栗原電鉄・くりはら田園鉄道
26です
俺が若柳で署名したのは1987年
1993年の欠損補助制度打ち切りが廃止の噂の出始めじゃないの? >>37
廃止の噂が立ったから署名活動が始まったと思うが?
時系列がおかしくね? 何度か署名運動やってるんでは?栗原電鉄が鉄道事業廃止を表明したときと、三セク化後完全廃止する前と。 >>37
国鉄赤字ローカル線を起源とする第3セクター私鉄の財政支援が開業後10年で打ち切られるのに
既存の民間鉄道がダラダラといつまでも支援を受けられるのはおかしいという論調が勢いついて
打ち切られてしまったんだな
野上はこれで命脈を絶たれた 野上と栗電が一緒にされたのは甚だ心外
あっちは明らかに経営の怠慢だろうに マインパークのこと、私の物の公園だと思っていた。
マインが鉱物とは・・・
マインズとSがつくと地雷のことなんだよね。
あな恐ろしや。 >>45
いまやってるコロナ禍の中小企業向け助成施策なんかもろにそれなんだが。 電車をやめてDCに切り換えた効果はあったのかい?
狙ったのはランニングコストカットだが、
電車ならではの良さもみすみす手放したわけで。 昭和20年代は石炭の値段高騰で電化の方が安く上がったそうな。 栃尾、下津井なども同じ理由で電化に踏み切った
変電設備などの投資も必要なのにそれでも電化を選択するほどに石炭が高くついていた時代があったのね >>54
多分だけど、石炭で運行を続けられるだけの分量を確保するのが難しかったというのもありそう。 国鉄から直通列車が乗り入れてきてたが
好評だったの? 昭和50年代までは各地の地方私鉄に期間限定の乗り入れ列車がありました >>59
栗駒フラワー号は1979年まで
この年に発売された私鉄大百科には栗電の紹介文で触れられている
田鉄公園公式ページにも当時の資料がアップされている でも存在感なかったね 不思議
あのスタイル、模型ヲタはドハマりすると思う M15より出番が少なかった、増結が無くて常に1両で走ってた、あたりがM18の地味さの要因かねぇ。 すまん。ちょっと検索かけたら、M181に何か付随車つないでる写真出てきたわ。増結あったんだな。 >>69
カラーリングはローズピンクとベージュの塗り分け、正面は金太郎掛けだね >>74
石越の国鉄の発着がどうだったのか知る由もないが
まあ、こんなもんじゃないの?
やる気のないローカル私鉄だと日没前には最終を走らせてるケースもあるって話 最終便が早ければ保線要員も作業が早く終われて良いね 電車は車長、機関車は自重を形式採番の根拠にしてるのは栗電だけ? 夜間は踏切での事故が増えるから運行しないのは合理的でもある 事故を防ぐなら踏切で一旦停止して安全確認するのが合理的。 >>80
>>83
東北地方の中小私鉄は仙鉄式という付番を命令されてたらしい
ナロー時代の此処や宮城バス仙北鉄道や十和田も?
それともちょと違う? 律儀に守ってた会社もあるが、守らずに好き放題にしてた会社もあった。
そりゃそうだ
必然性がないんだもん。 秋保電鉄も保有車輌はたかだか十数両なのに4桁の大きい番号を付けていた >>87
遠江鉄道や流山鉄道が今同じことをやっている 運輸省が民鉄の運営のそんな細かい分野にまで指図する権限があったのか 通称「仙鉄式記号」なる指令
当時、東北の地方鉄道を管轄していた鉄道省仙台鉄道局が
戦時下の1941年12月に発したもの
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8C%97%E9%89%84%E9%81%93
形式や記号番号を「軸数、出力、自重、全長等」で整理せよ!
という無茶ぶりをね、そしたら?
インフレナンバーで似たような車号が続出・・・ >>9
あまり評判が良くなかったという記事がネット上では散見されるが
乗ったところ悪い印象は無かった
良くなかったのは名鉄時代ではないか
今も地元で保存されているのは嬉しい >>92
名鉄時代については、キハ10初期車には冷房が付いていなかった(11〜14)ので
その印象が強いのかもしれない。
そっちに行ったのは冷房付きの2次車 さすが大手民鉄の車だけあって明るく綺麗な内装デザインで好感が持てた
これが国鉄からのお下がりだったら利用者の受け止めもまた違ったものになっていただろう >>94
まだ車齢10年そこそこで買えた
ラッキーだった >>66-72
福島交通から来たのもM18で、同一形式の位置づけかな 時代的には東急から出物が多かったのでそこから選ぶのかと予想してたがまさか同じ東北圏の地方私鉄から調達するとはな 長持ちしないことを了知して手を出すのはアリだが懐の寂しい中小私鉄が頻繁に買換などやってられないから見送られたのでは >>103
どこまでいってもタラレバだけど
京王ならその頃既に冷房付5000系や3000系が流通し始めていて
手を出してくれていたら評判も上がっていたのにな クーラー付き電車がやってきただけで減ったお客が戻ってくるほど単純じゃないよ 一度逃げられた客を取り戻すのは並大抵のことではできない
どんな商売でも一緒でしょ 国鉄からディーゼルが乗入れてきていた時代が華だったのかね 貨物で稼いできたのだから貨物輸送量の推移見なきゃ何時が華なんて決められない 電化廃止直前に乗車
架線柱が錆びたままで侘しげに見えた 電化をやめて生き残りを図るやり方は羽後交通にも例があったが
それでも長くはなかった
わずかな可能性に賭けてみようと思うものだろうか >>112
動力費は軽くなってもやがて維持費で行き詰まる
経費を減らしても売上が増えないとどうにもならないのよ 列車代替バスにいずれ廃止になる例が少なくないのと同じだな どこ行っても過疎化だけど
東京の人口が減らないから
行政府にその実感がない 首都移転といってもどこに移すか妙案があるわけでもなく KD95だっけ
あの変速ショックにはおどれーたな
直結時もガックンと揺れた >>116
マインパーク程度では集客力が無さ過ぎだったね
客を一見に終わらさずリピーターにしようと思えば
ディズニーぐらい金の掛かった装置の一つや二つでもなければはっきり言って無理だろう マインマパークが数年前に数億かけて改装?したじゃん 起死回生を掛けたマインパーク前延長だったけど、結局地雷だったんだね。
マインには地雷の意味もあるからね。 >起死回生を掛けたマインパーク前延長
ん?情弱さん? 埋もれているものを探す・見つけるという意味では同じ 電鉄時代、1987年頃の動画を見た
「みんなの足だよ 栗鉄は 乗って残そう 孫子のために」のスローガン横断幕が哀しい
ここまでやっても乗ってくれないし、乗ってくれても残せない事が分かってても‥ >>130
乗ってくれても残せないことが分かってても
これ大事
ローカル線の適正運賃ってどんなもんなのかね マニヤが10人集まって貸し切り運転をしたときの頭割りくらい?
維持が未来永劫続くのだからもっと高い? 昭和57年の秋のある日曜日
若柳駅でお揃いの法被を着た農協職員を多数目撃
農産物直売のイベントがたまたま開かれていたようだ
駅のすぐ近くに支店があったんだな
コメなどの農産物の市場開放をアメリカから求められ、もし開放されたらたちまち国内産は価格で太刀打ちできなくなるから国内産を買ってくださいね、というPRの趣旨だったと記憶している なんで栗原電鉄は尾灯に円盤の標識が付いているの
昔の非電化でよく見るけど、電車では例がない? 弘南鉄道からモハ105引き取りが実現してればM15に並ぶ人気車になってたろうに >>137
ボロばっかりだった弘前線のなかで一見近代的に見えるが
機器は木造車由来のかなりの年代物だし 車体は目新しくても足回りが超時代モノなのはその時代に多く誕生した。
M15の相棒のC15が古物だったのでは? >>140
М181はⅯ16,c15はc14という木造車の鋼体化ですね
「私鉄車両めぐり」に写真が載っていた 架線を剥がして生き長らえた例は一つも無いのは歴史が証明してる 癌の手術と一緒だな
体力がなけれは受けられない
受けたと言って不老不死が手に入る訳ではない >>142 福塩線の府中・下河辺間は? 8年間ほど電化されてたけど、再び非電化となってから60年経つ。 C15とM15は車体は両運片運以外はほぼ同じで台車が違った
新型台車採用!と会社が銘打ったMと、昔ながらのCで乗り心地に大差なくて
ガッカリしたのを覚えている 1955年製だったな
その時代の生まれにしては良い部類に入ったということでは? >>134
昔の農協のマークが思い出される
稲穂の図柄と「協」の漢字を組み合わせたデザイン