懐かしの東武鉄道について語ろうパート6
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ネットが始まって20年くらいだけど、東武でもいまだに世に出ていない遺跡が残っているから楽しい
妻沼の車庫の遺構も2000年代の中頃まであったけど、いつの間にか更地になってしまった 高坂の貨物線、都幾川の辺りからも遥か向こうに線路が見えてて、
あの路線どこへ行くんだろうなと心ときめかせたものです。 高坂から上熊井行きのバスが廃線跡に平行してるから訪問しやすくなった >>304
子供のころ、貨物列車が実際に走ってるのを何度も見たなぁ・・・
時々廃線跡を見に行くとあらためて思い出すよ >>302
西部警察とかサンバルカンなら死なないのにw 昨日鉄ピク増刊の東武特集号を買いましたよ(^ω^)
この本の70年代〜80年代の懐かしの東武のカラー
写真のコーナーで1971年(昭和46年)北千住の下りホームに
いる1700白帯車の特急たかはらの写真があった。
その説明文で「北千住から発車する・・・・・・」って
書いてあったけどあの時代(1971年)本線の特急と急行と言った
有料列車は下りは全て北千住を通過していた筈。多分「通過する」の
書き間違いだろね。 大きく変わったのは熊谷線と葛生周辺、新藤原が行き止まりってくらいじゃないの。 野岩開業前の一面一線時代の新藤原って特急や快速急行は来てたんだっけ? S55か、そんなに昔じゃない感じがする。
栃木から東京に出て住み始め、伊勢崎線を頻繁に利用するようになった時期。 昭和55年ごろと言ったら、東武の冷房化率が30%くらいの頃かね? 昭和55年の末頃じゃ無かったっけ?GMの8000系の
キットが発売されたのは。 明日鶴瀬サークルの本を買った奴、感想を教えてくれ。 わざとらしいステマだな。
発売日どころか組織名すら知らんわ。 同じ面の電車を延々量産
特急はボロくなるまで使い倒し
末端はやる気なしダイヤ
路線はクニャクニャ
東武って害悪では? >>321
>同じ面の電車を延々量産
同じ車両が多ければ多いほど同じ部品を仕入れればいいので保守コストは安くなる
中小私鉄では無理して1形式全て置き換えているところがあるほど
>特急はボロくなるまで使い倒し
特急は停車が少ないから通勤車に比べてへたらない
置き換えの早いJR東日本でも特急車は30年どころか、既に40〜50年超えてる車両も多い
>末端はやる気なしダイヤ
やる気のあるなし関係なしに乗客が居なければ本数もどんどん少なくなる
営利会社であり以上、赤字覚悟で走らせるわけにはいかない
>路線はクニャクニャ
接続を重視した結果
>東武って害悪では?
あなたがそう思ってるだけです 鶴瀬サークル本を買った
寄り道して帰ってきたばかりなので全部は見てないが
花上名誉館長が名誉館長を御勇退と書いてあった 8000系なんかは増やし過ぎて、それが最善・完成形だと長く信じ込んでいた面は否めないな。
たとえば途中で電気ブレーキをつけるとか、モデルチェンジが無かったのは不思議。
地下鉄スペックの2000系や快速用6000系には初めからあったのだから、技術的にダメだったわけじゃない。
クルマでいえば1960年代にDOHCハイスペックで登場し、その後標準装備が充実したのに生産中止までドラムブレーキでした…みたいな。
「走り」に偏って「止める」を軽視してた印象すら受けるんだな。
有用な意見具申や提案が潰された背景や時代だったのかもしれんがね。 >>322
技術進歩があっても戦前のデハ2顔のカステラを1960年代まで量産、8000100003000050000もこりずに同じことを繰り返す無能っぷり
海外客増えてもスペーシアにCA復活させない、リクライニングなしのしもつけなど放置プレイの特急
住民多くても本数少ないまま車チャリに客かっさらわれる久喜南栗橋以北、亀戸線越生線
曲げるだけ曲げといて肝心の足利桐生上野は繋げないご都合主義路線
根津嘉一郎もダイソーピクシブで間にいそうな茶碗と落書きで美術館作る金あるなら改善してもらいたかったもんだ >>326
あれ、デハ2形は半鋼製だけど5枚窓じゃなかったっけ?
https://umemado.blogspot.com/2010/08/3_06.html
戦前のデハ4/5形の源流は電車形客車のホハ11形(→デハ3/クハ2形)
戦後の57/73(更新)/78系の源流はデハ10系 >>327
ああ、ホハ11か。
面だけ一緒だけど仕様がバラバラでメンテに困るのも変わってないなw >>328
懐かしい!いつ頃引退したんだろ。
準急はニュー行き(うまく書けない)というのが一番特徴的だった >>327
前面5枚窓って改めて牢屋みたいでスゴいな。
クハ86初期車よりも運転士に嫌われそうな視界の悪さだろうな。
どこにワイパーがあるのかよく見えないや。 >>328
1970年代後半は間違いなくあったの覚えてる 失礼します。ここのブログの管理人様、どうされたのか御存知の方いらっしゃいますか?
http://trs00.mxcd.imodesearch.jp/?url >>334
すみません。
東武鉄道想い出の73・78型 と云うブログなんですが… トク500は一万ちょいで貸し切れたらしい。
今なら学生でもちょっと小遣い貯めたらコスプレイベント出来るのでは? 羽生駅のホームに立ち食いソバがあって、一回だけ食べた トク500、昭和4年という既に鋼製車が当たり前になっている時代に、何故木造にしたのかという謎。 鶴瀬のサークル本の改訂版252ページの下の写真は葛生じゃね?
2階のアーチの建物あったよね昔 334 見てみたけど仕事が忙しいとか転勤転職でストレス掛かって更新する気力がなくなってしまったとかかなあ。北総レール倶楽部みたいな例もないではないだろうけどね。
随分詳細な貴重な記録だね。7800は本線営業筋では昭和59年春が最後だと思ったがその後しばらくして草臥れた感じのが西工に自力回送していくのが見れたがあれは検査入場だったのか更新入場だったのか 森林公園以遠と越生線では翌85年夏、JAL123便墜落の頃まで走ってた。 『もはや戦後ではない』から何年も経ってるのに戦前型国電のコピーをいつまでも造りました、ハイ。
本当の戦前雑型は1964年から3000系更新を始めたのに、7300系はバラック車体から旧式の新品へ載せ替えたんだもんな。
なんてバラバラな施策だったのだろうか。 >>341
コメントありがとうございます。まさかの事にでもと心配致しておりました。もしもお知り合いの方でしたら宜しく御伝え下さいませ。 閉鎖はしてないっしょ。更新は2年弱止まってるけど
直リンが5ちゃん規制に引っかかるので短縮url
https://goo.gl/nwuuwD 冷房もないボロい猫ヒゲ崩れで追加料金とったり、東上線車両のトイレ撤去したりせこい会社だw >>348
セコいというより世間のニーズからズレてたんだよ。
不思議なのは73や78のwikiやその元記事と思われる鉄ファン誌にも、
『そのようなことを気にしている状況ではなく』
『時期尚早との意見もあり』
など、誰がいつ言ったんだそんな事、ってくらい主体が曖昧な文がある。
おかしな投資・投入をしようものなら役員相互や株主総会で突っ込まれたろうに…とオッサンになった今だからこそ思うんだよなぁ。
ついでに昨今の状況を見ると、快速&普通ブツ切り・削減→速達列車の有料特急化ってのが国鉄末期に似てるんだよな。
野田線にまで走らすとか、普通列車の直通もせずにやりすぎだわ。
次は群馬栃木の小駅廃止や古い駅舎撤去プレハブ化とかやるだろう。 >>318
鶴瀬サークルの本初めて買ったが、読みにくい文章だな、アレ
内容はよく調べたな、すごいと素直に思うけど、読み物としては落第だよ
大きい判型なのに段替え無しの大きいフォント(読みづらいと思わないのだろうか?)
そのせいでページあたりの情報量が少ない
強調部は文字サイズ変えてボールドとかラノベかよ、って感じ
(まあ同人誌だし好きにすればよろしいのではないのでしょうか……)
RMライブラリーとか、分かりやすい論文・解説系の定期刊行本があるんだから参考にすればいいのに
(装丁をパロった蒲原鉄道本とかあったけど読みやすかった) パクリ元を教えてくれ
買うかオークションで入手するから 東武と言う所は既に5050系や5070系と言った20m・4扉冷房付の
「セミ新車」が走っていた1988年の野田線に2000系の中間車を
集めて作った18m・3扉冷房無しの2080系を投入した。
そんな会社です。 まぁ、2080に冷房付けるという選択肢は無かったわな
2000の冷房化が困難だから(という理由を並べて)20000を入れたわけだし 2080がトラブル無かったら、何年使ったんだろうな? 2080の想定廃車時期は、3000系列全廃→5000系列廃車開始の間だろうな 木造で方向転換面倒なトク500とか3重連できない500系リバティとか欠陥百貨店の浅草駅とか竹ノ塚だけ地上とかダメっぷりが目立つね >>350
読みにくいってメールしたら、凄く丁寧なお詫びが帰ってきた。
文字サイズが大きいのはうちの目が弱くなってる親父も楽に読めたので、助かっている。 かつてホームの壁がDRCや6000系と同じようなカラーに塗装されてた駅があったけど、
新越谷と牛田以外にも何処かありましたっけ? >>355
同じアルナ製で屋根がほぼ同じ構造の阪急2000系は冷房化してるんだけどねえ。 >>361 冷房の問題だけでなく、全電動車だったのを一部電装解除して、比較的駅間距離の長い郊外区間に投入することに難点があったのでは?
元々、そう長期間使う予定ではなかったから冷房化見送りしたんだろ。これをもっと長期間使うことになれば、冷房化していたのかも。
阪急2000とはかなり事情が異なる。 モニタールーフだから冷房が付けられなかったというのは阪急からしてみればただの言い訳にしか聞こえない。 >>363 中間車の先頭車化以外に最小限の改造で暫定的に使用する予定だったから、金かけたなかったんだろ。阪急2000は先頭車化改造なんてしたか?
共に日比谷線乗り入れしていた東急7000にしても短編成化したが、冷房なしのままで秩父鉄道に譲渡され、短期間で廃車されただろうが。 そもそも、地上転用して冷房化するぐらいなら、2000のまま(地下鉄直通)で冷房改造するわな
2000の冷房化が困難ということにして、半ば強引に20000を入れたようなもの
で、中間車が車齢20年未満だから暫定的に転用 >>365 じゃ、東急7000はどうなるのよ。ステンレス製だから東武2000よりも車体寿命は長いわな。
2000のままの地上転用たって、18mオールM8両のままで伊勢崎線に入れるわけ?
10両運転やっている東上線じゃ使えないし。伊勢崎線でも東武動物公園以南の各停にしか使えない、ってことになるのでは? 東武熊谷線って今の秩父鉄道のホームから出て上熊谷まで共用だったのか
ということは羽生まで乗りいれもできたはず
イベントで活用しなかったのか >>367
ホームは共用していたけど、線路は別々で上熊谷まで並走していたんだよ。
ちなみに熊谷のホームは、熊谷線(4番線)と秩父鉄道(6番線)の羽生方面行きが背中合わせになっていた。
真ん中に車止めがあり、相互には行き来できないようになっていたし…。 >>368
これでしょ!
熊谷
http://dagashi.org/local/kumagaya.html
ttps://www2.ctv.co.jp/tekken2/files/2016/01/8c05b42a183e478161c81492be1db1fc.jpg
ttps://www2.ctv.co.jp/tekken2/2016/01/25/15253
ttp://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/jousetu/t_kumagaya_line/kumagaya_s.htm
上熊谷
http://sk-photo.main.jp/tetsu/1981/1018kumagaya/140.jpg
http://sk-photo.main.jp/tetsu/1981/1018kumagaya/kumagaya.html
ttp://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/jousetu/t_kumagaya_line/kamikumagaya_s.htm
熊谷線の線路は仮線で、秩父鉄道の熊谷〜石原にある複線用地を借りて敷設
本来は高架で計画されてたが、軍の早期開通を要望したため急遽仮線に変更
複線化時には返還する旨の契約だとか 熊谷駅の高崎線と秩父鉄道のホーム間に駐車場があるけど
よくみると階段があってホームの高さで階段が途切れてる
あれって駅舎建て替えたときに熊谷線用に作ったものなんだろうか
当時は既に熊谷線廃止が検討されていた頃だったから専用ホームは作らなかったみたいなのありそう >>363
電車の冷房化できないパターンは
1) 台車が増加荷重に耐えられない
2) 屋上の冷房機重量に構体が耐えられない(←2000系の場合/実際に更新前の1700系は耐えられず変形した)
3) MGの出力が足りない
があって、それぞれ
1) 台車(車軸)交換
2) 構体補強 or 軽量な冷房機を搭載 or 冷房機を床上に設置
3) MG(SIV含む)を増設・交換 or 直流電源作動形を載せる という解決策がある
東武の場合、阪神・京急みたくモニター屋根を引っぺがして構体を作り直す
(必然的に内装も解体する必要がある)までの手間はかけたくなっかったんでしょう
先頭車化改造なら改造部以外は内装もそのままでいい >>371
あれは国鉄の貨物ヤードを潰して作った高崎線の仮ホームがあった場所
それもあって国鉄は熊谷貨物ターミナルを建設した
(ソースは鉄道建設公団の上越新幹線工事誌、建設中は見たことがないです)
この影響で熊谷での国鉄-秩父鉄道間の貨物の受け渡しができなくなり
秩父鉄道は三ヶ尻線を建設した
この過程で大泉町の旧中島飛行機の飛行場跡地(当時自治体が保有)に国鉄が目をつけ、
貨物ターミナルの建設&東武熊谷線の利根川架橋を計画するが
同地に工業団地を誘致し、雇用を創出したい自治体側が煮えきらず、
新幹線建設待ったなしの国鉄は計画を撤回、現熊谷貨物ターミナルを建設するのであった
なお、飛行場跡地に工場誘致は成功し、スバル大泉工場となる この時点では太田飛行場跡は大蔵省保有(国有地)で地元自治体(太田市・大泉町)払い下げ予定だった(汗)
大筋は変わらないので許して 熊谷線残ってたらパレオエクスプレスどうなったんだろう?羽生までいってから方向転換? 先週の土曜(8/18)本川越駅ビル内にあるポポンデッタで
鉄道ファン1961年10月号を買った。裏表紙が前年(1960年)
デビューしたばかりのデラ(1720系)を扱った東武の広告だった。
そこには「世界に誇る夢の超特急」の宣伝文句もあったw
それにしても東武ってこの年まで床が木で出来ていた78系を
作っていたんだよね・・・・・・。 >>377
当時は国鉄も床が木の車両絶賛製造中ですよ
北海道向けディーゼルカーだけど 気動車の板張り床はあくまで保温目的で付加したものでしょ 熊谷線10mレールでやたら飛ばしてた気がするけど最高速どのくらいだったんでしょう? なんといっても、「DRCより新しい78があった」&「78の製造が終わったと同時に2000系の製造が始まった」という事実。 あの床の油臭さで戻してしまった可哀想な人もいるんだろうな。
学校の床掃除でリンレイの黄色いワックスは使ったものだが、ボロ電車には何の油を染み込ませてたんだろ?
適当な廃油か? >>383
クレオソートかなぁ?
防腐剤として木の枕木とかに使ってる
発がん性物質らしいけど
良くガーデニングに木の枕木使われてる
みたいだけど雨で防腐剤流されると白アリが
発生しやすくなるらしい >>380
吊革が網棚にぶつかりまくっていたものね。 >>385
野田線の3000系でもカコーン!とかなっていた
非冷房なので天井が高く、つり革の長さがやたら長い
吊り掛け駆動、開け放された窓、MGの軽い唸り、構内踏切、発条転轍機
交換列車は54系か?貨物列車か?
雑木林の中をゴトゴト走るローカル線が野田線のイメージ
柏ー大宮行きは30分〜45分に一本、運河行きは無くて、清水公園か野田市行き
船橋方面もそんなもん
今では信じられないが、逆井駅は単なる棒線駅で裸電球ひとつあるだけだった! >>383
リンレイの商品で「床油」というのがある
蒲原鉄道の車両の床は「床油」なるものを塗っていたと本で読んだのだが
おそらくこれに類するものかと
>>386
石油由来のクレオソートと植物由来の木クレオソートは別物だぞ >>380
運転士スタフには
熊谷〜上熊谷:35km/h
上熊谷〜大幡:55km/h
大幡〜妻沼:65km/h
と書いてあった覚えがある。 >>389
500馬力エンジンで時速120キロ運転していれば生き残れたかも >>391
カーブで横転必至。高崎線を跨ぐ築堤の上から転落。
…って、真面目に考える事ではないな。 >>389
それだけの速度が出てれば、バスよりは速いか・・・ >>392
現代ならロングレールとアクティブサスペンションでなんとか。 館長さんの本には運が良ければ高崎線の特急と競争することもあるって書いてあったっけ。 珍特急だよね?
熊谷はまだまだ通過する方が多かったかり、 東上線沿線住みなんだが、遠い昔の子供のころに「荷物電車」走ってるのを見たなあ。
あと武蔵嵐山〜東松山間の旧線跡の山林の中の小道をよく自転車で走ったりしたな・・・ 名鉄のスカーレットはパノラマカーに倣ったってのは分かるけど、
東武のセイジクリームはどこから出てきたんだろう。 塗り分け面積が1:1なら単純に工期が減るだけだよな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています