生涯続けられる武道・格闘技について考える
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「生涯武道」という言葉があるように、歳をとっても続けられる武道・格闘技って何でしょうか?
今、総合格闘技をやっていますが、この競技はとてもハードで、
歳をとっても続けられる競技とは思えない。
若いうちにしか楽しめない競技より、ずっと続けられる武道・格闘技を模索中です。 >>658
個人でそれは可能でしょう。
しかし少林寺拳法だけでも競技人口は十数万人います。
入門の動機は人それぞれで、当然最多は弱い自分をどうにかしたいとやって来る。
団体として法人として強さの純度は当然問われます。
それがないなら武道団体の看板下ろさなければならない。
少林寺拳法は思想色の強い団体でもあったから、
弱者(体が小さい、筋肉が付きにくいなど)を下支えする気運は割りと広く受け入れられた。
乱取り世代のイカツイ人らが熱心に教えた。
しかし世代交代が進むにつれ、中核をなすのが小さい人ばかりなんてことになったんだね。
これは意志がどうのということではなく現象として
そういう現象が内部で起きたということです。
本部もこれじゃさすがにマズイということで、運用法という形で
乱取り復活の経緯を辿りました。 むしろ少林寺は宗教団体でもあるから
強さや逃走に拘り過ぎるのはまずいんじゃなかろうか? >>653
自分の内部で起こってる感覚を人に教えるのは本当に難しいと思います
受取側の理解力も様々だから違う解釈をしたり
だから昔の人は型という結果として現れる形を教えなのかなと想像してます
大袈裟な動作とかもそれに気付かせるためにだと思ってます 武の追求に対して無自覚であると、自己の極めると真我というものの実消息が判然しなくなるのである。
武道・武術の修行を積み、哲学的思索や研鑽に努力没頭すれば、
凡庸に武道をやっている群を抜いて、
或いは真人となり
偉人となり、至人となり、又は覚者となり、哲人となる。
但しこの色々な名称はその人の自覚と応用の程度から招来される相違なのであるが、ただ遺憾ながら最近にはその種の非凡の人というのは極めて
少なくその大部分は概ね自己の何たるかを自覚して居ないという、
凡の凡、俗の俗たる無理解無自覚でただ武道・武術を行い、生きているが故に活きているという種類の人が多い。 身体動かすのが楽しくてやってるのに、そんな面倒なこと考えてまでやりたく無いわ。 生涯武道で悩める仔羊たちのこのスレの人達は勧誘されてんのかな?何かに? >>658
武道としては強さを求める必要があるよ
読んで字のごとく求道者だから
稽古の進み具合によって、年齢によって、この強さの定義が変わってくるんだ
こうなって初めてその求道者は成長したと言える
難しいのは、団体はこの各ステージの強さを、それぞれの稽古生に教え説き導く
技量と徳分が無いといけない
これが無いとただの武闘集団か宗教団体になってしまうからね >>662
その通りと思いますが、できる限り、その感覚とその感覚に至るまでの経緯を言葉で説明できることが必要だと思いますね。 >>655
そもそも先生が指導を始めたのは自分の修行の一環としてだからね
他所で習ってる剣術の先生も「一人でやっても寂しいから」道場をオープンした
道場経営をやる以上ビジネス面は大切だが、そこにガツガツせず
地道に精進を続けてれば結果として経営も上手く行くんだと思う >>660
>むしろ少林寺は宗教団体でもあるから
少林寺には原理主義みたいに凝り固まった奴が少なからずいて、未だに開祖が中国拳法習っただの、特務機関だっただのを信じてる輩がいる。 >>594 技術を愛するのは当選の事として
肝心なのはその本質を見抜くことではないのかな?
どちらにしても、そのセンセは素晴らしいと思うよ
継続こそは力なりを地でいき
それを次の世代に伝えたのだからさ
それを踏まえた上で君はどうしたい? >>674
元は「黄卍教団」という名称だったが、大衆受けが悪く人が集まらなかった。
禅宗だった開祖宗道臣は、懇意の禅宗僧侶に相談した所、禅の発祥である嵩山少林寺にあやかり、少林寺拳法とした。
少林拳との関係は全く無かったけど、偶然にも少林寺拳法という名称となって今日に至る。 強さを求めるが、武道に定義はないでしょ。転化が求められるわけで。抽象論だから意味ないとは思う話だな。 これだけは確かだと思うのは、武道・武術は殴り合いや取っ組み合いは想定していない、よしんばそうなったとしても、次のその瞬間瞬間で相手を停止させるという発想だ。
ここに生涯武道、歳をとってもやれる武道・武術のひとつの答えがあると思う。 >>673
594です
本質を見抜くですか、大切ですが難しい事ですね、正直、見抜く自信は無い
ですね。
はっきり言って、自分が目指そうと思う目標は、今回引退される先生や、一時期
教えていただいた他流の先生みたいに、60代になっても、20代の後輩とも乱取や
散打をする事ですかね。もっとも先生達みたいに、稽古相手を投げたり、極めたり
する事は、出来ないかもしれませんが・・・・・・
それと、後輩達に対して、まず行う必要が有る事と言えば、通いなれた道場を離れ、当分の間、借屋暮らしが始まるので、新代表を支え道場の移行を円滑にし、
皆の練習場所を確保する事だと、思っています。
>>676
少林寺で怪我したとか周りあまり聞かないし、生涯武道に良いのではないかと気になってるが、鎮魂行やら講話など阿呆らしくやってられないなとも思う。
宗教を抜きにして、武道のみで少林寺をやることは可能なのだろうか。 >>679
君の言う強さとは?
まさか他の武道、格闘技を稽古してる人と戦って勝てる能力のことだとは言わないよね
理屈としては分からない話ではないけど、非現実的なんだよ
犯罪の統計みても、格闘技経験者に襲われる確率は極めて低いよね 人間的に立派な男になること
それすなわち「強さ」です >>683
確かに鎮魂はアホらしく感じるかもですね
私は幼少からやってたから少林寺を離れて数十年経った今でも
未だに聖句など覚えてますよw
「己れこそ、己れの寄るべ、己れを措きて誰に寄るべぞ、
良く整えし己れこそ、まこと得がたき寄るべなり
自ら悪をなさば自ら汚れ、自ら悪をなさざれば自らが浄し、
浄きも浄からざるも自らのことなり、他者に依りて浄むることを得ず」 >>683
私も引っかかってるのはそこなんですよね。
歳食ってるから、あんまり教え的なものは要らない。自分のしょうもない人生で一杯一杯で教訓だらけです。
武道のみだと既に入会してると思います。
どなたか背中を押すか、止めるかしてください。よろしくお願いします。 >>684
強さ=犯罪 に驚きを隠せない
間違っても強くならないでね >>684
あ、俺のいう(武道・武術の)強さは戦闘能力のことね簡単に
自分の土俵で良いから >>693
そんなのは選手を目指す人間はともかく、いい年した社会人が目指す目標としては非現実的だよ
684で言いたかったのは、現代社会における肉体的強さの現実的な強さの重要性は、一般の護身術として
機能すれば十分ということ
犯罪統計をみても格闘技経験者に襲われる確率は極めて低いから、現実的な稽古の範囲で強さを追及する方が
賢いということだよ
戦闘能力とか格オタかよww >>683
>>691
まあ鎮魂行とか講話とか興味無いことも多いだろうけど、実際やってない道場も多いし、見学だけ行ってみては?
講習会等の行事ならいざ知らず、ふだんの練習で講話ガッツリするほど時間とれる道場って少ないと思いますよ。 >>695
格闘技経験者に襲われる確率は低いとしても、暴行をする人間はだいたいが己の体力に自信がある者だから、それは踏まえておかないとな。 >>697
そうだね
最低限の備えはしておかないとね >>695
護身術を表看板にしてる先生ほど裏では武術の鍛錬や格闘技の研究をしてるけどね
そういう所の講習会に参加してきたら今師事してる先生にそんなことを聞かされて
セミナーや講習がアホらしくなった。素直に自分の流派を修行してりゃいいんだ
話がズレたが、自分の才能や環境とかの枠内で日々精進してこそ生涯武道だろ
プロじゃなくてもアマチュアなりに努力して上達する
好きで打ち込んでる趣味なら自発的にそうなるもんだと思うんだがな 運動不足解消のための手段の一つが武道。
ゴルフや水泳、山登りと同じ。
週2回身体動かして、練習の後に気の合った仲間と飲みに行く。
今はこんな感じ。
学生時代にガッツリ部活でやってた頃とは全然違うなあ。 武道・武術をただ、『やってりゃいい』と
そういう人を極言すれば、何の事はない、一般の動物とただその形が相違しているのと、
屁理屈や不平や不満をいうだけの相違があるだけで、些か露骨ではあるが、
犬や馬よりは幾らか気の利いている動物的人種であるといい得ると思う。
然しそれでは、折角優秀な理解力と自覚念というものを心に附与され、武道・武術を行い得る、万物の霊長としてこの世に人間と生まれたかいがないという事になる。 >>699
教える側の人はそういった研究はしてると思うよ
一般の会員は仕事や家庭など他に優勢事項があるから、そういうのは厳しくなると思うが
いずれにしても平均的犯罪者に格闘技選手レベルがいないという事は、そういった一般会員にとっては
護身がしやすいのでありがたい現実だわ 護身術に限って言えばほとんどの場合、格闘技未経験者のみ想定していると言って良いのかもね。柔道3段の奴に奥襟取られた時にこんな技掛かるかなぁとか、
ボクシングやってる奴がフック打ってきた時
に相手のサイドに入りながら攻撃出来るかなぁとか、そんな想定はそもそもなくて、
いかに素人に気取らせずに技を掛け、極められるかが重要だと。素人相手なんだから面白いように打撃は当たるんだという、ある意味ヘンな安心感は持って良いのだろう。 >>703
武道や格闘技の大会などでは、参加選手は相当の準備をして挑むわけだから、そうそうこちらのやりたい事をやらせてくれないよね
護身の状況、特に面識の無い人を相手にする場合は、予備知識がないと技が掛かりやすくなるのだろう 佐川幸義先生 道場訓
合気とは気を合わす事である。
宇宙天地森羅万象の総ては融和調和に依りて円満に滞り無く動じているのである。その調和が合気なのである。
合気は自然の気なれば少しの蟠りも無く抗いも無く合一融和するものである。
人類社会形成に於ても、合気 即ち 融和調和が基調でなければならない。是れを合気の大円和という。
暴を奮う者に対しては、合気の理により融和致させ、敵の既発に対しては同じく合気の理により転化 又は 変更して融和致さすのである。
吾人は流祖 新羅三郎源義光公より伝承したる合気之術を基本とし、躰術(柔)、太刀之術、槍術、棒術等の武術を修業して、合気之武道 即ち 人間修養之道に迄 到達せねばならぬ。
大東流合気柔術 盛岡道場
代表師範 橋本英樹 >>681
素晴らしい
>>682 頑張って下さい >>660
本来の少林寺拳法の宗教的視点における武術の価値とは
暴漢に、より以上の罪を犯させず
火種が小さいうちに消してしまおう、と。
そんな発想ですね。
怪我をさせずに取り押さえるという、技術にもそんな性格が顕れています。 少林寺拳法をやってみたい方がいるようですが、
思い切って一度入門していれば良いのではないでしょうか?
合わなければ辞めればよいだけですし。(辞めるのは少し勇気がいりますが)
やらないで後悔するよりも、やって後悔した方が良いと思いますよ。
私もやりたい武道があって迷ってるので、言える立場ではないのですが(^^;) 暴力の現場において罪を犯させない、と言う以上は
少なくとも暴漢以上の強さは必要です。 それは警察などに任せるべきであって、
スレタイの生涯武道とはあまり関係ない気がするのですが・・・。 合気道の教え的には、強さイコール融和でいいのかな?
あるいは融和の核に武的強さを置く、と。
あるいは強さの外郭を融和でくるむ的な?
仮に強さ≦融和としても、でも強さを放棄してないですよね。
合気道的な融和は、強さの上に積み上げられた上澄みであり、
なんであれ、武道団体にとり強さは消しては存続し得ない宿命ですよ。
尤も、その宿命に内在する業に気が付くならば、
個人としては放棄も可能でしょうがね。 武が持つ業に気がつきこれを放棄する人なんて
現代の武道家にはたしてどれほどいますかね?
もしもそんな人が近くに現れたなら、
我々は「卒業おめでとう」と言って送り出すだけだろう。
我々の仕事とは、そこに至るまでの範疇のみ、といっても、
それだけでも十分な働きだと思いますが。 難しい事は考えずに好きなスタイルの武道を
楽しみながら無理なく続けられて
それが体力や気力の向上に繋がればいいと思います
副産物として自信がついたり上の書き込みであったが仲間できたり
そういうものが意識・無意識に関わらずつけば更に良しだと思う
一番は毎日の生活が今より充実したものになればいいので
上であった講話が嫌で少林寺に躊躇してるというならそれは勿体無いかなと思います
一時間も二時間も講話してるわけではないので
法話をしたとしても5〜10分程度
少林寺を修練してる大人のほとんどの人は良い人が多いという印象なので
そういうのも良いと思います
伝統武術も昔の伝統的な武術を学ぶという喜びもある 「強さ」とは何なのでしょうか?
試合で勝つことなのでしょうか。
組手・乱取り・スパーリングで一本を取ることなのでしょうか。
歳を取ってくるとどうしても筋力やスタミナは若者に劣ります、これは仕方ないことです。
そして組手でもどうしても負けることが多くなるでしょう。
そうなると、その競技における技の精度を上げることに関心が行きがちではありますが、
それはどの段階で目指すべきなのか・・・。
しかし、武道格闘技をやっている以上、強さ(ここでは相手から一本を取る)に憧れるのは宿命みたいなものだと思います。
私には型の鍛錬をし、それだけに拘るのは、少々「逃げ」のようにも思えます。
もちろん、その見事な型を創り上げるのにも相当な年数が必要なのは承知していますが・・・。
取り留めのない文になって申し訳ありません。 >>715
少林寺拳法の道院ではとても良くしていただきました。
しかしながら、形式上とはいえ、宗教法人への入会は抵抗があります。
何をするかは自ずと答が出てきました。今すぐは何もできないので3月末あたりの再スタートと思います。
これまでいろいろアドバイスいただいた皆様、心より感謝します。 >>717
そもそも強さの定義を示さないと結論が出ないですね
むしろ出ないのが正解かもしれんが
貴方のいう試合に勝つというのが強さと言うならそうでしょう
それはサッカーの試合や野球の試合で勝つのと同じように私は捉えてますが
スポーツ競技なので
逆境でも挫けない強い精神力も強さです
腕力が強くても精神力が弱い人なんて沢山います
極端な例ですが日航機墜落事故の時、ほとんどの男は不安や恐怖に負けて錯乱していたが
女の人は落ち着いていた人が多かったと助かった人が後に述べていたそうです
女の方がやはり精神的に強いかもしれませんねw >>715
>上であった講話が嫌で少林寺に躊躇してるというならそれは勿体無いかなと思います
人によりけり、合う合わないがあるだろうね。
個人的には、武道としての少林寺は評価するけど、宗教として宗道臣氏の教えには全く共感はできない。
まぁ、門外漢から見た感想だけどね。 オーム真理教や創価学会など新興宗教が問題になった経緯もあるから
宗教法人に抵抗あるのは仕方ないかもですね
入ると全然宗教ではないんですけどねw
学校で部活があるくらいだから
因みに何に決めたのか、ちょっと気になりますね >>711
少なくとも試合に出場する選手になるというよりは現実的なモチベーションになりうるかと思われます。 若い人は強さを求めるが燃え尽きてない壮年は何を求めるんだろね 老いて求める物は、
強い身体と
経験による技術、
強い精神。
強い身体と技術はなんとなくやっていても
手に入るが、やはり精神が一番大事。
これは意識し自己で努力しないと
手に入らない。 少林寺拳法も色々打撃、極め、投げ等流派としては好きだが、心の修行を考えると。
合気道の塩田剛三師と並んで評される、藤平光一師こそが、
最近の古今東西老若男女で一番武道の真我を理解解釈していた人物だと思う。
今も心身統一合気道を御子息がやっていらっしゃる。 >>722
少林寺の道院も大多数はそんな感じですよ。
自分は道場訓(鎮魂)をベースに独りで勝手に掘り下げただけで、
俺みたいな極端なのは少林寺でも稀なほうじゃないかな。
でもこれが俺なりの生涯武道のつもり。 >>694
宗道臣も喧嘩、格闘に強かったから人は魅力を感じ集まったんだよな >>711
警察なんて何もしてくれないよ、ただの役所 試合に関して言えば、勝つことより如何にダメージを残さず帰るかという事です。逃げ回るという意味ではなく、受け攻めをしっかりやって結果的に勝ってれば幸運ぐらいな感覚です ガードは重要だね
ボクシングの村田をを見ていて再認識 佐川幸義先生 道場訓
合気とは気を合わす事である。
宇宙天地森羅万象の総ては融和調和に依りて円満に滞り無く動じているのである。その調和が合気なのである。
合気は自然の気なれば少しの蟠りも無く抗いも無く合一融和するものである。
人類社会形成に於ても、合気 即ち 融和調和が基調でなければならない。是れを合気の大円和という。
暴を奮う者に対しては、合気の理により融和致させ、敵の既発に対しては同じく合気の理により転化 又は 変更して融和致さすのである。
吾人は流祖 新羅三郎源義光公より伝承したる合気之術を基本とし、躰術(柔)、太刀之術、槍術、棒術等の武術を修業して、合気之武道 即ち 人間修養之道に迄 到達せねばならぬ。
大東流合気柔術 盛岡道場
代表師範 橋本英樹 >>726
少林寺マンセーの人間は、
強さ、技術を舐めすぎ >>736
なんでお前に説明しなきゃならないんだ? >>735
あなたのいう強さと技術とはなに?
そしてそれを常に使用してるのですか?
また日常的に必要なものなのです?
大人の意見として興味がわきました 横から口出しさせてもらうけどさ、強さとは何か?何をそんなに難しく考える?
殴り合い、取っ組み合いで(少なくとも素人には)勝てる、それで良いだろ
こんな物は常に使用するワケないし必要でもないが、それは草野球やってる人に
「プロじゃないのに野球が上手くなってどうすんの?」って難癖付けるのに等しい
まぁ結局は酸っぱいブドウ理論だと思うよ
本当は強くなりたいのに強くなれない、強くなる方法が分からないから
妙な理論や解釈を生み出す
少林寺の実情は知らないから全体的な批判をするわけじゃないが
古流柔術を教えてる先生は若い頃少林寺をやってて
そこにやたら説教(講和?)が長い先輩がいたそうだ
で、普段エラそうなことを吹いてるのに、たった一人のチンピラ相手に何も出来なかった
闘う力も覚悟も無い奴の平和主義はクソの役にも立たない 逆にいうと草野球をやってる人間に
野球を舐めすぎと言ってるのようなもので
休日に好きな野球を楽しみたい、フォットネス目的、レクの一環としてなどの層もいるわけで
幅広い考えや目的で人が集まってる
私の後輩も趣味でフットサルのチームに入っていて休日に楽しんでいますが上記のような感じです
プロは商売だから別として部活動やそういう本気でやってる人らと同じような土壌で
語るのもまた結論が出なくなりますよね
少林寺を庇護してるつもりはないのですが
実践格闘技を習ってる人でもチンピラ相手に何もできない人だって沢山います
それが別に恥ずかしいことでもないと思ってます
無事にその場が済めば護身としては成功なわけですし
まぁ色んな考えがあるのは当たり前なので
こういうふうに色んな書き込みがあって良いとは思いますね プロの格闘技選手でも永久に勝てるなんてありえないのだから、ましてや週に2回ぐらいしか
稽古できない一般の会員ならなおさら
あくまで自分の人生の範囲内で実現可能な強さで十分だよ >>741
的外れな言い訳だよ
別に趣味だから悪いと言っているわけじゃない。
あなたのように、他の粗探しをして、
自分の都合の良い所だけ引き合いに出すことが舐めてるんだよ 上の方で「修羅場」がどうとか書き込んだ時に、ちょっと違う感覚のレスをもらって
あれ?と思ってたんだが
これ、別に「生涯つづけられるスポーツ」でいいんじゃないかな
なんかちょっと自尊心をくすぐる趣味に手を出してる感じがする
○○道って名前のスポーツでいいじゃん
道なんて無いって気付こうよ 元高校球児が、将来金属バットで人を殴っても、野球は凶器だなんて言われない。
スポーツと武道の区別すらつかないなら、いっそスポーツに行って欲しい。 スポーツチャンバラなんてどうよ?
と思って動画検索したら意外とレベル高くて驚いたw スポチャンてどんな活動してるんだろね?
自分達はスポーツだとはっきり公言して割り切ってやってる人達なんだろ?
あそこも1つの成功例なんじゃないのかな? 浮気がバレて嫁さんと愛人が鉢合わせした時の修羅場にも役に立つ武術を教えて下さい。 >>728
少し違う。
「罪を犯させない」とは、その暴漢をも一個の人間とみなし
その人の将来をも案じる感性が背景にあります。
だからこそ、やっつけられた人達が開祖の回りに集まったのだと思いますよ。
人を壊さず殺すこともなく、急所攻めによる一時的な激痛で戦意を失わせ
手を離せば直ぐに痛みが引くという摩訶不思議な技術はその思想の体現なのです。 >>743
741の人は別に的外れでもないどころか、現実的だと思うぞ
君が君の言う強さとやらを追求したいのであれば、好きにすればいいけど、
他人に押し付けるのだけは止めたほうはいい
少林寺に限らず他流を稽古してる人間を心配するより、自分の事を心配したらどうかな >>752
的外れかどうかの話で、
現実的かどうかの話じゃないからな?
押し付けてんじゃなくて、
履き違えてるという話。
少林寺オタ気持ち悪 >>719
その手の話はあまり信用ならないと思うんだ
鬱病もPTSDもずっと女のほうがかかりやすいしね つか741以降、会話が成立しているらしきことの方が気持ち悪いわ。
741が支離滅裂すぎて。 >>753
少林寺は信者と言われるカルトな人と、真面目に練習する人で極端だよな。 精神的な強さがどうとか言う人に限って勝ち負けに拘っているように感じる
そういう人ってやたらと格闘技の選手と張り合いたがるけど
その時点でコイツの器小っちゃいなって思うわ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています