昔の国鉄阪和線
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
大阪〜和歌山間を結ぶ重要路線でありながら
その生い立ちゆえに陽の当たらなかった阪和線の思い出スレ >>39
> 今は高架化でそんな光景も消えたがもっと早く作ってほしかったとは思う
阪和線が高架になるって聞いたのは、たしか俺が小学生低学年の頃よ。
いま四十超えたオッサンですわ
土地買収にだいぶてこずったみたいやね。
無駄に時間を費やしてる間に何人の命が踏切事故で落とされていったのか……。 東岸和田南一番踏切横には踏切番小屋があって、遮断機は上昇式で、
列車通過時は踏切警手が遮断機を昇降させて旗振りしていたが、
事故が発生してから両側から遮断棒が降りてくる自動踏切化されて、
踏み切り番小屋も撤去されて無くなった >>61
鶴ヶ丘駅南側にあった踏切で高架に切り替える前日あたりでJKが無理に渡ろうとして轢死したと聞いたが。 >>61
阪神高速泉北線とセットだったはずが、阪神淡路大震災で無期限延期になって、JRそのとばっちりじゃなかったっけ?
まぁあれだ、亡くなった人気の毒だが、JKに関しては丁度同じ頃に鳥取東浜でJKが臨海学校で溺れ亡くなった頃だがJKのクレーマー?の両親たちのせいで鳥取東浜臨海学校自体なくなったからJKなら別に気の毒とは思わないけどもwアレな言い方だがクレーマー社会先駆け 「和歌山北第一踏切」も83年まで手動式だった。今は道路も高架化され踏切自体撤去。
すっかり景観は変わってしまってる。付近に捺染工場があってインクの匂い?がよく漂ってたが
そこも複合商業地になってるな。 和歌山ついでに。今は近鉄ターミナルになってるが、かつては貨物の留置線が敷かれていた。
また68年に東和歌山から和歌山ステーションになった当初は阪和線も2〜3番発着じゃなく、
旧来の阪和鉄道時代の名残の行き止まり式(今の地下道連絡口あたり)を使ってた。 東岸和田駅が貨物取り扱いしていた頃は、構内に貨物ヤードがあって、
貨車への荷物積み込み作業を駅前の狭い道から眺めることができた
積み込まれているのは、主に米などの穀類や、泉州タマネギ、岸和田みかんなどで、
ときおりヤードの側線にパンタを下げたED60が留置されていることもあった。 阪急淡路なんかまだ半分も工事できてない
完成するまでに人口が減って鉄道利用者もいなくなるかもってのにな 103系のボロさは尋常ではなかった
窓はスリガラスと見間違えるくらいに汚れてるし
取っ手の油のギトギトも拭けてない
天井の換気扇から雨漏りってのもあった
修理するお金もなかったのか、単に仕事をサボってるのか 夏場、阪和線の非冷房の103系は窓全開、運転士までが運転室の助士席側のドアを
開けたまま運転していたりしていた >>60
附属天王寺小学校ってガリ勉の印象しかない
たまたま隣に座ったのでドリルみたいなのをやってるのをチラ見したら
二次方程式みたいな問題を解いてた
方程式て中学で習うやつだがな >>70
換気扇?
南海6000系非冷房と間違えてないか? >>72 >>74
扇風機外郭にある、換気口のことと思われ。
>>71
それ、久留里線状態? >>70
車内のドアの上の東京の国電の地図の上に白ペンキベタ塗り。
窓枠をよく見ると塗り残した山手線の黄緑色。 103系の京浜東北線からの転属車の中には、非冷房のまま転入した車両や、
転属前に大井工場などで冷房車化されて阪和線に転属してきた車両もあった 年号でいうと2003年頃、2週に1回くらいのペースで故障か人身事故かで電車が止まるか遅れを出してた
飛び込み自殺も多かった
当時 はSNSがなく、事故発生は駅頭の貼り紙で知るくらいしか術がなかったが
それも不正確かつ情報が遅くて車中に缶詰にされたり改札口で通せんぼされたり・・
阪和線にはろくな思い出がない >>33
天王寺駅近くにあった南海電車の広告で
「関西空港へはラピートがはるかにお得」をよく覚えてる 附属天王寺小学校ってずいぶん遅くまでちょうちんブルマでしたよね。 >>79
開港1年目だけラピートに客数で負けてたが2年目から逆転。
所詮なんば発着しかできないラピートに比べたら、天王寺新大阪はおろか京都までカバーできるはるかに分があるのは当然 長居駅の思い出は開かずの踏切や安田病院よりもワールドカップ2002
あんな厳重な警備初めて見たが東京から観戦に来た友人は
こん なの東京では日常と冷静だったw >>78
2チャンの鉄道板に事故速報スレがあったよ
正直ガセも少なくなかったがまあまあアテにできるクオリティ >>82
しかし一時は
ラピートが2本/hを維持する一方
はるかは日中1本/hへ減便 九州から阪和線・紀勢線へ行くとしたらやはり宿泊は和歌山市が便利でしょうか?紀州鉄道とか貴志川線とかも周りたいんですが >>76
どころか路線図丸出しのまま走ってたのもなかった?
何度か遭遇したぞ。
あと、ドア上の「TOKYO33?」とかも見たことある。 長居の開かずの踏切は歩行者の侵入のほかにクルマの突入もたまにあった
遮断機をバギッと折って突入し、そのまま平然と走り去ってゆく強者もおったらしい
思うにあれは中央分離帯が邪魔をしてUターンができないのが原因 >>24
じゃあ・・・俺が阪和線内で乗ったウグイスの101系は貸出だったのかも知れない。因みに昭和50年か51年頃の話。
当時、小学校低学年だったが、既にこの頃から鉄ヲタだったので記憶はバッチリ。
他に奈良の春日色の113系が営業運転に就いている時があった。これは昭和60年頃。
昭和50年、51年頃の阪和線はまだ旧国が沢山走ってたし、スカ色の70系まで走ってた。
「くろしお」は、まだキハ81のブルドッグ。親戚の家の帰りに何度かみ2番線辺りから発車する
924列車も10系寝台車が連結されてた。「南紀」→「はやたま」。
この924列車は後に寝台車が外され、時期的にいつか分からないが12系化。
天王寺の発車番線は9番線発になり、この9番線には「23:00」などの当時の乗車位置が
2018年になった現在でもわずかに残ってる。 >90
昭和49年7月のダイヤ改正に備え、池袋電車区からウグイス色の103系6連10本が
鳳区に転属してきたが、スカイブルー塗装化が間に合わず、関西線101系と同様に
黄色の警戒帯が前面窓下に入れられて使用された。
スカイブルーへの塗り替えは昭和50年以降にかけて行われたものと思われる
先頭車の前面窓の大きさと高さ位置などで、その電車の先頭車がクハ101、
またはクモハ100とわかったなら、貴方の言うように阪和線でも101系が103系の
代走で運用されていたかも
俺はその頃まだ1つか2つくらいだったから、車両の知識も全くなかったし、
鉄道には興味さえなかった 70年代阪和線のウグイス色は74年(昭和49)7月?に首都圏から大量に転出された103系だったと思う。
スカイブルーへの変更が間に合わず、ウグイスのまま投入。春日色の113系は関西線電化時から共通運用で
阪和線の主に快速で運用されていたな。 >>89
防犯カメラもドラレコもまだ普及してなくて
何にも証拠が残らずやったもん勝ちみたいな 紀勢本線電化前、同線の各種試験に使用された鳳電車区配置の入換え用のクモハ60と
思われるオレンジ色の旧国を連結した103系が和歌山方面に向かって、下松(当時は未開業)
付近の踏切を通過していくのを見た記憶がある> >>5
南海山手線から国鉄山手線になる可能性もあった? 阪和電鉄のままなら特急くろしおも急行きのくにも和歌山線関西線経由で不便だったろうな。それも律儀に紀和でスイッチバックw 新快速のHMは何度か形を変えてたがその中で
折り畳み式になっていて「新快速」の文字を隠すことができるタイプをよく覚えてる
阪和線のやつは京阪神新快速よりも小ぶりで本家に遠慮してる感じが奥ゆかしかったな >>17
実際そうでもなく
冷房化率はS55年から数年間逆転すらした
>>21,90
オト101関西線用は
故障増大の旧形国電の代走として
阪和線用予備車が準備不可の局面
かつ和泉砂川以北の各停に限られた
よって快速で運用されていたのは
転入直後の阪和線用ウグイス色103 >>89
突入といえば平成元年の天王寺駅車止め突進事故
事故を起こした運転士がブレーキが利かなかったと証言したらしいが
それまで問題なく停車できていたのに急に終点でブレーキ故障なんかするかいなと
子供心に思った 日中の東岸和田折り返しの各駅停車には、ときおりクモハ103先頭の羽衣線用の3両編成の
103系2本を連結した6両編成が使用されることもあった そのあとも同種の事故が関東鉄道取手駅でも起きている
終点で止まらずに車止めに激突した >>101
関鉄取手駅突撃は手前で車両点検した際に圧のコック閉め忘れた近鉄東青山の衝突事故と同じ
違うのは手前の駅で車両点検の際、客が「早く走らせろ!」と罵声浴びせて急かしたのも一因 >>103 客の罵声があろうとなかろうと、フェイルセーフに必要な措置を失念しブレーキ利かなくさせた乗務員に最大の落ち度があるだろ。五十歩百歩。オートマ車でブレーキとアクセル間違えて踏んだのと似たようなもの。 103系も113系のピンチヒッターで新快速に借り出されたことがあったな。
新快速のヘッドマークのイラスト?を長方形の白い板に書いて前面に掲げてた。 >>104
現業や元「ATのブレーキとアクセル踏み間違いと同等に語るな」
と言われるな
客に囲まれ追い詰められて高架から飛び降りた某社車掌の事件知ってたらそんな事言えないけどな
因みにその某社、運転時に運転再開時のチェックリスト持って乗務してるから、車庫公開時に聞いてみな >>106 「ATのブレーキとアクセル踏み間違いと同等に語るな」って、そりゃ自家用車と違い多数の人命を預かっている職業だから、責任は加重されるわな。業務上過失に問われるのは同様だけど。
バス運転手が客の罵声でストレス感じ信号無視して事故起こした場合、仕方がないだろと言えるのかねえ?
ま、列車乗務員だけでなく、ブレーキ故障頻発する車両を走らせていた鉄道会社の責任も追及されなくてはならないが。要するに共同不法行為。 そういや新快速のHMは羽車のデザインだったから南海を意識したのかな >>107
信号無視して事故起こすのと一緒に語られてもねぇ 阪和線103系前面方向幕の旧幕の「区間快速 天王寺⇔和歌山」などの
種別の区間快速の文字が赤で書かれたものと黄緑色で書かれたものとがあったが、
なにか理由があったのだろうか キハ82系「くろしおのかぜ」
名古屋→新宮→和歌山→天王寺→(環状線)→大阪→福知山→鳥取→米子→浜田→下関→門司→博多
御乗車お疲れ様でした 天王寺構内の車止メ衝突事故は
JR発足前後で2回発生しているが
103などコイルバネ台車の形式では
応荷重装置が戸閉と連動しており
かつて他の形式を含め
車掌SWでの再開閉操作の速さによっては
応荷重装置が正しく機能せず
空車相当の指令となる仕様だったため
時折過走が発生していた
H1の事故の方でも
刑事裁判での事故調査にて
上記の件が強く疑われ
物証と再現実験で運転士の無罪が確定
以降は応荷重装置が改良され
積空検知に時素を持たせた オーバーランや反対側扉開け事案はけっこう有るね、車内放送テープのセット間違いも有る >>112
平成元年の事故車は101改造でブレーキが甘いと引き継ぎされと証言あったな >112
>115
事故直前、途中の駅で運転士交代の際、運転を引き継いだ運転士は、運転してきた
運転士から「ブレーキの利きが甘い」と言われたにもかかわらず、その重要なことを
うわの空で聞いており、それが事故につながった。
その運転士は電車運転士になる前は、電気機関車の機関士もしていたという。
事故後、同運転士は現場を離れ、内勤になったという >115
このクハ103は 101系から改造の2000番台車で、やはり純粋の103系と
混結するにはブレーキ系統に無理があったようだ。(現場では当初から要注意車との共通意識があったようだ)単に当日のブレーキの効きが甘い程度では済まされていなかったようだ。皆運転士は恐々心得て運転してかろうじて運転していたと思う。
そこへくると101系改造のサハ103750台は環状線で問題なく長持ちしていたんだなと思う。 昔の思い出話として一つ、旧国車ばかりのころは、帽子を前つぶしに被る運転士、サングラスをか
けて運転する人、ガムを噛みながら運転する人、発車間際まで新聞・雑誌に目を通していた人、
夏季の暑い日には反対がの乗務員ドアを開けっ放しにして走っていた人などさまざまであったが、
唯一感心したのは天王寺行きの上り各停、クモハ73600車をずっと立ったまま丁寧に運転して
いた初老の人がとても印象的であった。クモハ73600は高運転台なのでクハ111と同じ椅子が
設置してあったが、それにも座らずにずっと立っていた。
また今日のような暑い日には天王寺折り返しの再に9番乗り場先端にあったドラム缶に入った
水をジョウロで汲んで木の床板に何度も撒いて涼を取っていた。 >117
事故後、阪和線で20年間運転士をしていた元運転士の話によると、
「103系は走行中ブレーキの利きが変化するので、かなり神経を使った」と >119
今思えば昼間の乗客閑散時でも、駅に止まる寸前は本来設置された停止位置表示柱
よりも5〜10メートル手前で停止するような速度でホーム進入して、更にあと
「5m・3m」というような止まらせ方法でブレーキ操作して痛んだと思う。
旧型車の時はどちらかと言うと乗客が前のめりになるような止まらせ方が散見
されたなァ・・・・・ 阪和線電車の新性能化は昭和52年3月に完了する予定だったが、
一部電車の転入が遅れたため、羽衣支線も含めた103系、113系化は
4月15日からとなったが、前日に最後まで残った70系電車6連1本による、
旧型電車のさよなら運転が行われ、70系はその後福塩線に転出し、昭和56年まで
同線で運用された。 >>117
103については101系改造した2000番台だけでなく、元から103であってもブレーキが気まぐれで胃に穴が開きそうになったと首都圏の乗務員ですら回顧録で書いてる 122
京阪神緩行線の103系は電気ブレーキ併用で駅間時間短縮されたが、
電気ブレーキは使用時の衝動が大きく、苦情が多かったという >112
小生も旧型車お別れ運転の当日に乗車したものだが 70系よりも72系・60系を
使用して欲しかった。と言うのは 録音したからで 同じMT40モーター使用でも
歯車比が違うので発進・低速時の音が小さい。ただ1両だけ72系が入っていたのが
ラッキーでそれで録音していたら、録音鉄の者が何人もいて、驚いたのは床面の点検蓋を外し、ずらして台車と線路が丸見えだった。危険だと思ったが、鉄チャンばかりで一般の客はあまりいなかったので傍観・あきれて見ているだけにしておいた。
もし、一般客が車両から車両へ歩き渡っていたら、本当に危ないものだったナア・・
と今更に懐かしく思う。 さきほどの >112は 121の間違いでした。ゴメンナサイ。 連投ばかりでスマソが、52年4月からもう41年余が知らぬ間に過ぎてしまった。
あれからは天王寺の阪和線ホームの様相・線路配置は全くといってよい程変化が
ないが、(東側に跨線橋ができ、環状線へ降りていく連絡線路が撤去された程度)
それよりも、52年から41年前は昭和11年で、その間にはホーム・線路配置・
車両の転出・入りの変化が非常に大きかったものだった。海外旅行は行った事無く
また行きたいとは思わないが、タイムマシンが存在すれば少し経費が掛かっても
昭和の始めの「阪和 天王寺駅 阪和大食堂・マーケットへ行ってみたいと切に
思う。(BEのぶ さんのブログ 天王寺駅の怪 を見て余計に思う) 126
昭和50年代中頃、近鉄阿倍野店のおもちゃ売り場のウッドダイカスケールの
ミニ電車を陳列した縦長のケース
買うときは販売員に「この電車」とかいってから商品を出してもらった。
幼少の頃、このミニ電車のスカイブルーのクハ103、クハ111の阪和線色と
関西線色を親に買ってもらって阪和線を再現したりして遊んだ HOのEF58自由型で遊んだのは(だいたい)昭和30年代生まれ 128
HOのEF58を短尺したEB58もあったね >>115-117
事故直後は当該先頭車が
101からの転用だったこともあり
現業の個別の報道取材にて
当時の段階でヒネ103が
全体に経年していることも含め
西を糾弾する方へ
印象操作を先行させてしまったが
103の制動については>>112の件が
各運転現業で周知されているか否かで
乗務員の認識に差があったのも事実
それをJRの管理側すら
把握できていなかった関係者も多く
応荷重装置の改修が後手後手に
つまり103の経年や仕様の古さで
制動性能が不十分だった訳でなく
実際は仕様上の問題が放置され
現業に周知されず危険な取扱が主因
>>123
これも仕様の問題で
東海道山陽緩行線運用では
90km/h超から制動を作用させるため
発電ブレーキが過負荷で失効しやすく
失効時に断流器遮断器オフで衝動
これは後年対策され解消 阪和線では非冷房車でも冷房車でも103系の方向幕は終点に着いたら乗務員が
変換していたが、京阪神緩行線では国鉄の労使関係による対立問題とかで、
103系の非冷房車の前面方向幕は「普通」のままだったが、同線の103系の冷房車編成だけはなぜか前面、側面とも方向幕が使用されて「京都」「西明石」などの行き先が掲出されていたな 済みませんが この場を借りて皆さんにお願いがあります。ウイキで「美章園駅」を
みていると、昭和20年2月の空襲による爆弾被弾当時の美章園駅と22年4月に復活した美章園駅の写真がUPされていますが、開業時〜被弾前の駅の写真や様子をご
存知の方があればご教示願いたいのです・・・よろしくお願い致します。被弾後は
急遽の路線回復要請で2日間で土盛りにしたとあります。被弾以前は現在の寺田町駅南・北出口のようにガードの真下から出入りしていたのでしょうか?? >>131
電動と手回しの労力の違い
阪和・関西でも103系は(冷房・非冷混結を除き)同じ取り扱いだった 昭和57年2月28日、阪和線天王寺駅ホーム8連化対と構内配線変更工事完了前、
初発から午前10時まで天王寺〜鳳間の全電車運休し、南田辺〜鳳間に30分ヘッドで
キハ58系の臨時普通列車が運転された。
このときは停電のため、各踏切には職員が派遣されて、遮断棒は職員が手動で上げ下げした。 1970年代の天王寺駅って「西の上野駅」だったよね 臨時くろしおきのくにが多かったからね
今じゃお盆でさえ臨時なんかありえない 幼少の頃、昼間にEF58型牽引の12系客車による臨時急行「きのくに」を見た時、
その列車を「はやたま」号だとばかり思い込んでいた >>137
高校の帰りにオハ12系6連+EF58が停まっていた。ホームにも、朝は 環状線の内側にも、
オハの所属を見て驚いた。 所属が 盛モカ だった。わざわざ遠い所から借りていたんだな
と思った。(きのくに51号) 続いて「くろしお」の不思議な体験談。キハ82の頃はそんな現象は無かったが、
381系になってからずっと不思議だったことは 南田辺以南の地平駅では感じな
かったが、美章園駅ホームに居ると全速力で接近してくる「くろしお」が河堀口駅
の少し天王寺寄り付近に近づいてきた頃に、小刻みにビリビリビリとホーム・体全体が地震のように震え出し、通過後も南田辺へ曲がっていくカーブを過ぎるまで震えが
続いていた、(それは国鉄色から新くろしお色に変わるまで長い間続いていた)
たしか振り子機能は使っていなかった筈。恐ろしい電車だった。もっと重たい旧国
の快速や、キハ58連のきのくにが通過しても一切そんなことは起きなかった・・・
今でもたいへん不思議である。振り子機能を使っていたのか? ホーム下付近の
沿道にいても体が震えて381系が通過しているのがよく分かった。 >>131
関西地区ではクハ79の920番台でも前面方向幕は使用しなかったからな DC急行「きのくに」の増結作業を天王寺駅1番線で見たことがある
増結編成は和歌山機関区から回送されてきたようだった また「くろしお」の話を出すが、キハ時代に美章園ホームに居たら、天王寺発の「くろしお」が
来たので見ていたら、何両目かの車体横の給油口の蓋が完全に外れていて、走行中に
燃料の重油が外気に吸いだされながら ばらまき走っていたのを目撃した。かなりの量だった。
その後どうなったのだろうか? 関係者は処分されたのだろうか? 気動車時代の「くろしお」は阪和間無停車で45分。新快速は鳳停車で45分。
子供ながらにこの韋駄天ぶりになぜか、悪の支配者つうか権力主義者かな、デカい顔してる「くろしお」を駆逐する
正義の味方、庶民の味方(料金いらんしな・・)を見る思いがした。。。w >>142
それ多分放熱器の冷却水はりこみ口で溢れていたのは温水。
国鉄気動車は重油なんて燃やしちゃいないしね。 昭和59年頃から阪和線の貨物列車はコンテナ列車化され、主にEF15が牽引していたが、昭和60年からはEF60も高崎第二機関区から竜華機関区に転入し、EF58と
ED60が置き換えられたが、EF15だけは貨物列車用に3両だけ残り、EF60と重連で貨物列車牽引も行っていたが、EF60が活躍した期間は1年半だけで、竜華機関区、竜華操車場廃止により2形式とも保存用を除いて廃車された 学生時代の通学時の朝、 美章園駅で天王寺行きを待っていたら旧国の半流先頭車同士が中
間に挟まっていた。 急に変な衝動に駆られた。(平妻同士なら天王寺到着時 ポイント渡りの
際に車体に体が挟まれる危険があるが、半流同士なら広いので大丈夫、今日は連結面に外
がわに掴まって乗ってやろうか・・ ラッシュ時だし告げ口する者も居るまい・・・)しかしやめて
おいた。 また別の日は(旧国快速が赤信号でホームにかかって停車した、中間に挟まった運
転室のドアが開いていた。1駅だけだ、乗ってやろうか)・・・ これもやめておいた。 45年経った
現在、実行すれば良かったナ・・と後悔の日々だ。 >>147
しかし前文に続き、実行したことが1つだけあった。時は昭和53年 BEのぶさんがブログ「天王
寺駅怪」に記している阪和ホームの地下道の件は古くから友人に聞いていたので、駅北口の
デパートの荷物搬入口に立っていた(STBの腕章を付けた、多分元国鉄職員)に鉄道研究部の
学生証を見せて「昔の研究のために7・8番乗り場ホーム下の地下道が見たい」と申し出た。
当時は現在のように難しい事は言わずにすぐ承諾をくれて、案内して見せてもらったことは
若気の至りだったが、非常に良かったと思っている。多分現在では無理だろう。
昨年夏にBEのぶさんにその地下道の様子を情報提供したのもこの私だ、市営地下鉄が天王寺
延伸に伴い、阪和電鉄とタイアップして省線の跨線橋とは別にすぐ東隣に特別直通の跨線橋
を架けていた(現在の9番乗り場〜元南海用20番乗り場を越えて架けられた話)をしたのもこ
の私だ。 >>148
戦前に南田辺〜天王寺を通勤のため利用していた古老にきいていた話だが、阪和天王寺駅の上の食堂では「ウサギ肉定食」のメニューがあったという。BEのぶさんの
阪和線研究ブログで分かったことだが、電鉄利用者の増加目的のために季節に合わせて色々な企画 ウサギ狩り・もみじ狩り・みかん、松茸狩りが行われていたということなので、最初は妙なメニューだな。と思っていたが納得した。
(都市伝説・言い伝えに依ると、ウサギを食べれば口裂症の子どもが産まれるからタブー事項だと聞いていた) 113系の快速が三国ヶ丘通過時、ホームにいた客がびっくりするくらい大きな音でタイフォンを
鳴らすことがあった >>91 >>98
なるほど、じゃあ俺が昭和50年か51年頃に乗ったウグイスの快速は山手線からの・・・今思えば凄い。
因みに、この頃の阪和はまだ旧国が目立ったてたな・・・
その旧国は基本的にオレンジ色だったけど、ほんの一部、茶色が混じっていることがあった。
阪和線の旧国が全廃した数年後、昭和59年の春だったか、可部線で旧国と再会。
懐かしい思いになったが、こちらの旧国はウグイス色だったと記憶している。 >>152
あなたの年代だと、その少し早くからは 北イケ 北モセ 北マト から来た サハ78500だ。
昭和46年頃 何両かの転入があった。 モハ72のパンタ台があからさまに残っていたもの
があって遠くからでも判別できた。 それ以降は昭和50〜51年頃に 大アカ 大タツから
モハ72920が いくつか来た。 そのまま茶色で終末を迎えた。 153
国鉄末期の103系の広域転配では、浦和電車区からクモハ103、モハ103などが転入し、それと引換えに日根野電車区から103系の中間車ユニットが浦和区に転出した。その時、転属回送時の控え車として京浜東北線の高運転台ATC付クハ103が阪和線を走行した。
JR化後、京浜東北線で日根野区から浦和区に転属したサハ103−261が103系10両編成の中間車に組み込まれているのを見た。 >>154
一時期、全部6連が基本だった103系を 関東からクモハ、サハをもらって4連+4連にして運用
しだした頃から阪和線にも 「女」を車掌・運転士に入れだした。多分車掌の方が早期だったと思う。
今日のような暑い日にも節電に努めたのかどうかは分からないが、天王寺折り返し停車中冷房を
「切」にしてあるのをなかなか入れずに、車内放送をして、発車しだしてからも入れず、その後も
放送ばかりで河堀口付近でようやく冷房を「入」にした。 だから「女」はダメだ!と切に思った。
女は自己チューな奴等である。俺が高校の頃は女が電車を運転するのは未来永劫にあり得ない
ことだと思っていた。 阪和も女の運転士が登場しだした頃、103系だけはブレーキ扱いが難し
そうなのがよく感じ取れた。 続き、昔からの諺に「雌鳥が鳴いて世が滅ぶ」があるが、誠にそのとおりだ、大塚家具の娘にしろ
某旅行会社の女社長にしろ、韓国の大統領にしろ然りだ。大事故が無いことを祈る他はない。 昭和59年頃、京阪神緩行線から転属してきたヘッドライトが高運転台のクハ103と
同じ形した低運転台クハ103が先頭の6連を阪和線で見たが、先頭車が低運転台車の
マイナーチェンジ車ということや製造歴も製造から10年程度と比較的新しいこともあって、新車のように見えた >>156
基本的に異論なし
女の社会進出が少子化の一要因でもある
スレチだが一言だけ
(スレチ終わりもなんだから)
今かんがえてみると58+60+15の三重連貨物は凄い
これが(仮に)現代に行われていたら阪和線沿線で激パ 158
EF52+ED60重連の貨物列車も見られた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています