【竿灯】20系固定編成客車スレ04【日本海蔵王】©2ch.net
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20系固定編成客車を真面目に語るスレです
前スレ後半がああいうことになったので
雰囲気一新のためにスレタイの方式を少し変えました >>100
ただ、ナシ20でも後期型になるとFRP製の椅子、窓上照明の廃止、片持ち式のテーブル、
調理室の外吊りドアなど、横引きカーテン以外は簡素化の傾向が強くなってるけどな。 >>97
151系が、編成給電用の電動発電機を両端の制御車に一基ずつ、
尚且つ食堂車にも専用の小型発電機を一基を積んで、
全てを稼動させても、架線を溶かすほどまでにならなかったのは、
編成にパンタグラフが六基あって集電を分散できたから?
カニ22は、151系より長い編成への給電をパンタ二基による集電で
賄おうしたのが無茶だったのだろうか? >>100
オシ14の内装を星空バーかレトロバータイプにすればよかったかも >>103
俺、電気的なこと機械的なことは全く無知なんで、ご教授願えるかな?
なぜ151系だと架線が溶けず、カニ22では溶けたのか? >>105
パンタの数じゃないかな
少なければそれだけ電流が集中するから… >>102 >>105
元々MGはたいした容量じゃないから。まぁカニ22のMGの容量知らないけど
DGと同じなら250kVAかな。2基で500kVA
66は3990kW、カニ22の容量で架線切れるなら、66は発車の度に架線切るよ
架線切れたのは別の要因でしょ。雨の日の長時間抑止って過去ログにあったような
その頃だと蒸機も混在しててススが架線について、それが原因で架線切れたりパンタ壊してたらしいね 貝塚公園のナハネフ22、大丈夫か。
目標金額まで、全然募金が届かないようだが・・・
https://greenfunding.jp/lab/projects/1726 だから福岡市役所にナハネフ22は鉄道記念館に
収容してもらえるように、
朽ちてからでは取り返しがつかないので早く
交渉したほうがいい…と忠告したのに… ナロネ20は、一人用ルーメットと、二人用区分室じゃなくて、
ルーメットにして、室内をサンライズのシングルツイン風にすれば良かったのに
と思うことがある。 >>112
それだと洗面台のスペースが取れないのでは? そもそも「はやぶさ」用に製造された蟹なのに重量オーバー
って八代以南も鹿児島本線なんですけど
ながさき本線より規格が下って何なの? >>114
熊本より南は輸送量落ちたというのもあるがその乙線規格でも上等な部類になってしまったからな1950年代までは
(軸重16tの車両自体は乙線扱いを補強して入線させたり甲線でも入線しなかったりの例でアレだが)
カニ22に関しては実態として製造の名義がはやぶさ用だったと捉えるのが妥当かと… はやぶさで試運転までやったけど、結果適さないということで、さくら向けにしたんだよ 前にも書いたけどカニ22 51は後にMG関連の機器を極力降ろしてマニ20の予備として使えるようにしたんだ。 >>110
貝塚公園のナハネフ22 1007、十数年前に車内に入ったが歩くとやたらミシミシ音がする台枠など腐食してるだろうしクレーンで上げると崩れるのではないか? 元九州朝日包装の市長は優秀だからな、気持ちは解るけど >>122
血液型A型ですか?
「皮肉」って言葉を御存じですか? >>114
何せ東京〜西鹿児島のロングランだし、電化区間で電動発電できれば、
軽油の節約にもなるしって発想も当時の国鉄あったんじゃないかな?
そんで作ってはみたもののっていう >>125
そそ
直流架線下では経済的
だけど、車重が重すぎて、かつ荷室も小さすぎたから6両のみで終了 昭和30年代の車両は、
発想と当時のテックレベルが
マッチして無かった物もあるんだよね
今の技術で作れば実用的な物に
なるんだろうけど、
当時の技術だとあれが精一杯
だったんだよね… 現代ならカニにバッテリーと回生ブレーキとインバーターと直噴EGで武装だろうか 20系客車は鋳鉄制輪子でありながら増圧することで110キロ対応にしたが長距離走行も相まってブレーキシューの摩耗が半端じゃないくらい凄くて頻繁に交換しなければいけなかった?
レジン化は最後まで行われなかった
12系客車からレジンにすることで増圧しなくても110キロ運転可能になった >>129
その替わりフラットに悩まされることになったが… >>128
回生ブレーキは台車にモーター
組まないとならんから
某社の幽霊カニになるな…
E27のカハフの発電機セットは
エンジンが500kW×2で
しかもかなり背が低く作られてるから
片側に二弾重ねにして
空いた空間に交直流対応の
SIVセット積めば
(25000V対応なら)青函トンネル含め
非電化区間含め日本全国行けますよね カニ22の様に発電機と荷物室を一つの車両に詰め込むんじゃなくて、
電源車と荷物車で分離して運用・・・・ってことも考えた上で
結局、当時の国鉄はカニ22を造ったんだろうなあ。
以下、完全に俺の妄想だが・・・。
荷物車(マニ21)は他の20系客車と一緒に東京〜九州を走破。
電源車の方は、直流電化区間と非電化(または交流電化)で交替。
・東京〜当時の直流区間の西端駅:電動発電機とパンタグラフを搭載した電源車マヤ20(仮)
・上記の西端駅〜九州島内:旧客改造の電源車マヤ21(仮)
・・・なんて運用になってたら趣味としては面白かったと思う。 >>132
マヤ20は蒸気牽引の九州島内
走行しか考慮していないから
足回りも旧客のままだったし
(イレギュラーで東京まで来たこともあるみたいだが)
本格的に東京まで回してくるなら
足回りとかも改造しないと
だめだろうな… >>132
東海道・山陽線内用でMGの電源車そのものは比較検討されたものの
下関構内の入換作業複雑化、荷物載せ替えと時間伸ばす要素にもなるんで没にされた
(仮に電源車と荷物車分離したら編成がさらに伸びかねないし客室側を合造にするのもね…)
もっとも星氏や卯ノ木氏の回想なり当人が記したもの見てもカニ22計画は島技師長が特に推し進めた辺りでまあ >>132-133
マヤ20ができたのは「みずほ」大分行き、「さくら」佐世保行きができたのがきっかけ
20系は固定編成客車ですので、分割してしまうと電源車の無い大分方面行きは
何らかの方法がないと冷房もなにも使えない状態になってしまいます。
そこで製作されたのが旧型客車オハシ30形から改造したマヤ20と呼ばれる簡易電源車。
なぜ「簡易」なのかというと、分割後の短編成の電源がまかなえれば十分なので、
発電機の能力を本務用の半分程度にしているためだ。
特に20系運用時、九州側の車両基地に予備車が1両も無かったことなどから、
関係者の中では、ディーゼルエンジン故障のリスクがある電源車が不足することに対する危機感は相当なものがあった。
なにしろ当時の日本のディーゼルエンジン技術がカスだったのに、無理して国産技術のものにしたからね・・・。
マヤ20は全車両に電力を供給することが可能なカニ21、カニ22、マニ20に比べたら
半編成分くらいしかサポートできず、足回りがTR23のままのポンコツなので高速運転には適しないという構造であったが、
関係者の間では、「予備車がある」という安心感を得たそうである。 中途半端な知ったかでドヤ顔かよ
後はチラシの裏にでも書いてろ まあ20系に限った話じゃないが、九州ブルトレとか途中駅で切り離される付属編成って、
折り返しの間、整備で電源が必要な場合ってどうしてたんだろ?
留置線の脇とかに発電機があって、そういうのから給電してたのかな?
あと基本編成と連結しても空調はすぐに効く訳じゃないから、
発車して暫くは、夏は暑くて、冬は寒かったんだろうなあ。 >>137
その通り、九州側の各客車区には20系用のH型制動試験機があるだけ。はやぶさ.みずほの付属編成が博多落としだった時に経験したけど基本編成に連結してやっと室内灯がついて空調が効きはじめる。 >>135
昭和40年(1965)10月から門司(客)にカニ22 51を緊急時の予備車で置いてたよ。門司(客)の鹿児島本線上り線側の最端にいつも留まってたね、ヨンサントウで大ムコに行っちゃったけど。 >>135
24系でカニ25が出来たのも分割併合のため >>140
でもカニ25はマヤ20と違って本務電源車としても使ってたな。
25形編成にカニ25が繋がってたのはなかなかシュールだったね。 北斗星に50系改造の電源車あったけど
余ってなかったんかな
時期的に >>137
20系化直後のさくらは付属編成の空調を博多の構内で予冷(予熱)していたという
記述を見た覚えがあるが何にあったか思い出せない >>142
J東とJ西の波動用に残ってただけで北斗星に回せるのは無かった。 >>146
考えられるのは
地上電源があった
位では? >>144
24系の電源車自体が余裕がなかったからな
スハ25も電源車の捻出が絡んでいた >>150
ナハネ20…102.105.121.139.142.216.219.227.229.230.233.234.236.238.239.247.301.302.304.305.362。 ナハネフ22…14.17.25。 ナハネフ23…3。 >>91
昭和30年代の西鉄ライオンズはナロネとナハネに乗れたのは監督・翌日の登板するエース投手、4番打者のスタメン入り選手だけ、
それ以外のベンチ入り補欠選手は、20系の3等座席車で列車の床に新聞紙を敷いて寝ていた。 >>152
レギュラーの野手も四番以外は座席車かよ… >>153
大体特急は指定が基本で特定特急券すら出てない時代じゃないか九州特急にハザがあった頃は >>154
補欠含めて40人移動するんだから40人中寝台で寝れるには9人、あとは座席車というのは妥当だろう
寝れるのはチーム内のランクが上がってから >>157
あちこちに貼るのはいいけど
ブルトレ(客室)は再開しないんじゃねえの?
前回の管理者は開始当初、解説ページまで作ってブルトレをものすごく売り出してたけど、
先にブルトレだけ供用中止にしてしまったくらいだもの。 >>160
ナハネ20営業再開しないんじゃ、関ロッジ再開する意味ないじゃん! うん。
だから、営業再開って貼りまくってる人
ブルトレ供用再開可否の確認もせずに
意味ねえのにな、って言いたかったのよ あくまで単なる宿泊施設としては
旧東海道関宿に位置してるから、そういう方面では利用あるらしい
(それでも赤字だったみたいだけど)
俺らが価値を感じる部分は
まったく貴方のいうとおりで
20系宿泊だけど。 でも今どき宿泊場所の設備としてあの狭いベッドが通用するのか、という問題はある
実際現地で見てから普通の部屋に変えてもらう客もいたということだし 寝台幅52センチは夜行バスと同じくらいか
ルーメットはA寝台より高く北斗星のロイヤルに匹敵するかと思いきや部屋が狭かった(座席の背もたれを倒すとベッドになる)上に高いってw
現在の水準ではあの設備ではB寝台扱いにして安価にするはず >>166
夜行のハザで一夜明かすこと思えば
三段52センチでも快適 >>165
多分専有面積はトワイライトとかの
シングルツインとほぼ同じだと思う >>165
ルーメットの狭い空間の中でゆったり感を感じさせた設計は高く評価されるべきだろう。寝台をたたんだ後の座席の掛心地の良さはなんともいえなかった。 >>165
大体1960年頃にルーメットに乗るのは今でいえば国際線ファーストクラスに乗るような感覚。
1等寝台個室など、選ばれた階層の人しか乗ることが許されなかった時代だったからな。
55年前は皇族・旧華族・大臣・高級官僚・大企業経営者・大物芸能人といった面々しか乗れなかった。 そういった現代脳で苦言されてもな。
168も言ってるとおり、便利や快適になってからの現代世界で物心ついた奴が、
前時代のことを現代視点のままで語るほどバカらしいことはない。それでも謙虚ならば救いようもあるが、ユトリにはそんな自覚すらもない。 >>168
167までのやりとりに対しての反応がズレてる。
まず、そもそもがブルトレの話だろが。
関ロッジという宿泊施設は全てブルトレではないんだが?
あんたのいう面は、ブルトレ希望の宿泊客に対しては宿泊可能だった当時は予約時にいちいち予約客に確認してるし >>171
そこまでルーメットをあげつらう事もないだろう。 >>175
ちゃんと時代背景を踏まえて話してるだろ
東海道新幹線が開業してからは世の中が急速に変化してく訳だしね >>165
>>172
なにもしらないくせに偉そうなこと言うな、厨房
行間から滲み出る雰囲気からすれば
お前、10代だろ??いいこと教えてやる。
昭和30年代のことは近代史・現代史だからな、大学試験で出るぞ
昭和30年代の出来事くらい知らないと、試験で落ちるぞ 20系が出た昭和30年代のこと知らないで語る奴がいるとは・・・
まあ無理はない。今から半世紀以上昔、日本がまだ高速道路なんて無い貧乏国であり、
ソビエト連邦が巨大な共産主義イデオロギーモンスターだった時代だからな >>171
平民だけど昭和37年にはやぶさのルーメットに乗らせていただいた。 便利で快適になったのは確かだが、
あふれる乗客を捌くために様々な
列車が車両をかき集めて目一杯の
ダイヤで運行を確保する。
そんな熱い時代が懐かしい。 開放A寝台の居住性や設備ってナロネ21とのちのオロネ14や24とそれほど違いはなかったのか? >>183
冬季は座席下のヒーターの熱がこもって下段は暑かったな。その後の車両は知らん。 >>183
寝台使用時は特段の変わりはない。昼間の座席状態で言えばオロネ14.24は寝台の昇降装置があるので各席に仕切りある。その点オロネ10.ナロネ21は仕切りを完全にたたんであるので開放感がある。 >>185
オロネ10.ナロネ21も上段跳ね上げ時の上段寝台の幅分の仕切りは残ってたわな まあ細かい違いにこだわれば色々と切り口はありますな。。w
ただ、プルマン式の仕様ってそれほど形式によってブレる訳でなく
寝台車の歴史を正統に引き継いできたyね。 >>188
プルマン式はレール方向に寝れるのが何より。特に鉄にとっては(笑) >>165
Q:20系客車がなぜ「動くホテル」「走るホテル」なんですか?
実車を大宮の鉄道博物館で見たんですが、相当にベッドは狭そうでそれも三段です。
特に一番上は這って入るのがやっとのように見えますけど・・・・・。
A:今でこそ、カプセルホテルよりも陳腐な設備ですが、この20系客車が登場したのは1958年です。
1958年11月当時、冷暖房があるホテルや旅館はあったことはあったんですが
「帝国ホテル」レベルの 最高級グレードのホテルや最高級旅館のみに限定されていました。
当時、家庭用エアコンなんて影も形も無かった。職場にも冷房が存在しないのが当たり前です。
企業でも冷房を設置してるところは極めて珍しく、 この頃冷暖房が入っているのは
大都市の映画館、銀行、デパートくらいなものでした。 一般家庭では扇風機があれば良い方であった
昭和33年当時は路線バスでも冷房がついていないのが普通。
自家用車でも冷房付きなんて輸入したアメリカ車だけ、しかも1ドル=360年の時代に
40%という強烈に高額な関税が設定されていた時代だったのです。
当時の特急列車の多くは3等車は扇風機で涼み、展望車・2等車と食堂車だけ冷暖房付きなんてのはザラでした。
出張族でも、昭和30年代は特急料金と寝台料金を会社が出してくれるのは社長・重役クラスだけでしたし・・・。
事実上乗れたのは政財界の大物や有名芸能人・プロスポーツ選手・超一流芸能人といった面々しか乗れなかった。
大抵の一般庶民は、冷房が無い旧型客車で長距離を移動するのが当たり前だったのである。
昭和30年代の人達から見れば、20系客車誕生は「四季島」「ななつ星」「瑞風」クラスの車両が登場した以上に衝撃的だったのです。
なお、昭和33年当時の物価は大卒初任給 約13000〜14000円、かけそば1杯 25円、牛乳180cc 14円、生ビール1杯 80円
当時の3000円は約55000円相当です
こういった時代に2000円以上の出費は目の玉が飛び出るほど高額でした >>189
寝台列車乗ったらビールやら楽しんでから就くことが多かったが
胃の中の液体の揺れ方はプルマン式(レール方向に横になる)のほうが圧倒的に不快だったな。 簡易電源車マヤ20と佐世保さくら編成や大分みずほ編成に萌える今日この頃
後期に製造されたカニ21は、両端切妻、車幅は旧型客車と同様の裾絞りナシ、
・・・という実用一点張りな外観にして欲しかったぞ、と。 ↓の基地外はどう見ても>>194だな
446 名前:回想774列車[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 20:38:07.38 ID:oqGOAbEE
>>317
一応は特急用だし電源車は必要だろw
オハネフ両端に車掌室なら、ただカニ24の100番台も、
もう他の24系と外観を合わせず、両端切妻、車幅は50系客車と同様の裾絞りナシ、
塗装は青20号で帯ナシ・・・という実用一点張りな外観が良かったなw
パッと見には「あれ?ブルトレにマニ50が連結されてる?」と勘違いさせる様な
マヤ20を連結した佐世保さくらを彷彿させる様な編成を見せて欲しかったw
まあ編成美に拘るヲタには大不評だったろうがなw 20系の全長(カニを除く)は何メートルですか?
あと鉄道模型NゲージのKATOの20系はスケールモデル(140分の1?)ですか?
どうもKATOの20系は全長が短いように感じますが >>198
実車長は連結面間で20.5m
模型の大きさに関しては
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