国鉄四国総局
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鉄模やってるけど
型式で検索して
四国以外の全国各地で使用されのフレーズを何度見た事か・・・orz
そんなかつての気動車王国、四国を大いに語りましょう。
四国といえば気動車急行ですかね
昔の日本はどこでもそうだったかもしれないけど、
中でも四国の道路事情はかなり悲惨で鉄道頼りの生活が
近年まで続いた気がなんとなくするんですが。 機関車といえばDF50というイメージが強烈
DD51っていたんでしたっけ?
いなかったとしたら、なんでDD51入れなかったんだろう?
(入線できないほど規格が低いとは思えないし)
四国といえばジョイフルトレインもDE10が牽引していたような...
いやぁ、四国にはDD51はいなかったでしょう。
昔は、やはり線路の規格が低い箇所があったのだろう。
知識として知ってるだけだが、9600も入らなかった。
でもD51は走った記録があるようだ。
今は予讃線にはEF65だって来るけどね。 瀬戸大橋開通前の荷重試験に、DD51が駆り出されたことがあったような。 wikiソースで悪いが、EF62も使われてたな、それ
営業用ではC56160やEF58150も走ったことあるし
走った車両のバリエーション意外に多いな、瀬戸大橋 >>6
意表をついて
381系とか485系もありましたね。
軸重が重過ぎるとかでEF66は入ってませんよね?
EF65や200と、EF66って運転整備重量ほぼ同じではなかったですっけ?
そこまでの牽引力が必要ないから入線しないだけでは。
新鶴見操車場のそばに親戚がいた俺には
伊予三島でみた[新]のEF65が、なんか不思議でしょうがなかった。 これが海底トンネルだったらどうなってたんだろうなぁ
当時の財政状況からして新型機関車は導入しないにしろ
直流版ED79がEF65あたりを元に作られてた可能性とかあったんだろうか?
ひょっとしたら勾配用機関車ということで、荷物運用のなくなったEF62が転用という
可能性もあったかも知れない(時間的余裕はなかったかも知れないけど) かなり前から、橋でいく、と決まってたはずかと。
関係ないけど青函トンネルは下北半島ルートも
検討されたことがあったらしい。 DD51やEF58なんて知らねぇ。
大体、瀬戸大橋開通はJR四国だ。 国鉄最末期、各県に配置されたキハ32のラインは
宇高連絡船(←MS-IME、一発変換しないぞ)の煙突の色と
あわせてあったっていうんだけどホント?
え? 四カマにはないって? と思ったら緑のキハ185があった。 当たり。
各県内で完結する運用のみ考えられていたため、当初は投入県内にちなんだカラ
ーだったのだが、使用している色は宇高連絡船の各隻に用いられているものと同。
でもそのままなら今頃だと広域運用に不都合だった可能性がある。
キハ54の松山?集中配置など当初は考えられていなかったからな。
思えば国鉄最末期の四国は明るさに満ちていたと思う。
電化に加えキハ185系の導入、県庁所在地付近での本数の増加など、ワクワク感
が漂っていたものだった。国鉄最終日に当時中学生で松山から謝恩フリーきっぷ
で四国4県を一周したのだが、高松駅で見た当時新型の121系電車を見た時の瞬
間が信じられない。
「あ、これが国鉄で一番新しい電車なんだ。本当に、
四国の国鉄にも電車が走るようになったんだな」と凄く感動したものだったよ。
今まで、電車と言えば伊予鉄、それ以外は遠い彼方のもののイメージがあっただ
けにそれが覆らされたな。一方で夜に覗いた高松築港駅で見た琴電の電車の古さ
も強烈な印象だったが。
あれから20年、JR四国の現状を見ると切なくなるなあ。 ≫7
営業運転以外なら瀬戸大橋の荷重試験でEF66が使われたけどね。 >>16
土讃線ならある
日本一の大杉が車窓からよく見えた
案内放送が入ることも多かった ご注意:
瀬戸大橋開通はJR四国であり、国鉄四国総局ではありません。
JR四国を語りたい方は総合版、懐かしむ方は別スレを立てて下さい。
JR四国発足も20年、初期の頃はあまり知られていないんだな。
>>1さんは落ちた模型版の >1さんですか? 片上鉄道のDD13の検査表記に「多度津工」と書いてあった。
俺は国鉄時代に四国に行ったのはいっぺんきり。
キハ28 5301(元キロハ)見たょ。5000台にも乗った。 国鉄時代は殆どの駅がボトーソ便所やったな。
民営化してからも阿南、御免などの市を代表する駅でもね。
あと阿波池田もボトーソのままかな? >>21
阿南も御免きれいになったよ。橋上駅化されて。
阿波池田は................... 大学受験で関西からT大学を志望し、帰路キロハ28 1を狙い帰郷しました。
ハ室のシートピッチの広いかったこと。足がとどかねえw。
合格後、何を思ったか夜行鷲羽、深夜の宇高連絡船、夜明け前の高徳線(キロハ入り)で再度四国に入った。
その後は宇高のうどん、船舶G室、高徳ノンストップ急行、特急落ち44系客車、ロングの41系、ゲテモノキユニ。
SLブームの去りしころ、離島でそれなりに遊んでおりました。
小松島区廃止後、ガレージ代わりのキハニ5000の廃車体を調べた思い出があります。
外板表記は消えてましたが、車内のペイントは往時のままで、記号なし5006の表記がありました。
付随化後ハニ5006なのか、キハニ5006なのか。
だれか知ってはりますやろか? 御免、阿南、阿波池田の情報ありがとうございます。
いまでもボトーソ便所多いかな? 急行の頭にキユニとかがくっついてるときって、キユニにもHMはついてたんですか? >>26
HMというくらいだから
そこに付けるしかないわけで・・・・。 >>26
2ちゃんに没頭するより、パソコン上手く使え!
検索すれば画像くらいいくらでも出てくるぞ。 キユニ 列車名でわんさか出てきましたorz
すいません。 それにしても、以外とキユ25が急行に連結される事が
少なかったんですよね。
夜行の「うわじま1号」くらいでしたか。 キユ25は「土佐」でしょ。
晩年なら「いよ」。
検索しましたか? >>31
素面に戻って思い出してみると、うわじま1号には
キニ56急行塗装が連結でしたな。失礼しました。
キニ56と言えば、2が朱5号塗装になって、キユニ28と共に国鉄末期まで走ってましたな。 「うわじま1号」といえばキニ56だよな。
昭和50年前半だと「いよ4号」も。
晩年は下り「土佐」の先頭にも立っていた。
「土佐2号」はキニ19からキユ・キユニ28まで色んな車両が付きましたね。 >>23
私も小松島さよならの日に撮影しました。
多方面において間違いの目立つウィキによれば、
ハニ5000形と書かれていますが私には確信が持てません。 四国の「普通列車」ってパターン性もなくいろいろ駅を通過したよな。
今でも覚えているのは土讃本線の入明と円行寺口。
この両駅に停車するのは上り1本のみで,残りのすべての列車は両方通過するか
どちらかの駅には停車するが片方は通過していた。
>>36
確かダイ改初日
円行寺口の踏切で下りの普通列車の通過待ちをしてたら
円行寺口に停まるようになったキハ47が思いっきり通過したので大爆笑
好きな子が乗ってたんだよねぇ
遂にキハ28・58の定期運用が…。
一つの時代が終わった予感がする。 昭和36年生まれです。宇和島で幼少時代を過ごしました。
松山に行くというのは大イベントで、そのための手段が急行「うわじま」でした。
八幡浜にアイススケートに行くのは普通列車。
特急用車両が初めて投入され「しおかぜ」が走り出したとき、
松山への修学旅行で乗りました。
ボックス席じゃなく、全席の背面にテーブルがあることに驚き、
急行とは違う車内の質感、静かさそしてスピードにも驚いたものです。
冷水器のペラペラの紙コップを記念品に戴きましたw >>39
「全席の背面」じゃなくて「前席の背面」です。 駅名看板の表示で通過列車の多い駅は()していたな。 >>41
あったあったwww
きたいよ ← まつやま → みつはま
(いちつぼ)
に、えっ?と思った消防のある日。
市坪。当時は田んぼの中、築堤の上の、ホーム一本の駅だったな…。
駅は、線路が分かれてて、駅舎があって、駅員さんが居るものだ、
と思っていた要衝の自分に、すごい衝撃を与えてくれた駅だったwww
昭和56年ころの八十場、讃岐府中なんかは上下一本づつしか、停車せなんだな。 >>41
スレ違いで恐縮だが,駅名標がカッコ書きくらいならまだいい。
駅名標にも,出札窓口に掲示されている運賃表からも抹殺されているケースもあったぞ。
四国じゃないけど磐越西線塩川駅。
駅名標からも運賃表からも,堂島,笈川,姥堂,会津豊川は抹殺されていた。 >>49
会津若松〜喜多方間は確かに塩川にしか停まらん列車多かったね。
土讃本線
大王信号場
って、字面がかっこいいよなw
線路付け替えでアボン残念。 関係ないけど、大王製紙って王子製紙の向こうをはって
つけられた社名らしい。
国鉄末期の高徳線の50系客車の簡易ビュッフェのメニューが気になる。
市販の時刻表には、どの列車に連結されているかは書いてなかった。 JR化直後の、プラ製のサボ、国鉄タイプながらフォントを変えた駅名標、
ユニットサッシのキハ20が懐かしい。 >>14
連絡船とはちょっと違ってたはず。
連絡船は阿波丸:赤 土佐丸:青だったけど、
キハ32は四トク配置のが青で四コチ配置が赤だった。 >33
52年3月改正
←高松
601D
<キニ56|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58> 四カマ81+41+21
108D
<キニ56|<キハ58|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58> 四カマ81+63+53+33 601Dのキニの戻り
211D
<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>|キユニ>|キユ25> 四カマ27+95+113 >>33
>>62
国鉄時代の四国は一度しか行かなかったけど、四国といえばゲテモノ郵便荷物気動車が
名物だったな。もっとちゃんと行っておくべきだった。 >>46
ほんとそう思う。土佐北川駅なんて川の上に木製枕木をプラットホームに
したホームも傾き加減の駅だった。 そんなかつての気動車王国、四国を大いに語れる人はもう誰もいない。 昭和57年に初上陸。キロ28が格下げされた、キハ28 5000番代の
急行指定席車が好きで、好んで乗った。夜行が主な利用で写真撮ってない。
高松駅では、半室合造から再改番されたヤツ(5301だっけ)も見た。
車内のどこかには キロハ28 1 の表記が残っていたような気がする。 年末年始がまだ大混雑の時代、急行指定に乗った。
立客が指定車両通路まであふれかえっていた。
車掌が一掃した。
この時ほど指定のありがたみ実感したときはなかった。
シートはガタガタだったけど。 〒のマークがついた、四国限定の形式の車両はあったが
〒のマークがついた車両は必ずしも四国限定ではなかった。 微妙にスレチかも知れないけど長い間の質問。
俺は子供の頃から国鉄特急の絵付きマークが
好きで、色んな本を見てきたんだが、
JR四国で181系や185系で走っていた特急で
風景画みたいなイラスト付ヘッドマーク(今のビッグXみたくシンプルじゃない奴ね)
付けて走っていた特急って
しおかぜ、南風、いしづち、うずしお、しまんと だけ?
特にあしずりがあったかなかったかが凄く気になってる。
某サイトにマークのバナーあるけど、そこに
四国特急の一部だけが見あたらないし…。
教えて、偉い御方。 宇多津駅
今でこそ要衝駅だが昔なんて・・・・
停車しない普通列車が多数あった。 >>80
185系導入時に しおかぜ・南風に絵が入り
63-4瀬戸大橋開通で絵が変更 いしづち・しまんと・うずしお登場
2-11の2000系量産導入でグラフィック化 宇和海・あしずり登場
この流れだったかと あしずりにイラスト型マークは無いですな >>83
おおthx!やはり絵入りは国鉄の専売特許だったのか…
お陰ですっきりしました。 30年前の急行全盛時代(もっと前かな?)、
急行のヘッドマークが島内で統一されたデザインで、
イラストこそ無かったが、好感が持てた。
キハ58の車掌台側だったか、ヘッドマークを付けた急行は風格があった。
185の特急、高徳線に特急という自体信じられなかったが、
落ち着いたデザインといい、ヘッドマークといい、
すっきりした印象でこれはこれで良かったし、
今の鋭い走りを見せる特急も良いが、
煙で汚れた車体、蛍光灯横に安定用電球が灯った車内、
ノッチを切った時に耳に残る線路のジョイント音とアイドリング音、
それなりに混んでいた車内・・・若年ファンに是非体験させてあげたいなぁ。
四国総局…。門鉄局みたくなつかしい響きだね。
急行うわじまと高松ー中村間の夜行快速が思い出。周遊券で宿代わり。 「周遊券」も、今となっては懐かしい。
動輪が描かれた国鉄の地紋の薄い券紙に、
墨色の活字で周遊区間までの往路の乗車券片と、
周遊区間が路線図で描かれた復路の乗車券片が、
ホチキスで留められていた。
検札で車掌さんが桜の花びらのような凹凸と穴が出来る鋏を入れてくれ、
決して愛想を振りまくわけではないが、丁重さが伝わってくる挨拶と
共に周遊券が手元に帰ってくる。
夜行だと車内が減光されていたなぁ、
結構混んでいても、お喋りする雰囲気が消えてしまう独特の世界。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
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旧客もすてがたいねー
高知〜高松よく乗ったよ。
DF50とかも懐かしいね。 昨日OHK開局40周年番組で昔の高松駅の映像が映ったよ 高松駅頭で道を訊かれた。なんでも久しぶりに来たら全部一変してたと。 GWに中村駅→足摺→竜串→宿毛駅→宇和島駅と周ってきたけど足摺・竜串周辺の
バスの本数の少なさには困ってしまった。その路線バスも地元の年寄りが
ポツリポツリと利用しているだけ。
瀬戸大橋開通直後の20年前の旅行ガイドブックを見ていると足摺・竜串周辺でも
路線バスが1時間ヘッドって書いている。
思えばキハ185投入→JR四国誕生→瀬戸大橋開業→2000系開発途上で
高速道路も一部区間のみだった、この頃が四国の鉄道が一番輝いていた時代であった。
昔、急行土佐の普通車指定席券を買ったらグリーン車を使っていたわ。得した気分やったわ。 四国のは格下げだったけど、それに触発されたか
のちに九州で、座席をG車のヤツに換えたキハ58の5000代が出た。
枕カバーは白のレース模様の透明なビニール製だった。 百ゲット
>>99
JR全社で廃車済みです。どこかで保存されているかはわからんですが。 第一讃岐丸に、第三宇高丸。長い間、第三桟橋に係留されていた。
四国総局の広報課は、確か3階にあったけど、その部屋から、2隻を
見ることが出来た。 高知で途中下車という形で切符を手に入れるため、高松で入明までの切符を買おうとしたら
「入明てどこね?」と言われ、説明してもらちがあかず、仕方なく高知までの切符を買った。
国鉄時代の話だけど、駅員の知識ってそんなもんなのかな。 >>103
入明はマイナーな駅やから他県ではわからなかったのでは。しかし説明してもわからんのはアホか運賃計算が面倒くさかったか たしかに、用意されている硬券以外の切符を発行するのは面倒だったのかもしれない。
なにしろ国鉄の駅員だし、こっちもガキだったし。 >>103
四国ではないが、JR新宿で俺の前のばあさまが「みんまや」と云っても
駅員氏は「すいません、何線ですが?」と判らず、時刻表の路線地図で
ばあさまが津軽線の先端「三厩」を指さしていた。
いくら自社線でも端から端まで判らないでしょう、いいじゃないの。 >>104
それでも、仮にも「四国の表玄関」を自負する高松駅の駅員たるもの、入明という駅名ぐらいは知っておかなくてはならないだろう。
ついでに言えば、どうして高松という駅名の前に「讃」の文字が必ず入っているのか、その経緯も(謂れを知らない駅員さんが実際にいる)。
(讃)高松→高知
さりげなく乗れたスハ44。
昭和50年から63年まで13年間も海で隔てられて、わびしい思いだったであろうキハ180-1。
信越線電化で飛ばされ、四国で寿命を終えた9両のキハ57。
長崎本線電化でED76を15両新製投入→これに伴いDD51が15両、米子運転所に転属→これに伴いDF50が4両、米子より高松運転所に転入
…四国総局はPC・DC・DLの余生を送る捨て場。 思い出せないんだか、瀬戸大橋開通前の高松駅は高徳線急行と予讃線特急急行と土讃線特急急行とはホームが分かれてた? 保守
来島どっくの坪内氏が
「私に四国の国鉄を任せたら数年で黒字にしてみせますよ」的なことを
豪語していた、と誰かが言っていた。氏の威光も晩年には曇ったが… そして蔦監督の乗車していたキハ5711が事故って廃車になった。 >>109
分かれてました。
高松駅0番線ホームは、もちろん高徳線専用。 お、そうそう。
中央西線電化で高松運転所にやってきたキハ181、洋式トイレを撤去して、
そのスペースが車内販売の詰め所に様変わり。 ttp://art2.photozou.jp/pub/338/1338/photo/714675_org.v1251604055.jpg 〒マークのキユ25懐かしいな
この車両は四国だけ
末期は急行も牽引してた 徳島の鍛冶屋原線が、今も残っていたら、どうなってたんだろう。 昭和47年1月廃止。 そういや四国の国鉄→JRでそれ以降路線まるごと廃止ってないよね。 あ、小松島港線があったか…(汗)…徳島県ばっかり… 鉄ピクの最初の四国特集で面白いことが書いてあった。
四国内の夜行列車は、本土決戦に備えて日中の空襲を避ける目的で引いた貨物列車の筋が元になってるんだってさ。
四国総局最初の仕事って所なのかな。 >>115
>中央西線電化で高松運転所にやってきたキハ181、洋式トイレを撤去して、
そのスペースが車内販売の詰め所に様変わり。
キロ180-1な。洋式トイレを撤去して、 そのスペースが車内販売の詰め所に様変わりしキロ180-151となった。
さらにキロハ180-5となるんだが。 ワフ21000・22000
門
鳥栖駅常備 ワフ
21325
中には、 札
岩見沢駅常備
ロ
ワフ
122532
四
高松駅常備
ロ
ワフ
121065 もある。
特に北海道と四国に有った。違いは黄線 北海道のは、車体下側
四国のは車体中央に黄線が入っていました。
四国オリジナルのキハ58ベースの郵便車(昭和59年だったかな郵便車廃止まで走った)
で、末期には急行いよ等に連結されたみたい。1〜4号まであり、1,2が平窓タイプ、3〜4がパノラミックウィンドーとなっていて、
印象も異なる。この時代普通列車にはまだまだ冷房化も進んでなかった時代に、作業効率向上のため冷房装置標準搭載でした。
ただこれらの車両は当時の郵政省所有で、純粋な国鉄の営業車両というのとは少し異なるようでしたが、
このキユ25をはじめ、キロ28格下げの5200番台など、気動車王国四国を支えた、
気動車急行たちが懐かしいです。 四国の商店街空き店舗率(県庁所在地)
松山 16.3%
高知 14%
徳島 12.3%
高松 12.2%
商店街の衰退度
松山>>>高知>>>徳島>高松
衰退チャンピオン松山w 「つばさ」として上野から秋田に行き、間合い使用で「あおば」にも用いられていたキハ181系、
8両ほどが海を渡って四国に飛ばされて来たけれど、
”四国の東海道本線”を走破する特急列車が1往復増強(これに伴って急行「うわじま」1往復が廃止)されるにとどまったのはどうしたものか? >>133の時点で、高松運転所に所属する特急型車両は総勢5編成44両となったわけで。
最初の26両のみが新車で、のちに「しなの」のお古34両のうち8両が海越えで合流(残り26両は「やくも」に充当)。
その後に、奥羽南線電化完成に伴って485系1000番とキハ58系急行「きたかみ」になった「つばさ・あおば」のお古のうちの8両が
淋しく海越え。
キロ180−1とキハ180−1が、こんな歌を歌いながらつぶやいていたという。
流されて
http://www.youtube.com/watch?v=4HbUHKGpw_4 模型見ていたら、キユだけ天井のRが低く平べったいんで
別形式からの改造かと思いきやwikiさんは新造とな。
お客用よりも早く分散冷房のっけた事と関連でもあるのかなぁ。 宇和島〜宿毛、奈半利〜甲浦を開通させて四国環状特急を走らせよう。車両は特急はまかぜの引退キハ181を国鉄色に変えて、高松始発の右回り、左回りを1日1本ずつだ。 四国の181が44両になったのは、昭和61年11月改正前に車掌室付きキハ180が2両増えた時。 この車掌室付きキハ180形2両は、昭和61年11月改正でキロ180 200番台になった。 もう一回、岡山(快速)→宇野(連絡船)→高松(急行土佐)→高知に行きたい >>137
,. - ─── - 、
/ , `ヽ.
/〃//,. ,ィl/|l ト、 !、 、 ヽ
ー'´| | l |1 | !l. l| ! | l.|ヽ ! !、 ',
YレV!ヒエ「! |l.「_ト!Ll」| l l l
! lハイJ | ´|_jヽ. リ,! ! l. l | へえ、そうだったの?
|l |l.} ー , L _,ハl.lトl l. | l
|l ilト、 n '' ,1l|ィ| |l l |
_ 二,ニ^tュ--ェ_t1」l.|l !リ|_lノ
r7´ f r┐| 〔/ミヽ>,-、 ̄´
Y ー个‐'t ハ-、_'ゝ、
ヽ ._・ rく ̄ヽト-'丿 ヽ l
/ (・__,)ゝi┬'´ハ` '`|
|ヽ, イ ノ┴くヽヽ、 /
`´ ゝ┬ヘ`ヽ | `ー‐1
ゝノ-‐^ー'一''丶 ヽ ヽ もともと鳴門大橋は鉄道併設橋で設計されていたからな。 >>147-148
そのまま洲本まで乗りこんじゃえばいいのに >>151
俺の中学のときの地図帳には予定として点線で描かれている。 >>153
俺が小学生の時には、帝国書院の地図帳は
未成線は破線で描かれていた。 点線であったりハシゴ線であったり地図によりまちまちなんだね 急行とかに乗ると、袋もって車内を巡回しにくるオバチャン
が懐かしい。 >>157
まじっすか。あのピンクの帯のやつ。
登場時、あの一段上昇窓は、気動車に合わせたのだと思った。
7000形の全長が、急行気動車と同じなのも先祖帰り? 121系、なんかが昔と違うと思ったら、スカートが付いてた… 香川県立ミュージアムで開催されていた昭和大鉄道展に行ってきたが
サボで詫間〜多度津とか海岸寺〜多度津ってのもあって
1駅2駅って一体何目的の列車だったんだろうか?
多度津駅を開けておくためか? >>161
土讃本線の高松直通列車と接続させるためだと思う。
昔は多度津-高松間でも大部分は単線のため本数を増やせなかった。 >>116
>>117
>>118
今更こんなんにレスする俺って・・・(ry
琴平で正解
阿波池田発高松行き222レだな
DF牽引なんで、1979〜80年頃じゃないか? >>163
君は祭りを知らないのですね。
良くわかります。 >>128
まだ松山にあるよ。
塗装なんかボロボロで原型留めてないが。 >>99
四国のキロ28なんて三十年ぐらい前になくなったでしょ。
指定席格上げで、プラス300円でグリーン席座れた。 四国の駅のホームの看板は、駅名標は数回の変遷を経てるが
その他のものには、国鉄時代のものが多く残ってたりしないか? >>170
JR化直後には、レイアウトは国鉄時代のままながら
フォントが洗練された駅名標がありませんでした?
あとプラ板っぽい色付きのサボとか… >>177
無人駅の場合なんかは。
一例: (えんぎょうじぐち) あ、失礼。
>>178の場合は土讃線の「旭」駅における特殊な例。
本来なら下り方面は単に「あさくら」と表示し、
上り方面の場合ならば「こうち(えんぎょうじぐち)」と表記しているところだったはずなのに、
円行寺口駅と高知駅の間には入明駅という、もう一つの無人駅があることを考慮しての特例措置だったのであろうと思ったりもしています。
ちなみに円行寺口駅の上り方面のほうはしっかりと「こうち(いりあけ)」と表示されていましたよw 鉄道・バス含め唯一の黒字が、松山高知急行線「なんごく号」の四国総局。 突然すみません、四国の郵便・荷物車にハマってしまった者です。
キユ25とキユニ17が併結した列車ってありましたでしょうか?
ご存知の方いらっしゃいましたら、ご教示お願い申し上げます。
よろしくお願いいたします。 | ̄ ̄ |
| ___|
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( ・∀・) ほほう
/<ヽ∞/>\
/ _ <ヽ/ ̄ ̄ ̄ ̄/
____(__(つ/ /__
|\ \/ /
| \ ガガガガ・・・・
| ̄ ̄ |
∧∧ |___ |
( 。_。) 閣下 御質問です _|___|_
/<▽> (・ ) ふむ
|::::::;;;;::/ /<ヽ∞/>\
|:と),__」 /_ <ヽ/ ̄ ̄ ̄ ̄/
|::::::::| ____(_(つ_/ /__
|:::::::| |\ \/ /
|:::::::| | \ ガガガガ・・・・ e
原則的に郵便車は合造車であっても1列車につき1両しか併結していなかったため、
そのキユ25とキユニ17の組み合わせは定期・季節列車ではありえず、
臨時入場などの突発的な場合にはありえたと考えたほうがよい。 中学生の頃だったかな。
夏休み広島まで出掛けて四国ワイド周遊券手に入れて有効期間中毎日乗り倒してたな。高松から中村まで夜行に泊まったりして。 行先が中村の中村さん限定の団体ツアー。
運転士も車掌も中村で揃えると言うこだわりようw ディーゼル特急を運転するのはごもっともだが、高松〜多度津間以外は最高速度が95km/hも達していない
そんな状態でディーゼル特急を運転しても、所要時間では急行と差別化がはかれないので、問題になる
なので、まず路線の高速化を多度津〜新居浜間、高松駅口(高徳線分離)で行う
都市近郊区間における普通列車が遅いため、急行や将来投入する特急のダイヤに悪影響を及ぼす
そのため、徳島・松山へ関西本線大阪口電化で不要になる奈良気動車区のキハ35系を投入して、客車列車を一部置き換える
有料型団体臨時用途として、12系試作車を主に14両(スハフ4、オハフ3、オハ7)配置し、定期急行列車としても利用
まあ、これでも見てくれ
43.10 JTB時刻表四国部分(改行外してくれ)
ttp://books.google.co.jp/books?id=b5TW3qf7JBQC&pg=PA174&lpg=PA174&dq=%E3%81%84%E3%82%8852%E5%8F%B7&source=bl&ots=
74XLNw69jf&sig=YMk126iN9cvM1bh8_KtCWrrx6SU&hl=ja&sa=X&ei=8t5nVI3OLOXXmAWLqoDwBw&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 社会人野球が強くて、四国にはプロ球団がなかったが
局対抗戦をやったらプロ並みに観客を集められるかもと言われてたものだ。
「よんてつ」の幟や鉢巻で盛大に応援合戦してた写真を見たことがある 高徳本線の栗林駅前後が
国鉄時代にしてはかなり早い時期に
高架化されてますが
そこまでして高架化した理由は何ですか? >>196
理由を聞いている。
ここはマトモな人間は居ないのか。 >>195
簡単に考えれば、R32の渋滞緩和。
>>197
クズ動画。
四国総局持って来いよ。 四国特急のヘッドマークの絵柄は
凝っていてよかったなぁ。
今のはシンプル過ぎてつまらんわ。 シンプルな文字だけが良かった。
白板急行HM最高。 >>199
渋滞緩和が必要になるほど列車走ってたかなw
信号つけて一時停止しなくてもいいようにするだけでよかったような 四国の絵入りヘッドマークを画像検索でググってもヒットしないなぁ
しおかぜ しまんと 南風 うずしお いしづち
みんないい絵柄なのに やるかやらないかは自由!!
超本命で暇なときに遊んでみて
何となくやってみたらウハウハですた↑
□をsに変換、※を削除する
□nn2ch.n※et/s12/83arisa.jpg >>203
ヘッドマーク画像は検索すればすぐ出てくるじゃん
たとえばこことか
ttp://nihonkai.exp.jp/hm/index/sk.html
実物を正面からどアップで写した画像じゃなきゃ嫌とか贅沢言うなら知らんが >>205
しまんととうずしおの国鉄時代の絵入りが無い・・・ こんなミミズの死にかけたような絵柄のどこがええねん。
image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E3%81%86%E3%81%9A%E3%81%97%E3%81%8A+%EF%BC%91%EF%BC%98%EF%BC%91#mode%3Dsearch >>206
いしづち・うずしお・しまんとのHMはJR後だから、国鉄時代にあるわきゃ無えだろ。 >>206
国鉄時代じゃなくてJR化後すぐのやつだな
しまんとは赤トンボ、うずしおは穴子?が描いてある
ttp://www.geocities.jp/quiz_trainotoko/trainnaotoko/headmark/aiueo.htm
ttp://www.geocities.jp/quiz_trainotoko/trainnaotoko/headmark/sashisuseso.htm
本州を走っていた国鉄時代の電車うずしおのもあった
ttp://gingaexp.web.fc2.com/hm/hm_3.htm >>210
アナゴ?これは初見だ
阿波踊りの女の人が渦潮に巻き込まれそうな絵柄だったはずなんだが・・・ >>210・211
アナゴてww
阿波踊りの踊り子が把握できてないだけやとw >>195
こたえてやると、
昔地平駅の時は、日通が駅の北側に専用の貨物ホームを持っていて、
東側は橋の勾配であまり引き上げに適しておらず、地平の西側でそれをやっていた
そうしたら、旧32号・現塩江街道の踏切までかかることがあり、それは現11号に移転したのである程度は解消されたものの、
今度は高松市南側に住宅が急増し、その上モータリゼーションのために、「朝の」踏切閉鎖時間が問題に
また、宮脇町において、現市民病院や栗林トンネル開通による踏切支障も問題に
これらを全て解消するため、トンネルから橋の間を一気に高架化して片づけた
高松市としてはもう一つ片づけたかったが、双方反対で現行のままとなった
国鉄時代では、高松と栗林の間に駅を新設したり、本土連絡列車が30分間隔で走るなんて考えてもなかったからねぇ 昭和45年万博後、新幹線岡山開業時における旅客営業会議において
四国は以下の要求を行う
在来線軌道強化ができない以上、特急列車も急行列車も同じ速度でしか運転できず、特急車両を入れても効果は限定的
ソフト面での向上を実施
・行き違い駅での行き違い列車制限の撤廃
・急行普通指定席の乗り心地向上のため、キハ57の投入
・急行冷房化率100%化のため、12系試作車の導入
・通勤形客車として、40系電車の客車化(工事は多度津で行う)
・衝突魔王「第三宇高丸」の代替貨客船
・宇高連絡船の「急行便」の導入(ホバークラフト) 40系電車の客車化が実現しなかったのは、関西線電化で余ったキハ30系を貰い受けることができたからか? 216です。四国にはキハ35系、少数しか入ってないんだな。他の一般型気動車の増備で間に合ったということか?でか 1.「今後の旅客営業」から外れる
昭和44年にまとめた「今後の旅客営業」には、一般用客車は製造しないと読み取れる部分がある
・表定速度向上
・冷房搭載
2.減価償却
車種転換の場合、客車の方が減価償却年数が長いので、新たに減価償却が付く
キハ08系のような「つなぎ」目的ではないし、戦災特例の70系ではないので、あと20年使う必要がある
1972年改造なら、1992年まで使うことに
ところが、マル生発覚による労使紛争激化とオイルショックにより、
電化区間の延伸ができず、キハ35形の転属が不可能で
→気動車のエンジン開発方針の失敗で冷房キハ45が作れず
→労使紛争激化と高速道路網整備、トラックの大型化で鉄道貨物輸送離れが深刻化
→貨物列車の運転本数が想定未満となったため、余剰機関車があふれる事態へ
→票のために国鉄をたたくバカ議員の増加
により、「今後の旅客営業」が一時頓挫し、雑型客車を自動ドア化しただけの50系客車が作られる羽目に陥る
ただ、ホーム高さを全て920mm以上にしておけば、ステップなしで車体中央部にも乗降扉が設置できるけど、外吊扉はキハ35系で叩かれたから 初めて高松でみた朝ラッシュ時のキハ20だけの7連
地味だけど物凄く印象に残ってる 高松〜多度津間の複線化は第二次5ヶ年計画(昭和35年)に盛り込まれるも、
紫雲丸沈没事故(5次)により、瀬戸大橋建設機運が高まっていた事※から、坂出〜丸亀間は同工事と共に行う注記があったはず
※1959年から当時の建設省や海上保安庁が事前調査を開始済
瀬戸大橋設計時において、国鉄付随工事として高松〜多度津間の直流複線電化は盛り込まれている
オイルショックがなければ遅くとも1984年には新幹線(宇多津まで)と共に完成していたが、
その当時の国鉄を考慮すれば、両県の支援と岡山との運用効率化のため、115系2000番台は3連の新製投入、EF64 0番台(電暖付)の転配
そのため、琴平までは単線電化が行われたと思うけど、
乗継が高松・岡山から宇多津に替わることから、高松〜多度津間でEF64牽引の客車普通列車が定期設定されるとは考えにくい 両側が近代化されたけど、その間に挟まれた宇多津駅は改良もされず、ダイヤのネックに
移設できる跨線橋すら建てたがらなかったのに急行と同じ運転曲線で走るおさがり特急車は導入させる本社の図々しさ 四国内で121系6連の運転は未だに行われていないが、
国鉄時横須賀線での試運転において、121系8連は行われた >>225
ttp://www.shikoku.org.uk/JR/LIB/TRAIN/EC121-6_144M_9301.jpg
これは幻か? DF50の前に無蓋車を連結してプロモを撮ったのは有名な話
でも、土讃線だからね 四国各線には軸重などの関係からDD51は投入されなかったが、
高松運転所でDD51の乗務員訓練が行われたことはあった JRになってまだ1、2年だった頃先輩の車で香川から松山に乗せてもらったとき
愛媛県の国道11号沿いの確か南側にキユ25が置いてあったのをみた記憶がある
まだ急行色のままだった
今保存車で検索すると国道317沿いに1台在るけどこれを見たのか他にもあったのか…?
写真撮っとけば良かったなぁ >>231
R11じゃなくて松山市内の県道沿いにもう1両あったのは覚えてる キユ25ですが県道23号線沿い・砥部町にあったのが2号です
90年代中期に道路拡幅で3`ほど東のラーメンショップに真っ二つに切断されて移動
2000年頃に解体 キユ25ってロット割りがEF81 300にそっくりだな DD51が軸重な関係で四国に入線しなかったとよく聞きますがDF50と重量が
ほとんど変わらないので、軸重の問題は関係ないと思っています
予讃では伊予市以南はDF50は入線できませんでしたし。
それよりもエンジンが2台のDD51を四国が嫌ったのでは?
編成も短く軽い四国の客貨ではDE10がベストで、重たい編成では重連にすれば
事足りますし
あくまでも個人の推測ですが 【速報】るいるい首は固定中、高知に転院してリハビリ開始 使い慣れたほうがいいに決まっている
新規嫌い
動軸6(DF50)に対して動軸4(DD51)で粘着力が不足するため、中間台車を減軸重することで軌道劣化が早まると懸念
そして
最高速度が高松〜多度津以外85km/h以下
貨物需要が減っている
DE10も余剰
ならDD51よりDE10で統一して経費節減
となって、四国へのDD51導入は幻に キハ181+キハ58の運転心得たるや如何に?
(度々資料写真に出てくる) >>240
ブレーキくらいは繋いでいたのかもしれないが、総括制御にはなっていないので、キハ58がキクハ58になっているだけでは? >>229
そりゃ知らんかったですw
>高松運転所でDD51の乗務員訓練が行われたことはあった
いつごろの年代に? 鉄ヲタだけがそういった発言しているが、
職員からそういった事例は聞いたことがない。
本当にそうであれば正確な記録を明示するべき。
それも知らずに迂闊に発言するのは良くない。 DD51とDD13を見間違えたやつは多いけど、連絡船に載ってDD51が四国内に入ったことはない
DD13は昭和40年付近から5年程度だけ四国に居た
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/gage/1228018191/165
おそらく四国総局内の担当者が岡山機関区に出向いて、同区に配置されていたDD51で初期調べをしたくらい
四国に渡っていたら写真がアップされているはずだから
「サロンカーなにわ」が連絡船から降ろされる瞬間でも写真がアップされている >>246
>おそらく四国総局内の担当者が岡山機関区に出向いて、同区に配置されていたDD51で初期調べをしたくらい
あ、そういうことだったので?
>DD13は昭和40年付近から5年程度だけ四国に居た
…昭和53年初頭の時期においてもまだ、
高知駅構内入れ替え専用(多分)として1両だけ在籍しているのを見たことがある。
役目を終えて留置されていただけだったのかも知れないんだけど。
とにかく機関庫にDD13が居たのを自分の目で確認済み。 >>247
鉄道図書刊行会編国鉄車両配置表から
四国のDD13は1967年3月31日現在高松に5両、松山に1両、
1974年3月31日現在配置なし。 >とにかく機関庫にDD13が居たのを自分の目で確認済み。
確実に見間違い。
どこかの機関区との勘違いとか。
昭和53年ではありえません。 DD13四国新製配置機の四国から転出記
214 45年1月に高松から品川
220 45年3月に高松から新鶴見
318、344 44年9月に高松から姫路
342、343 44年9月に高松から吹田
380 45年1月に高松から内郷
DD13
53年から廃車は出ているけど、912への改造廃車以外は年初でなく6月17日付の15号機品川が最初
ただし、写真記録から高知には試験目的で昭和30年代に来ていたであろう写真らしきものはある
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-8d-5e/rinjimatsushima/folder/1285344/45/40334145/img_1_m?1467033010
114号機 汽車大阪 36年10月25日新製配置田端 38年から行われる赤・白色化以前のこげ茶・黄色塗装状態 >>248
>四国のDD13は1967年3月31日現在高松に5両、松山に1両
さすれば、高松所属のうちの1両を高知運転所に試験用か何かで回してきて
廃車待ちのため留置していたとか?
それとも品川か岡山かどこかからの一時借用?
それと、この時(昭和53年1月)の1回きりしかDD13は高知運転所では目撃することは無かった。
機関車はDE10とDF50のみ。
>>249
でも、実際のところ高知で確かに見た(そもそもこの時点では誰ぞは高知に住んでいたわけだし)。
そもそも誰かさんをして「DD13」という形式のDLの名称を最初に覚えたのがこの時だったわけだし。
ちなみにヘッドライトは2灯式のほう。 まずは高知運転所と発言している時点で四国総局の歴史を理解していない。
年代が間違っているか、DE10と見間違えたというしかない。
まぁ40年前だし、高知在住していたからといっても記憶が飛んでるのは仕方ない。
本当に昭和53年ならきっと誰かが撮影はしている。
一体、高知ではどのような状態で見られたのでしょうか?
見間違いであることを証明する手がかりは掴めると思います。 >>251
どうでもいいけど、何号機かわからない?
写真撮っていたらアップ
わしの雑感ではDD13の形をした車両入換機
>さすれば、高松所属のうちの1両を高知運転所に試験用か何かで回してきて
>廃車待ちのため留置していたとか?
→廃車の前に休車となるためありえません
→高知運転所となるのはずっと先で当時は機関区
>それとも品川か岡山かどこかからの一時借用?
何号機と区名札が分かれば話は早い 結局の所、当時の四国総局の歴史を理解していない。
昭和53年の高知機関区がどういった状況かを考えれば、
>試験用か何かで回してきて
>廃車待ちのため留置していたとか?
>それとも品川か岡山かどこかからの一時借用?
こんな発想はできない。 >>252
>一体、高知ではどのような状態で見られたのでしょうか?
機関区の北側の、用水路を挟む一般道路から見ました。
>>253
そこまでは覚え切れていないです。(撮影もしていない)
>>254
>結局の所、当時の四国総局の歴史を理解していない。
これは仰る通りかも知れませんね。 >>255
とりあえず1次(一ツ目)かそれ以外(二ツ目)かくらいは分かるだろ ___ ━┓
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/ノ (●)\ ・
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ただ、形式名のところには確かに「DD13〇〇」と表示。 >>253 総長殿のご年齢が定かではありませんが、
昭和43年にご覧になられたのであれば、
DD13が高知に配置されていなくとも試験的に高知に来たと言う事はあり得る話です。
>機関区の北側の、用水路を挟む一般道路から見ました。
高知機関区は北側から番号を確認できる場所は限られていましたが、
この地図から具体的にどこからご覧になりましたか?
http://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/gmap.html?ll=33.567154,133.543825&z=17&data=history&t=gsigazo1
昭和53年1月に見たと断定できる理由はなんでしょうか?
この頃はちょうど急行HMが色分けされた頃です。
その時の記憶と合致はいたしますか?
四国では小型DLが結構在籍していて車両番号も与えられていたので、
その番号が130台であり、その車両がDD13と脳内変化した可能性もあるかもです。
ただしこのDLは1灯でしたが。 高知駅にも1両小型DL(入換動車)が居ました
写真もアップされていますよ >>259
>この地図から具体的にどこからご覧になりましたか?
機関庫の放射線状に線路の広がっている場所の、向かってすぐ左側となりましょうか?
とにかくポッポヤさんのいた栄田町踏切(高知駅プラットホームを出ると下りの最初の踏切)北詰からほぼ線路沿いに上りの方角に向かい、
機関庫と用水路にぶつかって
すぐ左折した場所から目撃したのです。
>昭和53年1月に見たと断定できる理由はなんでしょうか?
この自分が昭和52年暮れに「鉄道マニア初心者」となったわけですからw
そして実質のところ昭和53年をして「鉄道マニア元年」とする記念すべき年だったのですからww
まあ、中学時代の(ry ttp://blogs.c.yimg.jp/res/blog-50-92/hideki_kobayakawa/folder/1711640/80/67865080/img_2?1419531367
ttp://livedoor.blogimg.jp/nainen60/imgs/0/b/0be91005.jpg 伊野
DD13を貨物移動機と見間違えた可能性が大半
以後、昭和50年代に高知にてDD13が居たというレスをする場合、証拠写真URLを記載する事 >>261
>機関庫と用水路にぶつかって
>すぐ左折した場所から目撃したのです。
西側の機関区への入り口付近ですね。
だとすれば、完全にDE10と見間違えていますね。
小型移動DLは機関庫内には入らないと思いますので。
そもそも、高知駅の西側に小型移動DLは来ないと思います。
よほど何か事情がない限り・・・。
>昭和52年暮れに「鉄道マニア初心者」となった
やはり、記憶が完全に脳内変化してると思われます。 「昭和53年に高知でDD13を見た。」
と言う事がどれだけおかしな事かを例えると、
「昭和50年に高知でC58を見た。」
「昭和63年に高知でDF50を見た。」
と言っているようなものですよ。
四国総局の歴史を理解していれば常識的な事ですが、
総長殿が見られたと仰るのであれば、
この話はこのスレだけにしておくのが賢明でしょう。 四国は気動車の墓場と言う、特に徳島は。
高松や松山に比べて汚い車両が多い。
四国は本州から隔離された感じだった。
蒸気機関車は、8620、C58、C11、C12しかいなかった。
高知の一部に石灰石輸送貨物列車があった。
貨車は、ホキ5200である。何とも、古臭かった。
ホキ2500、8500、9500に比べて。
何にしても、四国は本州に比べて、近代化が遅れていた。 昭和36年に気動車による近代化がいち早く行われた
昭和45年にはSL全廃を完了
ただし、ここからバカによる停滞始まり、さらに瀬戸大橋関係でほぼ完全停止
結局国鉄分割民営化直前までほとんどよい車両は回されなくなった
特急は急行の停車駅と余裕時間を削っただけで実質値上げと言われたくらい
なお、ホキ5200(2代目)は土佐石灰工業の私有貨車なので、国鉄とは関係ありません 四国の近代化の停滞か?
それは言える。
国鉄分割民営化間際に、キハ32とか、安っぽい、気動車を導入した。
石灰石輸送貨物列車のホキ5200は
国鉄と関係ない、それは言える。
本州、九州のホキ2500、8500、9500が石灰石輸送貨物列車らしいからそうなった。 徳島は気動車の墓場。
汚い車両が多い。
徳島は近代化が遅れていた。
松山や高松は少しは、きれいな気動車があるが
九州に比べて汚い車両が多い。 「動力近代化」の原義が曖昧になってるように思う。
戦後すぐのこと、国鉄は蒸気機関車主力で、その石炭が大いに不足、質も悪くてパワーが出せず、
国としてのエネルギー不足対策として、熱効率の良い、ディーゼル化、電車化で解決を試みたのが「動力近代化」。
だからディーゼル化は、動力近代化の先端で、一種試験線として房総・総武が選ばれて
1954年(s.29)に千葉気動車区が開設された。
熱効率SL5%対ディーゼル20%〜電車30%では断然勝負あった!
1961年(s.36)に気動車化されたのは、千葉の試験線区の一応の成功で千億の非電化線のディーゼル化の一環。
後日は輸送量が一定あれば電化の方が安上がりになり、単線のママ次々電化されてディーゼルは追い出されていった。
千葉気動車区は1975年に廃止されて、現在は跡地が西千葉公園になってる。
よく鉄ヲタライターが「房総は近代化が遅れ」なんて書いてるが、国鉄の言う動力近代化の先陣を切った試験線が房総・総武というのが真相。 >>272
×>1961年(s.36)に気動車化されたのは、千葉の試験線区の一応の成功で千億の・・・・・・・・
○>1961年(s.36)に気動車化されたのは、千葉の試験線区の一応の成功で全国の非電化線のディーゼル化の一環。 >>272
動力近代化とは書いていないのだが
確かに動力近代化の始祖は千葉だよ
でも、需要が多すぎて、
千葉気動車区新製仮配置とか言って、
本当の配置区へ行かせる前に夏季だけ千葉気動車区に配置して旺盛な重要を賄うことも行われた
しかし、東京(両国)から電車のまま房総へ行かせたほうがいいし、
急行用気動車も昭和44年にまとめた「今後の旅客営業」で特急化のため製造終了となったため、
電化がすすめられ、1972年に完全電化された(ただし、銚子周辺はちょっと遅かった)
でも、そこまで書くなら、天然ガス動車キハ42200形も書かなければ片手落ちだろうに >>274
> でも、そこまで書くなら、天然ガス動車キハ42200形も書かなければ片手落ちだろうに
エネルギー不足解消の「国策」として行われたのが「動力近代化」。個々の動力方式の開発とは異なる。
> でも、需要が多すぎて、 千葉気動車区新製仮配置とか言って、 本当の配置区へ行かせる前に夏季だけ千葉気動車区に配置して旺盛な重要を賄うことも行われた
房総の凄まじい海水浴客需要のことだね。たしかに当時は凄い混みようだった!電化後は72系101系まで動員していたトンデモ区間。
極端な列車は153系電車で千葉まで来て、その先、電源車としてクハ16を繋ぎ、DD13牽引で房総西線を走った臨時列車が在る。
同時期に80系電車を蒸気機関車で牽いた高崎線経由の臨時列車もあった。
ま、直流特急151系を、交流区間の博多まで電気機関車牽引で走らせた苦肉の策もあって、旅客需要次第のことではあるが。 動力近代化の初期は動力だけで踏切等まで手が回らなかったようだね
それから自動車の爆発的普及に伴い、踏切事故が多発しすぎて、
途中から踏切改良にも手を付けるようになった 四国は、キユニ17と言うゲテモノ、ポンコツ気動車があった。 馬鹿は九州から出てくるな
11両もあって顔面もキハ17系と同じヤツだろうが馬鹿
新製配置が、高松4、七尾2、美濃太田3、米子・小郡各1なのにどこが四国だけなんだ
大歩危から滝つぼの中にダイブして頭をきれいにして来い >気動車の墓場。
余命宣告者を復活再生させるのが四国総局だった。
その改善能力は海外からも視察が来るほど。
組合ありきの他の管理局とは一味違っていた。 いや、四国の気動車は手入れが良かった印象があるよ、昭和50年代前半。
高松車はきれいだったし、古いキハ58・28が多かった徳島でも何とかしようとしていた感じだった。
キハ65は全国で一番手入れが良かったんじゃないかなあ。 徳島はなんで昔からは遅れていたんかな?未だに電車ないし >>282
鳴門のすろっぴーは広義の電車(モノレール)ではないのか? 四国の鉄道の歴史を伝える写真展06/11 10:27nhk
四国の各地で、この30年間に撮影された鉄道の車両や古い駅舎などの写真展が、鳴門市で開かれています。
この写真展は、四国の鉄道の愛好家で作るグループが開いたもので、会場の「鳴門市ドイツ館」には、この30年間に撮影された四国各地の鉄道の写真など40点が展示されています。
このうち徳島県内では、平成26年ごろ試験的に運行された、大型のバッテリーで走行することができる電車の写真が展示されています。
また、20年以上前のJR高松駅を向かいの山から撮影した写真では、現在の駅と比べて線路の数が少なく、周辺の開発も進んでいなかった様子がうかがえます。
このほかにも、人気アニメのキャラクターがデザインされた車両や、新しい駅舎での出発式の様子などを記録した写真も展示されています。
写真展を開いた「鉄道友の会四国支部」の井上武支部長は「今では見ることができない貴重な鉄道の写真が数多くあるので、若い世代の人たちに是非、見てもらいたい」と話していました。
写真展は来月2日まで開かれています。 キハ45、キハ30、キハ35、キハ20
キハ58系、キハ65
キハ181系
マヤ34、12系、50系
(JR後)111系、14系
こんなもんか
現存
キハ40系(今の)、キハ32、キハ54、キハ185系
121系
トロッコトラ
DE10、(DF50) 新しい非冷房の50系客車より古いけど冷房付のキハ58系を残したほうが良かった 四鉄史の320ページにド珍車が写っているのは既出? 四国の珍車
1.キニ15形
2.C59 111号機(高松機関区でのボイラー代用)
3.キユ25形 南海とかジャンボフェリーとか東九には「りつりん」「しうん」て愛称の列車、船はあるけど
国鉄JRには過去も現在もないよな 「しうん」→紫雲丸 1947→1950沈没・同年再就役→1955沈没。以後「瀬戸丸」に改名
「りつりん」 コトデンが1958年から鉄道で使用。誤乗防止のため国鉄では使われず >>291
キニ19ではなく
なぜキニ15なのか? :::::::::::::::::::::``ヽ
:::::>>::::::::::::::::::::\
::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
::::::::::::::::::::::::::l:::ヽ:::::::ヽ
:::::::::::::::::::::::::|ソノ`ヽ::::::ヽ
:::::l/,,;;;;;;;,.ヽ::::l
:::::::::::::::::::::::ノ''゙゙___ ゙゙ |ノ
:::::::::::::::::::ノ <● > \
:::::::::::::/ ヽ
:::::::::::ヽ , `ヽ
::::::::::::::`、 (._ ,,, ノ
ヘ::::::::::::::| ,,,,ヽ._
`、::::::::ノ ゙゙゙/__)
、 '、:::::ヽ \_)
ヽ、 `ヾ'''゙ ,´
\ |
ヽ、 ノ
`` ?---? 'い
https://twitter.com/ibuki_air
09058644384 https://pbs.twimg.com/media/EY95fqxU8AA-eyP?format=jpg
奥から
キユニ26
たぶんキハ20
キニ26 2(運転室後ろにも乗降手すり付は1と2だけ。バス窓ではないから2)
キユ25 1
手前 >>309
ありがとうございます。
そこまでは認識できています。 これは失礼
珍しくもなんともない編成を「この時代の四国で荷物専用列車なんて考えられないのだが」と書かれていましたので、
ぶしつけを承知で書かせていただきました
できましたら、すでにお調べになられた日時と列車番号と運用、個別の車両番号もお書きになってはいかがでしょうか? >>311
いやいやこの編成は珍しいでしょう。見た事はありません。
通常荷物車は一般気動車と併結運用ですので荷物車だけの運転は知りません。 >>312
四国昔物語@kini19_1さんに直接言えばいいだろうに >>313
それはご勘弁。ツイッターもやらないんで。だからここで一応聞いています。 >>314
聞いていますって
有り得ないって否定してるだけじゃんか >>318
思い込みはよくないね。自分の意見ありきで聞く耳を持たなくなるし。 >>320
それでは君が思い込めないよう明確な答えを出してくれ。 ツイッターなんぞ思い込み発言のオンパレード
まともに信用してる方がどうかしてるぜ
ttps://twitter.com/eedenbo/status/1273901089042034688/photo/1
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) DE10+オハフ61+オハ47+オハフ33 いよ52号 昭和60年
5等車+4等車+3等車 全検ねぇ その他むちゃくちゃ
twitter.com/Caferest_bar_Fe/status/1245693490895319044
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 末期の四国に必要だったもの
キハ80系
1980年から余剰発生
キハ181系が嫌われ者
181×14、ハ180×22、ロ180×6 しおかぜ4往復(うち松山1往復)、南風3往復(うち高知1往復)
まず同数置換から
南風用6両3本を置換
82×8 鹿児島4、名古屋4
ハ80×12 名古屋10、鹿児島2
ロ80×4 鹿児島
1982年に急行格上げも含めて大幅置換
82×17(25) 向日町14、名古屋3
ハ80×27(39-2) 向日町25、名古屋2、(ロハ化2)
ロ80×5(9+2)→ロハ化 向日町5
82+ハ+ロハ+ハ+ハ+ハ(82の場合あり)+82 ×6(5) しおかぜ1.5×4と1×1 7往復
82+ハ+ロハ+ハ+ハ+82 ×5(5) 南風1.5×4と1×1 7往復
史実では しおかぜ4往復(うち松山1往復)、南風3往復(うち高知1往復) うわじま6往復、いよ4往復+下り2本、あしずり4.5往復(下り4)、土佐3往復+下り2本
こちらでは、しおかぜ7往復(うち松山2往復)、南風7往復(うち高知2往復) うわじま4往復、いよ3往復+下り2本、あしずり上り1.5本(下り1)、土佐2往復+下り2本
1984年にはもう2編成追加して土讃線高知以遠完全特急化(急行が減便されたこともある)
82×5 名古屋5
ハ80×7 名古屋3、向日町4
ロ80×2→ロハ化 向日町2
82+ハ+ロハ+ハ+ハ+ハ(82の場合あり)+82 ×6(5) しおかぜ1.5×4と1×1 7往復
82+ハ+ロハ+ハ+ハ+82 ×7(7) 南風1.5×6と1×1 10往復
史実では しおかぜ4往復(うち松山1往復)、南風3往復(うち高知1往復) うわじま6往復、いよ5往復+下り2本、あしずり4往復、土佐3往復+下り2本
こちらでは、しおかぜ7往復(うち松山2往復)、南風10往復(うち高知4往復) うわじま4往復、いよ4往復+下り2本、土佐1往復+下り2本 >>325
80系だと、58系・65形の急行より速度が出ないので
所要時間が181系より余分にかかる。
もっと両数が必要なのでは? 続行運転しない単線に限り1両以上緩急客車を連結している場合は尾灯(後部標識)1つでもよかった
そのため、その条件に合えばオハが尾灯1つを付けて最後尾でも問題ない 土讃(本)線、吉野川橋りょうや新改や坪尻で撮られた
現役時代の蒸機画像って、ネットでどっか載ってます?
高徳線の蒸機画像を載せてる人も書いてるが、
四国の蒸機写真って、ただでさえ撮ってた絶対数が少ないから
ネットにもなかなか上がってない。
ネット上にあればご教示ください。 キハ47系松山車が撤退してから久しぶりに
夜行フェリーで八幡浜の始発に乗り換えたが、
駅に近づくにつれて聴こえてきて期待を高めてくれた
原型エンジンのゲコゲコ音も無ければ
松山方面の始発も内子経由に変わっていて
時代を感じた。 1970年度末で無煙化されてるからね
8620形とかC58形追っかけて四国まで遠征する価値がなかったってのもあるんだろう 土讃線の高知以北は真っ先にDL化されたから、ほとんど蒸気機関車の写真はない
茶DF50の前にトラ繋いで鉄道近代化の映画を撮ったほどに
同志社大学鉄道同好会OB会
これが65年前、昭和30年の多度津・琴平 くらいか 機関車の種類が当時的につまらなくても、
吉野川鉄橋やスイッチバック駅って
曲がりなりにも映える撮影地なんだから、
どっかに展示してるパネルなんかに写真あったりしないものかね?
今の時代だって、ありきたりの普通列車とかだって
場所的に映えるだけで撮ってる人がいるわけだし。 >>346
今よりも現地に行くのに時間がかかる
休みとるのだって今より大変だ
そもそもの休み自体も少ない
それにカメラが高価
カメラ持ってたってフィルムなんだから無駄に撮れない 紫雲丸沈没事故(1955年)から数年間は四国行が嫌忌されたのも影響している レイルNo6のメイン記事「戦中土佐日記」が戦時中の土讃線などを扱ってる。
おそらく開業時点の難所をゆく8620の写真もある。当時のネガ故ピンボケ気味だが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています