懐かしの東武鉄道について語ろうパート6
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>>423 >>426
みんなそうよ
サボだけでなく、ボタン1つの自動幕でも乗務員室に駅員が入り込んで操作してた 鶴瀬本の内容の感想キボンヌ。
高くて迷ってる。
読みにくいとかはいい。
内容の質を知りたい。 幼稚園頃に親と親戚のいる「イナカ」に行く際、久喜で東武に乗り換えると必ず恐いボロ電車(73か78)に乗り合わせたものだ。
反対側に来るキレイな電車(8000)が羨ましかったのと、連結面のマジックハンドみたいな金具が珍しかった。
国電に無かったアレは、何のためにいつまで付いてたんだろう? >>431
阪急の8040にも似たような金具が幌に取り付けられているから、阪急関係のスレで聞いてみたら?l 訂正、阪急7450+7320、先頭車同士の連結貫通幌写真だな。
NGワード規制かかっているのでURL載せられないが、検索して確認してみて。
これがないと、高速走行時に幌がガタついて困るとか。
ちなみに、別の車両だが、阪急の転落防止幌付きの場合、このような金具はついていない。 車番?の表示でクモハがクハと表記されていた気がするけど、いつのころからか番号だけに変わってしまった。
なんでクモハにしなかったのだろう。 東武の場合はクモハもモハですねw
車内表記で無くなったのは30000からでしょうかね? 現行色になったら種別表記をやめたよな。
乗客には無関係だし、内向けには見りゃ分かんだろってことか。 >>434
8000系の塗装変更(白に青帯)からだった気がする 話題に出ないから振ってみるが、6000系ってけったいなシートだったな。
背面は腰上10pくらいしかクッションが無く、それも上端がパネルから浮いてるから頭をもたせ掛けられないハンパ構造。
うとうとしたら後頭部をパンパン当てて痛くした記憶がある。
国鉄車両でなくてもクロスシートは普及してたはずなのに、なんであんなビンボタイプを採用したのかな。 >>440 国鉄115系並みと考えればよいのでは?
ごく一部を除き特別料金取らない快速運用だったわけだから >>441
当時は特急なんて浅草行かなきゃ乗れないお泊まり客様用列車。
今みたくどんどん乗ってください、というか乗れよ!なんて微塵もございませんや。
>>442
国鉄近郊型シートは幅が狭くても、肩が浮いたり頭の置き場に困らないから115系並みってのはない。
下半分だけクッションなんてのは湘南型80系の初期タイプ並みです。 >>443 一般的に、座席の幅やシートピッチの方が重視されると思うのだが。
東武6000のシートピッチは1480o、115系等国鉄近郊型車両は1420o。 俺も6000系にはあんまりいい思い出無いなぁ
シート背ずりの貧乏仕様もそうだが、
非冷房で、朝方上り快速にも平気で4両でやって来る
春日部駅から北千住駅までの20分ちょいの時間が物凄く長く感じた子供時代・・・ 幼い頃、DRCが満席で仕方なく6000に乗ったけど、なにぶん子供の頃だったから不満だった。
車内で揺れて座席のひじかけに頭ぶつけたり、混雑していて、正直嫌いな車両だった。
快速急行だいやで帰る時、ダイヤモンドみたいな豪華な列車が来ると思ったら、
6000系だったからがっかりした記憶がある。夏場は暑かったし。
中学生くらいに乗車した時は、夏場だったけど、窓を全開にして、
栃木辺りの風景と風が気持ち良くて6000も悪くない車両だな、と思った。 >>446
ダイヤというよりコンクリートみたいな座席だった 国鉄近郊形(ピッチ拡大前)の狭さもアレだったが、東武6000の上半分板張りはなぁ…
大人しく座っていれば問題ないとは言え、つい居眠りして寝返りうった時などにゴチン!とか
8000の冷房化が進むと、別料金出して暖房車!?みたいなところもあったし 6000系といえば、子供の頃、自分が乗ったやつの反対方向のが6050系で、何か悔しくて泣いたわ。 ほんの一時期だが6000+6050って編成もあったね
そういえば6000って宇都宮線普通列車の運用に入ったことあったっけ? 6000が冷房化できないのは床下がびっしりだから…が通説らしいが、そしたら6050更新の際は何をコンパクト化やMcへの移設をしたのかな?
ブロアレス抵抗器はご立派なままなのに。 適当というより、冷房搭載を前提に設計してないから各機器の間隔が余裕持って配置されてたんでしょ
6050では機器間隔を詰めたから搭載できたと 車体が対寒大雪設備が不十分で、冷房機を搭載すると車体が持たないから更新した、と聞いたけど、違うの? 単なる老朽じゃないのか?
更新時点で20年前後の経年だったし >>457
ほぼ同時期の8000が車体載せ替えじゃなくて修繕で済ませているという事実。
シートがそんなに酷かったんだったら、Tc車の床下機器配置を全部やり直して
冷房化してシート取り替えて・・・なんて手間をかけるより車体を
そっくり載せ替えた方が手っ取り早い、って判断なんだろうな。 まぁ、野岩線が開通するからイメージ一新しようっていうのもあっただろうね この時期は東武の車両置き換えや更新のプロトタイプって印象があるな。
戦前国電フォルムの78更新がほぼ終わる時期と重なったが、6050の前面や下降窓採用が斬新すぎるもの。
6000の焼き直しでなおも東武顔で造られても不思議ではなかった。
設計陣はよくぞあのカタチを通せたものだよ。 2000は代替新造
6000は車体載せ替え
8000は修繕
同時期の車両でもそれぞれ事情が違うから、手法を使い分けたということか 日光観光全盛期の方が、今より特急の本数が少なかったからなあ
それで観光客は倍以上いたんだから・・・・日曜は特急券が軒並み満席でも
おかしくなかったな。 頑丈一徹に見える7800も20年ちょっとで廃車更新になってるんだよな。
別に陳腐だ古いだって言われなければ普通にあと20年くらい2000年に
なっても走れてて、やっとその頃に7800系本来の味が出てきたのと違う??
その頃やっと車体更新してあと20年走らせるのが東武流。野田線の
大正時代下回りの3000系ってそんな感じだったよね。 78の冷房化を本気で考えていたことがあったらしいな 5700ってパクッた京成の1600は10年ほどで通勤車に車体載せ替えて格下げしてるよね。
5700も昭和40年あたりで8000タイプの車体に乗せ換えるべきだったのでは? 余りの1800系を通勤形改造してまで5000系列の淘汰を急いだのは、故障だらけで稼働率が落ちてたとかあったのかねえ。
野田線の5070は6両固定だから使い途が無くなったとか見たが、モハ2両を抜いても4両で走れたよな?
2000年代初頭のバタバタ振りはいまいち理解できん。 休車状態の1800系の用途が決まらなくて、勿体ないから一般車に改造したって聞いたけどなぁ もったいないと言いつつ、車体の新しめな5070は惜し気もなく?スクラップにしたチグハクさよ。
さらに乗降障害でダイヤぐだぐだとかはなにをかいわんや。
「佐野線や小泉線はどうせ客が少ないから、ドアが少ない分編成を伸ばせば砂に撒いた水だろう」
と考えた誰かがいるんだよ。
言い出しっぺの誰かがね。 5070も館林で休車状態続いてたけどね
でも5070は廃車にするしかなかったとおもう
下回り交換したら今度は車体のほうが先に老朽化がくるし・・ 休車中の1800に5070の車体載せれば
見た目どころか性能も8000と同じだったのでは? 吊り掛けの整備責任者の最後の人が定年退職とか再任期終了とかだったんじゃないかな。熊谷線もウテシ定年と同じタイミングだったような。
2005年を5070最後の年としてその時に65歳とするとその人は2005-65=1940年生まれ 23歳で入社とすると1963年 その人が完全に1人前になるのが1983年 その頃9000系とかステンレスの新車が出るようになって車輌の世代交代が進み社内では
吊り掛け整備のための人材育成はやめて、 新世代車輌整備に。
吊り掛け責任者と主だったその部下の人達が定年を迎えるのと同時に5070も淘汰。 10両20両の稀少車でもないのに、そんな専任チームみたいな真似できますかって。
むしろそんな事せにゃならんクルマは即刻ヤメてしまえ!になる。
吊掛車メンテは頻度も手間もかかるんだから、運行会社では下積みも兼ねて若手は要るんだよ。
縮小削減していいのはメーカーで新造する立場の分野だ。 >>472
機器の載せ替えって結構金かかるからなぁ >>472
休車中の1800に5700の車体載せれば
見た目どころか性能も8000と同じだったのでは? >>473 吊りかけにせよ抵抗制御にせよ、補修、交換部品の供給が継続できるかが重要なんでは?吊りかけとカルダンとで、整備技術にそんな差があるのかね?
メンテナンスの現場では、吊りかけもカルダンも見なくてはならないわけで、南栗橋に吊りかけ専任チーム置いて担当させるなんて非効率的だろう。 おまえら本当に詳しいな。マジですごいよ。
俺なんか単に「鉄道おもしれー!」って程度だから、専門的な事は分からんわ。 >>478 ウィキか何かが基の重箱の隅突くような知識で、ボクちゃんの考えた素敵な車体載せ換え車両なんて言い出すよりも、鉄道の車両、路線、サービス全体を利用者として自然に眺めていた方がマシだと思うよ。知識かぶれで非常識なこと抜かす奴は相手にしない方がよい。 >>478
「鉄道おもしれー!」って程度なのによくここに辿り着いたね。。。不思議だなぁ。 >>480
東上沿線住みなんですよ。
それでたどり着きました。 瀬戸電の6750みたいに、つりかけ車の車体更新だけど将来のカルダン化を
見越して設計した、って車両だったらまだわかるが
5000系列で将来のカルダン化を見越した設計になっていたのかどうかは不明。
おそらくそんな設計にはなっていなかった可能性の方が高い。
当時車両課にいた館長が、更新時にブレーキのHSC化をするために上層部を口説き落とした文句が
8000と併結出来るようになる、だったくらいだし。
森林公園の5050入出場時に秩鉄ATS搭載車を前につないだくらいで、
5050+8000の営業運転はなかったわけだが。 吊り掛け専任チームとは言ってないよ。下ずみ的力仕事汚れ仕事は若手がやるにしても、全体が見渡せて最終的にOK出すキーパーソンの話。昔西新井工場で話聞いた時に8000系の事なら何でも分かるっていう神様的な人がいるって聞いた事があるからね。
もうひとつ、その西新井工場が閉鎖になったのと、5070が引退したのが同じ2004年だから専用の治具とか検査装置を新工場には移さなかったんじゃない?検修体制がハード的にも人的にも無くなったからじゃないかな? >>483
78の更新車は5000系列な。
5070だけでなく、4両の5050番台がまだしばらくいたのをお忘れか? 佐野線の3000系を撮った動画が以前youtubeにあったと思ったのだけど見つからない。。。
だれかしらんかえ? >>485
【東武3000系】の検索ワードでたくさん出るじゃないか。 8000タイプの車体で統一しようとしたあたりから急につまらなくなった印象
冷房導入も遅かった。 西新井駅と言えば、西新井らーめんとダミ声の構内アナウンス。 太田駅の上りホームも80年代から20年くらい同じ声の人いたな 夕方近い浅草駅
間ぁもなく2番線にぃ、
じゅうろくじじゅうよんぷんはつぅ、
かぁくえきてぇいしゃぁ幸手行きぃ、
ボロい電車ろぉくりょうでとぉぅちゃくしまぁす
はぁくせんのうちがわへおぉ下がりくぅださぁいぃ
ゴゴン ゴゴン ゴゴン ゴゴン
キィィン クォォン キィンキン クォン
ドトン ドトン ドトン モーー ドトン パコン!
ドトン シーー シュァゴーーー キキキ スハー
トスーーカラカラカラ
浅草ぁ浅草ぁ お忘れもの無いようにお降りくださぁい
クイィイーン デトデトデトデト
フィクションを込めたけどだいたいこんな風景だったと思う。 >>490 ホームとの間隔が開いておりますので、お足元にお気を付けください、というアナウンスが浅草駅では必要なんではないのか? >>491
>必要なんではないのか?
こっちゃ40年近く前の記憶で書き起こしただけ。
貴兄に確たるご記憶があるなら適切なタイミングに挿入しておくれ。
当時のCSやコンプライアンスの視点を考証した再現じゃないのでね。 >>492
>こっちゃ40年近く前の記憶で書き起こしただけ
意味のないことするなよ
他人がそれ読んで面白いと思うか? >>494
本来は本人が判断すべきことだが出来ないようだから こんな度量の狭い奴が参加してると思うと
不快極まりないな >>496
みんなお前のこと不快だと思ってるよ
40年前の日記今ここに書くなよ 他人を叩くだけに運行する車両をディス1800と決定した
初番に輝くのはどいつかな 東武のスレだけど、切っても切れない銀座線の浅草駅
クロスオーバを侵入してくる電車がカチャカチャ音を立てながら、やたら油臭いホームで
便所の壁みたいなタイル張りの駅のイメージ >>493
フリーの掲示板で意味のあることって、例えばどんな?
キミが求めている高尚かつ限定的な目的をどうぞ次々書いてください。
それもまた自由だよ。
何日もスレを放置せずに、ね。 DRCのジュークボックス、レコードが結構飛んだんじゃないの? >みんなお前のこと不快だと思ってるよ
どこで調査したんだ
>らしいね
経験のないことに反応するな
じじいとアスペはこれだからいやだね >>503
子供レベルの頭脳に突っ込まれたことは確かに恥ずかしいな 昭和50年代、東武日光線 明神〜下今市間は所要時間は8分となっていたけど
東武日光行きに乗ると、3070.7800系とも勾配区間はフルノッチで、
一瞬下る部分のみノッチオフして、再度下今市手前までフルノッチだった。
3070系だと25パーミル区間では65キロ、78系で70キロくらいしか出なかったので
途中の85キロ制限のR500のカーブもフルノッチで突っ込んでいた・・・・・
そのため、大体は7分で下今市駅につき、1分くらい停車していることがあった。
ただ、上り(浅草方)は、3070.7800とも、65キロまで下り坂で加速したら
35キロまでブレーキをかける運転で、明神までは丁度8分かかっていた。
5700系の快速急行のみ、75キロくらいまで速度を上げてブレーキをかけて
いた記憶がある・・・・・
今は、下今市周辺に電気制動なしの電車はほとんどこないのでねえ・・・・ 57型は各台車にブレーキシリンダが装備され強力だったからな いつものサークルが特殊な貨物の本を制作か
西武はよくネタになってるけど 墨田区の曳舟駅付近とある2両編成の電車の写真。
20m3ドアで国鉄63形のような切妻の前面の車両が先頭で、後部の車両は20m4ドアの63形のようなんだが、これは京成でなく東武の方か?
東武に国鉄51系のような20m3ドア車が入っていたという話は聞いたことがないもので。
まだ、この本の実物見ていない。
https://www.sankei.com/premium/news/181219/prm1812190004-n2.html#inline-wrap >>513
東武のロクサン型で、国電の戦災復旧車と編成組んでた車両もある。
クハの360番台だったっけ >>512
見えない
でもクハ360にはモハ60などの戦災復旧国電20メートル車いたからそれじゃね?
京成にも切妻車いたがそれは当然20メートル車じゃないし >>513、514
ありがとうございます。モハ60の戦災復旧車だったのが車体更新されて73系に組み込まれ、80年代まで走っていたようですね。
当時は車両不足だったから、ドア数が車両によってまちまちという凸凹編成なるのも承知で使っていたわけだ。 >>516 曳舟と業平橋の間、押上踏切だと思う。
カーブの形から見て、上り線で浅草ゆきと見ていいだろう。 うちの近くの東武や国鉄駅でも警報手がグルグルハンドル回して上げ下げしていたな
下げるのを途中で止めて、渡ってる途中の人たちが出るまで待ってたり >>516
踏切の通りは明治通りね
曳舟の下り方の
業平橋なら上り線の隣に貨物の引き上げ線があって、その隣に京成線があるよ >>521
レスアンカー間違ってるな
>>517へのレスだろ? 2/2(土)
27:00〜28:55←時間注意
BSフジ
『鉄道伝説一挙放送SP』
第13回「東武1720系デラックスロマンスカー 〜「こだま級」を超えろ〜」
昭和4年から長年に渡って国鉄と日光観光の旅客獲得競争を繰り広げてきた東武鉄道。
昭和30年代初頭に国鉄が画期的な特急電車車輛を開発中との情報(151系)を得た同社では
危機感から新型特急車輛を開発する。開発にあたっては周囲の無理解や意思決定の遅さから
チームは8ヶ月という短期間での作業を余儀なくされた。
http://www.bsfuji.tv/tetsudoudensetsu/pub/index.html
http://www.bsfuji.tv/tetsudo_densetsu/13.html ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています