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三国時代の文学スレッド

0001無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/12(月) 22:09:48.11
| 機
|*Д`)ハァハァ
雲 ノ )
゚ー゚)   ∧ ∧    ∧ ∧   .∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧    ∧ ∧
( ヘヘ (´ω` )  . (´ー` )  (゚∀゚ *)  (´<_,` )  (´∀` )  (・∀・ )  (‘∀‘ )
 ̄  //王\ / 徐 \ / 劉 \/ 孔 .\/ 応 \/ 陳 \/ 阮 \
   .\) .粲ノ/\) 幹 ノ/\) 驕@ノ \)融 )/\) 瑒ノ/\)琳 ノ/\)瑀 .ノ/
   ./ ◆<  ./..◆ <  ./..◆< ./ ◆<  /..◆<  ../..◆<   ./ ◆<  
  /  '´ ヽ).../  '´ ヽ...)../  '´ .ヽ. .((操)))/  '´ヽ..) ./  '´ヽ..)/  '´ヽ )
∠/   ノノ∠/ ∧ ∧/   .  ノノ  (・∀・)っ   ∧ ∧    .ノノ     .ノノ
           (; ゚Д゚)  。・゚・⌒)  (つ   /.  .  (゚∀゚,, )
            / 丕 o━ヽニニフ )) |  (⌒)  〔~植∪ ̄〕=
           しー-J    彡   _ し⌒^    ◎――◎=


後漢末期の建安年間とその前後には、唐代以前の詩聖・曹植や
曹操・曹丕・曹叡など曹家の偉大な詩人たち、建安の七子などが
たくさんの優れた文学作品を残し、中国文学を著しく発展させました。
三国志の戦いや武将、社会情勢などが、
それらの漢文の重要な題材や背景となっています。
また、後世の中国・日本の文芸の題材にも、
三国志の英雄たちは多く取りあげられています。
文学的な側面からも、歴史・人物的な側面からも、
真面目に語るも気ままにだべるも良し。マターリ楽しみましょう。
三曹でも西晋でも蘇東坡でも土井晩翠でもなんでもおkかとミ ・∀・ ミ

まとめサイト
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/
0055無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/20(火) 02:59:24.59
質問です
この時代の文学を研究するための必須事項ってありますか?
これは必ず読めとか
こういう考え方ができなきゃいけないとか
指導教官なんてものもなく、趣味で論文でも書いてみたいんです
005756
垢版 |
2011/12/21(水) 02:49:47.87
曹丕没時点で、ということか
すまん
0058無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/21(水) 02:53:29.98
>>56
曹丕の正式な妻、皇后は郭氏
これはしっかりと正史三国志に書いてある

そして、明帝紀には「追諡母甄夫人曰文昭皇后」とあって
甄「夫人」を文昭「皇后」と諡を追加したことがバッチリ書かれてる
追諡されるまでの甄氏はただの夫人
しかも本人の伝を見る限りちゃんとした官位である夫人ではなく
一般的に結婚してる女性という意味の夫人のようだ
(郭氏の場合は貴嬪になったりして出世の経過が見える)

つまり甄氏は妾
005956
垢版 |
2011/12/22(木) 00:43:18.61
>>58
詳しくありがとう
ずっと気になっていたことが解決した


と、これだけだとスレチなので何か話題をと思ったが
まだまだ勉強中の身なので何も投下できないわ
ただ、今日は旧暦換算で曹植の命日だよな
0060無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/22(木) 02:46:03.51
こんばんは。
少し間が開いてしまいました。

>>42
しかも、じっくり読んでみると、結構深読みできてしまうんですよね……。
今回、隠喩に着目して解釈してみました。

>>43-47
>洛神=甄皇后説の是非

ちょっと実際にどうなのかを探りたいですね。
今日これから投下する内容も、それを考える一端になればいいんですが。
真面目に考えたので、よかったら放置しないで意見とかもらえると嬉しいです。

>>48-51
>曹操実子説

俺の中の甄氏のイメージが……。

>>52-58
待って、郭氏の立后は甄氏の死後じゃありませんでしたっけ。
確かそうだったと思うんですが、それじゃあ、曹丕はそれまで正妻を誰も置かなかったということですか?
甄氏の前に結婚した誰かが正妻だった、という記述はありましたっけ。
あと、夫人である以上は妾じゃないのでは……。
妾は、公式に結婚してないけど関係のある女の人のことだと思うので。

>>59
今日、曹植の命日だったんですね……。
家にあったお酒を出してきて、曹植のために追悼のお酒を飲むことにしました。
空を見ながら曹植のことを考えます。
文人は死ぬと白玉楼に登るそうです。
曹植も、今いるのかなあ。
0061無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/22(木) 02:47:24.93
http://www.geocities.jp/qsshc/cpaint/luoshenfu.html
2.

ここには、四つの注目すべき点があります。

@具体的な旅の経路が書かれている

曹植は、洛陽から藩国に帰るために、伊闕を後にし、轘轅山を越え、通谷を通り、景山に登ります。
曹植好きとしては、曹植が旅をしている姿が浮かんでいいなと思います。
が、私はここでちょっと突っ込んだ視点を提示してみます。

「人生は旅である」

という隠喩は、文学の世界だけではなく、人間一般に自然に共有されているものだと思います。
生誕は旅の始点。死は到達点です。
曹植が旅の描写をしたのは、もしかしたら死へ至る人生の旅を仄めかしたかったのかも、なんて思いました。


A日がすでに西に傾いている

「一生は一日である」

という隠喩も、広く無意識に理解されているものです。
生誕は夜明け、成熟は正午、老年は黄昏、死は日没、死後は夜です。

@を前提にして話すと、人生という旅の中で、曹植は斜陽、つまり自分自身の衰退期を見たのではないでしょうか。
年齢的には若いですが、実際、40年余りの人生の中では黄昏時ですしね。

車は傷み、馬は疲れている。
これは人生の困難と挫折を思わせます。
ぱっと思いついた具体例が西洋文学で申し訳ないのですが、

「人生の道半ばにして、
わたしは暗い森の中に我を見出した。」(ダンテ『神曲』)

と似たような雰囲気を感じます。
人生の成熟期に及んで、明確な目標やそこへのはっきりした道筋を持たない、迷った状態にあった、
と気づいたということですからね。
0062無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/22(木) 02:51:14.36
B香草、霊芝、柳

どれも、神を思わせる植物です。古代中国の祭祀では、シャーマンは香り草を用いていました。
「楚辞 九歌 東皇太一」でも、「盍将把兮瓊芳(巫女はまた、美わしい芳り草の束を手に取り持って)」とあります。
霊芝は、「巫山の夢」の故事の神女が身を変えていたものです。
柳も、強い陽の気を持つ植物として縁起の良いものです。
この時曹植は、この世ならぬ領域(霊界ではなく、神界)に半ば身を置いていると考えられます。


Cこころは別世界に誘われ、思いは遥か彼方に飛翔していく

これは、漢詩によく使われる表現で、いいな、と私も思っていたんですが、この「心」「思い」とは何でしょうか。
原文では「精」「神」「思」という漢字で表されています。
精神、とは中国人の考え方としては、肉体に宿るものです。つまり、魂です。
思考も、生きている人間のするものですよね。

@ABと併せて考えると、魂や思いが肉体から解放された自由な状態、つまり、死に近い状態に
なっているんじゃないでしょうか。
死はネガティブなイメージが強いですが、

「生は束縛であり、死は解放である」

という考え方もあります。
0063無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/22(木) 02:52:29.54
こうやって見ると、曹植は、気まぐれに降臨した神女と逢ったんじゃないんです。
彼が神女と出会うタイミングは、この時でなければいけなかったんです。
死という到達点に向かう人生の旅の中で、自分の衰えを自覚し、困難と挫折を噛みしめている最中に、
ふと人ならざる世界、神の世界へ足を踏み入れてしまわなければ、会えなかったんです。

だから、蒼天航路で、少年曹植が洛神賦を披露して孔融をやり込めるなんてシーンは、
不適切だったんです。
(蒼天は、前に出た孔融の人物像からみても、間違いが多いですね)

だとすれば、曹植が神女と結ばれなかったのは良かったんです。
結ばれていたら、曹植は命を落とさなければならなかったと思います。
そういう発想があるからこそ、古代中国文学で、人と神は「絶対に結ばれない」ものだったんだと思います。

私が洛神=甄皇后説を支持するのは、「人と神」、つまり結ばれない関係が、「生者と死者」と重なるからなんです。
甄皇后が死んですぐに作られたっていうのは、関係があると思います。
0064無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/22(木) 03:20:07.26
そうだ、大事なことです。

>>59
>まだまだ勉強中の身なので何も投下できないわ

ここは、「知っていることを書く」のではなく、「好きなことを書く」っていうのを
コンセプトにできればいいなと思って立てたんです。
知識を書くんだったら、基礎知識のない私も辛くなってしまうし
本を読めばいいわけだから、スレとしても面白くないじゃないですか。

書いてて面白いスレって、「この詩が好き、どうして好きかってそれは…」って
全部さらけ出せるスレじゃないですか。
で、好きなこと書いてたらスレも盛り上がって、気づきも増えて、
学びは後から付いてくるわけじゃないですか。

だから、何でもどんどん書いてください。
できるだけ沢山の人、話題、作品、視点がスレの肥やしになるから。
0065無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/22(木) 13:15:25.32
>>60
郭氏は貴嬪として甄氏生前から正式な妻の地位を得てるよ
正妻はこっち

妾ってのは現代日本だと結婚をしてない存在というイメージが強いけど
三国時代は本妻、側妾を区別せず全部後宮などに入れて夫人としてる
皇帝や王侯の場合、妻の後宮での地位を見て判断しないとダメだね
現代日本とはそもそも結婚システムが違うんでね

そうして見た場合、甄氏は女性としての地位を認められてないただの妾
郭氏は女性として正式な地位である貴嬪として、曹丕が魏王になった時に認められてる
(それ以前の曹丕にはそもそもそういう地位を女性に与える権限がない)
ここで甄氏がこの郭氏の地位向上に対して文句を言ったことが
賜死の原因の一つと正史三国志では述べられてるな
立后が甄氏の死後なのは単純に曹丕が皇帝となって
皇后を立てられる地位になるのが甄氏の死後だから

曹叡による名誉回復運動があったからこそ、我々は甄氏を「皇后」として認識し
曹丕という癇癪持ちの気紛れに殺された悲劇の女性として認識してしまうが
妾が分をわきまえず他の女性が正式な妻としての地位を得たことに対して
宮中人事に口出しをするという時点で、処刑されても当然の行いをしてるんだよ
0066無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/22(木) 16:51:45.05
>>61-63

この作品を「死という到達点に向かう人生の旅」というように解釈するのは
素晴らしい発想だと思います。
ひょっとしたら曹植が洛神賦を着想した時、彼の中で
自殺願望的な何かが渦巻いている精神状態だったのではないでしょうか。
しかし、「やはりまだ自分は死ぬべきではない」という思いが強くなって
女神は曹植に別れを告げて去って行くという筋書きになったのではないかと思うのです。
そう解釈すると、女神は「あなたはまだ生きている。自ら死を選んではならない」と
曹植を諭してくれた命の恩人だったのかなと思います。


自分も過去の文学スレにリアルタイムで参加できませんでした。
復活させてくれたスレ主さんに感謝です!
0067無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/22(木) 22:06:14.67
>>55
誰かに教えられるほど、知識ある人間ではないんだけど、応援したい。
先行研究の参考文献を片っ端から当たるのは論文の基本かとおもわれる。
役に立たなくてスマヌ。
0068無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/22(木) 23:04:40.77
>>67
ありがとう
先攻研究って研究書とかでいいのかな
それなら図書館行けばいいか
論文はどこをどうやって探せば見つかるんだろ
0069無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/23(金) 00:26:10.87
論文ならここで探すと便利よ。建安文学の論文もあって勉強になりますw
http://ci.nii.ac.jp/
CiNiiに本文ありをクリックすればPDFファイルで読める。

PDFない論文がほしい場合は、近所の一般公開している大学図書館に潜入してみるのも手。
0070無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/23(金) 02:44:41.24
>>69
>>68じゃないがありがとう
良いサイトを知った

うむむ、だが読んでて反感というか、そうじゃないだろうと思うのが多いな
かといってどう違うのか上手く説明できないんだがorz
0071無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/23(金) 03:24:14.52
人文系の学問なんて論拠さえしっかりしてればある程度言ったもん勝ち
論拠さえあるならいくらでも反論していいし
逆言うと論拠なければどんなに荒唐無稽なこと言われても黙るしかない

まあ違和感あるなら、しっかり言語化して批判する材料探して
論理立てて反論してくといいと思うよ
0072無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/25(日) 20:20:28.72
こんばんは。

>>65
詳しいご説明、ありがとうございます。「後宮佳麗三千人」重きも軽きもみんな「夫人」なんですね。
甄氏としては、自分の方が先に嫁いでいるし、家も代々二千石の名家なので、
恨み言を言う気持ちもわかります。
彼女の生涯が、苦労続きだったことを考えると、どうしても同情してしまいます。
当時、儚いのは本当に女性の身ですね。

曹叡のことも調べてみました。曹丕生前、諸侯として封建されているのは、やはり後継者から外されていた
証拠とみなしてよさそうですね。
魏の諸侯王はみんな藩国に赴任しなければいけなかったと思うので、
曹叡も都を出ていたでしょうし。
即位まで公の場に出なかったというのも、そのあたりが理由でしょう。

曹叡の心境はどんなものだったでしょうか。曹叡は206年の生まれだといいます。
生母を失ったのは15、6歳の時です。
このあたりで、確か狩りの鹿のエピソードがあるんでしたっけ。
多感な時期、史書にあるような理由で生母を殺された息子は、たぶん用心深さを習得しようとするでしょうね。
長子でありながら、嫡子ではなく、都を離れなければならない境遇に置かれても、
不満を見せて不興を買うことはしなかったでしょう。
そしてその後の数年は忍従の数年間だったと思います。
曹叡の英邁な資質はそのたまものだったのかもしれません。
始皇帝と漢の武帝の風があるというのは、境遇も併せて言われたことかもしれません。
0073無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/25(日) 20:40:18.20
>>66
素晴らしい発想だと言っていただき、ありがとうございます。
これから洛神賦を読んでいく、励みになります。
0074無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/25(日) 23:00:10.03
傍論ですが、『酉陽雑爼』にある『妬婦津』の記事に洛神賦が登場するのでご紹介。

==
臨清に妬婦津(とふしん)がある。伝説によると、晋の大始年間(265〜275)のとき
劉伯玉の妻、段氏は字を明光といい、嫉妬心が強かった。
伯玉は曹植の『洛神の賦』を愛誦して、その妻に語った。
「こういう女を妻にできたなら、心残りはないね」
ところが明光は
「あなたはよくも水神が美しいからといってわたしを馬鹿になさいましたわね。わたしは死にます。
 きっと水神になってみせるから。」 と言って、その夜、河に身投げをして死んだ。
それから七日目の夜に、彼女は伯玉の夢にあらわれた。
「あなたは神をご所望でしたね、わたしは今、神になりました」
伯玉ははっと眼が醒めた。それからは一生涯、河川を渡ろうとはしなかった。
以来、その河は妬婦津と呼ばれるようになった。
ここを渡る婦人たちは、皆、衣裳をつくろわず、化粧を剥がして渡った。
美服美粧して渡ると、神が嫉妬してたちまち風波を起こすからである。(後略)

いかにもなつくり話っぽさがありますが、洛神賦が引き合いに出されるあたりに
曹植の詩聖としての評価を感じざるをえませんw
でも曹植の洛神への修辞麗句はやっぱり、過剰だと思います。
それこそ、段明光がヒステリーを起こして身投げしてしまうくらいにw
(ついでにかつてつくった妬婦津ネタ)
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1298380310/225-238
他にもこれと似たような言い伝えに「妬女泉」というのがあって、
これも、婦人が美服美粧をして渡ろうとすると、嫉妬した神が
大雨を降らせて、必ず稲妻を光らせるらしいですw(泉の場所は董卓の塁の近く)
0075無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/26(月) 10:15:27.33
>>74
『酉陽雑爼』の話、初めて知りました。ありがとう。

でもこの話に甄氏のことは出てこないんですね。
段氏は河に身投げして死んだっていうから、本来の宓妃を意識して行動しているようにみえます。
つまり、晋の大始年間には、洛神=甄皇后説はあまり認知されていなかった?
 ↓
洛神=甄皇后説は、残念ながらあとから作られた話の可能性が高いのではないかと思いました。
0076無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/26(月) 14:11:38.70
三国時代の2ちゃんねらーのスレか
まあ確かに2ちゃんねらーと魏晋の文人どもとは感性が合いそうだな
発想も似てるし
0078無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/26(月) 14:23:12.58
>>76
2ちゃんねらー→匿名掲示板で何かを叩いて優越感に浸りたがる
文人→政治の担い手

全然違う
0079無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/26(月) 14:34:17.78
お前らの大好きな二つを掛け合わせてやったのに否定しやがるのかw
時代の中心者ぶってる所が似てるだろw
ひろゆきは曹操だな
早くひろゆき様に御子息が生まれるといいなw
曹否や曹植と比較できるし讃えられるからなw
0080無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/26(月) 21:47:43.70
>>77
曹操が醸造酒の発明者とか言い出さなけりゃ別にどうでもいい
0081無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/26(月) 22:39:12.78
>>75
『妬婦津』では、洛水で溺死した宓妃と河に身投げした段氏が対になっているんですよね。
わかりますwでも、甄氏についての言及がなにもないのは、
つくり話のなかで、特に登場させる必要性がなかっただけなんじゃないのかな〜という気がw

>つまり、晋の大始年間には、洛神=甄皇后説はあまり認知されていなかった?

どうなんでしょう(謎)。李善という人が、文選の注でそういう説を唱えているらしいのですが(658年頃)。
でも誰がなんのために、李善注の引く『感甄記』なる物語で曹植と甄夫人を両思いにしたんだろう…。
そもそも、曹植が甄夫人に横恋慕をしていたと最初に言い出したのは誰? 『感甄記』ていつ成立したんだろう?という疑問も。
皇室ゴシップ記事が大好きな正史裴松之注でさえ、曹植と甄夫人のチョメチョメに関しては、一言も拾い上げていない…(見落としがなければ)。
神霊記事も大好きな裴松之(372-451)なら、甄夫人の霊が枕を介して曹植の夢に現れたというホラー話を
真っ先に取り上げてくれるような…。誰も聞いていないのに、『明帝、袁煕の息子説』を否定してくれるような裴松之が
曹植と甄夫人の関係に触れていないのは信ぴょう性が全くないと判断したから?それとも裴松之の時代には『洛神=甄皇后説』が
生まれていなかったからなのか?(謎)
でも、曹植の漢詩を全部、正史の注にのっけてくれるようなハッスルする人でもないから、裴松之至上主義に走るのもどうかとは思うんだよねw

東晋以降、異民族に中国の北半分を取られてしまったのを契機に高まった蜀漢正統論も気になる。
曹植、甄夫人は、「後漢を滅ぼした大逆賊」の曹丕に迫害されて悲劇の死を迎えたから、徐々に「判官贔屓」が芽生えていった?
でも、曹植は既に文人としての声望は集めていたはずだから、関係ないのかなw

あと歴史ロマン的に気になるのは、曹植の「感婚賦」と「洛神賦」、モデルは同じだったりするのかな〜、ということ。
0082無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/26(月) 22:42:47.50
全然、違う意味になっていたので訂正。
× どうなんでしょう(謎)。李善という人が、文選の注でそういう説を唱えているらしいのですが(658年頃)。
● どうなんでしょう(謎)。李善という人が、文選の注で洛神=甄皇后説を唱えているらしいのですが(658年頃)。
0083無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/26(月) 22:59:22.64
おまけ。
AA板でみつけた洛神賦の二次創作のご紹介。
現代劇になっているけど、洛神賦のかみくだきかたが実にみごとで、
元ネタを知っている側としてはニヤニヤになりましたw
http://www.toofectarts.com/videoshelf/bcd/2007/allofcstory17/034.htm @
http://www.toofectarts.com/videoshelf/bcd/2007/allofcstory17/036.htm A
http://unkar.org/r/aastory/1188994502 BC
AA厨以外はあんまり、興味わかないですよね、うん。
0084無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/27(火) 13:52:10.13
こんにちは。

>>74
『酉陽雑爼』の話、ありがとうございます。AAスレも拝見しました。こんな良いスレがあったのか……。
うーん、こんなAAネタが作れるなんて、すごい。実は私はAA厨でして。綺麗なAAを集めたり、
「やる夫」の歴史ものを色々読んだりしていて。
女神=曹丕説は、曹植の忠孝に篤さを強調したい、という意図が見えますね。

ところで、妬婦津の話、知らないはずなのにどこかで聞いたことがある気がしたんですが、
以前、岡本綺堂の『中国怪奇小説集』を借りて読んだときに、中に入っていたのでした。
この怪奇小説集、「六朝・唐・五代・宋・金・元・明・清の小説筆記の類から二百二十種の怪奇談を抄出した」ものです。
不勉強にして、それぞれの原典を読んでいないので完全体の知識はないのですが、
二百二十読むだけでも、中国の怪奇小説って面白いなあ、それに、三国志ってやっぱり人気なんだな、
と感じたことがあります。
今読み返したら、紹介してくださった『酉陽雑爼』にも、妬婦津の話以外に

・墓荒らしを呪う劉備の霊
・阮籍の絵
・若い才人に恋して殺す呉質の娘の霊

の話が出てきました。
青空文庫で読めるので、私もご紹介します。

凡例 http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/33217_11889.html
開会の辞 http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/33218_11890.html
捜神記(六朝) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1298_11892.html
捜神後記(六朝) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2235_11894.html
酉陽雑爼(唐) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1299_11895.html
宣室志(唐) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1300_11896.html
白猿伝・其他(唐) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1301_11897.html
録異記(五代) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1302_11898.html
稽神録(宋) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2236_11899.html
夷堅志(宋) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2237_11900.html
異聞総録・其他(宋) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2238_11901.html
続夷堅志・其他(金・元) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2239_11902.html
輟耕録(明) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2240_11903.html
剪灯新話(明) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2241_11904.html
池北偶談(清) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2242_11907.html
子不語(清) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2243_11908.html
閲微草堂筆記(清) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1303_12030.html
0085無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/27(火) 13:59:40.89
妬婦津の話に出てくる、地名の臨清を調べたら、昔の魏郡にあたるそうです。
そしたら段明光が身を投げたのは清河かも。
この地は時代が下っても隋の大運河が通って、水に関わる街だったので、
こういう話ができたのかもしれませんね。

「よい嫁を貰おうと思ったら、妬婦津の渡し場に立っていろ。渡る女のよいか醜いかは自然にわかる」

これってなんか面白いw

>いかにもなつくり話っぽさがありますが、洛神賦が引き合いに出されるあたりに
>曹植の詩聖としての評価を感じざるをえませんw
>でも曹植の洛神への修辞麗句はやっぱり、過剰だと思います。
>それこそ、段明光がヒステリーを起こして身投げしてしまうくらいにw

確かにw一つ言えることは、この劉伯玉は想像(妄想?)を爆発させることのできた人みたいですねw
これでもか、これでもかと詰め込まれた装飾を全部イメージしてたんですかね。
それで妄想で頭がいっぱいになって、出てくる話題といえばそれで、近くにいる奥さんに吐き出す……とまあ、
はた迷惑な感じかもしれませんw
自分の奥さんの性格ぐらい知ってただろうになあ。
私が伯玉なら、美人を形容する文章が好きなら、段明光を題材に装飾を凝らした文を作ってみるんだけど。
装飾系男子。

そういえば、同じような装飾過剰な文章といえば、こんなの思い出しました。

「さてこの妖精の現身なる乙女は、月をも凌ぐ美しさでございます。
ヴェールの下に冠をいただき、新月のように夜に映え、黒い瞳は闇の底にある生命の水さながら。
なよやかな姿は白銀の棗の木、その木の頂で二人の黒人(下げ髪)が棗を摘んでおります。
この甘き唇の女人ーー棗の実さながらの彼女を思い出すだけで口には甘いつゆが満ちるほど。
まばゆく輝く彼女の歯は真珠とも紛うばかり。その鮮かさは真珠貝を遥かに凌駕しますが、
この歯をくるみこむ唇は艶やかな紅玉髄の色をしております。
両の捲髪はさながら円を描く輪縄で、それが、人という人の心を惹きつけます。
緑なす黒髪は、バラの頬にうちかかり、捲髪から立ち上る芳香に、その水仙の瞳は夢見るように悩ましげ。
彼女の眼は魔術師をも邪視をも呪文で封じてしまいましょう。
蜜のように甘い百の言葉を秘めているのか、彼女の唇は、魔術で人々の胸の火をさらに燃え立たせますが、
爽やかに微笑むときの唇もまた魅力的で、塩は甘くないのに彼女の塩(魅力)は甘美なのです。」

(ニザーミー『ホスローとシーリーン』)

(ちなみに、このシーリーンは「かなり」気の強い女性です)
(最後の一文は、訳だとよく意味がわかりませんが、原音だと言葉遊びになってるみたいです)
0086無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/27(火) 14:41:02.33

>>81

>でも誰がなんのために、李善注の引く『感甄記』なる物語で曹植と甄夫人を両思いにしたんだろう…。

これは永遠の謎ですね〜
曹植と甄夫人、最初に「二人をくっつけよう!」と思いついた人は大発見だと思います。
でも、これは別の人でも置き換え可能ですよね。
例えば、曹彰と甄夫人をくっつけたり、明帝は曹操の子だ!なんて妄想する方もいらっしゃいますし。
みんな甄夫人の貞操を何だと思っているのかwww

>あと歴史ロマン的に気になるのは、曹植の「感婚賦」と「洛神賦」、モデルは同じだったりするのかな〜、ということ。

「感婚賦」も思わせぶりな作品です。
これも見方によっては、甄夫人のことを想っているように見えてしまうw
個人的には、「感婚賦」の「これから妻を娶る」という状況は、
自分が成人してこれから社会に出ていく状況と重ね合わせていて、
その不安な気持ちを象徴的に表現しているのかなあと思います。
曹植は比喩表現を好む人なので、あまりストレートに自分の状況を描かないのではないかと思います。

でも、もしモデルを想定するなら、「感婚賦」の場合、曹植と曹丕がともに欲しがった邯鄲淳なんて如何でしょう?
曹操に「感婚賦」を示して、「僕はこんなに邯鄲淳先生のことを思っているので、ぜひ僕に下さい」と説得してたら面白いw
0087無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/27(火) 14:42:32.52
>>75>>81-83
その謎、知りたいなあ。
多分、「曹植が甄氏に横恋慕していた」という説がそもそもの元凶じゃないかと思います。
それがなければ、洛神賦の女神のモデルが甄皇后なんて言われませんよね。
普通に楚辞とかの影響を受けているか、曹丕のことだって言われるだけじゃないかなあ。

李善以前に成立したと(思われる)『感甄記』にせよ、その説がなければ作られないと思います。
推測ですが、きっと作者の心境には曹植への同情があったと思うんです。
曹植に少しは救いを、と。
救いの手段として、曹植が恋い焦がれた甄皇后と結ばれるようにしてあげよう、と。
「曹植が甄氏を好きだった」という説がなければ、ただの曹丕への嫌がらせにしかなりませんよね。

曹植と甄氏を結ぶあらゆるエピソードや説は、上記の説が潜在的に醸成され、共有されていた中で
生まれたものなんでしょうね。

>そもそも、曹植が甄夫人に横恋慕をしていたと最初に言い出したのは誰?

これが一番核になる謎だと思います。

東晋以降の蜀漢正当論は、晋は魏の後を継いだ以上は、魏を正当と見なさなければならなかったけれども、
同時に魏の非も主張しなければ禅譲を迫った理由が立たないということなのかな。
蜀漢正当論は、裏を返せば曹丕批判だから、曹植正当論が同じように勃興してもおかしくない。
文人としての声望はむしろ判官贔屓の理由だと思います。
才能がありながら、迫害された、というのが判官贔屓されるポイントだから……。

感婚賦、知らなかったのでぐぐってみました。
http://sikaban.web.fc2.com/kankon.htm
http://www23.atwiki.jp/3000aa/pages/91.html
出てきました。

なんか思春期っぽくていいなw
そういえば、この時代の詩賦って、帰らぬ夫を待つ妻に仮託したものは溢れてるけど
未婚の男が(神とかじゃない)未婚の女に叶わぬ恋をするのは珍しい気がします。
私が知らないだけかな。
0088無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/27(火) 14:46:04.56
>>83
これ、私は好きでした。青い鳥みたいな、幸せは実は近くにあった、みたいな終わり方がほのぼのします。
0089無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/27(火) 14:53:21.39
>>86
>感婚賦

なるほど!
>>87で疑問を書いたけど、

>「これから社会に出て行くことへの不安」
>「邯鄲淳が欲しい気持ち」
>「曹植は比喩表現を好む人なので、あまりストレートに自分の状況を描かないのでは」

と考えると、納得できます。
0090無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/29(木) 02:29:40.65
>>86
感婚賦が「邯鄲淳が欲しい気持ち」という考え方は好きだな
それを読んだ曹操が「そうかそうか!」と
笑いながら頷いている姿を想像してしまうw
0092無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/01/12(木) 00:18:47.99
復活オメ。
歴ゲ板で細細やってた身としちゃ、このスレがあると嬉しいんで続けて欲しく
0093無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/01/15(日) 09:44:41.61
止まってるみたいなんで、話題投擲
お題は「応援合戦」。この時代、戦のときに、太鼓や笛を鳴らして、兵に歌わせた軍歌
楽府詩集にも、魏、呉、晋の鼓吹曲が掲載されていますな
本文は台湾の中央研究院でも見ていただくとして、まず各題だけ並べます

(以下、台湾楽府詩集から。誤引用あったらスマソ)
・魏鼓吹曲 曹操が、漢の鼓吹曲をベースに、繆襲に作らせたもの
《楚之平》、《戦栄陽》、《獲呂布》、《克官渡》、《舊邦》、《定武功》、《屠柳城》、《平南荊》、《平關中》、《應帝期》、《*熙》、《太和》
(*=蔡文姫の父の名前「ヨウ」の字)

・呉鼓吹曲 韋昭に作らせたもの。同じく漢の鼓吹曲がベース
《炎精缺》、《漢之季》、《*武師》、《伐烏林》、《秋風》、《克皖城》、《關背コ》、《通荊門》、《章洪コ》、《従暦數》、《承天命》、《玄化》
*てへん+慮。チョと読み、発表するの意

・晋鼓吹曲 魏の鼓吹曲をベースに、司馬炎が傅玄に作らせたもの
《霊之祥》、《宣受命》、《征遼東》、《宣輔政》、《時運多難》、《景龍飛》、《平玉衡》、《文皇統百揆》、《因時運》、《惟庸蜀》、《天序》
《大晉承運期》、《金霊運》、《於穆我皇》、《仲春振旅》、《夏苗田》、《仲秋*田》、《順天道》、《唐堯》、《玄雲》、《伯益》、《釣竿》
*けものへん+爾

 内容はいずれも君主自慢ですが、正直、こんな歌が流れる戦場を想像しますと、
「うちの君主様はこんなに凄いんだどー!」
「嘘こくでねぇ、お前んとこの君主なんて○×$%#、うちの君主様はもっと凄いやーぃ!」
みたいなノリにしか見えません。

 ちなみにこの時期は、他にも朝廷が郊外で神々を祭るときに歌われる郊祀歌、舞の伴奏である舞曲歌など、「歌」と共にあった時代でもありますね。
 舞曲歌は、魏では、曹操の命で王サンが作ってますか、あと曹植もだったかな。
 晋代には曹操の歩出夏門行が、碣石舞として編纂されなおし、晋楽所奏として歌われています。

 まぁ当時の文学は、現代のマスコミ代わりといいますか、「情報戦の発露」としての一面もあるんでしょうな。
 調べると調べるほど、奥が深いもんだと思います。
0094無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/01/15(日) 19:42:25.08
>>93
魏鼓吹曲と呉鼓吹曲の詩の部分を以前読んだことがあります。
魏は曹操と歴戦の勇士の名シーンが主体、
呉は孫権と歴戦の勇士の名シーンおよび孫堅の名シーンを扱っているのですが、
孫策の活躍を扱ったものが一切無いあたりに、
孫策に対する江東名士の感情への配慮のような物が見えるような気がするのですが。
0095無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/01/16(月) 21:05:31.74
>>94
 おっしゃるとおりです。
 ただそれだけではなく、孫策に関する名士への配慮というだけでなく、孫策ではなく、孫権こそが孫堅の正当な後継者である、という意思の表れ、と見るのは穿ちすぎでしょうかね?

 鼓吹曲は、都合のいいものだけ扱い、都合の悪いところは無視するために、国の内情というものが透けて見えます。
 楽府詩集に、蜀の鼓吹曲がないのはなぜか?
 この板の方なら大体お分かりかと思いますが、漢の後継である蜀で、鼓吹曲がなかったということは考えられない。
 後の晋書以降で現れる音楽の項が、三国志にはなかったことから、陳寿が何らかの理由で鼓吹曲を残さなかった、もしくは残せなかった可能性もあります。
 なぜかは無学なので判りませんが、諸葛亮が資料を残さなかった可能性。漢代の鼓吹曲をそのまま使用していた可能性が考えられます。

 また、魏の鼓吹曲をちょいと見てみましょうか。量が多いので、訳というには投げやりです。

1、楚之平
「初之平」とも言う。《晉書?樂志》によると、「漢の《朱鷺》をベースにしたもの」
 義兵が世を平定せんと、金鼓を鳴らし武を振るう。武帝の示す道を往けよ、名を轟かせよ。
漢の気は尽き、社稷は傾く。皇帝は道を失い、桓帝や霊帝を出す。宦官は世を乱し、群雄争う。
辺章と韓遂が蜂起し、金城の地は乱れる。中国は騒擾し、古の聖なる教えは忘れられた。
武皇赫き,旗旌を起てる。天下なびき,天下は平らか。九州済りて,九州安寧となる。
武功を作りて,武功成る。いにしえ五帝を超え、三王をもとおく。礼楽おこりて,紀綱定まる。
あまねく日月,輝光を行き渡らせる。

2、戦?陽
「漢の《思悲翁》をベースにしたものである、曹公言うものなり」
戦うは?陽、?水の堤。兵士らは憤怒し、甲を身につけ馳せり。陣いまだ成らず、徐?の地に退いた。
二万騎ありて、堀を壁を平らにするも。軍馬傷つき、六軍驚き慌て、軍勢集わず、隊列は幾度となく傾く。
白日沒して、時は晦冥、中牟の地を顧み,心は營に息をひそめる。同盟を疑い、計は未だ成らず。
我らが武皇に頼って、萬國を寧す。
0096無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/01/16(月) 21:09:24.58
3、獲呂布
「漢の《艾如張》をベースにしたものである、曹公、呂布を生きて捕らえたるなり」。
呂布獲った、陳宮斬った、大悪人の首を草のように刈った。天下統一して、掌中に運ぶ。

4、克官渡
「漢の《上之回》をベースにした、曹公、袁紹と戦い、官渡の地でこれを破る」。
 袁紹を官渡に破る、白馬を由とす。屍は硬直し血は流れ原野をおおう。賊はむれること犬羊のごとし、王師は尚寡(すく)なし。
 黄砂は丘のごとく積もり、風に飛び揚がる。転戦すれば不利で、士卒は傷つく。今日勝たずんば、後に何を望む。
 袁紹軍の掘った土山地道、われ等を破ることはできず。ついには勝って勢いを駆り、冀州を震わせ。城をほふり邑を破る,神武は遂に章らかならん。

 まぁこの後も続くんですが、見てのとおり、三国志演技やゲームでは、物語の始まりを示す黄巾の乱や、青州兵が出てきません。
 うたう人である名士への配慮か、それとも黄巾賊や青州兵が、魏が禅譲を受けた後も少なからぬ影を落としていたのか。当時と後世の視点の違いによるものなのか。
 いずれにせよ、このへんの重点の置き方というのは、考えさせられるものがあります。
0097無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/01/16(月) 21:11:14.92
っと、文字化けが多いけど、そこは勘弁。
あと、歌うのは名士とは限りませんので、そこは訂正しときます。
0099ジャイアニズム
垢版 |
2012/01/18(水) 22:39:14.49
お前らいい加減にせい!
乱世に文学など無用じゃ!
そんなことより富国強兵に努めよ!

文章は傾国の怠業じゃ!
0101無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/01/20(金) 23:10:05.69
途中までというのも気分が悪いので、人を気にせず投げ槍する。間違っても気にしない。

2、戦栄陽
追加:長安遷都の際に董卓を追撃し、徐栄に敗北したときの話。

5、舊邦
古き国は寂しく静かに、心傷つき悲しみ。孤独な魂彷徨いて、またいずこに依るのか。遊士は故を恋し、涙は砕くが如し。
兵は起ち戦に対し,命令と願いを違え。親戚に伝え求む、在りし者は誰ぞ。廟を立て後に置き,魂は帰り来る。

6、定武功
武功を定めんと、黄河を渡る。河水は湯湯、旦つ暮れればに流波あり。
袁氏は衰を欲するも,兄弟は干戈を尋ねる(戦を求める)。
ゆえに?水を決(決壊)させれば、水は滂沱と流れ、ああ城中は魚の流るるが如し、誰(た)ぞ能(よ)くまた室家を顧みんか。
計は窮(つ)き慮は盡(つ)き,連和を求め来る。
されど和する時にあらず,心中憂(うれ)い戚(かな)しむ。賊衆内潰し,君臣は北に奔る。
ギョウ城を抜き,魏國を所有す。王業の艱難なること,古今を観覧すれば,長嘆するべし。

7、屠柳城
柳城を屠り,功誠は難し。隴塞を越えしとき,路は漫漫たり。北は岡平を越え,但悲風正酸たるを聞く。
?頓の首を授け,遂には白狼山に登る。神武海外を不動のものとして,永く北に患を顧みることなからん。

8、平南荊
南荊の何ぞ遼遼たる,江漢は濁りて清まず。菁茅は久しく貢がず,王師は赫く南征す。劉jは襄陽に拠り,賊たる劉備は樊城に駐屯す。
六軍は新野を廬(いおり)とす,金鼓は天庭を震わせ。劉子面縛して至らしむ,武皇其の成を許す。
許して與其は成り,其の民を撫す。
陶陶たる江漢の間,普ねく大魏臣となす。大魏臣,風に向かいて思うところ新たなり。
自ずと新と思えば,功のとどくこと古人にひとし。
昔虞(帝舜)與唐(帝堯)あり,大魏の得ること與に均し。
多く忠義の士を選び,喉唇と為す。天下は一定し,万世までも風塵無し。

9、平関中
関中を平し,路を潼関に向かう。濁水を渡り,高山に起つ。●韓、馬,群凶を離れ。驍騎を選びて,両翼をたてれば,虜は崩潰し,挙げた級は万億たり。

10、應帝期
帝期に應し,於いて昭らかなり我が文皇,暦を數き天序を継承す,龍は自ずと許昌を飛び。聰明なること四表に昭かなり,恩コは遐方を動じ。
星辰は垂耀となり,日月為に光を重ねる。河、洛は符瑞を吐き,草木は嘉祥を挺す。麒麟は郊野を歩き,黄龍は津梁に遊ぶ。
白虎は山林に依り,鳳皇は高岡に鳴く。考圖は篇籍を定め,功配は上古羲皇。羲皇に遺文無し,仁聖相因りて循り。
期運三千歳,一生聖明君。堯は舜に萬國を授け,萬國は皆附き親しむ。四門は穆穆と為り,教化すること常に神の如し。
大魏は興盛し,與之鄰と成す。
0102無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/01/20(金) 23:15:41.39
11、*熙
和して光行き渡り,君臣コを念じ,天下治まる。帝道を登れば,瑞寶を獲る,頌聲並びて作りなし,洋洋浩浩たり。
吉日高堂に臨みて,置酒して名倡ならぶ。歌聲一に何ぞ紆余たる,笙簧いりまじる。八音諧に、紀綱有り。
子孫永く万國を建て,壽考(長寿)樂しむに央(おわり)無し。

12、太和
惟太和元年,皇帝を践祚す,聖にして且つ仁,コの澤は流布と為る。災蝗は一時絶息し,上天時に雨露を降らす。
五穀は田疇に溢れ,四民相率いて軌度に従う。その事務は信にして清、天下の獄訟を情を以って察す。
元首明,魏家此の如し,どうして太平にならないものか。

まとめサイトに司馬懿の漢詩がありますが、10と同じ文句が出てきますな。
後はまぁ、やっぱ民への哀れみも、自分とこの敗北も書いているわりに、黄巾関係が出てこない事に違和感。
呉が出てこないだけになおさら。
0103無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/01/21(土) 21:18:38.31
長くスレを放置してしまって、すみませんでした。
昨日、北京の故宮博物院展を観に上野に行ってきました。
南宋の皇族で元に仕えた、趙孟頫の筆の洛神賦がありました。
本当はじっくり一字一字を追いたかったのですが、後ろから「早く行けよ」みたいなプレッシャーをかけられて
断念しました。
すごく混雑していて、何度ぶつかられ、押されたことか!
平日だし寒い雪の日だったのに。
二月末に台湾に行って来るので、そっちの故宮博物院にも行き、
このスレで出せそうな話題を探してきます!

>>93
すごく興味ぶかい話題、ありがとうございます。
新版のドラマ三国演義を観ていて、戦のときに「ホウ! ホウ! ホウ!」「(太鼓)ドン、ドン、ドンドンドン!」
とやっているのが印象的でしたが、実際には歌も歌っていたんですね。
紹介していただいたタイトルや本文を見ると、これって、物語で開戦前に将帥が陣頭に出て自国の正当性を主張したのの
元ネタなのかな? と思いました。
「歌と共にあった」のは、やっぱり、歌は人の口に歌われて歌い継がれていくものだし、
文字を書けない民衆の歌が、歌われてからずっと後に本にまとめられているのを見ても
「どれだけ残るものなのか」がわかるし、
政事や祭祀などに活用するにはもってこいだからでしょうね。
近代ヨーロッパでも、ラ・マルセイエーズだとかファシズム国家の軍歌とかありますが、
中国は遙か昔にそれをやっていたのがすごいですね。

ただ、いつも思います。
どうして当時の中国人は歌詞を記録しながら、メロディーを記録することはなかったんでしょうか。
音の配列から、どう歌われていたのかを類推する、ということは今されていると思いますが、
結局答えはわからず、楽府も、韻文として鑑賞するしかないじゃないですか。
楽譜という発想がなかったんでしょうか?


魏の鼓吹曲ありがとうございます。
確かに、黄巾の乱がないのは不思議です。
前王朝の衰微と曹操の華々しい登場を一度に書けて一石二鳥だと思うんですけどね。
辺章、韓遂の乱を書くなら、なおさら黄巾の乱のほうがインパクトがあるのに…
それに比べて、河北平定にはかなり重点が置かれていますね。

歌い方として、「楚之平」、「克官渡」、「應帝期」なんかはすごく勇ましく歌われ、
「舊邦」はあえて兵の悲憤を煽るために余情・悲哀たっぷりに歌われたんじゃないかと想像します。
0104無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/01/23(月) 19:11:33.16
>北京の故宮博物院展を観に上野に行ってきました。
雪の中お疲れ様でした。上野は中身はいいんだけど、混むのが大変ですな。

>二月末に台湾に行って来るので、そっちの故宮博物院にも行き、
いいなー、暖かい島で、ぜひともリアリティ溢れる白菜の彫像をご覧くださいw

>>93
>新版のドラマ三国演義を観ていて、戦のときに「ホウ! ホウ! ホウ!」「(太鼓)ドン、ドン、ドンドンドン!」
>とやっているのが印象的でしたが、実際には歌も歌っていたんですね。

 んー、三国演義を見たことがないので、具体的にどういうシーンか判りませんが。

 ちょいと気になって調べなおしました、楽府詩集鼓吹曲の項から抜粋
「漢楽四品,其四曰短簫鐃歌,軍楽也。黄帝岐伯所作,以建威揚コ、風敵勤士也」
「師(軍隊)功あり、則ト楽を献ずる、社において」
「又孫権は魏武軍を観て、鼓吹を作り而るに還る、此応是れ今の鼓吹曲。
 魏、晉の世、又假諸将帥及び牙門曲蓋鼓吹す,斯則、其時方謂之鼓吹とした」
「漢大駕祠甘泉、汾陰,備千乗萬騎,有黄門前後部鼓吹」
「班超拝長史,假鼓吹麾幢」
「魏、晋之世,鼓吹を給すること甚だ軽く,牙門督将五校悉く鼓吹あり」
「馬上奏樂之意」

 軍楽であるのは間違いない、戦場というか出先(城、砦、陣地)で奏でるのは推測できる。
 孫権が曹操軍を見て鼓吹を作ったのは、単に鼓吹のネタが出来ただけではなく、おそらく曹操軍が鼓吹を奏でていたからでしょう。
 >>103がおっしゃる名乗りの一種、というのはありかもしれません。
 漢代、皇帝や王の軍、上位のものにだけ同行していた鼓吹隊が、魏、晋代になって、より多くの牙門、督将の軍にも同行するようになったと。

 実際に戦中どこまで歌われたか判りませんが、部隊が門から出て行くとき、門で楽人が鼓吹曲を奏で、歌って鼓舞したというのはありかと思われます。
0105無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/01/23(月) 19:40:30.42
>どうして当時の中国人は歌詞を記録しながら、メロディーを記録することはなかったんでしょうか。

 これも言わんとするところが、ちょっと判らないので、知っている内容を挙げてみます。

 まず、最古の楽譜例としては、礼記投壷篇に太鼓のリズムがあるので、楽譜という発想はあったと思われます。
 現存する世界最古の文字譜があるのは日本とされています。東京国立博物館所蔵の国宝琴楽譜「碣石調幽蘭第五」ですね。
「中指を耶臥(斜めに伏)せて●上半寸許ばかりに商を案じ、食指中指〜」(●は読めない)というように、文字で書かれた楽譜です。
ttp://www.emuseum.jp/detail/100229?d_lang=ja&s_lang=ja&word=&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=65&num=4&mode=detail¢ury=
 中国・魏晋南北朝時代、梁末期の弾琴の名手、丘公の作を抜粋、とあります。
 減字譜が発達したのは、唐代の曹なんとか?(名前忘れた)が登場してから。

 さらに、中国の漢詩は、詩のタイトルがそのまま曲調や文字数を指定します。
 中世ごろから詩牌、詩格と言われ、中国の漢詩に同じタイトルが多い理由のひとつです。
 逆に言えば、当時は一定のお約束さえ学べば、楽譜がなくてもある程度弾くことは可能だったのではないかと。
(まぁ、このお約束が凄いんですが。琴だけでも琴首琴尾額承露臨岳軫池起項肩頸腰冠角龍齦雁足徽、
音の散按泛走、吟の長短略細定遊走蕩綽注急緩少雙落指飛、露鋒起筆蔵鋒終筆逆鋒提頓顫筆転鋒回鋒……
 中国でもこのお約束をマスターできた人は少ないようです)

 以上のことから、

・漢代末期から三国時代は、音楽史の中でも、まだ楽譜が発達する途中にある
・ある程度のお約束を学べば、いちいち楽譜にする必要が無かった
・基本的に楽の演奏は楽人集団によって受け継がれたもので、集団外へ伝え残す概念が希薄
・戦乱で、元々少ない楽譜が、完全に失われた

 のではないかと、考えます。
0106無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/01/23(月) 19:52:52.88
 追記。

 漢代になると音楽は色々な変形をとげますが、琴などは本来、無差別的に聞かせるものではありません。
 香を焚き心身を清め、世俗から離れ、独りまたは知音なる友と、琴を通じ己の人格を完成させることが本来の目的です。
 さらに文字譜は演奏の自由性が高いのですが、演奏者は技術だけでなく、作曲や編曲の技量も要求されるようです。
 少なくとも、漢詩なり文字譜なりをもとに、奏者が自分なりの音楽を奏でることを前提にしています。

 だから奏者を慰めうるのは、奏者自らが弾き奏でる琴のみ。
 同じように、魏武帝の志操を完全に演奏できるのは、魏武帝本人のみ。
 当時一流の楽士による、今や手に届かない、神話の音楽。
 再現も大切ですが、それもまた歴史の醍醐味だと、個人的に解釈しています。

 ……長々とうろ覚えで書いたけど、記憶とか間違ってたらスマソ。自分でも調べてみてくださいな
0107無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/01/29(日) 23:30:12.65
楽譜が残されていない理由について、追記。
まず、>>105で挙げた、お約束が戦乱で消滅した説。蔡文姫が復元した蔡?の作品も、現代どんだけ残ってるか判らんしな。

次に、楽府詩集から曹丕について
>‘《短歌行》“仰瞻”一曲,魏氏遺令,使節朔奏樂,魏文製此辭,自撫箏和歌。歌者雲“貴官彈箏”,貴官即魏文也。此曲聲製最美,辭不可入宴樂。

曹丕は自分で作った詩を楽人に歌わせ、自分は伴奏していた…でいいんかしら?
曹丕の場合、詩に他人視点のものが多いのは、他人に歌わせることを前提にしているんじゃないかって話もあるし。
この場合、曹丕が曲を残せていなければ、どうしようもない。

最後に曹操。自分が別のところで挙げた訳の引用になるけど

《宋書 志第十一 樂三》
> 無弦節,作伎,最先一人倡,三人和。魏武帝尤好之。時有宋容華者,清K好聲,善唱此曲,當時特妙。自晉以來,不復,遂?。

てけとー訳:
件奏はなく、伎人だけが歌う。最初に一人が歌いだし、三人が和する。魏武帝はこの形式をもっとも好んだ。
(略)
晋よりこのかた、復興されず、遂には絶えた。

「楽府詩集」相和歌
>「古曰章,今日解,解有多少。當時先詩而後聲,詩敘事,聲成文,必使志盡於詩,音盡於曲。

てけ訳:
 いにしえに言う"章(一章、二章〜)"というものは、今日の"解(一解、二解〜)"である。"解"には多少がある。
 当時は先に詩があり、後に声があった。詩とは叙事(事柄を述べる)であり、声とは成文(文を成す)である。
 必ず、志は詩において全うされるものであり、音は曲において全うされるものである。

以上のことから推測として、
・昔の考え方として、詩と曲は別々だった。
・曹操は彼の作品にみられる"歌以詠志"などから、詩を志の発現体として重視していた。
・そのためか、曹操は詩の発表形式として、余計な伴奏なしを好んだ。

で、曹操の漢詩に楽譜がない理由のひとつとして。
そもそも伴奏をつけないので、楽譜に記すような曲自体がなかった説をあげておく。

で、思うんだが、曹丕が伴奏メインなのは判らんが、曹操の声ってかなり良かったんじゃなかろーか。
音楽は良く判らんが、歌の技巧だけじゃ評価されないんじゃないかと、まとめサイトを見てたら、
オペラ歌手ばりに歌い上げる竹中直人を連想した。
0108無名武将@お腹せっぷく
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2012/01/29(日) 23:47:04.47
掲示板に向かって一人書きなぐるのも空しいので、曹操ついでにつ( ´・ω●)?投げて帰りま
(芸文類集74巻 弾棋の項を意訳。誤訳御免)

晋夏侯惇、弾棋賦にて曰く
深宇の美しきこと以って舒情たり。衆芸にまみえんこと以って広く?(たの)しむ。
奇巧を観ること、これ瑰麗。偉なるかな弾棋の殊妙
碁盤は則ち?山の宝 華陽の石
あるいはうねりくねる龍藻 あるいは班駮を帯び分け
あるいは玄黄に発色し あるいは鱗白のように純白
ことごとく魯匠が精魂をこめ 工心を傾け、彫り削ったもの
形は方隆にして矩に応ず 萌え輝くこと霞を以ってたちまち鑠(よわ)め……

 とりあえず前半だけ。後半は実際に遊んでいる様子の描写といったところかしら
 弾棋はおはじきの一種で、魏文帝が大好きだったらしい。日本でも平安時代は遊ばれてました。

 種を明かしますと、ここの夏侯惇は、夏侯淵の子孫の夏侯淳ではないかと言われています。
 インターネットアーカイブにうpされている芸文類集だと、もろに「惇」ですが、
 書体によっては、淳のさんずいが小の字に見えるんで、惇と書かれているのだと。
 詩も6言ですし、まぁ間違いなく魏後期〜晋代の、おそらく夏侯氏による作品でしょう。
 ただ漢詩はどーも改変の後が見られるので、ま、ちょっとは覚悟しとけってことも無きにしもあらずはべりいまそかり。

 しっかし、三国志って人気あるようで全然人気ねぇな。曹操の秋胡行じゃねぇが、ただ物語だけが一人歩きしていく。
0109無名武将@お腹せっぷく
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2012/01/30(月) 22:51:29.46
芸文類聚七十四のおはじき項といえば、
曹丕と丁ヨクの弾棋賦がいっしょに収録されてるのがおもしろい。
史実だと険悪そうなお二人さんなんだけど、共通趣味なんよねww
運命の糸が多少、もつれれば良い友人関係になれたのかもしれないのにw
0110無名武将@お腹せっぷく
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2012/01/31(火) 22:49:46.48
あるあるw
親父さんが囲碁強かったから、周辺で育った連中も碁石を使っての遊びは多かったんだろうけど、
>彈棋始自魏、宮内装器〜
とあるから、あるいは碁で親父に勝てないガキ同士、
丕「俺らが親父に勝てる遊びキボン」
丁「おはじきどーよ」
丕「ソレダ!! m9(・∀・)ビシッ」……という経緯により(PANG)

曹丕と丁ヨクのおはじきに限らず、詩での古典引用に似たような傾向があったりすると、
「お前ら仲いいなぁ」と言いたくなることも、しばしばw
それだけに、一見仲よさそうなコンビが史書で仲が悪いように書かれていると、哀しくもある。
0111無名武将@お腹せっぷく
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2012/02/02(木) 07:58:02.20
芸文類聚三十四にも曹丕と丁ヨクの妻の寡婦賦が一緒に収録されてます。
きっと二人は家族ぐるみのマブダチっすよw
0112無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/02/03(金) 00:53:14.14
曹丕の寡婦賦の題材となった阮ウが死んだのが212年。
丁ヨク妻が同じ題材でつくったとは限らないけど
たぶん、後継者争いはまだピークじゃなさそうだし、
この頃はおはじきつながりで丁ヨクとも仲がよかったのかもw
たしか曹丕は典論で「俺のおはじき天下一!若年のころは弾棋賦までつくったんだぜ!」
と自慢していたから、青春時代に丁ヨクとおはじきの賦を競作していた可能性もありそうww
0113無名武将@お腹せっぷく
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2012/02/03(金) 01:02:22.33
清河公主の婿候補が丁儀でなくて、丁ヨクだったら後継者争いも
うまくいったのではないかと妄想してみるww

@兄貴と違って容貌が麗しいと魏略に書いてある丁ヨク。
  曹丕の「アイツはすがめだから」という幼稚な拒絶理由も生まれない。
A曹丕を根に持つ第一理由がなくなるので、丁儀の悪質なロビー活動も縮小。
B曹丕即位後の一族イジメもやんわりになる。長生きする曹彪あたりの権力がつよくなりそう。
C司馬一族の曹魏乗っ取りが回避できる。ヤッタネ(・∀・)!!

導きだした回答→曹魏が滅んだのは曹丕が丁儀の婚約をくだらぬ理由で破談にしたのが原因。
まぁ、現実は@の段階で跡目争いが一気に曹植有利に傾きそうな気がするんだけど…w
0114無名武将@お腹せっぷく
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2012/02/03(金) 01:05:26.57
あと>>111の寡婦賦が気になったので調べてみたら、寡婦賦の直上に
曹丕の悼夭賦なるものが載っていました。

魏文帝悼夭賦曰.族弟文仲.亡時年十一.母氏傷其夭逝.追悼無已.
予以宗族之愛.乃作斯賦.氣紆結以填胸.不知涕之縱.時徘徊於舊處.(略

十一歳で亡くなられた族弟・文仲て誰なんでしょうね。気になる。

芸文類聚三十四
http://zh.wikisource.org/wiki/%E8%97%9D%E6%96%87%E9%A1%9E%E8%81%9A/%E5%8D%B7034
0115無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/02/18(土) 16:53:30.56
一見、曹休(文烈)の系統かなって思いますけど、どうなんでしょうな。
曹操の子供って「子〜」って字が多いけど、それ以上に不明なのが多いとゆー。

古詩十九首を調べていて思ったのですが
・三曹の作品の元ねた?っぽい作品が多くみられる
・引用の方法に違いがある?
 曹操、曹植は「規定の文字内に気持ちを込めきれないから、単語を引用して、解説を省略するわ」みたいで、
 曹丕は、「おい作者! 歌う楽人が可哀相だから、もっと救いのある歌にしてやれお!」みたいな…

例えば、其の一には「越鳥巣南枝」という一文があり、曹操の短歌行では「烏鵲南飛。繞樹三匝、無枝可依」とある。
つまり「鳥は南の枝に巣くう」という考え方の元ねた、ということです。

で、其の六「渉江採芙蓉」は、「芙蓉蓮華を採り、美しく着飾ったところで、花を贈りあうべき夫は遠方に旅立ち、
同じ喜びを抱きあえる両親もなく、花はただ枯れ散って、この美貌も老いさらばえるのみ」という内容。

其の六をベースにした曹丕の「秋胡行 其の三」は、「芙蓉蓮華を採り、誰に贈ろうか。庭に居る、あの方にしよう」
花を送る人が、目前に居る。そんな救いがありますな。

数をこなしていないんで、どこまでどうなのか言い切れませんが…
0116無名武将@お腹せっぷく
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2012/03/26(月) 17:02:47.48
そういや、原文の引用ってどうしてる?

1.本から転載
2.ネットから引用
3.自分で古典を探して入手
0117無名武将@お腹せっぷく
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2012/03/27(火) 01:23:17.65
>>116
1と2かな

古典を原書で読むだけの力はないので現代の活字に頼りっきり
基本となる知識そのものは本からだけどさすがに手打ちは面倒なのでコピペする
ネットで探したものを手持ちの本と突合して字をいくつか修正するけどね
0118無名武将@お腹せっぷく
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2012/03/27(火) 22:48:13.08
私は2で、国会図書館、インターネットアーカイブ、維基文庫、台湾中央研究院の4つがメイン
維基or台湾からコピペして、国会図書館とアーカイブで付き合わせて修正というやり方

これでサイトをやってたんだが、
1.国会図書館のサイトで公開されているデータは、著作権が切れていても、サイトへ転載するとき申請がいるのか?
2.問い合わせ
2.3週間たっても返事来ず

なもんだから、ひょっとしたら違法部分があったのか? 他に何か方法を考えたほうがいいか?と思ったもんで。
結局返事が来て(「翻刻」に該当しない限り、申請不要とのこと)無駄になったけど、著作権法って、まじめに考えると微妙に頭抱えるぜ
0119無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/05/03(木) 09:51:57.55
何晏の身になって漢詩を作ってみたり。
ちょっと曹家をバカにするような感じで。


『壺中天』

何晏

ツァオ グー グァン イー バン
操  觚  官  一  邦

ツァン イー ヂー ウェイ チィェン
参  議  徴  微  銭

フーア ワン  ピー ピー イェ
鶴  望  丕  丕  業

チォン ウェイ フー ヂョン ティェン
称  為  壺  中  天


○操觚して………文章を作って
○一邦に官たり………一国の官職に就き
○参議して………政治を執って。参議朝政して
○微銭を徴す………僅かな金を稼ぐ
○鶴望す………鶴のように首を長くして待ち望む
○丕丕たる業………大いなる働き
○称して為す………〜と言う。〜と呼ぶ。
○壺中天………きわめて狭いことのたとえ

■詩意
世の中の人間は、文章を作しては一国の官吏となり、
参議朝政しては僅かな身銭を稼ぎ、
それでいて、自分が大いなるいさおしを収める日を、
鶴のように首を長くして待ち望んでいる。
何と滑稽であろう。
このような了見は、壺中の空間を指して天だというように、非常に狭いと言わざるを得ない。
0120無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/05/05(土) 22:41:31.23
一時は文学で身をたてざるを得なかった何晏の作品にしては、なんとも自虐的だなぁ
しかも義父のいみなを堂々と使った作品では、人前にはまず出せない

どんな状況の時に、どんな心境で歌ったと想定してるんだ?
0121無名武将@お腹せっぷく
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2012/05/28(月) 21:53:54.53
>>113
遅レスになって申し訳ないが、その姉君の婿選びのエピソードって面白いよね
個人的に気になるのが、曹操がお気に入りの曹植ではなくわざわざ曹丕に尋ねてるところなんだよね
丁儀の友達の曹植だと贔屓目に判断するかもしれんが、曹丕なら公正に判断するかもしれんとでも思ったんだろうか?
もしくは一応子供たちの中で一番上の兄貴だったから?

とはいえ、腹違いとはいえ姉の婿選びなんてえらい難しい問題についていきなり質問されて曹丕も驚いたんじゃないかな
答え次第では自分の素質どころか曹家全体の問題に発展しかねないし
だから親戚の夏侯家の若い未婚のやつのがいいんじゃないんですかー?みたいな答えになったんじゃないかと
内心「会ったこともないような男に姉上くれてやるとかこの親父どんだけ人材マニアなんだksg」とか思ってたりしてな
0122無名武将@お腹せっぷく
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2012/05/29(火) 00:03:56.11
>>121
単純に曹丕が後継者だから
後継者が家についての判断を求められるのは至極当然
元々後継者はほぼ確定してた
それを引っ繰り返そうとしたもので老境に入った曹操が判断を迷った時に
ロビー活動が大々的に行われて効果が出た
それ以前は普通に曹丕が後継者扱い

それと丁氏は昔から曹氏と仲良くやってるご近所さん
会った事ないどころか夏侯氏と同じような身内に近い存在
曹氏政権の準皇族として丁氏と夏侯氏の争いの結果、夏侯氏が勝って丁氏が消滅したんだよ
0123無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/05/29(火) 00:49:01.70
>>122
ちくまの曹植の伝の該当箇所読んでみたんだけど、曹操が丁儀が優秀だという噂を聞いて「顔も見ないのに」丁儀を後継者にしようとしたって書いてあるんで
曹操は本当に噂でしか知らないで面識が全くなかったってことだと思ってたわ
まぁ当時は噂が一番大事な情報ツールだったろうから、噂だけで人を雇ったり結婚したりなんでザラだったんだろうけど・・・

あと少し気になったこと
この注だと曹丕のことを五官中郎将って呼んでるから中郎将就任の211年から太子に立てられる217年の間の出来事ってことでいいのかな?
そのとき公主っていくつぐらいだったんだろう・・・曹丕より10歳くらい年上の曹昂の妹だから1〜9歳くらい上のはずで、211年だと曹丕は24歳
この当時って権力者の娘はかなり早く結婚するイメージなんだけど、その基準だとだいぶ晩婚だったのかなと気になった
0127無名武将@お腹せっぷく
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2012/07/24(火) 01:28:27.78
蒿里行 曹操

關東有義士,興兵討群凶。
初期會盟津,乃心在咸陽。
軍合力不齊,躊躇而雁行。
勢利使人爭,嗣還自相?。
淮南弟稱號,刻璽於北方。
鎧甲生?蝨,萬姓以死亡。
白骨露於野,千里無?鳴。
生民百遺一,念之斷人腸。

蒿里行 曹操
関東に義士有り、兵を起こし群凶を討つ。
初めに盟津に会して期し、乃ち心は咸陽に在り。
軍は斉しく力を合わせず、躊躇而して雁行す。
勢と利は人を争わせしめ、還りて嗣ぎ自ずから?(ころ)し相う。
淮南の弟は号を称し、北方に於いて璽を刻す。
鎧甲は?蝨(きしつ)を生じ、万姓は以って死亡す。
白骨は野に於いて露(あらわ)れ、千里に鶏鳴は無し。
生きる民は百に一つを遺し、之を念えば人腸を断つ。

レクイエム 葬送
関東の義士は挙兵して多数の凶賊達を討とうとした。
初めは盟津に集まって計画を練ろうとしたものの、
(集まったらもう誰もそんなことは考えず)長安を攻略して自分が天下人になることを考えていたのだ。
軍が集まってみると皆は協力もせずに、
お互いを牽制し合って当初の目的とは全く違ったことをするようになった。
権力や利益によって人が争うことになり、結局すぐに殺し合いが始まったのだ。
淮南に勢力を張った袁術は帝号を名乗り、北にいる袁紹は玉璽を勝手に作って劉虞を擁立し始めた。
(戦乱が長く続くので)(鎧や甲を兵士がずっと着っ放しで)鎧や甲にはシラミが沸き、
万民は死んだり逃げてどこかに行ってしまった。
死体は野ざらしで誰も埋葬することはなく、千里の遠くまで(人家には大概鶏がいるのに)鶏の鳴く声もない。
生き残った人々は精々百人に一人と言ったところであり、このことを考えると私は断腸の思いだ。
0128無名武将@お腹せっぷく
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2012/07/26(木) 19:56:24.77
これだけ読むと、奸雄と呼ばれた人とは
とても思えないお (´;ω;`)
0130無名武将@お腹せっぷく
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2012/07/26(木) 21:24:58.10
やっぱ曹操様は部下思いですねぇ
自分のために命を張ってくれる人たちへの愛情はすごい強い人だなぁ、と


そういやこの間芸文類聚で曹植が書いた『黄初六年令』って文章を見つけたんですけど(曹植の仲達宛の手紙とかも発見)
芸文類聚だと省略されてる部分が多そうだなぁ、と思ってネット漁って他の部分を探して補完してみた
(全文載ってる本もあるらしいんですが自分の手元に無いので…一部変換できない漢字は現代日本の漢字とか同じ意味の他の漢字とかに変更してます)


黄初六年令曰、 
吾昔以信人之心,無忌於左右、深爲東郡太守王機、防輔吏倉集等任所誣白、獲罪聖朝。
身輕於鴻毛、而謗重於泰山。ョ蒙帝主天地之仁、違百寮之典議。赦三千之首戻。
反我舊居、襲我初服、雲雨之施、焉有量哉。
反旋在國、ノ門退掃、形景相守、出入二載。
機等吹毛求瑕、千端萬緒、然終無可言者。
及到難,又為監官所擧,亦以紛若、於今復三年矣。
然卒歸不能有病於孤者,信心足以貫於神明也。
昔熊渠、李廣,武發石開、鄒子囚燕、中夏霜下。杞妻哭梁、山為之崩。固精~可以動天地金石、何況於人乎。
今皇帝遥過鄙国,曠然大赦、與孤更始,欣笑和楽以歡孤,隕涕咨嗟以悼孤。
豊賜光厚,[言比]重千金,損乗輿之副,竭中黄之府,名馬充厩,駆牛塞路。
孤以何徳、而当斯恵。孤以何功、而納斯。
富而不吝、寵至不驕者、則周公其人也。
孤小人爾、深更以榮為戚。何者.將恐簡易之尤、出於細微、脱爾之愆、一朝復露也。
故欲修吾往業、守吾初志。欲使皇帝恩在摩天、使孤心常存入地、將以全陛下厚コ、究孤犬馬之年。
此難能也、然固欲行衆之難。
詩曰、コ軽如毛、鮮克舉之。此之謂也。
故為此令,著於宮門,欲使左右共観志焉。


「犬馬の年」という言い回しの典拠として結構有名らしいこの文章ですが
全体の意味としては、曹丕が黄初6年に曹植の国に行幸して泊まってった時のことを回想しつつ、曹丕の情け深さや徳の高さを讃えている文ってことでいいんですかね?(全訳できるほど漢文スキルが無い)
「欣笑和楽以歡孤,隕涕咨嗟以悼孤。」のところを読んでちょっと驚いてしまいました
日本語訳すると「(曹丕兄上は)楽を和して楽しそうに笑い私といることを喜び、涙を流し嘆息し私の境遇を哀れんだ。」って感じでしょうか
やっぱり、文帝陛下はただの冷酷ドSじゃないんだろうなぁ、としみじみと思いました(私の読みが間違ってる可能性もありますが…)
この半年後に曹丕が死んでしまうことを考えると、曹植の『文帝誄』での嘆き悲しみの激しさの理由がなんとなくわかったような気がしました

0131無名武将@お腹せっぷく
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2012/07/27(金) 20:55:57.96
>>127うp乙
そういや、こっちのまとめサイトには未掲載なんだな。意外だった

董卓の移転した長安がでているが、長安は当時の呼び方として西京(王粲)等が使われ、咸陽を使う意味合いは薄い
また、連合軍が成立した当時、董卓はまだ洛陽にいた
ではなぜ、ここで咸陽を使っているか?
咸陽といえば秦の都であり、前漢の成立期、反秦連合が咸陽を攻めた。そこで先に入った劉邦が、やがて漢を建設した
部下や民衆思いというだけでなく、「我こそが現代の劉邦となり、乱れた時代を正さん」とする野心の詩、という分析も出来る。実際、曹操は董卓を追撃しているしね

咸陽という単語を使うことで、古代と現代を重ね合わせ、作品に含みをもたせる
曹操の詩はそういう「一見こう、しかし裏は……」という作品がちょこちょこある
0133無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/07/27(金) 21:12:29.81
>>130
乙。よくここまで補完したな
書籍によって使われている漢字がちょっと違うんだが、ここでは無視してこちらなりの分析を

私は昔は人の心を信じていた、左右を忌むことはなかった。
東郡太守の王機、防輔吏の倉集などによる任務先での無実の罪で、罪をえてしまった。
身の軽さは鴻毛、そしりの重さは泰山。ョ蒙というのは敬語で、「幸いをこうむる」といったニュアンス。幸いにも帝主の天地を覆う仁を受け、百寮の典議を違える。「赦三千之首戻」てのが微妙に判らん。連座で罪をこうむった連中が許された?
我旧居に帰り、我初服を襲う、雲雨の施しに、限りがあるでしょうか(いや、無い)。
国に戻り、門を閉ざし(人を?)払い、このままにして、二年たった。
王機たちは毛を吹き瑕を求め、雑多なことを言いふらし、しかしついに言うべきこともなく。
んでまた監官に何か言われて、3年たったんかな?
「然卒帰不能有病於孤者,信心足以貫於神明也」てのは病気と称して篭ってたんか?

昔熊渠や李広は,武を発し石をも貫きました。(熊渠は夜にトラと見間違えて石を撃ちぬいた、李広も虎に似た石を弓矢で撃ちぬいた)
鄒子は燕の恵王に仕えた、五行思想で有名な鄒衍かな? 讒言のため捕えられたが、天を仰いで慟哭したところ、夏五月に秋の霜がおりた。
杞梁の妻は夫のために泣き、ゆえに山は崩れた。固き精~は天地や金石をも動かすもの、ましてや人を動かせることは言うまでもない。
今、皇帝は遥かに鄙国を過ぎ,広く大赦してくださいました、孤の古きをあらため?,欣笑和楽を以って孤を歓待し,隕涕咨嗟を以って孤を悼みました。
中黄之府(皇帝の在庫)は尽き,名馬は厩に満ち,駆牛は路をふさぐ。
豊かな財産を賜り、千金を給与してくださり([言比]は資ともする)、
孤に何の徳があって、このように恵んでくださるのか。孤に何の功があって、このように収めてくださるのか。
富を惜しまず、寵をえて驕らぬものは、すなわち周公その人である。

詩曰:「コ軽如毛、鮮克舉之(徳のかろきこと羽毛の如し、良く之を挙げるは少なし)」は詩経の大雅。徳は言うのは簡単だが、実行するのは難しいと

「故為此令,著於宮門,欲使左右共観志焉」てのは「以上、宮門にて記しますので、どうぞご覧ください」という感じで、本文というか末尾だな

……どうも真面目に分析すると時間がかかるんで、とりあえず抄訳すると↓こんなか

昔は純粋だったから、変なやつに冤罪をくらってヒッキーしてました。
うるさい連中にあれこれ詮索されたけど、陛下に無実といわれて嬉しいです。
世の中、やっぱ神様ってのはいるもんですね。
昔から偉い人がいましたが、陛下は古の偉人にまさるとも劣りません。
なんか許されるだけじゃなくて、色々して貰っちゃってすみません。
昔から言うは易し、行うは難しいといいますが、難しい行いができる陛下はやっぱスゲーです。
兄孝行を尽くしたいのに、何もせんで年月だけ重ねてしまい情けないです。
重ね重ねお礼を申し上げます、皆様にもよろしく。

で、ここの人物が「王機」で正しいならば、王昶の兄など同姓同名が居るんだが、同一人物なんだろうか?
他だと「玉」を使っているケースもあるんで不確定だが
0134無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/07/27(金) 21:29:33.62
>>132
ぁ、そっち(韻)の視点を忘れてた。指摘感謝します

文字化けは困ったなー。現代の字に直すのも面倒だし、どっか原文へのリンクで済ませたくなるのココロ
0136無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/07/27(金) 21:55:21.24
>>135
つ【ttp://zh.wikisource.org/wiki/曹子建集/卷八#.E9.BB.84.E5.88.9D.E5.85.AD.E5.B9.B4.E4.BB.A4】はダメ?

あそこは色々と助かるねぇ
OCA使ってるんだかで誤字脱字欠損があるのが玉に瑕だが
0137130
垢版 |
2012/07/27(金) 23:30:34.68
補完&訳ありがとうございます!
抄訳がめっちゃ詩聖様らしくて笑ったwww

曹植伝だと曹植への弾劾といえば、黄初2年の灌均による使者脅迫の件についてのものぐらいしかありませんが
どうもこの令に書かれてるのは曹植がけん城侯orけん城王(変換できない…)の頃のものっぽいので黄初2年の国替え後〜黄初3年の頃みたいですね
あと黄初4年の参内の記述の注で、曹植が自分に罪があると考えて密かに参内し許しを請うた話がありますけど
「王機たちは毛を吹き瑕を求め、雑多なことを言いふらし〜」はこの事なのかなぁ、と推測

王機については王沈の父の王機が東軍太守だったという記録が晋書にあるらしいのですが、他にも同姓同名は多そうなので…
0139無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/07/28(土) 21:11:39.80
>>137
黄初五年令はどんなんなってます?

この頃は諸侯王を県王に降格させたり、かと思えば「反逆と大逆罪以外はチクるな嘘つくなゴルァ」詔が下ったりしてたような
史書に明確に記されていないだけで、皇族の扱いを巡っても、かなり激しい政争があったんだろうね
0140無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/07/28(土) 21:28:19.64
>>139
黄初六年令と一緒に芸文類聚に収録されてたっす
でもこっちも省略部分とか多そうなんだよなぁ…とりあえず置いときますね
白丸と黒丸は判読不能文字かな?


魏陳王曹植黄初五年令曰.
夫遠不可知者天也.近不可知者人也.
傳曰.知人則哲.堯猶病諸.
諺曰.人心不同.若其面焉.唯女子與小人為難養也.近之則不遜.遠之則怨.
詩云.憂心悄悄.慍于群小.自世關l.或受寵而背恩.或無故而叛.
○本集叛上有入字.違顧左右.曠然無信.大嚼者咋斷其舌.右手執斧.左手執鉞○文館詞林六百九十五二字無.
傷夷.一身之中.尚有不可信.況於人乎.唯無深瑕潛釁.隱過匿.乃可以為人.
諺曰.穀千駑.不如養一●.○文館詞林作驥.
又曰.穀駑養虎.大無益也.乃知韓昭使藏弊?.良有以也.使臣有三品.
有可以仁義化者.有可以恩惠驅者.不足以導之.
則當以刑罰使之.刑罰復不足以率之.則明所以不畜.故唐堯至仁.
不能容無益之子.湯武至聖.不能養無益之臣.九折臂知為良醫.
吾知所以待下矣.諸吏各敬爾在位.孤推一概之平.功之宜賞.
於疏必與.罪之宜戮.在親不赦.此令之行.有若皎日.於戲群司.其覽之哉.
0141ジャイアニズム
垢版 |
2012/07/29(日) 08:20:40.20
このスレは無用。
なぜならば、乱世に文学など無用だから。
0142ジャイアニズム
垢版 |
2012/07/29(日) 12:48:06.54
乱世に文学など無用なのだ。
こんな糞スレを立てたのは誰だ!
0143ジャイアニズム
垢版 |
2012/07/30(月) 20:12:44.17
文学より兵学だ
0144無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/01(水) 23:08:44.20
そんなら魏武注孫子を全文翻訳してくれ。以上、無視する。

黄初五年令の自己流分析。分析が間違ってたら指摘願います。

夫遠不可知者、天也.近不可知者、人也.
#遠きにして知るべからざる者は、天である。近きにして知るべからざる者は、人である。
傳曰.知人則哲.堯猶病諸.
#尚書・皋陶謨「知人則哲.能官人」人の品行や才能をこまかに観察することができるもの、即ち賢人
#論語憲問篇「尭舜其猶病諸」伝説の聖人である尭舜でも難しい
諺曰.人心不同.若其面焉.
#『春秋左氏伝』 「人心之不同也、如其面焉」人の心はそれぞれ違う。人の顔とおなじ
唯女子與小人為難養也.近之則不遜.遠之則怨.
#論語陽貨篇「唯女子与小人、為難養也、近之則不遜、遠之則怨」
#『ただ女子と小人が、取り扱いにくい。これを近づけると礼を失い傲岸不遜、疎遠にすると恨まれる』
詩云.憂心悄悄.慍于群小.
#詩経国風の柏舟。まとめサイト
ttp://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/others/shikyou_hakusyu.html
#憂いしょんぼりする。「群小」の状態に対し腹を立てる
自世關l.或受寵而背恩.或無故而(入)叛.違顧左右.曠然無信.
#世間の人は寵愛されても裏切り、あるいは理由もなく叛乱し、左右に違顧し、曠然として信無し
大嚼者、咋斷其舌.右手執斧.左手執鉞。
#咋は「どのように」。大嚼者はよく噛みつく者、罵詈雑言しか言わない者といったニュアンス?
#口で治世を乱すものは、その舌をどのように断つべきか。右手に斧をとり.左手に鉞をとるのだ。
傷夷.一身之中.尚有不可信.況於人乎?
#傷夷(けが)、一身の中にあり、なお有にして信じられないもの、いわんや人を於いてをや?
#怪我や病巣が体内にあっても当人は案外気づかなかったり、信じなかったり。まして組織内の人についてはなおさらだ、という感じか
唯無深瑕潛釁.隱過匿愆.乃可以為人.
#深瑕は深い裂れ目、深い傷。釁は生贄とか仲たがいとか。
#見えるような傷ではなく見えない(生贄を求め)仲たがいをつくり、瑕疵を隠し過ちを匿し、これこそが人のありようだ?
(君上行刀鋸于左右耳,前後無其人也。)
#この行は出典によってはあったり、無かったり。
諺曰.穀千駑(馬).不如養一驥(驢とも).又曰.穀駑養虎.大無益也.
#穀は谷とも書く。養育の意。驥は驢とも書く。
#千の駄馬を養ったところで、一の良い駿馬を養っていることにはならない。同じように虎を養ったところで無益だ。

続く
0145無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/01(水) 23:11:48.95
乃知韓昭(侯之)使藏弊?.良有以也.使臣有三品.
#韓昭侯は戦国七雄の韓、釐侯。この人も酒の飲みすぎで遅刻した逸話あるっぽい
有可以仁義化者.有可以恩惠驅者.(此二者)不足以導之.
#仁義で人を教化する者、恩恵で人を動かす者、この二者は人を導くには足りない。
則當以刑罰(使之).(刑罰)復不足以率之.則明所以不畜.故唐堯至仁.
#刑罰を用いるべきだが、刑罰もまた人を率いるには足りぬ、すなわち明ゆえに人を育てぬ。ゆえに唐堯は、敢えて「仁」という手段もとった。
不能容無益之子.湯武至聖.不能養無益之臣.九折臂知為良醫.吾知所以待下矣.
#不能容:容るること能わず。受け入れられず。
#無益之子は不肖の子、愛していない子供といったニュアンスの方が近い。《墨子・親士》 か?
#九折〜:たくさん臂を折る=多くの治療方法をためし、みずから良医となること。多くの経験を積むこと。
#『楚辭』屈原・九章の惜誦「九折臂而成醫兮、吾至今而知其信然。」
#愛さぬ子は受け入れず、ゆえに 湯武(殷の湯王、周の武王)は聖となった。
# 無益の臣は養わず、九たび肘を折れば醫者となることを知る。我は知るゆえに、待つを「下」とする。
諸吏各敬爾在位.孤推一概之平.
#推は平らにするとか。概ってのは古代の糧食を量る枡の木。派生的な意味として、標準。
#気力が尽きたのもあって、このへんのニュアンスは不明
功之宜賞.於疏必與.罪之宜戮.在親不赦.
#功を賞賛するときは些細なことでも褒め称え、罪を裁くときは、親がいても赦すべきではない?
此令之行.有若皎日.於戲群司.其覽之哉.
#この令を行えば、…駄目だ、集中力尽きた。群が戯れていても太陽のように睥睨できる、管理できる?
#皎日は明るい太陽。古代は誓いの言葉として多用されている
0146無名武将@お腹せっぷく
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2012/08/01(水) 23:46:34.98
 穴埋め部分は、文館詞林から行われたものを、維基文庫から又引き。
 諺の出典がいくつか不明だが、客家の諺に「養子不教不如養驢、養女不教不如養豬(男の子を養うも教えなければロバを養うのと同じ,女の子を養うも教えなければ猪を養うのと同じ)」というのはある。
 細かい部分は正直判らん。詳しい人に降臨願いたい。

 ただ、表立った内容は、賞罰に関する意見だと思う。
 罵詈雑言しか言わないものは、組織の病巣である。組織を運営するには、人格や報酬だけでは駄目だし、罰だけでも駄目だ。
 人間の体に巣くう病巣を手術で切り取るように、正しい人材を見極め、飴とムチを上手く使い分けて、という感じかな? 芸文類集でも、分類は刑法の項目だし。

 で、作品というのは、たいてい作者が置かれた当時の状況が反映される。特に「罪を得て」苦労している人物が、罪について論じるというのは、無視できない。
 この作品を逆にみれば、ほぼ曹植が置かれた(と本人は認識している)環境であり、作者なりの現状改良案かな。
 組織を食い潰す無能の群に殺されるのを待つよりは、組織を正すため、何度でも文を出そう。理解されないならば、いっそ魏国のために殺してくれ、という感じの。

 で、父にせよ兄にせよ、曹植を理解していた。
 曹操の(一時とはいえ)溺愛っぷりは酷いし、曹丕も曹丕なりに理解していたからこそ、(多分この作品が)黄初六年令の内容に繋がるんだと思う。
 しかし曹丕が死ぬと、曹植は単に家族を失うだけでなく、いざという時には庇ってくれる理解者が居なくなってしまう。
 それは残された家族としても、芸術家としても、政治家としても辛いわな。

 ここまで書き連ねて、実際の内容が分析と正反対だったら大笑いorz
0147140
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2012/08/02(木) 00:03:33.26
>>146
ありがとうございます!

黄初五年に曹丕は結構大事な法令を出していて
一つ目は諸王を県王にするというもの、もう一つは有名な謀反・大逆以外の密告禁止
ココらへんもこの曹植の令につながってくるんじゃないかなーと思いました(刑罰や家臣への君主としての接し方についてなので)」
暗に曹丕の周りにいる側近たちを批判してる?ように読める気もしましたが…

曹叡の頃になると曹植が積極的に上奏してたのは記録に残ってますけど、曹丕の頃だとそういう記録ってあんまりないんですよね…
周囲(曹丕も含む?)の目が厳しくてそんな政治的な意見を述べることが一切出来なかったのか
曹叡の頃は公式の上奏として意見を出していたから記録が残ったけれど、曹丕の頃は私的な手紙として出してたので残らなかったかはわかりませんが
0148無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/05(日) 10:34:47.48
両方とも5年だったのか。そのへん疎いんでちと調べた。

年表:弟の方
●黄初1年(220年)
植與諸侯並就國(ここで)。作品『請祭先王表』(父を供養したい)、『上九尾狐表』(瑞兆の九尾狐が出た)?
●黄初2年
灌均、「劫脅使者」を上奏。植、爵位を安郷侯に落とされる、同じ年のうちに□城侯に改封(正史版)。
(□=ケン。以下同じ ttp://www.weblio.jp/content/%E9%84%84)
魏書載詔曰:「植,朕之同母弟。朕於天下無所不容,而況植乎?骨肉之親,舍而不誅,其改封植。」+王機らの告発?2年隠遁?
●黄初3年
夏四月戊申、□城王となる。
●黄初4年
『応詔詩』(都へ来いの詔に応じる)『責躬詩』(自責)「上責躬應詔詩表」(詩二首を受け取ってお願い)を提出→文帝に拝謁
『任城王誄』『贈白馬王彪』(兄弟へ贈った詩)



次は兄の方
●黄初3年
三月乙丑,叡を平原王に。弟の彰ら十一人を皆、王にする。夏四月戊申,植を□城王にする。
皇后をたてる、「女は政治に口出すな」詔
●黄初4年
夏五月,有鵜*鳥集靈芝池,詔曰:「此詩人所謂汚澤也。
曹詩『刺恭公遠君子而近小人』,今豈有賢智之士處於下位乎?否則斯鳥何為而至?其博舉天下儁コ茂才、獨行君子,以答曹人之刺。」
(*は「胡鳥」の字。ここの「曹詩」というのは、《詩經-国風-曹-候人》。この詔を分析している所はない? )
植を雍丘王とする(植伝)。其の年、朝京都で植により、上責躬應詔詩表等の上疏あり。褒める(植伝)。
●黄初5年
春正月、例のチクるな令。五月、有司は公卿が朔望日の朝、疑事の奏により、大政を聴断し〜
秋七月、東を巡る。幸許昌宮。
八月、水軍。潁や淮、寿春等をうろうろ。揚州界隈で五年以下の犯罪に服していた将吏士民を赦す。
九月,九月、廣陵に至り、青、徐二州で大赦。諸将守を改易した。
魏書載癸酉詔曰:「近之不綏,何遠之懷?今事多而民少,上下相弊以文法,百姓無所措其手足。
昔太山之哭者,以為苛政甚于猛虎,吾備儒者之風,服聖人之遺教,豈可以目翫其辭,行違其誡者哉?廣議輕刑,以惠百姓。」
(近きを綏(安んじ)ずして、何で遠きを抱けようか? 今、事多くして、しかるに民は少なし。上下は法文のせいで互いに疲弊しており、百姓は手足をおくところもない。
苛政は虎より猛しというが、私は儒の気風を備え、聖人の残した教えに服したい。もちろん孔子様の辞から学習したいし、教えと違う事をしたくない。つーわけで刑罰を軽くするんでヨロ)
●黄初6年
帝は東征し,雍丘を還過し,植の宮に行幸し,五百戸を増やした(植伝)。
●その他
景初中詔曰:「陳思王昔雖有過失,既克己慎行,以補前闕,且自少至終,篇籍不離於手,誠難能也。
其収黄初中諸奏植罪状,公卿已下議尚書、秘書、中書三府、大鴻臚者皆削除之。撰録植前後所著賦頌詩銘雜論凡百餘篇,副藏内外」
0149無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/05(日) 13:48:57.12
って、途中でうpってた('A`)
●黄初1年(220年)
植與諸侯並就國(ここで、いったん□城侯になった可能性あり)。

5、6年令はまだ調べてる部分もあるけど、記述を正しいとすると、
2年
罪により(□城侯から?)安郷侯に、爵位を落とされる
→初服を着る=未做官(まだ出仕していない、平民)時期の服。官をやめ、隠退することの比喩
→爵位は戻ったが、2年間屋敷に篭った
4年
雍丘王に任ぜられる→任地に向かう→また監官にいろいろ言われた。
黄初六年令の「於今復三年矣」については、雍を雍丘王(黄初4年〜)とみなした場合、「(4年から)三年たった」じゃおかしいので、罪を獲てから今まで三年という感じか。
5年9月に植の恩赦?皇族の扱い云々が出た?で、6年に兄弟の再会を受け、六年令が出る。

で、三国志自体はこの板の猛者ほど詳しくないので、文帝と明帝の時代で、曹植の上奏数がどれだけ変わっているかは分からない。
まぁ曹丕みたいな返しはないだろうし、その分数が増え、内容も悲痛になるわな。

ただ、兄の黄初4年の曹詩詔(「遠」君子而「近」小人)、弟の黄初五年令文頭(「遠」不可知者天也、「近」不可知者人也)、兄の癸酉詔文頭(「近」之不綏,何「遠」之懷)。
兄の癸酉詔「苛政甚于猛虎(厳しい政治は虎より酷い)」、弟の黄初六年令の「武発石開(固い精神は石の虎をも貫く)」。
「遠近」も「虎」も、非常にありふれた表現ではあるが、妙に似た言い回しだよね。

曹丕の詔は「遠く(呉)を攻める前に、近く(足元)を固めたい」など為政が主で、命令を実行するには弟を無視できなかった程度かもしれない。
が、この兄弟ほどの文人なら、その気になれば幾らでも違う表現は出来たと思うし、少なくとも植の方は、そういう意図を含んでいる可能性はあるかな。
0150無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/07(火) 21:09:02.64
んー、ちょこちょこ調べたけど、植の真意は判らん。
本人を直接批判したら流石にやばいから、周囲を批判したことで間接的な批判を行ったとも言えるし。
呉との戦争を前に仲たがいしても為にならないから仲直りのポーズをとったのか、素直に読んでいいのか。

ただ兄弟の言動が妙にリンクするのは、やっぱ気になるな。皇后に政治を奏上するな、と女子供は扱いが難しいとか。
当時の他の作品も読めば、もう少し違う意見が出てくるかもしれない。
気力ゲージが回復したら、『応詔詩』『責躬詩』「上責躬應詔詩表」と黄初4年の曹詩詔に挑戦してみるか
0151無名武将@お腹せっぷく
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2012/08/10(金) 20:02:49.94
225年に兄貴と腹を割って話ができたと思った半年後にその兄貴が死亡。
228年には「曹叡死亡、後継曹植」のデマが飛び(出典魏略)、おそらく曹叡からは警戒。
ますます政界からは遠ざけられる。つくづくツイていないなあ、曹植は。
0152無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/15(水) 17:03:44.29
 気力ゲージが半分ぐらい復旧したので、黄初4年の曹詩詔について

 まず、「此詩人所謂汚澤也」てのが判らん。
 他の分析例だと「曹詩の郭璞注にある汚澤のこと」とあるんだが、郭璞は晋代の人なのよね。曹丕が先なのか、郭璞が先なのか。
 曹詩『刺恭公遠君子而近小人』,については、《詩經-国風-曹-候人》をあげる。

読み下しもどき
序:此の詩は、曹の君、君子から遠ざかりて、小人に近づくことをそしれり。
その昔、晋の文公が曹国にはいったとき、当時の曹の共公は国の賢者禧負覊を用いず、小人三百人を軒車(大夫の車)にのせた。文公、これを責める。このことを指す。

彼の侯人,戈と?(矛)とをになう。彼の其之の子,三百の赤(せき)?(ふつ)。
維(こ)れ鵜の梁に在って,其の翼を濡(ぬらさ)ず。彼の其之(こ)の子,其の服に稱(かなわ)ず。
維(こ)れ鵜の梁に在って,其の?(くちばし)を濡(ぬらさ)ず。彼の其之(こ)の子,其(の)媾(いつくしみ)遂(かなわ)ず。
薈(わい)たり蔚(い)たる,南山朝(あした)に?(のぼ)る。婉(えん)たり?(れん)たる,季女斯(これ)飢(うえ)たる。

適当訳
警備兵が、戈と矛とを肩にかけ持っている。彼らが護るのは高位高官とは名ばかりの小人、三百人。
水に入らず、翼をぬらさず、ただ梁上にあるペリカンは、ペリカンではない。同じように、何もせず高位に居るだけの小人に、高位高官の服は似合わない。
水に入らず、クチバシをぬらさず、ただ梁上にあるペリカンは、ペリカンではない。同じように、何もせず高位に居るだけの小人に、支配者の寵愛は似合わない。
小人の類が多く、威勢もさかんにしている。うるわしの乙女、ために飢えに苦しむ。

【侯人】つかさひと。道路を往来し、賓客を迎送する官人。
【之子】少子(小人)とする。
【赤?】?(フツ。http://www.weblio.jp/content/%E8%8A%BE)は?(ヒツ。前掛け。http://www.weblio.jp/content/%E9%9F%A0)なり。祭服のときは、これを?と言い、諸侯の大夫以上のフツの色は赤。古代中国では、地位によって身につける衣服の色が違う。
ちなみに当時の諸侯の大夫は、基本的に定員5人。これが曹の国は300人も大夫がいる。しかも全員小人だ、という嘆き。
【鵜】水鳥。ペリカン。 【媾】寵愛
【薈・蔚】どちらも樹木の生い茂る様。
【南山】曹の南方にある山
【朝?】朝、雲が空のぼる。朝の次に来る字はttp://www.weblio.jp/content/%E9%9A%AE。雲のような数の小人が、高位についていることの例えとされる。
【婉・?】婉は若い、?(れん・ttp://www.weblio.jp/content/%E5%AD%8C)は顔の形がいい。
【季女】末娘。年頃の娘さん。身を守り、みだりに男に従わないために、却って飢餓に苦しむ。賢者が暴君に従わず、そのために権力者に追従する小人から批判され、中央から追放され、貧賤に苦しむことの例え。

今豈有賢智之士處於下位乎?否則斯鳥何為而至?其博舉天下儁コ茂才、獨行君子,以答曹人之刺

 これについては、この場に賢者がどれほど居るのか?鳥はなんのためにここに居るのか?人材をあげよ、独り君子のもとへ行きて、もって曹人の風刺に答えん。という感じ。

この詔を分析しているサイト自体は幾つか見つかったんだが、自分が無能を重用していないか自戒の意をこめたものだ、人材がいないことに対する、文帝の余裕のなさだ、という段階で止まっていた。
そりゃそうだが、これが皇帝の詔ということは、高位高官=自分の周りにいる連中の前で、「おまえら小人じゃね?」って堂々と明言したようなものでもあると思うの。つまり周囲に不満がある、曹植の作品に繋がってしまう。
0153無名武将@お腹せっぷく
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2012/08/15(水) 17:20:12.67
次に、植の上責躬應詔詩表関連。原文はttp://zh.wikisource.org/wiki/上責躬應詔詩表。もうひとつの参考書だと違う字もあったので、()で追加。
我流の読み下しもどきと大意。

臣植、言す。臣、?(釁)を抱き藩を歸りしより,刻肌刻骨。罪戻を追思し,晝分に而食し,夜分に而寢す。
誠に以しに天網の重罹すべからざる,聖恩再恃すべ難し,相鼠之篇を感じ,無禮?死之義に竊し,形影相弔し,五情愧赧す罪を以って生を棄てんとすれ,則ち古賢夕改之勤に違ふ。
垢を忍を苟しくも全うせんとすれば,則ち詩人胡顏之譏を犯ふ。
伏し惟れは陛下,コは天地に象り,父母より恩隆なり,春風を施暢ひ,時雨は澤如し。
是を以て荊棘を別れざる者は,慶雲之惠也。
七子均養する者は,?鳩(かっこう)之仁也。
功を責し罪を舍き者は,明君之舉也。
愚を矜み能を愛する者は,慈父之恩也。
是を以て愚臣の恩澤に徘徊,而るに敢を自棄せざる者也。
前に詔書を奉し,臣等朝を絶つ,心離れ志絶ふ,黄?を自分とす,永く執珪之望み無く。
聖詔図らず,齒召を猥垂せんと。至止之日,心を輦轂に馳す,西館に僻處し。闕庭に,踊躍之懷て未奉,瞻望反(及)側,犬馬戀主之情に勝ちえず。
謹ふ拜表し并ら詩二篇を獻す,詞旨淺末,采覽するに足らず,下情を露すを貴ひ,冒顔以聞す。
臣植、誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

【釁】不和
【?鳩之仁也】詩経・曹風・?鳩(侯人の次の作品)。
茨城大学の解説:ttp://chubun.hum.ibaraki.ac.jp/kano/peper/piya/36sikyu.htm
【舍罪】朝廷が赦免令を下し、罪を許すことだったと思う
【黄?】年老いる。後述の犬馬戀主之情とで、後の「犬馬の年」に繋がるか
【執珪】高官。その国ナンバー2クラスの地位、君号をもつ封君相当とも言われる。
【齒召】採用、召集、【猥垂】みだりに垂れる、【輦轂】天子の乗り物、【闕庭】宮殿の庭

意味としては、不和となり郷里に帰り、色々と考えた。かってのような恩赦を再度望むことは難しいし、色々考えた結果自殺しようにも、旧い教えはそれを許さない。
陛下の徳は、父母を超え、天地に行き渡るもの。その徳は、私をして自殺を思い留めさせた。
かって上奏し、官を辞し、志は絶え、老人とならん。長く出世活躍の望みもなし。
しかし図らずも、陛下はわが身を招集してくださった。即日、心は陛下のもとへ馳せ、身は西館の片隅に至った。踊るように宮廷に至るも御身にあえず、犬や馬が主人を慕うように、空の玉座をそっと仰ぐ。
ここに詩2編を認めました。浅学非才の作ゆえ、わざわざ御覧に為らなくて結構ですから、どうか私の感情吐露を慮ってください。
ほんとスミマセンスミマセン、偉そうな事ゴメンナサイこの通り、死罪死罪。
0154無名武将@お腹せっぷく
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2012/08/15(水) 17:33:37.07
責躬詩の訳は、既存のものをぐぐってくれ。数が少ないし多分大意は変わらないので。

躬を責る詩
於穆たる顯考,時れ惟れ武皇。命を于天に受け,四方を寧濟す。
朱旗拂わん所,九土披攘す。玄化滂流し,荒服來王す。
商に超え周に越え,唐與蹤を比す。我皇を篤生し,奕世聰を載す。
武は則ち肅烈,文は則ち時雍。禪を于漢に受け,萬邦に君臨す。
萬邦、既に化し,舊則に率由す。懿親に廣く命し,以って王國を藩とす。
帝曰、爾侯,茲青土(上)に君とし。海濱を奄有し,周に于魯に方ふ。
車服に輝有り,旗章に敘有り。濟濟たる俊乂,我が弼にして我が輔。
伊し余小子,寵を恃み驕盈たり。舉は時網に挂り,動は國經を亂る。
蕃と作り屏と作り,先軌是?る。我皇使に傲り,我朝儀を犯す。
國に典刑有り,于理にゥて,元兇是率んと將に我を削し我を黜す。
明明たる天子,時し惟し類を篤ふす。我を刑め之を朝肆に暴すに忍ばず。
彼執憲に違ひ,予小臣(子小子)を哀す。?邑に改封す,河之濱に于す。
股肱置か弗,君有りて臣無し。荒淫之闕,誰か予(余)が身を弼ひん?
煢煢たる僕夫,彼冀方に于。嗟余小子,乃斯殃に罹る。
赫赫たる天子,恩物を遺さず。我に玄冕(晩)を冠せしめ,我に朱?を要にせしむ。
光光たる大使,我を榮し我を華す。符を剖ち土(玉)を受け,王爵是加ふ。
仰て金璽に齒ひし,俯め聖策を執る。皇恩過隆,祗承し?タ。
咨我れ小子,頑凶是嬰す。逝を陵墓に慚ち,存め闕庭に愧つ。
敢て傲るに匪ざるコに,寔に恩是恃む。威靈改加し,以って齒を沒ふるに足れり。
昊天罔極,生命不圖。嘗(常に)顛沛を懼る,罪を黄?に抱んを。
願くば矢石を蒙,旗を東嶽に建てんを。庶くは毫?を立て,微功自ら贖んを。
身を危ふし命を授けは,?を免るに足るを知れり。江湘に赴き,戈を呉越に奮んを甘ふ。
天、其衷を?き,京畿に得會するを。聖顏に奉せんを遲つ,渇の如し飢の如し。
心之云に慕る,愴矣め其れ悲む。天高め卑に聽く,皇、微を照し肯ぜよ。
0155無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/15(水) 17:42:35.84
文字化けが酷いが、原文とつき合わせるかして推測してくらさい。読み下しは間違ってるところもあると思いますので、参考程度に。

詔に應ずる詩
明詔に肅承し,皇都に會す應に。星陳夙駕し,秣馬脂車す。
彼掌徒に命じ,我征旅を肅す。朝に鸞臺を發し,夕に蘭渚に宿す。
芒芒たる原隰,祁祁たる士女。彼公田を経し,我が稷黍を楽む。
爰に樛木有り,重陰息すに匪ず。?糧有りと雖ども,飢を遑食せず。
城を望みて過せず,邑に面ひ遊ばず。僕夫警策し,平路是由む。
玄駟藹藹と,?を揚げ沫を漂す。流風衡を翼(冀)く,輕雲蓋に承く。
澗之濱を済り,山之隈に縁り。彼河滸に遵り,黄阪是れ階す。
西の關谷に濟り,或は降り或は升る。({馬非})驂路に倦む,再(載)ち寢再(載)ち興く。
聖皇に朝せんと將に,敢て晏寧せ匪ず。節を弭き長?し,日を指し?征ん。
前驅燧を舉け,後乘旌を抗す。輪は運を輟めず,鑾に廢聲は無し。
爰に帝室に?て,此の西?に税す。嘉詔賜はざる,朝覲從ふ莫し。
城閾を仰瞻し,闕庭を俯惟す。長懷永慕,憂心酲の如し。

詔に応じ、酷道険道辿って、寄り道もせずに来たけど、陛下からお言葉頂けません。拝謁すら叶いません。
城を仰ぎ、庭を俯き、長旅の間募らせたこの思い、憂いに心は濁っていきます、という感じ

以上。
思ったんだけど、後に曹植に関する資料が処分されている→逆に言えば正史に残った作品というのは「残す価値があるほど重要だった」のでは→残す価値があったのはなぜか→皇帝に関わる文章だったから?
曹植の家系は曹志など、晋代で当初はそれなりの立場を得ているので、そちらで保存されていたものが出た可能性もあるけどね。次で最後。
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