【竿灯】20系固定編成客車スレ04【日本海蔵王】©2ch.net
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20系固定編成客車を真面目に語るスレです
前スレ後半がああいうことになったので
雰囲気一新のためにスレタイの方式を少し変えました 竿灯なんてあったなそういや
板谷末期の写真でも時間的にあんまり出てこない列車ではあるが 向こうのスレの>>13の話題だけど
20系+12系の方式がそれほど多くなかったのは
やはり何らかの事情があったのだろうか >>5
向こうのスレも見たが車両の都合は勿論東日本の場合は寝台列車化が進んでたし
寝台車増減を伴う混雑対策や勾配区間の制限、さらに新幹線開業待ってた都合というのがあるんじゃないか
その後の話になるが津軽は57・11以降の2年半で混雑対策や車両需給の影響を受けて
旧十和田編成の20系→14系座席→14系寝台混結→再度座席のみという変遷たどるし 80年代に入ってから追加で併結改造しても
あとどのくらい使えるか‥を考えたら
12系(14系座席車)+14系混結でいいやん、と考えたんじゃない?
ところでRMM増刊の「20系客車」を買ったヤツはいるかな? >>6
津軽はさらに583系座席→485系座席→583座席で臨時化で
583系座席→583系座席+寝台というスタイルになっていって
おがも20系になって結構後に臨時化されて
その時に20系寝台のみになって
その後14系座席+24系寝台になった >>6
越前と妙高は碓氷峠の関係が関係してそう
あときたぐには14系や583系の時にも連結される
ほど需要のあるA寝台の問題があったのでは 1000・2000番台の改造が始まる前の1976年時点でナロネ21は100/150番台で6両、500/550番台で6両が余剰廃車
1000・2000番台の改造とほぼ同時期の1977〜79年にナロネ21のうち16両をナハ21へ改造
当時のナロネ21の活用状況を見るとA寝台需要が1000・2000番台化のネックだったとは到底考えられないのでは >>10
ロネを連結するほどの寝台需要があるなら20系+12系にすることもないと判断しただろうし
その上で>6や>7のような線区や寿命を勘案してという感じかな >>11
1978年6月号に20系の格下げ使用の方式について次の3パターンに分けられるとの記述があった
全車20系寝台車で組成する「銀河」方式
余剰のナロネ21を座席車に改造したナハ21を組み込んだ全車20系で組成する「十和田」方式
寝台車の比率が低いため12系と20系の混結で組成する「かいもん・日南」方式
1978年10月改正では、寝台車の連結両数が多い「だいせん2・3号」は「十和田」方式で、寝台車の両数が少ない
「さんべ」と「ちくま」は12系との混結方式で近代化される予定との記述もあった
12系混結用の20系の連結両数は、スハフ12の給電能力の関係からスハフ1両あたり最大3両までだったはず >>12
確か12系から給電するのは3両までで
どれも3両以内に収めているから
他に担当できる列車があまりなかったとも言える カニ21の中にはカヤ21にするために保留車扱いにされた車両もあったはず 未改造の中でも26、27なんて1970年9月落成なのに
下関あさかぜ→あけぼの→運用離脱→1985年11月廃車で実働10年
不憫すぎる >>15
ここのグループをすべてカヤ化しても良かったのに >>16
そういうことはお前ん家のNゲージでやってろ ところで20系臨時特急が臨時急行化になった時どう思ったの? 客車のキモチ?
臨時特急がお時間そのままで臨時急行化したのは、旧型3段寝台では寝台料金ボッタクリだからと寝台料金は下げずに急行化で実質値下げをする
為だけど。 見てる側としては時代の流れ的に妥当だと思ったよ
寝台幅52cmって一般的な寝具の半分の幅しかない訳だし 20系は座席→寝台や寝台→座席の改造はあるけど
寝台同士の改造はほとんどないんだな(A→B B→Aのような) 今考えると12年に渡って製造され続けたってのに驚くよね
1970年は大阪万博で輸送需要が高かったからかな >>25
12年といっても、社会環境が大幅に変わった時代の12年だからな、当初の設計がいかに時代に先行していたかと。
製造開始時は山陽本線ですら満足に電化されていない時代、輸送の主力は蒸気機関車、
客車の車内も多くは白熱灯照明ニス塗り車内の薄暗いもの、そんな中で20系ブルートレインは別世界の乗り物だった。
さすがに最終増備期では何かと陳腐化した部分が出てたな。
43.10対応分あたりで新系列に移行していれば、と思う事があるが、やっぱ無理だったんだろうなぁ・・・ 昭和47年頃、向日町運転所に撮影に行ったんだけど(当時小学生)
なぜか「日本海」も「つるぎ」もナハネフ23が最後尾だった。
珍しい車両が撮影出来て子供心に嬉しかったが、
今考えると分割もないのになぜって疑問が湧いてくる。
事情通の方がいたら教えてください。 さくらの最後尾が切妻(形式は憶えてない)になっている東京駅での写真をどっかのサイトで見た気がする。
時々そんなことがあったのだろう。 余ってきた頃は、ナハネフ22よりは23の方が使い勝手がいいから優先的に使われたんだろう。
末期のおがなんかはカニの次位と最後尾に使ってたしな。
東は23しか持ってなかったっけ
22は最後尾限定だが23は中間もOKだからな。
編成がナハネ、ナハネフオンリーになって車掌室が後ろにしかないのは不便だしな >>25
20系客車が登場した1958年当時、一般家庭どころかオフィスなどでもエアコンが普及する前、
1970年でも10%以上も普及していない。当時エアコンがある家はお金持ちの家だけだ
そういうわけで少なくとも家庭用エアコンが普及していない時代なら20系の設計は通用した 「つるぎ」の運転開始は1972年10月、当時は青森の20系で運転
この時点の青森運転所配置の20系緩急車
ナハネフ20 2・3・4
ナハネフ21 1・3・4
ナハネフ22 1・19・20・504・505
ナハネフ23 15・16・17
使用車種は「日本海」「つるぎ」がナハネフ20/21、「ゆうづる」2往復がナハネフ22、「あけぼの」がナハネフ23 ナハネフ20/21はナハネフ22/23より定員が少ないため運用は完全に別になってた
定員の多いナハネフ22/23が、ナハネフ20/21の代わりに「日本海」「つるぎ」へ充当されたことがもしかして
あったのかもしれないが、ナハネフ20/21が6両中4両使用なので代走はほぼなかったのではないか
となると>>28が見たのは「ナハネフ23」ではなく「ナハネフ21」ということになる >>35>>36
付け加えれば昭和47年7月品川区20系編成統一の為あけぼの8号車のナハネフ23(15〜17)が品川区へ瀬戸7号車のナハネフ21(51〜53)が青森区へ振替転属している。 >>14
カニ21 14ですね。ゆうづる24系化の後に盛アオで長い間保留になっててカニのまま北オク転属になったけど改造されないまま廃車になってしまった。 当時は「あけぼの」需要よりも宇高連絡需要のほうがはるかに高かったということだな >>36
分析ありがと。
小学生やったからナハネフ23と21の違いも知らんかったわ。 西鉄ライオンズのナインが日本シリーズで巨人に勝った時に
福岡へ帰る「あさかぜ」の車中で祝杯をあげて
食堂車のビールを全部飲んでしまった、という話を聞いた事がある >>30
予備車が少なかったからですね。あさかぜ・さくら・はやぶさ・みずほの4特急が出揃った時点で品川区ナハフ20が8輌使用で予備1輌、昭和47年3月の新幹線岡山開業後の時点でナハネフ22が12輌使用で予備2輌でギリギリだったから〜 >>39
あくまでも南シナ20系の編成統一,合理化が狙いで、あさかぜを除く他の列車のF号車をナハネフ23に統一して列車遅延時の振替運用を容易に出来るようにした次第。結果的にナロネ22があさかぜに集約されてこの時俗に言う殿様あさかぜの出現となりました。 >>44
このナロネ22は殿様あさかぜに連結される前ははやぶさとあかつきに連結されていたんだよな
ちなみにあかつきにA寝台個室が再び連結されるようになるのは
出雲3.2号のシングルデラックスが転用された時までかかった 結局定員の多いナハネフ23を需要の多い列車を担当している品川へ集約したってことですね 合理化ってのは国鉄のやりたいことを実現した結果であって、根本的に楽したい組合の要求を呑んだ結果では
ありません >>47
最近は勘違いした労組が多いこと多いこと…
日本海側の寝台は新潟の労組だか支社に
潰されたってのが通説だし… >>48
実際、労働環境改善に深夜勤務廃止ってあったからな プレミア見れない
ブンデス見れない
CLEL見れない
週刊誌でヌケねえちきしょう
同和のクズ共死ねクソ共がざまあみろ気違い共
ほれ気違い共もっともっとドア閉めろ通れ
それしか能のない能無し共がざまあみろ地獄に落ちろ >>42
20系「あさかぜ」をはじめとした寝台特急はプロ野球西鉄ライオンズの関係者の利用が利用機会が異様に多かった模様。
用途は長期遠征用。特に東京への移動は100%確実に「あさかぜ」や「はやぶさ」での移動だったようだ。
ちなみに関西遠征のときには特急「かもめ」での移動が多かったという
つまり、プロ野球選手はシーズン中はずっと超遠距離通勤。特に一番西の端っこの西鉄ライオンズが過酷だった。
今でこそ、選手は新幹線や飛行機が使えるが、
かつてのプロ野球選手の長期遠征は鉄ヲタでもやりたくないレベルのハードさだった。
関東で試合の後は関西で試合をしそれから福岡へ帰還、という日程の繰り返しをしていたようだ。
しかも寝台車に乗れたのは監督と一部の選手数名だけで、それ以外は普通車だったそうだ。
特にかつての西鉄ライオンズは福岡が本拠地だったから、1度遠征に出れば、最低2週間は旅暮らし。長いときは20日間も続いた。
だから西鉄の選手の引退の理由には「遠征の体力が続かなかった」という人が意外と 多い。
↓は当時の話。
http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=011-20130708-01
http://dk4130523.hatenablog.com/entry/2014/10/29/011701
http://ameblo.jp/yonehashi-k-office/entry-11805138110.html
http://fcmuseum-arima.blogspot.jp/2016_08_01_archive.html
http://ameblo.jp/yonehashi-k-office/theme-10080173184.html
ちなみに、当時の西鉄の選手は、食堂車では絶対にアルコールを飲んでいた。
理由は起きていたら疲れるため、何が何でも寝るためには酒の力が必要だった。 連敗した西鉄は、その日の夜行列車で福岡へ戻る。ジャイアンツの選手たちも同じ汽車に乗っている。
汽車に乗り込むなり、食堂車を占拠したのは西鉄ライオンズの選手たちだった。ビール、ウイスキー、日本酒……飲みたいだけ飲み、かつ、食った。
藤本(引用者注:藤本哲男さん)のところに特急列車の乗務員がやってきた。
「もう、食堂車は閉めなければなりません」
「……」
「この列車に積み込んだ酒、食料を全部たいらげちゃったんですよ、ライオンズの選手たちが」
車掌がそういうのだった。
そして、藤本は当時の金で5万数千円の請求書をつきつけられたという。
昭和33年の日本シリーズで2連敗した西鉄は飲みまくったにもかかわらず3連敗した。厄落としには食堂車では足りなかったらしい。そこで、もっと飲んだ。すると4連勝した。
「景気付けに俺たちが中洲で飲んでやったからだ」筋金入りの西鉄ファンは、いまでもそう信じている…らしい。 20系のさくらは長崎編成と佐世保編成が最初は逆だったんだよな >>57
佐世保編成が基本編成だったことがあったな。
東京発のころの「雲仙・西海」も佐世保編成が基本編成だった時代があったと思う。
41年10月改正時は、「さくら」は長崎編成が基本編成、「雲仙・西海」は荷物車を含む前半分が佐世保行、
後半が長崎行で、食堂車は後半の長崎編成に連結していた。
ただ「さくら」の場合、基本編成がカニ・ナロネ22・ナロ20・ナシ20×1にナハネ×3とナハネフ×1、
付属編成がナロネ21×1・ナハネ×5にナハネフ×1と、付属編成のほうが総定員が多かった(41.10時点)。 >>36
ナハネフ20/21とナハネフ22/23は別運用だったけど
14系と24系の14形と24形の2段ハネ車も15形と25形の
2段ハネ車と別運用組と同一運用組に分かれていたな カニ22は64トンとか異常に重いどころか停車中に大量の電力を吸い取るために架線溶断事故多発した?
EV-E301系でも停車中の大電力対策で充電箇所は剛体架線にしてる 2基のMG回すのにそんなに
電気吸うのかな?
それ考えるとMGって無駄な電気
食ってたんだな…と思わされる カニ22と言えば新幹線博多開業前の昭和49年の夏頃から次々と検査切れで休廃車となるマヤ20に変わってはやぶさ.あかつき1.7号の長崎編成の電源車として同年春に彗星の24系化に伴う余剰車を使って50.3改正直前まで運用されていたのは一般にあまり知られていない >>61
カニ22は直流電化区間では架線から給電、交流電化区間や非電化区間ではディーゼル発電機で動かすことで
経済性とディーゼル発電機の運転騒音の減少を図った車輛です。
当初は“はやぶさ”に使用する計画だったようですが・・・。
しかし、重量が50t強と重たかったため、最高速度で走れるのは東海道本線・山陽本線・鹿児島本線熊本以北だけという致命的な弱点や
下関でエンジンを入れたり切ったりパンタグラフを上げたり下げたりと面倒な作業があったことから、
二種類の電源を積むよりも一種類の方が運転途中の面倒な切り替えが不要で重量が軽くて済むので
両区間に対応できるディーゼル発電方式に一本化されたのです。
カニ22ももっと小型、軽量化が図れていれば、あれほど早期に当初の目的を断念して引退することも無かったでしょうけど。 >重量が50t強と重たかった
そんなに軽くないんですけどね。ED74とほとんど変わらないという 但し カニ22 51だけはMG関係の機器を極力省略してマニ20の予備としてはやぶさの運用に回せる処置をしていました。 マヤ20に代わり長崎区に貸出されたカニ22は2.3.51.53の4輌。その後2.53は50.3ダイヤ改正向けにカニ25に改造されて長崎区に残り3.51は青森区に所属復帰している。 >>67
今まで漠然としてて意識してなかったけど
全備重量がD型電機に匹敵する客車ってスゲェよな 今の技術でカニ22作ったら
軽くなる上に
性能も高くなるんだろうな
でももう客車は新造されないんだろうな…orz 瀬戸にパンタ付きのラウンジカーあったな
SIVのやつ >>65
のちのスハ25は直流区間限定だったからな
そもそもスハ25の登場した理由が宮原にカニを回すのも理由の一つだった カニ22と云えば昭和51年10月のゆうづるの24系化の時にてっきり廃車になると思われたカニ22 1が盛アオから北オクに転属になり北陸.北星に使われることになった。上野駅で北陸のカニ22 1に出くわしたが北陸のバックサインを見て似合わない感じだった。 朝日新聞朝刊の連載小説吉田修一の国宝で、主人公が長崎から大阪に行く列車でさくらが使われた。
時代は昭和40年代初頭なので20系なのは間違いないが、文章も束芋の挿し絵も二段寝台。
物事が伝わらなくなるってこんなことなのかと思った。 坂道のアポロンもツッコミ所が多かったな
ちゃんと20系描こうとしてる姿勢は買うけどさ GW最終日。昔なら春季あさかぜ51号が運転されていた時期だ。新幹線博多開業前各区からの寄せ集めで組成されて春夏冬と運転されていたが毎回どんな編成か楽しみだった。日頃見掛けないマニ20カニ22やナハネフ20ナハネフ21等が来ると嬉しかったものだった。 >>64
マヤ20は改正直前には運用に入っていなかったみたいだな 20系は文字マークと絵入りマークどっちも似合っていた 昔は食堂車もタバコ吸い放題だったから
煙でもうもうだったナシ20 s昭和45年まで増備されたのに
昭和46年には寝台幅が70cmになり
昭和49年には二段B寝台が登場しちゃうんだよな >>86
昭和30年代の20系、特に「あさかぜ」は「動く最高級ホテル」といっても大げさではなかった。
なにしろナロネ・ナロの利用者は政財界の大物や有名芸能人・プロスポーツ選手のどれかだったんだから
普通車とは明らかに客層が違う
そして20系は昭和30年代が黄金時代だったが・・・。
新幹線がない・飛行機も未発達だけでなく、1958年11月当時、高速道路までも日本にはまだ存在しない。 日本の道路の舗装化はかなり遅れていた。
なにしろ当時の日本は貧乏国だったのと、日本の道路は欧米諸国と異なり、馬車交通等を経なかったため、著しく遅れていた。
そのため当時の道路事情は主要国道でさえ、舗装されている区間は非常に少なかった。
昭和33年の舗装率は国道27.3%、都道府県道4.3%、市町村道0.6%、全体で1.7%。あとはすべて未舗装だった。
舗装区間が劇的に増加するのは昭和40年以降の話
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/image/hpaa196201/fb4.17.9.gif
http://www.npa.go.jp/hakusyo/s48/s480600.html
http://www.taikasha.com/doko/chapt33.htm
ちなみに「首都高速道路」京橋 - 芝浦間の開業は1962年12月20日、「名神高速道路」栗東IC - 尼崎IC間の開業は1963年7月16日である。 >>90
万年Bクラスのプロ野球チームはB寝台で移動だった >>91
新幹線とまって在来線の座席車で移動した
某チームあったろw >>84
マヤ20は昭和49年中に全て運用離脱。改正前まではカニ22ではやふさ、あかつき1、7号に運用された。 >>86>>88
ヨン・サン・トウ辺り迄が全盛期と言えるだろう。ヨン・サン・トウでは電車寝台が本格的に進出、14系寝台登場迄の主体になる。段々20系の寝台幅への風当たりが強くなってくる。 電気機関車EXに載ってるがEF58代走牽引で元空気ダメ引き通しがなく空気ばねパンク状態で運行させたって今じゃ考えられない
碓氷峠なら兎も角平坦線ではストップゴムで支える格好になってゴツゴツする上にブレーキ増圧が使えず95キロ制限だった?
現代のボルスタレス台車は空気ばね破裂に備えて内部に摺動部があるとはいえこういった運転は不可能 カニ22だけど、登場時期が門司〜博多が電化の後で、尚且つその区間が直流電化だったら、
電動発電機だけの搭載で「あさかぜ」用として活躍できたかも知れん。 >>96
MR管引き通しも
増圧機能やブレーキ電磁指令機能がなければ
(早い話がBPのみ)
速度制限はもっと遅かったはず ナシ20の日車製、サイドの間接照明がいいな。オシ14がデビューして
旧来のファンがその簡素化に嘆いたのも解かる希ガス。。
steam.fan.coocan.jp/train/20.htm ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています