【シ,ハシ,Td,Tb】食堂車・ビュフェ【35,36,37,168】5レ
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5レの食堂車といえば、「みずほ」「北斗星5号」になるか それぞれの鉄道博物館食堂は、サシ151、サハシ153などのレプリカを造ってそこで食堂営業して欲しいな。
サシ151の厨房部分は見学コーナー。
サハシ153はビュッフェカウンターの他、ボックス席の中央にもテーブルを置いて食堂にする。
窓はテレビモニターにして鉄道パノラマで走る模型車両に搭載した小型カメラからの車窓を映す。
混雑時の利用も想定して車外にもテーブルと椅子を置いてフードコート風に。 でもそんなんじゃ一定の食事時間帯に殺到する客をさばききれないってんで
大宮の鉄道博物館ではああいう食堂車風の内装になったわけだ
人数限定で時間を区切ってラリックのワゴンリみたいにするしかないけど
あれもティーセットだからあれだけ回せるわけで
ちなみにラリックは併設のレストランのシェフは車内供食やりたかったそうだが
窓が動かせず料理のにおいがこもるのはよろしくないとのことで却下になったそうだ 京都に食堂車食堂あるけど、そこまで演出するのは至難だろうな。
周囲が通路だし。 京都のナシ20、去年行ったんだけど喫茶営業だけになってたような
大阪に置いてあった頃はレストラン営業してたけど 大阪時代懐かしいね。 まぁカツカレーくらいしか食わんかったけど
結構雰囲気出ていた。後に駅弁販売になったが >>323
77年に乗ったひかり145号のビュッフェで購入したハムサンドは旨かった。
350円だった。サンドイッチの上にスライスした塩漬けピクルスが載っててお洒落に
感じた。
サンドイッチ自体も今のコンビニのそれのようにマヨネーズではなく辛子バターが塗って
あって美味しかった。
このひかりは東京駅発車時点で満席でビュッフェに行ったら10号車は食堂車待の行列と
厨房から流れ込むブイヨンと炒めたタマネギにバターとコーヒー香りと煙に包まれていた。
今でも待を歩いていてその匂いを感じると当時を思い出す。 今度の祝日は、ミートソーススパゲティにとんかつ乗せて
食堂車気分に浸ることにする。 ミートソーススパゲティにカツ、カレーかけたら擬似トルコライスだな 子供の頃、新幹線の時刻表を見ると食堂車担当欄に『日本食堂』『ビュッフェとうきょう』などが書いてあり、それは分かるんだが、
『帝国ホテル』『都ホテル』『新大阪ホテル』などは「どうしてホテルが食堂車を営業しているんだ?」と不思議だったな。 スパゲティベロネーズって神田鉄道倶楽部で出してた時も
もはや分かる奴にしか分からんレベルだったんだよな 帝国ホテルが日食より高かったというのは朧気に記憶あるんだが
うちにある時刻表のメニュー見ても僅差なんだよな。
「高いメニューが有る」ってだけかな。シャリアピン・ステーキとか 昭和の小田急ロマンスカーは日東紅茶と森永。
東武のデラロマは東武ホテルとかかな? 都ホテルのメニューで、うなぎご飯、ビーフステーキ、ビーフシチューは子供ながら高いなと、思ったよ 食堂車全盛期、俺の親父は喫煙者だったが肺が弱かったのか最期は肺癌だった。
長男教で長男の俺だけを大事にしてくれたが
肺癌になってからはゴホゴホうるさくて「うるせーな!咳すんな!」と
お袋や弟や妹、嫁や息子娘によく蹴られていた。
入院もさせてもらえず物置に放置で死因は一応肺癌と病院も診断してくれたが
本当は暴行死&衰弱死なんだろうな。
特に息子たちがかなり強めに蹴っていた。
威張っていた親父が息子らに顔面蹴られてジャガイモみたい変な顔はになっていたな。 東武の車販でアイス買ったら固くなかった
あと車販買った直後に買った当該列車の車販休止リリースがきてびっくり
https://www.tobu.co.jp/file/pdf/b3ca8ccc4939cb0168ad1efb80ad9330/一部特急列車における車内販売休止について.pdf?date= 伊豆急のスコールカー、どんなメニューがあったんかなぁ…
営業期間が短かったからか、あんまり情報が出てこないし。
サントリーが関わってたってくらいしか分からない… >>365
当時のメニューは英語が並んで表記されてた
か外人客向けに有名ホテルに委託では? >>374
元々東海道線の列車食堂を営業していたのが新幹線に移行した
なおビュフェとうきょうの前身は「東海車販」で弘済会の系列 鉄道弘済会担当の食堂車って、接客が酷くて高額で不味い料理(他社より量も少な目)を出しそうなイメージ。 まぁそう言われたとおりだけどね
クルーにもよるけど 帝国>都>日食>BTが定説 今の飲食業と似たようなもんやろ
低賃金で労働環境の悪い 新幹線博多開業後、食堂車営業担当は在来線では日本食堂だけになった・・・って話をコロタン文庫系の児童書で読んだが、
同時期の鉄道ファンや鉄道ジャーナルによると鉄道弘済会担当も何割かあったのね。 新性能電車が登場して以降の国鉄食堂車の窓って、ナシ17、ナシ20以外はサシ151に倣った横長の窓よね。
14系寝台車の場合、寝台車は20系みたいな大窓なのにオシ14だけ座席車横長窓。
(座席車も特急電車に倣った横長窓だったが) 20系は編成美重視、その後は立って見るもんじゃなく
着座基本の食堂は高さない窓でいいから。窓は小さい方が
構造強化と軽量化が両立できる。ガラス代も安いよ。 寝台も3段のは大窓だが、2段になった24/25や14/15は横長の細窓
国鉄的には窓小さくしたかったのが本音でしょう。
バブル期にグレードアップ改造で485や183/9が広げられたのは景気のお陰 >>385
オハネ25形(オハネフ25形)0番台は大窓だよ
寝台側の窓の上下寸法が小さくなったのは100番台から
単に上段固定化したからであって国鉄的に窓を小さくしたかった訳じゃないだろう
通路側の窓は変わらんかったし まぁでもあの辺は合理化だよな。合理化で固定化したから窓も標準化
妻面の窓も小さくしてる。切妻にしたし。昭和50年近辺の製造はそんなの多い
オシ14のころはそれほどでもなかったけど、やっぱり電車、サシ581なんかと同じ設計にして
作る側や働く側の面倒を避けたんだろうね。確かに窓は大きい方がよかった
>>381
オシ17 >>387
>確かに窓は大きい方がよかった
食堂車で席に座って外を眺める時大窓は必要ないと思うけどな >>388
そうかな。100系の食堂車はよかったよ。マシ26も
オシやサシ581は天井高いから余計大きい方がよかったと思うけど
まぁでも長居されても困るから、数を捌かなきゃいけない食堂車の居心地は
そこそこの方がいいかもな >>387
同じ食堂車だし電車・客車・気動車区別なく仕様を似せれば部品もある程度共通化できるからってことか。
納得できる。 >>384
挑発してスマン。
読み辛いのよ。
なんか編成美とか外れてる感じだったし。 グランドひかり仕様の0系食堂車があったらしいが全然見たことない。伝説だ。 西もち編成で使ってる椅子がグランドひかり編成と一緒の奴か
トワイライトエクスプレスも同じ椅子を使ってたしな >>397
いや平屋。
「食堂車バンザイ」という本の表紙の画になってる。
東海の博物館で展示されている36形の食堂は
オレンジの椅子と青の椅子の組み合わせだけど、
あれも元は奇数車両と偶数車両で、オレンジの椅子だけ、青の椅子だけってなってたそうね。
確か一番奥のソファブースも同様。 同じ列車に乗っていても食堂車やビュッフェで食事するのは裕福な印象で、
車内で駅弁がっついたり、おにぎりモグモグしてるのはなんか貧しさが漂っていた。
ゴミを出さないからかな? そもそも値段が倍くらい違うのが多かったからね。
当時も1000円超え駅弁はあったけど、昭和55-60年なら
500-700円中心、食堂車は900-1800円くらいデフォ >>323
あのサンドイッチのピクルスが好きだったな、今時のサンドイッチにスウィートピクルスなんて付いてないよな。サンドイッチ自体が高級料理だった。 >>378
従業員の入れ替え(すぐ辞める)が多い会社ほど質は低くなるの法則 食堂が2両有るときには別メニューで営業していたのですか。 20系時代の『はやぶさ』『富士』、北陸トンネル事故前の『きたぐに』などの長距離・長時間列車食堂車の従業員は
始点から終点まで乗り通しだったのかね?
それとも門司や新潟などの主要駅で交代? コロナ禍が落ち着いたらサフィールヌードルとグランクラス弁当も
しれっとここのカテゴリに入ってたりしてな >>405
はやぶさ、富士は、24系化後は少なくとも門司で交代してた。
新幹線博多開業前の20系時代は、西日本の食堂車乗務サイクルが大幅に違ってたので、
門司で交代してたか分からん。
しかもブルトレ営業が、日本食堂独占でなかったので。
きたぐにも更に古いので分からんが、同区間運転だった白鳥サシ481は、青森の通し乗務だった。 もし食堂車営業列車がそれなりにあった国鉄時代に今のコロナ騒ぎが起きたら、
食堂車は全面営業休止になるのかな?
現状でもグランクラスや、サフィールのヌードルバーも休止してるし。
瑞風、四季島、ななつ星も当面運休中になってるか? コロナ感染拡大の対応だつたら、営業休止だろうが、オタは食堂車で宴会するんだろうな 86年3月25日、就職直前でヒマだったので東京から浜松の巨人−西武のオープン戦に行った。帰りのこだまのビュフェに行ったら、野球の関係者パスをした男性とコマモテの男性の2人組。
何となく見覚えが有ったが、TBSの多田護アナと、この日はSBSで解説の田宮謙二郎氏だった。多田アナが「今年も巨人の優勝は無さそうですね」まあ、そうなったけど(笑)
田宮氏がシュウマイをおごってあげると「先輩、有難うございます!」
お二人とも鬼籍に入ってしまわれたが。 >>411
86年なら、巨人が僅差で広島に優勝をさらわれた年だぞ! >>409-410
アメリカ・アムトラックの食堂車は、コロナの影響で5月末まで食堂車休止が決まってる。
それとは別に、東海岸の食堂車が全面廃止。ビューライナーの食堂車営業列車が消滅。 新幹線のビュッフェと食堂車でバイトしてたことあったけど楽しかった >>415
カレーライスなどの軽食主体だったんじゃないかな >>145
>>146
>>147
やや違うと思うけど・・・
1975年3月10日 20系出雲を24系24形に変更
1976年10月1日 24系24形から24系25形へ変更
1978年1月20日 出雲の食堂車を付属編成に移す(上りは21日から) 上り出雲は朝の食堂車営業はやってたの?
だけどなんで東京着が朝早いんだろうね >>417
それは君の翻訳装置が間違っているからだろう >>418
朝は食堂車やらない。そのためみずほと同時期に営業廃止になった。
東京着7時頃は通勤ラッシュ対策。
上野でも朝7時頃から、9時頃まで夜行列車の到着はなかった。 >>413
東海岸の食堂車全滅ってマジか…世界的に食堂車は厳しい状況なのか 東京発着ブルトレが日本食堂・門司営業所・長崎営業所・米子営業所が
担当してた1970年代の食堂車が一番好ましい状態の食堂車だった
1985年くらいからの食堂車は凋落化が始まり、コック1名の上野営業所や
新博多営業所になって沿線名物料理が消えて、残ってても往年とは
比べられないほど陳腐化したものだった(皿うどんなど) >>423
70年代は、山陽新幹線博多開業の75年を境に大きく変わるけれど、文面から75年以降か?
それなら決してそうとはいえない。
国鉄が大幅値上げ後の76年末以降は旅客が減少し、メニューの積み込みを控えた傾向があった。
博多あさかぜ20系末期の77年末頃は、朝食を摂りに食堂車へ行ったら朝8時前で閉店してた有様。
ブルトレブームになって少し持ち直したかもしれんが、親子連れが多くなりビジネス客は離れたので、
全盛期の賑わいとは違っていた。
85年の東北・上越新幹線上野開業では在来線食堂車が壊滅して、確かに新幹線と集約化
したのはあったけど、博多あさかぜのレトロ調が登場したあたりまでは
そんなにクオリティーが落ちていなかった。 東京発着夜行で下り夜の売店営業を辞めちまったときにもう存続は
諦めていたんだろうなあ >>425
東京発着ブルトレ自体の存続の意味か?
それなら30年程前の食堂車末期から諦めてただろう。
利用客が減って食堂車が成り立たなくなり、食堂車全面休止の1年半後にみずほ・博多あさかぜ廃止、
その直後に阪神大震災の長期運休がほぼ影響がなかった。 FIFAW杯アジア予選における
ジョホールバルの歓喜のとき
フリースペースとなっていた食堂車は
どんな雰囲気だったのかのう
直後に「はやぶさ」「富士」から外されたし >>427
食堂車を引継いだ車内販売基地となっていて、バイトの車販員1人が切り盛りしていた。
レジ近くのテーブルに売り物の駅弁を並べていたが、その車販員が不在中は会計できない。
何となく最近食堂や居酒屋のテイクアウトの雰囲気と似てるなw
空いてるテーブルは、飲食・歓談で自由に使えた。
営業休止の侘しさから場末感があって、新幹線でまだ多かったカフェテリアより
冴えなかったが、それも97年に無くなって20年以上だな!
「さくら」は食堂車連結を99年まで維持してたが、それ以降バイトの車販員は
東京から乗らなくなった。 自分の思い出は100系食堂車とつばめのチャオハンだな
ブルトレは利用機会が無かった >>422
縮小の理由として、知らない人と隣り合わせで夕食を取るよりも自分の個室で過ごすことを好むミレニアル世代の傾向が挙げられたことも論議を呼んだ。
若者のせいにするのか…(困惑) 50代だが、昭和の頃とは人間関係が変わってる空気感で
今ではとても相席などしたくないね。昭和50-60年の食堂車じゃ
初対面の人との会話も弾んだものだが、平成後期からは
老人はともかく中年以下若者まで「声かけるなよ」の雰囲気でね。 なんで食堂車の料金設定は高いんだ?娑婆代とか無関係なのに。 えっ、ショバ代払ってるんだろう?
駅弁だって蕎麦屋だって駅売りの権利取るから
否応なくNREに併合されるか撤退するんだし。
仮に自社だとしても従業員数と客回転率からしたら
街のレストランと同じ値段じゃやっていけない。
低コストセントラルキッチン・温めるだけ+ほぼ非正規雇用で
やっとファミレスが黒字になるっていうのが飲食。 でもどうせ利用者少なかったんなら強制相席やめてもよかったんじゃないの?とは思う まあ掃除するテーブル増えるのが嫌なのかもしれないが トワイライトのランチタイムとか強制相席だったが
一応聞かれはするけど待ってる相手のこと考えたら嫌とはいえんでしょ
俺みたいなオタと相席で良ければどうぞとは思っていたが >>432
地上店舗とはかかる人件費が全然違う
食堂車クルー以外にも地上設備の要員や
地上設備から駅のヤードまで運搬するトラックの運転手とか
駅のヤードからホームまで上げる台車のおっさんたちとか目に見えない人員がたくさんいる
食堂車クルーだって営業列車が1日1往復日帰り可能(泊不要)なら1チームの最小限で済むが
そうじゃない場合は複数のチームが必要になる その打開策が客単価を高く維持しつつ食材の無駄も出さない
予約制のコースメニューだったわけなんだろうけどねえ
今や食堂車だけでなく列車全体がそうなってしまった 海外ではチェーン店と食堂車がコラボした事もあったらしいな
スイスのスタバ列車とか韓国のロッテリア列車とか SBBのはスタバ食堂車といってもコーヒーメニューがスタバっぽくなっただけで
街のスタバみたいなカスタマイズは出来ないしフードメニューは通常の食堂車と同じ
それより前にSBBはマクドナルドとコラボしたことがあって
専用食堂車まで新造した力の入れっぷりだったが
専用設備が仇となってマクドナルド撤退後はCOOP売店車にしか使えなかった あのさあ
食材のロスよりも
食堂車そのものの高コストが問題なのでは じゃあ何だ サイゼリヤみたいにレンチンにしろって言うのか キサシ180の調理室には電子レンジがあったようだが、キシ80、キサシ80の調理室には
電子レンジは入らなかったため、オーブンや電熱コンロで火加減を調整しながら、トーストや
焼き肉、焼き魚を調理していた。 昭和40年代に入ってもオシ17みたいに未だに木炭レンジ使っていたりする。客車故に電源の確保もあるから何とも言えんが。 石炭だろ。まぁ当時はまだ蒸機もかなり走ってたしな
オシ17ならディーゼル発電機積んでるんだから20系で上手くいったんだから
電気に改造してもよかった気はするけど、その昭和40年代で淘汰されちゃったからな 北陸トンネル列車火災事故の原因は、石炭レンジを使用していた食堂車オシ17の
石炭レンジやオーブンの火の不始末ではなく、電気配線の漏電だった。 そうだよEG線の漏電(基準違反の配線と配線の緩み)
きたぐに号の火災を起こす1年前(1971年10月6日)に急行「雲仙3号」のナハ10を同様にして燃やしている
雲仙3号は煙草の吸殻で漏電と偽った 宇都宮さんの著書によると、80系の山陰特急『まつかぜ』は、
気動車故なのか、それとも中古車の悲しさか電車や客車の特急列車と比べると発電機が脆弱で、
営業中に車掌から「しばらくの間、○番コンロと○番コンロは使わないでくれ」と言われてしまい
調理が大変だったって話が載ってたな。 中古車って表現になんか違和感
キハ82系新車導入で走り始めた列車だし
宇都宮さんが乗務してたのって1970年代前半だからそこまで古くもない キハ80系で運転されていた特急「まつかぜ」1・4号がキハ181系化されて
「まつかぜ」の食堂車連結がなくなった時、向日町運転所で用途廃止となった「まつかぜ」用キシ80が
向日町運転所から函館運転所へ転属して、状態の悪かった同所のキシ80が置き換えられて、
特急「おおぞら」などに組み込まれてしばらくの間使用されていたな >>451
「まつかぜ」の食堂車って、そんなに状態よかったか?
ただその時は「おおぞら」の食堂車は既になく、「おおとり」「オホーツク」各1往復
だけだったが。 >>430
アムトラックは食堂車でなくても、展望ラウンジカーに売店もあって軽食類を購入できる。
座席利用の若者にとっては、その方がリーズナブルで寛げるのだろう。
489系「白山」に連結されていた、ラウンジ&コンビニエンスカーが丸1両ある雰囲気。
日本の「若者」も食堂車の概念がなさそう。
生まれた時に九州ブルトレの食堂車は既になく、物心つく前に新幹線の食堂車は消えている。
駅中や駅前のコンビニで飲食を調達する傾向なので、駅弁も見向きしなさそう。 北海道で使用されていたキハ80系は、本州とは違う冬の寒さや雪の影響による
傷みや老朽化が激しく、北海道に比べれば温暖な西日本地区を走るキハ80系「まつかぜ」のキシ80の方が状態は良い方だった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています