なつかしの名鉄スレパ−ト21
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>>69
名鉄には二扉より三扉が最適だったから今でも現役で活躍できてるから二扉でデビューしなくて良かったじゃん 1200は椅子取りゲームが激化したのがなぁ、と当時思った
5700も、先頭車の座席数の少なさに驚いたものだが
その後は3500など少座席が当たり前になり、いつしか慣らされてしまった 今走っている(新)5000系を作らずに
前と同じように4両を二つに割って一般席を作って連結というわけにはいかなかったのかな もし
パノラマSuper一般席が二扉で、新車両2000系の一般席も二扉→順当
パノラマSuper一般席が二扉で、新車両2000系の一般席は三扉→非難喧々囂々
となったんだろう… パノラマスーパー登場前に一部指定席特急が誕生していたら、
豊橋方2両が白帯のP6が登場したのではなかろうか? あるいは、7700白帯を特別車にして真ん中に組み込んだ6両編成とかな。
違いはシートの形状と色だけで350円徴収か。 お隣の213と311の関係を見ていると3ドアで良かったんじゃ?
もし基本編成の一般車が2ドアだったら、増結用の1800は造られずにSR2が増結用に充当されていたのかな? 特定旅客の600V本や路面電車ガイドブック読んで思ったんだけど、
モ880より前の軌道線車両ってどうして方向幕ではなくサボを使っていたの? その頃は鉄道線の新車もサボだった、からじゃね?
方向幕の試作が1971年頃、本格導入が1974年の7000系8次車から >>69 >>70 >>71
92年頃のRJ誌にて、名鉄1000系+1200系の「パノラマスーパー」とJR東海311系の
「新快速」を新岐阜・岐阜→豊橋間で乗り比べる企画が掲載されていたが、その中で
「名鉄が各ドア脇に補助椅子を設置してまで一般席車の3扉化にこだわったのは、
スピードでJRに勝てない以上、停車駅での乗降時分の増大を防いでダイヤ通りの運転
だけは何としても死守したいという切実な思いがあるからなのである。」と書かれて
いた。
1975年に東急から譲受した3880系で3扉車を導入して成果を上げたという実績が
あったため、時は下って特急の一般席車にも3扉車を入れる方向になったのだろう。 >>78
モ590までは新製時に方向幕を装備してたしモ600も幕用の表示窓があるのですが
それらの車両も方向幕を使わずサボを使うようになった理由は何なのでしょうか >>81
つーか、名鉄ならサボじゃなく系統板だろ… モ570も最初はおでこに小さな方向幕が埋め込まれてたんだっけ? >>84
かなり古い写真(連結器が無く カウキャッチャーがあった頃)だとモ510にもそれっぽい窓ある 名鉄一宮線の遺構の県道名古屋江南線・江川線跨ぐ、名鉄の橋のプレートがあった陸橋・築堤が道路の4車線化工事でほとんど無くなってた、来週位には全て平地になってそう >>85
手持ちの本の写真ではモ524のセンターとモ513の正面右寄りに四角い枠がある。 45年くらい前の話です
豊明の駅から荷物が届いていると連絡があり親父と受け取りに行きました
伊勢の叔母から伊勢たくあんが樽ごと20キロほどの重さで
豊明では荷物集配業務も昔は行っていたのでしょうか?
どんなルートだったのか
だれか、ご存じないですか 改札右に回ったとこだったかな。
あの頃は跨線橋もなかったような 荷物輸送扱いまでは不明だが、駅で手荷物一時預かり扱いやってた駅は荷物輸送扱いあったのかな?
俺が当時最寄りだった木田も、駅で手荷物一時預かりやってた。
跨線橋も無く、構内踏切があった時代 三河山線の土橋駅では、荷物を取り扱っていた記憶あり
5700系が登場する前の話 ク2320のうち1両だけ高運転席で異端だった2326が残留できたのはどうしてだろう。 >>92
高運転台だと速度やブレーキの感覚違うんですかね?
5201と5202、5509と5510など、終端駅でそのまま折り返し乗務する場合、同じ編成でも感覚が変わるんでしょうか・・・ >>97
成功させるために岐阜市内線の本線を廃止しました・・・ ここは未来のお祭り広場
語る未来はサンサンサン(それ)
語る未来はサンサンサン >>97
88名古屋オリンピックが実現していたら、名鉄はどうなっていただろうか。
タラレバをあえて・・・ >>102
神宮前〜枇杷島分岐点の複々線化。現在の名鉄名古屋駅付近が難工事になるが。
ただ、その頃は昭和天皇の病気で自粛ムード。オリンピックが名古屋(日本)でなくて
良かったという声もあった。 400系モ401が岡崎で展示されている経緯はどういうふうなのですか このスレの住民はクソだわ
ろくにレス、会話が出来ないヤツが多い
ネットに使い慣れていないジジイばっかだからかね
昔はこんなヤツらでも金の卵とかいって優良企業に就職出来ていたんだから怖いわー >>102
オリンピックを韓国の札束攻勢で盗られた反動からの愛知万博が開かれず、リニモもなく、セントレアも、造られなかったかもね。 次は準急犬山行きです。
栄生 下小田井 中小田井 西春 徳重 岩倉 岩倉から各駅に止まります 昔の津島線だと、夜ラッシュ時に2両とかあったから
「紫色の乗車位置5番から8番」ってのがアナウンスされて、後方の人が人民大移動とかあったな…
あと、5番から12番の乗車位置。
後ろ2両は須ヶ口止まりってアナウンスされて、これまた後方は人民大移動 名鉄名古屋駅の上に乗っている名鉄百貨店等の建て替え計画が進んでいる。
このチャンスに駅の配線を大幅改良して現状が回想録として(将来5ちゃんねるがあれば)
ここで語られるだけになってほしい。小田急電鉄が長い年月かけて複々線化完成したのだから。 ><>119
紫で2両だともっと後ろの方になるんでは
13から18番か、19から24番 >>121
昔の乗車位置って、3扉仕様じゃなくて2扉仕様だったから番号は今と違うような 乗車位置2番5番8番11番14番17番には扉がございませんのでご注意ください 今、豊橋方向の水色位置と岐阜方向の黄色位置は指で数えられるくらいしか使っていない。
かつてはどうだったのでしょうか。 >>116
谷汲詣でのついでに寄った記憶が。
客が少ないので各停でも通過する便があるほどだったが
思いのほか駅は綺麗に整備されていて
照明灯が新品の蛍光灯になってたのが印象的
1980年当初はまだ田舎駅では白熱球の照明が珍しくなかった >>125
上り水色は多数あった
ダイヤ改正で常滑線普通が金山始発ばかりになり、急減
下り黄色をほとんど使わなくなったのは、平成初めか? 緑色の乗車位置1番から28番まで、広く分かれてご利用ください 今は犬山経由っていうけど、昔は犬山まわり新岐阜行きっていってたよね >>129
両方言ってたんじゃないかなぁ。
ただサボが犬山?由(多分出ていないと思う、糸偏の無い経)岐阜だった記憶がある。
パノラマカーだと、上段に犬山経由と大きく、下段に取ってつけたように岐阜とあった。 昭和末頃の車両は、どれも扉の数、位置ともばらばらだった。
そんな状況でよく新名古屋は乗車位置の色分け指定ができたな。 HL 車には、蛍光灯にカバー掛けられていた記憶。
5000とかは、蛍光灯間引きされて暗かった記憶。
懐かしい。 HL車両が名古屋を出入りしていた(回送は除く)のはいつごろまでですか。 >>135
あいまいな記憶ですまんが、最初は5000〜5500も蛍光灯にはカバーがかかっていたはず。
昭和50年代前半だったと思うが、「省エネ化改造」と称する一連のお笑い改造で、
カバーを撤去して点灯する蛍光灯の本数を減らした。
「省エネ化改造」はこれだけではなかったはずで、いずれも大層な物ではなく、
他社が本格的な省エネ車両(チョッパ制御車など)を続々と投入する中、
小手先だけの対策ということで当時のヲタ共から嘲笑の対象になっていた。 >>136
新一宮が地上駅時代辺りは、まだあったな
尾西線から津島線経由で豊明行くやつとか
俺が乗務してた頃だから、windows95が出る前辺りかな? 尾西線の名古屋直通が6000になったのは、1989.7改正だったか?
デザイン博の時、新名古屋発着が全て冷房化と宣伝した改正 HLの蛍光灯は、最初から間引きの状態
カバー付蛍光灯と通風機を交互に配置
ハッキリ言って、夜は薄暗かった
5000〜5500と7300は例の省エネと称した改造だが、反射板代わり?の部材が付いていた
それにしても、当時の名鉄は涼風車や暖房車とか、省エネに名を借りて貧乏臭いことをしていたなぁ
今と違って殿様商売が成立した時代だが、新線や遊園地の建設などで資本費が嵩んだのか? >>140
まあ各地の様々な会社の買収劇が盛んだったからなあ、
東急やら近鉄やらと戦いながら。
名鉄が一番すごかったのは昭和40年代半ばかな、
地方の鉄道に中古車両を売り渡す際、蛍光灯取り付け自動扉改造をしていたが、
肝心の名鉄電車そのものは、本線系ながらもAL車の多くは白熱灯照明のまま、
薄どころかかなり汚れたニス塗り車内、運転席には速度計が無い車両が多かった。
瀬戸線揖斐谷汲線だと白熱灯照明どころか手動扉のまま。
当時、大手私鉄の中で「一番最低」の車両陣と言われていた。
パノラマカーや各地の名鉄系企業が土川元夫の遺産なら、
劣悪な車両や施設も、ある意味土川元夫の遺産だと思う。
どちらも近年払拭され、ようやく土川元夫の呪縛から抜けたのかもしれん。
長々すまぬ 名鉄は営業キロ数など見た目が大手なだけで、利益率など中身は中小私鉄と変わらないからね >>139
金山駅開業とダイヤ改正までは約1週間のタイムラグがあったから、金山に営業運転で
止まるHLやAL(7300除く)を物寂しげに見たものだ・・・3800も運輸省規格型とは言えこ
の時まで走っていたよな 昔の三柿野駅(折り返し列車が多数有った頃)の構造はどのようだったのですか。 >>142 瀬戸線、揖斐線、谷汲線なんて廃止したかった路線なんだろ。
ローカル線の体質改善や旧型車更新は後回しにして、パノラマカー導入で客を呼び込むという方針だったのでは。
近鉄もナロー線や養老線を旧型車のゴミ捨て場のようにしてたからね。 40年代半ばの名鉄が他の大手私鉄に比べぼろっちく見えるのは、旧型車が新名古屋まで乗り入れていたからではないかな。
東武もローカル線で3000系への車体更新前の旧型車が幅を利かせていたが、伊勢崎線等の本線からは撤退していた。
通勤用の新車投入、車体大型化に迫られていなかったからなんだろうけど。 質より量で見せかけの新型車を導入していた西武と、旧型車更新後回しでいち早く冷房車など少数精鋭で新車を投入していた名鉄を、どう評価するかだな。 >>147
都市間輸送に特化させたかった、というところか。
中間駅は廃止、名鉄バスをご利用ください、ということをRPに出していたくらいだから、
相当本気だったんだろう。
瀬戸・揖斐・谷汲も特急または急行だけは何とかしたかったんじゃないか、出来る範囲で。
>>148
東武の旧型車の更新は昭和40年代半ば過ぎにはあらかた完了していた。
残ったのは53・58の、ある程度体質改善が済んだものだが、これもS50頃には消えている。
隣の近鉄も急行を中心に旧伊勢電や参急、吉野の車両が結構残っていたが、
蛍光灯化、内装更新は行っていた。そこが名鉄とは異なっていた。
>>149
西武は押し寄せる客をさばく為にああせざるを得なかったんじゃないかな。
落ち着いたら101増備+半新性能車の改善をすごい勢いで行っている。
名鉄の場合、少数精鋭の新車は理解できなくも無いが、土川の理想が先走りすぎて、
結局後継が軌道修正に大変なことになった、という印象がある。 >>147
900形や510形+520形と600形をクロスシート化したんですが… 定期より定期外
近郊輸送より都市間輸送
クロスシート車で高速高頻度運転
駅を平均5キロおきに
理想論が崩壊するのは、案外早かった パノラマカーの場合、特急新鵜沼行きの行き先表示は犬山、急行犬山行きも犬山。
これってわかりにくくない? >>155
自分は鉄オタだから知ってるけど、初見殺しではあると思う >>156
昔豊橋から特急明治村口・新広見ゆきっていうのに乗った記憶がある >>154
むしろ犬山まではわかりやすいだろ
犬山と犬山遊園では逆方向行きと間違えるかもしれんけど >>156
たしか犬山から小牧行普通になるのがあった。 >>158 関西弁(大阪弁?)での自分は、相手を指すからか? 昔、犬山行の急行が犬山から上飯田行に化けるのが有ったなぁ。
多分そのスジだと思うけど、豊年祭り号として、始発から上飯田行として運転するときも有ったっけ。 明治村口→羽黒駅の東側の空き地は名鉄所有なんですか。 >>163
その逆バージョンもあったぞ。犬山行き普通が犬山に着くと岐阜行き普通に「変身」して
一分も過ぎずにすぐ発車。だったら最初(上飯田)から岐阜行表示にしとけよ!と思った。 犬山と言えば、犬山線〜各務原線の普通同士の乗換が29分待ちとか
いくら需要がわずかでも、嫌がらせにしか見えなかった
新一宮の津島〜玉ノ井の乗換もそんな感じだったが、1線だから仕方なしか >>86
かなり削られたけどまだ平地になってなかった
いま仮道がある部分も完全な平地にして4車線化が完成するのは
お盆明けぐらいかね あの右折禁止の信号か
左折困難のカンバンもあったかな?
そんな事はどうでもいいが、ここ数年でバスの本数が減ったなぁ
昼間はいつもがら空きだから、まぁ当然だが
小牧ゆき共々、30分毎になる日も近いか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています