懐かしの東武鉄道について語ろうパート5
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
ネットの国土地理院の1974、5年の航空写真を更新したようで
貨物側線とかが鮮明になってる ついに東武動物公園駅の再開発が本格的に始まったんだってね
いつまで放置しておけまいし、活気づくのは結構
昔杉戸に住んでたので、面影が薄れるのは複雑ではあるがね >>7
てっきり玉ノ井の博物館に入るものとばかり思ってた…俺クルマ無いからバスで行くか… >>8
渋川から伊香保行くバスって結構本数あるのね 東上線100周年記念号に乗車していた。自分はそのうちの45年前の東上線から記憶にあるが、今日は
記念列車に乗車したあとは40年前に祖母と行った森林公園に行った。
当時の記憶は余り思い出せないが、祖母は2010年100歳まで生きた。 100周年おめでとうございます。
ありがとう東武東上線。 10ですが100周年の記念に成増駅で文名堂のカスレラを買った。
7300系 7800系電車を思い出して。 東上線90周年記念で8108Fがベージュとオレンジの塗装になって
ファンを驚かせてからもう10年か。早いね。8108Fがベージュと
オレンジの塗装に復刻された2004年は野田線で活躍していた
5070系が引退した年でもあった。 私の定番の東上線電車撮影ポイントはふみきりやがあった新河岸〜上福岡間。
73,78の急行 準急をよく撮影した。 >>13 懐かしいなあ、吊り掛け用いた名前だけ特急の「かまきた」や「さだみね」が走っていた。
東上線に特急が出たころ、塗色変更が始まったんではなかったかな。
1974年の鉄ピクで、東武と相鉄の塗色変更が写真入りで出ていたが、相鉄のレモンイエロー試験塗装の方がセンスあるなと感じた。 私にとって東急旧5000系は幼なじみ。京王2010系は恋人。
東武7800系7300系は年上のあこがれの女といってところか。
1981年に9001Fの試運転と並びに写真を撮った思い出とか若葉駅にある女子大の
文化祭に行った時も7800系7300系で行った。 >>18 老け専?
なら西武のクハ1411が、お奨め さすがに53とか32の現物に慣れ親しんでた層はこのスレには居ないか 俺もあの100周年記念列車81111F乗ってきた
このテのモノって撮ってナンボだと思っていたけど
ぼんやりと眺めた車窓の民家の窓ガラスに映る
セイジクリームの電車見たら、なんか遠い日の
幼い頃の思い出が甦ってきて、胸が熱くなってきちゃったよ
たまにはこういうのもイイね >>22
俺的にイロモノは人大杉で好まないのだけれどTVニュース映像を見て、
行かなくて失敗したとの思いが沸々とわいてきた。
ツートンのほうは東上線がATCになったらもう池袋口で見ることはできなくなるんですっけ? >>21
せいぜい昭和40年代前半までだから、いま還暦あたりの年代の人たちだろうね。
いないかな。 >>21 形式はよくわからないが、昭和48年夏、宇都宮線で53か32らしいのに乗ったことがある。
3000系に更新改造される直前かな。78よりも旧式で驚いた。小学校高学年の頃。
まあ、32とかの現物で通勤していた人たちは、最早、還暦だろうな。 78の時は何とも思わなんだのに
5000系列は車体の新しさ故か
単に乗り心地の悪いうるさい電車としか感じなかった >>23 ATC化したら多分無理だろうね
>>21 そういえば小学校入学前だから昭和40年代に
新型と旧型が繋がって走ってるのを見た記憶がある。
81111Fに貼ってあったモハユ+3000系かもしれない?
大山はまだ踏切が手動で、ときわ台には構内踏切があって
SLが展示してあった頃。 >>27 小学校の頃、ときわ台から乗ってたが構内踏切の記憶はない。中板橋寄りに地下道があった。
各停の8両編成化で大山問題が生じたっけ。40年代後半のことだが。 俺、大山のGM本店に池袋から7300系で行くのが小学生の頃大好きだった、
木の床板で必ず6+4編成の連結面のすぐ後ろの座席に座って73のお顔と車窓を見るのが
もう木の床板の車両が東武鉄道では味わえなくなって残念だ、
8111Fも不燃対策のリノリュー厶床だしなあ。 大山のグリーンマックスというと、赤くて大きな矢印の踏切を思い出す 東上線でまだ3000系が走っていた頃、日中池袋発で準急越生行きなんてのに乗ったことがある。
森林公園がまだ無い頃で、夕方になると優等列車の行先が、寄居、小川町、東松山、坂戸町、川越市
と言う位に多彩だった。 >>21
野田線で最末期の3扉改造5310系に乗った記憶はある。
3000系と違ってドア開閉の音が静かで好きだった。 ツートンカラーだった頃の8000系には、車内に鏡がついていたな。 >>33
「特別機動捜査隊」ってよく東上線沿線でロケやってたような気がする。
電車の音って本物の音じゃなく、効果音被せてるからどの電車も同じ音、しかも
みんな吊り掛けの音だったりするよね。 >>33
今は他の場所に移されたようですが、東上線ときわ台駅の上り線脇に小型のSLが
展示してあったのを覚えています。 >>21
オイラがまだ5歳未満の頃だったか、池袋からの各停でトルペード型のドア表示灯つけた車両に乗ったことある。
室内も青塗りで小さな窓が並んでいたような。 昭和46年頃、野田線春日部駅から大宮駅まで2ドア2連のロングシートの
車両に乗った。 東上線にも昭和40年代初頭まで、3扉の旧型が走っているのを
中板橋で見たことがある。 さすがに32型は見た事がない、ツートンはかすかに記憶があるが。
何より俺の時代は冷房車が来ると「ラッキー!」だった。 72年生まれの俺だけどベージュとオレンジのツートンを
見た記憶はかすかにあるよ。 >>46
オイラもS45年頃赤い荷電見た。
新鹿沼の中線に停まっていてのを
構内通路横断中に見上げた。
当時は跨線橋が無かったらしい。 70年以降でも、越生線に3000系いたな。
8000そっくりの正面なんだけど、3扉で吊り掛け駆動にガキながら興味津々だった。 東上線の3000系配置表見ると
昭和44年 4R×3 2R×4の20両
昭和47年 4R×2 2R×3の14両
意外と少なかったんですね
ところで東武ファンのジジィの皆さんに質問です
誠文堂新光社の私鉄ガイドブック(古い方)の3000系の頁
川越区で撮影されたクハ3600に幌が付いてません
なぜでしょう? アコモ釣り掛けは車内で会話が不可能なくらいやかましかった
今となっては懐かしい >>49
当時の川越電車区の配線の関係から6両編成は池袋方に付属編成を連結していて
4Rの寄居方クハ3600は常に先頭のため幌が無かった。
8000系のクハ8400も同様。 セイジクリーム色の頃の東上線8000系は、
車内清掃がほとんどなされていなかったようで、
いつも緑色の床が真っ黒に汚れていた。 本線から回ってきた5000はもっと汚かったように思う。 東上線の8000はドア開閉速度が速くてガラガラいってた 昭和40年代初頭まで、7800や7300といった旧型の客室の内装の色は、
淡緑色だったような記憶がある。 >>51
私も最初上り方増結が理由かなと思ったのですがおかしいところがあります
3000系中間車が登場したのが昭和44年
撮影された昭和42年には2連しかありません
6連組むには2連×3のブツ6編成になります
2連ばかりで基本・付属編成を分ける運用を行うでしょうか
幌無しがたまたま写されたイレギュラーでなかったら考えられる理由として
6両固定編成として使用して不要の幌を撤去する
逆に旧型車との混結を前提として幌を使用しない 位でしょうか
この場合は3000系同士の連結では貫通できない事になりますね >>55
森林公園の7800は晩年につり革変えられるまでS50年代も緑の革であった。 >>55
昭和40年代初頭の時点では
新製から10数年しか年しか経っていない7800に対して旧型とは失礼な言い様だな
7300に至っては車体更新から数年しか経っていないものもあったのに
…スペック的には当時としても十分に旧型だったのは認めるがw
せめて7300は2000ベースの車体で更新できなかったものなのか >>58
東武は昭和30年代以降突然編成美にこだわるようになった。 10000から10030の時代になって、本線ではあまりこだわらなくなったけど
10000の8コテの増結用に10000の2コテを持ってくるくらい、東上では
編成美を追究する伝統が残っているんだよな。
清掃が雑な伝統もまだ残ってるけど 近鉄、名鉄、小田急「編成美?なにそれ美味しいの?」 >>60
8連に2両組み込んだ時も古い仕様に合わせたんだよな ただ、7870になって連結面に広幅貫通路使うという進化もある。
融通性が失われても固定編成内で完結するからこその変化だろうか。 でも、寒い北関東を走るのに広幅貫通路ってどうなんだろうか、発車時に風が吹き抜けて
寒いんだよね。
現に10000系から狭幅貫通路に戻ったし。 更新前の快速用6000は冷房こそ無かったが
座り心地の良いシートだった >>60>>62 拘ってなければ、昭和39年になってまで
あんな車体作らないわな 73型 昨日の夜、何気なくBSフジ見てたら
1720系やってた >>56
慶應義塾大学鉄研発行の私鉄ガイドブックシリーズ1「東武・東急・営団」にも川越区のクハ3600に幌がない写真がある(同じ写真?)。
貴殿の想定通り、恐らく当時は旧型車と混結が前提でかつ3000は寄居方についてる写真が多いので幌がないのでは。
この前出たアーカイブスのP134とか。 >>60 同形式の2両固定持ってこられるならば、それで統一した方がメンテナンスの都合上、便利ということなんでは? いわば旧矢板線をトレース運行していた地元バス会社、
廃止届けの翌日にいきなり運休で現地が大混乱ですって 昭和40年代の東武日光線上りダイヤをみたら、朝の通勤快速が走る前後の各駅停車が40分ぐらい開いていたなあ〜
幸手から南は始発便もあり賑やかだが。
今からでは想像出来ん 最近書き込み無いな
昔の東武を知る人間がいなくなってきたということか・・・ 東上線百周年、見に行かないと。
目新しいのと言ったら、渋川までの路線計画図位か? 一昔前の配線図を展示してほしいね
鬼怒川・矢板線の時はそれをやったから涙モノだったよ 6300型から7300型に更新する時って既に8000系出てたじゃん?
なんでナナハチのボディじゃなくて8000のボディ使わなかったの? 78と混ぜて使うつもりだったからでは?
10030系登場後に増結した118xxの中間車を10000系車体で作ったように。 >>82 7300系の車体更新は1959年から64年までの5年間にかけて実施。8000系の最初の編成が竣工したのは63年10月。
最終年度だけ8000系のボディで車体更新する場合の設計変更の手間を考えると、7800系のボディで更新した方が時間がかからない。
当時、どこの私鉄も車両不足だったからね。国鉄だって、103系登場後に製造された101系が存在するし。 >>84 んでもって、10000が出た後に8000車体で5070に更新
歴史は繰り返すっと
でも5070のラストグループの車内は10000準拠だったね あ〜あ、もういっぺんでいいから7820型の準急、乗りたい・・・・ 7800系で4種類もの試験塗装をして比較検討したのに比べると、セージクリームにしたときは安直な決定であるように感じた。
川越市にセージクリーム新塗装の8000系が留置されていたのを見て、これは下塗りだなと思ってたら、どんどん色が変わっていったので驚いた。
同時期に塗装の比較検討やってた相鉄のように、裾の辺りにワンポイントあれば、もっと見栄えがしたのに、と思ったりする。 >>87
セイジクリーム塗装の頃だと、塗装の代わりにテープ貼る、って発想がなかったからな。
ワンポイントでも、ペンキ塗りの工程が2つに増えるのは変わりない。
塗装工程の合理化がクリーム色の最大の目的だった。 >>88 JRの119系でスカイブルーの地に塩ビ製の白帯テープを貼ってたが、テープがはがされることが頻発してた。
その当時の技術では、テープだと長期間持たず、かえって見苦しくなってしまったのでは?
確かに、塗装工程の簡略化を図ったものだね。 しかし一色塗りなら一色塗りで、あそこまで空気な
色にしなくても良かったのにと、は思う。
薄い青、緑、橙あたりで。 クリーム色から白地に青と水色の帯になった頃、常磐線も白地に青帯になったから
同じ色合いで物足りなかったな
常磐線は小豆色(赤電)でインパクトがあったから共にがっかりした セージクリーム塗装だが、7800系には割と似合っているんだな。
2000系や8000系といった、凹凸の少ないのっぺりした車体だと、なんとなく間の抜けた感じがするというわけで。
好みによるだろうけど。西武のレモンイエロー一色だが、前面腰部にステンレスが貼られているようなスタイルだったら、もう少しインパクトがあったのかもしれないが、まあ、これは冗談として。 塗装工程は時間がかかるんだよ。
他社もそうだが、昭和40年代に入り絶対的に車両数が増大した。
これ等車両を年間計画で定期入場させなくてはいけない。
設備や要員も長期的に計画を立てなければ増強、増員はできない。
その辺が政治クリーム導入の経緯では?
ならステンやアルミにするのでは?・・・の意見もあるかも知れんが、あの会社保守的だからな?
汎用通勤車は、システム統一を嗜好するので技術革新の激しい要素(ステン、オールステン、アルミ)には、量産体制を確立しコストがある程度下がらない限り静観の姿勢だし・・・
整備側の組合問題もあったのかも知れない? >>91
北千住では千代田線に小田急車が入って来るから
白地に青帯だらけで素人目にはわけわかめだったろうな >>93
一色塗りはいいとしても、何でセージクリーム(つーか世間一般では肌色)なのかという疑問が…。
やっぱ嘉一郎(II)社長の趣味? なんでクリーム一色がこんなに評判悪いんだろ。あれでも自分にとっちゃ一番馴染みのある懐かしい色だ。 けごん237号の前身になると思うが、平成初期頃に毎週金曜日運転の
急行きりふり、新栃木行って途中停車駅が栃木のみだったけど、どうして
春日部を通過にしたの?
その後、毎日運転される事となる、きりふり新栃木行の試験的な運行の為?
それとも宇都宮線利用者に的を絞ったライナ−的な列車だから??
教えてください。 >>98
その前に6050の快速急行“だいや”で栃木のみ停車のやつがあったんだが。 単色塗りはオイルショックも影響してたんだろうな
物心付いた時はまだ2色塗りだったけど、俺もセイジクリームは嫌いじゃない。 名鉄も東武に少し遅れて赤一色の塗装にしているし・・手間を省きたかったんだろう >>96
一説にはアジ電対策と聞いたことがあるが。
水溶き石灰でスローガンを書いても映えないから書かなくなるだろう…、書いても目立たなくなるだろう…ってことかな? 大手私鉄でアジ電ってなかったような・・電車という商品にアジを書くのは何ごとかというのが、私鉄の感覚。
そうでなかったのが国鉄。ジョークとしては面白いが 昔、東武はミニ国鉄なんて言われてた位だからな〜
組合も強かったし。 >>102
白地にしたら炭で書かれて終了のような気もするが。 東上線の百年見てきた。円良田湖釣り客輸送の東上線内「夜行」や、武蔵嵐山を夜に立って日光に早朝に着く夜行など、今では考えもつかないような臨時があったのには驚いた。
高速道路はない、川越街道の和光から新座までの新道もない、マイカーはまだ高根の花という昭和30年前後だから、電車で移動するしかなかったのだろうけど。
40年代後半から50年代前半の頃の写真、記事が少ない。この時期が東上線が鉄道趣味の面からすると、最もつまらなかった時期であるからだろうけど。
下板橋の蒸気はないし、20mの通勤車ばかりだったからね。 東上スレにも書かれていたけど昭和の終り頃まで夏場、ホームの端に女の子(JK.Dくらい)が折たたみ椅子に座っていて、電車が到着した時にウテシにおしぼりを差しだしてたけど、あれは伊勢崎線系でもやってたの? アジ電対策・・・この会社なら十分ありえるハナシだね。
おしぼりネーちゃん(何故に女子大生) これは、好からぬを連想した奴が相当絶対居た筈だ。 78の運転席の後ろに本線系統の路線図が掲示されてて、単線複線の別まで
書き分けてあったらしいんだけど、知ってる人いる? >>113 千住、会沢、大叶線も書いてあったし
。北千住〜竹ノ塚の複々線も書いてあったよ
あれと同じモノが、駅で配布してた「事業計画」の裏に
載ってたね
それで思い出したんだけど、東上線には
行楽電車時刻表っていうのもあったな。 >>113
それ6000のトイレの外側にもなかったか? >>114
路線図の話とは関係ないが、その展望席が空いてないときは連結面の席の窓
開けて真下のレールながめてた。8000や5000とちがって貫通路がせまいから
その分窓が広いんだよね。 その展望席、車内が混んでいないのに、非鉄の先客がいて居眠りなんかしてるとなぜかムカついたw
そのうち降りて展望席が空くだろと狙ってると、自分の降りる駅に着いちゃったりしてなw
伊勢崎線のA準急で78の展望席に座れるとラッキーだったなぁ。 >>118
連結面の窓開けて下覗いてたダチはブレーキシューの鉄粉が目に入って酷い目に遭った 78のブレーキシューはレジンじゃなかったからなぁ
下手なシャレじゃないが8000のレジンのブレーキ臭には萌える >>121
鋳鉄シューの「シャーッ」て音と飛び散る火花が刺激的だったね 3000系のブレーキシューは途中からレジンに代わったのかな?
セイジクリームになってカステラ化したのを見た記憶がない。 7865高運の運転席後ろどうなってたか思い出せない >>125
8000と同じく座席なしだとか。
助手席側は事故前のまま。 78の惰行運転時に振動にあわせて稼働してないコンプレッサがパコンパコン
聞こえるのがチープでよかった。 どうでもいい話だけど・・・ 78のコンプレッサー(D-3-FRだったかな)って走行時の振動でピストンが
シリンダ内で揺れるんだよね。その時の音だと思う。 1960年代初頭って東京西部の私鉄が通勤車一色になってレッドアローが出てくるまでどこの会社もロマンスカー入れなかったけど申し合わせでもあったのだろうか?
国鉄も中央線の高尾以西乗り入れ列車とたまの臨時列車を除くとそんな感じだし。
ハイキングとか遊園地とか今よりも相当鉄道輸送の比率が高かったはず。 戦後の復興と沿線人口の急増に対応する為の輸送力増強で、そんな余裕が無かっただけだろ。 そもそもロマンスカー入れるほどの距離も観光地も無かったですから。 京成にはその代わり空港がある。
過激派の焼き討ちに遭ったりしたけどw >>135
今の話してどうすんだよ?
>>136
遠いし、>>130の言うところの「ロマンスカー」と関係ないし そこへ行くと「りょうもう」は観光資源が少ないながらご用向きや商人相手に健闘しているよね。
休日は家族連れも多く、昔は目的地に着いたら帰りの急行券を買って置かないと1、2本待ちって言うこともざらだった
けど、多分今は違うんだろうけどね。小田急で言えば“さがみ”“はこね”近鉄で言えば“乙特”に相当する列車と
言うべきでしょうかね…。1800系の4連時代、桐生線ではホント特別な存在でしたよね…。 >>138 国鉄の急行、特急で行くには不便で、そこそこの中小都市が幾つもある地域という「隙間」需要が存在したからでは?
東上線沿線には、そのような条件の中小都市が少なかったということ。ろくな観光地もない。 新桐生21時台に上りりょうもう設定しろよ
桐生ナイター帰りの客がわんさか乗るぞ 温泉なくとも、JRの特急、急行で行くには時間がかかって不便な地域というニッチが存在したり、有名寺社と景勝地の巡回観光ができるような所では、特別料金付きの有料の列車を走らせる需要が存在する。
前者の例は「りょうもう」、後者は小田急の「えのしま」。
武州鉢形城が姫路城並みの本物の天守閣を有する城だったら、長瀞ライン下りと組み合わせて、犬山・日本ライン並みの周遊観光地になり、60年代初めから有料のロマンスカーが東上線に走り続けていたのかもしれないが・・
後北条が完敗したのが、そもそもの原因だろう・・ >>138
まだりょうもうが4連だったころ、群馬へ出張に行った親父が急行券もらって来てくれたよ ロクサンボディからの73更新の際、コンプレッサーはAK-3捨てたのかな? ループといえば
日光軌道の 東武駅前〜国鉄駅前〜東武駅前 >>146
蒸気機関車の時代までさかのぼればね。
ロクサン型は新車だったんだっけ。 >>146 戦災復旧省電を元国鉄車というかどうかだな・・普通、言わないけど >>146
一応国鉄ED40→日光軌道線ED600とか。あとは国鉄の借入機がSL ELともに何両かあるらしい。 戦後に大宮から乗り入れていた9600は借入機」だったんかな S60年代、上板橋の留置線に国鉄のレール運搬車がいたね。 3070系で通学してた時代があったんだが、開け放った窓からよくカメムシが飛び込んできて
大騒ぎしてた頃が最近妙に懐かしい 「東武博物館だより」9月号は東上線100周年特集だが、
それに載ってる西大家貨物線て国鉄八高線の高麗川駅まで繋がっていたんだな。
この路線を旅客線に昇格させていれば今頃ドル箱路線だったのにもったいなかったな。
他に根古屋貨物線、高坂貨物線も旅客線に昇格していれば良かったのに。 >>159 ドル箱?ジョークだろ
高麗川から坂戸まで、どの程度の旅客需要あるのかねえ? 東武和泉の側線跡もGoogleだと更地になってるね 写真で良ければ蒸機が貨車と電車崩れの混合牽いてるやつかな。 >>167 矢板線のさよなら運転とか?
550が3210をサンドイッチにした4両編成のように、昔はごった煮編成が結構あったようで。 更新前の32と更新3000の混結とか
8000にクヤ挟んだやつとか
ネット探せばまだありそうだけど 以前、どこかのHPで78×2+モニ+78×2が小菅〜五反野の高架線を怪走している写真をみたなぁ。
あと57×2+30×2+57×2もどこかのHPで見たなぁ。 広い意味でのカオスで考えればブツ10なんかは?
乗務員室の床面積合計が軽く客室面積1両分くらいいっちゃうんじゃない。 DRC+78は?
伝説の57が特急代走した時の
DRC踏切事故で西工に回送する際に走った 葛生の蒸機って東武の車籍だったの?
もしかして定期検査とか西新井委託? 今これが走ってたらしょっちゅう日光に行ってしまいそうだ 小学校の修学旅行で日光行ったけど、馬返にあったケーブルカーの廃駅見て何の施設だろう?と思ったものだ。 >>177
俺も小学校の修学旅行バスで日光だったけどガイドさんが廃止になったケーブルカーの跡だって説明してくれたよ 第二いろは坂は元々鉄道の予定だったという話も聞くけど、
実現してたら箱根登山なんて目じゃなかったよなぁ。 >>179
道路公団が鉄道建設する訳無いよ
国鉄の構想もなかったし
でも軌道線の専用軌道化、ケーブルの中禅寺湖延長が出来てたら劇的に変わってたかも知れんね
箱根登山は実際併用軌道を専用軌道にして、ケーブルカーの先にロープウェイ作ってるんだよな これ日光登山鉄道の計画線でしょ?明智平−中禅寺間に電気鉄道をうんぬんてやつ
日光軌道の改良とあわせて実現して盛況になってたら…と想像するとワクワクする
なお現実は >>180
道路公団とか国鉄がどうこうよりもっと昔の計画だよ。 >>182
つまり第二いろは坂とは全く関係ないわな 昔、3000系って停車の時に床下からパンパンパンパン…、停車直前にバチーン!と何かが折れる様な音がして驚いた…、
のは私だけか? >>181
いやそれとは別の戦後の話。
第一いろは坂と軌道+ケーブル+バスがパンクしだして、
今の第二いろは坂ルートを最初は軌道で計画したけど、
結局道路に変更されたという話だったはず。 >>119
1924年国鉄6200形6245〜6249→東武41〜45
1925年国鉄6236〜38、6242,6244→東武46〜50、
国鉄5541,5544,5549→東武54,55,56
1937年国鉄5531→東武59
1939年国鉄6253→東武60、国鉄5551→東武58
1940年国鉄6257,6260→東武62,61
1944年国鉄6251,6252→東武64,63 >>191
乙
でもぜんぶ国鉄じゃなくて鉄道省だけどね >>192
まあそれも含めて国鉄って事でいいじゃないか。 組織名称としての日本国有鉄道は戦後だが、形態としての国有鉄道は戦前からだしな 初期の8000系の車内にあった鏡。
冷房化の際に鏡を撤去したっけか? >>197
そんなのあったんだ。
貫通幌にマジックハンドみたいな金具が付いてた年式イコールかな? 8000の幌のマジックハンドとベロは平成まで残ってたよ
幌のマジックハンドとベロが最後まで残ったのは18型の格下げ車 8000系で幌にx字の金具つけて落成していたのは8181Fまで(2コテは判らん)
幌自体を内外で色分けしていたのも、白地幕もこの編成まで。 鉄ピク誌のニュースに「81107F塗装復元」ってあったけど、あの編成はセイジクリームで落成してるから厳密には「復元」じゃないよな なんというか更新顔にセイジクリームの似合わなさがガマンできない 来年は、634系を6000系の塗装にしてみたりして・・
1720系塗装のスペーシアが出てきたら・・? 今年6050の6000カラー運行がリアルにあるかも♪ >>210
6両編成すべて6000色ならまぁいいかもな。
でも6050は毎日組む相手がかわるだろ、変なまぜまぜ編成になっちゃうぞ。 2000系は……オールM時代、非常制動のあまりの効きの強さに
乗客全員将棋倒ししそうになって吃驚した思い出 パタッ、パタッパタッ、パタッパタッ、パタッ…、2000系 2000に関しては懐かしいと言うだけで思い出を美化しすぎなんじゃね?
加減速のショックは大きいし、夏は暑いし、雨の日は蒸れるは、北千住のダンパ線では後発の浅草行き普通に抜かれるはorz
あぁ、まだ78の方がマシだわw 2000は見た目・内装共に面白みが無かったなあ。
78はモーターの唸り、木の床、白熱灯と渋さ満点で大好きだった。
らくだ色のシートが懐かしいね! 2000系の正面デザイン、改造前の1700系に比べて非常にダサく感じられるのは何故だろう。
正面扉が非常口だから幌がないのと、運転席の所に通風口がついているからかな?
1700系をセージクリーム一色に塗っても、あそこまでダサくならないと思えるのだが。 1700は京急1000顔?2000は阪急顔?
そこに差がつく何かがあるんかな? 2000の前面の窓やドアの寸法、1700とは異なっているのか?
画像比較したが、ほとんど同じように見える。屋根のRが異なるのかな?
2000の方が角ばっているような感じ。 来年以降、20000系も思い出の車両になって行くのか・・・・・・。 20000はまだ使えるから、短編成化してローカル運用に回すのでは?
8000の置き換えとして。東上線の小川町以北とか越生線に入ってこないかな・・? 2000の正面は、通風口があるので お岩さんみたいで何処か怖かった。 でも2000て地中からモグラがサングラスかけて地上に出てきたみたいなユーモアある顔してんじゃんw
地上はまぶしいからな、仕方ないべw 18メートル車はホームドア導入の足かせとなる厄介者の存在だから、
20000系シリーズはすべて東武から追い出してほしい。 20000は地方私鉄が一括購入し、車種統一して経費節減につながるような活用方法
がいんじゃね?
あぁ、でも両端Tcとか…、やりづれぇな。 03と言うライバルがいるからなあ
地方私鉄に売りさばけるかどうかも分からんのに 蒸し暑いが雨が降っているため窓を開けられない時は、8000系の非冷房車と2000系のどちらが涼しかったのだろう?
扇風機式の場合、室内の蒸し暑い空気をかき回しているだけだよね。2000系の場合、ダクト付きのファンデリアだが、ダクトから空気を取り込んで強制送風機で車内に放出する方式だから、その方が涼しくなるように思えるのだが 暑い時期ならベンチレーター開けるだろうから同じようなもんだろ >>218
当時は減速時にモーター音がする車両が少なかったから、高速からの電制で悲鳴のような音を立てるのが印象に残っているよ。
美化はしていないけどお気に入りではあった。模型も作ったしな。鉄コレじゃないぞ。 上野の曲がったホームの隙間から熱風が噴き出すのは2000系だっけ? >>230 8000のほうがマシ
2000は地下対策で窓の開口部が小さい上に
電制つきだから減速時も抵抗熱がハンパなかった
頭上のファンデリア(?)は音のわりには
殆ど効いてないような感じだったなぁ。 東武2000はファンデリアだけだったけど、営団3000は扇風機のもあり、一編成で直接比較できた
結果は扇風機の方が暑かった
東武の運転士の中には加熱が激しい電気制動を嫌ってか、電気制動解除、空気ブレーキだけで停める人が居た
さらに腕自慢は自動ブレーキで停める人も
2000系のブレーキ弁は直通帯の後に自動ブレーキ帯があった
減速時に「ヒューン」と音がしないと、電制切ってるな、とわかったものだ 鉄板焼電車は103系1000番台と双璧だな、配線を焼いた103系と車体まで焼いた2000系。 でも103系のようなガサツさ、お下品さというか?そんなんはなかったよな。 >>237 幼い頃、地下鉄が火事になったというニュースを見て、地下鉄怖いと思った。
それから間もなく、親に連れられて丸ノ内線に乗ったときは、ホームで泣いて嫌がった。
しかし、乗ってみたらなんてことはない。むしろ、地下鉄が好きになった。
燃えたのは2000系だったのか、今になってわかった。 >>242
ドア5箇所も要らないだろ。
そのドアを埋めて座席置く改造のカネ考えたら、3ドアの車両買った方が。
20000系列だけじゃなくて、03も使い道がなくなる。
日本中の地方私鉄が20000と03の3ドア車に置き換えてもまだ余るんじゃないか? 真夏の営団3000で客室側の乗務員扉開けっ放しで運転する東武運転士見たことあるよ
よっぽど暑かったんだろうね
カーテンはしっかり降ろしてたけどね
8000系の冷改は若い番号から順番にが原則だったけど
8107Fの冷改は6連なのに随分後回しにされたし
東上線で2連4連の冷改車なんて数えるほどしかいなかった
本線の8000系は随分冷改が進んでいるなと
東上住民の自分がちょっとジェラシーを感じた昭和53年の夏 東武の運転士が営団3000で前面の貫通扉を開けて運転しているのは、
何度も見たことがあるな。
何故か自社の3000や2000でやってるのは見たことが無い。
ああいうのが普通に見られる会社だから何とも思わなかったけど、
今にして思えばフリーダムな時代だったんだな。 >>244
クーラーキセの形状が8111・13Fとそれ以外で異なってるので、この2本が後で冷房改造されたと思われる。
また、8179・81Fの投入で8170〜72Fを本線に召上げられたのは当時釈然としなかったものだw 東武越生線の吊り掛け
大好きだったなぁ
ゴーゴーいってて気持ちよかった 73・78も味わい深かったけど存在感があったのは非冷房5000系ですね
駅で待っててこれが来ると「うわー来たー!」って感じ
当時東上線は列車無線未整備だったけど本線さがりの5000系には
無線アンテナが付いていたのがちょっとカッコ良かった
鉄粉まみれの車体は同じ顔が並んでいてもこれ5000系ってすぐわかった
冷房付けてもらって綺麗になって戻ってきた時はこれが同じ5000系かと信じられなかった
車番も切り抜き文字に変わり東上線で側面表字幕が付いた鋼製車は初めてだった
8000系の種別表示はまだ前サボを使っていたので自動表字幕の5000系が優等運用に就いたら
表示方法はどうするんだろうと心配したけど結局池袋口に来ることがなかったのは残念だった >>248
5000系は床に台車と床下機器へのハッチみたいのがあったね
宇都宮線で乗ったのはいつ頃までだったろう
野田線の方が先になくなったかな >>248 非冷房時代の東上5000って、1が白幕、2が青幕だったな。
時々8両に組まれる時があったけど、その時は必ず4-2-2だった。 >>248
5000系冷房改造後も車番はペンキ書のはずだが。
>>250
クハ5602だけが青幕。 >>251冷改で切り抜き文字張り付け、
新塗装化で即撤去 僅か数年 >>250 方向幕
5102Fが青地白ヌキ文字
5101F・5501F・5502Fは白地黒文字だったね
この8両は本線からの転属組みだから転配時の幕交換で
古いストック品を付けさせられたと想像
更新は昭和54年度だったけど幌はジャバラ式が付いていたし
とてもチープ感ある車両だった ムック本買って来た
フラワーさん対談ツッコミ不足で答えもお茶を濁した感じ
新たな知見としてはときわ台の宅地開発は貨物ヤードを予定してたけど変更して転用した事でしょうか
時期と場所を考えると幻の西板線計画の一部ではと想像します
西板線の路線図を見ると東上線側の分岐点は上板橋
緩やかに分岐してときわ台手前で別れて環七沿いに至る計画
ちょうど今の住宅街の中を通る感じになります
西板線の免許失効が昭和7年ときわ台開業が昭和10年なので時期も矛盾しません
西板線計画での東上線側の予定(投資)は皆無と思ってただけに
計画が実現してときわ台横に広大なヤードが有る世界を想像するとちょっとワクワクしてしまいます >>254 その場合、下板橋の操車場はどうなるんだろうな。
2つも貨物ヤードが必要だったのだろうか?ときわ台付近に環状7号線が開通するのは戦後になってからだし、下板橋で十分捌けるのでは?
啓志線造って、群馬県太田の中島飛行機工場から成増飛行場まで航空機の部品を輸送するなど、軍需輸送用ということであれば意味があったのかもしれないが。 下板は国鉄との継送に必要なんじゃないかな。
常盤台増設で余力が出来るなら、車両基地としての機能を
増強するとかはあったかも知れない。 ☆☆☆☆☆
☆ 自民党、グッジョブですわ。 ☆
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆ 常盤台の件は西板線についてのページが用意されてると思ったら
ときわ台駅の説明でちょっと書いてある程度であったでござる 昼のテレビに冷蔵出てたな
冷蔵本を初めて買ったのは昭和の終わりの頃だったか
「東武は田舎電車のイメージがあるが技術的には先見性がある」なんて
東武ファンを感涙させる様な事書いてあって
危なく信者になるとこだった >>260
最新技術大好きなんだけど、あまりに新しすぎる技術を採用して結局失敗に終わって
その後旧来の技術からなかなか抜けなくなる、ってパターンなのが東武。
直角カルダンで失敗して延々78を作り続けたときもあったし、近年なら20050と9050の
次駅案内表示のLCDで懲りて、他社でLCDが一般化してもLEDのままだったし。 >>260
まぁ後年ボロの象徴のように言われた東武型電車だって、
昭和初期にあれだけの長距離電車網を築いたのは
相当に革新的な事だからね。
>>261
優等車両や小ロット品は積極的に新技術を入れるけど、
物量が馬鹿にならない汎用車はこけられないので、
保守的になる傾向が強いやね。
おまけに最近までひたすら右肩上がりの時代が続いたから、
なかなか古い物を捨てられなかったし。 >>262 それでも8000で超多段バーニャ制御採用したりしてる 『鉄道伝説』
第13回「東武1720系デラックスロマンスカー 〜「こだま級」を超えろ〜」
2015年4月19日(日)25:30〜26:00
今回は「東武1720系デラックスロマンスカー」の伝説を紹介する。
昭和4年から長年に渡って国鉄と日光観光の旅客獲得競争を繰り広げてきた東武鉄道。
昭和30年代初頭に国鉄が画期的な特急電車車輛を開発中との情報(151系)を得た同社では危機感から新型特急車輛を開発する。
開発にあたっては周囲の無理解や意思決定の遅さからチームは8ヶ月という短期間での作業を余儀なくされ、
想定される国鉄の新車両に対抗するために速度性能と居住性快適性は最優先事項、設計士は辞表を胸に突貫で設計した。
こうして出来た1720系は昭和35年にデラックスロマンスカーとして運行開始、以降30年以上に渡って東武の最上級電車として君臨する。
http://www.bsfuji.tv/top/pub/tetsudo_densetsu.html >>263
バーニア制御は副抵抗器入れてノッチの段数を細かくするだけだから
金はかかっても、こける心配のあるようなものじゃないもの
営団3000系で現場もどんなものか知ってたし
ちなみに超多段バーニア制御って言い方するけど営団3000系は力行77段制動67段で
8000系は力行のみ55段だから別にバーニア制御では普通の段数 ガキのころ油臭い木製床でゴロゴロ走るツリカケ電車に館林から乗り、1時間以上かけて
北千住に着くと、ほどなくホームの向かいに銀色ピカピカの営団3000系が入ってくる。
乗りこむとすぐ発車、超多段バーに屋制御(そんなん最近知ったわけだが)のぬるぬるっと
滑らかな加速と、ひゅうううううーーーーーーーんという、どこまでも上がっていくモーター音に
感動したものだ。東京ってすげーなー >>266
でも、銀色ピカピカの営団3000系とほぼ同時期に新製された木製床のツリカケ車が存在する東武。
(営団3000系1次車と東武7870形最終増備車はともに昭和36年製です。) >>267
73の更新でその後さらに数年に渡って半鋼車体作ってた 「伊勢崎線」この名称が懐かしい。そういえば、本当に過去存在した某私鉄の廃止駅の名前が
「伊勢物語」の主人公からとっているのは、偶然か。 >>271
昨日、通勤手当を申請する新入社員が書類の利用路線の欄に「スカイツリーライン」て書いてたっけ。
七里から来てる入社2年目の娘は「アーバンパークライン」て言ってたから、俺も会話では野田線って言わない。
若い衆に合わせて媚びへつらう訳ではないけど、マイウェイを熱唱し時世に逆らう昭和のジジイとか思われても
得する事はないが、別に損する事もないのかなぁと…。 >>272 ゆとり世代だからなんでは? まあ、武蔵浦和から赤羽までは「東北本線」が正式だろ!という気はないけど。 そう言えば東武沿線の不動産広告で日比谷線松原団地徒歩○分なんて言うのを思い出した。
東武伊勢崎線なんてあったら浅草に行く木の床の暗い電車ってイメージだし、松原団地が上野や銀座に一本で行ける
なんて容易に想像すらできないしな。 >>275 「浅草から下町のゴミゴミした所を抜けて田舎に行く電車」というイメージか?
東上線も板橋区内は下町のような感じだし、成増過ぎると大根畑のど真ん中というイメージだったが、ターミナルの池袋は浅草に比べて「活気がある」というイメージだった。 >>267、270 昭和31年に1700が出るが、それを20m片開き4ドア化した全金属製車体(2000の20m版というべきか)+吊かけというような車両を昭和30年代前半に造らなかったのは何故なんだろうな
5700の経験で足回りについて保守的だったということはわかるが、昭和34年には西武が国鉄101系に似た車体で451系を出しているんだし、ノーシル・ノーヘッダーの全金属車体にさっさと切り替えなかったのかな?と思うんだが。
8000で高運転台化しているが、中途半端に全金属製車体の20m通勤車を出すよりも、高運転台の効果も検証した上で画期的な新型車を導入したいという考え方だったからか? >>277
東武は昭和30年代以降急に編成美に拘るようになったのさ、それまでのごった煮編成の
反動とも言えるが。 とは言っても、10000+10030なんて編成を組むんだよな。
過去にはこれに30000が混じることまで。
10000の編成美を追究したのは東上線だわな。
8→10連の増結車、中間車を同一仕様で作ったり、本線からわざわざ10000の2コテを
持ってこさせたり。
>>275
東武東上線・東京メトロ有楽町線・副都心線・東急東横線朝霞台駅下車徒歩○分
って広告に表示した、朝霞台に本社がある不動産屋もあるから驚くには値しない。
そこまで書くならみなとみらい線も入れろよ。
さすがに最近はそんな表示をしなくなったようだが。 >>279
同じ大手でも近鉄、名鉄になると「編成美?何それおいしいの?」状態だからなぁw 東武を甘く見てはいけない。東武は編成美を追求するあまり、73型の更新車体は昭和39年まで78型と同じ半鋼製車体で造りつづけてた会社だ。 >>280
名鉄は昔に比べたらかなり改善されたね。
金欠は特急といい阪神直通といい相変わらずだが。 1800を6輌編成にする時も、クーラー室外機はAU12類似のキノコ型にこだわったね。 ところが台車が変わったからか、後から入れた2両は車体裾が少し高かった 地平時代の越谷、跨線橋の壁板を蹴る馬鹿者がいて穴が開き塞いでもまた開いたりとボロボロだったが、高架化後は見違えるように綺麗になった
あの馬鹿が綺麗な駅を壊すのではと内心不安だったが、ぱったりと見かけなくなってしまった…割れ窓理論というやつで駅が綺麗になると壊す輩もいなくなるのかもしれぬ 館林ローカルだった3050形のマスコンってどんな形でした?
MC1でしたか? それとも3000みたいなデッカー形? 昔の特急・急行が下り全て北千住通過ってことだろ
イマドキのナウなヤングは知らないのか・・・ 京成もスカイライナーは上りだけ日暮里停車し下りは上野からしか乗せなかったな 北千住から浅草まで特急券、急行券なしで乗るやつが必ずいたw
車掌に見つかってカネとられるのを楽しみにしてたが、とうとう見られなかったw >>293
東武の特改は過去レス曰く鬼と言われる位きっちり徴収していたみたいなので意外 特改は特急、急行に乗るか?
準急、快速専門でしょ? 特改はオバハン要員がよくトブコ〜館林で検札やってたな
伊勢崎や佐野で両毛線に抜けられたり館林以北の無人駅にキセル降車阻止のためらしい
元バスガール、バスがワソマソ化して余ったバス車掌の雇用対策と聞いたことがある
北千住の臨時特改もオバハン要員だったな 館林以北は集札もガチだったね。館林から小泉線周りで太田で降りた時、下りの急行りょうもうの到着の後だったのか、
呼び止められて「何で来た?急行券は?」見たいなことを聞かれたが、
「館林から小泉線に乗ってきた」で無罪放免と相成った。
りょうもうは館林以北、チョイ乗りで好きな席に座ってる軽装の人がよくいて「コイツら急行券なしでいいんかよ?」
なんて不公平感を覚えたが、館林以北って集札がガッチリしているんだとあらためて知った。 >>277 昭和30年代 東武は近鉄なんかと違い(とくに大量に作る事が予想される通勤車)過渡期のクルマや
マイナーチェンジを繰り返して車種体系を複雑にすることを避けたかったのかもね。
元々保守的な気風の強い会社だから技術革新の速さに追いつかず、落ち着くまで様子見(他社に開発コストを使わせる?)していたのかも知れないが・・・。 なのに11480Fとか思い切ったよな
北海道の一部785よろしく一時期は徹底放置だったが VVVFの量産車をスペーシアにしたのはやはり東武らしいよな。
新技術大好きなところもあるし、保守的なところもあるし。
あまり数作らない特急車に最新技術を入れて、失敗して旧来の機器に総取り替えに
なったときのリスクを減らしたんだろうか。 たまたまそういう時期に当たったからそうなってるだけじゃないの 一時期デッカーからVVVFまで制御方式の歴史博覧会みたいな状態だったよな。 俺的には板張り床や3000が生きてた80年代前半だな 1980年代、佐野線の電車にも冷房がついて、やっとまともな電車になったとうれしかった。
しかしあの揺れ、振動、音、ひどい乗り心地は、「まともな」電車ではなかったわけで、
その理由は最近になるまで知らなかった。 3000代は特に整備悪かったからな。
フラット凄くて動き出すとゴロンゴロン・・・
ツリカケの音が聞こえないくらい やるかやらないかは自由!!
超本命で暇なときに遊んでみて
何となくやってみたらウハウハですた↑
□をsに変換、※を削除する
□nn2ch.n※et/s12/83arisa.jpg 宇都宮線で足回りからバキンゴキンと異音とショック振りまいて走ってた
乗客が大丈夫なのコレ?という顔をするレベルだった 日光線の3070系以外の3000系は基礎ブレーキにレジンシューを使用していたがどうもこれが
フラットの原因らしい。
要は効きすぎてフラットが出来てしまうと。 >>191
そのうちの1両が品川の公園にあるんでしたっけ? >>296
快速のトブコ〜大平間(板倉開業前)もすごかったな
>>297
×見たい
○みたい >>312
この時期が唯一、表定速度が80キロを超えていた 保育社カラーブックスにも載ってたね
金欠名阪ノンストップ(85km/h)に次ぐ速さって。 上白石の読みって、「しらいし」「しろいし」のどちらでしたっけ? >>315
「かみしらいし」
ソースは東武鉄道百年史(二冊組の薄い方)の205ページ 最近出た「国鉄・JR 悲運の特急・急行列車」でJR西日本で
走っていた急行つやまの晩年のぼったくりぶりの事が書かれていたが
1991年まで走っていた快速急行「だいや」「おじか」もある意味
ぼったくり列車だろうな・・・・・・。 7800系の台車ってエアサスに改造できそうな形しているけど、
2代目西武501系の改造エアサス台車は乗り心地良かった。 ツリカケと一口に言っても、7800と5050では乗り心地がぜんぜん違っていた記憶
ガランガランとフラットけたたましい5050は、ジョイントの衝撃も大きかったし、駆動時の音や振動も
すごかった。 あれはイコライザの所為だったのかな
本線の車両はもうちょっとましだった ピューーーーイッ ぷしゅーー ドン
ガクンキコッ ジャルン ジャルン ジャルン ジャルン ジャルンジャルン・・・・ 子供の頃東上線乗って池袋行くとき進行方向右側に座るか左側にするかで悩んだものだ。
右側だと下板の留置線で並んでいる車両が見れる。
左側は北イケで国電見れるし赤羽線との並走も楽しめた。
帰りは逆に必ず右側に座った。
下板の配線が今と違って留置線を抱え込む形だったから右側だと両方楽しめたからね。
上下線が並ぶ形に改修されたのは昭和50年頃だったかな?
新しく敷かれた本線はロングレールが使われてそこだけ乗り心地が良くなったのを覚えている。 下板の留置線って上下線の間にあったのか。知らんかった。 >>328
大手私鉄の本線でターミナルのちょっと先なのにローカル風な配線だよね
東上線独自の施策って合理的だったかもしれないけどイメージが良くなる事は全然無かった気がする
矢印式の行先表示や種別板とかドアーにご注意くださいシールとか
ドアの閉まるスピード速くしようなんて普通思いつかないよな >>330
種別板は当時は普通だったじゃん
幕の方が異端
西武も井の頭線も東急も京急も板だったじゃん 俺の記憶だと70年代に幕オンリーの関東私鉄はABF全廃後の小田急くらいしか覚えがないな 不思議なのは本線が使った種別幕を東上線では使わなかった事。
8000系が就役した昭和38年当時、東上線では引っ掛け式の種別板を使ってたはず。
引っ掛ける所が無い8000系が来て、サボ受けに合った種別板をわざわざ作って、便利だから(ひっくり返せば各駅停車になる)それまで付いて無かった旧型車にもサボ受けを取り付けたという流れでしょうか。
東上線で種別幕を使わなかったのは組合対策という話もあるし謎なところです。 幕の話はピク誌の何年か前の東武特集でやってたような 東上の場合は幕を変えるのが池袋の駅員だけだったって話か。
電動幕になってからも。 そういえば東武3000系・3050系・3070系の釣りかけモーター、
ケンタッキーフライドチキンで「チキン吊り掛けサンド」に、
ミスタードーナツで「吊り掛けパイ」に、
ロッテリアで「吊り掛けてりやきバーガー」「吊り掛けリブサンド」にされちまったよな 今年の6月末新宿西口の地下の古本市で1967年頃の鉄道ファンを
買った。表紙をめくると東武のDRCの広告が載っていた。
その広告には「特急券のいらない快速列車も毎時運転」と言う
文字もあった。前にも書いたが快速をないがしろにしている感じの
今の東武じゃ考えられない広告だな、と思った。もっとも快速に対しては
「特別料金のいらない・・・・・・」と表記すべきだったと思うが。
それにしてもDRCの説明文で
「美しいスチュワーデスがご案内いたします。」ってな物があったが
本当に美しかったのかw DRC時代の特急は一部をのぞいて浅草→下今市までノンストップ
特急と快速には設備以上に大きな差があった
日光線の優等がダメになったのは停車駅を増やしすぎたから >>341
いやいや「停車駅が増えたから乗るのはやめましょう」と言うことではないでしょう。
それともカリスマ性を失ったと言うことでしょうか? 外国人観光客向けの日光のツアー、昔は東武特急で日光まで行って
現地では観光バスで巡るパターンだったんだけど、今は都内から
バスで直接運んじゃう。
団体さんがいなくなったことでその分の客を沿線民に求めた結果が
停車駅だらけの今の惨状になったのかと >>339
求人広告に容姿端麗な方とかけた時代ですね 昔の東上線池袋駅の番線表示が国鉄線からの続番だったのを知っているのは
40代のおっさん世代?(30代後半でギリかな?) >>344 名鉄と同様、大都市から観光地まで中途半端に近く、高速道路があまり混雑しないから。
JRの房総特急も同様。小田急があれだけ有料特急運転できるのは、東名高速道路の渋滞が多いから。 小田急の有料特急って急行の混雑を避けて優雅にお買い物ってイメージだけどなあ。 >>346
埼京線のホームが出来て番号ずらした時だろ?
30年前だからそんなもんじゃね? 小田急は座席の稼働率を上げるためでしょ、だって平日昼間の特急が一時間に三本なんて
供給過剰だもん。 なぜ電機の運転士と電車の運転士はすれ違いの時に互いに敬礼をしなかったのだろうか…。
敬礼天国の東武にしては自分の中では未だに謎だ…。 >>351 電機は機関士 機関士は、運転士より連結解放、推進、入替とかありタイトな起動、制動操作を要求されるので
格上(職階的にも)そういうコトも理由なのでは?
または、職場(所属区)の違い 職階が上なので助役待遇?とか(非組合員だったとか?) でもね、昔三十年くらい前 東武でバイトしていた鉄学出の同僚が、東武の助役は、現業兵卒職員から糞扱いだったと・・
つまり敬われていなかかった。
例 そいつが、助役にお茶を入れて出そうとしたら 「バカじゃねー あんなクズに!」と・・・
そいつは、西武※でバイトしたこともあり、共に国鉄的な要素を持ちながら就労に関しては対照的だと呆れていた。
※西武は、労務対策は徹底していたが、意外にも合理化では酷く遅れている面もあった。
自動化札は確か昭和の末まで皆無 各駅殆ど(池袋、新宿線 各駅は、多摩川線や国分寺線の小駅は流石に・・? )駅長が居て
駅長室には堤康次郎の肖像写真が、小学校の校長室の歴代校長の写真の如く・・・
でその前で毎朝敬礼して朝礼・・・
西武は電機機関士は運転士より職階が上で運転士を経験しないとなれなかった。(但し SLとバッテリー機関車時代の山口線の担当地位は知らん!) 20年位前地元の古本屋で買った1976年夏頃の鉄道ジャーナルで
大手私鉄の特集が組まれてその中に関東大手私鉄のターミナルを
紹介した物もあった。東武の浅草駅を紹介する文面に
「(東武の)ストは回避されたためしが無く、通勤者地獄、
労働者天国の感あり!」と言う批判的な物があった。 でもまあ、長期ストを打ったり、電車に落書きしたり出来ない所が国鉄と違って民間企業の限界を感じるわな。 >>356
通勤車の政治クリーム色は、組合のスローガン落書き対策だったって本当?
白で書いても目立たないし。 しかし東武の二色塗り時代からしてアジ電なんて走ってたっけ?
記憶にないんだよな…。
1700や1800は暗黙の了解でスローガンの書き込みはしないにしろ、6000は書き込み対象にはなるよね?
けど6000は塗り替えしてないし…。
自分もセイジクリームはアジ電対策と思っていたけど、最近は都市伝説なんじゃね?とか思ったりする。 二色塗り分けが面倒だから、という会社上層部の判断によるものだったそうだが。
だから、相鉄のように塗装比較テストや社内アンケートを行わなかった。
塗装作業する組合員にとっても、その方がよかったのかもね。
この頃、名鉄も一般車含めて赤一色の塗装に変更しているし。少し遅れて西武も2000系から黄色一色に。 DRCのリフレッシュ工事は、最初はサロンルームを存置して行っていたんだな。
電話室が再設置型で、ドアが窓付きになっているのが更新車の証拠。
http://livedoor.blogimg.jp/tozaken5367/imgs/6/0/6084cfde.jpg さすがに国鉄と違って民間企業だからアジ電なんかやったら上が黙ってないだろう。 >>361
ジュークボックステラナツカシス(/_;) DRCと言えばジュークボックス付きのサロンルーム。
これが無きゃDRCとは言えん。そんな訳で俺は2004年
マイクロエースのNゲージでDRCに更新後の1700系と
引退直前の1720系が出た時迷わず1700系の方を買った。 >>364
ジュークボックスも的確に再現されてた? >>365
>>361の写真にある様な形のジュークボックスも再現されていた。 わたらせ渓谷の神戸の列車のレストラン清流がちゃんとDRCの色になってた DRCに乗った時は感動したな
近鉄ビスタカーに比肩するくらいのハイレベルなインテリア >>369 平成初期に全区間禁煙になったんじゃなかったっけ?
それ以前は車内の禁煙プレートが所属先毎に違っていた。 なつかしどころではない大昔のことではあるが、戦前の日光軌道の電動貨車の履歴がわけわからん
和久田康雄さんの本に出てるテト20と戦後もいたテト30は同じ車なんだろうか?
製造年がカブる・・・改番?車体更新でもしたか??
それぞれ6両と9両という両数の不一致は無認可か???はて????
ちょっとした考古学並みにナゾは深い・・・ 今日のブラタモリ
横断歩道の先に日光軌道の架線柱があったのにスルーだった タモリは、廃線跡興味ないのかね?(ちなみに中川礼二は興味ナシとのこと)
それとも純粋に無知? タモリには、東上線を馬鹿にした過去の歴史があるから、東武関連の話題はあえてスルーかも 福岡の時は廃線跡に反応してたような。
日光軌道線の電柱、俺は気づかなかった… >>360 日立製の7800グループ中の異端車7860系が新車時色見本やっているじゃん。
昭和30年代半ばから東武は通勤車の塗装に迷走していたのだろう・・・
政治クリーム一色は、やはり際限なく増加しそうな車両数を危惧し定期入場工程を鑑み決断したのでは? 丁度、オイルショックもあったから塗料代も高騰したんだろうね
それに塗装作業は既に外注化していたから
組合は関係なかったんだろう。
削れるところから削ったってこと。 30年代に何種類もの塗装試験やって採用された赤系塗装が、地下鉄乗り入れの2000系からベージュの二色塗装に切り替えられていったわけで、塗装こだわってもあまり意味がないという雰囲気が社内にも蔓延していたんでは?
あの塗装試験何だったんだと。フライング東上の塗装も、あの試験塗装の中にあったっけ? 福岡は鉄がメインの回だったからな。
今回は脱線しちゃまずいから、タモリもあえて反応しなかったか、
した部分をカットしたか。 2080系は関東の大手私鉄最悪の黒歴史車両と言っても過言ではないな。
迷列車で行こうシリーズは2080系のためにあるようなコーナー。 準急Aの思い出ってなんかある?
東急大井町線の各停みたいに準急Aと準急Bで種別の色分ければいいのにと思った >>381
ただ駅に停まらないってだけで、まったりまったり走ってたなぁ >>380
それを言ったら母体の2000系自体が(以下袋叩きが予想される為、略)
南千住→三ノ輪の急降下を鋸ブレーキを駆使された日には………
音鉄的には感動的な車両だったろう。 >>381
羽生から初めて最後尾に乗った時は結構感動したよ。78は走りは悪くないんだなと。
羽生までの秩鉄が100系の手動加速車だったから高性能に思えたんだろう。
あと西新井お経アナウンスの停車駅案内。 >>380
あの一連の動画群自体が失敗作というか鉄道趣味に汚点
著作権侵害上等だし作者の大半が厨房だから思い込みや間違い大杉漣 伊勢崎線のA準急と言えばよく客専が検札に乗ってきたなぁ、
伊勢崎線のA準急は列車番号が300番台で、格上感があった。
あと78更新後は8000より5050が来る確率が高かった希ガス。
A準急慣れしちゃうとB準急がダルくてなぁ…、上りだとA準急の運転時間帯はずれると、たとえ太田で
数十分待っても“りょうもう”に乗ったわ。 >>381
上りは加須でりょうもう退避があったからあまり速達効果が無かったような気が・・・
下りは春日部から伊勢崎まで数回乗車経験あるがそこそこ速かったな
さらに古い話になるが、かつて伊勢崎行きと赤城行きの併結準急があったけど、
これっていつ頃まで運転されてたんだろう?
オレンジ&ベージュ塗色時代の8000が運用についてる画像はどこかのサイトで見た記憶があるんだが・・・ 通勤車の館林・新栃木以遠喫煙OKなんてのも懐かしいな。
灰皿もなく床や窓外に火のついたタバコをポイ捨てだもんな。
時たま、知っててか知らぬか分からないが、禁煙区間でもタバコ吸ってるヤツいたしな。
今の常識から考えると到底信じられない。
今やったら乗務員通報ボタン押されちゃうだろうなw 東武電車のセージクリーム色は、最近の復刻車の色調と昭和50年代の東武電車の
色調とでは色の濃さや明るさが微妙に違って見えるのは当時と現在とでは、
塗料の質や成分が違うためだろうか 車内禁煙なのに煙草吸って車掌に注意されてるのはまだ7800系が居た頃見た記憶があるな >>391
若い目で見たのと、年とった目で見たのとでは違うよ、冗談ヌキで。
今のはどう見える? 復刻色の方がクリームの色が少しだけ濃いように見える セイジクリームはこないだ見たら錆汁出てたし色褪せてきてるからもう比較にならないのでは… 東武伊勢崎線堀切駅
「3年B組金八先生」によく出てきた駅で、駅周辺は金八に出てきたときと、
あまり変化が見られないところがまたいいね >>394
あ〜そうしたら記憶に頼らずクリーム色の8000の今と昔の写真を見比べればいいんだなぁと…。
で、現在、過去共に薄いのも濃いのもあるからわかんないゃorz ■■□
↓ダイヤ持った偉い人が乗って来る
■□□
↓偉い人が降りる
■■□ オリジナル塗装復元って難しいのよ。
当時だって定期出場直後とその後とでは、退色でトーンが変わるし・・・
顔料や下地色も反映するし・・・まして明るい政治クリームじゃ尚更(同じ色にぬっても下地色が影響)
各社の色復元では、倉庫内の車体の予備品 ドアとか廃車体の日に晒されてこなかった部分の塗装とか参考にしたり・・・それでも?微妙 >>396
今なら、バックに映るのが東急8500・・・の可能性アリ DRCによる特急「さち」が運転されたこともあったようだが、
この時は特急料金は1700系使用の特急とは差があったのだろうか 太田〜伊勢崎間沿線民だから上京する際は専ら東武で、行きは準急A、
帰りはAの終わった時間帯ならりょうもう号だった。
それが徐々にA準が少なくなり、やがてゼロになった辺りから
籠原や熊谷まで行って高崎線利用になった。
更に太田と久喜で分断された今では、東武は全く使ってないよ。
収支の面から見れば、太田から先の(館林からかも)各路線なんて東武としては「いらん子」なんだろうね。 輸送密度から見ると動物公園・川越市から先はお荷物路線じゃないの?
もちろん、培養線だから赤字即廃止とはいかないが
都市間輸送や観光輸送もあるし >>403
輸送密度だと、東武動物公園と坂戸、川越とせんげん台がほぼ同じなんじゃね?
スカイツリーラインは輸送量が先細りするのが案外早い。 >>402
太田市の実質の代表駅→熊谷
伊勢崎市の実質の代表駅→本庄
こういうことですね。遠回りだし久喜で分断してるし山手線に接続してない東武伊勢崎線は使う気になれないだろうな。
その点熊谷や本庄からは東京にも新宿にも行けて新幹線もある。
そういえば来年春で伝説の列車、東武日光線の快速が大減便になって10周年か。スペーシアの新宿乗り入れが開始されると快速にも影響が出るとか噂されてたがまさかあんな形になるとは。
2013年に東武動物公園〜栃木の快速運転が復活したが代わりに2時間1本に半減。
6050系が寿命迎えたら快速・区間快速は廃止なのかな。 熊谷線は東武で唯一の非電化路線で昭和58年に廃止されたが、
その後復活の話もたびたびあったりした
熊谷線の廃線跡の一部は現在も東武が所有しているので、一部区間だけでも
復活できそうだが >>406
唯一ではないぞ。矢板線というのもあった。 大谷線は謎が多いのかな
あまり研究文献に当たらない 大谷石の石材軌道なんて人権破壊今では許されない黒歴史だよな。
あれ若くして椎間板ヘルニアで動けなくなって弱って死んだ人
大勢いるだろ? まあ小資本の非人道的労働を東武みたいな
大資本がなくしたとも言えるわけかな。
6000系更新の6050はまだ走ってるんかいな?1983年頃国鉄栗橋大カーブ
に写真撮り行く途中腹痛くなってトイレでブリブリしてすっきりした
ありがたい思い出w 40代以上で親がケチンボだったやつは日光鬼怒川
観光ではロマンスカーより6000系の方がずっと思い出深いやろ?
あと俺らの小中学の日光林間教室臨で8000系使いやがったのは万死に値する!! うーん 微妙w 俺はいいけどクラスの容子ちゃんが酔っちゃうかも。
やっぱりクロスシートじゃないと。運がよければ容子ちゃんと嬉し恥ずかし
お見合いだし
清水のアスレチック公園とか大平山の登山とかまあそんくらいなら8000でも
十分だったけどねえ。大平山ではぶっといドバミミズ拾ってまゆみに投げ
つけたりしてたねえ。M先生怒ってたなあ。 地上時代の北越谷にあった
北
越
谷
?
っていう黒地に白文字の看板があったなぁとふと思い出した。 たぶん区準の停車確認用か何かだと思うけど。 >>415
その頃は区間準急は無かったような?
各駅が準急と勘違い防止とか
各駅(普通)〜準急〜快速
有料で急行「りょうもう」「しもつけ」「南会津」「きりふり」
特急が「けごん」「きぬ」
なんだか半蔵門が来る前の方が良かったような?
さらに昔は貨物もあったし、その前は単行の荷電もあった
黄色の2000系、営団3000系、57系の臨電やつり掛けの5000系など、懐かしく思い出す 吊りかけ5000系は本線系での活躍は短かった部類にはいるかな 26日に花上館長の本(新書)が出るみたいだけど、どのようなネタが出てくるか見ものだな。 8000系は冬場の北関東には不向き。
長距離に使うのにトイレもなく乗務員には天国で乗客に苦行を強いる車。
私は今でも3扉車の夢を持っている。by館長 とはいえ、館長は、経歴を見ると未だに8000系が小川町〜寄居などで使われている東上線には関わっていなかったんだよな… 7800系初期にはトイレがあったってことは北関東原野での必要は想定していたんだろうけどなんで撤去したのかな。夏の通勤快速とかで腹痛くなって幌にブリブリするやついただろ? >>421 古典的スタイルでありながら4扉ロングシートの汎用車を昭和29?年から
投入した事の真意が解かっていない!
つまりラッシュ時の混雑遅延が既にどれだけ酷くなってきたかというコト。
・・・で、遂には収容力拡大の為便所撤去!(有無の判別が困難かつ運用別けることの煩わしさ、旅客の錯誤) 沿線の黄害対策もあったと思う。
73や78のトイレは垂れ流しだったし。57みたいに汚物処理装置を付けてまで
残す価値はなかったのだと思う。 国鉄のストや順法闘争の影響で混雑が増大する一方だったしね。
その場から動けない程の混雑になればトイレがあろうと無かろうと関係ないし、国鉄でも東北、高崎線の混雑振りに103系投入を真剣に検討したらしい。 小田急にもトイレ付きの通勤車あったけどこちらも早期に消えたねえ
もっとも18m車だったので輸送力不足っていうのもあったけど 73型にも更新時につけたのいたね。
結局どちらも撤去。 トイレって言うが浅草から伊勢崎や宇都宮まで乗り通す客はどれだけいたのか。
宇都宮は新幹線が無くても国鉄の方が速かったし、伊勢崎は微妙だが。 トイレ付の吊り掛け通勤車って、東上線には関係ない話か? >>428
今は分断されてしまったが、以前は太田、足利市あたりから北千住、浅草まで準急(当時)で行く客はけっこう多かった
館林乗換えで小泉、佐野線から来る客もまた多かった
俺も太田まで出張の帰り、りょうもうの急行券(当時)をケチってワンカップを買い、8000系に揺られながらチビチビ飲ったものだ
西新井で一旦降りて「西新井ラーメン」を食べるのもまた良かった
猛烈に寒い赤城おろし、暖房が暑いくらい効く8000系の車内、早くも日が暮れた中、ぼんやりと照らされる小駅の駅名票・・・
仕事の疲れか酒の酔いか、または8000系の乗り心地のせいか、いつの間にか寝てしまう
東武線独特の旅情だったな 館長は寒い、便所が無いと8000を猛烈にこき下ろすのだけど、暖房がよく効くのは8000の美点だった。
一方103系は全車に貫通扉を備え、一見完璧なように思えるが、常時換気のグローブベンチレータと隙間風発生装置の戸袋窓が容赦無く寒冷地獄を作り出すのだった。
JR化後、暖房増設がなされたけれど、冬場の103系は寒くて耐えられない屑車両との評価を崩すことは出来なかった。 館長の言う通り、8000系の運転台は密閉性最強なんだよね。
乗客には関係ないかと思いきや、夏場の中間運転台通路は冷房の効きが最強でよく涼んだものだ。 >>430
本線の長距離準急って独特の風情があったよね
お客や乗務員や沿線施設の全てが東武で完結してる世界〜何か上手く言えないけど
同じ78や8000系使っても東上線では絶対に出せない味なんだよね 78の運転席後ろに貼ってあった路線図もいい味出してたよ 浅草で発車待ちの7800系などこの季節、板張りの床ベージュ黄色系の内装に手塗りの窓枠、そしてシート下からのぬくぬく暖房など永遠のよき昭和を感じさせるものがあった。 >>433 東上も同じ8000,カステラシリーズ(73007800)を使っていたのに、このイメージと云うか空気の違いはナニだったのだろう?
不思議。 一番いい味を出していたのは運転士のパンチパーマにサングラスではなかったか。 それらが故の「ミニ国鉄」だよな〜!!
同じ8000のはずなのに、本線と東上線じゃ何故か
雰囲気が違ってて、たまに転属車に当たると
「あれ?何か違う。」ってなったもんだ。 7800だったかな、この時期やたらと椅子が熱くて往生した記憶があるよ
あったかいのはいいんだけどね >>429
戦前の車両には付いていたが1960年頃に撤去。当時の本数なら長距離乗る比率高かったろうに。 東上線も本社直轄になって独自性は薄れたね、駅名票も本線仕様になったし、種別も
本線に合わせてるし。 車内の落書き、車内と言っても78の車掌台とか折り畳まれた乗務員室の貫通路なんだけどさぁ、
書いたヤツが通う学校名なんかが書いたのもあってさぁ、栃木や群馬の学校名だと「あぁ〜ヤッパ
長距離準急とか広域運用なんだわ」と感じたな。
78がなくなった後、8000や5050が長距離準急の主役を勤めたのだけど、ダイヤが乱れて新栃木以北に
8000が全然なくなっちゃって、乗務員が「8000が一本もないから明日の準急できないよ」なんて言ってた。
都市部では当たり前の8000でも、新栃木や館林あたりだと、ある意味特別なんだろうね。 >>437
あとスニーカー履いてて、常に足を組んでいて、貧乏ゆすりしてて、乗務員室ドアの窓開けてそこからヒジ出してて、
通過待ち中にずっと週刊誌読み続けてて・・・・・。 >>438
網棚のところのつかみ棒の有無が大きな違いだよな。
8000でも後期製造分は標準装備になってたけど、
初期製造分に改造で付けたのは東上線、そのまま使っていたのは本線。
ドアの開閉速度を早くしてあるのが東上線。
この辺の話、今月のピクの特集では触れてなかったな。 >>445
8000系では貫通路上の広告枠の有無か。 >>445
東上線の8000系の網棚の前のつかみ棒固定用にゴツイ金具がついてたな。
でも、8165Fだったかな、稀につかみ棒のない編成もあった。 >>444
マンガ読みながら仕切りに背中を向けて監視もしないドア操作する
車掌とか、日比直の交代で発車時刻を過ぎてから慌てて運転席に
駆け込んでくる運転士とか。
今だったら大問題だけどかつては組合が強かったから許されてたのか。 北千住の上り日比直ホームのおしぼりガールも組合が強いからか? ドア閉まる前からあらかじめマスコンを力行位置にして
閉まった瞬間に動き出したことも何度か見た。(ホームから) 大師線の車掌って上りも下りも、いつも下り方に乗務しているカマボコ車掌だったけど、あれって
正規の乗務位置だったんすかぁ? >>429
東武は東上線のお客にウンチさせたくなかったんですよ
7890型やトイレ付73系は東上線に回って来なかったからね
トイレ付疑惑のあったクハ361もトレイン誌の東武特集で付いてなかったと書かれちゃったし
疑惑の犯人が浣腸らしいところも笑ってしまいました クハ361は西新井で接触事故を起こして急遽繰り上げ更新された車両。
もしかして更新時にはトイレ取付を予定してたのではと思ったけど、
更新は昭和37年で館長のピク誌の記事は41年だから年が合わないよね。
73系の更新を半鋼製車で昭和39年まで続けた事を時代錯誤と批評されるけど、最後の2年は中間車で更新されてるんだよね。
10000系を10連にした時も既存車に仕様を合わせたけど、当時もそんな感覚だったのだろうか。 >>454
まず78と混結するから編成美に拘った、だろうな。 >>419
末端区間の列車は、日比谷線から撤退する20000系にトイレ付ければいいじゃんw https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足ウソ製作費定義)
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0 メジャールールブック総務京都米予算me-ka-
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨークネックス従業員英産プルトニウム任天プロチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田ピク底ファンド
頭皮成分不透明ベンチスタートドナルドストラテジエイト(40代弥勒ソフト >>428 >>430 >>433
自分も経験があるのだが、70年代末〜80年代中頃の年末年始などは、急行
「りょうもう」の急行券が完売で、仕方なく(?)準急を利用していた客も
多かった。また、館林発の浅草行きの臨時普通も出していて(北春日部始発
の臨時延長?)、それに乗って館林から浅草まで乗り通したこともあったが
、こちらもそこそこの利用客があった。(乗車していて「長い」とは感じた
が、何回か繰り返すうちに慣れてしまい、「長い」と感じることは次第に
なくなっていった。)
伊勢崎線東武動物公園以北へ直通する列車の車両は7800系・8000系・5000系
・5050系が使用され、デビューした頃の10000系は浅草−幸手間の普通の運用
が多く、準急にはほとんど使用していなかった記憶がある。
>>437 >>444 >>448
北千住での日比谷線直通電車の乗務員交代で、東武の乗務員は電車が到着
してからホームに出てきて、多くの人がカバンと座布団と共に漫画雑誌を
これ見よがしに携帯して電車に乗り込んでいた。一方、営団の乗務員は電車
が到着する前からホーム上で待機していて、漫画雑誌をこれ見よがしに携帯
していた人は一人も見かけなかったので、両社の社風の違いが90年代の初め
頃まではっきりと見てとれた。 同じ乗務所のウテシさんの列車と離合すると、タイフォン、ハイビーム…
帽子のグルグル回しなど忙しかったですね(笑) 引き継ぎが友達だったときは発車時刻過ぎでドア閉まってもずっと喋ってたな
走り出してもホーム歩く同僚に合わせてスロー発進
話の切れがいい所まで加速しなかった
会話の内容はたいてい次の休みの日にやる草野球の事 回送列車で、「回送」の表示を出さずに、方向幕を字幕と字幕の中間の
微妙な位置に合わせるのは今もやってるのかな? >>462
え゙、20年の懲役で今日出所してきたのか!? 改造前の8000系は種別幕に回送表示で、行き先幕は中途半端な所で止めてあったな。 種別幕に回送が本線
行先幕に回送が東上線
50000あたりだと、本線と同じ流儀になってしまったのが寂しい。
同じなのは車両と職員の制服だけで、それ以外はすべて違うんじゃないか、
ってくらいまるで違うのが東武だったのにねぇ。 先月出た8000系の特集が載っている鉄ピク3月号で
8000の原型の方向幕及び種別幕にあった2つの穴が
ガラスを拭く為の物だったと言う事を知った俺。 >>469-470
実は、もう少し巻くと真ん中に一つだけ○が開いてて、ガラスの真ん中辺を
拭けるようになってる、という話を聞いたことがある。 >>471
うちに東上線の種別幕(緑特急・英字入り)があるけど、二つ〇はあるけど真ん中〇はないよ。 末期の5050なんて文字が見えないくらいに汚れてたな 5050は色々酷かったねえ。
走行中上窓が勝手に落ちるとか… 78系は乗り心地が悪くても車体も古いから違和感が少なかった
5050は車体がほぼ8000系であの乗り心地だから個人的には違和感が凄かった
雑誌で最後の釣り掛けがーとか書かれていても
こんなハンパ電車になにいってやんでえと思ったな 最後の高速走行釣掛車ガーと2006年通いまくったのは俺だけどな。笑
281レには良く乗りましたぜ。新鹿沼だっけか?から回送してくるからか、冬に乗りに行くと103系並みによく冷えていた。 新栃木の5050は会津田島幕用意されてたにも関わらず、
結局会津鉄道には入線しなかったんだっけ? 会津高原までは入った
雪の中を行く凄まじい写真がある。福島唯一の4ドア通勤電車
ttp://www.r-ways.jp/stream/tobu5000.html >>445
ドア上の広告枠、片側が幅広なのが東上線仕様
4辺とも同じ太さなのが本線仕様だと思ってた >>479
会津高原といえば、夕方に栃木を出て会津高原まで行く3070系スジが懐かしい。フルノッチで次々と長大トンネルを通り抜ける時の釣り掛け音に激萌え! クリーム一色時代の東上8000系の全検は西工と川工に別れてた
6連は西工で2連4連の短編成は川工が担当してたのは工場の規模とか効率性の関係だと思う
西工出場車は塗装が艶やかでシートもフカフカに整備されて技量が高いと思った
川工はやっつけ仕事的でマスキングいい加減なのか屋根までクリーム色だった
8連は53年度車が一度川工に入場したことがあったけど以後は西工の担当だった
ただ81115Fだけは例外で8連なのにずっと川工が担当してた
57年度車は73系置き換え用だったので工場のキャパとか予算が関係してたのだろうか
ドアの開閉速度を速くしてたのは川工出場車だけだったので6+2とか8+2の西工+川工編成はドアの開閉速度が全然違ってた
車側灯が消えるタイミングが2秒位違うので見てて面白かった 当時の東武では、車両整備の限度、基準がハッキリしない部分が多かったのか?
西新井で整備した車でも故障対応は、川越の意向影響下の森林公園が故障処置対応だから
川越と西新井で整備技術、方法論とかで揉めなかったか?
例えば基制装置の硬さや、ペタスタル台車の隙間・・・
幾ら東上事業本部と別組織治外法権でも定期検査回帰、年間入場車両調整とかで少しは現場職員の交流、意思交換の場はあったと思うのだが・・・
この辺の事情はどう!だったの 中のヒト タレこみ情報宜しく! 1マソで台車に問題とか、6050(新)の廃車が捗りそうだな…。 夏になると東武2000や営団3000の前面貫通戸を全開で運転していたな。
今ならそれだけでニュースになりかねん。
と、ここまで書いてふと思ったんだけど、野田線の3000で、
前面貫通戸開放ってのは見たことが無いな。 根岸のEF65や盛岡のキハ52は出発前まで全開だったな 側面の乗務員室扉全開で走行してるのは見たことあるな 青梅線の石灰石列車も夏場はカマの前面扉開けて走ってた 貨物列車の食料調達事情はどうだったのだろう
今だと特急を待避する小駅の近くに狙ったかの様にコンビニが立地して居るがw >>490
あれ、正確な場所って判明してるのですか? >>491
鶴瀬に時々、田面澤の線路平面図が張ってあるんです。 >>493
どこかに画像ないかな?
見たいけど本線の奥住みなので鶴瀬には簡単に行けなくて・・・ ある日と無い日、更に時間帯によってもなかったり、場所もかわったりで貼りだしの基準がさっぱりわからない。
あと写真は撮っていない。
平面図はよくある予想図とかではなく、白黒コピーの本物っぽくみえるやつが愚痴と共に貼ってあった。
他には田面澤のいろいろな考察記事が共にでているけど、マニアが適当にネットのをまとめて書いたのではなくてしっかりと昔の書類や図面を調べて書き上げたっぽい。
wikiや鶴瀬には図面は一枚たりとも存在していないって言うけど本当ですか?
そうなると偽物? 今日は朝も夜も無し。
Twitterで鶴瀬で検索 → 3日前ぐらいの奴にちらっとだけ写っているのがある。
ただし、画像検索では出てこないので注意。 やばい
もしかしたら百年史や趣味誌にないものが書いてありそうだ
ぜひとも間近で見てみたいぞ >>499
10枚前後のA4サイズぐらいのフィルムパックしたやつに色々書いてあったけど、wikiにも載っていないことや、
駅の配線想像図とかも書いてあったし、入間川の橋についても設計図らしき物を出して説明していた。
川越市〜田面澤は軽便の前に砂利採取用として先行開業していたみたい。
写真はあまりにも多いから撮っていない。
ネットからの画像の盗作は一切無いって何回か書いてありました。
鉄道雑誌では田面沢の特集を組んだのを見たことがないから分からない。
川越市の博物館の広報誌はだいぶ参考にしたと書いてありました。 わたらせ渓谷鐡道のDRCを使った「清流」の話題はここでアリ? 朝霞駅からスイッチバックで入線していた朝霞キャンプ場引込み線、
非電化のはずだったがロクサン入線したととあるサイトでみたような。
ほんまかいな? >>497,498
twitterの人mixiに写真出して頑張ってるな
ますます現物が見たくなったが、ただ写真が小さい・・・ >>502
朝霞キャンプ場なんてあったんだ。
米軍のキャンプ朝霞に名前が似てるから間違うところだった。 >>505 現在の朝霞駐屯地、元米軍のキャンプ・ドレイクへの引き込み線だろ >>508
なんだそれなら知ってるよ
>>502に朝霞キャンプ場なんて書いてあるからそういうのがあったのかと思ったわw >>504
ttps://twitter.com/sakurai1030 高校生の頃まだ5700が快速急行で走ってた。
夏の暑い時期に冷房もないのに有料。
乗客がいるのほとんど記憶がない。 遠足やら修学旅行やらで5700はなんだかんだで5回くらい乗ったな
遠足で貸し切りの時は本線から野田線に直通して清水公園までいってくれたぞ >>511
臨時だからですよ。非冷房車6000の快急は時代や曜日、時間帯
にもよるけどしっかり乗ってて、満席もザラだったからね。
おなじ
快急なら6000より5700の方が上物だ。 野田線がオール3000の6両編成だった冷房率0%の時代。
いつしか真新しい車体の4両編成冷房車が導入された。
新車なのにスムーズな加速音でなく、グゥオーと重たい音。
7800を更新した5050だとも知らなかった。 >>514
いやいや、最初は8000系4コテだよ
8115F、8118F、8125F、8128F、8138F
だったと思う、違ったらゴメン8126Fもいたような?
確か5〜6本だったか?
割とすぐに3000系とは性能差がありすぎるって事で本線に取られる(´;ω;`)
で、代わりにやって来たのが来たのが5000系列 >>515
3000の6連頃、2コテ×2の4連もあった(乗った)>8000系冷房車
4コテは乗った事なかったな >>511
窓全開で、利根川越えた辺りから結構爽快なのよ 5700は日光への修学旅行で1往復だけ乗った
3000と貨物だけの野田線に春秋の修学旅行時期になると
やってくる5700は楽しみだったな(8000だとがっかり) 10000がデビューする前の30数年前の話し
毎年今頃になると関東大手私鉄と国鉄主要路線の冷房車率が新聞報道されてたよね
西武や中央線東海道線はほぼ100%
東武と東急は冷房化率低かったなあ〜 >>519
だってその頃は日比直は非冷房、群馬、栃木のローカルも非冷房、快速も非冷房。
73,78だって残ってたし8000系の冷房化も完了してなかったし。
東上線が86年に冷房化率100%を達成したと思ったら翌年の有楽町線乗り入れで
冷房化率下がったなんて笑い話もあった。 >>519
中央線は101系が割と遅くまで残ってたね
800代のパンタ部分の屋根の低いやつが。 30数年前の北千住駅日中毎時発車パターン(記憶ベース)
快速鬼怒川温泉東武日光方面1本6000非冷房
準急A伊勢崎行き1本
準急B太田行き1本、館林行き1本
いずれも館林所属の7800か7300で非冷房
準急東武宇都宮行き1本
新栃木所属の7800か7300で非冷房
普通幸手行き2本、東武動物公園行き1本、北春日部行き1本計4本8000で冷房
日比谷線直通竹の塚行き、北越谷行き、北春日部行き、東武動物公園行き各1本計4本は2000か営団3000で非冷房
普通 >>520
窓全開で換気装置ガンガンに動かしている9000が和光市折返しの運用に入っていて、
東上線に直通してくるのは冷房のない営団7000。
運用入れ替えるわけにはいかないのかな?、と不思議に思っていた当時中学生のオレ。
相互乗り入れの車両使用料精算は距離で行うから他社線内のみの列車にも入るとのちに知った。
乗り入れ開始の翌年から、営団地下鉄でも車両冷房行うことになって、9000のクーラーが
有効活用されるようになった。
当時は地下鉄で車両冷房出来ないのわかっていたはずなのに、9101Fは換気装置もラインフローファンも
なかったのは何故なんだろう。 >>523
冷房装置に送風だけの機能があったから問題にならなかったのだと思う。 >>522
73や78が居た頃の日中は館林行きじゃなくて羽生行きじゃなかったっけ?
しかも羽生行きはほとんど4両だったような気がする
あと、昭和50年代中頃まで朝方に1本だけ存在した幻の伊勢崎発川俣行きをリアルタイムで見たかった・・・ 東武に限った話じゃないが、昔からの駅にはたいてい側線(ていうの?)があって
その直近には農協とかの倉庫があったね。
そういう風景、好きだったなあ・・・ >>526
今の蒲生駅東口に東武ストアとその駐車場があるけど、地形からして恐らく側線?引き込み線?の跡地だと思う。
農協なのか通運会社だったのか定かではない。 >>527
東武ストアを貨物扱い廃止後の敷地に立てた話は割りと有名だね。
国土変遷アーカイブとか言ったっけか?そんなんで見ると判るんでない? >>526 JRや東武など、貨物列車が結構走っていた路線は側線が多いけどね。
伊勢崎線は側線多かったようだが、東上線の板橋区内の駅で側線あったのは、上板橋位じゃなかったっけ?
下板橋・大山間の電留線は別として。 >>529
みんなほど詳しくないんで用語の間違いは許してくれ。
側線ていうかなんていうか知らないが、貨物の引き込みがあちこちあったからそれを言ってる。
ちなみに俺は東上線沿線の奥の方。
跡地は工事用の車輌を置いてるところもあったし、撤去して駐輪場とか保線の資材?を置く場所になったりしてるな。
てかなんで板橋に限られたのかも良く分からんがw 浅草・北千住間と池袋・成増間比較してみれば、共に昔から人口密度が高い地域なのに側線の数がどれだけ違うか、わかるんじゃね? 鶴瀬の田面沢のやつ、今日はありました。
側線があったのは、開業当初の駅が多いのでは?
鶴瀬の展示にも二面五線ぐらいの頃の鶴瀬の構内図もありましたよ。 >>532
>側線があったのは、開業当初の駅が多いのでは?
そうなのかな・・・
俺が見てるのは小川町・武蔵嵐山・東松山とか。
確かにいずれも古い駅だわな。 側線が多かったから、伊勢崎線の複々線区間で西新井、草加、越谷と6線もある駅を3つも造れたってわけで。
西武池袋線複々線区間でで6線ある駅は練馬しかないし、小田急の複々線区間は6線ある駅はない。東上線複々線区間も同様。 複々線化用地の買収を戦前から始めてたのもあるんだろうな 側線で思い出すのは現在でも確認出来る、武里駅の上り線方にわずかに残る線路
数年前に出版された鉄道ピクトリアルの東武特集号に、
昭和40年代前半頃に撮影された武里駅を通過する準急の写真があったけど、
現在と同じで退避線は無かったんだよね
それよりも前(せんげん台駅開業前)は退避線が存在した時代があったのかなあ? 廃線で○○線って名前が付いている多くは駅の側線なんだよな
たぶん百年史を編集するときに無理やり名付けたんだと思う >>529
成増も側線があったみたいだね。最近まで日通の関連会社の事務所があったし。 鶴瀬の田面沢とかの展示物を作ったとおぼしき駅員に側線についてききました。
開業当初に限定するなら、側線があったのは下板橋、上板橋、膝折、志木、鶴瀬、上福岡、高階、川越町、田面沢だそうです。 鶴瀬の側線は試運転で使ってたな。ピカピカの9000が止まってたの見たことある。 東武沿線民で遠足や修学旅行でさんざん東武に乗ったのに俺は8000ばかりで一度も5700にあたったことがない。512みたいのはそこで人生の運使い果たしたろ? なんてな 9101Fは有楽町線との直通運転が始まっても、しばらくは乗り入れ運用に入らなかった
9102F〜とは少し仕様が違うから慣れるまで配慮してたのかなと思ってる
昭和62年頃はまだカーテン閉めまくってた時代で、9101Fは窓1コ多いでしょ
どう取り扱うのか興味あって見てたけどなかなか運用に入らず、おあずけ食らってたんでよく覚えてる 89年頃だったかな、9101Fが地下へ入ってきたのは。
床が8000と同じ緑ビニールなのとドアがステンむき出しで安っぽい印象だった ドアエンジンやコンプレッサの音も8000と同じで地下鉄線内で容易に判別できたものだ。
ところで座席仕切りの横パイプ増設は何時ごろ行ったのだろう? 鶴瀬田面沢停車場展示物についてこのまえききました。
以前鶴瀬駅の過去の資料を展示していた際に自分の駅は知っていて当然。田面沢のことぐらい調べないと駄目ですとのクレームがあった。
作っ駅員とおぼしき人が言うには作った理由は、クレームの際に口頭で知っている限りのことを話したが相手は無言で立ち去ってしまった。
口頭ではうまく伝わらなかった思い適当にさっと作った。
ウィキは参考にしましたか?
鶴瀬駅の内容でも間違えがあるような物なので参考にはほとんどしていません。
掲示は常時しているのですか?
していません。集客活動の一環として週に2回程度Nゲージを走らせていますが、そのときの模型の内容によって掲示します。
昔の鶴瀬駅の写真は掲示しないのですか?
上長より掲示禁止が通達されておりますのでできません。
理由は?
お答えできません。上長の居る富士見野駅か東武センターにお電話してご確認をお願い致します。 こことここにがぞうありました
ttp://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=889305&id=1953044854
ttps://twitter.com/c5_c5_c5_c5 釣り掛け冷房車の5050や5070って、なかなか味わいのある電車だったな。
最後は野田線や北関東ローカルが活躍の場所だったけど、10000の増備中は東武本線でも運用されていたような気がする。
東上線系統でも5050、5070ってあったのかな? >>553
5070は野田線専用。本線でも営業運転はしていなかったはず。
東上線にいたのは5000と5050。
というか、78が最後まで残ったのが寄居口と越生線。
5000系列への更新工事が終了しそうになったときに、78がシリコに集められた。 >>554
5175〜5177の三編成は更新直後は春日部配属で本線の準急にも使われてたよ。 保育社私鉄の車両シリーズにも写真載ってるね。浅草口の5070。 クハ62201のCPって、何処から 調達 して来たんだ?
アレって1990年製の 新品 が流通してたかどうか、怪しいんだが…。 >>558
DH-25なんて東武なら予備品がゴマンとあっただろう 5551〜5553Fは最後まで春日部に残り、亀戸、大師専用だったなあ
5175〜5177Fは野岩線までまで入ったかと思う
この頃はまだ3000系が健在だった
新栃木の3070Fは2個パンでかっこよかった
前が交差型、後は通常型のパンタ >>561
でも台枠の構造が8000系と違っていて新性能化するには72系アコモ車を103系3000番台に改造したのと
同じくらいの力技が必要。 先月の鉄ピクに載ってた配線図みたら、昭和30年代は亀戸線と越中島支線とでも車両継送出来そうな配線だったのね。
汽車会社製の新車が亀戸線経由で搬入された事、有ったのかな?? >>562
103-3000って床面高さも台車中心間距離も異なるんだよな
豊田のサハを除いてオリジナル車との混用は無かったし 東上線に回された5050系は側面表示幕の無い若番車だったな
森林公園の青空工場で糸ノコみたいなノコギリで表示幕付ける所に穴開けて後付け工事してるのを見たことかある
表示幕付いてもずっと普通|越生←→坂戸
なので意味ないなと思ってた
非冷房で更新が始まった5000系統が冷房取付→側面表示幕取付→10000系風内装と
8000系を上回る内容に進化したけど結局5000系が先に淘汰されたのは勿体なかったよね
3000系みたいなもう少し簡素な更新でも良かったかもしれない 東上営業、東武の屋台骨支えてんだから、もっと本社にモノ言えよ。TJではなく、新しい特急車両2編成位持って来て運用しろよ。 >>566 特急専用車によるフライング東上が長続きしなかった理由を考えてみるべきだね。
寄居回りで秩父鉄道乗り入れしても、秩父まで延びた西武には対抗できなかった。
池袋からTJライナーよりも高い特急料金払って、わずか30分程度の川越まで乗る客もいないだろうし フライング東上のデハ10を取られたのは、西武秩父線開業より前なんだが。
観光地がないから特急が成り立たないのか、特急の経営が成り立つように観光開発しなかったのか、
今となっては何とも言えないわな。
通勤輸送だけに特化したから高収益路線になったとも言えるし。
東上線の今の地上設備で、スペーシアやりょうもうの車両持ってきたらダイヤを大混乱に陥れるだけかと。
ドアの数が少なすぎで乗降時間かかりすぎて停車時間増でほかの列車に影響が出る気がする。 >>568 通勤輸送って必ずしも高収益じゃないよ。
ラッシュ時過ぎたら余った車両を車両基地に寝かせとかなくてはならない、車両や施設の増強に金がかかる、ラッシュと逆方向はがら空きの車両を大量に走らせなくてはならない、定期は割引率が高いから乗客数に比例して収益伸びるわけではない。
観光輸送ないし貨物輸送の方が、高収益あげられる可能性がある。
東上線の場合、秩父鉄道からのセメント輸送という収益源があった。昭和30〜40年代、この沿線で観光開発し有料特急走らせるよりも収益あげられたからでは。 >>569
東上線の場合、沿線に大学が進出したから、ラッシュ終了後に車庫まで戻る車両に
通学定期の客が乗って、空っぽで走るはずの電車で少々の収入を得られた、ってのもあるような。
その大学も都心回帰だし、郊外に残っている所もスクールバスを高崎線の駅まで出されちゃって
東上線の通学定期の大学生まで減少傾向・・・
観光輸送こそ、平日は客が乗らないから車両が車庫で寝て、無駄な気がするんだがな。
デラが走っていた頃だと、日光へ行く外国人観光客のツアーがけごんに乗っていたから、それこそ
高収益だったんだろうけど、高速道路が整備された今だと、都内から観光バスに乗せちゃうし。 東武熊谷線の存在を知ったのは廃線が決まった頃。おまけにディーゼルカーだったというのはもっとあと。長いこと東武動物公園の車両工場に放置されていたと思う。 熊谷線キハ、東船橋では学習塾になっていたな
総武線から良く見えたがいつの間にか無くなり
いつごろ解体したんだろ? >>569
確かに利幅は小さいかも知れないが、事前に纏まった額が入るのは大きい。だから、設備保守の計画が立てられる。
一方の定期外収入は、利幅が大きいが波動も大きい。此方は設備改良や催しに充てる。
>>570
反対方向にもラッシュの有る路線は比較的、投下した資金を回収し易い。朝の本厚木や平塚に向かう下り列車が該当する。
つまり田園都市線は(ry 今日みたいな蒸し暑い日は2000や営団3000はキツかったな 既出ネタだけど旧国鉄が、62系や72系のアコモ改造車を造る際 機器流用車のノウハウ(成功の要領?)
を東武に指南を受けハナシは本当なの?
・・・そもそも先端技術開発力もあり研究所もあり、戦前にだって木造車を大井工場で鋼体化しているし・・・
他の民鉄向けにこの種の改造を手掛けた車両メーカーの進言だってありそうなのだが・・・
(先進車両技術開発をリードする国鉄には、車両メーカーの助言を受ける事は恥なのか? なら何故に東武に助言を・・・・?) >>583
それはないでしょ。
東武と国鉄と言うより私鉄と国鉄では車体更新の方法や検査周期とかも全く異なるし。
扉開閉器の形式:TK-は西武「所沢」工場の略だと知り、目からウロコ! >>583
大抵、間に製造会社を挟むから一運行会社の名前が出ることはまず無い。 9101Fの妻面窓って今でも開くんだね
今日久しぶり東上線乗ったら9101Fに当たってびっくり
んで車端座って窓みたら開くんでまたびっくり
8000系はリニュ時に固定されたと思ったけど
今どき妻面窓開く車両って珍しいんじゃないかなあ 業平橋地上ホーム時代に、5050の10両運転あったらしい 5050の10連運用なんてあったっけ?
8連運用は記憶にあるけど・・・ 東上では冷房化前の5000の2+2+4が走ってたね 今日の鶴瀬は金井窪と田面澤をはじめとしての2つを掲示中でした。
Bトレは脱線。 >>592
お尋ねしたいのだが、その掲示資料は駅員さん手作りなの?
だとしたら本当に鉄道が好き、東武が好きっていう方なんでしょうね。
いい話だと思う。 >>593
横から失礼。
掲示品は手作りだと思いますし、ときおりBトレを走らせたりと好きな人だとは思うけど、
それらしい駅員さんに話しかけたことはありますけど、車両形式のことを知らなかったり、
『たのもさわ』を『ためんざわ』と呼んでいたり、ちぐはぐなところがあるから、
別な人が作ってそれを貼っているだけの可能性も高いと思っていますよ。 >>594
>>593書いた者です。情報ありがとうございます!
まあいろいろあるようですが、良い話には変わりないですね。
こういう地道なことってもっと評価されて良いと思います。 トク500って浅草ではどうやって後ろに付け替えたの? >>598
あったよ
浅草に着いたあと業平橋まで推進運転で戻っていった
東武日光では転車台の有る下今市まで行って転向しで再び戻る
鬼怒川温泉では32型に牽かれて下今市まで回送とピク誌263号東武鉄道特急列車変遷by花上氏に書いてある >>599
そりゃ不便だな。南海の初代こうやについてた展望車みたいにデハ10の展望車仕様作れば良かった気がする。 新車作んだから、りょうもうの車両東上に持って来いよ。まだ使えんだろ。 >>601
ドア少なすぎで使い物にならない上に、座席指定のシステムを
入れるのが嫌だから、東上線には登場せん。 今TOKYO MXのM2で水曜23時に放送している「快獣ブースカ」の
42話に東武の特急列車が出るらしい。この回は来週の水曜(7/27)
放送されるからTOKYO MXが受信出来る地域に御住まいの東武ファンの
方々、是非ご覧あれ。 >>609
すっかり老朽化している300系、350系と合致することにも気づけよ。 りょうもう全部入れ替えかあ。6両→3両になるけど、間に合うんかい。併結すんのかな。 誰か603に突っ込んでやれよ つめてーぞ君たち
あのね、模型の話だけどなんで鉄コレでいちいち前面改造の旧旧塗装の8000出すわけ?実際過去になかったものを作るのはリバイバルとは言わん >>611
会津にも行く事になってるが、相互救援とか対策してるのかな? >>613
東上線に今走ってるリバイバル塗装8000系3兄弟(青・黄、セイジクリーム、オレンジ・ベーシュ)の
模型化だから全く問題無いだろ。 >>619
夕方夜の方が多いです。
それでも毎日はないですね。 鶴瀬速報です。
さっき田面澤の解説張っていました。 ケーシー線に国鉄の旧型客車が入ったとか
戦後混乱期は夢がいっぱい。
もっとも秩父鉄道は東武8000の走ったのと
同じ線路に国鉄165系が走ったりして面白かったらしいけど インドの通勤電車並み超満員のイモ電走ってた戦後混乱期を、夢いっぱいと言うところがゆとりっぽい。 >>625
遠足の貸し切りで上野から165系に乗ってそのまま秩父まで行ったことあるぞ 秩父乗り入れの衰退って東上線からトイレ付き車両無くしたのがまずかったんじゃないの?
同じ特急でも1720と8000では天地の差があるような。 >>629
そもそも西武が秩父線開業させた時点で勝負はついてるから。 >>629
東上線で運行途中の分割併合を全くやらない方針も災いしているような気が。
6両のままでは池袋口で大混雑になるので10連化したいが、分割併合したくないから
一時期小川町乗り換えだったときがある。その時に完全にトドメを刺した形。
まもなく、6連の直通特急の前後に10連の急行を続行させて、途中駅利用の客を
分散させるって荒技にでた。 >>629
>東上線からトイレ付き車両無くしたのがまずかったんじゃないの?
いつの時代の話だよw だから東武にとって秩父は特急車を導入するほど魅力的な観光地では無かったって事でしょ。
秩父への観光輸送は西武に丸投げして東上線は通勤路線に徹すると。 西武にとって秩父地方は「近所の川越」と「遊園地と貯水池周辺」以外でようやく手に入れた「特急車両で行く遠くの観光地」 >>634
がんばって軽井沢まで伸ばして欲しかった・・・
西武はどんな特急を出したことやら。 >>632
5310を本線に戻した頃だったかと。その他の車両も一斉にトイレ撤去した。 正直に告白します
私は78系の中間運転台で
ウンチをした事があります 君は悪くない
トイレを撤去した東武が悪い。
しかしトグロ巻いてるような固いやつなら
ともかく、だいたいそういうときはピーピーの
液状だから大変だよな。マスコンの下まで
染み込んでいったりな サントリーが1990年代前半ごろに掲出した緑茶のポスターのみならず、
大日本製薬(現・大日本住友製薬)が過去に東武や小田急、多摩モノレール、都営地下鉄、
西武、京成、京急、大阪モノレール、江ノ電、湘南モノレールの車内に掲出した「マルピー下痢止め」の広告も
カンロ(中野区に本社を置く菓子・食品メーカー)が西武や都営地下鉄の車内に掲出した
「お父さん 勝手におつまみにしないでよ」の広告ポスターも
杉並の図書館や都内の書店で起きた「アンネの日記」みたいに破られる手口あったよな
破られる以外にも、汚される、取り除かれる被害もあったみたいだな
ほかに、営団地下鉄の「捨てないで」、京阪電車の「禁じられた遊び リバイバルは見たくない」、
都営地下鉄の「閉まりかけたら赤信号」、JR東日本の「痴漢は犯罪です その行為決して許されない」
「許しません犯罪行為」のポスターも
1990年代後半ごろのカゴメのトマトケチャップのCMみたいに
破られたり汚されたり取り除かれる被害多かったし これらの広告については、JAROにも多くの苦情の電話や手紙が寄せられていたからな 訂正
641
×カンロ(中野区に本社を置く菓子・食品メーカー)が西武や都営地下鉄の車内に掲出した
○カンロ(中野区に本社を置く菓子・食品メーカー)が西武や営団地下鉄(当時、現在は東京メトロ)の車内に掲出した 東武の電車って時代遅れになるまで同じような顔のを作り続けるけど理由あるの? 最近鶴瀬の掲示品でてない。
最後の敬志線命名の調査が面白かった。 数年後に出るであろう、ピク臨東武特集号に掲載される
と、勝手に予想してみる 制作したデータと資料を知り合いに渡して、その知り合いが冬コミ目指して同人誌制作らしい。 >>653
2008年1月臨時増刊号以来9年弱か。来年春か夏くらいに出るかな。 東武鬼怒川線のC11SL試運転は何時頃かな。
国鉄SLでC58が伊勢崎駅から東武伊勢崎線の、
新伊勢崎まで貨物列車が乗り入れていた、
時代を思い出すなあ。 >>655
廃線になった根古屋線にもC58が走っていました 廃線になった大谷線にはC57が走っていました
ただし戦時中 ガキの頃、東京に出るとき急行は贅沢だったからいつも通快に乗った。
春日部から北千住まで通過はいいんだけど、しょっちゅう前が詰まって止まってた記憶あり。
今は快速無いけど、最高速が早くなって駅間で止まることがないから時間は変わらないか? 本線(伊勢崎線)の通勤快速、33年前(1983年)母と姉の3人で
東岩槻の母の従姉の家に行った帰り乗り換え駅の春日部から
当時住んでいた北千住に帰る時に乗ったな。車両は5050系だった。 昔のあるある
日比谷線で北千住に着いたらホームの反対側に7800が止まってる。
準急かと思って飛び乗ったら実は快速で春日部まで連れていかれる。 昔のあるある
北千住の臨時ホームから準急に乗ると夕方でも座れちゃったりする 昔のあるある
東武バス花畑団地バス停で、竹の塚行バスを
待っていると、多分花畑車庫始発のバスが
30メートル位離れたバス停にやって来て並んでいた皆が慌てて駆け出す まだくすんだベージュとオレンジのナナハチなどが走ってた頃の
話し。 はっ 鉄道スレか! ピーコックは直せないのか?
ボイラー亀裂?
それとも古すぎたり旧国鉄正式蒸気機関車じゃないから復活実績や
補修部品作成で苦慮するから 却下? C11は既に県内で走ってるんだから、ピーコック復活させた方が話題になったろうね。
中身は電車にしてスモークはドライアイスで出してとかになるかな(笑) 確か監督庁が復活機の種類を増やすのに消極的ってことだったかと
まあ、ボイラー爆発まであるSLだから、慎重になるのはわかる
それに、当の東武に長期間SLの運用実績が無い
なので、まっさらな復活機じゃなくて、他所で使用実績があって、運用中の同型の多い形式が入門編には最適なんだろうな
必要な施設整備をして実績を積んでいけばあるいは…というところを期待したい 高架下のSLは時々油をあげてるみたいで状態がいいよね >>662
北千住から浅草まで乗車券だけで“けごん”や“りょうもう”に乗るヤツがいたが、それと同じくらい許せない奴だなぁ。 北千住に住んでいた約30年前浅草方面から北千住に帰る時は
ちょうど改札口への階段の付近に辺る最後部の車両
(8000系ならクハ8100)に乗っていた。時々北千住の臨時ホームで
特急や急行の通過待ちがあった場合、仕方なしに最後部の車両から
改札口への階段まで歩き始めた。が階段まで辿り付きそうな頃に
通過待ちしていた準急が走り始めるんだよな。臨時ホームで特急や
急行の通過待ちをする準急は通過待ちが終わった後正規のホームに
停車する事を知ってから臨時ホームで降りる様な事はしなくなった。 東上線の昭和20〜30年代の沿線案内やダイヤグラム売っているところ知っている方いませんか? 浅草から北千住まで早く着きたいならノンストップの快速が一番だと思い、なん十分も並んで結局は先発する各駅や準急よりも遅かったガキのオレ。 大学の先輩で新栃木に住んでる60代のおっさん
北坂戸で集まりがあったんだけど集合時間過ぎても全然来ない
30分位遅刻してやっと登場
春日部→大宮→川越経由で来たらしい
川越駅で下り電車に乗ろうとしたら来る電車みんな急行で各駅停車を待ってたら遅くなったんだって
東武の急行=金取られるが刷り込まれてる世代だな とんだポンコツ爺だな、数年前なら30分じゃ済まなかっただろう >>673の話は15年位前の出来事です
これはおかしいと思って駅員に聞いて急行か準急かで来たらしい
自分は東上住民で消防の頃初めて一人で春日部から家まで帰ることがあった
ホームに入って来た8000系が準急かどうか判らなくて急いで最後部まで走って種別幕を確認して乗り込んだ
東上線は種別板を使ってたので反射的にサボ部分しか見て無かったんだと思う
おかしな行動を見てた車掌さんが乗った後わざわざ乗務員室から出てきてくれて
ボク大丈夫かいどこまで行くんだいと声を掛けてくれた
優しい車掌さんだったのと乗務員扉が当時まだ珍しいステンレス製の51•52年度車だったのを今でも覚えている
同じ東武でも本線と東上線では色々すれ違いがあるという話ですね 10年前(2006年)の9月頃、飯能で仕事があって春日部在住の俺は岩槻在住の
知人と岩槻の会社で俺の車に乗って依頼した人材派遣の社員2人
(車の免許無し)を迎える為待ち合わせ場所の草加駅まで向かった。
1人は待ち合わせの時間より早めに来てくれたがもう1人は一向に
くる気配が無かった。かなり遅れて来たもう1人の方に先に来た1人が
遅れて来た理由を尋ねると「草加へは急行に乗っちゃいけないの」と
言って北千住から各駅停車に乗って草加まで来たらしい。だがこの
もう1人の社員は前の日先に来た社員と共に草加駅まで来て、しかも
急行に乗ってきたそうな。前日一緒に急行で北千住から草加まで来たのに
それを忘れるなんて・・・・・・もう呆れるしかなかった。 今でも古い桐生線民は特急を“急行”または“りょうもう”と言う。
“特急”とは言わない。 誰か、二、三年年ぐらい前に富士見市かその下部自治会がだしたミニコミ紙で、鶴瀬駅長の息子さんの談話が載っていたのをご存知の方いませんか?
前にネットにあって見たのを覚えているのですが、いくら捜しても見つかりません。
おねがいします。 その鶴瀬の話だが同人誌の話は本当らしい。
昨日作っていたとおぼしき駅員に話を聞いた。
資料は知り合いに全部渡して冬コミに申し込んでいるそうだ。 >>677
じょうもう、おりひめ、とか言ったりしてw 2009年に出た「鉄道車両色見本帳 大手私鉄・地下鉄編」ってな本の
東武のページで1700白帯車の末期(1969年頃)のカラー写真が載っているんだが
横に記された説明文では「窓下の白帯は暫くして無くなった」ってあった。
今その本のカラー写真にある1969年の1700系原型車にはちゃんと白帯が
あるのに何を勘違いしたんだろうか? 東武が凸型電気機関車のED40まで7800系のような豚鼻二灯シールドビーム化したのは、夜間踏切事故防止対策のためかな? >>682
関東は豚の消費が多いですからね。
さすがに当時の沿線の養豚業者との絡みを蔑ろにするわけにはいかなかったんでしょうね。 >>664
東向島にある機関車?
あれ、国鉄に在籍したんだ? もともと東武はC11持っていたってこと
知ってる人どれ位いるのかな? >>687
どっかに国鉄発注で東武に移籍したSLがあったと思う 昭和46年の和光市駅
ttps://www.youtube.com/watch?v=sHfxhHH7IpA
まだ大和町の時代? そう言えば特別機動捜査隊って東上線がよく出てきたような気がする。
あの当時テレビ映りがいいのは小田急って言われてたけど。 >>692
そういえば戦隊モノでは太陽戦隊サンバルカンは東上線沿線がよく出てたような… 昔の戦隊シリーズ、やはりサンバルカンかゴーグルファイブ辺りで、高坂の引き込み線?だと思うが東武電機がトキを牽引して出てきたことがあった。
風景からして葛生辺りではない気がする サンバルカンつながりで思い出したけど、
五代高之が主人公を演じた軽井沢夫人っていう日活の作品でも東武の機関車が出てきてたな
しかもラストで五代高之が車ごと機関車に突っ込んで首チョンパっていう衝撃的シーンで(笑)
あれもおそらく高坂から出てた支線が撮影現場だったかと思う >>380
懐かしい2080系。
顔は一番好き。
60000系にデザイン踏襲されてると勝手に思ってる。 鉄道ファン1995年11月号で「最近10年間の大手私鉄車両」と言う
1985年から1994年の10年間で新しく出たり形式消滅した大手私鉄の
車両達を紹介する特集で2080系が新形式と廃形式の両方で紹介された。
2000系の中間車からの改造ではあるが新形式としてデビューしたのが
1988年、乗客からの不評で2編成とも廃車になり形式消滅したのが
1992年。僅か4年間だけの形式・・・・・・。
この車両(2080系)も間違いなく「悲運の東武車両」だろうね。
この間鉄コレが南栗橋で先行発売された1700白帯車と共に。 東上事業部の営業収入で、本線事業の赤字穴埋めしています。 >>702 鉄ピクのアーカイブスに載ってないような写真、記事がどれ位含まれているかなんだろうなあ
現物見なくてはわからないけど。 前に話題にあがった鶴瀬駅の掲示物、Twitterに上げられてる。
#田面沢 同人誌化するって話どうなったのかな?
すごい期待してるのだが 同人誌よりは、数年後に発売されるであろうピク臨東武特集の目玉記事に
して欲しい。
すごい深い内容の掲示なんだって? そんなに素晴らしい内容ならカネ払ってもいい(つまり書籍で購入してよいな)と思うわマジで。 作ったとおぼしい駅員の発言をまとめる。
大したことはない。
誰でもみれるものをそれっぽくまとめただけ。
鉄道研究をしている人なら期待外れの溜息しかでないレベルです。
ネットからの図面等の盗用は一切ありません。
もしかしたら期待外れレベルなのかも。
だが今の所アップされている分はそれなりに興味深くはある。
他の住人の意見は? >>708
>大したことはない。
それは作者が鉄道関係者且つよく調べている人だからこそ言える言葉だと思う。
>誰でもみれるものをそれっぽくまとめただけ。
いや、実はそれこそがとても大事な事なんだと思う。
おまえらほど詳しくない”ただの鉄道好き”な俺にしてみれば、これはすごく価値があるものだ!と素直に感じるよ。 1700白帯固定窓化後のナンバーって白ペンキ?それともステンレス打ち抜き?
あと、冷房化、前灯増設、2段窓の時代はナンバーは大サイズ?小サイズ?
鉄コレ整備しようとしていますが、わからないことだらけで。 ttps://twitter.com/tbtj19140501
鶴瀬の田面沢、追加されてる。
ttps://pbs.twimg.com/media/C0c0RogUkAAkGSw.jpg:large
もう少し細かいのが欲しいな。
ttps://togetter.com/li/960627
同一人物が作っているの確定だな。 昔の東武電車って、何でこんな地味な色にしたんだろうと思う。
DRCとスペーシアって、ザクとガンダムくらい色のセンスが違う。 昔っていつの時代を言ってるんだ?
東武に限らずつり掛けが多かった頃は付着した鉄粉で車体の汚れが目立つのを防ぐために濃い黒っぽい色にしてたからな 東武でも、バスは昔から割とセンスのある色使いだったんだけどね。
鉄道の場合は、色に対するポリシーが全くない。しいて言うなら、りょうもう号は真っ赤くらい。
駅名標の色にステンレス車の帯色使っていたのに、東上線のラインカラーは百貨店ブルーだ、
って言いつつ、50000はオレンジ色。 バスねぇ
昔からコロコロカラーリングを変えてるってイメージしかない
西武とか国際がボンネットバスの頃からほとんど色が変わっていないのに比べると対照的 だって、偉い人が変わるたびに変えるんだもの
ポリシーも減ったくれもないよ
「偉い人」は「俺の仕事」だと威張れるし
東武の経営陣ってこんなのばっかりだよ >>712
オレンジ一色か、オレンジに黄色の帯の時代は決して地味ではないと思う >>718
そんな時代があったの?
>>714
スペーシアと野岩鉄道の色になる前。
黄土色/ワインレッドとクリーム色の頃。 通勤車のクハモハ表示っていつごろ廃止になったの?
10000系もデビュー当時はあった記憶がある。 >>720
マン系途中までは腰板中央にプレート貼られてたよな >>720
鋼製通勤車が現行塗装になるタイミング。
白と濃淡ブルーの新塗装車が出たときに、塗り替え前のクリーム色の車両も
車号の切り抜き文字を外して青文字になって、側面のモハとか東武鉄道って
表記が消えた。同時に前面にも車両番号がついた >>722
そういえば8000系でセイジクリームのまま前面に車番書かれた編成もあったね セイジ(鎧伝サムライトルーパー)と聞いて、
すっこんでまいりました。 現在の表記になったとき、最初のうちは蜘蛛の巣マークが付いてなかったね >>722
青帯になっても正面の番号はしばらく入ってなかった。
正面ナンバーを見かけるようになったのは東上では87年から。 昭和末期から始めたオレンジは社長の奥さんが好きな色だからって聞いたけど本当なんですかねw インターナショナルオレンジって東京タワーと同じ色じゃん 東上の10000系は11805Fまではエッチング板で11806Fだけは新製時から幕板表記だった
8000系前面リニュ車の予想図初めて見たとき
車番をオデコに入れる発想に衝撃を受けたな 10030系の完成予想図って8000系更新車みたいなライトケースむき出しで正直ダサかった
同時発表の20000系はむき出しのままで、10030系はライト収納になった理由は何だろう? 本当の理由はデザイナーに聞かなきゃ分からないけど
1. 10030は折妻で立体感があるからライトはフラットにした
2. 20000は平面だからあえてライトで立体感を出した
ぐらいしか思いつかん >>730
通過灯がないから入れたんだろうけど、
あれはデザイン的にいかがなものかと思ったね トレインボット(ライデン)の中に、
東武の車両が1つも入ってなくて、悲しかったでござる。 ttps://www.youtube.com/watch?v=jkP1sWzTdz8
北千住ってもうこの頃には自動放送あったの...? >>735
導入は割と早かった気がするな
五反野使ってたけど「まもなく上り電車が参ります」とか程度は自動で鳴ってた 今度の新型、新型には見えないが、
何かの使いまわしか? 本線
北千住を中心にしたエリアってぐらいしか知らない 今月のF誌の2000系快速たびじ写真には驚きました
一体どこから来てどこまで行くのでしょう
まだまだ知らない事がありますね
ageときます スペーシアが走り出した頃、
まだ走っていた5700系を見て、
ボロい電車wwwwwwwwwとか馬鹿にしてました。
すみません。 質問させて下さい
>>702
東武鉄道1950ー1980購入しました
他板にもありましたが形式の誤記や年代間違いが結構見られます
65頁大宮駅に3210型と並んだ車両明らかに説明の78系ではありません
最初5200系だろうと思ったのですがよく見ると違います
切妻で貫通扉付、右側運転台、前パン、運転台上面の通風口この辺が手がかりかと思います
商工省規格型の5410形(前パン車は見たことありません)、5310形(クハ500をM化した5317〜19・24)、運輸省規格型の5430形辺りかなと思うのですがどうでしょうか 快速、区間快速、共に廃止に成る様だな。もう浅草から南栗橋の間で
6050系を見る事が出来なくなるのか・・・・・・?
24年前(1993年)の暮れ高校の鉄道研究部のOB会で鬼怒川温泉に
行った時行きが6050系の快速だったので幹事だった1学年下の後輩に
「せめて300系の急行にして欲しかった。」と愚痴をこぼした俺。
今となってはバチ当りな発言だった・・・・・・。
今でも休日だと行楽客で賑わっている下りの区間快速を見ると・・・。 半直前の方が良かった?
もう12年も前なんだな
あの頃は2ちゃんねるも今より楽しかったな
800/850系登場の頃の熱い論争が懐かしいぜ
しかし、今思えば当時ウワサだった事って実現してるんだよね 汽車が走ったら、
煙がモクモクモクモクモクモクモクモクモクモクモクモクモク
モクモクモクモクモクモクモクモクモクモクモクモク
モクモクモクモクモクモクモクモクモクモクモク
モクモクモクモクモクモクモク
モクモクモクーーーーーーーーーーーーーってなっちゃうと思うんですよ。
大丈夫すかー? ちなみに、何でこんなことを聞いたかというと、
線路の近くに住んでるので、
モクモクモクモクモクモクモクモクモクモクモクモクモクモクモクーーってなっちゃうのが
やだからです。 >>742
自己レス失礼します
謎の車両の自分なりの考察です
右側運転台はデハ10系の特徴のひとつですが乗務員扉が57系同様引戸式のため戸袋があり、側面窓との間に戸袋分のメクラが必要です
運輸省規格型や戦災復旧車の中に右側に運転台を移設された車両があるか調べましたが全て左側で該当する車両はありません
もしかするとこの車両モハ3201ではないでしょうか?
自分が知る限りモハ3201の写真はP誌647号に載っている1枚だけです
茶色一色塗装時代の写真ですが向かって左側前面に通風口が確認できます
モハ3201でしたらツートンカラー時代の写真は初めて見ることになります
自分にとって東武旧型車のバイブルである私鉄ガイドブックが刊行された昭和42年以前に更新されたため掲載されなかった幻の車両
P誌車両めぐりでは必ず別項を設けられて解説される異端車モハ3201
ツートンカラー時代までぎりぎり生き抜いて晩年を迎えたことが伝わる写真です 東武って何であんなに分類増やすの?
普通料金で乗れる急行とそうでない急行っていう、
変な分類もあるし。
普通
準急
急行
特急
快速
通勤快速
区間快速
特急連絡
あと1枠に
新藤原
会津高原
東武日光
って詰め込み過ぎ。 特急走る前の東上線なんて、平日は急行、準急、各停の三種類しかなかったな。
あと、休日運転の名称つき急行があって、川越市の次、坂戸、東松山停車、それから各駅停車というパターンだったっけ? まさか、今度の改正で6050の更新車がアボン?
純新車が9本だっけ?さすがに足りんな ダイヤ改正で、新高徳にスペーシア止まらなくなるのかよ!
SLなんか止めなくていいから、スペーシア止めろwwwwww 止める× 停める○
「止める」と書くと「やめる」とも読めるんだけどね。 まぁ浅草口はホームドア設置のため2ドア車は駆逐されるんだろうな
6050の新車は野岩と会津用でしょ? 浅草って、ドアに橋かけてたと思うけど、
ホームドアになったら自動で出たりすんの?
ていうか、あれって真ん中にドアがある通勤型は届くの?
DRCで使ってたイメージしかないけど。 夏はむさ苦しく感じた
国鉄や京急などの青シートのほうがマシだと思っていた 6050もそうだが20000のこの先も気になるな。
20000は8000の代わりに宇都宮線とかのローカル線で
使われるのか? □ □
□ □
□ □
□ ← 新高徳駅の、この白線が気になってたんだが、
ここに配置する意味あるの? 遠い昔に東上線で走っていた「荷物電車」って保存されてるんでしょうか?
子供の頃に見た遠い記憶・・・ふと思い出したので・・・ 近年までJR小山駅構内に1両シートを被せて保管されていたが、結局解体されてしまった >>768
違う
西新井のはモニ1473で引退後西新井で解体
小山に有ったのはモニ1471 >>750
今はその隣に東上線のSLというポスターが追加されてる。 小山のモニってJR貨物が買ったのだっけ??
何に使うつもりだったんだろうか? 今年の年末には鉄ピクの増刊号で東武特集をやるんだろうね。
前回のから(スペとJR485が表紙)10年経つし。
更に10年前(1997年)のは草加辺り(だったかな?)の高架複々線を
走っている30000が表紙だったな。 >>773
貨物輸送の博物館みたいのを作ろうとしたんじゃなかったっけ?
>>774
数年前の通常号で、東上線特集があった。
その後、阪急の3路線をそれぞれ通常号で特集したので、
東武も大まかな系統ごとに通常号で特集組む、って可能性もアルナ。 >>775
THX! 貨物の博物館構想かぁ
実現していたらモニや国鉄の貨車、荷物郵便車とかも展示してたんだろうなぁ そういえば、三重にある貨物博物館にあるSLは元東武だね。 どっかのブログで指摘があったが、1700系鉄コレのパッケージ写真に
イコライザー台車を履いた5700系が写っている。
当人の考察では、5720形の直角カルダン不調時にこれで営業運転したとか書いてあったけど、
場所が西新井工場だけに、只の仮台車だったんじゃないかと。 ttps://twitter.com/tojo1914
鶴瀬の掲示物の同人誌化サークルっぽい。 昭和58年くらいまで日光線でも貨物があったみたいだけど、
何を運んでいたのか分かる人いる?
ぐぐっても出てこんのよ・・・ >781
宇都宮線野州大塚から出ていた柳原側線で社用バラスト積んで全線に運んでた。貨物廃止していた野田線でも、終電後の岩槻とかで入換していた。 臨時快速に期待しよう
昔あった臨時快速は通常の快速より停車駅が少なかったな >>784
昔の臨時快速、北千住〜春日部間は準急停車駅に停車して、
それ以北は通常の快速停車駅に停車っていう列車があったような記憶が…
思い違いなら申し訳ないが 新鹿沼に大塩組があって砕石を業平橋まで送っていたのよ >>785
あ〜それ、朝の下りで57使ったやつ。
たしかゴルフ客向けに設定したやつだ。 >>785
休日はそうだったね
停車駅が少ないのは平日の方だよ >>782
なるほど。
実家が岩槻なんだけど、昭和63年か平成元年頃、
夜中に機関車の汽笛が聞こえてきたことがあったけど、
あれは空耳じゃなかったんだな。
長年の謎が解けたよ。ありがとう!
>>786
おお〜。ありがとう!! >>784
臨時快速が設定されるとすれば使用されるのは1819Fか350系だろうな。
今後1819Fとか350系が廃車になれば臨時快速の設定そのものもなくなるだろうし。 >>784
>>790
GWに臨時快速(正式には快速じゃないみたい)が1819Fと6050系で2往復運転されるみたいだな。 >>791
スジは空いたままなんだから特急誘導がうまくいかない場合は復活させて欲しいね おまえら、
ビデオテープって、ど〜してる?
DVD変換してる?
懐かしい映像とかもったいないじゃん???
で、こんなトコ見つけた!
★★http://pcassist-tachikawa.jp/dvddub.html
PCアシスト立川
古いビデオテープをさ、
持込でも郵送でも、DVDに焼きなおしてくれるw
デザイナーさんがいて、
『タイトル+タイトル画』も付けてくれるw
既成とオリジナルとあってさ、
1)絵心のあるヤツは自作の絵でもOK!
2)ガキんちょの絵だって、バッチリ
3)写真だって決まるぜ
おれ、近くだから、思い出のビデオテープと絵を持ち込んだ。
涙出るくらいカッチョええwww
PCアシスト立川〜〜〜〜〜〜おすすめだぜ!!
w ついに本線系の快速もこのスレに仲間入りかよ。
東上線に快速があるけどな。 5310系(旧デハ10系)って廃車の5年前の格下げ時に、ワザワザ右運転台を左に改めてるいるけど、
スゴイ面倒いと思うけど何故故?・・・緊急性必要性があったの?
ただ単に後年(5年後)車両淘汰計画が予想より早まって結果無駄な手間暇改造になっただけ? >>796
手持ちの昔のピクトリアル(を図書館でコピーしたの)を見ても理由は書いてなかったな
ただ、当時の車両が右、中央、左と運転台の位置がバラバラだったみたいだから
現場の意向で左に統一させたんじゃないかな?(法令的なものがあったかは調べてない)
まあ、車の運転でも乗るたび、左右入れ替わったら嫌だしなぁ まあでもクルマの場合問題になるの車幅感覚だろ?
鉄軌道は関係ないわな 鉄道で運転台の位置が関係してくるのは、タブレットの受け渡しの時かもね。 >>800
ホームの方がバラバラだから運転台の位置がどうこうって関係ないんじゃね? 訂正
641
×営団地下鉄の「捨てないで」
○営団地下鉄の「捨てないで」「鐘が鳴ってからでは遅すぎます」 2000系の地上運用について詳しい書籍やサイトってないですかね?
ちょっと前にたびじに運用される2000系の写真を雑誌で見かけて以来、
急に興味がわいてきて… 運番表示器に「準急」幕があったり、行先表示に「太田」があったっけ 館林の3050の運番枠に準急と出てるのを見たことあるような・・・ >>804
>>805
2000系の地上運用はトレイン誌433号に少し記載されてます
実際に運用されてる写真はダイヤ情報誌344号(8000系のあゆみと動態保存)に1枚ありました
地平時代の玉ノ井駅に停車中の浅草行き
未だ運行番号表示器が付いていない時代の写真です
自分はツートン末期をぎりぎり知る世代なので2000系の地上運用は全然記憶にありません
今度出る鉄コレで行き先幕や運行幕シールを貼り分けて再現するのも良いかなと思います
2000系の先頭車たくさん余ってますからねw >>780の本を買いにまさかのコミケ初参戦してしまった 鶴瀬のサークルが朝霞と高坂の調査を開始したらしい
どうせなら上福岡や男衾、松山〜嵐山の線路移設区間もやってほしいな >>810
もしかして土砂採掘場までの貨物線のこと?
あれ、跡地は残ってるし小さい鉄橋とかいろいろ残ってるよ。きちんと整備されてるところもある。
但し「最初の終着地」だった土砂採掘場はもうない。工業団地になった。
その先の、「最後の終着地」はとっくのむかしにゴルフ場に。
最大の遺構だった関越自動車道の鉄橋はもう取り払われてしまった・・・ >>809
松山〜嵐山間は結構調べてる人居るからなあ・・・
当時の状況ってのは分からんが、廃止後そして現状は・・・ってのなら、
まあ調べるなら調べれば?って感じ(個人的感想だが) 高坂は駅の北から関越の手前まで去年10月に遊歩道が出来てる。(チャリ可)
もうレポートとつべに上げた人がいる。 本人がTwitterで書いてあるけどレアウトがお粗末
本当なら2ページ必要なところを無理やり1ページに詰め込んだ感じ
知識のある人が作ったらページが3倍になりそう
ただ内容は良かった
各公的機関の公式文書などを発掘するなど、確かな資料に基づいて書いてあるので信頼できる
まだ決着がついてない部分もあるが、他に田面沢、金井窪そして啓志線を研究してる人間は必ず読めと断言する >>815
薄っぺらい、内容はパクリばかりのどこかで見たことものあるものばかりで、ソースもろくに無い、値段ばかり高い読む価値の無い本って聞いたけど? その本での話だけど、次に調べてるってtweetしている朝霞、男衾、大和田の三つで、最後の大和田ってなに?
志木になんかあったの? >>820 地形図の改正が間に合わず臨時に造られた路線が書き込まれていない、作製当時の最新かつ正確な状況を反映していないことがあるんだよなあ
資料がほとんどない、鉄道会社の社史にも載っていないことがあるし。 今度のもつまらなさそう。
それと>>815>>816は>>816のが正しくて>>815は自演? >>823
下らねえ野郎だな
ぐだぐだ言ってんじゃねえよ
興味があれば見る
それだけのことだろ
地形図は戦後の物でも戦前に消滅した旧町名が載ってたりするからな >>825 そのサイトの他の記事も見たが、1960年頃の新聞記事でダンプと列車の衝突や、寒波の影響でダイヤ混乱というのが幾つも出てくるな。
野田線で電車がダンプと衝突、電車脱線というのもあった。
この頃は、7800が最新型で東上線でも4両編成が一般的だったか。ラッシュ時の電車は超満員。
私の父が志木から常盤台まで通勤していたが、数年たって職場の近くに引っ越し電車通勤しなくなった理由がわかる。 東武鉄道って、やっぱり昔のツートン時代の方が良かったと思う(クリームとオレンジの)。
セージクリームになったら「玉子豆腐」、その後ホワイトに青ラインになって「冷蔵庫」…ロクな言われようじゃない。
あと、ここまで読んできて意外に話題に出ていないのが熊谷線。キハ2000は特急カメ号と呼ばれて、朝夕は地元の通勤通学客で結構満員だった。
揺れが激しく、吊革を豪快に網棚にぶつけながら走っていたなぁ…。 >>827
キハ2000はもう旧:妻沼町(現:熊谷市の一部)に保存されてる一両だけなんだよね・・・
しかも東武博物館は引き取らなかったとか。
つまり東武にとっても黒歴史、お荷物だったんだろうなあ・・・ 20年くらい前の鉄道ピクトリアルの東武特集号に船橋市で塾になったキハ2003についての記事があったはず
その記事を書いた方はキハ2003の変わりように落胆した様子だったが 鶴瀬のサークル次は東上関連というより軍関連のシフトね
個人的には北関東の某工場線を調べて掲載して欲しい
終戦間際だから工事開始から使用停止まで1年未満(多分)って本当に幻だから つうか煽り耐性低いからTwitterで情報出して煽ればのってくるんじゃない? Twitterやってないからサークルの人がココを見てる前提で書く
太田市西長岡町に太田市市営の墓地があるのだが、敷地内に中島飛行機地下工場跡ってのがある
1945年頃に藪塚駅からその地下工場近くまで線路を造ったのがその工場線ね
関係者の話を聞いて、それはトロッコなどではなく東武の線路であるということは確認してる
ついでに未確認情報として
桐生線と高速道路が交差する南方に生品飛行場関連の臨時駅があったらしい(自分も半信半疑) そこって、工場自体が未完成だったところじゃないか? 中島飛行機の大谷地下軍事工場だって、1945年4月に稼働し始めたわけだし、松代大本営だって未完成。
44年後半以降、各地で乏しい物資かき集め労働力動員して、地下軍事工場や臨時飛行場造ったってわけ。
終戦までに完成しなかったものはざら、稼働し始めていても、物資不足で満足に機能しなかったのもざらにある。 成増飛行場って実際に稼働してたんだっけ
特攻基地の万世は稼働したかしないかくらいだったかな >>837
その通り
工場については太田市史、富士重工社史、鹿島組社史とかは見たけど線路について記述は無かったな 成増は44年3月から稼働。調布と同様、戦闘機部隊が置かれてたが空襲の対象にもなった。 >>837 東武ではないが、北区ではほとんど記録に残されていないが、伝承によると存在したらしい臨時、突貫工事の貨物線、引き込み線ってのがあってな。 >>842
成増は稼働してたんだ
その北区の話を詳しく >>842 赤羽から西が丘に延びていた軍用貨物線や北王子線はよく知られているけど、西が丘の旧軍事施設の東南、環状7号線の交差点の辺りに引き込み線があったという。
トロッコ用のものだったかもしれないが。北区中央図書館の郷土資料コーナに資料がある。もっとも、社史とか軍の文書ではない。地図にも載っていない。
野田線も軍用貨物線が結構あったのではないかな。鎌ヶ谷飛行場への貨物線があるし、柏飛行場の方にも貨物線なかったのだろうか? それって兵器支廠と板橋火薬製造所を結んでいた姥ヶ橋付近を通る軍用鉄道のこと? >>846 そう、軍用鉄道というより、工場の引き込み線のようなものだったけど サークルのツイアカと相互フォローしているからDMできいた。
予定はないと回答。
今の男衾とかの本と既刊改定を発行してからサークルは解散、活動停止。
そもそも資料担当と編集担当が完全分業なので、双方の同意がないと本は作れないそうです。
資料収集やそれらの精査も量が多いので、場所によっては年単位が必要で、田面沢本も資料収集は約二年半、編集には10カ月かかっているそうです。 >>844
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで1945年前後の柏飛行場周辺の空中写真を見た感じでは
貨物線らしきものは無かったね
同じころの柏駅周辺を見ると船橋方面が東口側にホームがあった名残の廃線跡らしきものが残ってるね >>847
この姥ヶ橋付近を通るのは市販の地図にも載っているな
戦時改描がされていない地形図には載ってるだろうね >>848
それは残念
野田線は新船橋のイオンの場所も進駐軍の側線があったのよね 栗橋みなみも、もう32歳か〜…。
オレンジブラウンの制服時代が懐かしいなあ。 >>852
ドン小西だっけ?
20050のモニターにその制服と営団の制服を着たキャラクターが映っていたな。 ttp://shop.comiczin.jp/products/detail.php?product_id=33900
田面沢本がCOMIC ZINで委託開始だって。 適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否
トランプジョーカー切り(創価大学消防庁コストカットアイドルマスターパイナップル株式会社)30代好評人気連載漫画「ヒカルの碁お前ら何や」
NHKトランプ大統領ニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京ギャンブル依存症顧問職員稲田籠池豊田
40代社会人集団ストーカー対策ーhondasouichirouー 横浜ロアナプラスペイン上西フライングファイアーウォーターサーバーダイビングドライブシュート川中
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース 昔、東上線に走っていたブルーバード号って、日産がブルーバードを発売した時にはもうなくなっていたんですね。
ちなみに、今では、「スペーシア」が車の名前とかぶっている。 スズキのスペーシアは東武のが出て少し経った後だったからパクリが判りやすいw
あと、こちらもパクリでガラスの名前にもあったはず 国鉄の準急スカイラインってのもあったな
急行いすずってのもあったけどそもそもいすゞ自動車のいすゞって国鉄バス(と言うか省営バス)の制式なんだよね >>859
>少し経った後
スズキスペーシア2013年
東武スペーシア1990年
日本板硝子スペーシア1997年
少し経ってからって感じじゃねえし
そもそも後発だからってパクりじゃねえし >>859
スズキは、新型車にスペーシアの名称を使う際に、東武に使用許可を得たそうだ(当初は二代目パレットとして出す予定だった)。
あと、今年はじめに、東武で、往年のブルーバード号のカラーリングが復活したが、皮肉にも、今は、日産からはブルーバードは発売されてない(後継車はシルフィー)。 ブルーバード→ブルーバードシルフィ→シルフィ
こういう流れの改称って結構多いよね >>863
コロナ→コロナプレミオ(コロナはこれが最終)→プレミオ
BC戦争したもの同士w
おっとスレちだ、すまない。m(__)m 平日の日中ガラガラで冷房ギンギンの伊勢崎行きA準急が大好きだった。
なぜかサハに乗るのがこだわりだったっけなぁ。
平日で仕事休みでなにもやることないと、太田とか新桐生、赤城あたりまで行って駅近くで
昼飯だけ食って1800のりょうもうで帰るのがおきまりだったっけ。
あぁ、もうこんなことできる電車は東武にはないんだなぁ。 1997年、2007年・・・・・・と10年おきに11月頃鉄ピクの東武特集の増刊が
出ていたから今年も・・・・・・と思っていたけど出無さそうだな。
今年の11月の鉄ピクの増刊は阪神特集らしいし。
仕方無い、来年まで待とう。 >>868
RPが通常号で私鉄路線特集を始めていて、その最初の回が東上線。
東武は臨時増刊号ではなく、通常号で路線ごとに特集を組もうって
RP編集部は考えているのかも。阪急はそのやり方で全線取り上げ済み。 >>862 1720DRCは、初代セドリック初期型 >>861-865
三菱・デボネアの後継、プラウディア(2000-2001.2012-2016)なんか
資生堂・プラウディア(1997-2005)の発売開始3年後のことだし
それにもまして
上級(姉妹)車としてディグニティなるリムジンまでラインナップ(某宮家の公用車に採用)
初代は三菱の自社開発ではなく、韓国・現代に丸投げ(エクウスの姉妹車でもある)
生産も、韓国で作った中間品を輸入し、国内で仕上げる有様
当時、社内に様々な問題もあり、わずか1年で販売終了・・・
ちなみに初代の総生産数
プラウディア:1228台
ディグニティ:59台
2代は日産・フーガ(2代)のOEM車で
三菱の「10年・10万km特別保証制度」対象外 >>870
>>872
1960年4月セドリック発売のはるか以前に
東武関係者が実車を見ている可能性が高い
多分、発売半年以上前に行われる
大口需要家(ハイヤー・タクシー、社用車)向け内覧会あたりで
東武関係者がフロントデザインに感銘して
こだま級新形特急車両(のちのDRC)にオマージュしたんじゃないの
東武と日産は同じ芙蓉グループだし
内々では話が付いていたりとか
そして設計幹事の日車にデザインさせたんじゃない?
発注1960年1月、同年9月落成でも十分成り立つし そのセドリックもシボレーの初代インパラの独特なヘッドライト形状の影響受けてるからそっちが見本になった可能性も 昭和30年代はまだまだパクリ放題な時代よ。
キャノンのカメラのライカそっくり具合とか見てるとわかるよ そう言えば冬コミに鶴瀬サークル当選したようだが、本買うって奴はいるの?
夏の本の本当の所の出来はどうだったの? 今回は年末すぎるから行くの無理
委託販売するのならそこで買う >>870、>>874
あの縦目角ばったデサインは車両製造メーカーからの提案なので、それもない。
てか、つい11/5の鉄道伝説SP(BSフジ)でDRC特集の再放送やってたの見てたら
そんな考え出ないだろ。 >>882
あの番組(鉄道伝説)は
取材力や製作力不足で残念な回が多い
大人の事情に過敏な点も視聴者に見え見えだし・・・
「みんなの鉄道」にも言えるが、フジが作る(放映)からだろうな
衛星波(BS・CS)番組は、大人向けに地上波よりも掘り下げているつもりが
説明や時系列があべこべだったり、不適当な参考写真とか
逆に、中途半端なのが露呈して始末が悪い
差障りのある事は出さないし
・基となる参考文献に掲載された核心部分の内容も触れないかお茶を濁す
当事者(特に故人)が過去に文献で発表した内容と食い違う点もしばしば
・学術論文指定された書籍に掲載されているものもあり信憑性に関わることも だが、それよりも遥かにキモヲタの言うことは信用ならん。
反論があるなら、確実なソースが出せないのなら、それは「単なるキモヲタ君の妄想です」
と前置きしてから書いてくれ。 ちょっと調べてみた。
何の事はない、1954年の段階で、ファセル・ヴェガがすでに縦目4灯を発売してた。
ボンネットマスコットに至っては戦前のダイムラーにすら付いてる有様で、やっぱり
ヲタの言うことは信用などしてはダメだ。 あーうるさい
ヲタがなんとかとかいちいちケンカ腰になりなさんな DRCの回は東武博物館館長も出てたし、ちゃんと調査してるよ > 鉄道伝説
むしろDRCの設計はアルナ主導で日車はセカンドソースだと思ってたのに、
意外と日車がガッツリ設計に噛んでた事が分かって実に有意義だったよ 鶴瀬のサークルがヤフオクで落とした写真は、朝霞の基地の引き上げ線付近じゃないのかな?
航空写真を見ても朝霞付近で線路際に木がいっぱいある場所はあそこしかないし
列車自体は東上線を走行中で、奥の方がその引き上げ線 DRCのデザイン起源が直球で初代セドリックか?とかで、白熱してアホ草。
当時の流行り(トレンド)とか そう云う視点で視れないのかね?
直球ターゲットでデザインを模倣した訳ではないと思うよ。
国鉄の151系(こだま型)だって影響を与えたのは間違えないし・・・。
国鉄特急もDRCもフロントのエンブレムは当時のアメリカ車全般V字に代表されるエンブレムの
影響だし・・・
只 高運転台を特急車に採用する会社(国鉄、東武、近鉄) 空気抵抗を考えて?
思い切り 低い運転台を採用した小田急SE車の動向は興味深い。 >>888
日車とアルナでオーナメントの位置(高さ)が違うんだっけ? >>890
ここで書くのはスレ違いなんだけど、小田急はEXEやMSEのように低運転台特急を
現役で保持してるところを見ると、高運転台のメリットをさほど見出してないのかも
知れん。 鶴瀬の啓志線本は板橋は晴天なりの100%パクリ本って本当ですか? >>890 国鉄151系や東武DRCのようなボンネット型の場合は、先頭部に騒音発生源である電動発電機やコンプレッサーを収納して、客室の静粛性を高めようとしていた。
あるいは名鉄7000のように先頭部を展望席にするか。ボンネットも展望席にもしなかったものとして、南海の旧こうや用車両20000系もあるだろ。 小田急SEは、冷房なし、リクライニングの座席なしと、東武DRCに比べたら簡素な内装にして余計なものつけないで高速化を狙った車両だからなあ。電動発電機等をは各車両に分散し、構造簡素化を図るべく運転台を低い位置に持ってきたわけで。
必要性がなければ、わざわざ、運転台を二階部分に持っていく必要はないってわけだ。 冷房で思い出したけど、7800系グループを、更新して二代目5000系を造り始めた際
社内で改造の是非や改造内容について相当揉めたの?特に冷房を載せる載せないで・・・
そんな中 更新後5000系が、方向転換(電気配線、空気配管の都合)で種車7800系
と混併結出来ないようにしたのは、何故故拘り? 名鉄の7300系の様に在来(名鉄の場合
AL車)と繋げて運用し一列車あたりの近代化や初期改造ロットから冷房を積んで列車単位
の冷房率の向上を図るとかする考えは、何故起きなかったの? 東武は基本的に車体更新には金を掛けないんだよね
3000系も蛍光灯の数が少なかったり、種車になった同時期の新車に比べてコストカットされてる。
冷房についてもそういうことかと
異種形式での併結についても東武はあまり重視しないし
30000系が10000系と併結出来るようになっていたことすら当時すごい驚かれたぐらいだからね
まぁ本線は6連運用が基本だったから、東上線みたいに10連固定にすると地上線で使いにくいですし
分割編成にするなら4連の方は地上線で使うなら2連の10000と組むことが必要だったわけですけども >>897
5050をHSCブレーキにするのに、8000と併結出来るように、って理由を付けて
館長が上層部に掛け合ったんじゃなかったっけ。
それにしても、5000は謎だよな。78と併結出来ないしブレーキは変わらずだったし。
3000は更新前の在来車と併結出来てたのに。 別にに謎でもないんじゃないのか?
本来はもっと纏まった数、それこそ7800系を全部5000系化するつもりだったが
計画が見直しになって、結果的に少数派になってしまったというだけでしょ >>895
ところがDRCのボンネット内は空っぽで、後からATS装置等が積まれた程度
>>899
館長が上層部に掛け合った割には、加速度が全く合わず営業運転で併結したことは無いんじゃなかったかな?
趣味的には興味深いが、共通化したところでほとんど意味がなかったという黒歴史 蛇 7800系と5000系(を冷房化して)併結混用(方転して)すれば良かったような・・・
マア 東武はトンネルの向こうのイメージ戦略ありきの鉄道ハッタリの不動産屋と違い
車両淘汰、計画変更した場合の見切りの付け方は素早く潔いからソレも更なる無用な
二重投資と云う事か・・・? >>901 高速運転故 踏切事故に備えのクラッシャブルゾーン? >>901
8000と5050じゃ加速は大して変わらない。
5050も2km/h/sは十分出てた。 実際の加速度は関係ないのだ。鈍長な吊り掛け音に感情移入して
一緒に踏ん張ってしまう、その疲れの割には大してスピード出て
ねえなあという感じするのじゃ。 7800は音がうるさくても乗り心地が悪くてもそういうもんだと思うだけだった
5050は なぁに?この快適性に欠ける電車は? と不快に感じた
近代的になった車体とゴリゴリした乗り心地や騒音がアンマッチだったせいかもしれぬ
不快ったって台車が古い3000系列よりはるかにマシだったけどね >>899 5000系グループのうち、初期の5000は車体ブレーキだから7800と併結できるのでは?その代わり、台車ブレーキにした5050以降と併結できない。
緊急時のHSCブレーキ使用を前提としなければ、5050や8000にしても7800や3000と併結できるだろ。ただし、通常の営業運転ではそんなことしないだけで。
3000が更新前の車両と併結できたのは、荷電化した更新前車両との併結運転をする必要があったからではないのかな。1965年頃の東上線池袋駅にいる3000系列の新旧混合編成の写真がある。 20050,9050についていたドア上の液晶モニターは、当時としては画期的な装備だった。
画面下についていた"SHARP"のロゴも誇らしげだった。
しかし、液晶の劣化が予想以上に激しかったことや、なにより、当時は液晶モニターを生かせるコンテンツが無かったことで(地下乗り入れ運用が中心だったことが理由か)、わずか6,7年で撤去された。
そのトラウマで、東武は長いこと液晶モニターには慎重になっていたが、最近出た70000系は、そのウサをはらすかのように、一気に3画面モニターになった。
最近は2画面モニターが主流になっているが、なにもそこまでしなくても。 昭和は街の中のあちこちに人をホッとさせるような影があった。
7800の中間に組み込まれたクハの車掌室など、車掌室そのものは
施錠されていたがその反対の空間はぶ厚くて丈夫な荷台のような
ものがついていてそこに数人座れた。昼間はガキンチョが秘密基地的
指定席として占領し、夕方のラッシュ時は座席にあぶれたサラリーマン
の兄ちゃん達がだらしなくどかっと腰掛けていたり、1日の疲れで
足が疲れたOLのお姉さんがごく浅く遠慮がちにお尻を乗っけて
いたりした。そんな風情も昭和が終わるより前にになくなって
しまった。8000系に乗ったつもりが重苦しい音で荒川目掛けて
勾配を登る時、響きわたる吊り掛け音に、ヤラレタと少し騙された
ような気がすると同時に7800や7300にあった昭和を懐かしく思い出し
たものだ。 7300系をもし、再更新していたら あのグロ便は、しぶとくまた生き残ったのだろうか?
西武701や101みたいな グロ便と集中クーラーの狂存? >>910
分散型クーラーが邪魔してグロベンは付けられないだろう。
のちの8000の修繕を先取りして、通風器は設置しない、になっていたかも >>907
とれいん343号によると5000は7800とブレーキは同じだが、ジャンパ線位置がなぜか8000に揃えてあって繋げられなかった。
7800に揃えてあったら混結もあったのだろうが、大人の事情なのかな?
とりあえず作ってみて、後で8000化するとか計画があったのかも? >>912
78を全部5000にする計画だったんじゃないの?
だとすると共存するのは一時だけだからなあ >>907
車体ブレーキと台車ブレーキが混在すると併結できないの? >>913 5000改造車登場時の鉄道ファンの記述には、年間改造両数は数両?
(具体的な数は忘れた。)で板張り電車が無くなるのは気の遠くなるほど先のハナシ
と記述があった。クーラーを積まなかったこと、台車等更新アップデートが無く
7800を8000に車体乗せ換えただけのシロモノと散々な批評。・・・だから
一応は全車改造を考慮していたのでは?只 改造内容については、結構迷いが
あったのでは?事実5 次の改造は5050系で仕様変更。 7300が車体更新されなかった理由について、台枠や台車が2度目の
更新に耐えられなかったんだろうか?公式に何か言われた事はあるんかね? >>917
単にこの会社のしきたりだと思うけどね。
当時の鉄ファン誌の寄稿記事に
「全数の8000系置き換えは時期尚早」
「一度更新した7300は廃車することに」
「すべてが置き換わるのは遠い将来のことである」
とあったのはよくおぼえている。
“公式”といっても、あらゆる内情を企業があからさまにはしないしなあ。 >>917 7300系って もしかして台枠も旧品(63流用)?
ダトしたら 流石に使わないでしょ。
なんせ 戦後まもない粗乱製造 使用鋼材もソレなりカト・・・?
7860は、何故 商慣行(その後50000まで発注事例 無し)に反して日立で造ったの?
他社が手一杯で造れない分を引き受けたとか?
一社単独製造で全鋼製 仕様が微妙に違うのも気になる。 70年代末という国鉄でさえ旧型国電の淘汰を進めていた時代に
63形由来の機器を再々利用するという発想は無かったのではないか。
でも最初の更新の時に全金属で更新していたら90年代までは使っていただろうな >>920 足回りは63形より古くても全金属車体だった、西武411のその後とは対照的だな。 920氏、 73は全金属製?、と思ったが床板は木だった、けど
もしかして屋根も木だったとか?78の車体は全金属とは、言わない?
もし一足飛びに昭和38 39年頃に8000系のボディ乗せてれば90年代まで
使ってたろうね。 >>922
73,78は7860系以外屋根も木製だよ、7860系は車内に木材を使ってるから全金属車とは呼ばない。 さんきゅー そうか、鋼製車体ではあるが全金属ではないという
ことだね。あまり考えたことなかったよ。
初期の7800系ならともかく30年代半ばにつくった7800系は
国鉄63型の全金属車そのままコピーさせてもらってたらもう少し
寿命は長かっただろうね。 足立区民からすると千代田線に乗り入れて来る洗練された小田急車両や
東急車両見て、やっぱり俺らアダチだよなあ 山の手には敵わん、と
諦めさせつついつか頑張って出世して山の手市民になってやると奮起
させるのに野暮ったい板張りの7800 7300は充分であった。大体根津嘉一郎
翁にしてコレクションの博物館を青山渋谷あたりに造る事からして、
足立墨田界隈を下町の平民と見下しているんではないか、と拗ねたく
もなるが、それはそれで青鼻たらした足立区の貧民な子供でも、両親に
日光や鬼怒川に遊びに連れて行ってもらえるように乗車券だけで乗れる
速達の快速を走らせてくれるなど暖かい配慮もしてくれるにであった。 丁度今頃、白い息吐きながら浅草浅草寺の初詣で、仲見世通りを歩いて
お清めの水で手を洗い、頭が良くなるようにとお香の煙を頭にかけ、
それから押し合いへしあいしながら本堂でお参りをし、賽銭を投げ、
一通り初詣を済ませて、清々しい気持ちで浅草駅に引き上げて、
きついカーブに始発で入線している8000系や7800系など、黄色い
シートに黄色い壁で照明までも暖かい黄色に見え、冷えた体を
シート下からの暖気とともに暖めてくれるのだ。特に7800系などは
その古めかしい内装と板張りの床からの微妙な油の匂いが、
大げさにいえば永遠の昭和を感じさせたものだった。
恐らくは洗練された山の手の方の車両はむしろ無機質で気負って
忙しなく、こんな空気は味わえないのではないかと、それはそれで
東武沿線民である事の幸福を感じるのであった。 >>919
相鉄じゃないから73系はすべての車両が車体新製している
だから、コスト削減の観点でも半鋼製でその大部分が津覇製
73更新時に旧車体は、西新井のだるま数体※を除いて廃棄
※1983年秋ごろまでは、ほぼ完全な旧車体があったとか・・・
http://blog-imgs-90.fc2.com/k/a/e/kaede150421/8310.jpg
http://blog-imgs-51.fc2.com/k/a/e/kaede150421/311-13.jp RMのトワイライトゾーンにも出てたな
変な場所にドアが増設されていた >>928
後ろのマンション元住民。
物置と思われるコイツとドアだけで組み立てられたような同色の小屋おそらく浴室を覚えている。
工場に風呂があるなんて、と思っていたが素材系製造業ではよくあることを知ったのは転出後のこと。
いまや跡形もないわけで、懐かしい限り。 西新井工場は守衛さんお願いするとわりと簡単に中を見学させてくれたし、
色々話も聞かせてくれた。EDの貨物が小菅の坂登れなくて立ち往生したあと
だったんだけど、その原因などもいやがる風でなく普通に答えてくれた。
上に7860の日立の話題が出てるけど、会社としては大まかな仕様を決めて
数社に分けて発注する事で各社競作して良いものを作ってくれるんで
そうしてるっていうお話で、当時高校生の俺は感心すること仕切り。
良い社会科見学になった。 多分見学は日曜で工場はほとんど動いて
ない感じだった。平日は車輌の出入りがあるから断られたかも。
守衛さんは多分工場内の職場の人が当番でされてたんでないかな、
工場内の事精通されてたし。
今の春日部とか館林工場とかどうなんだろう?
件の7300の廃車体だけど俺が行った時は1両しか気が付かなかったけど
他にもあったのかな。カメラを持ってなかったのか、外部の人間としては
見ちゃいけないもの見た気がして写真に撮らなかったのか、ネガは残ってないはず。代わりに外側の一般道から覗くように撮ったネガは持ってる。 >>928
この色は、今、東武亀戸線でリバイバルカラーとして走っている。 >>931
福利厚生施設にこんなお化け屋敷みたいなものを長らく使ってたのかぁ。
そらぁ戦前型国電並みでも『これはお客様用ですから(キリッ』のスタンスが続いちゃうわけだ。 >>934
良くも悪くも東武は貧乏だったからね
初代根津が社長に就くまでは赤字で倒産寸前だったような会社
根津体制になってから徹底した経費削減策をずっと取ってきたから節約思考が物凄く強い >>934 時間軸を少し測り間違えていない?
80年代(昭和55年〜58)初頭〜中頃は未だ戦前型の旧型だって第一線で活躍していたし、
63そのものは、皆無でも73の古いのは未だ現役。
山陽だって同じく元63の700の旧車体を倉庫で活用。
ちなみに戦災応急復旧車で一番最後まで営業稼働したのは庄内交通のモハ5(元京王)
路線廃止の昭和50年まで稼働。 >>931
最後の写真、右側の窓の大きなプレスドアは貫通路のもの? 戦前型・・・他社の電車なっ。 東急はソコソコ内装は手入れていたけど、名鉄は其れこそビンテージ? >>935 戦前の小田急、西武に統合される前の武蔵野鉄道にしても、貧乏つうか会社が倒産しかねない状況だったわな。東武は近鉄や名鉄と同様、多くのローカル線抱えてるから、国鉄のように旧型車をローカル線に転用しやすかったってわけで 東武の津覇車輌とか京成の大栄車輌とか子会社かと思うんだけど資本関係ないんだよね。公務員の天下りと同じように東武や京成みたいな大企業はどんどん子会社増やして中年以降の正社員を出向転籍させるのが人事のやり方。大学新卒で
入社しても定年までいれるのはほんの一握りでほとんどのおじさんは関連会社
に追いやられ、役員の肩書きだけもらって給料低く抑えられたまま定年まで
つとめて上がり。 本人はまだいいんだけど出向を受け入れた方の会社の社員は
いくら頑張っても出向社員に要職占められたままなんでやる気も出ない。
京成が大栄車輌にそれやろうと資本関係受け入れて役員派遣させろとしたが
プロパー精神で会社がもってる大栄車輌としては受け入れがたかったらしくて
結果的に京成から切られたらしい。その点津覇車輌はうまくやったのか、しれとも東武が無理強いしなかったのか。 >>940
ボロ買いの根津なんて言われてたぐらいだからねえ 都交や営団と手塚の関係もそんな感じかな?
車両メーカー以外にも、車両清掃や鉄道部品、用品、特殊工具作成、資材調達とかで
零細企業との継続取引がある 有限会社の場合 天下りとかではなく、人間
(オーナー社長)対人間(鉄道会社、事業団体の担当者)の関係で定年後に雇ってもらう
ケースもあるよ。 無論 この場合 被雇用側の在任中の業者対応姿勢、人望がモノを云
うが・・・ 津覇と大栄の類似点として
汽車の下請けをしていたという過去があり
取引先の大手私鉄などから資本参加をしない
津覇は大栄と違い、鉄道以外の分野(重機、土木など)があること
鋼製部材の加工が得意で、東武以外の取引先※が数多くある
※特に三菱重工の関連会社(現在、資本関係の無いものを含む)
重機ではキャタピラーと関係が深い
・建機(クレーン・ショベルなど)の部材(ブレード、アーム、アタッチメントなど)
http://www.tsuha.co.jp/pdf/machine.pdf
・大型クレーン車のフレーム
・防衛装備品(後方用装備:シェルター、1トントレーラー)
http://www.tsuha.co.jp/others/frame.html
土木(構造物)関係は
大型ドーム施設の屋根を多数手掛けている
スキーリフトの鉄柱や、高速道路の標識塔とか
http://www.tsuha.co.jp/others/build.html
立体駐車機
http://www.tsuha.co.jp/others/other.html
キャタピラーや三菱自工のディーラー看板など
http://www.tsuha.co.jp/others/setup.html 63系の廃車体は工場安全衛生なんちゃらがうるさくなった今だと許され
ないんだろうなあ。下請けさん側と一体化した安全衛生の責任持た
されるから、発注側が色々干渉してくるらしい。それこそ冷蔵庫の中まで。
窮屈ではあるよね。
もっとも津覇車輌がわも廃車体を廃棄物というのではなくて歴史的資料
として塗装とメンテナンスしてきてくれてれば後で価値が出たのにと
悔やまれる。あと終戦後満州から引き揚げてきた技術者達が食うために
津覇車輌や大栄車輌に入って、東武や京成に仕事を請うてたらしいけど、
そうすると戦後の住宅難からの電車住宅というのも連想される。
鉄道側も割と廃車体の提供には好意的だったらしい。7300更新は
昭和30年代末だからまだまだそうした記憶が新しかった頃だよね。
電車住宅ではないけど昭和50年代バブル前まで木造の粗末な住宅が
あちこち残っていて、たしか玉の井のあたりだったか電車の中から
家の軒先がよく見えた。洗濯物が干してあった。そういう方が東武
らしくて好きだなあ この63、もう少し後まで残っていれば東武博物館に、丸々1両は無理でもカットボディだけでも保存されたかも知れないな 津覇車輌の人にしてみれば戦時設計で粗製濫造された63の車体など
ボコボコでここダメあそこダメでなんの価値もなかったのかもなあ。
それ位7300の造りはしっかりしていたよ。国鉄可部線の63など
よく東武7800 7300の終わりと同じ80年代まで持ったものだと思う。
7300は昭和21年 ××製造 昭和3x年津覇車輌改造 って銘板つけてた
よね。今でも津覇車輌って名前見ると今でもワクワクする。 >>949 子供の頃 判り易い会社名だと思った。(オトナの社会でも稚拙なくらい単純と云うか)
カテツ交通工業(華鉄・・・中国の華中鉄道復員関係者で起業)は、津覇?大栄?どっちの
かの後身だったような・・・。 >>950
間違いなく後者(大栄)の方(カテツの後身が大栄とされている)
津覇の創立(1932)は、華中鉄道が設立(1938)する前だから
1932年2月合資会社津覇製作所、設立
(東京府南葛飾郡砂町※ 現:東京都江東区南砂)
※汽車製造東京支店(1931年開設)の敷地内(借地)
この借地は1967年に汽車から津覇に譲渡
南砂工場閉鎖後も大部分を保有
http://www.tsuha.co.jp/company/history.html
1952年7月大栄工業、設立(東京都江東区大島) 吊掛け式だのカルダンだの知らない幼稚園時に、初めて伊勢崎線のナナサンかナナハチに乗った。
その時は木でできたボロい電車だから、うるさくて恐い音が出るものだと思い込んだ。
それから6〜7年後に、面白がって浅草に行くようになるとは想像もつかなかったな。
モニターに【各停 幸手】とあればほぼボロが当たって、牛みたいなモーター音とレールをキンキン鳴らして入線するのにワクワクしたものだ。
時には18時頃の【通勤快速 東武宇都宮】にも乗ったりして、各停とはうって変わり脱線しそうな走りも味わった。
春日部で野田線に乗り換えると、まあまあキレイな室内なのになんてトロい走りなのかとじれったくなった記憶がある。
下回りがずっと古いのはまだ知らなかったし。 まあ吊り掛け音は牛だよな。床が木ならば木製電車かと思っても
仕方ない。
ウォーンの牛音、速度出てからさらにノッチ入れた時の悲鳴の
ようなモーター音、まこれは北千住春日部間27分で走破しない
通勤快速運用に入ってしまった7800へのムチへの悲鳴みたいな
もんだ。併せて特にまだ暑い夏の夕方よりによって非冷房の
快速7800にうっかり準急だと思って乗ってしまった帰りのサラリーマン
客の心の叫び。ああ1日今日も疲れた早く家に帰りたいのに
我が家の脇を力行して走り去らねばならない絶望感。しばし
サヨナラ我が家 ワタシは用もない春日部に行ってきます。
激しく揺れる車内の吊革を握りしめ、額の汗拭うハンカチ、
ドナドナされるそれこそ牛の気持ち。
野田線3000系はなまじっか8000系みたいな車体だから8000系の
ような走りを期待してしまう。武骨な茶色いボディのままだったら
逆にこのボロい電車よく走るなと感心したであろう 鶴瀬のサークル本購入
男衾の火薬工場の機関車が払い下げられたって書いてあるけど
東武と同じレール幅機関車ならどこで使うんだよ?ってことになるので
鉢形に払い下げられた機関車はレール幅610oくらいのトロッコ機関車で
鉢形駅から荒川への砂利採取軌道に使われたのではと予想する >>953
レスサンクスでござんす。
その後習い事で野田線は頻繁に乗ったけど、今思い出しても3000系列はとにかく力不足を感じたね。
モーターは73&78の牛音と振動より静かなんだけど、東岩槻や春日部の坂をやっと越えてる感が強かった。
ウォォォ〜ンと鳴り続け、ピークでフッと静かになると下回りからゴロゴロした響きが際立ってくる。
中間運転台を覗いてたら、どちらでも60キロがやっとだったなあ。
帰り道はたまに8000系が当たったけど、夏場は涼しいし乗り心地はいいし同じ運賃はひどいとさえ思ったものでww
長じてバイクやクルマに乗り始めたら、しばらく鉄道趣味から遠ざかってしまったな。
野田線3000系の終焉がいつかすらその時は知らない。 1985年頃、
1度だけ鬼怒川線で7800系らしき電車を見かけたんだけど、
何用だったんだろう。
5700系は、団体専用とかで見たことあったけど、
あっちは完全に通勤用じゃんか。 団体専用でも林間学校では7800や8000が使われてた >>957
85年っていうと78末期だね。
東上では既に越生線と森林以北でしか見られなかった。 >>958
さしずめ路線バス車を貸切使用するようなものか。
でも油ギトギトな床なんかにリュックや食べ物入りの荷物を置きたくないよな。 >>957
夕方の下り通勤快速の送り込み回送を臨時に仕立てた運用があったみたいよ
それが鬼怒川からの回送かどうかは知らんが、
どっかのサイトで鬼怒川線内を走る78の画像見たことある 連レス申し訳ない
85年頃で思い出したけど、春日部駅の1番ホームに旅客が自由に利用できる情報端末が設置されてたけど、
これって他の駅にもあったのかな? >>962
なんかATMみたいな形のやつでオンラインで繋がっててやたら時間かかるやつかw
モニターに東武の色々な情報が表示できて紙に印刷出来たような
一部の駅に設置されてたね
高坂の改札前にもあった記憶がある >>959
越生での78ラストランは見に行きました 957 伊勢崎線筋では確か84年3月が7800、7300の定期運用最後だったと思う。
ただ85年に入ってからか定かでないが1度草臥れた7800が走るのを見た。
多分西新井の津覇車輌への更新入場の回送だったかと。 その津覇車輌だけど西新井工場の中の国鉄63型の廃車体は何に使われてたのか?
なんか更新工事で朝から晩まで作業して廃車体の中で寝泊まりしてたようにも
見える。戦後満州から引き揚げて電車住宅に住んでた経験とかありそうだ。 西新井工場の赤い63車体って昭和46,7,8年頃本線から見えた?
幼児の俺は上りで西新井出るといつも西新井工場の中に何の
車輌がいるか必死で見てたんだけど、見慣れない赤い車体を
見て不思議に思った記憶が微かに蘇った。
その頃だと更新10年経つか経たないかだからまだ赤がそこそこ
鮮やかでも不思議ではない。 鶴瀬のサークルの書き込み見て男衾駅付近を見たら砂利採取軌道らしきものを見つけた
鉢形は知ってたけど、ここにもあったのかと驚いた 男衾のはつい近年までホームが残ってたから結構知られてる 廃線サイトみると男衾の貨物ホームは弾薬庫線と説明してるの見るけど、国土地理院の航空写真見ると違う気がする
作ったけど使わなかったって感じ 本土決戦に備えた弾薬庫か。
陸軍の児玉飛行場に加えて海軍部隊も移り始めてたそうだしな。 あのエリアだと例えば県立小川高校にも軍が駐屯してたって言うし。
その高校の裏にある「富士山(ふじやま)」に防空監視所。
さらにその山いったいには物資備蓄用の横穴が多数掘られていた。
都心から離れたあの一帯はそういうのに都合よかったのかな。 >>976
すまん、鉄道と無関係だった。読み飛ばしてください、ごめんなさい。 >>970
梅島のホームを出るとすぐあたりにあったんじゃなかったか?
準急乗ってる方が見えやすかった 男衾のホームは東武の標準規格の貨物ホームだから、特に軍用線とは関係はないと思われると回答きた。>鶴瀬サークル >>954
その事も突っ込んだけど、資料明示で否定されたw
付近の砂利線は馬引きトロッコや人力トロッコで運用されていたと。
蒸気機関車を運用するなら、運転要員、整備要員、給水給炭設備が必要になり、それが当時準備できるのか?
さらに昭和26年の資料にも、付近で機関車を運用していた形跡がないとのこと。 動物公園の工事でモハ7329健在が話題になってる
朽ち果てていると思ってたけど見た目は状態良さそう
>>980
機関車といっても加藤のようなDLをイメージしてた
SLは最初から頭になかった
荒川からの砂利運搬は坂を登るから、最初は馬や人力かもしれないけど、
1960年の航空写真に写ってる「何両か繋がったトロッコ」では機関車じゃなければキツそう いやいや、車体7329はサビ汁の跡だらけで銚子電鉄の再生される前の801くらい酷い状態だよ
気になるのは車体を囲う様に鉄板が敷かれてる事だなあ
これは不整地に重機や大型車両が入る予兆だわ 壊れる前に武蔵小金井にある江戸東京博物館のたてもの園に欲しいなー。
都電7500形オリジナル車はあるし、昭和の街並みに合うと思うわ。 >>982
別画像見たら屋根が抜け落ちる寸前だったorz 6000系→6050系の更新は、ザクがガンダムに変わったくらいの衝撃。 京急デハ230形は解体寸前の所で京急が復元というラッキーな展開だったが
7329はそのまま解体されちまうのかなあ
花上さんは吊り掛け電車がお好きじゃないみたいだから… 鉄板の配置は
クレーンとトレーラー入れて外へ運び出しそうな感じだな >>990
手前のフェンスはあるしトレーラーや重機2台なんか入らないよ。
これは破壊(解体とは言いたくない)準備できまりだわ。
写真で初めて気付いたが、このモハはグロベンでなく両用ベンチの異端車だったんだな。 車体を囲ってた目隠し代わりの金属塀が撤去されて
周囲の木は枝が剪定されてる。
加えて地面に敷かれた鉄板、やはり解体なんだろうなあ。 せっかく復元したトク500も何のためらいもなく解体してしまったし、
東武って古いものに無頓着な所があるよな。
ときわ台の北口駅舎の解体はショックだった。 リバティ500系で、汽車会社が川重に合併されて以来、約50年ぶりに東武に川重製車両が登場(川重としては初)。
70000系は、東武史上初の近畿車輌製。
最近盛んだった日立はどこへ行った(日立も40年以上ブランクがあった)?
特に日比谷線は、メトロ、東武とも日立製があったのに(設計の共通化も容易にできた)、予想外の近車製。 >>996
日立はイギリスの高速鉄道に力を入れる為に、鉄道部門を分社化してない?
その社長が日本人じゃないとか。そのお家騒動の間に、川重と近畿に取られたとか。
隣の西武も、川重が川崎車輛の時代以来はじめて電車を受注してるんだよね。
南海でも、帝国車両の時代を経て東急だけに発注してたのに、初めて近畿車両が受注した。
これは、東急車輛がJRに買収されるお家騒動があって、その間に川重と近畿に取られた、と言う話。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 1384日 19時間 35分 56秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。