私が出会った神乗務員・DQN乗務員
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栗原電鉄だった頃、細倉駅で折り返しの合間、運転士氏と話をして
その素朴さとのんびりした雰囲気が神でした。
昭和の時代の乗務員は今よりも個性派ぞろいでしたかな。
思い出を語りませう。 帽子被っていても滅茶苦茶に壊れていてバッチがずらっとくっついてた。
革新都政時代は本当に酷かったそうです。
馬込検車区何て殆ど仕事して無かったとか。 時期は忘れた(たぶん国鉄末期頃?)が、東海道東京口に明石家さんまに良く
似た車掌が乗務していた。車内精算の様子を見ていたけど、意識してモノマネ
しているような感じで、オーバーアクションで指を差しながら「あと30円!」
とか言っていたのが目に浮かぶ。 最悪のDQN運転士
茶髪、長髪、靴は踵をふんづけてぺたぺたと歩き、帽子は駅員のいる駅だけ
着く寸前に被る。
で、危うく制限25のポイントを徐行せずに突っ込みかけてブレーキ掛けて平気な顔をする。
車掌は黒ぶち眼鏡のアキバにいそうなタイプで殆どアナウンスになって無いアナウンスしてた。
あれじゃあ廃止されそうになっても不思議じゃない。 >>315
東武は駅員がいようがいまいが運転士は無帽だったけどな。
あと漫画読みながらドア開閉、発車後の監視もしない車掌がいたな。 早朝の山手線で、パン喰いながら運転しているヤツいたよ。
もちろん国鉄時代 車掌が乗務中、客室の空いた席に座って一服(喫煙)する姿は時々見たけど、普通にある光景だったような気がする。
今は首になるらしいが、運転士が知人や子供を運転室に入れるくらいへっちゃらだったんでしょ? 今の駅員は笑いがないよー。スマイルセラピーしよう。30度!! >>318
世の中がそれで回ってた。
いまはただでさえ何もかも制限され、しかも客側がチクる時代。
いやだねえ。 >>318
そもそも大昔は電機のデッキに客(カツギ屋)が座っていても平気で運転したもんだが。 南海電鉄の車掌さんはアナウンスに個性のある方が多かったです。
天下茶屋もてんがぁちゃあ〜〜てんがぁちゃあ〜〜って感じの人がいました。 他スレでも話題になったなw
沿線じゃないから日常生活では乗らんが
過去に乗ったときはマジで「しんいーまみや」って言ってた
なんかそれらとは別に、有名な特定の車掌が居たみたいだね フェミニスト政党の候補者を落選させ女性専用車両を根絶しよう
「未来の党は男性を差別した政策主」
石原慎太郎さんが都知事時代に的確な問題提起をされていますので、皆さんも視聴しましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=U04E6G2Cy8o&list=PLC6839F661C03104D >>323
東急の車掌にもヒドい、いや独特な車掌がけっこういたような
(特に池上線と目蒲線) >>325
そうなんですか?例えばどんな?
>>322>>323
天下茶屋って「てんがちゃ てんがちゃ」と短く言う人もいました。
しんいーまみやは強烈ですね。 昔の東武バス。
「大谷田行きますか?」
「見りゃわかんだろ!」
at 亀有駅にて。 >>322-323
Wikiで和歌山弁を検索して見たら、昔は…
「でん車両だ席指定の特急サダン、和歌山港行でごだいます」
…みたいな放送してた車掌がいたって書いてたけど、本当にいたのかな?
東北も他は知らないけど、秋田運輸区の年配の方の一部はたまに訛ってる。
「つつざき」…土崎
「ひがすのすろ」…東能代
チラ裏スマソ。 >>328
マジで居た。
なにも狙っての発音でなく、素でそうだったからね。 んだなぁ〜、すつずずっぷんごろでねぇ〜け〜?と言われた 井上ひさしの小説にもあった。なんでも仙台駅で、
「死んだえ、死んだえ、落づる人が死んでからお乗りください」 >>328
秋田発青森行の「つがる」の車内放送で「秋田行定刻に発車しました」と
聞こえたので、ひどい間違いと思ったが、少し考えて「秋田駅定刻に発車
しました」であることに気がついた。 山電も酷いのがいた。
再開閉で「なにやっとんじゃこらあ!」と・・・
さすが極道の本場だけある。
なお、当時の菱の四代目は姫路近くの御着の出身でした。 昔の国鉄千葉鉄道管理局は千葉工商卒が一番悪くて、喧嘩強くて。
朝鮮高校と工商が大立ち回りやって電車止めた事があったっけ。
で、車掌だったかにその工商卒がいて、喧嘩を止めるんじゃなくて相手をブン殴って
それでも平気だったよ。良い時代だね。 >>335
自己レス。名物・・・・なんて言ったら氏に失礼ですね。
何れにせよ癒し系の車掌さんです。 >>335-336
過去になるけど、話題の訛り車掌は本線のほうがキツかった。
たしか本線で有名な老練の車掌がいたはず
(もちろんとっくに退職してると思うけど) この時期、アナウンスの上手い京王帝都の車掌さんに出会うと武蔵野の風情が
一層増しますなあ。
飛田給、武蔵野台、芦花公園何て駅名最高です。 乗務員じゃないが新宿の師匠って今でもいらっしゃる? 南武線のものすごく丁寧な車掌さんは今でも居るのかな
放送の最後に心づかいのひとことを添えたりする人 子供の頃、仙石線や石巻線でカブりつきしてると
走行中でも立ち上がって乗務員室扉あけて
「こっちおいで」っ助士席椅子に座らせてくれた
列車交換で10分位止まるときに
ジュース買ってきてくれたり
「鳴らして」って言われたら
ペダル踏んで警笛担当させられたり
ほんと退屈しないで済んだ
いま思えばイイ時代だったね >>328
三番線、エイネ(上野)行き、エイネ行き、へえってめぇりやす。
白線の内側さ下がってお待ちねげぇやす。 懐かしじゃなく、まだせいぜい2年前くらいの話だけど
東海道本線の、豊橋から乗った浜松行きに乗務していた若い女のコの車掌
車内放送を聞いて思わず「上手い!」と、心の中に叫んでしまった
はきはきとして非常に聞き取りやすかったのはもちろん、とても感じがいい
以来何度となく同区間で乗ってはいるけど、残念ながらその時と同じ車掌さん
には当たってないし、それ以上に上手だと思う車掌も現れない >>318
北海道なんかはJRになってからも、昭和の時代は
乗務員室に入れてくれるレチさんとか、けっこいいたな。
いろいろと雑談したりして、人情が感じられ
いい時代でした。 御殿場線の旧国・相模線の気動車、列車名忘れたが、東北夜行の58の
乗務員室に誘い込まれたことがある。いずれも、少年時代の思い出。 >>292
新旧分離で両備系の新社になってから、大分DQNが粛清されたな。 >>345
その当の上野駅の昭和50年頃の駅のアナウンスは『はつず(8時)じっぷん(10分発)〇〇ゆきはずーろく(16)番線から発車いたすます』とやっていた。 >>344
石巻線の定年前なんだろうなって車掌さん、どうしたかなあ。
東北線のDC急行にキハ45が挟まって使われてた時代です。 >>321
坂本衛氏の暴露本だったかと思うけど、京阪神緩行では終電になると水商売の姉ちゃんが毎回トイレを我慢できずに、何とか汁と駆け込んで来てたそうだ。
車掌もそれを見越して、終電でクモハ54等の車両に当たった時は、前面貫通扉を開けて渡り板を下ろし、線路に落ちないようにガッチリ支えながら用足しさせてたとか。 やっぱ昔の京福・鞍馬線や叡山線の車掌さんは良いなあ。
宝が池でポールのひもをしっかり握る処何か良かった。
デナ20とか壊さなければ良かったのに。 >>149
最近の京成にもどうしょうもない乗務員はいてたぞ。
有名なのはここにも勤務中に携帯から2chに書いていたとよく言われているはしのえみおってコテハンの奴。
あいつ、車掌業務中にネットしていたという噂が乗務区内から結構あったし挙げ句の果てにはプライベートで東京ドームで人殴って傷害の現行犯で逮捕されて強制休職状態に。
その後休職中にも別件で傷害事件を起こして逮捕され解雇同然に退職。
キティの典型的な例(ププ JR東日本が行った男性客への乗車拒否作戦
JR東日本の本社職員・支社職員・駅員が行った
寝台特急あけぼののレディースゴロンとシートに乗車者する男性客への乗車拒否バリケードです。
男性を侮辱した人権侵害の一連の模様をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=RJDXzoXs490&feature=channel&list=UL
http://www.youtube.com/watch?v=taqjOajeu5E&feature=channel&list=UL 野上スレ見たが最末期の野上は社員やりたい放題だったらしいぞ。 >>356
鉄道ファンへの投書が原因だったらしいね フォーカスに
上越新幹線の車掌が制服姿のままグリーン車で寝ている写真が掲載されたことあったな。 今でも近鉄では特急の座席に制服で座ってる職員を時々見かける
だた決まりがあるらしく旅客が号車座席番号を指定しないで購入した場合一番最後に特急券が売れる号車の座席番号に座ってる事が多いらしい
名古屋線以外は大きい号車番号の9・10から発売・名古屋線は1・2号車9番から発売なので名古屋線以外は2号車の1〜8・61〜68・名古屋線は一番大きい番号の号車の1〜8・61〜68に座っている
前に松阪から名古屋まで乗った時に一番空いている車両を指定してもらい乗車したら指定番号の座席に制服職員が座っていて驚いた 鉄道に限らず休憩時間や発券開始時間までにカーテン閉めてるような応対窓口なんていうのは、
野郎は勿論、女性でも大股広げてサンダルで足伸ばしたり組んだりしているものだよ。 30年近く前の相鉄や新京成の改札口の職員、パンチパーマやリーゼントで
制帽を斜めにかぶって、よく居眠りしていたな。 国鉄も私鉄も、否、鉄道に限らずバスの運転手も
昔は接客態度がいい人が少なかったよな。
世間的に「運んでさえいればいい」といった感じだった。
まあ、時代が違うから仕方ないけど。 >>367
今でもリーゼントの刑事なら徳島にいるが…。 バスにも車掌が乗ってて急行や特急なら各車ごとにボーイが乗ってた時代もあったな
今みたくあれやこれやとらわれず、運転に専念できた時代とも言える
ちなみにバスだと戦後になりトラックから転向した運転手が特に態度が悪くて、車掌もこき使われて大変だったそうな >>370 それは、昨今世間が煩くなる前(バブル終了頃までは確実に)まで続いた。(今も?)
トラックから転向するヤツは、給料や社会保障、福利厚生を目当ての輩が多かった。
で安い金利等優遇処置で住宅ローンとか組むと厳しい就業規則に(彼等的には)嫌気がさしたり
管理職と揉めるとあっさり退社とか多かった。
只彼等、運転の腕というか、遅延回復等運行の自己管理は優れていた。(早発、早着で問題も起こしたが・・・)
女性の車掌さんやガイドさんは、色々な面でも大変だったと、昔の彼女がいっていた。
(この場合 遣られていたか・・・落胆。) >>370>>371
南海バスは酷かったよ。
運転は乱暴だがそれ以上に客と喧嘩する。
南海は鉄道も乱暴だがバスはその比じゃない。 >>372 河内弁や泉州弁で・・・そりゃ怖いなっ。
で対照的に天鉄局では国労も比較的温厚なのは意外! 南海は阪和と客引きが過ぎてリアルファイトになったからな
きっと昔からなんだろう 昔の南海・和歌山市内線は酷かったらしい。
和歌山弁ってのが荒っぽいんだ。 元車掌の坂本エーやんさんの著書にもあったじゃない。
“こうや”に乗って荒れてた泥酔客を氏が訴えたら、駅事務室に引っ張られて〆られた話。
構内放送で実況されてしまったそうで。 仙台駅のホームで「ずぅじずっぷん発、青森行き急行くりこま・・」
みたいな放送を聴いた覚えがある、九州人の耳に東北の言葉は旅情をかきたてられるものがあった。 【韓国】救助された船長、オンドルの床で濡れた紙幣を乾かす → 他の乗務員が奪おうとして「私のだ」と防ぐ★2 [4/17]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1397737624/ >>378 数年前にスペインだかイタリアだかの遊覧船が沈没したときも船長は真っ先にバックレタよな。
倫理が低いな。 羽越線「いなほ」の事故の時の運転士は自分も額に裂傷を負いつつ自ら救助活動に従事
到着した救急隊員に早く救急車に乗るよう言われると「私よりも先にお客様をお願いします!」
と血のついた顔で叫んだという。 南武線の旧型国電(73系)のお別れ運転の時。
俺は最後尾の車掌室前に乗っていたんだが、始発駅を発車して暫くして50代
位の車掌職でも上級っぽい車掌氏が放送を始めた。
やはりお別れ運転だけに「この茶色い電車も今日を最後に・・・」とかいかにも
それっぽい放送をして、ざわざわしていた車内もこの放送の時はみんながしんみり
というか、この場にいることを心から実感しているような感じが出来上がっていた。
が、放送も終盤に入ったところで車掌氏・・・「お願いですので、開けました
窓から手や足を出さないように・・・」と言っちまったもんだから、何人か同時に
「あしぃ〜〜??」と絶叫、車内の雰囲気も急にグダグダになっちまった。
温厚そうな車掌氏にもその声は聞こえたようで、何とも言えないバツの悪そうな
顔をしてたっけ。。。
すまん、DQN乗務員という意味で書き込んだわけでなく、このスレを見て
急に思い出したので書いただけ。。。 でも旧国の乗務員室隣の窓ってお尻の高さなんだよな。
全開にするとかなり危ない位置。
70系72系の2段タイプなら、夏場に跨がり座りしてた不心得者がいたんじゃないの。 昔駅で入場券を買い列車の写真を撮りたいとホームに入り撮り終わって出ようとするとお茶でも飲んでいかんかと声かけてくれた事がある
夏の暑い日冷たいお茶は大変ありがたく更に数日後臨時の貨物が走る事を教えてくれた
あとホーム端で写真撮ってたら車掌さんがいい写真撮れたかい?と声かけてきた事があった
その車掌さん自体鉄道好きらしく車両の話をいろいろ聞かせてもらった
そのうちこれ撮りなよと前面幕をぐりぐり回してなかなか見れない幕を出してくれ俺は大喜び
何だかいろいろとおおらかで余裕のある時代だったなぁ
今は規則だ何だで無理だろうな >>383がいつ頃とかどのあたりとかわからないけど、国鉄時代の地方線は特に多かったな。
やれストだ値上げだ動労国労だと賑やかだったけど、地方は「それどこのこと?」みたいな感じで、
時間の流れもゆっくりな気がした。「どこから来た?」とか「何撮って来た?」なんて聞かれたり。
横着な乗務員wがいたこともあって、始発の地方線で、3駅くらい乗降がなくて客が自分一人だった時、
車掌が「どこまで行くの?」と聞いてきて「終点です。」と答えたら、そこから車内放送がなくなったw そんなに懐かしくもないが、10年ちょっと前の京王線で新宿駅(新線でない方)で停止線二回も間違えた運転士がいた。
車内で1回ならまだしも、2回も間違えたのに驚いたが、編成の先頭で他の駅員2名から怒鳴られつつも、にやにやしている新人っぽい運転士を見た。
研修やり直しか、配置転換ということになるのかね? 昔は車内放送も人によって全く違ったよね
丁寧な人はドアの開く方向や乗り換え路線等今でこそ当たり前のような内容を放送してたけど雑な人だと「次は○○」で終わる
なぜかキレぎみで「○○!」ガチャッ と次はも言わずマイクをぶん投げたような音が毎駅聞こえた事もあった 大阪市営地下鉄の昔のアナウンスがまさにそのマイクぶん投げタイプ。
次は淀屋橋淀屋橋京阪線乗り換えガチャン! >>387
放送が手動ってそれ随分前だよね。旧型車時代?
それとも北大阪急行車に未搭載車が残ってた時代? あまり細かい車内放送だと、かえってうざったくないか?
地下鉄なんぞ、次駅までの走行時間が短いし、丁寧に放送してたら駅に着いてしまう。
それよりは安全確認をきちんとやってくれた方が望ましい。 >>389
その頃はとうに自動放送になってるから、そのときに1号線が肉声だったなら
当該車掌が肉声で案内した列車(訓練的にやる)だったか、
あるいは北大阪急行の車両(2000形は肉声だったはず)だったんじゃね? >>392さん、よく覚えておられましたね
北急の2000形ですわ。放送装置未搭載だったから
御堂筋線内でも高速車掌(地下鉄車掌の職名)が肉声案内してたんです
自社の車両は自動放送装置あるから、それに慣れてしまってて
北急車に当たったとき、いちいち案内するのがうざったかったんでしょうね。笑 >>286
昔は本当にオリジナル(適当?)放送が多かったね。
山手線で「次池袋赤羽西武東武地下鉄乗り換え」ガチャン!って放送が。
息継ぎも区切りもアクセントも無く一気に喋りきり、中国人かよwwっ呆れた記憶が。 「え〜……次は…○○でございます…」カチャンと毎駅え〜言う人いたなぁ
しかもえ〜と駅前の間がかなり開いて言い終わった後もしばらくしてマイクを切る
お爺ちゃんだったのかな
あとは滑舌悪くて「ちゅぎは○○でしゅ」な感じの人も 館山運転区が担当する内房線の運転士 昔は酷いのが多かった
グラサンサンダル無帽パンチパーマ…
でも、運転の腕は相当良かった
何時だったか、小学生の頃運転士がこっそり運転室に入れてくれて千倉までこっそり乗せてくれた 国鉄の運転士の帽子はたいてい潰れてたな。またそれがカッコ良かった。 千葉の運転士は雰囲気が怖かった
泣く子も黙る、鬼の動労と言うフレーズがあった様に、
泣く子も黙る、鬼も黙る、動労千葉地本と言うフレーズが週刊誌に掲載されていた 1996年くらいだったかな、
中学生の頃の話。
上野発の臨時急行津軽(583系)に乗った。
確か1号車の1番か2番の下段だった。
暇だったから車掌室に遊びに行ったら優しく招き入れてくれ、
そろそろ定年しそうな年齢の東北訛りの車掌さんが相手してくれた。
確か秋田車掌区かなんかだったと思う。
黒磯に運転停車中、「これが俺らの楽しみなんだ」といい
車掌室横のドアを開放してホームのアイスクリーム自動販売機へ。
車掌ふたりと俺で深夜の黒磯駅ホームでアイスクリームを買いに行き車内で食べた。
普通なら降りられない駅で途中下車して、車掌とアイスクリームを食べるという怒られそうなシチュエーションに興奮した。 >>401
いい話ですね。
おれも今は亡き急行大雪、なかなか寝付けなくて
寝台車通路の椅子に座ってたら、車掌さんに話しかけられて
車掌室にご招待。一晩ずっと話し込んでたなあ。
遠軽でのエンド交換のときに、ジュース買ってきてくれたこと
白々と夜が明ける時間帯の光景など、今でも印象に残っています。
今、このようなふれあいなんて望むべくもない。
2ちゃんねるの、みなさんの「旅のふれあいの思い出」カキコを
WORDで編集して古き良き時代に思いをはせています。 何年か前に見た新垣結衣みたいな車販員可愛かったなぁ
凄いアニメ声だし思いっきりブラ透けてたし思わず勃っ…買っちゃったわ 昭和末期
18きっぷで移動中
常磐線普通列車で収集目的の車内補充券を買ったら硬券の乗車駅証明を大量にくれた 国鉄末期、釜撮りのためにアポ無しで訪ねた東北地方の機関区。
(当時はどこも、突然の来訪者でも快く招き入れてくれた)
一通り撮影を終えて帰ろうとしたら
食堂でカレー食べさせもらった上に「出区する機関車に駅まで乗ってけ」と。
駅に着いたので、お礼を言って降りようとしたら
「どこまで行くんだ?」
「〇〇まで」
「だったら途中だけど△△まで乗っていきな!」
「え!さすがに本線に出るのは、まずいのでは?」
「どうせ俺は新会社に行けないから構わないよ!遠慮しないで乗ってけ」
勿論お言葉に甘えさせてもらった!そして
「お前さんに一つ頼みたいことがあるんだ」
「何でしょう?僕にできることなら何でも」
「俺が釜を操ってるところを撮ってくれないか?カッコよくだぞ!」
勿論、撮って後日写真を送ったのは言うまでもない。 >>405
いい話ですね。
その機関士さんは自分が乗務できるのがあと僅かと知っているので
自分の雄姿を>>405さんに撮ってもらえて感激しているんじゃないかな。
その写真は機関士さんの家で大切に飾られてるはず。 >>405
うわぁ、良い話だな。
その機関士は組合に熱心な人だったのかな?
便乗した釜は何だったの? 25年前、小6の夏休み、バブルのおかげで、父親置いて
母と北海道一周旅行。
稚内行きの急行宗谷で旭川から稚内まで、初老の車掌さんが
最後尾の運転台に立ち入らせてくれた。
最高の展望台で、大阪育ちの私は雄大な景色に見とれて
3時間以上立ちっぱなしでも全然平気だった。
途中から母も便乗して入ってきたけどw
景色に負けない大らかなJRに当時は感激しっぱなし。
見とれ過ぎて、写真数枚しか撮れなかったのが後悔かな。 まだ若かった頃。JR東日本なりたての立川駅にて。
中央線のダイヤが乱れて,次の青梅線が2〜3番線か,
はたまた遅れた中央線からの直通の6〜7番線になるか
微妙な状況のときに・・・
2〜3番線の駅員は「こっちが早い」とアナウンスしていたので
それを真に受けた人間約100名以上。
ところが,急に「今度の青梅線は中央線からの直通電車です」なんて
アナウンスがあり,中央線ホームに駆けていくともう発車間際。
発車合図をしようとしている駅員にかけよって
「なに発車させようとしているんだ!少し待て」
「いやまてない。時間すぎている」
「バカヤロー!青梅線のホームの誤案内で駆けてくる人を見捨てるのか!」
「いやそんな話はきいていない」とケンカになった。
さてその駅員氏、後日,中央線上りホームで電車をまっているオレに
ニコニコと笑って近づいてきた。
「あのときはお客様のおっしゃるとおりでした」
「こっちもなんか暴言はいたりしてごめんなさい」
・・・なんて感じで和解して,それが縁で一度飲みにいった。
国鉄時代は北海道のSLの運転士さんで,JRになるとき
一度解雇されて,東日本の追加募集で入社とのこと。
入社後,運転士の道への復帰もあったそうだが,もう年齢も年齢なので
これから1から線覚えは大変だろうと辞退したとのこと。
北海道時代の話をひとしきり聞かせてもらった。 80年代後半だったかな、中央線のとある駅前で走って逃げていく男を全力で追いかける駅員。
だが、駅員は偶々歩いていたお婆さんにぶつかって、取り逃してしまった。お婆さんに詫びをいい、周囲の人に事情説明。
駅員さん、声かけてくれれば、そいつ捕まえるの手伝ってあげたのに・・と。
無賃乗車を逃さないというプロ根性を感じた。 >>406->>407 50過ぎていたので、自分から身を引いたそうです。
定年までいれば北海道特急(多分北斗星のこと)も運転できたのかな?って。
新会社に行けないって言われた時はなんとなく気まずかったんだけど
終止話しててあっという間に時間が過ぎていった。
「ここの登りはSLの頃は大変だった」とか
「ここの直線でどれだけ遅れを回復できるか」とか
本当、夢のような時間だったよ。
らっきょの乗ったカレーを見る度に思い出す。
(あの頃はらっきょが嫌いだったけど、
折角出してもらったのに残す訳にはいかない。
でもそれがきっかけでらっきょ食えるようになった。
でも最近、らっきょの乗ったカレーあまり見ないね) 国鉄車掌に関する著書を出している坂本カレチも
民営化直前で50過ぎてたから自分で辞表だしたんだよね。
そこで残りJR採用にされた同年代の職員はかつての後輩である年下の助役から
「なんであんたは辞めなかったんだ?あんたに年の近い連中は席を空ける為に辞めたのに!!」と出勤する度にパワハラを受けていたらしい。
去るも地獄残るも地獄と言われたらしいが
退職や転職した人の方が新しい職場や環境でイキイキ生活できたみたい。 そういえば,昔面白い車掌いたな。
「つぎの停車駅は みたか!みたか!みたか!です。
中野には,と ま り ま せ ん!。」
近頃じゃ自動放送になってこういうのは聞けなくなったが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています