栗原電鉄・くりはら田園鉄道
電車運転時代の思い出、ディーゼル車運転時代の思い出、どちらも歓迎 くりでん沿線から仙台方面への通勤通学需要を開拓できたらワンチャンあったかもしれん。
そもそもくりこま高原駅は、それで成り立ってる一面があるし。 岐阜羽島から名鉄に乗り換える人って多分羽島市民くらい。
岐阜市民は名古屋で在来線か名鉄に乗り換えて岐阜へ行く
利用度の低い駅はいくら新幹線でも閑古鳥が鳴くのさ 70年頃までに鉱山が閉鎖されていたら、仙北鉄道に次いで70年代中に廃止されていたんだろうなあ。 栗原のM18って、日車標準型の新潟交通モハ11に外観が似ているんだが。
17〜18m側面2ドアで湘南顔でバス窓というのが、当時の中小私鉄の新車のスタイルとして流行していたということか。 バス窓は流行というより当時はあれが側面のデザインとしてもっとも機能的かつ合理的と思われてたから採用事例が多かったのでしょう 電車で運行していた頃に乗りに行ったら、70km/H位の速度で快走しているのに揺れが少なくて驚いた。
確か往復とも乗ったのはM15で、同行していた知人が「ずいぶんいい台車を履いている」と驚いていたな。 >>18
一応、当時の栗鉄は三菱系ですから
電化からの11年間(1950〜1961)に渡り、豪快な投資を展開
電化時(1950)、電機と電車を3両づつ新造しておいて
・ED18、181-183(中日本・菱電)→ED20、201-203
・モハ2400、2401-2403(日鉄自)※準新車、下回りは都電の中古部品を流用
・サハ1400、1401-1405 ※既存客車5両(元・ハフ1-4、8)を転用
その5年後(1955)には改軌
電機は改造+増備、電車と貨車は置換で対応
・ED20、201-203 ※既存ED18を改造
・ED35、351(東芝)※無車籍の元・西武1を譲受(車籍上は新車扱い)
その置換用電車6両中、3両を新造しちゃうし
・M15、181-183(ナニワ)※銘板上、菱電・住金と合作
そして、中古車3両も順次(1959〜1961)所沢にて車体更新
・M16、161 ※元・西武モハ201 更新→M18、181
・C14、141-142 ※元・阪急51 更新→C15、151-152 >>22 元西武で所沢工場で湘南型の前面に改造といえば、三山線の110、後の琴電870と同様だな。 あー、三山電車の湘南擬きと通じるものがあるねたしかに 署名だけではどうにもならないな
何筆集まったのか知らんが、結局廃止されてしまった
署名は数ある社会運動の中でも効果が薄く自己満足の極み
本当に残したいならもっと直截的にキャッシュにつながる戦略を立てるべきだった
一昔前なら銚子の煎餅みたいなのが精一杯だが
今はもっとスマートにクラウドファンディングという方法がある
まあ、栗鉄スレで書いても今更ではあるが...... トランプが裁判費用を集めるために寄付を募ったが、見方を変えればただのカネの無心じゃん
流行りのクラウドファンディングにも同じ臭いがせんか? 手は貸さない、金は出さない、口は出す
クラファンはそういう古今東西絶えない人が自然と淘汰されるよくできた仕組みだと思う 26です
俺が若柳で署名したのは1987年
1993年の欠損補助制度打ち切りが廃止の噂の出始めじゃないの? >>37
廃止の噂が立ったから署名活動が始まったと思うが?
時系列がおかしくね? 何度か署名運動やってるんでは?栗原電鉄が鉄道事業廃止を表明したときと、三セク化後完全廃止する前と。 >>37
国鉄赤字ローカル線を起源とする第3セクター私鉄の財政支援が開業後10年で打ち切られるのに
既存の民間鉄道がダラダラといつまでも支援を受けられるのはおかしいという論調が勢いついて
打ち切られてしまったんだな
野上はこれで命脈を絶たれた 野上と栗電が一緒にされたのは甚だ心外
あっちは明らかに経営の怠慢だろうに マインパークのこと、私の物の公園だと思っていた。
マインが鉱物とは・・・
マインズとSがつくと地雷のことなんだよね。
あな恐ろしや。 >>45
いまやってるコロナ禍の中小企業向け助成施策なんかもろにそれなんだが。 電車をやめてDCに切り換えた効果はあったのかい?
狙ったのはランニングコストカットだが、
電車ならではの良さもみすみす手放したわけで。 昭和20年代は石炭の値段高騰で電化の方が安く上がったそうな。 栃尾、下津井なども同じ理由で電化に踏み切った
変電設備などの投資も必要なのにそれでも電化を選択するほどに石炭が高くついていた時代があったのね >>54
多分だけど、石炭で運行を続けられるだけの分量を確保するのが難しかったというのもありそう。 国鉄から直通列車が乗り入れてきてたが
好評だったの? 昭和50年代までは各地の地方私鉄に期間限定の乗り入れ列車がありました >>59
栗駒フラワー号は1979年まで
この年に発売された私鉄大百科には栗電の紹介文で触れられている
田鉄公園公式ページにも当時の資料がアップされている でも存在感なかったね 不思議
あのスタイル、模型ヲタはドハマりすると思う M15より出番が少なかった、増結が無くて常に1両で走ってた、あたりがM18の地味さの要因かねぇ。 すまん。ちょっと検索かけたら、M181に何か付随車つないでる写真出てきたわ。増結あったんだな。 >>69
カラーリングはローズピンクとベージュの塗り分け、正面は金太郎掛けだね >>74
石越の国鉄の発着がどうだったのか知る由もないが
まあ、こんなもんじゃないの?
やる気のないローカル私鉄だと日没前には最終を走らせてるケースもあるって話 最終便が早ければ保線要員も作業が早く終われて良いね 電車は車長、機関車は自重を形式採番の根拠にしてるのは栗電だけ? 夜間は踏切での事故が増えるから運行しないのは合理的でもある 事故を防ぐなら踏切で一旦停止して安全確認するのが合理的。 >>80
>>83
東北地方の中小私鉄は仙鉄式という付番を命令されてたらしい
ナロー時代の此処や宮城バス仙北鉄道や十和田も?
それともちょと違う? 律儀に守ってた会社もあるが、守らずに好き放題にしてた会社もあった。
そりゃそうだ
必然性がないんだもん。 秋保電鉄も保有車輌はたかだか十数両なのに4桁の大きい番号を付けていた >>87
遠江鉄道や流山鉄道が今同じことをやっている 運輸省が民鉄の運営のそんな細かい分野にまで指図する権限があったのか 通称「仙鉄式記号」なる指令
当時、東北の地方鉄道を管轄していた鉄道省仙台鉄道局が
戦時下の1941年12月に発したもの
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8C%97%E9%89%84%E9%81%93
形式や記号番号を「軸数、出力、自重、全長等」で整理せよ!
という無茶ぶりをね、そしたら?
インフレナンバーで似たような車号が続出・・・ >>9
あまり評判が良くなかったという記事がネット上では散見されるが
乗ったところ悪い印象は無かった
良くなかったのは名鉄時代ではないか
今も地元で保存されているのは嬉しい >>92
名鉄時代については、キハ10初期車には冷房が付いていなかった(11〜14)ので
その印象が強いのかもしれない。
そっちに行ったのは冷房付きの2次車 さすが大手民鉄の車だけあって明るく綺麗な内装デザインで好感が持てた
これが国鉄からのお下がりだったら利用者の受け止めもまた違ったものになっていただろう >>94
まだ車齢10年そこそこで買えた
ラッキーだった >>66-72
福島交通から来たのもM18で、同一形式の位置づけかな 時代的には東急から出物が多かったのでそこから選ぶのかと予想してたがまさか同じ東北圏の地方私鉄から調達するとはな 長持ちしないことを了知して手を出すのはアリだが懐の寂しい中小私鉄が頻繁に買換などやってられないから見送られたのでは >>103
どこまでいってもタラレバだけど
京王ならその頃既に冷房付5000系や3000系が流通し始めていて
手を出してくれていたら評判も上がっていたのにな クーラー付き電車がやってきただけで減ったお客が戻ってくるほど単純じゃないよ 一度逃げられた客を取り戻すのは並大抵のことではできない
どんな商売でも一緒でしょ 国鉄からディーゼルが乗入れてきていた時代が華だったのかね 貨物で稼いできたのだから貨物輸送量の推移見なきゃ何時が華なんて決められない 電化廃止直前に乗車
架線柱が錆びたままで侘しげに見えた 電化をやめて生き残りを図るやり方は羽後交通にも例があったが
それでも長くはなかった
わずかな可能性に賭けてみようと思うものだろうか