懐かしの東武鉄道について語ろうパート6
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>>221
そして西武には伝説の2M4T編成と言うのがあってだな・・・ 西武車ってエアサス台車なのに吊り掛けとか、ヘンチクリンなのがかなり最近まであったよね。
(近江鉄道に残党がいるけど)
取り付けられるんだって驚かされたけど、東武はその手の流用はやらなかったな。 それだったら小田急のPIII台車付けたツリカケとかも 変態と言えば西武のエアサスDT13とかね、FS-10のトラックブレーキ化、軸受け改造もかなり変態。 >>221
あとはモーターの非力さを何とかするために軽量車体を載せたってのもある>西武 井の頭グリーンのTS117という台車もツリカケでディスクブレーキの付いたかなり変わり種だった 脱線しちゃうけどあの形態が拡大しなかったのは、天候による効きの変動や重量の問題かな?
クルマのブレーキと違いムキ出しだもんねえ。 >>229 T車では台車枠の内側に出来たから普及したでしょ。 >>230
国鉄はディスクブレーキ大好きだったね。
103系までもがT台車はディスクだったんで驚いたものだ 鶴瀬サークルの連中、今度は県営鉄道のことで狂ったことを言い出したな。
だれか介錯してやれ。 >>218
西武の赤電の大多数は
戦前の時点で車体更新(鋼体化)の始まっていた大正時代の木造車と同じ機器(システム)を積んでるというのがすごいよね
でも西武、東武、相鉄、名鉄あたりの大手私鉄の車体更新車はまだ理解できる(京阪は理解できない)
旧型車の更新でおかしいと感じるのは富山地方鉄道と伊予鉄道かな
初期高性能車(車齢30年)にボルスタレス台車おごって10年で捨てた富山地鉄と
車内がニス塗りのつりかけ半鋼製車(車齢27年)にエアサスカルダン+デスクタイプコンソールつけて
そこから23年使った伊予鉄は目の付け所がずれてると思う 結構鉄道会社の経営方針って、長期的に考えてるように見えて、そうでもないからね
特に新車を買う余裕が無い中小私鉄だと、その時の出物に左右されることが多い
中古鉄道車両なんて1点モノみたいなもんだから、良いと思ったのが出たら買っておかないとだから >>235
名鉄の3700代HL車もなかなな凄かったぞ 琴電にプレゼント
瀬戸電に厄介払い
ガムテープで貫通扉を封鎖 考えてみたら、ここ50年以内の東武の車両って、合併や車両製造から撤退して、現存しないメーカーも含めて、ほぼすべてのメーカーで作っているんだね。
作ってないのは帝国車両(昭和43年に東急車輌と合併)と新潟鉄工(現・新潟トランシス)、それに、今の総合車両ぐらい。 >>239
ここ数年の間に川重と近車に発注したから、ほぼ全社コンプリートになってるだけのような。 富士重工のプレート付けた8000系乗ると、ちょっと得した気分だったなぁ 10030系は新車の頃から外板が波打ってたのが富士重工業製 >>241
今は亡きメーカーのプレート見るとなんか特した気分になるよね
いずれ乗りたくても乗れなくなるから 意外にも、東武の押上駅は、東武初の地下駅である(但し、管理は東京メトロ)。 スペーシア(100系)は、アルナ工機製車両では初のJR線を営業運転した車両である。 >>245
アルナ製の貨車はJRに引き継がれなかったのだろうか。 東武鉄道のトップ研究者って名誉館長しか思い浮かばないw >>247
ほとんどの国鉄貨車はナニワ時代の落成で、アルナとしては何両だろう?
コキ50000の1970年度第三次債務のうち、川重グループ製作分45両の一部が該当
同グループとしての最後でもある(以後は川重の単独)
コキ関係は?
川車→川重グループ(ナニワ→アルナ・富士車両と共同)だから事実上下請け
これらはグループ銘板なので、通常の楕円銘板とは仕様が違う
コキ10000やコキ50000などはJRに引き継がれたけど?
ナニワ・アルナ製作分がどの程度あったか 241 富士重工 何とか信託車輌 て銘板が貼ってあった8000があったが
あれはリースだったのかね?? 三井住友信託銀行のプレートじゃなかったかなぁ
いつのまにか見なくなったから東武が買い取ったのかもしれんね >>239
8000の初期車に帝国車両あったんじゃないかな? 滅多に乗らない6000の扇風機にはスイッチがあったのはビックリした >>255
帝国車両はないはず。汽車会社はあったけど。 >>254
8000系作ってる時代はまだ三井住友信託銀行にはなってない
三井信託銀行だな
信託車両は期限が来れば所有権は鉄道会社に移るよ 信託車両制度って、アメリカで盛んだと聞くけど、アメリカは車両がメーカーのレディメイドの場合が多いから成り立つ制度であって、日本みたいな風土には合わないよね。
悔しかったら、借金のカタに東武8000系を持ってけや!って話。
つまらないマネーゲームだよね。 >>261 東京メトロ銀座線の01系も信託車両方式なんだけど。
この方式で冷房付きの新車を大量に入れて、同線の体質改善図ったわけで。 あ、01系は当初は冷房準備車か。こう訂正しとかないと、些細なことに突っ込むしか能がない鉄オタが湧いてくるから。 >>253-254
>>259
信託車両は償還期間が設定されてる、その間はメーカー側の名義
償還時に信託の銘板を撤去され、鉄道事業者側の名義となる
車両もしくは機器メーカー、信託銀行、鉄道事業者の3者間による信託基本協定により
信託契約(メーカーと信託銀行)と、賃借契約(信託銀行と鉄道事業者)
2つの契約により成り立つのが特徴 航空機は機材リース方式が普及しているが、日本の鉄道車両であまり普及してないのは、需要変化に応じて機材を入れ替えることがあまり無いからかな?
航空機は大型機から中型機に転換、ってことがよくあるんだが。 信託銀行に昔、ビッグという5年の貸付信託があったけど、そのお金が信託車両に回ってたんですかね? >>262
営団の信託車両は
三菱電機、三井信託銀行、帝都高速度交通営団の3者協定で
三菱製走行機器に関する信託と賃借 >>261
>>265
最近日本で、車両信託が行われないのは、コンプライアンス上問題があるから
民法の賃借契約などを無視(排除)した契約で、その免罪符が信託の銘板!?
現在では車両リースの方が一般的で
リース会社との契約や、特定目的会社(SPC)を用いたレバレッジド・リース
などの手法がある >>266
信託車両は、メーカーからの動産(車両や機器の現物)による信託
信託銀行には、車両信託による手数料が入る仕組み 8000系も長いこと乗っていない
7年前に亀戸線の2両編成乗ったのが最後だ 最近は8000系でもバケットタイプのシートになってる編成あるんだね
こないだ久しぶりに乗った亀戸線の2コテのオレンジ色のはノーマルタイプのままだったが… 信託車両って要は自動車ローンみたいなものなんだね。ローンが終わるまで名義がディーラーという。これってバブル前の産物なのかね。バブル以降は信用創造しまくってお金ジャブジャブだからな。
昭和30年代修学旅行用の国鉄155系の費用を皆様の預金で作りましたとか、信託銀行の広告にあったけどまだ金融が健全だった時代のものだよね。 >>274
所有権留保ってのはちょっと特殊で別にローン払ってる間ディーラーからクルマ借りてる訳じゃないよね
借りてるのはお金であってクルマじゃない ローンによってはローンが終わるまで車の所有権がローン会社になっていることはある >>274
昭和30年代の金融業界が健全だったかどうかは微妙
護送船団方式真っただ中の時代、問題が表面化していなかっただけ
オイルショックで乱脈融資の焦げ付きにより表面化したケースも
流鉄の実質的親会社だった平和相互だって(平和系の総武都市開発傘下)
高度成長期からの乱脈経営が祟って破綻
人呼んで「闇の紳士の貯金箱」とも 信託車両とか金融の事はさっぱり判らないけど
昭和50年度の新製車両数がゼロというのは
その頃の資金繰りが大変だったんだろうと想像できる >>279 昭和50年といったら、ウチの親が今じゃ考えられないほどの高金利で住宅ローン組んだ年だぞ。
>>278 北千住・竹ノ塚間が複々線化されたから、車両運用に少し余裕ができたのでは?
車両新製なくとも冷房化改造など行っていたわけだし。 昭和50年ち言うとオイルショックとインフレで経済大ダメージの時代。
東武ではセイジクリーム出現 >>276
本来なら抵当権登記すべきところ所有権留保してるだけだから
本当の所有者は使用者に当たる人なんだよ >>238
琴電島流しはどんくさい三菱モーター車が選ばれた@Wikipedia
マ? >>282 所有権と占有権を混同してない?
>>278 1975年頃は、東上線で10両編成運転のためのホーム延伸に東松山・森林公園間複線化工事、それに和光市での地下鉄乗入れに志木までの複々線化のための用地買収、伊勢崎線では竹ノ塚以北h区複線化のための用地買収が行われていた時期では。
そして、73年から77年の間に東上線で北坂戸、朝霞台、みずほ台の3駅が開業している。
車両だけでなく施設・設備関係の投資が結構多い。東京の他の大手私鉄も同様だろうけど。 277 乱脈融資。。 少なくとも車輌向けの融資は健全に思える。だけど沿線土地開発とかが絡んで来るとちょっと胡散臭くなって来ますね。
流鉄と平和相銀、何かと嘘くさい西武の車輌が流鉄に入ったのもその橋渡し?
あと竹の塚西口に平和相銀支店がありましたね。なんとなく垢抜けない野暮ったさがあったような。 >>282
不動産や船舶じゃないんだから、車両なんか登記できない 自動車や飛行機は動産抵当登記の対象になるが、法律がないから鉄道車両は無理。
鉄道抵当制度というのがあるが、これは車両だけでなく鉄道路線、施設全体を対象とするもの。所有権留保や信託ないしリース方式によるしかない。 開業直後の愛知棒状鉄道に乗った時、信託車両のプレートを見たなぁ
三井か安田か住友か忘れたけど 阪急がタックスヘイブンで自社の車両をケイマン諸島の企業に書類上売却して
その車両をリースで借受けるってのがあった、航空機ではよくある話なんだけど。 鶴瀬サークルの本を買う奴はいるの?
前の本を買った人、買うべきか教えてくれ。 前回はレイアウトはお粗末だったけど、公文書などを根拠に記事書いてるから内容は信頼はできる
東武ヲタや研究者なら手元に置いていいと思う 駅と神橋の間にある日光軌道の架線柱
撤去したの知らなかった 道を跨ぐ門型のやつ?
インフラ地下化でも進めてるんかな。 高坂〜高本貨物線跡をバイクで探しに行ってみた。
そしたら関越道西側の工場・倉庫地区の先が遊歩道化済みと判明。
が!それは終点側、ゴルフコース入口との交差点まで行ってようやく分かった。
そこから高坂方向へ走ったらコンクリのラフな舗装で、ベンチがいくつかあるもののもちろん人なんかいやしない。
いくつかのレポで見た架線碍子とスズメバチの巣がある覆道で盛り土が現れて行き止まり。
丸太の階段は草むしていたし蜂が恐いからさっさと引き返したわ。
しまむらの倉庫や日世の工場の合間に通路があるっぽいが見つけられるもんじゃないね。
入れる場所も葉っぱや木屑だらけで、あたかも閉鎖間近な旧道っぽい有り様。
あぁ、東松山市よ…。 >>298
ヤオコーの工場の隣にある、ばんどう山第1公園から登っていくらしいよ >>299
いったんそこの駐車場に入って眺めたんだが、Googleの廃線mapより高いから想像つかなかったです。
仕方なく西側の高坂ゴルフ練習場から急坂を登ったが線路跡とは交差しないし、けれども踊り場みたいな路面にもしやと気付いた程度で…。
なるほど、第一から日世工場の外周に沿う緑地公園があるんだね。
それを辿ると草むした階段と覆道(蜂の巣つき)が現れるんだろうな。
まぁまるきりの徒歩でなく、ミニベロやMTBとかあったほうか良さげでした。 >>300
物流団地になってるあたりは廃線跡なくなってるから
山の上に登る道は代替の道だからね 軽井沢夫人のラストで五代高之がオープンカーで東武の貨物列車に突っ込んでアボンするシーンあるけど、
あれは高本線なのかな ネットが始まって20年くらいだけど、東武でもいまだに世に出ていない遺跡が残っているから楽しい
妻沼の車庫の遺構も2000年代の中頃まであったけど、いつの間にか更地になってしまった 高坂の貨物線、都幾川の辺りからも遥か向こうに線路が見えてて、
あの路線どこへ行くんだろうなと心ときめかせたものです。 高坂から上熊井行きのバスが廃線跡に平行してるから訪問しやすくなった >>304
子供のころ、貨物列車が実際に走ってるのを何度も見たなぁ・・・
時々廃線跡を見に行くとあらためて思い出すよ >>302
西部警察とかサンバルカンなら死なないのにw 昨日鉄ピク増刊の東武特集号を買いましたよ(^ω^)
この本の70年代〜80年代の懐かしの東武のカラー
写真のコーナーで1971年(昭和46年)北千住の下りホームに
いる1700白帯車の特急たかはらの写真があった。
その説明文で「北千住から発車する・・・・・・」って
書いてあったけどあの時代(1971年)本線の特急と急行と言った
有料列車は下りは全て北千住を通過していた筈。多分「通過する」の
書き間違いだろね。 大きく変わったのは熊谷線と葛生周辺、新藤原が行き止まりってくらいじゃないの。 野岩開業前の一面一線時代の新藤原って特急や快速急行は来てたんだっけ? S55か、そんなに昔じゃない感じがする。
栃木から東京に出て住み始め、伊勢崎線を頻繁に利用するようになった時期。 昭和55年ごろと言ったら、東武の冷房化率が30%くらいの頃かね? 昭和55年の末頃じゃ無かったっけ?GMの8000系の
キットが発売されたのは。 明日鶴瀬サークルの本を買った奴、感想を教えてくれ。 わざとらしいステマだな。
発売日どころか組織名すら知らんわ。 同じ面の電車を延々量産
特急はボロくなるまで使い倒し
末端はやる気なしダイヤ
路線はクニャクニャ
東武って害悪では? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています