懐かしの東武鉄道について語ろうパート6
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>>383
クレオソートかなぁ?
防腐剤として木の枕木とかに使ってる
発がん性物質らしいけど
良くガーデニングに木の枕木使われてる
みたいだけど雨で防腐剤流されると白アリが
発生しやすくなるらしい >>380
吊革が網棚にぶつかりまくっていたものね。 >>385
野田線の3000系でもカコーン!とかなっていた
非冷房なので天井が高く、つり革の長さがやたら長い
吊り掛け駆動、開け放された窓、MGの軽い唸り、構内踏切、発条転轍機
交換列車は54系か?貨物列車か?
雑木林の中をゴトゴト走るローカル線が野田線のイメージ
柏ー大宮行きは30分〜45分に一本、運河行きは無くて、清水公園か野田市行き
船橋方面もそんなもん
今では信じられないが、逆井駅は単なる棒線駅で裸電球ひとつあるだけだった! >>383
リンレイの商品で「床油」というのがある
蒲原鉄道の車両の床は「床油」なるものを塗っていたと本で読んだのだが
おそらくこれに類するものかと
>>386
石油由来のクレオソートと植物由来の木クレオソートは別物だぞ >>380
運転士スタフには
熊谷〜上熊谷:35km/h
上熊谷〜大幡:55km/h
大幡〜妻沼:65km/h
と書いてあった覚えがある。 >>389
500馬力エンジンで時速120キロ運転していれば生き残れたかも >>391
カーブで横転必至。高崎線を跨ぐ築堤の上から転落。
…って、真面目に考える事ではないな。 >>389
それだけの速度が出てれば、バスよりは速いか・・・ >>392
現代ならロングレールとアクティブサスペンションでなんとか。 館長さんの本には運が良ければ高崎線の特急と競争することもあるって書いてあったっけ。 珍特急だよね?
熊谷はまだまだ通過する方が多かったかり、 東上線沿線住みなんだが、遠い昔の子供のころに「荷物電車」走ってるのを見たなあ。
あと武蔵嵐山〜東松山間の旧線跡の山林の中の小道をよく自転車で走ったりしたな・・・ 名鉄のスカーレットはパノラマカーに倣ったってのは分かるけど、
東武のセイジクリームはどこから出てきたんだろう。 塗り分け面積が1:1なら単純に工期が減るだけだよな。 手抜き塗装ってのは、窓回りのグレーだけ取り除いて後はそのままの西武線みたいなのを言うんだよ >>401
組合がスローガン書けないように、というのは単なるデマか? >>403
窓周りはベージュだね、4扉の2000からでしょ
>>404
かの下地色はアジ電対策!?
石灰ダメなら、つばめみたいに大判ビラ貼ればいいだけのこと
ttps://twitter.com/jonchama/status/525985911654203392
でも結局こんな感じになるのだろう(寺社にある千社札のような状態)
http://img-cdn.jg.jugem.jp/a06/3241263/20150428_278868.jpg
http://img-cdn.jg.jugem.jp/a06/3241263/20150428_278885.jpg
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>404
1色ならなおさら書きやすいじゃないか。
国鉄の電車を思い出せ。
ハケ書きだけでなくビラやステッカーも使ってたし。 >>400
この頃の東武は徹底した合理化を進めていたからねえ
当時、方向幕を変えるのも駅員の仕事で、駅員の削減で矢印の行き先が増えたのもこの時期
特に東上線は池袋を発車すると同じ種別で池袋に戻ってくるから
合理化しやすくて池袋以外は方向幕要員の駅員がいなくなった
越生線や小川町寄居間への回送は「坂戸⇔越生」や「小川町⇔寄居」の幕で回送していた
他社ではこの頃は既に乗務員が方向幕を変えていた時代だったが
東武では労組が労働強化に反対しててなかなか移行できずにいたのよね
>>401
昔、niftyの掲示板でセイジクリームは下地のさび止め塗料を使ったって書かれてて妙に納得してしまったw
当時の下地塗料はクリームかエンジだったしw 伊予鉄「朱色とクリームのツートンやめて片方だけの一色塗りにします」 回送のときも「回送」の表示は出さずに、中間の微妙な位置に合わせてたよな。 >>409
つうか[回 送]がないから中途半端な位置とか[○
○]になってたんじゃないのか?
運用番号表示の3000や2000の方がわりと[回□送]と表示していた気がする。 本当はちゃんと空白の位置にしないといけなかったんだけど
単に空白の位置まで巻くのが面倒だから中間にしていただけ 未更新8000の連結部のハンドルをくるくる回した思い出 >>407 合理化するんだったら、7800や7300の前面サボを廃止し、西武や東急でやったような運転室内方向幕に取り換える方が先決ではないのか?
準急や急行の表示は、正面窓の右上につける西武方式で。 フライング東上、ロマンスカーのころはまだしもボロいカステラとか乗る気にはならんかったろうな >>417 音がうるさいしね。モーター音だけでなく、コンプレッサーとか鳴り響いてるし。
これは、旧国73系の全金属型にしても同様だが。 東上線は途中でトイレ廃止するし、ロング車ばかりにするし、TJライナーまではやる気なさげだったな。
秩父行くにも西武国鉄のほうが100倍愉しかった >>416
東武の場合はそれ以前に労組が反対してたから、やったところでどうにもならなかったw
乗務員がやるようになったのは20年ぐらい前からだけど、
8000系未修繕車がLED幕なったのは乗務員が幕をが変えるなら全車自動幕にせよという要求を呑んだからだし >>420
そんなにうるさい労組なら行先表示なんて些末なことでなく、さっさと木床車輌の排斥を叫ぶべきだったよな。
浅草は誤魔化せても国鉄と並ぶ池袋では恥ずかしいんですよバーロー!とかな。 >>421
労組は車両を置き換える金があるなら合理化をやめろって立場だったし >>420 6050だと東武日光、鬼怒川温泉、会津高原のように3つの行き先が前面方向幕に表示され、かつ6両編成の各2両ユニットで側面及び車内方向幕の行き先が異なるものがあるわけだが、これら方向幕の転換全てが浅草駅の駅員の仕事だったのか? >>199
20050系・9050系のLCDは山手線のサハ204の影響じゃないかな?
小田急も1000形の一部で採用したがこちらも10年未満で撤去。 そう言えば1800系の行先札?
あれも駅員がやってたんかね?
それより、全指ならいらないような気もするけど。 >>423 >>426
みんなそうよ
サボだけでなく、ボタン1つの自動幕でも乗務員室に駅員が入り込んで操作してた 鶴瀬本の内容の感想キボンヌ。
高くて迷ってる。
読みにくいとかはいい。
内容の質を知りたい。 幼稚園頃に親と親戚のいる「イナカ」に行く際、久喜で東武に乗り換えると必ず恐いボロ電車(73か78)に乗り合わせたものだ。
反対側に来るキレイな電車(8000)が羨ましかったのと、連結面のマジックハンドみたいな金具が珍しかった。
国電に無かったアレは、何のためにいつまで付いてたんだろう? >>431
阪急の8040にも似たような金具が幌に取り付けられているから、阪急関係のスレで聞いてみたら?l 訂正、阪急7450+7320、先頭車同士の連結貫通幌写真だな。
NGワード規制かかっているのでURL載せられないが、検索して確認してみて。
これがないと、高速走行時に幌がガタついて困るとか。
ちなみに、別の車両だが、阪急の転落防止幌付きの場合、このような金具はついていない。 車番?の表示でクモハがクハと表記されていた気がするけど、いつのころからか番号だけに変わってしまった。
なんでクモハにしなかったのだろう。 東武の場合はクモハもモハですねw
車内表記で無くなったのは30000からでしょうかね? 現行色になったら種別表記をやめたよな。
乗客には無関係だし、内向けには見りゃ分かんだろってことか。 >>434
8000系の塗装変更(白に青帯)からだった気がする 話題に出ないから振ってみるが、6000系ってけったいなシートだったな。
背面は腰上10pくらいしかクッションが無く、それも上端がパネルから浮いてるから頭をもたせ掛けられないハンパ構造。
うとうとしたら後頭部をパンパン当てて痛くした記憶がある。
国鉄車両でなくてもクロスシートは普及してたはずなのに、なんであんなビンボタイプを採用したのかな。 >>440 国鉄115系並みと考えればよいのでは?
ごく一部を除き特別料金取らない快速運用だったわけだから >>441
当時は特急なんて浅草行かなきゃ乗れないお泊まり客様用列車。
今みたくどんどん乗ってください、というか乗れよ!なんて微塵もございませんや。
>>442
国鉄近郊型シートは幅が狭くても、肩が浮いたり頭の置き場に困らないから115系並みってのはない。
下半分だけクッションなんてのは湘南型80系の初期タイプ並みです。 >>443 一般的に、座席の幅やシートピッチの方が重視されると思うのだが。
東武6000のシートピッチは1480o、115系等国鉄近郊型車両は1420o。 俺も6000系にはあんまりいい思い出無いなぁ
シート背ずりの貧乏仕様もそうだが、
非冷房で、朝方上り快速にも平気で4両でやって来る
春日部駅から北千住駅までの20分ちょいの時間が物凄く長く感じた子供時代・・・ 幼い頃、DRCが満席で仕方なく6000に乗ったけど、なにぶん子供の頃だったから不満だった。
車内で揺れて座席のひじかけに頭ぶつけたり、混雑していて、正直嫌いな車両だった。
快速急行だいやで帰る時、ダイヤモンドみたいな豪華な列車が来ると思ったら、
6000系だったからがっかりした記憶がある。夏場は暑かったし。
中学生くらいに乗車した時は、夏場だったけど、窓を全開にして、
栃木辺りの風景と風が気持ち良くて6000も悪くない車両だな、と思った。 >>446
ダイヤというよりコンクリートみたいな座席だった 国鉄近郊形(ピッチ拡大前)の狭さもアレだったが、東武6000の上半分板張りはなぁ…
大人しく座っていれば問題ないとは言え、つい居眠りして寝返りうった時などにゴチン!とか
8000の冷房化が進むと、別料金出して暖房車!?みたいなところもあったし 6000系といえば、子供の頃、自分が乗ったやつの反対方向のが6050系で、何か悔しくて泣いたわ。 ほんの一時期だが6000+6050って編成もあったね
そういえば6000って宇都宮線普通列車の運用に入ったことあったっけ? 6000が冷房化できないのは床下がびっしりだから…が通説らしいが、そしたら6050更新の際は何をコンパクト化やMcへの移設をしたのかな?
ブロアレス抵抗器はご立派なままなのに。 適当というより、冷房搭載を前提に設計してないから各機器の間隔が余裕持って配置されてたんでしょ
6050では機器間隔を詰めたから搭載できたと 車体が対寒大雪設備が不十分で、冷房機を搭載すると車体が持たないから更新した、と聞いたけど、違うの? 単なる老朽じゃないのか?
更新時点で20年前後の経年だったし >>457
ほぼ同時期の8000が車体載せ替えじゃなくて修繕で済ませているという事実。
シートがそんなに酷かったんだったら、Tc車の床下機器配置を全部やり直して
冷房化してシート取り替えて・・・なんて手間をかけるより車体を
そっくり載せ替えた方が手っ取り早い、って判断なんだろうな。 まぁ、野岩線が開通するからイメージ一新しようっていうのもあっただろうね この時期は東武の車両置き換えや更新のプロトタイプって印象があるな。
戦前国電フォルムの78更新がほぼ終わる時期と重なったが、6050の前面や下降窓採用が斬新すぎるもの。
6000の焼き直しでなおも東武顔で造られても不思議ではなかった。
設計陣はよくぞあのカタチを通せたものだよ。 2000は代替新造
6000は車体載せ替え
8000は修繕
同時期の車両でもそれぞれ事情が違うから、手法を使い分けたということか 日光観光全盛期の方が、今より特急の本数が少なかったからなあ
それで観光客は倍以上いたんだから・・・・日曜は特急券が軒並み満席でも
おかしくなかったな。 頑丈一徹に見える7800も20年ちょっとで廃車更新になってるんだよな。
別に陳腐だ古いだって言われなければ普通にあと20年くらい2000年に
なっても走れてて、やっとその頃に7800系本来の味が出てきたのと違う??
その頃やっと車体更新してあと20年走らせるのが東武流。野田線の
大正時代下回りの3000系ってそんな感じだったよね。 78の冷房化を本気で考えていたことがあったらしいな 5700ってパクッた京成の1600は10年ほどで通勤車に車体載せ替えて格下げしてるよね。
5700も昭和40年あたりで8000タイプの車体に乗せ換えるべきだったのでは? 余りの1800系を通勤形改造してまで5000系列の淘汰を急いだのは、故障だらけで稼働率が落ちてたとかあったのかねえ。
野田線の5070は6両固定だから使い途が無くなったとか見たが、モハ2両を抜いても4両で走れたよな?
2000年代初頭のバタバタ振りはいまいち理解できん。 休車状態の1800系の用途が決まらなくて、勿体ないから一般車に改造したって聞いたけどなぁ もったいないと言いつつ、車体の新しめな5070は惜し気もなく?スクラップにしたチグハクさよ。
さらに乗降障害でダイヤぐだぐだとかはなにをかいわんや。
「佐野線や小泉線はどうせ客が少ないから、ドアが少ない分編成を伸ばせば砂に撒いた水だろう」
と考えた誰かがいるんだよ。
言い出しっぺの誰かがね。 5070も館林で休車状態続いてたけどね
でも5070は廃車にするしかなかったとおもう
下回り交換したら今度は車体のほうが先に老朽化がくるし・・ 休車中の1800に5070の車体載せれば
見た目どころか性能も8000と同じだったのでは? 吊り掛けの整備責任者の最後の人が定年退職とか再任期終了とかだったんじゃないかな。熊谷線もウテシ定年と同じタイミングだったような。
2005年を5070最後の年としてその時に65歳とするとその人は2005-65=1940年生まれ 23歳で入社とすると1963年 その人が完全に1人前になるのが1983年 その頃9000系とかステンレスの新車が出るようになって車輌の世代交代が進み社内では
吊り掛け整備のための人材育成はやめて、 新世代車輌整備に。
吊り掛け責任者と主だったその部下の人達が定年を迎えるのと同時に5070も淘汰。 10両20両の稀少車でもないのに、そんな専任チームみたいな真似できますかって。
むしろそんな事せにゃならんクルマは即刻ヤメてしまえ!になる。
吊掛車メンテは頻度も手間もかかるんだから、運行会社では下積みも兼ねて若手は要るんだよ。
縮小削減していいのはメーカーで新造する立場の分野だ。 >>472
機器の載せ替えって結構金かかるからなぁ >>472
休車中の1800に5700の車体載せれば
見た目どころか性能も8000と同じだったのでは? >>473 吊りかけにせよ抵抗制御にせよ、補修、交換部品の供給が継続できるかが重要なんでは?吊りかけとカルダンとで、整備技術にそんな差があるのかね?
メンテナンスの現場では、吊りかけもカルダンも見なくてはならないわけで、南栗橋に吊りかけ専任チーム置いて担当させるなんて非効率的だろう。 おまえら本当に詳しいな。マジですごいよ。
俺なんか単に「鉄道おもしれー!」って程度だから、専門的な事は分からんわ。 >>478 ウィキか何かが基の重箱の隅突くような知識で、ボクちゃんの考えた素敵な車体載せ換え車両なんて言い出すよりも、鉄道の車両、路線、サービス全体を利用者として自然に眺めていた方がマシだと思うよ。知識かぶれで非常識なこと抜かす奴は相手にしない方がよい。 >>478
「鉄道おもしれー!」って程度なのによくここに辿り着いたね。。。不思議だなぁ。 >>480
東上沿線住みなんですよ。
それでたどり着きました。 瀬戸電の6750みたいに、つりかけ車の車体更新だけど将来のカルダン化を
見越して設計した、って車両だったらまだわかるが
5000系列で将来のカルダン化を見越した設計になっていたのかどうかは不明。
おそらくそんな設計にはなっていなかった可能性の方が高い。
当時車両課にいた館長が、更新時にブレーキのHSC化をするために上層部を口説き落とした文句が
8000と併結出来るようになる、だったくらいだし。
森林公園の5050入出場時に秩鉄ATS搭載車を前につないだくらいで、
5050+8000の営業運転はなかったわけだが。 吊り掛け専任チームとは言ってないよ。下ずみ的力仕事汚れ仕事は若手がやるにしても、全体が見渡せて最終的にOK出すキーパーソンの話。昔西新井工場で話聞いた時に8000系の事なら何でも分かるっていう神様的な人がいるって聞いた事があるからね。
もうひとつ、その西新井工場が閉鎖になったのと、5070が引退したのが同じ2004年だから専用の治具とか検査装置を新工場には移さなかったんじゃない?検修体制がハード的にも人的にも無くなったからじゃないかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています