懐かしの東武鉄道について語ろうパート6
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
感熱式になってからは切符の上に小さく「小」文字が入ってた気がする >>584
亀レスだけど。
通勤快速は春日部・北千住間無停車だったので、
前後の準急と全然混雑度が違い楽だった。
前を押さえられているからトロトロ流して急加減速も必要ないし。
だから、78系の最後の職場として向いていた。 >>622
>>623
硬券の「小」はあらかじめ赤字で印刷されているものが
常備されていた。東武でハンコは見たことがなかった。
なくなったら、大人用の券の右側の斜めの線に沿って
ハサミで切ると小児用という決まりだったはず。 >>628
県民の日のフリー乗車券、自分が子供の頃の80年代半ばは玉子のような型のタイプだったなぁ
>>631
日曜日に上りの通勤快速何度か利用した経験あるけど、
座席が埋まって立ち客がパラパラって程度の乗車率だった
竹ノ塚〜北千住間の複々線区間で並走する日々直の普通列車のほうが混んでた >>634
タマゴ型だった年の覚えてるw
確かあれは埼玉県のマークにもなってるやつを象ったものだったと思う >>629
未成年=子供ってわけでもなかろう
小児、幼児、乳児と子供内で区分が必要だからかと >>564
高性能化の際、足回りは2000系のものを使っていただろうな>幻のステンレス車。 いや、あれはピク編集部の写真キャプションの間違いで、
73系廃車の代替で作る8000系をステンレス車体とする試作鋼体。
実現していれば81107F以降があの車体になったはず。 >>639
館長が執筆した本文にも、73の車体更新のときにステンレス車体を検討
ってハッキリ書いてあるのよ。
館長が書いてるんだからRP編集部の間違いって可能性はなさそう。
でもあの写真、ほかで見たときは別用途だった気がするんだよな。
都営6号線直通用の車両の試作とかで 8000系新造時にもステンレス車体が検討されたけど、
そのときは試作鋼体を作っていない。
これは73代替の8000系の試作車体で、1981(昭和56)年ごろ
作ったもの。ピクの「私鉄高性能車特集」にも一度この写真が
出ている。昭和30年代、オールステンレス構体を作れたのは
東急車輌だけ。
だからピク編集部の間違い。 アルナとか富士重工がステンレス車を作れるようになったのは東武のお陰なんだよな
東急車輌が9000を軽量ステンレスにすることを奨めてきたが、
東武は他にもアルナや富士重工も作ってるからそっちに技術を提供しなければならなかったんだし
しかもそれでも東急8090系みたいなビードプレス車体は
内部から溶接する必要があってアルナや富士重工には造るのが難しいからってことで
コルゲート車体にしたから、年式の割に古くさいデザインになったし 8000をステンレスにしたのが三田線6000だと思っちゃう。 未確認だが、太田市尾島庁舎北の徳川河岸線跡の一部が道路工事で消滅した可能性あり
航空写真で見られるあの斜めのやつ 無人駅から乗った人のために(?)、
社内でペラい乗車券販売するのあったじゃん。
確か野岩鉄道開業の頃だったかな。
車掌さんが車掌室から出てきて、
(混んでるから)無理だなこりゃwwとか言って、
引き返して車掌室に戻っていったけど、何だよそれwww
そもそもどういうシステムなの? そういえば昔はたまに抜き打ちで車内検札ってあったよな
男性社員と女性社員のペアで、強制的に切符見せさせられるやつ
あれって最近見ない気が 半直開通したパスネットの頃まではやってたな
日光線で切符買う時間なくて、車内補充券で運賃払った思い出 ワンマン化で失職したバス車掌や、観光縮小で仕事がなくなったバスガイドの
配置転換の意味合いがあった。 >>648
越生線でもやってたね。
越生折り返し待ちで、これより車内検札を行いますとアナウンスが流れると
途端に高校生達がホームへ降りる(笑) 抜き打ち検札といえば北千住の千代田線連絡通路でやってた臨時改札 最近、カバ園長のCMを視ないけど
体調崩したのかな? >>255
西山さんのことでしたら、だいぶ前に亡くなったような気がしますが… 動物公園は73か78で行ったな
最初で最後の東武の床が板の乗車だった
大和を見た >>658
東武動物公園の池に浮かんでた、連合艦隊か何かの映画で使われた
戦艦大和の模型のことか。 >>645
現地見てきた
上り方15mほど新しい道路に飲み込まれてた
それ以外は残ってた >>641
あのステンレス構体は1980年夏には存在
※当時のことが載ってたサイトは、ジオシティーズだったので落ちてる
どうも、9000試作車の直前に製作してたみたいだね
黒部の隣に見切れている
ttp://oimactaka.blog.hobidas.com/archives/article/28839.html 9000系製造に先だってステンレス製造の教習みたいな感じで作ったものなのかもしれないね >>663
そうなんだよね、どう見ても習熟絡みだし
>>664
東急車輛の9000ボツ案(東急8500の東武版)を
ほぼ継承したようなデザイン
https://pbs.twimg.com/media/CLtLp-cUwAAjh9p.jpg 冷房車でなかった時代の話し
東上線では扇風機のオフシーズンは扇風機にカバーかけてたらしい
本線では扇風機そのものを取り外してたと思う 7800や7300には中間2ドアの戸締り機構は付いてたっけ?
8000は付いているわけだが。
北関東での冬季の車内保温対策が気になって。 あれ何だろな。
東武に馴染みすぎて、
JRに乗った時、ドアが手動に切り替わったのは目から鱗だったわ。 >>668
まったくなかった。
8000系からの装備。 ていうか、中間ドア閉めたくらいで対策になるのか?
前後空いてたら、やっぱり寒いと思うが。 東武デラックスロマンスカー1720は洋式トイレがあったらしい
スチュワーデスと言われた女性乗務員は英語が出来たらしい
浅草駅の東武トラベルも当時から外国人観光案内所として機能していたとか
今ではインバウンドで当たり前だが、これらは50年以上前の話し >>671 からっ風に曝されて体感温度が下がる部分が減る程度の効果はあるのでは。 あの時代の日光は国際観光地だったからな。
今の特急は停車駅増えすぎ。料金取られる快速と化しつつある。 >>671
風が通らないというのは体感温度が全然違った。
また、8000のヒーターは強力だったから、
中扉締め切りで座席に座っているとそれなりに暖かだった。 ベトナム戦争の時日本の基地にいた米軍兵が
ベトナム行く前に休暇与えられてDRCで日光観光に行くシーンがちと悲しかった。何割かは生きて帰ってこなかったろ >>677
乗客は寒さに凍えてるのに乗務員室は天国だったのが8000系。
密閉性が高くて国鉄の貫通型みたいに隙間風が吹き込む事も無かった。 金八先生で7800系結構見れるなあ
浅草北千住間は下町走るナナハチもいいもんだ >>674
デビュー当時(1960年)はDRCの便所も垂れ流し式で
東京都内では車掌が便所に鍵かけて使用出来ない様に
していたそうな(花上さんの著書・東武デラックスロマンスカーより)。 やっぱりどう考えても不思議だよな。
線路にウンコしちゃダメだろうって、
何で最初からじゃなく、「 途 中 か ら 」気づいたんだろ。
実際にウンコをしてみるまで、ウンコしてもいいかどうかわからなかったってこと? 都内では禁止って都県境の毛長川鉄橋を境として正確にうん用されていたんだろうか?草加辺りから気張って谷塚あたりで出かかっても毛長川過ぎてしまったらうんが半分出かかっても引っ込めないと行けんかったんじゃろか? これやっぱ真面目に議論したのかな。
うんこは枕木の色と同じだからバレなくね?
ポイントの所にうんこ挟まったらどうすんじゃボケ!!
ATSにしょんぺんかかって誤動作したらどうすんだ?
とかさ。 あくまで乗客の良心やろね
トイレを使用禁止区間のみ施錠してる訳じゃないし、優等なら浅草駅で用足してる人が大半だろうし >>679 非冷房だと、夏は乗務員室は暑いんではないのか?3000や6000にしても同様。
2000だと運転席の真上に風を入れるスリットがあるが、8000の前面にはない。
2000は北関東行かないから冬場は問題なかったのだろうけど。 >>689
8000の頃だと、運転席の正面窓の下に小さなベンチレーターがある
修繕工事で外したけど 幼い時の記憶では東武本線には券売機があったけど、確か紙幣を入れる券売機は無かったと思う。
だから両替は昔の出札の名残がある窓口で紙幣から硬貨にしてから券売機で切符を買っていたと思う。 紙幣対応は野岩鉄道が開通して券売機入れ替えてからかと
確か青い券売機だった >>678
死ぬ間際「あのときけごんのビュッフェでサンドイッチ頼んどけば良かった」と思った兵士もいたのだろうか >>692
野岩鉄道開業頃は万券、五千円券、千円券全て対応の券売機になったんだろうけど、もうその頃には千円券対応の券売機はあった。
昭和40年代後半は千円券も対応できない券売機だったと思う。 確か昭和49年頃初乗り子供20円じゃなかったかな? 小学1年のオレは姉貴の机の上に置いてある小銭10円玉を4枚くすねて2駅先の駅まで行って帰って来た事があるw
これから乗る電車は営団3000ドア開時シュプわーか東武2000加速音ひゅーーか8000か7800吊り掛けグオーーンかワクワクドキドキ、なんと素晴らしいひとり旅‼
ただ目的の駅は学校でおっかないS先生が住んでる駅だったから見つからないか超ビビってた。 後で知ったが姉はちゃんとオレがくすねた事は気が付いていた。
2駅はすぐにエスカレートしてターゲットはすぐに終着駅の幸手と中目黒になった。幸手は行きが7800系で杉戸からは本当に何も無い田んぼの中を吊り掛けモータが悲鳴あげながら爆走するばかりであった。遠くへ来たと少し心細くなった。
中目黒は終着駅としては何の情緒もないただ薄汚くてゴミゴミしてるだけの何とつまらない駅かと思った。以来目黒区には良いイメージが無いw >>696 伊勢崎線って色々な電車が走っていて面白いなと思ってた。
7800の「特急」走らせる東上線沿線に住んでいた、当時の小学校高学年児童にとって。 >>695
垂直タイプの頃の券売機は最終進化版でも万札なんて使えなかったで
今のスラントタイプになってからやろ 昔の地元の駅では、黄色い券売機では紙幣の使用不可で、青い券売機は使用可能だった覚えがある。 1万円札は両替してもらえなくて、乗車駅証明書を渡されて着駅で精算して、と
言われたことがある。 698 確かに本線筋がきぬけごんりょうもうだいやの優等列車群が充実してたのはありますねえ
。但し乗る段になると、うちは親父がケチだったんで1720系など無くなる直前に乗ってみただけ、りょうもうは乗らずじまいだった 。7800系の特急は、本線筋で言うと通勤快速東武日光行きになるんかなあ 下赤塚に親戚がいて何度か行ったけれど東上線の8000は大山対策の関係でかおでこの上部灯がちゃんと点いてて精悍な印象 。あと7300が沢山使われるのが羨ましくもあったw 東武本線には優等の特急、急行、快速急行。
それに快速、通勤快速、準急A、準急B。
各停には地下鉄直通と種別が豊富だったから、東上線民からすると本線ばかり優遇されてるとの被害者意識を持つ要因になったのかも。 >>703
ボロ電車が羨ましいって、もう終焉が近づいた頃?
子供には吊掛の爆音なんか床を突き破って襲われそうな恐怖でしかなかったなあ。 >>704
東上線のカステラ、4連は73で2連は78ばかりだった気がする。
4連の78は東上に配属になった経験ってあるのかな。
4連の78って見た記憶がない当時ガキのオレ >>707
池袋口の最末期は、同じくその印象。通学で使ってたけど当時小3だったから車番しか違いに気が付かず、4連が73で2連が78と区別してるんかと勘違いしてた。 鉄道模型で↓これを再現してるのってある?
___________
| |
\/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\/
/ \
| |
| |
\ /
/\_______/\
| |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ >>707
78末期は78のみの2+2+4だったよ 78 73は何がいいって吊り掛け重厚な走行音、室内が床が板張りでデコラも濃い色で日本住宅にいるように落ち着く、外板はシルヘッダ付きで国鉄客車でいう旧型客車の血統?
73の良いとこは78の良いとこに加えて国電型グロベンとTR23系統のペンシルバニア型台車という大日本国鉄の血統の証 。終戦後国あげて私鉄も支援してもう一度日本を再建するという意気込みの名残。池袋で製造昭和21年の銘板をしみじみと見る。中学生なのに変わってたねハハハ 78 73とも中間の車掌室は、昼間混んでない時は子供達の秘密基地w、夕方の下り北千住でのラッシュ時などは席にあぶれたサラリーマンのあんちゃん達もくつろいでる。
OLお姉さんは車掌室なんて、と思いつつでも1日の疲れは免れがたく遠慮がちにお尻を遠慮がちにちょっと車掌室の台に引っ掛ける程度にして家路に着くそんな昭和の景色 当時の大山駅はホームの両端が踏切で挟まれていて6連分しかホームが無かった為
8連の新製車ではうち2両分ドアカットできる機能がついてた
それがいわゆる大山対策車で、区別できるようにマーカーランプが点灯してた 8連じゃなくて8両だった
編成は6+2や4+4でも大山対策車が前後に付いてればよかった
昭和52年に解消された模様 踏切をひとつ潰してホーム延伸をしたことで人の流れが変わり
商店街をひとつ消し去った。
下りホーム真ん中の小さな改札口から川越街道にかけての道がそれだ。
踏切の立体交差化工事で近所の人から反対運動が起こる理由がよくわかる話。 けごん なつかしい
いまわたらせ渓谷鉄道のどこかの駅のレストラン車両に使われてるね。 金八先生ではクリームの7800系や8000系が背景として使われてるけどりょうもうけごんなど優等列車が写ってないのは何でだろう?敢えて避けたんだろうか? 2期で加藤宅に金八が初訪問するシーンの直前に使われてたのが印象深い<スカイライナー
後の作品で新色になってからも登場シーンがあったな スカイライナーは初代のプリン色が落ち着いた色調だったな >>718
考えたこともなかったが、言われてみれば確かにDRC映ってるの見たことないな。 >>718
それを突っ込んでいた大学生グループおったな。
長野夜行に乗っていた大学生登山客たち。
金八シリーズってブルマシーンが殆ど無いから詰まらん。 やっぱあれかな。
特急が映ってると、通学シーンっぽくなくなるのかな。 大山対策車って、大山駅のホーム延長が早期に実現できる見通しがあったから、暫定的な措置として必要最低限の車両に自動ドアカットのための配線を取り付けた、ということかな。
仮に、東急大井町線九品仏のようにホーム延長が実現困難だったら、東上線の8000系以降全車両に自動ドアカット機構がつけられていたのだろうが。
ただ、8000は各車両の中間2つのドア締切ができるようになっているんだが、デジタル制御化が未発達だった当時、8両編成中の2両だけのドアカットを行うには、中間ドアカットと別のスイッチ、配線を設けなくてはならなかったということなんだろうか そういや、大谷向って、6両目は踏切にまで掛かってなかったっけ? 722 724 当時通過する確率としては
8000>7800>6000>1800=1720>貨物や荷電君 って感じだったんでしょうからたまたまだったのかも知れないし、あえて下町の雰囲気の背景として各駅や準急を採用したのかもしれませんね。
池内先生宅内のシーンとか如何にも昭和の雰囲気で何とも言えないなあ。実際にバブル前までは電車の中から線路際の木造の粗末な家の中まで見えそうなとこがいくつもあったんですよね曳舟堀切あたり。 荷電あったなあ〜
荷電単独で走ってたかな?
それとも7800に連結してたかな?
記憶が定かでないな
少なくとも金八先生の頃にはなくなってたな >>728 70年代の東上線では、真っ赤な塗装で単独で走っていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています