懐かしの流線形車両を語るスレ
>>9
大阪市電や神戸市電の同世代の車両と比べても京都市電に
地味なスマートさがあると感じるのは、あの緩やかな傾斜なんだろうな
神戸市電の個人的なイメージは、戦前戦後ともにイモっぽい
街のイメージとは真逆 ちょっと無理がありますなあw
京都市電ファンの方ですか >>6
写真で見る限りものすごく幅広に感じたのだが
相方とそんなに変わらんかったのが意外 >>37
あれは軽量車体に合った台車だよね。菱枠台車。
乗ったのは別府鉄道のかご付きキハだったけど、スピードも遅いからそんなに揺れなかった。
国鉄のキハ10のほうがリジットっぽい乗り心地だった。 >>48 東横のキハ1 相模鉄道のキハ1000?後の日立ハシゴ電車
戦前からのデザイン意匠流れとは別物だが小田急のSE車 路面電車なんかただでさえ車体が小さいのに
流線型にしたらいっそう容積小さくなって不利になると思わなかったのかな >>50 東急玉川線のデハ200も、小田急SE同様、戦後におけるモノコック構造方式の流線形車両として流線形の中に含めるかだな・・ 阪和電鉄も流線型を計画していたが、外観よりも速度を重視したい意向から
沙汰闇になった。 >>37
>>6の名鉄ク2220形は
「跳ねるように縦揺れする強烈な乗心地」
と書いてあった >>54
モヨ100だって流線型じゃないが当時では洗練されたスタイルの電車として大いにもてはやされたという。 >>28
ナマズは廃車後の第二の人生も冷遇だったな。
一編成が知多ビーチランドに保存されてたが手入れが悪くすぐにボロボロになって
いつしか消えてしまった。まさに老醜をさらしてる感じで痛々しかった 元々造りが良くないし場所が海に近いところだったし雨除けもないし、
会社は本気で残そうとは思ってなかっただろうと思う。 >>56
まあそれ位高速となると意匠よりも実用上必要だろうね
アメリカのような流線形蒸気が爆走する姿も見てみたかったな >>48
関西大手でも京阪が目立ったくらいで他はそんなにないね
(阪急200も元々は新京阪時代の登場) >>55
当時の瀬戸線はそんなに道床が整備されてなかったらしいから
いっそう激しく振動したんだろうね。
乗ってみたかったよ。 >>62
揺れを抑えるためのアプローチとして、
台車の改良に注力するか、軌道の整備に注力するか、
それぞれの社の姿勢が現れていて興味深い。
京阪は急曲線が多い弱点を見据え台車の改良に邁進したそうだよ。 名鉄はどうだったんだろな。
台車はメーカー主導で進化してきた印象があるので。 >>52
仙台市電にも43形という流線形がいた
しかも単車であった >>65 あそこ(名鉄)は、永い事幹線で使う優等車両など車両のガワ(箱)におカネをかけるけど、
アシや機器は勿論、線路におカネ掛けたがらなかったからね。
台車改良うんぬん以前の問題だと思う。 そういえば昔保育社から出てた「カラーブックス」シリーズで
阪急が乗り心地の向上は軌道整備が早道という考え方から
台車の改良には消極的であった、みたいな解説が紹介されていて
意外に思ったものだよ。
自分が物心ついた頃にはもう旧型台車履いた電車といえば920と1200くらいで
乗れる機会も滅多になく乗り心地の悪い台車の印象が感覚的に分からん。
スレ違いなのでこの辺にしておきます。 >>22
正面中央に運転席窓を大きく設けて、その両側に小窓をヒンジ式で配置するのは
1950年代以降の路面電車に多く見られた。
江若キハ12改造時にもその発想がどこかにあったんじゃない?
ただヒンジ窓が何かの不都合があって設計変更、普通の上昇窓で戸袋部にHゴムが使われ
あのようなファニーフェイスになったと。 ヒンジ式はすぐに壊れるからね。
風雨をまともにうける正面に取り付けるのは拙い。 あけおめです。
運転席窓を大きく取るということは
原形で残ったキハ13よりも運転士にとっては
運転しやすかったんだよね >>58
列車レストランになってたように記憶してるのだが、違った? >>66
スピードを出せない路面電車でも流線型なのか >>73
それは>>60のとおり。
意匠だけの発想で採り入れた。
でも低床・両運では視覚的効果も薄い。
飛びつかなかった名古屋市、横浜市、神戸市は正解。 流線形は片運でなければならないって思うのは俺だけかな
52系、キハ43000、EF55は長大編成だからこそ先頭車が映える。
流線形の両運というデザインは何か据わりが悪い。 昭和10年代の輸送需要で長大編成といえば機関車列車のみ
電車では難しいと思う EF55は片運が仇になってSLみたいに転車台使って方向転換する手間がかかったというし
たかだか時速100キロ程度では流線型の効果なんてないし、現場では評判良くなかったんだろうな >>78
良い部分出すとした運転室が広くなっていたことだったとか
歯数比変えてまでの高速性能も生かせたのは戦前の富士・燕牽引時代と戦後の試験程度だったからな デザインとしては52系やキハ43000よりも思い切った野心作とも見えるんですけどね
これぞ流線形みたいな。 大分交通耶馬渓線キハ105
両運転台も良いがもう少し車長が長ければ。。。 EF55は、平面側にも簡易運転台あったんじゃ無かったけ?・・・まあ どの程度
機能、設備、使いやすさで使用範囲は左右されるが・・・・
両方とも流線型にしなかったのは、連結側の客車との間の空気流動を考えてだろうけど・・・
でもアメリカとかには両方流線型の機関車あったよね。
・・・国土の広いアメリカこそ方転のことなんか気にしなくても(線路自体を広大なループ線にするとかで)済みそうなんだが・・・
鹿島参宮のキハ201は、許してやってください。 鹿鉄のキハ42200は前面眺望がやり難そうだね(とくに左右斜前方)
デザイン重視の失敗例かな >>82
EF55は初期案で前後対称の流線形があった
(検討模型はそれこそ米国GG-1の出来損ないみたいであんまり格好良くないが)
あと第二エンド運転台は後で改装したが運用上の制限は残る 阪急200は利用客の少ない当時にあって片運転台背中合わせで走らせようとしたんだな
随分と強気な。 戦前から新京阪線も千里山線もローカル輸送ではデロが2両で走ってたというから
200を2両ユニで設計したとしても殊更ムチャだとは思わんけどね 屋根の部分を前面に垂れさがらせて、その中央に前照灯を配置するデザインは
多くの形式に共通してる中で、国鉄の三題(電車、気動車、機関車)はそうならなかったのね。 阪急200は外観よりも内装が凝っていたんだけどなあ
どうしても外観の話題になるなあ 太平洋戦争さえなければ、電車より気動車が発達して流線型デザインももっと
昇華していた思うのは俺だけ?
・・・まあ 精神論至上主義の封建国家が終結したことは尊い犠牲が出た中で不幸中の幸いなのだが・・・。 太平洋戦争が無ければ軍の影響力は排除されなかったわけだから流線形蒸気機関車の方が発達するんじゃないだろうか >>91 気動車の総括制御が実用化されると、分割併合運転のため前面貫通型にしなくてはならなくなる。
満鉄あじあ号の展望車のような卵型で先頭部分にドアのついた流線形デザインにするとしても、編成中間に流線形の先頭車が入るのでは意味がない。
国鉄では、キハ17登場以降、湘南型の気動車が造られなくなったし。 半流線形ならともかく、分割併合の都合上、通り抜け可能な貫通路を先頭車にも設けるという発想に流線形や湘南型はなじまないんだろうな。
ヨーロッパのように、電車でも動力集中方式を志向するのならともかく、日本は動力分散方式が主流だから。後者の方が分割併合容易で小回りが効くし。 湘南型は流線形になるのですか
だとすると一気に対象となる形式が増えますが。 ここでいう流線形って、原則、戦前製で半流線形は含まないということだろ。
厳密な定義は難しいけど。湘南型は別スレであるし >>83
デザイン重視というか、流線形採用の本旨である「空気抵抗の低減」に
極限までアプローチした結果があのスタイルだと思う。
極論すると、モハ52も京阪旧1000も、まだまだ甘かったのではないかと。 だから当時の技術では時速100キロが関の山。
ましてや廉価なガソリンカーでどれほどの高速運転を想定していたか。 戦前製流線形車両に実際に乗った事ある人いますか
学生の頃名鉄沿線に住んでいて3400など飽きるほど見てたのに、なぜか乗る事はしなかったんだな。
オープンスペースの運転席背後からの前面眺望を一度経験したかった。 >>100
京阪は急行形に留まらず一般形(1100)にも流線形を採り入れてます >>104
急行用も普通用もそんなに厳格に使い分けてなかったらしいよ 京阪1000って登場後すぐにロングシート化されたのでは 戦時体制下に入るまで数年間はロマンスシート装備で
花形だったと種々の文献には記されている。 >>108-109
1000型は戦時中もずっとクロスは残してなかったか?
それが幸いして初代の京阪特急の使用車両に指定された。 京阪の1000,1100の貫通(半流)側の運転台は、普通に常用していたの?
例えば、単車運転以外で流線型側が他車と連結した状態で本線列車で先頭に立ち営業とか? 京阪1000
ネットで探してると往年の写真をいくつか見ることができるが
やはり2連ではなくて4〜5連で走ってる方がサマになるよね。
阪急200が今一つなのもここに原因があるかも知れんよ
名鉄3400だって塗色では晩年の2連の方が合ってたかも知れんが
走り姿では4連時代の方が遥かによい ここで貴方の好みを主張されてもなあ・・
阪急200と京阪1000では製造の目的が根本的に違う。
阪急は火災焼失車の復旧名義だからね。
中間車を挟んで本線上を快走することなんて全く予定してない。 >>111
wiki情報だけど、貫通側の運転台は車庫内での使用に限定され、
営業運転では先頭に立つことはなかった、とのことです。 >>113
まあ今さら当時の事情なんて関係者もことごとく故人になってるだろうし確かめようもないが。
ただ「関西の鉄道1989年新春号」によれば、車体幅が他形式よりも広かったため十三〜梅田(宝塚線規格)には乗り入れられず、
十三折り返しでしか運用できなかったと書かれているので、やはり本線での大阪〜京都間の優等列車運用は想定してなかったと考えるのが
自然でしょう。 ん?
戦前は会社が違ってたからそもそも新京阪の電車が梅田に乗り入れることは
ありえなかったのでは? もう少し傾斜角度が大きければ躍動感出そうなのにな。 >>115
>>116
阪急200形の製造当時は京阪電鉄新京阪線でターミナルは梅田じゃなくて天六
規格の小さな宝塚線への直通は考慮してない。そもそも千里山線用だし >>102
なまずの前面展望がyoutubeに出てますよ。
貴重な映像です。 52系は後年改造されまくって無残にな姿になったのが惜しい
戦後国鉄はロクなことしてこなかったんだな >>121 戦後、関西圏において必要だったのは3ドアで通勤輸送に十分対応できる70系であって、52系は中途半端だったということなんでは?
優等列車に用いられた車両が後年改造されて、格落ちして通勤輸送に回されるというのは、私鉄にも当たり前に見られること。
ドア増設するなど通勤輸送対応改造に向かない車両は、短編成化してローカル線に回すのが合理的。
近鉄の2200系、2250系もその例だな。 >>121
スカートの省略くらいは許してあげてもいいのでは。
あれは保守点検時に相当な支障になったらしいよ。
名鉄3400はどうだったんだろうね。 >>121
戦後どころかすでに戦時中にあちこち弄られたし、戦後国鉄がどうこういうのはお門違いかと。
でも晩年の塗色については問題ありかなと思う。
色々あっても、原型に復されて保存されてるのは素晴らしい。 >>124
飯田線時代か。
色と言うよりも車体も車内も清掃がなってなかった。
これは戦後国鉄の問題。 52系は何故日車で保存したの?
本来 日車生まれで 相前後して引退した 名鉄のなまず や 後年引退の イモムシは、何故無視されたの?
当然 なまずも 揃えて保存するものだと思っていたのだが・・・
当時 日車に居た偉いヒトとかの采配(単に電車の好き・嫌い?) >>125
それ、52系だけの問題でもなかろうに。 >>118
あれ以上傾けたらかえって不恰好だよ。
誰かが書いてたように本当にスピードのためを考えるなら新幹線車両くらいにしないとダメ >>123
面倒だとか言わずにきちっと脱着してましたよ。
ここが国鉄と民鉄の違い。 保守の点もあるけど、クモハ52のスカートはアルミ製だったので戦時中の金属回収で
撤去されたとか聞いたけど 阪急200もどこかで保存してくれたらよかったのにね 流線形も湘南型も投入しなかった、いわば堅気の阪急の中で異端児的存在だから希少性があるのであって
スタイルは流線形としてはとりたてて変わったものでもないから保存の機運が盛り上がらなかった >流線形も湘南型も投入しなかった、いわば堅気の…
そういうのを堅気と言うのか?? >>135
国鉄、京阪、新京阪、名鉄、西鉄、相鉄、江若
大阪市電、仙台市電、 田舎の零細軽便であれだけの新車をよく調達できたなあと思う>西大寺鉄道 >>135
南海、山陽、京都市電、名前は忘れたが九州の中小私鉄 熊本電鉄500・600だと思います。元静岡鉄道の車両です。600は無人列車暴走事故で相方を失い、静鉄時代に撤去した両運転台を復活させ、車番変更をして601となりました。もう10年以上前に廃車されました。車体が薄く、丈夫ではなかったようです。 静鉄から熊本電鉄に行った電車は流線型ではないでしょ >>138
メーカーからの売り込みで価格交渉を鉄道側が主導できたから
いくらかは安く買えたらしい