懐かしの東武鉄道について語ろうパート6
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>>247
ほとんどの国鉄貨車はナニワ時代の落成で、アルナとしては何両だろう?
コキ50000の1970年度第三次債務のうち、川重グループ製作分45両の一部が該当
同グループとしての最後でもある(以後は川重の単独)
コキ関係は?
川車→川重グループ(ナニワ→アルナ・富士車両と共同)だから事実上下請け
これらはグループ銘板なので、通常の楕円銘板とは仕様が違う
コキ10000やコキ50000などはJRに引き継がれたけど?
ナニワ・アルナ製作分がどの程度あったか 241 富士重工 何とか信託車輌 て銘板が貼ってあった8000があったが
あれはリースだったのかね?? 三井住友信託銀行のプレートじゃなかったかなぁ
いつのまにか見なくなったから東武が買い取ったのかもしれんね >>239
8000の初期車に帝国車両あったんじゃないかな? 滅多に乗らない6000の扇風機にはスイッチがあったのはビックリした >>255
帝国車両はないはず。汽車会社はあったけど。 >>254
8000系作ってる時代はまだ三井住友信託銀行にはなってない
三井信託銀行だな
信託車両は期限が来れば所有権は鉄道会社に移るよ 信託車両制度って、アメリカで盛んだと聞くけど、アメリカは車両がメーカーのレディメイドの場合が多いから成り立つ制度であって、日本みたいな風土には合わないよね。
悔しかったら、借金のカタに東武8000系を持ってけや!って話。
つまらないマネーゲームだよね。 >>261 東京メトロ銀座線の01系も信託車両方式なんだけど。
この方式で冷房付きの新車を大量に入れて、同線の体質改善図ったわけで。 あ、01系は当初は冷房準備車か。こう訂正しとかないと、些細なことに突っ込むしか能がない鉄オタが湧いてくるから。 >>253-254
>>259
信託車両は償還期間が設定されてる、その間はメーカー側の名義
償還時に信託の銘板を撤去され、鉄道事業者側の名義となる
車両もしくは機器メーカー、信託銀行、鉄道事業者の3者間による信託基本協定により
信託契約(メーカーと信託銀行)と、賃借契約(信託銀行と鉄道事業者)
2つの契約により成り立つのが特徴 航空機は機材リース方式が普及しているが、日本の鉄道車両であまり普及してないのは、需要変化に応じて機材を入れ替えることがあまり無いからかな?
航空機は大型機から中型機に転換、ってことがよくあるんだが。 信託銀行に昔、ビッグという5年の貸付信託があったけど、そのお金が信託車両に回ってたんですかね? >>262
営団の信託車両は
三菱電機、三井信託銀行、帝都高速度交通営団の3者協定で
三菱製走行機器に関する信託と賃借 >>261
>>265
最近日本で、車両信託が行われないのは、コンプライアンス上問題があるから
民法の賃借契約などを無視(排除)した契約で、その免罪符が信託の銘板!?
現在では車両リースの方が一般的で
リース会社との契約や、特定目的会社(SPC)を用いたレバレッジド・リース
などの手法がある >>266
信託車両は、メーカーからの動産(車両や機器の現物)による信託
信託銀行には、車両信託による手数料が入る仕組み 8000系も長いこと乗っていない
7年前に亀戸線の2両編成乗ったのが最後だ 最近は8000系でもバケットタイプのシートになってる編成あるんだね
こないだ久しぶりに乗った亀戸線の2コテのオレンジ色のはノーマルタイプのままだったが… 信託車両って要は自動車ローンみたいなものなんだね。ローンが終わるまで名義がディーラーという。これってバブル前の産物なのかね。バブル以降は信用創造しまくってお金ジャブジャブだからな。
昭和30年代修学旅行用の国鉄155系の費用を皆様の預金で作りましたとか、信託銀行の広告にあったけどまだ金融が健全だった時代のものだよね。 >>274
所有権留保ってのはちょっと特殊で別にローン払ってる間ディーラーからクルマ借りてる訳じゃないよね
借りてるのはお金であってクルマじゃない ローンによってはローンが終わるまで車の所有権がローン会社になっていることはある >>274
昭和30年代の金融業界が健全だったかどうかは微妙
護送船団方式真っただ中の時代、問題が表面化していなかっただけ
オイルショックで乱脈融資の焦げ付きにより表面化したケースも
流鉄の実質的親会社だった平和相互だって(平和系の総武都市開発傘下)
高度成長期からの乱脈経営が祟って破綻
人呼んで「闇の紳士の貯金箱」とも 信託車両とか金融の事はさっぱり判らないけど
昭和50年度の新製車両数がゼロというのは
その頃の資金繰りが大変だったんだろうと想像できる >>279 昭和50年といったら、ウチの親が今じゃ考えられないほどの高金利で住宅ローン組んだ年だぞ。
>>278 北千住・竹ノ塚間が複々線化されたから、車両運用に少し余裕ができたのでは?
車両新製なくとも冷房化改造など行っていたわけだし。 昭和50年ち言うとオイルショックとインフレで経済大ダメージの時代。
東武ではセイジクリーム出現 >>276
本来なら抵当権登記すべきところ所有権留保してるだけだから
本当の所有者は使用者に当たる人なんだよ >>238
琴電島流しはどんくさい三菱モーター車が選ばれた@Wikipedia
マ? >>282 所有権と占有権を混同してない?
>>278 1975年頃は、東上線で10両編成運転のためのホーム延伸に東松山・森林公園間複線化工事、それに和光市での地下鉄乗入れに志木までの複々線化のための用地買収、伊勢崎線では竹ノ塚以北h区複線化のための用地買収が行われていた時期では。
そして、73年から77年の間に東上線で北坂戸、朝霞台、みずほ台の3駅が開業している。
車両だけでなく施設・設備関係の投資が結構多い。東京の他の大手私鉄も同様だろうけど。 277 乱脈融資。。 少なくとも車輌向けの融資は健全に思える。だけど沿線土地開発とかが絡んで来るとちょっと胡散臭くなって来ますね。
流鉄と平和相銀、何かと嘘くさい西武の車輌が流鉄に入ったのもその橋渡し?
あと竹の塚西口に平和相銀支店がありましたね。なんとなく垢抜けない野暮ったさがあったような。 >>282
不動産や船舶じゃないんだから、車両なんか登記できない 自動車や飛行機は動産抵当登記の対象になるが、法律がないから鉄道車両は無理。
鉄道抵当制度というのがあるが、これは車両だけでなく鉄道路線、施設全体を対象とするもの。所有権留保や信託ないしリース方式によるしかない。 開業直後の愛知棒状鉄道に乗った時、信託車両のプレートを見たなぁ
三井か安田か住友か忘れたけど 阪急がタックスヘイブンで自社の車両をケイマン諸島の企業に書類上売却して
その車両をリースで借受けるってのがあった、航空機ではよくある話なんだけど。 鶴瀬サークルの本を買う奴はいるの?
前の本を買った人、買うべきか教えてくれ。 前回はレイアウトはお粗末だったけど、公文書などを根拠に記事書いてるから内容は信頼はできる
東武ヲタや研究者なら手元に置いていいと思う 駅と神橋の間にある日光軌道の架線柱
撤去したの知らなかった 道を跨ぐ門型のやつ?
インフラ地下化でも進めてるんかな。 高坂〜高本貨物線跡をバイクで探しに行ってみた。
そしたら関越道西側の工場・倉庫地区の先が遊歩道化済みと判明。
が!それは終点側、ゴルフコース入口との交差点まで行ってようやく分かった。
そこから高坂方向へ走ったらコンクリのラフな舗装で、ベンチがいくつかあるもののもちろん人なんかいやしない。
いくつかのレポで見た架線碍子とスズメバチの巣がある覆道で盛り土が現れて行き止まり。
丸太の階段は草むしていたし蜂が恐いからさっさと引き返したわ。
しまむらの倉庫や日世の工場の合間に通路があるっぽいが見つけられるもんじゃないね。
入れる場所も葉っぱや木屑だらけで、あたかも閉鎖間近な旧道っぽい有り様。
あぁ、東松山市よ…。 >>298
ヤオコーの工場の隣にある、ばんどう山第1公園から登っていくらしいよ >>299
いったんそこの駐車場に入って眺めたんだが、Googleの廃線mapより高いから想像つかなかったです。
仕方なく西側の高坂ゴルフ練習場から急坂を登ったが線路跡とは交差しないし、けれども踊り場みたいな路面にもしやと気付いた程度で…。
なるほど、第一から日世工場の外周に沿う緑地公園があるんだね。
それを辿ると草むした階段と覆道(蜂の巣つき)が現れるんだろうな。
まぁまるきりの徒歩でなく、ミニベロやMTBとかあったほうか良さげでした。 >>300
物流団地になってるあたりは廃線跡なくなってるから
山の上に登る道は代替の道だからね 軽井沢夫人のラストで五代高之がオープンカーで東武の貨物列車に突っ込んでアボンするシーンあるけど、
あれは高本線なのかな ネットが始まって20年くらいだけど、東武でもいまだに世に出ていない遺跡が残っているから楽しい
妻沼の車庫の遺構も2000年代の中頃まであったけど、いつの間にか更地になってしまった 高坂の貨物線、都幾川の辺りからも遥か向こうに線路が見えてて、
あの路線どこへ行くんだろうなと心ときめかせたものです。 高坂から上熊井行きのバスが廃線跡に平行してるから訪問しやすくなった >>304
子供のころ、貨物列車が実際に走ってるのを何度も見たなぁ・・・
時々廃線跡を見に行くとあらためて思い出すよ >>302
西部警察とかサンバルカンなら死なないのにw 昨日鉄ピク増刊の東武特集号を買いましたよ(^ω^)
この本の70年代〜80年代の懐かしの東武のカラー
写真のコーナーで1971年(昭和46年)北千住の下りホームに
いる1700白帯車の特急たかはらの写真があった。
その説明文で「北千住から発車する・・・・・・」って
書いてあったけどあの時代(1971年)本線の特急と急行と言った
有料列車は下りは全て北千住を通過していた筈。多分「通過する」の
書き間違いだろね。 大きく変わったのは熊谷線と葛生周辺、新藤原が行き止まりってくらいじゃないの。 野岩開業前の一面一線時代の新藤原って特急や快速急行は来てたんだっけ? S55か、そんなに昔じゃない感じがする。
栃木から東京に出て住み始め、伊勢崎線を頻繁に利用するようになった時期。 昭和55年ごろと言ったら、東武の冷房化率が30%くらいの頃かね? 昭和55年の末頃じゃ無かったっけ?GMの8000系の
キットが発売されたのは。 明日鶴瀬サークルの本を買った奴、感想を教えてくれ。 わざとらしいステマだな。
発売日どころか組織名すら知らんわ。 同じ面の電車を延々量産
特急はボロくなるまで使い倒し
末端はやる気なしダイヤ
路線はクニャクニャ
東武って害悪では? >>321
>同じ面の電車を延々量産
同じ車両が多ければ多いほど同じ部品を仕入れればいいので保守コストは安くなる
中小私鉄では無理して1形式全て置き換えているところがあるほど
>特急はボロくなるまで使い倒し
特急は停車が少ないから通勤車に比べてへたらない
置き換えの早いJR東日本でも特急車は30年どころか、既に40〜50年超えてる車両も多い
>末端はやる気なしダイヤ
やる気のあるなし関係なしに乗客が居なければ本数もどんどん少なくなる
営利会社であり以上、赤字覚悟で走らせるわけにはいかない
>路線はクニャクニャ
接続を重視した結果
>東武って害悪では?
あなたがそう思ってるだけです 鶴瀬サークル本を買った
寄り道して帰ってきたばかりなので全部は見てないが
花上名誉館長が名誉館長を御勇退と書いてあった 8000系なんかは増やし過ぎて、それが最善・完成形だと長く信じ込んでいた面は否めないな。
たとえば途中で電気ブレーキをつけるとか、モデルチェンジが無かったのは不思議。
地下鉄スペックの2000系や快速用6000系には初めからあったのだから、技術的にダメだったわけじゃない。
クルマでいえば1960年代にDOHCハイスペックで登場し、その後標準装備が充実したのに生産中止までドラムブレーキでした…みたいな。
「走り」に偏って「止める」を軽視してた印象すら受けるんだな。
有用な意見具申や提案が潰された背景や時代だったのかもしれんがね。 >>322
技術進歩があっても戦前のデハ2顔のカステラを1960年代まで量産、8000100003000050000もこりずに同じことを繰り返す無能っぷり
海外客増えてもスペーシアにCA復活させない、リクライニングなしのしもつけなど放置プレイの特急
住民多くても本数少ないまま車チャリに客かっさらわれる久喜南栗橋以北、亀戸線越生線
曲げるだけ曲げといて肝心の足利桐生上野は繋げないご都合主義路線
根津嘉一郎もダイソーピクシブで間にいそうな茶碗と落書きで美術館作る金あるなら改善してもらいたかったもんだ >>326
あれ、デハ2形は半鋼製だけど5枚窓じゃなかったっけ?
https://umemado.blogspot.com/2010/08/3_06.html
戦前のデハ4/5形の源流は電車形客車のホハ11形(→デハ3/クハ2形)
戦後の57/73(更新)/78系の源流はデハ10系 >>327
ああ、ホハ11か。
面だけ一緒だけど仕様がバラバラでメンテに困るのも変わってないなw >>328
懐かしい!いつ頃引退したんだろ。
準急はニュー行き(うまく書けない)というのが一番特徴的だった >>327
前面5枚窓って改めて牢屋みたいでスゴいな。
クハ86初期車よりも運転士に嫌われそうな視界の悪さだろうな。
どこにワイパーがあるのかよく見えないや。 >>328
1970年代後半は間違いなくあったの覚えてる 失礼します。ここのブログの管理人様、どうされたのか御存知の方いらっしゃいますか?
http://trs00.mxcd.imodesearch.jp/?url >>334
すみません。
東武鉄道想い出の73・78型 と云うブログなんですが… トク500は一万ちょいで貸し切れたらしい。
今なら学生でもちょっと小遣い貯めたらコスプレイベント出来るのでは? 羽生駅のホームに立ち食いソバがあって、一回だけ食べた トク500、昭和4年という既に鋼製車が当たり前になっている時代に、何故木造にしたのかという謎。 鶴瀬のサークル本の改訂版252ページの下の写真は葛生じゃね?
2階のアーチの建物あったよね昔 334 見てみたけど仕事が忙しいとか転勤転職でストレス掛かって更新する気力がなくなってしまったとかかなあ。北総レール倶楽部みたいな例もないではないだろうけどね。
随分詳細な貴重な記録だね。7800は本線営業筋では昭和59年春が最後だと思ったがその後しばらくして草臥れた感じのが西工に自力回送していくのが見れたがあれは検査入場だったのか更新入場だったのか 森林公園以遠と越生線では翌85年夏、JAL123便墜落の頃まで走ってた。 『もはや戦後ではない』から何年も経ってるのに戦前型国電のコピーをいつまでも造りました、ハイ。
本当の戦前雑型は1964年から3000系更新を始めたのに、7300系はバラック車体から旧式の新品へ載せ替えたんだもんな。
なんてバラバラな施策だったのだろうか。 >>341
コメントありがとうございます。まさかの事にでもと心配致しておりました。もしもお知り合いの方でしたら宜しく御伝え下さいませ。 閉鎖はしてないっしょ。更新は2年弱止まってるけど
直リンが5ちゃん規制に引っかかるので短縮url
https://goo.gl/nwuuwD 冷房もないボロい猫ヒゲ崩れで追加料金とったり、東上線車両のトイレ撤去したりせこい会社だw >>348
セコいというより世間のニーズからズレてたんだよ。
不思議なのは73や78のwikiやその元記事と思われる鉄ファン誌にも、
『そのようなことを気にしている状況ではなく』
『時期尚早との意見もあり』
など、誰がいつ言ったんだそんな事、ってくらい主体が曖昧な文がある。
おかしな投資・投入をしようものなら役員相互や株主総会で突っ込まれたろうに…とオッサンになった今だからこそ思うんだよなぁ。
ついでに昨今の状況を見ると、快速&普通ブツ切り・削減→速達列車の有料特急化ってのが国鉄末期に似てるんだよな。
野田線にまで走らすとか、普通列車の直通もせずにやりすぎだわ。
次は群馬栃木の小駅廃止や古い駅舎撤去プレハブ化とかやるだろう。 >>318
鶴瀬サークルの本初めて買ったが、読みにくい文章だな、アレ
内容はよく調べたな、すごいと素直に思うけど、読み物としては落第だよ
大きい判型なのに段替え無しの大きいフォント(読みづらいと思わないのだろうか?)
そのせいでページあたりの情報量が少ない
強調部は文字サイズ変えてボールドとかラノベかよ、って感じ
(まあ同人誌だし好きにすればよろしいのではないのでしょうか……)
RMライブラリーとか、分かりやすい論文・解説系の定期刊行本があるんだから参考にすればいいのに
(装丁をパロった蒲原鉄道本とかあったけど読みやすかった) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています