懐かしの四国の普通列車
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国鉄時代からJR初期まで気動車 客車 電車問わず昔の四国の普通列車について語ろう あんだけ新閣僚に不祥事が続いたんだからもう首相は辞任すべきだろ。 そんなことを聞いているのではない
昔の四国の普通列車の話をしてほしいのだ
気動車 客車問わずだ
昔の旧客の普通列車の話もしてほしい 何でもいいから普通列車の話を書いてくれ
旧客でもキハ20でもキハ35でもいい 1両分のプラットホームの無人駅は基本通過の印象やね。
ちどり停車の普通列車とかさ。 1980年頃のDF50牽引の50系客車列車は高松から坂出までノンストップの
快速みたいな列車もあったらしいな 単線区間ばっかりだから、行き違いや特急待避でやたらと停まり、時間ばかりかかる。 元特急用のスハフ43形ってどこで運用されてたの?
高松―琴平間だけ? >>14
客車あるところどこでも
末期はいつものごとく高徳線運用だったようだが
最終運用には入らず1985年に使用終了 最終運用というのが50系を含むと解釈すればそうだが、
旧型だけなら、そのラストである1985.3.22の324レで15が使われている
もっとも15はスハ44 13の改造車だし、翌月8日には廃車となったけど オールロングシートに改造されたオハ41形はどこで運用されてたの? >>20
ググレカスとは言わないが自分で調べる努力しような。
セミロング改造のオハ47もあったな。 623列車は松山・北伊予間は1124用の50系を迎えに行くDE10が後ろに付いてたなぁ
旧客が消えて50系が転属でどっさりやってきた時に門モコの標記と架線注意の
シール見たのを覚えてる >8
DF50が50系を引いたのは松山気動車区持ちの50系だけ
伊予西条〜伊予市のみ キハ58+キハ65の普通列車で高知ー阿波池田を何度も乗り通したな。
あの頃はキハ58と65の違いも分かってなかったが、65の音は迫力があって好きだった。 そりゃDML30だからな
でも国鉄時代に作られたエンジンよりJR化後に搭載されたエンジンの方が
音が大きいような気がする 予土線では車内をアコーディオンカーテンで仕切った簡易荷物室付きのキハ52が走ってたんだな 四国の普通列車か。
オルゴールアルプスの牧場をフルで流していた印象だ。 愛媛鉄道「100年」記念展12月17日 12時24分ttps://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20181217/0002817.html
大洲と長浜の区間に「愛媛鉄道」が開通してことしで100年になることから地域を支えてきた鉄道の歴史を知って
もらおうと大洲市の博物館で展示会が開かれています。
「愛媛鉄道」は、大正7年、現在のJR予讃線の伊予大洲と伊予長浜のおよそ16キロの区間に開通した鉄道で昭和8年
に国鉄に移管されました。
大洲市肱川町の風の博物館・歌麿館では、県内の鉄道愛好家が集めた当時の写真や鉄道部品などおよそ150点が
展示されています。
博物館では、当時活躍していた蒸気機関車や駅舎の写真があり、鉄道マンや乗客などでにぎわっていたようすを見る
ことができます。
また、会場にはNゲージとHOゲージと呼ばれる鉄道模型の線路が1メートルあまり敷かれていて自分の鉄道模型を
持ち込んで走らせることもできます。
展示を主催した鉄道クラブ西瀬戸の白石尚寛さんは、「河川交通に代わる交通手段として誕生した愛媛鉄道を知って
もらい、その100年の歴史を感じてもらいたい」と話していました。
この展示は、来年1月27日まで開かれています。※12月29日から1月3日までは休館。
>バスが4往復しかない鹿野川の先が不便杉 徒歩30分 ふれあいの里 鹿鳴館に宿泊の方がいいな >>27
小学低学年のとき、元祖しまんとトロッコで乗ったような記憶がある まだ小学生だった1978年の春に三津(三津浜?)駅の跨線橋で松山から走ってきたDF50牽引の旧客鈍行を撮った
二枚撮影したがもっと引き付けてシャッターを押すべきだった、が小学生には無理な注文か?
出来れば横からも撮りたかったな、その後に高松から走って来る急行「いよ」を付近の道路から撮った
滅茶苦茶な構図だったが今となっては道路に停められたHONDAの軽トラックが時代を醸し出している >>25
池田16時台の、4両編成サンポート高松行きは良かった。 1000形がデビューする1年前
18きっぷを使って高松〜高知を往復した
高松→阿波池田はキハ58・キハ65の2連
阿波池田→高知はDE10牽引の50系が3連
高知→阿波池田もDE10牽引の50系が3連
阿波池田に入線していた高松行きはキハ20の3連
乗車券・自由席特急券を購入して高松行き特急に乗車
いま思えばキハ20に乗っておけば良かったと後悔 トイレ垂れ流し、ドア手動の客車が走ってたのって昭和何年くらいまで? トイレ垂れ流しかつドア手動の客車は、昭和60年3月のダイヤ改正直後まで(3/22の324レまで)
高松 スハフ43-15ト+オハ35-1157ト+オハ41-356+トオハフ33-398 徳島
ト=トイレ側
トイレ垂れ流しの客車=50系ノーマルは、平成4年3月31日まで 当時の八十場駅や讃岐塩屋駅の使われ形がしりたいです。 >>38
気動車しか停まらなかった(国鉄末期の数日間だけ電車も停まるようになった)
停まった気動車(電車)のドアはホームがないところの車両も開いた
設置当初は将来交換駅というか実態は信号場として使う予定だったものの、香西駅のみが一時期その用途で使われた
27.1.27開設駅 香西駅、讃岐府中駅、八十場駅、讃岐塩屋駅、高瀬大坊駅
八十場駅・讃岐塩屋駅の停車本数
31.11 両駅1本ずつ
36.10 八十場5本・讃岐塩屋下り4本・上り5本
39.10 両駅2本ずつ
42.10 八十場は全列車通過!!(訂正されていたら知らん) 讃岐塩屋2本
43.10 八十場・讃岐塩屋1本ずつ これが長年続く(47.3はこのまま。いつからそれ以上の本数が停まるようになったかは不明)
ソース:時刻表 復刻版 戦後編1・2 >>39
レスサンキュー。
北海道の乗降場以上に止まる列車少ないですね。 紫雲丸の資料を読んでたんだが、大事故起こして沈没した後もしれっと改名して復活してるのな
こういうのってよくあるのか? 1964年10月号に多度津3時54分発琴平4時10分着の411Dがあります。この列車の運行目的は何だったのかね。 >>43
多度津港着の船客をこんぴらさんに運ぶ列車? 香川地区へ気動車が入れられた頃だから、たぶん昭和27年1月下旬からある気動車列車
復刻セットに入っている昭和31年11月時刻表で確認
折り返し高松行の普通列車となる
当初は3時前着の関西汽船の多度津港客を受けていたものの、昭和30年代前半には船のダイヤが替わり、時刻の変更はもとより琴平送り込み運用とか折り返しは多度津までなどの変遷をたどるものの、
昭和42年10月改正で折り返し共々消滅(同昭和42年9月時刻表・同年10月時刻表で確認) >>47
謎が解けました。1964年では、関西汽船を受ける時刻ではありません。過去の経緯から、この年代では回送列車をあえて営業列車にしていたのですね。どの位乗客がいたのかな? 需要は少なそうだけど回送ついでに予讃線上り夜行から接続受ける想定かも
30年代後半なら高松4時前に着く準急の設定ありそう
あと福山ー多度津の航路に深夜便があればそっち受ける想定もありえる スハフ43ですが、自分が行ったときは、高松⇔豊浜(と思いました)と、高松⇔琴平の朝夕の限定運用的な使い方
スハ44からの改造車も含めて、向かい合わせの4人かけで固定でした
ラッシュ時用のわりに1ドアで大丈夫なのか、勝手に心配していました
(見た限りですが、途中駅でも大きな遅延にはなっていなかったですが)
なお、スハフ43は端に使用される場合、自分が見た限りではドアのない側が一番端になる運用はみませんでした
さすがにこれは考えて編成を組んでいたんでしょうかね 考えて組成していた
122+222レという8時台発の宇高連絡船接続+通勤輸送用快速にも組み込まれていた(50系になる前は最長11両+機関車でスハフ43は222レ側)
ただ、併結すると高松駅以外2〜3両程度はホームから外れるため、ホームのないところから無理やり乗降しない様1か所しかないスハフ43を高松側編成端へ組み込んでいた
※122+222レは昭和57年に50系化され、さらに8両+機関車となった >>37
その車番が当該列車?
乗られたのですか? >>40
対岸の西市・久々原なども似たようなもん。 阿波池田発徳島行き最終が23時頃に出ていたことは知られていない 牟岐線にホームエクスプレス阿南が出来た時に、阿南の留置スペースの問題で徳島から定期増結回送していた時代とか。1500形2次車投入で消滅したけれども ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています