【シ,ハシ,Td,Tb】食堂車・ビュフェ【35,36,37,168】5レ
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5レの食堂車といえば、「みずほ」「北斗星5号」になるか >>417
それは君の翻訳装置が間違っているからだろう >>418
朝は食堂車やらない。そのためみずほと同時期に営業廃止になった。
東京着7時頃は通勤ラッシュ対策。
上野でも朝7時頃から、9時頃まで夜行列車の到着はなかった。 >>413
東海岸の食堂車全滅ってマジか…世界的に食堂車は厳しい状況なのか 東京発着ブルトレが日本食堂・門司営業所・長崎営業所・米子営業所が
担当してた1970年代の食堂車が一番好ましい状態の食堂車だった
1985年くらいからの食堂車は凋落化が始まり、コック1名の上野営業所や
新博多営業所になって沿線名物料理が消えて、残ってても往年とは
比べられないほど陳腐化したものだった(皿うどんなど) >>423
70年代は、山陽新幹線博多開業の75年を境に大きく変わるけれど、文面から75年以降か?
それなら決してそうとはいえない。
国鉄が大幅値上げ後の76年末以降は旅客が減少し、メニューの積み込みを控えた傾向があった。
博多あさかぜ20系末期の77年末頃は、朝食を摂りに食堂車へ行ったら朝8時前で閉店してた有様。
ブルトレブームになって少し持ち直したかもしれんが、親子連れが多くなりビジネス客は離れたので、
全盛期の賑わいとは違っていた。
85年の東北・上越新幹線上野開業では在来線食堂車が壊滅して、確かに新幹線と集約化
したのはあったけど、博多あさかぜのレトロ調が登場したあたりまでは
そんなにクオリティーが落ちていなかった。 東京発着夜行で下り夜の売店営業を辞めちまったときにもう存続は
諦めていたんだろうなあ >>425
東京発着ブルトレ自体の存続の意味か?
それなら30年程前の食堂車末期から諦めてただろう。
利用客が減って食堂車が成り立たなくなり、食堂車全面休止の1年半後にみずほ・博多あさかぜ廃止、
その直後に阪神大震災の長期運休がほぼ影響がなかった。 FIFAW杯アジア予選における
ジョホールバルの歓喜のとき
フリースペースとなっていた食堂車は
どんな雰囲気だったのかのう
直後に「はやぶさ」「富士」から外されたし >>427
食堂車を引継いだ車内販売基地となっていて、バイトの車販員1人が切り盛りしていた。
レジ近くのテーブルに売り物の駅弁を並べていたが、その車販員が不在中は会計できない。
何となく最近食堂や居酒屋のテイクアウトの雰囲気と似てるなw
空いてるテーブルは、飲食・歓談で自由に使えた。
営業休止の侘しさから場末感があって、新幹線でまだ多かったカフェテリアより
冴えなかったが、それも97年に無くなって20年以上だな!
「さくら」は食堂車連結を99年まで維持してたが、それ以降バイトの車販員は
東京から乗らなくなった。 自分の思い出は100系食堂車とつばめのチャオハンだな
ブルトレは利用機会が無かった >>422
縮小の理由として、知らない人と隣り合わせで夕食を取るよりも自分の個室で過ごすことを好むミレニアル世代の傾向が挙げられたことも論議を呼んだ。
若者のせいにするのか…(困惑) 50代だが、昭和の頃とは人間関係が変わってる空気感で
今ではとても相席などしたくないね。昭和50-60年の食堂車じゃ
初対面の人との会話も弾んだものだが、平成後期からは
老人はともかく中年以下若者まで「声かけるなよ」の雰囲気でね。 なんで食堂車の料金設定は高いんだ?娑婆代とか無関係なのに。 えっ、ショバ代払ってるんだろう?
駅弁だって蕎麦屋だって駅売りの権利取るから
否応なくNREに併合されるか撤退するんだし。
仮に自社だとしても従業員数と客回転率からしたら
街のレストランと同じ値段じゃやっていけない。
低コストセントラルキッチン・温めるだけ+ほぼ非正規雇用で
やっとファミレスが黒字になるっていうのが飲食。 でもどうせ利用者少なかったんなら強制相席やめてもよかったんじゃないの?とは思う まあ掃除するテーブル増えるのが嫌なのかもしれないが トワイライトのランチタイムとか強制相席だったが
一応聞かれはするけど待ってる相手のこと考えたら嫌とはいえんでしょ
俺みたいなオタと相席で良ければどうぞとは思っていたが >>432
地上店舗とはかかる人件費が全然違う
食堂車クルー以外にも地上設備の要員や
地上設備から駅のヤードまで運搬するトラックの運転手とか
駅のヤードからホームまで上げる台車のおっさんたちとか目に見えない人員がたくさんいる
食堂車クルーだって営業列車が1日1往復日帰り可能(泊不要)なら1チームの最小限で済むが
そうじゃない場合は複数のチームが必要になる その打開策が客単価を高く維持しつつ食材の無駄も出さない
予約制のコースメニューだったわけなんだろうけどねえ
今や食堂車だけでなく列車全体がそうなってしまった 海外ではチェーン店と食堂車がコラボした事もあったらしいな
スイスのスタバ列車とか韓国のロッテリア列車とか SBBのはスタバ食堂車といってもコーヒーメニューがスタバっぽくなっただけで
街のスタバみたいなカスタマイズは出来ないしフードメニューは通常の食堂車と同じ
それより前にSBBはマクドナルドとコラボしたことがあって
専用食堂車まで新造した力の入れっぷりだったが
専用設備が仇となってマクドナルド撤退後はCOOP売店車にしか使えなかった あのさあ
食材のロスよりも
食堂車そのものの高コストが問題なのでは じゃあ何だ サイゼリヤみたいにレンチンにしろって言うのか キサシ180の調理室には電子レンジがあったようだが、キシ80、キサシ80の調理室には
電子レンジは入らなかったため、オーブンや電熱コンロで火加減を調整しながら、トーストや
焼き肉、焼き魚を調理していた。 昭和40年代に入ってもオシ17みたいに未だに木炭レンジ使っていたりする。客車故に電源の確保もあるから何とも言えんが。 石炭だろ。まぁ当時はまだ蒸機もかなり走ってたしな
オシ17ならディーゼル発電機積んでるんだから20系で上手くいったんだから
電気に改造してもよかった気はするけど、その昭和40年代で淘汰されちゃったからな 北陸トンネル列車火災事故の原因は、石炭レンジを使用していた食堂車オシ17の
石炭レンジやオーブンの火の不始末ではなく、電気配線の漏電だった。 そうだよEG線の漏電(基準違反の配線と配線の緩み)
きたぐに号の火災を起こす1年前(1971年10月6日)に急行「雲仙3号」のナハ10を同様にして燃やしている
雲仙3号は煙草の吸殻で漏電と偽った 宇都宮さんの著書によると、80系の山陰特急『まつかぜ』は、
気動車故なのか、それとも中古車の悲しさか電車や客車の特急列車と比べると発電機が脆弱で、
営業中に車掌から「しばらくの間、○番コンロと○番コンロは使わないでくれ」と言われてしまい
調理が大変だったって話が載ってたな。 中古車って表現になんか違和感
キハ82系新車導入で走り始めた列車だし
宇都宮さんが乗務してたのって1970年代前半だからそこまで古くもない キハ80系で運転されていた特急「まつかぜ」1・4号がキハ181系化されて
「まつかぜ」の食堂車連結がなくなった時、向日町運転所で用途廃止となった「まつかぜ」用キシ80が
向日町運転所から函館運転所へ転属して、状態の悪かった同所のキシ80が置き換えられて、
特急「おおぞら」などに組み込まれてしばらくの間使用されていたな >>451
「まつかぜ」の食堂車って、そんなに状態よかったか?
ただその時は「おおぞら」の食堂車は既になく、「おおとり」「オホーツク」各1往復
だけだったが。 >>430
アムトラックは食堂車でなくても、展望ラウンジカーに売店もあって軽食類を購入できる。
座席利用の若者にとっては、その方がリーズナブルで寛げるのだろう。
489系「白山」に連結されていた、ラウンジ&コンビニエンスカーが丸1両ある雰囲気。
日本の「若者」も食堂車の概念がなさそう。
生まれた時に九州ブルトレの食堂車は既になく、物心つく前に新幹線の食堂車は消えている。
駅中や駅前のコンビニで飲食を調達する傾向なので、駅弁も見向きしなさそう。 北海道で使用されていたキハ80系は、本州とは違う冬の寒さや雪の影響による
傷みや老朽化が激しく、北海道に比べれば温暖な西日本地区を走るキハ80系「まつかぜ」のキシ80の方が状態は良い方だった。 全検の都合とかそんなのでしょ。使えてるなら状態で転配はしないと思う
>>440-450
キハ82、発電エンジンが走行エンジンと同じポンコツで125kVAで4両、食堂車含めると
3両給電なんだよね。サシは自社給電で70kVAのMG積んでるからキシに同じくらい
使われると残りの2両は1両辺り30kVAに満たなくなって電力が足りなくなることもあったん
だろうね 厨房時代、修学旅行で上越新幹線に乗ったときに、まだビュッフェ車が連結されていたので一人で探訪しに行った覚えがある。 キシ80の電熱系は全てキハ81/82からの給電
向日町にはキハ81は来ていない
また、キハ82はいろいろあるものの、北海道(函館・札幌・苗穂)配備車は来ていない
(北海道から本州へ転出したのはキロが4両だけ) まつかぜはあまり速く走れない区間がほとんどで乗車率の高かった区間はそこそこ勾配のある箇所が多く、しかも西日本で暑い
要するに夏場は冷房+発電用機関冷却へ電気を多く使ってしまい、食堂車への電熱(調理場)系給電が滞った
まつかぜの所定は基本6両(82*2、ロ*1、シ*1、ハ*2)と増結4(82*1、ハ*3)あとで6(82*2、ハ*4)が「72(47).3まで」
それからは基本へハが1両加わった7両、増結側6両のうちハ1両がロ1両と置き換えられた最長13両編成となり、「82(57).6まで」続く >>459
ガス漏れの時、客の煙草の火、沿線火災の火が引火したりしたら危険だからじゃないかな。
食堂車の調理室でガスが使われるとしたら、車両の床下に長いプロパンガスのボンベが設置されるか、小型の丸いプロパンガスボンベが駅での食堂車の物資積み込みの
時に調理室に積み込まれていたかだな ガスコンロの炎なんてちょっとの揺れで消えちゃうからな
実用にならんのは当たり前 初めての食堂車が0系の都ホテル(1983)
最後の食堂車は廃止発表直前のトワイ(2014)
1990年代半ば、0系食堂車で食べた和風スパゲティが忘れられない。 昭和26年に川崎車輌で製造された食堂車マシ36-1・2は発電機式の冷房装置、
電気レンジや電気冷蔵庫を装備していたが、不調のため石炭レンジや氷冷蔵庫に交換されてマシ35-11・12となった。 その時代を語るなら冷房装置とは呼ばず空気調和装置と呼ばないとな。 >>466
空調用の車軸駆動式は通常の車軸発電機よりでかい(複雑)やつだった
とはいえこれで発電機と冷房のコンプレッサー等々の動力源を得るわけだしトラブルも少なくないことに >>462 >>467
スパゲティがありならラーメンが食べられる定期列車連結食堂車もあるな サハシ455の麺提供
現代ならばラーメンかもしれんね >>460
そういえばどこかの外国で乗客が持ち込んだコンロで車両火災起きていたな 今に比べれば相当に貧弱な線路状態で、
しかもかなり過酷な運用をしていた急行列車で、
あろうことか蕎麦やうどん等の汁物を提供するなんていう発想を実現させてしまっていたのが不思議でたまらない。 >>474
平均乗車時間が長かったから、供食サービスを充実させたい意向があっただろう。
急行で東京~大阪を乗り通す客も多かった。
東海道新幹線は乗車時間が限られたから、ビュッフェでお茶を濁した。 蕎麦やうどんって駅の立ち食いのと似たような感じだったんだろうか…? >>474
今に比べれば相当に貧弱な線路状態で、
しかもかなり過酷な運用をしていた
↓
汁物はこぼれ放題だったに違いない!
という単純な思い込みで語るなよ キハ58系にもビュッフェ車や食堂車の製作の計画があったようだが、実現しなかった。
実現していたら、長距離を走る気動車急行「しらゆき」、「青島」、「だいせん」などに連結されていたかも >>479
中央東線のアルプス系統にも組み込まれてたと思う。
最後の活躍はアルプスで、電車化後は松本で3年ほど放置された後、
キユニ28・キニ28の種車となって消滅・・・になってただろう。 長距離の気動車急行も多かっただろうに食事とれる設備無かったんだな もしあれば形式はキハシ28? キハ58系に限らず、日本の気動車は非力だったから、編成中に1エンジン車が多くなるのを嫌ったのでは。もしビュフェ車が造られたとしても、1エンジン車になっただろうに。 「アルプス」といえば、キロ28すらキロ58にして全て「58」としたトンデモ急行だから、
せいぜいキハ58の一部を売店にする程度
むしろ北海道のキハ56系にキハシ26が組み込まれる確率の方が高い >>482
でもそれならキシ80も同じ論理だが、特急と急行の違いからか?
あと80系は最低6両編成で運転してたが、キハ58・28は全運転台付きのため分割・併合で
支線区に最低2両で運用されるとビュッフェの連結が難しかった? >>485
編成単位で運用してたかどうかも要因ではなかろうか?
キハ58系は1両単位で運用されていたため、多層建て急行が多く設定されていた。末端区間では2両もあったくらい。
編成を組む電車や、気動車でも特急形は編成の中で供食設備を考えればいい。 急行ビッフェが繁盛したのは東京ー大阪だけで、他幹線の売り上げは芳しくなかったそうだからな。
山陽線ー北九州、上越線、東北線も、最初こそ東海道線急行と同じくサハシが2両連結だったが、
やがて1両となったし。
何かの本に、東海道線以外の急行は利用客層を考えるとサハ164みたいな売店付き車両か、
それさえもナシで車販だけでも良かったかも・・・みたいな記述があった。 >>487
それって151系パーラーカーが山陽本線で振るわなかったのと同じだなw
もっとも山陽本線の電車急行は、昭和48年には営業全廃になったけど。
北陸本線の「立山」「ゆのくに」「券六」のビュッフェ廃止も同時期だったような。 169系急行信州にサハシがついてたが(サハシ153の改造)、横川で釜飯買う客が多数いるのにビュッフェ利用客どれだけいたのだろうか?
幼いころ、大宮付近でプリンを食べた記憶。 急行ビュッフェって思ってたよりずっと終焉早かったんだね 客レ急行時代はオシ16以外は基本的にフルサービスの食堂車だったわけで
ビュッフェ自体が供食設備縮小の手段でもあったわけだし >>489
IDが一見D51
レス番も碓氷峠を連想させるなw >>491
所要時間が短くなる度にビュフェにしたがるのが国鉄って感じがする >>490
昭和40年代後半以降の東北や北陸だと特急増発に押される形でより急行のサービス縮小だったしな ところで490は急行ビュフェの終焉は何時頃だと思ってたんだろう? サービス終了は50.3か?
急行アルプスには暫く連結されっぱだったみたいだが。 確か最後まで残ってた信越・中央での営業やめたのが76年秋
RJ誌の76年10月号で信州1号のビュフェ追跡載ってるけど記事中でも先の短い扱いだった >>499-500
急行ビュッフェ全廃は76年11月末。
確かに>>489の通り、最後が中央・信越線電車急行なのが不明。
特急「あさま」「あずさ」でも当時食堂車がなかったのに、同区間走る急行にビュッフェが
営業してたのは不思議。 何かで見たか聞きかじった情報によると、冷房電源用のMGが欲しくて編成中にサハシを残したとか。 >>501
信越本線は碓氷峠で両数制限があるからあさまに食堂車組み込めなかった
あずさは時と共通運用で食堂車あったけど東北回送線が廃止になった時にあさまと共通運用になって食堂車がつかなくなった
急行は信越本線でも169系があるから12両編成が組めるのでビュフェあっても支障なし
特急に食堂車がないから逆に急行ビュフェ営業廃止が最後になった可能性 信越は57-11で白山に食堂車復活して嬉しかったなぁ
碓氷峠でコップの水見るのが楽しみで。 >>502
急行型ではないが、昔新聞の投稿欄に
「583系寝台列車の営業休止食堂車を外して寝台車を増やして欲しい」という旨の投稿があって
数日後に国鉄からやはり投稿で、編成の電源仕様上難しい、と
かなり詳細な解説付きで回答があったのを見たことがある。 >>503
181系はな。ただ急行ビュッフェ末期の頃は189系化されてたから、碓氷峠のネックは理由でなくなる。
それから「あさま」は一部489系運用の列車もあったのに、なぜそちらは営業休止にしたか?もある。 >>506
183系の時点で食堂車作ってないからね
昭和47年の時点で食堂車営業列車を増やす気はなかったんだろう キハ80系で運転されていた博多〜西鹿児島間の特急「にちりん」は、
当初、食堂車を営業していたが、のちにキシ80はキハ80に置き換えられて、
気動車「にちりん」の食堂車はなくなった。 >>505
サシ581はそんな理由があって、75年3月で西日本の583系全列車営業休止は怪訝に思えたものだ。
しかし85年3月に「きたぐに」583系化、東北方面も食堂車を外して編成を組み替えたので、
食堂車を外すのがそんなに大掛かりな事だったか?の疑問はあった。
75年は組合が強かったので、実施できなかったのか? 485系の「雷鳥」や「白鳥」でも食堂車は外されたが、キハ80系でも食堂車キシ80を
連結していなくても6両編成は組めるので、電車特急でも気動車特急でも食堂車を
外すのは大がりでもないように思える。 >>509
食堂車を抜くのは三相電源切り替えスイッチを移設すればいいだけでそれはかんたんで実際後年行われたけどさ
これって単純に食堂車を編成から抜いただけなんだよね
サシのかわりにサハネを連結する時の最大の問題点ってそもそもサハネそんなに余ってねえよってことだったんじゃないのかな? 知識不足なので予想っぽくなるけど…
キハ80系は編成を組む上でキシで回路を交差させる必要があるけど、短編成運用も考慮してキロの乗降扉側で既に両渡りにしてたから
容易にキシ抜きができたよね。
サシは>>511が挙げている三相電源の切り替えスイッチを移設する必要があって、少なくともS57年11月ダイヤ改正前の難解な転配が
連日行われていて、定期運行しつつ進めていたから自ずと慢性的な車両不足を呈していたね。一部は運休せざるを得なかったはず。
→回路移設のための入場なんてもってのほかだったから、やむを得ず食堂休止のまま連結を続ける事態になったのだと思うな。
転配が終わったあともサハの先頭車化とかが進んでいたけど、東北上越新幹線運行により車両には余裕が出ていたから、
S60年3月までに移設作業が進められたのだと思う。
勝手にウソついてることもあるかもだから、誰か補足してくれるとありがたいです。 しかしなんで70年代前半あたりで既に斜陽化してたんだろう 平成以降ほど駅中もコンビニも充実してないだろうに 日本以外だと韓国台湾も割と早いうちに食堂車消えてたっぽいが >>514
従業員が集まらなくなったのが大きいと思われ。 途中で書き込んでしまった。
70年代は労働市場の賃金が急速に上昇して、従来の安い給与で人材が集まらなくなり、
急速に食堂車営業の採算が悪化したということだろう。
メニューの値段を上げるにしても、駅弁との釣り合い上そうそう大幅には出来ないし… あのー、サハ?
3相切替スイッチはサシからサロへ移設
57.11と59.2で余剰になった「向日町の」合計15両から取り外されたものを下記へ移設
向日町の6両
青森の9両(うち1両は元向日町車)
これとは別に青森予備車である1両のサシから同じ予備車である1両のサロへ取り付け
この時点で
3相切替スイッチがないサシ 向日町15両、青森1両
3相切替スイッチのあるサロ 向日町6両、青森10両
60.3にて、3相切替スイッチ付きのサロと付けられていないサロを交換
青森は取り外した&余剰の合計13両のサシから、緊急で3両のサロへ、その後もう2両のサロへ移設
この時点で
3相切替スイッチがないサシ 向日町15両、青森14両
3相切替スイッチのあるサロ 向日町6両、青森15両
サシから取り外した3相切替スイッチ 青森8両分
こうして
向日町配置で3相切替スイッチのないサロは同配置のサシともども60年の年度末までに全車廃車
青森配置のサシは仙台市内での廃車体利用のために仙台へ送られた2両共々60年の年度末までに廃車
となる
※3相切替スイッチが付けられているサロ581でも4(青森配置)だけが余剰として62.2.6廃車 >>509
583系に関しては青森車は新幹線開業後は食堂営業なし、向日町も雷鳥以外の食堂営業がなくなってた上に山陽方面から撤退で大量の保留車出してたんでいよいよ外す余裕出たが
75年当時だとまだ編成崩す考えなかったり食堂を使うかもしれないと思われてた(実際向日町車は53・10でしらさき運用撤退、雷鳥運用に入ってサシ581の食堂営業復活)かと ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています