私は、こと伝統とか流儀とかに関しては、竹内流の方に全ての優先権があるとおもうのだ。
だが、備中伝は、自己中心的で、
いつのまにか流祖久盛公も我が町内から出て行ったかのような表現に象徴されるように、
竹内流の根幹さえも我が方に取り込もうとしている。
それは、分派した流儀のすることではない。
僭越にも程がある。
建部の竹内流が知れば、危機感を感じるのも当然だろう。
たまいさんでなくとも良識ある人ならば誰でも警鐘を鳴らすのではないか?
まして、岡山県古武道祭では「竹内流備中伝」として演武を披露しながら、
ホームページや、看板や免状では「竹内流」を名乗り続ける備中伝の二重性を、
「竹内流新風館」という記念本を上梓することで既成事実を積み上げていくやり方を、
いったいどのような言葉で備中伝は弁明できるのだろうか?
それは、たまいさん個人を攻撃して、溜飲を下げて済ませられることなのだろうか?