そろそろみんなが忘れてそうな事@鉄道懐かし板 9
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
まあここはテドロス事務局長を信頼してみようじゃないか。 在来線特急の食堂車の「大量虐殺」が断行された、35年前の3月14日は、木曜日だった事。 岡山駅が山陽新幹線の西のターミナル、という時期があった事。 新幹線の駅で唯一その名が消えた小郡駅
磐城西郷? どこの駅だ? 東海道山陽新幹線では、「ひかり」「こだま」と「のぞみ」とで、放送されるチャイムが違ってた事。 7年前まで、東急東横線と地下鉄日比谷線が直通してた事。 29年前、東京発博多行の「最も速い『ひかり』」が、東京駅毎時0分発でなくなった事。 近鉄四日市ー湯の山温泉間の特急は、
真の「ノンストップ」だった事。 特急が特別急行の省略形だったこと
急行がなくなって特急ばかりって変だよな
全部急行にしちゃって、スーパーなんちゃらを特急にすればいい 1984年12月末〜1985年1月初頭に実施された
一部のDRCのスジ(けごん5号と14号)を57で代走 そこまで来ると、みんなが忘れてる以前に、みんなが知らないことのような気がする 新幹線300系は、当初1編成当たり5台のパンタグラフを搭載してた事。 >>16
京急の快特も「快速特急」の略から
正式名称「快特」になりました。 京浜急行の駅で、付近の国鉄の駅と区別する場合は、
昔は「京浜〜」と名乗ってた事。 >>27
近鉄の「近鉄○○」という駅名はむかしは
「近畿日本○○」と長ったらしかったこと。 京浜東北線も終日全区間各駅停車だった事。
日中の快速運転始めた時は、田端―上野―秋葉原―東京―田町、と停まってた事。 鉄道業者自体に非がない限り、列車に乗って命を落とすなんて考えられなかった事。 快速未設定時代の山手線と京浜東北線の並走区間は昼間時は保線間合い確保のためどちらか一方の線路のみ共用で用いていた事 東横線の特急は開設当初、中目黒は通過駅だったこと。 山手線は10両、東海道線の基本編成は11両で、今と逆だった事。 本牧は市電廃止後、陸の孤島状態で未だ地下鉄が通っていないのは?
港湾業界の圧力(物流の邪魔だから)により、市に3号線建設を延期させたのが原因 そういえば筑肥線旧線区間廃止後の小笹もそれに似てるな
もし住民が過激でなければ今頃七隈線は最初から博多起点で開業してたし別府までは旧線と同じルートだったかもしれなかっただけに残念 吉野家のハムエッグ朝定食を食べるとき、玉子を崩したくないからオカズとミニサラダを全部ご飯に載せるんだ。
数回目に思い出した。
これはかつてブルトレ車掌さんたちが閉店後の食堂車で口にした「ハチクマライス」ではないか! 都政審答申第9号では?
地下鉄の横浜2号線(事業主体:横浜市)という、京急本線のバイパスが計画されていた
それは、京急本線の最混雑区間(横浜〜上大岡)における混雑緩和が目的だった
<主な経由地>
神奈川新町〜横浜(東口)〜藤棚〜吉野町〜八幡橋〜磯子〜屏風浦
※同時に京急本線の屏風浦〜金沢八景を複々線化、一部を2号線経由で分散
答申に対し、京急側が難色を示したことで計画中止 阪急宝塚線に特急が運転されていた
神戸電鉄三田線に特急が3往復設定されていた 阪急宝塚線が国鉄時代はほとんどダイヤパターンに変化がなかったことだろうな
15分毎に急行宝塚行き普通宝塚行き普通池田行きが運転されていて比較的容易に準急箕面行きを間に入れることができた 駅の営業は基本24時間だった事。
真夜中でも通過列車は助役がホームに立ち見送る。
場合によっては列車から通信文が投げ落とされる事も。 駅寝はよくやったけど、そのつもりで西鹿児島行ったら閉め出された想い出 (夜行走ってないからね) 元々は、鹿児島駅がその名の通り市の中心駅だった事。 >>51
寝台特急さくらが健在だったころ、東海道線の刈谷駅で下りのさくらの電機(EF65)がやたらに警笛を鳴らして
減速して近づき、通過時に乗務員が投げ文をして、それを駅員に渡したことがある。
後で聞いたら列車内で機器の故障があったらしい。 上越・北陸地区と首都圏を結ぶ列車が皆無だった時期がある事。
>>55
急行・新宿⇔箱根湯本・片瀬江ノ島 動き始めた汽車に飛び乗る、
なんて事も、出来なくはなかった、昔の客車。 >>58
何かの歌みたいだね
黒い縁取りがある手紙が届きそう >>58
何かの歌みたいだね
黒い縁取りがある手紙が届きそう >>57
相模大野で連結してから急行新宿行き、と言うのも今は基本的にないんじゃない 上越新幹線中山トンネルは、当初のルートが完全に使えなくなった事。 福知山線の支線として尼崎港線、有馬線、篠山線が分岐していた その関係で、尼崎駅が、一見「2つ」あった事。
まあ、似た例は宇美とか、嘗ての石巻でも見られたが。
浜川崎は今もそうだし。 私鉄なら三軒茶屋とか一昔前の近鉄四日市か。
地下鉄入れたら切りがない…! 徳島県にあった国鉄鍛冶屋原線
兵庫県にあった国鉄→JR鍛冶屋線 能勢電鉄にあった川西能勢口〜川西国鉄前の区間。
JR化まで残っていたら能勢電川西池田とでもなっていたのかな。 電車に乗って病気移されるなんて、あり得なかった事。 >>73 風邪やインフルは?どこで移されたか本人が覚えてないだけで。 >>75
まあ、確かに「全くあり得なかった」みたいな表現は適切じゃなかったな…。
ただ、今日ほど大々的に
「病気移される恐れがあるから列車に乗るのが憚られる」
なんて騒がれた事はなかっただろう。 >>76 第一次大戦末期頃、スペイン風邪というのが今のコロナ以上に日本含め全世界的にパンデミックを引き起こしてたんだが。 国鉄の優等列車の禁煙車は、当初は自由席にしかなかった事。 特急料金の初乗りが「400kmまで」っていう時代があった事。 グリーン車やA寝台の料金に、通行税(10%)が課せられていたこと 上野や八幡にも京成百貨店があったこと(ただし、八幡のは「京成雑貨店」と揶揄されるほどショボショボだった) 雪が降ると関ヶ原がネックで新幹線が遅れ、2時間境の心理戦が繰り広げられていたこと。 りんかい線は開業当初全列車4両編成だった事。
当然コミケの時は地獄絵図だった。 2車体連結のEH級電機? 無駄無駄! EH10で懲りたでしょ
電気式ディーゼル機関車? 駄目駄目! DF50で懲りたでしょ 垂水(たるみ)ではなく、垂水(たるみず)という駅があったこと。
長谷(は せ)ではなく、長谷(ながたに)という駅があったこと。 ボロボロの古い地図帳を見つけた。
大隈線がまだ古江線で、三江線がまだ三江北線、三江南線の頃の地図。
熊野平が駅で・・
あ〜なんだか目眩く。 軽井沢から先が非電化。
北海道は・・
あ〜やっぱり目眩く。 トイレがウンコしぶきの時代。
窓開けて駅弁なんぞ食ったら中毒になりそうな時代。
なのに、乗ってみたい! 「停車中は(トイレを)使用しないで下さい」の注意書き。
あと、「上野―大宮間では使用を御遠慮下さい」ってのもあった。 >>90
十津川シリーズの再婚列車殺人事件では青酸カリだっけ? 特急「さざなみ」が、東京―館山・千倉間を1日9往復してた事。
(当初非難轟轟だったものが、今の有様と比べれば”立派”に思える) >>86
2車体連結のEH級電機 増えてる
EH200、EH500、EH800
電気式ディーゼル機関車
DF200で出力約3倍にパワーアップ >>95
それが最初は、「こだま」限定の16号車だった事。
(昭和55年10月に以下の変更、
「ひかり」にも禁煙車設置[+5号車を指定席から自由席に]
「こだま」の普通車指定席を1〜4号車→13〜16号車に移すと共に、禁煙車を1号車に) 特急「新特急なすの」、特急「新特急草津」など列車名に新特急という名称が入った特急列車
これらの特急列車は165系の急行電車の車両を185系に置き換えただけで、停車駅も急行時代と
ほとんど変わらなかったこと 新たに格下げした特急というクラス、つまり従来の急行。
という意味の新特急。 その185系の登場当初、国鉄は
「『踊り子』の全てがこの新型車両で運転というわけにはいかない」
って詫びてた事。
こんな車両になる位なら、「古くても」183系の方がよっぽどましだったんだが。 かつて、阪神電鉄にステンレス車体のジェットカーが2両だけ在籍していた EF200、EF500という、変電所を破壊する無茶苦茶な機関車があったこと。 185は8なのに窓が開くことは、さすがに覚えてるかw 北陸本線でDD50という2車体連結のディーゼル機関車が活躍していたこと >>104
DD50はEH10と異なり、あくまで重連で、
どちらか1両のみでも使用可能なこと >>102
今日はEF200の一周忌
平成に生まれ、平成に没した 20系のトイレは、薬液と混ぜて粉砕して放出していた。
いまいち意味不明だが、ストッキングが詰まって故障していた。 24系25型(2段式B寝台車)のトイレは、2箇所のうち1箇所が、通路と直角に向けられた事。 >>103 189も客室内の一部の窓を開けられるんではなかったっけ? >>100
185系踊り子がE257系なら183系踊り子はサフィール踊り子みたいなくらい183系は快適だったからな 新幹線(0系)には、かつて車両の真ん中に非常口があった 内房線直通快速は、千葉と木更津の間は五井しか停車しなかった。蘇我すら通過。
少しずつ停車駅が増え今では通過駅が巌根だけに… >>110
189系のそれはあくまで非常用で、185系とは意味が違う。
>>112
非常口は0・1000番代だけで、2000番代では廃止された。 赤羽線のラインカラーがカナリアイエロー(黄5号)だったこと 埼京線に呑まれる前の赤羽線のローカル感、もうわかんねーだろーな〜 南武線にウグイス色やスカイブルーの色とりどりの混色編成が走ったいたこと。 >>91
「使用中に停車しないで下さい」という落書き 185系の東海道線上り普通列車
10時頃に東京に着いた
一度も座れなかった
あれ、いつまで走ってたんだろ? >>103
8が特急という概念ももう薄れたな
JR東日本も何故か5だったし
最近は5を使いきり、6になった
6って急行型だろって思う >>118
それ見て、
「じゃ、そいつが降りる駅が近づいたら便所行ってやる(”大”の方)」
と思ったりもした。 主に浜松町駅(他に恵比寿も利用)を起点とした山陽、九州、
北海道方面向けのカートレイン列車
20系や14系の寝台車が連結されていた
20系はA寝台を連結していた
バイクを載せたMOTOトレインもあった >>122
京王の準特急てのも微妙。
Semi LTD. って表現、外国人に異様にウケるw 新大阪駅の新幹線ホームは、「1番線」から付番されてた事。 >>132
昭和60年3月に、工事時点での「0番線」が設置されたのを期に、
これを「20番線」、元の1〜6番線を「21〜2
6番線」に改番した。 かつて、東武伊勢崎・日光線の無料優等の主力が「準急」だったこと
日中に浅草・北千住から伊勢崎・新栃木まで乗車券なしで
直通できたこと
伊勢崎線に東武動物公園から先も通過運転する無料優等があったこと かつて、東武伊勢崎・日光線の無料優等の主力が「準急」だったこと
日中に浅草・北千住から伊勢崎・新栃木まで乗車券なしで
直通できたこと
伊勢崎線に東武動物公園から先も通過運転する無料優等があったこと うんこ撒き散らかしの線路の横から給水した水は、消毒中ランプが点いていないと、
飲んだら死ぬで。 >>140
どういたしまして。
で、その新大阪駅(在来線)に関しては、
「特急が停車して新快速(分類上は”普通”)が通過」
という時代があった事。 >>135
それ以前には・・・(旧・ドリフ時代の出来事)
・坂本九(1958)
ボーヤとして加入後、正メンバーに昇格するも?
間もなくしてメインボーカルに成れないことから脱退「パラキン」に移籍
・小野ヤスシ(1959-1964)
碇矢との確執からクーデター劇で飯塚、吉田、猪熊、祝らを引き連れ脱退
「ドンキーカルテット」結成、ドリフが今のメンバー構成になる切欠を作った
・木の実ナナ(1961-1962)
専属シンガー(準メンバー相当)で主に前歌担当 ドリフがもともとは演奏しながらギャグをやるコミックバンド中心の活動だったこと。小野ヤスシはバンドにこだわりたくてコント中心に移行しようとするいかりや長介と意見が合わなくなり脱退した。 いかりや長介死去の時は2ちゃんねるのあらゆるスレにいかりや追悼スレが立ち各板の住民達がスレ違い関係なくいかりやを追悼した事 271系電車による9両編成はるかが明日
4月1日(水)からこの板の仲間入りする事まさに志村けん発病から死ぬまで位な事 北陸鉄道がかつて小松線、金名線、加南線など石川県内に多くの路線を有していたこと 「列車に乗って何処にでも自由に移動出来た事」
てな状況が刻一刻迫ってそうだな 「病客車」なんてのが復活しなければ
良いが・・・。 筑波鉄道と鹿島鉄道は、関東鉄道から分社化して発足したこと >>135
そのうち、志村けんがドリフにいたこと
と言われるのかね? >>158
それより、ドリフターズの存在自体が。
一番若い志村で70なんだもの・・・ 35年前、蒲原鉄道が、2区間だけ残して廃止された事。 ゴーンがレバノンに逃亡したこと
もはや話題に上がらない コロナによって忘れ去られたもの
ゴーン
グレタ
飯塚幸三
ミルクボーイ
逆煽り運転
100日ワニ←イマココ >>167
「高輪関所」にすべきだったね。
宮脇さんが生きていたら嘆いていたと思う。 山陽新幹線「ひかりレールスター」が、運転開始初日に車両故障を起こしたこと >>167
むしろ品川こそ「品川ゲートウェイ」だろと思う カートレイン九州、カートレイン北海道など、マイカーを貨車に搭載し、
ドライバーや家族は貨車に連結された寝台車で寝れる寝台列車があったこと 東海道新幹線で、各国の国会議員を乗せるため先頭車と最後尾車以外の車両は全てグリーン車の編成が走ったことがある。 >>178
さらに追加
安全ピン
仲川遥香が甥を施設に預けたこと 去年の台風で水郡線と阿武隈急行と上田電鉄と箱根登山鉄道が不通であること 箱根登山鉄道は7月復旧だが今後の情勢によってはこれも忘れられることになるのか >>177
厳密にいうと、両端の2両ずつが普通車で中間の12両がグリーン車だった。 >>189
治っていたら逮捕されている。
逮捕されていないってことはまだ治っていない。 東北新幹線の各駅停車が「あおば」だったんだよね。
当時変な名前だと思った。 ということは生き残った京アニの人も治っていない人がいるってことか。 京阪宇治線の車内から事故現場のスタジオが見えた事。 15年前、スピードオーバーになった列車が脱線して、付近のマンションに激突した事。
しかし、この時の死者数も、今日の状況からすれば、微々たるものに見えてきちゃいそうな事。 鉄道でも「あおば」という名前は碌なモンがない
田都の青葉台駅はよく人身が起きてた >>190
やけどしなければ、何食わぬ顔して帰宅して今も普通に生活してた? >>195 かつては年間交通事故死者数が1万数千人いってたから(現在はその半分強)、それに比べると日本の新型コロナの死者数は格段に少ないが。
普段、安全と思われてたものが事故によって瞬間的に大量の死者数を出すから注目される。感染者数、死者数が急増している新型コロナも同様。 >>197 あれは板谷峠を登る181系つばさの暖機運転のために動かしてたんだっけ? >>200
何の目的で設定してたかは分からないけど、誰か知ってるんだろうか…?
それにしても、こんなローカル特急(と言っちゃ失敬だが)でも食堂車営業してたのは、今にして思えば凄かった。
あと「1両だけ自由席」ってのも鮮烈な印象だった。 >>何の目的で設定してたかは分からないけど
盛岡通らないけど、このルートが仙台・秋田間の最短ルート。急行2往復に特急1往復してたっけ。あおば廃止後は急行3往復になる。
東北新幹線が無く田沢湖線も電化されて無かった頃、東京から盛岡経由田沢湖線で角館まで8時間位かかってたような。観光で気軽に行けるようなところではなかった。 そういえば、「つばさ」って、その時々で最新の車両が使われているねぇ。
キハ82系、キハ181系、485系1000番代、いずれも最初の投入列車だったはずだし、
新幹線になって、400系ももちろん最初。
E3系で初めてお古が回ってきたってことでいいのかな? >>203 キハ81ははつかりが最初、キハ181はしなのが最初。 >>202
現在の小町95.96号のような立ち位置で、ビジネス客を中心に結構人気が有った列車らしい。 >>204
当時のはつかりは東北本線でなく常磐線経由だった事 上野から長野経由で大阪まで特急列車1本で乗り換えなしで行けたこと。 奥羽本線の福島〜米沢間と仙山線の羽前千歳〜作並間は直流電化されていたこと 「その特急が停まる」って勘違いして糠喜びの町があった事。
いざ来た特急列車は、「止まる事は止まっても」、ドアが開かず…。 E991系「TRY-Z」
俺もこの間、たまたまネットで651系と並んでる画像を見付けるまで、
この車両の存在、忘れてたよ。この車両、試験車ながら新幹線車両と
見違える外見で、当時のファンたちは驚きだっただろうな。 >>206
そっちにしないと余裕なかったとかかね? >>204
キハ82系(がっかりキハ81ではなく)、キハ181系については、
「つばさ」は最初の量産車が新製配置された列車の一つじゃない? 「つばさ」は新車だけかと思ったけど、「はつかり」のお下がり(キハ81)もあったんだね。
EF71補機があったから、なんとかなったのか。 >>211
常磐線の方が線路が平坦だから、勾配に弱いSLの全盛期には好都合だったとの事。
キハ81も、あの程度のエンジンのパワーだから、常磐線経由が選ばれたんだろう。 >>212 キハ181の量産先行車はしなのに投入。つばさは最初ではない。 >>212
そのキハ81は「瀕死のはつかり(バレエの「瀕死の白鳥」のパロディ)」とも呼ばれ、北海道初の電車特急いしかりも「がっかりいしかり」「いしかりしっかりせい!」と蔑まれた 新幹線は、早朝深夜とかを別にして、
大概混雑してた(というのがオーバーであれば、乗車率がよかった)事。 キハ81の高運転台が中途半端で、スマートな151系のマスク比してブルドッグ顔になってしまったのは、ダブレット閉塞方式のせいである。 クハネ583はあるぞ。
で、483系は50Hz専用なのに対して、583系は50/60Hz両用な事 余剰食堂車を利用したレストラン
サシ481や581 パーラーカー クロ151の最初の廃車はダンプ事故
国鉄新性能電車シリーズ最初の廃車でもある。 その代替として改造されたクロ150-3(←サロ150-3)もあっという間に181系に再改造で廃形式 モロ181-102 → モハ181-202が、たった3ヶ月で「事故死」した事。 181系になってからも、しばらくは禿げてなかったこと 手書きの153系「こだま」の『かえだま』が出たのも事故の影響。 四国の特急「しおかぜ」、特急「うずしお」の列車名は、山陽新幹線開業前、
山陽本線で運転されていた151系電車特急の列車名だったこと 「つばめ」「はやぶさ」「白鳥」「かもめ」「はくたか」あたりはご存知だろうが、
「はと」「ひばり」もあった。
「すずめ」「かも」「チョウゲンボウ」はなかったと思うw >>232
本日10日は183をすっ飛ばして185人な件 189系来ちゃいました。
瀬戸際峠を超えて感染爆発に突入か? >>253
「しらさぎ」は健在だが「雷鳥」は「サンダーバード」に・・・
なぜカタカナに。「国際救助隊」じゃあるまいし。 >>233
山陽特急時代の「うずしお」もその事故のせいで80系に代走され「うすしお」だの「うそしお」だの言われてたな 「房総ローカル」の上り列車の一部が幕張行だった事。 東海道新幹線の「ひかり」は初代ではない。
1958年に九州で急行の名前に使われている。 その急行の「ひかり」は、大分から豊肥本線を経て熊本、さらに博多を経由して別府に至る
(またはその逆回り)というとんでもない代物だった。
設定当初の名前は「ひまわり」で、後にまた「ひまわり」戻された。 今では、京都・大阪と博多間といえば新幹線しか思い浮かばないが、国鉄時代には山陰本線、
福知山線をわざわざ経由して通しで運転していた特急があった。
京都・大阪から博多に行くのに(またはその逆で)丸々乗る人がいたのかどうか知らないが、
子供の頃、博多から浜田までその特急「まつかぜ」に乗った覚えがある。 昔はそういう、「線名に忠実」な運転区間の列車、ってのが結構あった。
上越線開業後も、上野―新潟間に信越線経由の列車が運転されたり。
「北海」もそうだろうな。
「あさひ」→「べにばな」が、今泉―赤湯間で律義に米沢経由だったとか
(米坂線全区間運転)。 「くろしお」も非電化時代は天王寺〜名古屋の運転があった。
その後も天王寺・和歌山市〜名古屋間の夜行普通列車が存在していた。 延々特急の王者と言えば、青森「白鳥」。
昼間特急にして、大阪から青森まで、上野を無視してずっと日本海側を走り通した。
北陸、信越本経由で上野までの、信越「白鳥」の大阪発が上りなのに対して、青森「白鳥」
では大阪発が下りだった。 その「白鳥」初代は電車ではなく82系気動車だったこと。 博多〜宮崎間を鹿児島本線・肥薩線・吉都線経由で結んでいた特急「おおよど」
博多〜宮崎間を最短距離で結ぶ特急だったが、所要時間は急行「えびの」と
10分程度しか変わらなかった。 函館―旭川・釧路間運転の「おおぞら」があって、
これは、列車番号上は旭川編成が”本体”だった事
(函館―旭川間3D・4D、滝川―釧路間4003D・4004D)。
食堂車は釧路編成に連結されてたけど。 特急「北海」
函館本線の通称「山線」経由の特急だった >>249
その「くろしお」がキハ81系の最後の舞台だったこと
その後、381系になった「くろしお」のイラストヘッドマークが、
「くろしおう」に見えて仕方なかったこと >>238
雷鳥を英語にしたつもりなんだろうけど、実は雷鳥の英語名はサンダーバードではないんだよな。 >>257
さらにそのせいでライチョウが米国の神話に登場する伝説の鳥「サンダーバード」に似ているから「雷鳥」と付けられた、という誤解も生じるようになった
ただこれは681系登場前からあったこじつけであるが 当然ながら黒潮の英語は「Ocean Arrow」ではない
また「Black Tide」でもない 加藤厚労大臣
出来る人ならコロナ担当大臣も兼任してたはず 「鹿児島本線から筑豊本線へ直通する列車は、貨物線を通過するため折尾駅は通りません
(運賃は折尾駅経由で計算します)」
というような趣旨の記載が時刻表にあった事。
で、索引地図にもその貨物線が示されてた事。 >>260 過労死させたいのか?厚生労働大臣だけでも大変だってのに 東海道本線・山陽本線で運転されていた急行荷物列車
EF58やEF61が荷物車やパレット貨車を牽引し、大阪駅にも停車して、荷物の積み卸しが行われていた。
EF58、EF61は晩年は信越本線から転属してきたEF62に置き換えられた。 両端のクハ103のみ冷房車で中間車は全車非冷房、中間車は冷房車と非冷房車混結の
京浜東北線、山手線の103系 >>265
そのあおりを食って、中間車はピカピカの新車だったのに、クハだけ103系
デビュー時に製造されたセコハンだった森ノ宮持ちの環状線と明石,高槻の
緩行線。 昭和61年11月改正で東海道本線・山陽本線の新快速は草津〜西明石間の
複々線区間では外側線走行になったが、その前年から昼間時間帯に運転される
新快速は外側線を走行する列車も設定されていたこと。 103系ATCの登場で、
小鉄が前面展望の楽しみを奪われたこと >>269
それ以前にその頃の国鉄は終日遮光幕全閉がデフォルトで車種問わず前面展望などできなかったこと。 埼京線、新宿湘南ラインが走っているのは貨物線で、EF15の単機回送なども見られた。 新快速が米原発着になったのは、民営化後の昭和63年3月改正からのこと
それまでは新快速は、米原の手前の彦根発着だった。 長岡京駅がかつて「神足」という駅名だったこと
(鉄ネタではないけど)大阪府はかつてタコが知事になったことがある >>276
500系の運行開始記念のテープカットがタコだwww >>272
京都も通過されていたが、話題にもされない。まぁ、当の京都人はそんなに気にしていませんでした。 東海道新幹線の東京のターミナルは、東京駅じゃなかったかも知れなかった事。 大阪駅や三ノ宮駅から、乗り換えなしで大垣や岡山に行けたこと。 こんな時だからこそ扉開けたままで走る通気性抜群の旧型客車列車があったことこれは鉄ヲタではなく世間一般であるが 阪急神戸線西宮北口駅構内で、神戸線と今津線が平面交差していたこと。 >>283
あかつきの他にも佐世保系統のみどり いそかぜ かもめと明星が筑豊本線を経由してた事 室蘭本線沼ノ端―岩見沢間を通って、札幌を無視する優等列車もあった事。 札幌から夕張に国鉄で行く場合一旦岩見沢まで行ってから追分を経由していた事。 外国の政治家がリニア新幹線をウサギ小屋と揶揄した。 函館―千歳空港―札幌―千歳空港―新夕張―新得―帯広―釧路、
って具合に、千歳空港⇔札幌間を往復してた「おおぞら2・3号」の存在。 >>292
ウサギ小屋うんぬんはフランス語から日本語にする際の誤訳だろ。
フランス語で都市型の集合住宅のことを"cage a lapin"(真ん中の"a"の上にアクサングラーヴ)と言うんだが、
これをどこかのアフォがなぜか直訳して「ウサギ小屋」と言ってしまったことで騒動になった。 弁護士の研修だと言うことで、電車を運転させていた某大手私鉄 >>271
新快速だけでなく快速までも尼崎通過してた事 >>296
占領後、自分等専用に使いためか特急型客車だけは見事に射撃爆撃しなかったね。
尤も戦時下は優等列車を運行休止にしていたが。 昭和40年代の頃
大阪ー岡山?広島?下関? 運転の旧客列車があったと思うんですが、正確な区間はどこだったんでしょうか?
幼少期だったのでオンボロ列車に乗った事だけを記憶しております。
神戸ー姫路間をよく乗った思い出があります。 戦前の客車特急「富士」にシャワー室が設置された客車が連結されていた。
この車両は1両作られただけで、運用効率が悪く、毎日「富士」に連結されるわけではなかった 豊橋って朝鮮だろ
浜松方面から東海道本線の電車に乗っていると嫌でも豊橋駅の手前で豊橋朝鮮初級学校の看板を観ることになる。
でも、東京から豊橋に帰省すると豊橋朝鮮初級学校の看板を観ると、豊橋に帰ってきた実感が沸いてしまう。
豊橋駅の手前で豊橋朝鮮初級学校の看板の他に朝鮮総連のイオ信組の看板も目に映る。
旧国鉄の線路沿いの一等地は朝鮮の土地が多い。
豊橋なんか良い例だが、豊橋はマシな法。
旧国鉄の線路沿いの一等地で朝鮮の土地が多い地域は
東京は新大久保、上野、日暮里、埼玉の川口、横浜の横浜駅西口で近くに朝鮮学校が控える。川崎も川崎駅から旧川崎球場までの周辺。
名古屋だと、名古屋駅から中村区から中川区に向かう方向は有名である。京都は京都駅周辺で京都駅南区一帯は有名である。
大阪は環状線、地下鉄、近鉄が交差する鶴橋かな。神戸は長田周辺。最近では少なくなりつつあるが岡山駅周辺も朝鮮が多い。
広島は広島駅周辺は再開発が進みつつあっても、朝鮮エリアはとどまっている。
山口県は、徳山、防府の駅周辺も朝鮮エリアがとどめているし、下関は大坪があまりにも有名である。
福岡も犯罪で名高い博多の堅粕、福岡の東、北の玄関である香椎駅周辺も朝鮮地域が名高い。言い出したら切りが無いくらい多い。
あと関西の近鉄沿線の一等地も朝鮮の土地が多い。
近鉄桜井駅の目の前には色鮮やかな朝鮮チョゴリを販売する店が目を引く。
近鉄の桜井駅周辺は1990年代終わりまでは駅一帯が朝鮮関係でにぎわっていた。朝鮮の国花「むくげ」の販売店、
色鮮やかな朝鮮チョゴリの店が大きいものでも数件は近鉄特急に乗っていたら目に入ったものである。
京都のJR線路沿いは京都駅周辺も朝鮮が割と多いのだが、嵯峨野線の円町から阪急西院までの間も少なくない。
阪急西院を過ぎてから阪急電車は地上に出てくるのだが、この境目に西院朝鮮人会館と言う著名な施設があった。大物芸能人も来訪していた。
京都の半導体企業のローム本社近くには西大路五条の朝鮮総連京都府支部と言う立派な構えの鉄骨鉄筋コンクリート造りの建物がある。 >>300
1966年10月号の時刻表から
07:23 327レ大阪発広島行き
09:02 329レ大阪発広島行き
10:42 331レ大阪発広島行き
13:20 621レ大阪発宇野行き
14:42 333レ京都発広島行き
15:42 223レ京都発鳥栖行き
21:25 225レ大阪発門司行き
22:20 623レ京都発宇野行き >>299
マイテ38の様な展望車は連合軍専用客車最後尾に連結
日本人はボーイ以外乗車不可能だった。
連合軍専用列車の愛称
ヤンキーリミテッド
アライドリミテッド 京都の韓国朝鮮社会は韓国民団支部よりも朝鮮総連支部の方が実に立派だな。
西大路五条に朝鮮総連支部の立派な建物敷地があるが朝鮮総連京都支部の斜め向かいに
今はマクドナルドのある敷地にはボロかったが立派な朝鮮総連系列の喫茶店、飲食店が入居するビルが存在していた。
朝鮮総連系列の団体と北朝鮮の市民団体、文化団体の行事ポスターが貼られてあって
この朝鮮総連のポスターを見てよく北朝鮮舞踊団の公演や北朝鮮音楽団体のコンサートに行ったものである。
北朝鮮の団体と朝鮮総連の行事は西京極運動公園の体育館、北野白梅町の体育館が主に使われていた。
新日本プロレスの天山広吉が京都の北朝鮮系列の人間で有名だが北野白梅町の体育館を使うことは、こうした理由があるのだろうか。 浜松事件(はままつじけん)は、1948年(昭和23年)4月に静岡県浜松市で発生した抗争事件。“浜松大紛争”とも呼ばれた。
戦後、市内の国際マーケットは在日朝鮮人が押さえていたが、闇市は的屋の関東霊岸島桝屋一家分家(服部)が押さえていた。
県議会議員となった服部治助の跡を継いでいたのが「小野組」小野近義であった。
在日朝鮮人らは、在日本朝鮮人連盟の威光を背景に、地元の自治体警察であった浜松市警察の介入を許さず、禁制品を公然と売り捌いていた。
小野組の方は比較的合法な物品しか売っていなかったため、客足が奪われることになり、小野組は朝鮮人に反感をもっていた。
1948年3月には、浜松市警の巡査が賭博の現行犯で朝鮮人を逮捕しようとしたところ、返り討ちにあって負傷する事件が発生。
小野組は、その巡査を救出して近くの病院に収容、病院周辺を警護して朝鮮人の来襲を阻止するなど、一触即発の事態を迎えつつあった。
4月4日夕方、朝鮮人が小野組組長宅を襲撃したことで、朝鮮人・小野組・浜松市警の三つ巴の抗争が勃発した。
小野組は直ちに報復すべく会合を開いたが、朝鮮人はその会合場所を襲い銃撃した。
浜松市警も抗争を鎮圧するために出動したが、朝鮮人は伝馬町交差点でこれを迎えうち、警察との間で銃撃戦となった。
5日以降の数日間の戦闘で死者数人・負傷者約300人を出した。
浜松市警は駐留軍岐阜軍政部に憲兵の出動を要請し、400人の兵士が浜松に派遣されたことで漸く沈静化した。
この事件により、朝鮮人への評判は地に堕ち、逆に小野組は浜松市民有志から50万円(当時)の見舞金が送られた。
同年8月4日、静岡地方裁判所浜松支部は17人に懲役6ヶ月〜4年を言い渡した。 枚方事件(ひらかたじけん)とは、1952年6月24日から6月25日にかけて、大阪府枚方市で発生した公安事件。
第二次世界大戦後、陸軍工廠枚方製造所は閉鎖され、その大半が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の賠償物件となった。
大蔵省近畿財務局が管理していたが、荒れるにまかせ、タヌキが出没する有様であった。
1952年4月28日にGHQによる占領が終わり、小松製作所に9億4285万円で払い下げられた。
小松製作所は既にアメリカ軍より大量の砲弾を受注しており、正式な払い下げに先だって工廠の使用許可を得て、砲弾の生産を開始した。
1952年6月24日未明、実行犯が陸軍工廠枚方製造所に侵入、第四搾出工場にあった水圧ポンプに時限爆弾を取り付けて爆破させた。
この日の午後8時頃より、ひらかたパーク裏の鷹塚山(通称「一本松の丘」)で「朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭」が開催され、約100人が集まった。
前夜祭終了後、小松製作所の関係者と目された人物の自宅を襲撃することになり、竹槍や棍棒を作るために付近の山に入り竹や木を伐採した。
6月25日午前2時頃に被害者の自宅に到着、玄関に火炎瓶を投げ込み家屋の一部を焼いた。
そして車庫にも火炎瓶を投げ入れて車庫や乗用車の一部を焼いた後、逃走した。
枚方市警察は被害者の通報を聞いて、直ちに警察官12人を現場に急行させた。警察は周辺の山林を捜索し12人を検挙、最終的には98人を検挙した。
そのため、日本共産党や北朝鮮系の在日朝鮮人が反対運動を起こしていた。
大阪地方検察庁は、事件の関係者65人を放火未遂、公務執行妨害罪、爆発物取締罰則違反で起訴した。
裁判の結果、6人については無罪としたが、それ以外については全員有罪となり確定した。
自宅を襲撃された人物は、大阪市都島区に本社を置く運送会社の社長で、
枚方工廠払い下げの受け皿となるべき会社を設立しようとしていたが、設立準備中の会社は払い下げの対象外であったため断念せざるをえなかった。
ところが、この人物の姓が「小松」であったため、払い下げが内定した小松製作所の関係者と目され、この事件の標的にされてしまった。
小松製作所は、吉田茂の実兄である竹内明太郎が創業したもので、「小松」の名称は発祥の地である石川県小松市に由来する。 Eurotrain(ICE2の動力車にTGV Duplexの客車を組み合わさったもの)
台湾には新幹線を売り込むために用意 遠軽―網走間は、廃止された名寄本線・湧網線経由の方が距離が短かったこと。 「日勤教育」なる、要はパワーハラスメントが恒常化してたとされた事。 >>317 車体頑丈にしたって衝突で乗客に伝わる衝撃は変わらないんだけどなあ。車体潰れなくても車内は肉片ぐちゃぐちゃ、それが編成後部まで。 大阪メトロ谷町線を大日から高槻市まで延伸する計画と八尾南から富田林市まで延伸する計画があったこと ホテルニュージャパンで焼け出された人が羽田空港に行ったら、逆噴射事故で閉鎖されてた事 北陸トンネル列車火災の同日に日本航空351便ハイジャック事件が発生 鶴見事故のあった日に三井三池炭鉱爆発
いや〜悪いことって本当に重なるんだな 南海電鉄南海本線男里川鉄橋から急行電車が男里川に転落した事故の3ヶ月に、箱作駅構内の貨物線に
和歌山市行急行が冒進し、入換え中の貨物列車と衝突、翌年1月には天下茶屋駅で春木発臨時急行と
回送電車が衝突する事故があったこと 20年前、日比谷線中目黒駅付近での脱線事故があったこと
この事故がきっかけで、ボルスタレス台車から従来方式に回帰する傾向があったこと
8000系でボルスタレス台車の量産車対応に最初に取り組んだ営団地下鉄(東京メトロ)が
事故後の新造車(10000系以降)でこれを使用していないこと >>182
青葉って火傷していなければ、今も普通になに食わぬ顔して生活してたのかね? キハ80系で運転されていた時の特急「おき」と同じくキハ80系で運転されていた時の舞鶴線・宮津線経由の特急「あさしお」は、
表定速度53キロと日本一スピードの遅い鈍足特急だったこと >>328-330
逮捕されるけど精神疾患を理由に不起訴になってただろうな
あそこまでやったら、死刑か無罪のどっちかだ >>331
それ(「あさしお1号」)が、後発の「あさしお2号(ゴーサントー以降は3号)」に、
追い越される格好だった事。 583系寝台特急「彗星」の間合い使用による583系特急「にちりん」
583系寝台特急「金星」の間合い使用による583系特急「しらさぎ」
583系寝台特急「なは」・「明星」の間合い使用による583系特急「有明」 東北線方面で583系の間合い運用は「ひばり」だけか。常磐線で583系「ゆうづる」が3往復してるのに、「ひたち」への間合い運用は無かったな。
「はつかり」「みちのく」「はくつろ」「ゆうづる」と片道8時間のロングランが多かったからか? 阪急電鉄大阪梅田駅と阪神電鉄大阪梅田駅は、開業当初は現在とは別の場所にあったこと 厨房の時、下校しようとしたら雨が降ってて
傘を持ってなかった俺は下足室で
降りしきる雨をぼんやり眺めていた。
そうしたら、ふいに後ろから
「傘持ってこなかったの?」
という声。
振り返ったらクラスメートだった。
普段そんなに話さないから、「結構かわいい顔してるのでモテる」
という認識しかなかった。
「ん?ああ。天気予報見てくりゃよかった。」
苦笑いしながらこう答えると
「はい。」
持ってた傘をいきなり俺に渡して雨の中を走って行った。
唐突すぎてすぐに動けずにいる俺は、雨に煙る校庭を駆けていく
後ろ姿を見送ることしか出来なかった。
(冗談だろ? 20年前のマンガかよw)
苦笑しながらも、せっかくだからそいつの傘をさして帰った。
次の日、傘を返すついでに聞いてみた。
「いきなりなんだよあれはw」
「いや、なんか困ってるみたいだったし。
でも一緒の傘に入って帰るのも恥ずかし・・(ゴニョゴニョ」
少し頬を赤くしながらうつむいて話す。
俺は完全に惚れてた。
今、そいつは台所で俺のメシを作っている
結婚したいのに法律が認めてくれないし、生涯子供も望めない
だがそいつは未だに当時の傘を大事に持っている
これが私達の子供だと、あいつは相変わらず笑っている
あいつは強いし、俺達は何があっても大丈夫だと思う 日本国内のテレビ局で沖縄返還の昭和47年・1972年当時で
北海道から沖縄までテレビネットワークが充実していたのはTBSくらい。
3大都市圏と、札幌、仙台、広島、福岡と、新潟、金沢、静岡、岡山、那覇まで基幹放送局を民間で持っていたのはTBSしか無かったはず。
昭和40年代から昭和60年代のTBSテレビは報道番組とニュース番組はダントツに凄かった。
特に報道のTBSとまで言われた。
ロッキード事件と田中角栄の逮捕報道の特別報道体制は他の民間放送の追随を許さないほどの実力を示していた。
平日夕方の6時30分からはJNNニュースコープが放送されてニュースキャスターは
古谷綱正、入江徳郎さんと言う重厚な顔ぶれがニュース原稿を読み上げていた。
昭和40年代から昭和50年代のTBSテレビはテレビ局のネットワークも随一だった。
日本3大都市圏、札幌、仙台、広島、福岡の他にも新潟、金沢、静岡、岡山、那覇まで
基幹局を置いたネットワーク体制が成し得た民間放送としての実力であるが、
同時は北は北海道から沖縄まで全国ネットワークできる民間放送はTBSテレビしかなかったと思う。
報道のTBS、ドラマのTBSと言われた当時は同時にNHK以外では日本有数のネットワークが形成されていたことを思い知った。 東海道線と横須賀線が東京・大船間で同じ線路を走っていた。
東海道線は横浜を出ると次の停車駅は大船だった。
横須賀線の朝の上り、保土ヶ谷・横浜間は日本一の混雑率だった。
東海道線の東京口のの113系は大船と静岡持ちだった。 近鉄大阪線と奈良線は、昭和50年に方向別複々線に改められるまで、
上本町〜布施間では現在の大阪線下り線を奈良線難波行電車が、
現在の奈良線上り線を大阪線下り電車が走り、鶴橋駅1、2番線が奈良線ホーム、
3、4番線が大阪線ホームだった。 近鉄奈良線の新快速は、日本橋・上本町・鶴橋・生駒・学園前・大和西大寺、の停車で、
特急と1駅しか違わなかった事(日本橋に余計に停まるのみ)。 京阪神の快速電車の停車駅、万博前は
京都・高槻・新大阪・大阪・芦屋・三ノ宮・元町・神戸・兵庫・須磨・明石・西明石 新岩国・新下関から京都・名古屋・東京まで乗り換えなしで行けた。 総武線快速 馬喰町駅が、1996年まで、
国鉄型駅名標が入れ子になっていた。
同じく、稲毛駅・地下鉄東西線木場駅にも、国鉄型駅名標があり、
2000年後半まで残されていました。 千葉駅東口改札を出てから左にすぐ、公衆トイレ・マクドナルド・マロンド・
イッツェル・1000円カットがありました。
そのスペースが、何気に好きで待ち合わせ場所にもよく、落ち着いていました。 南海高野線の河内長野駅が特急停車駅になったのは昭和58年からで、
それまでは、特急「こうや」は堺東〜橋本間は無停車だったこと 1編成しかその頃なかったのでなかなかこうや号の座席指定券取ることができず21000系の臨時特急に乗り運が悪ければロングシートに金払う羽目になったことラッキーなことに自分はまぬがれました 電車でGOプロフェッショナルの運転技術
コロナで外出できないから久々にやっているが、よくこんなのクリアできたなぁと。
しかし、やってるうちに高得点で記録更新したり結構あそべるゎwww 1年前は特番だらけ
2355は通常通り放送してたけど 阪急六甲駅構内で、山陽電鉄特急の回送電車に阪急神戸線特急が衝突した事故 阪急神戸線の特急停車駅は
梅田・十三・西宮北口・三宮のみだった事 名鉄特急「北アルプス」が、JR西日本管内に乗り入れて富山まで直通して、
3社直通運転だったこと >>362 東武6000、京王5000、京急1000、側面方向幕付いたのいつからですかねえ?
前面方向幕だったらもっと早い。 >>362 東武6000、京王5000、京急1000、側面方向幕付いたのいつからですかねえ?
前面方向幕だったらもっと早い。 南海本線に各駅停車(今宮戎・萩ノ茶屋にも停車)が存在したこと 名古屋〜金沢間の高山本線経由の特急「ひだ」・急行「のりくら」
急行「のりくら」はキハ58系による運転だったが、夜行列車もあったこと >>363
その前は宇奈月温泉まで行ってたな。
サンダーバードもだが。 正確には立山まで乗り入れ
その間合いのアルペン特急運用で宇奈月温泉にも乗り入れ 「たまプラーザの名付け親は岡本太郎」というデマが出回ってた事(当然事実無根) >>363 >3社直通運転
正確に言うと国鉄時代の話で、「名鉄・国鉄・富山地方鉄道」の3社線。
JRに変わってからも立山乗り入れしていたら「4社線」乗り入れだな。 8スト情報(1978)
あすの国鉄ストは
正午の半日まで行われます
運休するのは特急・急行で
新幹線・国電などは平常運転です たまには違った方向から・・・
みなさんも、かつて持って帰ってきたはずの・・・
「シングルデラックスの洗面セット」
「100系新幹線のシートサービスメニュー」
「トランヴェール」
「北斗星のヘッドマークの紙コースター」等
の保管場所w >>377
その両国駅の急行列車乗り場と新宿駅の特急・急行列車乗り場の入り口に改札が有って、
急行券・特急券を検札,回収していた。 京阪電鉄びわこ浜大津駅は、昭和56年に駅舎統合されるまで、
京津線と石山坂本線は駅舎が別になっていて、三条〜石山寺間の急行も運転されていたこと。 西武拝島線玉川上水駅に、屋根も番線案内も一切ない、一見廃ホームのような頭端式ホームがあったこと。
小学校の遠足で、この駅から飯能へ直通する臨時電車が出て、往復それに乗った。
確か451系の6連だったような気がする。
後に玉川上水〜小平間の区間運転用に多少整備されたと聞くが、そのときはどういう形になったんだろうか。 >>382
京津線の浜大津と石坂線の浜大津東口は
駅舎どころか駅自体が飛び地で離れていた
頁下方に航空写真(1975、2008)
ttp://tsushima-keibendo.a.la9.jp/keihan/keishin2.html
江若の16番レイアウト(京阪浜大津あり)、再開発前の構内案内図など
ttp://takehiro-tanimoto.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-f49c.html
ttps://lycaste621.shiga-saku.net/c1618.html
16番浜大津セクション
ttps://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bb-62/rakuhokuitiban/folder/443895/62/10027062/img_0
ttps://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-9f-f9/keihan2600club/folder/75378/46/35860546/img_0_m?1457872800
ttps://2.bp.blogspot.com/-cPNh6yU5FZo/VSPsLxgM5II/AAAAAAAAAcw/wJ_hKFObnDs/s1600/hamaotsu-station-diorama.jpg 大阪環状線が現在のように正式に環状運転になったのは昭和39年3月22日で、
西九条駅の高架化が完成するまで、大阪環状線は桜島〜西九条〜大正〜天王寺〜鶴橋〜京橋〜大阪〜福島〜西九条〜桜島といった運転形態だったこと >>383
廃墟状態から一応こぎれいに整備されて上りホームから間にある留置線を渡る構内踏切も作られたけど屋根もなく輪郭はもとのままだったな。
朝の小平行にしか使われず玉川上水終着の列車はなくこの列車用の車両は回送で送り込まれてきた。
廃墟状態の頃はそのホーム発着の立正佼成会の墓参り貸切列車も運転されて
拝島線は非冷房の赤電しか走って来なかった頃に冷房付の101系でうらやましかった思い出がある。
まあ、お彼岸で冷房は使わない時期だったけど。
まだ現北口ロータリーや車両基地が米軍基地跡地の廃墟だったころ。 北丹鉄道という非電化の小私鉄が福知山駅から分岐していた。
同社は、線路保守も車両の修理もできない経営難だったこと。 でも北近畿タンゴ鉄道引き継いだしな。江若鉄道引き継ぎ湖西線みたいなもん。
福知山駅と言えば旧型客車のメッカかつ1960年代後半福知山線からは貨物除きSL牽引列車が引退後も福知山から先はSL牽引列車乗り放題だった事いうのが優先順位としてはやはり先に来る思う。 主にターミナル駅の切符売り場の中に拾得定期券の掲示板が有り、
定期券の日付、区間、氏名、保管場所が、記載されていた。 >>385
その経路では西九条で進行方向が変わる。
最初の桜島は不要では。 >>385
その経路では西九条で進行方向が変わる。
最初の桜島は不要では。 >>373
川西飛行機工場の貨物輸送のため、武庫川線が三線軌条だったこと
武庫川団地延伸まで、終点だった武庫川から北、洲先から南の廃線で三線軌条がそのまま残ってたこと 阪神電鉄本線で運転されていた準急は、ジェットカーによる各駅停車の停車駅を
少し減らしただけのいわば赤胴車による各駅停車としての位置づけで、
停車駅も多く、一駅置きに停車といった運転形態で、途中駅から特急や急行と停車駅が
同じになったり、2駅も3駅も連続通過する列車ではなかったこと >>388
北丹は線路が由良川の河川敷を通っていたため、毎年梅雨から台風のシーズンにかけ
川が増水するたび線路やバラストが流出、まともに保守もできなかった 東海道本線尼崎駅は、かつて「神崎」という駅名だったこと 福知山線は昭和31年に尼崎〜塚口間がすでに電化されていて、EF58牽引の
展望車付きの客車特急「つばめ」などが方向転換のために塚口まで入線していたこと。 天王寺駅1番線、2番線は紀勢本線直通優等列車用ホームだったこと。
ここにも中間改札があった。 阪和線堺市駅の天王寺方と和歌山方に上下線との連絡用ポイント(渡り線)があったこと ATS-Pは、スピードオーバーによる脱線事故を防げる手段ではない事。 1990年、大阪の鶴見緑地で開催されたされた「花の万博」開催期間中に運転された
京橋発着の特急「エキスポくろしお」と京橋発着の天王寺経由特急「エキスポ雷鳥」 非電化時代の片町線の長尾−大住間に煉瓦造りの短いトンネルがあったこと。
当時は松井山手駅はまだ建設さえ行われてなかった。 大阪メトロ谷町線の起点駅が大日になったのは、昭和58年
それまで谷町線は大日の次の駅の守口が起点だったこと 阪急宝塚線の三国〜庄内間に半径100mの急カーブがあったこと 阪急三国が準急停車駅だったこと
梅田・十三・三国・豊中以遠各停(箕面行・池田行) 1991年3月まで、JR西日本桜島線で101系が運用されていた >>408
そんなん知らんかった
176号線を跨ぐ鉄橋ができる前なんかな?? >>408
仙石線の本塩釜のカーブもすごかったな
と言うかあれでは三国駅が急行みたいに通過でも準急みたいに通過でも変わらん 近鉄桜井駅の伊勢中川寄りにもきつめのカーブがあって、桜井駅構内改良により
カーブが緩和されるまで特急も桜井通過の時は、スピードを落としていたこと >>412
関西って101系顔の103系が走っていたよね? >>416
素人目には103系も同じ顔のカテゴリだけど、
どう違うん?
窓が大きいの? >>418 何で103で前面窓少し小さくしたか?
スト権奪還などのスローガンやステッカーを組合が貼るスペースを広げるため。
103ATCはもっと広げた。急行型、更には一般型気動車のキハ40も同様。 京阪神緩行線で一時期、福知山線から明石電車区に転属した高運転台の
スカイブルーのクハ103を先頭にした103系7両編成が走っていたこと >>416
大阪環状線の一部を8両編成化に伴いサハ101形とクハ100・101形の一部がサハ103形750番台とクハ103形2000・2050番台に改造編入 >>417
そうじゃなくて、どう見ても101系に見える103系があった >>424
関西線や阪和線に入っていたクハ103の一部だろ。
あれはクハ101とクハ100からの改造だから、車体はまんま101系だった。
奈良に住んでいた頃俺も見たことがある。 JR東海飯田線北殿駅で、停車中の119系と構内に進入してきた165系が衝突した事故 三鷹事件の生き残り車両が西武鉄道で旅客列車として走行していたこと。 東北本線に115系の塗り分けをした113系1000番台がいたこと。
タイフォンの位置が115系と異なっていたので、すぐ見分けがついた。 なんとなく、トリビア・スレの様相に…
忘れていたというより知らなかったよw 新幹線300系は初期トラブルが多かったこと。
部品が脱落して、その部品がホースを切断したことから東海道新幹線内で300系ひかりが4時間立ち往生したり、
マスコンハンドルが折れる事故も(施工は川重) それ以前の問題として、300系の企画自体が
JR発足直後の見切り発車状態だった為、設計上の欠陥が重なったこと
それらの中には、量産化前にすでに判明していたものもあったが
計画上の問題から、すでに引き返せない状況に・・・ 新幹線100系は、登場当初、2階建て車両2両を外して編成減車された12両編成で「こだま」に充当されたり、
2階建て車両が1両しか連結されていなかったこともあること。 動橋は昭和45年9月末まで特急停車駅、長いホームと広い待合室がその名残。 泉北高速鉄道は開業時から1993年まで全業務を南海に委託していた。
そのため、泉北高速線の運転士、車掌は南海の乗務員だった。 山陽本線の111系に、
湘南色なのに側窓周りの橙色の幅が
スカ線や急行型と同じように狭い塗り方の車両がいたこと。
通常の幅広の塗り方の車両と混結するので、
凸凹の外装だった。 京急新馬場駅は、北馬場駅と南馬場駅が統合されてできた。
そのため、ホーム有効長が200メートルと長いこと 新京成の北初富駅近くに北総線との連絡線があったこと ほぼグリーン車、のグランドひかり1階席。
ほぼ2人用個室、の24系25型の端っこ。
ほぼA寝台、の583系のパンタグラフの下。 特急たんば 京都〜福知山
特急文殊 新大阪〜天橋立 京都丹後鉄道宮福線は、開業当初は電化されていなかった 急行つくばね号は新幹線の上野開業前まで走ってたこと。
水戸線が筑波山の麓を通るから「筑波 根」なんだろうと邪推してますた。
彼の地ではお山を筑波嶺と呼ぶのだそうで(恥) >>438-439
名鉄の島氏永もそれだったはず。 山陽新幹線0系「ウエストひかり」に連結されていたビデオカーとビュッフェ車改造の子供の遊び場
キハ181系臨時特急「マリンはまかぜ」に連結されていた客室の一部が子供の
遊び場に改造されたキハ181 グリーンアテンダントの元祖ともいえる東北新幹線のソワニエ
東北新幹線の個室
同上の二階建て車両 >>450
だったら普通に「つくば」でもいいだろと思ったわ
「つくば」じゃなくて「つくばね」にしなきゃならないのは何故だろうか?
商標登録とか? >>447
福知山止まりのきのさきが元のたんばか
でもきのさきの方がたんばになるべきだわ
あと文殊は走行区間ごと消えたな
むしろ「もんじゅ」ときいたら福井にあったあれの方を思い出す 泉北高速鉄道の3000系や100系が南海高野線の各停河内長野行、三日市町行などに使用されていたこと 南近畿ワイド周遊券では紀和〜和歌山市間は乗れなかったが、のちに和歌山市駅でも
乗降できるようになったこと 二階建てグリーン車は二階席から埋まるのに、おっさんだけに限ると一階席からな理由。 >>461
言いたいことはわかるが、俺は変に疑われるのが嫌なので、階下の窓際に座ったらカーテン閉めるwww >>455 考えられる原因、常磐線から筑波鉄道線に乗り入れる臨時快速「筑波」と間違えられやすい。こちらの方が筑波山の登山口に直行する。 つくばねの通る水戸線沿線なんて裏筑波だろと言ったら、下館、岩瀬辺りの住民から叱られるか・・ 黒石線が弘南鉄道に移管した初めの2年間だけ、黒石線の方の川部駅は弘南川部が正式名称だったこと。 阪神大震災の時、JR東日本の秋田車両センター所属の非冷房のキハ58系を
JR西日本が借り入れて、播但線の普通列車に使用していたこと 御庄か、懐かしいな。
山陽新幹線新岩国駅と隣接するも、全く接続の意図無し。
清流新岩国駅になって、少しは変わったのだろうか? トイレのような臭いが立ち込めるホームから、ロッド式のディーゼル機関車牽引の臨時快速筑波が発車する土浦駅。
駅舎は軍艦のような形をしていた。 トイレのような臭いが立ち込めるホームから、ロッド式のディーゼル機関車牽引の臨時快速筑波が発車する土浦駅。
駅舎は軍艦のような形をしていた。 紀勢本線の特急「くろしお」の381系電車への置き換えは、昭和53年10月のダイヤ改正前の
昭和53年9月15日から順次実施されていったが、381系に置き換えられた「くろしお」は
キハ80系気動車のダイヤのままで運転されたため、電車化によるスピードアップはダイヤ改正の日までお預けだったこと。 それで昭和53年9月にはさっそく「おおよど」に「天ワカ」印の車両がお目見え。
休む間もなく酷使された。 大阪環状線・関西本線の今宮駅は、昭和39年に大阪環状線に新今宮駅が
開業したことにより、廃止されかけたことがあること。 板谷峠を通過するつばさ(キハ81)に補助機関車(EF16 EF64 EF61)を連結 2250kw、2550kw、3900kw な〜んだ? 6,000kw を瀬野八で覚醒させ、1300tに対応させる計画で、電力設備増強工事も行われたが、
覚醒計画自体は結局幻となった。
あらゆる場面で桃太郎にお株を奪われた可愛そうなやつだった。 >>482
2,250kw はEF70の初期タイプ >>485
モーター3つしか無いからな
EF30と同じ >>485
非力ってさぁ・・・。
そんなんが幹線クラスでブルトレや貨物列車牽かないでしょwww
ざっくり見てもED76相当ですよ? >>487
変圧器を用いた連続制御の交流機と
一旦整流してからの抵抗制御の交直機を一緒にはできないでしょ
再粘着性能からしても、ED76に軍配が上がる 越後下関、羽前金沢、筑前大分、豊前松江、
などの駅については、読み方からすれば旧国名を付ける必要はない筈である事。 何故横浜でない方の根岸に旧国名がつかないかについて >>480
EF200を岡山〜下関に閉じ込めて、セノハチで本気モードで使えば補機不要になるんじゃないの?
って思っていたけど、セノハチの区間はカーブで速度制限があるから無理
って理由を知ってなんか残念な気持ちになった。 国鉄大隅線は、全通から13年半後の昭和62年3月14日に廃止された。 インタビュー受けたおじさんが「やっと通ったと思ったら、生きてるうちに廃線になるとは
思わなかった」て言ってたのが今は昔。 大隅線には、駅名に大の字が付く駅が7つ連続していた 大村線にある「諏訪」という駅が、以前大隅線にあった事。 海潟が終着駅だった頃は改称後の海潟温泉より少し違う場所にあったこと 現在地に移転した当初の宇多津駅は、優等列車は通過し、快速でも通過する列車があったこと 泉北高速鉄道泉ヶ丘駅は開業当初の終着駅だった。
その後、栂・美木多まで延伸されて同駅が終点となり、のち光明池が終点、その後、
和泉中央まで延伸されて現在に至る その開業当時はまだ泉北高速鉄道線も、南海高野線も非冷房ばかりだったこと。その後、栂・美木多駅まで延長しても、泉北高速鉄道線の車両は非冷房ばかり、光明池延長でようやく冷房車が入った。 山手線103系冷房取り付け準備工事済み車両
結局付いたんか、廃車か? 土讃本線、予讃本線、高徳本線、徳島本線の路線名称は、国鉄民営化後に
予讃線、土讃線、高徳線、徳島線と「本」が付かない線名に改称されたこと 東海道新幹線から0系が消えても、かなり長い間、東京駅のピクトグラムに残っていたこと。 東京―神田間(東北本線・中央本線)、代々木―新宿間(山手線・中央本線)は、
「二重戸籍区間」だった事。 >>503
103系の冷房準備工事済車って何年製造ロットが該当する? 512(σ´∀`)σ ゲッツ!!
512キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
512(・∀・)イイ!! 金山は中央本線の驛であり東海道本線には驛がなかった
名鉄も金山橋であり複々線ではない >>511
子供の頃、現物見た覚えがあるんだが、よくわからんのよ。 エコがテーマの筈の「愛・地球博」が開催されてるさなかに、名鉄岐阜市内線が廃止された事。
(日本人の環境保全に対する意識なんて所詮その程度、と思わせた) その岐阜市内線を廃止に追い込んだ理由が美濃電の名鉄買収への恨み 愛・地球博より前にすでに、ぎふ未来博開催に伴う観客輸送経路確保のために、
長良線を廃止した前例がありますから、岐阜市は。 今の岐阜市内の道路の狭さを見ると本当にここに電車が走ってた事を忘れそうな程。 夜中に列車整備のおばさんが電車を勝手に運転して事故を起こしたこと 野上電気鉄道(廃止)が、水間鉄道から500系(元南海の旧型電車)を譲り受けたが、
車両が重すぎて使えず、解体された。 えち鉄5001形は旧永平寺線には入線できなかった
理由は上と同じ 近鉄大阪線で区間急行が設定されていてしかもその頃の急行は今の快速急行よりむしろ停車駅今の特急とほぼ同じだった 冷房設置前から「ス」級の重さだったスロ54は、
冷房化と引き換えに旧態の軽い台車に換装された事。
だから、夏以外の季節はサービスダウンになったような…。 近鉄鳥羽線が鳥羽まで到達したのは昭和45年3月1日
それまで近鉄志摩線は狭軌で孤立していて、鳥羽駅の国鉄ホーム側から発着し、
国鉄とレールが結ばれていた >>524
スロ54で振替に使われた台車はTR23D。元は古いが揺れ枕吊りを新製の長いものに変更して、
精一杯の乗り心地改善には配慮している。
なお、このTR23Dはスロ54のためではなく、元々スハネ30に使用するために改造されたもの。
スハネ30が冷房化から除外されて廃車されたため、発生品を流用した。 1970年代後半の山陰本線急行「丹後」の下り3号、上り12号は
京都と城崎を全線山陰本線、つまり福知山経由で結んでおり
令制国の「丹後国」を1フィートたりとも走っていなかったこと 阪急宝塚線 初詣特急宝塚行
停車駅 十三・石橋・川西能勢口・中山・清流神・宝塚 小田急
ホーム分割案内板Aを境に前6両が急行箱根湯本行き、後4両が急行片瀬江ノ島行きです 小田急
相模大野駅に江の島線からの急行着いて後ろ6両に小田原線からの急行連結するその待ち時間に小田原線から各駅停車が先に着いて先に発車新百合ヶ丘まで先着あれはやはり急行の混雑を緩和するため江の島線から町田までの客逃がしてた? 東急8000系にクーラーのカバーを載せただけの偽冷房車があったこと キハ58のみの編成だと、冷房改造車であっても稼働させることができず、
冷房装置は「お飾り」になってた事。 >>535
非電化末期の片町線長尾〜木津間で運用されてた
キハ47+58の2両編成。58側で冷房が稼働してたけど
どこから電源とってたんだろう 夏の山陰本線京都口の海水浴臨「丹後ビーチ2号」は
宮津線久美浜・小浜線敦賀〜京都の運用(西舞鶴で併結)だったが
久美浜編成はキハ58、28の冷房改造車、非冷房車の混結。
同じ指定席車でも冷房と非冷房が混在する不公平なサービスだった
しかも敦賀編成(3両)は全車冷房稼働で全車自由席
指定席料金で乗って久美浜編成の非冷房車でクソ暑い思いしてる客より
そちらの自由席に乗った客の方が快適に旅ができるというムカつく事態も発生していた 朝の上り通勤電車に"サロ"や"サハシ"が入っていたこと。 サハシは電源車だったり、奇数偶数の入れ替えのために外せなかったんだっけ? 日田彦山線にはもう一つトンネルがあるはずだったこと。 南海本線の特急「四国」号の1001系は、難波までの車両の送り込みで、
朝の急行にも使用されていた。 急行どころか休日の樽井発準急にもな。
準急と言っても今の区間急行であるが。 早朝の河内長野〜高野山・極楽橋間の各停運用に21001系ズームカーが使用されていたこと >>537
そういう無神経なところはしっかりJRに引き継がれた。
485系「いなほ」なんかで、指定席が原型のボロ車両、自由席がアコモ改造車両だったり。 運転開始当初の485系特急「北近畿」は、指定席車がリクライニングシート車、
自由席車がT17系のシートと差別化が図られ、指定席車と自由席車ではグレードが
異なるなどの差異も見受けられた JR東海のキハ82は指定席が転換クロス、自由席が回転クロスだった事。 国鉄末期になって、北海道のキハ80系はシートのモケットがキハ183系と
同じ茶色のモケットに貼り替えられていたこと 宇高連絡船のホーバークラフトは急行便の扱いで、乗船するときは、国鉄→JRの乗車券の他に
船急行券が必要だったこと。
ホーバー内の席は自由席だった。 >>550
海の新幹線とも呼ばれ、客層はビジネスマンが多かった。 阪神電車の特急には8000系以降の車両を除き、
ホーローのベッドマークが付いていた >>536
キハ47から?それともキハ58を改造? 阪神西大阪線の電車は赤胴車とジェットカーだったこと >>553
536自身がその辺の事聞いてるわけだから。
で、考えられるのは、「キハ47に発電機積んだ」って事だけど、
こんな事ができるんだったら、もっと早く冷房普及しただろうな…。
あと、身延線に投入された115系は、2000番代ながら当初は非冷房だった事。
というより、この車両は、モハ114のパンタグラフ取り付け部の屋根が低かった事、の方が特筆されるべきか。 >>555
PS23積んでもまだ対応できなかったから、さらに低屋根構造にした新車を
仕方なく新製投入になっただけで、パンタで対応出来たらどこか
ほかの路線からの転属車でまかなってたんだろうな。
山スカに新車を入れて、モハ114-800をPS23に積み替えて身延線に転属すればよかったってことか・・・ 身延線の2000番台に冷房が搭載されなかったのは当時の国鉄の財政事情を反映してると思う。
JRになってから早い時期に冷房を搭載したけど、冷房準備車であるにもかかわらず、
搭載したのはAU75ではなくJR東海独自のインバータ式冷房だったからな。 >>558
>>554はS40〜49のことを言ってるんだと思うが、当時の西大阪線の列車種別は
尼崎〜西九条間の普通と、三宮から直通する特急の2種類だけだった
普通はジェットカーの2両編成、特急は赤胴の3両編成だった 電源車付のブルートレインを途中駅で分割するとき、
電源車を失った編成に待機させていた電源車を繋ぐという面倒くさい作業があったこと。 その電源車は旧型車両(20系の時は旧客、24系の時は20系)を改造して使っていた事。 電源車といえば、サヤ420ほどの変わりモノはないな
しかも登場時はよくある改造車ではなく、改造されることを意図した新製車という面白いコンセプト 山陽新幹線博多開業前は、
「はやぶさ(20系)」:東京―西鹿児島・長崎
「みずほ(14系)」:東京―熊本
で、「はやぶさ」は鳥栖で電源車を増解結、その煩わしさがない車両の「みずほ」が分割併合無。
という不合理な状況だった事。
新幹線博多開業時のダイヤ改正で、これが改められた。
しかし、どのみち機関車の増解結は不可避なものを、電源車だけが何でそんな問題視されたんだか…。 私鉄の始発駅では、ホーローの行き先看板が立てかけられていた事 みずほの長崎編成は電化区間なのにDD51重連が牽いてたねぇ。 寝台特急「明星」は583系電車と24系客車で運転され、一時期は7往復も設定されていた >>565
交直流特急車の製造が間に合わずに暫定的に151系で九州直通してたからな。 JR若桜線廃止日にマイテ492を連結した臨時列車が若桜線で運転されたこと >>570
博多〜下関、瀬野〜八本松がネックで、
151系つばめより80系かもめのほうが博多〜岡山間の所要時間は短かったモンなあ。 そんな強引なやり方ででも直通列車運転しようとした時代があったんだよな。
今とは大違い。
そのうち、大阪(名古屋)―金沢程度の距離でさえ直通できなくなるし。 小郡(現新山口)〜広島間の電化がもう1年早ければ、
東京〜博多直通の151系つばめが設定されただろうね。 >>569
583系「なは」「きりしま」も、名が違うだけで役割は「明星」と同一だったから、
それも含めると凄い本数になりますね。
「ゆうづる」「はくつる」もそれに次ぐ勢力でした。 大阪市営地下鉄千日前線で、50系の置き換えのために御堂筋線から転属した
30系が千日前線用25系投入まで短期間運用されていた 京急と東武が同じ企業グループに属してる(してた)こと JR難波発着の関空快速があったこと
東岸和田と熊取を通過していた「関空特快ウイング」に指定席車が1両連結されていた 南海本線の特急「四国」号の座席指定車は車端部のロングシートでも、
指定席料金を徴収していた。
21001系使用の特急「臨時こうや」号も同様だった。 >>574
その後、こだまとひかりが同額になったが、
はやぶさとやまびこ、のぞみとひかり、みずほとさくら
も同額になりそうな予感 >>583
「はやぶさ」と「やまびこ」の料金に違いなんかないぞ。 >>579
五島昇翁の死去広告(新聞1ページまるごとのデカい広告だった)に旧大東急各社のほかに
東武も名を連ねてたな。西武がないのは当たり前だったがたしか京成もなかったな。 仙石線の103系のクハ103と同線の103系改造の2両編成の105系に、
清涼飲料水の自販機が設置された車両があったこと >>559
阪神7801・7901形電車は西大阪線で運用されていた。
7831 - 7834の4編成は7861形との3両固定編成
阪神2000系電車の種車は7801・7901形の3次車 阪神7001・7101形電車 201系の最終増備車は、
・ATS-S搭載省略
・客窓の2段上昇化(行先表示器下のユニットは別)
・車両番号の記載がステンレス板→ペンキ
ってな具合に、103系的装備に戻された事。 南大阪線の特急の停車駅は橿原神宮前・下市口・大和上市・吉野神宮だったこと >>589
西日本所属の上段窓下降編成も103系リニューアル車に合わせられて上段窓が上昇式になっちまったのが皮肉
本当なら103系も201系後期型も上段下降にするべきだけどな
東日本や東武の固定窓からの改造窓みたいに 5ちゃんねるが「2ちゃんねる」だった頃、路車板で「東急厨」と「東武厨」が火花を散らすようなバトルを日夜繰り広げていた >>585
一応今も所属はしているみたい
ただ芙蓉グループ自体ここ数年そんなに表立った活動はしてないからなあ・・・ 205系のうち、最初の4編成は客窓が2段式だった事。 京阪電鉄京阪本線が1500ボルトに昇圧されたのは昭和58年12月のこと
それまでは600ボルトだった 南海天王寺線に住ノ江直通が、汐見橋線に堺東直通があったこと。 >>597
南海天王寺線が天王寺〜天下茶屋間だった頃は、1521系2両編成の代走で、
時折、南海本線の7000系非冷房車2両編成、7100系冷房車2両編成、
高野線の6000系非冷房車2両編成などが天王寺線で運用されることもあったな >>595
富士急で健在だからみんなが知ってます。 >>598
7000系非冷房車が本線普通主流なのに7100系冷房車が加太線だとかそういう
2両編成言え支線優先なこともあったな70年代後半海水浴電車当たり前時代勿論高速道路殆どなかった道路事情もあるが 新大阪駅20番ホームは山陽新幹線の列車しか発着しないが、東海道新幹線の列車も
発着していたことがあったこと 「JRでも、乗車券だけでクロスシートに座れた事」
って振り返るような時が来そうだな…。 撒き散らしトイレの後、タンク式というのがあった。
ペダルを踏むと流れる水の色が何とも言えなかった。 ブルーレットおくだけ
は、鉄道のトイレに入っても驚かないようにするための準備用なんだな。 身延線富士機関区の旧形国電が、115系置き換えまで中央本線塩山⇔韮崎の区間運転に走っていたこと。
なぜわざわざそんな運用を組んでたんだろう? >>605
京王線がなかったらもっと遅れていたな
1968年昭和43年に京王帝都の冷房車の5000系電車デビューしたからそれでも1973年だから5年も遅れてるわけだがw
親戚の家が京王沿線だったのラッキーw 時刻表に載ってるジョイフルトレインってまだあるのか?
あっても客車ではないだろうし
デザートは食べられないだろうな…
知らない人と個室の旅になることもないだろうし
1A-1Dと2A2Bの6席が1号室という売り方だった >>600
当時は高速道路どころか第2阪和でさえ建設途上だったからな。
南海本線沿いの旧26号しかなかった時代だし。 新潟色の70系は昭和53年に115系に置き換えられたが、その115系は高崎線などから
新潟地区に転属してきた車両だったこと その115系そういう理由なのでせっかく70系電車1978年昭和53年置き換えても昭和終わる迄非冷房車のままだったこと165系が新潟はこの時代唯一の冷房車で2扉デッキつきだったにもかかわらず、朝ラッシュ長岡発新潟行き使われたことhttps://books.google.co.jp/books?id=SQ7UBgAAQBAJ&printsec=frontcover&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 298p
6時37分長岡発新潟行き普通電車425M
427M後続電車と所要時間がかなり違う 近鉄高安検車区に留置中の30000系ビスタカーが時限発火装置により放火された。 一見「近郊型電車」だった、モハ62+クハ66の存在。 >>607
京王は冷房化のスタートは早かったが
冷房100%はあの、セコイ西武より遅かったんだよな 信楽高原鉄道正面衝突
日比谷線中目黒駅
福知山線脱線マンション突撃
https://www.mlit.go.jp/common/001114718.pdf
いくつ覚えてる? 関東鉄道常総線取手駅構内で、ブレーキ故障により列車が車止めを突破して、
駅ビルに突っ込んだ事故。 >>616
そんなの、新幹線重大インシデント事件と同じく
ほぼ現役だろ
最低でも
餘部鉄橋落下事故
東西線転覆事故
京王線重機衝突事故
そろそろ忘れられそう >>616
>>618
神戸市須磨区のJR山陽本線を走行中の寝台特急「さくら」が、線路沿いの上の
道路から線路上に転落したトレーラーと衝突して脱線し、そこへ隣の線路を
走っていた201系の普通電車がさくらの客車に衝突した事故 >>585
>>594
芙蓉会自体は一応存在しているけど、バブル崩壊以後は目立った活動はしてない
旧・富士銀行をメインバンクとしていた企業による、横つながりだから対等関係が基本
中央集権的な企業集団とは性質が異なる
元々、安田財閥系の安田銀行をメインバンクとしていた
諸財閥(浅野、根津、大倉)や、新興財閥(森、鮎川)が戦後の財閥解体により
その関係会社が結局、金融面の都合で後進の富士銀行を頼ったこと
京急が参画した理由は大東急解体による再分離後
富士をメインバンクとしたことによるもので、それ以前は関係なかった >>586
その頃、京成は禊中(経営危機により民鉄協脱退中)だった
脱退期間:1980年3月〜1990年4月
高度成長期の不動産投資に失敗して多額の負債を抱えてたから
副業も失敗の連続、70年代末には・・・ あの頃の過激派が今老害で電車で暴れる
う〜ん、これは何と言うかとんだ茶番だ 宗吾車両基地に留置されていたスカイライナーが過激派によって放火された事件 「スカイライナー」は昭和58年10月に、上りのみ日暮里停車になった事。 普通列車が、時間帯で通過していた駅
東海道線の川崎
東北線の浦和 >>625
山口百恵引退した1980年10月までだな
それ以降は大垣夜行の上りのみ川崎通過
ちなみにこれは偶然なのかわからないがTV朝日アフタヌーンショーザ・ぼんちそうなんですよ川崎さん、いやちょっと待ってください山本さんの物真似をしてブレイクしたのもちょうどこの頃だった
https://youtu.be/Y62_cTG_Kek 最近の出来事
E351が大久保の道路にパンタ忘れた 湘南新宿ライン池袋駅に金太郎が引く貨物列車が臨時停車 >>597
もはや天王寺線があった事も忘れられているかも? 新宿−新大久保間の6600Vの高圧線のある壁沿いにおっさんのバラバラ死体が置いてあったこと。 廃止された名鉄八百津線は非電化だったが1984年までは電化されていて、
パノラマカーが乗り入れていたこともあったこと。 しらさぎ号は全列車名古屋〜富山間の運行だった事。
その頃の米原発は加越号だった事。 幡生−益田 が本線で、特牛の駅前に吉野家も松屋もないこと。 バーガーシティが最安のハンバーガーチェーンだったこと 村
岡
万
由
子
↑
横書きすると弾かれるな。一文字づつ空けても 201系900番台
東急車5両と
日車5両
それぞれ単独5両、日を変えて三鷹にやってきた 岩徳線は結構登下校時間は生徒たちとか沢山乗ってるね。
岩国から徳山まで乗ってみた。
周南市街地はシャッター街w 全国どこでも問題になって久しいのよ
地域おこしでシャッター街無いように出来ないか? 徳山駅前は県内で最も地価が高かったのにな
シャッター商店街、店と家が一緒になってて年取った家主が貸さない手放さないから廃れていくって聞いた事ある
駅前一等地や商店街というのは街の顔を担っているわけで、地主好き放題にしたら、どんどん街が廃れていく
だから国や行政も空家を取り壊ししやすくするための法律や条例を作ったり、作ろうという動きがある
これは地主に限ったことじゃなくて、鉄道会社や電力会社などのインフラ企業も、民間だから好き放題できるわけじゃなくて、社会的責任があるのと一緒 汽車が来ない時は軌道を歩いたくらいで叩かれなかったこと
ま、良くも悪くも、いい加減だったというか・・ ストの時線路を歩くサラリーマンの姿がありましたね。 線路があった頃の鉄道総研の引き込み線を抜け道がわりにするOLさんたち 東京都国分寺市の中央鉄道学園跡地に、朽ち果てた新幹線0系の先頭車が放置されていたこと。 富良野線は開業当初根室本線の前身釧路本線だったこと 芸備線がNゲージのように脱線して営業列車なのに乗客がゼロだったことが晒される 嵩上げした前後の低くて長いホームには、6、7両編成の旧客が停まっていたこと。 交直流急行・特急型電車などの一部の車両には、出入口にステップが付いてた事。
しかし、晩年にはそれが埋められるケースも出てきた事。 大阪府吹田市の万博記念公園と大阪南港で鉄道博が開催されたこと 和田岬線では平成になっても通勤輸送のための旧客が走っていた事 横軽は車番の前に●記号が付いた車両しか通過できなかったこと 昭和50年台までの国鉄。
手動ドアで平時は開けっ放しの列車多数。
自動ドアでもホームにかかっていないドアを平気で開けたこと。
普通列車の車内放送は6、7駅毎にしかしなかったこと。 モハ114-800番台:
冷房ダクトが低屋根部分の入り口で途切れていて、低屋根部分にファンデリアが存置されていたこと。
冷気は届かないし、天井からは生ぬるい風が来るしで、夏はあまり低屋根部分には逝きたくなかった… 能勢電の1000系、1500系、1700系は、阪急から移籍の際に、連結面を80mm延長する工事をしたこと。
(高架化前の川西能勢口にあったR=40の急カーブ対策) >>655
電車に関しては、その●を「協調運転可能」と間違える奴もいた事。 リバーサルフィルムの情景が「昔」になってしまったこと。 >>658
同じ低屋根車でもモハ164の場合は冷房改造した時にファンデリアを撤去したうえで、
ファンデリア用の風道を冷気ダクトに転用して冷気が客室全体に満遍なく伝わるようにしてたけどな。 そこが急行型と近郊型の違いなんだろう。
あと、モハ114-800は、AU75系じゃない事も影響してるとかは? >>665
急行型の場合、指定席になる場合もあるだろうからかと思う それの12番と35番が、1975年10月にEF63諸共転落事故起こして廃車された時、
”損失補填”されなかった事。 機関車のみの回送編成だったこと
←軽井沢 EF62 35+EF62 12+EF63 9+EF63 5 横川→ 横川―軽井沢間を自力走行できる電車の構想もあった事。 大回りして補助機関車が不要な勾配に抑える構想もあったこと。その場合横輕間40分実際出来た新線はEF63連結で19分。 そろそろみんなが忘れてそうな事
長野行新幹線が横川を通らない事 「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね ええ、夏、碓氷から霧積へ行くみちで 渓谷へ落としたあの麦藁帽ですよ…」
北陸新幹線(長野行新幹線)が跨ぐ道? >>671
>横川―軽井沢間を自力走行できる電車
実は
115系4M1Tで普通に走れるんだよね
普通に走ってれば、なんの問題も無い 霧積温泉といえば伊勢崎市の井上恵子さん?
生きていれば70歳超えてるな。 在来線当時の上野―長野間の走行距離は、現在の新幹線より短かった事。 常勝ではなかった頃の若鷹軍団(歌詞にある「無敵の〜」とは程遠かった) 横輕の特別装備は登るパワーではなくて下るときのブレーキなんだよね。登る時も万が一失速して後退したときのために機関車は坂の下側に連結する。 EF63を後ろに連結して坂を上る「下り」でも運転指令はEF63が行う。
長野向きの運転士(機関士)は前方注視。 アプト式の頃は、軽井沢→横川の、坂を下る方が時間が短かったのに対して、
粘着運転に切り替えてからは、横川→軽井沢の、登坂の方が短時間になった事。 プロ野球(NPB)は12球団だからいいけど
プロサッカー(Jリーグ)は多過ぎて分からんね。
その発足時の10チーム(?)さえもスラスラ出てこない・・・
Jリーグ創設時に広島のサンフレッチェと言う球団があったとは知らなかった。
全日空出資の横浜フリューゲルスは、現在でも存続しているのか?
意外にも、大阪はJリーグ創設時には社会人強豪ヤンマーの球団では無くて、松下電器出資の球団だったんだな。
日産、トヨタと言う大手自動車メーカーはプロ野球には関わらないで、サッカーには思い切り関わっていたんだな。 碓井では
三等は車夫と一緒に押す(EF63)
二等も一緒に押す (EF63)
一等は降りて曳く (EF62) >>686
横浜フリューゲルスはマリノスに吸収合併されました。
応援歌をTHE ALFEEが歌ってたんですよね
それより一番人気で「ヴェルディ拡張」をやっていた讀賣があっさり手を引いたのは驚きでした。 碓氷峠にアプト式鉄道が敷設される前、「碓氷馬車鉄道」という馬が小さな客車を
牽引して碓氷峠を越える鉄道があったこと >>686
豚双六こそ要らんよ。
ファンなんてジジイばかりだろw
だから『爺球(やきう)』って言うんだぜw 爺球なんて初めて聞いたわ
イーハー東武みたいに1人しか使ってない言葉かな Gマークも消され、方転した高シマの165も、185でサロを6号車にもってきた編成もない今、現役車両で横軽の名残りを伝えるものはあるのだろうか・・・。 京急新馬場駅は、北馬場駅と南馬場駅を統合した駅で、わずかな時期、「北馬場・南馬場」という駅名だったこと 愛知県内で豊橋以外に名古屋・一宮・岡崎と合計4都市に路面電車が走ってた事。 >>683
客車・貨物列車でも先頭のEF62は無動で押されてたのかね。 >>697
アフォに騙されるな
63の機関士から、ノッチの進段の指示が出されて
62の機関士は指示の通りノッチ操作を行う プロ野球に南海ホークス、阪急ブレーブス、近鉄バファローズ、西鉄ライオンズ、
東急フライヤーズ、国鉄スワローズが存在していたこと。 >>698
電車気動車については間違えてないでしょ
機関士とも書いちゃってるから突っ込まれてるけど
ちなみに、瀬野八では前本務機の指示で後補機はノッチを投入する >>699
大阪タイガース
阪神軍
阪急軍
阪急ベアーズ
南海軍
急映フライヤーズ
近鉄パールス
近鉄バファロー
西鉄軍
西鉄クリパース
山陽クラウンズ
京浜ジャイアンツ 全く同じ年に金沢市電が廃止されたこと
全く同じ年に初代のモノクロのオバケのQ太郎終了したことなおこの頃から毛が3本歌われてたのでハゲ差別あったこと
https://youtu.be/xdNjaUGXfA8 朝鮮には日本が建設した京城市電、釜山市電、平壌市電が存在していた。朝鮮人は乗ることが不可能だった。 北海道の定山渓鉄道と滋賀県の江若鉄道が同じ日に廃止された事。
しかも両者は共に直接の廃止の引き金が新線建設による用地の提供だった事。
この両者はこの他にも共通点が多い。 >>705
どちらも会社自体はバス会社として現存してるしな >>705
どちらも札幌市営地下鉄湖西線の犠牲、最初の奥さんが不倫犠牲なるようなもん女に相手にされない鉄ヲタは解らんかw 法治国家として,単純に法律に基づいて判決を出してくれてよかった。
政治家の気分や,「法律の抜け穴だから許さない」みたいのはおかしい。
抜け穴を作った政治家の方が問題なんだから。三権分立を表すの良い事例になると思います。
ただし、泉佐野市のやったことは決して褒められることではないと思います。私は泉佐野市のしたことについては合法とはいえ評価しません。
私の泉佐野市のしたことは脱法ハーブに似ていると思います。
泉佐野市は確かにやり過ぎ感はあったが、このやり方は、元は財政健全化団体に転落してから努力してきたもの。
一方、世田谷や横浜などの財源が豊富で大した努力もしない自治体は、
高額所得者の住民票がたまたま区域内にあるだけで高額の住民税を徴収する権利があると思い込んでいるのか、
ふるさと納税により財源が流出したとして、制度を批判している。
自治体の住民サービスは、所得制限などによる不公平感が目立つ。
保育料の負担や児童手当の制限など、住民税の納付額が多い人の方が受けられる住民サービスは少なく、
このような制度である限り「不公平感」は拭えない。
特に、若い人達にとっては、税金を取られても、住民サービスの恩恵はほとんど受けられない。
住民サービスのほとんどは、老人や乳幼児や低所得者のためのもの。
ふるさと納税制度は、少しでもこの不公平感を減らす上では、有用だと思う。
当時はルールに従ってたんだから、後出しで法律を作って過去の行為を理由に締め出すなんて法治国家としてとんでもない。
今回の判決は日本が法律のもとに公平にできてることを示したのだからいいことだと思う。
戻って罰するなんてアホなことを最高裁が認めなくてよかった。最高裁がまともな判決を出して本当に良かった。
戻って罰を与えるのはあとから何でもできてしまい危険。
やっとまともな判決が出て安心した。前回の判決は、「法の趣旨」なんか持ちだしてきて
無理やり政権寄りの判決を下した感がしてならず、どう考えてもおかしかった。 それにしても、国を相手に堂々と戦った市長の勇気に敬意を表したい。
ふるさと納税訴訟 泉佐野市が逆転勝訴 新制度からの除外決定を取り消し 最高裁
6/30(火) 15:10配信
毎日新聞
ふるさと納税の新制度から大阪府泉佐野市を除外した総務省の決定は違法として、
市が除外決定の取り消しを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第3小法廷(宮崎裕子裁判長)は30日、
国勝訴とした1月の大阪高裁判決を破棄し、除外決定を取り消した。市側の逆転勝訴が確定した。
居住地以外の自治体に寄付すると税金が減額される「ふるさと納税」は2008年に始まった。
豪華な返礼品で寄付を獲得しようとする地方の競争が過熱し、総務省は15年以降、自制を求める通知を相次いで出した。
しかし、泉佐野市は通販サイト「アマゾン」のギフト券を返礼品に上乗せするなどの手法で、18年度に全国トップの497億円の寄付金を集めた。
国は19年3月、地方税法を改正し、「返礼品は寄付額の3割以下の地場産品に限る」との基準を明記。
4月には同法に基づいて「18年11月までさかのぼって寄付の手法を審査し、基準に従わない自治体は除外する」と告示し、
19年6月に泉佐野市などを除外して新制度をスタートさせた。
訴訟では、法律で基準を定める前である告示前の行為を理由に、除外を判断したことの是非が最大の争点だった。
市側は「裁量権の乱用」などと主張したが、地方自治法の規定で1審となった大阪高裁は
「不適切な方法で多額の寄付金を集めた」として市敗訴の判決を言い渡していた。【近松仁太郎】 定鉄と江若の共通点。
1969年11月1日廃止。
大手私鉄の傘下に入り鉄道廃止後もバス会社として現存(東急系のじょうてつと京阪系の江若交通)。
廃止後平行して作られた別の鉄道に用地を明け渡す(地下鉄南北線と国鉄湖西線)。
ターミナル駅は国鉄ではなく路面電車と接続(豊平駅で札幌市電と浜大津駅で京阪京津線)。
起点側で国鉄と線路が繋り乗り入れもあった(東札幌駅と膳所駅)。
地域輸送のみならず行楽客輸送にも力をいれてた(定山渓の温泉客と琵琶湖の水泳客)。
他にもあるかな? 井原鉄道井原線の線路は、廃止された井笠鉄道の線路跡地に敷設されていること 44年前、電車特急で初の2列車併結になる「かもめ」「みどり」が設定された事。
同じ日、新横浜と静岡に初めて「ひかり」が停まった事。 同じ日、静岡にもしひかり止めなければ今頃こんなに調子に乗ってなかったか? >>700
169・189・489系はKE70型ジャンパ連結器でEF63とつなぎ、車両間はKE76型ジャンパ連結器で
回線引き回せたが貨車はそうはいかないからな。EF62とEF63間は列車無線でやり取りしていたの?
>>713
暗にのぞみを静岡駅に停車を迫っている?静岡駅は確か待避線側にしかホームが無かったような気が。 こだましか停まらなかった頃の新横浜周辺はまだ何もなかったからな >>714
本務機と後補機の連絡は通常の列車無線とは別の専用の列車無線のようだね
(リンク先のビデオに列車の車掌からの出発司令を受ける場面があるけど、これはまた別の乗務員無線を使用)
EF63は全乗務において無線を常用してるのでヘッドセット、
EF62は普通の手持ちマイクのようだ
https://www.youtube.com/watch?v=n3ryRb1RwKI
瀬野八だと、EF67時代はどちらも手持ちだった(今は不明)
後補機は本務機の指示を聞く側だからということもあるのかもしれない 昭和60年3月14日〜63年3月12日の間は、
東海道新幹線の全ての駅に最低1本の「ひかり」が停まってた事。 国鉄末期に近いころ、EF58に代わってEF62が東海道本線の荷物列車をけん引しだしたこと。
まさかFE62が平坦線の東海道線へ来るとは思わなかった。
ただ、荷物運用が廃止されたのでその活躍は短かった。EF60・65のB-B-B軸配置の中で
C-Cの軸配置は異彩を放っていた。もっともFE58は2-C-C-2でマシンガンのようなジョイント音を
放っていた10軸だったが。 165系は、新前橋電車区と新潟運転所で向きが逆になってた事。
で、「ゆけむり」とかと「佐渡」がすれ違う時は、
クモハ165同士、もしくはクハ165同士、の顔合わせになった。 昔、東武の特急は、上りだけ北千住に停まってた事。
「スカイライナー」も、最初は上りのみ日暮里停車にした事。 >>715
品川午前6時発の「のぞみ79号」が、東京午前6時発の「のぞみ1号」に静岡で先を越される? 今の東海道新幹線って、
のぞみはかつてのひかり
ひかりはかつてのこだま(在来線のこだまでもいい)
こだまはかつての在来線の東海(特急でも急行でもいい)
そんなイメージ ひかりより速い種別を作った時点でアインシュタインにケンカ売ってるw 一時期、山陽新幹線では、
「300系『のぞみ(臨時)』 vs 700系『ひかりレールスター』」
なる構図があって、遅い「のぞみ」が高い特急料金徴収してた事。 北海道で家建てればよく分かるよ。北海道の田舎の土地は負債になる。
北海道特別意識が高いのが道民の特徴だが、道民特別意識だね
島国根性の塊なんだが、それを街になっている事に気づかない低レベル道民
だから何時まで経っても発展しないどころか衰退の一途だ
しかもその衰退に気づかないのが何とも哀れだね
井の中の蛙でもあることを知るべきだ
知ろうとしないから、本州人から呆れられ、見捨てられるのだよ
6年後には人口500万人切れになり10年後には480万人の体たらく
地方交付税や生活保護費の爆食い、北海道開発局だかの税金浪費
本州資本の展開が極小なのもその点にあるのだよ だから産業が育たない地域になるのだな
北海道は特別だ、という観念は未だに捨てられないのだな、とつくずく思うな 気の毒だな
JR北海道は本当にこれ以上路線廃止するんだろうか?
あれだけ人が乗っていなかった札沼線末端区間ですら沿線自治体が抵抗してたのに。
日高本線だって路線廃止を決めるのに5年かかってるし。
なんか自治体に根負けして日高と留萌線を片付けて終わりそうな気がするが。 JR北海道の決算を見ると良い。
廃止を諦めたら倒産するだけだ。
余程の無能でない限り廃止は諦めないだろうな。
北海道は賃金も安い割に 自家用車必要だし
家賃もアホみたいに安いわけでもないし、
家建てても内地みたいな断熱ペラペラの安い家なんかじゃ光熱費の下敷きになってしまうし住みにくい所だよ。
冬は雪降るから留守にも出来ないし。
残念だけどロシアは北方領土は返してはくれません。
けどこれは我々日本人にも責任があります。
日本政府は遺憾しか抗議できず、日本国民の大半は領土領海問題にも感心がなく平和ボケしています。
竹島も韓国から不法占領されて尖閣諸島は中国から奪われる間際まで来ています…
日本国民が戦後の敗戦教育から目覚めて自国の防衛や領土領海問題にしっかりと取り組まなければ
ずっとこのままで、空しく時間だけが過ぎていくでしょうね。いつになったら日本人は目覚めるのでしょうか…
ロシアが北方領土を返すわけが無い まだ夢を追う島民 生きてるうちに 先祖の墓を北海道に移すのが先だ
仮に戻っても日本国民に何のメリットも無い
開発に血税やロシアに大金を払わせられるだけ
一部の島民や銭に目の眩む水産業者だけが儲かる
だから北東にミサイル配備核保有 アメリカ軍駐留をロシアには絶えず危機感を与えるのが良い
日本には既にならずもの国家が駐留してその費用を血税から吸い取っている。
そんな連中に北海道を最前線として差し出すなど常軌を逸していると言わざるを得ない。 さらにJR東海の車両も小田急に乗り入れ、新宿にも顔を出してた事 さらにJR東海の車両も小田急の車両も普通車一部がグリーン車同然だったこと 一時期、103系による御坊・五条発着の快速、紀伊田辺行快速、周参見発天王寺行の103系による
快速も設定されていたこと 東京スカイツリー(32,699票)の名称が一歩間違えれば東京EDOタワー(31,185票)になっていたかもしれなかったこと 山口を抜けた時、静岡を抜けた時の達成感は異常。
並行在来線の第三セクター化…果たして本当に良かったのか
個人的には並行在来線や経営が危ぶまれるところは国が運営すべきと思う
一枚の切符で行かれるルートがだいぶ限られてしまいました。
東京から富山へ抜けるルート、青春18切符だと長野を抜けて行くことができましたが、
今や上越線か大糸線経由、北海道へも奥羽本線に迂回、
道内も3セクを挟むなどしないといけないのは寂しいものがあります…
個人的には青森県に足を踏み入れなくなった東北本線の名前には違和感を憶えてしまう。 スイッチバックといえば、山形新幹線の開業と同時に廃止された、奥羽本線の赤岩・板谷・峠・大沢の各駅。
今でもそれらの遺構の一部が見られるが、旧赤岩駅にはスイッチバックの距離を稼ぐためだけに掘られたトンネルがある。
15年程前は旧駅構内からそのトンネル内部までレールが敷かれたまま残っていたが、今もあるだろうか。
子供の頃、母方の田舎に帰省してた頃は、旧国鉄の姫新線から因美線に入る時、
津山でスイッチバックしてた。戻るときももちろん同様。
普通車両だったんで、単に進行方向が変わっておしまい。
今は津山に何も用が無くなったけど、その代わり今度は、鳥取−岡山間の特急スーパーいなばで、
途中の上郡でスイッチバックする。特急車両なんで、客がぞろぞろ立ち上がり、一斉に座席を回転させ始める。
ずっと前は「席、回します」みたいな声かけがあったが、近年は皆暗黙の了解のように動く。結構楽しい。最近コロナで乗ってないなあ。
スイッチバックではないですが、昔の夜行列車は走る距離が長いだけに途中で進行方向が変わるものが多かったですね。
このうち北斗星や紀伊なんかは深夜〜明け方の短い時間帯に2回方向を変えるので
寝台なんかで寝てると気付かないこともありましたが、北陸なんかは深夜に1回だったので朝目覚めると進行方向が逆になっていて、
分かっていても「ん?」と奇妙な違和感がありました。今では味わえなくなった感覚です。 >>734
でも、「ゆめみやぐら」になんなくて良かった。 赤羽根―池袋間は「赤羽線」、
上野―黒磯間は「東北本線」。
本来はあくまでこうである事。 >>738 赤羽・池袋間が山手線の一部だったこと。かつては赤羽線は公式の路線名ではなかった。 赤羽根 → 赤羽
だった。
申し訳ない。
>>740
「山手線」は「やまてせん」と称されてた事。
で、列車の行先表示の窓にも、「山手」と表示されてた。 「東京電環ゆき」きっぷ
かつて赤羽線区間が山手線だったため「山手線内ゆき」では正確ではなかった >>741
正式名称はもともと「やまのてせん」。
GHQが名称を"YAMATE-LINE"としたため混乱させた。
その結果、その外側を巡ることから名付けられた環状6号線の名称が「やまてどおり」になってしまった。 因みに横浜とか神戸では「山手」は昔から「やまて」と読むけどな 渋谷区代官山の旧山手通り沿いに、映画「帝都物語」で使用された東京都電のレプリカを
活用した食堂があったこと その「帝都物語」の撮影で使用された都電レプリカ2台のうち1台は、
「ハチ公物語」撮影用に製作したものの使いまわしだったこと。 ゆめもぐらで思い出したけど、近鉄東大阪線がけいはんな線になったとき
中央線と併せて「ゆめはんな」という愛称をつけていた。
全く使われないまま自然消滅したようだ。 山手線は文字通り山手(やまのて)を通る東海道本線の支線。
品川駅から渋谷、新宿、池袋まわりで田端駅まで。
路線としては回ってなんかいません。
とか 山陰本線下関口の普通列車は現在は全列車下関発着だが、以前は門司・小倉発着の
普通列車もあったこと 松川事件。
二本松の高校に通うのに暫く不通で往生したな。 >>749
そこまでカキコしたのなら、品川ー東京ー上野ー田端間は正式には何線なのか書いてほしかった。 電化しているにもかかわらず東京駅からC51が牽引した超特急燕 国鉄時代、山陰本線がまだ非電化単線だった頃、京都駅山陰1番ホームにはすでに架線が張られていたこと 昭和48年7月〜57年11月の間、電化区間のみを走行した、DC急行「赤倉」。 >>759
さらにその後2年4ヶ月だけ電車だった事 水俣駅、つまりチッソ水俣工場真ん前にJRの特急列車が必ず止まっていた事。
しかもそのチッソ水俣工場からは大昔、今回みたいな大雨だと必ず水銀が溢れ、水俣病の被害を大雨がアシストした事。 松浦鉄道が国鉄松浦線だった頃、左石から柚木線、佐々から世知原線、
肥前吉井から臼ノ浦線が松浦線の支線として分岐していたこと 博多から筑肥線、松浦線経由で
快速佐世保、伊万里行きが出てた >>759
一往復だけだったが、名古屋〜新潟間のロングランDC急行だった。 特急「くろしお」がキハ80系だった頃、名古屋発着の「くろしお」の補完列車として、
天王寺〜名古屋間に急行「紀州」や鳥羽・熊野市発の天王寺行急行「きのくに」もあったこと 22年前まで、東京―高松間に”ブルートレイン”が走ってた事。 50系レッドトレインが走っていた事更に50系レッドトレインの頃の方が皮肉にもMotor音を村上〜酒田普通でも聴けた事 >>734
Erectile Dysfunction Ossan タワー
あまり高そうにない・・ 2020年廃線
大船渡線(気仙沼−盛)
肥薩線(吉松−隼人)
くま川鉄道湯前線
北海道旅客鉄道 >>727
北方領土は2島返還で内定してたのに
NHKが4島返還ごり押ししたためいまだに1島たりとも返還されてない 「北海道に電化されてない鉄道路線があった事」
ってな話になる日も近いのか…。 何という逆説的な発想だことw
でも、北海道新幹線はどうするんだ? 初めからブルマ採用していない学校ばかりなんだってな北海道は。
日教組は無関係だと思うが。 電車内や駅のベンチで学校指定の靴下をルーズソックスに履き替える女子高生がいたこと >>776
それ以前に札幌に電気機関車が往来してたことがかなりの伝説だし。 北海道の電気機関車の中で、ED76-500は、50/60Hz両用だった事。
何の必要があったんだか不明だが。 >>784
ED76-500が50/60Hz両用だったというのは初耳なんだけど >>784
485が何のために走ってたのようなもん
なので悪いけども別に〜としか思わんw >>784
ED76-500番台 は九州用と比べて車長が一メートル長く貫通扉付きで別形式に見えたな。
そのせいか分からんが、ED75-500番台は501の一両で終わった。 そだよ
サイリスタ制御を試すための試験機でもあった
その成果が、客貨両用SG付きのED76-500
そして、サイリスタ制御を改良したその後の交流機につながるわけだ 何かの本にそう書いてあったのを目にして、
「何で北海道でしか使う可能性ないのに、50/60Hz両用なんだ?」
と思った記憶があるけど、
その本の記載が間違ってたか、こっちの誤解だったのかも知れない。
大変失礼。 >>774-775
と言うか、その二島は北海道。
千島ではないから。 >>791
交流電気車両要論(川添雄司著、1971年)に掲載の諸元表によると
電気方式は、20kV, 50 (60) Hz となっている。
これは他の50Hz用電機でも同じで、60Hz用は 60 (50) Hzとなっているから、
これだけでは、なんとも言えないかな。
ただ、補機電源は50Hz用になっていて、事実上は50Hz専用ということになりそう。
60Hz対応が実際にどうだったかは、公式の説明を見たことないのでわからない。
試験機だと余計な機能(ここでは60Hz対応)をわざとつけていることはままあるんだけど、
ED93(→ED77 901)のサイリスタ制御をもとに作られたED75-500は事実上の量産先行車で、
サイリスタ制御がうまくいった暁には量産する計画があったようなので、
時期的にはED75-300(60Hz用)の後釜候補くらいには考えていたかもしれない。
まぁ、実際には九州(石炭輸送のあった北部を除く)他の地方線区では軸重関係でED75は使いづらく、
中間台車付きのED76(従来制御)やED77(ED75-500を改良したサイリスタ制御)が投入されたんだけどね。
ところで、ED76-500は、整流回路はサイリスタが採用されたけど、制御自体は低圧タップの従来型で、
>>790 にあるような、ED75-500の改良型、というより、一部断念型といった感じだな。
ED75-500の本当の改良型は、ED77ということになりそう。
なんかここに書くような内容ではないよう w 黄色文字で大きく書いてあった
道 外 禁 止
の貨物車両 >>794
ノロマだから北海道に閉じ込められたんだっけ? 平塚七夕号という臨時快速が新宿から平塚という短距離の運行で165系が走ったこと 北海道の国鉄は、列車到着間際にならないと改札されずホームに入れなかったこと。
だから、改札口で列を作って改札が始まるのを待っていたこと。
そんなことを札幌市内の駅の日常の通勤通学客に対してもやっていたこと。
余所者にとっては怒りがこみあげてくる理不尽で不快な慣習だが、地元の人はそう思ってなさそうな様子だったこと。 昭和時代の東海道・山陽新幹線の1時間に数本しか発着しない駅も列車到着10分前ぐらいにらならないと、ホームに入れなかった。 列車本数が多くないところは何処も同じ
「ただいまから◯◯行き列車改札します。乗り場は橋を渡って3番線です」 >>795
・脱線防止の改造ができない
・経年経過で近いうちに廃車する予定
の車両が北海道に送られてそうなってたはず >>800
一般貨物列車の最高速度を75km/hに引き上げた時(従前は65km/h)、改造しなかった(できない)車輌を閉じ込めた
本州から送ったものではないし、本州内でも75km/h未対応の限定運用の貨車があった(ロシキなど頭に小さくロが着く車輌は65km/hまで) 485系1500番代の後に1000番代が登場した事。
で、その1000番代に関しては、クハが片栓だった事。 大阪メトロ谷町線で、御堂筋線10系に準じた20系が走っていたこと 113系1000番台の1次形は1度も東京地下線に乗り入れたことがなかったこと >>806
ここでいう東京地下線とは総武快速線の地下区間のことだけどな >>805
その113系1000番台、一部編成が湘南色で115系のふりをしていたこと もっと言えば113系1000番台(Tcだから111系だが)が大阪に1両だけいて先頭にたっていたこと 湘南色とスカ色では、塗分線の位置が違った事。
スカ色の青の領域 > 湘南色の緑の領域
になってた。 >>717
瀬野八では、EF210-300になった今でも無線は手持ちのようだ
ギシギシ……日本最大級の急勾配で貨物列車を後ろから押す「補機」EF210に乗ってきた | 文春オンライン
https://bunshun.jp/articles/-/37998 東京ディズニーランドの最寄り駅が東京メトロ東西線の浦安駅だったこと >>813
その頃のディズニーランドには園内を移動するためのゴンドラリフトがあったこと 大阪―青森間の「白鳥」は、当初は新津―新発田間で羽越本線経由だった事。 大阪―青森間の「白鳥」は、直江津から上野に向かう編成が連結されていた事。 >>805
その一次車が広島や和歌山、静岡を走っていた。 >>810
山陽線にスカ線塗り分け幅の湘南色がいたね。
通常塗り分け幅のと混結してたから、
全車湘南色なのに編成として眺めると凸凹だった。 N700系「のぞみ」は東京〜博多間の所要時間が4時間50分
500系「のぞみ」は4時間49分と1分速かったこと 473「系」とはいうものの、これに該当する車両は、1ユニット2両しか存在しなかった事。 抑速ブレーキ付の車両に製造を統一したせいでサロだけの系式が出てしまった事 >>824
その車両のうち1両が余剰となり、近郊型に改造されたあげく、同期の車両よりも
5年早く廃車にされた。 >>813
志摩スペイン村の最寄り駅も志摩磯部だったこと クハ164は、165系の一族になったけど、
前面の塗装は全てオレンジ(クハ153当時)のままだった事。 183系を普通車のみでムーンライトながら用に10連を組んだら8M2Tになってしまったこと。 似たようなパターンだと、
山陽本線に各駅停車用に集められた153系の晩年は、
4M2Tx2(8M4T)の強力編成で、
瀬野八でもEF61による後押しが不要だったこと >>829
むしろ電車も押してたことの方が忘れられてそうだけど 瀬野八や関門を含む区間だと151系電車特急よりも80系気動車特急のほうが速かったもんな。 >>831
山陽新幹線開業前、新大阪〜倉敷間ではキハ181系の特急「おき」よりも
キハ80系の特急「かもめ」の方が速かった。 EF61-100、なる補器が登場する予定だった事。 >>832
山陰の181はエンジントラブルを回避するためにあえて80系相当のダイヤで運転してたとか。
しなのとかつばさはフル性能で走らせてたからエンジントラブルも多かったからな。 >>829
各停もあったと思うけど、基本は快速だったはず >>834
キハ80系からキハ181系に置き換えられた当初の特急「あさしお」「はまかぜ」
もキハ80系時代のダイヤで運転されて、編成は8両編成に改められたが、
キハ181系化後の「あさしお」は、わずかながらスピードアップされて、
京都〜米子間の所要時間がキハ80系時代に比べ2分〜5分程度短くなったな。 キハ181系「つばさ」は、廃止した補機を復活させた事。 初代特急「おき」は新大阪〜出雲市を山陽・伯備線経由で運転されて、
車両はキハ181系で、山陽新幹線岡山開業後は特急「やくも」となり、
昭和50年に設定された小郡〜米子・鳥取間を山口線経由で結ぶ2代目「おき」は
「はまかぜ」などとの共通運用のキハ80系で運転されて、のちキハ181系化されたこと。 急行「だいせん」としては、日本国有鉄道(国鉄)が1968年10月から大阪駅 -�ケ取駅・米子駅・出雲市駅・益田駅間など山陰本線の主要駅間を福知山線経由で運転を開始した。
「だいせん」の名称自体は、岡山駅- 松江駅間を伯備線経由で運転を開始した快速列車として1953年3月から使用されていたが、1968年10月のダイヤ改正により、伯備線経由の「だいせん」を「おき」に変更して、福知山線経由で運行する急行列車に「だいせん」の名称が使用されるようになった。
確かにこのあたりいろいろとややこしい 「まつかぜ(博多発着)」は、下りが大阪発、上りが新大阪行、だった事。 急行「だいせん」。
京都から大社へ行く列車なのに
なぜか赤穂線を経由していた時代が(笑)。 急行「丹後」の一部列車には山陰本線・舞鶴線・小浜線経由の敦賀発着編成が併結されたり、急行にも関わらず京都〜城崎間では特急「あさしお」より速い列車もあったこと。 >>655
⚫はGマークということ(四つ葉のクローバーではない) 遠軽―網走間は、名寄本線・湧網線経由の方が距離が短かった事。 米子発の特急「まつかぜ2号」は大阪行だったが、昭和60年3月改正で新大阪行となったこと 富士駅では、身延線は東京方面から東海道線に合流する格好になってた事。
今の「ふじかわ」は、進行方向変える必要なかった。 >>813
あの頃は
雨でも降った時には
アトラクションの待ち時間ゼロで
怒号のスペースマウンテン5連ちゃんとかやってたわ 昭和49年9月30日から昭和51年11月6日の2年の間に普通列車のグリーン料金は
100〜300円から700円〜1500円に一気に跳ね上がった。 グリーン席、A寝台には
通行税がかかってましたね。 >>847
線路を付け替えるキッカケとなった「富士宮臨」などというものも今ではまったく無いのかな。
>>849
それを出すなら東名ドリーム号の指定料金が、1979年夏当時の運輸大臣(後の塩ジィ)指示で\500→\1,500に爆上げされたのも。
競合だらけで一括運賃の今となってはいくらが適正だったのかよくわからないよね。 >>851
まぁ、最早存在しないと考えるのが自然だろう…。
で、急行「富士川」の時代には、1往復だけ三島―富士―甲府っていう列車があって、
これは言わば、「富士で進行方向を変えなくて済むようになった」という存在だった。 京阪神緩行線で、神戸駅折り返しの普通電車が日中にも運転されていた 岡谷―辰野―塩尻間は、今でもれっきとした「中央本線」である事。 国鉄時代、金谷駅構内に東海道本線と大井川鐵道との連絡線があった頃、
113系電車や80系電車、「サロンエクスプレス東京」などの国鉄の臨時列車が
大井川鐵道に乗り入れていたこと >>854
更にその前甲子園口折り返しだったこと
そしてその頃芦屋駅で快速乗り損なうと吊り掛けモーターの旧型電車各駅停車で大阪駅まで爆音で行くしかなかったこと 「東海道本線と山陽本線の境界は神戸駅である事」
ってのも、ともすれば忘れられがちだな。 東北本線の起点は東京駅であること。
昭和40年代には上野発着の特急「ひたち」、「はつかり」、「いなほ」など
東北方面への特急の一部も東京駅発着だったこと 総武本線の本来の起点は「御茶ノ水駅」であること。
鉄ピク2020年9月号通算977号で知った人多いのでは? 田町電車区にはマヤ検用のクモハ73が奇数向き偶数向き各1両あって、ATC化までしぶとく残っていたこと。
それと平成に入っても品川客車区に入場時控え車としてナハフ11が2両残されていたこと。 >>863
その旧山手線区間は現山手線も含めて、東北本線の支線だった。
山手線だった名残りで北イケ101系8連で運転されていた。 >>865
101系(カナリアイエロー)は山手線で使われていた8連(6M2T)が
山手線103系新製投入で押し出されて、そのまま転用されただけだな
名残というわけではなく、たまたま同じ電車区だったと言うだけだよ 武蔵野線の本来の起点は鶴見で、鶴見〜府中本町間は貨物線であること 高崎―横川間が「信越本線」の名を冠しているのには、一応合理性があった事。 大阪環状線桜ノ宮駅の北側にかつて淀川電車区があり、片町線の101系と103系は淀川電車区所属だったこと >>870
合理性?
もともとは直江津から長野県内だろ E127系0番台は全車トキ鉄に譲渡されてなくてまだJRに残ってること >>865>>867
同じようなことではないか、従来の山手線8連で旧型7連を置き換えたのだから。
赤羽線が黄色かったのは山手線の旧カラーだったからと言いたかったんだろw
山手線の前面方向幕は「山手(YAMATE)」、だった事・ >>873
「高崎―横川間は盲腸線でなかった事」
とでも言っといた方がよかったかも知れんが。 153系から117系に置き換えられた当初の新快速は、「シティーライナー」とも
呼ばれていたこと >>876-877
横川〜高崎間→横川線に線名変更
篠ノ井〜長野間→篠ノ井線に編入
こんなに継ぎはぎにされた線は無いな。 >>879
関西→シティーライナー
東海→東海ライナー
だったな。 東海道線名古屋地区の新快速が「オレンジ快速」と呼ばれていた事。 関西地区から広島地区に転属して呉線・山陽本線などで運用されていた瀬戸内色の103系は、
前面・側面の行き先方向幕を使用せずにサボを使用し、クハ103の方向幕窓はクリーム色に塗られていたこと そのうち、
「下関―門司間に電車が走ってた事」
って話になるのか…。 関西本線(大和路線)で、3両編成の103系の普通電車が運転されていたこと クモハ103(原型車)には、ユニット窓付が存在しなかった事。 横浜線が昭和時代は中山から先は単線で、車両も山手線や京浜東北線の余り車両を使っていた為、水色車両、ウグイス色車両の混合編成だったこと。 京阪神緩行線に201系が投入される前、103系で運転されていた京阪神緩行線の
各駅停車の運転区間は京都〜甲子園口、吹田〜西明石間だったこと 京都〜吹田 15分毎
吹田〜甲子園口 7〜10分毎
甲子園口〜西明石 15分毎 >>886
415系の代わりってどうするんだろうね。
DCを充てるかな? 何か、下関―門司も西日本にしとくべきだったって気がしてしょうがない。
そうしといたら、山陰線の列車の門司乗り入れで事は解決してたものを。 関門トンネルはもう貨物列車のためにのみ残されているって感じだからな。
西日本も九州も新たな車両であの区間を直通させようって気はないだろう。
気動車直通ですらやめちゃったくらいだし。 宇部線で、鹿児島本線や日豊本線に直通する電車が運転されていたこと。 >>892
塩害対策として、廃車寸前のDCを使うことになるんだろう。
横乳技術供与の見返りとして、E531の60Hz対応車を作って入れる
って可能性もなくはないけど。 >>896
DENCHAを秋田に送ったバーターでこんどはACCUMをここで走らせたりして(走行割合は直流区間のが長いから充電しやすい) 米原―神戸間は東海道本線、神戸―姫路間は山陽本線である事。 草津線で、113系電車の他にDD51牽引による50系客車の京都発着の客車列車も
運転されていたこと 関西本線で運転されていた春日色113系の快速は、大半の列車が大阪環状線に直通し、
湊町発着の113系の快速は朝夕のラッシュ時、夜間のみ運転されていたこと >>901
その113系の一部編成に、1970年代からATS-Pが試行されていたこと。 8月と言えば、自由席付の特急が全車指定席になる一方、急行は普通車全車自由席に変更、
というケースが多かった事。 >>903
盆時期の急行はさらに寝台車や食堂車も普通自由席に差し替えというケースも多かったしな。 >>904
混雑凄そう
座れなさそう
急行佐渡に115系が投入されたりしたんですよね? 西武多摩川線きたたま駅は一旦線路まで降りて踏切を渡って上下ホーム間の行き来をしてた事 >>905
その「佐渡」なんかの臨時便に、”下りは上野発・上りは大宮行”というケースがあった事。 >>906
あれ、地元では
是政線と言われてた
うちの親は今も是政線 長野電鉄は、屋代―須坂―信州中野―木島、が母体だった事。 上野・新潟、上野・仙台、大阪・富山等の300キロ強の中距離運転の寝台列車 上野仙台は北星?
上野新潟がわからない?
夜行佐渡には寝台なかったよね? >>912
上野・仙台は「新星」
新潟は「天の川」
昭和47年3月から白新・羽越本線経由で秋田に延長。
大阪・富山は「つるぎ」
昭和47年3月から新潟に延長。 昭和51年に京都〜大阪間で運転されたC57 1牽引による「京阪100年号」の上り列車が人身事故を起こし、同列車の牽引機関車は高槻で電気機関車に交換されて京都まで運転されたこと 米原経由の大阪―新潟間の距離は600.7kmで、
0.7kmのために「600kmまで」の特急料金が適用されず、「1200kmまで」の額を徴収された事。
グリーン料金も、それでワンランク高くなったと思った。 >>911
当時の在来線特急でも4時間程度かかってたような区間では夜行寝台の需要もあったからな。
他に大阪−広島とかでも寝台車を連結した夜行急行も運転されてたし。
今では新幹線か飛行機かの選択の目安となってる「4時間の壁」は、昔は昼行か夜行かを選択する目安でもあった。 >>915
特急料金は600キロまで1000円、1200キロまで1200円。
グリーン料金は600キロまで2000円、1000キロまで2600円だったと思う。
新宿・上諏訪は191.6キロだが、新宿は東京都区内に入る為、東京起点(201.9キロ)で計算され、
グリーン料金は800円ではなく1400円に跳ね上がる。 >>918
昭和49年9月末までグリーン券の料金計算方法は普通乗車券とほぼ同一で、
特定都区市内制度が適用されていた 49年10月1日以降、グリーン料金は列車ごとに計算されることになり、貴殿の仰られるように、特急券、急行券同様、乗車駅間で計算されるようになり、途中下車も料金
の通し計算も出来なくなった。
自分の中では最低の改悪! >>915
でもそのおかげで乗車券の往復割引が適用可能になるね! 似たような事例は結構有ると思う。
熱海・品川97.8キロ
熱海・新橋102.7キロ
昭和50年代、一駅の違いで
普通列車のグリーン料金が700円から1500円に跳ね上がった。 >>921
今(1981・4・20以降)はそうだけど、
「白鳥」とかが米原経由だった時代は、1001km以上が往復割引の対象だった。
で、米原経由の最後の時期、「雷鳥」は10往復の大所帯で全車指定席(下り最終は自由席付)という、
当時としても異色の存在だった事(当時既に5〜6往復のL特急があった)。 えちごトキめき鉄道の直江津駅と高田駅に自動改札機があった事。
JR時代の末期に突如設置され、数年間使用しただけで三セク移管を控えて撤去。
跡には以前の金属製改札ブースは戻らず、簡易的な木製改札柵が設置された。
自動改札機を撤去した駅ってこの2駅くらい? >>928
筑肥線の福吉駅と一貴山駅も無人化に伴い、簡易自動改札機が撤去された 近鉄四日市駅内部線改札口もあすなろう鉄道転換時に自動改札機が撤去された。 昭和40年代末期に柏とか武蔵野線といった東京北鉄道管理局管内に入ったものの、人が多すぎてついていけずにまた撤去されてという話があった気がする >>931
武蔵野線単独駅だったら、開業からずっと自動改札があった。
一時的に撤去されたのは、イオカード対応の自動改札に入れ替えたとき。
それで新型に入れ替えたものの、武蔵野線がイオカード対応になったのは
南武線が自動改札化されたとき。ギャンブル客に府中本町だけ使えない
って言葉が通じないのをわかっていたんだろう。 伊予鉄の松山市は6年ほど前に簡易式になった気がする。 >>928
自動改札機を撤去したのは不正乗車防止とかメンテナンスの
問題でしょうか。 自動改札機でないと、こんな感じで強行突破する奴がいるよ 自動改札機でないと、こんな感じで強行突破する奴がいるよ
https://youtu.be/9-2JlwPZMCQ 加越という列車名は当初、名古屋−金沢を高山線経由で結ぶ急行の列車名だったこと。 越前という列車名は当初、大阪−金沢を結ぶEC急行の列車名だったこと。 JR西日本で583系に485系の中間車を組み込んだシュプール号や583系と485系併結のシュプール号が運転されていたこと 同じ理由で2回も政権を投げ出した総理大臣がいた事
任期中に2回も消費税を引き上げた総理大臣がいた事。 名鉄に「バロム1」や「キカイダー」といった名前の特急が運転されていたこと プラットホームの嵩が低く、車両の乗降口が高い。
駅によってプラットホームの嵩が違い、
車両もステップの有無など幾種類もあり、
組み合わせ数がかなり多かった。 近鉄名古屋線が改軌される前、「あつた」「すずか」「かつらぎ」などの列車名の
付いた特急が大阪線で運転されていたこと >>943
「超人バロム1」と仮面ライダー1号・2号と同じように番号つけたのでシリーズ化するのかと
思ったが、1シーズンで打ち切りになったな。 >>948
まぁエル特急は所詮元急行(下手したら元準急)だからな >>949
さすがにそこまでは・・
「雷鳥」「ひばり」「しおじ」「はと」「つばめ」「あさま」「あずさ」等々
玉石混交 京急の1000形分散クーラーの91TH〜99TH急行(99THだけ返しがH特急になる)
あのお化け屋敷並みのモーター音が朝の定番だったし
小岩行とか高砂行を表示できたのも
H特急よりもTH急行が最初と思うと不思議な感じだ 快速が通過していて各駅停車しか停まらなかった海浜幕張駅。 山手線・京浜東北線の駅で田町の次は品川だったこと。 山手線は田端〜新宿〜品川間だったこと。
先週の「チコちゃんに叱られる」で初めて聞いた人、結構いるのでは? 鉄道トリビアではとびっきりの上位のネタだし
この板的に、ちょっと考えづらいと思うよ youtubeにも同じネタで何本も動画転がってるしな 埼京線は正式路線名ではないこと
さらに埼京線は公園都市線いう愛称名になるつもりだったこと >>961
アーバンパークラインか…どっかで聞いた事が(ry そういや、相鉄からJR直通ってほとんど新宿止まりだけどあの列車が埼京線である要素はなんなのだろうか?
前にあった横須賀線からの新宿止まりは湘南新宿ライン扱いだった。 >>964
>ほとんど新宿止まり
新宿止まりではない列車の行き先は? >>943
今年年明けに亡くなった高木守道氏の現役引退時には
サヨナラもりみち号が運行されたが、星野仙一や木俣達彦、谷沢健一などの時には無かった 中日といえば、大豊が好きだった
ホームランがカッコ良かった オール2階建車両(ホリデー快速ビュー山梨で使用)の普通列車定期運用。
東京→神奈川方面で使用していた。 >>970
普通運用あったのは知らなかった
品川始発のアクティーの運用は覚えているが 湘南新宿ライン初期の新宿〜大船間に走ってなかったっけ 平和で民主的な文明国家だった朝鮮半島が南北に分断されてしまったのは
日本の自衛隊が38線に大量を地雷を埋めたのが原因だということ。 日本に併合され平和で民主的な文明国家だった朝鮮半島が
南北に分断されてしまったのは過去をまるっきり反省せず
責任を他人に転嫁するだけで全くの自業自得であること。 周遊券発着駅のみの設定で、
高松市内駅、千葉市内駅、函館市内駅などがあったこと。 大宮と大井といったJRの工場で一般公開イベントがあったこと 西武山口線はナローゲージでSLや蓄電池機関車が客車を引っ張っていたこと。 >>983
体育の日は10月10日固定だったこと。
敬老の日も9月15日固定だったこと 山口百恵というと国鉄のキャンペーンソングのイメージが強いが、京急をテーマにした歌も歌ったことがあること >>986
そろそろ忘れてそうどころか誰も覚えてないだろ 東日本以外のJRでも普通に運転席取り出して
駅間ずっと座りっぱなしの車掌がいたこと
新快速だろうが環状線だろうが駅出た途端座る
それが国鉄クオリティ 行き先幕や列車番号幕をキチンと表示してない列車が多数あった。関西圏の113系快速や103系普通なんか行き先幕が何も書いてない部分を終日表示しているのが当たり前だった。 >>989
今でもJR北海道ではそういうのがいるぞ >>991
南海高野線の6000系や6100系でも先頭車の前面方向幕を使用せずに、
「区急 難波 三日市町」などと書かれた行き先表示板を運転席窓の下に取り付けていた列車もあったな 俺が小1のとき、図書室でウンコを漏らして泣いたこと このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 219日 20時間 25分 58秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。