昔の国鉄阪和線
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大阪〜和歌山間を結ぶ重要路線でありながら
その生い立ちゆえに陽の当たらなかった阪和線の思い出スレ >>174
俺の知っていた阪和線(S45年頃)はレールが50kレールよりも背が低かったし、上面が磨り減ってペッタンコだった。その頃「きのくに」にのったがジョイント
音がやかましくて、相席者との会話もままならなかった。よくその上を「紀州」「第1・2しらはま」「はまゆう」が走っていったものだ。 我孫子町付近ではレールの
継ぎ目が左右半分ずつずらされていて、あたかも短尺軌条の上を走っているようだった。大分後年になっても継ぎ目位置はそのままで、旧国の電車に乗って録音したが、
面白い音がした。 首都圏の5線区のATC化を錦の御旗に使い古したセコハンを大量に押し付けられた
と言うのが昭和50年前後の阪和線の印象。
天鉄局と大鉄局の力関係の違いか、高槻や明石には先頭車は非冷房でも中間車は冷房
車が投入されていた。
その結果高槻や明石は中間に冷房車を連結していながら、冷房を制御する先頭車が非
冷房の為、中間車が宝の持ち腐れになり、品川は先頭車のみ冷房車(使用不能)のキセル冷房編成を長い間運行する事になった。 国鉄時代の日根野電車区は、車窓から見てると珍編成も見れた
構内の外れにクハ381が1両だけポツンと留置されていたり、
関西線101系と3連ずつに分割されたスカイブルーの103系が連結されて
留置されていたりして、時には茶色の事業用車クモヤ90の姿も見れたりした とにかく103系は通勤ラッシュ仕様だったのか、台車のコイルバネが硬いの
で、ジョイント部分やポイント部、特に低速走行ではオハ61系よりも乗り心
地が悪かった。立っても、座っても縦に4cm位揺れていた、と言うよりも衝
撃な縦揺れで、そこへくると旧型車は音がするだけで、揺れはなかってどっし
りとしていた。ただ旧型車は低速域では達磨さんのように左右にふんわりと揺
れる癖があった。 ヨンサントオで103系6連4本が投入されたあと、その後も22両の旧性能電車が転入したため、
阪和線の新性能化は遅遅として進まなかった 52年の4月に旧型車がいなくなり、40年が経っても、未だに天王寺の
7番8番の西端正面からクモハ60や73の電車が進入してくる際に、頭を
ゆらりゆらりとさせながら来るのが目に浮かぶ、103や113はそんなこ
とはなかった。 その頃の写真みてたら、なぜか103系の先頭車の前面の連結器の向きがまっすぐではなく、右か左に首を振っているよな >>179
あの43・10の新車103投入は快速専用のためで、昼間・ラッシュのの各停運用
には入らなかった。近代化をイメージアップして訴えたかったのだろう。
とにかく走行・通過音がうるさかったことしか思い出が無い。 よくあんなロングシートに座って和歌山まで辛抱できるものだ。と驚いた。 182
その103系は2編成は快速に使って、残り2本は天王寺〜鳳間の各停にも使用されたという >183
南海7000系や7100系への対抗策だったが、103の奥行きの浅いロングシートはやはり嫌われたようだったな 南海の7000の台車はそらもうすばらしいものだった。国鉄で言えば153
系のDT24等と同等の乗り心地だった。103系初期型の座席はモハ72や
クハ79後期型と比べると奥行きや高さで見劣りしていた。やすっぽかった。 南海7000は7100よりも軸離が若干長いので乗り心地がよかった。高野
線用の6000はディスクブレーキを装備してイキガッていたが、それはもう
地獄の乗り心地だった。103のDT33は101系より軸離が長いが悪かっ
たしうるさかった。またコンプレッサーがガラガラガラーッと甲高い音で尚更
に悪い。153系はコッココココココととても良かった。始めは本線の新快速
をお払い箱になった153系が阪和・紀勢へ来るという噂が流れて喜んだが・・・ 阪和線 それも各停の運転に限っての話だが、40数年も前から、加速時に
はどこも60`に達した時点でノッチオフにしている。長い間変わっていな
い。環状線は昔は60`でノッチオフにして転がしていたが、大分以前から
70`でオフにしている。(駅間短くても、但し新今宮〜寺田町はゆっくり
転がしているが、)僅か10`の差といえども車窓の流れはすごく速い。
阪和線は225系の各停になってもでも依然としてそのままだ。その性能を
殺してしまって惜しい気がしてたまらない。(南田辺〜鶴ヶ丘は仕方がない) >>183
あんなロングシートよりも冬場の快速爆走の隙間風の方がキツかった 昭和30年代でも南海が新車の11001系投入してその対抗処置で配置されたのが旧来の70系。
とにかく阪和はスピードだけは速かったが車内アコモは国鉄一般車レベル(それもほぼお古)でしかなかった。 日根野区への165系転入は紀伊田辺以南で運用されていた非冷房113系の置き換えと、
新宮行夜行普通列車の電車化、その113系を捻出して福知山線に充てるためだったが、
国鉄分割化の煽りで、福知山線は阪和線以上に中古電車の寄せ集めとなったが、
福知山線沿線民は「電化さえしてくれれば、車両は中古でもなんでもいいと」思っていたようだ >>191
ところがいざ電車を投入してみたら、結果 ロングシートだわ、セミクロスだわ、
編成が短くかつ座席数が減るわ、アルミ窓枠から寒気が忍び込むわ。冬季は開い
たドアから寒気が遠慮なしに入って寒いわ寒いわ。スチーム暖房の付いた旧客・
オハ12の方が良かったわ。となってしまったのではないか。 何でもかんでも
電車の方が優れているというイメージが先行しすぎた。キハ26等の方がゆっく
りできた。 和歌山線の和歌山口電化(84年10月)の105系も大概やったな。。w
食パンから解放されて113系4両でのんびり風景でも楽しめると思ったのに。 >>193
電車を入れて成功したのは、昭和48年秋の関西線 奈良電化だけだっ
たな。加速がよくスピードが出て到達時間が短縮された。殆どのロング
シート状態が改善された。しかし電化はこれで辞めときゃよかった。
余りに便利になった挙句に、奈良の畠田・志都美・下田 や 帯解・
櫟本・天理・長柄・柳本などの田舎の女が大阪へ通勤に繰り出すように
なり、余計に車内が混むような結果に・・ 現在の天王寺15・16番
のりば 特に夕方はえらい事に・・・ やはり和歌山線はC58+客レ
で 乗れば煤煙で洋服が汚れる方が、女はわざわざ出て来ない。 43.10で快速が103系になってから利用を阪和線から南海に変えたという客も多かったらしい。
同じロングシートでも南海7000・7100系は座席がフカフカしててしかもエアサス台車だったから、
硬い座席でコイルバネの103系とは雲泥の差だったからな。 阪和線が国有化されず、現在も阪和電気鉄道のままだったら通勤車両は、
3ドアロングシート車、特急車両は阪急、阪神のように座席の一部が転換クロスシートの車両が走っていたかも
運賃も並行する南海本線に合わせて新今宮・天王寺〜堺市・和泉府中・東岸和田・
熊取・和泉砂川・和歌山までの運賃が南海と同額、バス路線は南海バスは阪和電鉄の各駅前まで、そこから山手地区は阪和電鉄が路線バスを運行していたであろう。
砂川遊園地は戦後、営業再開されても経営不振で廃業していた。
のち経営統合で「南海・阪和ホールディングス」となっていたりして >>191
中古なのはともかく、夜の下りに113系2両編成は大不評だったかと>福知山線
スレチ失礼。 >>196
まあ阪和国有化は戦前から国の目論見もあったし、紀勢線(南紀観光輸送)との接続も考えると
私鉄のままってことはまず無いなw 鳳電車区の隣にあった東急車輌大阪工場が鉄道車両を製作していた頃は、
南海6000系や泉北高速100系、海外輸出向け気動車などが阪和線経由で
甲種回送されたり、阪和線で試運転が行われたりしてたな それか!ガキのころなんでギンギラギンの地下鉄みたいな車両が
機関車に引っ張られて走ってっるんだと思ってたが
一度っきりだったのでなんか違うものと勘違いしてたのかと。 昭和54年だったか、百舌鳥駅付近で発生した踏切事故では、
381系の回送電車が床下機器が全部損傷して走行不能になり、
後続のEF15牽引の貨物列車に推進されて、鳳電車区に収容された 床下機器が全部ヤラれるなんて、どんな事故だったんだろ 202
踏切警手の遮断機操作ミスで、トラックが踏切に進入したところ、
進行してきた381系の回送電車と衝突した。
この事故でトラック運転手二人は即死、通行人一人が負傷したらしい >>194
電化でよくなったと思えたのは53・10から暫くの紀勢線の和歌山口。
これは和歌山線とは違い食パンから阪和直通で113系6連冷房付き、新車の2000番台も投入された。
またDCの急行「きのくに」と113系の普通が田辺まで所要時間がさほど変わりないというw
DCきのくに、60年3月に引退するまでよく粘らせたなと思う。
あとゴハチの引く旧客も楽しめた。 はやたま号の寝台車は全般検査を受けているにも関わらず、車体側面の鋼板は傷み、
ボコボコで波打ったりしていたが、夜行普通列車の寝台車連結中止される日も近いとあってか、
当時の国鉄、高砂工場や鷹取工場などでは、老朽寝台車の車体補修までは行わなかったのだろう 203
通行人は負傷ではなくて、トラックの向こう側を歩いてたので、即死しました。
事故直後の生々しい様子をいまだにハッキリと憶えています。
亡くなったのが、同級生のお母さんだったので、余計に忘れません・・・ 昭和61年9月末に淀川電車区からオレンジ色103系非冷房車6連1本が日根野区に
転属してきて阪和線で運用開始したとき、オレンジ色の旧国が活躍していた頃を
彷彿させた。
この編成は翌年にスカイブルーに塗り替えられて、冷房改造された >>207 正にあの時は感動した。ブルーの103を全部オレンジに塗り替えるのか
とワクワク期待したがはずれた、ブルーの褪せた色ばかりの編成に見慣れていた
ので同じ103系だけれども乗ったらまるで新車のように思った。 208
俺はその逆だった
阪和線の電車は青い電車というイメージが定着していたのに、オレンジ色の
103系が阪和線走ってるの見た時は違和感を感じたりもした。
11月ダイヤ改正ではウグイス色やオレンジとスカイブルーの混色編成も多数出現して、それらの編成見た時はなんだかすっきりしなかった 日本以上に女性の社会進出が進んでいる国はいくらでもある、というか日本が一歩出遅れてるのに
少子化が進んでいるのは>>155-156 >>158みたいな時代錯誤の老害が国のシステムを破壊してしまって、いまだにのさばってるから日本は国際社会から野蛮な国と思われて国力も落ちてるんだよねぇw
きっと女系天皇反対!夫婦別姓反対と叫んでる日本会議の馬鹿どもはこんなんばっかだろうなw
早く死ねばいいのにw 日本人の成人男性は
180で上位7%、178で上位14%、175で上位30%、
172で上位50%、170で上位37%、169で上位70%、
165で上位89%、165で上位90%、163で上位95%、
159で上位99%。
よって、下位10%の165以下を
クソチビ
という。
まともな女性ならクソチビなんぞ付き合うどころか、周りに近づかせたくないと思うよね。
さらに気持ち悪いハゲなんて言ったら、あんたなんで生きてんの?ってレベル 阪和線って首都圏の電車区間で見かけるよう横長タイプなのか
ほかの路線と同じ縦長なのかどっちだったんだろ クモハ103-26
昭和52年4月に浦和電車区から鳳電車区に転属してきて以来、冷房化される事も無く、
非冷房でほぼ原型を保ったまま阪和線で民営化後も運用されていたが、運用離脱後、
モハ102-111+オレンジ色のサハ103-779+クハ103-536の4両編成で日根野電車区の
片隅に長期留置されていたが、平成5年3月31日付けでモハ102-111と共に廃車。
クハ103-536も車体は色褪せて、ボロボロになっていたがしばらく材料線に留置されたまま、
平成7年9月11日で廃車。
このクハ103-536は廃車前、日根野電車区検修庫の台検線から165系に連結されて、
引き出されていたが、廃車前でも台車だけは検査されていたようだ。 >>201
当時、小学生だった為か、その事故は記憶にないな。もちろん、その当時から鉄ヲタやったけど。
でも381系は新製1年程度でえらい災難やな・・・。踏切警手て・・・あの頃はまだ有人やってんな!
因みにその2年後くらいに津久野の団地で起きたガス爆発事故は何故か良く憶えてる。
小学生の頃に「働くおじさん」って番組があってな…その関係か、我々のクラスも社会学習の一環で
鳳駅の指令室?みたいなところまで見学に行ったわ・・・あれはポイントを切り替える施設やったんかな。
時期は昭和51年頃やったか。でも小学生低学年にあんなモノを見せても誰も理解せんわなw >>214
昭和60年頃からしばらくの間、日根野に居たサハ103-26のモケットが試験的に明るい緑色に
変更されていてめちゃ目立ってたわ。サハ103-26でググったら、当時のモケットの画像が転がってた。 京阪神緩行線に201系や205系、207系の投入で捻出された冷房、非冷房の103系が
明石電車区や高槻電車区から奈良電車区や淀川電車区、日根野電車区に転出し、
車齢の高い103系や老朽車、非冷房車は一部廃車、非冷房の103系が置き換えられ、
その置き換えで捻出された奈良電車区や淀川電車区の非冷房103系がウグイス色や
オレンジ色のまま阪和線に転出という転属形態は、民営化後も続いていたが、
国鉄時代から阪和線がいかに冷遇されていたかということがわかる。 >>186
>>187
南海7000系は住友ミンデン台車(東武8000系とほぼ同じ)、6000系はパイオニア台車。
ちなみに南海7000系の台車と103の動力台車の軸距は同じ(車輪径は違う)だけど、乗り心地は雲泥の差だった。
103はコイルバネなのが災いしたんだな。
103初期型の座席は当時の首都圏のラッシュに対応した設計なんだろう。
103が出た頃に作っていた関東の車両はそういう設計のものが散見された。
>>199
南海6000系は全車東京工場製、大阪工場で製造されたのは7100系と22000系の一部。 阪和線に新快速が走っていた頃、久米田駅前にあったダイエーのゲームコーナーには、113系新快速のクハ111を模した100円入れたら動く子供向け遊具があった。
新快速のヘッドマークも表現されていて、リアルだった。 >>217
国鉄時代は確かに阪和線用として
103や113の直接新造投入は限られたが
関西線用も113しかなく
JR発足直後は他線区を差し置いて
いきなり205-1000が手当され
その次の221や207はご縁がなかったが
221は東海道山陽線と関西線用に続き
阪和線用と福知山線用も当初の新造構想に
まさか10年後
共に既存車の広域運用で実現するとは
223-0の68両で
日根野以北中心ながら一般輸送は随分挽回
しかも関空快速形という阪和線特化仕様
前述の221広域運用と併せて
快速系統の車両更新は一挙に進み
113体質改善車転入後の活躍も限られ
一方まだ通勤形は103老朽車も多く
さらに223-2500-3次車以降から
225-5000-5100にかけて
数十両単位の増備が続き
かつての他区からの転用中古車ばかり
という印象を名実ともに払拭 >>216
吹田工場施工の103特別保全工事で
2両だけアコモ試験車が設定された
うちの1両 >>212
阪和線沿線には下位10%が多いと思うwましてハゲとなると下位1%あたりかなw 国鉄時代はC電は当初の計画では103ではなく幻の105(今の105とは別)の予定だつたらしいが、実現していたら同じ色の阪和線も幻の105だった? >>208
民営化初期にアーバンネットワーク内の4ドア車の色をラインカラーに合わせた色に変更する案があった。
例えば東海道山陽緩行が青(207系と同系統)、大阪環状線が赤、大和路線が緑、阪和線がオレンジなど。 https://mobile.twitter.com/oer2000
>>225
仮称105が具現化し
東海道山陽緩行線に続き
阪和線投入が決まったとて
その所要は快速運用中心だった
史実のオト103新造分6連4本のみ
快速用としては
むしろ113のような近郊形を欲しており
103検討段階で阪和線各停の適度が高いと
言われていたことから
オトやヒネの通勤形としては
仮称105でなくやはり
史実通り103で正解だったと
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) もし国鉄のままだったら、あるいは民営化後も全国組織のままだったら今頃は205関東車・211関東車の独擅場だっただろうな
関西線も201関東車と211関東車 >>229
何度も既出だが
201は投入適正運用の制約が大きく
首都圏大阪圏ともに線区と用途が限定され
山手線すら主回路熱容量が危ぶまれ
そのままでは国鉄本社も一応検討した
大阪環状線への新造投入もままならず
山手線用201検討では
203ベースの新区分番代が想定された
大阪環状線や大和路線への転用が
叶ったのは西が深夜試運転の結果を受けて
体質改善と共に低コストだ改修できたため
つまり国鉄が継続していたタラレバなら
201の都市圏を跨いだ転用は不可能
また205は大鉄局が国鉄末期に
103置き換え分の新造を企画しており
捻出103冷房車のヒネ中心の転用を想定
そして
続きはモリ投入だった可能性が高く
天鉄局はナラ用211を
大鉄のホシ用211と共に企画していたが
史実のヒネ205-1000は
新会社準備室での企画のため発想になく
一方で当時の首都圏は
ヤテ向け205増備の最盛期だったため
まだまだ101が大量に残存しており
103冷房車すら貴重という状況で
国鉄継続だった場合は首都圏と大阪圏で
むしろ格差が小さかった可能性が高く
103のATC高運Tcは大阪圏転用があるも
こちらは片福連絡線の開業もあり
結果的に新形車は必須で
201が全車首都圏へ回った公算すら
また205の都市圏横断転用も少なく
組成変更用にTcやTなど小規模 >>154
もし分割民営化じゃなかったら2000年代に103ATC車が関西に転用されてボロクハ置き換えてたかも 103系の先頭車、クハ103、クモハ103も車両番号が近くても、国鉄時代の車両転配で、ほうぼうの電車区の配置になったな
クハ103-820、821、822、824 JR東日本 京葉電車区
クハ103-823、825、827 JR西日本 日根野電車区
クハ103-826、828 JR東日本 習志野電車区
クハ103-829、830 JR西日本 日根野電車区
クモハ103-127 JR西日本 日根野電車区
クモハ103-128 JR東日本 宮城野電車区
クハ103-535、536 JR西日本 日根野電車区
クハ103-537 JR東日本 宮城野電車区 など
阪和に限ったことではないが、なぜ関西の103は低運が多かったのか?
まさか、大鉄と天鉄は高運を好まなかったとかか? >>233
ATC準備工事で、高運を首都圏に入れたから余剰車の低運が関西に来た。 山手京浜横浜に300両以上のATC対応先頭車が必要だったから、中古車が流れてきたのも仕方ないわな >>195
元々国鉄型は「質より量」だったから同時期の私鉄車両(特に関西私鉄)に比べると見劣りしてしまうのは確かだが。
>>196
「南海山手線」だったら車体寸法が長さ20m・幅2.8mで東芝の主制御と東洋のモーターそして駆動装置を採用した南海車だったかも。 113系は国鉄時代にも民営化後も網干電車区や静岡運転所などから日根野電車区に
湘南色のままで転属してくることがあったが、湘南色の113系は東海道線や山陽線、
湖西線などでも走っていて見慣れており、また湘南色はごくありふれていて、
湘南色113系が阪和線・紀勢線を走っているのを見てもさほど違和感は感じなかった。 クハ103-823〜などの先頭車が高運転台車の編成は運用で東岸和田発着や鳳発着の普通電車、
朝夕のラッシュ時の快速や区間快速、夜間の日根野行きなどの運用に入っていた。 クモハ103-2500も国鉄時代だったら登場せず関東車が絡んだ大規模組み替えが行われていた? 振り子電車特急で素早く南紀白浜へ旅行できるんだね。楽しみ。 昭和60年8月の夕刻、天王寺から和泉府中まで日根野行き「ホームライナーいずみ」に
乗車したが、その時の車両は381系ではなく、485系8両編成だった。
485系「くろしお17号」、または臨時「くろしお」が天王寺到着後、折り返し「ホームライナーいずみ」に
なっていたか、日根野から485系が天王寺まで送り込み回送されて、「ホームライナーいずみ」として
運用されていたのだろうか。
もう1本の日根野行き「ホームライナーいずみ」は381系で運転されていた。 85年(昭和60)というと、60・3改正で優等列車の「くろしお」一本化による「きのくに」の全廃、
充当用に485系の配置。ライバル南海も創業100周年。四国連絡用に「サザン」新製。国鉄の動向に合わせて
キハ5501「きのくに」廃止。。大阪南部の電車の顔ぶれに一つの変化があった年。 特急「くろしお」や223系、225系は阪和線内ではトイレ使用可能だが、
日根野電車区所属の113系の先頭車、クハ111のトイレのドアには、「使用禁止 除く 和歌山〜新宮間」と
書かれたステッカーが貼ってあったが、阪和線内では113系のトイレが使用禁止になっていたのは、
そのクハ111のトイレが垂れ流し式だったのか、タンクが設置されていても阪和線沿線民に配慮していたのだろうか。 その頃は垂れ流し便所
使用禁止区間が都市部の各線にあった >>1
ちょっと仕事遅くなれば大和路ホームに入ってくる23時過ぎの新宮行き乗って帰ってたがあれどこから来てたんやろか京都発か? 紀伊田辺〜新宮間で運用されていた非冷房113系4両編成の紀勢本線への送り込みは、
日根野発紀伊田辺行きから始まって、夜間の周参見発和歌山行きで和歌山到着後、
和歌山発日根野行き最終で日根野電車区に戻ってきていたようだ。 >>250
>>249
おお!ご丁寧にd
ああ言うのは日根野から新大阪までの入線は回送なんですか?それか新宮〜新大阪も 1日一本あったとか? >>251
新大阪22時40分発新宮行き(別命磯釣り)は日根野から吹田信号所まで回送
折り返して新大阪から客扱い開始
なお、天王寺行きは国鉄末期に廃止になってる 竜華機関区のEF58の運用は、3両が使用されて、そのうち2両は紀伊田辺と新宮に常駐し、
新宮夜行牽引機が竜華機関区を出区し、新宮夜行牽引で翌朝新宮到着後、客車は新宮に
常駐している別のEF58に牽引されて和歌山行きの普通列車として運用、新宮夜行を牽引してきた
EF58は翌朝まで新宮で常駐、和歌山に到着した客車は折り返し新宮行きとなり、牽引機のEF58は
紀伊田辺で常駐のEF58と交換されて、紀伊田辺で常駐となり、交換されたEF58が新宮到着後、
天王寺行き夜行を牽引して天王寺到着後、竜華機関区に戻るという運用だったようだ >255
夜間には紀伊田辺発串本行きで串本到着後、串本駅で夜間留置される113系もあった。
同じく新宮発串本行き最終で串本到着後、串本駅で夜間留置される113系もあり、
また485系特急「くろしお」の間合い運用による新宮〜串本間の普通列車も運転されていて、485系も串本駅で夜間滞泊する運用もあった。 >>220
尼崎事故が無かったら321が環状・大和路・阪和にも投入されていたかも
そしてJR型統一ももっと早かっただろう >>257
その場合、4ドア車を3ドア車で置き換えるということもなかった。
それどころか大和路快速にも4ドア転クロ(名鉄で実績あり)が投入されて、
221はきのくに線あたりに転用されてたかもしれない。 >257
321系が環状、大和路、阪和線に投入されていたら、側面の帯の色は阪和線用は
スカイブルー、環状線用はオレンジ、大和路線用はウグイスとなっていただろう JR化後のタラレバはスレ違いだが
321の原形となるD207の企画段階で
関空快速用を除き
ヒネとモリとナラの一般形を
D207にて集約する大胆な案はあったが
無線WAN構想を含め時期尚早と
尼崎事故直前にはホシ321量産に続き
将来のモリ投入が検討された程度で
この段階だと
北陸線金沢地区や山陽線広島地区を含め
管内の老朽国鉄形全廃に向け
やっと長期目標が打ち立てられ
中期計画に盛り込まれた状況で
まだD223が140km/h新快速特化形として
玉突き転配もそれが前提で
種々検討され具体は固まっておらず
103や113の体質改善車も活用の方針
一気に置き換えの目処が立ったのは
やはり尼崎事故により安全性向上が謳われ
321ベースで225が再企画されてから
史実から
仮に尼崎事故がなかったとして
モリにおける323の103置き換え本数分や
ヒネにおける225-5100-6連の投入分は
321がそれぞれ
現状より後回しながら投入されたのだろう
事故前は広域運用拡大方針だったため
路線別の車両塗装は
関空快速形を除き前提としてなく 私が小学1年生。
今から約35年前、堺市駅〜三国ヶ丘駅間で友達と保線用階段を下って線路に侵入。
側溝でザリガニ採りをしていたところ、走行中の運転手に見つかり急停車。
慌てて逃げました。
阪和線を止めてしまいました。
ごめんなさい。 上野芝駅が今の通過線を備えた形になったのは昭和57年頃だけど
それ以前、和歌山方面のホームは1面2線だったのでは?と思うような痕跡があった。
あと、昭和53年頃だけど上野芝駅の駅前にランボルギーニ・カウンタックを展示していた店舗があった。
ついでに今、上野芝駅の横を泉北1号線がアンダークロスしているけど、その道路を建設していた頃が
記憶にあるわ。あれは昭和51年頃か。 天王寺駅阪和ホームのウドン屋だけど、昔は練炭っぽい匂いがプンプンしていたと記憶している。
南田辺駅の手前に赤い文字で「ほねつぎ」と書かれた看板があって、子供の頃はこの看板を見て
「うわー!痛そう」と恐怖を覚えた。この看板は近年まであったけど、もう今はない。 ややスレチだが、昭和55年頃、津久野駅のロータリーに「レッドバルーン」という名前の
ファストフードのハンバーガー屋があった。内容はマクドと遜色がなかったと記憶している。
この店は早い段階で閉店した。他、おもちゃの「オクノ」が懐かしい。
※天牛堺書店の津久野店は今年のお盆頃に閉店した。老舗の「ヤマタケ」のコロッケは健在!
子供の頃はこの店でハムフライや玉子フライを良く買い食いしてた。 >264
津久野駅の近所の阪和線線路沿いの坂の所に「阪和線」というパチンコ屋もあったな 東羽衣にクモハ123が入る前は何が走っていましたか。 >267
非冷房のクモハ103+モハ102+クハ103の3両編成が運用されていた >>264
津久野駅がここまでしいたげられてるとイトーヨーカドーも総合医療センターもみんな車かチャリか救急車霊柩車だなw >>262
1980年昭和55年既に今のになってたなw
1980年昭和55年と言えば丁度高校入学高校が津久野駅近くと言うか厳密には、近くはないが南海バスで行ける高校だがこの駅を使うことが多かったが当時既に朝ラッシュのみ上野芝で通過待ちした。
1980年朝ラッシュのみだからなんとも思わなかったが今2018平成30年の様に年がら年中上野芝駅で長時間通過待ちと夢にもいや悪夢にも思わなかった(>_<) 上野芝駅が相対式ホームだった頃、上野芝駅で終焉間近の70系を見た記憶がある。
その頃には381系の試運転列車やキハ81先頭の「くろしお」も見かけたし、
鳳電車区にはオレンジ色の旧国や関西線用のウグイス色101系も留置されていた。 >>262 >>270
ウィキで文献があった。
1944年(昭和19年)5月1日 - 南海山手線が国有化され、鉄道省(国鉄)阪和線の駅となる[1]。
年月日不明 - 島式・相対式2面3線のホームを持つ地上駅となる。これによって下り東和歌山方面行きが待避可能となる。
1967年(昭和42年)頃 - 普通列車の6両編成化に伴い下りの待避線を廃止しホーム長を延長した。その結果、2面2線ホームの地上駅となる。なお上り線はホーム長を延長したのみ。
1980年(昭和55年)10月1日 - 新幹線型待避構造の2面2線と通過線2線をもつ橋上駅となる。
昭和42年頃までは下り線のみ待避可能な構造。
昭和55年10月1日以前は待避不可能、単なる相対式2面2線の駅だったのかな。 >>271
普段は汚れて走っていたキハ81のブルドッグだけど、引退直前は洗車したのか?
綺麗にピカピカになってた。当時、俺が通っていた小学校のクラスで「にわか鉄ヲタ」が大増殖。
ピカピカになったブルドッグが話題になってた。※当時、小学5年。
その「にわか鉄ヲタ」の多くはスーパーカーブームからの転向組で、もう中学に入れば鉄ヲタを引退してたな。 >273
キハ81は使いづらさやキハ82とは定員が異なるなどの理由から、「くろしお」でも
昭和51年頃から順次キハ82に置き換えられ、車体の傷みが目立つなどしてきて、
状態の悪かった1、2、4、6は先に廃車となり、比較的状態の良かった3と5だけが
天王寺方先頭車を努めていたな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています