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三国時代の文学スレッド

0001無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/12(月) 22:09:48.11
| 機
|*Д`)ハァハァ
雲 ノ )
゚ー゚)   ∧ ∧    ∧ ∧   .∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧    ∧ ∧
( ヘヘ (´ω` )  . (´ー` )  (゚∀゚ *)  (´<_,` )  (´∀` )  (・∀・ )  (‘∀‘ )
 ̄  //王\ / 徐 \ / 劉 \/ 孔 .\/ 応 \/ 陳 \/ 阮 \
   .\) .粲ノ/\) 幹 ノ/\) 驕@ノ \)融 )/\) 瑒ノ/\)琳 ノ/\)瑀 .ノ/
   ./ ◆<  ./..◆ <  ./..◆< ./ ◆<  /..◆<  ../..◆<   ./ ◆<  
  /  '´ ヽ).../  '´ ヽ...)../  '´ .ヽ. .((操)))/  '´ヽ..) ./  '´ヽ..)/  '´ヽ )
∠/   ノノ∠/ ∧ ∧/   .  ノノ  (・∀・)っ   ∧ ∧    .ノノ     .ノノ
           (; ゚Д゚)  。・゚・⌒)  (つ   /.  .  (゚∀゚,, )
            / 丕 o━ヽニニフ )) |  (⌒)  〔~植∪ ̄〕=
           しー-J    彡   _ し⌒^    ◎――◎=


後漢末期の建安年間とその前後には、唐代以前の詩聖・曹植や
曹操・曹丕・曹叡など曹家の偉大な詩人たち、建安の七子などが
たくさんの優れた文学作品を残し、中国文学を著しく発展させました。
三国志の戦いや武将、社会情勢などが、
それらの漢文の重要な題材や背景となっています。
また、後世の中国・日本の文芸の題材にも、
三国志の英雄たちは多く取りあげられています。
文学的な側面からも、歴史・人物的な側面からも、
真面目に語るも気ままにだべるも良し。マターリ楽しみましょう。
三曹でも西晋でも蘇東坡でも土井晩翠でもなんでもおkかとミ ・∀・ ミ

まとめサイト
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/
0156無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/15(水) 18:08:26.55
最後。作品だけを見た個人的感想。

曹操の時に酔いすぎて援軍に行けなかったり、普段の言動から、曹丕(もしくは周辺)の機嫌を損ねることは、あったかもしれない。
そうした兄弟喧嘩はあっても、兄思いの純真な弟と、世間知らずの弟に振り回されつつ嫌いになりきれない兄にも見える。

(例として、諸祭先王表は、曹植が「父親を祭りたい」と言うもの。結局、曹丕に却下された。
 下手すると、自分が父を祭る⇒一族の祀を継ぐ≒曹氏の家長という宣言にも受け取られかねず、稚拙な気がする。
 ただこの頃、植は鍾ようと《大饗碑》を合作している。
 鍾ようは曹丕が曹操のあとを継ぐと復活しているので、諸祭先王表は問題にはならなかったのかもしれない)

どういう意図で残されたのか判らないけど、この二人の文章と関係に関しては、注をうのみにせず突き合わせたほうが良いのでわ。
というか、既に論文ありそうなもんだが。

というわけで、もし読んだ方がいらっしゃったら、お疲れ様でした。
0157無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/09/02(日) 15:28:54.32
上で言った、兄弟に関する論文について。支那文学大綱巻14にあった。
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871686/36
この筆者は、文帝に厳しい立場。今でも、この考え方は結構多いみたいね。

話は変わって。
楽府詩集、相和歌・平調曲の項に「銅雀臺」もしくは「銅雀妓」「雀臺怨」というタイトルの作品がある。
どれも曹操が去った後の銅雀台を歌ったもの。
この項目に載っている作品の数が、中央研究院だと「銅雀臺」10、「銅雀妓」16、「雀臺怨」2。「三臺(銅雀台の三つの台を指すという説あり)」も含めると、あと1増える。
ちなみに他は多くても、せいぜい5〜10。
あまりの多さに、銅雀台の項を「銅雀台愛好会メンバーリスト」と名付けてしまった。勿論、陸機さんは名誉会員で。

しかし何で三曹の作品は、よく後に「同前(前と同じタイトルです)」の字がずらずら並ぶんだ。や、無いものもあるけどさ…
0163無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/09/16(日) 20:34:33.59
漢詩が好きだけど、良し悪しはまだわからないorz
下手って言われる司馬懿の詩は何をもって下手とされるんですか?
0164無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/09/16(日) 23:28:58.77
文才ゼロの自分から見ても司馬懿の詩は下手というか、詩に見えないと思った。

ただの状況説明にしか見えないというか…全く心に訴えかけてこない。
「ふーん、そうですか」という反応しか出来ないというか…
0165無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/09/22(土) 21:44:01.07
>>163
 漢詩作成ルールの解説本を探すのも手かもしれない。
 個人的に分類しているポイントは、文法、全体構成、影響力の3つかな。

・文法
句の構成:五言、七言などの文字数を守っているか。押韻、平仄の規則を守っているか
上記以外の構造上の基本法則、禁止、例外事項:畳言と呼ばれる特定の単語以外では、同じ字は使用禁止など

・全体構成
対比の有無:視覚と心境、具体と抽象、対句、前半と後半の比較など
決め台詞:詩眼?季語みたいなもの、殺し文句(一樹梅花一放翁など)、古典引用
全体構成:起承転結、5w1h、最初に情景描写→心理描写という順を踏んでいるか、句同士による相乗効果
テーマを絞っているか、テーマを描写しきっているか

・影響力
革新性、後世への影響

現代の評価方法だと文法を重視するので、ルールにそぐわないと評価が厳しくなる。
ただルールが成立したのは唐代からで、それ以前の古体詩はルールを守っているとは限らない。よってルールより全体構成を重視する。
ためしに例の詩を評価する。本文はまとめサイトさんを見てもらうとして、

1.句の構成、押韻、平仄規則等→まぁ一応、守っている。

2.全体構成→対偶表現が不明。どれとどれが、対応しているのか?
引用はしている。日月重光は、魏の軍楽曲(>101の10)から。帰老は史記の孟嘗君列伝。引用しただけで使いこなせていない。悪く言えば、つぎはぎ。
起承転結が判りにくい。そもそもテーマは何よ?

3.影響力→後世への影響:知らん。

総合評価としては、「形式さえ守れば良いってもんじゃねぇぞゴルァ」という感じかね。
0166無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/09/22(土) 21:50:03.62
例をもう1つ、古詩源から。
寡婦
序:友人の阮元瑜は早くに亡くなってしまった。その妻が寡居せるを傷んで、為にこの詩を作った。
A: 霜露粉として、こもごも下り。木葉落ちて、淒淒たり。候鴈は雲中に叫び。帰燕は翩として、徘徊する。
B: 妾が心感じて惆悵し。白日たちまち西に頽(くずれ)る。長い夜を守って君を思い。魂は一夕に九たび背く。
C: 悵として長く佇み仰ぎ観るに。星月随って天にめぐる。いたずらに衿を引いて房に入り。ひそかに自ら孤栖を憐れむ。
D: 願わくば死して、黄泉の君に従わん。生ある限り付きまとう憂いを、どうして久しく抱かねばならぬのか。

A:情景描写。晩秋〜冬の描写により、雰囲気を高める。
B:情景から、登場人物(一人残された妻)の心理に視線を移動させる。
「魂は一夕に九たび背く」は楚辞-九章-抽思からの引用。愛しい人を思うあまり、一晩に9回、魂が身を離れるの意。
C:荒涼とした情景と、妻の寂しい心理をひとつに融合させる。
D:A~Cまでの流れを踏まえた上での、作者の決め台詞。
「人の運命は天に定め付けられており、星が落ちれば人の命も終わるという。
 天よ、その孤独な星を終わらせよ。彼の星は、黄泉の月に従って巡るべきなのだ」

まぁいろんな作品を比較すると、色々な違いがあって面白いよね。
え、作者は誰かって? そりゃこのスレのアイドル。
0167無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/09/22(土) 22:14:11.48
>>166訂正
A:情景描写。晩秋〜冬の描写により、雰囲気を高める
B:情景から登場人物に視線移動。引用によりCへ繋ぐ
C:天の月と星、地の孤独な妻一人の対比
D:A~Cまでの流れを踏まえた上での、作者の決め台詞。だな
0168無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/05(金) 22:49:31.49
一つ対比があるかもしれない
「告成」と「待罪」が対比する。罪〜のくだりは、論功恩賞を待つことの言い回し。功を報告し、恩賞の宣下を待つ。と。

批判だけじゃ気の毒なんで。
同じ作品でも、評価要素のうち、どの要素を重視するか変わる。
当時の基準でいうと、シバイの作品が平均であり、人によってはシバイ>曹操かな。
曹操の、特に後期の作品は突き抜けすぎて、伝統や文法を重視する側から見ると厳しい。
文法や詩経の伝統など、当時の決まり事を重視したのがシバイで、決まり事を重視する名士を意識するなら、これで正解。
ちなみに評価要素をバランスよく備えているのがそう植で、だからこそ詩聖と呼ばれたんだと思う。

……うん、まぁ頑張ったけど、これ以上の擁護は無理。
0169無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/07(日) 17:09:57.15
司馬懿の詩に関しては、既に曹丕が七言の詩を作ってたり、五言の詩も多くなってる時期だというのに今更四言かい!と突っ込んでしまった
0170無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/08(月) 22:31:20.95
確かに減ってはいるんですが、魏明帝の作品や晋代でも、四言の作品はありますぜ。
特に宮廷の儀式音楽と、元歌(多分)に四言がある作品の一部。

宮廷音楽
晉郊祀歌(天命有晉 穆穆明明〜)、晉天地郊明堂歌(皇矣有晉 時邁其コ〜)、
正旦大會行禮歌(天鑒有晉 世祚聖皇〜)、晉江左宗廟歌(於赫高祖 コ協靈符〜)、
上壽酒歌(於赫明明 聖コ龍興〜)、食舉東西廂歌(天命大晉 載育群生〜)他、めがっさ多数

元歌の一部が四言
短歌行:傅玄(長安高城 層樓亭亭〜)、陸機(置酒高堂 悲歌臨觴〜)
秋胡行:陸機(道雖一致 塗有萬端〜)
隴西行(歩出夏門行):陸機(我静如鏡 民動如煙〜)

宮廷音楽では、周から続く王朝の正当な後継者、という意味合いで、形式の古さこそが評価される部分もあるのかなと。
元歌のほうは、元曲にあわせる為かと。
もし楽師も居ない場所で歌うなら、旧いリズムに合わせて簡単な作品にならざるをえないですし。

まぁ、そういうのを差っ引いても、庇いきれないんですけどね。
曹操の歩出夏門行が晋書楽志に登場するのに対し、仲達タソの作品は楽志に出ませんし。
晋宮廷の人たちも、見なかった事にしたかったのかもしれません。
0171無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/12(金) 12:57:35.46
>晋宮廷の人たちも、見なかった事にしたかったのかもしれません。

確かに目を逸らしたくなる出来だもんね
0172無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/17(水) 23:39:45.76
>晋宮廷の人たちも、見なかった事にしたかったのかもしれません。

ある意味晋王室最大の黒歴史ですものね……
0173無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/19(金) 16:51:41.80
>晋宮廷の人たちも、見なかった事にしたかったのかもしれません。

晋王室の人たち「曹丕の四友とかいわれてたのにどうしてこんな出来なん…?(愕然)」

0174無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/19(金) 23:25:26.95
仲達「教えてくれなかったのだ。詩作の技術は一族秘伝だと」
曹丕「最低限のマナーとコツは教えた筈だが? 周りから学ぶ機会もあって、この出来だ。凡愚め」
仲達「『凡愚め』は私のモノです」カエセ
0178無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/21(日) 20:55:40.09
>>176
「よい詩人はこんな詩を作っちゃだめだよ☆」という
反面教師=駄作の一例を示すためではないかと…
0179無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/22(月) 00:15:37.46
日本の話だが、「あんな尻軽だから簡単にやらせてくれるって評判ですよ」って内容の和歌が残っちゃったしなぁ
0181無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/23(火) 21:15:53.34
>>176
宣帝配下「宣帝様のお言葉だ、記録に残すぞ!」キリッ
歴史家「歴史に残すのが仕事です」キリッ
朝廷音楽担当「詩の収集は義務です」キリリッ
後世の文人「面白いから、とっとけ」

>>179
和歌kwsk

>>180
スレ回転に貢献しているという意味合いじゃ、いいネタ芸人っぷりじゃないか
まぁ、他のネタが出ない限りは…?
0182無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/23(火) 21:29:27.21
もうやめて!宣帝のライフはゼロよ!

このスレ住人、「建安マエストロ!」とか好きそうだな。
0183無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/24(水) 00:02:04.28
>>181
清少納言と藤原行成の逸話ですよー

藤原行成は書の名手で三蹟の一人に数えられる人だが、当時の基本教養である和歌がさっぱりだった
そんな彼が清少納言と恋の和歌のやり取りをしてたが
清少納言の「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
(夜中に朝を告げるニワトリの鳴きマネをしても大阪の関は越えられませんよ=私との逢瀬はなかなか難しいですよ)という歌に
行成は「逢坂は 人越えやすき 関なれば 鶏鳴かぬにも あけて待つとか」
(大阪の関は簡単に越えられるのでニワトリなんか鳴かなくても開けてるらしいですよ=あんたホイホイ男と逢瀬をする軽い女だって噂だから別にいいでしょ)
という直球すぎてデットボールな詩を返した

ちなみに清少納言の歌は百人一首に入ってるくらい有名でいい歌だったりする
行成さんは政治方面も優秀で男気がある方だったっぽいんだけど、誰にも欠点ってあるもんですねw(宣帝陛下を見ながら)

>>182
今でも続き待ってますよ
曹植系男子も結構好きだったりする
0184ジャイアニズム
垢版 |
2012/10/24(水) 18:08:00.96
文学など軟弱者のすることぞ!
文学よる富国強兵に努めよ!
0186無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/24(水) 20:17:12.05
>>183
>誰にも欠点ってあるもんですねw(宣帝陛下を見ながら)

魏武帝陛下   チビガリ
蜀昭烈帝陛下  ヒゲなし
呉大帝陛下   酷い酒乱
呉桓王殿下   酷いイケメソ自慢

デキる漢でも欠点ぐらいあるさ、にんげんだもの
0187無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/24(水) 22:23:49.02
>誰にも欠点ってあるもんですねw(宣帝陛下を見ながら)

まぁまぁ…変な詔で遊んでる何処ぞのスイーツ皇帝に比べればまだボロは出してない方さ…
0189無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/24(水) 22:26:48.55
>>183
ありがとう、そういうことか。
てっきり「宣帝みたいな奴は信用できるか」みたいな和歌があるのかと思った
0190無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/05(月) 17:36:16.49
まあ仏教文化のパクリってとこかな
洛神賦の洛神は経文における天女のようだし
0191無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/08(木) 21:32:47.15
   ∩___∩         |
   | ノ\     ヽ        |
  /  ●゛  ● |        |
  | ∪  ( _●_) ミ       j
 彡、   |∪|   |        J
/     ∩ノ ⊃  ヽ
(  \ / _ノ |  |
.\ “  /__|  |
  \ /___ /
0192無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/09(金) 19:02:37.37
いやこの時代って本当にある種仏教文化の全盛
中国文化は根底から変わり飛躍的に進歩した
曹植は仏教についての論も書いてるし

その後の時代は胡人達も仏教だけを信奉していればよかったのに
変に、遅れたシナ文化の圧力に負けて、仏教を素直に受け取れなかった
そのくびきが後にまで影響を与え中国が進歩できなかった理由だろう

日本は対照的に仏教の研究に励んだので先進国になれた
0193無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/09(金) 19:11:06.07
>>192
あなた創価学会員ですか?
0194無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/09(金) 19:19:30.28
仏教を弾圧、儒教を国教化した中国・朝鮮
(朝鮮は近世以降キリスト教を受容)

キリスト教をを弾圧、仏教を事実上国教化した日本
(儒教は必要最低限のみ受容。
ちなみに神道は宗教というより祖先霊の祭祀ならびに
処世道徳という方が近い)

これが進歩できない国と進歩できる国の差ですね
0195無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/09(金) 22:20:10.05
               .|   |  | |   |    |  | |   |   |   || | |
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   /  ●゛  ● |   .J      し         |     |       ||   J
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  彡、   |∪|   |              .J                レ
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 (  \ / _ノ |  |
  \  "  /  | |
   \ / ̄ ̄ ̄ /
      ̄ ̄ ̄ ̄
0196無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/18(日) 22:31:46.23
   | \
   |Д`) ダレモイナイ・・謡俗詞オドルナラ イマノウチ
   |⊂
   |


     ♪  Å
   ♪   / \   甕中無斗儲♪
      ヽ(´Д`;)ノ    發篋無尺潤
         (  へ)    友来従我貸♪
          く        不知所以応♪


   ♪    Å
     ♪ / \   甕(かめ)の中には 食いものが無い♪
      ヽ(;´Д`)ノ   箱の中には 着るものが無い♪
         (へ  )    トモダチ来てさ 貸そうとしてさ♪
             >     モノを貸すにも モノが無い♪


   | \
   |Д`) <こんな作品を作っちゃう曹操。息子の上留田行も遺伝ですね。
   |⊂    この親子相手に、そんな畏まった評価は要らないと思うデスヨ。
   |


   |
   | ミ  ピャッ!
   |
0197無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/20(火) 02:58:41.12
>>196
ワロタww

ところで曹丕の呉質書について的な論文で、後世で影響を受けていると思われる書簡に
南朝の蕭統、蕭綱兄弟のものと陳後主のものが例としてあって面白かったので
ほかにもそういうタイプの書簡があるなら見てみたいのでもし良ければお願いしますorz

グルメ皇帝はやっぱり人気者だな〜
0198無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/21(水) 23:37:08.27
んーと、対象は与呉質書だけ? ほかの書簡てことは詩なども含む?

影響を及ぼした対象というのが、曖昧すぎて…
該当するだけなら、謝霊運の「擬魏太子?(ギョウ)中集詩八首」もそうだし
0199無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/22(木) 02:09:46.20
197です。言葉足らずで申し訳ない

模擬詩は含まずに実際の君→臣への書簡で亡くなった臣下について触れていて
呉質書のように身分差を感じさせない親愛や懐かしい思い出、文人としての批評などを1つに含むものがあれば…ということです

これでも曖昧でしたらすみませんorz
0200無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/23(金) 14:02:13.86
>>197の言う論文をざっと見た。
この論文で言う、「文学批評」「文雅の遊」「身分を越えた連帯感」「失われた悲しみ」
この4つを受け継いだ文章が他にもあるか? ってこと?

それは、悪いけど判らない。
魏以降、皇族が芸術家集団を率いて宴会を行うケースは非常に増えてはいる。
文選以外で、文学集団を率いた皇族の手紙を片っ端から探せば、あるかもしれない。六朝だと、竟陵王の八友かね。
0201無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/23(金) 19:36:20.06
>>200
そうですそうです!
なるほどー、宴会が増えているのなら希望はありそうですね
文も歴史も最近興味を持ち始めたので、自分で探すにもどこから手をつけるべきかと思っていたのですが
ひとまずその竟陵王の八友周辺から当たってみます。お答えいただきありがとうございました
0202無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/05(水) 07:07:03.47
もうないだろうと思いつつ検索してみたら…このスレまた立ってたのかー、嬉しい!

まとめにある司馬懿の作品ってポエムwひとつだけだけど、確か遺言なんかも残してたよね
内容が「曹丕(または曹叡)と同じ所に葬れ、他の奴を入れるな」というような感じで、
曹丕にも司馬懿にも無双のイメージが強い自分はエッと驚いた記憶があるんだが、どなたか詳細ご存知の方おられないだろうか
内容は私の勘違い記憶違いかもしれないし、ちゃんとした司馬懿の遺言内容が知りたい…
0203無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/05(水) 21:50:56.34
>>202
一番有名なのは、晋書巻一
>先是,預作終制,於首陽山為土藏,不墳不樹;作顧命三篇,斂以時服,不設明器,後終者不得合葬。一如遺命。
>晉國初建,追尊曰宣王。武帝受禪,上尊號曰宣皇帝,陵曰高原,廟稱高祖。

「作顧命三篇」というのが曲者で、下記のリンク先(日本語訳)にあるとおり、諸説ある。
ttp://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html#P4

あと、「同じところ」については、
三國志魏書巻二 魏文帝
>六月戊寅,葬「首陽陵」。自殯及葬,皆以終制從事。

隋・唐王朝は司馬懿の研究もしており、その成果として「晋宣帝文集」というのが十巻(五巻?)あった
残稿があるらしいので、全三国文・全晋文を探せば見つかるかも試練
あとは、曹植が司馬懿に送った手紙などは現存しているので、当時の常識程度には文筆家だったと思われ
0204無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/05(水) 21:56:33.85
っと、隋王朝が5巻つくって、後から唐が追加して十巻になったんだったか>「晋宣帝文集」
気力ゲージ切れとるんで、後は他の方のレスでもお待ちください
0206無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/08(土) 23:08:32.04
人がいないよーなので、ちゃんとした遺言とやらを書きなぐってみるテスト。

まず遺言について、晋書の記述を中央研究院から引用。
>九月庚申,葬于河陰,諡曰文,後改諡宣文。先是,預作終制,
>(A)於首陽山為土藏,(B)不墳不樹;(C)作顧命三篇,(D)斂以時服,(E)不設明器,(F)後終者不得合葬。

訳:九月庚申、河陰で弔われた。文(文貞という説もある)と諡し、のちに改めて宣文と諡した。あらかじめ、終制を作り、預けていた。
A.於首陽山為土藏 (墓は首陽山に作れ)
B.不墳不樹 (土盛り、植樹をするな)
C.作顧命三篇(?)
D.斂以時服 (平服で納棺しろ)
E.不設明器 (祭器を副葬するな)
F.後終者不得合葬 (後に死んだ者(妻や妾、殉死者)と合葬するな)
これらの遺命どおり、執行された。

ここでの「C.作顧命三篇」について、>>203のリンク先では、魏皇帝の手紙三篇を、司馬懿の墓に納めたとする。
しかし、この顧命は、「司馬懿の遺言」が正解だと思う。台湾も、Bでいったん区切ってるし。
同じ晋書の列伝第五十三に、司馬懿が「顧命終制」と呼ばれる遺言を出したと、発言している。

>「以宣皇顧命終制,山陵不設明器,以貽後則。景帝奉遵遺制。
(宣帝陛下(司馬懿)は顧命終制で、山陵に明器を設置するなと仰せになったので、後の皇族もこれに従ってます。以下略)

よって、前もって作られた「終制」の内容が、「A.於首陽山為土藏」「B.不墳不樹」。
(曹丕も、黄初7年に亡くなる4〜5年前、黄初3年に終制を発している)
死ぬ時に発した「C.作顧命三篇」の、「顧命」が、「D.斂以時服」「E.不設明器」「F.後終者不得合葬」の三篇(3つ)。
このA.B.D.E.F.が司馬懿の遺言であり、魏皇帝の手紙を自分の墓に埋めろと言ったわけではない。
晋書における晋皇帝の記述なので、皇帝の遺言扱いでも問題ない。よって、

「墓は首陽山に作れ、土盛り、樹をするな」
「平服で納棺しろ、祭器を副葬するな、私の後に死んだ者(妻や妾、殉死者)と合葬するな」

というのが、晋書に記された遺言ということになる。内容としては、魏晋代の考え方としては普通ね。

ただ、正史曹操の遺言と、陸機が記した曹操の遺言との内容が、違うからなー。
陸機が記した曹操の遺言は偽作だという説もあるが、司馬懿の遺言が他にもあるとしたら、そっちまでは判らない。調べれば判るかもしれないけど。
0207無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/08(土) 23:18:38.37
いずれにせよ、司馬懿は遺言通り、首陽山に葬られた。この首陽山の東(北)に、曹丕と郭皇后が合葬された首陽陵があるとされる(>>203)。
司馬懿が直接、「自分を曹丕の近くに葬れ」と遺言したのではないが、まぁ曹丕の近くであることは判っていただろう。

ただ、洛陽の北は、有名人の墓が多い。
土や景色、風水の配置もよかったから、洛陽の著名人が死ぬと、まず洛陽城の北(北芒、もしくは北?{亡β})に葬られた。
後漢の建武十一年に皇族の城陽王が葬られて以来、洛陽北部は、後漢の皇帝王侯の墓地になった。後漢光武帝の墓も漢魏洛陽の北にある。
あの辺は、他にも、秦の呂不偉、曹魏、西晋、北魏などの皇族、大臣、唐代の杜甫などの墓があった筈。

死んだら洛陽の北に葬るのが、当時の王侯貴族の流行であって、曹丕と司馬懿の墓が近い=特別な事情があるとは断言できない。
逆に、特別な事情はない、とも断言できないし、しない。想像するぶんには面白いだろうしw

以上、どっかミスってたり、すっぽ抜けてたらスマソ
0208無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/09(日) 15:31:25.10
おお、暫く来ない間に面白い話題で盛り上がっているw

>>202
無双の司馬懿の「凡愚がはびこるくらいなら自分が天下を取る(ただし曹操や曹丕は凡愚じゃないから逆らわない)」というキャラも結構好きだけど
個人的には司馬懿ってそんなに野心的な奴だったのか?という疑問が多々あったりする

曹爽一派へのクーデターだって今まで隠していた野心をついに表に出した結果だという意見もあるが
クーデター当時の司馬懿は72歳と超高齢で同年に死去するくらいのお年寄りだし、待ってたというよりは曹爽達のバカっぷりに
「隠居しようと思ったけどあのバカ共には任せられん、陛下への最期の奉公に奸臣共を一掃しよう」という感じだったような気もする
唐の太祖の意見に皆流されすぎじゃね?と思ってしまうひねくれ者がここにいますよ

>>203-207
なるほど、直接曹丕の近くに埋めてくれと言ったわけではないのか
それでも当時の認識として魏の初代皇帝の墓が首陽山の近くにあるのは一般常識だろうし、司馬懿に何か思うところがあったのは確かかなーという印象を受けた
ただそれが明確な忠義からくるものなのか、曹爽一派一掃は野心のためではなく曹丕たち魏への忠義からくるものであると示すパフォーマンス的なものなのかはわからないけど

陸議が言う曹操の遺言は曹瞞伝的な感じが強くするんだよなぁ、呉の人だしそういう嘘っぱちがまことしやかに語られててもおかしくないかな、とww
0209無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/10(月) 19:09:40.65
>>208
いやぁ、別にひねくれてはいないんじゃね?

曹操の作品は、作品中やラストを昔の有名人の名前や言葉を出すものがあるのよ。
(少なくとも短歌行其の一、苦寒行、秋胡行、薤露)
中でも、周公、斉桓、孔子(論語)がやや多い印象。個人的なものだが。
後世では、これは作者本人の意思を仮託しているとされる。(個人的にはこうありたい、という理想を表したものと考えているが)

で、曹操の短歌行其の2は、周文王の聖徳→斉桓公の徳→晋文公の詐称と読み上げていく内容。
そして、司馬懿の勢力は晋。偶然にしては出来すぎだと思わん?
また、王朝の称号を、偶然で片付けていいものか? そこに意図があるなら、何か?

曹爽一派へのクーデター、首陽山の近くの墓、いずれもパフォーマンスだとしたら、
>>208の意見だけでなく、短歌行其の2を踏まえた上で、漢→魏→晋と続く正当性というか、「自分のほうが、あんな若造より魏を知っているんだぞ」みたいな主張もあると思う。
と同時に、「自分の威は、曹操や曹丕の徳には追いつけない。所詮は詐称者に過ぎない」という一種の謙遜でもあるかもな。
まぁ、魏晋代は過去の作品を弄っているんで、曹操の作品を、上記の考えにあわせて作り変えた可能性も否定しないけど。

陸機はねぇ。張華に「わしらは言葉がでなくて困ってるのに、君は言葉が出すぎて困ってる」みたいなことを言われてるからなぁ。
ちょっと口が過ぎて、敵を作ってしまう事もあったんだろう。
0210無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/10(月) 20:44:49.97
>>209
>陸機はねぇ。
>張華に「わしらは言葉がでなくて困ってるのに、君は言葉が出すぎて困ってる」
>みたいなことを言われてるからなぁ。
>ちょっと口が過ぎて、敵を作ってしまう事もあったんだろう。

何せ陸機さんの曾祖父様は
「軽はずみというか、「爽やかー!」な性質の人だったのでしょうw」
「遺言は悲愴感ないねー(笑) 」
「もうすこし悲愴になれww 」
とまとめサイトで言われているあの御方ですからw
0211無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/10(月) 21:23:11.41
>>209
…アカン曹髦が司馬昭を晋公に任命しようとした意図とかそれをきっちり断った司馬昭とかそういうの思い出していろいろ勘ぐりたくなってきた
曹操の魏公就任→魏王就任→曹丕の皇帝即位の流れから司馬昭は断ったんだろうと単純に思ってたけど、もしかしてそんなレベルの話じゃなかったのか、これ…

>>210
義兄弟はもう涙なくして読めないような悲壮かつ感動的な遺言残してるあのお方っすねwww
…まぁ信頼出来る義兄弟に将来有望な弟を託す人と
そんな義兄弟の期待に答えようとしたけど結局果たせなかった人じゃ悲壮感が違うのは無理ないけど

そういやそんな爽やか兄さんの後継いだ弟さんはどんな遺言残してたのかな
0212無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/10(月) 22:16:39.72
あぁ、>>209でひとつ忘れてた。司馬懿の諡だが、台湾中央研究院の晋書から引用

>九月庚申,葬于河陰,諡曰文,後改諡宣文。
(諡は文という,後に諡をあらため、宣文とした)

すなわち、「晋文」だ。

>>211
あぁ、そっかそっか……言われてみれば、司馬昭が晋公を断ったのか。あいまいになってた

確かに勘ぐりたくなるわ。結局は晋を名乗った、しかし高祖の諡を文→宣文→宣帝にしている。
曹髦の最後の嫌がらせなのか、それでも晋を名乗らざるを得ないほど、当時の司馬一族が不安定だったのか、
「晋」が持つ意味は、想像以上に重いのかもしれん

>>210-211
…なんという説得力orz>爽やかさんは、子孫もやっぱり爽やかですたw

弟さんこと孫権の顧命終制を探してみたけど、どちらも出てこないなぁ。
0213無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/10(月) 22:52:16.00
>>212
王朝の名称はその王朝が起きた場所で決まるらしい
例えば蜀漢は春秋・戦国の頃の古蜀などあの西地域を指す蜀から来てるし
孫権の呉も春秋の呉から来てるし、曹操の魏も戦国の魏と同じ地域だから
司馬昭が晋公に任命されそうになったのは、司馬氏が河南省(春秋の晋の地域)出身の豪族だったからだと思うよ
うろ覚えだから違うかもしれんが、名前が晋なのは当然なんだけどいろいろ勘ぐれる名前なのは事実
そもそも春秋の晋が分裂して出来たのが戦国の魏だし…
0214無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/10(月) 23:57:42.72
>>213
うん、本当に色々勘ぐれる名称だは

晋という称号自体は、213の言う通り、古い地名説が一番妥当だと思われ
逆に、漢魏の前例や、出身地の古名から、司馬一族が王朝を開くなら、まずは晋が来ることは判っていたと思う

では、司馬懿の諱が変わっているが、よくあることなのか?
変えるぐらいなら、なぜ文と言う諱をつけたのか?曹丕と同じだからか?
文では都合が悪かったなら、どのように都合が悪かったか?諱の変更以外に解決法はなかったのか?
司馬一族が実権を握っていたなら、晋以外の称号に出来なかったのか?
調べてみないとわからんが、六朝時代以降、王朝名イコール地名とは限らなくなっているのは、異民族だから名乗れそうな地名がない、それだけの理由なのか?

「晋」は想像以上に重いと言うのは、由来もだけど、むしろ、上でいう諱問題や、晋の名がもたらした(かもしれない)結末の方だな。
どれも大した問題じゃないと言えばそうなんだが、そういうのを考えていたら、ちょっと混乱した
0215無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/11(火) 00:08:05.83
投稿した後で気付いた、連投スマソ
今ちょっと確認できないんだが、司馬懿の諱については別の字だという(貞?忘れた)説もあった気がする
2つあるなら、どっちが正しいか、間違っている方は、なぜ、その字が出てきたのか?という問題も出てくる
0216無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/11(火) 00:27:10.13
>>202です

>>203-207
うおーすごい!ありがとうございます!!
そもそも洛陽の北に墓を作るのが当時のトレンドだったんですね
当時の時代背景などは考えてなかったので、その辺りすごく参考になりました

曹丕・司馬懿の主従が好きな身としては、実際のところがどうだったかは分からないにしても、余白を読んであれこれ想像を巡らせることの出来る遺言でよかったですw


それにしても、てっきり人少ないものと思ってスレ覗くの怠ってたら何やら興味深い流れに…
三国時代初心者の私としては、このスレは本当に勉強になるので有り難いですー
0217無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/11(火) 00:34:39.59
そもそも諡号の宣ってどういう意味だっけ?って思ってググったけどいまいちわからんなぁ
で、調べてるうちにこんなん見っけた↓晋書の記述らしいけどどこの話なんだろ。

文帝(司馬昭)が上表して謙譲した。
「わたくしの亡き父(司馬懿)は丞相、相国、九命の礼をあえて受けず、亡き兄は相国の官位をあえて受けなかったのは、まことに太祖(曹操)がつねづね区別をしていたからでございます。
いま諡号が二祖と同じであることは、必ずや恐懼するところでしょう。むかし蕭何、張良、霍光はみな補佐の功績がありましたが、蕭何は文終と諡され、張良は文成と諡され、霍光は宣成と諡されました。
どうしても文武という諡を頂けるのであれば、蕭何ら(の前例)によって(文字)の追加をお願いいたします。」
詔勅により許され、忠武と諡された。
この文章で諡号が与えられたのが誰なのかイマイチわからんが、司馬懿の諡号に関してヒントが出てるような気がする

で、ここで出てくる霍光(諡号は宣成)って人なんだけど、『晋書』の宣帝紀にこんな記述を発見

(司馬懿の)葬儀の格式は漢の霍光の故事にならったものとされた。

この漢の霍光さん、漢の武帝の命で幼帝を補佐した政治家らしいが
そういう政治家にありがちな権力欲に取り付かれて国を滅ぼすようなマネは一切せず幼帝は成人しても霍光を信任し続けたらしい
昭帝への反乱の企てを察知して処理したりもしてる非常に有能な補佐役
まぁ昭帝が子供が出来ずに亡くなった後、次に選んだ皇帝を27日で廃して新しい皇帝を建てるなんてこともしてるけど
で、その次に選んだ皇帝の諡号は宣帝
多分当時の人(司馬昭含む)は司馬懿を野心家の逆臣ではなく、幼帝を補佐した清廉潔白な政治家と考えてたんじゃないかな
ちなみにこの霍光さん、宣帝に政権を委ねるって言われた時の返事に「関(あずかり)り白(もう)す」って言ったらしい
これが日本の関白の元ネタらしいよ

>>216
私もまだまだ勉強不足なんでいろいろ助かります
皆さんの意見聞くとほんとに目からウロコ落ちるんですよね
0218無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/11(火) 00:45:07.19
連投すみません

文帝(司馬昭)が上表して〜の文相は晋書景帝紀で司馬師の話でした
司馬師が死んだ時に、曹髦が司馬師の諡号を武侯にしようとしたのに対して司馬昭が辞退した時の上奏文だったようです
司馬師の葬式の時も司馬懿の時と同様霍光の故事に倣ったらしい

司馬懿が霍光の故事に倣った葬式だったのは幼帝を補佐して反逆者を一掃したからだけど
司馬師が霍光の故事に倣った葬式だったのは皇帝を廃して新しい皇帝を立てたから
…のように見えなくもないんだけど邪推かな
0219無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/11(火) 22:36:45.77
>>217-218 資料探索乙っす。>>214-215のうち
>文では都合が悪かったなら、どのように都合が悪かったか?諱の変更以外に解決法はなかったのか?
についての、司馬氏側の動きが、>>217-218ですな

晋書の帝紀第1から引用
>天子 素服臨弔,喪葬威儀依漢霍光故事,追贈相國、郡公。

晋帝紀第2から引用
>二月,帝之喪至自許昌,天子素服臨弔,詔曰:「公有濟世寧國之勳,克定禍亂之功,重之以死王事,宜加殊禮。其令公卿議制。」
{司馬師がなくなると、許昌から都へ運ばれ、天子が喪服で葬儀にのぞんだ、詔にいわく、「公(司馬師)は国を安定させた功績(ry)王事に殉じたのであって、特別な礼を加えるべし。公卿の協議で決めよ」}

>有司議以為忠安社稷,功濟宇内,宜依霍光故事,追加大司馬之號以冠大將軍,摎W五萬戸,諡曰武公。
(協議の結果、天下を救った功績により、霍光の故事に従うのがよろしいと決まり、諡を武公とした)

で、司馬昭の言う、>>217の内容が続く。
司馬懿、司馬昭ともに霍光なんだな、確かに…宣帝により一族どころか縁者関係者のきなみ皆殺しにされてるねぇ。
晋書だけで見るなら協議の結果が霍光に習ったもので、司馬昭の言葉だと司馬昭が霍光に習って変更するよう提案しているし
両方とも霍光にならったんなら、協議は何をを霍光に習ったか
漢書の該当項を見たんだが、眺めただけじゃ、判らなかったorz

諱のつけ方としては、基本的にその人物の人となりを表すものだと思ってたんだが何で文にしたか?が判らん。師は「協議の結果」だけど
司馬懿なら、文より宣の、広く公開する、古代の皇帝が座する部屋、皇帝の命令、そんな意味合いの方が、正直確かに似合…失礼
0220無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/11(火) 22:41:44.12
ただまぁ、晋が、「魏を補佐した功績」を強調しているのは確かだな。
「晋鼓吹曲二十二篇(軍歌曲みたいなもの)」以下一部引用

*霊之祥
>序:(ry)「《霊之祥》は,宣皇帝(司馬懿)の魏を補佐すること,昔の舜が堯に仕えるがごときであった事を(ry)」

>繼大舜,佐陶唐。讚武、文,建帝綱。
(大舜の意思を継ぎ、陶唐を補佐する。武文を讃え、帝綱を建てる)

大舜(舜)、陶唐(尭)は神話上における五帝の名前。
舜は尭を補佐して天下を治め、尭から禅譲を受けた。また、陳・田斉の祖でもある。実はこれも微妙なんだよなぁ…幽閉説もあるし

*宣輔政
宣皇輔政,聖烈深。撥亂反正,從天心。
(宣皇は政を輔佐し,聖烈深し。反乱をはねのけ反を正し,天心に従う)

あと>>215の司馬懿の諡についてだが、晋書の注に
>諡曰文後改諡宣文 各本皆作「諡曰文貞,後改諡文宣」。考異:「按禮志,魏朝初諡宣帝為文侯,景帝為武侯。文王表不宜與二祖同,於是改諡宣文、忠武。然則初諡文,無『貞』字也。禮志及文帝紀並稱舞陽宣文侯,宋書禮志同。此云『文宣』,亦轉寫之誤。」今據改。

というわけで、「文貞」をのちに「文宣」に変えたという説もあるが、文帝の上奏内容から、貞は誤字だろうというのが今の考え方らしい。
0221無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/11(火) 23:52:39.94
霍光の葬式は準皇族並の規模で盛大に行われたらしいけど、司馬懿も司馬師もそれくらいでかい規模で送られたってことかな

そもそも後半生(というか曹叡以降)西から東へ戦場を駆け巡った大将軍に文って諡号はどうなんだこれ
本人が文が良いとか遺言したわけじゃないだろうし
0222無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/12(水) 01:46:55.88
久々に三戦見てみたら懐かしいスレが復活してたんだな良かった

文って字は諡号としては格が高い方じゃ無かったっけか
歴戦の大将軍と言っても降したり領域拡げたわけでは無いし官職の一つなんだから文が相応なのではないかね
0223無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/13(木) 19:28:54.23
アク禁イヤンバカン
>>222
なるほど、皇帝なら周文王と武王、臣下なら周文公の文がまず最初に来る
司馬昭の上奏にもあるとおり漢でも重要だから、事実上のトップに最高級の称号を贈るのは、普通にありうるのか
0224無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/13(木) 21:58:00.30
あ、解除されてら。既に判っている内容も含むけど、大目に見てくれ

まず、曹操の短歌行は、少なくとも2つ現存している。其の一は有名な「對酒當歌」、其の二が「周西伯昌」。
原文と日本語訳は、「短歌行 其の二」で検索すれば出てくるので、ここでは略する。
この「周西伯昌」の最後の「晋文」が、司馬氏による晋王朝、司馬懿の諡号である文と一致している。

で、前に「周西伯昌」を訳したときは、
(まぁ偶然かもしれんが、当時も気づいた人はいただろう。晋書宣帝紀の「曹操は夢を見て、司馬氏がいつか曹氏に取って代わると予言した」という話は、この話から生まれた寓話かもなぁ。晋書のオカルトも、元ネタが有るならバカにできんぞ)、という所で止まっていた。

ところが「司馬昭が、晋公の称号をいったん断っている」「司馬懿の文を変えるよう上奏している」
つまり、「周西伯昌」が、作者の意図とは別に、魏晋禅譲の流れに影響を及ぼしている可能性が出てきた。

この問題に対し、「周西伯昌」側からのアプローチと、「司馬懿の諱変更問題」側からのアプロ−チが考えられる。

まずは「周西伯昌」についてだが、謎といえば謎が2つある。

1)史書の掲載
まず、晋書楽志に「周西伯昌」は掲載されていない。
(曹操の作品自体、「歩出夏門行」のうち、「艶」を削除した晋楽所奏《碣石篇》が、名無しさんとして掲載されているだけ。晋楽所奏として「對酒當歌」が改変されたものはあったようだが、掲載はない)

宋書楽志だと、其の一と其の二が逆。
ためしに、宋書楽志第三から、同じタイトルが複数ある作品を、掲載順に並べてみる。
左からタイトル、作者、歌いだしの部分を、宋書の掲載順に並べたもの(内は楽府詩集等、後世の主な掲載順)

短歌行 魏武帝詞 周西伯昌(2)>對酒當歌(1)
燕歌行 魏文帝詞 秋風蕭瑟天氣涼(1)>別日何易會日難(2)
秋胡行 魏武帝詞 晨上散關山(1)>顧登泰華山(2)
善哉行 魏文帝詞 朝日樂相樂(1)>上山采薇(2)>朝游多高臺觀(3)
善哉行 魏武帝詞 古公亶甫(1)>自惜身薄?(2)


善哉行 魏明帝詞 我徂我征(1)>赫赫大魏(2)

短歌行のみが、1と2が逆なんだよ。
まぁ宋書楽志自体、他の本が甄夫人作とする塘上行を曹操作と言ってたりと、詩集としては異質ではあるんだが。
なぜ逆なのか? については、後述。
0225無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/13(木) 22:16:51.28
2)「周西伯昌」に込められた志
当時の詩は、基本として、志(どうしても詩にしたいと思った理由、思いのたけ)を詠む。
曹操の短歌行其の一であれば、人材を求める志。歩出夏門行なら一応、「幸甚至哉!歌以詠志」。

「周西伯昌」の場合は、これが判りにくい。一見、故事の羅列だから。
なので、後世では忘れられた。文選、古詩源もそうだけど、「周西伯昌」の登場しない詩集が出てくる。
これが1)の掲載順に対する回答1。

しかし、曹操の作品は楽府、つまり宴会など人前で奏でることを前提に作られた。また、短歌行は、曹丕が曹操の追悼に使ったタイトルであり、ある意味重要な曲だ。
曹操の居城で、重要な曲を使って、歌い上げる必要があった「周西伯昌」の志は何か?

先行論文として、「正当性の主張と、自戒をこめたもの」とする説、「受命(漢魏禅譲)問題に対する、曹操の己の苦悩する志」とする説がある。
私が訳したときも、上記の論文と、孫盛説の「周囲に帝位をすすめられたとき、曹操は『天命が我にあれども、我は周文王となろう』といった」説から、「曹操の理想が周文王、現実が斉桓、晋文にだけはなりたくない」と解釈した。
あるいは、善哉行其の一や董卓歌詞、「宦官を滅ぼしても天下は変わらん」みたいな発言から、皮肉かと思った。

ただ、上記の説だと、曹操が自分のほかの作品で、周文王と周武王をとりあげないのは何故か?
(分析対象となる作品の母数が少ないけど、周文王と晋文は「周西伯昌」でのみ登場、周武王は登場0)
短歌行、苦寒行、で周公をあげたり、最晩年によまれた秋胡行其の一で「周西伯昌」にも出てくる斉桓の「正而不譎」を使って自分を慰めるあたり、曹操は初期は周公、後期は斉桓に親近感を懐いていたのではないか?
何より、自戒や自分の苦悩を、人前で、重要な曲を使って、歌う必要があったのか?

私なりに考えるのは、上記の説に加え、「臣下に対し、『禅譲の意義、漢魏禅譲の覚悟』を問いかけるもの」
この詩を発することで、魏を詐称者にしないよう、周囲に協力することを求めた。
この詩に答えるように、臣下から連判状や上奏が出て、曹操も受命問題に関する自分の敵味方を見分けられる。

だとすると、漢魏禅譲が済んでしまえば用済み(というか皇帝にとっては邪魔)だし、曹丕が自分の短歌行を、父への鎮魂歌にした理由もまぁ解決?
これが、1)の掲載順に対する回答2。

と同時に、こんな曲がぶんがぶんが流れていた朝廷で、「晋文」をそのまま名乗るのは、勇気がいる。
晋が成立した後も、詩に詳しい人間ならこの詩を思い出し、晋の詐称を思うだろう。特に八王の乱以降は。

ここで「司馬懿の諱変更問題」にみる、魏晋の禅譲問題が出てくる。
これについては、魏晋禅譲の時系列と、霍光の葬儀問題をまとめないと混乱するorz

先行論文も探したいけど、手がまわらん…また後で。

何にしても、この「周西伯昌」、下手すると漢魏と魏晋、2度の禅譲に影響した作品ってことになるぞ。
正直、何でこの作品があの「對酒當歌」と同じ短歌行なんだ?と思っていたが、違うね。對酒當歌とは別の意味で、短歌行に相応しいわ。
0226無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/14(金) 00:26:38.45
うーん…曹操の漢魏禅譲への考えは諸説あるからねぇ
その人がどの説に立つかによってかなり解釈は変わってくるのがまた大変だ…

素直に曹操の発言や詩の内容を読めば、自分はあくまで漢の忠臣でありたいと言ってるように読める
しかし荀ケの発言について正史で「不快に思った」という記述があるからそういう発言は建前だったと考えることも可能だ
ただ個人的に正史の「〜と思った」という記述については疑問がある(思っただけのことがどうして記録に残るんだ)
実際曹操は散々群臣たちから勧められつつも自分の代では禅譲に応じてないからな
禅譲にむけて水面下でいろいろやってる群臣たちへの心の叫びだったんじゃないかな、というのが個人的な意見

で、疑問なんだけどこの詩本当に魏王朝でしょっちゅう詠われてたのかな?
皇位簒奪の意思なんかなかったのに息子の代で奪っちゃいました☆って親父の意思に反してるからいろいろ問題があるような気がするんだけど…
むしろ積極的に詠われてて曹操に簒奪の意思はなかったって言うことが周知の事実だったら晋の時代陳寿が「荀ケの発言を不快に思った」なんて記述はありえない気がして
それとも曹丕が禅譲した時点で口ではああ言ってたけど実際は簒奪の意思が合ったと思われてたのかな?


あと司馬懿の諡号はいつ変えられたんだっけ?
司馬師の代か司馬昭の代かでまたいろいろ変わってくるような気がする
0227無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/14(金) 23:33:43.89
おっしゃるとおり、解釈は人によって異なる。
だから曹操の詩も、本来の意味と周囲の受け取り方両方を検討する必要があるが、特に秋胡行が曲者なんで、ちょっと置いとく。

ここでは、「周西伯昌」のうち、斉桓にもとづいて、「小白不敢爾,天威在顏咫尺」をベースにしている。
神聖な肉を賜わるとき、周の使者は「堂下で拝礼しなくてよい」と伝えた。これを桓公は断って、堂を降りて拝し、 堂に登って胙を受けた。あえて近づかずとも、天威は常に顔の傍らにあった。
この解釈で正しいならば、天子=皇帝とは限らない。天子の臣下に、もう一人の天子を置くのも答えだ。
「わざわざ皇帝にならずとも、天子にはなれる。それでもオマイらが禅譲させたいなら、禅譲を起こすことで何を天下に示すか、その意義と覚悟を決めろ」、曹丕の代は「その覚悟を忘れるな」、と言えばいいか?

何にしても、曹操は禅譲問題に関しては、これ、という自分の意見を明確に決めてないと思うよ。「俺的に」レベルの話だが、必要ではない事項を曖昧にしといて後は臨機応変、というのは法治的によくある話なので。
だから周囲は、曹操には簒奪の意思がないとも考えるし、あるとも考える。

斉桓も後世の評価がさまざまで、上記の肉を賜った話も、謙譲と言われたり、逆に野心のあらわれとも言われる。封禅の儀を行おうとして、管仲に止められたって話がある。
同じ儒でも孔子は斉桓を褒め称えているが、孟子はけなしているし、荀子は一応評価したうえで、小人の英雄であって見習うべき大人ではないと言っている。


短歌行が実際に魏で演奏されていたかについては、それが「周西伯昌」のことならNoだな。演奏するなら、まず曹丕の「仰瞻帷幕」、次があるとしても、「對酒當歌」だろう。
だけど、短歌行の曲が変わらない限りは、イコール「周西伯昌」の曲が流れることになると思う。

曹丕の「仰瞻帷幕」については、楽府詩集からの又又引きだが、

>“王僧虔《技?》雲:‘《短歌行》“仰瞻”一曲,魏氏遺令,使節朔奏樂,魏文製此辭,自撫箏和歌。歌者雲“貴官彈箏”

,貴官即魏文也。

あと、陸機が弔魏武帝文で言う、

>月朝十五[日]、輒向帳作妓。汝等時時登銅雀(爵)臺、望吾西陵墓田。

この二つが本物とするなら(偽説もあるので仮定になっちまうが)、曹操の遺言で、月はじめと15日には、それなりの規模の演奏があったことにならんか?
この全部で短歌行を奏でていたわけではないだろうし、曹丕が自ら奏でた理由や「しょっちゅう」の定義にもよるが、
まぁそういう環境では、「周西伯昌」を知らない人が新たに知ることはないが、知っている人は忘れにくいだろう、と思ってた。
0228無名武将@お腹せっぷく
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2012/12/17(月) 19:34:27.63
>>224の件についてだが、晋書帝紀の1、2巻だけじゃ判らん
司馬懿の諡号・魏晋禅譲がらみの時系列を上げてみるテスツ。晋書 帝紀第1、第2から抽出。あくまで晋書ということに注意

嘉平
元年
 春正月、曹爽が魏皇帝とともに高平陵へ。司馬懿、司馬師、対曹爽クーデター。
 冬十二月、九錫の礼を加えられ、朝会において拝礼せぬことを許された。九錫は固辞。

二年
 春正月、魏皇帝が司馬懿に「洛陽に廟をたてる」よう命じる。司馬懿が病みがちのため、大事があるときは、魏皇帝が司馬懿の屋敷に訪れた。

三年
 春正月、王?の乱。
 夏四月、司馬懿が王?の乱を鎮圧。
  皇帝が使節を派遣、「司馬懿を相國となし,安平郡公に任ずる」。司馬懿は相国を固辞し、安平郡公を受けず。
 秋八月、司馬懿死去。
  皇帝は喪服で弔問。葬儀の威儀は漢の霍光の故事にならった。相国と郡公を追贈。
  弟の司馬孚は、故人の遺志を理由に、郡公および??車(始皇帝陵からも出土した銅車馬)は受けなかった。
(葬儀について、漢書霍光伝の該当部分抄訳:喪は皇帝、皇太后他お偉いさんが臨席した。色々賜った。棺を??車にのせた。諡を宣成侯にした。祠には村を置き、長く旧法のごとく守らせた)

 司馬懿が死去したとき
  議者「伊尹既卒,伊陟嗣事」、天子は司馬師に命じて、撫軍大将軍として政を補佐させることとした。
 九月庚申、司馬懿を河陰に埋葬。文と諡し、のちに改めて宣文と諡した。司馬懿の遺言>>203

四年
 春正月、司馬師が大將軍に。侍中,持節、都督中外諸軍、録尚書事。
  百官に命じ賢才をあげ,年齢の少長を明らかにし,窮者獨人を思いやり,廢滯(廃棄品、もしくは人)を整理。
  制度を変えようという意見があったが、詩経の故事をあげ、魏の制度のうち、軍事以外のものは変えないとした。

五年、呉、諸葛恪の侵攻。
0229無名武将@お腹せっぷく
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2012/12/17(月) 19:35:11.39
正元
元年
 春正月、天子、李豊、張緝らにより、補政を司馬師から夏侯玄に移そうとする動き。
  司馬師、首謀者の李豊を捕らえ、また関係者を三族まで皆殺しにした。
 三月、司馬師、魏皇帝に皇后張氏を廃するよう密上奏。
  これを受け、魏皇帝は「周勃が呂氏を亡ぼし、霍光が上官桀を捕らえた」ことになぞらえ、司馬師の増邑を詔する。
  司馬師は受けず。
 ?、正月春の事件を受け、司馬師、密かに魏皇帝廃立を皇后に申し出る。
 秋九月、皇后、「今の皇帝が政治に親しまず、女色や芸人に溺れており、宗廟を奉るには相応しくない」とし、皇帝廃立の令を下す。
  皇后の令をうけ、司馬師は霍光の故事にならい、皇帝の印綬を取り上げ〔帝を〕斉王に。
  曹氏最年長の曹拠を皇帝にしようとするが、皇太后の意見により曹髦を皇帝にする。皇帝の格好や振る舞いを諌める。
 癸巳の日、曹髦、司馬師の位を相国とし、邑九千戸加増、大都督・仮黄鉞に昇進、参内の際には小走りしないこと、上奏の際には名前を名乗らないこと、履剣上殿を許す。銭五百万、帛五千匹を下賜。相国を固辞。
  司馬師、帝を諌める上奏文。皇帝は受け入れる。

二年
 二月、毋丘倹と文欽の乱。司馬師、死亡。
  司馬昭の上奏>>217
  大將軍に位をすすめる。輔政、劍履上殿。帝固辭不受。

甘露元年
 春正月、大都督,奏事不名。
 夏六月、高都公,地方七百里,九錫, 斧鉞,大都督,劍履上殿。又固辭不受。
 秋八月庚申、加假斧鉞、摯侮O縣。

二年
 夏五月〜 諸葛誕の乱
三年
 諸葛誕の乱鎮圧
 五月、晋公に封じられる。九錫,相國,晉國置官司焉。九譲し、止む。
 秋七月,先世名臣元功大勳の子孫を,才能に応じて登用するよう上奏。

五年
 夏四月、甘露2年5月と同じ詔。九讓して受けず。
 五月、曹髦が殺される事件。曹奐が皇帝になる。
 六月、改元。
0230無名武将@お腹せっぷく
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2012/12/17(月) 19:42:16.68
景元
元年六月、二年秋八月甲寅、甘露2年5月と同じ詔。受けず。
四年
 春二月丁丑、甘露2年5月と同じ詔。受けず
 夏、蜀攻略開始
 冬十月、詔で司馬氏の功を称え、晋公とする

>故齊魯之封,於周為弘,山川土田,邦畿七百,官司典策,制殊羣后。惠襄之難,桓文以翼戴之勞,猶受錫命之禮,咸用光疇大コ,作範于後。
(斉・魯の封地は、周において広くなり、〜。(周)恵襄王の難のとき、斉桓公・晋文公は国を助けた労をもって、錫命の礼を受け〜)

  翼戴之労というのは、周宣王の臣下、山甫の話。晋盧湛《贈劉昆》「伊陟佐商。山甫翼周」。曹操の善哉行にも出る。
  司馬師はいったん晋公を固辞するが、司空鄭沖の発言を受け、受諾
 十一月、蜀降伏

咸熙元年
 三月己卯、公→王に進む
 夏五月癸未、天子は舞陽宣文侯に追贈して晋宣王とし、舞陽忠武侯(司馬師)を晋景王とした

二年
 八月、司馬昭死去、9月に諡文王

武帝授禅
 司馬懿を宣皇帝、司馬師を景皇帝。司馬昭を文皇帝。

読む限りでは、>>218の葬式の理由は、それでいいと思う。
司馬師が霍光の故事にならって皇帝を廃したことを、皇帝も天下も認めたことだと言える品

司馬懿が死去したころは安平郡公(これも判らん。宗室の諸王に与えられた爵位、郡王に準じるってことか?)の話が出ていた。
まだ晋とあまり関係がなかったため、文でも問題はなかった。
司馬師の死後、司馬昭が>>217を上奏し、晋公になり、死後に司馬昭が文王となった。
司馬昭を晋公にする詔の中で、周西伯昌で別々に分けていた斉桓晋文を同列にしている。
それを元に「周西伯昌と関係がある。晋文の名が斉桓と対等になることで、晴れて晋を名乗ることが出来た」とか言う事もできるが、ビミョー。

霍光伝「霍叔(霍叔処)封於晋。晉即河東,光豈其苗裔乎?」
史記と違い、霍光から晋が興るという立場であれば、司馬懿の時点で、晋は予測されうる事項になっている。
司馬師の斉王廃立のくだりが、漢書霍光の記述に似てるんだよなー。

つまり、偶然にしては色々とあてはまりすぎている。司馬師がなぞったんでもなければ、偽造を疑う。
資料が足りないので、正史や他の本(詩や文章)も探す必要があるんだが、気力ゲージ尽きてきたので保留。そのうちまた挑戦する
0231無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/17(月) 19:45:40.25
っと、誤解がありそうなので。
>>228
??車が化けているので、wikiへのリンク:ttp://ja.wikipedia.org/wiki/銅車馬
>>229
甘露3年の晋公は、まだ拒否している。

他にも間違ってたらスマソ
0232無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/01/23(水) 21:33:42.24
ここやまとめ読んでると自力で漢文読みたくなってるくるね
ただ日本も漢字文化圏だからこそ、漢文読めないなりに何となく意味は分かったりして、それも楽しいww
漢字って奥深いよなあ
とりあえず前スレの時からドキドキ五熟釜が気になってるから、自分はそれからだw
0233無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/01/24(木) 19:58:44.29
私は自分で読みはじめてみたよ
わからないことばかりではあるけど
少しずつ理解出来るようになってきてすごく楽しい!
0235無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/03/06(水) 05:16:17.40
独りで三国時代の漢詩を訳していると、時々投げ出したくなると同時に
三国志って本当に人気あるか?って思う

何で三国時代の文学を取り扱っている日本語サイトは、質量ともに少ないんだろう
昔はもっとあったけど消滅したのかな

光栄さんとか三国志検定とか、あんなに反応を掘り起こせるのは凄いわ
たとえ悪い反応であってもね
0236無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/03/06(水) 21:05:04.51
三国志が人気あるとかじゃなくて歴史系講談が三国志以外全部死んだってのが正しい
0237無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/03/08(金) 10:42:14.57
>>236
一文で言い尽くされてしまった。

必要とされるのは、歴史講談としての三国志というガワだけか
0238無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/04/20(土) 22:14:37.47
最近知ったんだが「画餅」って曹丕の言葉だったんだな
曹丕の時代から現代にまで伝わってる言葉があるのって、考えてみればすごいことだよなあ
典論で書いてたのはまさにこのことなんだね

そしてやっぱり食い物なのかwとなんか笑ってしまったよw
0239無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/04/21(日) 03:02:01.77
>>238
「画餅」は曹叡の言葉だよ
出典は正史の盧毓伝にある詔
『全三国文』では曹叡の言葉として載せていて
『通典』で曹丕の詔とされているのは誤りだとしている

でもまさしく曹丕が『典論』で言いたいことは
そういうことでもあるのだろうね
0240無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/04/23(火) 08:42:24.05
>>239
曹叡の方だったのか……訂正ありがとう!
食べ物関連だからって安易に曹丕だと思ってたww

でも伯仲の間とか左顧右眄とか、当時の人の言葉が今の時代にまで残っているっていうのはやっぱりすごいね
そういうのはある意味、その人がその時代を確かに生きていた証でもあるのかなって考えさせられるよ
0242無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/04/25(木) 22:26:31.87
改変も作者混同も多いしな
七歩詩の3パターンとか曹操と曹丕の善哉行とか魏晋楽所奏とか
0243無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/04/25(木) 22:42:02.86
昔の人は今ほどは原典を重んじないから「この方がいい」って
自分で勝手に手直ししちゃう場合とか結構あるんだよね
0244無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/04/27(土) 12:30:18.77
そうだね
しかも正統な後継者と自負している場合ほど、書き足すから質が悪い
注ならともかく、原文部分を追加するから、さぁ大変

そういう面では、儒教も邪魔だな
青青子衿は学生同士の親交を詠んだとされていたが、朱子注等で男女の密会を詠んだものとされたせいで、曹操短歌行の対酒當歌まで女への思慕が隠されているとか言われることになる
詩繋がりで言うなら、浮雲翳日も、孔融と古詩19首の行行重行行、古詩19首の方が古いのに、中には孔融が出典とか言う例もでてくる
0245無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/06/07(金) 14:38:14.01
   | \
   |Д`) ダレモイナイ・・オドルナラ イマノウチ
   |⊂
   |

     ♪  Å
   ♪   / \   童子、又童子
      ヽ(´Д`;)ノ    刀を銜んで游いで江を渡る
         (  へ)    岸上の虎を畏れず
          く        但水中の龍を畏れる


   ♪    Å
     ♪ / \   わらべ、わらべ、また、わらべ
      ヽ(;´Д`)ノ   刀を口にくわえて江を泳いで渡る
         (へ  )    陸上の虎なんてコワクナイ
             >     ただ水中の竜だけがコワイノサ

   | \
   |Д`) <晋書五行志等に掲載されている、孫皓の時代に歌われた童謡ですね。
   |⊂    これを聞いた晋武帝が、呉討伐総司令官の王濬に龍驤将軍を与えてみたら
   |       呉討伐軍が、破竹の勢いになっちゃったと。

   |\
   |`) <童謡のノリで追加されちゃった将軍位ってのも、アレですな
   |
   |

   |
   | ミ  ピャッ!
   |
0246無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/06/07(金) 18:26:42.68
>>245
童謡のノリで追加されたんじゃなくて
「童謡を流行らせてその童謡の予言を実現させて住民の動揺を誘う」という
古代〜中世では有名な謀略だろ
0247無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2013/06/08(土) 21:28:03.32
| |д゚) マジレスktkr。
| と ) 童謡が政治工作を兼ねた例については、古くは堯の鼓腹撃壌(康衢童謡)からして有名ですな。

| |Д`) でも全部が全部、当時の皇帝や権力者が主人公と言うわけではないし、
| と /  勿論彼らにとって、都合が良かったわけでもないデスナ。

| |-`) 何にしても調べてみると、歴史の裏面、童謡が広まった背景も見える気になれマスね。
      よく笑い話になっている司馬懿の讌飲詩も、景初中童謠と合わせると、合わせなくてもチョイ意味深トカ、でもナイトカ。

| ミ  ピャッ!
0251無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2014/03/03(月) 09:19:04.79
今日はひな祭りだな
事実かどうかはともかく、上巳と重陽の日付を定めたのが曹丕と知ったのはこのスレのまとめがきっかけだったw
0254無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2014/06/09(月) 16:48:27.84
典論の
譬諸音樂、曲度雖均、節奏同検、至於引氣不斉、巧拙有素、雖在父兄、不能以移子弟。
という部分は色々考えてしまうね
0256無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2014/07/12(土) 14:48:43.20
曹操の短歌行を受けて曹丕が詠んだ短歌行比べると
雄大かつ高らかに大志を歌いあげる曹操とその父を喪った悲しみとそれを継がなければならない苦悩を繊細に綴る曹丕の作風の違いがわかるし
同じ宴会の時に詠んだ曹丕と曹植の歌を比べても
こんなに楽しい日々が永遠に続けばいいのに!という前向きな曹植と人間は有限だからこんな楽しさも一瞬のことなんだなぁという無常感を感じる曹丕の視点の違いが分かる


骨は何も感じないんだから派手な葬式や大きな墓は不要という薄葬令の記述や
人間なんてすぐ死んでしまう有限なものっていう詩や手紙に書かれてる曹丕の考え方が
なんとなく仏教的な無常感に近いように思えてならない
それくらい人間をちっぽけで無常なものだと考えてるからこそ、その人間の考えや存在した証を未来に伝えることができる文章の無限さを大きく評価した結果が
例の>>253の言葉なんじゃないかなぁ、と久しぶりに長文で語ってみる
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