深名線の思い出
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
深川と名寄を結ぶ長大路線。1995年9月3日を以て惜しくも廃止。
日本最寒も記録された極寒地帯でもありました。 芸人の安浦光子が言ってた放屁音を消す方法、試してみたが効果ゼロじゃないか。
おかげで職場で大恥かいたわ。 深名線、禁煙じゃなくてタバコ嫌いの自分にはそこだけは嫌だった。 朱鞠内湖に立ち寄った思い出がある。魚鬼が生息している。 朱鞠内駅内にキオスクがあったね
名羽線の橋桁が車窓から見えた 最終日、何と10両編成にまでなった。
東京都が引越ししてしまったような喧噪。
しかし、人間でいえば「葬式」と言っていい儀式。
どうしてもはしゃぐ気分になれなかった。
以来、廃止当日の列車に乗りに行くことは一度もない。 冬はキハ53のワンボックスが一人で独占できるくらいだったな
乗客のほとんどは周遊券だっただろう 真冬に乗ったことがある。途中駅の朱鞠内あたりで途中下車しようと目論んだことが
あるが、外のあまりにも寒々とした風景に途中下車する意欲をなくしてしまい、終点の
名寄まで乗り通してしまった。確か深川を5時10分発の始発だったと思う。
前夜は、網走発の特急オホーツク札幌行きを宿代わり。4時47分(記憶違いあるかも)
深川着。北海道フリー切符を使用していた。
名寄駅にて。私の前方を歩いていた女子高生の会話「今日はあったかいね」
寒暖計があったが、氷点下20度を指していた。 オレは厳冬期の名寄発16:00-朱鞠内-深川行の列車に乗車したが、
日が暮れる前の朱鞠内までは素晴らしい冬の車窓だったな
とても神秘的だった
朱鞠内から深川までは暗くなってしまい、景色はわからなかったが、
車内はジョイントのきざむ音だけで、鉄オタもいなくてとても静かだった 個人的には好きな路線のトップは釧網本線。夏の釧路湿原(霧が発生することが
多くて、とても幻想的)と冬の流氷。あとエゾシカの目撃率がきわめて高い(最近
は、ほぼ100%目撃できる)。タンチョウヅルも目撃することがよくある。
深名線は好きな路線のベスト5には加えたい路線だった。夏と冬、両方体験出来た
ことは貴重なことだったと今にして思う。朱鞠内に幌加内、あと湖畔駅で乗下車して
いる。 長大路線の上に屈指の豪雪地帯だから存続させるのも大変だったと思う。
本来ならば昭和60年あたりに廃止になっていたであろう路線。
10年長生きできた、と思うべきなのかも知れない。 JRバス転換後、一度、深名線ルートをほぼ踏襲したバスに乗ったが閑散と
したものだった。97年の暮れだったと思う。
その後、火事で焼失してしまった駅もあると聞いた。
もう深名線の痕跡をたどるのは難しいことなのかも知れない。 もはや、湖畔駅から蕗ノ台駅までは到達できないですよね。 国鉄名羽線の建設凍結で路線の使命は終わったのかもしれない つながらないままで幻に終わった興浜線(興浜北線+興浜南線)や、
名前からして美深と北見枝幸を結ぶ筈だった美幸線と同様、深名線も
路線延長は幻に終わった。 >>19
宇津内、蕗ノ台、白樺の駅跡は道道528号線が長期通行止になっているので、訪問は難しいと思われる
湖畔駅跡近くに三股と言うバス停になってバスは再び朱鞠内方面へUターンして、
国道275号線で北母子里へ向かう 一時期、廃駅を巡る旅行に凝っていた時期がある。
訪れた駅は、大社、卯原内、計呂地、西春別、仁宇布、渚滑、広尾、幸福。
他にもあったと思う。数年で断念してしまったが。
紋別・浜頓別・根室標津には宿泊経験があるが、駅の痕跡を見つけることが
出来なかった。深名線は、廃止になったのが比較的遅い路線ではあるが、
もう20年以上、廃止から歳月が経ってしまっている。駅も恐らく解体されて
しまった所が多いような気がする。 深名線廃止後、蕗ノ台-湖畔で線路を剥がすためにモーターカーを使って廃線作業してたな
無人地帯だから残しても良かったのにな 真冬の幌加内方面を車で旅したことがある。
主要道路は24時間体制で除雪してあったが
それでも道幅は狭なってるし各家庭の雪かきは大変そうだった。 >>24
根室標津なんて資料室にごっそりあるでしょう >>23
2018年10月に白樺駅跡地に行けました。
遺構はないけど、単管パイプで囲われた北大?の植物小屋のようなものがあるだけでした。
宇津内駅は到達はおろか、場所の特定すらできません。
ちなみに、宇津内駅舎は廃止後に留萌本線の北一已駅に移築されたそうです。 >>31
いや、表定時速で考えれば時速24kmだ。さほど変わらんか。
7〜8時間かかるのは、たぶん混合列車でしょうね。 最後はキハ48 302&303
キハ65 528が活躍
明けて9月4日の急行宗谷は旭川から札幌までキハ56 210&211が先頭
※2日の自由席は何とキハ150-5だった おっと失礼
キハ54 528だ
この間、急行礼文はキハ54 527&529で固定
他にキハ56 156やキハ27 204
キハ54 506なんかも来ていたな >>31-32
朱鞠内で馬鹿停してるな。9600の頃に乗りたかった
キハ22の頃乗ったけど、直通はなくて朱鞠内で運行分離してた
待ち時間が長いから雪がちらつく中、犬走りを湖畔まで歩いた覚えがある >>31 の北見線、とあるのは、のちの天北線のことですね。残念ながら未乗。
〒の印がある駅も、ちらほら。
深名線ならば、辛うじて末期に間に合いましたが・・・・・・ 深名線の北母子里-湖畔のような無人地帯で原生林の中を走るような路線て、
日本中にはないよな? エゾシカ等の野生動物の出没も聞いたことがなく、まさに秘境。
ここでは「温める目的」で冷蔵庫に入れて保存。外に放置すると
ジュースの缶がフグの顔のように変形。 >>38
根北線が越川から東方が開業していたらそれ以上だったかもしれませんね。 西名寄駅は簡易な木造駅舎だった
高校生らしき男子が下車した 昭和60年初頭の時刻表を古本屋で買ったが壮観な眺めだった。
北海道の赤字ローカル線が大量に切られる直前の時代。
既に白糠線は存在しなかったが。 89年の天北線、名寄本線、標津線の廃止で、しばらく廃止路線なしで推移した。 >>31
宇津内止まりの最終って怖いような気がする 深川駅を特急で通過する時の乗り換えの車内放送で、深名線跡を走るJRバスの幌加内線までアナウンスするんだよね。 JRバスも深名線同様ガラガラだったね
バスの運転手が話しかけて来たこともあった。
その運転手、バスマニアだった。 タクシードライバーと違って路線バスドライバーって乗務中は業務に関係ない事を話してはならないはずだが。
昔は大らかでよかったですな。 1回だけ、バスに乗った。12月下旬。深名線跡地にふさわしい季節。 真冬は、途中下車しにくい。せめて2時間に1本の割合だったならば。。。。。 JRバス深川駅最終便に乗ったときは俺一人だけだったから運転手と話しをして過ごした。
トイレ付観光バス級を貸し切りしたような関心だった。 JRバスを利用した時は回数券を使用した記憶がある。 ダイヤモンドダスト現象も見られる地域だろうな・・・・・・ キハ22 1というのにのった。
半室荷物室だったようだけど、キハニでなかった。 北海道スレの過疎り方に比べて
後まで残ったからのう >>23
通年通行止めは三股(湖畔)から蕗の岱まで。
夏なら母子里から白樺、蕗の岱まで普通に行ける。 >>25
柱の一部と屋根は残っとる。
次は鷹泊か添牛内か、、、
沼牛は略 最終列車は、とっぷりと日が暮れていて車窓風景どころではなかった。 名寄発深川行き最終列車。終点の深川の一つ手前で一人の男性が乗車した。
メガネを掛けていて太めの体形。20代から30代と見た。
「やった! 最後の乗客だ!」「これを狙っていたんだよ」と、はしゃいでいた。
周りを不気味な沈黙が支配した。
開店前のラーメン店で行列を作っている人に雰囲気が似ている。
この年の2月、厚岸でかきめしの駅弁が2つ残っていたので買い求めて釧路行き
の車内で昼食代わりとしたが、この時、車内でメロンパンを食べていた人に
気のせいか雰囲気が似ていた。妙に記憶に残っている。 深名線と聞くと、なぜかチューリップの『悲しきレイントレイン』という曲が
頭の中を駆け巡る。 最終日、土砂降りの雨の中、幌加内駅で下車して蕎麦を食べた。
再び車中の人となり朱鞠内で下車。一転して晴れ。
めまぐるしい天気の急転。1995年9月3日の記憶。 >>69
きれいな虹が出ていたな。
ちな、翌日まで雨だった記憶。 当初の予定では最終日の9月3日に乗って、翌9月4日のJR転換バスに乗る予定
だったが、9月3日の喧噪を目の当たりにして、また転換初日も人が殺到するんだろう、
と読んで、初乗りのほうは、取りやめた。数年後、真冬にJRバスに乗ろう、と決めた。
開始初日では深名線沿線の本当の姿は見えてこなかっただろう。
翌、9月4日。釧網本線に乗っていた。塘路という駅で初めて降りた。塘路湖は
秋晴れで、すがすがしい陽気だった。前日の喧噪が嘘のように人の気配がしなかった。
深川から特急オホーツクで宿代わりとしていた。網走を確か6時44分の始発に乗った
思うが、ハッキリとした記憶はない。 最終日に行っておいて自分は違うみたいなレスはなんなんだろう その当時は流石に今みたいな馬鹿みたいな鉄はいなかったんじゃないの?
知らんけど しんめいせん朱鞠内行きです。次は西名寄です「続きまして」天塩弥生、北母子里の順に停車します。 美深の記録の方が低いがな。
母子里は北大演習林の観測記録だし。
公式には旭川になるのかな。 94年夏。新宿から村上夜行に乗り、翌日は快速ミッドナイト(函館→札幌)で車中泊。
こうして、なんとか深名線初乗りを果たした。朱鞠内で下車。
廃止の噂があったが、地元のおじさんは「大丈夫だと思うよ」と言っていた。
朱鞠内湖へ行く。寒暖計は30度を示していて、思いのほか高かったが、カラリと
していて、意外に過ごしやすい。夏の深名線エリアは明るくのびやかな雰囲気だった。
この後、斜里(現在の知床斜里)で翌朝降りて、知床で3日間費やした。
帰路は生まれて初めて飛行機を利用。現在は、ちょくちょく飛行機を利用するように
なってしまった。青春18きっぷを使って貧乏旅行をしていた当時が懐かしく
思い出される。 青春18派には乗りにくい時代になってしまった。在来線が次々に
第3セクターに転換されてJRと切り離されてしまう。
新幹線開通と引き換えに大事なものを失ってしまった気がする。 某画伯「せっ、線路を歩けば い、いいんじゃないかな?」 深名線で真冬にそれやると自殺行為。殆ど列車来なかったけど。 >>90
とうの昔に剥がされて原野にかえってるから安心しろ。 湖畔駅など全国版の時刻表に登場しない仮乗降場が存在した。 >>92
仁宇布付近だけだし。
それ以外はきれいに剥がされてるぞ。 銀河線から持ってきたハエたたきと、フェイク駅舎はあるけどね。 雨煙別とか駅名が洒落ている。
アイヌ語が語源での当て字なのかと思うけど。。。 宇遠内とか植苗もアイヌ語で「悪い川」て意味だっけ。
何が悪かったんかね?水質? 暴れ川だったのかと。北海道で汚い川は想像出来ないですし。 >>100
北海道の川がすべて清流だとでも?
ちなみに幌加内町で雨煙別といえば、火葬場。 深川から朱鞠内まででも2時間は要した。時間に余裕のある人、何が何でも乗りたいと
いう意志の人は別にして北海道民でも「乗ったことがない」という人は少なくないようだった。 北海道民は道内観光などしない。ましてや鉄道でなぞ。せいぜい温泉。しかも車かバス。
わざわざ乗るのは道外のヲタ。 夜の深川行き最終列車に制服とジャージを着た女子が3名幌加内駅から乗車し、鷹泊で下車したのを覚えている。 深名線沿線は高校の数も少なそうだ。それを言ったら人間そのものが少ないか。 わざわざ乗るのは道外のヲタとあるが、実際にそうだろう。
ただ、わざわざ遠くて本数も少なくて乗りにくい深名線に乗る価値は
確かにあった。 鉄の旅行者は深名線、勇網線、釧網本線、そして羽幌線は乗る価値がある路線だった
釧網線以外が廃止になったことは、とても残念だ 古き良き時代ですね。最近ほとんど駅弁も食べていないなあ・・・・・・・ >>108
湧網線も羽幌線も残念ながら全く乗ったことがありません。
釧網本線は30回以上乗りました。今年は3月に乗車。ほぼ毎回エゾシカの姿を
目撃しています。流氷は本体は去ってしまっていましたがカケラはいたるところに
転がっていました。タンチョウヅルも目撃。とても居眠りなど出来ません。 北母子里−朱鞠内は極寒の情景を感じた
幌加内周辺は秋のそば畑の収穫の情景を感じた
長かったけれど、車窓は飽きなかったし眠る暇もなかった 都会だと半分以上寝ているのに深名線に乗った時は全く眠くなかったのが不思議。 蒸気機関車の頃に乗りたかったな
朱鞠内発の最終が1500は厳しいね
https://i.imgur.com/vKgvneC.jpg 朱鞠内あたりで一泊してみたいと思っている。なかなか現実は思うように
いかないのだが。 夏のキャンプは、快適そうですなあ。向こうは夜明けも早そうだし。
いい情報サンクスですだす。 >>121
朝は寒いよ
それと変な虫が多いから虫除け薬もわすれずに忘れずにね 寒暖の差が激しそう。でも蕎麦の育ちやすい環境だとか。いいなあ。冬は大変な土地だと分かったけど是非行きたい地域。 札幌に人口が集中している今日、ますます過疎化に拍車が。 幌加内、10年行ってないなあ
名寄も10年行ってない
深名線跡巡りは2日はかかるよね >>126
ペースによるんじゃない?
バイクで行って朱鞠内湖でキャンプ
結局そこから羽幌、初山別に行ってしまう…… 北海道、ほとんど信号ないから快適至極。やっぱり夏だ。 オレンジカードを買った記憶がある。最終盤は相当深名線グッズが売れたのでは。 魅力的だなあ。冬は「しばれフェスティバル」なんてあったら怖い。 真冬は、「氷の家」でも作って、寝袋一つで夜を過ごす。確か、こういう企画の場所
(然別湖?)があったと思う。朱鞠内あたりならば氷点下30度は普通にありそうだし、
酔狂的だが、やってみる価値があるかも。外国人も面白がりそうだし。 >>135
冬の朱鞠内湖はワカサギ釣りのメッカじゃよ 朱鞠内湖で採れたワカサギの天ぷらと幌加内産そばの天ぷらそばは美味だけど、深名線廃止後に味わった。 ああ、たまらんなあ。ワカサギがまた美味いんだなあ。
素晴らしい場所だというのは自分も知ってはいるが極寒地帯というのがネックに
なっていた。寒さを逆手に取ってしまえばいい。ワカサギ釣りは冬の網走湖でも
見る光景で、見るからに面白そうだった。自分も参加したいと思ったものだ。 朱鞠内湖と言えばイトウも生息する原始的な場所。食べたことはないがハマチに似た
食感だとか。 もともとは川をせき止めて作った人造湖なんだけど、違和感ない。 朱鞠内湖は厳冬期カチンコチンに凍るからな
湖の上に勃つと雄大さを感じる
寒いけどな 氷に穴を開けて魚釣りしたとして、釣り上げた魚がたちまち骨の髄まで凍りつくことだろうな。 この地域ならばダイヤモンドダストが見られるのでは。 >>144
勘違いしてる人が多いが、ダイヤモンドダストなんぞ、札幌近郊でもフツーに見れるぞ 見たことないな。川湯温泉あたりで見られるかと期待したが。 晴れた日の夜明け直後(朝早く)に外に出てみろよ。
札幌でも見られるわ。
ダイヤモンドダストだと気付けないかもしれんがな。 つららは寒さの象徴だと思っていたが、深名線エリアだと3月あたりが見ごろだと
思う。日中にある程度気温が上がって溶ける時間帯が必要との事で、春が近付いて
いる象徴というのが正しいところのようだ。勘違いする人は多いと思う。 そう、溶けなきゃ凍らない。
もっとも、真冬でも家の暖気で屋根の雪は溶けるから、つららができるけれども。 意外と深名線の冬は晴天が似合う。白い雪と青い空のコントラストが
素晴らしい。 どしゃ降りの雨の中をひた走る光景があった最終日の深名線。
途中で天候が回復し、微かに夏の終わりのような日差しがこぼれてきた。 深名線の全駅の絵葉書を購入したが素朴な画風が素晴らしかった。 湖畔駅という無人駅から乗り込もうとしたら8両編成の列車が来てホームから完全に
はみ出してしまっていた。懸命にホームのない所からよじ登って名寄駅行きの乗客に
なった。最終日の出来事。 >>155
最終日は5両だった気がするのだが。
臨時は8両も繋いでたのか? どんどん増結された。最後の本当に最後はさらに2両連結されて史上空前の
10両編成。まるで東京都あたりの光景。とにかく凄かった。 幌加内のラーメン誠やはうまいので、食べてみてください
そば食べた後のお口直しでも良し 幌加内の蕎麦は、全国屈指なので、まずはそちらから行きたいですね。
寒い冬はラーメンは格別に美味いですね。旭川で、しみじみそう感じた。 ステマか?
ラーメン、たいして旨くないぞ。
北海道は山○屋が人気になる程度だから道民の味覚は推して知るべし。
当時のグッズ知らないとか、その時代生きてないだろ。
廃駅を含めた全駅入場券セットも売ってたし。(ただし宇津内は無し。当時からして一般には忘れられた駅だったからな。) 函館で食べたラーメンは美味かった。真冬で寒かったのも原因かも。
しかし、深名線廃止から、もう24年も経つことに愕然とさせられる。 幌加内バスターミナル内にあったせい一のそばはうまかったが、今はターミナルターミナルビル内では食べられない
うまかったな 幌加内そばは、ざるかもりを食べてそばの旨味を知るべきだね
もちろん、つけ汁のうまさはとても大事だよ
朱鞠内駅周辺にそば屋があったら、3ヶ月二に一回は通ったな 今は添牛内で食えるがな。
まあ幌加内はもりで食うべきは同意。
音威子府は逆にかけで食うべきと思うが、自分の好みでしかねえわな。 音威子府の蕎麦、食べたいけど、まだ一度もない。
西村京太郎氏の『最果てのブルートレイン』でも登場したのに・・・・・ 駅内で食べるのは難しいだろうから、音威子府駅から歩いて5分位に道の駅か、あるいは
歩いて20分位の音威子府小学校か中学校の近くの一路食堂がいいよ
音威子府そばの汁は昆布出汁が効いているから、
かけがうまいと思うね なるほど。いい情報です。助かります。ありがとうございます。 鉄道では北海道の左に出るものなし(別の意味 国労系) 鉄道では最も悲惨なのはダントツで北海道。対抗馬なし。その象徴が深名線。 未成線が良い例ダネ
名羽線、美幸線、興浜線、芦別線 景色のいい路線が廃止になったり廃線候補になったりで、やりきれない思いだ。 >>174
東京都青梅市にも、音威子府蕎麦を出している店があるよ。
一度行ったことがあるが、ホントに音威子府の蕎麦だった。 へー、それはいい情報!青梅なら日帰り楽勝。サンクスざんす。 神奈川県藤沢市に幌加内産そば粉を使った蕎麦屋があるよ
やはりざるがうまいがカレー丼もおすすめ
ググってみて! 深名線の懐かしさを語れない程度のガキしか居ないんだな >>191
せいぜい30後半だよな。
廃止時に10歳前後あたり。 >>171
今は北関東から移住してきたらしいのが別の店としてやってるが。
まあ、おいらは一度行ったきりだな。
まずくはないんだけどね。 >>171
今は北関東から移住してきたらしいのが別の店としてやってるが。
まあ、おいらは一度行ったきりだな。
まずくはないんだけどね。 幌加内ももう21世紀になってから一度も訪れていない。 旭川から割と近いんよね幌加内
一時間くらいで行ける 旭川は、交通の要衝でしょっちゅう訪れる。駅が実にいい。南側の川べりを
のんびり散歩するのもおススメ。
ただ、深名線エリアには、なかなか足が向かない。富良野線に乗ってしまう。 名寄駅前にあった駅前食堂、メニューも豊富で名寄本線、深名線に乗るときに腹ごしらえした覚えてがある
今営業しているのかなあ− 名寄以北が廃止の噂があって気が気でない。駅弁を食べたことはある。 地元高校生やお年寄りにとっては、鉄道のあるなしは、死活問題。 定期収入よりも燃料費の方が高い
深名線は保守も高かった 収支係数(100円稼ぐのに何円の経費がかかるか)では3000なんぼ
という数字が出ていた路線の筈。山手線は50くらいだったと思う。
100ならば±0. 美幸線の6倍くらい長さがあって、かつ豪雪地帯で大変だった深名線。
名寄本線や天北線、標津線よりも長生き出来たことが、本来奇跡的だったこと。 最近廃止になった留萌本線の留萌〜増毛間の営業係数って美幸線より酷かったみたいだね 留萌本線は一度だけ乗ったことがある。とりあえず現存するJR北海道には
一通り乗ったことになるのだが・・・・・・・
真冬で日本海が大荒れで、恐怖すら感じた。緑色の荒れ狂った海は今でも時々
思い出す。羽幌線は全く知らない。世の中には、全国すべての路線に完乗した
人が存在するとのことだが、素直に尊敬したい。 札沼線みたいに途中までは幹線並みで、途中から全くのローカル線に転じる路線もある。 学園都市線の愛称で呼ばれる路線。人々が札幌方面にどんどん集まりだしている
傾向に拍車がかかっている感じだ。
日高本線の鵡川より先は、残念ながら廃止の憂き目に遭うだろう。
あと根室本線の滝川・富良野間か。石北本線も網走駅のパンフレットで見た限りでは
廃止の危機感を訴えていた。後悔しないうちに今のうちに乗っておきたい。 全国高等学校そば打ち選手権(通称:そば打ち甲子園)は2011年からの開催。
11・13・14・17・18年と計5回、幌加内高校が全国優勝達成。
また、個人の部でも、11・12・13・18と4回全国優勝。
まさに蕎麦打ち界の王者・幌加内高校。群馬の利根実業高校がライバル。
8月開催予定の今年はどうか。注目に値する。 政和温泉で下車した人とか、このスレの住民ならば、きっと存在すると思う。 深名線最後の日、雨と晴れ間と両方見られたのは幸いだった。
最後は、また雨になってしまったのだけれど。 ここは冬の幻想的な雪景色、秋はそばの収穫と収穫前の景色が一番善かったよ
朱鞠内から歩いてまどかに泊まったひとも居るだろうよ 冬の雪景色は私も凄いと感嘆した。聞きしに勝るというか、想像以上。
この雪景色に対抗出来るのは94年1月に初めて乗った飯山線。
太陽が反射して、とにかくまぶしかった。
深名線の時は、どんよりした気候だった。 そば打ち甲子園だのマンガ甲子園、俳句甲子園、ダンス甲子園…
なんで豚双六を引き合いに出すかな。気持ち悪い。 クロスカントリースキーとか、このあたりの高校は強いと思う。 深名線廃止後、出入口を塞がれたトンネルはもう自然に還っているだろうな >>225
多度志も朱鞠内もフツーに残ってて春先には道路から見えますがな。 最後の最後で雨がまた降りだした。あの日の乗客は、その日、どこで宿泊したことだろう。 円山駅周辺は線路の痕跡が残っていて現役当時を思い出すことが出来た。
上多度志は判らず
多度志は「この辺かなあ」くらいの痕跡
宇摩はさっぱり判らず >>233
廃線跡も廃坑跡も、北海道って本当に自然の風景に戻るんだよな。 鉄道跡はトンネルや橋脚みたいな建造物じゃないと残らないだろ。人が住んでるなら
廃線跡は道路になるからまだ面影残るけど、夕張鉄道の錦沢なんか跡形もないらしいからな
宮脇氏の廃線跡の頃はサイクリングロードだったのに 痕跡があるだけでも結構嬉しい。卯原内の駅跡地で私は浮き浮きだったが、一緒に旅行した学校の先輩は、何が面白いのか、という表情だった。 >>232
上多度志なんか駅前の倉庫残ってるべ。上多度志のカーブから多度志まではフツーに路盤跡が残ってて追いやすい。
宇摩もバスの下宇摩バス停あたりの道路付け替え部分が踏切があったところで、そこから路盤跡が追えるだろ。
むしろ深川から円山までは追えないわ。 あそこ北海道でも冬の一段と厳しいところじゃろ・・・ 日本最寒クラスと思われ。下手したら凍死するエリア。 晴れた冬の日は、とりわけ素晴らしい風景画が広がる。
北海道の冬は、東北よりも明るい気がする。 北海道は禁煙化が遅れていて車内で喫煙している人が目に付いた。 夏に乗ったことがあるけど、窓開けたら爽やかな風が入ってきて気持ちよかったなあ
トンネルだとヒンヤリして冷蔵庫のようだった >>244
本州のトンネルも冷蔵庫のように涼しいけどな。 >>198
18乞食だから余計な金のかかるバスには乗れないと素直に言えばいいのに バス路線にも味があっていい。鉄道跡地をたどるのは複雑な感情が伴うが。 結構バスに乗った。鉄道が消えてしまったせいもあるが。 添牛内で途中下車したときに、いきなり腹痛くなって添牛内郵便局でトイレ借りたんだけどその郵便局も廃止されてたのか… 中間駅は幌加内と朱鞠内と湖畔だけ乗下車したことがある。 湖畔駅を通過するクリスタルエクスプレスが懐かしい… >>261
もち。90年代だったけど、田舎の方はまだまだ残ってたし実家もそうだったから抵抗はなかったw 外国の便所とはなんと豪華
てか北浜駅って深名線か? 北浜は釧網本線にあるな
駅舎が洒落たサ店になってる 北浜駅は全国的に有名ですぞ。目の前がオホーツク海。冬は流氷の絶好スポット。 停車場でんがな。
深名線にもノロッコ号みたいなイベント列車が走っていたら、と思うことがある。 朱鞠内湖は是非お薦め。但し個人的には冬にまだ訪れたことがない。冬の深名線は一度だけ乗ったのだが。 過疎化に拍車がかかってしまっている。札幌一極集中の時代。 廃止から24年。95年の今頃は逆に空前の賑わいを見せていたことだろう。 >>276
知らないなら書かなくていいんだぞ、懐かし板だからな。
実際に空前の賑わいを見せていた。
ただし、通常時から比べると、だがな。
最終日は言うまでもないが。 そうそう、あの頃は同じ東京に住む鉄ヲタの友人とは、都内よりも朱鞠内で会うことの
方が多かったなー。
ちなみにこれが1988年頃だと青森や函館の桟橋の話になるし、1997年頃だと碓氷峠
の話になるし… >>282
朱鞠内というところが地味に凄すぎる。
私も初めて深名線に乗った夏、知床五湖で知人にバッタリ会ったことがあるのだが。 懐かしくないけどもう始まってるから。
今週末はそば祭りだしな。
もうすぐ鉄道廃止から丸24年が経過するわけだ。 あの時生まれた赤ん坊も成人している年齢。24年の歳月は重い。 24年前の今頃、新潟〜小樽間のフェリーに乗っていた。 宇津内駅跡地がどうなっているか知りたくて探していたら、ようつべに、今年の8月に徒歩で
「朱鞠内湖の西側を半周しました」
という動画があがっていました。
現状がよくわかって感動したんだけど、熊さんが避けてくれたのだろうけど、蕗の台駅跡に野宿なんて正気の沙汰ではないよ。 うーん、札幌市内に普通に熊が出るご時世ですからなぁ。 この時期になると深名線を思い出してしまう小生なのである 24年前の9月1日。北海道フリー切符を使用し、日高本線初乗り。
現在では、鵡川から先が不通状態が長く続き、存続が厳しくなってしまった。
太平洋がすぐ目の前を走っている箇所あり、牧草地帯を走っている箇所ありで
存分に楽しめた。
JRバスで襟裳岬へ。ゼニガタアザラシの生息する南限。
♪風はひゅるひゅる、波はどんぶりこ♪という曲が聞こえてきた。
コンビニで売っていた「ドカベン・プロ野球編」の1巻を襟裳岬で読んだ。
ドカベン・シリーズは、累計で205巻にも及んだが、全部読んだ。
さらにJRバスで広尾駅跡に着く。残念ながら広尾線は乗ったことが1度もない。
しかし広尾駅は、実に立派な構えだった。廃止にしたのが本当に惜しいほどの
造りだった。 広尾から先は旧・広尾線のコースを踏襲する形のバスに乗車。
ありし日の広尾線の姿は知らないが、たぶんバスから見る眺めと似ていたことと思う。
幸福駅で下車。ここは、とかち帯広空港から意外に近いことを後で知った。
ライダーの姿があった。電車が走ることはないが、車両が置かれている。
土産物店があり、愛国から幸福行きの切符とキーホルダーを土産に買う。
空が綺麗だった。
日が暮れてきたので、残念ながら愛国駅のほうは割愛。帯広駅前に宿をとった。
9月3日の日曜日は深名線に乗ることは決めている。そのために北海道に来た。
明日は、乗ったことのない、ちほく高原鉄道に乗ろうと決めた。 懐かしくもないし日も違うが、今年の新そば祭りの昨日・今日は、24年前の9月3日・4日を思わせる天気だったな。
干支も二回り、来年は四半世紀だ。 今日9月3日(火)、自分の地元でも一時的に土砂降りの雨が降った。 9月3日の廃止の日と9月4日のバス初日の両方に乗った人は、きっと多数。 今ある天塩弥生駅駅舎と廃止の頃の駅舎は別物なのねw 天塩弥生って下車したこと一度もないですよーん。
世の中には全駅下車した「つわもの」がいるとか。そこまでの根性なかったなあ。 深名線廃止後、何年か経って代替バスに乗ったが、ものの見事に過疎の雰囲気に
満ちていた。真冬だったが。 湖畔駅前に一軒ポツンとあったけど、今は誰も住んでないだろう >>309
残念ながら住んでるな。
近くには新築の宿兼住居もできたぞ。
そもそも湖畔駅付近(三股)が朱鞠内の元々の集落なわけだが。 湖畔駅近くにあった「朱鞠の宿」という民宿に泊まったことがあるよ。 イトウはハマチに似た食感というが。1回の産卵で死なないということで成長は遅いが長生き。 やっぱり朱鞠内湖は、ワカサギだろ?
天ぷらと蕎麦の相性は抜群!
幌加内では絶対にない一品!! >>318
朱鞠内で釣ったのを幌加内の街の食堂に持っていくとその場で天ぷらにして天そばにしてくれるんだがな 西名寄駅に降りてみたかったな
俺が乗ったとき、男子高校生が一人降りてた 深名線はとうとう乗ることができなかった
標津線、羽幌線とともに三大未乗残念路線の一つ >>323
水の中に引き込まれるか、警察に職質されて連れていかれるか、どちらかだな。 朱鞠内湖を見下ろせる展望台はとても武骨で不気味で、湖から引き寄せられる感じがした イトウも棲息するところが原始的でいい。日本では、ごくごく一部の地域だけだろう。 日本一の赤字路線が90年代まで生き残ったのが奇跡だよね
一番利用者の多い駅が多度志って時点でお察しくださいだね
それでも深川から幌加内までは普通のローカル線並みの利用は有ったんだよね
幌加内以北が凄まじかった 朱鞠内駅のキオスクはよく営業していたよね
あんパンと缶コーヒーを買った記憶がある 良く95年までもった。ギリギリ間に合って3回乗った。 朱鞠内湖で検索して画像を見たら、いやはや北欧的な風景が広がっていて
心底ビックリ。「北欧です」と言われても全く違和感ない光景。
秋の風景もまた素晴らしい。こういうの見ると無性に旅に出たくなる。 白樺があるからだろ?
北欧だったら、ノルウェーに行きたいな 改めて、こういう風景の地に鉄道があれば、と思う。
いや、かつては確かにあったのだが。 湖畔から北母子里までだったら、冬季限定で北欧の景色だったな
だけど、民家は北欧調ではなかった 欧米人が乗ったらお気に入りの景色として記憶されたと思う。 バイカル湖畔の廃止になった鉄道が復活運転して人気を集めているらしいね 鉄道マニアは日本に限らず、実は結構存在すると思う。 >>331 奇跡ではない。只見線と同様、積雪期に並行道路が不通になりやすかったけら。
道路が整備されたから、廃止しても交通の不便を来さなくなった だけど、車内の暖房は暑すぎるほどだったな
Tシャツ一枚で車内をうろうろしていたヤツがいたよ SGだった客車は寒いの多かったけどな。気動車も暑かった覚えはあまりない
急行の14系ハザは暖かかった。電気暖房はすげーなって思った覚えがある 北海道の人が内地に来ると部屋が寒くて風邪をひくというのは、よく聞く話だ。 >>350 内地の家が夏向きに、風通しがよいように造られているから。
日本古来の家の造り方では北海道の冬は越せないということで、開拓使の時代から気密性の高い構造にした。 >>351
はい?
名寄の北国博物館にでも行ってみるがよいぞ。 名寄駅から歩いて20分くらいだよな
途中レンガ工場があったけど、今はやっているのかな? 幌加内発の最終深川行き、当然乗客ゼロで
窓開けて夜空を見上げるのが好きだったな >>358
内地からの鉄ですよ!
周遊券乗り回し組です! >>363 携帯カイロとシュラフ持ってけば十分寝られるだろ。かさばるけど。 氷点下30度超の冬にこそ野宿・・・・・・・したくない。 日本で最も秘境路線だったと思う
特に蕗ノ台駅は残っていたら小幌と秘境駅ランキング1位を争ったと思う 白樺駅も秘境駅だろ
朱鞠内駅で駅寝したヤツいるのかなぁ 白樺駅は車アクセスが容易で秘境度がやや減点かな
でも残っていたら10位になりそう で、懐かし板でイッチョマエに語ってるっつうことは、オマエら行ったことがあるんだろうな? 懐かしい路線である。もう廃止から24年とは・・・・・・・・・・ 特に湖畔から蕗ノ台にかけては人が容易に踏み入れることができないよね >>378
>>291で出てきたようつべ動画「朱鞠内湖の西側を半周しました」を見てみたら?
林道は橋が落ちたり、崩れていたりするので、徒歩か、マウンテンバイクだったら踏破できるかもしれんけど、
熊さんもたくさんいる予感。 この路線も緩急車タイプの駅だったら、駅寝する人も多かったんじゃね
白樺駅に設置してほしかったな しばれる冬に寝袋一つで野宿は度胸が要る。
昔は寒さが大の苦手だったが、北海道に旅行するようになってからは
体質が変わったのか、冬の寒さを体感してこそ北海道の真髄だ、という
気持ちもある。
北海道は北の果てかも知れないが、シベリア的気候風土の南の果て、とも
言える。 宗谷本線智東駅で年越し駅寝したヤツがいたな
車掌車タイプの駅でも、極寒シェラフでも大丈夫なんだろうな 真冬の北海道で駅寝出来たら、もう楽勝では。たいていの場所でできる。 寒冷地でも密閉出来る待合室があるとこは凌げても、開放型の 寒冷地でも密閉出来る待合室があるとこは凌げても、暖地でも開放型の待合室しかないとこは風が通るからちと厳しい 真冬なら虫はいないと思ってたら意外といるもんなんだな。 野宿天国は四国だと思う。夏は特にいい。川が綺麗だからシャワー代わりに
使える。野宿ではないが、ネットカフェに連泊して、シャワー代わりに川に
浸かっていた。40分くらい。吉野川の支流。 思い出は美しくしすぎて、四季を通じて山・畑・川・湖・雪・空どの沿線風景も 「隣りのお姉さん」八神康子。深名線との関係は不明。 深名線の乗車はひとりで楽しむのが合っている
だから、八神康子さん AVなんかより政和温泉で裸ジンギスカンをやりたかった 政和温泉でノーパンしゃぶしゃぶをやるのも一考。しゃぶしゃぶ食いたい。
タコしゃぶ美味かった。 あの頃、ズリネタで深名線乗客はビニ本持って、キハ56のトイレで手淫していたんじゃないの?
あの頃の女性客は印象が薄くて何か起こすようなことはなかった
なので、俺は冬景色の車窓に集中していた でもせっかくの深名線の車窓風景が広がっているのに、トイレでなんたら
しているのは実にもったいない。
ワシは秋田県内の普通列車内で爆睡していて夢精してしまったことはある。
秋田駅のトイレでこっそりパンツを替えた。 深名線に乗っていた頃、3日間テレビを見ないことはザラだったなあ。
世の中の情勢などどうでも良かった。
ただ旅がしたかった。 何かを忘れるには北海道。代わりに風景を記憶に残す。 何かを忘れようと思っても、分岐、接続する線路が多くて、とてもじゃないが忘れるどころではないというのが筑豊の廃線区間か?
北海道でも歌志内線、幌内線、万字線、函館本線上砂川支線なんぞはそんな感じか? 残念ながら上記の路線、どれも乗ったことがない(TДT) >>420
週刊誌に銀座で美幸線の切符を販売してる姿を掲載させたトドと愛称があった町長 その為、実力日本一の赤字路線だったのに4位に転落してしまった。 昭和54年以降、実力日本一を奪回出来なかった美幸線。ライバルの深名線は惜しくも2位止まり。
「およげタイやきくん」に阻止されて1位になれなかった「木綿のハンカチーフ」の立ち位置。 深名線。それは都会の絵の具に染まり過ぎた人が目指した別世界だった。 >>421
切符販売で赤字をかなり減らした広尾線を思い出した。 鶴見線。それは朱鞠内の森の絵の具に染まり過ぎ退屈に飽きた人が目指した別世界だった。 山手線。それは都会の絵の具に染まり過ぎて朝までカラオケに興じていた男が
疲れ切って爆睡してしまっていたプチ・ビジネスホテルだった。 東京駅は、御下げ髪の少女をも変えてしまう魔力がある。 アンタ気持ち悪いんだよ
他のレスでも同じようなこと書きこんでるだろ? もう冬の装いかなぁ。真冬にこの地域を2回訪れたが
通過だったので真の寒さを体感していない。 なんだかとても寒いんだ
彡 ⌒ ミ
(´・ω・`) 深名線存続中に真冬の時期、極寒しばれフェスティバルをぜひ開催してもらいたかった。 >>432
そこは「眠いんだ」でないと正しく反応されんぞ。 キハ53系500番台なら旅情あるけどキハ54だと銀箱萎え 深名線をキハ53-500 1両借りきって仲間で貸し切り列車をやりたかったけど、各駅停車で駅には15分程度停車、朱鞠内は45分からい1時間停車。ダイヤ作ってJRに出したら、いくらで引き受けてくれただろうか? >>442
車両の人員分の乗車区間の団体券(74に立席8が入るかは不明)に車両利用料がキロ計算か時間に別途回送費用が最低必要だった様な? 木造駅舎や緩急車が残っている駅は長時間停車でいいんじゃね? >>449
そんなのは百も承知。
余談だが、1971.09.15の函館本線104レでは、小樽から長万部まで
開けっ放しの窓があったとかw
只でさえ三重連だから煙も煤も普段の1.5倍なわけで
一般客はさぞ迷惑だったろうな… >>445
簡単にアクセスできる街の駅より、白樺、蕗の台などで30分ぐらいのバカ停があったら楽しかったろうな。(ただし冬季を除く) >>442
100万あればやってくれるだろうが、もう路線はない 深名線って、乗ると すんごく眠いんだよなぁ
何故だろう・・ 真冬に乗った時ですが、車内がポカポカに暖かいんですな。
眠くなるのも分かるような気が。 名寄は駅弁を食べたことがあるが、もう駅弁販売マークのない駅になっている。 寒い時に立ち食いソバって、なんだかホッとするんですなあ。
うまさが倍増するというか・・・・・・・ 幌加内バスターミナル内の蕎麦屋せいいちも無くなっていた
うまかったけどなぁ〜 廃止当日、幌加内で大雨の中を食べた蕎麦の味が忘れられない。
その後、見事なまでに天候が回復したのだが。 廃止当日、虹も出ていたなあ。最後に、また雨が降って。
最後は「蛍の光」が車内に流れて一斉に車内から拍手。
1995年9月3日。 飯山線とか只見線も雪景色は凄かったが一番衝撃的だったのは深名線。 冬に乗ると二重窓のガラスがくもって、ゆっくりと車窓などを眺めることは難しいのだがね。 確かに曇る。昔は寒さが大の苦手だったけれども、北海道に旅行するようになってからは
冬こそ北海道、と思うに至った。雪景色は七難隠す。木次線の風景も良かった。島根県
から広島県に入ったところが豪雪地帯でビックリ。旅をしないと分からない部分がある。 山下画伯の場合、夏は北の方へ冬は南の方へ旅していたって日記にあったな。 北海道は夏は最もおススメな地域。対抗は四国。川がとにかく綺麗。
シャワー代わりに水浴びをしていた。
冬はどこか、となると、やはり北海道、ということになってしまう。
ことに道央から道北・道東。 やっぱり沿線から見た、名羽線建設の橋脚だよな
今は残っていないだろうけど >>477
美幸線の未完成区間、
いまでも道路から見つけることが出来る。 仁宇布までは行ったが寂しい光景だった。
11月中旬。雪がうっすらと積もり、客車がポツンと
一人ぼっちで孤立していた。 名羽線と言っとるのに、未成線っつうとすぐに枝幸周辺を持ち出すのは、何かの病気か?
しかも仁宇布にあるのは客車じゃねえし。 美幸線に羽幌線に天北線、名寄本線。さらに深名線。
接続していた仲間を失い1本の頼りない線となって
最北に伸びている宗谷本線がどこか寂しい。 名羽線が開通したら、名寄−朱鞠内は路盤改良しロンクレールでも入ったんじゃない?
名羽線は高規格路線だからね
ほんとに残念な路線だよ 羽幌に出たら焼尻島さらには天売島に出るのも魅力的な選択肢 昭和60年以前、羽幌線・天北線は最長片道切符の
経路に組み込まれていたが残念ながら深名線は圏外 >>474
冬に北海道を旅したら人生観が変わったかも。 種村直樹は以前、蕗ノ台駅の駅前ロータリーで野糞をぶんまけたみたいだな
土壌汚染は深刻化したみたいだな 冬の日没後に乗ったとき、長いトンネルかと思っていたら、両脇の雪の壁が窓より高かったんだよな。 朱鞠内の雪の壁は凄いと思った
朱鞠内駅のキオスクでガムと缶コーヒーを買ったが、カップラーメンは無かったよな
キオスクの女性店員はいい味出してた
そのまま、深川行きに乗り込んだ 幌加内駅の間違いだと思うキオスクは。
朱鞠内は美少女がいる駅前商店w >>512
1987年はあったな。
駅前商店と言うか、GSだったと記憶している。 一番利用者多かったのが多度志で、次が鷹泊か幌加内あたりだろうね 途中下車のしにくさでは屈指。朱鞠内では足止めを食らうダイヤ編成上、
毛色がちょっと違ったが。 蕗ノ台で下車した強者いたのかな?
次の列車末までの間、熊さんの恐怖との闘い 待っていないで朱鞠内まで歩くんだよ
徒歩3時間あれば余裕で着くよ それこそあのルートはヒグマ遭遇の可能性高いだろ
当時からかなりやばい道路だったようだし 冷凍肉を網で焼いたヤツだったけど、オレは食べた後吐いた クマは鍋か鉄板焼きあたりがおススメかと。
サルナシ=コクワ(キウイの親戚)とか木の実をふんだんに食べたクマの肉は美味い
(マタギの話)とのことで、食べたエサによって肉の味がかなり違う模様。 三毛別の袈裟懸けも食べたら美味しくなかったらしいしね 〆た時の時間にも味の違いがあるらしい
散弾銃を持って路線沿いは歩けないからなぁ 深名線が廃止になってから数年後、今くらいの時期に代替バスに乗ったが、
途中から閑散としてきた。
深川に着いた時には、日もとっぷりと暮れていた。寒々とした光景が身に染みた。 マニア以外、元旦の深名線なんてまず乗らなかっただろうね。多度志ー深川間は除いて 本数が少なくてもラッセル車は頻繁に走っていたんだよな むしろ列車本数が少なくて列車が線路の雪を跳ねてくれないから除雪が必要なのだがな 国鉄時代末期の白樺駅、蕗の台駅が正式な駅で、まだ冬季休業になっていなかった厳冬期はどんな様子だったんでしょう?
動画、静止画って、どこかで見れますかね? 深名線ラッセル列車撮りに行ったヤツ大勢いるんじゃね
シューティングスポットはわからないけどな
白樺・蕗の台辺りで待ち構えてるヤツはいたと思うね 厳冬期の白樺、蕗の台までは道路は当然冬季通行止めだから、朱鞠内か北母子里から雪中行軍する人はいたのかなぁ?
なんせ、-40℃?の最低気温ホルダー地帯だからね。 そういえば、この路線って簡易委託駅って無かったよね
直営駅2
業務委託駅0
簡易委託駅0
完全無人駅 他全て 直営駅は、朱鞠内と幌加内だっけ?
沼牛と添牛内は廃止間際まで簡易委託じゃなかった? 今日の朱鞠内最低に気温-24.7℃
夜間停泊では、終夜アイドリングしていたんだろうな 厳冬季の早朝や夕方の名寄−朱鞠内の運転手は、誰も乗っていないから不安だったろうね >>546
天候が悪いときは保安要員もいたかもしれん。 倶知安の雪と陸別の寒さ
両方が合わさったのがこの地域
話変わるけど、全盛期は添牛内地区だけで1500人の人口居たという話もあるが信じられないね だれも居ないので判りません。
衛星から解析してください。 もう三十年近く前に3月末の湖畔駅に降り立った私。
ふらふらと朱鞠内湖へ歩いて行った。
どんよりとした曇り空、煙ってよく見えない湖、人気の無い公園。
公園駐車場脇の厚く積もった雪に
何を思ったか、私は穴を掘りまくってかまくらのようにした。
そして、その中に入ってひとに言えないことをw
盛りの29歳、夜行列車が宿代わりの貧乏旅行だったのでストレス状態だったんでしょうなあw
スレタイに釣られて、ちょい暴露でした。 >>562
そして、羆に見つかり熊穴に連れて行かれ保存食にされた
と話が続かないか・・ 俺も30年くらい前、秋に朱鞠内湖を一人で行ったことがあるけど、人ひとりいないから不気味で恐怖を感じた
朱鞠内湖へ行く交差点に家があったが、今は朽ち果てているのかな? 朱鞠内、今朝の最低気温マイナス31.2℃
鉄道があった頃は排水用の水や排泄物は凍っていただろうな ボストン便所もそこはかとなく味わい深いものがある。 朱鞠内駅のトイレは独特な臭いだったな
冬の時期は臭いは抑えられた トイレと言えば消防の頃、まだローカル線だった札幌近郊の札沼線に乗ったとき、トイレを開けたら20代から30歳くらいのお姉さんがお尻丸出しでしゃがんで小をしていた
鍵をかけ忘れたのだろうが、この事件がきっかけで歪んだ性癖が作られてしまったと思う 北海道のお姉さんは尻がデカい傾向にあるという。理由は分からないが。 江丹別でマイナス36度を記録。マイナス35度越えは19年ぶり。 >>570
確かにでかいわ。
あの消防の時をきっかけに、お尻と小便好きになってしまった。
あのお姉さんと仲良くなりたかった
話を戻すと、利用者の多さでランクすると、深川ー多度志は当時の普通のローカル線並みの利用はあった。
多度志ー幌加内は富内線や勇網線等の再建法による廃止路線と同等かな。
幌加内ー名寄は美幸線と日本一を争う区間。 多分寒い土地柄なので、ある程度体脂肪を蓄える必要性があるのかも。
私は痩せぎすは性に合わない。ポッチャリした人が好み。 幌加内のバスセンターの建物は立派だ。!トイレも暖房が効いていて、ウォシュレットもある。充電もできる。なぜ駅跡に作らなかったんだろうね 87年の夏に朱鞠内の駅名標の前で車掌さんに帽子借りて記念撮影したな。 幌加内の蕎麦屋さん、車の交通量が少なすぎてかわいそうだなw ワカサギの天ぷらそばを食べたい
朱鞠内湖ではまだやってんだろ? 道央圏は札幌だけ狙われている感じで他はどこも平年の半分以下だぞ
特に空知周辺は平年の3割にも満たない地域もあるぞ 寒さもさることながらコロナウイルスが北海道で猛威を振るっている。 西名寄駅で1時間待っても電車が来ないんだがストライキなのか? おじいちゃんつまらないんだよね
天北線のスレでも同じ事やってるし 朱鞠内駅で乗客同士のトラブルがあったための遅れです ハイラルの鉄道
貧弱な線路で、短尺レールだったから、キハ20系気動車は
トコトコという忙しないジョイント音を立てながら走っていました。
路盤が貧弱であるため、台車からの振動は大きく、乗り心地は悪い。 ブレス オブ ザ・ワイルドのハイラルでは…。
将来の高速化に対応するために、線路は新幹線規格で設計。
標準軌と、国鉄の在来線のレール幅の三線軌道を取り入れた。
かつて、犬夜叉の蓬莱本線で活躍していたキハ40系気動車が
ハイリア鉄道に譲渡された。
古いと言っても、車齢が若い車両であり、エンジンは
DMF14HZへ換装済み。すべて冷房改造車。
へブラ山の路線はキハ40系気動車でも登れるように勾配を緩やかに再設計する結果に…。 冬は暖房が効きすぎて車内ポカポカ。
確かに油断すると寝る。 いや、冬の車窓に集中できて寝る暇がなかった
当時、デジカメがあれば500枚は撮影しただろうな
乗車時の時に納めた心のHDDは、いつの間にかなくなってきている 95年中坊の頃。
高等部の鉄研の先輩が深名線乗車ルポを学園祭配布の機関誌で発表していたのを読んで、一人で北海道に行けない境遇がすごく悔しかった。
今でも深名線のれた 95年廃止。辛うじて私は深名線に間に合った。春の時期に一度乗りたかった。 1964年復刻時刻表を見ると、全列車が朱鞠内乗り換えになっていて
全線運転する列車が無い。 系統分けないと遅延したときに全線に影響するからなんだよな
ということは遅れたときに連絡してくれなくて、厳冬の朱鞠内で一泊とか発生してたんだろうな
楽しそう 民宿くらいはあるのでは?
夜中駅舎から閉め出されたら確実に凍死するわ まどかがある。坂を登るから駅から20分以上は歩くだろう。
あと運転手・車掌用の官舎があったはず。 60年代なら、ただの撮りヲタの趣味訪問でも駅員が宿直室へ厚意で招くような時代だよ
ましてや事情が事情なときは、そういうことになるだろう。 乗ったこともない連中が想像で懐かしがってるだけのスレだからな というかそんな昔ならスナックが2件もあったんだから、当然宿泊施設もあっただろう >>613の続き
深川⇔幌加内は無いが、深川⇔鷹泊が有る。
あと名寄⇔天塩弥生が2往復。 そもそも614の見解がすでにおかしい
国鉄当時なら、昨今みたいに接続させないなんてありえんないし 80年ごろには、湖畔駅近くに民宿があったが、室内と言っても耐寒試験のようだった。 生活圏は朱鞠内を境に名寄と深川に分かれているので、大雪等のダイヤの乱れの影響が少ないように、朱鞠内では接続をとらないのが正解。
それで困るのはヲタくらいなもんでな。 名寄ー天塩弥生の列車って利用者いたのだろうか?
深川ー鷹泊も多度志より北は? 名寄−西名寄が定期利用者がいた
名寄−朱鞠内はいないんじゃない? 627は国鉄時代をリアルで知らん奴が
知ってるみたいにドヤってるだけだな。笑 国鉄の頃に遅延して接続しないでおいていかれたことなんか何回もあるんだけど
特に名古屋圏。1分すら待ってくれなかった時があった
深名線は知らんからありそうって言っただけだど、1時間も2時間も遅れても接続して
くれるなら、系統分離する意味ないと思うんだが、まぁそこまで断定口調ってことは
実体験があるんだろうな
さすが国鉄時代をリアルに知っててドヤってるだけはある。笑 朱鞠内駅の隣のお店で朱鞠内湖っていうお酒を買った
空き瓶ずうっと保存してたけれど、実家にまだあるかも
北母子里の母子里一刻館泊ったことある人居る? >>631
その国鉄時代の特殊な例だったってことが理解できない輩は放っておいたらいいんだよ。
国鉄が赤字だからって鉄道の運行を止めて代行バスを走らせるなんてことも嘘と言い出しそうだわ。 >>631
その国鉄時代の特殊な例だったってことが理解できない輩は放っておいたらいいんだよ。
国鉄が赤字だからって鉄道の運行を止めて代行バスを走らせるなんてことも嘘と言い出しそうだわ。 国鉄時代 は臨機応変があったからね
厳冬期の深名線に乗りたかったなぁー
深名線って団体貸切できたよね、国鉄もJRも金出せばやってくれたよね? 国鉄時代の事はわからないが、公務員さんが臨機応変に対応できたのかな? だから、朱鞠内の停車時間で降りたときに、
温度差を感じたな
キオスクで買ったUCCの缶コーヒーは旨かった 北海道のキオスクで買うホットコーヒーはベルミーでしょうw 地元民です。
私が物心付いた頃すでに深名線はバス路線になってましたが、YouTubeで在りし日の美しい車窓風景を見て感動しました。
当時乗られてた方がとても羨ましいです。 >>646
当時、深名線乗るためのスケジューリングが大変だったよ 深名線乗るために本州から鉄道旅行に行ったけど、確かに一筋縄ではいかない
ダイヤだった。途中下車もしにくい(したが)。
地元民の方の646氏は生まれるのが遅すぎた(笑)。
私の中では間違いなく5指に入る路線。 湖畔〜北母子里間、車で行ってもビックリするぐらい自然しかない地域(道は現在一部通行止め) 世情が落ち着けばまた行ってみたい
もちろん鉄道車窓からの眺めが最高だが
それが叶わぬ今はクルマを飛ばすしかない >>650
はあ?
宇津内湖と朱鞠内湖を結ぶ建造物が存在しとることを知らんのか?
まあ今では宇津内付近には通常では確かに車では行けんがな。 とにかくアイヌ語の地名すら無かった場所を開拓したのは凄い労力だったはず
でも継続するには立地も気候もあまりにも過酷すぎたのだろうね
蕗ノ台、そこはもう奴らの聖域 >>652
>はぁ
と、知ってて当然な風の言い方なので、後学のためお教えください。
>>650は「クルマで当地を訪れても自然ばかりだ」、と言ってるようですがその構造物はどのようなものですか?
導水トンネル的なものでしょうか? 真冬の朱鞠内や幌加内をドライブしたことがある。
凍結した朱鞠内湖ではワカサギ釣りする人たちがたくさんいた。
道の駅には露天風呂の温泉があってマイナス10度以下の入浴を楽しんだ。 宇津内湖までは車ではなく、自転車で行ってみてください。すず 暖冬だったから、
ヒグマウヨウヨ
キタキツネピョンピョン 道内の到達困難廃駅トップ3は
1位 宇津内駅
2位 神路駅
3位 張碓駅
かな?
特に宇津内駅は場所確認不可なミステリーゾーン。 宇津内は廃止が昔過ぎてランキングにすら入っていなかったね
まあそのランクに上雄信内、蕗ノ台と続く感じだろうね でも秘境駅ランキングあれば、張碓や上雄信内よりも、蕗ノ台の方が上位にランキングされそう
それくらい蕗ノ台の秘境度は高い 私鉄も入れたら錦沢駅とかもあるけどキリが無くなるから旧国鉄、JRのみに限定すると、蕗ノ台と同順位くらいで鹿越仮乗降場もあるね。
まあ到達難易度は互角だけど、総合的な秘境度は圧倒的に蕗ノ台の方が上だけれども。 蕗ノ台駅は雪のない時期だったら乗用車で楽勝だけど、地元住民のオヤジとの遭遇確率高し。
上雄信内駅は、私有地という制約がなければ到達は可能?
ダムなどで水没した廃駅や、青函トンネル内の海底駅を除けば、>>664が到達困難駅と思われますね。
そのほかでは、夕張鉄道錦沢駅あたりは、自転車道になったけど整備放棄されたので現状で到達できるかはわからない。
今後、もし小幌駅が廃止になったら、ここも到達困難駅としてはトップクラスかと。 >>667
どこかのサイトに馬の水飲み穴の跡が駅跡周辺にあってハマると一人での脱出が困難で危険と書いてあった @駅跡の確認が困難
A駅跡へのアクセスが困難
A-1 私有地、立入禁止
A-2 周囲の道路、橋梁等なし
@ 全く痕跡が無く、駅自体の資料も無く、恐らくこの辺かなぁレベル
A-1 アクセスするに辺り、法に触れてしまう恐れがある。季節限定でアクセス解禁等
行けるけど行けない状態
A-2 廃止前から鉄道以外でアクセスが困難な廃駅
北海道に限らず
ダム底、青函トンネル廃駅、地下鉄新橋駅旧ホーム等〜 廃駅到達難易度(私鉄除く)
1、宇津内
2、神路
3、張碓
4、上雄信内
5、蕗ノ台
6、鹿越仮乗降場
7、古瀬 >>673
古瀬駅って今でも車で行けるよね。信号場としては現役だし。
国鉄、JR時代に正式駅に昇格できなかった仮乗降場は場所の特定ができない物件がたくさんありそうですね。 >>675
車で行けるけど、あの森の中の砂利道を何キロも走るのは結構怖い
インターアーバンの動画見て思った
ダム湖底ありなら滝里駅や移設前の旧鹿越駅も候補になるね。全然秘境感はないけれど >>676
砂利道が不得手とは、676さんはオサーンじゃ
ないのね! 道道528号はジムニーとマウンテンバイクがあれば完走できる
鈴は必需品だぜ >>667
普通に登山道の一部になってるしな。
しかも、車で普通に行ける。 >>679
去年の夏に、北母子里→蕗ノ台キャンプ泊→朱鞠内を徒歩で行ってきたという猛者もいたね。 単独でいってみよう!
幌加内町では多分確認してないだろうから、
道道528号線の状況確認も宜しく 開発は人手不足だし、行動力のある人間はいないから道道528号線は放置される >>690
ん?
道道は総合振興局の建設管理部(札幌市内を除く)では レイクハウスまどかに泊まりたいが、道外からは受けいれてくれるだろうか? 日本屈指の人口希薄地帯に平成の世まで生き残った鉄道 イトウは宇津内辺りでは釣れないな
厳冬期の宇津内は行くことも無理だか、釣り事態自殺行為かもしれない 1988年復刻時刻表が出たので見てみました。
朱鞠内をまたぐ運転が出てきてます。 JTBからでてる『時刻表完全復刻版 1988年3月号』のことだろうね
同じシリーズで64年の9月号と10月号もある 25年前の今日、旭川の駅前ターミナルに宿をとった。 深名線廃止から今日で25年。
屈指の過疎化地帯にマニアが殺到。
幌加内では大雨に。 幌加内では大雨だったが朱鞠内湖では天候が回復していたあの日。 25年前の深名線最後の日は今日の首都圏の天候に酷似 涙雨降ってたなあ。
25年前の夜。
プライベートを含めて、思い出すだけで、辛い。 大往生だろう
美幸線と赤字日本一を争っていた路線が平成の世まで生き残ったのだから あの日、深川駅に到着して、車掌の感謝のアナウンス。最後に「蛍の光」が
流れたのは悲しい記憶として現在に残っている。 深名線最後の日とバス転換最初の日に立ち会った人はかなりいることだろう。 二股から朱鞠内湖まで歩いて15分、やはり遠い。。。
朱鞠内湖から朱鞠内駅までは歩いて40分。
駅周辺でビールを販売する店はなかった。 確かに見方によっては道路は二股に分かれているが、違う見方をすると三股でもある、と、遠回しに言ってみてやる。 湖畔駅の前に一軒家があったが、今はないのかな?それとも廃屋か? >>725
>>564の事かな?
でも>>724の回答にはなってないと思う >>726
最初からと書いてあるだろ?
それ以前に出ていた話題だ。答えも出ている。 >>727
先輩! 726サンへの教育が厳しいッス そのまま自然に還るだろう
だから、マウンテンバイクで走破した方が良い ∩___∩
| ノ ヽ
/ ● ● | クマ──!!
| ( _●_) ミ
彡、 |∪| 、`\
/ __ ヽノ /´> )
(___) / (_/
| /
| /\ \
| / ) )
∪ ( \
\_) いよいよ雪の季節に入るな
名羽線含めて深名線跡地はもうすぐ雪に埋もれてしまう >>738
特雪443レと特雪440
DD14の背後合わせ重連な 雪に埋もれる冬こそ深名線☃️🎄❄️ 列車が通ってない時間帯に除雪車が出ていたようだけど、キハはよく雪を掻き分けていたよな
車窓からでも天塩弥生-朱鞠内は凄かった記憶がある >>737
西名寄駅跡はライスセンターの倉庫になって、黄色の接近標識が残っていたはずだけど? 朱鞠内からの国鉄名羽線の建設跡地を見に行って欲しいですな 誰も探さないので、雪がなくなる頃までのんびりしてください。 幌加内マイナス32.6℃を記録。
朱鞠内も氷点下30度越え。 >>749
積雪が凄すぎて車窓から見えるのは
連続した雪壁だけ 冬の深名線といえば特雪433列車と特雪430列車だろ
DD14の背合わせ重連を何回も撮影しに行ったのが懐かしい 北母子里から朱鞠内までが、これぞ厳冬期の北海道の光景だと思った
キハ53は雪を掻き分け、唸るエンジンで無人地帯を駆け抜けていく
何度かキツネを見たよ >>752
キハ22でなくキハ53の時代ですか・・ >>752
この期間はワイド周遊券の旅行者でも緊張するよ 冬期間は朱鞠内近辺の国道を車を走るのだけでも難儀な時が多いのに、
鉄道を運行していたのだから、国鉄には恐れ入りますわ。 深名線の特雪は自分も何回か撮影した事があるけど移動は空港で借りたレンタカーだしカメラ手持ち1丁
なので外で待ってる時間はせいぜい10分くらい前でそれまでは暖房の効いた車内で待機してるから厳寒用
防寒儀を着ていればなんとかなったけど外に20分以上居たらヤバイかも知れない。まずい昼休み終ってる もう乗れない、いや、夢でしか乗れないかも。
極寒期の深名線に俺が乗ったとき、垢抜けないひとり旅の女の子が、通しで乗ってたけど、
男子周遊券客は誰も声をかけてなかったみたいだった。
今だったら歳は50を越えて顔も変化して、子供の一人や二人、また孫がいるだろう。 雪女は顔をベールで隠して色白でスタイルは抜群に良い
深名線の乗客には残念ながらいなかったな >>769
ググったら、ずいぶん前に閉館したとのこと。
スレ違いだけど、サロベツのあしたの城はまだあるみたい。 北海道道688号線も雪解けしただろうから、チャリで探索してみるかな >>774
残っているところもあるけどな。
宇摩の手前あたりはわかりやすいかな。 冬の幌加内を車で旅したことある。
人々の生きる強さ感じた。
除雪は24時間行われているから大丈夫。 キハの車内はジャンパー脱いでトレーナー一枚で快適だった Youtubeに深名線最終日の動画がアップされていたが
朱鞠内駅で最終列車を見送る大西食料品店のおじさんが出ていた。
深名線に乗ると大体は朱鞠内で乗り換え又は小休止、
ここか農協支所で食料や飲み物を入手するのがパターンだった。
平成3年暮れに朱鞠内は89戸で1戸平均2人暮らしていなかったが
今は50戸を下回り、人口も100人を割っている。 >>782
それでも、駐在所や郵便局、役場支所があるし、老人ホーム等もあるので、
一応の体裁は付いているが、老人ホームの住人も事実上は
よそ者の気もするし、農協支所も閉店、大西さんも廃業したらしい。
昔は栄えた町だったけど、昭和39年の大火後は地勢も振るわないが、
その朱鞠内以上に寂れたのは隣の添牛内だね。
昔は添牛内が幌加内町の北の中心として、農協や役場支所、駐在所、病院、
日通営業所、学校、郵便局や旅館等が集まっていたが、みんな消えてしまった。
朱鞠内駅前にあった農協事業所も昔は「添牛内農協朱鞠内支所」だったが、
添牛内農協が倒産してしまい(地内の馬鈴薯澱粉工場は設備も旧式で
澱粉垂れ流し状態で非効率的、これらを集約するべく農協主導で1966年に
合理化澱粉工場を新市街に建てたが、馬鈴薯不況で経営は振るわずに数年で閉鎖、
この合理化澱粉工場の件が大きく響いて添牛内農協は破綻した)、幌加内農協との
合併、吸収というかたちで政和、朱鞠内、母子里の各支所は幌加内農協の事業所となり、、
添牛内農協本部も幌加内農協添牛内事業所となったが、実態は店番が1人いるだけだったし、
ついには添牛内事業所さえもが閉店してしまった。
深名線廃止前は郵便局や農協事業所、杉浦商店等、現金消費場所があったが
今の添牛内で現金を消費できるのは郵便局跡の霧立亭くらいでは? 「球聖」と異名をとる私もこの深名線には3回乗った。
廃止当日の1995年9月3日の当日の最終列車にも乗車した。
懐かしい思い出である(゜-゜) 丁度いま幌加内そば(茹で乾麺)を食べているよ。
深名線の沿線、多度志から幌加内、そして、幌加内から
峠を越えた江丹別付近は蕎麦の三角地帯というところかと、
今でこそ日本一のそばの町として有名な幌加内だけど、
昔は全く栽培されていなかった。
国道沿いに広がる見事なそば畑もかつてはじゃがいも畑(主に幌加内以北)、
又は水田だったが、昭和30年代後半からは相次ぐ離農によって過疎化が急速に進み
更に昭和44年からの減反政策のあおりで仕方なく栽培を始めたもの。
稲作には不適当だった幌加内の地理気象が蕎麦にはどんぴしゃりというところで
昭和55年には作付日本一となり、今は土地の集約化が進み大規模な農家も増え
今の時期、幌加内のそば畑の眺めに感嘆する者も多いが、そば農家としては
「最も手間のかからないものを仕方なく作っているんだけど・・・」が本音では。
また、平成の初め頃はじゃがいもやカボチャ、米などもかなり栽培されていて
雨竜郡各町と米出荷量を競っていたし、倒産した添牛内農協を吸収合併した
幌加内農協も事実上倒産していて、この時期、政府の管理下にあった事は
意外と知られていない事実でもある。
平成3年末時点で幌加内農協朱鞠内事業所管内の農家戸数2戸、
添牛内管内が確かゼロで政和も僅か、この組合員数では行き詰まる。
旧添牛内農協管内では母子里事業所が平成初期に真っ先に閉鎖され、
政和、添牛内が続き、最後まで残った朱鞠内事業所も閉店したので、
今の幌加内町政和以北に食料品等の小売店は事実上存在しない。 では、5行くらいでまとめるか
今日の昼食も幌加内そば(藤原製麺)だよ(笑)
多度志は駅が町外れに設置されたので市街地は少し離れていた。石狩沼田発多度志行の北空知バスも一応は深名線に接続していたが、
つい寝過ごしてしまい、着いたのが駅から離れた多度志市街地。歩いても下り深名線には間に合いそうにないので、
バス停前にあった駐在所に駆け込んで事情を説明したら、所長の奥さんが自家用車で駅まで運んでくれて、
辛うじて間に合った経験がある。駅員のいる時代だったら、駐在所から駅に電話・・・
「これからお客さんを連れて行くので汽車を待たせておいて」こんな芸当もできたと思うけどね。 そして、駅がなくなると町は寂れるね。
多度志からはハイヤー営業所や北空知信用金庫多度志支店も撤退したし、
Aコープや駅前の桶谷商店、鎌倉旅館も閉店廃業して、駅裏の多度志中学校も閉校に。
今では旧多度志町エリアの人口も1000人を割ったのでは? 鷹泊は深川だけではなく、幌加内との往来も意外と多く、
上下列車ともに乗降客はまあまあいたし、幌加内から鷹泊行の常備券もあった。
駐在所やホクレンスタンド、郵便局はあるものの、寂れた感は否めないし、
鷹泊駅舎もいつまで持ち堪えられるか・・・そんな状態だよ。
尚、旧鷹泊小学校跡を活用したリフレッシュプラザ鷹泊内に深名線資料室がある。 路線バスなら乗ったぞ
幌加内〜深川はまだ機能してた セコマがない幌加内は、やる気のないAcopeが生命線。 お盆で家にいるので、今日の昼食も幌加内そば(笑)
さて、廃止当時は下り5時10分深川発が始発で、朱鞠内発上り始発は7時55分頃だったと記憶しているが
3台で深川を早朝に発ち、途中の幌加内と朱鞠内で1台ずつ切り離してそれぞれ始発として折り返すし、
車掌からも名寄まで直通する先頭の車に乗る様に促されたので、実質的に始発兼送り込み回送というところだけど、
このダイヤに改められたのは1990年だったかと。その前は深川発下り始発は5時25分頃の発車で、
朱鞠内発深川行の始発は5時55分頃だった。深川から2台の気動車が朱鞠内へと朝早くに回送されていた訳だけど
早朝に走る回送列車が空走りで勿体ないと思っていたよ。朱鞠内や幌加内に車庫がないので仕方なかったけど、
昔は朱鞠内に車庫もあって蒸気機関車も常駐していたし、朱鞠内から深川への始発が5時頃で、深川からの朱鞠内着
最終も23時近くで昭和30〜40年代は上下6往復の定期列車の他に貨物列車も走るし、その入れ替えなどで朱鞠内駅は
かなりせわしなかったよ。 また、名寄発朱鞠内行最終(20時頃着)と深川発朱鞠内行最終(19時頃着)をつなげて
幌加内まで回送した上で、幌加内駅で深川からの最終列車と繋いで幌加内発の
最終列車として運転していたけど、朱鞠内〜幌加内間は乗客も見込めなかったし、
回送も仕方なかったかと。と言うか、幌加内発深川行最終も実質的には回送だった。
また、平成6年1月22日20時過ぎ、添牛内の浄念寺二世住職(75歳)が寺院近くの踏切で
車ごと立ち往生していたところに朱鞠内発深川行の回送列車と衝突して亡くなり、
浄念寺も檀家数の減少に伴い、数年前に廃寺となった。 >>796
始発の深川発名寄行には運転士と車掌が3人ずつ乗務していたのでしょうか? >>798
便乗扱いで乗っていた。
14時過ぎに深川を発つ朱鞠内行の車掌と運転手が翌日の始発に乗務。
前日は14時7分頃に深川を発つ列車で朱鞠内へ、車両は名寄へと直通するが、
車掌と運転手は名寄から来た深川行で戻り、更に深川と幌加内の間を最終列車で
往復後に旭川へと戻り、ここで一泊、翌朝は旭川から回送列車で深川へ、
始発に乗務する車掌は深川から名寄へ直行、更に朱鞠内〜名寄間を一往復して
10時40分頃に名寄へ戻り、急行に便乗して旭川へと戻っていた。
尚、早朝に深川を発ち、更に名寄と朱鞠内の間を一往復した車両は間合いで
運転する事無く名寄で車庫へ入り一休み、16時発の深川行となっていたが、
深川を11時過ぎに発つ列車の車両は留萌本線から直行する事もあった。 深川始発の朝の5時10分の列車に乗るために網走発札幌行きの特急オホーツクの
夜行を宿代わりにしたのを思い出しました( ´〜`) >>800
そして、深川駅前のコンビニで食料等を調達していたのでは?
5時10分発名寄行の3号車は幌加内で切り離して、折返し深川への通学生を乗せるため、
名寄へ直通する1号車は朱鞠内から名寄への通学生を運ぶための回送列車みたいなもの。
朱鞠内に残された2号車は深川行となって8時少し前に朱鞠内を発ち、
8時40分頃に幌加内に着けるが、幌加内中学校※への通学生は間に合わないので
(※朱鞠内中学校は1986年に幌加内中学校に統合、政和と添牛内も昔は小中併置だった)
列車より早い時刻に朱鞠内を出る町民バスで通学していた。 始発と最終を除くと深川を発つ時にはまあまあ混雑していても
(それでも1ボックスに2〜3人だったが)多度志と鷹泊でかなり下車して、
残りも幌加内でほとんど下車してしまい、朱鞠内まではほぼ空気輸送状態。
幌加内から沼牛まで乗る人はいたけど、沼牛から下りに乗る人を見た事はほぼない。
あまりにもダイヤが不便だし、行きは自動車等で幌加内まで送ってもらい、
帰りのみ深名線を使っていたんだと思うよ。
また、3往復しか走らないにもかかわらず半分の列車が通過していた
西名寄はというと、住宅や商店もあったし、近所には市営住宅もあったが
市街にも近く、曙橋を渡るとほぼ名寄市街。少し歩けばバスに乗れるので
さほど不便もなかった様で昭和30年代には早々と無人化されたし、
昭和45年には曙小学校も隣の弥生小学校(昭和53年閉校)ではなく
名寄小学校に統合されているよ。 >>805
>>806
804だけど何か聞きたい事ある? >>807
在りし日の白樺駅、蕗ノ台駅の様子などを知りたいですね。
いつごろから人家がなくなったんでしょうか? >>808
白樺、蕗の台共にかつては交換駅でかなりの木材を積み出していたし
戦後集団開拓団が入地した蕗の台には小中学校もあった。
しかし、気候条件も激しく、営農は振るわずに離農が相次ぎ
昭和37年には蕗の台小中学校が廃校となり、同年開拓団も解散、
昭和39年には蕗ノ台駅が無人化され、昭和47年頃には無人地帯となった。
白樺はホームや線路より高い位置に比較的珍しい左側出入り口の駅舎が建ち、
(蕗の台駅舎もほぼ同じ形の左側出入り口)、同時に開業した宇津内駅が後に
北一已駅の駅舎に転用されたとの資料もあるし、北一已駅が左側出入り口である
事を考えると宇津内、蕗ノ台、白樺各駅は同一設計とみて間違いないと思う。
農業には不適当な土地であったが、一時期は木材の輸送で栄えたものの
昭和30年代に入ると急速に寂れ、昭和36年には無人駅となり、昭和38年頃には
無住地に、そして、昭和52年からは冬季閉鎖となった事は皆さん承知かと。
朱鞠内湖が近いのでたまに釣り人が下車したり、天文ファンや鉄道ファンが
下車するくらいだったが、平成2年の廃止後もプレハブづくりの保線小屋が残り、
(同様の小屋は蕗ノ台にも存在)ストーブや調度品も置かれていた。
また、蕗ノ台駅は深名線撮影の隠れた名所とされていた >>810
最盛期は1.7万の人口を数え、戦後もほぼ1.2万人程度で固定化されていた
幌加内の人口も今では1350人ほどで更に減少を続けているが、
この1350人は最盛期の朱鞠内や添牛内の人口さえも下回っている。
特に幌加内以北は昭和40年代以降、森林資源の枯渇や減反政策による離農が相次ぎ、
急激に過疎化が進んだ。大規模な蕎麦畑もかつては水田やじゃがいも畑、
あるいは牧草地で、幌加内名産の蕎麦も減反と離農の副産物とさえ言える。
また、幌加内からは鉄道や畑、水田、農協だけではなく郵便局もかなり消えた。
現在町内にある郵便局(簡易局を除く)は幌加内と朱鞠内のみだが、かつては沼牛、
政和、添牛内にも郵便局があり、それぞれ昭和末期までは配達も行っていたが、
平成3年に沼牛が廃止され、次いで深名線の後を追う様に平成8年には
政和が続き(簡易局設置)、平成11年には添牛内が廃止されたし、
後に朱鞠内も集配を廃止した事で町内全域が幌加内郵便局の集配区内となった。
ただ、南北に細長い幌加内町だし、いくら利用者、住人が少ないからとは言え、
朱鞠内の無集配化は些か無謀だった気もする。尚、幌加内町内には民間の
宝くじ売り場がない事から幌加内、朱鞠内の両郵便局では全国自治宝くじ
(スクラッチ、数字選択式を除く)の販売と払い戻しも行っている。 幌加内も蕎麦などでなんとかもっているが
人口減少が続き
郵便局など公共設備も縮小気味
宝くじなど買うのが大変
これぐらいでまとめろよ >>812
ガイジは大変だね
読んだ先から直ぐに忘れていくんだろう?
ガイジというより認知症だなw 旅人&田舎食堂・天塩弥生のホーム側は旧駅舎の雰囲気を幾分再現しているが
正面側はあまり似ていない気がする。正面風除室が余計か?
新築時の面影を最も残していた駅舎は幌加内だな。窓を小型化したり、
増築してベニアで補修していたが、骨格は新築時のまま。最後まで駅員がいて
煮炊きをしたり、窓を開けて風を通していたので状態も良好、
戦前に撮られた写真と比べても、それほど変わっていなかった。 長文と短文、どっちがいいの?
ただ、言えるのは私の書き込む内容は全て事実だという事である。
詳しい解説の方が良いのでは? 長文が理解できないキチガイ痴呆は1人しかいないから無視して下さい 深名線が廃止された年、湖畔駅の待合室内に深名線の歴史を詳しく書いた冊子が有ったのを覚えています
もしかして>>817さんが書かれたモノですか?
当時、オートバイで訪れました
道道528号線(蕗の台朱鞠内停車場線)も走って白樺駅跡や蕗の台駅跡も訪ねました
750ccのオンロードバイクに野宿用品を満載していたので
未舗装の悪路に手こずりながら走ったのが思い出されます
今は通年、通行止めのようです >>821
いや違う。白樺や蕗の台は駅廃止後も保線関係者用のプレハブ小屋が建っていて、
夏は自動車での見回りだったので道路を閉鎖する訳にもいかなかったかと。
湖畔駅付近の三股一帯が朱鞠内旧市街で昔は栄えたが、ここから離れた場所に
朱鞠内駅がつくられ、駅開業と共に自然と人煙が立つ様になり新市街が形成されたが、
隣の添牛内も駅開業によって新市街がつくられた。開拓期の政和や添牛内は
士別方面からの入地がほとんどで、元の添牛内小学校や杉浦商店のあった付近が
添牛内旧市街、現地を訪れると気が付くと思うが、添牛内駅から旧市街にかけては
緩い上り坂が続いている。当時はここが終着駅だったし、勾配を避けて市街から
離れた平坦地に駅をつくったものと思われるが、開業とともに自然発生的に
市街地が形成され、ここを添牛内新市街と呼称する様になったが、昔は駅前に
旅館や雑貨店が建ち、国道沿いから旧市街にかけて住宅や商店が立ち並ぶ大きな街だった >>821
深名線の運行最終日、3分40秒頃から朱鞠内駅ホームで最終臨時列車を
(毎日運転されていた幌加内行回送列車を臨時列車に仕立てた)
見送る禿頭のおじさんが駅前商店(大西食料品店)の大西博春さん
朱鞠内で買い物をした際に会ったり、話をした事のある人も多いだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=4qfBqlsJd-w
朱鞠内駅に降り立ち、駅前左手にあったのが幌加内農協朱鞠内事業所とスタンドで
食料品等も販売していたが後に閉鎖、個人商店となったものの、こちらも閉店している。
そして、この農協事業所は度重なる火災に見舞われた事で地元では少し有名。
1964年5月16日に発生した朱鞠内大火に加え、近所の子供の火遊びでも消失している。
※その後再建されたこの建物は平成初期に曳家して位置も若干動いている。
農協の向かいが大西さん。室蘭に生まれ、戦後朱鞠内へと来たとの事だったが、
蕗の台へ室蘭からの日鋼開拓団が入植した経緯もあるし、そちらとも何らかの関係が
あったのかも知れないが(詳しくは聞かなかった)、朱鞠内の生き字引の様な方だった。
尚、深名線末期に朱鞠内から名寄へと列車通学していた高校生は大西さんの孫である。 >>821
昔の朱鞠内は木工場が立ち並び、国道沿いには住宅や公共施設が密集して賑やかな街だったよ。
しかし、1964年の朱鞠内大火で116戸を焼失、焼失物件には朱鞠内駅も含まれている。
人的被害はなかったが当時の金で5億円以上の損害を出し、急速に過疎化が進んだ。
それでも、昭和末期から平成初期頃はまあまあ町の体を為していたが
(廃屋や空き家も多く、廃業した床屋の腐った建物も目障りだったが・・・)
今は更に人口も減り、施設の統合や集約化が進んだので空き地も目立つね。
昔は駅前の農協支所や商店等で朱鞠内湖名産の淡水魚佃煮や筏焼きが買えたが
今は湖畔の淡水湖漁協やレークハウスで入手するか、通販のみだし、
平成初期に幌加内市街へと移転した武藤組鉄工所も倒産してしまった。 >>823で朱鞠内駅ホームで大西さんと一緒に最終列車を見送る
制帽着用の駅員は平成2年から廃止時まで在勤していたAと思われる。
Aはこの後、札幌駅に移動して改札を担当していた。
また、平成4年に朱鞠内駅助役から駅長に昇格したNは
遠軽駅副駅長などを経て、銀河線置戸駅最後の駅長となった。 添牛内も朱鞠内と同様、市街地から離れた場所に駅がつくられ、
後に周囲に新たな市街地が形成された。今では数える程しか人家もないが、
かつて添牛内新市街には日通営業所、病院、巡査駐在所、役場支所などがあり、
駅前には旅館や雑貨店、鉄道官舎等が立ち並んでいたが全て消えた。
深名線の末期、添牛内駅に降り立ち、左に折れるとまず目につくのが郵便局
(現霧立亭)だった筈、旧市街へと向かって延々と国道を歩くと右手に大きな
2階建ての建物が見えるが、これが添牛内農協で今は個人住宅となっている。
更に旧市街へと向かう途中に行信寺跡の記念碑が立つが、行信寺開基住職の
泰円澄順教は真宗出雲路派の僧侶で得度後に志を立てて福井で医業を学び、
内外科医の免許を取得、多寄で開業していたが招請に応じて明治44年に入地。
説教所を開設して布教と診療に従事、急患あれば風雪の夜道を駄鞍に身を託し、
不幸にして死んだ場合はお坊さんに早変わり、死亡診断書を書いて読経をして、
葬儀万端滞りなく済ませてくれる重宝な方だったので、生き菩薩様とも
尊敬の意味を込めてトラバサミ(嵌ったら出られない)と呼ばれたとの事。
その後、二世住職泰円澄教聴が1969年に遷化、一周忌を経て廃寺となり、
本堂は幌加内市街に移築されて西暁寺(真宗大谷派)となっているが、
例年、お盆の時期になると行信寺跡は有志たちによって丁寧に草刈りが行われている。
、 やっぱり書いてるうちに意味不明な供述を始めやがったじゃねえか 沿線の歴史、興味深く読ませていただきました
ありがとうございます
いずれ消えてしまう5ちゃんねるのスレッドで書かれるよりは、
他の媒体で、貴重な資料てして後世に残る形になさった方が良いかもしれませんね 郷土史家のようだね
このまま5ちゃんに埋もれるのは惜しい 添牛内駅は保存の方向ですが、鷹ノ巣駅は保存活動もなく朽ちていくのでしょうか? 鉄道関係のネタが少ないか?
では、1931年9月に開業した添牛内は1982年3月に無人駅となり、
同時に交換設備を廃止して運転扱いも終了したとの記述が散見される。
かつてはホーム2本を有する交換駅で1982年に無人駅となった事は確かだが、
1977年頃に撮られたとされるこの写真・・・
https://www.facebook.com/soeusinaieki/
塗装の状態からも昭和50年代前半の添牛内駅である事は間違いない。
そして、駅事務室には通票閉塞機が置かれている。が・・・・・・・
駅舎右の信号扱い所にはあるべき筈の信号梃子が存在しない(@_@)
深名線各駅は腕木信号機だったし、ここのみが色灯式に変えたとは考えにくい。
おそらく、とりあえず交換設備等は残すが、昭和50年代前半時点で
添牛内は既に運転扱いを事実上廃止していたものと思われる。 >>828
いや、基本、消えないと思う。
今のところ、富士ぶさ廃止前後(2009年)のスレも、記憶に残る語句でググれば出てくる >>831
鷹泊駅でしたね、最近ボケがすすんでねぇ、ゴホゴホ。 降臨中の郷土史家?の方、宇津内駅についてはどうですか? >>834
運賃が高くても多度志〜深川間は通学、用務はバスが圧倒的に優勢だった。
なぜなら、多度志駅が市街から離れた弥栄地区にあった事に加え、深川の高校も駅からは
遠いのに対し、バスはこまめに停まりながらほぼ学校前まで直通していたからである。
多度志以北は仕方なく通学に深名線を利用していたというところ。
さて、鷹泊は1984年11月に旅客関係の駅員を配置しない無人駅扱いの停留所となったが、
運転関係の駅員配置は1986年3月末まで続けられ、その時点でも1日に3回ほど定期列車の
交換も行われていたし、それ以前はここを始発、終着とする旅客列車も運転されていた。
ある程度の乗降客がいて、遅い時期まで運転交換駅として機能して駅員の配置が
行われていたので出入口や窓枠はアルミサッシに交換されるなど、手入れもそれなりで
残すにも適した駅舎であったと思うが、最近はホーム側庇の崩壊が少し気になる。
また、wikipediaによると「有人駅時代には待合室に水仙とバラの造花が飾られていた」
とあるが、他にも駅本屋の柱には「小鳥さん無料だよ、泊まりなさい」と書かれた
駅員手作りと思われる鳥小屋が飾られ、無人化後も存置していた。 >>835
宇津内駅はダム工事で発生する木材を運ぶために設置された様なもので、
戦中戦後の僅かな時期に駅として機能したのみで、戦後まもなく廃駅となり、
写真は1枚も発見されていない、幌加内町でも幻の駅であるが、
「一已史」によると、留萌本線北一己(当時の表記)駅の開設陳情が実り、
この時点で既に廃駅となっていた宇津内駅の駅舎を解体して現地へと運び
受益たちによって今の北一已駅を建て直したと言うが、宇津内と同時に開業した
白樺、蕗ノ台は共に北一已駅と同じ左側出入り口である事を考えると、
この話は信憑性も高く、旧宇津内駅舎=現北一已駅の可能性は非常に高い。
尚、wikipediaによると北一己駅は昭和30年に開業、昭和35年に業務委託化、
昭和44年に再度直営化とされているが、「一已史」によると北一己駅は
昭和30年に全国初の民間委託駅として開業したが、不便なので陳情により
翌年には直営化されたとあり、多方面において異なる記述がみられる。
1955年に北一己駅が全国初の民間委託駅として開業したとなっているが、 あらら、
先人お二方のブログと比べたら大したことないなあ。。
上のほうのレスで地元民しか知らないようなものすごく掘り下げた記述してたから
少し期待したのに 宇津内駅跡と思しき場所は今では入地さえ困難だし、
ほとんど自然に還っているんだよ(~_~) >>839
道道使って行ってみたいけど、
ずうっと通行止だもんなぁ あそこ 政和も正面側を解体して鉄骨補強の上で車庫兼倉庫に変わったが、
廃用材は沼牛や添牛内の補修に転用する(された)のかな?
新しい用材を使って元の姿に戻す事はできるだろうけど
廃駅舎の用材を使うのが手っ取り早く雰囲気も出るのでは? 天塩弥生と北母子里の間でレールが風連町(当時)を5キロほどかすめていたが、
町内に駅はないので事実上は受益者ゼロ。昔は西風連の連中が天塩弥生を利用していたが、
モータリゼーションと過疎化が進み、しかも、1日3往復では使い道はなかったな。
北部幌加内の住人も自家用車で士別や名寄へ買い出しに出かける事が多かった。 政和や添牛内の開拓者も士別〜温根別方面からの入地だった 幌加内町も空知支庁から上川支庁に移管され、深川署から士別署の管轄に変わったが
JA北空知管内だし、北空知信金支店もそのままで深川地区消防組合にも加入しているし
旭川や士別へのバスはないが深川発着便はあるし、深川との関係はまだまだ続くと思う 旧天塩弥生駅ホームにかなりの大木(種類不明)が立っていたが
駅廃止、ホーム撤去で切り倒したんだろうね
あの大きさだと開業前からあって、残す様にホームを作ったか
開業と同時くらいに植えたのではと思うよ >>846
消防支署も去年から士別地区に移動していた 南北に細長い幌加内町も南と北では生活圏が異なっているが
同様に南北に細長い幌延町も南の問寒別は名寄や天塩中川寄りだし、
幌延本町は天塩や豊富、稚内寄りで元の鞘の留萌は蚊帳の外という感じ。
しかし、幌延が留萌支庁から宗谷支庁へと移った事で留萌本線が廃止されたら、
檜山支庁、日高支庁に次いで留萌支庁も鉄道駅もゼロになってしまう。 国鉄時代の収支係数は1975年頃から全国ワースト2位が定位置で
(大体2000円台後半)昭和56年には赤字日本一になったが
除雪費も毎年10〜20億円くらいかかる、人口は希薄で運賃収入そのものも
少ないし、当時は深川駅と名寄駅で深名線の切符を買ってもそれぞれ、
函館本線と宗谷本線の売上に計上されていたのだから係数は大きくなる。
JR時代の係数は一体、いくら位だったんだろうか? 1981年が2901だったし、100円儲けるのに30倍や50倍はかかっていたと思う。
幌加内駅、朱鞠内駅共に普通は一人勤務だし、
朱鞠内駅事務室には「出務の厳正」と大書きしていたが、
幌加内が上下5往復、朱鞠内が名寄方3往復、深川方が回送含めて4往復、
臨時やラッセルも走るだろうけど正直言って暇なダイヤだったな。 もし、朱鞠内−羽幌の名羽線が開通していたら目も当てられないだろうな。笘竜トンネルは最初から作るつもりはなかったんだろ? 当初は羽幌口の石炭を運ぶつもりだったらしいけど、
昭和40年代半ばには羽幌鉱も閉山したし、
朱鞠内ー羽幌、朱鞠内ー北母子里、北母子里ー天塩弥生の間はほぼ無人地帯
開通しても、おそらく途方も無い数字が出ていたと思うよ 9月3日に運転された朱鞠内発下り臨時最終列車は
毎日運転されていた回送列車を臨時列車として運転したもので
朱鞠内〜幌加内間ノンストップ運転だったが、
添牛内はかつて通過不能の終着駅だったし、政和も開業時からの駅だ。
乗客がいようがいまいが、この2駅くらいは「お疲れ様」という事で
ドアカットが必要だったかも知れないが、最終列車を止めても良かったと思うな。 朱鞠内からの臨時列車を幌加内で連結したので幌加内発深川行最終が10両だったが、
定期列車だったのでダイヤ通りに沼牛や幌成、上多度志を通過して鷹泊と多度志のみに停車した 雨竜線
1924年(大正13年)10月25日に開業
3往復 8.7kmを35分 時速15km 23銭
翌年にはダイヤ改正も入って(夏時間?)
終電が20〜25分遅くなった
地図は1925年7月
https://i.imgur.com/ID5UW8c.jpg
https://i.imgur.com/q5jzpjp.jpg
https://i.imgur.com/7rvq3G2.jpg >>859
多度志や鷹泊には当然、転車台があったと思うが痕跡は見つからなかったな。
それとも、距離が短いので往路か復路どちらかは後進運転だったか?
朱鞠内には転車台があったが。
また、地図では宗谷本線(当時の天塩南線)が問寒別止まりだけど、
昔の問寒別駅は2面3線のホームと広い構内を持ち、木材等の貨物輸送も盛んで
問寒別地区の最盛期の人口は今の幌延町の人口より多いくらいだよ。
今は300人程に減り、寂しい街になったが、それでも、ストアや郵便局、
駐在所、学校などは残り、まあまあの体裁を保っているのが救いか。 1965年朱鞠内駅
転車台がはっきり見える
鷹泊は1965年の航空写真がなかった
https://i.imgur.com/axo9BFz.jpg 朱鞠内駅は大火で一度燃え、
幌加内駅も廃止後に燃えてしまったが
最後まで有人だった駅が共に火災に見舞われて
建築時の姿を失ったのも因縁みたいだね
朱鞠内の転車台は平成になっても残っていたよ
既に使っていなかったし、動くかも不明だったけど >>860
問寒別は1986年秋に宗谷本線の自動信号化に伴い無人駅となり
(正確には1984年に旅客無人化)、程なく赤屋根の駅舎が解体されたよ。
30年くらいしか使わなかったし、窓や扉はアルミサッシに交換されていて、
駅舎は解体しなくても使えたと思うけど貨車駅になった。
昔はここや雄信内から中川商高へ通う高校生がかなり乗り込んだけど
中川商高が廃校になり、スクールバスで天塩へと通う様になって利用者も激減、
それでも、まあまあの市街地があって利用者もいるし、駅が残るだけマシか。
南北に細長い幌延町の南端に位置し、幌延町が留萌支庁から宗谷支庁へ移る前から
生活圏は留萌は全くの圏外で幌延や稚内よりも名寄や音威子府、天塩中川寄り
北母子里や朱鞠内の生活圏が深川よりも、名寄や士別寄りだったのと似ているね。
しかし、音威子府以北の宗谷本線ダイヤも特急・普通各3往復では使えない...
末期の深名線か大正時代レベルの不便さだよ。 まあ旭川以北、以東は道路整備で注力して鉄道は諦めたほうがいいと思うよ
道路輸送だけだと無理な区間以外は鉄道は廃止の方向で行かないと北海道は無理だよ 大沢秀了元剣淵町長が深川市多度志町幌成の国道でバイク事故死した事がある。
大型バイク愛好家としても知られ、町長を36年続けた僧侶町長だったが。 幌加内そば祭りは2年連続中止だったよ
例年、丁度深名線が廃止された頃に実施されていた。
深名線が走っていた頃は幌加内蕎麦もそれほど有名ではなかったし、
駅前松家食堂の太い蕎麦が鉄道マニアの間で少し有名だったくらいだけどね。 そばで有名になった幌加内にはそば屋も新しく増えたけど
深名線が廃止された頃でも町内のそば屋といえば
駅前の松家食堂と国道沿いのあじよし食堂くらいだったし、
更にその昔、幌加内では蕎麦は全く栽培されていなかった。
皮肉にも蕎麦は米作には不向きだった土地の減反と離農の副産物だけどね。
松家食堂は閉店したが、あじよし食堂の息子が添牛内で霧立亭を経営している。 >>871
大体、政和〜雨煙別以南のそば畑は元は水田、政和以北はいも畑か牧草地だったよ
朝もやがかかり、寒暖差の大きな幌加内の気候は水稲栽培には不向き、
更には自然条件の悪さも相まって昭和30年代から離農が相次ぎ、北部幌加内は
特に過疎化が進み、添牛内農協の組合員数も著しい減少をきたした。
その様な中で昭和41年に農協主導で添牛内に建てた合理化澱粉工場が
再生の切り札どころか大赤字続きで逆に経営を圧迫する様になって
昭和47年には閉鎖され、翌年には添牛内農協も倒産!
この頃からそばの作付けを始める様になり、
離農地を集約するかたちで大規模なそば畑が生まれる様になった 昔、添牛内には役場支所や駐在所があって
旅館や雑貨店、病院等が軒を連ねていたとは思えない程に寂れた >>876
それで何で町になったのが昭和34年なんだろうな?
人口のピークも昭和15年辺りなのに >>879
戦前、北海道の二級町村の財政負担を北海道庁が負う代わりに保護監督的規制を行っていたため
北海道の町村には自治権が大幅に制限されていた。 >>880
でもそれ戦前の話でしょ?
昭和34年って遅すぎね? >>879
1940年頃にピークだったのは雨竜ダム工事や
砂白金採掘で一時的に増えていたせいもある >>877
数日前に食ったが
深名線の走っていた頃はネットもなかったし隔世の感があるね そんなことないぞ
音響カプラでパソコン通信繋いでたころに深名線は走ってた >>881
申請するかは自治体が決定する
町に移行するかどうか、現在なら住民投票など
人口だけでなく官公庁施設もないと駄目 >>876
サンクス
地図でなんとなく往時の想像はできた
これまでは幌加内北部の当時の中心は朱鞠内でも政和でもなく添牛内だったと聞いたときは信じられなかったけどね
現在でもなんとか集落を維持している政和や朱鞠内と違って、添牛内はもう集落とも言えなくなっていたからね 7月16日 Amazonサービス開始(米)
8月25日 マイクロソフトWindows95発売(米)
9月4日 深名線廃止(日) >>884
平成7年頃我が家にネット環境は無かった(笑)
>>886
北部幌加内の開拓は深川方面からではなく士別方面から添牛内経由での入地者が
ほとんどで朱鞠内・政和方向への分岐点だし次第と人が集まったというところか。
早い時期に電話や電気も通ったし、大正時代には郵便局や駐在所も建った。
この地図上の建物で残っているのは農協(今は個人宅)と共販(杉浦商店)に駅くらい。
その農協も倒産したし、杉浦商店も閉店、そして、駅も・・・ 素晴らしい景色の深名線だったが、唯一、禁煙区間でなかったところだけがマイナス心証だった。後は文句のつけようがない。 >>878
添牛内駅の引込線に止まっているのは木材輸送用のトラ型貨車か?
近くの天塩川木材工場からの専用線も敷設され、
ここを始発とする木材満載の貨物列車も運転されていたというし、
昔はここや朱鞠内も木材の駅だったんだろうね 名羽線も石炭よりも木材輸送線だったら良かったよね? 路盤も50%くらいは完成していたし、
沿線に資源はわんさかだけど、乗客は熊くらいだろうね。
開通していたら、羽幌〜名寄は朱鞠内でスイッチバックした筈。
留萌炭田の石炭も表面を削いだくらいで、実際にはまだまだ埋まっているし
森林資源も豊富だが、共に輸入品に押されて国内産では採算が合わないのが実情。 おいしいかどうかよりも店があるかどうかという以下略 昔、倶知安駅ホーム上にあった立ち食いそばはマジ旨かったよ。 寒くなると温かい蕎麦が恋しくなりますな(∩´∀`)∩ >>899
そば折詰駅弁のニセコそばもあったな
SL時代は倶知安や長万部のそば屋も繁盛だったと思うよ 最近は駅のホーム蕎麦屋も減ったな
今は札幌駅くらいじゃないの?
高架ホームとかではなく、上屋はあるが吹き抜け、吹きさらしホームで食べるのが良く、
18時21分に名寄着に着いたら、すぐには待合室に入らずに
1番ホームで蕎麦を食べてから駅舎に入り、弁当や飲み物を入手、
18時51分発の急行礼文の車中で弁当と燻製卵を食べるのがパターンだった。
平成3年頃に名寄駅0番線が廃止になり、深名線も3番線発着に変わったが
当時の名寄駅2、3番ホームは蒸気機関車でも出てきそうな雰囲気だったが
今はホームの上屋も無くなり、寒々としている。 名寄駅も今は上下ともにほぼ1番ホーム発車で間に合うくらいの本数だし
上屋撤去もそれだけ乗車客も減ったというところか ホームで旅情に浸りつつ蕎麦を食べたくなる駅というのはあるね。
都市の駅よりも程々の規模の乗り換え駅が良い。
北海道では音威子府や名寄、岩見沢、遠軽あたりが代表だと思うし、
昔は駅員や車掌も一緒になってそばを食っていた。 あの時、音威子府のホームにあった常盤軒で食べておいて良かった〜 深川駅で高橋商事のお楽しみ幕の内弁当を買い求めてから
11時過ぎ発の朱鞠内行に乗るのがパターンだった >>909
駅蕎麦、弁当、ウロコダンゴ全て深川市5条通りの高橋商事が製造販売 >>909
蒲鉾と添え物の梅干し以外は全て自家製手作りで
化学調味料は一切使用していない幕の内弁当だった かつては基幹産業だった稲作、畑作が潰れて
今は蕎麦ばかり栽培しているな・・・・・ 半分以下なら、旧産炭地や林業メインの町村から見たら全然マシに見える かつては人口5000人を超える独立した町だった多度志も
中学校が消え、小学校の統合話も持ち上がる程。
最盛期の5分の1もいないのでは? >>911
昼に藤原製麺の幌加内そば(乾麺)をざるそばにして食べたよ
藤原製麺には江丹別そばもあるが、幌加内の方が味ものどごしも良い 12月、土曜昼過ぎ
宗谷本線から名寄線へ乗り換えで名寄駅で待っていたところ、
「大雪のため、深名線は運休となりました。復旧の目処は立っていません」とアナウンス。
土曜昼なので待合室も人が多かった。女子高生たちを見ていたけど、驚く様子もなく。
日常の風景っぽかった。 >>878
国道沿いは添牛内商店街みたいな感じだね
今は何も残っていない 幌加内バスターミナル内の雪月花は食べたことがないけど、どうよ? >>925
食った事がないのでわからないが
添牛内の霧立亭はまあまあ上等な方だ 最後に幌加内を訪れたのは深名線が走っていた頃で、
当時は幌加内蕎麦もそれほど有名でもなかったし、幌加内での食事は大体、
駅前の松家食堂だったというか、町内で食事可能な店も数える程しか無かった。 乾麺を幾つか食べ比べてみたが、やはり、幌加内そばの味が良い IT化が進んだおかけで情報が拡散して政和や添牛内、天塩弥生で
そば屋や食堂を経営しても、それなりに成り立つんだろうけど
深名線が走っていた当時だと、沿線で食堂経営等が成り立つのは
多度志、幌加内、朱鞠内(湖畔のまねき食堂は谷川旅館と兼業)くらいだろうね >>930
朱鞠内も80年代以降は難しかっただろうね
多度志と幌加内中心部くらいだろうね >>931
深名線が走っていたら、朱鞠内は乗り換え時間もあるし、
鉄道マニアの利用が見込め・・・・・ないか(-_-)
朱鞠内の一日平均乗客数は昭和55年頃で50人くらい、
平成初め頃だと10人くらいだったからね >>933
朱鞠内は幌加内町の地名
以下Wikipediaより
基幹産業は農業(稲作、畑作)、酪農。ソバの産地として知られ、作付面積・収穫量ともに日本一。
なお、2005年度の「都道府県地価調査」によると、調査対象住宅地で日本一地価が安い地点が、字朱鞠内6400-14にある >>933
ダム工事が始まった事でにわかに活気づき
その後は後背地に控える森林資源を生かした林業、製材木工業へ
そして、林業が衰退すると観光だな。
平成3年末時点で農家は2戸だったし、昭和末期〜平成初め頃は
ワカサギや川エビの筏焼き、佃煮の製造販売と朱鞠内湖観光が
朱鞠内の数少ない産業みたいな感じだった >>936
町内の郵便局は幌加内と朱鞠内のみ
政和は簡易郵便局に格下げ、母子里は開設当初から簡易局
沼牛と添牛内は廃局になり、沼牛にいたっては跡形もない >>940列車時代と大きな変化はあったんだな。
郵便物や荷物が多かったな
深名線は荷物輸送が便利で多かったんじゃない? しかし、昭和末期までは町内に5つの集配郵便局があった幌加内町だが、
沼牛が集配廃止後数年で廃局(1991年)になると政和と添牛内も続き、
ついには朱鞠内も配達を取りやめて、町内全域の郵便配達を幌加内が
受け持つ様になった。
それだけ、人口も減り、需要も低下したとんだろうけど、幌加内から母子里への配達なんて一日仕事だと思うし、冬なんて寒いし危険では?
民営化に先立ち幌延町、天塩町、豊富町の外務集配を全て幌延局に
集約した時期があったが、冬は道路が凍る、地吹雪は食らう、
夏でも配達は遅れるわで苦情ビシバシ、無謀な企てだった事が判明して
結局、豊富と天塩がそれぞれ、配達を再開する様になったが
過度な集約化はむしろ逆効果というところか。 函館〜札幌〜[深名線経由]〜稚内
短絡させるとかどうだっただろうか >>943
樺太を控えていた戦前でさえ
深名線は宗谷本線有事の際の迂回路程度の位置づけだったし
路盤の強化も必要、除雪費もかさむわで経費倒れになったと思うよ >>946
無かったよ。
フリー切符で幌加内駅、朱鞠内駅で指定券を発行してもらおうとしたら、
出務していた幌加内駅U及び朱鞠内駅Aが面倒だからと屁理屈をこねて押し問答になった事があるが、ごり押しで0円券を発券させたよ。 深川と名寄ならば今でもみどりの窓口は健在です。
朱鞠内と幌加内、それに湖畔駅は乗下車した記憶があります(∩´∀`)∩ 朱鞠内行で、西名寄駅で高校生が1人降りた記憶があります。 政和温泉なんて駅も有ったね。
自分が乗ったときには既に廃墟になった温泉施設があったけど、その後政和温泉ルオンド
として、道の駅に復活したね。真冬の雪降る極寒地の露天風呂は趣があった。 場所も離れてるし、廃業した温泉は廃業前に温泉枯れてたみたいだし、完全に別温泉だよねあれ。
風呂上がりに裸でジンギスカン食べるのが名物だった宿のようだね >>955
泉源が涸れたのではなく
確か火事で燃えて廃業した筈 >>955
仮乗降所で降り、裸ジンギスカン屋へ行ってみたかったデス。 >>959
代わりに政和温泉ルオントで食事ができるが
メニューは丼ものと蕎麦、うどんばかり
もっとも深名線が走っていた当時は
幌加内の蕎麦も然程、有名ではなかったけどね
温泉に隣接するバンガローを借りて
自炊でジンギスカンを食べる事は可能かも知れないな 温泉ではないけど、朱鞠内レークハウスで泊まった方が良さそう >>962
夏の夜、朱鞠内辺りを車で走ると
車体に虫が大量に貼り付くわな キハ53-500の運転台のガラス部分に虫がこびりついていたよ
あれデッキブラシで落ちるのかな? 深名線の様に細々と走り続けているこのスレも
そろそろ次スレが必要になりそう
記憶の中で永遠に走り続けてほしいよ 深川5時10分発下り名寄行は事実上は幌加内から深川、朱鞠内から名寄へと通う
高校生を乗せるための送り込み回送みたいなもので、誰も乗っていない事も多く
幽霊列車とも呼ばれていたが一応は時刻表に載っている営業列車だったが、
便乗の車掌や運転手どころか、本務車掌さえ暇そうな感じ(笑)
乗客が私1人の貸切状態の時は、私から「放送を省略していいよ」などと
伝える事も多く、実際にその通りにしてくれて、ボックスでタバコを吸いながら
世間話に興ずる事もあったが、今だったらバッシングを受けるし、ありえない話だろうね。
同様に朱鞠内17時20分頃発車の名寄行最終も貸切になる事が多かった ちなみに平成2年くらいまでは深川発下り始発が5時25分頃、
朱鞠内発深川行の上り始発が5時55分頃の発車で
4時台に深川から朱鞠内への送り込み回送が運転されていたが、
朱鞠内を5時台に出たところで、通勤や通学には使えない、
丁度良い時間帯に朱鞠内から幌加内への町民バスが運行されるで
あまりにも乗客が少ないので朱鞠内からの始発も7時50分頃に繰り下げられた 一つだけ深名線に苦言を呈しておくと、喫煙可能な車両は大の嫌煙家の私には抵抗があった。そんなに密な状態でないので、まだ気管支炎の弱い私には辛い状態とまでは
行かなかったが。釧網本線も90年代半ばくらいの地点では斜里(知床斜里)〜標茶間
は喫煙可能な区間だったと記憶している。今はもう釧網本線も全線禁煙だが。 というか当時は大都市近郊以外はどこも禁煙可で一緒だろ >>969
> 乗客が私1人の貸切状態の時は、私から「放送を省略していいよ」などと
> 伝える事も多く、実際にその通りにしてくれて、ボックスでタバコを吸いながら
> 世間話に興ずる事もあったが、今だったらバッシングを受けるし、ありえない話だろうね
誰がバッシングするんだ? JR貨物の運転士がくわえタバコで運転している、なんざ写真記事をうPして騒いだ輩もいたが、貨物は運転中の飲食や喫煙もOKなんだよ。
運転席には灰皿も用意されている。 >>973
鉄道どころか観光バス、夜行バスはもちろん
郊外へ向かう路線バスでも喫煙可能だった タバコ売れないと他から税金取るしかないし、
医療費も逆にかさむ様になる 宗谷線の運転士交代後にキハのトイレでタバコ吸っていたな。臭いでバレてた。 朱鞠内の積雪75cm
幌加内の街は晴れていても
政和や添牛内、朱鞠内は雪の日も多い >>984
ニュース見りゃ誰でも知ってるよ雪降ったことなんて
チー牛駒大苫小牧オタ 1両で車掌乗務ってのも前時代的
平成七年あたりを山にして、鉄道に限らず
世の中全体のいろいろなことが
昭和感から平成感へ移行した印象がある。
この話を過去にどこかの板で書き込んだら
賛同してくれた人がいた。
鉄道関係で1つだけ例に出すと
国鉄→JR各社で硬券(乗車券&料金券系を主に)
が終了したのも、ちょうど平成七年あたり。 余談
だから、平成の名残りみたいな雰囲気も
あと数年すれば完全に令和感になると思う。 深名線を知る人も徐々に土に還りだしていることだろう。 なんだかんだでまだ深名線の小駅の駅員だった人で存命の人も多そう。
蕗ノ台、白樺、西名寄の駅員だった人で存命は居ないと思われるが。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 908日 11時間 16分 53秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。