山陰本線福知山線の国鉄時代の旧型客車とその思い出
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山陰本線福知山線の国鉄時代旧型客車について語ろう
大阪発出雲市ゆき米子ゆき鳥取ゆきといった長距離の
旧型客車ならば特に大歓迎だが短距離客車列車でもok. 京都から出雲市まで『山陰』に乗ったことがある。
但し、その当時愛称がつけられていたかどうかについては記憶が定かではない。
因みに、昭和51年の話です。 >>3
51年なら、多分名称ついてたような。
山陰には京都ー鳥取、福知山ー浜村、
出雲市ー京都と乗ってるけど、寝台は未体験。 うちが貧乏だったから、故郷の福知山に帰るのは必ずと言って良いほど普通列車だった。
とにかく最後部に陣取って、宝塚を出たらデッキへ。渓流沿いの景色をデッキから眺めるのが好きだった。
一番後ろが荷物車とかだったら、チクショウとか思ったもんだ。 行き気動車急行帰り客車鈍行というパターンが多いな
でもやはり客車鈍行の印象は強烈だったんだと思うな
大阪から東浜まで7時間丁度かかっていたがあーついに
来たんだなあという感動は客車鈍行ならではだったな
翌日は民宿の部屋から同じ客車鈍行723列車を見たが
偶然その時間夕方5時すぎにテレビアニメの再放送中に
客車列車が出てくるシーンがありうまくマッチしてた 福知山駅は、旧客ファンの聖地だったなぁ。当時の山陰線は、
ちょっとした駅には客車区があって、大量の旧型客車が配置されてた。
スハ32は早くになくなってしまい残念だったけど、それ以外の各種が
残ってたな。オハ35やスハ43に揺られて、駅弁食べながら、ゆっくりと車窓
を楽しむ。本物のゆとりの時間があった時代だった。
山陰線は、渓谷あり、海岸あり、温泉あり、スイッチバック(退避用?)
、特急・急行・夜行も寝台から座席までありの飽きない路線だった。
本物の汽車旅が楽しめた最後の路線。
初めて乗ったのは昭和五十年代の始め頃、旧客列車に乗って武田尾まで
撮影に行った時。列車はもちろん、途中で特急まつかぜに追い抜かれた
川西池田の構内も別世界でした。
川西池田で「まつかぜ」に抜かれる奴ねw
たしか、20分ぐらい停まったのではなかったかな?
「特急まつかぜの通過待ちです」と放送があって、時計を見ると、
その「まつかぜ」は大阪を出たか出てないかぐらいの時間なんだよね、たしか。
宝塚が手狭でなければ、十分逃げ切れる時間があったように思う。
それとも、別の事情があってのあのダイヤだったんだろうか?
まあ、どっちにしても懐かしいなあ〜 浜田発東舞鶴行(列番度忘れ)が不思議だった。
終点が福知山なら分かるけど、何で列番変えてまで東舞鶴へ…?
それも中途半端な時間。
小浜線の最終につないで敦賀まで行って欲しかったなw >>10
544レだな確か東舞鶴に21時前20時53分に着いていた 夜行山陰…懐かしい。
御先祖様の墓参りに出かける際によく乗ったな。
岩美駅で下車するのだが到着が確か早朝4時過ぎ。
何両編成だったのだろう。
降りようとデッキへ立つとあるはずのホームが無い。
ホームより列車が長いんだ。
同じく下車する見ず知らずの人と手を貸し借りしながら線路へ下りる。
夜明けの改札は無人。
駅前にある水呑場で顔を洗う。
静かながらんどうの待合室は時が止まったよう。
朝日が昇るのを待ってやっと歩き出す。
遠い昔の夏の想い出。 京都発浜田ゆき833列車が翌日大阪ゆき726列車になる
今なら特急急行でもありえない長距離運用にただ脱帽 一時期最長距離の普通列車だった824列車も、831列車の折り返しではなく、別の列車の
折り返し運用でしたね。 石原都知事が女性専用車両に乗車します
石原都知事が都庁記者会見で女性専用車両という男性差別の問題を指摘し、
後日、石原都知事自らが女性専用車両に乗車されるとのコメントをされました。
記者会見の動画をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=U04E6G2Cy8o&list=PLC6839F661C03104D 夏休み、大阪に親の帰省についていったときには、親の実家ベースに列車番号にDがつかない列車選んで
京都→福知山→大阪とか一人でプチ乗り鉄したなぁ。中学生ぐらいだったかな。
福知山線のトンネルではDD51の排気が車内に入ってきて天井の辺にモヤがかかったようになったのを見て
「全然無煙化じゃないw」って思ったのも懐かしい。
最後は大学生のときに福知山-鳥取往復をして乗り納め。
叶うことならまた乗りたいな。 824レにオハフ61って入ったことあるんだろうか?
あの木の背もたれの椅子で門司から福知山まで…
ヲタでも乗りたがらなかっただろうな、マジ拷問w 夏の山陰線客レで思い出すこと。
対向列車DLからの熱気もそうだけど、減速途中盛大に粉が舞っていたね。
レジンだとしてもカラダにはよろしくないものだったのかもw 川西池田で20分も停車して通過待ち!
完全に通勤輸送は眼中になかったのが良く分かるダイヤだね。
子供の頃に、宝塚まで複線・電化直後にしばらく宝塚に住んでいて、阪急と福知山線ともに乗ったことがあるけれど
福知山線で旧型客車に乗ることがあると、明らかに普通の電車とは違う、古くて長距離列車独特の雰囲気で、妙にワクワクした記憶があった
走行中にドアを開けてデッキに立って外を眺めていたこともあったし(今考えればかなり危険だけど)
遠足で1年に1〜2回、宝塚から先に行くと、武庫川沿いの雄大な眺めに子供ながら圧倒されて見入ってしまった
ただ、親は福知山線は本数が少なくて不便で、車両も汚いからか、阪急ばかり使っていたような気がするな 自分も阪急沿線にいたけど福知山線に乗ったのは多分福知山に行った時と鳥取の東浜に行った時だけと思う
1986年昭和61年11月までは大阪ー宝塚は阪急が当然で福知山線に乗るのはマニアかおかしい扱いだったなorz
あの「ゆっくり感」が、たまらなかったねえ!
これぞ客車鈍行の醍醐味!!
ちなみに夜行「山陰」にも5回ほど乗車したものの、5回目は1984年末の段階であって、
12系なんかに既に置き換わってしまっていた。
(このときには鳥取で下車して因美線のDC普通列車に乗り換えて、さらに津山で岡山に出て、あとは宇野・四国方面の連絡船を介したルートで高知へ帰省w)
…ま、旧型客車で福知山線経由でならば米子までが最長距離。
721列車、723列車、725列車は1985年まで旧客だった
27年前の話だから当然今の女子大生は知らないだろう
今の女子大生が知らないと言えば>>6でも書いたけど
1995年平成7年以降放送できなくなってしまっているキャンディキャンディも旧客同様に知らないだろうな
1980年昭和55年に山陰本線の旧客723列車を見ながら
BSS山陰放送テレビでキャンディキャンディを見たが
1980年昭和55年当時は当たり前にようなこの光景だが
2012年平成24年の今日ではどちらも不可能なことworz 川西池田発尼崎港行き客車に乗った、金楽寺駅を尼崎港駅と間違え
下車しようとしたところを、車掌に指摘されあわてて車内に戻った。 50系化する前の山陰線はまさに汽車ワールドだったな。
昔の非電化本線がそのまま残っていた。あの頃に旅行できて良かったよ。
1986年昭和61年11月までつまり国鉄最後の改正前まで
1985年昭和60年3月に大部分の路線からは旧型客車が
消えた後も最後まで山陰本線では頑張ってくれていた
最近は山陰へは車でしか行かないがもう二度とあの頃
あの国鉄時代昭和時代の感動ないだろうそれが寂しい >>27
門司発福知山行きが残ってた時代までが、特に良かった。
まだまだ茶色の未更新の客車も多く、35や61が数多くいたし、
大型運用も多く、客車=長距離のイメージ通りに走っていた。
旧型時代の山陰で乗った茶色のスハ42が良かったなぁ。
事情知らずに乗った若い女性まで驚いて、鉄に質問しまくってたもんな。
あの時代に山陰線で旅行できたのは良き思いでであり、
本物の汽車旅だったと思う。 デッキから人が落ちても世論は騒がなかったな。
「落ちる奴がどんくさい」、実際そうだっだから。
今では「ホームドア設置しろ」という時代までになった。 子供のころ完全に停止する前に飛び降りるのが、かっこいい気がして
よくやって叱られた。
このスピードなら大したことないと思うようなスピードでも、予想以上に
衝撃(こけそうになる)があったことを記憶している。 >>30
山陰本線の小駅だと完全に止まらないで発車してたww
今では普通列車も通過する居組駅あたりだったと思う 61系…背もたれは木、シートピッチ狭い、乗り心地最悪。
35系…直立した布背もたれ、座席に空き無い時に仕方なく座る。
43系…ここからはまあまあ、安定した乗り心地、ヘッドレストは木。
10系…明るい、軽快、天井広い、ヘッドレストはビニール。
50系…美しい車内。色はイマイチ。ロングシート、広い自動ドアが珍しかった。
12系…憧れの臨時急行車両、冷房付、シートピッチ広くエアサス、これが普通客車に格下げなんて信じられなかった。でも白帯消したりセミクロス化、車掌用扉付けたりして、えらく落ちぶれた。 >>31
それはないでしょう。どんな駅でも数十秒は停止してましたよ。 連結器圧縮させようと最後に機関車の自弁だけ利かすと、客車はユラユラしてる。
それのことでしょ。 ガシャガシャガシャガシャーン
て奴か。
密自連は20系から採用? >>36
その通り!勿論乗降客ゼロの小駅の場合に限定される
そのガシャガシャガシャーンの表現久しぶりに聞いた >>36
日本海の京都駅到着でも伸び縮みしてたぞ。直通ブレーキ引かずに停めてたなww ホームとは反対側の道床に下りて駅舎に直接行ったりしてたな。 最後部の開けっ放しの貫通路から流れるレールと景色を見るのが好きだった。 ぜんぶ旧客の時代、よりどりみどりでどの車両に座ろうか迷って
せっかくだからと一番古そうなニス塗りオール木製シートの61系だったかに座った
寝不足で疲れていたせいもあるが発車のたびに「ズゴーン」と脳天直撃の衝撃とともに
体がシートから3pくらいズレて大変な思いをした
さすがに耐えられなくなってスハ43に移動したら快適だった >>39
急行日本海?
小湊鉄道の気動車が小さい駅では超微速だが停止していなかったな。
スレ違い失礼。 1978年昭和53年10月までは急行だいせんも旧客だった
勿論70年代後半は青春18きっぷはなかった訳だけれど
スハ43とは言え使われていたのは周遊券時代ならでは
今のムーンライトえちごやながらの感覚だったろうと
思ったが急行だいせんは全車座席指定車なので別払い
普通列車と急行列車が同じ車両とはすごい時代だった 大阪駅の中央改札を入り、階段をのぼる。
階段の上のほうへ上がっていく途中で客車の屋根が見えてワクワクした。
ホームに出ると、最後尾に乗ろうかそれともいちばん古いやつに乗ろうかと考えながら編成を見て回った。
どの車両もガラガラで席は選び放題。結局最後尾に陣取って大阪駅を出発。
行き先はもう覚えていないけど、鳥取まで乗り通した。
昭和59年の春休み。
東京から大垣夜行を使い乗り継ぎをした時の思い出。
淀川の鉄橋や武田尾の渓谷をのんびり走った汽車。
楽しかったな。関西の人がうらやましく思えた。 続き
大阪まで18切符で来て、四国ワイドを買って四国旅行をする途中の出来事。
結局、汽車の魅力に負けて鳥取まわりで因美線津山線経由の四国行きに急遽変更したんだった。
山陰線のある京都には汽車があるのは知ってたけど、大阪にも汽車があるのにすごく驚いたのを覚えてる。
たまに大阪駅に行くことがあるけど、あの日の光景をいまだに懐かしく思い出す。
中央改札もだいぶ変わったけど。 あの頃、山陰線だけ異次元の世界だった
東京から京都まで来て山陰号のスハフ42に乗り込むとあまりのタイムスリップに
異国の果ての知らない国まで来てしまったような気がした
2,3日、旧客ばかり乗ってカニめし三昧していると、しまいには感覚が麻痺して
12系さんべに乗るとまるで未来の客車のように感じた
その後14系の殿様気分を知ってしまうと12系なんかよく乗れたなぁなんだけどね 山陰本線は旧型客車引退後も50系や12系が頑張ってた
12系客車が引退し完全に客車列車が消えたのは1997年
平成9年だからもう15年前の話になるがよく頑張った
今は電化区間は223系電車になったが、やはり客車が
福知山線山陰本線には似合っていたんだなと福知山線
脱線事故のニュースを見るたびに嫌でも思ってしまう >>45
ディーゼル旧客に慣れた者にとっては、電機に牽かれてかっ飛ばす北陸線・常磐線の旧客に乗ってシビれたもんだよ。 >>49
北陸本線522列車、北陸本線523列車に乗った事あるが
北陸本線では当時既に快速電車が主役だったのが残念
522列車は糸魚川、523列車は福井で快速電車乗り換え 山陰本線で旧客に乗ってたら電子音のハイケンスが流れたことがあったわ。
どれくらいの車両が電子音に交換されてたんだろ? 福知山線で旧客が無くなる前、ごくたまにオハニ36が連結されていた。
荷物扱いがまだあった時点か、その後かは良く思い出せないけど、後の様な気がする。
郵便車が付いていた時は全く姿を見せなかったので意外に感じた。 旧型客車とか、車内の環境や衛生状態は実際どうだったんだろう?
もともと相当な経年車両だったし、エアコンなど当然無し
トイレも垂れ流し式だったし
真夏や真冬なんかに混雑している車両に長時間乗っていると、体調を崩す人とか居なかったのかな? >>53
昔はそれが当たり前だったからね
変な話、旧型客車全盛期は生理用品もなかったから、
女が人前で生理の血を垂れ流すのも不思議でなかった
何よりも、SL時代の匂いと煙草の匂いが充満していた
変な表現だが、昭和時代の匂いだったと記憶している >>53
現在の生活や車両を基準に考えると、そう思えるんでしょうね。
そういえば、国鉄時代は、車内に消毒液の匂いが残っている事がありましたが、あの匂いは
国鉄独特のものだった様に思います。 子供の頃(福知山線非電化時代)に宝塚に住んでいたけれど、親に連れてもらって大阪に行くときは殆ど阪急ばっかりだった理由が分かったような気がする。
阪急は既に冷房車が走り始めていたし、車両の設備や手入れがまるで違っていた。
古くて汚い、埃っぽい旧型客車自体を、多分毛嫌いしていたんだろう。
まして、煙草を吸わない人だったから、車内に充満していただろう煙草やその他油や訳の分からない臭いも相当不快に思っていたのかもしれない。
子供の頃には分からなかったな。
まあ、最大の理由は、運賃が高かったことや、本数が少なすぎて不便過ぎることだろうけど。 夏の暑い車内の窓から顔を出し涼んだことがどれほど楽しかったことか。
今となってはクーラーが普及したことと安全性が高くなって出来ぬこと。
ああ、もし戻れるならあの時代へ戻りたい。 開けっ放しの扉から手摺をしっかり掴みながら身を乗り出したのは良い思い出。
武庫川沿いとそのトンネル・鉄橋、淀川鉄橋は特に面白かった。 >>54
出鱈目にも程がある。
ゆとりを騙して悦に入ってるのか? >>47
山陰本線は最後の汽車運用やってた路線だからね。長距離客車列車が大量
に行き交い、荷物郵便輸送も健在、寝台車付きの夜行普通、夜行急行が残り、
渓谷、海岸沿いを走り、餘部鉄橋、撮影名所のコンクリート橋、
スイッチバックまであった。昭和30年代ぐらいまでの長距離非電化本線の
形態が最後まで残ったのが山陰本線だと思う。
>>51
最末期だね。山陰に入ってたスハフ42のオルゴールも既におかしかったな。w 客車の切り離しは大体どこでやってたっけ?
福知山?豊岡?鳥取? >>63
京都や大阪からのは、福知山で切り離し、上りは逆。
豊岡でやってたのがあると思うが、あと米子と出雲市でもあったと思う。
鳥取は覚えがない。 山陰線・福知山線で貨物が復活することは
無いのかな? 普通列車・荷物列車・貨物列車(この場合は列車掛資格を持ってる車掌)に
客扱専務車掌が乗務することってあったんだろうか? >62
山陰本線にスイッチバックなんてありましたっけ? >>68
鳥取と福部の間にスイッチバックの信号場はあった
相谷信号場の廃止・鎧・久谷の棒線化と、城崎〜岩美は悪循環してますなぁ。
旧客の普通列車にカレチやレチチが乗ることってあったんだろうか? >>69
「出雲」の廃止まで、残っていたんでしたっけ? 旧客最後の年、僅か1両残っていた
ぶどう色2号塗装のオハフ33に乗車して、このスイッチバックで列車待ちした記憶が
あります。 >>71
オハフ33 389です。48 は青15号でした。 ごめん、そうだった。
しばらく残ってた5両のうちでごっちゃになってた オハニ以外ではニス内装の最後の2両だね。
もう一両のオハフ33 2625は福知山で邂逅したが
一期一会だった。
(遠方&幼少なので旧客自体に乗り鉄できなかった)
生涯の残念。 2625は、福知山線で最後に乗った篠山口発大阪行き普通列車に連結されていて、
迷わず乗りました。確か60年3月10日だったと思います。
福知山からの普通は既に12系で運用されていました。置き換え数日前の光景です。 うらやましいね。
沿線に住んでたり親戚があったりとかだったら
幼少だろうが乗れたんだろうけどね。 沿線住民だったよ。汽車通学している小学生も居たな。1時間に一本じゃ、通いにくかっただろう。 >>76
当時の福知山線は、三田あたりまででもちょっとした旅行でした。今は篠山口行なんて
本数多いですからね。 夏休みと冬休みは小学校に入ってから毎年1人で福知山まで帰省してたわ
和田山で乗り換えるんだけど接続が悪すぎて1時間は待ってたな
電車が駅に止まる度に線路の錆が室内まで舞い込んで目に入るし、
乗降口は開きっぱなしだし連結部の蛇腹は破れて布そのものが無くなってるし今じゃ考えられないワイルドさだったな
俺の記憶だと戦後の青い客車の乗降口は引き戸で、戦前の茶色い客車の乗降口は中折れ式でまともに閉まらなかったと思うんだけど
今見る写真じゃ中折れ式が見当たらない、ガキの記憶なんかそんなもんかな
ボックス席の窓の下に設置された慎ましいテーブルの下に付いてた栓抜き使ったことある奴いるの? >>72
これかぁ。茶色のオハフ33だけが廃車されて、その他3両はJR化後も
生き延びた。オハ46 512は大井川へ、他2両は動態運転。
その後オハフ33 48だけ梅小路で解体ショー。w
http://blogs.yahoo.co.jp/ozayo1965/7480267.html
当時の国鉄にはレトロ=カネになるの感覚はまだまだ無く、どうせ残す
なら近代化改装された快適なハコの方が良いだろうって判断する人が
多かったそうな。高崎は静態保存も視野に入れて客車を集めたので、
未更新車も動態でギリギリで残せたって感じか? 酉に継承されたのは、マイテと64系以外では
オハフ33 289
オハフ33 48
オハ46 13
スハフ42 2254
の4両かな?
JR化初期の頃のドア保安は、今みたいにうるさくなかったんだろうね。
少し前までの束の旧客臨みたいに各ドアに配置とかはしてなさそう。
http://homepage2.nifty.com/tkataoka/history/008/history_008.htm
↑これとか。つか反対ホームへ出てるとか
まだ国鉄時代の大らかさのままだし。JR関係者も乗ってるのに。 ホーム反対側の道床に下りて改札口に向かうというシーンはあったな。 今日、古い資料を整理していて見つけた記事ですが、1984年夏に、大阪から熱海へのお座敷
列車に、米イモのオハネフ122018を連結し、寝具置き場として使用したとの事。
使用後は、721レに連結して出雲区へ回送したとの事ですが、団体旅行とは言え、営業運転で
東海道本線の京都以東に入線した、最後の10系寝台車かも知れません。 >>79
電車が止まるたびって
もう電化してたのか? JR東日本が行った男性客への乗車拒否作戦
JR東日本の本社職員・支社職員・駅員が行った
寝台特急あけぼののレディースゴロンとシートに乗車者する男性客への乗車拒否バリケードです。
男性を侮辱した人権侵害の一連の模様をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=RJDXzoXs490&feature=channel&list=UL
http://www.youtube.com/watch?v=taqjOajeu5E&feature=channel&list=UL >>83
営業運転では最後かな。10系寝台の上野撤退は1982年の上越新幹線開通
によるダイヤ改正だったと思う。その後、臨時での使用があったかは不明。
回送なら高崎へ保存車回送してるので、それが最後。(その後、横川で保存) SL末期の山陰ローカルってどうやって出発合図出してたんだろ?
DL同様に無線機で合図出してたんだろうか? んなもんSL末期どころか国鉄末期まで同じでは?
当務駅長がいる駅は出発合図機で出発合図
無人駅が無線
じゃね? まあSL当時なら古風な
直接肉声で「ハッシャー」もあっただろうね。 ホーム端の小さなスピーカから『ビィーー』って音がしてから
機関士さんが汽笛鳴らして発車していったよ。
1973年か1974年の3月後半、早朝の特牛駅下り蒸気列車
降車後のはなし。(ホームに駅員無し)
他のいろんな駅でもブザーが鳴っていたけど覚えてるのが特牛
誰がどこからブザーを鳴らしていたかは不明。 >>90
どうやって鳴ってたのかまではあなたと同じで判らんけど、
ブザーは間違いなく出発合図だね。 ブザー付きのとこと、無線機でこちら○○列車車掌、機関士さんどうぞ、
こちら○○列車機関士、○○列車発車!、ポォー・・の流れだった。
旧客は静かだから、掛け声が良く聞こえたなぁ。 >>92
蒸機時代?
ともかく、車掌を介さない「出発合図」常用の頃だったなら
無人駅が無線機扱いだったらしいね。 旧客車両が好きで特に夏休みには、良く乗りに出かけていたな。
夜行山陰も窓を開けて真っ暗な中に白熱電灯が光る田舎の風景を見ながら楽しんでた。
落ち着いた佇まいの車内、61系、35系、43系・・・・、
何故だかあの車内の匂いが妙に好きだった。
あの頃にデジカメがあったら、どんなにか・・・・
そして、今はもうあの懐かしい匂いもすっかり忘れてしまった。 >>96
今残ってる現役車両も、あの頃の匂いは変わらないね。
束も支社内イベントばかりなので、長距離乗れる機会は無くなって
しまったけど。 京都駅山陰線専用頭端式ホームも架線が無くて、
ローカル線独特のムードが醸し出されていて良かったなあ。
あれはまさにディーゼル王国の象徴だったよ。 夏休みは福知山の祭りと花火が一番の楽しみだった
姫路から片道4時間の道のりが行きと帰りで正反対で長いこと
帰りに福知山駅の入り口で売ってた水槽のニジマス買って帰りたかった 100まで来たね
旧型客車=昭和時代と言っても過言ではないが山陰本線福知山線はまさにそれだ 旧客ではないが、蓬莱峡のキャンプ場に置かれている20系は一見の価値有り。 >>92
『ンヴゥゥ〜』
『〇〇〇レ、出発進行ゥ!』
『ホェ〜…』
『ップシャ〜ァ…』
『ガッツン…ガツン…ギシギシ…』
『タッタン…タッタン…タッタン…タッタン…』
『カタカタタタン…カタカタタタン…カタカタタタン…』
全てが皆、懐かしい…(遠い目) 旧客の合間にキハ58 キハ80 キハ181
一般型DC
DD51貨物 工臨
それに出雲
今から考えたら夢の様な線区だったな
ロケーションも含めて >>103
数百キロ以上走破する長距離普通、寝台付き夜行普通、夜行急行、
寝台特急、DC特急・急行、倉吉線の混合列車、スイッチバック退避あり、
山あり川あり海あり餘部あり・・・最後の汽車旅路線だったな。 鉄道に魅力あるとこって土地柄としては閉鎖的で縁の無い者が住むと村八分にされて
かつをにならざるを得なくなる感じ。
福知山はじめ山陰一帯は。なんかどんより暗くてねっとりしたてるよな。
それが景色としてみればいいのだが。たまにいって客人としてみるのがいいので
すむとこじゃねぇな。 >>102>>104
出発合図器のブザを用いての出発合図は
既に全国で小倉と博多のみ(しかもJR化以降は長らく回送列車とワンマンのみ)。
ED76の廃車で、機関車汽笛との取り合わせは絶滅してしまった。 昔の鉄道ファンに普通列車の12系客車にキハ58?が連結されている写真があったんだが、
よくあった光景? >>109
工場の入場出場や転属で、最後尾にDCをぶら下げて行くのは珍しくないものでした。
途中で他線へ行くDC列車を併結する例も遅くまで東北本線にありました。
また途中駅でDCを解放、そこからDCは別列車で折り返すのは函館本線や他の線区でもあったようです。
連結器強度の関係で、DCは後尾に決まっていました。 札幌駅では少なくとも、はまなす回送の時の出発合図にはブザーを使ってるな。 >>114
それってちゃんと汽笛で呼応してくれる? 福知山線の旧客、出発後・到着前の車内放送でオルゴールが流れたのは、大阪・篠山口・福知山と、あとどこかあったっけ? SL乗り遅れの自分にとっては、120さんと同じ思い
しかしもう10年早く生まれていたら、SL+旧客だったでしょう
実際、旧型客車という響きは、自分の世代だけで感じるように思います
主役は必ずしも機関車ではなく客車という意味で
(SL廃止から旧型客車廃止(和田岬は除外)まで10年間
10年上の世代では、SL+旧型客車がセットで、SLが主役、旧型客車は常識
10年下の世代では、旧型客車も夢のうち
120さんも自分と同世代と思います 121さんの言われるとおり、あと10年早く生まれていたら。。
たしかに。。なるほど同感です
120より。 自分もあともう少し早ければ同感です。
1968年昭和43年に福知山線からは既に、
SLは旅客列車牽引から消えてましたが、
1969年昭和44年翌年初めて乗りました。
1969昭和44年と言えば福知山線以外は、
SLがまだまだ現役の時代であったので、
SL福知山線残ってればと今も思います。 DD51旧客に乗って一人で武田尾(旧駅)へ遠出したのが消防の頃の思い出
猿と猪はいなかったw 皆さん仲間がいてうれしいです
旧型客車だけでも相当なのに、その上SL牽引だったら…
もはや夢の中ですが
武田尾もそうですが、もっと強烈な印象が尼崎港
自分の時は末期のせいか、混合ではなかったのが残念
尼崎の高架駅、金楽寺のさびれた駅舎、そして貨物駅に同居の尼崎港駅
当時感じた以上に、すごい体験であったことが今更思い出されます
帰りも塚口行に乗ればよかった… うらやましいです。
世代的に、動いている旧客に、乗れませんでした。
大阪市内の小学高学年でしたので、
親付き&日帰りの範囲でしかまだ旅行できませんでした。
福知山線は12系でした。
車内からの車窓や交換まつかぜ通過の様子などは
8mmビデオに撮ってあります。 12系時代だけど新線移行後も普通客車走ってたんだな スハ32や怪しいオハ41、白熱灯車が残ってた頃が一番面白かったな。
スハフ32(しかも現役時代乗車経験のあるハコ)が残るとは思わんかった。 同じです
スハフ32 2357に磐越西線で乗っていて、撮った写真までありますが、少し前尾久で乗る機会がありました時は少々感激(ただし動かず)
SLだけではなく、もう少し客車も残してほしいと思っていましたけど、ぎりぎり間に合ってよかったです
そういう意味では大井川はもっと評価されていいのでは
怪しいオハ41も同感
七尾線、津山線、伯備線、などは朝夕にわずかに動く程度で結構難しい
弘前か秋田でも1両、山陰線の西部で50系併結のオハフ41(早朝の行商人用で帰りのみ一般乗車ん可能?車内は魚のにおい)
四国だけは昼間もオハ41が動いていましたが、ガラガラの状態で乗ってきた人(高校生?)が、ドアを開けた瞬間「あ、長椅子」と叫んだのがはっきり覚えています
もう30年ほど前のことになってしまいました 正直それは否定できないですね
でもあと30年ほどたつと、今普通に走っている現役車両が同じようになると思います
自分でも、あの時乗っておけば撮っておけば、というものが多数ありますから
特に自分が専門でとっていたもの以外に、それを強烈に感じました
すみません >>129
私がスハフ32 2357に乗ったのは、磐越東線でした。当初保存候補にあがってたスハフ32 2131とのコンビで、
他の2両もオハ35とオハフ33のオール戦前製茶色の4両編成でした。昭和10年製の2131が解体になったのは、
惜しい事をしたと思ってます。(この2両がスハフ32最後の2両になった。) DE10型牽引による倉吉線の客車列車
列車によっては合造車と旧客の2、3両編成や貨車を連結した混合列車もあった
客車列車にはときおり、ナハフ11が倉吉線の客車列車運用に入ることもあった。
ただし、倉吉線は簡易線規格だったため、客車列車は気動車列車より鈍足で、
中には倉吉〜西倉吉間で27分かかる列車もあった 山陰本線には、旧客が似合っていたな。浜坂にビールを飲みながら
撮影が出来る宿があった。多分その宿の屋上から撮ったと思われる
動画だ。
http://youtu.be/yj2pfvtJ7Qs 偉大なるローカル線山陰本線と言ってた宮脇俊三の事思い出したお盆なので合掌 丁度30年前の今頃、「山陰」のB寝台で一夜を過ごしましたが、夏休みもあって、
上段まで満員でした。
寝台車には、昔で言う「車掌補」的な車掌さんが1名居て、乗車の際には寝台まで
案内してもらったのを思い出します。冷房もよく効いて、寒い位でした。 そんな役割でしたね。当然ながら寝台解体などは無いですし。
恐らく、乗客の安全確保も含め、寝台車専属で乗務していたのではと思います。
閉散時はどうか判りません。 イエローの103系が投入されたとき、なぜ通勤型??と思った。
今では隔世の感があるね。 夜行普通列車?(山陰)の寝台車と夜行急行(だいせん)旧客時代が、懐かしい。DF50やDD54牽引の旧客に乗った人て、どのくらい、いるのかな♪ >>140
1969年に乗ったからあるはず。
小さくてよく覚えてなくスマン 播但線ならC57牽引列車に乗ったことあるよ。
茶色の35系主体でオハ41も混じっていたが、編成中唯一の青スハフ42が特別な車両に見えたw >>134 そんなとこに宿があったのか!?
駅から結構あると思うが。今でもあるのかな?
そこの短いほうの鉄橋はラティス桁といって
珍しい橋桁らしいね。
この場所、妻の実家に帰省した際に朝の散歩(チャリだけど)で
撮影がてらよく行くところ。
結婚したのが10年前。いかんせん時代が遅すぎた…。
出雲には辛うじて、キハ181にもなんとか間に合ったが。 >>145
たぶん、宿の名前は(国民宿舎はまさか荘)グーグルアースで見たところ、無くなったみたい。今でもあれば、使えそうだね。 >>140
紀勢線や四国ならDF50牽引客車乗車経験あります
だれかが、DF50は釣りかけモーターがあるからその音が聞こえるはずっていうから、一番前に行って解放状態の客車でしばらくいたけど、釣りかけの音はついに明確にわからず
紀勢線での乗車での時でした
37年前になります 35系と42系の混成編成なら迷わず42系に乗ってたな。 1975年だったか姫路から播但、山陰、宮津、舞鶴、小浜、北陸、高山線の猪谷まで旧客レの旅をしました。残念ながら、猪谷南はDCでした。因みに牽引機はC57.DF50.C58.C58.ED70.C11でした。 1975年だったか姫路から播但、山陰、宮津、舞鶴、小浜、北陸、高山線の猪谷まで旧客レの旅をしました。残念ながら、猪谷南はDCでした。因みに牽引機はC57.DF50.C58.C58.ED70.C11でした。 >>152
〜といいながら門司発福知山行824列車の先頭は昭和50年代の初頭までオハフ61であるのが常でした。824列車には完乗しましたが勿論オハフ61にずっと居れるわけはない。 1980年8月に、弟と大阪駅始発の出雲市行(だったと思う)で谷川まで乗った。
一番古そうなオハ61系客車に乗った。
車両もさることながら、鉄道施設や沿線の風景も20年ぐらいタイムスリップしたような感じがした。
牽引機がDD51でなく、蒸気機関車であっても全く違和感がないだろうと思った。 私が乗った721レ(DF牽引)出雲市19:51着はオハ61も繋いでいたと思います曖昧な記憶ですが途中、オハ35に箱を替えました(笑) 一口に旧客というけど優等列車用から最底辺のローカル用まで
全部含んでるから、居住性もピンきりだったよね。
スハ43系はその後の急行型の基礎になっただけあって、秀逸だったと思う。 初めて大阪駅から福知山線に乗った時DF牽引で、次に乗った時(宝塚から乗車の篠山口行)はC11やった_
これって記憶違い?
武庫川の長い橋梁でデッキから乗り出し下を見ると恐かったそしてトンネルに突入〜そのあとは言わずもがな〜
デッキから退散するも客室内にも、どこからとなく煙が入って来て、
S38年度お伊勢さんへの修学旅行(加太越え)以来のSLレでした。 篠山口行きの客車列車は、吹田のC11牽引だったそうです。
私が生まれた年にDL牽引に変わってしまったので、見れませんでしたが・・・ >>157
青色の近代化改造のスハ43がローカル列車に組み込まれていたら目を見張ったものだった。昭和40年代のことだ。それだけ高級車だった想いがある。 >>158
羨ましいタッチの差駄目だった
1968昭和43年に福知山線から
SLは引退しているわけだけど、
1969昭和44年に乗ったので、
SLにタッチの差で乗れなくて、
1969昭和44年と言えば確かに福知山線では引退していたけど福知山以遠の山陰本線ではまだ
SLが現役バリバリだったけど、
福知山で降りてしまったために
SLは結局乗れずじまいでした。
1969昭和44年と言えば自分は
幼稚園の年中組だった時代で、
福知山には祖父に連れて行って貰ったのですが何故もっと先迄連れて行ってくれなかったかと
SLに乗れなかったということを今でも残念に思ってるのです。 S30年位、幼稚園時代に白浜、新宮方面の旅行で
南紀のサボが付いた扉の前で写した写真は
たまたまだったのかどう言う意図があったのか、
おそらく記念撮影だろうと想うが〜
夜行で乗ったのが南紀だったのか記憶がない
勿論、SLレであった。 レッドトレインじゃないダブルルーフ旧客の50系がいたな
若いファンに言ったらものすごく馬鹿にされた >>163
貴方は間違っていないですよ。間違っているのは若いファンです〜(笑) スロハ31→スハ50.スロフ30→スハフ50.スロ33→スハ51…。ちゃんとした50系客車じゃないですか(笑) いろいろ調べたら「南紀」は当時、準急で紀勢線全通前の紀勢西線新宮行き(C58牽引)だったのです。半世紀以上経って解明した。
一枚の写真から乗った風景を想い出しました。これが私が初体験した旧客SLレでした。 いろいろ調べたら「南紀」は当時、準急で紀勢線全通前の紀勢西線新宮行き(C58牽引)だったのです。半世紀以上経って解明した。
一枚の写真から乗った風景を想い出しました。これが私が初体験した旧客SLレでした。 もう昔の話しです。
雪の日に福知山線に乗りました
牽引機はDF50.オハ61の車内にいる
自分が幻想の世界にいるようで
列車は米子かもっと遠くの知らない町に行くようで〜気がつけば福知山でした。
当時中学生の一人旅としては、
歌の文句ではないけれど、
思えば遠くに来たもんだなのです。
時刻表を見てここらで帰らないと、
神戸の実家に今日じゅうに帰れなく
なるので素直にまた来た道をもどりました(笑) >30
旧客は動き出してからでも乗れる醍醐味が有りましたが、今のイベント列車は安全を重視して、それを出来なくしてしまったようですね!
昔を知るものとして、寂しい限りです。 ♪動き始めた汽車に〜、一人飛び乗った〜
だな。
津軽も観光列車化しちゃったし あの名曲喝采も今となっては、
危険乗車を教唆なんだろうな。
やはり今は世知辛い世の中worz
これだけでは余りに何なので、
You tubeから旧客?のアニメを
http://m.youtube.com/watch?v=NjeGrDraPPI
の19分あたりが旧客?ならでは さすがにそこに文句言うのは老頭児の害悪だな
宮城検校の事故を知らんわけでもあるまい >>150
播但線のC57は昭和47年(1972年)に無煙化、
高山線はそれ以前に旅客列車は無煙化していたように思います。
恐らく5年ほど間違えているかと。 >>171
銀河鉄道999も今後は該当箇所カットですね。 福知山線旧客が大阪駅と尼崎駅で撮影された動画がありました。
古臭い?時代の大阪駅と尼崎駅も一見?
駅アナウンスも・・・。
http://youtu.be/q2_Dt4MRDNo 福知山線の旧客で背もたれの上部にやたらフックが付いている車両があったけど何のために付いていたのだろう。 >>176
簡易寝台対応のスハ43。歴史の1ページですな。 大阪に乗り入れてるのにずっと客車列車時代が長かったものだから
宝塚まで電化されて103系が来たときはマジで感動したっけね
塚口の跨線橋で飽きもせずに行き交う上下電車を眺めてたもんだ >>178
世代差かもしれないけれど、103系が来るとガッカリ(´・ω・`)で
旧客選んで乗っていたなぁ・・・例え電化区間でも。
旧客なんか何十年も乗ってて、という親世代は
新しい電車に喜んでいた。 当時10代後半-20代だったので
貴重なDL牽引旧客の方に惹かれて、ガタガタ揺れて嫌われる
ナハ10系も繋がってたら希少性で選んでいたな。 乗車プライオリティ
スハ32>オハ61(短距離の場合)>オハ35・スハ42>スハ43(白熱灯)>近代化車>ナハ10
夜行の場合
スハ43>スハ32>オハ35>ナハ10 >>180
そのプライオリティは快適さとは違うなw 103系ならどこでも乗れた頃だからね。
阪和線では今でも乗れるわけだけれどorz >>179-180のどっちの気持ちもわかる。
>>181の言うとおりの趣味的プライオリティだが
>>179は希少性でナハ10も選ぶのに対し
>>180は徹底して木製内装のレトロ感優先だわな
夜行は43系が楽なのは同意w >>168他
通常運用時代(〜86.10.31)の旧客は、旅先の福知山でリアルで接してますが、
遠方&幼少だったため惜しくも実際に乗れなかった世代です。
(ただし和田岬線の旧客は何度か乗りに訪問したので
自己責任最後の手動ドアそのものはリアルで知ってます)
質問なのですが、停車直前にうまく飛び降りるコツは、
「進行方向をむいて外側の足ではなく内側(客車側)の足を
列車の速度に合わせながら駆けながら降ろす」らしいですが、
同様に「飛び乗るとき」のコツは、何かあったのですか? 生瀬だっけ、武田尾だっけ、旧駅時代はホームの端部が舗装されてなくて
雨が降るとドロンコになってしまったのは。 豊岡発門司行、門司発福知山行など山陰本線には九州内発着の長距離普通列車もあったが、
なぜ、小倉発着ではなく門司発着だったのだろうか
JR化後も山陰本線の普通列車は一部は門司発着だった
小倉駅での線路容量の関係か、ゆとりがなかったからだろうか 大社駅@NHKブラタモリ
国鉄時代急行だいせん5号で大社駅行き折り返しの普通列車は20系だったけれどその次の普通列車は旧型客車だったな。
文化財歴史遺産としての大社駅もいいが駅は列車が発着してこそ駅だから(>_<) >>186
門司駅の栄枯盛衰みたいなタイトルのページ読んでこい。
小倉駅がおまえが思うような地位奴立場になるのは少なくとも博多開業後だ 山陰線二条駅から二条城があまりにも遠くて泣きそうになった修学旅行の自由行動の思い出
当時はスマホなんて便利なモノは無かったからなあ(遠い目) あの頃は、普通列車でも長距離なら、車内販売のワゴンが廻って来たもんな。
普通列車にも、汽車旅の叙事と情緒があったなぁ。 JR後、広島の辺りでも遭遇したような>>普通電車での車販
あとは中央東線の笹子餅 >>192
特急にも急行にも終着駅まで抜かれないそんな客車鈍行も少なからずあったね。中国自動車道開通前新幹線岡山開業前は長距離客車鈍行の旅も当たり前だった。 この時代に乗れなかったので
本当に憧れるけど
youtubeの映像を繰り返し見てると
全く遅くて不便で臭くて健康に悪かったんだろうと気付いた
でもやっぱり乗りたかった
m 昔は三田から宝塚行きの阪急バス乗って宝塚から阪急電車って人もいたそうな。
国鉄使わずに三田から梅田行くなら新開地経由選びそうだが >>196
> この時代に乗れなかったので
> 本当に憧れるけど
> youtubeの映像を繰り返し見てると
> 全く遅くて不便で臭くて健康に悪かったんだろうと気付いた
全くその通りと言うか別スレで書いたが大阪から鳥取東浜まで車3時間半なのに福知山線山陰本線なら7時間かかった。
自分の場合高校の臨海学校で鳥取行ってそれから山陰に興味を持ったんだけれど1980年昭和55年山口百恵引退当時さえ車やバスなら3時間半かけて行けるのに福知山線山陰本線で7時間かけ行くのはアホは言い過ぎだが物好きに違いない。
でも自分は物好きだから気にしないわw 昭和60年の正月に、鳥取行きの客車普通列車に大阪から三田まで乗車。
車内は完全に空気輸送だったわ。
当時一時間半かかった記憶。
帰りの急行丹波はデッキまで立ち客であふれてたな。 196ですが、
皆さんの書き込みは本当に貴重ですわ
写真や動画とは違う大きな意味が有ります
と言うことで記憶遺産に認定されました >>197
神鉄沿線に住んでいたとき、大阪には新開地経由が常識だったのに
わざわざ旧客車に乗るのが面白くて三田経由にしてたな。鉄道ファンでもなんでもないのに。
夏休みに合宿で山陰に行くときも鈍行の旧客車を三田から乗っていったけど
途中で1時間くらい平気で停車していた。15分程度の停車もざらだったから
乗車時間と停車時間はそう違いが無かったんじゃなかろうか
長時間停車を利用して友達と駅ソバを食べに行ったのも良い思い出 >>202
ありがとうございます
門司駅ホームの表示で「福知山」と出ている写真をウェブで見て
「おー!」となったけど
考えてみればこれらの駅でも「福知山」や「門司」や「名古屋」が
有ったんでしょうねえ
http://blogs.yahoo.co.jp/dd542fk/14160897.html
http://www.geocities.jp/obaken4649/shouwa4.html
あ
あ >>196
大井川鉄道のSL列車に乗ると、その雰囲気の片鱗が味わえるよ。
>>197
阪急バスでどれだけ時間喰うねん??
>>201
この間、福知山に行ったら、駅そばが無くなっていてビックリ。 >>203
1964昭和39年10月1日ダイヤ別スレより大阪5:55発 浜田22:37着 711レ
京都7:30発 博多20:55着 7D 特急まつかぜ 大阪-福知山無停車
大阪9:30発 浜田19:42/大社8:16着 701 急行三瓶
大阪10:05発 出雲市22:23着 713レ
1980年でも浜田行きが出雲市行きに、出雲市行きが米子行きになったくらいで1964年と基本的に変わってないの凄い >>196
健康に悪いとは思わんかったな。確かにタバコの煙だの煤煙だのはあったjけど、
田舎の空気を思いっきり据えたし、ゆったりとした空間は、精神的な健康には、
凄く良かった。出雲市行き山陰で茶色のスハ42に乗った時も他では味わえない空間。
混んでたけど、興奮したな。 オープンエアーの扉が開いたままの客車今は車でしかいや車でさえも味わえない
山陰本線から日本海の風受けるの最高で723列車で東浜駅に着く直前にデッキに自分がまさにその日に泊まる民宿から、TV音声聞こえ晩御飯の香りがした時は列車民宿が一体なんだと感動しました。
今なら絶対に不可能な同じ空気の感動。 >>206
ディーゼルの排煙は超体に悪いです
あと、10系客車は室内にアスベストだらけ そんな私も
トンネルで顔出し続けて呼吸しまくってましたけど
あと、ブレーキパッドもアスベストの塊でしたね… >>207
86年、修学旅行で浜村に行った兄が
「田舎町の灯りみたいな電灯の凄い電車を見た」
などと話してたので本当に楽しみにしていた
88年、同じ浜村だけどそんな「電車」 (すみません続きです)
そんな「電車」は来なかった
実は86年が最終だったんですね
今、兄にその話題をふっても全く記憶がないとのこと 旧武田尾駅の山側に側線があったが、使用しているのを見たことが無い。 >>213
使われていたとしてもうんと昔でしょう。
笠置に似たような側線あったね。
駅のたたずまいも似てる
どちらも行楽臨用かな? 先日島ヶ原に行くと側線が残っていた
あのあたりの関西線は昭和の化石みたいになってる >>191
20分も歩けば着くのにそんなに辛いかな。駅南端の貨車を見学しても商店街を抜けて行けば京都模型もあって退屈しないよ。 迷ったりしたんだろう
スマホも無く…とか言ってるし いろんな方の旧客の動画をYouTubeで見せてもらいましたが、
ほんとに懐かしいですね。
小さい頃に和田山のばあちゃんちによく行ってたんですが、
家のすぐ裏を山陰線と播但線が通っていて、兄貴としょっちゅう
汽車を見に出ていました。
時刻表見ては特急がまだ来ないなあ〜とか言ってたら
じいちゃんが和田山駅に電話して、
「孫が汽車通るのを待ってるんですけど、まだですか?」
なんて聞いてくれたのもいい思い出。 >>220
今となっては貴重なものばかりですね。
YouTubeでは鳥取駅の旧客いいですね。高架駅で駅ビルもあるのに列車旧客の、ミスマッチ言うか何とも不思議な感じ。しかも旧客はSLの頃から使われてて、鳥取駅は今でも旧客の頃のままだから、時間が今に繋がってると実感できます。 しかし、だからこそ
二度と旧客が入線してこないのが悲しい。
マイテ除く4両が、束みたいに臨客用として
維持されてたらと思うと、残念。
今でも、調べずとも車番がソラで書ける。
オハフ33 48
オハフ33 389
オハ46 13
スハフ42 2254 DD51牽引旧客の通る音
ガタン↓ガタン↑ガタン↓・・・・ガッタガッタンガッタン、ガッタガッタンガッタン・・
ホェ〜
和むわ〜 やはり、福知山駅の高架化が・・・。
地上時代はホームから蒸気の煙や警告音、
ドラフトの音、連結解放の音が聞こえて
きました。
あーあそこにあの車両がいるのだなあ・・、と
確認できたものですね。 そして駅弁も鬼そばもなくなったからね
高架は時代の流れでしゃあないとしてもせめて鳥取駅みたいになってほしかった 山陰は縁がなかったな
この時代に行ってみたかったな
出張が多い仕事してるから日本のほとんど県に足踏み入れたけど
鳥取県だけはいまだ足踏み入れたことないな
島根も高校の修学旅行で津和野いっただけ
行くまでは山口県だと思っていた ツアーや修学旅行のタイトルが『萩・津和野』だからかな?
『津和野・萩』ってタイトルが一般的なら萩が島根県に属している・・・
何ておもわねえか。 >>227
夜行急行だいせん5号で女子短大生の、グループと一緒に話をした事があるが、出雲市から山口線直通の特急のおきに、乗り継いで津和野に行く言ってたから、彼女たちが津和野が島根だという事を、知っていたかどうかはかなりあやしいw
後全然違うグループ言うか同級生だが、萩では山陰放送TV映らないと言うと、びっくりしていたから(そいつも女だが)世間一般の女子の認識そんなもんではw
あくまで昭和55年ごろのことであって、鉄子が多い今ではそして車で旅行する、女性が多い今では違うかもしれないがw いわゆる鉄子は増えた(カミングアウトした)が、
一般女子のグループ旅行で移動インフラとしての鉄道利用は
とんと見かけなくなった。 今の御時世、女子と呼ばれる年代の旅行グループが利用しやすい列車が少ないしな
新幹線使うなら夜行バスとなりそう >>227
萩津和野から秋吉台→宮島→広島原爆ドームてコース
首都圏の公立高校多かった1980年代
私立だと九州か北海道だったな >>228
萩は松下村塾とか「長州」のイメージあるからそれはないだろう >>230
逆にBBA集団のキッパーが激増した感がある。w >>235
>BBA集団のキッパーが激増
それは>>229のように35年前女子大生だった人たちが55歳前後になり、
子育ての手がかからなくなって再び汽車旅に戻ってきたという感じだな。
まぁ55歳前後は汽車で旅をした普通の女子大生の最後の世代だからな。 >>201
当時親戚が三田に住んでいたんだけど、大阪まで国鉄一本で行けば速いのに
宝塚まで国鉄、宝塚からは阪急って人ばかりだと聞いたことがある。
それが道場南口あたりだと新開地経由梅田が普通で、わざわざ三田経由の国鉄
って人はいないのに驚いたわ。
地域がどれだけ国鉄を忌避していたのかと今になって感心するわ。
宝塚以遠の電化完成〜88年頃までは宝塚乗換えが多かったらしい。
何しろ普通電車2両編成とかあったもんな。 非沿線民だがリアル当時知ってる者だけど、
あれじゃ乗り換えて早く着きたいのは当然だよ。
もっと調べてみてごらん。>>238 いま夜行バスに乗ってるんだが
前のバスが日本交通(鳥取)の米子行バスで、
背面のLEDがシンプルに
米 子 行
FOR YONAGO
なんだよね。吊サボ連想してウルウルきた >>238
キハ58で一本で行くと急行料金取られた時代だし。
普通客レは平気でバカ停するし。 >>242
武田尾でバカ停。
懐かしいな。
止まっている間に猿と猪がおでましだった(嘘 真夏の始発の旧客。
窓全部閉めきってある車両に乗り込むと、当然蒸し風呂。
扇風機が回りだすも、しばらく熱風。 まぁでも旧客なくなった昭和61年とか首都圏通勤車でも非冷房あったからな
貫通開いてると加速と減速で風がながれるのがわかるんだよな。トンネルだとDD51の排煙が流れてくるという >>246
蒸機時代の福知山持ち列車はオハ60・61主体だったから扇風機など
影も形も無かったな。宮原持ち列車との格差が凄かったよ。 支線は基本木造車ー>60系客車の流れだったからね。五能線なんかもオハ61主体だった。
オハ35さえ亜幹線主体、支線にまではなかなか回ってこなかった。
スハ43は、東海道・山陽の急行や長距離普通が廃止されたり、電車化されたりして
余剰ができてやっと他へ転属していった。
東日本は、遅くまで本線で客車主体の運用、客車急行が残ったので、ローカルは
オール茶色の編成も多く、スハ32が最後まで残ったのもその関係だろうね。 >>247
外との空気の一体感が旧客魅力だったな
それにしても昭和61年まで旧客が残った福知山〜豊岡間まで223系になったのはそんな旧客魅力そのものが封印された、禁じられた遊びみたいで実に残念だな。 >>250
前にこのスレだったかに書いたが、
大阪から久しぶりに乗ったら
篠山口以北でようやく、
わずかに国鉄末期の面影が出てきた。
でもすぐに福知山駅で全消しw 旧客時代の山陰線は、倉吉線の混合、夜行の普通客レ、長距離普通列車、蒸気暖房、スイッチバック、余部の絶景、
保津峡の風景・・・全てが汽車時代の面影を残してた。 物理的に無理だな。残念だけど。
路車板の旧客スレにも書いたが
酉が手持ちだった4両(マイテ入れたら5両)を
自ら潰してしまったからね。
現やまぐち用12系が引退のときは
客レとして山陰走らせてほしいね。 ハリボテより京都車で走らせた方がいいね。
京都車もそろそろヤバいだろうし。 福知山線検索だと事故画像出てくるのでいまだに国鉄福知山線旧客福知山線検索 >>255
まだあったんか。…ああ、びわこ号で使ってたか。
ハリボテと言うが、シルヘッダーもついてるし
白帯消したら旧客だよ。
車内の各○○風の改造内装もまだバブル期だったからそれぞれ案外真面目だし、
12系客レ時代を意図してるならオリジナル推すのもわかるけど
俺はいちおう旧客時代を意図して述べたんでね。 >>257
ほんまそれ
別に懐古主義者でも何でもないけれど、福知山線に関しては単純検索では必ず、あの事故が出てくるのが実に残念だorz 大都市のローカル線と呼ばれた福知山線
スピードアップの果てのあまりに不幸な事故だった >>10
SL時代は益田→西舞鶴でやがて浜田→西舞鶴となって
DD時代は浜田→東舞鶴 やがて浜田?福知山となったっけ。
列車番号が綾部で変わるのはなんでだろ?
そして折り返しは東舞鶴(西舞鶴)発ではなくて福知山発。
ただし舞鶴からキハが出て福知山発の客レに接続はしている。
生瀬か武田尾だったか、列車の最後尾にまでホーム長が僅かに足りなくて、
停止位置を間違えてるんじゃないか、などと車中の客がざわついていたのを覚えてる >>262
都会の客かな。長編成客車列車ならホーム足らずの駅
あるのにな。あとブレーキ緩めて連結伸びてわずかに
最後尾扉がホームからはみ出るとか。 夏になると、思う。
汽車旅がしたい。
窓も乗降扉も貫通扉も開けっ放しの旧客に乗りたい。
もう一度再び、汽車旅がしたいと。 ほんとそれ。
別にあの事故があったからではないが、旧型客車あった頃の福知山線封印され、今ある福知山線は忌まわしいあの事故を償う事でしかありえなくなってしまったまるで公害企業のような忌まわしい現実
償わなければならないの言う迄もないが 夏はDD51のエンジン音が暑さをさらに盛り立てるんだよな。
京都駅に入線してもなかなか発車しない鈍行列車。乗り込むと
独特の匂い、むうっとした熱気、振動とともにギシギシと音を立てて
ゆっくりと発車・・・。 大井川鐡道でSL列車に乗ったらあの感覚がいっぺんに
思い出された。 各停だけど、車内販売のワゴンが巡回して来るし。
豊岡駅や和田山駅で40分停車するから、ホームで駅ソバ食えるし。
あと、ホームにある洗面台で、顔を洗ったりするのが、好きだったな。
これぞ『汽車旅』と、言う事を堪能できたよね。 冬の旧客もいい
大阪駅に止まってて、雪は積もってないのに
客車の屋根にだけ雪積んでたりして どれだけ語り合ってもぜんぶ過去にしかないのが空しい。 DD54ってシフトチェンジのタイミングでドッカーンとなるらしいけど、立ってればよろめくくらいすか?
マイバッハの加速力はなかなかすか? DD54ってシフトチェンジのタイミングでドッカーンとなるらしいけど、立ってればよろめくくらいすか?
マイバッハの加速力はなかなかすか? >>274
いやこういう良さって過去だけじゃなくて共感できる人を通して
未来にも色々と生きると思うよ まあでもなんか実際こないだも出雲市から鳥取までダラで乗り継いだけど
俊足な現代DCに揺られてたら都会の列車みたいだったわ。
海辺など自然部分の車窓風景はあの日とまったく変わらないから
余計に思った。 山陰本線の旧型客車列車は何度か乗った事あるけど今でも残念なのは旧客時代の急行さんべに乗れなかった事
末端区間の鹿児島本線部分だけは自由席に乗った事あるけど山陰本線で乗れる様になった時には20系+12系化されていたんだよね
EF65-1000牽引の急行さんべなんて貴重な体験は出来たけど 十分だよ。
こちとら旧客すら乗れなかったんだから
福知山で記念撮影しただけ… >>280
12系の話でも十分にしびれるんですが・・・ 今から30年前、置き換え直前の旧客に乗る為、何度か山陰本線まで行き
ましたが、ある時、香住から浜坂まで、オハニ3611が自分1人だけの貸切
状態になりました。
今思えば嘘の様な、恵まれた経験でした。 >>282
国鉄当時に大阪←→福知山の12系(もちろん車販あり&武田尾の旧線時代)に何度も、
JR化後には豊岡から米子の12系、
山陰地区の客レにそれだけしか乗れなかった俺はシビレ対象に入りますか? ああ、「だいせん」も12系座席と14系3段寝台
どっちも乗ってましたです。
福知山では深夜駅弁販売がありましてね >>284
入りすぎ
俺は佐津〜餘部を12系で一往復しただけだけど一生忘れないよ
窓から手を出して白ラインを青色で塗りつぶしてるのを爪でこすりながら
「微妙に段差が有るんだな」とか思った28年前・・・ 「山陰」末期に、鳥取→京都間をオハネフ12に乗りましたが、多客時という
事もあって満員で、寝台係の車掌が、上着を作業着に着替えて、客の世話を
していたのが印象的でした。 >>287
レスありがとうございます。
現役時代の「生きている旧客」に揺られて旅することが叶わなかったので
この三十年間、歯噛みをなして悔しい日々ですが
こればかりは生まれた場所や世代の順番なので仕方ないですね…
50系も、筑豊(鹿児島)・草津(東海道)・磐越西・東北など各地で乗ってますが
すべての記憶と引き換えに1986.10.31までの旧客列車に1回だけ乗せてくれるというなら
そうしたいです。 >>289
まさに!
小学生時代の大阪駅を変に覚えてるから
「なぜたった一度さえ乗れなかったのか」と
悔しいとか勿体ないとかの言葉で表せないくらい残念なんだよね。
ただ50系でも相当でしょ。
走ってるのを見ただけ。
梅小路に放置されていたもののシートや窓や扇風機を触ると
「生まれるのが遅かったか」と心底思うんですわ。 夏の雨降りだと窓も開けられない、
天井の扇風機はぬるい空気をかき混ぜるだけ、
夜に窓を開けていると蛾が飛び込んでくる、
小駅の待避線で長時間停車中
横を駆け抜けていくキハ82、
いやキハ58でさえまぶしく見えた。 >>290
んー、世代格差やね。
旧客当たり前やったから。
むしろ50系の記憶は短い。 自分の時は181系化されてたけど、まったく羨ましくなかったな
山陰本線、ほんとよかった。いまでもいいんだろうけど
長門以南の鄙びた感じとか、宇田郷、折居に五十猛、田儀、東浜の海沿いに山間の三保三隅、
大山口のD51、久谷のトンネル飛び出し、旧客のドアから乗り出す餘部鉄橋。
鎧はあんなとこで出雲とまつかぜの交換、城崎温泉に保津峡か武庫川渓谷。
なんだったんだろうな。旧客羨ましいのと同じくらいにDD54とかDF50が
走ってた頃に乗った人が羨ましい >>294
まさに山陰線はこのイメージなんだよな
旧客世代それもリアル旧客世代言うよりまさにその東浜の民宿臨海学校で行って民宿の窓から見える山陰本線の旧客が、あまりにも印象的で(ちなみに臨海学校そのものは貸し切りバスで行ったけど)
臨海学校から帰ってから改めてどんどんまた旧客に乗りたいと思うようになって改めて旧客に乗るようになったけれどもそんな理由で乗る様になっただけに旧客=山陰本線に近いようなイメージがある
(勿論他の線でも乗ったことあるが旧客=山陰本線のイメージは他の線とは違う山陰本線ならでは山陰ならばのイメージ
50系客車にも乗ったことがあるけど例え50系客車でも例えば今の羽越本線の村上〜鶴岡間の普通列車あたりとかは架線下DCオンリーになってるからあれだ例え50系でも今よりは全然マシと思うよいや
50系客車どころか羽越本線牽引するのはEF81モーター音爆音イメージで架線下DCなんて電化の意味ないじゃん思うし
明らかにスレチだが何言いたいか言うと50系客車旧客両方リアルタイム世代だが50系客車でも今よりは今のことを思うとまんざらでもないと言うことが言いたい
50系客車や旧客の頃は山陰本線の旧客が東浜のリアルのオープンエアーに対して今の列車と言うものは特急普通関係なく単なる移動手段になってしまってるから
(新幹線でさえ例えば昔の新幹線ならば青柳ういろうとか静岡のわさび漬けとか少なからず旅情を味わうことができたが今は単なる移動手段になってるからね。食堂車やビュッフェがあったころまではまだ良かったがこればかりは時代の流れしゃあないでしょうという事だろうね。
むしろ今は実に残念言うか皮肉だが高速サービスエリア方がまだますのすしとか峠の釜めしとか往年の鉄道に見られた、旅情を味わえるのは実に残念皮肉ですね トンネル通過時に先頭車のデッキに立つと、
目の前のDD54が客車とちぐはぐに車体を
揺らしてる様とものすごい轟音が怖かった。 山陰本線は汽車旅要素が全て詰まってた、特急、急行、夜行急行、夜行普通、長距離普通、倉吉の混合、
荷物郵便列車、余部鉄橋、保津峡、海岸沿い、スイッチバックまであった。・・・で非電化単線。
この頃に思う存分汽車旅できたのは、一生の宝物。スハ32こそ引退してたけど、オハ35戦前製やオハ61
はまだいたからね。 朝の鳥取駅2・3番線西端にたたずんでいると
機関車の入れ替えや、朝の間合い運用に使われた
キハ58などが東西へ向かう急行用に組成替えしてる
しているさまを観察できた。
腹が減ったら砂丘そば。 夏の但馬の田舎の昼下がり。
とある駅に旧客が止まってて、いちばん後ろの車両から
小学生の子が縦笛をピーピープープー吹いてる。
あののどかな光景 シーンとした駅で、車掌と機関士の発射の掛け声だけが良く聞こえたな。
〇〇列車発車、発車ぁ、ポーって汽笛がかっこよかった。
今は旧客もデジタル無線だし、それでやってるのかな。
しかし旧客は停車中静かだったな。 旧客は非冷房でも、米子駅や鳥取駅に停車中の旧客列車は冬になると床下からスチームの湯気が上がってたな 乗り込んだら、モーター音もディーゼル音も聞こえない完全にシーンとした
静寂 普通の景色を走れば、客車内のまあるいの天井が純白で、山あいを走れば、
その天井が黄緑一色に染まる。(何故が。トンネルへ入っても黒くならない)
座席から通路を挟んだ向かい側に並んだ窓々を見れば、美術館に展示された
額縁画を見ているようだった。感動した・・・・ 昭和52年の朝、下関駅にいたら山陰線のオハ61主体の通勤客レが到着、衝
撃を受けたのはマニ60の大きな荷物扉が開いた中からぞろぞろと多くの女子
学生までもが降りて来た。スハニ35(スハ44系の荷物車)からも続々と・
・ しかもその編成にはスハニ35が2両も入っていた・・・・ wikiによれば「スハニ35は1970年までに全車他形式に改造された」
と有るが、小生の見たものは何だったのか?確かにこの目で見たのに。
あの衝撃で目が狂っていたのだろうか? 連投スマン・・・ 昭和52年〜53年に、山陽線の153系快速・普通に乗って下関へ。そこから
山陰線の客レに乗り換えて長門市方面へと・・ 当時は全車オハ61系のフワフ
ワした縦ゆれとジョイント毎の下からの衝撃。(快適・静かな153系との落差
に)辟易としたが、現在になって思えばの毎日の通勤の103系の台車に比べ
てマシだったな!と反省。また現在新規投入された225系5100でも15
3系の台車DT24の快適さには勝てないなァ・・・ 所々ズンズン下から響い
てくる。 153系の方が165系電車より良かったな
明らかにスレチなの百も承知だけども、
165系電車モーターは兎に角うるさく、
153系モーターは旧客的静かさだった。 >>313
153系のTR59 DT24台車の方が乗り心地が良かった。165系は何かとフワフワ
していた。あれは飯田線の急行「伊那」等には向いても「鷲羽」「比叡」には使
うべきものではない。電車の運行本数が少ない路線で乗客から急行料金を毟り取
っていた。急行と言うよりも、停まらない各停であったな。乗客の内容が日常の
買い物客とか一寸した所用客であったな。急行らしい大阪発夜行の「ちくま・く
ろよん」に乗ったが翌朝までフワリフワリで眠れなかった。 フワフワ台車の話で思い出しての連投スマソ。小生はスハ43・オハ46
の台車ももあまり好きでなかった。むしろTR23に換えたオハ47に乗っ
ていた。一番好きだったのはオハ35丸屋根車だった。オハ35丸屋根>
オハ47>オハ46>スハ43>オハ35戦後型>スハ42の順だった。
オハ46純正はTR47台車ながら鉄板屋根だがスハ43のようにあまりフワリ
フワリしなかったが、ジョイント音はあっさりと冷たかった。オハ35戦後
型はゴリゴリした安ッポイ感じ。オハ35丸屋根は大きな木製の酒樽を柔ら
かく叩くような「コンコン」とした暖かい響きが車内いっぱいにしてとても
好きだった。ポイント部を通過しても音だけで車体は全く揺れなかった。
台車の優等生だった。 スハ43・スハフ42は体重的に頭デッカチなので、ポイントを渡った
ときなど、長周期的に右へ左へフワリフワリと揺れるのと、ジョイント
音があっさりしすぎて嫌いだった。ナハ10のTR50は音だけでは良か
ったが、小生の云う旧型客車では無い。上記の文章があまり下手なので
済みませんでした。 TR50以降の新型台車は短軸間台車なので、ジョイント音そのものが違った。今でもオハニは
ジョイント音だけだと、50系や12系みたいな感じ。TR47やTR23とは別物。 スハ44とスハフ43が福知山線の鈍行で走っていたのは、同客車が急行銀河から引退(昭和50年3月)して以降だったのでしょうか。
また、スハ44とスハフ43はいつ頃まで福知山線の鈍行で走っていたのでしょうか。 >>318
宮原のスハ44は銀河だけでなく日南にも使われてたよ。50.3で消えたけど。 スハフ43といえば高松松山間で見かけたりDF50牽引の鈍行に乗った。
山陰福知山線での記憶はないな。昭和50年代前半にはつくしや日南
、銀河から撤退、四国にわたったんじゃないの? 昭和53年の3月に長門市到着普通列車でガタガタのオハ35に混じって
いるのを目前に見たよ。番号は控えずだが、都落ちの車にしては新車同様
に丁寧に塗り替え立てでピカピカだった。宮原持ちのスハ43・オハ47
でもあんなにきれいなのは見たことがなかった。小生 >>308で下関で見た
スハニ35のことをカキコした者です。シートピッチが狭いので乗ろうと
は思わなかったが・・・・福知山線大阪口でもしばらく使用されていた
期間があったが気には留めなかったが短かったと思う。確か宮原所属では
なかったような・・なぜかというと、スハ43やオハ46・47と組んで
いるのは見なかったのでたぶん福フチだったのかも・・・・ 小生>>311で下関口のオハ61のことを書いた者だが、スレチでゴメン。ある日
鉄ファン誌を見ていたらページ巻頭の目次で『陰と陽が出会うところ』との
投稿写真のテーマが有ったので男性特有の期待感と何か宗教的なオカルト感に
そそられながら当該ページを開いてみると、何と山陽線・山陰線の幡生駅西方
で両線が分離していく場所を撮影しただけの内容だったにはただ呆れたwwww >>321
福知山線で使用されていたスハ44の実例。
1974年11月.26日 736レ 大阪
DD54 20福
ナハフ11 2007大ミハ
スハ44 29大ミハ
オハフ33 468岡イト
オハ35 3169大ミハ
オハフ33 122岡イト
スハ44 26大ミハ
スハフ42 2255大ミハ 中学のとき小さなテレビのついたソニー製のラジカセを持ち込んでヘッドホンで風の「夜汽車は南へ」を聴きながら乗ったのがいい思い出だわ 歳とるなぁ…
リアル旧客に乗れずいつも悔しがってる者ですが、
(当時なら福知山から先へ乗れば泊まりがけになる
小学生のうちは泊まりがけは禁止されてたため)
それでも何とか86/10/26に福知山に「接するだけ」のために行けました
が、それが動いている国鉄通常運用の旧型客車を見た最後になりました
オハフ33とオハフ45の写真が残ってます。車番を控えなかったのが残念 そうか既に30年前の今日は過去の車両か
旧型客車引退後も城崎(温泉)以西では、50系客車や12系客車が頑張ってたけど12系客車撤退してからも既に20年近い
223系電車とか新型電車が投入されたり城崎(温泉)以西の非電化区間においてもトワイライトエクスプレス瑞風の東浜駅停車とか今でも明るい話題もあるけども山陰本線福知山線の今では全く必要ない長さの長いホームはわびしさしかないな
JR西日本が旧型客車に残酷冷酷なのは国鉄時代からだからしゃあないとしても今も当時のままの長いホームその理由を「どうしてこんなにホーム長いの?」と孫の子鉄や孫娘の鉄子に質問された時に
「昔昔旧型客車という長い列車があってこのホームいっぱいに止まってたよ」と孫の子鉄や孫娘の鉄子に教えてほしいとこのスレの住人にお願いするしかないな 326です
ただ、これもどっかで何度か書いたように
「ドア保安なしの本来の供用スタイルでの旧客」そのものには
乗ることができました。はい、和田岬線です。
ふだんの64系も紛いなく旧客ですが、
山陰で乗り損ねていた当時の私にとっては
64系は旧客ではありませんでした。
64系時代の兵庫へは三度ほど訪問しただけでしたが
たった一度だけ、予備車のスハフ42 2254が兵庫方に連結されており、
「本物の旧客」との感無量の邂逅でした。
初め貫通扉は閉められてましたが、自分であけて
去りゆくレールを展望したり、デッキから身を乗り出してみたり
座席にすわって旧客のたたずまいをかみしめてみたり、
山陰で叶わなかったことを夕方1往復の短い時間で全て叶えました。
スハフ42には、私ひとりでした
いま振り返っても夢での出来事みたいです。 山陰線の50系
京都〜福知山までの運用は知ってますが、
福知山駅以西では、どこ駅以西に50系の運用が実在しましたか?
福知山〜豊岡〜浜坂〜鳥取に50系の定期運用はありましたか?
路車板で疑問が上がってまして… 営業運転をする旧型客車には3歳か4歳の頃に乗ったような気がするかすかな記憶があるのだが定かではない。 大阪駅で年末の大雪のため急行だいせん1号が運休、やむなく後続の
10時頃発の鈍行(米子行だったような)に乗ったら長距離客で満員、
網棚にも荷物が並んで往年の客車急行の風情を味わえた。 80年代初頭、但馬のばあちゃんちに帰るために大阪駅で急行但馬5号に乗るんだけど、
その列車が来る前にそのホームには雪積んだ旧客が止まったりしてた。
おかんとこれに乗っても帰れるんだよねとか言いながら。 昭和50年 大阪〜摂津本山までの定期券旅客となった私は、8時32分発の
各停西明石行きに乗車していたが、友人から尼崎までは8時30分発の篠山口
行き客レに乗るよう薦められ、大ミハのオハ47やスハ43の客となった。
尼崎8時39分に到着する頃、後発した各停西明石行きクモハ51を挟んだ
72系が到着。それに乗り換えていた。昭和51年3月に旧国の運用が終わる
まで、それはそれは楽しみの毎日であったのが懐かしい。8時30分客レが出発
する直前に、3番線に到着する急行きたぐにの2号車のスロ54としばし併走
(10秒ほど)していた。 連投スマソ。8時30分発の客レは8時10分頃から2番線に入線して
いたので、特に寒い冬季は早いめに大阪駅へ行って、暖かいスチーム
暖房の充満した天井の高い広々とした客車空間を楽しんでいた。その内
にハイケンス オルゴールが鳴って案内放送「途中 塚本・草野・南矢代
には停まりません云々」と言っていたなあ・・・ 自己満のカキコゴメン
ナサイ・・・ 過疎ってるから、カキコゴメン。>>334続きです。
尼崎8時39分到着前に放送。「まもなく尼崎です。ホームは右側です。列車
良く停まってからお降りください。立花・甲子園口・芦屋・神戸方面お乗換え
です」と言っていたが、小生と同じく1駅だけ乗る人が居るのを知っていたの
か、それとも誤乗した人のためだったのか? 今になって不思議だ・・・ もっと不思議なのは東海道線上り快速の大阪駅到着直前の車内放送で、
「まもなく大阪大阪です。新快速京都行きは8番線、次の福知山線は2番線
へお回りください。次の普通列車の福知山行きは〇時〇分、環状線は環状1
番2番のりば」とか言っていたが、例えば(芦屋→川西池田)などの乗客で
実際の乗車経路(大阪〜尼崎間)の乗車券を持っていなくてもこの区間分は
見逃してくれていたいうことなのだったのか? 一旦大阪駅改札を出て買い
なおす正直な人は皆無だろう・・・不思議な案内だと思った。 単に全列車案内なだけでしょ
福知山線が尼崎分岐なのを知らん人のほうが多いでしょ。 >>337
尼崎通過列車だから大阪・尼崎間の区間外乗車が適用されるだろ。 尼崎通過の列車が多数存在してた時代の名残かな?
今区間外乗車が適用されるケースって はまかぜ・はくとくらい?
規定が変わってたら知らんけど >>341
国鉄時代の緩行線快速は尼崎に停車しなかったんだよ坊や。 >>342
↑
恥の上塗りで片腹痛いww
「区間外乗車」って知ってる? 342は当時東海道線快速は尼崎通過だったため下記条項の適用を
言いたかったのだろう
旅程第151条
列車が次の左側の駅を通過するため左側の駅と右側の駅との間を
折り返し乗車する場合は、当該区間内において途中下車をしない限り、
旅客は別運賃を要さずに、当該区間の区間外乗車をすることができる
ことを定めている。 尼崎駅・大阪駅間
それに対する343の回答「区間外乗車」とは上記のことなんだが。
会話噛み合っている? 334、336だけじゃなく337も昭和50年当時の話なんだろ
それなのに338、341、343は現在のことと誤認してるんだな
尼崎駅の東海道線の快速停車は1997年
それまでは東京の日暮里駅みたいな感じだったのよね 尼崎通過は誤認してないよ
でも344の書いてあることを誤認したみたい。
344がレスする前に調べた
悪かったな 尼崎は福知山線の快速は止まってたからややこしいと言えばややこしいけどもな
そう言えば今でも塚本駅には止まるのと止まらないのと両方あるのもややこしい 駅到着前の「ゴーーッ」と床一面に響く音とともに停車寸前には、大概の車掌
・駅アナウンスは「列車 よく停まってからお降りください。」と連呼してい
た。今ではよく停まってから降りれる列車なんか無い。寂しいな・・・・ 過疎ッたら悪いのでカキコ。今でも「ゴーーツ」と共に耳に響いてくる。
「ささやまぐちーッ・ささやまぐちーッ」「ご乗車お疲れ様でした。国鉄バス
で本篠山、ふくすみ方面はお乗り換えです」「到着の列車は普通列車大阪行き
です。」とともにその隣にはキハ26が「カランコロン カランコロン」
懐かしいなァ・・・ >>349 訂正です。
今ではよく停まってから降りれる列車なんか無い。←表現の間違い
正しくは→「今ではよく停まってからでないと、降りれる列車しか無い。」 >>350
もっと前なら「篠山線福住方面は只今連絡列車が御座いませんので駅前からバスを
ご利用下さい」なんて聞いたよ。 >>350
篠山口位になるとホームの向こうからよく聞こえてきたなァ・・
おじさんの生声で「弁当ォー 弁当ォー・弁当にお茶ァー」「ジュースにみか
んんー」おじさんから窓越しに直接買えたなァ・・ >>354
三田まで来ると、「ハイケンス→次は三田 三田でございます。神戸電鉄で
有馬温泉・神戸新開地方面はお乗換えです。」「三田を出ますと、道場、武
田尾、生瀬、宝塚の順に停まってまいります。」 >>355
生瀬を出ると、「ハイケンス→お疲れ様でした。まもなく宝塚、宝塚でござい
ます。阪急電車で西宮北口・神戸三ノ宮方面はお乗換えです。」「車内にお忘
れ物のございませんようにお降りください。」そう言っている内に「宝塚ァー
宝塚ァー」到着だった。 福知山駅で高架になった今では食べる事の出来ない「鬼そば」を食った。
「鬼そば」と言ってもホントに何も入っていないのに他の駅そばに比べ
て5割くらい高かった。これは正に「鬼価格だ」「ボッタクリそば」と
改名すべきだ!と思った。姫路駅のマネキの駅そばとは雲泥の差だった。
姫路駅のは何回も食いたくなる何かが入っているのかも知れないと思っ
た。 またコピペか?
鬼そば=生そば(きそば)
つまり単にそば屋でっせという生そばの「き」に鬼の字を充てて
地域性ある屋号風にしただけのものだから。
(大江山の鬼退治の地域) てか姫路のどこがうまいの?
フツーなだけで特別のうまさは無いだろ。
中華麺という変則さが名物にしては白くて有難味ないし >>360
の言うとおり、特に美味いという程のものではないが10年前までの
地上駅にあった売店のものは何故か飽きずに食べていた。高架になって
からは、1度も食っていないし、あんな愛想のない建て方の所では食お
うとも思わない。品物自体よりも、やはり雰囲気が大事だな。古い駅の
狭いホーム上でスペースをとっていた場所が良かった。姫新線・播但線
が30・31番線というより「東1番2番 西1番乗り場」と言っていた
頃が・・・ それなら了解です
地平駅時代のは美味く感じたのは同感です。
平成初頭あたりまでは上屋柱に筆書きの「ひめじ」ホーロー板が健在でしたね。 昭和50年代の黄色い103系がまるで似合わなかったな。架線下の複線にキハ47がやってきたり、DD51が牽く山陰や篠山口から来る10系や42系の普通列車…さすがに白熱灯じゃなかったけど天井に家庭と同じサークル蛍光灯がズラリと並んだのは印象的だったなあ。
それから塚本通過してから鳴る大阪終点を知らせるハイケンスは心地良かったが開けっ放しのドアは怖かったな。 砂丘そば、大山そば、鬼そば
他にどんなのれんのソバ屋があった? 瑞風とは別に気軽に楽しめる長距離列車を検討中とか。
ちょっと気になる。できれば客車でやってほしい。 松本伊代がフラフラして列車止めた所?風光明媚だし解らんでもないが駄目orz 福知山線のひげ線、金楽寺駅のほう(だっけ?)に行くのは、
客車?気動車?
乗り潰しに行ったとき、駅員さんに
「あと2時間もあるからやめとき」
って諭されて、切符だけ買ったの覚えてるw
小学生の時。 福知山線の客車列車と言えば、DD51。
担当機関区は、米子機関区、福知山機関区、吹田第一機関区ですね。
米子、福知山のDD51は、古い車もあれば、新しい車、1100番台もある。
吹田第一のは、かなり古く、一桁や二桁の車が走る。また、福知山線の南部を中心に走る。
吹田第一機関区のDD51。
DD5112、正面ナンバーの白線が下側、如何にも初期のDD51。
DD51833、ごく普通のDD51。
DD51752、正面ナンバー白線無し、赤ナンバー。如何にも九州出身の出で立ち、無理も無い、熊本機関区で、デビューして、東新潟に転属して、吹田第一機関区に来ました。
DD51754、これもまた、正面ナンバー白線無し、赤ナンバー、如何にも九州出身の出で立ち、吹田第一機関区に転属して、正面ナンバーに白線が入り、ごく普通のDD51になりました。 福知山線の客車列車は、DD51。
福知山機関区のDD51で
DD51571〜DD51575があった。
正面ナンバー白線無し赤ナンバー、如何にも九州出身の出で立ち
無理も無い、その車は、鳥栖機関区出身だからだ。 福知山線は武庫川に沿って走ってたような気がする。
河原に人がいたので列車の窓から手を振った。
それから河原の人もこっちに向かって手を振ってた。 福知山線と言えば、宝塚駅。
宝塚歌劇団の女子学生は、福知山線の客車列車に乗ったか?
それとも、阪急電車に乗ったか? この中にも824レに、門司から福知山まで乗り通した兵がいると思うが
福知山に着いた後、どうしたか教えてくれ。
俺は定番通り3時まで待って、上り「山陰」に乗り継いだ。
駅ネしたり下り列車で折り返したり、ご法度のクルマで掟破りした奴もいるだろ?w 門司発福知山行きの相棒は
豊岡発門司行きであった。 >>376
従兄弟分が大阪発出雲市行きだったかな? >>372
阪急が経営していた歌劇団の生徒が
(正確には宝塚音楽学校)
国鉄に乗るわけないだろw
あのグレーの制服が懐かしいわ。 浜田発東舞鶴行(綾部からは列車番号変更)の相棒は
福知山発浜田行。SL時代は益田発西舞鶴行。 大阪発米子行きが翌朝米子発京都行きになるんだったっけ?それとも違ったか?鉄道ジャーナルに詳しく書いてたけどもあまりに複雑すぎておぼえていないただ大阪発鳥取行きがそのまま翌朝の鳥取発大阪行きになるシンプルなものもあった
>>376
大阪発出雲市行きは確か浜田行きになりさらにその翌朝の浜田発大阪行きのはずただ出雲市発浜田行きだけの筈ないので(それだと今と変わらない事になる訳で)出雲市発下関行きとか筈だが覚えてない嗚呼、あの頃の運用表がもう一度見たい 820列車米子発京都行き825列車京都発浜田行き827列車京都発出雲市行きかな
今日2月10日(金)松本伊代が山陰本線の線路に立ち入った件で書類送検されたが伊代がまだ16だった頃の国鉄山陰本線はドア扉を開けたまま扉を開いたまま走る旧型客車長距離普通列車当たり前だった
伊代がまだ16だった頃の山陰本線ならば伊代は恐らく書類送検されなかったろうしかし実に残念ながら残酷シビア言うか伊代がまだ16だった頃の国鉄山陰本線と伊代がもう16ではない今のJR山陰本線違う故に書類送検するしかないだろうな
特に松本伊代ファンでもヲタでもないが伊代がまだ16だった頃の国鉄山陰本線をドア扉を開けたまま扉を開いたまま走る旧型客車長距離普通列車当たり前の頃の山陰本線を知っていると実に複雑だorz 福知山到着後、ナハ21で折り返し。
4人で座ると窮屈だった。
大山口で停車中にホームと反対側の
ドアを開けて隣の上り旧客に乗り換えた。 3月にサロンカーなにわを夜行で山陰線走らせよるな。
申し込もうかな・・・。 旧客最後の夏に自宅のあった滋賀から餘部橋梁へ写真撮影で向かう途中、
和田山駅で停車前の車両からホームに降りてしまい転倒、腫れ上がる腕の痛みに
湿布を貼って耐えながら、餘部橋梁にて夕方まで撮影を敢行。
翌日は日曜日だったので、月曜日に病院へ行くと、人生初の骨折だということが判明。
病院から帰ると祖父が亡くなったとの連絡が・・・。
親には怒られ、兄弟には馬鹿にされ、いろんな意味で痛い思い出となってしまった。 ヤフージャパンブログ社員ダイエットニュース マイナス金利狙い通り「仏」ローーンロンロンローーン
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中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティーマスク女問題駅内マスクオンNACNN向け原文ダビンチ月刊(ニッカン)中國春文渋谷区木の葉崩しニュース7億5千万 旧国鉄倉吉線を体験の催し06/04 16:31nhk
ふるさとを走っていた鉄道を町おこしにつなげようと、倉吉市にある旧国鉄倉吉線の跡地で4日、蒸気機関車が走る鉄道模型や地元の食を楽しむイベントが開かれました。
このイベントは、昭和60年4月に廃止された、旧国鉄倉吉線の跡地に造られた倉吉市内の公園で開かれました。
園内にある倉吉線の記念館には、幅およそ4メートル、奥行きがおよそ3メートルのジオラマの中を走る鉄道模型が特別に展示され、倉吉線を走っていた蒸気機関車が、駅を通過していく姿に親子連れが見入っていました。
公園には、倉吉駅と山守駅を結ぶおよそ20キロの倉吉線で走っていたのと同じ形式の蒸気機関車が展示されていて、子どもたちが操作レバーを動かして楽しんでいました。
会場では、旧倉吉線沿線の地産地消をPRしようと、山守駅があった倉吉市関金町で取れたイノシシを使ったシシ汁が無料でふるまわれ、訪れた人たちがみそ味の山の幸を味わっていました。
小学1年生の息子と来ていた倉吉市の40代の女性は、「倉吉線は私の記憶の中にもあるので、こうしたイベントはいいですね。子どもも鉄道模型で遊べて喜んでいました」と話していました。 昭和48年8月27日 浜田から長門市まで823レに乗った。浜田から益田まで全部通過で、牽引機はD51(長)とC57(浜)の重連、絶気、給気の汽笛の共演を聞けたのは、いい思い出。
朝の4時台に浜田を出発だったので、カマの姿はほとんど闇の中だった。これに乗るために、浜田駅の駅舎の外の木製ベンチで一夜を過ごした 昭和50年代半ばの頃は福知山線の旧客普通列車でも弁当の車内販売があったと思う。宝塚ぐらいで弁当屋さんが乗り込んできて、道場で上りに乗り換えるのを見たことがあります。
どのぐらい売れていたのかなぁ 福知山駅で売ってた栗弁当、よくある栗の甘露煮がのっかってる味ご飯じゃなくて、
むきぐりをご飯と一緒に炊いたやつだったんだ。
箸をつけて半分ほど食べたとき、「このご飯はばあちゃんが好きだった」
て思い出して、残りは食べずにばあちゃんちに持っていった。
大阪発浜田行だったかな、旧型客車の旅。 391さん
1986年の12系客レでもまだ車内販売あったよ。
浪花(篠山口駅の弁当屋の屋号)の弁当だった >>394さん
篠山口に弁当屋さんがあったんですね。結局一度も買ったことはなかったですが・・
12系・50系はあっという間に、なくなりましたね。
いつでも乗れる、と思っていて、客車好きなのに一度も乗ったことがなかったです 12系、60-3から61-11まで最期の1年半ちょっとだったけど結構良かったよ
50系は60-3以前から入っていたけど京都口中心で大阪では少なかった 旧客好きなみなさんはやはり大井川鐡道乗りますか?
発車時の自動連結の音、車内の匂い、ジョイント音、デッキの灯りを
味わいによく乗りにいきます。山陰線走ってたオハ47がいるんですよね。 遠いからなかなか行けないけどね。
長距離鈍行企画のときプレスばっかり乗せて一般応募者をかいもく乗せなかったし
次からも抽選ありきでちっとも当たらない。同じ抽選でも前回外れ者への優遇とかもない
本当に乗りたい人は待ち構えているわけだが、早い者順方式にも頑なにしない。
あれで大鐵に対しての感情がずいぶん消沈したよ 大鐵は急行はまなすの14系を平常運転のSLに連結し、
旧客は団体列車に使用する・・・との憶測もあり、個人で旧客
乗れるのもあとわずかか? >>399
トーマスカラーで良ければ夏には一般で乗れるよ >>398
無作為抽選と言いつつ実際は選別じゃないのかな?
男だけ2-3名以下は基本落として余った枠へ(7‐8名団体なら通す)
家族連れ4名は優先順位高。 夫婦で申し込んだら外れたことなし。
男同士の友達が全滅から判断した。 なるほど、想像の斜め上を行ってましたわ。(もちろん悪いほうに) 大井川ってハーモニカふくとか変な観光案内するとか
そういうのが嫌でためらう。
黙って車窓たのしましてくれよとおもう。 >>400
残念ながらctチの客車はオレンジになっちゃってるんだよなー
>>403
それな。発車のときの音を楽しみたいのに発車と同時に案内開始。
ハイケンスで車掌アナだけでいいのに。まあ観光列車だから
しょうがないな。 >>403-404
それをやらないことがウリの企画列車が>>398>>401だもんな。 >>405
そしてその企画列車には乗れないという・・・負ループだ。
ようつべには山陰線鈍行の映像が多く上げられているから
(特に「国鉄時代の・・・さん」の映像)、アマゾンのTVスティックで
テレビの大画面で楽しんでる。 59-2改正でかなり客車が変わると聞いて1月豪雪の時も何度も乗りに行った。
大阪まで屋根に雪載せてきたもんだ。
ナハ、ナハフとオハ35の茶ニス車がかなり減ったな。 伊丹住みだけど12系は結構長かった気がするがたった1年半だったのか。
50系はあまり記憶にない。乗った記憶はない。見た記憶はかすかにあるかも。
旧客は旧の伊丹駅舎があった頃に乗ったことがある。
阪急(とはいっても伊丹線は吊りかけの920や810だったが)に比べてあまりの古めかしさに驚いた。
トイレから線路が見えていたしw 伊丹住みと言うだけで羨ましいわ
しかし尼崎港まで乗ってなかったりするとか 大阪から旧客乗って、宝塚から山に入って、三田に到着して神鉄を見ると、
都会に一瞬戻ってきたような気がしたな。 >>394
弁当屋自体も無くなりましたもんね。
あの弁当屋さん、夜行だいせんのお客にも売っていたので
いつ休んでいたのでしょうか。 野中元自民幹事長、倒れ搬送 意識不明の状態か
11/28(火) 7:20配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171128-00000000-kyt-l26
元自民党衆院議員で官房長官や党幹事長、京都府副知事などを務めた
同府南丹市(旧園部町)出身の野中広務氏(92)が27日午後9時すぎ、
京都市下京区のホテルで倒れ、近くの病院に救急搬送された。
関係者によると、意識不明の状態という。
野中氏は園部町議を振り出しに、町長、京都府議、府副知事を経て、
1983年の衆院旧京都2区補欠選挙で初当選。
自治相(現・総務相)や国家公安委員長、官房長官、党幹事長などを歴任して
2003年に政界を引退した。衆院当選7回。02年に勲一等旭日大綬章。 篠山口の駅弁、どれも魚肉ソーセージの焼いたのが入ってた。
特に美味い訳ではなかったけど好きだったな。 篠山口のは昔ながらのシンプルな幕の内というのがよかった。
シーズンには黒豆もいくつか入ってた気がする。
食堂は残ってるようだが、駅弁がもうなくなってから10年くらいたつか?
車販リストラとともに、系列のコンビニ弁当的なのに侵略された。 >>415
食堂の建物、かなりまえに、とっくに跡形もなくなってるはずだけどな。 随分前に今時の橋上駅に建て替えられてるよ。昔の面影なんて皆無だな。 山陰の列車だけど、その当時は愛称がついてたかどうかを言ってるような気がする。
山陰は長距離列車だった。
それから山陰本線を走ってた。 うちの昭和48年(1973)時刻表見るとまだ愛称は付いていないね。
827レ 出雲市行きとしか書いていなかった。 山陰号に愛称がついたのは昭和51年3月改正かららしいよ ながさき〜ほうほう
山陰〜うんうん
からまつ〜え?あ、そうか
はやたまわ〜はあ?
って感じだったな >>424
からまつ→名前が植物(マツ)ってことは判るが、列車系統との関連がいまいち解らん・・
はやたま→(熊野速玉大社を知らなければ初見ではちょっと解らんわー)
↑こんな感じかな。 >>427 ありがとうございます。そうじゃないかなと思ってました。
今の駐車場あたりですね >>427
淀江か大山口かと思ったけど、両方ともカーブしてなかった。 http://blog.goo.ne.jp/terunao920/c/85ec5e74dd7d58414ec2f1223d6a99e3/7
デジカメで撮ったかのごとく鮮明な写真だね。昭和52年とは信じられん。
リバーサルで撮っても必ずしもこうはならんから、
レンズとフィルムとタイミングの各個体差がバッチリうまくいったときだけだろう。 伊丹住みでしたが五歳の時にほぼ宝塚市の市内北部に引っ越すまで阪急しかないと思ってた
引っ越したあとは中山寺駅が遊び場になったけど電化でツマラン駅になって行かなくなった
それでも家のベランダから列車を見れたが旧客はいつも来るヤツなので香住発かなんかの50系を見た時の方がテンション上がった
今思えばモッタイナイ話です >>432
豪雪だった1984年の1月、屋根に雪のっけて鳥取方面からSGの暖房効かせてくる旧客乗りたくて
宝塚-大阪間でもわざわざ乗りに行ったな。 50系は今後増えるだろうと思ってたけど・・増えずに翌年12系とは驚いた。 その12系客レの時代しか知らん。
旧客最末期S61の7月と10月下旬、福知山まで往復した。
大阪駅で冷凍みかん、車販では篠山口の駅弁も売ってて買って食べたし、
帰路では腕木信号機の残存していた武田尾駅にも下車訪問したが、
やはり、福知の客レは、旧客時代に乗りたかった。
山陰ふくめて「生きている旧客」には、とうとう乗れなかった。
JR化後のドア保安ナシの64系と運よく予備車運用にも乗れたが、
先輩方の多い懐かし板だから、若い世代からは贅沢だと思われることを言わせてもらうけど、
JR化後のオマケみたいな運用は俺には「生きている旧客」じゃないんだよな。
61.10.31を最後に未来永劫乗れなくなった通常運用こそ「生きている旧客」なんよ。
毎度すまんけど、おそらく死ぬまで無念に思い続けてることのひとつ。 よく学校終わってから塚口駅まで尼崎港行きの入線作業を見に行ったものだわ。三菱電機専用線も懐かしい。 僕が生まれて初めて旧客に乗ったのは1984年(昭和59年)の3月・・・当時はまだ中学生でした。
乗車経路は↓。ちなみに乗車券は青春18です。
大阪7:45(735ㇾ)11:30福知山12:21(835ㇾ)19:08米子 ※835ㇾの始発は京都
735ㇾは川西池田で博多行きの「まつかぜ1号」に道を譲りました。
735ㇾ・835ㇾ共にオハ35やオハフ33(スハフ33?)に乗車、835ㇾは他にナハ10やオハ61、オハ47が連結されていました。
オハ61は背もたれが木製で痛そうな感じがしましたし、ナハ10やオハ47は新しい感じがしたので避けていました。
オハフ33は835ㇾの最後尾の車両で開け放たれた貫通扉から見た餘部橋梁に少し恐怖を覚えました。
このオハフ33は妻面が絞られていたので戦前型でした。
帰りに乗った米子21:09発の826ㇾ「山陰」は、この当時すでに12系化されていました。
又、最後尾に10系寝台車が連結され羨望の眼差しでみていました。
朝、5:24に京都に着くと同じホーム向かい側に5:25発の旧客・833ㇾ浜田行きが発車直前でした。 昔は今ほど夏場が暑くなかったし、学生は、旧盆が終わって9月に
なろうかという頃に夜行で移動していたが、冷房が無い事の不快さは
余り感じなかったね。
冬場にしても12系よりも暖かった気がするんだわ。 僕が生まれて初めて旧客に乗ったのは1984年(昭和59年)の3月・・・当時はまだ中学生でした。
乗車経路は↓。ちなみに乗車券は青春18です。
大阪7:45(735列車)11:30福知山12:21(835列車)19:08米子 ※835列車の始発は京都
735列車は川西池田で博多行きの「まつかぜ1号」に道を譲りました。
735列車・835列車共にオハ35やオハフ33に乗車、835列車は他にナハ10やオハ61、オハ47が連結されていました。
オハ61は背もたれが木製で痛そうな感じがしましたし、ナハ10やオハ47は新しい感じがしたので避けていました。
オハフ33は835列車の最後尾に連結され、開け放たれた貫通扉から見た餘部橋梁に少し恐怖を覚えました。
途中の混雑は鳥取から数駅程度、赤崎に到着する頃には車内は閑散としていたと記憶しています。
又、このオハフ33は妻面が絞られていたので戦前型でした。
帰りに乗った米子21:09発の826列車「山陰」は、この当時すでに12系化されていました。
又、最後尾に10系寝台車が連結され羨望の眼差しでみていました。
この当時は「私の旅のスタンプ」が大人気、少しでも停車時間が長ければ車外へ出て
みんな我先にスタンプ台に向かってダッシュしていました。 あの頃は若かった。
朝、5:24に京都に着くと同じホーム向かい側に5:25発の旧客・833列車・浜田行きが発車直前でした。 次、旧客に乗ったのは1985年(昭和60年)の8月・・・当時、僕は高校1年でした。
乗車経路は↓。ちなみに乗車券は青春18です。
大阪5:49(721列車)17:14米子19:15(3822D-822D)21:36東浜
この当時、721列車は既に12系化され、3822Dの始発駅は下関(米子まで急行さんべ)です。
※東浜で駅寝2泊&海水浴
東浜5:45(522列車)9:19福知山9:34(738列車)12:43大阪
この522列車が旧客でしてオハ35に乗車したと記憶しています。一方、738列車は12系でした。
実は旧客に乗車したのは、これが最後・・・良い経験をしたと思っています。 自分も旧型客車乗れてナハ10乗れなかったクチ。
廃車寸前はボロいだの隙間風が酷いの言われてたそうだけど、それでも一度乗ってみたかったなぁ。 割と近い世代が多いけど志向様々だねぇ、今51歳で59年2月改正時で17歳。
この改正でナハ・ナハフの半分余りが消えるということで乗りたくて関東から出掛けて行った思い出。
オハ35茶ニス車も60-3待たず59-2で落ちた車両が何両もあって、僅か2年の変化が凄く大きかった。
東京近辺は57-11で旧客消え、大阪まで行けば乗れる!とせっせと通ったよ。 あの時代ナハ10に加えて35系や43系の近代化された内装は好きだった。今でこそもっとニス塗り車に乗っておくべきだったと後悔しているが。ナハは乗ってる限りでは傷んでる印象は無かったけどね。 ナハ、ナハフは個体差があったと思う。ナハフ10 28はちょっと台車のガシャガシャ音がでかいけど
椅子は軋まなかったと当時のメモ書きにあった。 乗るたびに編成歩いて全車の編成メモってた。 確か鉄道ジャーナルの200号に門司→福知山の824列車のレポートが載ってたような。
著者は大阪の堺でナンバーの進学校の生徒。
あの頃のジャーナルは一般から旅行記を公募していたんだな。
消防から厨房の頃に掛けて・・・昭和53年頃から同57年頃に掛けて大阪駅まで良くに写真を撮りに行ってたけど
絵入りのヘッドマーク付きのブルートレインや北陸特急ばかり撮ってて他はあまり撮ってない。
新快速ブルーライナーの写真と辛うじて10系寝台+12系の「きたぐに」、雲仙・西海の最後尾に
ぶら下がってた青色の旧客荷物車の写真があるが、何故か沢山走ってた福知山線の旧客の写真が一枚もない。
ついでにスレチだけど113系のグリーン車もな。
因みにこの頃は福知山線の他、紀勢線や和歌山線にも旧客の客車列車が残ってた。 >>388
まだその頃の浜田駅前には万灯山と道分山が聳えていた時代ですな。
あれいつ位に崩されたんやろ。
昭和60年にはまだ工事中やったな。 今の時間だと、下りだいせんが篠山口、上りが鳥取あたりでしょうか きりはまビーチ駅とは何だったんだろうね?
90年代初頭なんて既に海水浴列車は終焉直前でしょ >>454
そうなのか。隣の上夜久野か丹波竹田あたりなら駅近くにスペースありそうだから移転してほしい ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ 山陰線の旧客=行商のばあさんのイメージ残ってる。
旧客とともに行商ばあさんも一掃されちまった。 客車の話ではないがDD54が牽引してた時はアタリ感があった >>461
篠山口発の逆行運転C11の煙室扉が力行時バリバリ鳴るのが
もっと迫力あったよ。 下滝手前の谷川寄りのポイント、昔から100キロ制限? 現在の最高時速
120km/h(尼崎駅 - 新三田駅間)
ただし、尼崎駅 - 宝塚駅間は2005年6月19日から当分の間、95km/hとなっている。
105km/h(新三田駅 - 福知山駅間)
運転指令所:
尼崎駅 - 新三田駅:大阪総合指令所
新三田駅 - 福知山駅:福知山運輸指令所
列車運行管理システム:JR宝塚・JR東西・学研都市線運行管理システム (SUNTRAS) 尼崎駅(構内のぞく) - 新三田駅間
保安装置:
尼崎駅 - 篠山口駅間:ATS-PおよびATS-SW(拠点P)
篠山口駅 - 福知山駅間:ATS-SW 伊丹市・水銀使用廃製品のボックス回収にご協力ください。
http://www.city.itami.lg.jp/i/SOSIKI/SHIMIN/JINKENC/index.html
消費生活センターは、伊丹商工プラザビル1階にあります。FMいたみのスタジオが目印です。
阪急伊丹駅より徒歩約7分、JR伊丹駅より徒歩約8分です。
業務時間は平日午前9時から12時、午後1時から5時半です。(土曜・日曜・祝日と年末年始はお休みです。) 長崎ちゃんめん宝塚店(関西で唯一の店)は
宝塚駅や阪神杭瀬駅北/阪神尼崎〔南〕から阪神バス
「鳥島」バス停下車 篠山口〜福知山の普通・快速は福知山列車区の車掌のみ乗務? 福知山線の発祥は、川辺馬車鉄道が1891年に開業させた尼ヶ崎駅(後の尼崎港駅) - 伊丹駅間の馬車鉄道である。のちに摂津鉄道と改称して1893年に馬車鉄道を蒸気動力の軽便鉄道に改築し
尼ヶ崎駅 - 池田駅(現在の川西池田駅)間を開業させた。当時の池田駅は呉服橋西詰付近にあった。 88年に東海道尼崎通過したとき、尼崎支線の土手だけ見えた記憶がある。鉄橋は無かった。間違ってるかな…? 国鉄職員の息子だった私はよく福知山線、姫新線、播但線とよく連れて行ってもらった
オヤジがやたらと旧客車に乗せたがるのが不思議で仕方なかった
私は追い抜いていく特急や急行が眩しくて、あっちに乗りたいなぁーーーとよく駄々をこねたw
今になって思えばオヤジがなぜあんなボロボロ客車に乗せたがったのかがよくわかる
オヤジには感謝しないといけないけど、本人も廃止が近いのが分かってたから乗りたかったんでしょうねw
福知山線では武庫川渓谷のトンネルに入る時、」デッキに怖くてビビった記憶があります。 送信してしまった
福知山線では武庫川渓谷のトンネルに入る時、
デッキに立ってて怖くてめちゃくちゃビビった記憶があります。
姫路に蒸気機関車が走ってた頃にもよくオンボロ客車に乗った記憶ありますね。
ここで〇〇系、××系、って書かれてるのを見てもわからなかったんですが、
検索して「おぉこの客車のことか!!」とわかった次第です。
スレチになりますが、和田山駅ではまかぜは停車してたので特急は停まる駅だと思ってたのに
通過していく特急があり驚いたことも記憶にあります。
まつかぜだったんですかね?
それから時刻表で和田山は太字の駅だったので大きな駅だと思ってたのに滅茶苦茶小さな田舎駅だったので
驚いた記憶もw
幼稚園か小学1年の時だったのでご理解をw 723列車大阪発米子行き乗ってまつかぜ4号と東浜駅ですれ違った事ならあるな
https://books.google.co.jp/books?id=L4YT42BjQ1QC&pg=PA148&hl=ja&source=#v=onepage&q&f=true
169ページと179ページとの組み合わせ17時23分に723は東浜駅発車しているが17時13分に1つ前居組駅発車してるので17時18分に723列車は東浜駅に到着して5分停車してまつかぜ待避した思われる >>477
時刻表ありがとうございます。
また話それるのですが、、、急行大社 ってのを見て思い出し
経路を見ると、、、名古屋→米原→ん??京都へ向かわない?と思い確認する前に
まさか敦賀から小浜線??と思うとまさにそれw
そこからどこを経由するのかと見るとなんと天橋立廻りw
なんじゃそりゃw
こんな急行があったんですね!
まるでミステリー列車かイベント列車のような経路ですね。
びっくりしましたw
定期運行されてたのが信じられませんw 豊橋って朝鮮だろ
浜松方面から東海道本線の電車に乗っていると嫌でも豊橋駅の手前で豊橋朝鮮初級学校の看板を観ることになる。
でも、東京から豊橋に帰省すると豊橋朝鮮初級学校の看板を観ると、豊橋に帰ってきた実感が沸いてしまう。
豊橋駅の手前で豊橋朝鮮初級学校の看板の他に朝鮮総連のイオ信組の看板も目に映る。
旧国鉄の線路沿いの一等地は朝鮮の土地が多い。
豊橋なんか良い例だが、豊橋はマシな法。
旧国鉄の線路沿いの一等地で朝鮮の土地が多い地域は
東京は新大久保、上野、日暮里、埼玉の川口、横浜の横浜駅西口で近くに朝鮮学校が控える。川崎も川崎駅から旧川崎球場までの周辺。
名古屋だと、名古屋駅から中村区から中川区に向かう方向は有名である。京都は京都駅周辺で京都駅南区一帯は有名である。
大阪は環状線、地下鉄、近鉄が交差する鶴橋かな。神戸は長田周辺。最近では少なくなりつつあるが岡山駅周辺も朝鮮が多い。
広島は広島駅周辺は再開発が進みつつあっても、朝鮮エリアはとどまっている。
山口県は、徳山、防府の駅周辺も朝鮮エリアがとどめているし、下関は大坪があまりにも有名である。
福岡も犯罪で名高い博多の堅粕、福岡の東、北の玄関である香椎駅周辺も朝鮮地域が名高い。言い出したら切りが無いくらい多い。
あと関西の近鉄沿線の一等地も朝鮮の土地が多い。
近鉄桜井駅の目の前には色鮮やかな朝鮮チョゴリを販売する店が目を引く。
近鉄の桜井駅周辺は1990年代終わりまでは駅一帯が朝鮮関係でにぎわっていた。朝鮮の国花「むくげ」の販売店、
色鮮やかな朝鮮チョゴリの店が大きいものでも数件は近鉄特急に乗っていたら目に入ったものである。
京都のJR線路沿いは京都駅周辺も朝鮮が割と多いのだが、嵯峨野線の円町から阪急西院までの間も少なくない。
阪急西院を過ぎてから阪急電車は地上に出てくるのだが、この境目に西院朝鮮人会館と言う著名な施設があった。大物芸能人も来訪していた。
京都の半導体企業のローム本社近くには西大路五条の朝鮮総連京都府支部と言う立派な構えの鉄骨鉄筋コンクリート造りの建物がある。 >>478
しかもその大社って山陰線内で凄い長い区間各駅停車になったんじゃなかったですかね
>>479
朝鮮総連のビル競売にかけられるはずです 普通列車でも車掌長腕章の白服車掌さんが乗ってたダイヤがあったけど
急行の間合いで乗ってるだけ? 旧川西池田駅は阪急はもちろん川西国鉄前駅にも微妙に距離があった。
旧花屋敷駅とか無軌道電車とか、
ターミナルになる要素があったのに個々がバラバラだったのは残念だ。
今は乗り換えが楽になったけど、
発展が止まってしまったのは皮肉だな。 福知山線が初めて電化したとき、なんと場違いなイエローの103系が投入された。
当時はDL牽引の客車列車もあり、好んでそちらに乗った。 福知山線旧型客車が山陰本線より先に消えたのはデッキ転落事故が理由らしいがどんな事故だった?
高校生の悪ふざけだとかならまだしゃーない気するが鉄ヲタ例えば18キッパーが理由ならなんか残念 餘部鉄橋を渡っていた旧型客車の京都行普通列車のデッキから、
父親が息子を突き落とすという事件があった。 79年の転落死亡事故なら知ってるよ。A市内の中学生が旧客のデッキから転落して死亡。大阪駅から乗車して友達数人と走行中の最後尾デッキで遊んだ後に客室へ戻ったらしいが、1人だけ途中のA駅に降りた気配もなく蒸発。元々降りる予定だった次のT駅で駅員に連絡。神崎川鉄橋上の脇に倒れていたところ後続の貨物列車が発見された。その以降の死亡事故は知らないけどね。 >>490
三田駅にて1番線の進入分岐器付近で揺れが大きく雨で濡れていたデッキから足を滑らせたJKが転落死亡とサラリーマンが転落死亡があったな
それからまもなくして50系のレッドトレインが4本運行されるようになったわ
それを日本○産党市議団が我々の成果ですとチラシに書いていたな‥ 大阪−宝塚で阪急に乗る人がほとんどだったのは、頻度・車両・値段の面で国鉄が劣勢だっただけでなく、
旧型客車が主体だったため、デッキからの転落を防げないといった安全面でも見劣りしてたのも原因。
阪急は当然ながら自動ドアだからドアから転落するという心配もないので、そういうのでも雲泥の差があった。 昭和61年まで旧型客車は残っていた。
賑やかな大阪駅ホームからのDL牽引の旧型客車の発着風景は違和感そのものだった。 >>495
ん?昭和60年までじゃなかったかな大阪駅で旧客みれたの ときおり、豊岡や鳥取から後藤車両所に入場するキハ58やキハ47などが旧型客車列車の
最後尾に連結されることがあったが、これらの気動車には回送のため乗車できず、気動車の
窓のブラインドはすべて下ろされて、鳥取方を向いた前面か妻面に赤い円板が取り付けられていた 国鉄時代のキハ58いいね。11両編成のだいせん1号とか、丹波2号•いでゆ を思い出す。 昭和60年ですね。
福知山から篠山口までは61-11改正まで残ってた この時期の旧客は蒸気暖房の蒸気がもうもうとあがっていて
深秋の風景と相まっていい雰囲気を醸し出しておったのう。 昭和60年に12系に置き換えられたが、何かの理由で昭和61年の7月あたりに12系の代わりに旧客が運用され、大阪駅まで入ったらしい。
当時の鉄道誌で見た記憶がある。 環状線で大阪駅を利用したら隣りに停まってる1番線(当時)の青い客車が気になって
初めて親同伴で福知山まで往復したのが61年の7/22
福知山で旧客に初めて接して激しく萌えたが
どう計画しても泊まりがけになってしまう。
とうとう「本物の旧客列車」つまり通常運用の旧客に乗ることは叶わなかった。
同じ7月にそんなことがあったとは。乗りたかった。
余談だけど和田岬線の旧客、スハフ42には乗れた
予備車で1駅だけとはいえドア保安の無い本来の旧客に乗れたのは趣味的財産です 大阪発米子行か出雲市行きの旧客の普通列車で、途中、倉吉で切り離されて、
大阪から倉吉線関金まで直通する客車が連結された列車もあった 福知山、10系ハザ残ってたよな。大阪でナハフ11のトップナンバーが最後尾で水蒸気だしてる写真がどこかにある 福知山線が電化せず、DL牽引の列車がのんびりと走っていたら、
あの事故は起こらなかったはずだと考えると、残念に思う。 >>505
同意
スピードアップするにしても、無理があり過ぎた >>505
ハゲしく同意
阪急宝塚線言うか厳密には箕面線沿線だったから言うわけでないが
大阪梅田〜宝塚間くらいあれだ、別に阪急に任してよかったと思う
721列車大阪発出雲市行きだとか、722列車鳥取発大阪行きであるとか723列車大阪発米子行きであるとか724列車鳥取発大阪行きであるとか725列車大阪発鳥取行きであるとか726列車浜田発大阪行きであるとか今はなき大社線直通急行だいせん
1号であるとか4号6号であるだとかあの非日常的な性格こそ山陰本線福知山線の最大の魅力だったのに
高齢化社会の今なっては尚更青春18きっぷ利用高齢者救済意味でもあの福知山線を残してほしかった
事実昼間の快速は区間快速になり
福知山行き最終は旧客時代とほぼ=の時間帯になっているわけだし
新三田のニュータウン定年迎えた高齢者もその方が幸せだったろう
鳥取智頭急行一択になったし尚更
(鳥取自動車道が更に輪をかけたが) >>494
それは電化前の関西本線名古屋口対近鉄にも共通しそう。
今は特定運賃で、名古屋〜桑名・四日市はJRが安いけど、
電化前は話にならなかったこともあって、今でも近鉄が優勢だし。 山陰・福知山両線で停止目標12なんて見かけると「更にこれより長い編成あるのかよ」とついツッコんでしまった少年時代 今の鉄道は今日ぐらいの積雪であっさり運休してしまうけど国鉄時代は大遅延しながらも走らせてた 運休はしてたから。いまみたいに先に運休決めたりしてなかったけど
あきらめは早くなったな。まぁ風の息遣いを感じないとマスコミやおまえらに叩かれるからな でもこういう大雪の時ならたとえ運休はしなくても旧型客車ドアは
すなわちあの開けっ放しデッキは大変なことになってたんだろうな
この時間帯なら大阪発出雲市行き721列車その渦中にいた訳だが青春18きっぷなかった頃の旧客なんてそれこそ地元の高校生位だろうし
冬休みと言えそういう中通学の現アラ還高校生はタフだったんだな
今はたぶんそのころの高校生だとアラ還ジジイだし考えられないがw 餘部の事故から明日で35年だってさ
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202112/0014946062.shtml
あの高さから列車が落ちたのも客車が微塵になってたのが衝撃だったな
DD51が橋の上に残ってたのが印象的 >>514
今、慰霊碑が立っている場所のことを思い出して。
微塵になったのは客車だけではないでしょ?犠牲者もほとんどそちら側の方々。 >>515
> >>514
> 今、慰霊碑が立っている場所のことを思い出して。
> 微塵になったのは客車だけではないでしょ?犠牲者もほとんどそちら側の方々。
鉄ヲタ鉄道の事しか頭にないだろ∴鉄ヲタと言えるのかもしれんしこのスレで言うのも野暮な話だが
TWILIGHT EXPRESS瑞風で今でこそそれなりにメジャーな東浜駅だが1950年東浜駅できるまで駅がなく居組駅まで歩くしかなかったので列車に轢かれる人が絶えなかった
1950年東浜駅ができそれは一転し京阪神から臨海学校海水浴の客が東浜駅押し寄せる様になり最盛期60軒もの民宿あったらしいしかしモータリゼーション鉄道の衰退でそれは完全に過去になり全盛期の
1/20の3軒だけになってしまった。
勿論自分も山陰地方や日本海側の所謂裏日本住民ではないわけだが
こういう大雪でそれら地域方々が大変な時くらいそれら地域方々に餘部や東浜の方々の苦難の歴史に思いをはせてもいいのではと思う >>515-516
思い出すもなにも記事はそういう内容なんだが、読んでないのか?
上っ面で偉そうに良識ぶるとか、かこつけて訳わからん長文書いてくるとか
ボケ老人なのかな 武田尾にしか見えん。。
武田尾に発着する蒸機ってカラーで見たらこんな感じだったんだろうな。
https://www.youtube.com/watch?v=KSQW6D36Jz8&t=65s
(頭出しずみ) >>527
郷愁ってこういうの言うんだよなあ。
深秋の山々を背に客車から蒸気が立ち上り・・・。 >>527
すばらしい。冬に行ってみたかった
旧線と旧駅訪問は間に合ったが、福知旧客と季節は年齢的に間に合わなかったので
(旧線と武田尾は86年7月訪問が最初で最後) 高槻市社会福祉事業団で磁気カードを交通費代わりに支給でピンハネされてました! >>533
乙
キハ40系の快速がなつかしい。
>>534
写ってるけど段差があってメイン(奥)寄り部分はちょっと高い 福知山・山陰の普通旧客レで、ナハ10・11とナハフ10・11が、それぞれポツンと1両だけ編成に組み込まれている写真は見るんですけど、編成に両方が組み込まれることってなかったんですかね? 余程のイレギュラーでもない限り、
なかったんちゃう?
軽量客車の混結はけん引定数があるからね けん引定数がどれだけ厳密か、
ナコレク経験者のブログ見たら判るよ。
客車不具合1両の差替だけで一大事だから ガキの頃よく父親に福知山線の旧客を乗りに連れて行ってもらった。
オレはボロ客車より追い抜いていくまつかぜが眩しく輝いて見えて
アッチに乗りたい!と何度も言ってたw
走行中フルオープンのデッキに立たさせられたりして、この客車の方がええやろーーーと
父親が何度も言ってたのを思い出す。。。
この先あんな特急なんて何度も乗る機会があるんだから、
廃止でもう乗れなく客車に乗せてあげておこうと思ってたんだろうな。
今から思えばもっと乗っておきたかった。父親には感謝しかない。
おとーちゃんありがとーーー >>539 です
結局まつかぜに乗る事はなかったですね。。
82系だったかどうだか記憶は定かじゃないですが、はまかぜで明石→和田山 を乗っただけでした
あと岡山→米子のやくも も乗ったけどあれって82系でしたっけ?
デザインはまつかぜと一緒だったと思いますが。
〇〇系ってのは全く詳しくないのですまんませーーん。 >>542
キハ82系の普通車の椅子は背面にモケット貼ってないから直ぐ分かるよ
はまかぜがキハ181系に変わったのは1982年7月1日
伯備線の特急は最初からキハ181系 初代川西池田駅(旧川西池田駅)
旧駅当時の貴重な画像などはネットで見れるけど、
逆に、現在の旧駅跡を探訪した記事や画像が全くない
不思議だ。
能勢電の川西国鉄前の探索記はアホほど出てくる あ、貴重な写真を載せてる
「鉄道の街 川西」サイトさんの現在写真は
90年代末〜00年代直後であって、
少なくとも現在とは言えないからね。
どちらにしても、初見の者が
旧駅位置と現状とを比較しやすそうな画角の写真も
ないので。 どちらの線でもDF50牽引の客車に乗った。もう半世紀以上前だな、山陰本線ではC57とすれ違った。福知山線では当時はまだローカル線で昭和46年5月にC5741が牽引する臨時列車を撮りに行った。それ以後SLは走ってない。つい先日DD51が単機で走っていてビックリ!以前はたまにディーゼル機関車を見かけたがもう忘れた頃なのでしばらく見ていた 自分はイエローの新車の103系が投入された頃を懐かしく思い出す。
ついに新しい時代の幕開けかと思ったが、蓋を開けてみると旧型客車も継続して運転してるし、
汽車型ダイヤだった。6両編成で投入されたが、程なく4両編成に減らされ、中央の2両は常磐線の
編成増強用に旅立っていった。
今では隔世の感が有るね。 103系が入ってもガラガラの宝塚行きだけ。一番混むのはキハ47の快速篠山口行きだったな。
逆レは編成長いから日中は空いていたね。 三田の親類とこ行くのによく旧客乗ったわ
車両の先頭まで行くと機関車とご対面できたな
特にDD54のカッコよさは際立ってた DD54の牽く客車にも乗ったが故障して立ち往生するかもしれんと心配だった。SLと置き換えるはずが故障してC57が救援に向かうという皮肉なこともあったようだ DD54と共にキハ82も故障が多かったね。
開発を急ぐあまりこうなったと聞いたことがある。 SL写していた頃はDLが来たらカメラを向けなかった。今思えば少しくらいは写しておけば良かったかも知れない。客車がなくなるなんて思ってなかったし >>559
いやー、もったいない、というように感じるのは後からの思い
自分はSL乗遅れ組で、559さんより少し後輩?の年齢ともいますが、
旧型国電を撮っていた時に来た165系の急行
旧型客車を撮っていたことの50系客車
キハユニ16や15を撮っていた時の他のキハ
など、みんな同じ
自分は、まだ「来る者は拒まず」で、来たものはシャッターを押してはいましたが、
積極的に動くことはなかったです
もったいないといえばその通りなのですが、当時は主目的の車両以外はそこまでの切迫感が皆無でしたから >>560 さんは旧国スレに身延の話書いてた方ですよね
世代近いかも? 国鉄蒸機は小学生時代で自分のカメラでは撮れず
旧客・旧国末期の記録が精一杯・・
フィルム、特にコダクロームは現像含め高くてシャッター気軽に押せず
今デジカメやスマホでどんどん残してるスナップや動画は当時無理でしたねぇ
本当に末期ですが当時高価なビデオで山陰旧客撮ってる方のYoutubeは有難く拝見 559です、SLならシルエットでも形式がわかってたけどDLやELはほんの一部しかわからないし気動車や電車と客車も貨車も種類は全くわからなかったというより調べなかった。とにかくSL一筋だったな ガキのころ結構写真撮ってたけど無くしてしまったな、、
旧客の写真だけじゃなくDD51牽引貨物や凸凹編成気動車とかも当時は貴重に思えずちゃんと保管してなかったからな >>561
あーた贅沢ですわ旧客乗れたんでしょ。うらやましい。
自分は福知山線は旧線や昼の各急行には間に合ったが、12系化してからだわ。親付き消防の身には山陰旧客は遠すぎて乗れなかった。
本当のほったらかしの旧客は和田岬線の代車スハフ42だけ。すぐ着いてしまうし、個人的にはこの体験は「旧客に乗った」うちに入れられないんよね。 >>561
一列車では一シャッター限定
連写なんてとても無理
いま、40年前のKRをデジタル化して、当時のコダックのポジの凄さをあたらめて確認してしまいます
しかし当時安くない、高かったです >>564
いやいや確かに贅沢かも。当時大学生だったから自由に旅ができたし
でも60-3から61-11のたった一年半だけの旧線12系も貴重ですよ
その頃も大阪早朝の出雲市行き乗り通ししたもんです。
惜しいのは61-11までは篠山口や福知山以北に旧客残っていたこと
親御さんが浜坂あたりまで遠出させてくれてたら乗れたんだよね。
>>565
KRもエクタも当時の東洋現像所(イマジカ)出しで時間掛かったし
とにかく1本購入から現像までで千数百円・・・ 鉄道雑誌見てたらエクタクロームで写した写真もあったので真似して使ってみたが印刷工程の都合での事らしい。DLならともかくSLではあまり意味がなかったな。もうポジは残ってないがあったとしても退色してるだろう。その点はコダクロームの方がいいのか >>566
反応とフォローありがとうございます。
こことかで何度かボヤいてるので、ご存じでしたね。失礼しましたw
そうですね、しかし大阪福知山間は客レ時代で物理的にも時間が掛かったのと、
絵入り「まつかぜ」も通過を撮ったりしましたが
乗ることは思いつきませんでした。また、京都回りで帰ることとかも
まだ思いつかない年齢でした。
いま思えば、たとえば豊岡往復で片道だけでも旧客に乗れたはずですが、
一部区間だけでも乗る、って概念すらまだない子供でした。
まだ昭和の63年、カレチが〆造さん時代の大井川へも乗りに行きましたが
動態保存の旧客と現役供用中のそれとは、やっぱりちがうんですよね。
だから、たった数分でも和田岬線の代車スハフ42乗車経験は宝物です。 身近すぎても撮らんからなあ、ここの近所に2年半住んでいてもあまり撮ってはいない
武田尾などへの遠征もあまりない
しまったとは思うが、まあ、こんなもんだと諦めるしかない
https://tadaup.jp/loda/0731233114625898.jpg
S58.12 中山寺 まだ無人駅で、改札関係なしで出入りできた 追記
>>567
フィルムはKR、何本かあるが横着な保管にもかかわらず退色はあまりない
ER系は一部で紫の細かい斑点が出た
富士、コニカは物によって少し退色
ポジは案外強い
逆に平成になってからネガで撮ったやつの変色が酷すぎる >>569
見させて頂きました。[5]ってことは閉塞信号ですね
その閉塞信号機に出発合図器というのが
いかにも客レ時代を感じますね。
>>570
今でいう撮り鉄のリバーサルは猫も杓子もKRでしたね。 やっぱり外式のKRは丈夫だねぇ
90年代のネガってフィルムも安くなり雑になってると思うよ
プリントの印画紙も質が低下してるな・・
VHSテープも80年代のほうが90年代より劣化してないし
CD-Rも90年代TDKはまだ読み込めるが0年代台湾製がもうダメ
普及して安くなるとそれなりだね、服なんかもそうだし やはりそれなりの対価は払う価値がある理由があるね
そこまでの価値はないとどんどん貧乏至上主義を貫いた結果が現在 565ですが、皆さんご指摘の通りを実感
1978から1980年頃のネガカラーは、色相というか色の変化に愕然
保管が良くないことは事実ですが、黄色化とでもいえばいいのでしょうかね
色補正要です
また、露出アンダーというか暗部は極めて厳しい
露出オーバーのコマはまだ救えますね
それもあるのか、旧型の車両でも、茶色の再現が結構うまくいかないように感じます
少しずつ復元していますが、時間がとにかくかかります
1980年からKRとER併用でしたが、デジタル化してKRが一番再現が良いと感じます
ERは少し青緑化を感じます(ただし天気が悪い日に使用したためかもしれません)
KMは感度低すぎで一度も使用しておりません
いずれにしろ、KRは高いイメージしかなかったです 昔のコダックは感度が低く多少使いづらいところもあった。しかし一番の問題は国産のカラーフィルムを使う時に感度の切り替えを忘れることだな。 国産ポジといえば、ベルビアが出たときの衝撃
KRの発色好きには「悪趣味なギラギラ」で
後になってみればまさにバブル期の象徴だったかとw
旧客のあった頃に存在せず良かったと
90年代のRFやRMのグラビアを見て思う 小さい頃親父に連れられて釣りに行ったが福知山線に乗ったのだろう。SLの汽笛が鳴ったのを覚えている。SLに興味を持ち出した頃はもう少なくなっていて10年早く生まれていればと思ったな、だがそれだとこのスレを見ることなく逝ったか SL乗遅れ世代です
だから、旧型客車の思い入れは、それ以前の世代の方よりもはるかに大きいと感じます 旧客乗遅れ世代です
だから、旧型客車の思い入れは、>>578よりも更に大きいです。
(引用して遊びましたが、ガチです) >>579
和田岬も乗車経験ないでしょうか?
578ですが、正直マジで恐れ入りました
夜行も含めて普通に旧型客車に乗っていた時代の、
最後の10年ほどを末期まで経験した世代です
実は、SL乗遅れで旧型客車を経験した世代って、およそ10年しかなく、
その意味で層が薄い世代かもしれません
従って、混合列車のイメージも、SLではなくDE10などが引っ張るオハユニ61と貨車などのイメージになってしまいます
もしかしたら、そのあとの50系客車の世代とかあるかもしれません
変な個人的な偏見にもなりそうな書き込みで申し訳ございません 全列車ワンマンだらけになっちゃったけど昔はどこの路線も駅間長いと車掌がやってきて検札してたんだよな
旧客の普通列車なのに白スーツの車掌長や乗客専務車掌が乗ってる列車もあって
名所案内が充実していたとか ワンマンじゃないから無人駅から乗車したら
車掌さんに切符だしてもらったな。 同じ線路でも東海道線と福知山線とは線路等級が違う。そのため大型機関車は入線出来なかった。特急つばめは大阪到着後塚口まで回送してC62を最後尾に連結して宮原操車場まで行ってたので塚口までは特甲線なのかな。 電化したら近郊型電車が走り出すと思っていたらまさかの103系。
でもいずれは阪急に匹敵する通勤路線に変貌することを目論んでいたことがわかった。 >>585
まだその頃は良かった
最悪なのは61-11からの数年だ
113-800の2連ぎゅうぎゅう詰めは思い出したくない 大阪駅に113系の2両が堂々乗り入れていたよね。
12系の普通列車の方がずっと良かった。 車内販売すらあったもんな。12系普通列車。
浪花(篠山口駅の駅弁業者)の駅弁を車販から買ったよ。
1986年7月 >>587-588
あの1年8ヶ月はある意味国鉄最後の輝きという感じだな
旧客は好きだったが、60-3で一気に12系化されてオール冷房つき
ボックスも広い急行型統一みたいなもんだった
それがボロ電に詰め込みになったから改悪以外のなにもんでも・・
丹波路快速が出来てやっと近代路線だし
デカンショ弁当も旧篠山口駅舎も懐かしい 福知山線には篠山線という支線があったがもう半世紀前に廃止されてる。ディーゼル車が貨車を牽いたりしてたらしい。。 思い出したくない人には申し訳ないけどw
113系福知山色の青帯、正面V字の角度が
微妙にちがってる二種類あったと思うんだけど
合ってる? >>591
これだけ読んだだけで楽しそうな雰囲気が伝わってきますね
これは何という雑誌ですか? そうです。鉄道ジャーナルの1986年別冊がだいぶ表紙傷んだから
バラシてスキャン、デジタル保存したページです。
昔の旅鉄の旧客特集などもやってます。
記事内容も時代反映してるから面白くて。 1980年7月に、塚口→尼崎港乗車、客車は1両だけ、貨車はなし
乗客は数人と記憶、尼崎港での画像が1コマあるだけ
もったいない、としか言いようがない >>591
きれいにスキャンされてますね。どんなスキャナーをつかわれてるんですか?雑誌の整理もしたいけど
自分はきれいにスキャンできないので貴重と思われる写真が掲載されているものなどは躊躇してます。
山陰本線の旧客といえば母方の親戚が鳥取に住んでいる関係で子供の頃よく乗りました。
一度鳥取始発でDF50牽引の列車で倉吉まで乗った記憶があるのですが、詳しいスジをご存知の方おられますか?
午前9時頃の列車だったと思います。(45年くらい前)
それからいまはなき倉吉線の旧客にも乗りました。背ずりが木製でおそらくオハ61系等ではなかったでしょうか。
他にも今となっては貴重な思い出も多々あるのですが、当時は小学生で写真を撮影することは叶いませんでした。
もっとも、「貴重な体験」などという感覚も無かったと思います。 >>597-598
いつもの者ですが、撮影の件は、
別にそこまで悔やむほどでもないんじゃないですか。
写真技術はまだ200年も経ってませんし、
あの世へは持って行けませんからね。記憶こそ大事だと思います。
自分は割と中高時代からそれで、昔から写真はそれほど撮りません。
撮影に夢中になるあまり、
肝心の乗車(乗り鉄本体)とその記憶に支障するのを好まないからです。
ラストランですらカメラを持参せず携帯でも撮らない人間ですw
あと、当時貴重だとは思わなかったって視点の話、
もうそればかりは世代や個人による「順番」ですわな。
自分は山陰旧客に乗れなくて残念でしたが、乗ることのできた、
保存運転ではないJR唯一&最後の旧客である
和田岬線の64系&代車や、けっこう各地で乗れた12系や50系客レも、
世代や個人によっては垂涎かもしれません。 >>599
> あの世へは持って行けませんからね。記憶こそ大事だと思います
記憶ってあの世まで持っていけるのかな? 割とどうでもいい部分にだけ反応すんなよw
少なくとも写真は持って行けないのは確定。
論点である記憶のほうだが、異論は好きに言えばいい。強制しない
ただ、記憶つまり心ってのは形(実体)がないモノだから
その面においては少なくともスピリチュアル的親和性はある。 話の流れは凄い方向だがひとまず・・
>>598
いやいや古いスキャナでこれも何年も前にスキャンして、今の4K以上モニタなら物足りないですよ。
4000x3000くらいのスキャン必須なので自炊もし直しかな?と・・
体験というのは重いもので、いくら綺麗な写真見ても行ったことない路線や乗車していない車両では
今ひとつ実感が湧かないというのはあるよね。
父親の遺言が 「あの世に持っていけるのは、地位財産名誉ではなく思い出だけ」 だった。
そういう想念というのは複数の体験からあると信じてる。
ひとまず、今のうちに乗っておける好きな車両や路線には悔いなく行くことかと
来週平日に休みたっぷり取ったのでせめてキハ40系で国鉄時代思い出すことにするよ。 >>602
一部フォローありがとうございます。
キハ40系は徳島車をお勧めします。原形エンジンです。
夜行フェリーも関西側から高松徳島双方にあり便利です >>603
いえいえいこちらこそ。 今は関東住まいなんですが、今春徳島に行きました
夜行バスを鳴門で降りたらそのまま鳴門線-牟岐線直通に乗ったり
関東でも小湊鐵道や近畿では北条鉄道でも楽しめるので、これから数年は
まだ行けるかなと。
スレタイの旧客話では来月、痛恨のキャンセル・・大井川鐵道のEL牽引旧客を予約していたら
災害復旧見込み無し。で社の側から予約キャンセル通知・・
来年リベンジですねぇ。 >>602
ありがとうございます。スキャンについてもいろんな方の実践例を参考にしたいのですが、
そもそもここは自炊スレではないのでこれ以上は話題にしないほうがいいかもですね。
体験や思い出はどんな綺麗な写真にも勝る、たしかにそうだと思います。
反面、バックナンバーも含めた鉄道各誌や過去に撮った写真をupされてる方のサイト等を見て
追体験(に近い真似事)をしている自分がいたりもします。他人様の、場合によってはその人の
貴重な乗り鉄体験を犠牲にした写真を拝見することによってそれが可能なわけですから、見分を広げたり、
思い出を疑似的にではあっても反芻できる便利なツールではあるのではないでしょうか。 倉吉線の客車は、見た記憶があるが乗っていない
終点まで行くのは末期はDCばかりと思っていた Rail・Artさんのところに昭和42年10月の時刻表が載ってるけど
この時点で客車列車は上井-関金の列車が4往復、上井ー倉吉の列車が2往復で山守発着は全部ディーゼルカーだな
Wikipedia見ると泰久寺と山守は1線のみで機回し線とかなかったから
末期でなくても客車列車は関金までだったようだ 関金から先、気が不具合のときは
おそらくPPの客レだったんだろうね。 ディーゼルカーの予備車くらいあっただろうよ
プッシュプルにすると機関車2両に客車1両になっちゃうぞ 1980/03時刻表から、倉吉発下り
619(443D)山守
629(421レ)関金
749(445D)山守
914(423レ)西倉吉
1140(447D)山守
1328(425レ)西倉吉
1605(449D)山守
1620(427レ)西倉吉、山守行451D接続
1759(427レ)打吹、山守行453D接続
1841(455D)関金
1927(457D)関金
2127(459D)関金
朝の443Dの前に、関金行きの回送(441D)がありそう もう鉄模は数十年していないけど
関金という文字列は関水金属を連想させるね。笑 倉吉線列車は昭和60年3月改正で全列車気動車化されたが、気動車運用は
どうなっていたのだろうか。
鳥取発倉吉行きのキハ58系による最終列車が倉吉に到着後、そのキハ58系が
翌日の倉吉線気動車運用に入り、関金発倉吉行き最終列車で倉吉に到着後、
キハ40を切り離して、倉吉で夜間滞泊し、翌朝の倉吉発鳥取行きで鳥取まで運用後、
車両基地の西鳥取に戻っていたのだろうか 倉吉線が残っていれば、それなりに利用されましたかね?
少々もったいないように思えました >>617
うーん、どうでしょうね。そもそもが地方の小さな町ですし。
自分の経験でしかないのですが、>>613さんのレスを見てもわかるように本数も限られていましたから。
母親の叔母が打吹の近くに住んでいたのですが、倉吉線に乗るよりはバスの方が便数が多かったのでほとんどバス利用でした。
倉吉線で印象に残っているのは夕方の下り列車で夏休み中にも拘わらず制服姿の高校生で結構混んでいた事がありました(部活帰り?)。
打吹止まりだったので>>613にある17時59分発の427レだったのでしょう。その時は母親が今から自分たちの食事作りをさせては叔母に悪いからと
打吹駅近くの店で食事を済ませて行ったのですが、すでに夕食を用意して待ってくれてました。子供心にも申し訳ない事したと思ったものです。
ところでその頃、大阪市内から倉吉までの切符を買うと運賃が同額だったためか上灘までになっていたと記憶しているのですが間違いないでしょうか。 >>617
>>618
倉吉線が現在も残っていたら、関金~山守間のみ廃止されてレールは50キロレールに
交換されるなどの工事も行われ、列車はキハ47系、キハ126系、キハ120系が使用され、
関金駅は「関金温泉」などと改称されていたかも。 >>617-
一時期よりは減ったとはいえ凋落なく
現役観光地として認識され続けている「輪島」
その輪島までの鉄路が廃止されたのと
ちょっと似てるかも。
鉄路のある頃からずっと、
皆、バスやマイカーが主流だったってね。
なんで全国的な観光地で、現在でも廃れてはいない輪島までの線すら
廃止されたんだろ?ってずっと思ってきたんだが
最近調べてみて、判った。 全国各地同様の現象だが、高校生の数が根本的に違うんだよな
第二次ベビーブーム世代が昭和末期から平成頭までで
その後の世代で急減、大都市以外は車持ってる世代ばかり住んでる時代に
そりゃローカル線も長編成鈍行も要らないよな 残っていたら、米子/境港と同じような感じになったかかな? なってないと思う
あっちは境港市、米子空港、後藤工がある 当時の状況からして普通に考えれば倉吉線の廃止は火を見るよりも明らかだったでしょうね。
ただ、同じ鳥取県の若桜線が三セクとして成功を収めていると見るのであれば
倉吉線も沿線に観光資源が皆無というわけではないですから積極的な策に打って出ていれば
面白かったかも、という思いも少しはあります。 倉吉線は諦めて若桜線は三セクで残した地元判断から考えて
両線の違いは大きかったんだろ 若桜線は沿線民の「乗って残そう」がガチだったというのは知ってる 若桜鉄道は近年でも高校生輸送量が半端なく多いし、鳥取駅直乗り入れ効果もあって
大人の通勤者もいるから倉吉線とは状況が違うよ 倉吉線は廃止されるまで線路のバラストも枕木も古いままだったけど、
線路の夜間保守工事などは行われていたのだろうか。
線路保守などは全く行われていない感じだったが。 >>627
直通運転が今も生きてることそのものが
そのことを現してるよね。全国的には減少傾向だからね 倉吉線では大阪発米子行の客車列車が倉吉駅で切り離されて、その切り離された客車が
倉吉発関金行きとなる運用もあった。 >>629
あの乗り入れはもう一つメリットがあって、JR側も因美線で運用する車両を減らせる
因美線の北部から鳥取市までの通勤区間の客を若桜車で運べて
那岐方面は朝通学時間に那岐折り返しの戻しの1本の車両で済ませてる おかげでJRキハ47の若桜乗り入れが消滅してしまったよな。 山陰の寝台車は乗る機会がなかったです
学生ではどうしても寝台券の費用が出ず、いつも座席車ばかり
というか、寝台車自体乗れませんでした
普通列車なら、まだ一番安い追加料金で乗れたはずなのに… >>591
鉄道ジャーナルのスキャン記事内に川代渓谷(丹波大山→谷川間)の
記述があるが、「川の流れが列車と同じく日本海に向いている」
とあるが、加古川水系で播磨灘に注ぐのだがな。今は恐竜の化石で
有名になったな。
懐かし記事サンクス >>634
スレチだが、予土線で宇和島→窪川の向きに乗ると
四万十川が上流へながれていて違和感ある
地図を見れば理解できるが、やっぱり変な感じ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています