青函連絡船5便 [転載禁止]©2ch.net
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
>>848
青森桟橋の待合室は夜通しいることができて、長椅子で寝て泊まれた。
函館桟橋の待合室は、2便が出ると追い出された。
>>849
函館の待合室は、終航後まもなく解体された。その後摩周丸の公開にあわせて
ちゃちな商業施設が作られ、それがつぶれて解体された。 >>851
最終はつかりは1便接続案内の後に、
『奥羽線、弘前大館秋田方面は今夜の接続はございません、明朝4:50特急白鳥号大阪行きまでお待ちください』
さらに『待ち合わせ時間がございますので連絡船待合室にてお待ちください』というスケールの大きな(?)放送に感動した記憶がある。
あぁ、青森駅は眠らない場所なのだと。 > あぁ、青森駅は眠らない場所なのだと。
直リンしちゃう
https://youtu.be/aIX_c2ABXKM 青森駅の凋落ぶりは酷い
県内ではマシな方なのかも知れないが 函館は連絡船待合室の脇に駅構内を通らず直接連絡船に行ける改札口があった。
出札では入場券も売っていた。青森はどうだったか忘れた。 青森桟橋の待合室は、ホームのいちばん奥の階段を上がった先にあって、
個別の改札などはなかった。
夜中に改札外に出ようとしたことはなかったが、出入りできなかったのでは
ないだろうか?
函館桟橋の改札も、晩年には廃止された。 003
005
020
この時刻みるとなんとなく懐かしく感じる
一番上は連絡船と違うが >>858
函館桟橋の改札廃止はS62.2.1。
その後は、本駅改札のうち正面から見て左横(みかどの前)の改札が
使われていたのではないか? >>857
00:10 00:35
00:15 00:40 青森は列車が着く度にホームからの階段上跨線橋で検札やってた 高校時代は東北ワイド周遊券を使って夜行列車の仮眠で10日間の旅をしたけど
当時は東北ワイド周遊券・B券自由周遊区間内(郡山⇔青森・平⇔青森)で利用可能な
夜行も多かったから仮眠時間が少ない青函連絡船より青森桟橋の青函航路待合室の
長椅子で寝る事が多かった。
下り八甲田(郡山22:32→06:17青森)
上り八甲田(青森00:03→07:27郡山)
下り十和田3号(平22:28→9:07青森)
下り十和田5号(平1:13→11:41青森)
上り十和田4号(青森19:52→4:11平)
下り津軽1号(郡山23:03→9:10青森)
下り津軽4号(青森20:35→6:41郡山) >>801
改造したのは川重でなく三菱横浜ね。
元船長のK山さんが監督役で立ち会ってた。 名物焼きそば「急行」閉店 88歳店主、厨房で倒れ死去
6/4(日) 10:23配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170604-00000015-asahi-soci
北海道のJR・道南いさりび鉄道木古内駅そばにあった老舗食堂「駅前飯店急行」の店主垣内キミさんが5月、亡くなった。
直前まで名物の焼きそばを作り続け、厨房(ちゅうぼう)で倒れた。旧国鉄時代や昨年春の北海道新幹線開通など、
木古内のまちの移り変わりを見守った88年の生涯だった。約60年続いた食堂は、垣内さんの死去とともに幕を閉じた。
「駅前飯店急行」は、垣内さんが作る和風味の焼きそばが名物だった。2013年夏までは、JR木古内駅のすぐ前で
開店当時の古い店舗で親しまれてきた。北海道新幹線開業に伴う駅前再開発で立ち退き、同年10月から数百メートル離れた場所に
移転して営業を続けていた。
垣内さんが倒れたのは5月16日。夕刊を読み、午後5時ごろにやってきた男性客に焼きそばを作ったあと「背中が痛い」と言って、
厨房にある丸いすに腰を下ろした。毎日手伝いに来ていた知内町の宮西容子さん(62)に「水が飲みたい」と頼んだ。
宮西さんが湯飲みを取ろうと振り向くと、いすから崩れ落ちるように倒れていたという。
すぐに救急車を呼びドクターヘリで函館の病院に運ばれたが、午後8時過ぎ息を引き取った。大動脈瘤(りゅう)破裂だった。
道東の浜中町出身。旧国鉄時代、松前線と江差線の分岐点だった木古内駅前で始めた店は繁盛した。
「急行でも止まればいいのに」と願いを込めて付けた店名だった。
.
朝日新聞社 https://twitter.com/horomin777/status/865588107076190209
https://twitter.com/horomin777/status/865764050621218816
https://twitter.com/horomin777/status/866212097394221056
名物焼きそば「急行」閉店 88歳店主、厨房で倒れ死去
6/4(日) 10:23配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170604-00000015-asahi-soci
北海道のJR・道南いさりび鉄道木古内駅そばにあった老舗食堂「駅前飯店急行」の店主垣内キミさんが5月、亡くなった。
直前まで名物の焼きそばを作り続け、厨房(ちゅうぼう)で倒れた。旧国鉄時代や昨年春の北海道新幹線開通など、
木古内のまちの移り変わりを見守った88年の生涯だった。約60年続いた食堂は、垣内さんの死去とともに幕を閉じた。
「駅前飯店急行」は、垣内さんが作る和風味の焼きそばが名物だった。2013年夏までは、JR木古内駅のすぐ前で
開店当時の古い店舗で親しまれてきた。北海道新幹線開業に伴う駅前再開発で立ち退き、同年10月から数百メートル離れた場所に
移転して営業を続けていた。
垣内さんが倒れたのは5月16日。夕刊を読み、午後5時ごろにやってきた男性客に焼きそばを作ったあと「背中が痛い」と言って、
厨房にある丸いすに腰を下ろした。毎日手伝いに来ていた知内町の宮西容子さん(62)に「水が飲みたい」と頼んだ。
宮西さんが湯飲みを取ろうと振り向くと、いすから崩れ落ちるように倒れていたという。
すぐに救急車を呼びドクターヘリで函館の病院に運ばれたが、午後8時過ぎ息を引き取った。大動脈瘤(りゅう)破裂だった。
道東の浜中町出身。旧国鉄時代、松前線と江差線の分岐点だった木古内駅前で始めた店は繁盛した。
「急行でも止まればいいのに」と願いを込めて付けた店名だった。
.
朝日新聞社 道外禁止の貨車を青函連絡船に載せた事例ある?
本来の意味は「北海道以外で使用禁止」であり「青函連絡船に載せてはいけない」ではないはず
65キロ制限多かった
今だったら「青函トンネル通過禁止」の意味合いで「道外禁止」が使えそうな気もするが えー、黄色帯は65km/h制限車に付けられ、車両形式称号の前には必ず小さい「ロ」がつけられた
道外禁止とは、北海道以外において操車場中継方式では扱えない車両を減らすための処置であり、
北海道以外での地域内準直行方式や臨時貨物列車としては黄色帯が使用され続けた
・九州地区のロセラ
・奥多摩のロホキ
・大物車
表題である「道外禁止の貨車を青函連絡船に載せた事例ある?」だが、
「道外禁止」と書かれた車両は五稜郭もしくは函館で必ず青函連絡船航送貨車から外されました
よって、「道外禁止」が記載されたままで青函連絡船に乗った車両はありません
ただし、回送のため、黄色帯で「道外禁止」を塗りつぶして青函連絡船に搭載された貨車はあります >>857
003は、昭和50年3月改正時の上り「八甲田」の青森発ですな。
その後002になりますが。
昭和55年5月5日の「十和田」だったかの八戸発時刻が5時55分で、
5号車5番はA寝台だったのですが、小遣いはたいてこの切符を買おうと
したんですが、売り切れでした。 >>870
偉く詳しいけど
国鉄=JRの中の人ですか?
それとも趣味で調べてるとか 冷凍コンテナで「道内禁止」があるよな
青函トンネルに入る前に遠隔で冷凍エンジン切らないといけないがそれが付いてないコンテナは青函トンネル進入禁止で北海道内に入れない 鉄道ジャーナルの新幹線コンテナ列車計画っての立ち読みした
やっぱりSRC方式なのね
貨物専用の第二青函トンネル計画とか
あと、TGVの貨物列車もあるんだね 海峡ラーメン、一度食いたかったなぁ
レシピ引き継いだ店とか無いんでしょうか >>875
函館と桑園にキヨスク経営のがあったけど程なくして消えた 吉牛がレトルト通販やってるならQVCで
本日は懐かしの味、海峡ラーメンのご紹介です。青函連絡船名物だった濃厚な味噌と醤油のさっぱりさが同居した北国の〜
予定数に近づいてまいりました、お電話お早めにどうぞ
的な むしろ種村本によく出てきたサロン海峡が営業してるの見たことなかった 昼間の便はサロン海峡が営業してたけど早朝発の便や夜間〜深夜の便は営業してなかった。 荒天時、波が高いとき
食堂は休業
サロン海峡は、乗船時、見た事無かったかも 残念ながら乗った事が無いですが…
サロン海峡の食事って、海峡ラーメン以外に何がありましたか?
青函連絡船関連の本は何冊か持ってますが、船舶の紹介や歴史的な内容ばかりで、
船内の食については殆ど書かれてませんね
食堂車を特集した書籍も、国鉄連絡船までは載ってないし… デジタル音声とかで汽笛を再現した奇特な御仁はおらんかな? >>883
海峡ラーメンはサロン海峡では出してなかったよ。
サロン海峡は喫茶、海峡ラーメンがあった食堂はグリル○○(○○は船の名前)。
食堂では海峡ラーメンの他、カレーライスがあったのは覚えてる。
これは特別なカレーでは無かったと思う。
サロン海峡で覚えているのは、ソーダ水のシロップが独特の調合で緑色。
これがまた凄く美味しかった。
このソーダ水も連絡船廃止後しばらくは、函館駅構内の喫茶店で出されていた。 >885
ありがとうございます!
喫茶と食堂で分かれてたんですね、なるほど…
自分も津軽海峡眺めながら食事したかったなぁ…
ちょっと検索してみたら、鉄道ジャーナル誌で廃止直前の青函連絡船の
乗船レポが掲載されてたようなので、古本探してみます 俺は青函連絡船の常連だったけど、海峡ラーメンを
食べたのは青函連絡船が無くなる直前だった。
当時、南こうせつがラジオで海峡ラーメンが美味い
と散々言ってたので食べたけどあまりピンと来なか
った。
ラーメンにワカメが入ってたような気がしたけど
どうだったっけ? 青函連絡船と言うと、津軽海峡冬景色がぴたりと来る。
当時は、上野駅から寝台列車はくつるがゆうづるに乗って青森駅へ。
青森駅に着いたら青函連絡船が待機していて、みんな二等桟敷席のいい場所確保しようとして駅のホームを全力疾走で連絡船に向かうんだよね。
いい場所取れたらあとは寝るだけ。
津軽海峡の揺れが心地良かった。
船の中でラーメン食うとかの発想がなかったなぁ。
函館に着くと、北斗、おおぞら、おおとりが待機している。
北海道から東京に向かうときはこの逆な。 青函連絡船のグリルでよく食べたのは「いかずくし定食」「イカ刺し定食」「海峡丼」 連絡船で飯食うとか贅沢なイメージ
連絡船内の自販機で
ファンタの350ミリ缶が130円で売っていた
当時、350ミリ缶は北海道のみでの販売だったので
青森から乗船時、必ず買っていた 二等桟敷席じゃなくて普通船室座席な。
いかづくし定食はいかリングフライといかさしといかの塩辛だったか?
最後の頃は知らないが、以前は共通のほかに船独自のものもあって、羊蹄丸でときどき出てたビーフシチューがうまかった。 >>887
味噌汁みたいなスープに大量のイカの輪切りが入っていた記憶。
街中ではなかなか見ないやぼったいラーメンで700円(30年前なので別に安くない)。 >>891
いかづくし定食はいかリングフライ3個といかさしといかの
塩辛少々にたくわん1〜2切れに味噌汁とご飯でした。 なんとかの証言?とかいう1700円もする本だが、立ち見で十分だったな。 話の流れを変えるようで申し訳ないが、また7月14日、15日が近づいて参りました。今も津軽海峡には初代津軽丸、第三、第四青函丸の三船が沈んだままです。 テレ東あたりが特番でやりそうw
でもJR全面非協力だろうなぁ 海峡ラーメンか、もしかしてわかめがたくさん入っていたやつかなあ。
北海道で夜行何連泊かして、夜行便の青函連絡船乗ってほっと一息の時食べたのがそれだろうか。
青森の乗継が一番の「はつかり」と「みちのく」が取れなかった関係で8時台の「はつかり」になり、
青森の待合で力尽きたのは思い出、なお「はつかり」には乗れた。 青函連絡船に乗ると蛍の光が流れてきて悲しくなってよく泣いたものです。 青函連絡船を降りて北斗の中でカツスパゲティ食べた記憶があるけど覚えている人いる? 青函連絡船は青、グリーン、オレンジに乗ったことがあります。それぞれ何という名前でしょうか? >>900
ポークカツスパゲティの事でしょうか?
北斗の食堂車かは不明ですが自分も列車食堂で食べました >>903
ポークカツスパゲティのことです。
この世にあんな美味しいスパゲティがあるなんて知らなかったし、あれ以上のスパゲティに出会ったことがありません。 グリーンなんて贅沢な切符買った事ないやい
普通桟敷ゴロ寝か昼の便は後尾甲板のベンチ 俺も二等桟敷ゴロ寝オンリー。
青函連絡船の旅にはこれが一番。 シーズンオフは普通桟敷ゴロ寝だったけど、お盆時期などの猛烈に混雑する
時に限っては一人用のスペースが確保できる普通座席を利用した事もあった。 小学生までは桟敷
中学から身体が大きくなって座席へ 座席だと疲れない?
俺は絶対に桟敷席を確保したかったら列車が駅に到着するなりエイトマンの如く必死に走って連絡船に乗り込んでた。
やっぱり長旅にはゴロ寝が一番。
座席だと今で言うところのエコノミー症候群になると思う。 いくらでも歩き回るスペースがあるのに、たった4時間弱でエコノミー症候群? 重油の香りがプンプンする中で80系よりも前後が広い座席に座って弁当食うのがいいんだよ。
景色もよく見えるし。 >>909
青函連絡船華やかかりし頃は、その後函館―釧路網走とか、青森―上野大阪の昼行特急の旅が待っていた。 函館 網走 おおとり
函館 釧路 おおぞら
函館 札幌 北斗
すべてに何度も乗っています。
上で述べたけど、北斗の車内で食べたカツスパゲティがガチ美味かった。 展示してある連絡船でグリーン席座ったけど
現在の特急グリーン車の座席と比べて
座り心地最悪だった
これで4時間はキツイと思う グリーンの座席で最悪なら普通席の座席だとやっぱりエコノミー症候群になるのでは? >>913
>>914
急行だけど急行宗谷1号「函館→稚内」もあった カツスパゲティって、神田の鉄道倶楽部で出してる、ベロネーズみたいなものかな?
木曜日に東京に行くから、ついでに食ってみよう うーむ 新幹線なき時代道東なんかは国鉄特急と青函連絡船乗り継ぐよりいっそのこと長距離フェリーの方が速かったんでないかい?80年代まで晴海から釧路までの直行フェリーがあったはず。今も大洗ー苫小牧16時間位だよね。 その時代は車なんて大富豪でもない限り買えなかったよ。
”はくつる”か”ゆうづる”に乗って青森まで、青森から函館まで青函連絡船。
そして函館から”おおぞら”か”おおとり”、あるいは”北斗”に乗り込む。
これが普通だった >>920 そのフェリー、30時間かかる。東京湾から房総半島の南をぐるっと回るから。
大洗、苫小牧間18時間だが、東京から大洗まで2時間はかかることを考えなくてはならない。 >>920
晴海じゃなくて有明な。
昔乗ったことある。 イカロスの本に証言書いてあったけど、
貨車の屋根に積もった雪が蒸発した水蒸気で、
火災警報装置作動したくらいセンサーが敏感なんだな。
浸水したときの隔壁も油圧や手動で動くなど二重三重の系統で確実に
作動するようになっているとか。 >>916
実際、座席だと疲れるから、走って桟敷を確保したんだろう。 一等→グリーン指定席
二等→グリーン自由席&桟敷
三等→普通自由席&桟敷 >>924
昔、日本沿海フェリーは苫小牧ー晴海だったよ >>929
日本沿海フェリーは苫小牧と晴海。
近海郵船フェリーは釧路と有明だった。 >>930
だよな
そして太平洋沿海フェリーが苫小牧と仙台を結んでた
あの頃は自動車を変えない一般大衆は列車と青函連絡船のコンビネーションが主流だった
マイカーを持ってる中流層はフェリーを使ってた人たちが多いんじゃないのかな?
そして富裕層は飛行機だ
日本航空のボーイング727、ダグラスDC8、そしてジャンボジェットと称されたボーイング747が特に人気があった >>930
近海郵船フェリーは十勝港(北海道広尾郡広尾町)にも停泊してたよ 連絡船現役時代の
内地と北海道の交通事情は
許される範囲だろう 青函連絡船オタクとしてのプライドが許さない(`・ω・´)キリッ 戦時船が青函航路就航前に太平洋で座礁とかあったらしいし国鉄時代は東京と船尾にあったし
桟敷は窓が壁直でイルカジャンプをガン見できたが座席は全部デッキ挟んでかな、一度座席使っとけば良かった 座席は疲れるって。
桟敷がゴロ寝できて最高だから。 初めて乗ったのが高校二年。国鉄末期の昭和60年。
食堂に行ったものの、18きっぷ「だけ」で旅行してたから大した金もなく、オレンズジュース一本(ガラス瓶入り)をチビリチビリ飲んでた。
そしたら隣のテーブルの小学生が、恐らく初対面であろう大人達を相手に滔々と語り出した。
曰く、学年は小学六年、東京から一人旅、青森まではゆうづるに乗ってきた…
ここまでで席を立った俺。「このブルジョワクソガキが…」 オレンズジュースってのはえんびフライみたいなものか? 津軽丸と檜山丸だっけ?は引退後に
北朝鮮へ売却された船
よくぞあんな国に売ったもんだな 当時は、そこまでイメージも経済状態も悪く無かった
「地上の楽園」とか、今そんな事思ってる奴、在日でもいなそうだが 地上の楽園って(^o^)
どこぞの新聞はいつの世も嘘ついてばかりで日本を貶める どこの新聞もそんな嘘吹聴しないとしてタグボートで回頭して着岸するのを見てから降りる
特に函館は指定取っててもダッシュ〜へろへろと走ってしまう長さと焦り >>941
津軽丸と松前丸な。
いくらなんでも直接入札しにくるわけがないから、アサ銀絡みのトンネル会社が暗躍したんだろ。 >>941
>>945
坂本幸四郎さんの本にも出て来たね。
夕暮れの海に、黙って消えて行った
だったかな? >>946
船が乗組員の力を借りずに勝手にひとりで? カップの味噌汁って、発泡スチロールのか
連絡船乗った時は、それと瀬戸物の容器に入ったホタテの釜飯を毎回食ってた レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。