【市電トロバス】大阪市営交通黄金時代【地下鉄】
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万国博を機会に市電・トロリーバスを廃止し地下鉄網を完成させて躍進した大阪市交通局。あの時代の大阪文化や世相も交えて語り合おうでは有りませんか。 今年3月の森之宮一般公開で
トロリーバスを見た時は感動したなぁ。 地下鉄の回数券のバラ売り係がいなくなっても、
しばらく非公認のおばはんが売ってたような? 大阪市電の正面に貼られている「しずかに」とは?誰に対してのメッセージ? >>8
「町を静かにする運動」というのが昭和30年代前半にあったのよ
当時、自動車はクラクション鳴らしまくりでうるさかったから、
っていうことで市民と共に一体でキャンペーンして、数年で効果を挙げた
でも、つい10年前まで、市バスとかパッカー車に描かれていたね
ナツカシス 市電3000号試作車登場時の車内の写真をよく見ると
「都市から騒音を無くする無音電車です
乗り心地をお試し下さい」
と、手書きのポスターが吊されているのが読めました。
ドラマの都会の効果音で、クルマのホーンがよく出てきますが
船の霧笛風の音やタイプライターの音同様、今となっては勘違いですね。 30系デビュー時の
あの「硬いシート」には、びっくりした・・・
>>12
俺が'80年に30系に乗った時には、あの硬い椅子には滑りどめ?の
ビニールレザーが部分的に貼ってあったが、あれって最初から? 60系の冷たい座席がいやだった。
阪急の3300が線内折り返しで運用されていてなんで逆にして
くれないのか悩んだのも30年前の話か・・・
>>15
えっ?!それは朗報ですな。
ASA(今はISOっていうのか)1600のフィルムが出てすぐに撮りにいった。 私有ビルの地下出入り口の表示ではヒゲ文字結構残っているよ。
ヒゲ文字より先に絶滅したのは行先表示幕の字体。 市電よりもトロリーバスのほうが後まで生き残った数少ない都市だよな。
(市電は1969年、トロバスは万博真っ只中の1970年全廃)
しかし、大阪のトロリーバスを詳細に扱ったサイトって少ないね。
市電の代替バスって29の他にどんなのがあったっけな? 79 大阪駅前−桜島梅ヶ町2丁目
83 阿部野橋−なんば−大阪駅前(43年頃までに廃止)
84 阿部野橋−日本橋筋3丁目−大阪駅前(43年頃までに廃止)
85 なんば−四ツ橋筋−天神橋筋6丁目(43年頃までに廃止)
87 なんば−福島西通−天神橋筋6丁目(54年廃止)
90 野田阪神前−大阪港(54年廃止)
91 野田阪神前−鶴町4丁目
92 野田阪神前−森ノ宮駅前(54年廃止)
臨90 野田阪神前−深江橋(44年廃止)
98 なんば−弁天ふ頭(経路変更して現存)
99 天満橋−阿波座−弁天ふ頭(43年廃止)
47 阿部野橋−本庄川崎町(44年廃止)
108 上本町6丁目−新千歳町
臨108 大正橋−新千歳町
特70 上本町6丁目−鶴町4丁目
107 天満橋−大阪港(平成20年廃止)
臨107 天満橋−港車庫前(53年廃止)
臨107 天満橋−川口町(平成20年廃止)
29 桜川2丁目−芦原橋−出島(平成20年部分廃止)
特29 なんば−三宝
臨29 桜川2丁目−三宝
臨29A 桜川2丁目−住之江公園前
特87 阿倍野橋−福島西通(54年一部・平成13年全廃)
臨87A 桜川2丁目−福島西通(54年廃止)
109 なんば−杭全町(経路変更して現存。現在の9)
110 守口車庫前−天満橋
特110 守口車庫前−阿倍野橋(54年廃止)
99 古市南通2丁目−梅田新道−島屋橋(47年一部・54年全廃)
臨99 古市南通2丁目−梅田新道−春日出車庫前(47年一部・54年全廃)
臨79A 西九条−千鳥橋−春日出車庫前
臨79 大阪駅前−西九条−春日出車庫前
臨79B 大阪駅前−西九条−島屋橋
特34 守口車庫前−赤川町1丁目−阪急東口(52年廃止)
34 守口車庫前−なんば(経路変更して現存)
98 弁天ふ頭−上本町6丁目(経路変更して現存)
臨98 境川−湊町駅前−上本町6丁目(本系統と統合)
こんなんでいいか? >>13
30系と60系は最初から全面ビニールシート。おまけにヒーターなし。冬激寒 大阪市は系統番号だけでは市電代替かどうか判りにくいな。 バスの系統番号の付け方は、市内交通を一元化した昭和18年に改正され、
戦前戦中は49号まであった(一部欠番あり)。
上六−堺東駅前の系統(現在の62)を1号系統とし、反時計回り順につけている
10から20番台が生野区とその周辺、30番台が市内北部、40番台は
数は少ないが南西部に多いのはその名残り。
戦後、新設系統は役所届出順に系統番号を付番していったもんだから滅茶苦茶。
代替系統もこれに則って採番してるのでばらばらという感じがするのだろう
でも、系統番号順に路線の廃止が決定されていったのかと思うと結構興味深いね
29(市電三宝線)は市電の番号を引き継いだ唯一の系統。
ちょうど系統整理したために欠番が出ていたからだろう
47(堺筋線)は何故か欠番となっていたものを名乗っている(理由は不明) ほーっ。そんな規則性があったんですね。1号は戦後も長らく1号を名乗ってましたねえ。
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~rajomon/sub207.html
↑
ここに昭和初期の系統図が出てますね。これを見ると南海軌道線や新阪堺と露骨に競合した線を設定しているような気がします。 >>25
(-ω-;)ウーン、よくわからんが必然的にそうなっんじゃない?
家に昭和7年ごろの大阪市の地図があるけど、
市内以外で、大きな集落があるのは鉄道沿線にしかない。
営業的にそこを走らさなきゃ無理のような
あと、大正時代に大阪府が制定した十大放射道路と言う
幹線道路もかなり開通してるけど、まだ完全ではなかったから
バスが走る道も限られていただろうし
なお、上町線はしょうがない気がする。
隣を走るあびこ筋は大阪バスのエリアだから、あえなくこういう
路線設定になったと推測
毎回長文でm(。・ε・。)mスイマソーン シルバーカーと書かれた乗車目標があったものの
次に来るのが50系なのか30系なのかわからなかった
昔の谷町線 近づいて来た電車の色を見て並び直してくれ、ってことだったのでは? 当時の大阪は、乗車位置に律儀に並んで待つ習慣が無いから無問題。 やはり一番の全盛期は昭和30年代前半くらいかね?
バスの規模から言うと昭和40年前後くらいだけど 昭和35年?の市内交通麻痺がよく市電撤去の理由づけに使われたという
伝説があるけど、その後は渋滞をどのように乗り切ってきたのだろう? 普通に走っていたと思う
あの渋滞は事故(異線進入?)であり、責任は市電側にもあるが、
それで電車が邪魔だと非難されたのは、スケープゴートに遭った様な物だ。
市電がなくなっても渋滞はなくならなかった
ちなみに市電全廃が決まったのは昭和38年だったように思う
市は、十三と平野に市電の延伸を果たしたかったようだが、
夢幻と消えた年だった http://www.oml.city.osaka.jp/imgsrv/large/anc/1b/c0149/c0149002.jpg
西道頓堀天王寺線(桜川二−大国町)が開通していて
西野田福島線(上福島中五以西)や難波木津線(賑橋−大国町)が
開通していないから、大正4年12月から翌年1月にかけての路線図と特定シマスタ 大正期の市電路線図はホンマ美しいねぇ。あれは車内貼りも兼ねてたのかな?このタイプの路線図はいつからいつまで作られたんだろうか?数が多すぎてよく判らんが。 恐らく第二次大戦中まで使われていたような
バス路線図も同じ様式で描かれていたからね
戦争末期になってくると、粗末な紙になってくるね 昭和期のはポケットサイズになり大正期とは雲泥の差なんだが。
戦前のバス路線図で市電の小型の系統図タイプは見た事無いよ。 >>32>>33
あの渋滞のお陰で四つ橋線が出来たような物だから、何が動転ぶか判らんよね。 大阪の地下鉄は路線網が充実していて、今も黄金時代にあると思う 路線が充実する事=黄金時代というもんじゃないよ。
黄金時代というのは旭日の勢いがなければ。
いまは老獪な停滞の時代と言った感じ。 30系について質問です。
なんでアルミとステンレスを、平行で大量に平行して入れたのですか?
お役人の緩慢?
北大阪急行にも、お買上げ前提だったから強要?
そもそも、改番の手間考慮したら 将来振り向ける 車番で入籍させた方が
合理的だったのでは?素人考えで思うのですが・・・
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