懐かしの東武鉄道について語ろうパート6
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>>119
トイレ付き車両の数が多いからね国鉄は、JRになっても垂れ流し残ってたし。
東武は一般車のトイレは無くす方針で54型や78型のトイレは撤去か閉鎖だった。 そもそも、小はともかく、何で大を撒き散らして良いと思ったのか。 >>121 赤字国鉄だったから。車両のトイレ改造に充てる予算が足りなかった。 >>122
トイレのタンクの抜き取り設備を車庫に用意するのが大変だったんだよ。
私鉄だったら車庫はあっても数ヶ所だろうけど、国鉄は日本中にあったからな。
車庫に抜き取る設備は作ったけど、抜き取った汚物を流す下水道が整備されてなくて垂れ流しだった
ってところもあった。 上野行きの夜行急行が都会に入る頃は、皆が朝のトイレタイム
車内に設置されたトイレから息つく間もなく汚物が撒き散らされていた >>118 1972年に浅草から日光まで6000乗った時は、タンク式だったな。
竹ノ塚までの複々線化工事が進められていた頃だ。 まさかとは思うが、道路に撒き散らすタイプのは流石にないよな?
つまり、バスとか路面電車で。 >>105
鋼板屋根は日立の提案であったようです。日立は7860形の英文のカタログを作っており、
輸出車両のひとつのモデルケースと捉えていたと考えられます。
この当時、製造費も安く、また木工の手間賃が安く、維持管理のコストが安いと
考えられたのが、7870形で木製屋根に戻った理由と考えています。 >>123
地方私鉄では地上施設を造らずバキュームカーに吸い取ってもらっている会社が多い。 汚物処理は車両よりも地上施設が厄介だからな
カネの問題だけでなく、自治体や住民の反対なども
国鉄時代「他に方法がない」という理由で手を着けなかったのも、まぁ分からなくもない >>127
>>105です。
どうもありがとうございます。 スチール屋根の7860型だけでも冷房化して欲しかったものだ。 垂れ流しだと踏切の舗装に落ちることもあったんだろね
駅の近くだと徐行や一時停止中にドバドバ 汚物そのものを見た事はないけどトイレットペーパーらしきものが落ちてるのはよく見たなw
停車中はご遠慮くださいって書いてあった事を考えると、走行中だと飛び散って残らなかったのかね? その位置にこんもり盛り上がった茶色の物体が形成された駅は何か所か記憶あり 鶴瀬駅東口の川越観光と書いた建物がいつ壊されるか
興味津々 極寒の鳩山住宅地に向かう川越観光バス…。
実は隠れ宿や隠し湯がありそうで、なかなかシュールではある。
移管された頃はマジに周遊バスかと一瞬思ったな。
朝日カラーの路線型なのに、何なのこのクルマ?って。 鳩山NTは鳩山っていっても東部だからそこまでは寒くないけどね
朝日カラーって呼ばれてるけど川越観光が一番最初にあのカラーの車を入れたんだよな >>139
あら、あの色は川越が先達なのか。
野田線の5070系末期の春日部駅が既に朝日バスだらけだったので、てっきり県東地域先行かと…。
鳩山のアメダスって駐在所近くの低地みたいだが、高地のNTの方が家がある分暖かいのかな。
たしかに晩夏の夜は越生にかけて霧が出やすい気がする。 朝日と川越観光でほぼ同時期かな
川越観光のほうが納車が少し早かったけど
多分東武のお偉いさんが決めた塗装だから、東武の連結子会社の川越観光はグループ会社の中でもやりやすかったんだろうね 鶴瀬サークルが西山信号所の写真見つけたと言っているが本当だとおもう? あの連中だから本当だと思う
西山信号所の配線は趣味誌などに時々出てるよね 新越谷ヴァリエが20周年
そういえば昔の新越谷駅に東武飯店あったと思うけど、何でヴァリエには入らなかったんだろう? 春日部駅の一ノ割方にある野田線車両用の留置線、
あれって出来たばっかりの頃は20000系がよく停まってたような気がするけど、
野田線車両用になったのっていつ頃からだっけ? 西山の配線図はあいつら、かなり細かいのをもう見つけて載せている。
どんな写真なのか。
どこが持っていて交渉しているのかが気になる。 >>145
野田線複線化とホーム&西口拡張の時期でしょう。
自分も久々に春日部で乗り換えた際は、柏行きホームが切り欠きみたくなって停車位置も変わってて驚いたもんです。
大宮行きの駅舎側にあった留置線も消え失せてたし。
何よりも活線状態でどのようにホーム拡幅をしたのか、ありゃ不思議だなぁ。 坂戸の東上線ホームを拡幅したのを生で見た筈なんだが、昔すぎて記憶があやふやw
普通に旧下り本線の上に一晩で仮設ホームを作ってたんだが、やり方はどうだったかな
JRだと仮設ホームに発泡スチロールを使ってたような気がするけど
東武は一晩で工事の足場パイプを組んで仮設でホーム拡幅してから、
だんだんとちゃんとしたホームを作っていく方式だったかもしれない >>148
志木の上りホーム拡幅も、一夜で仮設ホーム組んでたよ。当時ときわ台まで通ってた小学生だったけど、発泡スチロール工法では無かったと記憶してる。 >>148
なるほど、先に新線路を外側に敷いた上で仮ホームを間に造るんだろうね。
でもさすがに所定の終電〜初電の間じゃやりきれないだろうから、代行輸送で時間稼ぎをしたのかな。
そういえば岩槻か東岩槻〜春日部間を、土曜か日曜朝方に運休する掲示を見たような気も…。 終電〜始発の間で終わらせるよ
作業する人の数を多くすれば10両分のホームだろうと案外すぐに終わるもの
もちろん仮設だから拡げた部分にはホーム屋根すらない状態だけどねw 複々線が竹ノ塚まででその先が工事中だった頃の話
地上時代の越谷駅に上り準急浅草行き8000系がカーテン全開で入線
先頭車に乗るとちょっと異様な雰囲気
乗務員室には運転士の他に黄色い帽子を被った背広姿の本社社員が2人
ひとりはストップウォッチ持って時間を計測しもうひとりが首から下げたボードに数値を記入
乗務員室の後ろにはヘルメット被った作業服姿の工事関係者が5-6人前方を固唾飲んで見守っている感じ
前方を見やすいようにカーテン全開で運転させられてるんだなとわかった
本線走行中に駅間ですうーっと停車再び加速して時間を計測そんな事何回かやっていた
西新井で作業終了らしく駅に着いたらお疲れさまでした的に関係者全員降車
運転士かなり緊張してたのか大きな溜め息ついて制帽を団扇のようにパタパタ扇いで汗拭きながら運転席背後のカーテン下げて直ぐ発車
しばらく走って真ん中のカーテン下げ忘れたのが気になるのか何度か振り返る
もう我慢できない感じで走行中に立ち上がって真ん中のカーテン下ろしに来た
北千住までもうちょっとなのに諦めて運転しろやと思った
長文失礼 DRCが走り始めた頃って東武線沿線はまだまだ終戦直後の雰囲気
だったんじゃなかろうか?? 1720系って昭和35年でしょ?
東京オリンピックの頃だからもう戦後って感じではなかったはず
今と違って数年で別世界というほど日本が大成長してた時期だからね >>155 DRCとイモ電デッカーが共に走っていた時代だからね。
高度経済成長していても通勤路線等のインフラ整備が追いつかず、ラッシュアワー時は激混み。人口激増で大都市の住宅事情は劣悪。松原団地のような公団住宅が庶民の羨望の対象だった頃。 日光行くのに特急乗るほど金のない奴は特別料金不要の準快速、
しかし荷電かと思うような戦前製のオンボロ電車、乗り心地が悪い車両でロングシートで我慢しなくてはならなかったわけだ。 >>155
>数年で別世界というほど日本が大成長してた時期
それが分かってたら東京オリンピックの頃とか言うのはどうかと思う 数年で別世界か・・1970年頃には吊りかけ全廃で通勤車両の冷房化率が50%を超えて、
となってたらなあ。 >>154
当時は西新井過ぎるとまだ開発途上、宅地化が進むのはもうちょい先の話。
2000系が最初は4両編成だった事から当時はその程度の輸送力で足りてたんだろう。 >>159
現実は戦前型が車体を載せ換えて1996年まで走ってたし冷房化率100%達成も1996年、
吊り掛け全廃は2006年だったりする。 DRCデビュー、ないし日比谷線乗り入れ開始の頃の伊勢崎線のダイヤって、どうだったんだろう?
4両編成が主流だったとしても、西新井より南では相当な高密度運転だったのだろうか。
70年代前半の東上線だと、6両編成が主流で朝のラッシュ時上りでは、成増・池袋間で1時間に25本位走らせていたような。準急以上の優等列車より各停の方が本数が多かった。 足立区北部だけど昭和50年代半ばまで昭和20年代建てられた木造都営住宅
がまだ残っていた。広くはないけど垣根で覆われた敷地の半分が平屋の
木造住宅で半分が庭になっている。何とも長閑な住み心地の良さそうな
住宅だった。 そのあと出来たらしいのが4戸で1棟の集合住宅。2階だてて
一戸が階段使って2階も使う面白いつくりで同級生も住んでた。
ここまでの住宅密度だったら日比谷線も4両ですんだし本数もそんなに
いらなかったろう。
だがそのあと出来たのが5階だてで廊下で繋がる鉄筋コンクリのいわゆる典型的な団地で密集していて息が詰まる感じ。この頃のになるとあそこの都住の
子と遊んじゃいけませんなんて言われる事もあった。しかしあいつとあいつは悪いが、平均的には他と変わらない連中だったと思う。あそこまで密集した
住宅が建ちまくると通勤輸送も8両10両の過密ダイヤが必要になるだろう。 >>163 昭和50年代半ばだと、通勤圏は杉戸(東武動物公園)まで行ってるよ。
通勤圏が広がったのは、建蔽率や日照権の関係で23区内の高層マンション建設が制限されていたから。地価の高騰で高層集合住宅建てても採算が取れないということもあったが。 >>163
下赤塚に叔母が住んでたけど昔の都営住宅ってそう言う家だったよ。 >>163
>だがそのあと出来たのが5階だてで廊下で繋がる鉄筋コンクリのいわゆる典型的な団地で
典型的な団地って側廊下式じゃなくて
同じ階の二世帯分に階段がつくタイプじゃね? >>164
いや50年代なら舘林やそれ以北から都内に通っている人も結構いた。
7時ごろの通勤快速が舘林で座れないほどだったのを覚えている。 館林だと久喜乗換えじゃないの?
直通してた頃から久喜でほとんど入れ替わってたよね >>167
そりゃあ館林に住んでる人で東京に就職して通う人とかはいただろうよ >>167
懐かしいですね。日・宇の通勤快速は、新栃木でほぼ座席が埋まる感じでした。
東京への通勤者と、藤岡あたりまでは農家が都内の建設現場に日帰りで出稼ぎに
通うために乗ってましたね。 >>168
例えば館林6:36発の区間急行に乗ると北千住で日比谷線に乗り換え銀座8:29着。
途中久喜で快速アーバンに乗り換えても東京8:17着。
あまり大差無いと言う印象はあるが。 都営住宅
昭和20年代 完全木造戦前からの作り、平屋
30年代 外壁モルタル防火構造 平屋か2階付
40年代 中層五階建て鉄筋コンクリート造
日本住宅公団団地
40年代 中層五階建て階段室付き鉄筋コンクリート
50年代 中層7階?9階?建てエレベータ付
鉄筋コンクリート
こんな感じですかね? 都営住宅もだけれど、伊勢崎線沿線では
昭和40年頃の日本住宅公団の竹の塚周辺の団地、松原団地、武里団地など、それから
民間マンションや戸建て宅地開発で沿線人口
が爆発的に増えたということか。 >>170
通勤快速、日曜日に都内の祖父母の家に遊びに行くのに狙って何度も利用したなぁ
春日部→北千住間の利用だったけど、
日曜日のせいか各車両座席がさらっと埋まる程度の乗車率だった記憶がある
伊勢崎系統にも通勤快速あった気がするけど、
自分が利用するようになった昭和50年代後半はもう廃止されてた 当時の中長距離は平日も休日も同じスジだったはず(国鉄も) >>171
東京まで乗り換えなしで行けるのと北千住で乗り換えるのとじゃ雲泥の差だろ 通勤快速と言えば見た目が準急や各停だから駅のアナウンスが念を入れた内容が繰り返されていた思い出がある。
これは見た目が快速の快速急行もそうだったけど。
そう言えば東武では全駅停車の列車を“普通”って言ってなかったんじゃない?“各停”とか“各駅停車”とか言ってたが。
自分は電幕が導入された時に初めて東武で“普通”って言葉を聞いたが・・・・ >>178
東京のどこへ行くかによって違うんだけどねえ。 >>180
>>171へのレスなんだから>>178の東京は東京駅に決まってるだろう
まあ>>178は根本的におかしいんだけどな くだんの通勤快速は春日部から北千住まで無停車だったけど、先行にくっついちゃって
しょっちゅう駅間で止まっていたのを覚えています。
ぎゅうぎゅうで長時間閉じ込められて辟易した記憶あり。
昭和50年ころだから、竹ノ塚まで複々線になって少し経ったあたりかな。 >>126
スレチだが名鉄の戦前のターミナル押切町周辺と犬山橋は路面なのに下呂乗り入れ電車や省線客車は垂れ流しトイレだった。 くそ暑い夏の夕方の7800系の下り通勤快速も悲惨だった。
非冷房で汗がタラタラ疲れた足で立って27分。
逆に深夜は6000系の準急なんてのがあり、クロスシート車で
西新井に降り立つ不思議さ 21年前出張からの帰りで北千住から下りの6050の準急に乗った事がある。
無茶苦茶混んでいた。6050が準急に使用される時間帯って大体ラッシュを
避けた時間帯・・・・・・と言う認識があったのでこんな時間でも働いている
人多いんだなあ、と思った。その6050が北千住に顔を出さなくなって
もう1年に成るんだな・・・・・・。 元々終電近くなると職場の飲み事帰りの客が増えて混む上に
クロスシートに短編成ではドア付近にギュウギュウ詰めになるよな。
西新井や草加で降りる人などは中に入り込むと降りられなくなるから
余計ドア付近に固まる罠。ってかあれ浅草から乗って奥のクロスシート
に座っちゃってうっかり寝込んで目が覚めたら降りる駅だったとか
だったらどうなってたんだろう?次の駅まで乗って引き返して来れる
ダイヤだったかな?? 今さらだが、鶴瀬サークルが西山信号所の写真を公開してるけど、これって池袋電車区の貴重な写真じゃね? あの準急は北千住まではまローカル線風情のまったり空間
北千住でたまたま当たった乗客はホームでウンザリしてたな そんなこと言ったら6000の準急や5700の準急はどうよ
5700は正月の大師線にも入ってたことあったな えっほんと? 57大師線。
嘘ついたら針千本のますよ 各社の新型車を尻目に戦前形テイストの78増備。
早晩陳腐化するのが分かっていても『そんなことを気にしている場合でなく』という解説を見るが、誰がなおざりにしたのか不思議に思う。
当時まだ中間層以下社員だった花上さんの著書もその辺は不詳なんだよなあ。
地下鉄乗り入れという外圧をキッカケに、やっとこさ8000系開発や3000系更新とか堰を切ったというのかもしらんが。 東武の通勤車での高性能車両は昭和36年の2000系だから、他の私鉄とそれほど変わらないのでは?
それより平成に入っても5700を使っていたことや、更新車の5000など吊り掛けが長生きしたことが、高性能車の開発が遅れたとの印象になったのだと思う 初物に飛びついて大火傷、他社の開発状況を様子見して安定期になったのを見極めてから導入した。ってことでしょ←新性能車
スペはVとしては割と早い導入だったと思うが大火傷にならず良かったね 191 78が戦前テイストとな。
なるほど
A昭和10年代前半までの作りの良い省線電車
⬇️
Bとりあえず終戦まで持てばいい63型
⬇️
C敗戦直後で金も物もない時の一時しのぎの63型
⬇️
桜木町事故でパンタ壊れ乗客丸焼け、中野電車区民家突っ込みなど
ジメジメくらーい時代
⬇️
D20年代後半、復興が進み少しづつ作りの良くなるの63型
⬇️
E90系試作車出る前位の全金製などの作りの良さ
相棒の7300の下回りなどはまさしくC時代のものだったが、
たしかに7800や更新後の7300のハコはしっかりしたつくり
でDないしE期との認識だったがたしかにA期の戦前テイストとも
言えるのかもね。 東武は国鉄101、103、あるいは西武の101以前のような安物を造らなかったということだろ。 >>195
矢印は不通の記号「↓」で頼むよ
機種依存文字使う意味がない 国鉄101系あたりだと、オールMで登場するも変電所容量から限流値を下げざるを得なくった→
今度は加速度が旧型車以下に→オールMで走らせるのは不経済だから付随車を挟んで限流値を
上げる→結局性能的にはそのまんまみたいなゴタゴタを観察してたんだと思うよ。 >>194
直角カルダンの失敗を教訓に、数をたくさん作る通勤車では新しい技術を導入せず
総取り替えになったとしても損害が少ない特急車でVを量産したのは賢明だったのかも。
加減速の頻度が多い通勤電車をVにして特急車は抵抗制御、っていう近鉄みたいな考え方が
VVVFインバータ装置が高かった当時の常識だったし。
初物に飛びついて大やけどしたのは、そのあと20050・9050で付けたLCD次駅案内装置。
大失敗して撤去して、後に他社ではLCDが標準になったのに東武はなかなか採用しなかった。 >>199
あれは珍しがって画面に触る奴がいたからだよ、あとラッシュ時に手を強く押し付けられたりとかね。 LCDってラッシュ時に手が届く位置にあったの??ラッシュ時は体支えるために
どこにだって触れるからなあ。オヤジはドアの閉まるとこに指がいって
縫うほど血が出る怪我した。東武に言いなよって言ったのになんも言わなかった。 >>201-202
満員のところに無理して乗るときにドアの上の部分に手を掛けるけど、
20050などを作っていた頃の営団の車両だと、下側が出っ張って指が引っかかる
場所を作ってあった。東武にはそれがなかったからな。
ドアの上に手を掛けたらディスプレイ、なんてこと、
背の高い人だとそうなっていたのかも知れない。 東上線の某奥の方の駅・・・
静かな午後・・・踏切が鳴り出す
「荷物電車」が走り抜けて行き、踏切のすぐ先の駅で停車・・・
再びの静けさ・・・
幼い頃に見た遠い日の記憶・・・ 幼い頃、よく利用する東上線の駅で通過する貨物列車を見ながら、この空の荷台に飛び乗れば満員電車使うことなく池袋まで楽勝で行けるんだろうなあ、と妄想していた。 また、小学生の頃、東上線の路線図見て接続するのができたばかりの武蔵野線と、川越駅行っても列車を見たことがない川越線、ずっと奥の方でこれまたローカルな八高線と秩父鉄道だけ。
分岐するのは越生線だけ。京王、小田急、それに東武伊勢崎線に比べ、何てつまらない地味過ぎる路線なんだろう、と思っていた。
地下鉄乗入れに期待をかけていたが、ずっと遠い将来のことと感じてたし。 >>199
LCDモニターの最大の敗因は、当時、モニターを生かせるコンテンツがなかったこと。
当時は、携帯電話でさえ、トンネルはおろか、地下駅でも使えなかった。
そんな時代に、地下鉄車内、ましてやトンネル区間で、リアルタイムでのニュースや運行情報、広告なんて、とても望めない。
で、結局、電光掲示板がテレビになったという目新しさだけで、表示できるのは、あらかじめインプットされた次駅案内と乗りかえ案内、それに動きの少ないアニメぐらい。
地下駅やトンネル内での携帯電話受信可能など、使用環境が整う前に、モニターが劣化して、装置ごと撤去する羽目に。 >>192
新性能はともかく古臭い内外装のままS36まで大量生産したワケですよ。
そのうえ頑丈なだけに長年使用する禍根になってしまった。
巷間云われる『気にしている場合でなく』や『保守の象徴』の主体(主語)が何だったのか、素朴な疑問なだけっす。 >>208
当時でも、山手線の6ドア車両にあったLCDではテレビの文字放送
(ニュースや天気予報)を流してたよ。
CMもあったけど、静止画が多かったw 東武伊勢崎線の高架複々線工事、北千住〜西新井間。
荒川鉄橋は多分、東京湾側に新しい橋脚を建設架橋して、その後に元々あった橋脚をかさ上げして架橋したような気がする。
何分その当時幼少のため記憶が定かでないのですが、ご記憶の方いらしたらご教示願います。 高校のときに卒業レポートみたいのをやることになってて
根古谷線のことを調べたなあ
当時はネットなんか無くて、本当に自分で集められるだけの資料と現地調査だけでなんとか
やり遂げたっけなあ・・・ 荷電。。。
昭和57年の夏休み、伊勢崎本線を爆走するモニを撮りに俺は小菅駅で
カメラを構えてた。程なくして遠くにセイジクリームの荷電が見えた時
くらりと目眩がして一瞬意識を失った。再び目が覚めると周りの様子が
違っていた。駅が地上の田舎くさい駅になっていて枕木は木、
さっき来かけていた荷電は茶色くなっていて、日光行の看板が
掛かってをり、荷電のはずが乗客が沢山乗っていた。 >>213
乗客、みんな骸骨だった。とかじゃあるまいな? >>196
っていうか西武はあまり金掛けた電車を作らなかったイメージ
新2000だって70年代半ばにできた車両の焼き直しみたいなものだったし >>215
昔から質より量の西武って言われてたのに何を今更 >>217
戦前型17m級旧国の足回りに新造車体を載せて客の目を誤魔化してたのが西武。
一応新車で釣りかけとしては高性能だが半鋼製車体で客の目には非常に古臭く映ったのが東武。 まぁ東武にしても、3000系や5000系の例がありますからねぇ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています