワクチン接種証明書」をもらったら国内旅行や海外旅行にも行きたいなと考えてる。
まさか夜行列車が消えてコロナで日本の経済が破綻直前までになるとは誰にも予想できなかったけど求人が
ないのに定年を65歳延長化どころか70歳延長まで延ばして国民に年金を払いたくない政府の考えは酷すぎる。
自分も家内も既に老齢年金をもらっているけど一日も早くコロナワクチン接種を望みたいところだがまさか
こんな時代になるとは夢にも思わなかった。40代後半や50代の時にフルムーン夫婦グリーンパスを使って
何回も北斗星のデュエットで北海道へ行ったり、なはのデュエットで南九州へ行ったのが懐かしいがいま
考えればブルートレインに乗れた時期に激安切符のフルムーン夫婦グリーンパスで乗っておいて正解だった。
今のフルムーン夫婦グリーンパスではサンライズの個室さえも使えない・・・フルムーン夫婦グリーンパスなら
乗車券分だけでもお徳なのだけどサンライズもあと何年走る事やら??。 おひとり様がいいのはメシだけじゃないぞ。今回のコロナで独身でこれほど良かったと思った
事はない。なんと言ってもどこにも経済的安定
などない事が分かったこの状況下で家族の扶養義務が無い。家はあるからほんと自分ひとりならなんとだってなる。支出も自由にコントロール可能だ。 あとは家庭内感染の恐れもない。
自分が家族にうつす可能性もうつされる可能性もない。 子供? そのうち試験管の中で受精させて母体に埋め込むようになるんじゃないのかな?完全な衛生管理下で。 夜行列車での移動が「非日常を軽く味わえる、ささやかな幸せ」と思うこともあったなぁ
今までなら幸せと思っていた(認識されていた)ことが、コロナで根本から覆るようになった感じで
これからは「何をもって幸せ」となるんだろうか まともに鉄道旅行できたこと自体が「戦前」なんだろうなもう コロナ禍は、後で歴史を振り返った時に、恐らく21世紀での「戦前と戦後」を区切るものになるんだろう
影響はしっかり地球全体に、そして不可逆的レベルにまで及んでるよね
外国との国交は閉ざしていないけど、人の移動に関しては事実上の鎖国状態ってのがなぁ
そして国内も、コロナ禍が収束するまでは気兼ねなくの旅行どころではない
普段の延長線上で乗れる夜行列車なんか、もう歴史のかなたなんだろうな >>405
こうなったらなるようにしかならないよ
コロナ完全集結した頃にはサンライズ出雲・瀬戸も廃止になってるような希ガス
昭和30年生まれだと61歳か62歳には特別支給の老齢厚生年金が毎月もらえて
羨ましいよ 俺も早く年金欲しいけど現在47歳だともらえるのは確実に70歳か
75歳くらいまで延長になりそうな悪寒 コロナ完全集結=今度のオリンピックと一瞬ミスリードしそうになったw コロナが完全集結したらマジ恐怖だよw
コロナ完全集結で日本は完全終結だと(((゚Д゚)))ガクブル
コロナ完全収束の書き間違いだと思うけどさw よく増結でホーム有効長オーバーしてドアカットしていたけど、
ドアカットって車掌が忍び錠でドアの鍵穴から鎖錠してドア扱い? >>417
北斗星が伊達紋別駅などホーム延長の短いホームで1号車や11号車の扉を
部分的にカットするのは2000年くらいからは配電盤を開いてSWをONや
OFFにしていたけど札幌運転所所属車だけで尾久の北斗星も同じかどうかは
未確認。 SW=switch 横浜でも15両編成だと最後尾ドアカットしてたはずだけど全然見てなかったわ、地元なのに >>420
横浜15両対応じゃないの?
東海道本線15両なのに 24系は普通の電車より長いのと最後尾ハネフのドアが編成の端にあるからな
>>419
あとドアの上のところにこのドアは開かない旨の札をかけてた >>422
そういえば、客車と特急型気動車は21mだった。 >>420
横浜駅の5.6.7.8番線は15両普通電車でのドア締切扱いはしていませんよ
ただし急行東海(165系12B)+急行ごてんば(167系4B)の併結16両編成の
運転をしていた1981年10月1日から1994年11月31日までは最後尾の1両
をドアカットしていた時代はありました。確か9・10番線も15両対策してて
ドア締切扱いはしてないけどホームの工事などで期間限定で行っていた時は
あったかも知れません >>424
80系湘南電車って16両編成無かったっけ? なんの話か知らんけど、15両+クモニだな。だからドア関係ない
ブルトレの15両+機関車みたいなもん。機関車がホームにかからない駅は主要駅でも
多いでしょ クモニは荷扱いするから16両必要やで
ただ、1964年に汐留へ荷物が集約されてからはあまり繋がれなくなり、15両となった ここ夜行列車スレッドだから
61-11以降の博多あさかぜの話でしょ
釜+蟹+14両で1両ドアカット 博多あかさぜで言うなら1963年12月20日からの20系は
ナロネ22増車で釜(EF60)+蟹+14両で合計16両だったけど
20系の扉は列車が停まれば手動で開け閉め出来るので
ドアカットとかは関係なかった
ボーイ(車掌補)がデッキに立って見張っていたのを見たよ >>430
20系:20,500 mm (20.5m)
24系:21,300 mm (21.3m)
だっけ?
確か14系寝台車、14系座席車、12系座席車も長さは24系と同じ筈 20系15両と比較して
24系15両 12m
14系14両 -9.3m(20系1両を20.5mとして)
の増減がある そこまでやるなら24系カニは短い
>>427
ドアの話ね。途中駅ならユニにホームいらんだろ。80系はどうか知らんけど郵袋だの荷物だの
はホームなくてもそのまま下にブン投げてたし https://youtu.be/8EA67t6xTrM
ここにはかつての10系や20系での旅があるなあ。この乗り込んだ時のうわぁごちゃぁって
感じが懐かしい。 コロナの今身の危険を
感じるようになってしまった。 おもひでぽろぽろに出てくるあけぼの3号って当時もう二段寝台改造されていたの? おもひでぽろぽろ
1982年の夏。27歳になるOL岡島タエ子は、勤務先で休暇を取得。姉・ナナ子の夫の親類宅に2度目の滞在をさせてもらうことになった。
タエ子は、山形へ向かう寝台特急あけぼの3号の車中で、田舎がないことで寂しい思いをした小学5年生の自分を思い出す。
で始まるけど1982年当時の「あけぼの」はまだ3段寝台のままで2段化寝台工事が始まったのは1982年12月21日からであるから
本来ならタエ子が乗った「あけぼの」はまだ未改造の3段寝台であるという事になる
映画を見てないのでどんな車内に模索設定してあるのか分からないのだけど 取材した年は多分山形新幹線工事真っ只中の1990年頃だから、物語の時代設定を無視して取材当時のままにしたのかな?
当時見たとき舞台は現代かと思っていたけど、自分の生まれる前年だったんだ。 >>438
1982年の夏はあけぼの2往復時代でどちらも24系24形三段寝台だから議論に関係ないけど
あけぼのへの二段ハネ投入って1982年11月15日改正で25形を津軽格上げの一往復に充当した時からだよ 航空無線聞いてると富山新潟山形あたり
の上空10km飛んでる飛行機の声が聞こえて
来る。昔はわざわざ一晩かけて行ったような
距離感世界観が失われたようで夢があるんだか
ないんだか。 山陰とかいう夜行の普通列車乗って体調崩した記憶がある。 >>441
その「あけぼの3・4号」に投入された25形は14系15形の「あかつき」投入で完全余剰になった
25形や「明星」の一往復整理や「彗星」の2往復583系化などで25形0番台が余剰になった車両
25形0番台の大量転属で東北方面の客車寝台特急にも25形運用が広がり2段ハネの恩恵を受ける
1980年10月1日付けで「ゆうづる11・13・2・6号」が25形化
1982年11月15日付けで「あけぼの3・4号」が25形化
1982年11月15日付けで「日本海1・2・3・4号」が25形化 山陽寝台特急空いてて体質改善で2段化されたけど、東北寝台特急は3段でも満席続きなイメージ。 おもひでぽろぽろの主人公、1982年ならやまばとやつばさも走ってるのに敢えてあけぼのに乗ったのはなんでだろう? 丸っこい折妻の24系や25形ゼロ番台の
雰囲気が好きだ。あれは職人が打ってたのかね? 横浜のドアカットはちゃんと最後尾までホームにかかってるのに閉め切り扱いにしてた気がするんだよな
ホームの端で待たせるのが危険なのか、そもそも横浜からの指定券を14号車を割り振らないように設定してたか
オハネフの緩急室から車掌が顔出して監視してたのを停車中にホームにかかってる状態だったのを見た記憶がある >>446
山形までの区間にあけぼの3号を使う意図が分からない
1982年夏のあけぼの3号だと山形駅着は3:51で寝台車を降りるには早すぎる
上野発が22:24なので23時に寝たとしても睡眠時間は約4時間しか寝れないのに
そのためにあけぼの3号のB寝台設定は無理やりとしか言いようが無い
まだ10系寝台車を連結していた急行津軽3号なら山形着が4:51でまだ理解
できるけど、まだ朝が早い 時間的にちょうどいいのは急行出羽で山形着が
5:31だ。山形ならやまばと・つばさで簡単に行ける距離なのに・・・
当時のあけぼの3号の山形駅着は急行津軽 >>417
東急大井町線ではドアの開閉スイッチの上に戸越公園← →九品仏という表記の付いたバルブがあった。
私鉄の例でスレチですまん。 >>446
上野〜山形なら"やまばと" "やつばさ"で充分だと思う
上野8:03(つばさ1号)12:42山形
上野10:33(やまばと1号)15:16山形 >>345
久しぶりに
この先生きのこる
を見たw やまびこの仙台以北・やまばとの福島以北は
停車駅が多かった印象がありますね >>455
米沢と山形しか停まらないのは「つばさ」に任せていたのであろう。
こまめに停車するのは急行ざおうもあったし、東北線内はまつしまもあった。 1982年夏の上野〜山形なら急行おが1号もあったはず
ただしG車以外は非冷房なので夏場はつらかったけど
冷房用エンジン搭載車もあったけど板谷峠超えのパワー
に持っていかれてこれは同じ板谷峠を越えてた急行
出羽も同じ事 つばさは全車秋アキの485系1000番台
やまばとは仙センの485系0番台や200番台に一部300番台
このスペック差に速度的なものがあるのかは分からないが
やまばとは停車駅が多くつばさに比べて西那須野、白河、
須賀川などに停車してたので表定速度が遅いのかも知れない ひばりとはつかりみたいなもんでしょ。長距離行く方が途中までの特急より停車駅が少ない
末期はやまばとも秋田の1000番台じゃなかったっけ?
>>457
パワーに持っていかれての意味がわからん
おが、言われてるほどキロ以外58だけの編成にはしてないんだよな
出羽といいではちゃんとキハ28繋いでる
冷改車がなくて非冷房だっただけでそういう話になっちゃったんだろ
東北夜行のキハは乗ってみたかったな。ガキだったから客車ばかりに目がいってた
気付いてみたら夜行キハに乗ったの、だいせんだけ >>457
上野7:10発の急行おが1号だと山形に付くのは13:15だよ
繁忙期なら上野6:00発の特急ひばり1号に乗れば仙台10:15着
そこから仙山線に乗れば11時半過ぎには山形に着くよ
当時の仙山線はED78が牽引する旧型客車か気動車で両方とも
足は遅いけどローカルな旅の風情が楽しめた >>458
「やまばと」は昭和53年10月改正から、「つばさ」と共通運用する
秋田の485系だったぞ! やまびこがはつかりと共通の青森で、ひばりがひたちと共通で仙台か。 >>461
1978年10月2日改正からつばさ・やまばと・いなほの485系12Bは
秋田運転区の485系「TcM'MM'MTsTdM'MM'MTc」になってるな
秋田1350−2139上野‥尾久
尾久‥上野803−1555秋田
秋田641−1433上野1519−2303秋田
秋田1148−1940上野‥尾久
尾久‥上野1033−1516山形1755−2240上野‥東大宮
東大宮‥上野1203−1955秋田
秋田820−1610上野1703−2146山形
山形955−1439上野1533−2016山形
山形755−1240上野1330−2122秋田
>>458
全車1000番代はありえない Td481は1000番台じゃねーし 寝台食堂車もオシ25やオシ15は無いね。ここに食堂車の翳りを感じる。 >>464
オシ25なら分割民営化後に「夢空間」として作られはした、けどなぁ…
あれはあくまで例外か オシ24でさえ新製はたったの5両(オシ24 1〜5)のみで終ってる。
1975年、向日町に配置されていた24系を品川に転属させて九州方面の寝台特急を
24系化することになり、その際不足する食堂車を補うためオシ14形5両(5・6・
10・11・14)を種車としてオシ24 100番台化改造した車両。 さらに必要になってもスシ24で賄ったからなあ
キサシ180を種車にしたほうが長さが揃って良かったと思うんだが >>467
ブランクが長かったのが災いしたな。
サシ481・489の全面撤退が昭和60年、キサシ180が昭和57年なので。
その3年間でも、末期国鉄が目まぐるしく変わった。 オシ14はオシ14で59・2改正の出雲3・2号単独運転化(紀伊廃止とさくら、みずほの運用から分離)で編成から外した分はロビーカーとホリデーパルの改造元にされたりしてるしな ホリデーパルはナシ20じゃなかったのか。ナシで梨のメニューはあったのかな? ロビーカーは食堂車運営会社との折衝で一時は生まれたものの、結局某党や国鉄幹部のメンツで潰されてしまったオシ16以来のビュッフェカーの残骸
全然乗らないから外せとの声もあったけど、無理やり押し切って車両共通名目で富士にも連結させる暴挙に出る
ただ、その反対意見を和らげるため、スハネ25形700番台を作る羽目となり、これと細かな点も改良した金帯あさかぜはヒット
86.11でロビーカーを外して、701と702、そしてホリパルの701を701・702化してビュッフェカーとして日本海へ投入していたらだいぶん違っていた >>470
ホリデーパルは20系だけどサロンカーとして連結していたオハ14 701は
オシ14 1を種車にして改造された車両でオシ14-1は1972年3月15日に
さくら みずほ あさかぜの食堂車として運用されていました
のちにオシ14 1は1972年10月に向日町運転所へ転属して1972年10月2日から
あかつき で運用され、更に早岐客貨車区へ転属して1973年10月1日より
あかつきの食堂車として運用に入り、その後古巣の品川客車区へ戻って
1975年3月14日付にさくら みずほ いなば(のちの出雲2号.3号)に
入った華麗な転配歴がある車両のひとつ だからオハ24の車端にはカウンタが設けられていたのかな
自分がはやぶさに乗った時はガランドウだったけれども オハ/スハ25-300だって売店コーナーがあって
業務用電子レンジも置いてあったけど
活用せずじまいだったな 寝台特急のラウンジカーやロビーカーのサービスカウンターに
係員が常駐して物販等を行ったのはオハフ25 901(夢空間)の
ラウンジカー スプレモだけかも知れない
そのスプレモも北斗星トマムスキーが1991年に夢空間が連結して
5年間くらいで無人になったと記憶しています 金帯あさかぜだけど、品川客車区は、
25形の一部車輌があさかぜ限定運用に
なって大変じゃなかったのかな?
87年に鉄引退したからあまり定かじゃないんだが、金帯銀帯混結とか、金帯はやぶさ富士とか
見た事がないようなor印象にないような? あさかぜと一部は共通な以上出雲1・4号も順次金帯化してオロネ25だけ銀帯のまま残ったね
(イレギュラーだが検査の都合オロネまで金帯車が入ったこともある) >>476
はやぶさ 富士は1987年3月に国鉄分割民営化でJR九州・鹿児島車と熊本車なので
博多あさかぜの金帯ハネ・ハネフが はやぶさ 富士 へ入り込む事は無かったと思う
>>479
品川車のオロネ25金帯は3両あって1両が絶えず予備か検査なのだが出雲用オロネ25
が全般検査入場以外にトラブルで出雲の本運用に差し支えあるとあさかぜの金帯
オロネ25が突発的に出雲用に回って出雲のオロネ25に金帯車が運用に入る訳です >>476
1986年11月国鉄最後の改正で、富士・はやぶさは九州に移管された。分割民営化を見越して車両分配のため。
一方博多あさかぜ・出雲1・4号は品川のままで、博多あさかぜグレードアップ改造が行われた。
最後の集大成は、分割民営化直前のデュエットとシャワー室設置。
なのでその改正後に、富士・はやぶさが博多あさかぜと共通運用されなくなったので、金帯か入ることなかった。 1987年7月下旬に当時大学生で友達と新しくなったニューあさかぜと呼ばれた9列車の
デュエットに乗って新しくなった博多あさかぜに驚愕した。1986年12月時点ではまだ
700番台車はカルテットだけだったが、1987年3月14日でデュエット+ミニロビー、
シングルデラックスが増えて700番台化。食堂車もリニューアルして700番台で金帯の
車両が増えて博多あさかぜも一気にデラックスになって注目を集めたものだ。 >>482
あさかぜ食堂車のリニューアルは嬉しいけど九州の郷土料理(ちゃんぽん、皿うどん、
関門定食など)が復活しなかったのは本当に残念だと思うよ。
まだボロイ食堂車でも手のかかるメニューや郷土料理を提供していた日本食堂
門司営業所が担当していたボロイ食堂車でも良かったと思う。
食堂車全盛期は東京駅発車前から出張族が入口で待ってて始まると一気に席が
埋まって酒盛り始める父親世代が恰好よく見えた。 >>482
翌年の北斗星登場で、それが霞んでしまった >>485
トワイライトエクスプレスの登場や
カシオペアの登場で北斗星も霞んでしまった やっぱり当時の九州ブルトレのアコモデーションって、14系さくら、みずほが古臭かった? 出雲1・4号に白帯の電源車入って帯が3色になった事ってありますか >>486
北斗星は言うほど霞んでないだろう。
カシオペアと比べるなら、夢空間でないか?
カシオペアは案外ゴージャスさを感じなかった。 カシオペアに欠けてるのはゴージャスさというよりクラシックさだけどな
だけど汽車旅に求めるのはまさにそのクラシックさだから
モダンなカシオペアだと何だか違うと感じてしまう 北斗星は最初の5年間はよかったけど1990年台半ばからくたびれていたよな
2000年にはボロ斗星まで呼ぶ人が現れて車両もサービスも低下して酷いもの ボロ斗星なんて蔑称を作ったのはどこの>>491かね 最末期に「北斗星」のロイヤル乗ったけど、ボロいという感じはしなかったな。贔屓目かもしれんが、味があるというか…
ルームサービス頼んでたくさん飲んだ。 その点、トワイライトエクスプレスはスイートもロイヤルもちゃんと整備していたし、
食堂車のスタッフもよくて(コーヒー無料飲みのトラブルはあったけど)下りランチや
ディナーも気合が入っていたな
トワイライトは過去に室内と個室内調度品のリニューアルもあって終盤まで乗車しても
気持ちよく旅が出来たし毎年1〜2回はディナーメニューも変えておたので飽きなかった >>491
>>492
ボロ斗星は頑張れ北斗星スレに書かれていたのが最初だと思うけど
その時のスレッドはDAT落ちしているみたいで見つからない トワイライトは客室の壁が黒ずんできても目立たない色合いしてるしな
北斗星は東車の外観が塗装剥がれで酷い時期と
北車の外観が黒ずんで酷い時期とあって
その時期がずれてて必ずどっちか見た目が酷かったから
悪い方が目に付くというのはある はくつるも酷かった
まぁ、12月で廃止するからほったらかしたんだろうけど >>493
2014年にオロハネ24のロイヤルに乗ったけど、部屋ドア付近の塗装が朽ちていた。
登場時から最後まで稼働したオロハネ25の車端部ロイヤルだと、末期はどんな風だったろう? >>499
オロハネ25の車端部ロイヤル(オロハネ25 501/502/503)は最初の1年はそれは素晴らしい部屋だった
ベッドはセミダブルにはならないけど本格的なベッドメイクされたベッドで寝心地もよくて当時は
一人専用の個室だったけど窓際に面する広いテーブルには調光式のスタンドが雰囲気良くてロイヤル内
から通路側の車窓が見れる窓(カーテンがかかってるので通路からは覗かれない)もあって1988年の
個室ルームキーは黒にゴールド文字の洒落たタイプだった
https://dotup.org/uploda/dotup.org2489764.jpg
車端ロイヤルに最後に乗ったのは1992年だけど末期はかなり劣化したと聞いたけど? >>500
開業したての北斗星5.6号ロイヤル懐かしいわ
当時はモニターTVの下に時計やオーディオコントロールの
スイッチ類があったけどベッドに横になると手が届かない
不満はあるけど特急料金込みで21,000円の部屋は約1年で
JR北海道タイプのロイヤルに改造されてしまった >>500
肩に手を回して雰囲気とワインで酔わして○○○したのですね
性感トンネルはスムーズに無事入りましたか?イヒッw >>491
一往復になった平成も20年を越えると、車齢が30年超えばかりになってボロ斗星って呼ばれるのにふさわしくなってたな。
この頃利用した若いカップルの男のコメントに、鉄道に興味ない彼女にトイレがやたら臭いって言われた、なんてのあったな。
国鉄型の循環式トイレは時間が経つにつれ、悪臭が酷かった。 >>510
折り畳みトイレを降ろすと独特の臭気がしててあれには閉口した >>512
しかもうんこが水の流れだけじゃ流れていかなくて
水を流しながらゆっくり傾けないといけなかったんだよね
こびりつくのが嫌だったから便器の中に紙を敷いてうんこしてた >>514
そうそう トイレを傾けて一気にとじると汚物がこびりつくから
水を流しながらゆっくりと傾けていたよ
下に紙を敷くと一緒にこびりつかないで流れてくれるから
自分も同じ事やったよ >>500
聖子ちゃんカットやなぁ
性感トンネル、ズブリッ!! 新婚旅行夫婦@北斗星ロイヤル
ん~~~~~~~~?
セイコの性感トンネルはどこかな~~~
ここがよしおか? それともここがよしおか?
イヤーーン、へったっぴー 松田聖子とは限らない。渡鬼のセイコかも
知れない。昔は渡鬼の方が52センチ寝台で
へたっぴーとかあったんだろうか?
583系下段は渡鬼対策? >>520
抑制の効かなくなった年寄りならあり得る
子供がえりというか何というか…
或いは酔っ払い団塊ジジィとか 西村京太郎鉄道ミステリーの元祖はブルートレイン殺人事件だったな
次策は終着駅(ターミナル駅)殺人事件でこれもコミックで読んだけど
良かった しかし中期になると列車外で殺されているのに○○号殺人
事件というコミック本タイトルは詐欺に感じてならない >>528
ぶんか社コミックスなんだからコミックでよくね? >>517
こういうのって昔からキモい扱いだったの?それともこんな文体がユーモアに富んでると見做されてた時代があったの? >>526
西村京太郎鉄道ミステリーの「ブルートレイン殺人事件」は1978年に光文社から発売
1978年といえばニューブルートレイン(25形-100番台〜や15形)に切り替った時代でも
あり、東京駅16時45発西鹿児島行き寝台特急「はやぶさ」1号車の個室寝台7号室に乗り
込んだところからスタートする小説は今読んでも新鮮だ 西村京太郎鉄道ミステリーではないけど高倉健主演の映画「駅」はTV等で何回も見た
銭函駅、増毛駅、上砂川駅が舞台で高倉健が増毛駅近くにある居酒屋(倍賞千恵子)の
を出る時に高倉健が時刻表をめくりながら札幌方面は急行利尻しかない事を知って
雪が冬店の外に出て歩いていくシーンが未だに忘れられない 東日本の夜行急行だけテールサインがイラスト化しなかったね。189系妙高、アルプスも文字だけで味気なかった。 JR東日本が受け持つ車両を使った定期の座席夜行急行で絵文字マークを掲載した列車は無かった 14系能登も津軽も八甲田も急行の文字だけで誤乗とか無かったんかな?ちくまやだいせんは12系にも行灯式テールマーク掲げていたし。 >>535-536
臨時急行なら、20系おがの派手なイラストマークがあったけどな。
ムーンライトながらが臨時の183・189・185系でイラスト化されなかったのも
その流れがあったのか?
でもムーンライトえちごは、183・485系にイラストマーク用意されてたな。 あの上野の頭端式ホームでは最後尾が一番目に付きますけど? >>540
その最後尾にたどり着くのは既に改札上にある出発案内を見たからなわけで
ホームにたどり着いてから見ても意味ないだろ
現代人はそそっかしいうえに利便性におぼれすぎて目先の物しか見ないけど
当時の人たちはそうじゃないから 急行なら折戸や引戸のそばに愛称のサボがついてるでしょ 上野黒猫痴情ホームを夜行で目指しますは
あのせいかんトンネル、サッと見てホロりと
惚れたは、ハコ入り娘とダテには申しません。
ここが吉岡、それともここが吉岡、イヤーん
へ竜飛、てなもんでございます。 >>536
わざわざそこまで細かく分類して演説せんでも 電源車でもないのに、なんで最後尾が通過する時に「ぶぅーーー!」って音がしたんだろう? うわ!明け方の土合に登山客に混じってムサいヲタ終結かよ! >>548
せめて長岡まで延長してくれれば乗るのに >>550
実際は鉄オタの集団の中に登山客、になると予想
待合室で折り返しの始発を待つ鉄オタ連中を尻目に
明け方近くに徒歩やタクシーで散っていく少数の登山客という光景 >>553
乗りたきゃ用事がなくても乗らにゃ後が続かぬ >>556
情報が回ってれば何台かは来るだろう
来なくても呼べばいい
田舎の駅にはタクシー会社の電話番号が書いてあるのが普通
なかには専用電話置いてる駅も >>558
夜中の3時の土合駅に?
水上から呼ぶとすればとんでもない料金になりそうだな。 土合から谷川岳ロープウェイ駅まで徒歩11分 普通は歩いて行く いやいや登山口まで歩くだろ。すぐだよ。なにしにきてんだよ
って185に乗りにかw
ヲタに歩けとは言わんから時間あるならロープウェーで天神平まで行ってみればいいのに >>458
高崎支社の共通通達を見ると土合駅に到着した185系は
水上駅まで回送されて翌日まで待機になってるね https://www.youtube.com/watch?v=UV2Evw2Gc5M
寝台への愛称に未だに拘ってる奴には申し訳ないけど、やっぱ「はやぶさ」は
日本で一番高速な新幹線の愛称にすべきだと思ったね。
今後、360km/hに上げた新幹線が札幌へと走るが、それには北海道を思わせる
列車愛称を付けるべきだと思っていたけど、「はやぶさ」のまんまで良いかな?
と思うように会った。 >>571
だったら583系化の時に別愛称になってるだろう 関越交通、水上駅までのオタ用臨時バス運行キボウヌ
1,000円で日帰り入浴券つきとかで! >>569
A個に乗ってるおっさんはRJ社の竹島紀元じゃないか >>572
新青森開業のときに作った時代の変遷柄のポスターにC61とキハ81はあって583がなかった辺りがまあ意図するところだよな >>568
ほくと、になるやろな
はやぶさは東北新幹線だけになるか 「ニセコ」じゃなくて「ていね」でしょ
北海は山線経由の旭川行きの特急 北海道新幹線が山線回るからだろ
函館-札幌の短距離は北斗になるんじゃね いっそのこと札幌〜旭川間の列車の名前をライラックに一元化してカムイを新幹線の方に与えるのはどうかな カムイは神威だから神威通らないと
まぁでも北斗だと、新函館北斗発北斗とか北斗新函館北斗行だからくどいのか
北斗市はゴネずに駅は新函館にして名称は北斗にしろって言えばよかったのにね
北海道、特急急行であまりいい名称ないね。歴史が浅いからしょうがないんだろうけど
狩勝とか天北とか宗谷はかっこよかったけど >>588
あー、確かにそれならカムイは駄目か あとそれっぽいのはアカシア、おおとりぐらいかなぁ シンプルにニセコ辺り通るんだからニセコにしても良いと思うが 道内列車は「ニセコ」でも良さそう。漢字じゃない「ほくと」は見た目悪い。 いや「ほくと〇〇号新函館北斗行き」ってクドいだろ
今ホクトって言ったよね?じゃあ函館行きだとか言って札幌行きに誤乗までおこしかねん スレ違ついでに便乗
「おおぞら」「おおとり」「アカシア」に一票
特急は花、自然(夜行は天体も)
山、河はもともと急行だしな >>592
「たにがわ」「なすの」でそういう原則崩れたから。もともと「あおば」も青葉城だし
「あさひ」も朝日山系と名所旧跡など由来だし。 >>577
それだと東京口での北日本方面新幹線の愛称過多にならないか?
もちろん愛称聞いただけで「あ、北海道へ直行するんだな」と客に判らせるのも良いことだけど。 >>585
短距離のは「はまなす」でも良いと思う。 北へ行くのを「ほくと」にするなら、九州まで行くやつを「みなみ」にして、
東京駅で合体して「エース」な。 >>600
最初は?と思ったがそういうことな。
北斗と南が合体…中学になってそのフレーズをふと思い出して、なんだかドキドキ、悶々したのを思い出した。 >>595
485系の特急いしかりが走っていた頃は石狩市なんて無かったから無問題だけど
現在の石狩振興局は千歳市、恵庭市、北広島市、札幌市、江別市、新篠津村、
当別町、石狩市なので新千歳空港駅から旭川へ行く特急(新千歳空港⇔札幌間は
快速エアポート)いしかりなら問題なさそう?
>>600
残念ながら東京駅を境に架線電圧25kVの周波数が変わるので物理的に無理
両者の周波数切替が出来てJR東海・西日本車に耐寒大雪対応の車両にしたら
N700系の1.5倍から1.7倍の車両金額になるから現行どおり東京駅乗換えだよ と・・・マジレスしちゃったけど合体したら粘液での感染で更なるコロナ禍になる悪寒 >>602
仮に麻生氏が総理大臣になっても無理だよ
2年目のコロナ禍でJR各社は尋常じゃない大赤字で
それどころではないと思う
近年の内に運賃・料金値上げあるかも知れない? >>608
その際に、分割すると安くなるJRの運賃体系も根本から見直すことになるんだろうか
いかなる場合でも分割した方が高くなれば、これに起因する諸問題は自然消滅するし
IC利用への本格誘導と同時に、途中下車制度自体もいよいよ消えてしまいそうだけど
スレの趣旨からは離れてしまうんで、この程度のレスで留めとく >>608
マジレス貰っちゃってごめん。
>>601氏は、「エース」の後半で「みなみ」が出てこなくなった
ことを表現しているんだ。
で、「エース」が終わって、後釜は「タロウ」
特急「かいおう」があった位だから、地元の英雄
新幹線「タロウ」ができるかもなってユーモアのつもり。
オヤジギャグですまんね。 >>612
札幌発東京行きは「おのぼり」でいいんじゃね JRは運賃値上げするなら人件費を削減するべき
今時指定券だって自販機で買えるのだからみどりの窓口いらないよ
スマホで指定席予約できるし東海道新幹線や山陽新幹線は
EX予約だと安いし楽だからもう有人のみどりの窓口はいらない >>614
東も西も、実際にその方向で中長期の経営方針を出してるでしょ
窓口は主要駅だけに絞り、QR対応とも絡めてICやスマホの利用へと本格誘導させ、
長期的には現金対応の券売機さえも主要駅以外から消え、無人駅だらけになる
それに加え、ワンマン化・ドライバレス・運転本数自体の削減等、色々と手段を選ばなくなる感じだし
在来線に関しては、夜行列車や長距離列車が走っていた名残が、制度面も含めてどんどん消えて行くんだろう 日本はやる事なす事が遅すぎる
せめて国鉄の分割民営化を1987年でなくて
10年前の1977年に行って赤字ローカル線
などの削減も1977年に行えばここまで赤字は
増えなかったのに・・・
ICやスマホの利用もあと3〜4年は早く実現
可能だったと思うが現在の状況だと移行まで
あと数年くらいかかりそう
そういえば国会議員の若返りも急務かも 大昔は列車同士の衝突を防ぐ為タブレットで運行管理をしていた。
なんていうと仰天する奴がいる。
何か勘違いしてない? 信楽高原鐵道列車衝突事故はタブレット閉そくしていたのか? >>620
違うよ。信楽は特殊自動閉塞に改良した直後に事故。 せっかく改良したのに人為的な「俺様閉塞」にしちゃってたんだよね(´TωT`) もしタブレットのままなら事故は起きてなかっただろうか >>623
閉塞機無理やりこじ開けてタマ出して持っていくだろうよ タブレットのままなら、信号場で信楽駅と電話連絡するから事故なんて起きようがない
授受線付設備の計画をケチって、単独ツッコミにさせた滋賀県が悪い 改良前は標券閉塞式。タブレット式に似てるけど、閉塞機がないやつ。
無理に取り出すもなにも、玉が一つしかない。 >>626
いやいや俺様閉塞で方向テコ扱う奴らだから票券閉塞だったらタマ無しで運転しただろうよ 遅れてる列車を赤信号で出発させる神経がわからない、行き違い駅が変更になってるのをなぜ疑わないのか そもそも信号場で交換するダイヤだったのだから
票券にしろタブレットにしろ対向列車が来て交換しないかぎり
JR列車は発車しなかったんじゃ 遅れている列車を急がせてカーブでマンションにクラッシュさせたり
異臭が発生してる列車をそのまま直通先に引き渡す会社ですし テレ朝の深夜番組で鉄道特集を放送する日に、信楽事故が起きてしまったんだよなぁ。
番組は急遽内容変更。ゲストとして呼ばれてた種村御大はじめ、鉄道関連コメンテーターが
全員沈痛な表情で出演して、原因検証番組となってしまった。
数カ月後に改めて当初の企画で放送。 >>615
無人駅だらけになれば入場券を買わずに構内に入れる駅が
増えることになる。撮り鉄にとっては理想的な未来である。 >>633
種村が呼ばれたのか。
今なら川島氏や金沢工大の教授が鉄板。 >>634
無人駅がどう撮り鉄にとって好都合なのが分からん
いまどき駅のホームで撮影するのは撮り鉄以前の入門者
アクティブに動いている撮り鉄は鉄道なんて乗らないで
マイカーで移動するよwww 撮り鉄はどこにいっても評判悪いから、ラグビー仲間や女友達には黙っている。 >>637
/ ̄ ̄\
/ ―― ヽ
/ _/ ー^ー ハ
/ (/ ノ⌒=⌒ヘ)
/⌒ヽ| ((・)ハ(・)ヽ
\ (⊂Yつ) |
ヽ(_人_)ノ
| ヽノノヽ
ノ ヽ_ノ |
ウホッ!? >>635
出演オファーの時は列車事故が起こるなんて思ってもいなかっただろうからな。 俺の嫁は寝台列車に初めて乗ってカルチャーショックを受けたらしい。
40年前の特急日本海なんだが、楽しみにして乗ったらカーテンで仕切られた狭い棚みたいなベッドしかなくテレビの見れるロビーも食堂車もシャワーもなかったらしい ほんまそれ。3年ほど前、阪九フェリーで部屋とってのんびり過ごしてきたわ 北斗星はおろかグレードアップあさかぜすら登場していない時期に
寝台列車にそんな設備があるなどという先入観を持てた方がむしろ不思議だ ひと晩過ごす設備として貧弱すぎるだろ
まあホテルでもテレビ見るのに100円かかった時代だが >>644
40年前なら25型が最終投入され、引き続き14・24系が改造予定されるころとか、二段ハネによる寝台列車省力化が押し進められてた時代だもんね
ネットも無い時代だったからとはいえ、東京発ブルトレ以外寝るだけしかない陳腐な内容の国鉄寝台特急に、ロビーやシャワーがホテル並みにあると思い込んでたのはマンさんらしいね >>641
カルテット(ハコ4)の登場が1984年7月20日
デュエット(ハコ2)の登場が1986年3月14日
ツインDX(ロコ2)の登場が1987年3月21日
なので個室がなかった頃は3段寝台で旅に出るのは鉄道ファンや
寝台車の旅が好きな人以外は苦行だったに違いない
それでも自分は食堂車で飲食する楽しみを1979年に覚えて
しまったので10系や20系のB寝台以外は楽しんで乗っていた
>>643
阪九フェリーには乗った事がないけど北海道方面行きの新日本海
フェリーのスイートはよく乗ります 昼食と夕食はグリルでコース
料理を味わえて朝食は部屋まで食事を台車で運んでくれるので
風が弱い暖かな日ならプライベートバルコニーの椅子とテーブルで
朝食を楽しんだりしています 40年前ならフェリーだって大部屋の雑魚寝で場所も指定されない早い者勝ちがデフォだろ
よくて二等寝台
もちろんテレビはない(大部屋の共用を除く) この40年で都心からのアクセスや所要時間のハンデイがありながらワンナイトの船は生き残り寝台列車は壊滅する。その差はなんだ 空間の広さなどもあるんじゃないの?
鉄道だとどうしても幅の制約が厳しいし 北海道への新日本海フェリーにはサウナや露天風呂もあり、片道1万円程度で乗っている
大部屋2段寝台の客も無料で利用できるのは破格である。
女性用パウダールームもあり朝のルーティンも気分よく過ごせるようになっている
ただ瀬戸内航路と違い揺れは大きく無料Wi-Fiははとんど機能しない >>649
逆だよ
この前までフェリーも瀕死状態だったが寝台列車が壊滅したので長距離フェリーが見直されているんだよ >>649
そもそもフェリーのメインの客はトラックや無人シャーシで旅客はオマケに近い
その旅客も団体か個札客は車両持ち込みで乗れるから利用するのがほとんど
個札の徒歩客なんてハナから期待なんかしてないといっていい もちろん個札の徒歩客がフェリーの収益に影響することなんてほとんどない フェリーでは、閑散期は内緒の等級グレードアップはよくあることだしな、
最近は内緒が内緒でなくなりつつあるが 阪九と名門大洋は小倉駅から送迎バスが複数台出るぐらい徒歩客おるでよ >>656
小倉からではないが、俺も送迎バスの乗るべく門司駅ホームに18時半頃降り立ったのだが
その瞬間に昭和の頃がよみがえった。この時間帯あさかぜ、富士、はやぶさが颯爽とやってきて銀色の機関車に
付替えてるまさにその時間帯であった。なんだか寂しくなった。 徒歩乗船なんてついでのオマケで乗せてもらっている様なもの >>649
フェリーは旅客も貨物も積載できる
つまり混合列車だから
なのでブルトレこそ混合列車にすべきだった
旅客と貨物の分社化が決まった時点で >>659
> フェリーは旅客も貨物も積載できる
鉄道的に考えればカーフェリーに乗せるクルマは手荷物な
旅客と関係ない貨物を一緒の列車で運ぶ意味なんてゼロ トラックやシャーシ輸送はフェリーよりRORO船の方が需要がある
フェリーみたいに船室や食堂に風呂もあるけど法人契約を結んだ
物流会社の車両しか乗る事は出来ない ROROは有人車両は基本乗れないしデイリー運航じゃない航路も多いし(1週間ローテで各地に寄港とか)
総じてフェリーより遅いので急がない荷物向きだな 連結器の隙間の衝撃で眠れなかった経験も
貨物列車がどんな引き出ししてるか見たこともないから
フェリーのやり方がそのまま適応できると思って
そんなこと言えるんだろうな >>668
K弁の貨車とA弁やKU弁の客車を連結するとどのような挙動を示すのか
階段弛めが出来ずに追加減圧一段弛めしか出来なかったりして面白いよ トレーラー海苔だがシャーシによってブレーキの感覚が微妙に違うのでシャーシブレーキのみで発進・停止して機関車のウテシ気分を味わったりしてるw オーシャン東九は何度も乗った。夕方暗くなり始めた時に、車で到着して、煙突?のトビウオ
マークが黄色い光で照らされてるのを見てかつての特急あさかぜはここにいたのか、と思う。
周りがコンテナとかデカいトラックだらけの
ちょっとおっかなくて殺伐とした荒っぽくて
錆っぽい雰囲気、でも貨物輸送の現場の活き活きとした感じに、かつての国鉄はここにあるんだな、と思わせるものがある。 オーシャン東九フェリーは個室やレストランがあった約18年前はよく利用したが
家族で4人部屋個室が使えて楽しい船旅だった。カートレイン九州が廃止になって
オーシャン東九フェリーに変えたのだが子供達が独立してしまったので乗らなく
なってしまった オーシャン東九フェリーといえば自販機で買えるあけぼの寿司でしょ??
昔は乗船する時に自動販売機各種で使えたプリペイドカードが貰えたから
金額の安い自販機商品なら無料のプリカで夕食と朝食は食い繋ぐ事が出来た 夜行列車を廃止するのはかまわんが代替交通手段を確保しといてほしい
「かいもん」「ドリームつばめ」廃止は別にいい
かわりに福岡鹿児島間の夜行バス便があったから
いまは夜行バスも無い >>675
夜行でわびしく弁当食べるより、新幹線で移動し現地でゆっくり食事したほうがいいし
座席よりホテルの方が寝心地いいぞ >>677
移動時間は短く、移動先の建物でしっかり食事&他者を気にすることなく個室で睡眠ってのが
確かに色々と落ち着くんだろうとも思うし、
それが問題なくできる時代になったとも言えるからなぁ 新幹線で1時間20分。すでに夜行の時間距離じゃない。 令和の時代に夜行列車云々言ってる奴が時代錯誤で笑う(草 >>681
新幹線で80分…長野からもアルプスが出てたなぁ
名古屋や仙台もってなってしまうのがね 急行新星は急行銀河の東北版といった感じ、やっぱり仙台は大都市で急行としては破格のブルトレ寝台専用編成でA寝台もあった。朝のやまびこやひばりで出掛けて帰りは少し飲んでから急行新星。
ゆうづるも利用できたのだが新星は9時30分からホームで寝台を利用できる配慮があった >>685
自分が辛うじて乗車したことがあった列車と言うことで(189系あずさ色時代) >>686
理解です。
開聞、ドリームつばめではなく、日南ですね。 >>688
定期の急行妙高は原色189系だったけど
臨時夜行急行妙高ならあさま色で運用してたよ 九州内に3系統の定期夜行列車が走っていた
ときは九州ワイド周遊券のお世話になった
ながさき→かいもん→日南(順序不同)のパターンで
3連泊したら駅寝とかも挟んでローカル線を乗り歩いた まだまだ需要がある関西ー北陸系統がこんな状態になるのは解せないな。 >>689
廃止になる3月だったけど、定期の急行妙高のあさま色の189系はあって乗ったよ コンテナ列車とかどんどん夜行にすればいいのに
何で白昼堂々と走らせているのか
昔の「たから号」とか基本的に夜行だったんだから 東海道筋なんてもう夜間はスジ入らんだろう
戸塚あたりで5-6時台に張ってるとひっきりなし上りがに来るぞ >>694
確かにその時間の東海道貨物線の上りは本数密度が濃いパターンダイヤだけど
設定臨なり予定臨を1本増やすくらいの余地はあるよ。JRの2分目ダイヤグラムを
見れば明らか。 >>692
妙高は9両編でグレードアップ編成は入らなかったんだっけ?9両編成のあさま色完了したのは何年頃だったか。 >>697
ロザのシートが重厚だった記憶はあるんだけど、普通車までチェックして無いんだわ
時期は14系能登が489系に置き換わる前だったな 出羽の臨時化もその時だったっけ。当時のダイヤ改正は即廃止ではなく臨時化って感じだった。 >>699
最近の北斗星やあけぼの、日本海も臨時化やよ >>699
出羽は容赦なく切られたわ
記憶を捏造すんな 夜間新幹線に高速貨物走らせたら勝てそうな
気がする。 聞くところによれば、韓国や台湾にも寝台かどうかは知らんが夜行があるようだけど、
これらって定期旅客便なのかな? それともイベント系? まあ韓国はわかる。道内夜行が存在した北海道より一回り大きいくらいの国土だし、ソウルが北部に
偏ってることもあって、それなりの距離が離れた都市への夜行が在ってもおかしくはないが、九州島
程度の広さの台湾に夜行ってアリなんかな?
九州の日豊線と同じく東部幹線が見捨てられ気味だから、こっち経由なら台湾南部までの夜行が
在ってもいいのかな? TBSチャンネル2 「十津川警部シリーズ「ミステリートレイン日本一周旅号殺人事件」」(1983年)
06/27(日) 01:50〜04:00
https://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/d0478/
出演:若林豪、坂上二郎、本田博太郎、下川辰平、寺泉哲章、斉藤とも子、内田朝雄、岸部シロー、二瓶正也、北見敏之、小川隆一、西田健、草間正吾、片桐竜二、丸岡将司、浜井孝子、石山雄大、松井良樹、藤木敬士、正木香子
実況しようぜ
スカパー実況
https://himawari.5ch.net/liveskyp/ 夜行列車の運転士や車掌は深夜手当が加算されて高給取りだった? >>702
なんでこう喧嘩腰口調になるんやろうね? >>708
基本給がめちゃ低かった。
乗務手当てが無いと暮らせないレベル。昼でも夜でも乗ってナンボのせかい。
夜行は乗る字間が稼げるのに対して、同じ夜間勤務でも夜行でなければ終電まで+休憩(仮眠)+始発以後と効率が悪い。 2時間ごとに運転士交代しなければならず人員配置が大変だっただろうな
夜行バスだとカプセルホテルみたいな仮眠室に交代運転手が乗るがかつて一人で運転できる上限が670kmで東京〜大阪一人乗務で2500円とかアホみたいな激安ツアーバスがあった
関越道のあの事故で400kmに短縮され東京〜大阪は2人乗務必須になった >>706
たしか、以前にイベント夜行やったはずだよ。 南朝鮮と台湾は昼行の座席列車をそのままだったり寝台車を追加でつないだような夜行がなかったっけ
ノルウェーが今もそんな感じでやってるよね >>711 バスって事故った時に一度に死ぬ人数が少ないから過小評価されてると思うけれど、
実は超絶危ない乗り物だよな。実質数秒うとっとしたって鉄道は余程間が悪くなければ何ともない、船なら数分寝て頭がスッキリして舵切ってもほとんど航路に影響ない。飛行機など、
オートパイロット入れっぱなし、ところがバスだと数秒のうとっで必ず事故になる。心不全で
ウテシが死んだらもうアウト。 だから安全な新幹線をご利用ください
かつては夜行が発車していた時間帯に出発しても終点につきます、と 東海道新幹線と関西発九州行きブルトレはそれを売りにしていたな
いまや横浜市内の自宅を16時に出ても新大阪で鹿児島中央行き最終に乗り継げる時代だ 横浜のどこかはともかく16時に出れば羽田発最終19時30分には余裕だな >>714
最近のバスは車線検知カメラとか衝突安全ブレーキとか安全装備が充実してるが高価なので大手しか導入したがらないみたい >>714
夜行バス事故相次いだとき、バスにもEB装置付けりゃいいのにと思った >>721
それらの装置は新しい大型トラックには標準装備されているが事故は減ってない これだけ各地に新幹線が走り空港もあるのに
夜行列車に執着する理由もわからない
1970年代後半から1995年まで数多くの夜行
列車に乗って来たから今更乗りたいとも思わん
夜行列車の想い出を語るのはいいけど日本が
高齢化して夜行列車のニーズ自体も希薄なのに
日本がまた高度成長化時代みたいに戻って
人工も増えて若い人も増えない限りは無理やろうな
貧乏人は夜行バス、そうでない人は新幹線や飛行機
利用に現地ホテルや温泉宿泊の金持ち・貧乏の
二極化もこの時代らしくていい 今まで気兼ねなくできていたこと(このスレだったら夜行列車や寝台車などへの乗車・移動、
それに付随する経験)が、ある日を境に二度とできなくなる…
嫌な経験も時にはあっても、今となっては二度と経験できない、ある意味ぜいたくな思い出か
今を味気ないと言いきるのかは、また別の問題だけど 昭和50年代 中学校の修学旅行で長崎から「あかつき」に乗った
「先生はいい経験になりますよ」なんて言っていた
その当時ですら夜行列車は大人になって普通に経験できるものではなくなっていた >>725
昔に比べると今は在来線特急の本数も多いし、新幹線も多方面に多くの本数が走ってるけど
昔は夜行列車の本数も種類も多くて便利だったし移動という事で考えれば今の方が便利だよね。
しかし旅の楽しみを考えると断然昔の方が豊かだったと思う、日本各地に夜行列車は放射状に
走っており、昼間の特急でも食堂車で食事する楽しみはあったが今のような観光列車は皆無
だったから一長一短はある。 >>727
自分自身は>>286で記した経験が未だに強く印象に残っていて、
あの感覚と全く同じものは夜行列車でしか経験できないんじゃないかな、とも思ってる
そのあたりを「今後改めて経験することが非常に難しくなる思い出」と記した次第
もちろん、同じ場所へは今後も行けるだろうし、しかも夜行列車時代より迅速に移動できるので
移動速度の面では大きく改善されているとしてもだけど 急行列車にすらエアコンがなく開け放した窓から蛍光灯につれれて虫が飛び交い、便所は垂れ流しやボットン、好き放題に煙草を吸ってはポイ捨て
コンビニなどなくキヨスクは菓子パンしかない食糧難、土曜日は学校も職場も休みではなく半ドン、銀行や郵便局の窓口は早じまいで現金底尽きるとお金下せない
1週間前の指定券発売では予定もなかなか立てられず、シーズンの自由席は仮設テントの張った駅前で大行列、ウエットティッシュや制汗スプレーなどなく夏の夜行では・・
旅の楽しみは昔の方が豊かだったという意見は否定しないが、俺は戻りたくない >>729
SLだと窓から煙入ってくるしトンネルに入ろうもんなら急いで窓を閉める
とっととSL撲滅しろと思ったもんだ >>729
更に昔はゴミを窓の外に投げ捨ててたんやぞ
床に置くのはまだマシな方 繁華街には愚連隊やヤクザが闊歩。海岸には北チョン工作員は居るし。
今の方が治安は断然いいな。 >>729
贅沢極まりない話だけど80年代後半には戻ってみたいなと
九州特急にはロビーカーがあって食堂車も合理化されつつも営業
88-3には上野から札幌へ行ける寝台特急が誕生して
その供食を支えたのは往年の東北特急を支えた日食仙台のスタッフ 北斗星1往復化の時に仙台から上野に移った人もいたね >>727
便利さだけで考えれば完全に現在の方が便利だと思う
昔の方が豊かだったと思う意見にも納得するしどうせ過去には戻れないのだから
過去を懐かしむのはいいけど所詮は過去は過去だと思うし昔には戻りたくないかな?
座席夜行列車といえば旧型客車が当たり前だった1970年台、夏は冷房なんてないから
暑いし冬は途中駅で機関車交換をすると暖房は切れるので寒くなったりするのは最悪
旧型客車は車内の照明も暗めで寝るにはいいが新聞や本を読むのには暗く感じて陰気な
感じがして俺はあまり好きになれなかった(汚いしネガティブが要素も強かった旧客
1977年の夏休み、北海道旅行の帰りに季節夜行急行十和田3号(6202レ)を青森から
上野まで初めて14系座席車に乗った時は明るくて清潔な車内に涼しい冷房車に嬉しさの
あまり感動した
なので自分は>>727や>>729の考えは分かるし、賛同もするけど昔(1970年台)に
戻りたいかと問われたら昔は良かったと思うことはあるかも知れないが答はNOだと思う >>735他
不便だった時代を先に経験しているからこそ、一気に便利になった時のありがたみが
大きく増幅されているんだろうとも思うけどね
最初から便利な状況しか経験していていないのとでは、恐らく捉え方も大きく変わるんだろうな
当然時代に応じて変わるところだと思うんで、良い・悪いと言い切ることは、あえて避けておく
思い出にしても、後になって美化される面とそうでないものってそれぞれあるとも思うし 加減速はあったにせよ時と流れと共に快適というか利便性というか合理的な世の中になるのは必然の流れ
合理化という命題で押しつぶされた
いにしえの、、今となっては不合理、無駄で牧歌的な時間の消費が敬遠されるのは致し方ない
と思うと同時に分かっているけどもう戻れない刹那 >>733
80年代後半の東海道ブルートレイン食堂車なんて
一番凋落化して最悪だった時期だったよ
メニューは乏しい、電子レンジチンか湯煎の
メニューばかりでコックは1名のみだから
手の込んだ料理ができないワンパターンばかり
名物沿線料理の長崎名物皿うどんは揚げ麺の上に
レトルトのあんかけをかけるだけの超インスタント
コックが3名から2名に減ったさくら号の食堂車でさえ
日食長崎営業所のコックが野菜類に海鮮類などを
フライパンで炒めてあんかけにしてから揚げ麺の上に
盛り付けていたから手抜きもいいところ >>738
皿うどんは長崎で積み込んでたらしく、東京発下りでは既に売り切れに近い時もあったし
さすがにレトルトではないと思うのだが、ただ最末期の食堂車は朝食はメニューに乏しいバイキングでお粗末そのものだったから
その頃は皿うどんもレトルトになっていたのかも レトルト食品でも現代だと種類は豊富で味もかなり良くなったね
でも昔のレトルト食品は独特のクセがあって味も美味しいとは言い難かったね >>739
食堂車のちゃんぽん・皿うどんは日本食堂長崎営業所と同じく日本食堂門司営業所が
さくら・みずほ・はやぶさ・富士・あさかぜ1号と4号の食堂車で1983年の春くらいまで
続いた名物メニューで同じく門司営業所の名物料理だった関門定職も1983年の春くらい
で姿を消したが国鉄がJRになって九州方面のブルートレイン食堂車を一手に引き受けていた
日本食堂門司営業所が撤退して日本食堂上野営業所が受け持つようになった(あさかぜ
1号・4号のみ日本食堂新博多営業所)。
>>739
日本食堂長崎営業所時代なら長崎駅で食材を積んでいたし上りで売り切れて下りは完売と
いう事はあったし、門司営業所の関門定食や米子営業所の大山おこわ定食の完売はよくある
事だったけど、>>738はJRになって上野営業所になってからの皿うどんの件を言ってるのに
上野営業所に変わったJRブルトレ食堂車の材料を長崎駅で積む訳ないのに何が言いたいのだろう?
>>740
レトルトの皿うどんあんかけなんて美味しくないよ
厨房でコックさんが新鮮な野菜や食材を実際にフライパンで炒めて作る皿うどんの
あんは食感も味覚も味わいも全く別物であった >>740
割と最近までゆふいんの森のカフェテリアで提供できていたのは
そのレトルト技術のおかげではある 薬みたいな形してるお菓子のことタブレットと言わない? 旅と鉄道1987年秋の号「食堂車礼賛」では博多あさかぜにコックさん3人乗ってますね
(厨房トップの調理係は宇都宮さん!)
同じ頃のはやぶさでも郷土料理こそ無かったけれども朝は和朝食・洋朝食から選べたし
2000年代の北斗星のレンチン飯よりはだいぶマシだった遠い記憶が
九州特急の食堂車営業休止って1993年の春頃?
だとしたらコックさん1人体制とか朝食バイキング化とか
トドメの合理化が行われたのはいつ頃だったのでしょうね
時刻表のピンク頁の「鰻飯」「たこ焼」の文字が哀しくも懐かしや(´TωT`) 昭和40年代は都ホテルが入ってたというではないか、なぜ日本食堂ばかりになった? >>742
タブレット閉塞は、玉(タブレット=たま、広義の通票)が複数あり、閉塞器に納められている。同時に一つしか取り出せない仕組みで安全確保する。上りが2本以上続く場合は着駅で玉を閉塞器に収めてから発駅で取り出すことで対応出来る。
スタフは本来棒状。タブレットの玉や狭義の通票で代用することも多い。
で、閉塞器がなく、玉が一つしかないため、同一方向に連続して運転出来ない。 >>748
こらこら
同方向続行はその最後の列車がタブレット/スタフを持つだけで運転できる
しかし、途中でタブレット/スタフを持ったその最後の列車が故障したり大幅に遅れた場合、
タブレットは途中駅でタブレット閉塞器に玉を戻すことで次の駅で待っている反対側列車へタブレットを渡す=出発させることができる
スタフはそのスタフを次の駅までもっていかない限り、次の駅で待っている反対側列車を出発させることができない
だから、基本的にスタフ閉塞では通過列車のなく1閉塞1列車しかも折り返しになる末端だけ >>747
都ホテル(当時の本社は京都)の列車食堂は関西発着の列車を中心にしてたけど
東海道・山陽新幹線ひかりの食堂車は1996年か1997年くらいまで都ホテルが担当
>>748
>>749
B行路で使う乗務員時刻表(縦長のプラケースに入った時刻表)もスタフと呼ぶ
今はオンライン運転報や共通通達が見れるパソコンから発行されてプリンターで
即座に印刷されるけど車掌がC行路で使う小型(手帳版サイズ)の運転時刻表も
同じシステムから発行、印刷されるがこちらはスタフとは呼ばないw 都ホテルは1990年、帝国ホテルは92年に食堂車の営業をやめたんじゃなかった? 欧州で復活する夜行列車、仏蘭など「飛び恥」影響
2021/6/29 10:00
日本で惜しまれつつも次々と姿を消している夜行(寝台)列車が、欧州で今、再び脚光を浴びて復活し始めている。
背景には、大量の温室効果ガスを排出する航空機での移動をなるべく避けようと呼びかける「飛び恥」運動の浸透があり、各国政府も夜行列車の復活を後押ししている。
フランスでは、高速鉄道で2時間半以内に到着する距離の航空路線は、国際線の乗継便を除き全面的に廃止される見通しだ。
オランダでは、夜行列車の運行を専門とする鉄道会社が誕生し、注目されている。 >夜行列車の運行を専門とする鉄道会社が誕生し、
日本じゃハードル高いかな。
クルーズ列車のような高額取っちゃいけないっていう縛りあると、
たちまち経営が・・・ ‘補助金漬け’という言葉に「ピクッ!」っとするお前らだけど、
国からに補助金漬けの夜行列車運行会社だったら応援するの? 日本は島国という大きな制約もあるからね
ビジネスでも、出張は必要最低限に(テレワークやリモートワーク・会議も駆使することで)となったら
長距離移動の需要自体が相当減ることになるだろうね
そうなったら、まずは新幹線こそを小荷物輸送などにも活かそうとなるだけで、
この国では夜行列車は全く眼中に入らないような気がする ここまで来ると欧州や中国が新幹線網が発達しても夜行が残ってるってことが逆に不思議に思えてくる アメリカは観光用途だから除外して
ヨーロッパは環境問題、そして中央から東において高速鉄道の走行が遅れている地域で補完用途
シナは単に人口が多くかつ貧富の格差がひどいだけ
あとヨーロッパもシナもそうだが、定時運行する確率が低くて乗り継ぎできないないし乗り継いだとしても直通と同じないし直通より遅くなる欠点があるため ヨーロッパも一度は消えかかってたけどね
一度消える流れがあったせいで
スペインは寝台タルゴを大量廃車済みでフランス直通の復活なんかできようがないし
フランスも残ってるのは1970年ごろに製造したクシェットばかりで個室寝台車は消滅済み
ドイツはオーストリアに夜行運営をぶん投げてしまった 狭軌の客車・寝台車はやっぱ居住性が劣る
米国と中国しか夜行寝台乗ったこと無いが快適だった 標準軌でもUIC規格外の奴を持ち出すのはちょっとな
UIC規格内に収まるような奴だと日本と大して変わらない
ヨーロッパの3段クシェットでも日本よりゆとりがあるように見えるのは
天井の屋根直下に空調の風洞を通してないせい >>760
客車の連結器周りが日本はだめだから
だから、タイでホロバッファを追加した旧24系は乗り心地が案外良い
ただし、タイは保線が雑
>>759
日本語でおk >>762
> 日本語でおk
お前が言うな
>日本語でお願いします
これのどこに問題があるんだよ?
>乗り継ぎできないないし
>同じないし
こういうの何とかしろよ >>753
>夜行列車の運行を専門とする鉄道会社が誕生し、
富豪専用のクルーズトレインか高級な個室寝台団体列車でOK
鉄ヲタがたかる様な鉄オタ臭がする会社にも列車にはして
欲しくないので二人用専用個室でキモイ鉄ヲタや貧乏シングルヲタは
排除してもらおう
金があるシングルは2人分の団体列車料金払って(運賃も料金も)
乗ればいいだけ それは既にもうあるからねえ
ちゃんと金払って乗ってくるオタに対しては
排除どころかむしろ親切だけど >>747
結局のところ企業として採算に乗らなくなったから撤退しただけの話 定期ではJR旅客から特定業務委託を受けるしかない
しかもネットダフにあわないよう、マルスで売らない方法が必要
普通自由席だけならマルスで販売してもよい
どこかの超大手旅行会社の定期ツアーとする方法も一つの手
川崎貨物(京急の小島新田)−百済貨物(東部市場前)かなあ それだったら最初から銀河のような団臨ツアーでいいよね >>747
昭和50年の新幹線博多開業で、在来線食堂車から撤退して、
新幹線食堂車だけにシフトした。 WEST EXPRESS銀河のように宿泊先もセットで日本旅行が発売するような
システムはネット転売できなし、団体券の払い戻し手数料を早期から設定して
手数料も大幅にアップすればいいかも知れない
しかしJR東日本はカシオペア紀行があるので必要ないのかも知れない カシオペアはあのベッドの配置がなんとも惜しい
L字配置ってあんまりだよね
あれってデザイン外注でしたっけ カシオペアは大量輸送を考えて作った車両だから
あのL字配置ベッドは使いづらくていただけない
せめてスイートとデラックスをもっと増やしてほしかった
半分はSA2でよかったと今更ながら思ったりする 二階建てだとあんなもんだろ
階段を客室側に食い込ませないといけないから部屋の一番奥がスペースを取りやすい
ドイツの二階建て寝台車もE26系ツインの枕木向ベッドの位置に二段ベッドがあるし あの二段ベッドは狭そうだなあ カシオペアと比べて屋根が高いようにも見えないし 定期ブルトレは単体ではまず乗車してもらえない
だからカートレインとして運転する
ただ、新鶴見いじってウンコ杉側に自動車積卸施設だけでも設置してほしい
昔のカートレインとは違い、コキ100系(専用16両)にコキ71のような自走積卸用コンテナを積んで、積卸の時だけ桁を渡す
ステップカー+自走積卸用コンテナ搭載コキ14両+ステップカー
(ステップカー1両と自走積卸用コンテナ搭載コキ3両の端編成2組、自走積卸用コンテナ搭載コキ4両の中間編成2組で1編成組成)
(ステップカーには予備発電装置を搭載)
これにあかつきソロ28室/両を2両とシングルツイン14室/両を1両、簡易Bコンパートメントと車掌室1両、ミニロビー売店シャワー車掌発電車1両、あかつきレガート(ただしミニロビーなし、シャワー室の水タンク搭載)1両で構成
JR販売分として、スハフ(48席+ミニロビー)+オハ(64席)+オハフ(56席)を1組とした編成を連結
JR編成+カートレイン旅客+カートレイン車載の基本25両と機関車編成・積車換算885tと機関車 東京−大阪あたりのカートレインによる自動車輸送顧客で、家族利用なんか通年で3割程度
家族利用が増えるのは、高速道路連続運転の所要時間が8時間を超える広島あたりから
しかし、広島では12時間弱となり、すぐさま折り返せないから非効率な運用になってしまう
550tに落とせば、11時間弱になるけど弱い
JR九州はお断りだろうから、どれだけ伸ばしても下関
42台(軽だけなら56台)/列車の6割はワンボックスにいろいろ積んだ営業と思っている 国鉄時代から引き継いだ急行用荷物車マニ44の有効利用で自家用車積んだり
オートバイ積んだんだろ。種車ない上にわざわざ新製はせんわな。
貨物も一時期トラックそのまま積むなんてこともやってたがいつの間にか消えた。 ピギーバックの発展形がスーパーレールカーゴなのかな
夜行貨物電車が東海道在来線の歴代最速ってすごいよね >>775
頭だいじょうぶかぁ?涌いてないかぁwww
カートレインはファミリー利用が中心なのに2人個室が全くない
個室は1人用のソロやシングルツインばかりのシングルキモ鉄ヲタが考えそうな事ばかり
カートレインなのに座席車なんて需要ないのにこれは貧乏キモ鉄ヲタに決まっている
今は第二東名高速もあるしカートレインなんて需要ないよ
自分が乗りたいからの自己中心型提案ばかりで笑っちゃう(草
ところでカートレインは車が無いと乗れないけど>>775はマイカー所有してるのか?
フェリーの徒歩乗船底辺みたいにカートレインも車が無くても乗ろうと考えてないか?
だとしたらバカすぎて幼稚すぎて笑っちゃうわwww 文盲の極地→>>784
>定期ブルトレは単体ではまず乗車してもらえない
>だからカートレインとして運転する
まあ日本のカートレインだけは車がなければ乗れなかったのは事実だが 文盲の極地→>>784
>定期ブルトレは単体ではまず乗車してもらえない
>だからカートレインとして運転する
まあ日本のカートレインだけは車がなければ乗れなかったのは事実だが 環境負荷の低減効果が大きいモーダルシフトの一環で登場した
大型トラックを鉄道で運ぶピギーバック輸送も4 tトラック未満に
限定されていたのとETCでの高速料金が時間帯によって値引き
されるようになり、他の要因を含めてピギーバック輸送の需要が
急速に落ち込み撤収も早かった
日本の自家用のサイズも大きくなり排気量1800ccなのに車体
サイズが大きくて5ナンバーから3ナンバーになった車も多く、
狭軌でのカートレインやピギーバックは難しいのかも知れない 車はどんどんデカくなって終いに3ナンバー車は準中型になるんでね? トラックだとキャブの部分がムダなのでコンテナ輸送してるのをわからないとか、、 移り変わりダイヤは黄色のページを見てください
改正前日は運休になっていたり寝台がグレートアップしてたりするから注意して >>791
>移り変わりダイヤは黄色のページを見てください
昔の交通公社時刻表では「全国ダイヤ改正のあらまし」という名称で特集していた
ダイヤ改正前夜に運転される夜行列車はゴーサントオだと号数変更(下りが奇数/
上りが偶数)や行先変更に廃止消滅や季節化/臨時化もあったので黄色いページの
「10月1日発 夜行特急 急行列車の時刻表」として独立して特集していた
ゴーサントオ改正時刻表
https://www.google.co.jp/books/edition/1978%E5%B9%B410%E6%9C%88%E5%8F%B7_%E3%81%94%E3%81%8A%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%8A_%E7%99%BD/L4YT42BjQ1QC?hl=ja&gbpv=1&printsec=frontcover その昭和53年10月改正号なんだが表紙の写真についてのコメントが新幹線半日運休のページにあって、おそらくことわりもなく撮ったものだろう。
JTBや国鉄がベストセラー並みの売上がある本の表紙に盗撮写真を採用していたことになる。
プライバシーや個人情報についておおらかだったこの時代が読み取れる。 >>793
お礼を差し上げるっていう記載だね
街角のスナップに盗撮っていう概念は無かったと思うよ。 >>796
チュッパチャプスと言いたかったのか?
俺的にはポップキャンディ 昭和53年10月の移り変わりダイヤでは紀勢本線夜行普通924列車が天王寺9月30日発車分も「南紀」
として運転された。翌朝10月1日の紀伊勝浦や新宮では新たに誕生した特急「南紀」出発するので愛称名が重複することとなった。
まず間違いや混乱が起こらないケースではあるが 昭和53年10月9月30日に天王寺駅・阪和線ホームへ行ったら
種村直樹とその仲間が合計8人がいて驚いた事がある ちょっと居ただけでいちいち2ちゃんに書き込むやつにもそもそと苦言を呈してみるテスト。 /(((///ノ/ンヽ,, _______________________
f ミ"""'''''''"""ヘ ニヽ /
ト; 二__ニ__ 二 ;ミミ| | ちょっと居ただけでいちいち2ちゃんに書き込むやつにもそもそと苦言を呈してみるテスト。
ト;_,,,,,,__メ __,,,,,,_ ;ミミ| |
f|.-=・=H-=・=~iー6)リ <
'ヒ______.ハ、_____ノ !!| |
f' __,-ムー、_ ` ノ |
ヽ {ィ-==ー-i,} ノ 人 |
\,____,// /~丶_ \
人,_____/ / \  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/|_/又 \ / | >>799
列車番号が違うから運行上は問題ないんだっけ
筑豊本線経由のあかつきと同様 >>803
そもそも「南紀」と「南紀1〜6号」だから列車名も違うよ 普通南紀は寝台券
特急南紀は特急券とグリーン券
・・・という事情もあったのカニ? 普通南紀も直後のはやたまも懐かしい
924レ時代はよく乗ったけど和歌山市駅から
和歌山駅までオハフ45の4924レとして
和歌山で924レに連結して亀山で切り離してた
921レにEF5866が連結されると新宮駅は
バルブ撮影大会でエキサイトした夜が懐かしい 921列車は阪和線内垂れ流し便所は使用禁止の為
降車前の朝糞ができなかった 昔から旧型客車の駅停車中はトイレが使えなかったけど中央線と篠ノ井線の
新宿と長野を結んでいた普通夜行441Mと442Mは汚物処理装置が無かったので
新宿〜高尾間はトイレ使用禁止でトイレに鍵がかけてあった
441Mの入線時刻は21:30と発車2時間25分前に入線するため車内で早々の
宴会を行うとすぐにトイレへ行きたくなるため、代々木よりだとルミネスクエアー
側の比較的きれいなトイレはいつもヨッパ連中で酒臭いトイレだった
新宿駅が最寄の大学に通っていたので鉄研の仲間が441Mで旅に出るとアルプスの
広場へ集合から441M発車10分前まで付き合って一緒に飲んで語り合ったあの頃が
随分懐かしいけど列車のトイレが使えないのはしんどかった >>808
その時代の中央東線〜篠ノ井線の441M / 442Mって長モト車の115系だっけ? 松本の115系は国鉄時代湘南色だったから、中央夜行に運用されてなかったな。 441M・442Mは西ミツ車の115系8B
1977年くらいまで4〜5号車のサハ115は
非冷房で夏場はみんな避けていた
441Mの4分あとに新宿を出る普通夜行の
臨時岡谷行きは旧型車両だったので
非冷房は当たり前だった時代
もっとも大垣夜行の347M・344Mの10〜
12号車も155系だったので非冷房だった
夜行急行といえば八甲田・津軽・鳥海・おが・
十和田・越前・能登・妙高の普通車は旧客なので
非冷房、DCだった出羽の普通車も非冷房でした >>812
本州の10系非冷房ハザ夜行急行は上越新幹線開業の57年11月改正でほぼ置き換えられたな
北海道では残ったけど、さすがに59年には14系に置き換えられたな >>812
とはいえ八甲田・津軽・十和田の座席車は、1979年までに12系化された。 >>812
非冷房でガラガラか。
今なら真っ先に乗るわ。 上野発着時点ではそこそこ乗ってたような。冷房ついたスロは誰も乗ってなかったけど
まぁ夜行だしな。非冷房の夜行、窓あければいいし、暑かった覚えはあまりないな
冬の夜行アルプスの方が混雑と暖房でクソ暑かった覚えがある
>>813
>本州の10系非冷房ハザ夜行急行
なにがなんだかわからんなw >>812
三鷹の115系で冷房車(300番台)と非冷房車(0番台)混結した編成なんて見た事ないな。
300番台投入時は、クモハモハクハサハサハクモハモハクハの8連とクモハモハクハの3連だったはず。
0番台4連に300番台3連併結は定期で走っていたが、300番台の中に1、2両0番台が混ざっているのは記憶にないね。 >>816
非冷房車で窓を開ける場合は垂れ流しトイレの位置を確認しておかないといけない 441M・442Mの115系は4M4Tで甲府盆地の摺鉢を上り下りしていたのね
もともと2M3Tだった211系を4M2Tで贅沢に(?)使っている今とは偉い違い
そういえば今の中央東線の普通列車って表定速度高いよね 北海道の旧客時代の便所状況が知りたい。
垂れ流しだと下開いてるから、冬季は寒くてウンコでしゃがめなかったんじゃね?
ションベンなんかツララ状になって排出口にぶら下がってたんじゃ? 余談だが銀河鉄道999は車両が旧客スタイルなだけあって、まるで国鉄時代の旧客が如く、
連結部の幌の下部に破れ目が有って車両下の宇宙空間が見られるという描写が映画であった。 >>814
旧型客車で運行されていた急行「十和田」下り2号/上り2号は
1977年10月1日付で一部改造20系客車に置換え、因みに
「十和田」下り1号/上り3号は1976年10月1日付で14系座席車
に置き換えられている
因みに急行「津軽」下り1号・下り2号/上り2号・上り1号の
座席車は1978年10月2日から12系座席車に据え置き変更 昭和57年夏、仙台新潟行きの急行は冷房付き20系になってるのに、未だ高い寝台料金払って非冷房の10系寝台に寝かされる北陸方面のニキ達はどう思ったんだろう? なにも思わないだろ。10系ハネ、そのころにはとっくに冷房化されてるから >>826
通路に折り畳みイス有無の違いだけ。
それより昭和57年夏は、上越新幹線開業で旧客急行が無くなるのが必至だったので、
お別れ乗車でかえって人気あったろう。 >>826
10系寝台車も冷房改造済みだっただろ。ナハネ10からオハネ10になってるし。 オハネ10はないだろ
ナハネ10は全車緩急車改造後に冷改でオハネフ12 うげ 大ボケかました。
オレも歳だ。逝ってくる。。
スハネ16 オハネフ12だ。あの外板ベコベコ
だけど冷房積んでたんだな。モノコック構造
でよく重いエアコンを支えてたもんだ。
そうだよ座席車だけだよ非冷房は。 >>812
1975年の東京圏 国鉄冷房率(当時は線区別に新聞やTVニュースで毎年発表)によれば
関東圏の国鉄冷房率(優等列車除く)100%は国電では中央線特快と中電の横須賀線のみが
100%で山手線・中央線快速・京浜東北線は前3両と後3両が冷房で真ん中4両が非冷房なので
95%前後が多かった。東海道線は静シス113系や一往復のみ運行されていた80系電車に
名カキの165系・153系・155系ミックス編成(155系のみ非冷房)の影響で100%ならず。
1975年夏の中央夜行441Mや442Mも冷房率が低くてサハ115以外にも非冷房車が混じって
いたけど1977年については詳細不明。旧型客車の件だけど1976年2月19日までは急行銀河が
10系寝台(A寝台とB寝台)にスハ44やスハフ43の旧客ハザも連結していたよ。 >>684
急行新星のオク20系は、数少ない汚物処理タンク装備車だったんかね
上り仙台駅での長時間停車中に、酒飲んでると思われる客複数に便所を使われてたら最悪だな
装備してなかったら、ホームの便所使えとアナウンスしてたのかな ホームで寝台状態で何時間停車とか置き引き大丈夫だったのかなあ
ってオレは5歳くらいの時今にして思えば軽いてんかん発作だったんじゃないかと思うんだが、世の中がやたら怖くなって母親にしがみついて収まるのを待つ事が何回かあった。その
せいかある種の物事への怯えのような物があって、寝台車という響きが、死んだ、車に聞こえてやたらと怖かった。でもそれの実物が深い青に白帯に赤いテールランプという20系の荘厳さと死というものの荘厳さ混じりあって不思議な気持ちになったものだ。 初めての寝台列車で置き引きらしき人に気付いて離れた場所で車掌に告げたが、コミュ障の中学生でうまく伝えられなかったこともあり、相手にされなかった。
でもあれは置き引きだと今でも思っている。 1976年10月1日から北オク20系になった急行"新星"に汚物循環処理装置が
付いていたのかは不明だけど20系は1976年10月1日から特急"ゆうづる"の
客車が20系から24系へ変更になった"ゆうづる"20系(盛アオ車)余剰車
なので"ゆうづる"20系時代に汚物循環処理装置が付いていたかは不明
この時代だと南シナと大ムコ以外に汚物を吸い取る装置はなかったと聞く >>835
>>836
上り急行新星の仙台駅入線は発車時刻の1時間半前ですよ
何時間も前から入線はしてないのでお間違えなく 朝6時まで寝台を使ったら払い戻ししないなんて決まりあるけど変な決まりだな 上野で乗りこんで翌朝6時に目覚めたらまだ大宮で
そのまま運転打ち切りになったら、乗車券と急行券は払い戻してくれて無料で上野まで戻れるが、寝台券は払い戻してくれない。 >>843
1冊目の本、小学館こども文庫(にしては大きいサイズだけど)の本か
家に転がってるのをさっき再確認した いずれにせよ上野〜仙台間は寝台利用するには身近すぎる
北星の上野〜盛岡でも短いと感じたもんな
寝台列車は仕事が終わって一旦帰宅してから着替えてからも
間に合う21時台か22時台に乗車して朝8時前後に下車するのが
ベストなのだと思う
3段寝台だとこれより早く乗って朝は遅くなると身を置く場所が
なくなるのがつらいわな >>845
東京〜大阪の夜行列車が廃れたのも、新幹線の最終が21時20分頃ってのも理由の
一つだろうな。出先からなら帰宅出来るし、出張ならビジホに入れるし。 灰谷健次郎の作品だと明星1号?だったかが出てたな
神戸のどこかで入場券払わずに改札突破して逮捕された兄を迎えに行く話 あさかぜなどはとても一旦帰宅してから乗れる
時間じゃなかったけど、瀬戸内沿岸の工業地帯への出張のサラリーマンがよく乗ってたなあ。
朝飛行機の始発乗って空港バス乗って別の鉄道バスに乗り継いで工場から迎えに来てもらって、なんてしてると昼過ぎになってしまうから
朝着いたら直ぐに動けるあさかぜ重宝された
のだろう。そうしたサラリーマンの人達も
今は定年過ぎて悠々自適?かな >>845
583系なら問題なかったぞ
二度寝せい最高の贅沢や >>849
博多あさかぜ
東日本の車両が九州まで行っていたとか今考えると凄いわ >>851-852
大昔には青森から長崎までの超広域運用もなかったか? >>853
門ハイを出区して長崎〜大阪〜青森〜大阪〜長崎と戻り門ハイに帰区するのは5日後のロング運用
14系14形
(早岐)----長崎---「あかつき」---大阪---「日本海」---青森---「日本海」---大阪---「あかつき」---長崎---早岐 >>849
鉄オタと違って一般人は全員が始発から終着まで乗るわけじゃないんやで >>849
あさかぜ1号の利用客は殆どが広島県か山口県までの乗客
何でも始発駅から終着駅まで乗る鉄ヲタ的な考えは捨てないと
社会では生きれないよ もう社会のつまはじき者になってたりしてw >>854
凄いよな
途中でゲロ吐かれたらどうすんだよ あさかぜは博多着は現地で朝から仕事するには遅すぎるね
そういう需要は1列車のさくら
A個室から朝の瀬戸内海を楽しむのがあさかぜ1号
なんでオロネ25-0(700)だけ通路が山側なんだろう?出雲だと日本海見れないし 機関車のヘッドマークて取り替えたりするのが大変なのか
なんでブルトレブームのときヘッドマークつけてなかったのかわからない
置場所がなかった?汚れて洗うのが大変?鉄オタへの嫌がらせ? >>859
それこそ労働問題激化のあおりも食らったねヘッドマークの扱いは
東北ブルトレは他より先にマーク掲出やめたり関西でもやめた後まで残った東京機関区と区所での差もあったが
(SLブーム時の急行安芸でもマーク作った糸崎と折り返し作業に関わる広島とで温度差あったくらいだが) 常に定時運行してるならそんなに大変ではないかもしれないが、ブルトレがブームになるとヘッドマーク盗難とかの管理にも気を付けないとならなかたっりするからねぇ
組合の力か強かったところだとヘッドマーク付けない傾向が強いイメージあった 70年代後半の写真見ると急行なのか特急なのかわけわからん。急行津軽はりんごのヘッドマークがあったが使ったのか。 >>860
糸崎区は岡山局で広島区にしてみたら余所者が余計な物を作ったおかげで
手間が増えてしまったてなもんでしょ >>862
定期夜行急行津軽のりんごヘッドマークは1990年8月だよ
14系座席車末期の津軽でヘッドマークはPFのみ取り付け 1981年頃の旧客時代の鳥海乗車ルポがJtrain
に掲載、小学4,5年と思われる女の子が学校の名札付けてお母ちゃんと旧客ハザのボックス座席に乗ってる。窓は隙間風が酷くて新聞紙詰めてる。いたいけな女の子でどうかこの子に幸せ
になって欲しいと願うが、さて考えてみると、
この子の実際年齢はオレと二、三才しか変わらんじゃん。オレも歳とったか。 福島で上り八甲田から下り津軽に乗り継いだのも30年以上前になるのか・・・
確かJR発足して東日本全線乗り放題パスだったかの時? >>867
違った上り津軽から下り八甲田だった。新庄から乗って福島乗り換え一ノ関へ向かったんだっけ 急行津軽と急行八甲田の廃止(臨時列車化)は1993年12月1日から
急行津軽の14系は1990年8月31日までで、翌日9月1日から583系
しかし1992年7月からは485系に変更
やっぱり夜行列車は機関車が牽引する客車の方が風情がある
電車化や気動車化したグループもいて名称が変わった列車も少なく
なかったけど萌えないんだよね
利尻、大雪、まりも、津軽、妙高、能登、きたぐに、だいせん、かいもん、日南 客車でなくても夜の上野で出発を待つキハ58なんて今考えると鳥肌もんだ 旧客車の車軸発電機のプーリーベルトが軸受側に設置しなかったのは既存台車のまま標準軌改造出来るようにする為だったらしい。 >>869
今となってはだが客車津軽の最終日は90年8月30日発で31日発は移行ダイヤで583系使用の板谷峠経由だった
ンで31日に上野着だった客車の最終上りは黒磯以南のPFに赤いりんごデザインの津軽マークつけてた(30日発の最終下りは岩木山とリンゴのマーク) >>870
定期夜行急行での気動車は急行出羽があったけど臨時ではキハ58、キハ28、キロ28で組成した
夜行列車が上野駅を発着していたのが懐かしい。JR化後だと1989年と1990年に臨時夜行快速で運行され、
オールグリーンだったエレガンスこまちが最後だと思う 東北線・陸羽東線・奥羽線経由で寝台特急
あけぼのが陸羽東線経由になる前で話題にもなった
http://blog.livedoor.jp/railart/archives/4884913.html 上野発着のディーゼルカーは急行おが1号もあったな
高校の時にワイド周遊券で秋田まで行くのに乗った事がある
1982年11月で廃止になったけど10時間弱もキハ58に揺られて
秋田まで行ったけど急行なのに福島や山形で5分停車や
新庄の6分停車などがありあまり退屈しなかった事を覚えている 男鹿発急行「おが」のB寝台車の自由席開放の上段で寝て帰ったのは思い出だなぁ
はしごないから、はしごを引っ掛けるバーから懸垂で上り下りしてた。車掌が
危ないから下りなさい!と言ってきたが無視してた。元祖ゴロンとシートだ。 >>875
上り夜行急行おが(6402列車)の男鹿〜秋田間は快速8134列車だよ
A編成:男鹿18:30(快速8134列車)19:41秋田
B編成:大舘18:20(急行6402列車)06:22上野
秋田でA編成とB編成を連結してから上野へ向かった
1980年10月1日から14系座席車のみとなり、1983年7月から20系(
津軽の20系とおがの14系を交換)になって1993年夏臨は24系寝台と
14系座席車で運転 >>874
1980年12月号の時刻表だと
福島11時27分着、11時29分発
山形13時20分着、13時22分発
新庄14時26分着、14時34分発
になってる
1981年10月号も同じ >>874
1972年4月号だと
福島11時20分着、11時24分発
山形13時15分着、13時20分発
新庄14時23分着、14時29分発
になってる
ここらあたり? >>876
「おが」の大館編成は記憶にないな。いつ頃の話? >>876
1981年8月号を見ると臨時列車のご案内のところにおが4号が載っていて
9614レ大館18時14分発と6404レ男鹿18時31分発が秋田で併結されて6404レになるように読めるんだけど
それは早合点
一番下の運転期日欄を見ると
男鹿発7月16日→8月15・20→31日・9月10→15日と秋A運転
大館発8月16→19日運転
となっている
つまり普段は男鹿始発で運転だがお盆ピークの間だけ大館始発で運転するってこと 誤 6404レ男鹿18時31分発
正 8134レ男鹿18時31分発
すいませんです >>877
>>878
1974年のおが1号だよ
確かゴールデンウォークだったと思う
上野7:10、黒磯9:29-32、郡山10:39-41、福島11:20-24、
山形13:15-20、新庄14:23-29、秋田16:58
米沢駅にも2分停車してお昼に駅弁の牛肉弁当を買って食べた
福島駅は5分停車でなくて4分停車でした
当時は特急つばさ(キハ181系)でさえ、福米の板谷峠では
EF71の補機を連結していたのに急行おが1号は補機連結は
ないため、板谷峠の38‰区間は速度が遅かったです >>879
>>880
1977年か1978年の旧型客車や10系寝台の急行おがです >>883
ちゃんと運転日確認してみ
運転日によって始発駅が違うだけだから >>885
大垣夜行のことだろ
A寝台とB寝台が一両ずつ からまつ、はやたま(旧南紀)、山陰、ながさき には乗ったけど一番乗ったのはからまつで
小樽21:16発>>釧路9:30着の423列車が使いやすかったし、釧路までの乗車だと寝坊もできた。
特に帯広駅で士幌線(帯広〜十勝三股)や広尾線(帯広〜広尾)に乗り継いだり、白糠駅で
白糠線(白糠〜北進)に乗り継ぐ時は大切な足でもあった。
急行狩勝に自由席が連結されてない時代だったので からまつ は札幌圏と十勝・道東エリアを
結ぶ夜行列車でもあった。10系寝台2両と普通車(自由席)のスハ43系客車4両に郵便車や
荷物車を連結して札幌、滝川、富良野、新得経由でED76とDD51がリレーして運転。 寝台車つないでる客車夜行普通列車は愛称がついてるという認識
寝台は自由席にできないからね
のちのち座席でも指定席の普通(快速)列車が出てきたけど 寝台であれ座席であれ、指定席があれば愛称がある。マルス導入に伴い愛称が必須になった。 札幌駅で小樽始発の夜行列車に1時間以上前から並ぼうとしてた大学生らしき女性グループに、桑園駅まで行ったほうが席をとりやすいよとアドバイスした
礼を言われたが、今度は彼女らがきちんとそのような行動できるか不安になった、逆に乗り遅れなかっただろうか、アドバイスしたことを後悔した 今だったら桑園は島式ホームだから階段使わず降りたホーム向かいですぐ乗れるんだけどね >>985
下り「からまつ」だと札幌駅や厚別駅くらいまでハザで飲んでから寝台に行くから
小まめに停車する普通列車の10系B寝台車でも気にせず朝までぐっすり寝れたよ >>891
逆に上りからまつだと砂川駅で歌志内線や砂川支線、
砂川駅で万字線や幌内線へ乗り継ぐことが出来たな >>898
JTB勤めてる子が言ってたけど、バザは指定席の意味で自由席はハフというらしい。 >>900
万字線・幌内線へは岩見沢駅の書き間違いだろうと指摘しておくw
それから追分に出て、夕張・登川へも接続良かったのでは?
あとからまつの砂川到着はAM3時か4時台の寝過ごしそうな時間帯で、
接続は1時間以上の待ちだったような。 >>902
万字線・幌内線への列車基点は岩見沢駅でした
訂正ありがとう >>901
自由席=ハザ
指定席=ハザシ
だよ
>>902
からまつの砂川発時刻は時刻表1978年7月号によれば
4:11なので寝過ごす可能性は大きい どうでもいいけど、
ハフは団券の用語だよ。
現場によって異なるし、統一する必要もなかったんでねぇの。
ノリホの書式はロザ、ハザ、ハだったり、ロザ、ハザ(シ)、ハザだったり区所により違った。
客貨車区では指定・自由の区別なく3等座席車はハザと呼んだ。
単独で使わなければ、何でも通じるよ。 グランクラスはエーザ(良い座席?Aザ?)らしい 謎だ ハザ、ハザシ、ロザ、ロザシ、ハネ、ハコ、ロネ、ロコ は
電略(電報略号)で使われていたが最初だったと記憶している 妙高9号に憧れる
漫画のすくらっぷ・ぶっくに出てきたんだよなぁ >>913
妙高9号は301列車かな?旧客末期でもA寝台1両(オロネ10)と
B寝台2両(オハネフ13やスハネ16)が連結されて普通車はオハフ
45、オハ46、オハ47、オハ35系、などが連結されていた
ゴーサントウ以前の301列車は妙高5号だったけど 妙高9号か、懐かしい。
妙高5号時代はオロネ、スハネ、オハネフ各1両だったけど、妙高9号(53.10以降)はオロネをオハネフ2両で挟む感じでスハネの記憶はない。
私は座席車ばかりだったけど。 >>913
その旅の中で出てくる奥入瀬渓流の件、
自分が初めて訪れたとき、玉簾の瀧を探しましたよ(笑)
理美に似ていたあの娘、元気にしてるかな? 自分が昭和55年秋に乗った急行妙高9号はこんな編成だった
オハネフ13(Bネ)
オロネ10(Aネ)
オハネフ13(Bネ)
オハフ33(自由席)
オハ35(自由席)
オハ46(自由席)
オハ47(自由席)
オハフ33(自由席) 中央線や上越線の115系夜行は荷物が多い登山客への配慮からなんだな
165系を使うと座席数が増えるが荷物を置く場所が減る
繁忙期に新聞紙を床に敷いてごろ寝する客が多発するデメリットも潜在してた 165系の夜行急行が走っている以上115系になってしまうのは仕方がないさ サハシ165のビュッフェ台が最高の睡眠スペースだったとか、いつの時代の話だっけ
489系能登のラウンジソファー、その目的で使ったことはない(喫煙スペースだったっけ) >>922
営業廃止後、冷房電源車として残っていた70年代後半あたりかな >>918 北アルプス行くなら165系夜行急行アルプス、富士山や甲斐駒、南アルプスなら115系夜行各停と使い分けされてたんだけどな。 夜行列車って電車や気動車、窓の開かない客車はつまらないよ >>924
概ね同意、だけど、富士登山者は見たことない。どこまで乗ったのだろうか?
酔っぱらいが下車した後は、登山組の甲府(南ア)、小淵沢(八ツ)、茅野(〃)、上諏訪(南ア?)でまとまった下車があった記憶。松本、長野まで乗るのは鉄ヨタとビンボー学生。 >>922
俺は有るなぁ。やっぱ座席に比べて楽だった。 >>926 富士山吉田口のルートで東京から夜行日帰りで富士山頂まで往復できた頃の話
大月で下車し富士急の深夜臨時で富士吉田へ。吉田口砂走の落石死傷事故で夜行日帰りができなくなった。 >>922
急行アルプスのサハシ165連結は1982年11月14日まで
急行佐渡のサハシ165連結は1978年10月1日まで 115系の夜行は、スキーでよく利用しました
上諏訪行のころになります(その先は165系で松本へ、115系で大糸線へ)
日帰りも実施(白馬1630過ぎの上りに乗れば、新宿まで普通電車で戻れました)
夜行ですが、高尾までで酔っぱらいは大半おりるが、高尾で後からの特別快速に接続
まだ結構人がいる
その後は順に通勤客が下りて、大月で基本夜行客ばかりになるかんじ
甲府で大停車、何か調達する人が多かったです
12月下の金夜(土曜00:02発)は大混雑、6両が9両になったこともありました 中央東線夜行441M長野行きは八ヶ岳方面の登山者利用が多くて441Mの待合所だった。
新宿駅のアルプスの広場の先頭集団は毎回クライマーやハイカーグループの大きな荷物が
4時間前くらいから置いてあり、すぐにそれを分かったものである。
441Mの小淵沢着が5:01で小海線の始発列車に乗り換えて山を目指す人が多くて小淵沢を
発車すると車内も空いて中には茅野駅や上諏訪駅で降りて蓼科を目指す人もいたようだ。
大糸線方面のスキー客は南小谷、信濃森上、白馬行きの急行アルプスを選ぶ人が多く、
自分はスキーより大学の緩いスポーツ系サークルの夏合宿で毎年夏になると新宿駅から
夜行急行アルプスで仁科三湖のキャンプ場で1週間程度のキャンプを楽しんだ。夏合宿と
言ってもバトミントン同好会なので練習はせず、湖畔でBBQやキャンプしながら飲んで
語っただけのユルイ夏合宿だった。 >>929
急行佐渡のサハシは78年10月改正まであったか?
181系ときに食堂車が外され、サロとの凸凹編成になった時は、既になかったような。 >>932
佐渡用165系のサハシ非連結&サハの連結位置変更
とき用181系のサシ非連結&モロからサロへの変更
2つが同時並行で進んだ感じじゃないかな?
ARC資料館だと165系の方の変更は6月に完了してるみたいね TBSチャンネル2
「#5 寝台特急紀伊殺人行」(1984年)
7月19日(月)0:10〜1:50
TBSチャンネル総合 Part1032
https://himawari.5ch.net/test/read.cgi/liveskyp/1626533618/ 松本電鉄の早朝便もうないんだな。予約制のバスが5:30に出るみたいだけど >>935
夜行があった頃はさ、早朝に上高地線のホームに行くと西口外からタクシードライバーが「1人3000円」とか言って相乗り勧誘してたな。 上高地は息子と娘が小学生の頃は家族旅行でよく行ったけどマイカーで中央道を
ドライブして沢渡駐車場にマイカーを停めてからシャトルバスでの移動が殆どだった
上高地を歩いて感じてBBQしたりして、大正池ホテルで迎えた朝は最高だったわ お爺ちゃん、ここはそんな個人的な思い出を語る場所じゃないよ 夜行列車スレでマイカー沢渡に停めて上高地にいったことを語るバカ発見 俺は大阪なので信州方面は急行ちくまの利用が多かったけど
結婚して子供ができるとどうしても車利用になってしまう罠
客車ちくまの最終日は田端運転所のEF65 1019が牽いた事もあった 松本電鉄の早朝便乗ったところで新島々で乗り換えだからな
ならバスで直接上高地という流れになるのは自然だろう >>942
> 松本電鉄の早朝便乗ったところで新島々で乗り換えだからな
> ならバスで直接上高地という流れになるのは自然だろう
そうじゃない。あのアルピコは電車誘導。電車走らす程の客が見込めないからバスにしただけ。 >>941
1990年台はEF65-1019が牽いた夜行列車が多かった時期
あけぼの、津軽、八甲田、北斗星トマムスキー、夢空間関連、
銀河、出雲、臨時銀河、ちくま、など
1019ちくま撮影に行きたかったけど山田線での御召列車の
乗務員ハンドル訓練(DD51842+旧客5B)を優先しちゃった 嘘だァ PFの運用は北は宇都宮、西は東機の
PFときれいに決まっとる。貨物は田端のが
ウロチョロしてるがな。だいたい上野東京の回送線とっぱらっちまったからそんな北西跨る
運用したら面倒くさくてしょうがないだろ。
いちいち山貨回送するんすか? 宇都宮PFの
引く出雲とか銀河とか妄想っすか?風邪の熱で
うなされてるんすか?
貨物もなあ ただの四角い箱の60とか65とか
だからつまらん。強いていえば1つ目の60 0
やブルトレ塗装一つ目の60 500とかがまだ
味わいあるけどな。まあいつまでもあるわけじゃないからヒマん時に武蔵野線に撮りいこう
かと思うんだが面倒くさくてなぁ 西の60 65と言えば東機 新鶴見から始まって
稲沢ってのもあったかな。次に宮原、広島
もあるかな?あと下関。だいたい東京駅にブルトレ見に行くと、どれかに下関のピカピカの
1120番台1130番台が入っているのが高確率である。一瞬おっ?と思う。なるほどまだ新車の
艶もあるわいちょっとカッコイイとおもわんでもないがまあ所詮PFだしな ただの四角い箱。
年に一回くらい九州行くのにあさかぜとか乗ってるとまあ、貨物が多いね。さすが東海道。
夜中だけどピーーーって音が外に響いてるなあ
と思うと、65?60あたりの一般型らしきのが
ヌッ と一瞬顔だしてすれ違っていく。大して
時間経ってないのに 数分後またヌッ。またヌッ。 でそのヌッも気をつけて見てると、上りのさくらとかはやぶさだったりするから気が抜けない。貨物と違って深夜室内灯の明るさ落としてはいるけれど、すれ違ってる最中明るいね。そしてもうすぐすれ違い終えるかなー
と反対側見てると、ブルトレの青に赤いテールランプと白いテールマークが、ヌッて現れて
スーーーとあっという間に去って行くんだ。
あっちは夜が開けるとさっきまでいた東京に
戻るんだなァってね。 まあ 貨物のヌッ ヌッ
はどうでもいいんだけど、これがあるから気が抜けない。って早く寝ろよ。 JR化後は田端でしょ。彗星も瀬戸もそう。九州ブルトレが下関の66だったから、その距離分を
返すために田端PFが稼いでた
JR化後、しばらくはその運用は元東機のPFばかりだったけど、90年代中ごろからPF初期を
廃車にすることになって、使いつぶすために東海道、山陽運用にも入るようになった 東北夜行にPF初期型を担当させていたのは距離短いからか。電車化と廃止と先が見えていたから窓際族か。 そもそも田端運転所って電気機関車はEF80やEF81しか配置がなくて
田端の担当は優等列車だと客車ゆうづるや十和田が中心で常磐線ばかり
唯一EF81東北線の運用は東北線〜水戸線〜常磐線経由の貨物しかなったよ
あけぼの、八甲田、津軽、急行荷物列車、他臨時の直流電機は宇都宮
運転所のEF58やEF65PFが牽引するようになったが宇都宮運転所が電気
機関車の配置がなくなり、乗務員だけの区になるとEF58の殆どが淘汰されて
田端運転所に集約された
>>945
出雲や瀬戸は通常旧東京機関区のPFを使ってたけど1990年〜は旧宇都宮に
いた若番PFの1028号機などが牽引した実績もあるよ ああ貨物列車スレの爺さんか
ここまで侵食してんのかよ
迷惑な話だ 国鉄の頃に山之内さんが[東]を実質廃止(動力車無配置化)して
一旦は[新]に移籍→民営化時の棲み分けで[田]に再移籍したけれども
[新]に取り残された1096・1097以外の[東]新製配置組はずっと品川常駐でしたよね
だいぶ経ってから同じ[田]でも他からの移籍組が品川常駐になったりして
デカパンの1052・1053あたりが出雲を牽いているのを見た記憶があります >>954
東京機関区が新鶴見機関区になった時はショックだったよ
やはり東京機関区の機関車は[東]区名札が似合っていたし
[新]や[田]の札だとピンと来ない
新鶴見機関区時代に新鶴見信号所近くのPF若番が出雲や瀬戸を
牽引してくれれば面白かったのにと思う
東京発着ブルートレインはPもPFもロイヤルエンジンの
EF5861も東京機関区札がよく似合ったよ >>954
山之内さんに対して、あれだけ悪態をついたんだから、廃止はしょうがない。日経新聞に、廃止を指示したと書いてあった。 EF65はあの箱型がいいんだよ 真面目で地味な昭和の働き者 >>959
それ0番代にしか当てはまらないだろ
123号機だけは恵まれた えっ?
ていうか
はぁ?
PF の方が酷使されたイメージ 123号機ってゆうゆうサロン瀬戸内の専用機でしょ?
なんか専用機とか色ガマはネタっぽくて好きになれないのは俺だけ?
EF65はPとFの特急色にPFの宇都宮に居た若番が好きだけど
どうもパンタがPS22Bにスノウープロウ台座丸出しでナンバープレートを
ステンレスエッチング加工したPF後期はあまりいただけない
しかし東京区のPFブルトレ運用は華があって恰好よかったけどな >>961
PFは東京〜九州ブルトレ牽引を7年足らずで退いた。
その前に13年同区間を担当したPの方が酷使されたのでないか。 EF65形500番台(P)やEF60形500番台は20系客車と意匠を合わせた塗り分けを
採用して特に両端面の窓周りを含んだ上部とそれを結ぶように上下にクリーム色の
細帯を配するデザインは特急色と20系客車とのバランスも取れて美しい
当時はまだ鉄道無線も未完備でEF65Pに20系客車との通話用としてKE59ジャンパ
連結器の取り付けがあったのも花形寝台特急の牽引機関車らしい >>963
そうでしたか失礼しました
PF世代なのでP型の活躍期間について知識が不足していました 1970年代すでにEF66が活躍していたのにブルトレを引っ張らなかったのはなぜ?
国鉄は「富士」や「さくら」といった日本の看板列車をスピードアップする気はなかったのか? 1985年にEF66が九州ブルトレを牽引するようになった理由と、大きく関わるんだろうとは思う
ロビーカー連結で、PF牽引のままでは今までの速度を維持できなくなったのと、
貨物削減でEF66に余裕が出来ていたことが、当時抜擢された理由だったっけ EF66に変わった理由はロビーカー連結でEF65では出力不足になったからで
スピードアップが目的ではないんだが そもそもロビーカー連結されるまではセノハチでも問題なかったからな WikipediaによるとEF66も20系牽引対応設備持ってるらしいね
それに塗色といいヘッドマーク掛けも最初からあったからゆくゆくは寝台特急牽引の可能性も考えてたのかも その装備があるのは20系のためじゃなくてコキ10000のためだけどな 66がブルトレ牽引するようになった時は子供だったから、貨物牽引機がブルトレ牽引するのかよと思ったくらい。
RFの少し前の記事だと、ロビーカー連結することになり、
スジを寝かす
客車を減らす
牽引機を変える
の選択肢があり、スジを寝かすことはただでさえ時間がかかる九州ブルトレにはそぐわない。
客車を減らすは当時の乗車率からは難しいからとあった。
66に余裕ができたも、理由らしい。 高速貨物列車の牽引にも編成増圧装置は有効
ヘッドマークもあるしな EF65が足りなくなったというのもあるはず
EF58が晩年にもかかわらず駆り出されてたくらいだし ない。国鉄改革でヤード廃止、荷物列車廃止で機関車にはかなりの余剰がでた
10000系も鮮魚が衰退してコキも50000系の方が使い勝手がいい、そっちは65でも牽けるから
66を捻出してブルトレに充当した。まぁそのあとやっぱりコンテナの速度向上で66は必要だったん
だけど。だからあの時以外、66が余ったことなかったんだよね >>968
66化後でも糸崎だかでバカ停していたし。表定速度はかわらず。 >客車を減らすは当時の乗車率からは難しいから
80年代前半でもそういう判断が下されたのか・・・
あの国鉄が3レだけ1両増やすなんて面倒よくやるな
1レから9レまでぜんぶ南シナだからできるのかなと当時は思っていました 夜行列車の終焉が見えてきた頃
鉄道ジャーナルで車内の客層を見たが一目瞭然だったぞ
2000年前後はヲタと年寄り
1980年代はビジネス利用も多かった >>977
東京〜九州ブルトレは、国鉄の看板列車としてたからな。
1975年3月以降、食堂車営業とヘッドマーク取付が東京発着のみだったのもある。
また長距離乗車だと価格面でコスパが悪くなかったのもあって、テコ入れのため
「はやぶさ」に白羽の矢が立ったのだろうな。
EF66牽引を機にスピードアップもされた。なので>>968は最後が間違い! 国鉄時代の寝台利用人員推移
ttp://pbs.twimg.com/media/DaMaNdmVwAAW3nh.jpg
データ:成山堂書店『日本国有鉄道 民営化に至る15年』 東京ー大阪ー博多間をサンライズのシンデラ&ツインだけの編成走らせたらどれくらい需要あるかな 87系気動車「京都〜下関だけでも抽選販売になるくらいぎょうさんおるでぇ」 思い起こせば80年代前半なら
この時期になるとごく当たり前に8011レも走ったもんな
当時すでに60〜70年代をよき時代的に語る記事があったけれども
80年代もよき時代だったんですね あーやっちゃった(´TωT`)
60年代から70年代 84年に貨物が大改革されたてEF66が余剰気味になったのと、翌年改正に備えて分割民営化に向けてのブルトレのイメージアップを図ったのが重なったな。
しかし代々新車の機関車が投入されてきた東京口ブルトレに、10年以上の中古品が導入されたのも国鉄の行く末が投影されていたな。 ダイヤ上はスピードアップしてないが、PFでは一杯一杯だったのが66だと名古屋3分早着になることもあったとRF誌の乗務員回想記で読んだな >>962
自分も色ガマやネタ系は興味なかったけど北斗星のDD51が
青く塗り変わったのはショックだった
>>967
貨物削減でEF66を有効活用するためとネコ・パブリッシングの
「国鉄名機の記録 EF66 (NEKO MOOK)」に書いてあったと思う
確かPF牽引に比べて通客速度種別がアップしたと思うが未確認 80年代前半14系の2段寝台化が行われ客は減ってたはずだから1両の減車ぐらいできたのでは
70年代後半から20系の24系25型化、あさかぜや安芸の廃止、急行の廃止で全体の定員はかなり減ったはず
逆に定員が減ったから減車できなかった? >>979
いや、目的ではなかったは大体正しいだろ。
結果スピードアップにはなったけど、それはあくまでも副次的な効果であって、第一目的は増結やら、66の余剰活用だからな。 >>979氏が指摘しているように、九州ブルトレは国鉄の看板列車という位置付けだったと思う。
最盛期に比べれば陰りが見えていたけど… ブルトレブームのころだって実際は当時の子供が東京駅や上野駅に写真撮りに来てただけで
実際の利用率は大した事なかったんだろ >>990
本格的なスピードアップは1985年3月の66置換えとは別の1986年11月改正だった
スピードアップが本来の目的なら1985年3月に66置換えと同時にやってるよね
1984年2月改正
1レ 東京16:30→長崎11:52・佐世保11:33
3レ 東京16:45→西鹿児島14:38
5レ 東京17:00→熊本11:23・長崎12:15
7レ 東京18:00→宮崎15:44
9レ 東京18:45→博多11:32
1985年3月改正 ※EF66投入
1レ 東京16:35→長崎11:15・佐世保10:59
3レ 東京16:50→西鹿児島14:11
5レ 東京17:05→熊本11:05・長崎11:54
7レ 東京18:05→宮崎14:59
9レ 東京18:45→博多11:04
1986年11月改正
1レ 東京16:40→長崎10:40・佐世保10:27
3レ 東京17:05→西鹿児島13:34
5レ 東京18:05→熊本11:09・長崎12:06
7レ 東京18:20→宮崎14:28
9レ 東京19:05→博多10:51 >>992
そんなことない。ブルトレブームの時は、全然切符取れなかった
2000年代はヲタすら乗ってない
富士はやぶさの時は東京駅で降りて着回しの66を見てたのは3人だけだった
そりゃ無くなるよ >>993
大幅スピードアップではないか
もっと早く置き換えていれば富士のような24時間超えの不格好な列車を解消できたのに
上りの「さくら」と「はやぶさ」の時刻を入れ替えていれば「はやぶさ」は2編成で運用できそう >>996
> そんなことない。ブルトレブームの時は、全然切符取れなかった
子供が乗れるような日はな 祝日すくなかったし土曜日は学校だったからGWがどうにか3連休あとは盆正月だけ
それか土曜日の夜行で出かけて新幹線でトンボ返り このスレッドは1000を超えました。
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