遠州鉄道・奥山線
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浜松市内の各地に痕跡が残る奥山線を語ってみませんか?
天竜浜名湖鉄道(旧国鉄・二俣線)金指駅の
西方に残るオーバークロスは必見。
唯一現存する四村の駅舎は現在なんと売り物件! キハ1803を尾小屋が引き取って一の位以外塗り潰して使ったのは有名ですね 参考までに貼っときます。
遠州鉄道奥山線 - Wikipedia
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B7%9E%E9%89%84%E9%81%93%E5%A5%A5%E5%B1%B1%E7%B7%9A 浜松市内っていっても今は広いですからね〜
奥山線の痕跡なら奥に行けばどうなのかは知らないけど
遠州馬込駅なんか跡形もない…(スレ違い) >>6
同じ遠鉄なので全然おkですよ。
馬込川東側に抜けてた時代の痕跡は残ってます。
R152の東岸南側の建物が道路に対して斜めに建ってたりとか。 >>8
21号or22号+62号だな。
>>6
ttp://homepage3.nifty.com/mp5pdw/entetsu/
参照。
車両なら
ttp://mhtera.hp.infoseek.co.jp/e-old.html
ttp://mhtera.hp.infoseek.co.jp/e-30.html
ttp://mhtera.hp.infoseek.co.jp/e-ELFC.html
奥山線の遺構は、天浜線岡地踏切(気賀高校前駅東)の東にある民家の土台になっている岡地駅ホーム
細江町桜ヶ丘団地付近の遠江変電所近くにある築堤や1mに満たない鉄橋がある。
かな。
現役です知っている人も最低50代か・・・
だれかいませんか? 遠州岩水寺ホーム支柱に残るBURBACH刻印の残る軽便用レールは
出所は奥山線のものなのかな おじいちゃんに聞いたことあるな。
この電車勾配がきつい区間は上れないから客が降りて押したとか。
そりゃ廃止になるわな。 電車は、近鉄のナロー電車 や 草軽の電車との 近似性は?
ナローで 全面F3の顔だと
あまり個性だし辛いような気がするのだが・・・ 奥山線、懐かしいね。 元城小学校に通っていたから学校の裏庭から毎日見てました。今のホテルコンコルドが建っている所が元城駅だった。
同級生にも都田と曳馬野から奥山線で通学している子がいました。 学校の遠足の時に奥山線で気賀の方に出かけた事もありましたよ。 小学校の頃家の賄いをしていたネーヤの実家が金指でネーヤの実家に連れて行ってもらった時に何回か乗った。祖先が奥山の手前の中村というところなので、おばあさんから昔は本当に坂道は乗客が降りて後押しをしたということを聞いたことを覚えている。 当時、新浜松−西鹿島間は「二俣電車線」という名称だった。
こっちは電気で動く車両だよ、という奥山線に対する差別的な表現だった。
しかし、実際貧相な軽便で最末期に電化されただけの奥山線に対して、
既に沿線の需要をがっつりつかんで年間1000万の乗降客数+貨物の輸送で潤っていた二俣電車とは
非情なほど格差というものが存在した。
同じ距離でも奥山線は線形は悪いわ、車両性能はクソだわ、交換駅も少ないわで異常なほど時間かけていたのに対して、
二俣電車は急行があったので当時の奥山線の倍以上の速度差があった。
もっとも、今の各駅停車に比べれば遅いがね。
奥山線が遠鉄の路線だった期間は歴史的には短く、
遠鉄は活性化を図るべく様々な投資、特に電化を行ったが、
結局ちっともうまくいかず、遠鉄史上最悪の黒い歴史として奥山線は廃止された。
廃止寸前の年間輸送量は、200万に過ぎなかった。二俣電車の1/5にも満たない。
細江町と引佐町は最後まで廃止に対して抵抗してた。
廃止への動きとなったのは旧浜松側住民のやる気のなさ。
鉄道を追い出して自動車マンセーの道を選んだ。
こんな地域に二度と鉄路は必要ない。
自衛隊の浜松基地が民間空港として名古屋空港みたいに
共用化してれば、空港アクセス鉄道になっていたかもと
妄想するのは無理かな?少なくとも静岡空港は造られな
かったよね。 改軌、複線、高架と発展してたかもしれんね。
国鉄浜松駅の高架に合わせて総合駅化とか妄想のネタは尽きない。 昔は11分間隔だった…
って、奥山線ではありませんが… 久々に四村の駅舎を見に行ってみたら・・・
跡形も無くきれいさっぱり更地になってました。 5年くらい前に行った時は駅舎と棟続きの住宅に年配の女性が住んでまして
鉄道には全く興味も理解も無い方で見知らぬ来訪者には神経質でした。
「写真も撮らないで欲しい」などと仰っておられました。
2年ほど前からホーム屋根が短くなり支柱が無くなっていたのも
錆などで朽ちた部分だけ切り詰めたモノと思われます。 そりゃ自分の住み家を写真に撮られて、場所の説明つきで
UPされたりでもしたら、余程の豪邸自慢でもないかぎり
快く思わない人だって少なくないだろう。 道行く人はみな顔見知りというような箇所ではよそ者に神経質なのも
今の世では当然だろう。
>>25 はそう書くことによって逆説的に住人を鉄ヲタの魔手から
護っているのかもしれない。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
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生まれた時には、奥山線なんて既に跡形もなくなってた者ですが、
今日、自転車に乗って奥山線の廃線跡を散策してきました。
サイクリングロードになっている部分は、やはりカーブも緩やかで、
鉄道路線の名残を感じました。
途中から二車線道路になり、そこから先は道なりに適当に走って引き上げたのですが、
今の人口密度が当時からあれば、赤い二両編成の電車が、
頻繁に行き来する路線になっていたかもしれませんね。 遠州の地に、演習地があった。
でも、鉄道にはあまり関係がなかった。 >>30
>遠州の地に、演習地があった。
誰もダジャレに気が付いてくれないね >>29
当時から人口は多かったよ>奥山線の浜松近郊区間
で、需要が急伸した昭和30〜40年代にナローが問題になったんだな。
輸送力増強をしたくとも、ナローなので車両サイズに限界がある。
当時のバスは大型化が進み、正直ナローなんかより輸送力があった。
だからナローを捨ててバス化した、というのが現実問題かと。 そうそう。結局は需給のミスマッチ。
輸送量をふやしたくても、増やせない。
遠鉄でもそこまで投資するリスクは危険すぎるとのことで、廃止に踏み切った。
何より奥山線に注力してる間に、ほったらかしの二俣電車が輸送量減り始めたので、
そっちをちゃんとした方がいい、って声が多数を占めて奥山線への投資が停止=廃止された。 名鉄の起線と同じ理由だな。起線の600V2軸単車運行より大型バス導入の方が輸送力があるという「鉄道の立場がない」って奴で。
戦前の大型クラスより更にでかいバスが、
経済的なディーゼルエンジン積んで、国内4大メーカーの手で容易に作られるようになっちゃね……
戦前か、戦後の早い時期に1067mm以上に改軌し損なった軽便路線は、後年に沿線が発展してても消えてるね。 最初っから奮発して狭軌で作っちゃって資金難でぽしゃった光明電鉄のこともたまには思い出してやってください それ以前にこの路線の経路ではどのみち台地を駆け上がることが無理。
余程ゆるやかな経路を設定しなきゃならない。
でもそうしようとすると、平野と台地の区間で台地側が地下線になるとか、
坂をゆるやかにするために地上区間がかなり高い高架線になるなど、
はっきりいって台地を駆け上がるための手間がかかりすぎ。
もちろん気賀や金指方面に行くなら、そちら側も同じような状態になる。
つまり、どのみち車両の大型化(改軌)なんて予算的に無理だったんですよ。
極端な話、当時の奥山線のルートで改軌だけしても、赤電は単独で坂登れません。
傾斜がきつすぎる。軽便だからなんとか上がれたわけだが、
軽便にしても故障して客が降りて人力で押したなんて冗談みたいな話もあるくらいだし。
まぁどのみち今の台地は外人だらけで治安も客層も悪いから、
スラム電車化しかねないのでどのみち電車がない地域で良いと思う。 神スレだと思ったが流れ止っちゃったな
奥山線でなくて恐縮ですが、中ノ町線の具体的な線路位置が明示されてる地図みたいなのって
ないものでしょうか。不勉強でいまいちどこを走っていたのだか判然としません・・・ 旧版地形図で調べる
又は
ttp://homepage1.nifty.com/pyoco3/local/chubu/chubu.htm
>>40
馬込からR152〜子安交差点〜r312〜安間橋は完全に道路と同一。
安間橋の東側Y字路からr314を辿って東方に向かっていたようです。
現在は子安交差点〜橋羽交差点がかなり拡幅されてるので
痕跡は殆ど判りません。 明善記念館前を併用軌道で駆抜けていた
知ってるよね 金原明善
で、終点は中ノ町公民館 標柱が立ってる
そこから天竜川まで線路が続いていたようなんだけど、これが全く闇の中 よく坂道でパワーが足りなくて「乗客が押して登った」って話を聞くけど本当なんだろうか。
昔読んだ本で、当時の人が対談みたいな形で書いてたんだけど
「話には聞くけどお前実際にあったか?」「機関車が頼りないから生まれた噂なんじゃねーの」
みたいに書いてあったので気になってる。 >>47
各地の軽便では必ず出てくる話
ただパワー不足というより、貨客含めての過積載が大半だったと理解している
雨、露による空転の可能性も大きい ヨーロッパの馬車も山道にさしかかると馭者と客が後ろから押したそうだ。 降りて押したは良いが、そのまま取残されたってこともあったかも >>47
鉄道忌避伝説みたいなものかな?
後押しするのがトンネル内とかならゾッとする ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています