昔の国鉄阪和線
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大阪〜和歌山間を結ぶ重要路線でありながら
その生い立ちゆえに陽の当たらなかった阪和線の思い出スレ >>318
直通でいうと、阪和ユーザーは何とも思ってないが
紀勢線ユーザーは大阪から来た電車の大半が和歌山で止まってしまうことに精神的障壁を感じてる
田辺御坊有田海南と大阪を途中乗り替えなしで行き来できる電車はとても大切な存在
今は特急しかなくなってしまったのがさびしい >>318
直通でいうと、阪和ユーザーは何とも思ってないが
カレー事件林真須美最寄り駅の六十谷に快速が止まるようになりおかしくなった
もちろんあのカレー事件と快速の停車はまぁあれだ、一見関係ないようであるが
カレー事件で六十谷の林真須美宅野次馬
?が急増してから六十谷快速停車なので
あのカレー事件のせいで世間一般和歌山≒毒入りカレー事件イメージなったので和歌山駅以南どーでもいいのがさびしい 和歌山毒物カレー事件(わかやまどくぶつカレーじけん)とは、1998年7月25日夕方に和歌山県和歌山市園部で発生した毒物混入・大量殺傷事件である。
1999年(平成11年)5月10日:ダイヤ改正により次のように変更
紀州路快速が運転開始。
三国ケ丘駅・紀伊駅・六十谷駅が快速列車の停車駅になる。
関空特快「ウイング」が廃止。
本当か解らんが時系列的には合ってる 名前が同じだけで鉄道とは何のつながりもないが
むかし大阪と和歌山に阪和銀行という銀行があって、
ここが潰れたときに幹部役員が資産を隠したとかでお縄になるなどとんでもない会社だったが
このスレ見ていて、ふと、思い出した 屋号に阪和を名乗ったのは末期だけ
元々は興紀相互銀行だった
阪和線にはまったく関係ないw ウィキには荷物車連結当時の急行「きのくに」の写真があった >>327
その荷物車には、和歌山県紀南・紀中方面に配達される大阪本社発行の各新聞社の新聞や
小荷物などが積まれていたようだ 夜に天王寺から御坊や紀伊田辺行きの快速もあった(和歌山線五条行きと併結)
和歌山で切り離していた 特急も急行も和歌山以遠走るのは線内通過ばかり
ちゃんと停車する南海と逆で嫌がらせと思った >>330
今年3月14日の改正で「くろしお」が全て日根野停車となり
そういうのが全て姿を消すという >>330
特急も急行もどころか普通はやたまさえ旧型客車さえそうなのは度肝抜かれたな
JRになってただの快速電車になったが165系だからこれはこれで無理あったが 朝に紀伊田辺or御坊発の天王寺行き快速もあったな
和歌山で五条発と併結して >>255
http://blog.livedoor.jp/tc381_124/archives/1044714469.html
ここにある日根野発新宮行き(2701H+2332M)と
新宮発日根野行き{2355M(+2702H?)}は関係ありますかね?
全く別のスジ? デッキ付き電機機関車が走ってると聞いて見に行った
あれは何型だったんだろう
かっこよかった >>340
阪和線・紀勢本線の貨物列車廃止まで走っていた色がマルーンのデッキ付きの
その電気機関車は、EF15型
ヘッドライトがシールドビーム2灯になっているのも、竜華機関区所属の電気機関車の特徴だった >>341
そうそう!阪急色やったw
EF15 やったんや
ありがとーーー
ホンマにかっこ良かった! 国鉄時代やったら旅客列車はEF52+スヌ31、貨物列車はED60の重連で決まりやね ED60の運用は竜華〜杉本町〜阪和線〜和歌山操までで、紀勢本線に乗り入れて新宮までの
運用は無かったな 横から別人が申し訳ないけど何が駄目なのか全くわからない
きちんと書いてくれ EF52が生きていた時代に新宮電化時代の話を繋げようとする脳味噌、
スレタイすら理解出来ない脳味噌、人それぞれやねぇ 阪和線といえばEF58が旧客を牽引していた「南紀」や「はやたま」では? >>349
EF58牽引による12系客車の臨時急行「きのくに」もあった。
それだとか、EF15+EF58の重連による貨物列車や、竜華〜和歌山操間の
電気機関車の重連回送や単機回送も見られた EF58牽引による12系客車の臨時快速「いそつり」もあった 12系客車による臨時快速「いそつり」は昭和62年年末〜63年年始にかけて、新宮→天王寺間で日中に運転され、阪和線内は無停車だったが、和泉砂川で阪和線快速待避のためドアは開けずに停車、DD51が牽引していた。 本当はいそづりなんだが濁音が嫌われていそつりになった
少し言い難い 阪和線沿線民なら昭和の頃、小学校の修学旅行は「お伊勢さん」だったという方は多かったに違いない。
利用した交通機関は、基本、近鉄派(あおぞら)と国鉄派に分かれ、おじさんは国鉄派だった。
あれは昭和55年の5月頃か…早朝、津久野駅に集合し、わくわくしながら急行型のキハ58や65で組まれた臨時列車に乗り込んだ。
おじさんのクラスは新しいキハ65で感激、隣のクラスは座席がくたびれたキハ58だったので
運がよかったのかも知れない。
隣の上野芝駅では他校の生徒が乗車、杉本町から阪和貨物線・関西線亀山経由で一路、伊勢市駅へ。
途中、関西線のどの駅か憶えていないが、行き違いで停車、その駅のめちゃめちゃめちゃ古い木造の駅舎に感激した。
おじさんは当時から鉄ヲタだったが、何処の駅で運転停車したかは憶えていない。
多くの駅を通過し、関西線の電化区間はそこそこ飛ばしていたと記憶している。
因みに復路は鳥羽駅から乗車、同じ編成だった。 おじさんが初めて新宮夜行に乗ったのは1984年…昭和59年の春、この頃、もう既に寝台車が外され単なる924レだった。
列車は23時丁度に天王寺駅9番線から発車、客車は12系、機関車はEF58だった。
和歌山までノンストップが特色で、車窓に釘付けになって通過する駅を眺めた。
345Mみたいに混雑する事はなく、ボックス辺り2人、多くて3人程度だったか、
田辺か白浜を過ぎるとボックス辺り2人程度、ひじ掛けを枕にして寝たと記憶している。
因みに当時の乗車位置は今でも9番線に薄く残っている。 皆さん昔の阪和線のサービスが悪いと書いてますが 自分も子供の頃同感で
かといって 南海の駅まで出れる場所じゃなかったので
阪和社形が発展していたら どんな素敵な車が走っていたろう と空想にふけっていた >>360
修学旅行の地引き網体験での女子の服装は体操服+ブルマだべ? >>362
快速と各停は昭和61年頃までは6両で、昼間の天王寺から鳳の快速は区快を含めて毎時4本、普通は同6本。
これを見るとサービスが悪いと感じるのは今の快速停車駅の住民のみ。
それに、あの頃は「はるか」がなく線路容量が余裕のよっちゃんだったので今よりも活き活き走ってた。 >>365
昭和61年11月改正までは、天王寺〜和歌山間の普通電車は1日2本しか運転されていなくて、鳳以南各停となる区間快速が運転されていたな あああサービスがわるいとは朱色の埃っぽい旧国や態度の悪い職員を言いたかったので
所要時間や本数わ特に不満なかったです 70系もいまはいい思い出です
南武線も客多いのに72系だったので 売春されるとこうなっちゃうんでしょうね >>365
貨物列車が旅客列車の増発を阻んでいたことも
あるかもしれないけど >>365
それもあっただろうし、竜華機関区から東岸和田や長滝、和歌山操までの電気機関車の
重連回送や単機回送などの関係もあったのでは その頃は貨物列車は最末期でコンテナ列車が数本
和歌山操駅の廃止は昭和61年
よって旅客列車への影響は僅少 >>336
阪和線は通勤路線なのに各停も全て転換クロスの豪華仕様。
それに引き分け、紀勢本線や和歌山線の227系はオールロング。 >>372
間違えた。
引き分けではなく引き換えだ。 >>372
>>373
国鉄時代から阪和線は103系を使うような路線ではなく、103系は阪和線に
不適当だという声が上がっていた。
「関空・紀州路快速」の運用に入らない6両編成の225系5100番台は
ロングシートでもよかったのではないか >>374
> >>372
> >>373
> 国鉄時代から阪和線は103系を使うような路線ではなく、103系は阪和線に
> 不適当だという声が上がっていた。
> 「関空・紀州路快速」の運用に入らない6両編成の225系5100番台は
> ロングシートでもよかったのではないか
どーせ上野芝駅でそれこそアホみたいにボケ〜と長時間停車しているだけなので6両編成の225系5100番台でいいと思う
ただし鳳〜東羽衣間の通称羽衣線にまで4両編成と言え225系5100番台言うのはまぁあれだ、正直言ってやり過ぎと思う
2021年令和3年きのくに線の普通電車がall227系電車になったらもうその時点で227系共通運用にするのが賢明だと思う
いくらコロナ禍だとは言え関空・紀州路快速がボロい電車なのにあんなは流石に言い過ぎだがあんな線言うかあんな区間
?に4両編成と言え贅沢すぎるな(苦笑) 朝の阪和間通しの103系快速で毎日通学してました
一生懸命走ってました >>376
昭和末期頃の103系は冷房と非冷房が混在してたな。非冷房なら妻面の窓も開け放たれていた。
平成に入ると完全に冷房化れたが、「冷風車」と呼ばれる全然涼しくない奴が存在してた。
103系の快速はラッシュ時以外は天王寺を出ると猛加速しながらポイントを渡るので車内が
大揺れしていた。今、もうそんな事はないのでそれも懐かしい思い出。
今の阪和は昔と比較すると多くの面でマイルドになってるわな。 でもそんなボロかった頃のほうがまだ、優等通過駅特にはっきり言って津久野は上野芝でアホみたいにボケ〜といわゆる長時間待避必要なんかなかったからな。
昔いいのかまだマシなのか知らんけど。
YouTubeで羽衣線に転換クロスなんて、Wi-Fi電車贅沢過ぎボロクソ言われるがsevereな言い方だけども今となっては、225系5100番台などという羽衣線には、はっきり言って分相応はっきり言って、アホが見栄張って三国丘とか泉陽とか、受けるようなアホきわまりない行為は、やめておけばよかったのにしかないな後3年ずれてコロナで関西空港駄目時点で103系電車置き換えがもしもあったら、225系5100番台なんか絶対投入されず、2両編成で小回りがきくそんな意味でも227系を素直に投入してたろうに(>_<)
過ぎたるは及ばざるが如しであり歴史にifはないがやはりそう思わざるえない。
TPOで227系を組み合わせるいうのが、Bestだったのはどう見ても間違いない。
(2連羽衣線、4連6連で区間快速各駅停車 南海が関西人に不評な関東仕様の内装の車両(8000系)を導入してしまったことによる救済措置として225-5100を導入したものだと思っているが 阪和線と聞いて思い出すのは
天王寺駅に特攻した103系
縁遠いから >>381
2度行止りに特攻しそのどちらにも乗ってた婆さん居たけど、運がいいのか悪いんだか 一時の天王寺駅のイメージが電車が衝突する駅だったw クモハ84は過酷運転で10年もちませんでしたが
たとえば羽衣支線のクモハ123とトレードしたら長持ちしただろか。 羽衣支線
乗ったのは、クモハ60001、旧型国電がなくなる一か月ほど前
オレンジの旧型に乗車できたのはこれだけでした
多くが天理に留置、乗りたかったですね
でも最末期でも、乗れただけよかった… 阪和線は青かったから、京浜東北線のお下がりって言っても違和感なさそうだと思ったがまさか本当に元京浜東北線車があったとは… 昭和47年から52年あたりまで 新快速、鳳停車45分、
快速、堺市・鳳・和泉府中・熊取・和泉砂川停車で53分 この頃が最速か。
キハ80系くろしおが無停車で45分、きのくには48分だからやっぱ電車は速いな。
ちなみにその頃南海は 特急が新今宮・堺・岸和田で54分、
急行が新今宮・堺・羽衣・泉大津・岸和田・貝塚・泉佐野・尾崎・みさき公園で64分だったと思う。
こっちもこのあたりが最速か。 >>390
当時の南海はまだ架線電圧600Vだったと思う… >>391
当時の南海は客車を牽引し、国鉄に直通していたね。 冷房化は新快速用に投入した113系3編成からスタートしたけど
その後の進展ってどんな感じだったかな。103系の冷房化なんて随分後のような記憶。 もしかしなくてもATC化が無ければ直接103の冷房車が新製配置されていた可能性は? 昔の京浜東北線の写真を見て「阪和線なのに、なぜ関東の行き先?」と思ったことがある
それも京阪神緩行線は偽物(元山手線車であるため)だったのに対し阪和線は本物(元京浜東北線車)だし 一時期103系のロングラン運行が有ったね。
天王寺発紀伊田辺行き快速なんてのもあった。
時を同じくして、京葉線でも東京発勝浦行き通勤快速があった。
103系自身もこんな長距離の運用につくとは思わなかっただろうな。 >>397
スレチかもしれないが103時代は勝浦まで行ってなかったみたいなんだが >>398
末期にはあったよ。ググれば記事や画像出ると思う。 >>390
当時は最高速度95km/hでしたか
それで45分は驚異的
最速時はくろしおで天王寺〜和歌山38分でしたね
南海は天下茶屋・泉佐野・尾崎・みさき公園・和歌山大学前の5駅追加停車で58分だから
こちらは最高速度向上(105→110km/h)効果があるようです 一時期、千ツヌに天オトからオレンジのモハ72や、その数年後113系の阪和色車がかなりの量転入してきた。
千ツヌの運用があった当時、成田線我孫子口でもその姿を見ることが出来た。 >>394
関西本線の湊町口を電化(1973年)するために、まとまったかずの113系の6両編成(クーラがないレッドライナー)が鳳電車区に入ってきたんだ。
それが阪和線用と共通に運用される状態が、紀勢本線の和歌山〜新宮が電化されるまで、つづいたんじゃなかったかな。
紀勢本線の電化開業のとき(1978年)に、まとまったかずのブルーライナーが入ってきたはずだよ。あたらしくつくった2000番台や、クーラがない6両編成・4両編成もあったね。
桜井線と和歌山線(王寺〜五条)を電化するとき(1980年)にレッドライナーが増やされて、あたらしくつくった2000番台や、クーラがない4両編成が入ってきてる。
この状態で、関西本線の車両基地として奈良電車区に分割されるまで、推移したはずだよ。 >>397 本線筋にマスカットの姫路〜三原とかもあったはず。岡山から姫路しか乗った事ないが、あれのフル区間は天王寺〜紀伊田辺に匹敵しそう。 >>387
初めて乗ったとき、オレンジのモハ72が新鮮だった。 >>404
自分も同じ感覚でした
ただ、70系+モハ72の編成では、70系に乗ってしまった
45年前でしょうか ホーム長が絶望的に短いという理由もあったんだろうが、紀勢本線直通は天王寺和歌山間
61.3kmをノンストップというのも不思議な感じだった。
コロナで客が減ってるとはいえ、今の快速の5+3などの最大8両編成もちょっと短いと思う。
おそらくだが、大昔から長い貨物が走ってた南海のほうが、線内優等10連にするときの
手間は低そう。実現はしないだろうけど。 天王寺和歌山間で最速38分の時代もあったのか
これがスタンダードになってたなら和歌山はもう少し発展してたかな >>406
まあ南海は泉北高速直通の準急で10両運転をやった実績があるからな。
南海本線での10両運転は泉佐野以南の凋落ぶりをみればもう実現しないんじゃないかなと思う。 >>407
それは和歌山市だけにもたらされる効果であって
和歌山県全体の発展にはならない
串本や新宮には… モヨとかモタとかの阪和電車の戦前のオリジナル形態は
なんで尾灯が左右対称についてないんだろう
デッサンが下手なひとが描いたみたい >>410
運転席側は標識灯
助士席側が尾灯
らしい。でもフツーなら位置くらいは合わせるよね。 和歌山まで標準38分なら勤務先が天王寺界隈なら十分通勤圏に入る >>412
ありがとうございます
阪和の顔つきで戦後も発展して近代的になった姿を空想してしまった むかしの『快速』
天王寺-鳳-和泉府中-熊取-和泉砂川-紀伊中ノ島-和歌山
むかしの『直行』
天王寺-堺市-鳳-和泉府中-(各駅)-和歌山 たまに乗ると隔世の感があるね。
モハ72にはよくお世話になったもんだけど。 南海の岸和田は特急停車駅やのに
阪和線は優等通過っておもしろいな
よっぽど人が浜側にしかおらんかったんか? 人里離れた山側を走ることで途中停車を極力少なくして阪和間を直結しようとしたのだから
むしろ今のように山側にも宅地が広がって途中停車のニーズが高まる方が不都合だね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています