153系・165系・キハ58など急行型車両を語ろう 12 [無断転載禁止]©2ch.net
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153系、157系、165/169系、
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キハ55系、キハ56/57/58系、キハ65形、
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153系・165系・キハ58など急行型車両を語ろう 11
http://mao.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1437357187/ だいたい、急行型電車の最高速度が110キロなのに
キハ58系は95キロだもんな。
キハ80系、キハ183系で100キロだからそれを言えばおしまいだけど。
キハ181系は例外として。 幹線でも非電化単線のとこじゃ線路側で最高85キロの路線も多かった時代、無理もないが。 地方の道路が、未舗装→舗装→隘路改良→高規格道路となり自動車の性能アップするなか
急行ディーゼルは鈍足で切り立った椅子のまま
そら競争力を失いのたれ死にするわ 急行の客を奪ったのはまず格上げという特急化で
そこまで高速化できない路線では高速バスが奪った。
90年代中心の10年余りは急行形に特急用リクライニングシート
換装車でギリギリ保って廃止まで耐えただけ良いか。 地方に高規格道路道路が伸びて来た時代には
大半のキハ58系列なんて電化や急行の廃止で普通列車に使われていたんだが…
知ったかぶりしてもな 宮脇俊三氏の体験にもあるように乗り遅れた花輪線の急行をタクシーで追いかけ、途中で工事箇所ありガソリンスタンドへの寄り道ありで追い抜いてしまう
まだ地方に高速道路もなかった1970年代、すでにそんな状態 >>195
お前の言うところの「高規格道路道路」とやらと>>193の言う「高規格道路」というのは意味が違うと思うぞ RJ、43.10寸前の千田夏光氏による中央西線の紀行文の中で、
気動車急行赤倉が鳥居峠でトラック2台に続けて抜かれるとの記述がある。 大垣夜行(現・ムーンライトながら)に急行型が使われていた頃の最末期は、レギュラーの田町167(当然東海色)の他に、新前橋の165モントレーカラーや、三鷹169の甲州色が助っ人で来ていて、ほんとに最後の華を咲かせていた感じだった。
特に名古屋で見た169甲州色は、普通なら東海エリアに来ないカラーと車種で、ほんとに華があった。 >>202
ナウなヤングだから赤倉は165系のイメージしかない
俊足ぶりは信越海線だけで、山線から普通列車になり長野から上田・小諸まで
快速だったような >>203
定期が373系化された後の臨時が急行型のままだった時代も結構種類が豊富だった >>63
それは205の側窓と同じ構造
そのため、117系100番台は、西日本限定にもかかわらず、ボルスタレス台車とセットで、東急車輛で作られた。 >>208
東海向けは先頭車のみで、全て日車でしたね。
あと、西日本向けは、東急のほかに、川重と近車が作りました。 サハシは本来の用途から外れても
電源として重宝したって本当? >>210
アルプスに結構後まで連結されていた理由 サシ581も外せなかったんだよね
サハシは普通車込みだからまだよかった
それとビュフェのカウンターテーブル愛用者が居たというのも何かで読んだことがある アルプスは受け持ち区のクハがに余裕が無くて
東北・上越新幹線開業で余剰クハが転属してくるまで
MG載せてたサハシを外せなかったと鉄ピクで読んだ記憶
記事載ってる号が発掘出来なかったよorz >>215
モハ165がいた分クハも多いと思ったらそうでもないのか
むしろサハ165が少なかったとか? >>214
登山客の荷物置き場と化していた
アルプスのビュッフェ >>216
クハはたくさんいたよ。153系の短編成化はクハ165で実施した。だからMMユニットが少なく(21組)、McMユニットばかりなのに上り向きのクハ165がたくさんいた。
サハ165は少なくてオリジナルのサハ165は11両だけ。新潟と一部が神領にいただけ。最後はクハ455への改造分を除いて長野に新急行として転属した。
神領ではサハ165の不足分はサハ153で補ってた。クハやサハシと違って改造しなくても(KE57とKE64は互換)165系の編成機能は殺さないので改形式されなかったとのこと。 >>218
松本の話なんだけど
それ165系全体の話だよね やっと発掘した鉄ピク2007年10月号に記述があった
アルプスは新宿方から
McM'TsTsTbMcM'Tc+McM'TcTc
とう編成で付属を4両にする都合で基本からTb抜くとMG容量が足りなくなるとの事 >>219
218です。斜め読みでごめんなさい。
松本だったら確かに上り向き(偶数向き)のクハはいませんね。失礼しました。 457系があとどのくらい製造されたら、しらゆきを電車にする事できましたか? >>221
白馬を併結していたから、何両製造されても電車化されなかったのでは? 電化幹線から非電化支線乗り入れ用として
急行型電車と強調運転もできるパワフル気動車が開発されてたらね。
(90系気動車・量産型?181系気動車の急行用?)
他にクハ455にガスタービン積んで、それで発電してクモハ455(475)とモハ454(474)のモーター回して
非電化区間に突入なんて案もあったみたいね。 >>222
一つの案だが、当時のしらゆきの両数からすると、
McM'TsMcM'Tcが金沢青森往復で2本+予備1本
増結用として、McM'Tcが金沢秋田往復で2本
まとめると、McM'が8本、Tcが5両、Tsが3両、計24両
ただ問題が多すぎ
「きたかみ」を絡めた運用(秋田持ち)で、秋田青森間は併結となっていたが、
運用上は簡単に分離し別運転に出来るも、その分乗務員等が必要、
また、秋田青森間は線路容量が結構厳しかったと思う。
続く また、他の人がレスしている通り、金沢糸魚川間で併結している「白馬」が困る。
これは3両では単独運転は勿体無い、かといって他に適当な併結列車もない。
更に金沢口で七尾線ローカルの通勤輸送に使用しているので、
電車化した場合、その手当ても必要となる。
なお、電車化した場合の持ちは金沢、「ある程度は」北陸急行と予備が共通できる。
青森では予備車分が更に必要(しらゆき専用になる)、秋田は当時電車の配置なし。
青森が持つか金沢が持つかで編成の向きが逆になる。
結局、電車化するメリットはさほど無く、気動車のままだらだらと走らせたのが現実じゃなかったかな。
どのみち特急格上げが見えていたこともある。 >>227
その手があったか。
電化あるいはディーゼル機関車化されていたから、そこそこ行けたかもしれんな。
ただ気動車よりは多少所要時間が延びるかもしれんが、ごめん、そこまではわからん。
以上、長々すまぬ。 昔の鉄道ジャーナルで、急行列車・日本縦断の旅みたいのを二か月連続でやってたけど、
俺が興味を持っていた幹線系の電車急行には殆ど乗らず、
支線系の気動車急行・乗車レポートばかりでがっかりしたな。 >>232
読者予想(編者)が東京思考で電車より気動車・客車の方が価値あるという偏向は永年あるね。 しらゆきだけならさておき羽越奥羽線に何がなんでも電車急行だけ絶対入れない
!みたいなの感じられて結構嫌だったなe129系電車今でこそ走る村上以南さえ
2往復除き電車ではなくて客車か気動車 >>234
爺さん初カキコかい?
こんな感じで改行すると良いよ
しらゆきだけならさておき羽越奥羽線に何がなんでも電車急行だけ絶対入れない!
みたいなの感じられて結構嫌だったな
e129系電車今でこそ走る村上以南さえ2往復除き電車ではなくて客車か気動車
これでもてにをはや語順等おかしいけども
羽越あたりは当時の状況考えると仕方がないよ
急行型自体増備する時代じゃなかったし
457系増備したらまるごとキハ58系が余っちゃうんだから 九州も長崎線が電化したのに急行型電車は入らなかったな。
鹿児島線や日豊線では急行型電車を普通列車に使う余剰があったのだから、
それを「かもめ」「みどり」の急行版に回しても良かったと思うが。 中央西線や紀勢線は振子型電車急行走らず旧型ディーゼルのまま、特急地下駅も快速が乗入仕様なのに急行は旧型のまま両国行き。
やる気がないのは昭和40年代から >>236
グリーン車が足らなかったという理由をこじつけてみる、これではないと思うが。
出島・弓張は両方にグリーン車連結、出島8両弓張4両。
これを当時の九州電車急行でやろうとすると、
TcM'Mc・Ts(Tb)M'Mc+TcTsM'Mc (当時Tbは休車はったような)
で、付属編成にTsが入る形にでもなるのだろうが、
S51時点では交直流サロの余剰はなかった。
まあ当時乗車率の低かったであろう北陸から持ってくるという手があったと思うが、
この基本編成では気動車に比べると輸送力は落ちる。
どのみち特急格上げが見えている、で、やらなかったのでは。
>>237
昭和40年代後半には、普通以上は特急と快速にしていくという方針が決定していた。
振子電車という地上を含めて高価な車両を、金の取れない急行用として造ることは出来ない。
また東京地下も、新製するなら特急型、急行型には金かけて不燃化ATC搭載するまでもない。
長々すまぬ んなー事より、貴重な58系のカラー映像が一杯ですぜ。
余目鉄橋も。そこから飛び降りちゃう位です。
『夢千代日記』見なはれ。早坂さんの追悼番組です。 勾配区間冷房使えるようキハ65少量と本来は急行用じゃなく、万博に間に合わす臨時用として作られた
12系以外は急行用は作らないと決めてたからねぇ 12系きたぐにみたいに客車にするしか、しらゆき客車にするのが関の山なのか。何のために電化したんだと思うが結局、特急のために電化したということだね。羽越本線村上〜酒田間は今も同じだし、電気機関車が牽引をする貨物列車しか、走らなくなった糸魚川〜直江津しかり。 電車はお高いからな、特に交直流。急行型は制御車が多いし
まぁ田舎の大都市への直通信奉で上野口でも大宮に新幹線くるまで非冷房キハきてた
からな。便宜上長距離にしてたしらゆきにそんな車両いれられないでしょ >>236
鹿児島線や日豊線では急行型電車を普通列車に使ってたのに
その車両長崎本線急行に回したら鹿児島線や日豊線の普通列車どうすんのよとならないかな?
長崎本線からキハ55やキハ58回すのかい? >>237
お前さん相変わらずブレないね
振子式急行型スキーにも限度があるぞ >>241
地方の本線になると貨物無煙化と特急通す以外オマケみたいな形の電化だったからな元々
12系・14系の臨時列車も電機だけはあるので貨物少ない時期にそうやって使うという格好だったし >>241
「車両費のかからなかった電化」と言われました >>246
実際有効活用したからその分は余ってるとは言わない >>241
羽越線関連や長崎線関連の頃の地方幹線の電化は、
特急の電車化よるスピードアップと、
機関車の電機化によるパワーアップが主目的かな。
その頃には急行型電車は製造は打ち切られてたし。 東京大阪間の臨時夜行電車急行で
時刻表に1・2等、食堂マークが
つきながら愛称なし、というのが
あった。豪勢だな。 >>250
それは興味深いな
手元の交通公社1976年10月号の臨時ゆのか
上り51号(大分841―小倉1128)
下り51号(小倉1152―大分1416)
上り52号(大分1453―小倉1727)
下り52号(小倉1736―大分1958)
10/9〜10/11に限りG指定席連結とビュッフェ営業の注釈がある
10/9が土曜で10、11と連休になっているので状況的にはアリと思う
短時間の折り返し運用だし4列車に及ぶミスプリとは思えない
九州では1973年に営業休止のハズだが臨時での運用は続いてたのか? >>229
東北の県庁所在地駅で、唯一急行型電車が入ったことがないのが秋田なんだよねえ。
青森はくりこまがあったし、山形にはざおう・仙山が来ていた。
昼行のおが1・2号など全区間単独だったし、455ど電車化出来たんじゃ? とは思うけど…
出来ない事情があったんだろうな。 >>252
電化が遅かったから
昭和50年以降の電化で急行型電車になった急行って稀有じゃね? きのくにさえ定期はそうだったからな。きのくにが定期廃止され臨時で初めて、165系電車投入されたの結構強烈な記憶勿論南海線乗り入れあったこともあるが 直流電化でも伯備線福知山線は特急化、肥薩線、奈良線は急行廃止 >>256
そう筑肥線の間違い
すまない
急行「平戸」は非電化区間直通だから仕方ないだろうが、奈良線和歌山線の急行「紀ノ川」は全線電化区間、電車化はおろか代替の快速や普通列車も走らなかった
多少は人の動きがある奈良国体の年、急行「紀ノ川」はまったくあてにされていなかった 同じ急行型車両と言いつつ、格はやはり電車≧客車>気動車か。
準急を全部急行に格上げしないで、
幹線系や幹線から支線突入系は電車や客車に限り急行、
支線系と気動車を使用してる場合は全て準急とすれば、
上手く分類できたろうにな。 >>258
気動車のほうが停車駅が少ないことがあった(多かった?)ので
その手が使えなかったのではないのだろうか。 線区によっては長距離急行が客車列車で気動車準急より鈍足というのがあった おがは板谷峠もあるし電車でパワフルに走破してもらいたかったな
キハ58偏重で冷房付なのに使えない事態もあったみたいだし >>521
時刻表の原稿を作成する際に、編成表を鵜呑みにしてビュフェの営業ありに
してしまったという記述をどこかで見た覚えがあるが、真相はどうだろうか。 スマソ
>>521 → >>251
時刻表の原稿を作成する際に、編成表を鵜呑みにしてビュフェの営業ありに
してしまったという記述をどこかで見た覚えがあるが、真相はどうだろうか。 >>253
稀有な例として錦江があるね
すぐに快速になってしまったが >>263
それも考えたけどその号は何故か編成案内頁に
九州の急行は夜行のかいもん4号と日南4号しか載ってない
九州各線の定期電車急行は本文中にビュフェの表記は一切無し
1978年10月改正前まではサロと並んでサハシが組み込まれてたハズなので
営業不可能ではないけど誰か真相を教えてください >>253
50.3改正だけど、
「犬吠」と「水郷」はどうかな
あと「天竜」等の中部山岳ローカル急行 急行赤倉(名古屋-新潟)末期は165系に変わった。 赤倉→新潟発長岡行き普通電車→長岡泊→翌日の長岡発新潟行き普通電車→赤倉又は佐渡→よねやま→長岡行き普通電車
1月11日に新潟発長岡行きの普通電車が15時間も立ち往生したわけなんだけども
165系電車がもし今回みたいな立ち往生巻き込まれたら新潟⇔長岡間だけでなく165系電車の立ち往生がそれこそ遠く、東京や名古屋まで巻き込まれていた訳で
TVで今のように川島冷蔵庫とか所謂、鉄道コメンテーターが頓珍漢極まりないコメントを言うこともなかったのかな?と思う正直言って残念なところではある >>264
ああ錦江って電車入ったの日豊本線全線電化の時だから該当するね
それでもディーゼルも残ったんだよね
>>266
総武本線はそうだね
天竜等は電化自体は早いから
>>267
これも電化自体は早い >>268
165系
DD53
人員の数
直轄管理
国鉄根性
・・・
これだけ揃ってるから
あんな程度で立往生なんかしないだろう >>271
トータルでは、国鉄はけしからんことが多いと思うし
それ故消えてなくなったのだと思うが、国鉄であれば
今回のような長時間立ち往生はなかったともう。
JRは「お客様第一」を標榜しているが、所詮は
コストと風評の天秤で施策を決めているだけだ。 >>272
国鉄は三八豪雪の時
立ち往生した越路号に火鉢持ち込んで一酸化中毒大発生させたんだぞ
そんなことしなくても水補給すりゃ暖房効いたのに 立ち往生しても垂れ流し便所は極力使うなと国鉄の車掌は放送したぞ
情報を入手する術は感度の悪い携帯ラジオぐらいしかなく車掌は高圧的でどうしようもなかった 時速110kmで
雪の塊ボンボン蹴散らしながら走っていた165系。 ほぼ同時期に出た、西の117系(近郊型)と、東の185系(特急型)が、165系もさることながら、「急行型」というカテゴリーの衰退を決定づけた。 165系と言うよりも153系後継車としてRJに当時結構書かれてた様な記憶ある185系特急踊り子使われる様になるのは1981年昭和56年10月だが急行としては
7ヶ月前の同年3月から使われててしかも153系と連結組み合わせ結構あったからいきなり特急にすると顰蹙を買うので、7ヶ月間急行サービス期間設けた思うが >>279
格上げ前のサービスだったね。もともと急行伊豆って指定席中心の構成で
料金割高でも人は乗る場所だから特急化もまぁ受け入れられたんだと思う。 1986年頃といえば、飯田線に165系3連の三河川合行きなんてのが走っていたように思いますが、
ツリカケ車が165系冷房車に置き換えられたケースは他にもあるのでしょうか。 中央西線の80系廃止時、代替115だけでしたっけ? 165系の普通無かったかなぁ。 >>283
中央西線に115は居なかった記憶
113−2000だったかと >>280
確かに急行「伊豆」は急行「東海」より格上だったよな >>280
その頃に同時に上野口の北関東ローカル急行も新特急化したから
「東海」「御殿場」、大垣夜行、房総特急も185系にすれば良かった気もするな。 >>288
名古屋まで来てたのが1〜2往復程度で荷電付けてたんだっけ? >>287
同時じゃないよ
1年後に一部が特急になったが、急行も残り、新特急になったのは3年半くらい後 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています