昔の国鉄阪和線
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大阪〜和歌山間を結ぶ重要路線でありながら
その生い立ちゆえに陽の当たらなかった阪和線の思い出スレ 南海山手線のままだったら戦後貨物専用線化された挙げ句、
トラック輸送の普及で廃線になってたであろう
国有化されたからこそ大阪和歌山間で競争が生まれ
サービスアップに繋がってるのだ 年配の人は今でも堺市駅を金岡と呼ぶ
改称が1965年だからもう半世紀前だが、
「堺市」なるネーミングがどうも余所行きでこそばゆい感じがするとのこと 改称するときに国鉄のプライドもあって
南海との重複を承知であえて堺駅を名乗ろうとしたことも EF58+EF15重連牽引の紀勢本線直通貨物列車通過のため、
長滝駅などでED60牽引の阪和線内区間貨物列車が側線で待避する光景もよく見られた 長距離列車は線内ノンストップばかり
そりゃ堺や岸和田の人は南海乗るよね スカイブルーの103系と青帯の113系。
大半は首都圏のお下がり、一部を除き大半は非冷房車。
そんな中、新快速用の113系6連は虎の子の冷房車。 冷房車は大人気だったよ
ホームから車内に入るとキーンと来る冷気が心地好かった
冷房車が来るまで一本見送ったこともあった 2国ときはま線ができるまでは鳳駅まで浜寺からは今では考えられないくらいに鳳駅近かったよくがら空き新快速乗った 昭和55年に投入された先頭車が高運転台の新製103系6両編成3本
この103系だけはモーターの音が低めで風を切るような音がしていて、
他の103系に比べて快適にも思えた 大和川から流れてくる異臭に耐えながら電車を待った真夏の昼下がりの浅香駅 旧型国電が一掃されて他線区のお下がりとはいえ103系や113系がやってきたときにはファンの方々は落胆したというが
一般利用客は綺麗な電車に乗れるようになったと思われて歓待された
色が京阪神区間と同じはちょっとした優越感もあった >>14
ウ○コ川、ボットン川なんて言われてたなw
でも臭いの主原因は生活排水ではなく工場排水だった >>15
それでもクーラーが普及したのは京阪神に遅れること10年 鉄橋を通過してる時に窓越しに大和川を眺めたら
冷蔵庫が水辺に打ち上げられていたり布団が水面に浮いていたり、
大阪都心の川でもこんなにひどくないというくらいに汚かった
ヘドロ臭が車中に入って来ないように鉄橋に近付いて来ると
窓を閉めていたという話も聞いたことがある >>11
その新車は記憶にある。103系の最終型は座面がやや低く奥行きが少し広かったからな。
シルバーシートのモケットの色がグレーになったのも、その頃だったような。
何やかんやで昔の阪和線は今よりも活き活き走ってて、現95キロ制限の天王寺〜鳳でも
103系は限界速度である100キロ〜102キロくらいで走ってた。
あと、関西線色のウグイスの101系も快速として走ってたわ。 >>7
特急「あすか」が堺市に停車していたらしいね。あと、「くろしお」が鳳に停車してた。
>>17
阪和線の非冷房は間違いなく昭和60年頃まで残ってたわ。
でもあの頃の夏は今みたいにめちゃ暑くなかったし、湿度が低めだったと記憶している。
急行「きのくに」のキハ58は完全に冷房化されていたんだろうか、あまり記憶がないわ。 浅香駅から大和川を渡って来る列車を撮る時は河辺のゴムタイヤの山を上手く隠すのが御約束 >21
関西線用ウグイス色101系は奈良運転所や王寺駅構内に常駐していて、
日根野電車区には台車検査などで戻ってくるだけで、阪和線快速や普通電車の
運用に入ることはなかったはず
国鉄末期には奈良電車区からウグイス色の103系が日根野電車区に転属し、
また、淀川電車区や豊田電車区からもオレンジ色の103系が日根野区に転入して、
阪和線快速や普通電車運用に着き、103系の混色編成が見られたが、
徐々にスカイブルーに塗り替えられて混色103系は消滅していった >>22
急行「きのくに」は昭和50年頃には既に冷房化されていた。但し南海からの乗り入れのキハ55は昭和60年3月の廃止まで非冷房で晩年は不評をかっていた。 新快速が短命に終わったのは停車駅が少なすぎたせい
でもスピードで南海に対抗しようと思えば停車駅を少なくするのは当然で
せっかく速達ニーズに合わせたのに乗ってくれなかったら
どないせえっちゅうねんと国鉄の中の人がキレたくなる気持ちもわかる 高運103系が入ってきて運転室後ろのかぶりつきができなくなってがっかり
通常タイプでも昼間から遮光幕を下ろす運転手ばかりになった悲しい時代があった 14時台の普通電車や区間快速では103系の和歌山方先頭車の一番前のドア付近がシートで区画されて、そこでは天王寺駅から積み込まれた泉州地区、和歌山方面向けの新聞の仕分け作業が行われていた。 >>26
阪和間を通すから不人気だの空気輸送だの無駄だの言われたのであって、
天鳳間限定であればロスもなく長続きしてたはず。 南海とラ イバルなのに駅の広告で南海難波の高島屋デパートが至る所に・・・ >>26 >>30
新快速のあの運用は沿線住民無視しすぎだったな。結局、後に熊取と砂川にも停車して利便図るわけだし。
そういう意味では「快速」が一番適任だったと思う。あの時代だと5駅(ラッシュ時は中の島も)停車でも
阪和間53〜55分と俊足だったし、紀勢線電化による直通でさらに利用価値も上がった。 たしかに国鉄は乗務員も駅員も態度が良くなかった
末期症状 阪和線寄りに住んでいた人でも国鉄の態度が嫌でわざわざ南海利用してたらしい >>35
中学校の時の英語の先生も日根野だが、まさにそういう理由で泉佐野からバス。勿論日根野駅は当時は快速通過してて、30分に1本しか電車がない時代だったが関空快速どころか日根野行快速もないが 朝の長時間停車が嫌だったな杉本町とか
何分くらい停車してたか記憶がないが軽く7〜8分は停まってたはず
他の待避駅でも朝はそのくらいだったのかな 開かずの踏切が社会問題として最初に取り上げられたのは阪和線 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています